2008年の私の締めくくりは、10月に公刊した本サイト「国際歴史探偵」の成果を駆使した「在独日本人反帝グループ」についての集大成、加藤『ワイマール期ベルリンの日本人ーー洋行知識人の反帝ネットワーク』(岩波書店)でした。ウェブ上では、ACADEMIC RESOURCE GUIDEさん、千葉海浜日記さん、クマのデラシネ日記さん、京都グラムシ工房さん、学問空間さん、芹沢光治良文学愛好会さんらがコメントしています。活字の世界でも、『読売新聞』11月16日に 佐藤卓巳さんの、『週刊朝日』12月5日に鎌田慧さんの、『日本経済新聞』12月14日に池田浩士さんの、共同通信配信で『高知新聞』11月16日、『神戸新聞』『山形新聞』『宮崎日日新聞』『熊本日日新聞』『山陰中央新報』11月23日、『新潟日報』『愛媛新聞』11月30日、『信濃毎日新聞』12月21日などに川上武さんの、『西日本新聞』12月28日「本の森」に今川英子さんの、『週刊読書人』新年1月16日号に平井正さんの、書評が出ています。雑誌では『季刊 唯物論研究』第106号(2008年11月)に松田博さんの長文書評が、『改革者』12月号に短文紹介が、掲載されています。5000円の高価な本で、なかなか書店では見かけないでしょうが、岩波書店ホームページの目次・序章をpdfでたち読みできる専用ページから、またはアマゾンなどを通して、ご注文いただければ幸いです。この危機の時代を迎えて、80年前のドイツで世界大恐慌・大量失業・国内対立激化からヒトラー政権成立を目撃した当時の在独日本人知識人・文化人の生き方の中から、何かを汲み取って頂けるでしょう。
最近は美術づいてます。2002年7月7日のNHK教育テレビ「新日曜美術館」で取り上げられた、群馬県桐生市大川美術館で開催中の「描かざる幻の画家 島崎蓊助遺作展」(9月末まで)はもちろん一押しで、「エルベ川」などメインのセピア色の絵も、戦争末期の中国従軍スケッチも、様々にイメージの広がるすばらしい作品です。ぜひ夏休みに桐生を訪れ、ご覧下さい。作者の画家島崎蓊助は、『夜明け前』執筆期の父島崎藤村に反抗して、国崎定洞や千田是也らの「在独日本人反帝グループ」に飛び込み挫折した体験を持ちます。そのため大川美術館ニュース『ガス燈』第53号(2002年7月10日号)に、「島崎蓊助のセピア色と『絵日記の伝説』」という美術評論(まがい)まで、書いてしまいました。8月末には、平凡社から、加藤哲郎・島崎爽助編『島崎蓊助自伝──父・藤村への抵抗と回帰』が刊行されます。同時に平凡社から出る岡田桑三評伝、原田健一・川崎賢子著『岡田桑三と映像の世紀』と共に、ぜひご一読を。
7月21日の「新日曜美術館」では、本HP「ドイツ・スイスでの竹久夢二探訪記」(いつのまにやら「Yumeji りんく」にも入ってました)もちょっぴりお手伝いして、「独逸、夢のかなたへ──知られざる竹久夢二」が放映されました。『平民新聞』の挿絵画家から出発した「社会派」夢二の再評価は新鮮で、ドイツで書いた油絵「水竹居」に焦点を当て、美輪明宏さんの夢二談義も秀逸でした。もっとも当日、私は群馬高崎哲学堂の「よろこばしき知識」の皆さんのお招きで、「井上房一郎『洋行』の周辺──勝野金政から島崎蓊助まで」と題した芸術がらみの講演でした。そこでお会いした旧知の工芸家水原(みはら)徳言さんと、思わぬ芸術談義。ブルーノ・タウトの高弟であった水原さんと、タウト、井上房一郎、勝野金政が協力した銀座「ミラテス」の話や、写真家名取洋之助、建築家山口文象らとのつながりの話も愉快でしたが、実は水原さん、晩年の夢二の愛した伊香保・榛名山と高崎が近いものですから、夢二の世界にも大変詳しかったのです。朝のNHKに出てきたナチスの政権獲得時ドイツで竹久夢二が東洋画を教えていたヨハネス・イッテンのイッテン・シューレについてもよくご存じなばかりでなく、なんと、夢二のイッテン・シューレの教え子で、パリに逃れたユダヤ人画家エヴァ・プラウドさんが、1935年頃来日してタウトに会いに来た際、一緒に同席したというのです。そこで夢二の話は出なかったそうですが、同じくナチスに追われ東洋を愛した芸術家二人が、日本で初めて会ったという話に感激。90歳をこえた水原さんに、エヴァ・プラウドの夢二についての手紙と資料が、法政大学大原社会問題研究所「藤林伸治資料」にあることをお知らせし、すっかり意気投合しました。おかげで講演の方もスムーズに行き、地元の熱心な皆さんと遅くまで語り合うことができました。
NHK「独逸、夢のかなたへ──知られざる竹久夢二」は、美術番組としては大変良くできていましたが、実は担当ディレクターに取材をお願いして、結局わからずじまいで放映できなかった問題がありました。私の「ドイツ・スイスでの竹久夢二探訪記」 のきっかけとなった、1933年竹久夢二のユダヤ人救出地下運動への関わりです。関谷定夫『竹久夢ニ 精神の遍歴』(東洋書林、2000年)にも描かれ、イッテンの息子さんがスイスで夢二の絵を今なお保存していることまでは私が調査し、今回NHKがその水墨画等10数点を画像に収めてくれましたが、イッテン家ご遺族からは、ユダヤ人救出問題での証言はとれなかったそうです。夢二の知られざる活動が、美術の師イッテンのルートではなく、当時の在独日本大使館員やベルリン大学日本人留学生が関わったルートであったからでしょう。この線で、最近気になるのが、夢二の「ベルリンの公園」と題する水彩ペン画に関わる謎。郵政省の絵葉書になった左側の絵が有名で、多くの夢二画集に収めてあり、今回NHK「新日曜美術館」でも放映されましたが、実は、全く同じ構図の「ベルリンの小公園」という、右の絵も実在します(比較しやすいように並べました)。どちらも現在は夢二の生まれ故郷岡山の夢二郷土美術館所蔵ですが、左側の「公園」は、かつて昭和天皇侍従長徳川義寛の「寄贈」とされていました。ところが先日旧ソ連日本人粛清犠牲者の健物貞一遺児アランさんがロシアから来日して、岡山のご親族と対面したさいに、夢二郷土美術館を訪れ確かめたところ、これまで徳川義寛寄贈とされていた「ベルリンの公園」は、1983年に画商から購入したもので、徳川義寛が1982年に寄贈したのは、「公園」と全く同じ構図で同じく紙にペンと水彩で描いた「ベルリンの小公園」という右側の絵であったことがわかりました。徳川義寛が昭和57年10月13日に絵を持参し寄贈したさいの徳川氏自筆のメモをみせてもらったところ、徳川義寛は、その絵を「公園にて」と名付けており、自分がベルリン大学入学後1933年に夢二から記念にもらったものだと解説し、これがベルリン西部「ウィッテルスバッヒャー・プラッツ」のスケッチで、中央に「子どもが曳いている玩具」があり「右上隅のYume 1933 Berlin」と署名がある、と書いています。ところが、数年前まで徳川義寛寄贈とされてきた左の「公園」には、子どもの後ろ姿はありますが「玩具」がなく、また署名は右下です。右の「小公園」の方には、確かに「玩具」が入っており、署名も右上です。左の「公園」よりややこぶりの、徳川氏がベルリンから持ち帰った右の「小公園」は、数ある夢二の画集でも、栗田勇編『竹久夢二 愛と詩の旅人』(山陽新聞社、昭和58年)149頁にタイトルも解説もなく掲載されているくらいで、私の見た他の画集では、最新の『竹久夢二 名品百選』(そごう美術館)をはじめ、もっぱら画商経由の左側の「公園」のみが掲載されています。
2枚の「公園にて」の絵は、姉妹画で、芸術的価値も同等な感じです。むしろ同一構図でありながら、モデルの服装、ベンチに座る人々、それに署名の位置とこどもの玩具の有無が異なり、芝生の花のかたちからは季節の違いを感じさせます。最新の小川晶子『夢二の四季』(東方出版、2002年)では、左の「公園」は「夏」の作品とされていますが、すると右の「小公園」は「春」か「秋」でしょうか? 徳川義寛はベルリン大学で美学を学んでいたので、芸術作品として譲り受けたのでしょうか? それとも夢二から油絵をもらった今井茂郎、神田襄太郎ら当時の日本大使館員と同じように、ベルリンで夢二に経済的援助をした見返りの謝礼でしょうか? ちなみに、神田襄太郎は東大で新人会蝋山政道らに近く、福本和夫にベルリンでドイツ語を教えたといいます(石堂清倫『わが友中野重治』平凡社、2002年、187頁)……。ここからは、私の政治学的推論です。1932年10月-33年9月在独の竹久夢二(帰国して翌34年病死)は、徳川義寛をはじめ、当時知り合ったベルリン大学の日本人学生たちに、この姉妹画を分け与えたのではないでしょうか? 当時のベルリン大学在籍日本人正規学生約10名の中には、私の「在独日本人反帝グループ関係者名簿」にあるように、国崎定洞の影響下にあった左翼学生が数人入っています。バウハウスに影響を受けた夢二の榛名山産業美術研究所構想と1931-33年「洋行」の有力支援者の一人であった島崎藤村の、3男島崎蓊助も、ベルリン大学付属外国人向けドイツ語学校に通い、夢二と3か月ほどドイツ滞在が重なります。32年末に離独する蓊助が夢二の絵をドイツから持ち帰った形跡はありませんが、私が集めた「在独日本人反帝グループ」関係者の聞き取りでは、名古屋の百貨店主の息子で反ナチ「革命的アジア人協会」の活動家であった八木誠三の未亡人と、当時ユダヤ人の恋人を持ちベルリン大学内のユダヤ人地下学生運動に加わっていた井上角太郎のご遺族は、「竹久夢二の絵を持っていた」と証言しています。八木・井上は、当時徳川義寛の同級生で、姉妹画を持ち帰った可能性があります。特に井上角太郎は、当時の夢二の在独スポンサーであったベルリン日本商務官事務所(今井茂郎ら)の通訳をアルバイトとしていました。徳川義寛が右の「小公園」を夢二からもらい持ち帰ったとすれば、左の「ベルリンの公園」の方は、どんなかたちで日本に戻ってきたのでしょうか? どなたか、晩年の竹久夢二に詳しい方の、ご教示を期待します。情報があれば、ぜひメールを!
二宮 秀(にのみや・しゅう、周?) 1920年代末ー33年1月ナチス政権成立時まで、ベルリンで反ナチ・反戦活動をおこなった日本人グループ「ベルリン反帝グループ」の構成メンバーについては、多くが戦後知識人・文化人として活躍し回想を残しているため、ベルリン滞在後の経歴を含め、多くの記録が残されている。ところがここに掲げる「二宮周」については、数年前に画家の鳥居敏文氏の聞き取りをしたさい初めて出てきた名前で、しかも千田是也、勝本清一郎らの証言にも入っていないため、ほとんど消息がわからない。鳥居証言によると、神戸の医者の息子で音楽研究のためベルリン留学、1932-33年期に国崎定洞らのベルリン反帝グループに関わっていた。ナチスの政権樹立後パリに逃れしばらく滞在、帰国後に宝塚歌劇団に入って音楽監督をしていたはずだという。ただし宝塚についての書物を手当たり次第に調べた限りでは、まだ「二宮周」の名前はみつかっていない。ひょっとすると変名であった可能性、または宝塚では別の名前を使っていた可能性もあるが、鳥居氏は確か戦時中のみならず戦後も宝塚で音楽を担当していたはずだ、という。いまだ茫漠としているが、なんらかの情報を求める。
『宝塚──消費社会のスペクタクル』(講談社メチエ)の著者である川崎賢子さんから、「二宮周」ではないが「二宮秀」という名前が、1981年に毎日新聞社から発行された『別冊一億人の昭和史 タカラヅカ』中の「舞台を創った作家たち」(奥村芳太郎)という文章のなかに「…吉富(一郎)は、昭和十一年、バレエ『油壷』を当時、音楽学校で楽理を教えていた二宮秀の作曲で発表…」とあると、ご教示いただきました。「『油壷』は、昭和11年8月宝塚中劇場で星組により上演されています。『歌劇』の復刻版などで、その前後のものを繰ってみたら、 何かもっと分かるかもしれません」ということで、時期的に考えても1936年とぴったりで、まちがいないと思われます。これで実在が確認され、いよいよ本格的捜索に入ります(2000.2.3)。
皓星社ホームページさんから、同社の刊行する『日本人物情報体系』データベースからの検索結果が寄せられ、「二宮秀」が実在し「宝塚文藝図書館報」という雑誌に3件の論文を寄せていたことが確認されました。
2002年6月14日、私は、30年来探してきた資料とご対面しました。本HP情報収集センター、特別研究室「尋ね人」で長く情報提供を訴え、この3月には「幻の日本語新聞『ベルリン週報』を求めて ――サイバー・メヂィアによるクラシック・メディア探索記」(『INTELLIGENCE』創刊号、紀伊國屋書店)を発表して活字でも探索してきた『伯林週報』の現物に、ついに出会うことができました。
前日夜にいただいたビッグニュースのメールは、専修大学の新井勝紘教授(日本近代史)から。本HPの『伯林週報』カバーの写真に記憶があり、『INTELLIGENCE』も読んで、自分がかつて国立歴史民俗博物館に勤めていた時に古書店から購入し所蔵しているものの一つではないかと思って探していたら、ついに見つかった、というもの。自由民権運動家のアメリカ亡命を追いかけてきた歴史学者ならではの直観で購入・保存していらしたもので、1931年第7号・第8号の現物がみつかりました。さらに、新井教授は、『中管時報』という1931-32年当時の在独日本人社会を知る一級資料をも同時に発見して貸して頂き、私はテレビを横目で睨みながら、その解読に没頭しました。とにかく1972年ドイツ留学時に『革命的アジア』というナチスに反対し日本の満州侵略に抗議するドイツ語雑誌を発掘して以来の貴重な第一次資料発見で、テレビのサポーターの皆さんに負けないくらいの学問的熱狂状態です。今回現物を提供してくれた新井教授、4月に蛯原八郎『海外邦字新聞雑誌史』中の写真を送って頂いた戦後三井物産ドイツ(ハンブルグ駐在員)のOさん、その前に手がかりを伝えてくれた蜷川虎三家の方々のほか、この間の皆様のご協力に、心から感謝致します。
今回新井教授から見せて頂いた『伯林週報』『中管時報』については、取りあえず暫定目録を作りましたが、ちょうど6月5日から群馬県桐生市大川美術館で「描かざる幻の画家 島崎蓊助遺作展」が始まり、『夜明け前』執筆期の父島崎藤村に反抗し国崎定洞や千田是也らの「在独日本人反帝グループ」に飛び込み挫折した、孤独な画家島崎蓊助の心象世界を遺稿「絵日記の伝説」から解読している最中でしたので、喜びもひとしおです。蓊助のセピア色の絵を視るさいの貴重な材料が加わったことになります。『伯林週報』は、鈴木東民、与謝野譲、安達鶴太郎、白井晟一らが編集に関わったと思われる1928-34年当時の在独日本人相手の日本語新聞です。今回の現物発見で、蛯原『海外邦字新聞雑誌史』では写真が不鮮明でわからなかった『伯林週報』の表紙カバーが読めて、当時の鈴木東民の住所や、発売元が有澤広巳自伝『学問と思想と人間と』に向坂逸郎から紹介された「ベルリンの古本屋」として出てくるシュトライザント書店であることが、わかりました。鈴木と有澤は旧制二高・東大の同級生です。シュトライザントや日本郵船等の『伯林週報』に載せた広告が貴重です。たとえば当時の日本・ドイツ間の船賃や日本食レストランの所在がわかります。国崎定洞のドイツ人妻フリーダ・レートリヒさんが「独逸語会話出張教授 Frieda Redlich」という広告を寄せており、東大医学部助教授を辞した後の国崎の住居や生計の一端がわかります。鈴木東民自身の文章と思われる「英雄身辺雑事」という記事は、権力掌握前のヒトラーの批評として重要なものです。『中管時報』は、1922年創立の在独日本人共同購入組合「中管NAKAKAN」のコマーシャル・ニュースですが、1935年発行の蛯原『海外邦字新聞雑誌史』もノーマークの貴重資料でした。この店を中心に在ベルリン日本人の独逸研究会が組織されており、その参考資料として「独逸共和国政治組織一覧」「独逸プロシヤ邦学校組織図解一覧」など当時を知る貴重なドキュメントが満載されています。ともかく全体が宝の山です。本HPの「国際歴史探偵」としての新しい巨大な成果で、これから本格的解明に入ります。
ここ数年のドイツと日本での調査で、どうしても見つからない資料がありました。鎌田慧さんの『反骨──鈴木東民の生涯』(講談社)にも出てきますが、ワイマール時代後期からナチスの政権獲得期、1928-34年頃にベルリン在住の日本人向けに出されていた『ベルリン週報』という日本語新聞です。帝大新聞編集部出身で当時電通ベルリン特派員だった鈴木東民(戦後読売争議指導者・釜石市長)が創刊し、反帝グループの与謝野譲(与謝野鉄幹・晶子甥)、安達鶴太郎(当時ベルリン大学学生・戦後時事通信政治部長)も編集・広告を手伝ったという謄写版(ガリ版)刷り──わからない人は、井上ひさし『東京セブンローズ』(文藝春秋社)をお読みください──のドイツ生活情報紙で、当初50部、最盛期には数百部ぐらい出ていたといいます。よく海外のジャパニーズ・レストランなどにおいてある、日本語のご当地情報紙の走りです。 政治的資料ではありませんが、これが当時の在独日本人の日常生活を知る上で重要だと考え、ずっと探しているのですが、どうしても見つかりません。鈴木東民夫妻には生前おたずねし、先日お亡くなりになった安達鶴太郎夫人にもうかがいましたが、確かに自分たちがつくったという記憶がありながら、現物は持っていませんでした。日本の外務省外交史料館所蔵の在独日本大使館関係資料・日独協会資料にも入っていません。日本人反帝グループのご遺族・関係者の聞き取りのさいは必ずうかがっているのですが、どなたも持っていません。途中にファシズムと戦争の時代が挟まるとはいえ、現地のドイツならあるだろうと思って、こちらでも探しました。ベルリン連邦図書館、ブンデスアルヒーフ(ベルリン、コブレンツ)、ランデスアルヒーフ、ボン外務省史料館、独日協会、ベルリン日本センター、ベルリン大学等各大学図書館など、ドイツ中の関係アルヒーフに問い合わせ、実際にも資料にあたってみましたが、一部もみつかりません。ドイツの日本研究の友人たちにも頼んで探しているのですが、当時のドイツ語日本研究誌『YAMATO(大和)』などは連邦図書館に全号揃っているのに、『ベルリン週報』は、どこにもありません 。ハイデルベルグ大学の博学なヴォルフガング・シャモニさんも、その存在そのものを知りませんでした。どなたか、戦前ドイツにいらっしゃった方のお宅に、今となっては貴重なこの資料、何かの包み紙としてでも、眠っていませんでしょうか?
昨年このコーナーで探索した『ベルリン週報』について、同時期ベルリンに留学していた元京都府知事蜷川虎三氏(当時京大助教授)のご遺族から、同じくドイツに留学していた経済学者で、大阪市立大学教授を長く勤めた四宮恭二の著書『ヒトラー・1932−34、ドイツ現代史への証言』(NHKブックス、1981年)上巻245ページ以下に、「故鈴木東民氏がベルリンで在留日本人のために編集発行されていた小冊子『ベルリン通信』(たしかそうだったと思う)の中からそのまま拝借した」資料が収録されている、とご教示を受けました。残念ながら四宮氏も他界し、関係者も事情はわからないとのことです。この引用には、「当時ベルリンでこれを見て必要な箇所を持ち帰った」とありますから、少なくともヒットラー政権成立後の1933年3月時点で、その実在が証明されたことになります。皆様の情報提供を、切にお願いし期待いたします。」
いま私が没頭しているのは、なぜか白井晟一(しらい・せいいち、1905-83)という建築家の生涯。「本をさがす」から「日本の古本屋」、「インターネット古書店案内」などを駆使して、手当たり次第に文献を集めています。建築関係の書物は高価なのが悩みのタネで、今までノーマークでしたが、情報収集センターで探索中の「在独日本人反帝グループ」に関わるキーパースンの一人として浮かび上がったため。発端は、ある編集者からのメール。本HP「現代史研究」所収の論文「ベルリン反帝グループと新明正道日記」では、林芙美子の1931ー32年パリ滞在時の『巴里日記』に出てくる恋人「S氏」を、海野弘説に従いパリ・ガスプ(在巴里芸術科学友の会)に属する「坂倉準三」としたのですが、最近林芙美子の当時の『自筆日記』が出てきて、「S氏=白井晟一」と判明したという情報。建築学界ではよく知られていたそうですが、文芸評論の世界では画期的な発見で、これを論じた昭和学院短期大学今川英子さんの論文も、送っていただきました。 すると驚いたことに、「林芙美子の恋人S氏=白井晟一」が完璧に論証されているだけでなく、芙美子とパリで別れた白井晟一が、ベルリン大学に通い、「鈴木東民のあとを受け、邦人相手の左翼新聞『ベルリン通信』を市川清敏とともに編集発行」、その後香川重信と共に「モスクワに渡り一年間滞在、この時帰化しようとしたがかなわず、1933年、シベリア経由でウラジオストックから敦賀に帰港」という話まで出てきました。ここに出てくる『ベルリン通信』とは、本HP「2001年の尋ね人」で『ベルリン週報』として探しているものと、同一でしょう。あわててベルリンで調べた当時のベルリン大学在籍日本人名簿をチェックしたところ、白井晟一は1931/32年冬学期、32年夏学期に確かに在籍しており、本HPで長く探求してきた竹久夢二のユダヤ人救出活動に関わったと思われる井上角太郎 、在独日本人反帝グループの有力メンバー八木誠三、同じく有力メンバーで存命中の喜多村浩らと、同級生であることがわかりました。 新たなエキサイティングな謎が加わって、「現代史の謎解き」は、いよいよ混沌です。「月刊 デラシネ通信」で、大島幹雄さんが粛清秘密資料を全面公開した旧ソ連のサーカス芸人ヤマサキ・キヨシと共に、皆さんの情報提供を求めます。
2002/4/1 東京のサクラは前回更新直後に花開き、あっという間に散ってしまいましたが、情報収集センター の目玉「現代史の謎解き」で、またまた大きな成果です。ワイマール期在独日本人反帝グループの鈴木東民が創刊し、長く「尋ね人」欄に掲げてきた当時の在独日本人向け日本語新聞「幻のベルリン週報」が、とうとう現物の片鱗をあらわしました。右の写真は、昭和11(1936)年刊行の蛯原八郎『海外邦字新聞雑誌史』(学而書院)の一節「欧州編・ベルリン」のグラビアページ、戦前ベルリンで発行された『独逸月報』『独逸情報』誌とならんで、左上にうっすらと『伯林週報』というタイトルが読みとれます。やっぱり『ベルリン通信』でも『ベルリン週報』でもなく、『伯林週報』でした。拡大してみると「BERLIN SHUHO,No.37, 3(?). Jahrgang, 1 November 1930, Redaktion: T.SUZUKI」と読みとれます。本文の解説には、「昭和3年(1928年)2月25日、週刊『伯林週報』が鈴木東民によって創刊された。菊2倍判、石板刷の数枚を横綴にしたものであった。現在は安達鶴太郎によって継続刊行中とのことである」とあります。鈴木東民は敗戦直後の読売新聞論説委員長で有名な読売争議の指導者、安達鶴太郎は同じ頃時事通信政治部長で、当時のベストセラーである徳田球一・志賀義雄『獄中十八年』や野坂参三『亡命十六年』がなぜ時事通信社から出たかの鍵を握る人物です。実はこの情報、活字メディアを介して寄せられました。3月に紀伊国屋書店からINTELLIGENCEという雑誌が創刊されました。そこに私は、「幻の日本語新聞『ベルリン週報』を求めて ――サイバー・メヂィアによるクラシック・メディア探索記」という論説を寄稿しました。本HPを活用しての現代史研究の記録です。その創刊発売と同時に読んでくれた東京のOさんが、論文末尾に付した電子メールアドレスに、『伯林週報』のことが蛯原八郎『海外邦字新聞雑誌史』に出ているという情報を寄せてきて、コピーまで送ってくれたのです。その存在を知ってから、実に30年ぶりのご対面となりました。もっとも表紙の写真だけで、本文を読めるのはいつになるか、まだまだ旅は続きますが。Oさん、ありがとうございます!
(2000/12/29)この間、鳥居敏文画伯にききとりし、パリ・ガスプの一員であった画家田中忠雄のご遺族とお会いしました。パリでルイ・アラゴンの家に連絡文書を運んだこともあったようです。
敗戦・占領で日本のマスコミが外国特派員をおけなかった時期に、戦後初の朝日新聞ニューヨーク通信員となり(森恭三の依頼?)、マーシャルプランや湯川秀樹のノーベル賞受賞をトップニュースで報道。1949ー57年期は朝日新聞外報部嘱託であった。57年スイス移住、1967年にスイスのジュネーヴで死亡。
井上は、ベルリン反帝グループの小林義雄(戦後専修大学教授・経済学者)と親しく、戦後も交際していた。ナチスが権力を獲得した1933年、画家の竹久夢二はベルリン商務官事務所の世話を受けながらユダヤ人救出運動に関わったとされるが、夢二はドイツ語がほとんどできず、単独で行ったとは考えにくい。そこでベルリン大学で反ナチ運動中の井上が、商務官事務所の助手でもあり、夢二を助けたのではとも想像できるが、いまのところ井上とのつながりはみつかっていない。井上と同期にベルリン大学に通った徳川義寛(戦後の昭和天皇侍従長)、八木誠三(日本人反帝グループ若手の中心の一人で戦後名古屋丸栄デパート取締役)は、共にドイツから竹久夢二の絵を持ち帰っているが、井上の周辺に夢二の絵はない。
1992年に発見された旧ソ連秘密文書「国崎定洞ファイル」中に、1934年夏にロンドンから野坂参三宛手紙を持って「イノウエ夫妻」がモスクワに来て、佐野碩・国崎定洞・野坂龍らと接触しようとし、それが当時のソ連秘密警察に怪しまれ、後に国崎定洞らが「日本のスパイ」として粛清される遠因となったことを示す資料があり、この「イノウエ夫妻」に該当する人物が井上角太郎・ヘレーネ夫妻であったことは、2000年8月の遺児エヴァ・井上さんとのニューヨークでの会見で確認された。
第一は、もともと一九二六年秋の蝋山政道来独をきっかけに始まる、有澤廣巳・堀江邑一・国崎定洞・千田是也・鈴木東民・山田勝次郎・土屋喬雄・平野義太郎・蜷川虎三らが加わった「ベルリン社会科学研究会」の参加者ないし関係者である。ブハーリン、スターリン、レーニン。ヴァルガなどマルクス主義文献をテキストにした読書会兼親睦会で、ベルリン反帝グループの前身になる。蝋山が設立提唱者で、有澤・国崎が実質的中心であった。一九三〇年代の講座派(平野・山田ら)も労農派(有澤・土屋ら)も、両派をおしつぶした体制派(国民精神文化研究所の経済学担当・思想善導係になる山本勝市、柔道赤化防止運動の工藤一三ら)も、一緒にマルクス主義を学んでいたことが興味深い(本書第二章、参照)。
蝋山 政道(一八九五ー一九八〇)二五年一月ー二七年八月英独留学、当時東大法助教授(政治学)、旧制一高・東大卒、新人会出身、二八年教授、三九年平賀粛学辞任、昭和研究会、戦後東大復学、五四年御茶の水女子大学学長、六八年東京都教育長(『無産政党論』日本評論社、三〇年、『追想の蝋山政道』非売品、八二年)
有澤 広巳(一八九六ー一九八八)二六年四月ー二八年五月在独、当時東大経助教授(統計学)、旧制二高・東大卒、三八年検挙、四五ー五六年東大教授、五九ー六二年法大学長、八〇ー八六年日本学士院長(『有澤廣巳の昭和史』全三巻、東京大学出版会、八九年、『ワイマール共和国物語』上下、東京大学出版会、九四年)
国崎 定洞(一八九四ー一九三七)二六年一〇月ー三二年九月在独、当時東大医助教授(社会衛生学)、旧制一高、東大卒、二九年五月免官、三二年九月モスクワ亡命、三三年クートベ、三七年八月四日逮捕、一二月一〇銃殺(川上武・加藤哲郎『人間 国崎定洞』勁草書房、九五年)
堀江 邑一(一八九六ー一九九一)二六年九月ー二八年九月在独、当時高松高商教授、京大卒・河上肇ゼミ、三四年検挙、昭和研究会書記・尾崎秀実親友、四〇年満鉄調査部・検挙、四五年日本共産党入党、五七年日ソ協会会長(「国崎定洞の憶い出」『文化評論』七五年一一月号、『堀江邑一先生を偲ぶ』日本ユーラシア協会、九三年」
谷口 吉彦(一八九一ー一九五六)二六年一〇月ー二八年五月在独、当時京大経助教授、京大卒、三三年京大教授(国際経済)、四〇年経済学部長、四六ー五一年公職追放・貿易商、五三年大阪市大教授、五五年香川大学長(『東亜総合体の原理』日本評論社、四〇年、『大東亜経済の理論』千倉書房、四二年)
山本 勝市(一八九六ー一九八六)二五年三月ー二七年九月仏独米留学、当時和歌高商教授、京大卒、三一ー三二年再渡独、三二年文部省国民精神研究所、四六年自民党代議士当選五回(『マルクシズムを中心として』思想研究会、三〇年、『計画経済の根本問題』理想社、三九年、『思い出の記』東京山本会、六三年)
舟橋 諄一(一九〇〇ー九六)二六年一二月ー二九五月年在独米、当時九大文副手(民法)、東大法卒、三〇年九大教授、四九年法学部長、六四年九大名誉教授、法政大・創価大教授(徳本鎮「故舟橋諄一先生を偲んで」『ジュリスト』九七年二月一五日)
菊池 勇夫 (一八九八ー一九七五)二六ー二八年在独、当時九大法副手(労働法)、東大法卒、二八年九大助教授、二九年同教授、四九ー五三年九大学長(芹沢光冶良「長い旅路の伴侶」『こころの広場』新潮社、七七年)
山田勝次郎(一八九七ー一九八二年)二六ー二八年在英独(とく夫人同行)、当時京大農助教授、東大卒、三一年検挙、プロレタリア科学研究所、ソヴェート友の会、講座派、戦後共産党入党・六四年除名、高崎で実業家(蝋山政道実弟、『米と繭の経済構造』岩波書店、四二年、小山長四郎『風灯』限定版、七二年)
松山 貞夫(一八九五?ー一九六八)二六ー二八年在独、当時福島高商教授、福井県出身、東大法卒(我妻栄同期)、三三年全協事件で検挙・免職、岩波『法律学小事典』 編集、三八年満鉄調査部、戦後四八ー六七年法務省法務図書館長(井村哲郎編『満鉄調査部』アジア経済研究所、九六年)
岡上 守道(一八九〇ー一九四三、別名黒田礼二)二〇年六月ー三二年八月在独、当時朝日新聞特派員、旧制一高・東大卒、新人会出身、大阪朝日露独特派員、三四ー三六年再訪後『日独旬刊』(『廃帝前後』中央公論社、三一年)
鈴木 東民 (一八九五ー一九七九)二六年八月ー三四年三月在独、当時電通特派員・『伯林週報』発行、旧制二高・東大卒、三五年読売新聞入社、四四年検挙、四五年読売争議委員長、五五ー六七年釜石市長(『ナチスの国を見る』福田書房、三四年、鎌田慧『反骨』講談社、八九年)
横田喜三郎(一八九六ー一九九三)二六年一月ー二八年一〇月在仏独米、当時東大法助教授(国際法)、東大法卒、三〇ー五七年東大教授・四八年法学部長、六〇ー六六年最高裁判所長官、八一年文化勲章(『私の一生』東京新聞社、七六年、竹中佳彦『日本政治史の中の知識人』木鐸社、九五年)
黒田 覚(一九〇〇ー一九九〇)二六年四月ー三〇年四月在独英仏、京大法卒、三三年滝川事件で立命館へ、三五年京大教授(憲法)、四六年公職追放、五三年都立大・六三年専修大・六五年神奈川大教授(『国防国家の理論』弘文堂、四一年)
八木芳之助 (一八九五ー一九四四)二七年二月ー二九年七月在独、当時京大経助教授(農業経済学)、京大経卒、三四ー四四年京大教授、四一ー四三年京大経済学部長
岡内 順三(一九〇七ー一九五三、別名白髭渡)二七年三月ー三三年二月在独、当時音楽・労働者スポーツ研究、高松中卒、三三年帰国検挙(村山知義義弟、「岡内順三調書」三三年)
土屋 喬雄(一八九六ー一九八八)二七年四月ー二九年七月在独、当時東大経助教授(経済史、労農派)、東大経卒、三九ー五七年東大教授、六五年朝日文化賞、明大・駒大教授(日経『私の履歴書・三〇』六七年)
千田 是也(一九〇四ー九四、本名伊藤圀夫)二七年五月ー三一年一一月在独、当時俳優・演劇研究、早大中退・築地小劇場俳優、三三ー三五年検挙・獄中、三六年新築地劇団、四四年俳優座創設・代表、新劇団協議会代表(『傍白』早川書房、五三年、『もうひとつの新劇史』筑摩書房、七五年、藤田富士男『劇白 千田是也』オリジン、九五年)
与謝野 譲(一九〇三ー三九)二七年八月以降在独、当時日労党系ジャーナリスト・『伯林週報』営業、旧制一高・東大卒、新人会出身、三〇年代は「反帝グループ」に加わらず「中管商店」を手伝っていたともいう(与謝野寛の弟修の結婚前の子で一時寛・晶子三男として入籍、外交官与謝野秀は従兄、石田英一郎・中野重治・石堂清倫同級)
平野義太郎(一八九七ー一九八〇)二七年一二月ー二九年一一月フランクフルト大留学、当時東大法助教授(民法)、旧制一高・東大卒、三〇年共産党シンパ事件罷免、日本資本主義発達史講座編集、三六年逮捕、五〇年日本平和委員会会長(『日本資本主義社会の機構』岩波書店、三四年、『民族政治学の理論』日本評論社、四三年、広田重道『稿本 平野義太郎評伝』七四年、『平野義太郎 人と学問』大月書店、八一年)
蜷川 虎三(一八九七ー一九八一)二八年四月ー三〇年三月在独仏、当時京大経助教授(統計学)、京大経卒、三九年京大教授・四五年経済学部長、四八年中小企業庁長官、五〇ー七八年京都府知事(『洛陽に吼ゆ 蜷川虎三回想録』朝日新聞社、七九年、細野他『蜷川虎三の生涯』三省堂、八二年)
高野岩三郎 (一八七一ー一九四九)二六年一〇月ー二七年九月ミュンヘン滞在、当時大原社研所長、東大卒、一九〇三ー一九年東大教授、二八年日本大衆党、四六年NHK会長 (大島清『高野岩三郎伝』岩波書店、六八年、『大原社会問題研究所五十年史』法大出版局、七一年)
工藤 一三(一八九八ー一九七〇)二六年ー二九年ベルリン体育大留学、当時浦和高助教授・柔道家、佐賀高・東京高師卒、国士館教授、四一年厚生省体育官、戦後警察大教授・警視庁柔道指南
勝野 金政 (一九〇一ー八四、別名林)二八年二ー三月訪独、当時パリ大学追放でベルリン経由モスクワへ、早大卒、同郷島崎藤村の勧めで二四年パリ大留学、二八年モスクワ入りし片山潜秘書、三〇年根本辰事件で検挙・強制収容所(ラーゲリ生活)、三四年刑期短縮・帰国、陸軍・東方社、戦後故郷信州南木曾で実業家(『赤露脱出記』日本評論社、三四年、『凍土地帯』吾妻書房、七七年)
衣笠貞之助(一八九六ー一九八二、俳優藤沢守)二八年八月ー三〇年五月在独、当時映画監督・俳優・衣笠映画、二八年「十字路」上映、三二年「忠臣蔵」、五三年「地獄門」でカンヌ映画祭グランプリ(『わが映画の青春』中公新書、七七年)
岡田 桑三(一九〇三ー八三、俳優山内光)二一ー二四年独留学、二九年夏訪独、当時映画俳優・プロキノ映画、四一年東方社理事長、満映、戦後科学映画製作、六一年菊池寛賞・六四年朝日賞(川崎賢子・原田健一『岡田桑三 映像の世紀』平凡社、二〇〇二年)
第二に、後に詳しくみる新明正道らの研究会は、この「ベルリン社会科学研究会」に対抗し、それが実践的・政治的な「ベルリン反帝グループ」へと転化する端境期に、ドイツ共産党系運動に距離をおき、カール・コルシュやアウグスト・タールハイマーを囲む読書会を開いていた(本書第三章、参照)。そのメンバーは以下の通りである。
新明 正道(一八九八ー一九八四)二九年四月ー三一年四月在独仏、当時東北大助教授(社会学)、旧制四高・東大卒、新人会出身、三一ー六一年東北大教授、戦時大日本言論報国会、戦後学士院会員(『ワイマールドイツの回想』恒星社厚生閣、八四年、『ドイツ留学日記』時潮社、九七年)
杉本 栄一(一九〇一ー五二)二九年五月ー三二年三月在独、当時東京商科大助教授(経済原論)、東商大卒・福田徳三ゼミ、三二ー五二年東商大・一橋大教授
服部英太郎(一八九九ー一九六五)三〇年四月ー三二年三月在独、当時東北大助教授(社会政策)、旧制三高・東大卒・新人会、三五年東北大教授、四二年検挙、四六年復職、六二年福島大学長(「大学生活四十年――服部教授に聞く」東北大学研究年報『経済学』六六・六七号、一九六三年)
小畑 茂夫(?ー一九三三)三〇年四月ー三二年?在独、当時大倉高商教授、東商大卒・高垣寅次郎ゼミ(貨幣論)
大熊 信行(一八九三ー一九七七)三〇年七月ー三一年九月在独、当時高岡高商教授(経済学)、東商大卒・福田徳三ゼミ、戦時大日本言論報国会、五二年神奈川大・創価大教授(『ある経済学者の死生観』論創社、九三年)
第三は、ベルリン社会科学研究会参加者であった国崎定洞・千田是也らに、二九年頃からベルリンに入る小林陽之助・勝本清一郎・藤森成吉らが加わって、反戦反ファシズムの実践活動を始めた在独左翼グループである(本書第四章以下、参照)。その中核には、国崎定洞を責任者とするドイツ共産党日本人部があった。政治的には、モスクワの片山潜・勝野金政、日本の経済学者河上肇、共産党指導部岩田義道らとつながり、コミンテルン(共産主義インターナショナル)のいわゆる「三二年テーゼ」は、平野義太郎・堀江邑一・小宮義孝・河上左京らを介して、このルートで日本に送られた(本書第六ー八章参照)。その周辺には、ナップ[全日本無産者芸術団体協議会]ベルリン支部、プロレタリア科学研究所ベルリン支部、革命的アジア人協会などを組織し、国際反帝同盟、国際赤色救援会(モップル)、国際労働者救援会、文学・演劇・美術・建築・写真などの左翼国際組織と連絡していた。「ベルリン在住日本人左翼グループ」「ドイツ共産党日本人部(エル・ゲーLanguage Group)」「在独日本人革命家グループ」などさまざまな名前で、関係者の回想や特高外事警察の記録にでてくるが、ベルリンに本部をおく国際反帝同盟のよびかけに応えた反戦反ファッショ闘争が活動の中心であったので、ここでは「ベルリン反帝グループ」とよんでおく。
国崎 定洞(ベルリン社会科学研究会、別名アレクサンダー・コン)二八年七月ドイツ共産党(KPD)入党、二九夏反帝同盟フランクフルト大会出席、二九年末ドイツ共産党日本人部結成。三一年三月ベルリン反ファッショ大会日本代表、三二年一月ー三三年三月「革命的アジア人協会」組織、三二年夏アムステルダム国際反戦大会日本代表、そのままモスクワ亡命、三七年八月「日本のスパイ」として逮捕され一二月一〇日銃殺(加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』青木書店、九四年、加藤『国境を越えるユートピア』平凡社、二〇〇二年)
千田 是也(ベルリン社会科学研究会)二七・二九年国際反帝同盟評議会出席、二九年七月ドイツ共産党入党、ATBT(ドイツ労働者演劇同盟)・IATB(国際労働者演劇同盟)日本代表
岡内 順三(ベルリン社会科学研究会)三〇年ドイツ共産党入党
三宅鹿之助 (一八九九ー一九八二年)二九年二月ー三一年四月独仏英米留学、当時京城帝大助教授(財政学)、東大経卒(山田盛太郎・岩田義道同窓)、三二年教授、三四年五月京城大赤化事件で逮捕・三七年辞任、戦後東洋大・龍谷大・東北学院大教授(「ベルリン生活の思い出」『経済』七二年五月」
白井 晟一(一九〇五ー八三)二八年四月ー三二年在独、当時ベルリン大学学生・『伯林週報』編集、京都高等工芸卒、三三年モスクワ滞在、シベリア鉄道経由帰国、建築家(三一年春パリで林芙美子の恋人S氏、『建築文化特集 白井晟一』八五年二月、今川英子編著『林芙美子 巴里の恋』中央公論新社、二〇〇〇年)
川村金一郎 (一九〇八ー九九)二九年四月ー三一年一〇月在独、当時ベルリン大学生(映画研究、鈴木東民同郷後輩)、帰国後プロキノ運動検挙、東京日々・毎日新聞外信部、戦後岩手日報政治部長・盛岡文化懇談会、共産党地区委員長・レッドパージで家業の洋品店経営、盛岡商工会議所、岩手大独語講師(『川村金一郎小文集』非売品、九五年)
小林陽之助 (一九〇八ー四二、別名コバ)二九年九月ー三三年二月在独、当時ベルリン工科大留学生、旧制二高中退(河上肇高弟の小林輝次甥)、三〇年ドイツ共産党入党、ハンブルグの海員組合で活動、三三年モスクワ亡命、三三ー三五年クートベ在学、三五年コミンテルン第七回大会日本青年代表、三六年七月帰国地下活動、三七年一二月逮捕・獄中死(「小林陽之助聴取書」三八年、林虎雄『野坂陰謀を暴く』道理社、五〇年)
勝本清一郎(一八九九ー一九六七)二九年一〇月ー三三年一二月在独、当時文芸評論家・三〇年一一月ハリコフ世界革命作家同盟大会日本代表、慶応大院卒、三田文学同人、三五年日本ペンクラブ初代主事、三八年大岩誠事件で検挙、五一年日本ユネスコ協会連盟理事長(『赤色戦線を行く』新潮社、三〇年、『前衛の文学』新潮社、三〇年、『こころの遠近』朝日新聞社、六五年、『近代文学ノート』全四巻、みすず書房、七九・八〇年)
島崎 蓊助(一九〇八ー九二)二九年一〇月ー三二年末 在独、プロレタリア美術、明治学院・川端画学校卒、島崎藤村三男、『嵐』三郎のモデル、勝本に同行、画家(「在独日本青年素描」『改造』三六年二月、加藤哲郎・島崎爽助編『島崎蓊助自伝』平凡社、二〇〇二年」
根本 辰 (一九〇四ー三八)三〇年一月ー九月在独、当時哲学研究でモスクワに行くが山本懸蔵にスパイと疑われ逮捕・国外追放、勝野金政粛清の原因となる、京大文卒、無産者新聞編集部、帰国後地方行政学会(音楽評論家山根銀二の義兄、M・ウェーバー『音楽社会学』を山根と翻訳)
藤森 成吉(一八九二ー一九七七)三〇年一月ー三二年五月在欧米(信子夫人同行)、当時日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)委員長・三〇年一一月ハリコフ世界革命作家同盟大会日本代表、東大卒、文芸戦線、三二年ソヴェート友の会、四九年日本共産党入党、七二年日本国民救援会会長(「転換時代」『改造』三一年一〇月、『藤森成吉全集』全一巻、改造社、三二年、『ヨーロッパ印象記』大畑書店、三四年、藤森岳夫『たぎつ瀬』八六年)
服部英太郎(新明正道研究会)
井上角太郎(一九〇〇ー六七)三一年一月ー三三年一〇月在独、当時ベルリン大留学生(経済学)・在独日本商務官事務所助手、北海道出身・京大経済学部卒、三三年ロンドン、三九年アメリカ渡航、日米民主委委員会、『紐育時事』『北米新報』編集、戦後占領期朝日新聞ニューヨーク通信員、晩年はスイス在住
山口 文象(一九〇二ー七八、別名岡村蚊象)三〇年一二月ー三二年六月在独、当時ベルリン工科大学生・建築家・ドイツ社会主義建築同盟加盟、東京高工付卒、創宇社、グロピウス事務所、五三年RIA建築総合研究所(『山口文象 人と作品』相模書房、八二年)
山西 英一(一八九九ー一九八四)三一年二ー四月訪独、広島高師講師・文学研究者、三五年までイギリス留学、三八ー五〇年成蹊高講師、戦後トロツキー・ドイッチャー翻訳者(「ファシズム把権の前夜」『運動史研究』一五号」
和井田一雄(一九一一ー五八、別名南)三一年六月ー三三年初在独、当時ベルリン大留学生(哲学)、旧制一高・東大卒、三三ー三六年パリ大留学(独仏文学)、三八ー四六年外務省情報部(作家中村光夫と同級生)、四九年東京理大助教授
喜多村 浩(一九〇九ー二〇〇二、別名西村)三一年夏ー三三年七月在独、当時ベルリン大留学生(経済学)、旧制一高中退・有澤廣巳紹介で渡独、三三年バーゼル大、三九ー四八年読売新聞ローマ特派員、四八年帰国、四九年都立大教授、五七年国連エカフェ日本代表、七一年青山学院大・国際キリスト教大・国際大学教授
安達鶴太郎(一九〇六ー八九)三一夏ー三九年三月在独、当時ベルリン大留学生・三六年同盟通信ベルリン支局長、旧制一高・東大卒・新人会出身、戦後時事通信政治部長・編集局長
嬉野満洲雄(一九〇七ー九三)三一年六月ー三三年三月ベルリン大留学生、東大在学中検挙中退、三三年読売新聞、三六年中国支局・三九年ベルリン特派員・欧州局長、戦後読売新聞論説委員、ボーン賞受賞(『勝利を惧れる』共立書房、四六年、「私の見たナチス・ドイツ」『反共主義 歴史の教訓』日本共産党出版局、七五年)
八木 誠三(一九〇九ー八一、別名石村)三一年夏ー三四年在独、当時ベルリン大留学生(経済学)、有澤廣巳紹介で渡独、四一年小栗喬太郎事件検挙、戦後名古屋丸栄百貨店・日本電装取締役
小栗喬太郎(一九〇六ー六七、別名小川)三一年七月ー三三年二月在独、当時プロレタリア・スポーツ研究、 半田中卒(作家小栗風葉甥)、三二年六月ドイツ共産党入党・労働者スポーツ担当、三三年ソヴェート友の会、四〇年検挙、四五年日本共産党入党・平和運動に従事(佐藤明夫編『ある自由人の生涯』六八年、小中陽太郎『青春の夢』平原社、九八年)
岡部 福造(一九〇三ー三五)三一年六月ー三三年三月在独、当時山形高校教授(独文学)東大独文卒、二六ー三三年山形高教授(「山高文化運動の父」)、帰国後結核死
小林 義雄(一九〇九ー九五)三一年八月ー三二年六月在独、当時ベルリン大学留学生(経済学)、旧制三高・東大卒・有澤廣巳ゼミ、東京商工会議所、三八年東亜研究所・大岩誠事件検挙、四九年専修大・六六年國學院大学教授(『小林義雄教授古希記念論集』西田書房、八三年)
佐野 碩(一九〇五ー六六)三一年九月ー三二年一〇月在独、演出家、浦和高・東大卒・新人会出身、三三年モスクワ亡命・メイエルホルド師事、三七年ソ連国外追放、パリ・米国経由三九年メキシコ亡命・演劇活動(後藤新平孫・佐野学甥、「メキシコ演劇の父」、藤田富士男『ビバ・テアトロ』オリジン、八九年)
三枝 博音(一八九二ー一九六三)三一年一〇月ー三二年三月在独、当時成蹊高講師・哲学者、旧制五高・東大卒、三二年唯物論研究会、三三年検挙、四六年明大・鎌倉アカデミア、五二年横浜市大教授、六一年横浜市大学長(飯田賢一『回想の三枝博音』こぶし書房、九六年、『三枝博音著作集』中央公論社、七二ー七三年)
野村 平爾 (一九〇二ー七九、別名東条)三二年二月ー三三年一〇月在独、当時早大法助手(労働法)、早大卒、ニューヨーク、パリ・ガスプ経由ベルリンへ、三八年大岩誠事件検挙、四〇年早大教授、戦後日本学術会議副会長(『民主主義法学に生きて』日本評論社、七六年、『野村平爾著作集』全五巻、労働旬報社、七八年)
大野 俊一(一九〇三ー八〇)三二年五月ー三三年一〇月在独、当時ベルリン大学留学生(独仏文学研究)、東大独文卒、パリ・ガスプを経て訪独、三六年外務省・四一年情報局嘱託、五四年日本ユネスコ連盟協会(勝本の補佐)、五七ー七〇年慶大・七〇ー七三年武蔵大教授(石田英一郎・竹山道雄友人)
大岩 誠(一九〇〇ー五七、別名三田)三二年六ー七訪独、当時京大助教授(政治思想)、京大卒、パリ大留学・ガスプ結成・マルセーユ海員組合で活動、三三年滝川事件辞任・立命館大教授・『世界文化』同人、三八年小林陽之助幇助で逮捕・供述・転向、五一年南山大教授(『新社会設計図』甲文堂、三六年、「大岩誠調書」三八年)
千足 高保(一九一〇ー八〇)三二年五月ー四五年末在独、当時ベルリン大留学生(哲学)、東京外語露語科卒、ベルリン日本人学生会代表、四二年ベルリン大講師、四三年在独日本大使館、四五年帰国・東京裁判通訳、五六年防衛大・五九年東女大教授(『ドイツに学ぶ』美和書房、四九年)
鳥居 敏文(一九〇八−二〇〇六)三二年七月ー三三年二月在独、当時プロレタリア美術運動・画家、村上中・東京外語卒、三三年三月ー三五年四月パリ、独立美術協会(林武師事、宇佐見承『池袋モンパルナス』集英社、九〇年)
竹谷富士雄(一九〇八ー八四)三二年七月ー三三年二月在独、当時プロレタリア美術運動・画家、村上中・法政経卒、三三年三月ー三五年四月パリ、新制作派協会、再渡仏 (『パリの陽だまりから』芸立、七八年)
土方 與志(一八九八ー一九五九)三三年五月パリからベルリン経由モスクワ亡命(梅子夫人同行)、二二ー二三年独留学、築地小劇場創設・演出家、三三年モスクワ亡命・爵位剥奪、三七年国外追放でパリ経由四一年帰国逮捕、新演劇人協会(『演出者の道』未来社、六九年、『土方梅子自伝』早川書房、七六年、尾崎宏次・茨木憲『土方与志 ある先駆者の生涯』筑摩書房、六一年)
二宮 秀(一九〇〇ー七一)三二ー三三年在独、当時音楽研究・鳥居敏文らと活動、神戸の医者の息子、パリ経由で帰国後、宝塚歌劇団音楽監督(川崎賢子『宝塚というユートピア』岩波新書、二〇〇五年)
第四は、ベルリン反帝グループと主要なメンバーが重なり、政治的にも人的にも密接な連絡を保っていた、パリ在住のグループである。パリの反帝グループは、一九三二年一月には「ガスプ(GAASP)」を結成し、学習会など組織活動を行っていた。「ガスプ」とは、パリ及びベルリンでの中心メンバーの一人であった野村平爾(後の早稲田大学教授、労働法)によれば、「在巴里芸術科学友の会」の略称であった(『民主主義法学に生きて』日本評論社、一九七六年)。パリという場所がら若手画家が多く、戦中・戦後の日本美術界にもそのネットワークを残している。
大岩 誠 (ベルリン反帝グループ) 三〇年五月ー三三年一月パリ大学、マルセイユで日本人船員向け反戦活動、三二年一月ガスプ結成
嬉野満洲雄(ベルリン反帝グループ)三〇年六月ー三一年六月パリ大学
野村 平爾(ベルリン反帝グループ)三一年八月ー三二年二月パリ大学、三二年一月ガスプ結成
佐野 碩(ベルリン反帝グループ)三二年一月パリ訪問・ガスプ結成
和井田一雄(ベルリン反帝グループ)三二年三月パリ訪問
坂倉 準三(一九〇一ー六九)二九年八月ー三六年四月在仏、当時建築家(コルビュジェ師事、山口友人友人)、東大美学卒、三二年一月ガスプ結成、三七年パリ万博日本館当選、四〇年坂倉建築研究所(『大きな声』鹿島出版会、七五年)
吉井 淳二(一九〇四ー二〇〇四)二九年一一月ー三二年在仏、当時画家、美校卒、三二年一月ガスプ結成、四〇年二科会、七八年二科会理事長、七六年芸術院会員、八九年文化勲章受賞(『画ちょうの栞』南日本新聞社、九八年)
平田 文夫(一八九八ー一九六八)三〇年五月ー三二年三月在仏、当時桐生高工教授、旧制三高・東大理卒(膠質化学)、三二年一月ガスプ結成、三二年三ー九月スウェーデン・米国留学、三七年理学博士、四五年桐生工専校長、四九ー五二年群馬大工学部長
内田 巌(一九〇〇ー五三)三〇年九月ー三二年四月在仏、当時洋画家(作家内田魯庵長男)、三二年一月ガスプ結成、美校卒、光風会、三六年新制作派協会、四六年日本美術会、四八年日本共産党入党(風間『憂欝な風景』影書房、八三年)
田中 忠雄 (一九〇三ー九五)三〇年九月ー三二年一〇在仏、洋画家(宗教画)、三二年一月ガスプ結成、京都高等工芸卒、二科会、四六年行動美術協会、八五年毎日文化賞、武蔵野美大教授(『求美の使徒 田中忠雄展』北海道立近代美術館、一九八四年)
佐藤 敬(一九〇六ー七八)三〇年一〇月ー三四年六月在仏、洋画家(歌手佐藤美子夫)、美校卒、プロキノ・ナップ参加、三六年新制作派協会、五二年再渡仏(『遥かなる時間の抽象』大分、七九年)
富永 惣一 (一九〇二ー八〇)三一ー三三年在仏、当時美術評論家、東大美学卒、宮内庁研究員(西洋美術批評)、五九ー六八年国立西洋美術館長、六八年共立女子大教授(坂倉と同級生)
鳥居 敏文(ベルリン反帝グループ)三三年三月ー三五年四月在パリ
竹谷富士雄(ベルリン反帝グループ)三三年三月ー三五年四月在パリ
土方 與志(ベルリン反帝グループ)三三年春在パリ
ねずまさし(一九〇八ー八六)三三年四ー七月訪仏、当時京大助手(考古学・歴史学)、京大史学卒、歴史学者(岡田桑三友人)、『世界文化』同人、三七年小林陽之助幇助・大岩誠事件検挙(『現代史の断面』校倉書房、九〇ー九七年、「プチブルの同人雑誌『世界文化』」『思想』七六年一一月)
大野 俊一(ベルリン反帝グループ)三三年一〇月ー三五年三月在仏、『太陽のない町』仏訳
第五は、国崎定洞らベルリン反帝グループと、周恩来のつくった在欧中国人反帝同盟が、ベルリンに本部をおく国際反帝同盟を介してつながった「革命的アジア人協会」の関係者である。日本人と一緒に活動したことがこれまで判明している「革命的アジア人協会」に関わった中国人、朝鮮人、インド人を挙げておく。廖承志・王炳南らは、戦後中国革命を経て、日中文化交流に重要な役割を果たす。
章 文晋(一九一四ー九一)二七年ー三一年在独、当時留学生、モスクワ孫中山大卒、三八年中国共産党入党、七八中国外務次官、八三駐米大使、八六ー八八年対外友好協会会長
廖 承志(一九〇八ー八三)二八年一一月ー三二年初在独、当時ベルリン大学留学生・在欧中国人海員組合指導者、東京生まれ・早稲田大学中退、二八年中国共産党入党、三四年長征参加、五六年中国共産党中央委員、六四年から中日友好協会長(『廖承志文集』上下、徳間書店、九三年)
成 仂吾(一八九七ー一九八四)二八年ー三一年九月在独、プロレタリアフ文学作家、東大卒、創造社、三四年長征参加、中国人民大学学長
王 炳南(一九一〇ー八八)三一年ー三六年二月在独、当時ベルリン大学生、陜西省出身で二五年中国共産党入党、日本の上智大留学を経てドイツに留学、三五年ドイツ人女性アンナと結婚、西安・延安を経て重慶で周恩来の助手、五五年駐ポーランド大使、中国外務次官、対外友好協会会長(王アンナ『革命中国に嫁いで』平凡社、七五年、『中米会談をめぐる王炳南回顧録』同時代社、八六年)
李 康国(一九〇五ー五六) 三二年五月ー三五年一一月在独、当時ベルリン大留学生(京城大助手)、京城大法卒、三〇年助手(三宅鹿之助門下)、帰国後三八年八月検挙、朝鮮人民民主主義共和国初代民主主義民族戦線事務局長、五六年朴憲永派として金日成により粛清される
ヴィレンドラナート・チャットパディア(Virendranath Chattopadhyaya、一八八〇-一九三七)一四ー三三年在独、当時国際反帝同盟本部書記、オックスフォード大卒、インドの名家出身の独立運動家、ネルー友人、アグネス・スメドレーの夫、ドイツ共産党員、三三年モスクワ亡命、三七年レニングラード大学教授時に突然逮捕・粛清される(Nirode K.Barooah, Chatto: The Life and Times of an Indian Anti--Imperialist in Europe, Oxford UP,2004)
これらの人々は、ベルリン社会科学研究会の時代はもとより、実践活動に入って反帝グループに変身した後も、必ずしもマルクス主義や共産主義の信念のみでつながっているわけではなかった。血縁・地縁、旧制高校・帝大の同窓・先輩後輩関係、日本での職業的・学会的つながり、東大新人会や京大河上肇ゼミなどの人脈、それに渡欧時の船旅やシベリア鉄道での同行などの偶然も作用した、「洋行インテリ」のネットワークだった。
たとえば、渡航以前からのつながりとして、次のようなものがある。
渡航理由・渡航途上のつながりも、人的ネットワークになる。
また、渡航後、海外滞在中に、濃密なネットワークが広がる。
1926年末からの在独日本人若手知識人・留学生による、ブハーリン、スターリン、レーニン。ヴァルガなどマルクス主義文献をテキストにした読書会兼親睦会。ベルリン反帝グループの前身で、蝋山が設立提唱者、有沢・国崎が実質的中心であった。以下、氏名・生没年月日・渡航前経歴・滞独期間・当時の職業・渡航後及び戦後の軌跡・伝記その他出典・証言者の順で各メンバーをリストアップする。
出典の略称一覧――以下も同様 岡=岡内順三1933外事警察調書 国=国崎定洞1926手紙・34ソ連調書 陽=小林陽之助1938特高警察調書 岩=大岩誠1938検事調書 栗=小栗喬太郎1942予審決定・68自伝 有=有沢広巳1957著書・89追悼集 勝=勝本清一郎1965著書 山=山口文象追悼集1982年譜・証言 野=野村平爾1976著書 川=川上武1970・76著書 千=千田是也1975証言・著書 八=八木誠三1976証言 義=小林義雄1981証言・83著書 喜=喜多村浩1995証言
1928・7国崎KPD入党→29夏反帝フランクフルト大会、29末革命的日本人グループ結成、KPD日本語部も同時結成。31・3ベルリン反ファッショ大会、32・1ー33・3革命的アジア人協会組織、32夏アムステルダム国際反戦大会に日本代表として参加。在独日本人左翼グループ、在独日本人革命家グループなどともよばれ、ナップやプロ科を通じて日本の左翼と連絡し、合わせてモスクワの片山潜、パリ・ガスプグループと結び、反帝反ナチ活動を行った
1932・1若い左派系画家を中心に在巴里芸術科学友の会(GAASP)として発足、ベルリン反帝グループと密接な連絡をとり、学習会や映画見物などを行う
ベルリンの国際反帝同盟本部を介して、周恩来のつくった在欧中国人反帝同盟、革命的アジア人協会などで日本人と共に活動した
1880年、インド・ハイデラバード藩王国の名家に生まれる。父はエジンバラ大学で学んだインド人初の理学博士でニザーム大学教授、1歳上の姉は「インドのウグイス」とよばれた女流国民詩人で国民会議派政治家サロージニ・ナイドD。カルカッタ大学からイギリスに留学、日本の日露戦争勝利に刺激されてインド独立運動に飛び込み、マルクス主義にも接近、第一次世界大戦前にパリ経由ドイツに入り、「ベルリン・インド革命委員会」結成、イギリスと闘うドイツ政府や日英同盟の弱化した日本に接近して反英運動を展開した。ロシア革命によってボリシェヴィズムに近づき、国外でのインド共産党創立に加わるが、この頃アメリカ人女性でベルリンでインド独立運動を学んでいたアグネス・スメドレーと共同生活を始める。モスクワ公認のインド共産党代表の地位はM・N・ロイにゆずったが、ベルリンでドイツ共産党に加わり、国際反帝民族解放独立運動の組織化に従事、1927年の第1回ブリュッセル反帝被抑圧民族会議をミュンツエンベルグらと組織、折からヨーロッパ訪問中のインド国民会議左派の代表者ネルーを説得して国際反帝同盟の執行委員に就任させ、自らは国際反帝同盟書記長(二人の内の一人)となった。ネルーとスメドレー、そして28年にスメドレーがチャットと別れてから中国に渡り毛沢東・周恩来・朱徳とガンジー・ネルーをつないだのは、スメドレーとチャットであった。
しかしスメドレーと別れた後のチャットは、コミンテルンの左翼主義戦術に引き回され、ネルーと決別、インド国内の共産党にも影響力を持てなかった。その頃、国崎定洞ら日本人グループと知り合い、1931年末の在独革命的アジア人協会結成に加わり、日本の満州侵略とドイツのナチ台頭に反対した。33年ナチスの政権獲得後ソ連に亡命したこと、レニングラードで亡くなったことは戦後のネルーらの調べでわかっているが、死の事情については不明。インドの研究書でもさまざまな説が唱えられている。有力な説によると、レニングラード大学で人類学とインド思想を教えていたが、1937年、粛清された。
日本では、高杉一郎のスメドレー伝『大地の娘』(岩波書店、1988年)にスメドレー『中国の歌ごえ』からの引用を中心にした「チャットパダーイ」の略伝がでてくるが、ほとんど知られていない。インド独立運動史でも在独「ベルリン委員会」指導者として必ず出てくるが、1920・30年代についての記録は断片的である。この1920・30年代のチャトパディアについての情報を、英語版HP所収のメモランダムを参考にして寄せていただきたい。
1999年2月1日補足 この間、日本国内からは情報はありませんが、幸い英語版HP所収のメモランダムの方に2通の有益な助言が寄せられています。それを以下に、プライベートな部分を除いて、そのまま掲載します。
One e-mail from Kopenhagen, Denmark, taught me the way of my research for Mr. Virendranath Chattopadhyaya : Thank you very much!