2006夏90万ヒット記念開始、2007年新年加筆

 

日独同盟に風穴をあけた日本人<崎村茂樹>探索

 

崎村茂樹の6つの謎について、情報をお寄せ下さい!

 


2007.1.1   新年にあたって、以下に掲げた昨年夏から半年間の「崎村茂樹」探索の成果と問題点を整理し、残された謎について、読者の皆さんのご協力を仰ぎます。もともとこの調査は、ベルリン日独センターからの問い合わせによって始めたものでした。戦後西ドイツの映画評論で活躍したユダヤ系ドイツ人女性ジャーナリストKarena Niehoffの資料に第二次世界大戦中の在独日本人「サキムラ・シゲキ」の名が出てくるが、これは何ものか? という問い合わせでした。この問い合わせを受けた、私を含む日独関係史の研究者数人で、ドイツの日独センターとネットワークを組み、「崎村茂樹」の足跡を調べてきました。東大経済学部講師、戦時中は在独日本大使館嘱託として鉄鋼統制会ベルリン支部で鉄鋼産業分析に従事、1943−44年にいったんスウェーデンに「亡命」し連合軍側と接触、しかしベルリンに連れ戻され45年5月のベルリン陥落までドイツ滞在、といったところまでは、インターネットの日瑞関係のページや出版物検索でわかりました。大きな転機になったのは、2006年8月末のご遺族発見と「崎村茂樹年譜」の提供を受けたことでした。ご遺族自身、1955年中国から帰国後、拓殖大学、東京理科大学教授を勤めた「崎村茂樹」の、1941−55年外国滞在期のことを、詳しく知らなかったのです。

 謎1 若き崎村茂樹は、リベラル左派か親ナチ右派だったのか? 

1909年に生まれ、1932年東京大学農学部農業経済学科卒、経済学部荒木光太郎教授の助手、上智大学講師、中国農村調査から、1941年2月に東大休職・外務省嘱託のかたちでドイツに渡るまでの、崎村茂樹の政治的思想的立場が、必ずしもはっきりしません。1928−32年の東大農業経済学の学生時代が、戦前日本マルクス主義の全盛時代でしたから、その影響を受けたことは、想像に難くありません。中国での農村土地調査を踏まえた、学問的処女作となる崎村茂樹, 京野正樹, 神谷慶治「農村人口移動の階級性とその社會經濟的諸要因 」(『農業經濟研究 』第13 巻第4號)には、明らかにマルクス主義の影響が見られ、共著者は、戦後の東大農学部マルクス経済学の流れをつくる人々です。上智大学に非常勤講師として招き、崎村にドイツ語を教えたという上智大学のヨハネス・クラウス神父は、『カトリック大事典』編集者として三木清、戸坂潤、古在由重清水幾太郎らの戦時中の学問研究を助け、丸山真男のドイツ語の先生としても知られる、反ナチスのカトリック・リベラル派とされています。崎村茂樹のドイツ留学にあたってのドイツ人人脈は、クラウス神父の紹介だったろう、とご遺族はいいます。こちらからは、マルクス主義の影響も受け、リベラルな思想を持ち、反ナチの崎村茂樹像がでてきます。ところが、崎村茂樹を農学部から経済学部助手に登用した恩師荒木光太郎教授は、その経歴を見ると、山田盛太郎らマルクス主義経済学者の治安維持法違反による辞職で農学部から経済学部に移り、自由主義者河合栄治郎とも袂を分かって、平賀粛学後も生き残り、戦時東大経済学部のファッショ化を担った一人です。竹内洋『大学という病』立花隆『天皇と東大』でも右派の金融論・貨幣論学者として登場し、戦後は東大から追われるいわくつきの経済学者です。崎村茂樹も、師のこの系譜で、ハイエクやナチス経済学の紹介にたずさわっています。崎村茂樹のドイツ派遣自体、1938−39年日独交換教授としてドイツの日本研究所代表をつとめた荒木光太郎の推薦なしには、考えられませんし、あるOSS資料には、崎村茂樹がドイツ到着後親しかったのは、親ナチ日本浪漫派の芳賀壇(まゆみ、高田里恵子『文学部をめぐる病』参照)だったとあります。事実、1941年4月9日、芳賀壇と崎村茂樹が、ナチに影響を与えた地政学者カール・ハウスホーファーを訪問した記録もあります。同じ頃、1941年3月の第3回日独学徒会議に「崎村茂樹(経済学者)」と一緒に参加した桑木務の回想では、崎村は「満州国建設と五族共和」という報告をしたそうです(『大戦下の欧州留学生活 : ある日独交換学生の回想』)。これらは、むしろ親ナチ右派の崎村茂樹イメージです。また、1942年からベルリンで一緒に住む鉄鋼統制会ベルリン事務所の島村哲夫との関係では、どちらかといえば政治的にはノンポリで、鉄鋼経済の技術的アナリストとなる崎村茂樹像も浮かんできます。

 謎2 崎村茂樹はなぜスウェーデンに「亡命」したのか? 

崎村茂樹が、1943年暮れか44年1月から44年5月か6月までの約半年間、在独日本大使館スウェーデンに滞在したことは間違いありません。それを報じたのは、『ニューヨーク・タイムズ』1944年5月1日付けの「日本人が大使館から脱走」というニューヨーク・タイムズ・戦時ストックホルム特派員George Axelsson記者による署名インタビュー記事と、英語版『タイム』誌1944年6月5日号の「抵抗の方法」という無署名記事でした。戦時アメリカ報道でこれだけ大きく取り上げられた事件について、戦後の研究がほとんど取り上げていないのも不思議ですが、大きな謎は、その動機です。『ニューヨーク・タイムズ』で「初めて連合軍に加わろうとした日本人」「枢軸国の敗北を初めて公言した日本人」などと報道され、戦時米国戦略情報局(OSS)の1944年6月1日6月3日9月の資料もそれを裏付けていますから、連合国を逆スパイするための「偽装亡命」とか『タイム』誌記事がセンセーショナルに描く女性問題ではなかったでしょう。この頃までにドイツ語で書かれた崎村茂樹の論文『 "Neuordnung der japanischen Wirtschaft"(日本経済の新編成)』(1942)及びフランツ・モクラウアー(Franz Mockrauer、1889-1962)文書中の「ナチス・ドイツにおける青年の職業教育」(1944年頃?)からは、極端な親ナチではなく、どちらかといえばナチスに批判的な視点は感じられますが、マルクス主義的とか親ソ連とかではありません。ドイツでは陸軍の大島浩大使と犬猿の仲だった海軍駐在武官小島秀雄や朝日新聞の笠信太郎と親しく、一緒に住んでいた日本鉄鋼統制会ベルリン支部の島村哲夫とも独日伊枢軸が英米ソ連合国に勝てないだろうということは日常的に話し合っていたそうですが、それは在独日本大使館内でも、ナチ狂信派の大島清大使、内田藤雄らを除けば、在独日本人の中でひそかに話し合われていたことだといいます。大使館嘱託の崎村茂樹が、帰国後の東大経済学部教授のポストを棒に振ってまで「亡命」し公言する理由としては、やや弱いです。当時のベルリン海軍武官事務所が、陸軍とは対立し、日独同盟の立役者でありながらナチスに追われたフリードリヒ・ハックと親しい小島秀雄や酒井直衛を擁していたとはいえ、43年前半の時点で崎村茂樹をストックホルムに亡命させ連合国側(アレン・ダレスを長とするOSS欧州総局)との和平工作のため崎村を派遣したとするのは、これまで出てきた資料からは無理があります。

 謎3 崎村茂樹「亡命」は連合軍との「和平工作」を意味するか? 

1945年に入ってから顕在化する、(1)「バッケ工作」=東京での駐日スウェーン公使バッケと朝日新聞鈴木文志朗のルート、(2)「小野寺工作」=ストックホルム陸軍武官小野寺信少将とスウェーデン王室プリンス・カール、(3)「藤村工作」=OSSエリック・エリクソンのルート、スイス・ベルンでの海軍武官藤村義朗中佐、朝日新聞笠信太郎らとフリードリヒ・ハックを介したOSS欧州局長ダレスのルート、(4)「ヤコブソン工作」=それとは別個のチューリヒでの陸軍武官岡本清福、国際決済銀行理事北村孝治郎、吉村侃らと国際決済銀行ヤコブソンを介したダレスへのルート、(5)「バチカン工作」=バチカンでの富沢孝彦神父を介した原田健公使、金山政英書記官とOSSマーチン・キグリーのルート、等々のいわゆる「終戦和平工作」に、崎村茂樹が関わった、もしくは崎村亡命事件が影を落とした形跡はありません。むしろ時期的には、1944年7月20日のドイツ国内での反ヒトラー派によるヒトラー暗殺未遂事件(ヴァルキューレ作戦)に近かったことが、気になります。ヒトラー暗殺未遂事件は、ドイツ国防軍、外務省、財界、ベルリン大学教授、社会民主主義者を含む幅広い反ヒトラー・グループを背景に持ち多くの研究がありますが、日本人の関わりは出てきません。しかし在独日本人と関わる人物も、何人かいた。ベルリン大学「水曜会」グループで1936−37年日独交換教授で来日したエドゥワルド・シュプランガー教授は、荒木教授やクラウス神父と共に日本滞在時代から知り合っていた可能性がある。また、地政学のハウスホーファー教授の息子アルブレヒト・ハウスホーファーも1937年にリッペンドロップ外相事務所の仕事で来日し、戦争中に父とも対立してヒトラー暗殺事件に加わり検挙・処刑される。ドイツ国防軍諜報部Abwehrのカナリス将軍は、ヨーロッパの日本軍情報将校たちのほとんどがつながっていたが、OSS欧州総局長アレン・ダレスとも連絡を取りつつ、ヒトラー暗殺未遂の黒幕となった。崎村茂樹は島村哲夫と共に鉄鋼統制会の仕事をしていたが、そのドイツ側窓口のクルップ社など財界(シャハト)やシュペアーのドイツ軍需省にも、反ヒトラー派は伏在していた。もしも崎村茂樹のストックホルムへの脱走が組織的なものであったとすれば、それは、日本の海軍や外務省の反ナチ派よりも、ドイツの国防軍、軍需省、鉄鋼産業、知日派知識人らとのつながりであった可能性がある。ストックホルムで崎村茂樹が頼ったのが、反ナチ・ドイツ人知識人亡命を援助してきたストックホルム経済大学のトルステン・ゴルトルンド教授であり、当時ストックホルムで海外ドイツ社会民主党員の反ファッショ組織化にあたっていたフランツ・モクラウアー教授と連絡した形跡があることも、それを傍証する。ただし、崎村の「亡命」が組織的なものであったことを示す資料はなく、全くの個人的行動であった場合、その動機は依然不透明になります。当時ヨーロッパから日本に帰国するルートは、空も海も陸もすでに閉ざされていました。

 謎4 いったん「亡命」した崎村茂樹はなぜベルリンに戻り、ドイツ敗戦をいかに迎えたか 

 1944年5月1日のニューヨーク・タイムズに出た記事を、55年中国から帰国後の崎村茂樹は「記者にだまされた」と言っていたそうです。日瑞関係のページによると、「英国の新聞(ロンドン・タイムズ?)」にも転載記事が載った可能性はありますが、ポルトガルの陸軍武官室(三島美幸?)は、1944年5月2日にベルリンの武官室に打電し崎村のストックホルム「脱走」を知りました。「大島駐独大使は、ドイツの秘密警察に対し、崎村のベルリンへの連れ戻しを依頼した。早速効果が現れた」。5月24日に、今度はスエーデンの駐在陸軍武官(小野寺信?)が、ポルトガルに向けて「崎村とゲシュタポと(日本)外務省の間で合意に達した。崎村の過去は問わず、再び鉄鋼統制官に戻ることとなった。5月23日にベルリンに戻った」と打電したという。『ニューヨークタイムズ』でこれだけ大きき取り上げられながら、「過去は問わず」で元職に復帰させるという日本側の措置も解せないが、「亡命」=国籍喪失まで決意した崎村茂樹が、なぜベルリンに戻ることになったのでしょうか。その理由と思われるものは、早稲田大学山本武利教授から提供を受けた、OSSの「小野寺信ファイル」中にありました。戦時OSSの在欧日本人分析には、このほかにも柿村茂樹についての詳しい記述1944年6月1日6月3日9月といくつかあるのですが、「小野寺信」ファイル中の「スウェーデンにおける日本人の諜報活動」という1945年1月30日付けの文書中 には、下記画像のようにあります。解読すると、「崎村茂樹(博士) 日本国籍、1904年[実は1909年]10月17日生まれ。住所:Korsbarsvagen 6, Stockholm, Sweden. ベルリン日本大使館経済部雇員。1944年1月スウェーデンに脱走し、政治的亡命者になろうとした。彼がおとなしくしなければ友人・親族が消されるだろうとベルリンに戻ることを説得され、徳永太郎と佐藤彰三が同行して、1944年6月ベルリンへ戻る。連合軍に身を委ねることを拒否した」と。脱走・復帰月がこれまでの資料と異なりますが、「おとなしくしなければ友人・親族が消される」と脅かされてベルリンに連れ戻されたことは事実でしょう。『タイム』誌1944年6月5日号は、ベルリンに戻った後の記事と思われますが、25人のベルリンの友人が人質がとられ、10人が崎村説得に派遣されたとセンセーショナルに書かれています。しかし、山本教授提供のOSS資料の「徳永太郎と佐藤彰三が同行」が鍵だと思われます。

 外務省の「徳永太郎」については、日瑞関係のページに、夫人からの聞き取りにもとづく詳しい記録があります。笠信太郎と親しいリベラルな若い外交官(戦後チェコスロヴァキア大使)で、ナチスに同調しないため大島大使に疎まれ、当時在独日本人の世話をする領事館の仕事をしていたといいます。崎村の監督責任はあったでしょうが、脅迫して連れ戻す役回りには、あまりふさわしくありません。もう一人の佐藤彰三が、おそらくこの問題の責任者でしょう。インターネットで検索すると、神奈川県特高課長、群馬県警察部長で忠君愛国の著書を数冊出し、ベルリンの内務公館に派遣された警察官僚でした。そこで友人や家族を消すと脅されて、崎村はやむなくベルリンに戻ったようです。ところがその後懲罰を受けたり監禁された形跡がありません。そればかりか、ここで名を挙げられた徳永太郎も佐藤彰三も、大島浩大使も小島秀雄武官も、崎村と同居し一緒に鉄鋼統制会を動かした島村哲夫や大原久之も、外交官・ジャーナリストや学生として事件を知っていたはずの新関欽哉邦正美江尻進笠信太郎、桑野務、篠原正瑛、千足高保らの回想でも、いっさい崎村事件は出てきません。もちろんストックホルムの小野寺信関係の他の記録にも、ポルトガル大使館等の外務省外交文書にも、「崎村事件」は出てきません。1955年崎村茂樹の帰国後も同様で、ご遺族にもスウェーデン亡命についてはほとんど語らず、ご子息が島村哲夫や小島秀雄と会って聞いた際も教えてくれなかったそうです。1944年5月か6月にベルリンに戻ったあと、45年5月ベルリン陥落までの1年間、崎村茂樹と大島浩大使や佐藤彰三内務公館長との関係はどうなってたのか、親友島村哲夫や親しかった小島秀雄との関係は修復したのか、あるいは陸軍の大島に憎まれたが海軍の小島がかばったのか、皆目わかりません。更に『タイム』誌記事は6月5日で、崎村茂樹がベルリンに戻った後、連合軍のノルマンディ上陸直前でした。崎村はどう反応したのか、7月20日のヒトラー暗殺未遂事件をどう受けとめたのか、等々謎だらけです。

 謎5 1945年5月ドイツ敗戦で、崎村茂樹はなぜ日本に戻らず中国に向かったのか? 

 1945年4月30日のヒトラー自殺でドイツは無条件降伏し、在欧日本人はまとめてベルリンに集められ、日本にとっての中立国ソ連経由シベリア鉄道で満州国に入り日本に帰国することになった。ところが外務省外交史料館の在独日本人引揚関係文書「によると、「マールスドルフに避難していた邦人182名は5月18日、ソ連軍命令で急遽Berlinに出発、同夜はリヒテンベルグ停車場付近の民家に宿泊したが、「崎村茂樹は(マ)出発の際におりたるも出発の瞬間に姿を闇ましたるもののごとく、Berlinにて点呼の際に不在なる事を発見せり」とあります。つまり、ドイツが敗北して日本の降伏もほぼ間違いなく予測できるようになって、そのことを1年以上も前に『ニューヨーク・タイムズ『タイム』で予見したことを誇って良いはずの崎村茂樹が、ソ連の占領下で日本人がまとめて帰国できることになったその時に、突然ベルリンから消えて行方不明になるのです。確かに日本はまだ戦争を続けていますから、帰国すれば前年のスウェーデン亡命という「売国」行為が罰せられるという懼れはあったでしょう。しかしそれは1年前に「亡命」して英字紙のインタビューまでうけベルリンに連れ戻された時点でも、ある程度予測できていたことでしょう。突然の行方不明を、日本で帰国を待ちわびたご家族は、在欧日本人一行が帰国するまで知りませんでした。左翼的経歴からソ連に入ったのだろうという噂もあったようです。ところが「年譜」によると、45年9月には中国に入っています。ドイツ敗戦から日本のポツダム宣言受諾までの時期、一人の日本人知識人が誰の案内もなしでベルリンから中国に入ることは、果たして可能だったのでしょうか。それは、帰国後の弾圧を懼れた突発的逃亡だったのでしょうか、それとも何らかの計画的行動だったのでしょうか。そのさい崎村が頼ったのは、ベルリンを占領したソ連軍だったのでしょうか、クラウス神父以来のバチカン人脈でしょうか、それともストックホルムで接触したことのある英米軍ないしOSSなど情報機関だったのでしょうか。その後の10年間を考えると、米国情報機関(OSS→CIA)だった可能性が強いのですが、そうしたことは、1955年日本帰国後も、崎村茂樹は一切明かしませんでした。

 謎6 1945年9月以降、崎村茂樹はなぜ中国に入り、何をしていたのか?  

 ご遺族作成の「年譜」によれば、崎村茂樹は、1945年9月には中国国民政府蒋介石政権下の中国紅十字会日本人引き揚げに重要な役割を果たした)長春分会、46年6月から在長春アメリカ領事館翻訳員になります。48年には北京に移ってアメリカ領事館の翻訳員で、49年9月の共産党毛沢東の新中国発足にあたって蒋介石国民党と共にアメリカ領事館は台湾に移りますが、崎村はなぜかそのまま北京に留まります。しかも50年8月、毛沢東暗殺未遂事件に連座した廉で逮捕され、55年釈放まで新中国で監禁生活を受けたようです。55年4月日本に帰国するまで、崎村は都合十年、中国に滞在したことになります。ここも謎だらけです。まずは当初の国民党政権、ついでアメリカ領事館長春・北京の仕事。かつて農村調査をして中国語もできたので経済学者としての情報分析・翻訳にあたったのは事実でしょうが、それは公式のアメリカ領事館勤務員としての仕事だったのでしょうか。それならなぜ日本の留守宅に連絡しなかったのでしょうか。ご家族が崎村茂樹の中国での生存を確認するのは、毛沢東暗殺未遂事件の1年後、1951年8月に事件が新華社電、北京放送で報じられ、51年8月21日の毎日新聞で崎村茂樹が関係者として報じられた時です。ベルリン時代の親友島村哲夫(戦後は八幡製鉄で常務)だけはベルリン逃亡時から中国に入ると聞いていたらしく、戦後にご家族に中国で生きているのではと伝えたとのことですが、ご家族がそれを確認できたのは、毎日新聞記事に「崎村某」が山口隆一以下毛沢東暗殺事件の実行犯のグループとして報じられた後のようです。それも崎村の名が出るのは1951年8月21日の毎日新聞記事におけるそれも「草野文男」という後に矢部貞治学長のもとで1956年から拓殖大学で崎村茂樹の同僚となる「中国通」の談話中で「崎村某(元アメリカ総領事館嘱託で昨年8月逮捕)」もグループとしてつかまったのではないか、と出てくるだけです。しかもこの毎日新聞記事は、すぐに占領軍GHQに検閲されて、「崎村某」についての説明は、後の版では消えています。崎村家に長く保存されていたのは、この簡約版の方でした。当時の英文『タイム』誌1951年5月27日「Old Hands, Beware!」という記事、朝日新聞、日経新聞等の報道では、日本人名は死刑になる山口隆一以外の名はでてきません。中国政府は、1950年国慶節を狙った毛沢東暗殺事件を、アメリカのCIA=OSSの後継機関が計画し、当時の在中日本人、イタリア人、ドイツ人のバチカン人脈、カトリック教会を隠れ蓑にした共産中国転覆陰謀として2人を死刑、5人を懲役刑に付し、その裁判記録(判決文)も今では公表されていますが、その7人に崎村茂樹は含まれていませんし、被告7人との接点もみつかっていません。

そればかりか、日本にはCIA=OSSの機関員と自称する中島辰次郎という馬賊出身の情報員がいて、彼と旧陸軍華北特務機関の日高富明の日高機関が、台湾に移ったCIA=OSS工作機関と共同で立案したのが毛沢東暗殺計画で、北京でつかまった7人はそれぞれ全貌を知らない手足にすぎなかったという告白を、書物にしています。ただしそこにも崎村茂樹の名はありません(『馬賊一代 下 謀略流転記』番町書房、1976年)。中島辰次郎は1970年に松川事件の真犯人だと名乗り出て国会でも問題になったこともあり、その証言の信憑性は疑ってかからなければなりません。しかし「毛沢東暗殺計画」についての叙述は具体的で、何らかの重要な役割を果たしたことは間違いなさそうです。アメリカ情報機関と中国国民党情報機関の間には、第二次大戦期から協力関係があり、米中合作社や国際問題研究所等の名前を使って、1945年以降の内戦・革命期も反共産党陰謀を続けたことは、冷戦の文脈から理解できますが、そのワシントン及び東京とのつながりは錯綜していて、例えば戦時中のアメリカ中国派の外交官らは、冷戦開始期にマッカーシズムにより排除されます。また日本占領のGHQマッカーサーはアジアでのOSS=CIAの活動を好まず、G2のウィロビーを使った謀略を朝鮮戦争時まで続けています。中島辰次郎は、自分と日高機関の日高富明は、ワシントン指令のOSSと東京G2キャノン機関の双方に関わったといい、かつてのOSS欧州総局長アレン・ダレスはCIA長官に就任しますが、その部下でスイスではベルンの「藤村工作」を担当したポール・ブルムは、戦後東京でCIA東京支局を設立し初代支局長になったといいます(春名幹男『秘密のファイル』)。崎村茂樹が本当に毛沢東暗殺未遂事件に関わったのか、それとも毛沢東暗殺未遂事件そのものが中国共産党側のでっち上げであったのか、この事件についての学術的研究はありません。ただし、崎村茂樹の帰国後に彼の生活の面倒を見たのは八幡製鉄の島村哲夫で、56年には矢部貞治学長下の拓殖大学経済学部教授になり、すでにヨハネス・クラウス神父は46年に亡くなっていましたが、おそらくその弟子小林珍雄の助けで、上智大学の講師にもなります。奇妙なことに、51年8月毎日新聞で崎村茂樹を毛沢東暗殺未遂事件の関係者として名指しした草野文男は、崎村と同時に、1956年から拓殖大学経済学部教授になります。

 1955年帰国後の崎村茂樹

 1955年4月、崎村茂樹は、ドイツに留学してから15年ぶりで日本に帰国し、家族と再会しました。後にドイツに留学されるご子息は、物心ついてから思春期をずっと父の不在の家ですごし、それも、ドイツではなく中国から帰ってきた父と再会します。以後の経歴については、そのご子息が、父が亡くなった後の遺品と、帰国後の家庭生活で断片的に見聞きしてきた話をもとにまとめた「崎村茂樹年譜」をご参照下さい。拓殖大学から東京理科大学に移った1964年版(右)から、亡くなる直前の1982年版(左)まで、交詢社版『日本紳士録』に、以下の経歴を寄せていました。ドイツ体験も中国体験も記載されておらず、また日記や自伝のかたちで書き残すこともありませんでした。崎村茂樹自身ばかりか、生涯の親友で帰国後の生活再建をも助けた八幡製鉄の島村哲夫も、1944年の崎村事件を直接扱ったはずの小島秀雄、徳永太郎、佐藤彰三らも、まるで箝口令がしかれたように、崎村茂樹のドイツ、中国時代に触れることはありませんでした。ご遺族自身が、亡父の過去の真実について、正面から取り組もうとしています。皆さんからの情報提供をお待ちします。

 



<崎村茂樹>についてご存じの方は、情報をお寄せ下さい!

2006.7.20  本日、本サイトは、90万アクセスを記録しました。本サイトの得意な「国際歴史探偵」の世界で、先日、第二次世界大戦末期ドイツに在住した日本人で、スウェーデンで連合軍との終戦工作にもある役割を果たした「崎村茂樹」という人物について、グーグルで検索したら、「ベルリン日本人会と欧州戦争」という重厚な研究を収めた「日瑞関係のページ」という素晴らしい現代史サイトに出会いました。会社員の方が足で史資料を集めた日独瑞関係史研究が収められており、本カレッジの学術論文データベースの精神にぴったりです。まだまだ宝物は見つかるでしょう。「崎村茂樹」については、これから本格的に探索を始めます。何かご存じの方はkatote@ff.iij4u.or.jp 宛てご一報を! 


2006.7.30  先の90万ヒット御礼の臨時更新のさい、「崎村茂樹」についての情報提供を求めたところ、早速ハワイの読者の方から連絡がありました。かつて『タイム』誌1944年6月5日号で記事になったことがある、というもの。早速調べるとその通りで、「国際歴史探偵」におけるインターネットの威力を、改めて納得。もともと「健物貞一」のご遺族も、本サイトでよびかけ、アランさんと65年ぶりで結びついたもので、今回のロシアへの旅にとっては、格別の感慨です。日瑞関係のページによって、これまでの「崎村茂樹」情報を改めてまとめると、第二次世界大戦中、元東京帝国大学農学部講師でベルリンにおいて鉄鋼の研究をしていた崎村茂樹は、中立国スエーデンで自ら連合国側と接触した。英国の新聞に毎日目を通していたポルトガルの陸軍武官室は、1944年5月2日、ベルリンの武官室に打電した。「英国紙によるとドイツの鉄鋼統制官崎村は、ストックホルムで敵に走った。関係する書類に対して、早急で徹底した対応をとられたし。」ナチスに近い大島駐独大使は、ドイツの秘密警察に対し、崎村のベルリンへの連れ戻しを依頼した。早速効果が現れた。5月24日、今度はスエーデンの駐在陸軍武官がポルトガルに向け「崎村とゲシュタポと(日本)外務省の間で合意に達した。崎村の過去は問わず、再び鉄鋼統制官に戻ることとなった。5月23日にベルリンに戻った。崎村の性格からしてそちらからもかれを励ます手紙を書くことは良い考えでしょう」と書き送った、とのこと。

 経済学者としての崎村茂樹は、東大『経済学論集』第8巻4号(1938年4月)に、フリッツ・ノイマルク『經濟政策の新しきイデオロギー』の紹介を書いたり、自由主義者ハイエクに早くから注目し、「ハイエ−クの景気理論と利子説――最近の新学説(1)(2)(3)」( 『 ダイヤモンド』VoL.25No.11,1937-4-11日号、Vol.25No.12,1937-4-21日号)を書いていました。「農村人口移動の階級性とその社會經濟的諸要因 : 福井縣下農村調査中間報告 / 崎村茂樹, 京野正樹, 神谷慶治著 『農業經濟研究 』第13 巻第4號 (1937.12)という論文もあるようです。今回寄せられた読者からの情報、英語版『タイム』誌1944年6月5日号に 「Foreign News Way of a Rebel Monday, Jun 5, 1944  Shigeki Sakimura was one of the submerged, and now forgotten, intellectuals of Japan. As a student he explored the social sciences, brooded over his country's oligarchic economy, dallied with Marxism. At 30, the hardworking, high-strung scholar became a full professor. Two years later, in 1941, his Government sent him to Berlin as Embassy attach, to study German heavy industry. Slight, bespectacled Professor Sakimura poked around the Reich, peered critically into factories pumping out iron, steel, light metals, chemicals and other vitals of war. 」とあり、マルクス主義の洗礼を受けたというのは、おそらく本当でしょう。「崎村茂樹」については、ドイツ語Franz Mockrauer(1889-1962)文書の中に、1944年頃の「ナチス・ドイツにおける青年の職業教育」という7頁の手稿があるようです。しかし、崎村の戦後についての情報が皆目ありません。何かご存じの方は、 katote@ff.iij4u.or.jp にぜひご一報を。

 


2006.8.15 1943-44年期のドイツ留学中に連合軍と連絡を取っていたという日本人経済学者「崎村茂樹」については、前回紹介した英語版『タイム』誌1944年6月5日号記事を入手し、ある程度分かってきましたが、まだまだ情報が足りません。第二次世界大戦中ベルリンにおいて鉄鋼統制会の仕事をしていた崎村茂樹は、『タイム』誌によると、(1)崎村茂樹は30歳で東大講師になるほどの優秀且つ努力家のマルクス主義系の経済学者だった、(2)ドイツの重要産業をくまなく調査しているうちに、ドイツ経済はナチスが言うほど、また、日本が信じているほど強くない事を信ずるようになった、(3)オランダ人女性と結婚、結婚生活は幸福であったが、妻を親元に帰し、自分は1943年にスエーデンに亡命、スエーデン学者亡命基金より援助を受けて生活していた。これを英紙がすっぱ抜いた。英国の新聞に毎日目を通していたポルトガルの陸軍武官室は、1944年5月2日、ベルリンの武官室に打電した。「英国紙によるとドイツの鉄鋼統制官崎村は、ストックホルムで敵に走った」。(4)ナチスに近い大島駐独大使は、ドイツの秘密警察に対し、崎村のベルリンへの連れ戻しを依頼した。ドイツ政府は、1944年に彼の友人25人を人質として抑留、ストックホルムには10名の友人を送り帰国するよう説得させた。また、妻にも圧力をかけ、日本人の役人4名がストックホルムに出かけ彼を拘束、1944年5月23日にベルリンに連れ戻した。戦後はモスクワ経由で日本に帰国し、東大農学部に戻ったらしい。著作としては、東大『経済学論集』第8巻4号(1938年4月)にフリッツ・ノイマルク『經濟政策の新しきイデオロギー』の紹介を書いたり、自由主義者ハイエクに早くから注目して「ハイエ−クの景気理論と利子説――最近の新学説(1)(2)(3)」( 『 ダイヤモンド』VoL.25No.11,1937-4-11日号、Vol.25No.12,1937-4-21日号)を書き、 崎村茂樹, 京野正樹, 神谷慶治著 「農村人口移動の階級性とその社會經濟的諸要因 : 福井縣下農村調査中間報告 (『農業經濟研究 』第13 巻第4號 、1937.12)、「北支農村経済の諸問題」(国際経済学会編『北支経済開発の根本問題』刀江書院、1938)、「北満における小作形態の考察」(近藤康男他編『佐藤寛治博士還暦記念農業経済学論集』日本評論社、1940)、等の論文、ヨハネス・ラウレス・崎村茂樹訳『スコラ学派の貨幣論』(有斐閣、1937)という訳書もあるようです。1940-44年の在独時代については、桑木努『大戦下の欧州留学生活』(中公新書、1981)の66頁に、1941年3月の第3回日独学徒会議に「崎村茂樹(経済学者)」と一緒に参加したという記述があり、崎村は「満州国建設と五族共和」という報告をしたようです。ただし同書の43-45年期には崎村はでてきません。そして、現在国会図書館データベースに出てくるのは、フリードリッヒス・ゴーセンス著・崎村茂樹訳『アメリカにおける利潤分配の実際、西ドイツの訪米視察団報告書』(日本生産性本部、1957)のみ。1945-56年期と1957年以降のことがよくわかりません。1956年4月から1962年3月まで拓殖大学に勤務したらしく、『拓殖大学論集』に、「通貨交換性と貿易自由化」(12号、1956/12)、「経営パートナーシャフトについて」(15号、1957/12)、「特許ライセンス研究序説、アメリカの反トラスト法との関連において」(25号、1960/10)を書いています。何かご存じの方は、 katote@ff.iij4u.or.jp にぜひご一報を。


「崎村茂樹」のご遺族と連絡がつきました!

2006.8.22 本HPの新しい成果。この3週間よびかけてきた「崎村茂樹」情報、読者からのメールを手がかりに、ついに関係者と連絡がつきました。元東大助手・講師崎村茂樹は、1909年生まれで、戦後は拓殖大学教授・東京理科大学教授を勤め、1982年に亡くなっていました。手がかりになったのは、最初に読者から寄せられた英語版『タイム』誌1944年6月5日号記事と共に、別の読者から寄せられた、『ドイツと日本、体験的ドイツ論』(三修社、1978)の著者「崎村茂久」さんが「崎村茂樹」の近親者ではないかという情報。著作権名簿、紳士録等にあたって、やはりご子息であった崎村茂久さんと、直接連絡がつきました。ただし、『タイム』誌報道については、どうも当時の連合国・枢軸国の情報戦が深く関わっており、精査する必要がありそうです。ドイツで崎村茂樹は、『日本経済の新編成』(1942)という書物を出していました。これから詳しく検討します。皆様のご協力に、心から感謝致します。


「1950年毛沢東暗殺未遂事件」をご存じですか? 

2006.9.1 本サイトが90万ヒット記念で始めた「崎村茂樹」探索は、ほぼ生涯の全貌が見えてきて、国際歴史探偵としては大成功。貴重な史資料も集まってきました。その中で、英語版『タイム』誌1944年6月5日号記事から入った「崎村茂樹」の足跡は、思わぬ展開を示していました。1943-44年にドイツ滞在中の日本外務省嘱託・東大講師の経済学者崎村茂樹(1909-82)スウェーデンに入って「反日独枢軸・親連合国の日本人」として扱われたのはその通りで、56年の拓殖大学教授、63年から東京理科大学教授、八幡製鉄・新日本製鉄顧問と経歴もわかってきましたが、その真相解明は続けます。ご遺族から話を聞いて出てきた戦時中の崎村茂樹の実像は、『タイム』誌報道とは、大分違った姿でした。当初予想した敗戦時スウェーデンの小野寺少将スイスでの藤村中佐らの和平工作とは、直接にはつながりませんでした。ベルリンで小島秀雄少将や朝日の笠信太郎(反ヒトラーのジャーナリスト)と親しかったようですが、詳細はわかりません。下宿の同居人で、旧八幡製鉄・日本製鉄派遣の鉄鋼統制会ベルリン支部代表「島村哲夫」(戦後の八幡製鉄常務で新日本製鉄復活の仕掛け人)と共に、世界の鉄鋼産業を調査するために、戦時ヨーロッパをまわっていたようです。その謎を解く鍵となりそうなのが、『ニューヨーク・タイムズ』1944年5月1日付けの「崎村茂樹」についての記事のようですが、戦時中の敵国アメリカの新聞のため、私の勤務先の図書館では欠号で、どこかで見られないか探しています。どなたか詳しい方、マイクロフィルムででも見られる所を教えてください。それより驚いたのが、戦後1945-55年の動き。45年5月のドイツの敗戦と共に、当時在独した日本人のほとんどは、ソ連軍占領のもと、モスクワ経由で満州に入り日本に帰国するのですが、崎村茂樹は帰国途中で行方不明になり、モスクワ経由で中国に入っていました。連合国の支援と国共合作で日本に勝利した中国で、崎村茂樹は、内戦が始まっても国民党側、というより正確には、米ソ冷戦開始で蒋介石国民党政府の後ろ盾になった、北京のアメリカ大使館で働いていた様子です。ところが49年には毛沢東の共産党が勝利し、国民党政府は台湾へ敗走し、アメリカ大使館も閉鎖されたのに、革命後も北京に留まりました。そして、朝鮮戦争さなかの1950年8月、突如中華人民共和国政府に逮捕され、以後55年3月釈放まで、新中国に監禁されていました。ご家族にとっては、1955年に帰国し、翌年拓殖大学教授になるまで、行方不明のままでした。

 崎村茂樹の中国時代の謎を解く鍵は、実は、もうひとつの英文『タイム』誌1951年5月27日「Old Hands, Beware!」という記事。なんと、1950年10月1日の新中国建国記念日=第1回国慶節を前に、米軍バロット大佐が黒幕となった毛沢東暗殺計画が発覚し、中国政府はイタリア人、ドイツ人、日本人、中国人から成る暗殺団を逮捕、内イタリア人貿易商リバ=Antonio Rivaと日本人書籍商Ruichi Yamaguchi=「山口隆一」を死刑とし、カソリック神父Tarcisio Martinaらを懲役刑にしたというもの。朝鮮戦争さなかの1951年8月に発表されたため、冷戦さなかの情報戦とみなされあまり注目されなかったようですが、ご家族によれば、なんと崎村茂樹は、この毛沢東暗殺事件に連座し、50-55年中国で監禁生活を送ったというのです。2004年7月に、中国政府は、改めて「山口隆一」は「もともと日本の特務(スパイ)で、 46年に米特務機関である戦略情報部門[=OSS]の情報員になった」と公文書を発表したため、インターネット上には、日本語中国語朝鮮語イタリア語などでいくつかの報道・論説が出ています。この「山口隆一」と「崎村茂樹」の関係は不明ですが、どなたかこの、日本人も死刑になった「1950年毛沢東暗殺未遂事件」についてご存じないでしょうか。情報をお寄せ下さい。


2006.9.15 今年の国際歴史探偵の収穫も、そろそろ刈り入れなければなりません。この夏、本ネチズン・カレッジの目玉となった崎村茂樹」探索は、またしても読者の皆さんのご協力で、成功裏に進んでいます。今回の収穫は、前回更新で情報提供を訴えた『ニューヨーク・タイムズ』1944年5月1日付けの「崎村茂樹」についての記事がみつかったこと。たまたまニューヨークに滞在中の同業者、立命館大学現代日本政治論の堀雅晴教授が、pdfファイルで送ってくれました。そしてそこには、7月にやはり読者の方から教えられた英語版『タイム』誌1944年6月5日号記事よりも決定的な、第二次世界大戦時在独日本人崎村茂樹の、ニューヨーク・タイムズ・ストックホルム特派員ジョージ・アクセルソンによる署名インタビュー記事が、掲載されていました。このGeorge Axelsson記者、戦時・戦後『ニューヨーク・タイムズ』ベルリン・パリ・ストックホルム特派員で活躍した敏腕記者ですが、最近ではホロコーストを隠蔽したとして告発されているようです。

 その内容は「日本人がベルリンの大使館から逃げ出した」というもので、1943年暮れにベルリンからストックホルムに入った日本大使館勤務の東大講師崎村茂樹が、日本の右翼黒龍会とドイツのゲシュタボを恐れて、ストックホルム大学トルステン・ゴルトルンド教授の庇護の元、スウェーデンに亡命してきた。ベルリン日本大使館の狂信的ヒットラー支持者大島大使の専横を嫌い、鉄鋼分析官としての学者の眼で独日枢軸の敗北を予測し、連合軍に庇護を求めてきた、しかし日本側はベルリンに戻るよう強く働きかけており、大戦中に冷静なドイツ経済分析から「初めて連合軍に加わろうとした日本人」「枢軸国の敗北を初めて公言した日本人」として、秘かにストックホルムの病院でインタビューに応じた、というものです。実はこの点は、先日見つけた米国国立公文書館OSS資料中にも明記されており、『タイム』誌のセンセーショナルな戦時宣伝風記事よりも、信憑性があります。ただし崎村茂樹がこのインタビュー公表から1か月足らずの1944年5月中にはドイツに戻り、45年5月のドイツ敗戦まで他の在独日本人と行動を共にしたことが、ご遺族や当時の親友島村哲夫(日本鉄鋼統制会ベルリン支部長、戦後の八幡製鉄・新日本製鐵常務)の証言で確認されていますから、45年日本敗戦時のスウェーデンの小野寺少将スイス・ベルンの藤村中佐らの和平工作とは、直接関係ありません。見方によっては、戦時体制下日本で連合国の一翼ソ連のために諜報活動を行ったリヒアルト・ゾルゲや尾崎秀実、中国で国共合作中国軍の抗日活動を助けた野坂参三、鹿地亘、青山和夫、長谷川テルら、アメリカで独日ファシズムとたたかうため進んで米軍に志願した在米日本人・日系人などと同じように、自らの考えで反ファシズム連合国に協力した希有な日本人、ということになります。イマドキの右派の人々なら「非国民」とか「売国奴」と非難するところでしょう。とにかくこの『ニューヨーク・タイムズ』1944年5月1日付記事で、本サイトで当初に想定した「第二次世界大戦末期ドイツに在住し、スウェーデンで連合軍との終戦工作にもある役割を果たした日本人」という「崎村茂樹」像が、大きくは間違いないことがわかりました。堀雅晴さん、ありがとうございました!

 ただし崎村茂樹の思想的バックボーンは、『タイム』誌の書いた学生時代にかじったマルクス主義の信念ではなく、戦時東大経済学部で国家主義経済を説いた恩師荒木光太郎とのつながりと、ベルリンで知り合った日本製鉄の島村哲夫との交友であったようです。東大経済学部助手時代の崎村茂樹の顔写真も、荒木光太郎教授追悼文集『おもいで』から。したがってドイツ敗戦時のソ連軍占領下ベルリンからソ連への入国も、野坂参三風のコミンテルンへの忠誠ではなく、むしろ中国に渡るための経由地だったようです。当時の在独日本人数百人もモスクワ経由で満州に入り日本に帰国するのですが、ご遺族の作った年譜によると、崎村茂樹1945年9月には旧満州の長春で中華民国紅十字会の嘱託になり、翌46年には在中アメリカ総領事館に勤務しています。

問題は、49年には毛沢東の共産党が勝利し、蒋介石の中華民国は台湾に逃れアメリカ総領事使館も閉鎖されたのに、崎村茂樹は革命後も北京に留まったことです。日本で行方もわからず待ち続ける妻子には連絡することなく。そして、朝鮮戦争さなかの1950年8月、突如中華人民共和国政府に逮捕され、以後55年3月釈放まで、新中国に監禁されました。ご家族にとっては55年に帰国し翌年拓殖大学教授になるまで、行方不明のままでした。そこで前回更新から情報を求めている「1950年毛沢東暗殺未遂事件」との関わりが、新たな大きな謎となりました。実は、この事件について「崎村」の名が出てくるのは、1951年8月21日の毎日新聞記事だけです。それも「草野文男」という後に矢部貞治学長のもとで1956年から拓殖大学で崎村茂樹の同僚となる「中国通」の談話中で、「崎村某(元アメリカ総領事館嘱託で昨年8月逮捕)」もグループとしてつかまったのではないか、と出てくるだけです。しかもこの毎日新聞記事は、すぐに占領軍GHQに検閲されて、「崎村某」についての説明は、後の版では消えています。ご遺族は、この毎日新聞記事と帰国後の崎村茂樹自身の話から、崎村茂樹は毛沢東暗殺事件に連座し、その経済学の知見を中国共産党に利用されたといっています。その他の報道・解説では、当時の英文『タイム』誌1951年5月27日の「Old Hands, Beware!」という記事から今日にいたるまで、この事件に関わった日本人は、死刑になった「山口隆一」のみとされています。学術研究はないようで、「山口隆一」を友人だという「中島辰次郎」及び陸軍日高富明の特務機関「日高機関」との関わりで、畠山清明『キャノン機関』(徳間書房、1981)がある程度のようです。例えばインターネットにも出ている、次の「毛沢東暗殺計画で日本人銃殺さる」という記事が、これまでの情報です。

昭和26年8/17夜の北京放送は、前年10/1の共産党政権の中華人民共和国の国慶節で、日本人、ドイツ人、イタリア人、白系ロシア人の7人が毛沢東暗殺計画を練ったとして、日本人とイタリア人の2人を処刑し、計画の背後にはアメリカ軍大佐がいたと発表した。処刑された山口隆一(46)は東大文学部[実は京大]を昭和5年に卒業、中国美術の研究をしていた。昭和6年には四王天延孝陸軍中将の長女と結婚、昭和8年から昭和12年まで宮内省に勤務、昭和13年に中国へ渡り、青島華北航業総公会に勤務、昭和19年には同会北京弁公処長となった。昭和21年春に国府外交部国際問題研究所研究員となり、昭和23年11月に離職、昭和24年からはフランス書店勤務となり、昭和25年春から共産党の中国と日本との貿易業に携わり、日洲産業北京駐在員となっていた。山口は昭和26年8/17、軍事裁判により即日、天橋広場にて銃殺された。同時に処刑されたイタリア人のリヴァの家から迫撃砲が発見され、これが暗殺計画の証拠とされたが、国府軍へ売り込むための見本としてリヴァは迫撃砲を所持していたともされている。この暗殺計画に関与したとされた人の中には、ローマ法王庁使節マルティニ司教もおり、終身刑とされている。黒幕と共産党の中国に非難されたアメリカ軍のバレット大佐は関与を否定した。同事件は昭和26年当時、日本国内でも大々的に報じられ、共産党の中国側の発表を疑問視するニュアンスが強かったが、平成16年になって初めてそうした事実が発覚したかのように、中国側の資料そのままに日本国内で再び報じられた。山口処刑と毛沢東暗殺計画については新事実でも何でもなく、大枠については山口処刑時に北京放送が報じた中国サイドの言い分の内容の蒸し返しに過ぎず、真相そのものはやはり、アメリカ政府や台湾サイドの資料の裏付けが出ない限りは闇の中である。 

 2004年7月に、中国政府は改めて「山口隆一」は「もともと日本の特務(スパイ)で、 46年に米特務機関である戦略情報部門[=OSS?]の情報員になった」と公文書を発表したため、インターネット上には、日本語中国語朝鮮語イタリア語などでいくつかの報道・論説が出ています。この「山口隆一」と「崎村茂樹」の関係は不明ですが、どなたかこの、日本人も死刑になった「1950年毛沢東暗殺未遂事件」についてご存じないでしょうか。情報をお寄せ下さい。


2006.10.1  夏から続く「崎村茂樹」探索の旅は、いよいよ深みにはまりそうです。これまでの本サイトでの探索の経過をまとめて、「日独同盟に風穴をあけた日本人<崎村茂樹>探索記」を別ファイルにしました。1950-55年に革命直後の中国で「毛沢東暗殺事件」と関わった嫌疑で幽閉されていたのは、どうやら本当のようです。ところがこの事件を詳しく述べた唯一の日本語著書、畠山清行『キャノン機関』(徳間書店、1971)には、崎村茂樹については一言も出てきません。代わりに1970年に「自分は松川事件の実行犯だ」と名乗り出て国会でも物議をかもした中島辰次郎をはじめ、日本陸軍華北特務機関長から中国国民党顧問に乗り換え、キャノン機関にも協力した日高富明など、日本敗戦後の黒い人脈が続々と出てきます。崎村」の名が出てくるのは、1951年8月21日の毎日新聞記事だけです。それも「草野文男」という、後に矢部貞治学長のもとで1956年から拓殖大学で崎村茂樹の同僚となる「中国通」の談話中で、「崎村某(元アメリカ総領事館嘱託で昨年8月逮捕)」もグループとしてつかまったのではないか、と出てくるだけです。しかもこの毎日新聞記事は、すぐに占領軍GHQに検閲されて、「崎村某」についての説明は、後の版では消えています。ご遺族は、この毎日新聞記事と帰国後の崎村茂樹自身の話から、崎村茂樹は毛沢東暗殺事件に連座し、その経済学の知見を中国共産党に利用されたといっています。こちらの話は闇のままで、確かな情報がありません。ご存じの方はぜひお知らせ下さい。

 探索の出発点だった英語版『タイム』誌1944年6月5日号記事、その前の『ニューヨーク・タイムズ』1944年5月1日付けの「崎村茂樹」についての記事、つまり1943年末から1944年5月の崎村茂樹のスウェーデン亡命(?)については、ご遺族から貴重な写真が提供されました。1961年頃なそうですが、1941-45年にベルリンに滞在した崎村茂樹と、その親友で当時日本製鉄ベルリン駐在員で崎村茂樹と一緒に下宿した戦後八幡製鉄・新日鐵常務島村哲夫が、かつて日本鉄鋼統制会ベルリン事務所で働いていたというドイツ人女性を日本に招いたのか、来日したのか、一緒に写っています。ご遺族の記憶では「ジェンヌさん」といったとか。どうやらこのドイツ人女性が、崎村茂樹のベルリン時代を、したがって『ニューヨーク・タイムズ』1944年5月1日付け英語版『タイム』誌1944年6月5日号の謎をも、知っているらしいのです。さしあたりは第二次世界大戦中日本鉄鋼統制会ベルリン事務所で働いていた「ジェンヌさん」という以外に手がかりはありませんが、崎村家ご遺族提供の写真を掲げておきます。写真の前列の女性が「ジェンヌさん」(左から二人目)、その右が島村哲夫(前列右から2人目)、後列の「ジェンヌさん」と島村哲夫の間が61年当時拓殖大学教授の崎村茂樹(後列右)、残りの3人も、戦時中ナチス・ドイツに滞在した日本人のようですが、身元はわかりません。どなたか何か気付いた方、ご存じの方は、ぜひ katote@ff.iij4u.or.jp にご一報を。


2006.10.15 日独同盟に風穴をあけた日本人<崎村茂樹>探索」は、どうやら第二次世界大戦中の原爆開発競争の問題まで立ち入らなければいけなくなってきました。別に確かな文献的証拠をみつけたわけではありません。戦時友好国ドイツの在独日本大使館で戦時経済分析の嘱託を勤めていた東大講師の経済学者崎村茂樹が、なぜ1943年末に中立国スウェーデンに「亡命」し、連合国アメリカの『ニューヨーク・タイムズ』や『タイム』誌の取材を受けて「初めて連合軍に加わろうとした日本人」「枢軸国の敗北を初めて公言した日本人」とまで報道されたのに、44年5月にはストックホルムから再びドイツに戻り、ナチスのゲシュタボにも狂信的ヒットラー主義者の日本大使大島浩からも処罰された形跡がなく、その後45年5月のベルリン陥落までドイツに留まり得たのか、を考えてのことです。しかも、崎村はドイツ敗北後も日本に帰国せず、ソ連経由で内戦期の中国に入り、在北京のアメリカ領事館嘱託として調査活動に従事し、49年新中国成立後も台湾に脱出せず、50年夏に毛沢東暗殺未遂事件に連座して捕まるのかという謎も、どうも崎村がベルリンで従事していた調査活動に遠因がありそうです。いくつかの文書資料から浮かび上がったのは、崎村はベルリン日本大使館嘱託であっても、日常的勤務先は、日本鉄鋼統制会ベルリン事務所だったことです。この事務所は、戦時中の日本側軍需のドイツからの買い付けと共に、どうやらドイツ軍事産業と組んで、新兵器の日独共同技術開発にも関わっていたようです。

 ところがドイツ側は、同盟国日本にも隠して「新型兵器」を開発していた形跡があります。よく知られているように、アメリカの原爆開発「マンハッタン計画」は、ナチス・ドイツの核武装を恐れた亡命ドイツ人・ユダヤ人科学者を秘密裏に動員して1942年6月(私の発見したOSS「日本計画」と同じ頃)に始まりました。アインシュタインやシラードは、ドイツに核技術を渡さないためにアメリカに協力したのです。それは、ドイツにもハイゼンベルグらのすぐれた核科学者がいて、ドイツ占領下のデンマークにボーアがいて、ナチスにも原爆開発能力があることを知っていたからです。ただし1944年初頭には、アメリカはドイツの原爆完成はありえないという情報をえていたといいます。その頃崎村茂樹が「亡命」したスウェーデンは、スイスと共に、「新型兵器」開発の情報戦争の中心地でした。「核・原子力関連年表」に崎村の43−44年前半のストックホルム滞在を重ね合わせると、本当に「亡命」だったのかと疑われます。当時のナチス軍需相シュペールの回想『ナチス 狂気の内幕』を読むと、ヒットラーはロケット開発には熱心で事実成功させたが、原爆開発についてはあまり関心を示さず、42年秋には原爆をあきらめた、ただしクルップ社がサイクロトロンを完成し、原子力潜水艦のために44年夏に核分裂実験を行った、と述べている。崎村の勤務した日本鉄鋼統制会が、ドイツで最も頼りにしていたのがクルップ社でした。そして1944年7月20日、ドイツ軍高官たちのヒットラー暗殺計画が発覚し、5000人以上が捕まり処刑されます。その戦時ドイツ内のヒトラー打倒計画は、「鉄の歴史」の著者ベック博士の子ベック将軍らで、その計画はベルリン大学教授ら「水曜会」メンバーにより企てられたと述べるのは、戦前日本製鉄に勤めていた中澤護人、歴史学者故網野善彦の義兄であり、宗教学者中澤新一の叔父で、横浜事件の犠牲者です。そして、ドイツの日本鉄鋼統制会事務所長が日本製鉄派遣の島村哲夫であり、崎村茂樹の無二の親友で後見人でした。崎村茂樹の探求は、ナチス・ドイツでの「鉄の歴史」を読み解き、ドイツから日本へと標的=実験対象が変えられた原爆開発の世界競争を学び、そこでのドイツ、日本、アメリカ、ソ連、スウェーデン、スイスの関係を解明しなければならないようです。旅は、まだまだ続きそうです。


Nov. 1, 2006 I am now searching for a secret peace action by one Japanese in Nazis-Germany.

His name is Shigeki SAKIMURA (1909-82), who graduated Tokyo University in 1932, became research assistant and lecturer of the Department of Economics at the Imperial University of Tokyo. He was sent to Germany as an attach of the Japanese Embassy in Berlin in 1941. He published one German book "Neuordnung der japanischen Wirtschaft" in 1942. But at the end of 1943, he went from Germany to Sweden, and probably contacted the American OSS (Office of Strategic Services) to inform the real situation of German war industry and to ask the possibility of his own exile. " New York Times" May 1, 1944 reported him as " the first Japanese of any note to attempt to join the United Nations, the first to admit openly that the Axis cannot win the war", and " Time", June 5 1944 published the "Foreign News: Way of a Rebel." It said, "Shigeki Sakimura was one of the submerged, and now forgotten, intellectuals of Japan. As a student he explored the social sciences, brooded over his country's oligarchic economy, dallied with Marxism. At 30, the hardworking, high-strung scholar became a full professor. Two years later, in 1941, his Government sent him to Berlin as Embassy attach, to study German heavy industry. Slight, bespectacled Professor Sakimura poked around the Reich, peered critically into factories pumping out iron, steel, light metals, chemicals and other vitals of war". Although his hope of "Exile" to Sweden was not clear, he could not stay long in Stockholm and returned to Berlin in June 1944. Some secret documents of the OSS support the fact reported by American journalists at the time. He was forced to go back to Berlin, prpbably by Nazi-Gestapo and Japanese Embassy in June, just before the famous Assassination Attempts on Hitler on July 20,1944.

After the collapse of Hitler's Germany, he did not return to Japan. It was mysterous, because almost all Japanese in Europe at the time went back to Japan by Trans- Siberian Railway. He entered in China, where he worked as an information adviser of the American Consular Office in Beijing, probably under the control of OSS (from 1947, CIA). In 1950, one year after the Mao Zedong's socialist revolution, he suddenly arrested by Chinese secret police as a member of assassination group against Mao Zedong("The Time", Aug.27,1951), together with one Japanese (Ryuichi Yamaguchi), three Italians (Antonio Riva, Tarcisio Martina, Quirino Victor Lucy Gerli), one French (Henri Vetch) and one German (Walter Genthner). He was probably in Chinese jail 1950-1955, but could go back to Japan in 1955. Thereafter, he worked as a professor of economics at Takushoku University, Tokyo. As he could not speak about his life in Germany, Sweden and in China, even his family do not know his political actions during these years in detail . I am now looking for the documents of his anti-Hitler actions in Germany 1941-1945, Sweden 1943-44, and pro -American (anti-communist?) works in China 1945-55.

If someone knows about him or has the documents concerned, please let me know !


2006.11.25  いつもより10日あまり遅い更新になりました。ドイツから帰ってきたばかりで時差ボケ中です。出発日の11月9日は、帝政を廃止し共和制へ移行した1918年ドイツ革命の記念日、そしてその71年後、1989年に「ベルリンの壁」が崩壊した日でした。でも最初に入ったハンブルグは静か。どんよりと低く曇がたれ、時折冷たい雨のまじる、北ドイツに典型的な晩秋の景色です。「ドイツ現代日本社会科学学会」の「過渡期にある日本の社会科学」報告シンポジウム出席の合間を縫って、郊外アルトナの街を歩いてきました。1932年の大晦日、作家島崎藤村の3男で画家の島崎蓊助が、ユダヤ人の恋人と分かれ、在独日本人反帝グループの仲間たちにも見放されて、失意の内に日本へ帰国した港町です。アルトナの街は、ハンブルグのユダヤ人街だったらしく、ところどころにヒトラーのナチスによるユダヤ人迫害犠牲者の碑やプレートがあります。中心のアルトナ博物館は、すぐそばが北欧の港らしく、海賊から船の発達史まで見せる展示。そこにセピア色の心象風景を見出した島崎蓊助は、やはりユニークな画家です。ベルリンのドイツ国立図書館に、私のこの間の著作と共に『島崎蓊助自伝──父・藤村への抵抗と回帰』(島崎爽助と共編、平凡社、2002年)を納本して帰国した直後に、島崎蓊助夫人で、私の在独日本人研究のかけがえのない証言者の一人であった島崎君代さんの訃報に接しました。享年84歳、心よりご冥福を祈ります。たった2週間の旅で、まだ新聞を読み返していませんが、その間に宇井純さん、渡辺洋三さん、大石嘉一郎さんら、書物を通じて学んできた先達が亡くなっていました。寒さ厳しくなる折、皆様もくれぐれも御身ご大切に。

 この旅の本来の目的は、本サイト日本語・英語版で公開情報収集中の、特別研究室「2006年の尋ね人」の「日独同盟に風穴をあけた日本人<崎村茂樹>ほか戦時在独日本人の探求。1944年7月20日ベルリンの「ヒトラー暗殺未遂事件」と、1950年10月1日北京の「毛沢東暗殺未遂事件」という二つの大きな政治的事件の関連資料探求です。ボンの成人教育研究所で崎村茂樹のドイツ語論文ナチス・ドイツにおける青年の職業教育」をコピーし、ハイデルベルグ大学とベルリン日独センター、ベルリン大学日本研究所付属森鴎外記念館では、周辺資料と研究交流を重ねてきました。特にハイデルベルグ大学の中国現代史研究者トーマス・カンペン教授は、私の英語版ホームページを見て事前に資料を集めてくれていて、1950年毛沢東暗殺未遂事件についての貴重な情報をもたらしてくれました。同事件のドイツ人被告Walter Genthnerが崎村茂樹と同じ禁固5年で、崎村が北京から日本に帰った1955年にドイツに帰国しているとのこと。ただしドイツではごくありふれた名前なので、出身地やその後の消息は特定できていないとのことで、今後の調査を約してくれました。崎村茂樹1942年のドイツ語著書『日本経済の新編成』(1942)も現物を入手。分析はこれからですが、1943−44年にかけての崎村茂樹のスウェーデン滞在の謎に迫る基礎材料が揃いました。また、この12月には出版される、Herausgegeben in Zusammenarbeit mit dem Filmmuseum Berlin - Deutsche Kinemathek: Wolfgang Aurich (Hg.), Wolfgang Jacobsen (Hg.) Band 4, Karena Niehoff. Feuilletonistin und Kritikerinという本に、戦時ドイツのユダヤ人女性ジャーナリストで戦後の映画評論家Karena Niehoffの交際圏に、日本人崎村茂樹が出てくるとのことで、今から楽しみです。この成果は後日公開。


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