大川美術館館報「ガス燈」2002年7月号


 

島崎蓊助のセピア色と「絵日記の伝説」

 

 

 

加藤哲郎(一橋大学教授)

 

 


 大川美術館の「描かざる幻の画家 島崎蓊助遺作展」で、ひときわ強烈な印象を残すのは、1970年ハンブルグ郊外アルトナで描かれた、セピア色の作品群である。不思議な絵だ。陰鬱な内面の吐露にも見えるし、闇の中のほの白い光明から、悠久な宇宙につながるようにも見える。視るものを射抜き引き込まずにはいられない、底知れぬセピア色である。だがそれは、なぜハンブルグでなければならなかったのか?

 作者の島崎蓊助は、すでに1992年に没している。しかし、セピア色の意味を示唆する、二つの膨大な遺稿を残した。

 一つは、1970年アルトナ滞在をはさむ、56年から88年まで33年間164冊の「創作ノオト」で、遺作展に展示されている。それは、文豪といわれた父藤村の重みに耐えて、孤独な創造を試みてきた蓊助の、哲学的・美学的思索の記録である。美と表現の本質を探求し続け、「視ること」「色」にこだわった画家の、希有な思想的格闘である。

 1956年1月の執筆開始から病床の88年9月まで、「ノオト」に通底し頻出するのは、「視るということ」「虚と実」「生と死」「瞑想」「無」「絶望」等の、実存的で現象学的な諸観念である。理論的には、メルロ・ポンティ、サルトル、フッサール、日本人では小林秀雄、唐木順三、森有正、晩年には山口昌男、山之内靖などを繰り返しとりあげる。芸術家では、アルベルト・ジャコメッティ、セザンヌ、ゴッホ、カンディンスキ、世阿弥、芭蕉、佐伯祐三等々と禅。「ノオト」を貫くのは、これをいかに「かたち」「色」として表現するかの葛藤で、たびたび「考えることよりも描くことだ」と決意しデッサン・制作にとりかかるが、美学的・思想的難問が解けず、描けない。その過程で「動的リアリズム」「水の思想・水の軌跡」等と自分の芸術戦略を見いだすが、ようやくハンブルグ・アルトナでの「色」の体験から、それを「眼窩の世界」として凝集しえた。

 「ノオト」の第97・98冊は、特別に整理して「ハンブルグ日記」としてまとめられていた。「ハンブルグは、バルト海にパックリ口を開けた人間の貪欲な墓場だ」「ボクの枯草色のハンブルグは、一つの方法を得て、森有正の情感を捉え始めている」とある。70年のアルトナ滞在は、サルトル「アルトナの幽閉者」の実存的感覚=「孤独」の美学的追体験だった。

 もう一つのヒントは、「ハンブルグ日記」と共に整理され清書されていた、「絵日記の伝説」と題する自叙伝である。「ノオト」を参照すると、当初のタイトルは「眼窩の世界」であった。つまり、アルトナの絵の世界を、自己の「人生の重たい荷物」に投影したものであった。1974年末から75年5月に一気に書かれ、77年夏には完成していたが、親友の詩人会田綱雄に見せただけで、なぜか蓊助存命中に公刊されることはなかった。

 この幻の自叙伝は、ご子息島崎爽助氏が、遺作展を準備中に発見した。400字原稿用紙で320枚ほどの完全原稿のかたちで残されており、私と爽助氏の編集・解説で、『島崎蓊助自伝──父・藤村への抵抗と回帰』と題し、近く平凡社から刊行される。以下に、目次を掲げておく。

  1.川端画学校・画学生気質    
  2.マヴォの出現と解体
  3.赤道社・初期プロレタリア美術
  4.シベリア経由モスクワからベルリンへ
  5.ベルリン日本人左翼グループ
  6.ハンブルグから神戸へ
  7.暗黒時代の到来、放浪
  8.中国大陸・湖南ー広西
  9.柳州ー桂林ー南京ー上海・敗戦
  10.引揚げ、東京の廃墟へ
  11.戦後・混沌からの出発

 もともとドイツ社会運動を専攻してきた政治学者の私は、蓊助の1929−32年ベルリン滞在を、国崎定洞、平野義太郎、千田是也、勝本清一郎、藤森成吉ら「ベルリン日本人左翼グループ」の活動として注目してきた。ドイツのナチス台頭に抵抗し、日本の満州侵略にも反対したこのグループの中心は、元東大医学部助教授国崎定洞と演出家の千田是也であった。私は『人間 国崎定洞』(勁草書房、1995年)等で、国崎の生涯を探求してきた。千田の回想『もうひとつの新劇史』(筑摩書房、1975年)によれば、島崎蓊助は、千田の率いる芸術活動家集団の最年少のメンバーだった。しかし自由人蓊助は、けっきょく左翼の閉鎖的・党派的体質になじめず、父藤村からの仕送りを放蕩生活で使い果たし、脱落する。「絵日記の伝説」によれば、ハンブルグは、1932年末、青春をプロレタリア文化運動に捧げてきた蓊助が、政治的「同志」たちから見放され、挫折し、一人寂しく帰国した「洋行」体験の出口だった。 

 島崎蓊助が1992年に没し、ベルリンでの「兄貴分」であった千田是也が94年末に没した直後に、私は蓊助夫人君代さんに手紙を出し、日記やメモのような遺品はないかと問い合わせていた。その時、こんなものならありますといって見せて頂いたのが、「絵日記の伝説」第3章までのコピーだった。ベルリン時代の回想もあるにちがいないと直観したが、それは表題もなく、未完に終わっていた。今回「絵日記の伝説」の完全原稿が発見され、その続きを読むことができた。しかもその心象風景を描いたセピア色の絵と共に。研究者冥利に尽きる喜びである。



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