ネチズン・カレッジ情報収集センター
「旧ソ 連日本人粛清犠牲者・候補者一覧」の2015.9.15更新版
新たに見つかった旧ソ連粛清犠牲者「ニシデ・キンサク」「オンドー・モサブロー」「トミカワ・ケイゾー」「前島武夫」「ダテ・ユーサク」について、情報をお寄せ下さい!
2013.4.18 久方ぶりの「尋ね人」改訂です。今、早稲田大学演劇博物館では、1937年にソ連からスターリン粛清で国外追放になり日本に帰ることなく「メキシコ演劇の父」となった『佐野碩と世界演劇—日本・ロシア・メキシコ “芸術は民衆のものだ”—』展が開かれています。先日、「アメ亡組」の一人で1942年に強制収容所内で死亡した健物貞一の孫姉妹が、祖父の墓参がてら来日して、サクラと共に佐野碩展を見ていきました。そこに、モスクワから、新たな日本人犠牲者判明の報道です。4月18日の産経新聞モスクワ支局の調査報道で、私も協力して、以下の記事が配信されました。このうち「前島武夫」は以前から本サイトで「逮捕後行方不明」としてリストに挙げていましたが、銃殺死で処刑日が判明しました。他の4人は、まったくノーマークだった地方での粛清です。記事の画像はこちら。きっと日本にご親族がおられるでしょう。何か手がかりがありましたら、 katote@ff.iij4u.or.jp まで情報をお寄せください。
<スターリン大粛清、新たに日本人4人の銃殺判明、犠牲者26人に 欠席裁判 スパイ容疑…格好の標的>
2013.4.18 08:02【モスクワ=遠藤良介】旧ソ連の独裁者、スターリンによる1930年代後半の「大粛清」で、当時のソ連に滞在していた日本人4人が銃殺刑に処せられていたことが、ロシアの人権擁護団体「メモリアル」のとりまとめた資料から新たに判明した。専門家によると、大粛清での犠牲が確認された日本人はこれで26人となった。共産主義に共感してソ連入りした日本人がスパイ容疑をでっち上げられ、虐殺の嵐に巻き込まれた構図が資料から改めて浮かび上がった。
メモリアルはこのほど、スターリンが直接、粛清を裁可した約4万3500人の名簿を各種の公文書や地方の記録を基に作成。この中から日本人10人に関する情報を抽出し、産経新聞に提供した。大粛清の日本人犠牲者について調査している加藤哲郎・一橋大名誉教授によると、これにより日本人4人が銃殺され、1人が収容所内で死亡していたことが新たに確認された。
犠牲者5人が居住していたのは、モスクワに加えて西シベリアのノボシビルスクや極東のアムール州、ハバロフスク、ウラジオストク。加藤氏は「地方に居住し、地方で処刑された人の情報が出てきたことは貴重だ」と話す。
共産体制の分派を苛烈に弾圧したスターリンの粛清は37〜38年に頂点を迎える。37年7月、各地の内務人民委員部(NKVD)にはあらゆる「反ソ分子」を粛清するノルマが課され、対象は一気に拡大した。メモリアルでは、37〜38年に銃殺された約70万人のうち9割が「欠席裁判」で判決を下されたと指摘している。今回、銃殺が判明した日本人4人のうち3人は「判決」と同日に刑が執行されていたことが資料で確認された。
加藤氏によれば、当時のソ連には、大使館の把握していた新聞記者や商社員を別にして約100人の日本人がいたとみられている。(1)野坂参三氏ら日本共産党指導者(2)亡命した国崎定洞・元東大助教授ら知識人(3)北海道や樺太からの政治亡命者(4)極東ウラジオストクなどに入港して住み着いた漁民・船員といった人々だった。知識人や政治亡命者は共産主義を奉じていたほか、漁民・船員や労働者も多かれ少なかれソ連を「労働者の天国」と考えていた可能性が高い。「日本人は『仮想敵国のスパイ』として格好の標的とされた。ソ連当局は1人を『人民の敵』として捕まえると、拷問によってその友人の名を割り出し、次々と『スパイ』に仕立てていった」加藤氏はこう語り、「約100人の日本人のうち、全く“無傷”で生還できたのは野坂参三氏くらいであり、残りは銃殺や強制収容所送り、獄中死、国外追放といった道をたどったと考えられる」と指摘する。
日本人の粛清をめぐっては、女優の岡田嘉子さんと樺太から越境し、銃殺された演出家、杉本良吉氏のケースなどがよく知られる。ただ、戦後のシベリア抑留と違って国の調査は行われておらず、現在でも推定50人以上の消息が不明だ。
◇大粛清での犠牲が新たに判明したのは次の方々(4月18日産経新聞報道の略歴ではなく「メモリアル」リストの原簿のより詳しいもの)
▽ニシデ・キンサク 1896年生まれ/ハバロフスク居住/商店主/1937年7月6日/刑法58−1a、2、8、9、11/1938年4月7日判決/1938年4月7日銃殺(ハバロフスク)/1993年10月7日名誉回復
▽オンドー・モサブロー 1898年生まれ/カヌム(市)出身/アムール州居住/理髪師/1937年7月26日逮捕/刑法58−1a、2、8、11/1938年4月7日判決/1938年4月7日銃殺(ハバロフスク)/極東管区軍検察により名誉回復
▽トミカワ・ケイゾー (この人物はトミカワ・ケイゾーである) 生年不明/千葉県出身/政治亡命者/極東国立大学の日本語教師/1937年逮捕/1938年4月7日銃殺
▽前島武夫 カンジョ(ブダエフ・ノルバ/マヤ(エ?)シマ・タケオ/ツルオカ)1910年生まれ/共産党員候補/モスクワ居住/民族・植民地問題に関する学術研究協会の学生/1937年6月8日逮捕/スパイ・テロ活動/1937年11月28日判決/1937年11月28日銃殺(モスクワ)/1991年12月名誉回復
▽ダテ・ユーサク 1881年生まれ/長崎出身/ノボシビルスク居住/鉱山機械工場の警備人/1937年8月3日逮捕/罪状 日本の諜報と反ソ扇動への関与(刑法58−2、58−6の1、58−8、58−11)/1938年6月4日判決(自由剥奪25年)/1939年11月19日死亡(服役地にて)/1971年10月15日名誉回復/ノボシビルスクの追悼記録より
10月に公刊した、本サイト「国際歴史探偵」の成果を駆使した「在独日本人反帝グループ」についての集大成、加藤『ワイマール期ベルリンの日本人ーー洋行知識人の反帝ネットワーク』(岩波書店)について、ウェブ上では、ACADEMIC RESOURCE GUIDEさん、千葉海浜日記さん、クマのデラシネ日記さん、京都グラムシ工房さん、学問空間さん、芹沢光治良文学愛好会さんらがコメントしています。活字の世界でも、『読売新聞』11月16日に 佐藤卓巳さんの、『週刊朝日』12月5日に鎌田慧さんの、『日本経済新聞』12月14日に池田浩士さんの、共同通信配信で『高知新聞』11月16日、『神戸新聞』『山形新聞』『宮崎日日新聞』『熊本日日新聞』『山陰中央新報』11月23日、『新潟日報』『愛媛新聞』11月30日などに川上武さんの、書評が出ています。雑誌では『季刊 唯物論研究』第106号(2008年11月)に松田博さんの長文書評が、『改革者』12月号に短文紹介が、掲載されています。5000円の高価な本で、なかなか書店では見かけないでしょうが、岩波書店ホームページの目次・序章をpdfでたち読みできる専用ページから、またはアマゾンなどを通して、ご注文いただければ幸いです。この危機の時代を迎えて、80年前のドイツで世界大恐慌・大量失業・国内対立激化からヒトラー政権成立を目撃した当時の在独日本人知識人・文化人の生き方の中から、何かを汲み取って頂けるでしょう。
野沢房二については、これまでも講演会などで何回か報告してきたし、拙文「ゾルゲ事件覚え書」にも収録してきました。2006年11月5日、尾崎・ゾルゲ墓参会の折り記念講演を頼まれ、表記の報告をおこない、のち参会者からの要請で報告集を20部ほど作成し、希望者に配布しました。 今回、野沢房二の生誕百年の節目にも当たるので、さらに大幅に改訂を行い、ようやく初稿を書き上げ研究者各位に発送することにしました。それは次の理由によるものです。
野沢房二の「遺稿」の発掘によって、これまでのゾルゲ事件研究があまりにも特高資料によりかかり、必然的に知らずのうちに特高史観を伝搬する結果となってきたのは残念ながら事実です。なかでも川合貞吉著『ある革命家の回想』や『ゾルゲ事件獄中記』または彼の供述調書や論文は、野沢房二の「遺稿」の出現によって再検討を迫られることになったと言えます。
川合貞吉は、特高の筋書にそって供述し、彼の著作は供述調書の釈明のために書かれたもので、真実は全くなかった。1936年の新京領事館警察の検挙、「満州国際諜報団事件」でゾルゲのことを黙秘したことが川合の勲章となっているが、これも小説であって、検挙されたことは真実だが、その検挙は1930年12月の東亜同文書院の学園闘争による検挙洩れの検挙で、「諜報団事件」などは小説であって、虚構のものでした。
何よりの証拠に、川合が云うところの「記事解禁」なるものは国会図書館をくまなく調べてもなかった。ゴードン・プランゲも川合に踊らされて解禁の月日まで書いた。しかし、本当に解禁された記事を彼が確認したのなら、作家(歴史家)であるならばその記事から具体的な情景を読者に伝えたいと思うのが常ではなかろうか。しかしそれは何もない。調べていなかったのだ。彼の供述によって、船越寿雄、河村好雄が獄死し、野沢房二までが彼の供述によって検挙された。これらの人物は冤罪であった。 河村好雄と同級生だった中西功が彼の鎮魂歌を書くことを予告しながら、政治活動の多忙さのために、ついに書き切れずに物故してしまった。とすると残された者が果たさなければならないだろう。
37件の関東軍の機密資料が王学文を通じて中共に流れ、20数名の者が検挙されるという大事件にもかかわらず、副島隆起一人だけが7カ月の実刑であとは釈放されるなどということは、戦前の社会運動史にはあり得ない。憲兵隊の資料が敵国に流出したのなら当然この事件は憲兵隊の扱う事件の筈ではないか。管理責任者は当然処罰が免れない筈ではないか。──
船越寿雄(懲役10年)は、ゾルゲ事件と関係がなかった。冤罪です。ゾルゲグループの一員にしてしまったのも、川合の供述でした。因みに彼は、他のゾルゲ事件被告に被せられた国防保安法違反は起訴段階までで、判決文には治安維持法違反だけで懲役10年を科せられた。スパイ行為はなかったとされたのです。
いま河村好雄、船越寿雄たちの無念を晴らすために、精力的に調査をしていますが、なにしろ資料がほとんどみあたらないのが実情です。手さぐりながら懸命な努力をしています。2章「ある革命家の虚像と実像」が裏付け調査で難航しています。
この「野沢房二の孤高の闘い」をご覧になった方に調査の協力をお願いしたいと思って、初稿にもかかわらず、製本してお届けした次第です。
次のことを調べています。心当たりの方はご一報頂ければ感謝します。
日高為雄 (上海週報社記者)
坂巻 隆 東亜同文書院細胞員、戦後日本共産党長野県委員、追悼集が出た筈。
手島博俊 (この人物は東亜同文書院の卒業生と思われる。西里竜夫、中西功らを中共党組織に_いだ人物で、中共諜報団事件記録によると、「死亡」とだけでてきます。獄死したと思われます。実兄がいたようです。
副島隆起 懲役7カ月の後どうなったのかは不明。
河村好雄 満州日新聞上海支局長となった。東野大八『風流人間横町』(川柳雑誌、昭和35年11月)掲載の「上海の言葉」を中村稔氏から送って頂きました。彼は1935年に大連芸術座の演劇活動に参加しており、藤川夏子著『私の歩いた道』(はぐるま座発行)に一行だけ名前が出てきます。昨年、「満鉄会会報」に大連芸術座」の記事が特集されておりました。編者から貴重なてがかりになる資料を紹介されました。息子さんがいる筈です。健在なら75歳前後か。
大形孝平はゾルゲ事件関連で検挙されたか、事件の回想があるかご存じの方。
新庄憲光 中共諜報団事件で獄死している。東亜同文書院卒業。
坂田寛三 詩人 この人物は上海時代に野沢房二の勧誘でゾルゲ諜報団に加担したと船越寿雄の判決文に出てくる。ネットで索引したところ「世界詩人」集団の記録があるが、船越や野沢が検挙されたのだから当然、坂田も検挙された筈だが、その後のゾルゲ事件関係記録には全く登場しない。事件当時すでに死去していた可能性もある。船越の冤罪の立証に欠かせない人物。
船越寿雄については丸山昇著「ある中国特派員」によって問題提起されているものの、その後の研究はない。船越寿雄の娘さんの所在。丸山昇さんに野沢房二の記録を読んでもらおうと思ったが既に死去されたあとでした。丸山昇著には娘さんにインタビューしたことがでている。知りたいことは名前が順であるか、潤か、川合は名付け親で順と名づけたと書いているがこれは嘘の筈。確認したい。船越寿雄は冤罪だったことを伝えたい。
菅沼不二夫(同盟通信社にいた)中西功に尾崎秀実が検挙されたことを記事解禁まえの41年12月にいち早く知らせた人物。 ゾルゲ事件で取り調べられたかどうか。
田中慎次郎は42年3月24日釈放という記録がありますが、確認したい。本人の回想などないでしょうか。朝日新聞社の「新聞と戦争」欄にとりあげられる筈です。
これらの人々について何か情報をもっていないか、何か調査の方法(手がかりになるもの)がないか。どんな些細なことでもご教示願いたくお願いのために[初稿]ながら発送させて頂きました。押しかけ女房で恐縮ながらお願いします。
渡部富哉 メール watabe38@parkcity.ne.jp
加 藤 哲 郎
〒185-0003 東京都国分寺市戸倉2ー16ー41
電話(042)327ー9261 ファクス(042)327ー9262
Dr.Tetsuro Kato
勤務先 一橋大学社会学研究科 Hitotsubashi University
〒186-8601 東京都国立市中2ー1
電話・ファクス(042)580ー8276(ダイヤルイン )