●この本を、その後の日本人粛清情報を加え、再編集・改訂したのが、『国境を越えるユートピア』(平凡社ライブラリー、2002年)である。活字書物では、そちらの方を参照願いたい。
序 章 本書は何を問題にするのか――エコロジーとエルゴロジー
第1章 <国民国家の時代>のユートピア
――「ラ・マルセイエーズ」から「インターナショナル」へ
第2章 1937年の女たちの夢
――リヒアルト・ゾルゲと東京九段野々宮アパート
第3章 モスクワにあこがれた男たちの夢
――「プロレタリア国際主義」のストレス
第4章 国籍を喪失した日本人越境者の悪夢――粛清犠牲者のレクイエム
第5章 <国家>に呪縛された<社会>主義――20世紀の制度疲労
第6章 <国民国家>とは何であったか?
第7章 多国籍企業は国民国家を超えた?
第8章 地球市民とNGO――越境するエコロジー=エルゴロジー
本書を手にする人は、まず、「エルゴロジー」という言葉に戸惑うだろう。「エコロジー」は聞いたことがあるが、「エルゴロジーとは何か?」と。
そう思っていただくのは、実は、著者のねらいでもある。「国民国家」を「エルゴロジー」から考えるとは、いったいどういうことなのか、と。
「国民国家」も、わかりにくい言葉である。「国民」も「国家」も日常的に使われるが、いざ「国民とは何か」「国家とは何か」と問われると、案外多くの人が、答えに詰まるのではないか? 本書は、そういう人のための、ガイドも兼ねている。
「国家」を英語のステイト(state)、ドイツ語のシュタート(Staat)、フランス語のエタ(Etat)の訳語と考えれば、現代世界には、およそ190の国家がある。国際連合に加盟しているのが184ヵ国で、そのほかいくつかの未加盟国がある(1994年夏現在)。
だが、国際連合の英語名は「ユナイテド・ネイションズ(The United Nations)」である。「ユナイテド・ステイツ(The United States)」は、通常、アメリカ合衆国のことをいう。アメリカの場合、カルフォルニアとかオハイオという日本語で「州」と訳されているものが、ステイトである。だから本多勝1などは、「アメリカ合州国」と表記する。
国際連合の英語名の「ネイション」こそ、実は、日本語では、普通「国民」とか「民族」と訳されているものである。だから「国民国家」とは、「ネイション・ステイト(NationState)」の訳語なのである。こういう西欧近代に発し、明治以後に日本の社会科学に導入された輸入語の意味を、歴史の文脈のなかで吟味するのも、本書のねらいの1つである。
本書は、「これからの世界史」の1冊である。「これから」を知るには、「これまで」を知らなければならない。だから、私自身の専攻は政治学だが、「これまで」の歴史にも挑戦する。
そのさい、全体を2部に分けて、第1部は歴史学風に、第2部は政治学風に、構成することにした。2つの理由からである。
ひとつは、「これからの世界史」を、人間の、さまざまな分子的生き方の関係のなかで、考えてみたい、と思ったからである。
一人の人間に即していえば、歴史とは、せいぜい50ー100年の1回かぎりの人生である。人生(Life,Leben)とは、生活(Life)であり、同時に生命(Life)でもある。
そのなかで、人が切実に国家に関わるのは、実は、そう頻繁ではない。
多くの「世界史」は、国家や社会の構造的転移として記されるが、歴史(History)とは、実は、多くの人々の物語(story)の集成である。あるいは、日常的(daily)物語の織り成す日誌(diary)である。
確かに出生届も死亡届も国家が管理するが、そこで国家を意識することは、まれである。日々の生活のなかで、国家を鋭く意識するのは、戦争のように国家が生命に関わる時、あるいは、自ら国境を越える時である。
歴史=ヒストリー(history)の叙述は、往々にして、時々の政治支配者たちの栄枯盛衰のハイ・ストーリー(high-story=大所高所の歴史)や、伝説的英雄たちのヒズ・ストーリー(his-story=男たちの歴史)になりがちである。
圧倒的多数の普通の人びとにとっての日常的な物語(low-stories)や、人類の半分を占める女たちの歴史(her-stories)は、文字記録が残されないが故に、しばしば、忘れ去られる。
しかし、21世紀以降の「これからの歴史」の主人公が、普通の人々であるとすれば、実は、人類の長い歴史の主人公も、案外そうした人びとではなかったか?
そこで、本書では、国家を、まず裏側から考えることにした。20世紀は、国民国家の全盛期であり、国境(border)の壁が人類史上で最も高くなった時代であった。その時代に、国境を越える夢を追いかけた人々の物語のなかに、まずは国民国家の問題を考える、糸口をつかもうと考えた。
いまひとつは、「エルゴロジー(Ergology)」に関わる。
本シリーズの全体が、「近代」の意味を再考しようとするものであることは、すでに慧眼な読者は、気づいているだろう。これまで支配的だった、西欧近代に発する近代化・工業化・資本主義化・都市化・民主化を絶対視する歴史観に、さまざまな視角から疑問が提起されていることに、熱心な読者なら、ある種の感慨を抱いているだろう。
いや、「近代」そのものが、さまざまな顔を持つ。近代化と工業化は同じだろうか? 資本主義化と民主化は、同じコインの表裏として進むのだろうか? 第1、近代化は「進歩」と同一視できるのだろうか? 科学技術・工業発展と巨大な生産力の生みだしたものは、人間の存在条件である自然と生態系の破壊ではなかったか? そして、そもそも「近代」とはなにものか、それはどこに向かおうとしているのか、と。
「エコロジー(Ecology、生態学)」の思想は、言葉そのものは20世紀の初めには生まれていたが、「近代」を経験した人々に受け入れられるようになったのは、20世紀も後半に入ってからである。
その理由は、明らかである。20世紀後半のせいぜい40年間で、地球生態系の姿が、大きく変わったからである。
ある経済学者は、1950年から90年の40年間で、世界人口は2倍になり、国内総生産(GDP)の総和は28倍、1人当りGDPは13倍、貿易輸出高は47倍という数字を挙げている(表1、西川潤『世界経済入門・第2版』岩波新書、1991年、8頁)。
古代ギリシャ語の「オイコス(イエ、家計)」に発する「エコノミー(Economy=経済)」と「エコノミクス(Economics=経済学)」の異常に急速な発展=開発(development)と世界化が、「エコロジー」の思想を誘発した。
「エルゴロジー(Ergology=働態学)」にも、似た事情がある。
もともと自然の一部であり、自然の恵みに頼って生きてきた人間存在が、ある時期から自然に反逆し、手を加え、自然を征服できるかのような傲慢な開発(development)のシステムを創り出した。人間の理性と能力に全幅の信頼をおき、科学技術の発展と工業化に、人類の輝く無限の発展を約束した。
人間の本質は働くことにあるとされ、その労働は労働力商品の消費として、工業化過程に動員された。自然のリズムを離れて、機械や電気や時計に依拠した労働のリズムが、極限まで追求された。
ギリシャ語で、労働や仕事を「エルゴン」という。「エコノミー」「エコノミクス」の全盛時代には、「エルゴノミクス(Ergonomics)」がもてはやされた。日本語では、「人間工学」と訳される。
人類が自然を征服し、自然のリズムとサイクルを超越できるかのような人間能力の極限的抽出が、「エルゴノミクス」の世界では、追究された。
たとえば、ストップウォッチを片手に、工場の作業の標準必要時間を測定し、それをさらに短縮させるために、作業場のレイアウト、ベルトコンベアーの流れ方、作業員の配置の仕方、労働者の規律・訓練のあり方が定められた(テイラー主義、フォード主義)。
トイレにいくための時間の節約や、労働ストレスの解消法、必要カロリー量から消費欲求の刺激の仕方までが、マニュアル化された。
それによって摩滅した肉体と精神には、化学薬品や電気刺激がほどこされて、工業化のリズムに即した心身を、学校教育のなかで育成するシステムがビルトインされた。
睡眠時間も性生活も、目に見えぬ規制で統御され、日本のような国では、極度の緊張とストレス、「過労死(Death from Overwork)」とよばれる生命と身体そのものの摩滅をも常態化した。
「エルゴロジー」は、こうした仕組みと流れへの疑問から、出発する。いわば、諸個人の心身に即してのエコロジー的見直しであり、人体に潜む「自然」の再発見である。
興味深いことに、「エコロジー」も「エルゴロジー」も、その言葉を初めて使ったのは、19世紀後半から20世紀のドイツの著名な生物学者・哲学者、エルンスト・ヘッケルであるとされる。ヘッケルは、人間を取り巻く自然生態系の生理学を「エコロジー」と名付け、人間自身に潜む自然の生理学を「エルゴロジー」とよんだ。その出自からして、エコロジーとエルゴロジーとは、思想的に共鳴しあうのである。
だが、エコロジーとは違って、エルゴロジーの方は、まだよく知られていない。エコロジーの方は、ローマ・クラブ・レポート『成長の限界』(ダイヤモンド社、1972年)などで脚光を浴びて以降、世界に急速に広がり、1992年ブラジルでの国連地球サミットでは、世界中の政府とNGO団体が「持続可能な開発(sustainable development)」を宣言するまでになったが、エルゴロジーの方は、その言葉すら普及していない。
それもそのはず、実は、エルゴロジーの語が社会的有用性を得て、それなりに用いられるようになったのは、ほかならぬ日本においてであった。言葉そのものは、人類学者の長谷部言人により戦後に導入され、「働態」と訳されたが、自然科学者や人類学者・体育学者らにより「生活人類学研究会」が創設されたのが1969年7月、「人類働態学研究会」に改組されたのは70年、英文機関誌『ジャーナル・オブ・ヒューマン・エルゴロジー』刊行が72年、今日の人類働態学会(会員約300人)になったのが86年のことである。
なぜ、エルゴロジー研究が日本で、それも1970年頃にはじまるのか? そこに、エルゴロジーを理解するうえでの、重要なヒントがある。
当時の日本は、世界の中でも群を抜く高度経済成長の末期、公害や環境破壊の問題が噴き出していた。エコロジーの思想は、この日本における公害・環境破壊のすさまじさ、緑と自然を取り戻せという社会運動と結びついて、急速に世界に普及した。
しかも同じ時期に、自然環境・生態系ばかりでなく、身体そのものもむしばまれていた。水俣病・イタイイタイ病・四日市喘息などは、公害による直接的身体破壊であったが、労働災害・職業病・薬品公害なども、当時の日本では、頻発していた。
それを憂慮した自然科学者、労働科学者、保健学などの専門家が、エルゴロジーに注目し、人間身体に潜む自然原則から、労働のあり方を改めて問うことになった。タイピストの頚腕症や運転手の加重労働、交代制勤務の労働者の、労働リズムと睡眠覚醒リズム=人体に潜むサーカディアン・リズム(circadian rhythm=人体時計)の関係に、光があてられた。
つまり、公害や過労死の言葉を生みだした、経済成長国家日本であるからこそ、エルゴロジーは、サバイバルに不可欠な、切実な学問として成立したのである。
日本におけるエルゴロジー研究を中心的に担ってきた一人、香原志勢は、書いている。
私は、この「エコロジー」と「エルゴロジー」の思想に、強く共感する。
ただし、本書では、この視角をやや広げて、社会や国家制度の誕生・生育・変遷・老化・死滅にも、「エルゴロジー」の考え方を応用する。
だから、「これからの世界史(敢えて小文字複数形で、world historiesとしておく)」の一環としての「国民国家のエルゴロジー」とは、西欧近代に発した「国民国家=ネイション・ステイト」の、誕生から老衰にいたる物語(stories)である。
当初のプランでは、フランス革命を典型とした近代国民国家の形成から説き起こして、西欧型国民国家の東洋への広がり、一方での工業化・資本主義化と、他方での人権・民主主義の世界化、労働者階級運動の勃興と国際連帯、社会主義思想と共産主義国家、ナショナリズムの勃興と民族問題、そして、いわゆる「ボーダーレス・エコノミー」「国民国家のたそがれ」「エスニシティ」の問題へと、展開する予定だった。
だが、この主題については、初学者向けではあるが、すでに拙著『社会と国家』(岩波市民大学「人間の歴史を考える」第9巻、1992年)を書き下ろして、アウトラインを提示してある。各国の史資料や歴史的事実で肉づけすることは難しくはないが、「これからの世界史」に必要な、人間味と面白さに欠ける。
そこで、思いきって、執筆プランを組替えた。かの「国際諜報員」リヒアルト・ゾルゲほか、20世紀に近代国民国家を超えようとした人々を、語り部として登場させることにした。国家を超えようとする個々の人間の希望・理想と苦悩・挫折のなかに、「国民国家のエルゴロジー」の存在根拠を見いだすという冒険に、敢えてチャレンジすることにした。
楽屋裏を垣間明かすと、実は、すでに長く予告されていた本シリーズの刊行が始まった頃、私は、これまで歴史から隠されてきたいくつかの資料を、思いがけず入手することになった。20世紀の怪物、ソヴェト社会主義共和国連邦の崩壊によって明るみにでた、いわゆる旧ソ連公文書館秘密資料である。
そこには、これまでの歴史書にはなかった、衝撃的な事実が無数に入っていた。その分析に思わず引き込まれて、最近刊行された拙著『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年5月)という作品を得たが、その過程で、ひとつの新しい歴史観を得た。
それは、「地獄への道は善意で敷き詰められている」という格言に要約される、歴史の思わざる結果の可能性、The Historyの概念そのものに潜む、high-storyやhis-storyへの集約の危険性、low-storiesやher-storiesへの目くばりの必要性である。
旧ソ連公文書館秘密資料には、社会主義や階級闘争・世界革命という、公式の歴史の世界ではほとんど感得できなかった、どろどろした人間の息づかいが、あふれていた。誰が誰を売った、金の貸し借りがどうであった、誰それはどうもスパイではないか、あの女とあの男はどうやらできているといった、人間的な、あまりに人間的な、悲喜劇にあふれていた。
前著『モスクワで粛清された日本人』で展開したのは、主として、元東京大学医学部助教授でドイツ共産党員であった、国崎定洞の粛清過程であったが、当時のコミンテルン幹部会員、片山潜、野坂参三、日本共産党代表山本懸蔵らも、一人の生身の人間として登場した。幸い、同書は過分な反響で迎えられたが、その研究過程の果実と副産物、および、その後の調査と研究の結果を、本書にも、積極的に盛り込んで行くことにした。
本書の第1部では、スターリン粛清とはやや異なる視角から、1937年8月にモスクワで「日本のスパイ」として逮捕され、同年12月に銃殺された日本人国崎定洞らを、再び登場させ、国崎と同様に、医学を志しながら革命家に転じたリヒアルト・ゾルゲらと、対比することにした。
その焦点は、「プロレタリア国際主義」にもとづく国境越えの夢、「ソヴェト社会主義共和国世界連邦」をめざす、コミンテルン型共産党による地球的結合のあり方の問題、そして、そうしたユートピアにはらまれた、歴史的限界の問題である。
第2部では、現実の国民国家と国境の高さを、ソ連型プロレタリア独裁国家の崩壊と、20世紀資本主義の現状を踏まえて理論的に探求し、一方での多国籍企業と、他方での非政府組織(NGO)の活動を例にとりながら、「国民国家=ネイション・ステイト」とはいかなるものか、それはどこに向かおうとしているのかを、読者と共に考えていくことにする。
私たちの生きてきた、20世紀という時代は、近代西欧に発した国民国家の最盛期であった。この世紀の初め、地球上には、ヨーロッパの資本主義列強を中心に20数ヵ国、第1次世界大戦後で約50の国家があったにすぎない。
アフリカで独立国といえるのは、エチオピア、リベリアぐらいで、他地域は、西欧列強の植民地か保護国であった。アジアでは、ほかならぬ日本のみが、欧米の植民地化圧力をはねのけて、アジアの他の地域を踏台にしながら、資本主義化の道をたどっていた。他の国々は、多くは植民地であり、たとえ独立していても、たとえば中国のように、欧米列強の支配と干渉が及んでいた。南米には、スペイン、ポルトガルから独立した多くの国々が存在したが、そこでは大土地所有のもとで、経済発展にゆきづまっていた。
それが、百年後の今日では、国際連合加盟国184ヵ国を数える。
国家の増殖は、国境の意味を変えた。
かつて、国家とは、首都と同じであった。国境とは、文字通りの国家の辺境であり、フロンティア(frontier)であった。
「すべての道はローマに通じる」という諺があった。それは、古代都市国家ローマの繁栄を意味するものであったが、辺境からみれば、権力中枢から離れれば離れるほど、首都の権力作用が弱まり薄まることを意味した。
だから、権力が分散し重層した中世ヨーロッパでは、国境=辺境こそ、民衆にとっての自由な交易と、コミュニケーションの場であった。日本でも、「市」とは、もともと集落と集落の境目の河原や、貴族・武士権力から相対的に自立した、寺社の境内に立てられた。
それが、西欧にはじまる近代国民国家のもとで、国境は、権力を象徴する強固な囲いとなった。国境はボーダー(border)となり、「国民」の行動空間を規制する壁となった。軍事的ボーダーには、「国民」の生命・安全の確保の名目で武器と兵士が配備され、「非国民」「異邦人」「外国人」の侵入を妨げるものとなった。その囲い込まれた空間が、国民経済の市場活動の範囲とされ、他国からの商品には、関税障壁が設けられた。
その空間は、国土=領土(territory)とされ、その内部で生活する人びとには、「国民(nation)」としてのアイデンティティが吹き込まれた。
国語や公用語・共通文字、国歌・国旗・国章、度量衡の単位から通貨・郵便切手まで、時には国家生成神話や宗教までが、国民統1のシンボルとされた。
国民は、ひとつの中央権力のもとに、統合された。国家権力は、地球に棲息するさまざまな人類を、さまざまな国民へと、示差化していった。
学校教育と国民皆兵=徴兵制度は、国民アイデンティティの育成・再生産に、絶大な力を発揮した。国外に出るには、パスポート(旅券)が必要になった。外敵や「スパイ」の侵入を防ぐためにという理由で、20世紀に入ると、ヴィザ(査証)までが制度化された。
国境の垣根は、だんだん高くなった。そのもとで、国家と国家の外交・戦争、国民経済と国民経済の衝突・交易、ある国家による他の国家の支配と従属の網の目が、地球全体をおおっていった。
「国民」内部の少数者=マイノリティは、自分たちの言葉・自分たちの文字・自分たちの歴史を、奪われていった(『季刊 窓』第5号特集「国境とはなにか」1990年、参照)。
国民国家とは、西欧近代に発する、国家による国民生活統合であり、工業化・都市化=資本主義化を基軸としての、国民経済・国民文化の形成運動であった。
国民国家の時代に入っても、国家に反逆する人々がいた。
国境をくぐって国家の規制を逃れる人々は、渡り職人や商人や海賊のかたちで、移民や流民のかたちで、近代国民国家の形成以前は、珍しくはなかった。それは、高い国境がなかった時代の、地球と自然の動きに身を任せつつ交流・移動してきた人類の長いあゆみの、延長上にあった。
近代の開始の前提になったのは、豊かな資源をもつ「東」にあこがれた、「西」の人々の冒険であった。アメリカ大陸「発見」をはじめとした大航海と地理的発見の時代は、同時に、「西」の論理・思考の、地球全体への伝播・布教と結びついていた。それが、同時に、国民国家型地表分割の、始まりでもあった。
1789年のフランス革命が、「国民国家の時代」の到来を告げるものであった。「自由・平等・友愛」の理念と結びついて、「祖国」や「国民軍」の観念が広まった。革命歌「ラ・マルセイエーズ」が国歌となって、「ステイト」と「ネイション」を結びつけていった。
19世紀後半から20世紀に特徴的なのは、国民国家の歴史的形成を前提にして、その枠のなかにあって、意識的に国家を超えようとする人々が現れたことであった。コスモポリタニズム(世界市民主義)、無政府主義や、「万国のプロレタリア、団結せよ!」を掲げる社会主義・共産主義思想が、それである。
社会主義・共産主義思想、とりわけそれを理論的に基礎づけたマルクス主義は、国民国家の原理に対して、階級連帯の原理を対置した。地表を民族的に分割し諸国民を対立させるネイション・ステイトは、実は、ブルジョアジーが国家権力を掌握し支配しているのであり、生産手段の私的所有から生じるブルジョアジーとプロレタリアートとの階級対立が、
資本の世界化に照応して、国民国家を横断して激化する、と見通した。
だから、マルクス主義にとって、「国民国家」とは、2重の意味で欺瞞であった。第1に、「国民」原理で一国内での階級対立を隠ぺいし、ブルジョア独裁としての「国家」の本質をおおい隠すことで、第2に「国民」の概念で、プロレタリアートの階級的国際連帯に、分裂を持ち込むことで。
ネイションとネイションとの紛争は、ブルジョアジーがイデオロギー的につくりだし利用する偽りの対立であり、資本と労働の対立こそ、基軸的社会関係である。プロレタリアートは、どこでも失うべき何ものも持たないから、労働者の国際連帯こそ、国民国家間対立を止揚する原動力である。それが、「平和」にも連なる。
そのためにもまず、ブルジョアジーの国家をプロレタリアートの国家へと転換する革命的変革=「プロレタリアートの独裁」樹立が必要不可欠である、と。
こうした思想から、19世紀後半には、労働組合運動・社会主義政党が、ヨーロッパに生まれてきた。西欧資本主義は、非西欧の帝国主義的植民地化により、国内の階級対立を地球的規模での民族間対立に転嫁しようとした。
それを引き継いだ20世紀は、国家間の戦争と革命の時代であった。その時代の流れに乗って、社会主義・共産主義思想の展開のなかから、ひとつの奇妙な国家が成立した。「ソヴェト社会主義共和国連邦」である。
それは、第1次世界大戦の列強間の対立の間隙をぬって生まれた、新しい国家であった。だがそれは、普通の国民国家ではなかった。階級対立や貧富の差のない平等社会をめざし、生産手段を労働者階級の権力であるソヴェト国家に集中して、資本主義とは異なるかたちでの、生産力発展を担おうとした。
ソヴェト国家の創始者であるレーニンらは、そもそも、ロシアでの革命を、世界革命の一環として位置づけ、その社会のあり方を、世界に広めようとした。人種・民族間の対立を解消し、類としての人間たちの理想郷をもたらす、と約束した。
ソヴェト国家自体が「半国家」であり、世界的規模での階級対立の産物であるから、階級支配の道具である国家は、やがて死滅するものと想定した。
現実には、旧ロシア帝国以外の地域には社会主義制度は広がらず、「1国社会主義建設」を余儀なくされたが、社会主義・共産主義が地球大で広がり、やがて世界的規模で達成されるという理念は、国家宗教となったマルクス・レーニン主義の理論で武装されて、保持され、世界に広められた。
だから、旧ソ連の公式名称である「ソヴェト・社会主義・共和国・連邦」という国名は、地域的特性も、民族的象徴をも排した、4つの普通名詞で構成されていた。
「ソヴェト」とは、評議会型の職能的意志決定のシステムであり、「社会主義」とは、資本主義崩壊後に約束された、所有・生産・分配システムであった。「共和国」とは、民衆の自治により運営される、君主制ではない政治単位であり、「連邦」とは、それらの共和国間の自主的で平等な結合の様式であった。
だから、ロシアに始まり、周辺地域に拡延した、人類史上初の実験は、いつでも他地域から新しい共和国が加わってもいいように、構成された。いわば、世界のあらゆる人々に開かれた、新世界として理念化された。
その象徴が、赤旗にハンマーと鎌で労働者と農民の同盟をかたどったソ連の国旗であり、ウジュヌ・ポティエの詩に、ピエール・ドジェテールが曲をつけた、国歌「インターナショナル」であった(1944年の新国歌制定まで、以後もソ連共産党党歌)。
赤旗は、パリ・コミューンの民衆の旗であり、ポティエはコミューンの闘士であった。「インターナショナル」は、国民国家を謳歌するフランス革命歌「ラ・マルセイエーズ」に代わって、世界の労働者に広がった。ソ連の国歌になった頃には、すでに世界で愛唱されていた。
後に日本でも長く唱われた、「インターナショナル」の紹介・翻訳者の1人は、プロレタリア演劇の演出家で、スターリン粛清期にモスクワで国外追放になる、佐野碩だった。
プロレタリア国際主義は、赤旗と「インターナショナル」で、世界中とつながるかに見えた。「ソヴェト社会主義共和国連邦」は、その原型で、現実態と考えられた。
国家としてのソ連邦を根拠地にして、全世界に社会主義・共産主義を拡延していくための、グローバルな政治組織もつくられた。それが、国際共産党、より正確には、共産主義インターナショナル、略称コミンテルン(Comintern,1919ー43年)という、ユニークな政治組織であった。
第3インターナショナルともいわれるように、コミンテルンは、それまでの第2インターナショナルが崩壊した、と宣言して生まれた。
インターナショナリズム=国際主義は、もともと労働者階級の旗印であった。
すでに、マルクスの時代に、第1インターナショナル(国際労働者協会)がつくられ、イギリス・フランスなどの労働組合に、ヨーロッパ各地の社会主義者・アナーキストのグループが加わり、個人加盟も認められていた。
その英語名は、International Working Men's Associationであったため、百年後には、女性解放を求めるフェミニストたちに告発されるが、1864年の創立から、パリ・コミューン(1871年)敗北の時期まで、マルクス、エンゲルスらの中央評議会(1866年から総評議会)を指導部に、ヨーロッパの社会主義者の国際連帯の基軸となった。
晩年のエンゲルスが指導した第2インターナショナルは、1889年に、フランス革命百周年を記念して結成された。だから、1910年までは、大会閉会時に、各国語で「ラ・マルセイエーズ」を唱ったという(吉田進『ラ・マルセイエーズ物語』中公新書、1994年、207頁)。
第2インターナショナルは、各国社会主義政党・労働組合のゆるやかな連絡・協議機関ではあったが、正式名称も規約ももたず、統1的指導部を欠いていた。また、その加盟組織は、おおむねヨーロッパの労働運動組織に限られており、西欧列強の帝国主義的拡張政策のもとで、植民地・被抑圧民族との連帯をつくれなかった。
大会決議では、国際連帯・反戦平和が、繰り返し唱えられた。しかし、いざ第1次世界大戦が勃発すると、最大の党であるドイツ社会民主党(SPD)帝国議会議員団多数派が、自国政府の戦時公債に賛成して、「社会愛国主義」「民族排外主義」に陥ってしまった。レーニンらロシアのボリシェヴィキにしてみれば、それは「プロレタリア国際主義」に対する敵対、階級的「裏切り」であった。
第2インター自体は、いわゆる社会民主主義の国際連帯として、ドイツ社会民主党、イギリス労働党などを中心に、第1次世界大戦後も再建され、今日の社会主義インターナショナルへと継承されたが、共産主義を唱えるボリシェビキのロシア革命に賛同する流れは、1919年3月、コミンテルン=第3インターナショナルを結成した。
コミンテルンは、自ら「世界政党」と名乗った。ブルジョアジーには市場競争と国家間対立があるが、プロレタリアートの利害は世界で共通で連帯あるのみだからと、世界指令部からの統1的階級闘争をめざした。かのマルクス=エンゲルス『共産党宣言』の末尾、「万国のプロレタリア、団結せよ!」を文字どおりに実践するものと自称した。
世界大会や執行委員会の席では、革命歌でありソ連の国歌である「インターナショナル」が、世界のさまざまな地域の、さまざまな言葉で歌われた。
コミンテルンは、帝国主義本国の労働者階級と、植民地被抑圧民族の民族解放闘争を結合しての、世界革命を最終目標とした。無論、それは、第2インターナショナルの「裏切り」が、「社会愛国主義」「社会排外主義」によるもので、強固な中央集権的指導部が欠如していたためだ、と総括されたからであった。
コミンテルンは、1919年の創立当初は、モスクワに滞在するさまざまな民族の社会主義・共産主義者グループの集合体にすぎなかった。しかし、革命に勝利したロシア共産党(ボリシェヴキ)の他に、ドイツ共産党やフランス共産党、チェコスロヴァキア共産党などが創立されることにより、世界の資本家・支配者たちから恐れられる国際組織となった。1943年の解散まで、世界各地に共産党を創設し、マルクス・レーニン主義の思想と理論を、世界に広めた。
コミンテルンは、第2インターナショナルとは異なり、非ヨーロッパ地域にも、民族解放・独立運動と結びついて、影響力をもった。それらの運動体は、各国共産党と名乗ったが、モスクワに本部を持つコミンテルン=世界共産党の1支部であった。厳格な綱領と規約を持ち、民主集中制という「鉄の規律」による統一行動を、義務づけられた。
日本共産党は、コミンテルン日本支部として、1921年に設立されたと、モスクワで報じられた。ただし、今日の日本共産党は、1922年7月に創立大会を開き、コミンテルン加盟を決定したとしている。
コミンテルンは、1920年代初めには、社会主義をめざす各国の労働者、知識人、青年たちの、あこがれのまととなった。
レーニン率いるロシア・ソヴェト国家は、世界革命へと広がりはしなかったものの、帝国主義列強の包囲のもとでもちこたえた。それが「労働者の祖国」「社会主義の現実」として存在することが、世界史の方向を大きく変えたかに見えた。
世界のあらゆる地域から、ソ連の社会主義、ユートピアの現実態を一目見ようと、多数の人々が参集してきた。
1928年のコミンテルン世界綱領には、現存する労働者国家、世界革命の根拠地であるソ連を空間的に地球大へと拡大していく、「ソヴェト・社会主義・共和国・世界連邦=プロレタリアートの世界独裁」の構想が、書き込まれた。「ラ・マルセイエーズ」を脱して、文字通りの「インターナショナル」を実現しようというのである。
そのユートピアに魅かれて、旧来の国籍を捨てて、プロレタリア独裁国家ソ連に移住ないし亡命し、世界革命の実現のために、階級国家ソ連に献身する人びとがいた。
後の対日諜報員リヒアルト・ゾルゲも、その1人であった。
ゾルゲは、1895年、ドイツ人の石油技師の父とロシア人の母とのあいだで、ロシア帝国の油田地帯バクー近郊に生まれた。3歳でドイツに移住し、1919年、ドイツ11月革命の余韻のなかで、ドイツ共産党(KPD)に入党した。
ゾルゲは、獄中手記によると、第1次大戦中に1度は医学を志し、ベルリン大学医学部に籍をおいたという(『現代史資料第1巻、ゾルゲ事件T』みすず書房、1962年、216頁以下)。やがて、社会科学に転じて、ハンブルグ大学で政治学博士の学位をとり、1922年からは、フランクフルト大学社会科学研究所で講師を勤めた。後にアドルノ、ホルクハイマー、ハーバーマスらを輩出する、いわゆるフランクフルト学派の創世期の1員だった。その頃、ルカーチ、コルシュ、ヴィットフォーゲル、福本和夫らと共に写った、1枚の写真が残されている(NHK取材班『国際スパイ・ゾルゲの真実』角川書店、1992年、41頁、石堂清倫『中野重治と社会主義』勁草書房、1991年、22頁)。
ゾルゲは、1924年9月、フランクフルトでのドイツ共産党第9回秘密大会の裏方を勤めたさい、モスクワからやってきたコミンテルンの最高幹部、マヌイルスキー、ピアトニツキー、クーシネンらの接待係をつとめた。マヌイルスキーらは、ゾルゲの理論的・政治的才能に目をつけ、モスクワでコミンテルン勤務員になるように勧めた。ゾルゲにソヴェト市民権を与え、ドイツ共産党からソ連共産党へと転籍させた。
コミンテルンは「世界共産党」で、一応各国支部=各国共産党のピラミッド型連合組織のかたちをとってはいたが、すでに政権の座にあるソ連共産党だけは、やはり別格だった。コミンテルン勤務員のなかにも、ソ連共産党の細胞があって、そこに所属することが、コミンテルン内での立身出世を意味した。ゾルゲは、その出世コースに乗った。
ゾルゲは、モスクワで、コミンテルン情報部に勤めながら、「レプス」と呼ばれる国際連絡・諜報員となった。1931年、ゾルゲは、コミンテルンからソ連赤軍第4本部に党籍を移して、中国に派遣された。33年秋に来日し、41年末に日本の警察につかまるまで、優秀なドイツ人ジャーナリスト、ナチス党員として、在日ドイツ大使館に出入りし、オットー大使の顧問格を勤める一方、尾崎秀実・宮城與徳らを通じて、日本のトップ情報を収集し、ソ連のための諜報活動を行った。
リヒアルト・ゾルゲについては、日本語でも外国語でも、多くの書物が書かれている。本書がここで注目するのは、ゾルゲらの諜報活動を支えた信念のなかにはらまれていた、ある種のインターナショナリズム、国民国家を超えようとするユートピアである。
まずは、彼らの夢と現実から、出発してみよう。
1991年1月に亡くなった、戦後日本文学を代表する作家の一人、井上靖の小説「テペのある街にて」(『文学界』1966年1月号初出、『井上靖小説全集』第18巻、新潮社、1974年、所収)は、次のように書き出されている。
――これは、本書『国民国家のエルゴロジー』第4章で詳述した日本人粛清犠牲者「須藤政尾」についての、戦後日本で初めての、貴重な活字記録であった。
作家井上靖は、1965年5ー6月、それまで日本人の立入りが許されなかったソ連の中央アジア地方、西トルキスタンへの旅に出た。その旅が、『西域物語』『おろしや国酔夢譚』など井上のすぐれた紀行小説・歴史小説をうみだしたことは、よく知られている。
井上靖ら7人の日本人一行が、「スドウ・ミノル」と名乗る不思議な青年と出会ったのは、トルクメン共和国の首都アシュハバードでのことである。井上靖は、紀行文にも書き残している。
――これが、須藤政尾の遺児スドー・ミノル=ミハイルにとっての、初めての日本人との出会いであった。帰国した井上靖ら一行は、この不思議な出会いを、日本の新聞やテレビでも述べたが、「スドウ・マサオ」という名前だけでは、あまりに漠然としていた。
小説では、スドウ・マサオの経歴を、「1903年の生れで、左翼運動に関係していたが、1926年(大正15年)に官憲に追われて、樺太の国境を越えて、ソ連領に逃亡した。樺太北部の石油の町オハに暫く居たが、やがてシベリアに移って鉱山関係の仕事をしていた」と、ほぼ正確に伝えていた。ただしミノルは、この時父の粛清については語らず偽ったために、小説には「父親正雄の死は1935年、享年32歳だった。病気は結核で、亡くなった場所はバクー」と記された。
なによりも、当時のミノルには、KGB秘密ファイルも、日本側官憲資料もなかった。まだ存命中だった母マリヤ=政尾の妻の記憶のみをもとに、父政尾の出身地を「東京のタカシマ」と述べた。井上靖らは、「横浜に高島町というのがあったが、或はそこのことではなかろうか」と推測した。肝心の名前も、「偽名であったかも知れない」と書かれた。だから、「四国徳島」出身の父を持つ北海道生まれの政尾の兄弟姉妹にも、シルクロードの旅から井上靖が持ち帰った1965年の貴重な情報は、伝わらなかった。
母マリヤは、ミノルの家を訪れた井上靖一行に、自分の知る唯一の日本語である「オトコノ子」の一語を発したのみで、自分のラーゲリ生活10年については何も語らず、ミノルと井上らの話には同席しなかった。粛清やラーゲリ体験を外国人に話すことは、当時のソ連では、再度のラーゲル送りにつながりかねなかった。だが、日本の文学者の鋭い眼は、その一瞬の出会いからも、「65歳だということで、顔は年齢相応に老けていたが、身体付きは農家の老婆のように頑丈であった」とマリヤの歩んだ苦難の道を見抜いていた。
井上靖によれば、スドウ・マサオについて、ただひとつ、当時も情報が寄せられたとのことである。小説「テペのある街にて」の末尾に、昭和3・4年頃、樺太のオハで須藤と会ったという人の電話があったことが、記されている。
井上は、その後も「スドー」のことを気にかけてきたらしい。9年後の1974年6月16日付『毎日新聞』に執筆した「わが一期一会、砂漠の町アシュハバード」という文章では、
ミノルは、実はその翌1975年に、アシュハバードからモスクワに出て学位をとり、父の粛清記録公開をソ連当局に要求する、孤独なたたかいを始めた。1976年に、証人である母マリヤは没したが、89年には、ついにソ連検察局からKGB資料を入手した。モスクワ在住の日本人ジャーナリストに働きかけて、1990年に『読売新聞』『北海道新聞』、92年にはフジテレビ、村岡信明教授との出会いを介して『徳島新聞』『赤旗』にも、父の捜索を報道してもらった。1994年6月に、私と村岡教授がミノルと日本の須藤家を結びつけた、その経緯については、本文で詳しく述べた。94年の『毎日新聞』『北海道新聞』報道を介して、ついに日本の肉親をみつけ、父の生涯のおおまかな歩みを知ることができた。
その須藤ミノル=ミハイル・マサオヴィッチ・スドー氏が、初めて日本の土を踏んだのは、1994年9月5日のことである(『朝日新聞』9月5日夕刊、『毎日新聞』9月6日、参照)。
ミノルは、来日にあたって、一遍の手記を用意してきた。その手記のなかに、「わたしの生涯における日本人との最初の出会い」として「有名な作家の井上靖氏、彼の息子のシュウイチと彼らの同行者」の話、「しかしその時、私は自分の父に関する真実は彼に語らないことにしていた」話がでてきた。
井上修一氏は、1965年当時はまだ学生で、父のシルクロード探訪の旅に同行した。長く一橋大学での私の同僚であり、最近筑波大学に移った独文学者である。私は、井上教授に、半信半疑で「スドー・ミノル」について問い合わせた。井上教授は、当時のことをよく覚えていた。そればかりか、ミノルを主人公にした父靖氏の小説・エッセイのあることを、教えてくれた。ミノルは来日に当たって、作家井上靖に書いてもらった色紙を持ってきた。こうして、須藤ミノルと井上修一氏の、30年ぶりでの会見も実現された。
須藤政尾の越境と、その遺児ミノルの数奇な生涯を日本に紹介し、最初に解明しようとしたのは、私でも村岡教授でもなく、作家井上靖であった。
須藤ミノル=ミハイルが初めて父の祖国に着いた日、私も、夏休みに4度の国境越えを体験し、日本に帰国した。日本・イギリス・ドイツ・イギリス・日本という旅だった。とはいっても、現代の国境は、ほとんど意識されなかった。全日空でヨーロッパに入ったら、成田からロンドンへの機内も、ほとんど日本社会の延長であった。
ロンドン・ヒースルー空港でのチェックは、十年前のエセックス大学留学のさいは渡航目的の説明で面倒だったが、観光目的にした今回は、ごく簡単だった。EC(ヨーロッパ共同体)からEU(ヨーロッパ連合)へと発展した域内でのイギリス・ドイツ・イギリスの往来は、ほとんどフリーパスだった。無論、そこには、「経済大国」日本のパスポートの恩恵があるのだが。
出国直前に、難行苦行した本書の原稿を平凡社に手渡し、猛暑の日本を逃れてヨーロッパへの旅に出たのは、2つの目的を持ってのことだった。ひとつは、8月下旬のベルリンでの第16回世界政治学会での報告であり、もうひとつは、同じくベルリンで、本書でも紹介した日本人粛清犠牲者、元東京大学医学部助教授国崎定洞の遺児、タツコ・レートリヒさんと会うことであった。
3年に1度の今回の世界政治学会のメイン・テーマは、「民主化(Democratization)」であった。私は、今回は国家論の分科会ではなく、「経済民主主義」の分科会で報告することになっていた。ロブ・スティーヴンとの共編著『日本型経営はポスト・フォード主義か?』(和英両文、窓社、1993年)の延長で、「ジャパニーズ・カローシの政治経済学(The Political Economy of Japanese KAROSHI)」という報告を準備したからである。
その内容は、拙稿「過労死とサービス残業の政治経済学」(平田清明他『現代市民社会と企業国家』御茶の水書房、1994年、所収)と同「過労死と過労児のエルゴロジー」(中内敏夫他『企業社会と偏差値』藤原書店、1994年、所収)をミックス・圧縮して英文にし、「過労死(Karoshi)」と「エルゴロジー(Ergology)」の2つのキーワードを、世界の政治学者に紹介するためのものだった。
予想通りとはいえ、「過労死」は大いに反響をよんだが、「エルゴロジー」の方は、なかなかわかってもらえなかった。
というのは、同じセッションの報告者が、1人はポーランドの経済改革について、もう1人がアルゼンチンの権威主義的開発についてで、私の報告は、「第一世界の経済民主化」をテーマにするものと位置づけられた。司会はノルウェーの、コメントはアメリカの政治学者で、時間の限られた共通討論では、「過労死」は同じ土俵に乗ったが、「エルゴロジー」の方は、スムーズな市場経済移行をめざす旧第2世界、効率的経済発展をめざす第三世界との接点が、見いだしにくいアイディアであった。だから、「この報告は日本モデルを中立化する事実のファンタースティックな検証が行われている」という評者のコメントに満足し、ひきさがるしかなかった。「エルゴロジー」は、おそらく本書が初めて日本語書物のタイトルとした、日本でも未成熟な概念・思想なのであるから。
国崎定洞遺児タツコさんとの再会は、前著『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)にも記したように、「憂欝な旅」でもあった(72頁)。つまり、旧ソ連共産党文書館秘密資料の出現によって、1937年8月の国崎定洞逮捕・粛清の直接的原因が、ドイツ共産党内の問題ではなく、当時のモスクワ日本共産党指導者山本懸蔵の密告にあったことを、タツコさんに説明するためのものだった。
しかし、その「憂欝」は、タツコさん自身が吹き飛ばしてくれた。ケルンから特急列車でベルリンに入ったのだが、ツォー駅のプラットフォームまで迎えにきてくれた。ジャパニーズ・レストランに誘い、片山潜・野坂参三・山本懸蔵らの疑心暗鬼と国崎定洞との複雑な関係について私が説明を始めると、「そういう時代だったのですよ、当時のモスクワは。これは、何のテンプラ?」と話をさえぎる。
考えてみれば、9歳で父と引き裂かれた彼女にとって、日本共産党指導部のだれが父を「売った」かなどは、どうでもいいことなのかも知れない。国崎定洞が片山潜の招きでベルリンからモスクワに亡命し、日本共産党と関わったこと自体のなかに、すでに父の不幸は胚胎していた。そして、歴史の真実が解明されても、父が帰ってくるわけではない。むしろ、10月5日に迫った国崎定洞の生誕百年の誕生日に、どんな料理をつくって霊前にささげるかのほうが、父とのおぼらなつながりを確認する、大問題なのだ。私は、苦労して独訳したモスクワ日本人社会の粛清連鎖図の説明を、中途で放棄した。
それからは、学会の日程の合間をぬって、タツコさんの好きな演劇の話や、息子トーマスや孫の話の、聞き役に徹した。別れ際に、美しい日本のカレンダーを送ってもらったという川上武医師への、ドイツ・ワインを託された。私は、それを郵送せずに、イギリス旅行中も持ち歩き、日本までしっかり送り届けることにした。彼女の言葉にならない想いが、途中で蒸発しないように。
タツコさんにとって、旧ソ連共産党秘密文書「国崎定洞ファイル」発見の最大の収穫は、父が1932年・35年にドイツ語で書いた手書きの履歴書と、「大日本帝国外国旅券第057368号」といかめしい、国崎定洞が最後まで所持していたパスポートがみつかったことだった。当時の日本のパスポートには、日本語・英語・フランス語のページがあり、なによりも、明るく微笑む若々しい父の写真が入っていた。
国崎定洞のパスポートの日本語ページには、こうある。
思わず、自分の持つ現代日本のパスポートと、くらべてみる。
――両者は、似ているようでもあり、違っているようでもある。
はっきりわかる共通性は、その表紙である。戦前の大日本帝国外国旅券も、戦後の日本国旅券も、まんなかに菊の紋章が入っている。「日本国および国民統合の象徴」として。天皇制が見えてくる。
国崎定洞のパスポートの「官命ニ依リ独国ヘ『労農露国及波蘭経由』」の部分は、手書きである。大日本帝国外務省にとってのソ連の公式国名は、「労農露国」だったらしい。この渡航目的の特定は、現在のパスポートにはない。渡航先欄は、別ページになっている。私の大判の赤いパスポートの場合は、「北朝鮮を除くすべての国」である。同行した息子の手帳大の青いパスポートには、この限定もない。
だが、この部分を抜きにすると、2つのパスポートからは、意外と戦前と戦後の継続性が見えてくる。つまり、「官」の優位であり、国境を絶対的に管轄する国民国家の存在、国籍を持つ国民としての個人の被規定性である。
そして、本書が主題にしたものは、まさにこの日本という国家と国境の意味、それを越えることの困難と新しい可能性の問題であった。
外国を旅行していて困るのは、無論、言葉の問題である。意思疎通が十分にできない、言いたいことを全部表現できないので、どうしてもストレスがたまる。日本語を話したくなり、日本人同士で話すとホッとする。もうひとつは、食べ物である。衣食住の内、衣類やベッド生活は、どうにでもなる。しかし食べ物の方は、胃腸が受けつけない時がある。水に注意し、ミネラル・ウォーターを常備しているだけでは、だんだん物足りなくなる。アジアの味を求めて中華街に行く、馬鹿高い値段を承知でジャパニーズ・レストランに飛び込む、といった海外旅行体験を、だれでもが持つだろう。言葉と食事こそ究極の「文化」ではないか、エスニシティの基底にあるのではないか、というのが、今回の旅の非論理的直観だった。
だがこれは、本書で展開したエコロジーとエルゴロジーの視点からすれば、しごく当然のことである。エコロジーの方から見れば、人類は、生まれながらにして自然の一部であり、他の自然との共存・生態系関係のなかで、ひとつの類を成す。だが、個々の人間の方からエルゴロジカルに考えると、その生まれ育った歴史的自然=社会のあり方は、身体化する。働き方、休み方にもそれは表現されるが、その人間的自然は、何よりも、人間と人間の交感とコミュニケーションのあり方、生命を保持する新陳代謝のあり方と身体機制に現れるのではないか?
そんなアイディアをいつか理論化しようと考えながら、ロンドンの中華街ソーホーを歩いていると、数年御無沙汰していた学界の大先輩や、地方に転勤したゼミナールの教え子夫妻に、ばったり出会った。どうやら今年の夏は、暑さと円高で、日本人は海外への民族大移動らしい。「ネイション=民族・国民」はパスポート付きで国境を越えたが、言葉と食事にまつわるエスニシティは、ロンドン観光の日本人を、ピカデリーからソーホーの中華街や日本レストランの方にひきつけるらしい。エルゴロジーからすると、合点がいく。
過労死研究のなかで、「過労死」という言葉をうみだした国立公衆衛生院上畑鉄之丞医師の過労死発症の理論モデルに出会ったが(上畑『過労死の研究』日本プランニングセンター、1993年、25頁)、これを「55年体制の制度疲労」や「職業政治家のストレス」など、社会科学の方法になんとか活かせないものだろうかというのが、私のエルゴロジー研究の現段階である。
本書の執筆の過程で、同僚である親友の1人が、過労死予備軍から本隊に入りかけ、入院する事件があった。彼は、幸い快方に向かっているが、無理はできない。しばらくは、あの精力的な仕事が見られなくなる。
本書は、「これからの世界史」シリーズの1環であるが、その研究会仲間だった二人の先輩を、本書執筆過程で失った。廣松渉さんと、森安達也さんである。お二人とも、本シリーズの執筆が、最期の書き下ろしとなった。
廣松さんとは、本シリーズの母胎となった研究会に呼ばれて、初めて親しく接した。私がアメリカ留学から帰った後だから、1988年であろうか。平田清明・伊藤誠・いいだももに廣松渉という取り合わせの妙に魅かれて、年少者の特権で勝手なことを話させていただいた。活字で知るヘーゲル・マルクス哲学の大家が、平田さんの明治維新と薩摩の話と同様に、意外に日本と日本人にこだわっているのが、新鮮な印象だった。
その後もいろいろな場で顔を合わせ、2人で酒場で議論する機会もあった。政治的には融和できない私の説にも、真剣に耳を傾けてくれた。ロシア革命の評価は最後まで分かれたが、私の『社会主義と組織原理』(窓社、1989年)の共産主義者同盟の記述については、細かい事実誤認まで、いちいち丁寧に指摘してもらった。例の独特の漢語が達筆で書かれた、巻紙風の手紙で。『存在と意味』の第3巻を、ぜひ読みたかった。アジアと日本の意味について、もう一度突っ込んだ議論をしたかった。
森安さんとも、本シリーズ研究会で知り合った。律儀でおとなしい人であったが、いったん放った言葉には重みがあった。その古今東西の歴史の博識には、脱帽した。熱弁ではなかったが、説得力があった。その言葉が活字になる時には、一語に百語が込められているかのように、思索が凝集されていた。絶筆となった本シリーズの1冊、名著『神々の力と非力』への打ち込み様は、尋常ではなかった。病床で原稿を仕上げられ、再びお合いした時には、1瞬別人かと見間違えた。病気で痩せてしまわれたばかりでなく、その眼光の鋭さに、鬼気迫るものがあった。一書の完成に込められた、生命力の執念を教えられた。一語一語を大切にする人で、研究者の責任を考えさせられた。私のヨーロッパ旅行の出発直後に亡くなられたため、帰国まで訃報を知らなかった。合掌。
本書は、全体として書き下ろしであるが、第2部第7章についてのみ、『1橋論叢』第105巻2号に発表した「多国籍企業と国民国家・序説」(1991年)という論文を、ベースにしている。もともと日本政治学会1990年度研究大会の報告「日本型多国籍企業の国家像」の一部である。ただし大幅に加筆し、資料は最新のものに改めてある。
第1部の歴史的記述にあたっては、多くの方々から証言・資料提供など、さまざまな援助をえた。全部の名前はあげきれないが、敬称略・順不同で最小限のお名前を挙げれば、藤井1行、小林峻一、加藤昭、熱田充克、秋山勉、渡部富哉、村岡信明、タツコ・レートリヒ、ミハイル・マサオヴィッチ・スドー、寺島儀蔵、川上武、石堂清倫、稲田明子、勝野素子、山根和子・弥生子、山本正美・菊枝、今井清一、宮西直輝、宝木武則、中野徹三、豊下楢彦、森武麿、羽場くみ子、高屋定國、田中真人、小川光雄・明美、須藤チヨ、都沢行雄、大島幹雄、井上修一らの諸氏のご協力に、多くを負っている。記して感謝する。また、多くのジャーナリストの方々に、有形無形の協力を得た。ただし、内容についての全責任は、言うまでもなく私1人にある。
ヨーロッパ旅行の帰途、ロンドン滞在中に、シェフィールド大学で行われた現代日本政治研究のセミナーに顔を出した。イギリスの日本政治研究者を中心とした2日間のラウンド・テーブルで、日本からは、私のほか、高橋進東京大学教授、新藤宗幸立教大学教授が出席し、高橋教授が興味深い問題提起をした。私は、政治学者でありながら、旧ソ連秘密資料に出会った昨年来、現代日本政治分析からは、意識的に遠ざかってきた。「55年体制の崩壊」も「政治改革」や政党再編も、観客として眺めてきた。それそろ現実政治に戻ろうかと参加したこのセミナーは、旧知の友人も多く、リラックスできた。
そのセミナーのコーヒーブレークの雑談で、日本研究をはじめたばかりの1人のイギリス人の大学院生から、日本国憲法について、質問を受けた。自分は英語で日本国憲法を読んだ、あんな素晴らしい憲法がありながら、なぜ日本では、社会党(英語ではSocial Democratic Partyという)までが、自衛隊容認・実質的改憲に向かうのか、と。
しばらく考えて、私は、こう聞き返した。民主政治の基礎は、国家制度だろうか、社会関係・運動だろうか、私たちには憲法第9条がある、君たちにはEND(反核運動)やグリーン・ピース(環境運動)、ナショナル・トラスト(浜辺の保護運動)がある、いったいどちらが、現実に平和を構築するのだろうか、と。本書で論じてきた主題を、ちょっと現実政治に応用してみた。ただし、その回答は、敢えて未決にしておいた。
「ラ・マルセイエーズ」から「インターナショナル」へ、『共産党宣言』から『民衆の地球宣言』へ、「インターナショナル」から「地球憲章・前文」へ――本書で展開したもうひとつの道筋が、21世紀の主人公である若い人々に、よりよく生きる希望をもたらよう願っている。