『大川美術館・友の会ニュース』2002年8月号


  島崎蓊助と竹久夢二──ナチス体験の交錯

 

加藤哲郎(一橋大学教授)

 


 島崎蓊助(1908-1992年)と竹久夢ニ(1884-1934年)──およそ接点はないように見える。大川美術館の「描かざる幻の画家 島崎蓊助遺作展」を見れば、あの深いセピア色の実存的な絵に、夢二の大正ロマン風美人画とは、対照的なイメージを持つだろう。

 美術史的にはその通りで、ご子息島崎爽助氏と私が編んだ近刊『島崎蓊助自伝──父・藤村への抵抗と回帰』(平凡社)にも、夢二はほとんどでてこない。わずかに『自伝』に収録しなかった「はしがき」草稿異文で、関東大震災直後、「私は竹久夢二の一抱えもある焼け跡のスケッチを見せてもらう機会があったが、あのなかに描かれていた、焼け跡の辻々で一時は名物のように繁昌していたスイトン屋も姿を消し、……『帝都復興エーゾ・エーゾ』という歌がはやりはじめた」と、震災までの夢二風ロマンが去り、蓊助が「マヴォ」の前衛芸術運動にコミットする際の踏み台として現れる。本文では、3年間の在独遊蕩生活の果てにハンブルグから傷心の帰国後、父藤村宅も出入り禁止となり、旧知の柳瀬正夢・大月源二ら「マヴォ」残党に紹介されたオリオン社の広告・挿絵の仕事場で、「竹久夢二の息子の不二彦君や、辻潤の息子の一君もそこで働いていた」とあるのみである。

 だが政治学者の眼で見ると、二人は異国で、ある共通体験を持つ。出会いの可能性もあった。キーワードは「ベルリン・バウハウス」で、狂言回しは「ユダヤ人」である。

 多感な蓊助は、父藤村に反発してプロレタリア美術運動にのめり込み、29年5月盛岡署で検挙された後、9月勝本清一郎と共にベルリンに向かう。国崎定洞千田是也らの在独日本人左翼グループに合流、千田に従いドイツ共産党のポスターを書きながら、当時デッサウのバウハウスで造形美術を学んでいた山脇巌・道子夫妻らと親しく交流し、左翼芸術家風デカダンス生活を送る。しかし満州事変勃発とドイツのファッショ化で急進化した左翼グループの党派的規律になじめず、千田の帰国後ユダヤ人女性と恋におち、左翼仲間からも見放されて挫折し、32年の大晦日、一人寂しくハンブルグを発ち、帰国する。

 竹久夢二は、もともと幸徳秋水らの『平民新聞』挿絵画家から出発し、油絵を志した。美人画絵葉書が売れて大正ロマンの流行作家となったが、震災後のスケッチが若き蓊助の眼に触れたように、社会への関心を失ったわけではない。蓊助渡独の頃、バウハウスの「芸術を生活の中へ」に学び、島崎藤村・有島生馬らの支援を受けて榛名山産業美術研究所設立を構想、47歳にして初めての「洋行」に発つ。31年6月アメリカ着、千田の兄伊藤道郎ら西海岸日系人左派に援助され、油絵も再開する。32年10月10日にハンブルグに到着、ベルリンを拠点に33年1月ヒトラー政権成立を目撃、8月までヨーロッパに滞在する。ベルリンでは、バウハウスヨハネス・イッテンの画学校で東洋画を教えた。つまり、1932年秋、左右対立が激化するドイツで、蓊助と夢二は、3か月ほど重なり合う。

 二人が直接会った形跡はない。蓊助は左翼の反ナチ政治活動で挫折し、一度は将来を夢見たユダヤ人の恋人を捨て帰国する。夢二は旅をしながら日本大使館員らの援助で個展を開き、ナチスの横暴やイッテン画学校のユダヤ人学生への同情を日記に書き残した。ユダヤ人救出活動に関わったともいわれる。33年の夢二を追跡すると、秀作「ベルリンの公園」は、当時のベルリン大美学生徳川義寛(後の昭和天皇侍従長)に託された。周辺には日本人左翼学生たちがいた。その一人は、蓊助とドイツ語学校同級で一緒に反ナチ活動をしていた井上角太郎だった。当時のベルリン日本人社会は約500人、日本大使館筋の右派も、大使館に睨まれ東部労働者街に住む左派も、数軒の日本料理屋で会合し、しばしば顔をあわせた。夢二のベルリンの絵は、当時の在独日本人の手を経て今日に残された。井上角太郎旧宅にもあったといわれ、私はインターネットを通じて探索している( 「加藤哲郎のネチズン・カレッジ」)。

 二人は同じ世界史的転換を目撃し、それを絵に形象しようとした。竹久夢二はユダヤ人女性スケッチやヒトラーの似顔絵を残したが、帰国の翌34年に病没する。榛名山美術学校の夢は、かなわなかった。島崎蓊助は、より実践的な政治体験・ユダヤ人女性体験を「重たい荷物」にして帰国した。父藤村との葛藤もあり、その重荷を美学的に昇華するには、長い年月がかかった。1970年のハンブルグ再訪まで、100冊近いノートに思想的・芸術的格闘が記された。蓊助のセピア色の作品群は、その時描かれた。そこには、竹久夢二が一年足らずの滞在で読みとりながら表現し得なかった激動の時代の記憶と、蓊助自身の身を裂く別離、政治的・精神的挫折の心象風景が、投影されているのである。


<参考>

久夢二の2枚の『ベルリンの公園にて』について、どなたか情報をお寄せ下さい!

 

 2002年7月NHK新日曜美術館「独逸、夢のかなたへ──知られざる竹久夢二」放映にあわせて、華々しくHPで打ち出した「久夢二の2枚の『ベルリンの公園にて』について、どなたか情報をお寄せ下さい!──残念ながら、これまで情報提供はありませんでした。やむなく情報収集センター「現代史の謎解き」に入れて、長期戦に入りますが、ここでもよびかけてみましょう。もっとも「幻の日本語新聞『ベルリン週報』を求めて ――サイバー・メヂィアによるクラシック・メディア探索記」(『INTELLIGENCE』創刊号)にあるように、30年かけてついに現物とのご対面が実現した、『伯林週報』探索のようなケースもありますから、まあ、気長に歴史探偵していきますが。

 問題の所在は、大きくは、関谷定夫『竹久夢ニ 精神の遍歴』(東洋書林、2000年)に描かれ、私の「ドイツ・スイスでの竹久夢二探訪」 のきっかけとなった、1933年ナチス政権樹立期、竹久夢二のユダヤ人救出地下運動への関わりです。より具体的には、夢二のベルリンでの師ヨハネス・イッテンご遺族もご存じなかったのですが、夢二の「ベルリンの公園」と題する水彩ペン画に関わる謎です。

 郵政省の絵葉書になった左側の絵が有名で、多くの夢二画集に収めてあり、今回NHK「新日曜美術館」でも放映されました。1983年に、夢二の生まれ故郷岡山の夢二郷土美術館が、画商から購入したものです。全く同じ構図で、昭和天皇侍従長徳川義寛がベルリンから持ち帰り、1982年10月13日に寄贈した「ベルリンの小公園」という、右の絵も実在します。どちらも現在は、夢二郷土美術館所蔵です。同一構図でありながら、モデルの服装、ベンチに座る人々、それに署名の位置とこどもの玩具の有無が異なり、芝生の花のかたちからは、季節の違いを感じさせます。ベルリン西部「ウィッテルスバッヒャー・プラッツ」のスケッチで、小川晶子『夢二の四季』(東方出版、2002年)では、左の「公園」は「夏」の作品とされていますから、右の「小公園」は、「春」か「秋」でしょうか? 徳川義寛は、夢二がヒトラー政権成立を目撃した1933年当時、ベルリン大学で美学を学んでいたので、芸術作品として譲り受けたのでしょうか? それとも、夢二から油絵をもらった今井茂郎、神田襄太郎ら当時の日本大使館員と同じように、ベルリンで夢二に経済的に援助した見返りだったのでしょうか? 

 私の政治学的推論によれば、1932年10月-33年9月在独の竹久夢二(帰国して翌34年病死)は、徳川義寛をはじめ、当時知り合ったベルリン大学の日本人学生たちに、この姉妹画を分け与えたのではないか、と考えられます。当時のベルリン大学在籍日本人正規学生約10名の中には、私の「在独日本人反帝グループ関係者名簿」にあるように、国崎定洞の影響下にあった左翼学生が数人入っています。バウハウスに影響を受けた夢二の榛名山産業美術研究所構想1931-33年「洋行」の有力支援者の一人であった島崎藤村の3男島崎蓊助も、ベルリン大学付属外国人向けドイツ語学校に通い、夢二と3か月ほどドイツ滞在が重なります。32年大晦日に離独する蓊助が夢二の絵をドイツから持ち帰った形跡はありませんが、私が集めた「在独日本人反帝グループ」関係者の聞き取りでは、名古屋の百貨店主御曹司で反ナチ「革命的アジア人協会」の活動家であった八木誠三の未亡人と、当時ユダヤ人の恋人を持ちベルリン大学内のユダヤ人地下学生運動に加わっていた井上角太郎のご遺族は、「竹久夢二らしい絵を持っていた」と証言しています。八木・井上は、当時徳川義寛の同級生で、姉妹画を持ち帰った可能性があります。特に井上角太郎は、当時の夢二の在独スポンサーであったベルリン日本商務官事務所(今井茂郎ら)の通訳を、アルバイトとしていました。徳川義寛が右の「小公園」を夢二からもらい持ち帰ったとすれば、左の「ベルリンの公園」の方は、どんなかたちで日本に戻ってきたのでしょうか? 二枚の絵はどういう関係なのでしょうか? どなたか、晩年の竹久夢二に詳しい方の、ご教示を期待します。情報があれば、ぜひメールでお寄せ下さい! 



研究室に戻る

ホームページに戻る