ネチズン・カレッジ情報収集センター
特別研究室「2020年の尋ね人」
◎元731部隊軍医少佐・ 長友浪男が厚生省公衆衛生局精神衛生課長(旧優生保護法強制不妊手術担当)から北海道副知事に成り上がった経緯について、下の you tube 映像を参考に、情報をお寄せください!
「731部隊と旧優生保護法強制不妊手術を結ぶ優生思想(you tube)」
◎元731部隊梅毒担当技師・戦後『政界ジープ』社長・二木秀雄についても、引き続き情報を求めます!
●2020年2月1日 鎌倉市在住の今市健太さんから、731部隊の対米免責工作の仕上げとなった「鎌倉会議」の場所として、亀井貫一郎の屋敷の住所をたどり、鎌倉市極楽寺120番地(現在の極楽寺1-12)と特定して頂きました。新宿中村屋の別荘として、孫文やボースをかくまった旧義烈荘(黒光庵)だったようです。同時に、亀井貫一郎の「聖戦技術協会」が、下山事件につながる「亜細亜産業」を下部に持つこともご教示頂きました。謎はさらに深まりましたが、ありがとうございました。
『「飽食した悪魔」の戦後ーー731部隊二木秀雄と「政界ジープ」』特集ファイル
●2020.1.1 読者の方からの情報提供で、『日本輿論』1946年5月号、及び『政界ジープ』47年9月号の全文がみつかりました。
● まだ刊行前の4月9日にNPO731資料センターで行った講演記録が、「731部隊の隠蔽・免責・復権と二木秀雄」という副題で、同会会報第22・23号に掲載されました。高価な書物の概説となっていますので、まずはこちらで問題の所在をご確認のうえ、書物の方にお進みください。また本書のもう一つの柱である二木秀雄のジープ社刊『政界ジープ』を、左派の時局雑誌『真相』との待避で、7月に早稲田大学20世紀メディア研究所の研究会で報告しました、こちらは「戦後時局雑誌の興亡 1946-57——『政界ジープ』vs.『真相』」と題し、メディア史・マスコミ論からの要約版になっています。合わせてご参照下さい。
●2017.8.15 13日のNHKスペシャル「731部隊 エリート医学者と人体実験」は、大きな反響をよんでいますhttps://www.youtube.com/watch?v=ysapEl0xFOg&vl=en。ネトウヨの批判・攻撃もみられますが、この番組は、日本の良心的ジャーナリストが映像と音声で積み重ねてきた関東軍731部隊探求の延長上に有り、今日の到達点です。you tubeなどで、以下をじっくりご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=rCLj9ZtUs7s
https://www.youtube.com/watch?v=ONWPFG30mGc
https://togetter.com/li/1140083
1976 TBS吉永春子「ある傷跡ーー魔の731部隊」
http://www.dailymotion.com/video/x57s2v6
https://www.youtube.com/watch?v=xI7mF-qSoWE&t=15s
1992 NHKプライム10「現代史スクープドキュメント 731細菌部隊」
https://www.youtube.com/watch?v=uZaZa5A8UE4
https://www.youtube.com/watch?v=uZaZa5A8UE4&t=2820s
TBS 筑紫哲也・青木冨貴子「石井四郎の戦後」http://www.dailymotion.com/video/x4ijcxf
テレビ朝日 ザ・スクープ鳥越信太郎・近藤昭二「闇に消えた虐殺ー731部隊・細菌戦の真実」
https://www.youtube.com/watch?v=w_mZ_OKnd_0&t=507s
https://www.youtube.com/watch?v=w_mZ_OKnd_0&t=508s
https://www.youtube.com/watch?v=snOuahb7IdA&t=84s
https://www.youtube.com/watch?v=YcoF0R0nfcc&t=21s
https://www.youtube.com/watch?v=snOuahb7IdA&t=131s
「知ってるつもり 731部隊と医学者たち」https://www.youtube.com/watch?v=WCo1aBcstps
「731部隊の細菌戦」https://www.youtube.com/watch?v=jXgyCDySFAY
English「Unit 731 Shiro Ishii」 https://www.youtube.com/watch?v=CWGtSGIxyBQ&t=3s
「Unit 731 - Nightmare in Manchuria」https://www.youtube.com/watch?v=rsCUxfZswhw
https://www.youtube.com/watch?v=YdM3_kzhscM&t=45s
https://www.youtube.com/watch?v=8oxodWimRqw
https://www.youtube.com/watch?v=a-3-lT-yhZ4&t=234s
German「ZDF documentary on Unit 731」https://www.youtube.com/watch?v=0hRSZMgLI6Y
French「Unité 731 - INTERVIEW TORTURE」https://www.youtube.com/watch?v=9fv4A7oSPpI
中国「悪魔の飽食 復号731」https://www.youtube.com/watch?v=jMkrMOu5aOI&t=219s
香港「黒い太陽」 https://www.youtube.com/watch?v=n2KLnzcYGjQ
韓国「日本人が証言する軍慰安婦・勤労挺身隊・731部隊の生体実験 https://www.youtube.com/watch?v=iQ4WvlNuS48&t=411s
『「飽食した悪魔」の戦後』誤植・訂正(2018年2月25日現在、現在発売中の第2刷では訂正されています)
9頁 本文後ろから2行目 ジュネーブ協定→議定書
12頁 後ろから3行目 務増田美保→務トル 増田美保
46頁 Aの 徴毒 → 黴毒
47頁 DFG、及び後ろから6行目の 徽毒 → 黴毒
47頁 F 騰脊髄液→脳脊髄液
55頁 8行目 願みるとき→顧みるとき
55頁 11行目 重大なるに微し→重大なるに徴し
71頁 1行目 「対『ソ』諜報竝防諜に関する事項」→「対『ソ』諜報竝に防諜に関する事項」
72頁 4行目 しばしな→しばしば
79頁 2行目 陸軍省皇道派→陸軍省統制派
88頁 3行目 壊脱疽→脾脱疽
93頁 5行目 確認できない。→一九五八年には東京都調布市で開業医になっていたという。
95頁 10行目 陸軍医務局→陸軍軍務局
103頁 後ろから7行目 ジュネーブ協定→議定書
105頁 後ろから6行目 ANTHRAX(壊脱疽菌)→(脾脱疽菌)
後ろから5行目 登戸研のレーサー→レーサ[ザ]ー(殺人光線)
114頁 1行目 で、「仮本部」は千葉に移転され「留守業務部」となった。→で、「仮本部」は千葉に移転された。千葉県稲毛町に四五年五月に発足した「陸軍留守業務部」に、九月二一日付けで「関東軍防疫給水部付の佐藤重雄主計少佐」が配属され、「陸軍留守業務部付佐藤重雄」が、七三一部隊の連絡窓口になった(一四五頁、参照)。
123頁 9行目 (留守業務部付佐藤重雄)→(陸軍留守業務部付佐藤重雄)
123頁 後ろから1行目 珍しい女子隊員→裏方の女子隊員
124頁 後ろから2行目 参謀本部→新妻清一
134頁 後ろから1行目 有末精三の生年 一九九五年 → 一八九五年
184頁 ゴチック小見出し 理論的願意→含意、1行目 CIS(民間諜報局)→CIS(民間情報局)
186頁 2−3頁 強制収容所におけるメンゲル博士の双子実験 →メンゲル博士らの人体実験
187頁 7行目 それに従わざるを得ない、→を得ない。
202頁 注41 柄澤二三夫→十三夫
231頁 7行目 深く追究されることは→深く追及されることは
267頁 4行目 朝鮮戦争→朝鮮半島
270頁 後ろから8行目 召集され。→召集され、
271頁 注8 記録する会・藤田勇編集→記録する会、高橋大造・江口十四一・藤田勇編集
293頁 注31 番長書房→番町書房
299頁 7行目「留守業務部」で管理する→佐藤重雄が管理する
301頁 5行目 菊池斉も栃木で開業医→菊池斉も東京・調布で開業医
301頁 後ろから5行目 日本に帰ったら。→帰ったら、
324頁 註44 太田『七三一免責の系譜』→『731免責の系譜』
332頁 5行目 ハバロフスク事件→ハバロフスク裁判
335頁 9行目 とある→とある。
344頁 後ろから6行目 華族制度→家族制度
369頁1行目 牡丹江約百名→約二百名
後ろから4行目 雇員・傭員以外二六〇〇人→一六〇〇人
381頁 注73 青木『七三一』→『731』
389頁 4行目 女性会員→女性信徒
人名索引4頁 小村大樹→3頁 「おむら」なので、「こ」から「お」に移す
<ウェヴ上の参照を求めた注解>
●16頁注17:参考文献一覧「731部隊・細菌戦デジタル・ライブラリー」
●295頁注33:小俣和一郎作成「731部隊に関与した医師・医学関係者」名簿
●48頁注41:「戦争と医の倫理」の検証を進める会「パネル集 戦争と医の倫理」
●NPO法人「731部隊・細菌戦資料センター」
●「戦争と日本の医学医療」 War and Japanese Medicine
●加藤「731部隊・細菌戦資料センター」2017年4月9日講演録
●加藤パワポ報告「731部隊二木秀雄の免責と復権」(2015夏版)
(補足1)123頁に郡司陽子を「731部隊では珍しい女子隊員」と書きましたが、その後、高名トミ、赤間まさ子らの証言が見つかり、看護婦やタイピストなど400人近くの女性軍属がいたことがわかりました。彼女らの証言には、二木秀雄の名は出てきませんが、女性「マルタ」や従軍慰安婦を用いた性病人体実験の話が生々しく書かれています。
(補足2)114頁で金沢「仮本部」は千葉に移転され「留守業務部」となった、と書いて、「留守業務部」が731部隊内の非公式な残存事務組織のように書きましたが、111頁「通告」にあるように、連絡先を「千葉県稲毛町陸軍業務部付佐藤重雄」としたもので、「留守業務部」自体は、1945年5月15日に陸軍省に設置された、「アジ歴」にも資料がある公式の「陸軍留守業務部」でした。「戦地と外地、および内地のうち陸軍大臣が指定する地域にある部隊に属する陸軍軍人・軍属に関する記録の作成・整理、保存、その家族等に対する俸給その他給与の払い渡し等を所掌した。その業務は終戦後も継続され、陸軍省の廃止後は第一復員省留守業務部に引き継がれた」という正規の軍組織で、その後の復員業務にも関連しました。したがって当初の名簿作り・給料等は、731部隊総務部経理にいた佐藤重雄が、陸軍留守業務部に移籍し、そこで公的に敗戦処理業務に当たっていた可能性があります。ただしG2ウィロビーに庇護された隠蔽・免責交渉に直接関わることはなかったでしょう。
(補足3)陸軍留守業務部では、731部隊についても「留守名簿」が作られ、これが、367頁以下の厚生省・厚生労働省国会答弁「731部隊3560人」のもとになったと思われます。本書草稿執筆後に発表された西山勝夫「国立公文書館で公開された 731 部隊などの名簿 」(15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 17 巻 1 号 、2016年11月)は、いくつかの留守業務部作成「留守名簿」原文コピーを入手し、暫定的解読を行っています。これを詳細に追いかければ、新たな731部隊研究の進展が見込まれます。
(補足4)93頁で経歴を記したが、戦後は消息不明とした重要人物・菊池齊軍医少将について、東大医学部卒の医学者の方から、医学部同窓会「鉄門倶楽部」の会員氏名録で、1958年に「調布市仙川で開業医」、1975年名簿では物故者になっているという情報が寄せられました。
(補足5)186頁で、ニュルンベルグ医師裁判で「強制収容所におけるメンゲレ博士の双子実験、空軍の低温実験等」が裁かれたと書きましたが、「アウシュヴィッツの死の天使」ヨゼフ・メンゲレ自身は、敗戦時に人体実験データを持って逃亡し、偽名でドイツ南部の農村に隠れ、その後アルゼンチン、パラグアイ、ブラジルと南米に逃亡して、1979年のブラジルでの事故死まで、裁かれることはなかった。連合国軍のニュルンベルグ裁判では、メンゲレは既に死亡したものとされ、「人道に対する罪」である人体実験により裁かれたのは、メンゲレの同僚カール・ゲープハルトらであった。
●『「飽食した悪魔」の戦後』書評 『週刊金曜日』17年6月9日号(吉田則昭)、講演記事
○ ウェブ上に 読書メーター 福岡県弁護士会 BOOKFAN 幻泉館日録 猫の泉 新世界読書放浪 センゴネット シニア社会学会会長ブログ ちきゅう座 アマゾンカスタマーレビューなど
731部隊二木秀雄と、国会図書館にも大宅文庫にもない『政界ジープ』欠号分について、情報をお寄せ下さい!(ver.5)
「旧ソ 連日本人粛清犠牲者・候補者一覧」の2015.9.15更新版
2017.12.1 ●北海道新聞11月7日のロシア革命100年記念特集頁、「スターリン独裁下の旧ソ連大粛清 道内ゆkりの7人処刑」に協力し、談話を発表しました。
2015.11.1 ● 「731部隊二木秀雄の免責と復権」(2015夏版)の延長上で、10月15日に神田・如水会館・新三木会で「戦争の記憶」、10月18日に日本ユーラシア協会で「ゾルゲ事件と731部隊」の公開講演を行いました。このうち新三木会での話のテープ起こし原稿をもとに、講演録「戦争の記憶:ゾルゲ事件、731部隊、シベリア抑留」が、画像付きで臨場感ある、3題話の講談風記録になりましたので、公開します。
2015.6.1 ●皆様によびかけてきた雑誌『政界ジープ』の前身、金沢のローカル誌として1945年11月10日に創刊された旬刊誌『輿論』の創刊号が、ついに見つかりました。頼んでおいた地元の古書店・金沢文圃閣さんのご尽力です。また、鳩山一郎と二木秀雄の対談を載せた1946年新年号(2巻1号、1946年1月1日)も、立教大学井川充雄教授のご尽力でコピーがとれました。これで、基本的な材料がそろってきましたが、あとは『輿論』を改題した『日本輿論』1946年のいくつか、それに『政界ジープ』 では、1947年8月号と、1951年8月−52年3月まで休刊後の52年4月号から56年3月「政界ジープ」恐喝事件までが、国会図書館にもほとんどなく、数号を古本屋等で見つけたのみです。「総目次」は改訂しましたので、皆さんのご協力を、引き続きお願いします。
● もう一つ、二木秀雄の没落のきっかけがわかりました。この間、集中的に1952−54年の内灘射撃場反対運動の関係文献を読み、53年4月衆参ダブル選挙における、衆院辻政信と参院二木秀雄の立候補と二人の関係を検討してきました。衆院石川一区で2位当選した無所属の辻政信と、参院石川地方区の当選者井村徳二、僅差で破れた現職大臣林屋亀次郎の間で大敗した二木秀雄は、直接の支援関係はありませんでした。より正確にいえば、二木秀雄は、辻政信の強固な支持基盤である東亜連盟、旧軍郷友会の票を狙って、『政界ジープ』で「石原完爾と東亜連盟」を特集したりして、石川県では人気の辻政信にエールを送りましたが、辻の方には、別に二木に頼らずとも、前年10月総選挙で「辻旋風」をおこし初当選した実績がありました。辻は「反米自衛」の立場の「無所属」で、吉田内閣・林屋亀次郎が進める内灘米軍射撃場には、一応反対を掲げました。参院選の二木は、辻にあわせて内灘誘致反対を掲げたものの、「悪魔の飽食」731部隊での細菌戦・人体実験での「活躍」を明らかにするわけにはいかず、東京で時局雑誌を発行する「金沢医大出身の医学博士」ということで立候補しました。北国新聞での応援談話は、金沢医大での恩師谷友次教授、医師会の一部は支持したようですが、辻政信を支援した在郷軍人や東亜連盟は、二木になびきませんでした。当時の参院選を詳しく描いた櫻井柳太郎『石川政戦史』(和光社、1953)によれば、二木の背後には、鳩山一郎、大野伴睦がいたともいわれます。また別の史料に出てくる、陸軍中野学校創設者・岩畔 豪雄(いわくろ ひでお)との戦後のつながり、金沢一中同期生で後の航空自衛隊幕僚長・浦茂(うら しげる)との関係、『輿論』を印刷した「吉田印刷=吉田次作」の役割も、なお検討課題です。引き続き、皆さんの情報を求めます。
はそのままにしながらも、いくつかの点で新たな情報を追加しておきます。
1、私の研究はもともとゾルゲ事件と731部隊の接点を、戦後にゾルゲ事件を初めて「赤色スパイ事件」と名付けた『政界ジープ』1948年10 月特集号が、731部隊出身の医師・二木秀雄の編集・発行によるジープ社のものであることから見いだしたのですが、より直接的な接点が、みつかりました。731部隊・細菌戦研究に長く携わってきた近藤昭二さんのご教示で、ゾルゲ事件の裁判資料の中に、ゾルゲが1937年には関東軍の細菌戦計画を知り、モスクワに伝えていた可能性を示す証言が出てきました。近藤さんが見つけたのは、みすず書房の現代史資料『ゾルゲ事件 4』の280頁、マックス・クラウゼンの第11回警察訊問調書(昭和17 年1月5日) 中の、次の一節です。
「四 1937年 月日不詳 「日本陸軍は戦争に備ふる謀略戦術として「ハル ビン」市又は其の付近に「コレラ」「ペスト」等の細菌研究所を設け盛 に 培養 し居れり。右は当時「ゾルゲ」宅で同人と「シュタイン」と話して居るのを聞き ましたが、私はその時暗号内容が解らぬ時代でありましたから打電 したか如何 かは確実でありません。」
これで、ノモンハン事件以前、満州平房細菌戦諸施設完成前の1937年に、ゾルゲ 諜報団が石井四郎ら731部隊の存在を(部隊名まで特定できずとも) 知り、対ソ細菌戦 謀略基地として、モスクワに打電していた可能性が高くなりました。それが、戦後 にシベリア抑留日本人のなかから細菌戦関係者を探し出して極東軍事裁判に石井 四郎等の証人尋問を求め、1949年末には ハバロフスク裁判で山田乙三大将らを告発して、天皇戦犯裁判 を要求するきっかけの一つになったとも考えられます(当時の中国共産党・反帝同 盟等のルートからも、731情報が送られた可能性があります、韓 暁著『731部隊「特移扱い」事件 国際反 帝情報活動の記録』ABC企画、2012)。
2,731部隊での二木秀雄の活動については、(1)旧ソ連・ハバロフスク裁判での西俊英証言、中国瀋陽での秦正氏証言で裏付けられる、1944年末ー45年初め安達でのガス壊疽菌爆弾人体実験への関与、(2)西野瑠美子さんが収集した二木班における梅毒人体実験、(3)近藤昭二さん収集の米軍ヒル報告中の二木秀雄結核菌人体実験、などから人体実験への関与は明らかです。そのほかに、731部隊林口支部長榊原秀雄の中国軍事法廷での証言の中に、二木秀雄は第一部結核班長の前に総務部企画課長であったというものがあります。企画部というのは、関東軍及び中国各地の姉妹部隊と連絡して細菌戦の実施計画を立案・指令していたともいわれます。この点の解明はこれからです。
3,1945年8月、参謀本部の指令で証拠を隠滅し最優先で日本に帰国した731部隊関係者は、金沢市に「仮本部」を置き、証拠隠滅・機密厳守・前歴秘匿を3000人近い隊員たちに指示し、名簿と連絡網を作って米軍との戦犯免責・データ提供交渉を石井四郎らが進めたこと、その連絡網の実務に二木秀雄があたったことはまちがいなさそうです。ただし、二木の担当したのは後に「精魂会」に組織される上級幹部たちの連絡網らしく、後に「房友会」などに組織される一般隊員・少年兵らの戦後は、いまひとつはっきりしません。前歴を隠した再就職で苦労したという話もあれば、東京裁判での戦犯免責がはっきりする1948年末から49年頃まで月一度連絡員がまわってきて「給料」が支払われ、免責確定後高額の「退職金」が支払われたという話もあります。したがって、731部隊はいつ解散したのか、敗戦後の軍人恩給を受けたのかどうかも、さだかでありません。この731部隊員の戦後は、いま集中的に手記・回想等を集め検討している事項です。特に房友会機関誌『房友』(100号くらい出たという)をお持ちの方がいれば、ぜひご一報ください。
4,基礎資料となる、二木秀雄が敗戦直後の金沢で発行した旬刊『輿論』の創刊号など数号が、全国八方手を尽くしても、見つかりません。二木が上京して1946年8月から56年3月頃まで刊行した時局雑誌『政界ジープ』についても、プランゲ文庫にも国会図書館にも欠号があり、特に朝鮮戦争から「政界ジープ恐喝事件」廃刊までの50年代のバックナンバーが、「日本の古本屋」等で収集しても、欠号が数多くあります。この間何人かの方からバックナンバー情報がありましたが、いずれも1946ー50年のものでした。引き続き、表紙カバーと、判明した「総目次」を掲げ、皆さんの協力を仰ぎますが、その後下記リストの「総目次」を精査して、新たな論点が出てきました。新たな問題は、金沢『輿論』『日本輿論』及び初期の『政界ジープ』印刷所が、金沢の「吉田次作」印刷所で、戦前から陸軍御用達の印刷を引き受け、満州にも進出し、戦後も金沢商工会の中枢にいた人物、さらにはこの「吉田印刷」と、石川出身で石原完爾の東亜連盟に近かった元大本営参謀・辻政信との関係がでてきたことです。二木秀雄が45年11月から旬刊誌『輿論』を始めるにあたって、用紙の確保、印刷日程の融通などで「吉田次作」に頼ったであろうことは、まちがいなさそうです。
5、もう一つは、『政界ジープ』の編集・発行人の推移、または二木秀雄の出版経営術です。『政界ジープ』は、1946年8月創刊から49年4月号までは「ジープ社、編集発行人二木秀雄」ですが、49年5月から50年3月号まで「東京トリビューン社」という別会社(といっても同一住所)が、発行元になります。「発行者」はこの間、49年5月から12月まで「狭間研一」、50年1−3月は「東京トリビューン社、二木秀雄」です。ちょうど厚生省医務局『とびら』『医学のとびら』を「ジープ社、二木秀雄」名で出していた時期で、どうやら一般向け『政界ジープ』と医師・医学界向け『医学のとびら』の発行元を、いったん分離したようです。もっとも『別冊・政界ジープ』及び単行本は、基本的に「ジープ社・二木秀雄」発行です。朝鮮戦争直前の1950年4月号から51年7月号での一時休刊までは、『政界ジープ』も版元は「ジープ社」に戻りますが、「編集人」として、50年6月から「中西清」、8月から「本田二郎」、51年には「高橋輝夫」「由良猛」「横山敏和」らが登場します。「発行人」も、二木秀雄から「佐藤浩四噤v「中西清」と代わります。どうやら朝鮮戦争・再軍備時の謀略と日本ブラッドバンク創設に二木が飛び込み、出版事業の手抜きが始まったようです。52年4月に復刊した『政界ジープ』は、「株式会社ジープ新社、編集人宮下ヘ寿、発行人仁藤直哉」とあり、この辺が欠号が多くはっきりしないのですが、二木が参院選石川地方区に立候補した53年3月・4月号は、なんと社名が「株式会社・精魂社」です。つまり731部隊同窓会「精魂会」と似た名になり、発行人は「市川文三」とあります。それが53年8月号では、二木が落選・復帰したのか「政界ジープ社」刊となり、「編集人小山耕二路、発行人 二木秀雄」とまた変わります。以後確認できるのは、1955年の「政界ジープ社」で、56年3月の大企業恐喝による「政界ジープ事件」までは「編集人久保俊廣、発行人清水ヘ英」のようです。ですから「政界ジープ事件」の7000万円近い恐喝容疑では、社長の清水ヘ英と編集局長の陸軍中野学校出身・久保俊廣がまず逮捕され、実質的オーナーである二木秀雄の逮捕は56年4月と遅れ、二木が私物化してきた高橋お伝の標本まで隠匿できました。731部隊にならった証拠隠滅をはかったのか、60年代まで続いた裁判でも、主犯と認定された二木の求刑は懲役6年でしたが、最終判決は3年でした。二木は「ジープ社」「東京トリビューン社」「ジープ新社」「精魂社」「政界ジープ社」と同じ番地の事務所にいくつもの社名を使い分けて、政財界の黒幕と結びついていたようです。また、731部隊同窓会「精魂会」の発足は、日本ブラッドバンクと同じ1950年とも、多摩墓地「精魂塔」を建立する1955年とも、記録により異なりますが、朝鮮戦争時の53年に二木の「精魂社」という出版社があって「日本ブラッドバンク(薬害エイズのミドリ十字の前身)」に結びついていたとすると、どうやらどちらも二木秀雄の発案で実在したようです。
6、『政界ジープ』が「精魂社」で発行されていた1953年4月、社主の二木秀雄は、郷里の金沢で、参院選石川地方区から立候補しました。この意味が、石川県の政治史を調べてみると、大変な問題であることがわかりました。前年52年10月総選挙で、石川県出身で旧大本営参謀、「潜行3千里」の辻政信が、晴れて戦犯を免がれ「反米反共」を掲げてオモテの政治に立候補、衆院石川一区は「辻旋風」で、トップ当選しました。 それが半年後、吉田茂の「バカヤロー解散」で、53年4月の衆参ダブル選挙になりました。衆院では、石川の東亜連盟・旧軍人組織に支えられた辻政信が2位で再選されましたが、この4月ダブル選挙の石川県での天王山は、参院選地方区の方でした。参院議員で現職国務大臣の林屋亀次郎が、吉田内閣の米軍内灘射撃場誘致の説得役になったため、保守勢力の中でも内灘射撃場反対の声が高まり、金沢の財界を代表する対抗馬、改進党の井村徳二に、社会党・共産党や労働組合までが実質支持にまわり、全国からの内灘闘争支援の動員にも支えられ、僅差ですが井村が現職大臣林屋を破り、当選しました。衆院の辻政信も、「反米自衛」の独自の立場から、内灘基地誘致には反対しました。砂川闘争など後の反米軍基地闘争のさきがけで、清水幾太郎が基地反対・安保条約反対の論陣を張り、五木寛之が『内灘夫人』の舞台として描いた全国的にも注目の参院選でした。この現職大臣林屋19万票を井村21万票が上回り、米軍基地反対派が勝利した内灘選挙戦に、割って入ったのが第3の候補者二木秀雄でした。実際には1万2千票しかとれない泡沫候補でしたが、当時の『政界ジープ』の論調などを見ると、どうやら衆院石川一区の辻政信選挙の参院選別働隊で、辻の強固な支持者である東亜連盟・旧軍人票の受け皿になるために、林屋・井村の内灘決戦に割り込んだようです。この辺のことは、地元金沢での調査が必要ですが、この選挙での敗北が、二木秀雄『政界ジープ』の大企業・大銀行恐喝雑誌化、久保俊廣ら総会屋輩出への転換点になったようです。引き続き、皆さんの情報を求めます。
昨年11月8日のゾルゲ事件国際シンポで、即興で私のペーパー「戦後ゾルゲ団、第二のゾルゲ事件 の謀略?」に加えた口頭報告が、思わぬ反響をよんでいます。簡単には、時事通信高田記者がコラムにしてくれましたが、ゾルゲ事件と731細菌戦部隊の接点という、国際会議開催直前に見つけた論点。幸い今年は、昨年の上海に続いて東京での会議だったので、日本語である程度話せましたが、舌足らずもあったので、本サイトでは久方ぶりの「尋ね人」「国際歴史探偵」情報提供のよびかけです。占領期の右派カストリ雑誌『政界ジープ』とその発行元ジープ社社長で、731部隊残党の医師「二木(ふたき)秀雄」について、皆さんからの情報提供をお願いします。その経緯と理由は、拙著『ゾルゲ事件ーー覆された神話』(平凡社新書)の延長上のもので、以下に、関係者・研究者の皆さんにメールでお願いした探索依頼を、本サイト用にアレンジして載せておきます。
11月8日の「ゾルゲ・尾崎処刑70周年:新たな真実」国際シンポジウムの翌9日、多磨霊園でゾルゲ・尾崎墓前祭がありました。そこにリヒアルト・ゾルゲとゾルゲ団の墓碑、尾崎秀実家の墓があり、中国、ロシア、オーストラリアからの参加者も含めて、没後70周年の慰霊をしめやかに行いました。その帰路、多磨霊園のなかに、前日の私の報告で紹介した陸軍防疫給水部731部隊関係者の供養塔もあるというので、参加者と共に、捜してみました。手がかりはネット情報で「懇心平等万霊供養塔」としかなかったのですが、見つけることができました。何も書いていない731関係者供養塔の前 には、「JAP 731」という赤ペンキの落書と共に、誰かが最近備えたらしい花も、いっぱい 飾ってありました。残存731部隊医学関係者が、現在でも保守しているのでしょうか。
加藤の報告ペーパーにもなかった731部隊を出したのは、国際会議1週間前に、ある事実が確認できたからです。拙著『ゾルゲ事件ーー覆された神話』(平凡社新書)では、プランゲ文庫をもとにしたNPO法人インテリジェンス研究所の占領期雑誌・新聞データベース「20世紀メディア情報データベース」の検索から、ゾルゲらを「スパイ」と名指す記事・論文が現れるの は、1949年2月の米国陸軍省ウィロビー報告以降のことで、それ以前の1945−48年は、尾崎秀実 『愛情は降 る星の如く』がベストセラーになり「愛国者」「反ファッショ戦士」のイメージが支配的だった 、と書いています(32−34頁)。これ自体は間違いでなかったのですが、 今回の報告 にあたって、かつて渡部富哉さんから借りた渡部収集ゾルゲ事件記事・論文スクラップのコピーを眺めてみると、『政界ジープ』1948年10 月特集号の表紙 が、右の写真の毒々しい「尾崎ゾルゲ赤色スパイ事件の真相」となっていることに気がつき ました。ウィロビー報告以前では、唯一です。プランゲ文庫の見落としかと思って、山本武利教授監修のデータベースに再度 当たってみると、『政界ジープ』誌そのものは1946年8月創刊号か ら 49 年末の検閲解除まで特集号を含め全部収録されているのに、この48年10月特 集号だけが抜き取られて入っていないことがわかりました。この号が「ゾルゲ事 件特集号」 のため、占領期GHQ・G2歴史課米国側代表者で検閲コレクションの収集者ゴードン・プランゲ博士自身が、自分のゾルゲ本『ゾルゲ・東京を狙え』(原書房、1985年、もともと『リーダイス・ダイジェスト』1967年1月号の論文、翻訳者 千早正隆もG2歴史課)を書くために私的に抜き 取り、公的コレクションに戻 さなかったのだろうと、一応考えています。> そこで、占領期右派カストリ雑誌『政界ジープ』と、発行するジープ社を調べ、社主で政界記事も書いている医師「二木(ふたき)秀雄」に行き着き ま した。当時競合する、佐和慶太郎の左翼カストリ雑誌『真相』は占領軍プレスコードによる検閲だらけで、以前早稲田大学20世紀メディア研究所の研究会で、検閲研究の資料として使ったことがあったのですが、『政界ジープ』は、ス キャンダル報道満載なのに、ほとんどGHQ・CCDの検閲を無条件でパスしています。しか も『政界ジープ』には、片山・芦田内閣批判、昭和電工 事件など、当時のGHQ・G2ウィロビー将軍らの意向と情報提供を受けたらしい記事が出ています。 そこで今度は「二木秀雄」をweb等で調べ、 @旧制四高・金澤医大・陸軍医学校出身731部隊結核班(二木班)班長、 A戦後医師をしながら『政界ジープ』を46年 8月から刊 行・ ジープ社社長、 B朝鮮戦争が始まり、1950年11月に731部隊の残党内藤良一・宮本光一と共に 日本ブラッドバンク設立(731部隊長北野政次らが加わり、64年株式会社ミドリ十字になり薬 害エイズをおこす)、朝鮮戦争時米軍負傷兵輸血等で巨額の利益、 C二木秀雄は1953年参院選石川選挙区に無所属で立候補・落選、50年に731関係者同窓会「精魂会 」を結成して代表者となり、55年に多磨霊園の「懇心平等万霊供養 塔」(英語ではUnit 731 Memorial)を建立する、 D1956年19件6960万円の暴露記事を使った「戦後最大の恐喝事件」 = 『政界ジープ』事件で二木も逮捕・廃刊、元記者たちからはトップ 屋・総会屋も輩出、 E1970年代に二木秀雄は新宿繁華街 に24時間診療のロイヤル・クリニックを開きイスラム教に入信、戦前からあ る日本 ムスリム協会に対抗する大乗「日本イスラム教団」を設立、患者中心に 最高時自称5万人教徒で「一世を風靡」、石油危機後の中東石油利権狙いとも、 新宿の暴力団とつながる 夜の女の駆け込み寺とも解せますが、1992年二木秀雄の死 で自然消滅したようです。二木秀雄の墓も、多磨霊園にあり、上記経歴のほぼすべてが、事実として確認されました。 なぜ、検閲だらけの左翼雑誌『真相』とは違って、右翼の『政界ジープ』にはGHQの検閲がほとんどなく、49年2月ウィロビー報告以前の占領軍による事件の内偵中に、政論も書く二木秀雄が日本 で最初にゾルゲ事件を「赤色スパイ事件」と名付けたかを調べるため、別の調査方法も使ってみました。ゾルゲの「東京妻」に擬された石井花子『人間ゾルゲ』角川文庫版183 頁に、「尾崎ゾルゲ赤色スパイ事件の真相という小冊子」のこと が 書かれており、内容はそれまでの報道と大差ないが「ゾルゲの処刑のことや死後の消息がは じめて書かれてあった」と出てきます。まさしく『政界ジープ』48年10月特集号のことです。これがそのまま、篠田正浩監督の映画 『スパイ・ゾルゲ』の花子回想シーンに、小道具として使われているとの情報もいただきました。そこで国会図書館サーチで、版元ジープ社刊行物を検索すると、400件余の出版物があります。その「出版年」 で調べると、雑誌のほか1946年は『連合国の日本管理方策』 『政党系図』 など9点、47年二木秀雄著『政界ニューフェース』など4点、48年1点、49年2点と、単行本の数はわずかです。ところが1950年に突然397点に急増、51年28点で以後単行本はありません。主力の雑誌『政界ジープ』も55年までで、恐喝事件で会社も消えます。当時のGHQによる 出版用紙の統制から考えると、異様な動きです。1950年=朝鮮戦争、日本ブラッドバンク設立、731同窓会「精魂会」結成時に、何らかのGHQとの取引で資金を獲得した可能性大です。二木秀雄は確かに医者ですが、1949−50年に厚生省医務局の雑誌『医学のとびら』を刊行して、厚生省とも結びつきました。出版内容では、大量の単行本を出した50年には、二木秀雄著『素粒子堂雑記』、アメリカ宣伝・G2広報に近い『これがアメリカ』『アメリカ留 学ノート』『労働とデモクラシー』『アメリカの味』、コロンビア大学同窓会名で 『闘うアメリカ』(坂西志保・ 鵜飼信成ら)『青年の国アメリカ』『恐慌とアメリカ』、反共本『マルクス主義の運命』『私は毛沢東の女秘書でした』『アメリカにおける共産主義者 の陰謀』などが刊行されます。このほか200点ほどの古典文学や『暴力なき革命への道』などの解説本、「ダイジェスト・シリーズ」が出ており、『リーダース・ダイジェス ト』にあやかったものでしょうが、占領期のハウツー本・ウィキペディア風です。いずれ にせよ、朝鮮戦争・再軍備の1950年に、二木秀雄とジープ社に巨額の資金が流れたようです。
「悪魔の飽食」731石井部隊の方から調べると、結核班長・二木秀雄の歩みは、石井四郎よりも内藤良一の近くで重なりそうです。敗戦当初、731部隊の人体実験標本は、中国から金澤医大に移して、隠匿されました。1946−47年に、石井四郎の生存が米軍に発覚し、ソ連と極東軍事裁判でも日本の生物兵器開発が問題になってきた時、細菌戦資料の米軍への独占的提供と引き替えに、石井四郎以下日本の医学界731関係者を免罪する、大きな「司法取引」が行われました。工作の中心は、731側の窓口で英語ができる内藤良一で、戦時風船爆弾に関わった亀井貫一 郎、元参謀本部の有末精三 (GHQ・G2歴史課)、服部卓四郎(同)らを介して、GHQ・G2ウィロビー、CIS ポール・ラッシュ、サンダース軍医中佐らに働きかけ、資料と情報を提供して、石井部隊全体の戦犯訴追が免除されました。二木秀雄 『政界ジープ』は、ちょうどその頃創刊されています。もしも二木秀雄が内藤の配下で、プランゲ博士、有末精三・服部卓四郎・河辺虎四郎・荒木光子らのG2歴史課が財源・情報源だったとすると、1950年再軍備期の 日本ブラッドバンク創業・ジープ社の飛躍を含めて、上述した『政界ジープ』の特徴が了解できますが、まだまだ仮説の域です(二木秀雄個人はあまり出てきませんが、森村誠一『悪魔の飽食』、常石敬一『標的イシイ』『医学者たちの組織犯罪』、太田昌克『731免責の系譜』、青木冨貴子『731』等、参照)。
その後、『政界ジープ』と731部隊の情報探しでは、いくつかの重要な情報提供を受けました。びっくりしたのは、大橋義輝『毒婦伝説ーー高橋お伝とエリート軍医たち』(共栄書房)という本に登場する、731残党二木秀雄の振る舞い。石井四郎の京大恩師である奇人清野謙次も出てきて、医学者たちの異常で猟奇的な世界が、731部隊ばかりでなく、免責された戦後日本の医学界の中にも、脈々と生き残ってきたようです。二木秀雄については、晩年のイスラム教入信の経緯が、ぜひ知りたいものです。なお、私の手元には、米国国立公文書館NARAのHPで現物がダウンロードできる米軍日本生物戦資料のほかに、 青木冨貴子さん『731』が使ったMIS亀井貫一郎ファイル、石井四郎のCIA及びMISファイ ル、CIA福見秀雄ファイル等があります。こ の問題を学術的に追及していきたいという方がいらっしゃれば、 katote@ff.iij4u.or.jp までご連絡ください。また上記に関する資料・証言等お持ちでしたら、ご一報下さい。
新たに見つかった旧ソ連粛清犠牲者「ニシデ・キンサク」「オンドー・モサブロー」「トミカワ・ケイゾー」「前島武夫」「ダテ・ユーサク」について、情報をお寄せ下さい!
2013.4.18 久方ぶりの「尋ね人」改訂です。今、早稲田大学演劇博物館では、1937年にソ連からスターリン粛清で国外追放になり日本に帰ることなく「メキシコ演劇の父」となった『佐野碩と世界演劇—日本・ロシア・メキシコ “芸術は民衆のものだ”—』展が開かれています。先日、「アメ亡組」の一人で1942年に強制収容所内で死亡した健物貞一の孫姉妹が、祖父の墓参がてら来日して、サクラと共に佐野碩展を見ていきました。そこに、モスクワから、新たな日本人犠牲者判明の報道です。4月18日の産経新聞モスクワ支局の調査報道で、私も協力して、以下の記事が配信されました。このうち「前島武夫」は以前から本サイトで「逮捕後行方不明」としてリストに挙げていましたが、銃殺死で処刑日が判明しました。他の4人は、まったくノーマークだった地方での粛清です。記事の画像はこちら。きっと日本にご親族がおられるでしょう。何か手がかりがありましたら、 katote@ff.iij4u.or.jp まで情報をお寄せください。
<スターリン大粛清、新たに日本人4人の銃殺判明、犠牲者26人に 欠席裁判 スパイ容疑…格好の標的>
2013.4.18 08:02【モスクワ=遠藤良介】旧ソ連の独裁者、スターリンによる1930年代後半の「大粛清」で、当時のソ連に滞在していた日本人4人が銃殺刑に処せられていたことが、ロシアの人権擁護団体「メモリアル」のとりまとめた資料から新たに判明した。専門家によると、大粛清での犠牲が確認された日本人はこれで26人となった。共産主義に共感してソ連入りした日本人がスパイ容疑をでっち上げられ、虐殺の嵐に巻き込まれた構図が資料から改めて浮かび上がった。
メモリアルはこのほど、スターリンが直接、粛清を裁可した約4万3500人の名簿を各種の公文書や地方の記録を基に作成。この中から日本人10人に関する情報を抽出し、産経新聞に提供した。大粛清の日本人犠牲者について調査している加藤哲郎・一橋大名誉教授によると、これにより日本人4人が銃殺され、1人が収容所内で死亡していたことが新たに確認された。
犠牲者5人が居住していたのは、モスクワに加えて西シベリアのノボシビルスクや極東のアムール州、ハバロフスク、ウラジオストク。加藤氏は「地方に居住し、地方で処刑された人の情報が出てきたことは貴重だ」と話す。
共産体制の分派を苛烈に弾圧したスターリンの粛清は37〜38年に頂点を迎える。37年7月、各地の内務人民委員部(NKVD)にはあらゆる「反ソ分子」を粛清するノルマが課され、対象は一気に拡大した。メモリアルでは、37〜38年に銃殺された約70万人のうち9割が「欠席裁判」で判決を下されたと指摘している。今回、銃殺が判明した日本人4人のうち3人は「判決」と同日に刑が執行されていたことが資料で確認された。
加藤氏によれば、当時のソ連には、大使館の把握していた新聞記者や商社員を別にして約100人の日本人がいたとみられている。(1)野坂参三氏ら日本共産党指導者(2)亡命した国崎定洞・元東大助教授ら知識人(3)北海道や樺太からの政治亡命者(4)極東ウラジオストクなどに入港して住み着いた漁民・船員といった人々だった。知識人や政治亡命者は共産主義を奉じていたほか、漁民・船員や労働者も多かれ少なかれソ連を「労働者の天国」と考えていた可能性が高い。「日本人は『仮想敵国のスパイ』として格好の標的とされた。ソ連当局は1人を『人民の敵』として捕まえると、拷問によってその友人の名を割り出し、次々と『スパイ』に仕立てていった」加藤氏はこう語り、「約100人の日本人のうち、全く“無傷”で生還できたのは野坂参三氏くらいであり、残りは銃殺や強制収容所送り、獄中死、国外追放といった道をたどったと考えられる」と指摘する。
日本人の粛清をめぐっては、女優の岡田嘉子さんと樺太から越境し、銃殺された演出家、杉本良吉氏のケースなどがよく知られる。ただ、戦後のシベリア抑留と違って国の調査は行われておらず、現在でも推定50人以上の消息が不明だ。
◇大粛清での犠牲が新たに判明したのは次の方々(4月18日産経新聞報道の略歴ではなく「メモリアル」リストの原簿のより詳しいもの)
▽ニシデ・キンサク 1896年生まれ/ハバロフスク居住/商店主/1937年7月6日/刑法58−1a、2、8、9、11/1938年4月7日判決/1938年4月7日銃殺(ハバロフスク)/1993年10月7日名誉回復
▽オンドー・モサブロー 1898年生まれ/カヌム(市)出身/アムール州居住/理髪師/1937年7月26日逮捕/刑法58−1a、2、8、11/1938年4月7日判決/1938年4月7日銃殺(ハバロフスク)/極東管区軍検察により名誉回復
▽トミカワ・ケイゾー (この人物はトミカワ・ケイゾーである) 生年不明/千葉県出身/政治亡命者/極東国立大学の日本語教師/1937年逮捕/1938年4月7日銃殺 千葉出身。ウラジオストク居住。極東国立大講師。1938年4月7日銃殺
▽前島武夫 カンジョ(ブダエフ・ノルバ/マヤ(エ?)シマ・タケオ/ツルオカ)1910年生まれ/共産党員候補/モスクワ居住/民族・植民地問題に関する学術研究協会の学生/1937年6月8日逮捕/スパイ・テロ活動/1937年11月28日判決/1937年11月28日銃殺(モスクワ)/1991年12月名誉回復
▽ダテ・ユーサク 1881年生まれ/長崎出身/ノボシビルスク居住/鉱山機械工場の警備人/1937年8月3日逮捕/罪状 日本の諜報と反ソ扇動への関与(刑法58−2、58−6の1、58−8、58−11)/1938年6月4日判決(自由剥奪25年)/1939年11月19日死亡(服役地にて)/1971年10月15日名誉回復/ノボシビルスクの追悼記録より
敢えてのっけから、ご連絡はkatote@ff.iij4u.or.jpへとメルアドをかかげたのは、本サイト久しぶりの、「尋ね人」のため。かつて旧ソ連在住日本人粛清犠牲者やワイマール期在独日本人関係者の発掘で本ウェブサイトは大きな威力を発揮し、10人以上の旧ソ連粛清犠牲者ご遺族に命日や埋葬地をお伝えするボランティア活動の土台を築きましたが、今回は、日本の侵略戦争の犠牲者である、ある母と娘の探求です。右の写真は、1936年に神戸で結婚したばかりの夫婦のものです。男性は鬼頭銀一、1903年、三重県鈴鹿市生まれ、1925年アメリカに渡り、敬虔なキリスト教徒としてコロラド州デンバー大学に学びました。在学中に社会学のチャーリントン教授の影響を受け社会問題にめざめ、アメリカの労働運動に接近しました。同級生に後の野坂参三のカルフォルニア滞在時代の助手、ジョー小出がいました。本サイトの長い読者の方ならば、私の2004年夏のアメリカがコロラド州デンバーだったことを覚えていらっしゃるかもしれません。鬼頭銀一は、英語と理論に優れていて1927年にアメリカ共産党に入党、28年にはニューヨークのアメリカ共産党本部で、米国共産党日本人部の最高指導者である初代の全国書記に抜擢されました。でも別に恐ろしい「アカ」ではなく、写真にあるように、知的な好青年でした。
その鬼頭銀一は、どうやら1929年にはアメリカを離れ、ベトナム経由中国の上海に入ったようです。当時上海には、世界中から、中国革命を支援するコミンテルン(共産主義インターナショナル)系列の活動家たちが集まっていました。本来なら歴史的に名を残すはずだったのが、ここで鬼頭銀一が、当時上海でアジアでの情報戦にたずさわり始めたリヒアルト・ゾルゲと、当時朝日新聞記者の尾崎秀実を引き合わせたこと。1941年検挙後の尾崎の供述を読めばそう出てきますが、一緒に検挙されたゾルゲが「有名なアメリカ共産党員鬼頭銀一」との関係を否定し、尾崎と会ったのはアグネス・スメドレーの紹介だったと強く主張したため、日本の検察当局はゾルゲの供述に合わせて尾崎の供述を変更させ、判決文は、スメドレーを仲介人にして、鬼頭銀一の名は入りませんでした。しかし、同じく被告の水野成の判決文には鬼頭銀一が出てきますし、最近、鬼頭銀一のアメリカ共産党での活動を明示する資料がモスクワでみつかり、ゾルゲと尾崎の出会いは、したがって後のゾルゲ事件の発端は、鬼頭銀一の上海での汎太平洋労働組合を拠点にした活動であったことが、ほぼ証明されました。
ただし鬼頭銀一は、31年9月満州事変勃発時に上海の日本領事館警察に捕まり、日本に送還されて、友人の日本人治安維持法違反容疑者木俣豊次の逃亡幇助の罪で32年末まで市ヶ谷拘置所に収監されていました。執行猶予付きで出所した鬼頭銀一は、33年1月から37年9月まで、国際港神戸にゴム製品販売「鬼頭商会」を開業、その間32年に上海から帰国し大阪朝日新聞に勤めた尾崎秀実と頻繁に会い、まだゾルゲが日本に入る以前から、「尾崎・鬼頭グループ」を作っていました。これまでのゾルゲ事件研究では、尾崎はゾルゲの協力者、したがって「ソ連のスパイ」とされるが、尾崎や鬼頭は、ゾルゲ諜報団とは別個に、日本の中国侵略に反対し、日中民衆の連帯を模索する活動を続けていました。ただし鬼頭銀一は、34年9月の尾崎秀実東京転勤後、「ゾルゲ・尾崎グループ」に加わった形跡はありません。ソルゲ事件における鬼頭銀一の重要性については、一度講演「イラク戦争からみたゾルゲ事件」で述べたことがあります。
1937年9月、鬼頭銀一は、神戸の店をたたんで南洋パラオ群島のペリリュー島に渡り、海軍基地建設中のペリリューに日用雑貨品店を開きます。そして7か月後の38年5月24日、店に出入りしていた30歳くらいの男から缶詰のゆで小豆を勧められ、食してまもなく苦悶し死亡します。日本の実家に伝えられたのは「謀殺の疑いあるも、糾明の術はなかった」ーーそれが日本の特高警察・憲兵隊による謀殺か、当時粛清最盛期のスターリンの刺客による暗殺か、非政治的・個人的な怨恨によるものか、あるいはたんなる食中毒か、今日でも不明のままです。その事情を一番よく知るのが、写真右の、ペリリュー島で一緒に暮らしていた妻なみです。1907年岐阜県大垣市生まれで、結婚前は三橋(みつはし)なみ、35年に鬼頭銀一と結婚し36年に長男誕生、38年4月、つまり鬼頭銀一「謀殺」事件直前に長女南生子(なおこ)が生まれたばかりでした。事件後、長男は日本の鬼頭家に引き取られましたが、妻なみと生誕1か月で父を失った南生子は、そのままパラオにとどまったといいます。海軍基地が完成したペリリュー島は、太平洋戦争の激戦の舞台でした。1944年の米軍との戦争は、1万500名の日本兵中、生き残りがわずか34名という悲惨な玉砕でしたから、なみ・南生子母娘は、パラオ本島に移っていたと思われます。
日本の敗戦後、母娘は、いったん亡夫の実家、三重県鈴鹿市の鬼頭家に引き揚げてきます。しかし夫のいない実家で姑ともうまくいかず、長男は鬼頭家に残したまま、なみは娘南生子と共に鈴鹿を離れ、行方不明となります。いつの時点かはっきりしませんが、再婚して「島原なみ」となり、遅くとも1950年以降は「島原なみ」として日本で生きてきたと思われます。その後1970年代に、東京都世田谷区経堂駅前のアパートに、南生子も結婚して「福原南生子」となり、1男1女の母として夫とともに「島原なみ」と同居していたという情報はありますが、そこもすぐ行方不明となり、以後消息はありません。大垣出身「島原なみ」は、1907年生まれですから、もう生きてはいないでしょう。しかし「福原南生子」さんは、1938年、名前のように南の島の生まれですから、まだご存命の可能性が高いです。二人の子供もいたとのことですから、日本のどこかで、ひょっとしたら亡父鬼頭銀一の行方を捜しているかもしれません。手掛かりは以上にすぎませんが、どなたか「岐阜県大垣市出身島原(三橋・鬼頭)なみ」さん(写真右)、「南洋パラオ生まれの福原(鬼頭・島原)南生子」さんについて、何らかの消息・情報をお持ちの方は、私の方にご一報ください。実のお兄さんはご存命で、連絡がついています。
2008年の私の締めくくりは、10月に公刊した本サイト「国際歴史探偵」の成果を駆使した「在独日本人反帝グループ」についての集大成、加藤『ワイマール期ベルリンの日本人ーー洋行知識人の反帝ネットワーク』(岩波書店)でした。ウェブ上では、ACADEMIC RESOURCE GUIDEさん、千葉海浜日記さん、クマのデラシネ日記さん、京都グラムシ工房さん、学問空間さん、芹沢光治良文学愛好会さんらがコメントしています。活字の世界でも、『読売新聞』11月16日に 佐藤卓巳さんの、『週刊朝日』12月5日に鎌田慧さんの、『日本経済新聞』12月14日に池田浩士さんの、共同通信配信で『高知新聞』11月16日、『神戸新聞』『山形新聞』『宮崎日日新聞』『熊本日日新聞』『山陰中央新報』11月23日、『新潟日報』『愛媛新聞』11月30日、『信濃毎日新聞』12月21日などに川上武さんの、『西日本新聞』12月28日「本の森」に今川英子さんの、『週刊読書人』新年1月16日号に平井正さんの、書評が出ています。雑誌では『季刊 唯物論研究』第106号(2008年11月)に松田博さんの長文書評が、『改革者』12月号に短文紹介が、掲載されています。5000円の高価な本で、なかなか書店では見かけないでしょうが、岩波書店ホームページの目次・序章をpdfでたち読みできる専用ページから、またはアマゾンなどを通して、ご注文いただければ幸いです。この危機の時代を迎えて、80年前のドイツで世界大恐慌・大量失業・国内対立激化からヒトラー政権成立を目撃した当時の在独日本人知識人・文化人の生き方の中から、何かを汲み取って頂けるでしょう。
関連文献:
野沢房二については、これまでも講演会などで何回か報告してきたし、拙文「ゾルゲ事件覚え書」にも収録してきました。2006年11月5日、尾崎・ゾルゲ墓参会の折り記念講演を頼まれ、表記の報告をおこない、のち参会者からの要請で報告集を20部ほど作成し、希望者に配布しました。 今回、野沢房二の生誕百年の節目にも当たるので、さらに大幅に改訂を行い、ようやく初稿を書き上げ研究者各位に発送することにしました。それは次の理由によるものです。
野沢房二の「遺稿」の発掘によって、これまでのゾルゲ事件研究があまりにも特高資料によりかかり、必然的に知らずのうちに特高史観を伝搬する結果となってきたのは残念ながら事実です。なかでも川合貞吉著『ある革命家の回想』や『ゾルゲ事件獄中記』または彼の供述調書や論文は、野沢房二の「遺稿」の出現によって再検討を迫られることになったと言えます。
川合貞吉は、特高の筋書にそって供述し、彼の著作は供述調書の釈明のために書かれたもので、真実は全くなかった。1936年の新京領事館警察の検挙、「満州国際諜報団事件」でゾルゲのことを黙秘したことが川合の勲章となっているが、これも小説であって、検挙されたことは真実だが、その検挙は1930年12月の東亜同文書院の学園闘争による検挙洩れの検挙で、「諜報団事件」などは小説であって、虚構のものでした。
何よりの証拠に、川合が云うところの「記事解禁」なるものは国会図書館をくまなく調べてもなかった。ゴードン・プランゲも川合に踊らされて解禁の月日まで書いた。しかし、本当に解禁された記事を彼が確認したのなら、作家(歴史家)であるならばその記事から具体的な情景を読者に伝えたいと思うのが常ではなかろうか。しかしそれは何もない。調べていなかったのだ。彼の供述によって、船越寿雄、河村好雄が獄死し、野沢房二までが彼の供述によって検挙された。これらの人物は冤罪であった。 河村好雄と同級生だった中西功が彼の鎮魂歌を書くことを予告しながら、政治活動の多忙さのために、ついに書き切れずに物故してしまった。とすると残された者が果たさなければならないだろう。
37件の関東軍の機密資料が王学文を通じて中共に流れ、20数名の者が検挙されるという大事件にもかかわらず、副島隆起一人だけが7カ月の実刑であとは釈放されるなどということは、戦前の社会運動史にはあり得ない。憲兵隊の資料が敵国に流出したのなら当然この事件は憲兵隊の扱う事件の筈ではないか。管理責任者は当然処罰が免れない筈ではないか。──
船越寿雄(懲役10年)は、ゾルゲ事件と関係がなかった。冤罪です。ゾルゲグループの一員にしてしまったのも、川合の供述でした。因みに彼は、他のゾルゲ事件被告に被せられた国防保安法違反は起訴段階までで、判決文には治安維持法違反だけで懲役10年を科せられた。スパイ行為はなかったとされたのです。
いま河村好雄、船越寿雄たちの無念を晴らすために、精力的に調査をしていますが、なにしろ資料がほとんどみあたらないのが実情です。手さぐりながら懸命な努力をしています。2章「ある革命家の虚像と実像」が裏付け調査で難航しています。
この「野沢房二の孤高の闘い」をご覧になった方に調査の協力をお願いしたいと思って、初稿にもかかわらず、製本してお届けした次第です。
次のことを調べています。心当たりの方はご一報頂ければ感謝します。
日高為雄 (上海週報社記者)
坂巻 隆 東亜同文書院細胞員、戦後日本共産党長野県委員、追悼集が出た筈。
手島博俊 (この人物は東亜同文書院の卒業生と思われる。西里竜夫、中西功らを中共党組織に_いだ人物で、中共諜報団事件記録によると、「死亡」とだけでてきます。獄死したと思われます。実兄がいたようです。
副島隆起 懲役7カ月の後どうなったのかは不明。
河村好雄 満州日新聞上海支局長となった。東野大八『風流人間横町』(川柳雑誌、昭和35年11月)掲載の「上海の言葉」を中村稔氏から送って頂きました。彼は1935年に大連芸術座の演劇活動に参加しており、藤川夏子著『私の歩いた道』(はぐるま座発行)に一行だけ名前が出てきます。昨年、「満鉄会会報」に大連芸術座」の記事が特集されておりました。編者から貴重なてがかりになる資料を紹介されました。息子さんがいる筈です。健在なら75歳前後か。
大形孝平はゾルゲ事件関連で検挙されたか、事件の回想があるかご存じの方。
新庄憲光 中共諜報団事件で獄死している。東亜同文書院卒業。
坂田寛三 詩人 この人物は上海時代に野沢房二の勧誘でゾルゲ諜報団に加担したと船越寿雄の判決文に出てくる。ネットで索引したところ「世界詩人」集団の記録があるが、船越や野沢が検挙されたのだから当然、坂田も検挙された筈だが、その後のゾルゲ事件関係記録には全く登場しない。事件当時すでに死去していた可能性もある。船越の冤罪の立証に欠かせない人物。
船越寿雄については丸山昇著「ある中国特派員」によって問題提起されているものの、その後の研究はない。船越寿雄の娘さんの所在。丸山昇さんに野沢房二の記録を読んでもらおうと思ったが既に死去されたあとでした。丸山昇著には娘さんにインタビューしたことがでている。知りたいことは名前が順であるか、潤か、川合は名付け親で順と名づけたと書いているがこれは嘘の筈。確認したい。船越寿雄は冤罪だったことを伝えたい。
菅沼不二夫(同盟通信社にいた)中西功に尾崎秀実が検挙されたことを記事解禁まえの41年12月にいち早く知らせた人物。 ゾルゲ事件で取り調べられたかどうか。
田中慎次郎は42年3月24日釈放という記録がありますが、確認したい。本人の回想などないでしょうか。朝日新聞社の「新聞と戦争」欄にとりあげられる筈です。
これらの人々について何か情報をもっていないか、何か調査の方法(手がかりになるもの)がないか。どんな些細なことでもご教示願いたくお願いのために[初稿]ながら発送させて頂きました。押しかけ女房で恐縮ながらお願いします。
渡部富哉 メール watabe38@parkcity.ne.jp
最近は美術づいてます。2002年7月7日のNHK教育テレビ「新日曜美術館」で取り上げられた、群馬県桐生市大川美術館で開催中の「描かざる幻の画家 島崎蓊助遺作展」(9月末まで)はもちろん一押しで、「エルベ川」などメインのセピア色の絵も、戦争末期の中国従軍スケッチも、様々にイメージの広がるすばらしい作品です。ぜひ夏休みに桐生を訪れ、ご覧下さい。作者の画家島崎蓊助は、『夜明け前』執筆期の父島崎藤村に反抗して、国崎定洞や千田是也らの「在独日本人反帝グループ」に飛び込み挫折した体験を持ちます。そのため大川美術館ニュース『ガス燈』第53号(2002年7月10日号)に、「島崎蓊助のセピア色と『絵日記の伝説』」という美術評論(まがい)まで、書いてしまいました。8月末には、平凡社から、加藤哲郎・島崎爽助編『島崎蓊助自伝──父・藤村への抵抗と回帰』が刊行されます。同時に平凡社から出る岡田桑三評伝、原田健一・川崎賢子著『岡田桑三と映像の世紀』と共に、ぜひご一読を。
2002年7月21日の「新日曜美術館」では、本HP「ドイツ・スイスでの竹久夢二探訪記」(いつのまにやら「Yumeji りんく」にも入ってました)もちょっぴりお手伝いして、「独逸、夢のかなたへ──知られざる竹久夢二」が放映されました。『平民新聞』の挿絵画家から出発した「社会派」夢二の再評価は新鮮で、ドイツで書いた油絵「水竹居」に焦点を当て、美輪明宏さんの夢二談義も秀逸でした。もっとも当日、私は群馬高崎哲学堂の「よろこばしき知識」の皆さんのお招きで、「井上房一郎『洋行』の周辺──勝野金政から島崎蓊助まで」と題した芸術がらみの講演でした。そこでお会いした旧知の工芸家水原徳言さんと、思わぬ芸術談義。ブルーノ・タウトの高弟であった水原さんと、タウト、井上房一郎、勝野金政が協力した銀座「ミラテス」の話や、写真家名取洋之助、建築家山口文象らとのつながりの話も愉快でしたが、実は水原さん、晩年の夢二の愛した伊香保・榛名山と高崎が近いものですから、夢二の世界にも大変詳しかったのです。朝のNHKに出てきたナチスの政権獲得時ドイツで竹久夢二が東洋画を教えていたヨハネス・イッテンのイッテン・シューレについてもよくご存じなばかりでなく、なんと、夢二のイッテン・シューレの教え子で、パリに逃れたユダヤ人画家エヴァ・プラウドさんが、1935年頃来日してタウトに会いに来た際、一緒に同席したというのです。そこで夢二の話は出なかったそうですが、同じくナチスに追われ東洋を愛したユダヤ人芸術家二人が、日本で初めて会ったという話に感激。90歳をこえた水原さんに、エヴァ・プラウドの夢二についての手紙と資料が、法政大学大原社会問題研究所「藤林伸治資料」にあることをお知らせし、すっかり意気投合しました。おかげで講演の方もスムーズに行き、地元の熱心な皆さんと遅くまで語り合うことができました。
●(2005・10・3)一部訂正。「ナチスに追われ東洋を愛したユダヤ人芸術家二人」として、ブルーノ・タウトをユダヤ人としていましたが、これは、今日も流通する俗説による、思い込みでした。タウトは、北東ドイツ・ケーニヒスベルク生まれのドイツ人でユダヤ系ではないと、水原徳言さんのお知り合いから、ご指摘を受けました。俗説の根拠も判明。ナチスを嫌ってドイツを離れた日が物理学者アインシュタインと同じだった、という説なようです。しかしこれも、アインシュタインは1932年12月10日、タウトがベルリンを離れたのは1933年3月1日が、史実のようです。ここに訂正して、水原さんほか関係者にご迷惑をおかけしたことをお詫び致します。
NHK「独逸、夢のかなたへ──知られざる竹久夢二」は、美術番組としては大変良くできていましたが、実は担当ディレクターに取材をお願いして、結局わからずじまいで放映できなかった問題がありました。私の「ドイツ・スイスでの竹久夢二探訪記」 のきっかけとなった、1933年竹久夢二のユダヤ人救出地下運動への関わりです。関谷定夫『竹久夢ニ 精神の遍歴』(東洋書林、2000年)にも描かれ、イッテンの息子さんがスイスで夢二の絵を今なお保存していることまでは私が調査し、今回NHKがその水墨画等10数点を画像に収めてくれましたが、イッテン家ご遺族からは、ユダヤ人救出問題での証言はとれなかったそうです。夢二の知られざる活動が、美術の師イッテンのルートではなく、当時の在独日本大使館員やベルリン大学日本人留学生が関わったルートであったからでしょう。この線で、最近気になるのが、夢二の「ベルリンの公園」と題する水彩ペン画に関わる謎。郵政省の絵葉書になった左側の絵が有名で、多くの夢二画集に収めてあり、今回NHK「新日曜美術館」でも放映されましたが、実は、全く同じ構図の「ベルリンの小公園」という、右の絵も実在します(比較しやすいように並べました)。どちらも現在は夢二の生まれ故郷岡山の夢二郷土美術館所蔵ですが、左側の「公園」は、かつて昭和天皇侍従長徳川義寛の「寄贈」とされていました。ところが先日旧ソ連日本人粛清犠牲者の健物貞一遺児アランさんがロシアから来日して、岡山のご親族と対面したさいに、夢二郷土美術館を訪れ確かめたところ、これまで徳川義寛寄贈とされていた「ベルリンの公園」は、1983年に画商から購入したもので、徳川義寛が1982年に寄贈したのは、「公園」と全く同じ構図で同じく紙にペンと水彩で描いた「ベルリンの小公園」という右側の絵であったことがわかりました。徳川義寛が昭和57年10月13日に絵を持参し寄贈したさいの徳川氏自筆のメモをみせてもらったところ、徳川義寛は、その絵を「公園にて」と名付けており、自分がベルリン大学入学後1933年に夢二から記念にもらったものだと解説し、これがベルリン西部「ウィッテルスバッヒャー・プラッツ」のスケッチで、中央に「子どもが曳いている玩具」があり「右上隅のYume 1933 Berlin」と署名がある、と書いています。ところが、数年前まで徳川義寛寄贈とされてきた左の「公園」には、子どもの後ろ姿はありますが「玩具」がなく、また署名は右下です。右の「小公園」の方には、確かに「玩具」が入っており、署名も右上です。左の「公園」よりややこぶりの、徳川氏がベルリンから持ち帰った右の「小公園」は、数ある夢二の画集でも、栗田勇編『竹久夢二 愛と詩の旅人』(山陽新聞社、昭和58年)149頁にタイトルも解説もなく掲載されているくらいで、私の見た他の画集では、最新の『竹久夢二 名品百選』(そごう美術館)をはじめ、もっぱら画商経由の左側の「公園」のみが掲載されています。
2枚の「公園にて」の絵は、姉妹画で、芸術的価値も同等な感じです。むしろ同一構図でありながら、モデルの服装、ベンチに座る人々、それに署名の位置とこどもの玩具の有無が異なり、芝生の花のかたちからは季節の違いを感じさせます。最新の小川晶子『夢二の四季』(東方出版、2002年)では、左の「公園」は「夏」の作品とされていますが、すると右の「小公園」は「春」か「秋」でしょうか? 徳川義寛はベルリン大学で美学を学んでいたので、芸術作品として譲り受けたのでしょうか? それとも夢二から油絵をもらった今井茂郎、神田襄太郎ら当時の日本大使館員と同じように、ベルリンで夢二に経済的援助をした見返りの謝礼でしょうか? ちなみに、神田襄太郎は東大で新人会蝋山政道らに近く、福本和夫にベルリンでドイツ語を教えたといいます(石堂清倫『わが友中野重治』平凡社、2002年、187頁)……。ここからは、私の政治学的推論です。1932年10月-33年9月在独の竹久夢二(帰国して翌34年病死)は、徳川義寛をはじめ、当時知り合ったベルリン大学の日本人学生たちに、この姉妹画を分け与えたのではないでしょうか? 当時のベルリン大学在籍日本人正規学生約10名の中には、私の「在独日本人反帝グループ関係者名簿」にあるように、国崎定洞の影響下にあった左翼学生が数人入っています。バウハウスに影響を受けた夢二の榛名山産業美術研究所構想と1931-33年「洋行」の有力支援者の一人であった島崎藤村の、3男島崎蓊助も、ベルリン大学付属外国人向けドイツ語学校に通い、夢二と3か月ほどドイツ滞在が重なります。32年末に離独する蓊助が夢二の絵をドイツから持ち帰った形跡はありませんが、私が集めた「在独日本人反帝グループ」関係者の聞き取りでは、名古屋の百貨店主の息子で反ナチ「革命的アジア人協会」の活動家であった八木誠三の未亡人と、当時ユダヤ人の恋人を持ちベルリン大学内のユダヤ人地下学生運動に加わっていた井上角太郎のご遺族は、「竹久夢二の絵を持っていた」と証言しています。八木・井上は、当時徳川義寛の同級生で、姉妹画を持ち帰った可能性があります。特に井上角太郎は、当時の夢二の在独スポンサーであったベルリン日本商務官事務所(今井茂郎ら)の通訳をアルバイトとしていました。徳川義寛が右の「小公園」を夢二からもらい持ち帰ったとすれば、左の「ベルリンの公園」の方は、どんなかたちで日本に戻ってきたのでしょうか? どなたか、晩年の竹久夢二に詳しい方の、ご教示を期待します。情報があれば、ぜひメールを!
朝日新聞2002年11月27日外信面の「スターリン3万人? 虐殺地 最大規模の埋葬場所発見」という記事中に、「サンクトペテルブルグ(旧レニングラード)でスパイ容疑で銃殺された日本人、三重県出身のハットリ・サンジという名で、ペテルブルグ・ラドロフ劇場の舞台監督だった。38年に処刑されたとの記録があった。日本でも、特高警察の記録に同一人物と見られる『服部』という日本人がソ連でスパイ容疑で逮捕された可能性もあるとみられていた」とあります。発見したのは、ソ連崩壊後、ロシア政府が旧ソ連の国家犯罪解明に消極的だったため、自らの学問的・思想的良心でスターリン粛清犠牲者の発掘を十年以上続けている歴史学者などのボランティア団体「メモリアル」の人々、フィンランド国境に近い小さな村に「スターリンの虐殺地がある」という村の言い伝えを手がかりに、ロシア軍演習地を発掘したところ、1936-38年期に粛清された3万人以上と見られる犠牲者埋葬地がみつかり、遺骨そのものは特定できないが、その犠牲者名簿中に「服部サンジ」の存在が確認されたというものです。本HPのリピーターの方は、お気づきかもしれません。「情報収集センター」の特別研究室「今年の尋ね人」で、2000年に「1937年9月、レニングラードで粛清されたと推定されるハルピン日露協会出身、舞台監督服部(はっとり)某氏についての情報をお寄せください!」とよびかけ探索し続けてきた、スターリン粛清日本人犠牲者の一人です。私の最新著『国境を越えるユートピア』(平凡社ライブラリー)185頁にも、「犠牲者ナンバー27」として出ています。行方不明になってから、実に65年後の死亡情報確定です。そして、ロシアには、なお数十人の消息不明の日本人犠牲者がいます。
「服部」の名前の「サンジ(参治?)」と「三重県出身」という「メモリアル」のロシア語KGB資料からの調査結果は、今回初めて現れたもので、以下の私の「日本人犠牲者・候補者名簿」収録情報と照合すると、ご遺族に到達することが、できるかもしれません。お心当たりの方は、ぜひ ご一報下さい。
★ レニングラード小劇場の舞台監督服部氏 1937年当時、旧ソ連で演出家土方與志の知人であったレニングラード劇場の舞台監督で、『特高月報』昭和16年7月の「プロット代表として入露せる土方與志の検挙」中の「在露中交際せる日本人」によると、「服部某 ハルピン日露協会出身、チタ領事館に勤めたることあり。レニングラード俳優学校卒業後レニングラード小劇場舞台監督、昭和12(1937)年9月頃、日本スパイの嫌疑により逮捕せらる」とされており、日本人粛清犠牲者の一人であった可能性が高い。 資料の出所は、土方與志の帰国後警察供述調書(土方與志『演出者への道』勁草書房、所収)と『土方梅子自伝』(早川書房)で、これは、2年前に本HPと読売新聞・日経新聞等の協力で身元が判明し、ご遺族に命日・埋葬地をお伝えできた、「テルコ・ビリチ=松田照子」の場合と全く同じである。「テルコ・ビリチ=松田照子」については、この間の調査で土方夫妻の証言が正しかったことが証明されたので、この「服部某」についても、同じ運命にあった可能性がいっそう強くなりました(加藤『モスクワで粛清された日本人』、内務省『社会運動の状況 昭和10年 共産主義運動』)。
私にとっての内田義雄『聖地ソロフキの悲劇』(NHK出版)の収穫は、白海ラーゲリを体験した二人の日本人の話。一人は『長い旅の記録』(中公文庫)の寺島儀蔵さんで既知でしたが、もう一人は私の「旧ソ連日本人粛清犠牲者名簿」に「『ソ連共産党中央委員会通報』1990年11月号の銃殺者リストに、別名タナカ・シマキチ、キムラ・ジサブローとある。1909年生まれで、41年に粛清された日本人犠牲者」とあるものの、全く手がかりなしだった「カタオカ・ケンタロウ」の話でした。著者内田さんの調査では、1935-38年にソロフキ収容所で一緒だったロシア人チルコフの回想録に、「カタオカ」は印象深い囚人仲間として出てくるそうで、「元将校でスパイ」とされてラーゲリに入れられ、ラーゲリでは理髪師をつとめていたとか。さらに、チルコフ回想には、収容所長から「カタオカ」が自分の他の日本名についてきかれる場面があり、そこで「ジサブロウ・キムラ」「テバシ・カメキチ」「カスギ」と出てきます。このうち「キムラ」は、やはり私の「旧ソ連日本人粛清犠牲者名簿」にある「木村治三郎(きむら じさぶろう)1929年ウラジオストックから入ソ、日本側警察資料である『思想月報』第33号(昭和12年3月)では、石川四郎と共に上海より浦塩に渡り入露、宣伝員となるも35年6月現在政治犯として入獄中、とある。別名カタオカ・ケンタローと同一人物で、1941年に銃殺された可能性がある」としてきたものです。つまり、「カタオカ」と「キムラ」が同一人物であった可能性を推定してきましたが、その通りだったようです。
ここに出てくる「石川四郎」は、31年に山本懸蔵の指示で日本に帰国、日本海員組合刷新会を組織しようとして特高警察に逮捕された活動家です。「カタオカ」も海員組合で活動したと推定されます。そこで内務省警保局『昭和6年中に於ける外事警察概要・露国関係』の「国際海員倶楽部宣伝員名簿」にあたると、木村の方は出身地の記載がなく、「本年(1931)春卒業、浦塩邦人主義者グループに加入し居たるも本人が思想的に共産主義と相容れざるものあるを認め右グループより脱退し一時反革命運動を企図し居る6月頃、経済状況視察の為ウラル方面に赴きたる由なるが約3か月前より浦塩ゲペウ(GPU)に拘禁せられたり」とあり1931年にウラジオストックで逮捕されたらしいことがわかるだけです。しかし、すでに日本で逮捕された「石川四郎」については、「明治39(1906)年12月16日生、本籍東京府三河島町字町屋264戸主長吉4男、出生地栃木県河内郡瑞穂村大字下桑島、宇都宮市立下野中学校2年退学、労働総同盟で活動、昭和4(1929)年10月初旬上記木村と共に函館港内停泊中の露国貨物船に潜入密航、ジャパニーズコミュニストと称し入露希望浦塩上陸」と重要なてがかりがあります。『思想月報』では石川は昭和6年中に予審手続中止で釈放されたようですから、こちらの方から「木村治三郎=カタオカ・ケンタロウ」につながる可能性があります。内田さんは、私のリストも『ソ連共産党中央委員会通報』もみていなかったため、「カタオカ・ケンタロウ」について、「この日本人の本名だったのか疑わしいと言えるし、確かめようがない」と書いていますが、どちらが本名かは確定できませんが、これで複数以上の資料から「木村=カタオカ」の実在が確認できました。ロシア正教弾圧から入って内田さんが発掘した白海ラーゲリの日本人体験者は、この本では寺島・カタオカの二人だけですが、私と藤井一行教授の共同研究では、勝野金政や永井二一らも、白海バルト運河の建設に強制動員されていました。早速内田義雄さんにコンタクトしようと思いますが、本HPではさしあたり、この「木村治三郎=カタオカ・ケンタロウ」を、新たな「尋ね人」に加え、情報を求めることにします。先日のアメリカ西海岸日系労働運動指導者健物貞一のケースのように、うまく日本のご遺族までつながればいいのですが。健物貞一については、英語版HP「国際交流センター
」で、1923-32年のサンフランシスコ時代の軌跡の探索・情報収集を始めました。2001年12月15日午後2ー5時、勝野金政生誕百年記念シンポジウム」が、勝野の母校であった早稲田大学で開かれ、小野梓記念講堂いっぱいの大盛況でした(プログラムと報告要旨・勝野金政著作目録)。前回更新で書いたように、月刊『新潮』10月・12月号に「20世紀における『政治と文学』の神話学」という力作を連載して、勝野金政『赤露脱出記』を文学的に高く評価している山口昌男さんが、大雪の札幌からかけつけました。戦後の勝野の発掘者で、『日本の近代16 日本の内と外』(中央公論新社)で国崎定洞ら在外共産主義者の運動にスポットをあてた、日本史研究の伊藤隆さん、それに国崎定洞の甥の国崎拓治さんも、出席してくださいました。この春ロシアの遺児アランさんと70年後につながった日本人粛清犠牲者健物貞一も早稲田大学の出身で、勝野の一年上で建設者同盟の軍研事件に関わりましたから、ご遺族が岡山から出てこられ、勝野家ご遺族に、貞一の弟松太郎の蔵書中にあったという『赤露脱出記』を手渡しました。私自身は、報告要旨に入れたパリ、ベルリン、モスクワでの勝野金政の周辺に、この間膨大な資料が現れた島崎藤村の3男蓊助の遺稿・遺品から、新たに判明した国崎定洞らベルリン日本人反帝グループの活動を配し、島崎藤村『夜明け前』(1929-35)の世界と日本コミュニズムの関わりを、考えてみました。この日に合わせて、共同研究者藤井一行教授は、勝野金政の戦前・戦後の全著作を収めたCDROMを作成し、「勝野金政の前半生」などを発表してきた藤井さんHP「日露電脳センター」で、公刊を始めました。貴重資料保存の新しい試みです。ぜひご参照ください。
島崎蓊助関係資料により、これまで私のベルリン日本人反帝グループ関係者一覧に入れていなかった何人かを、新たに探求しなければならなくなりました。本HP情報学研究室所収「政治と情報――旧ソ連秘密文書の場合」および現代史研究室所収「モスクワでみつかった河上肇の手紙」で、国崎定洞らとの接点を探求してきた『資本論』翻訳者宮川実の問題が、あっさり判明しました。島崎蓊助のベルリンでの足取りを追跡したところ、1929-30年に蓊助はベルリン大学付属外国人用ドイツ語学校に通っており、1929年12月第62クラス、30年3月第63クラスで小林陽之助(コミンテルン第7回大会日本青年代表)と同級、30年5月第64クラスで井上角太郎(竹久夢二と共に、ナチス政権下でユダヤ人救出活動)と一緒だったばかりでなく、30年8月の第65クラス名簿で宮川実と同級だったことが確認されました。ミュンヘン大学に留学した宮川も、ドイツ語会話はベルリンで勉強していたのです。蓊助のベルリン滞在記によると、勝本清一郎と共に1929年10月にベルリンに到着後、転がり込んだのは千田是也と映画監督衣笠貞之助が一緒に住むアパートでした。蓊助が左翼運動にのめりこんで後、新国劇脚本部樋口十一、女優長岡輝子、美術評論家土方定一がグループと接触したことが記されています。先に日本語新聞「ベルリン週報」との関わりで新たにリストアップした建築家白井晟一、市川清敏に加えて、いよいよ当時の日本の文化運動全体を探求しなければなりません。この間情報提供をお願いしている在独日本人の記念写真の候補者には、これらの人々も入ります。
島崎蓊助遺稿からわかった問題で、さしあたり最も重点的に探したいのは、これまで藤森成吉の「転換時代」(『改造』1931年10月)と島崎蓊助「在独日本青年素描」(『改造』1936年2月)のみと思っていたベルリン反帝グループのモデル小説が、どうやらもう一つあったらしいことです。白川敏「ベルリン紅団」というものらしいです。作者の本名はわかっています。村山知義の義弟岡内順三です。1933年に日本に帰国し、特高警察に詳しい供述を残していますから、発表は33年以降でしょうか。ベルリンからの寄稿かもしれません。特高記録には「白髭渡」という別名も出てきます。「ベルリン紅団」が書物のかたちか雑誌掲載かもわかりません。しかし、藤村『夜明け前』執筆開始の頃に出た川端康成の新感覚派時代の作品 『浅草紅団』をもじったものでしょうから、おそらく雑誌掲載でしょう。これまで全く手つかずだった探求ですので、特に戦前文学史・文芸誌に詳しい方々のご協力を求めます。katote@ff.iij4u.or.jp 宛て情報をお寄せ下さい。
このコーナーは、「情報収集センター」内にリストアップされた1930年代ドイツ及びソ連に滞在した日本人のなかから、私が特にその消息を探り、情報を求めている数人を選んで、スポットライトを当てる特別室です。「謎解き」よりもさらに詳しい経歴を紹介し、なんらかの情報を寄せていただくことを期待します。
幸いなことに、このコーナーは『読売新聞』1998年2月5日に大きく報道されるなど本HPの目玉として定着し、ここで探求してきた30年代旧ソ連在住日本人粛清犠牲者伊藤政之助については、1998年6月、モスクワのサハロフ博士記念人権センターのデータベースで、粛清前後の基本的事実が判明しました。同じデータベースに入っていた当時の日本人女子学生「テルコ・ビリチ」についても、99年2月、1912年東京生まれの「松田照子」さんと判明し、ご遺族に命日・埋葬地をお知らせし、資料をお届けすることができましたので、「テルコ探索記」にまとめました。ベルリンについては、ヒトラーが政権についた33年当時、ベルリン大学学生でユダヤ人救出に関わったとみられる井上角太郎について、本HPを通じてご親族からの情報提供があり、アメリカ在住の二人の娘さんにもメールで連絡がついて、その生涯の輪郭が明らかになりました。インド人チャットパディアについては、英語版の方に世界中から情報が寄せられ、レニングラードでの粛清など晩年の事情もある程度明らかになりました。
2000年中は、「1930年代ベルリンにいた日本人音楽家「二宮秀(周?)」、37年レニングラードで粛清されたという舞台監督「服部」某氏、32年ウラジオストックで行方不明となった船員「徹武彦」についての情報をお寄せください! 戦前ドイツで発行されていた日本語新聞『ベルリン週報』を知りませんか?」と欲張ったのですが、断片的な間接情報はありましたが、身元解明にはいたりませんでした。そこで「二宮秀」については、ベルリン関係で、「服部」某と「徹武彦」についてはモスクワ関係名簿で引き続き情報を求めることとし、21世紀の初めの年は、ベルリン関係は『ベルリン週報』を引き続き探索しつつ、モスクワ関係については、大島幹雄さんの「月刊 デラシネ通信」と提携して、サーカス芸人「ヤマサキ・キヨシ」の係累を、まず探したいと思います。実は年末に、ベルリン・モスクワの双方に関係する「小林陽之助」のご遺族から連絡があり、近くお話しを詳しく聞いた上で、こちらの方も特別研究室に入れることになるかもしれません。
2001年は、「ヤマサキ・キヨシ」と「ベルリン週報」を重点的に探索し、ヤマサキの手がかりはありませんでしたが、「ベルリン週報」については、名前が「ベルリン通信」だった可能性を含め、貴重な情報がいくつか寄せられました。ただし現物はみつかっていません。引き続き、「旧ソ連日本人粛清犠牲者名簿」「在独日本人反帝グループ関係者名簿」に収録して、皆様のご協力をお待ちしております。
加 藤 哲 郎
〒185-0003 東京都国分寺市戸倉2ー16ー41
電話(042)327ー9261 ファクス(042)327ー9262
Dr.Tetsuro Kato