スターリン体制告発の先駆者

勝野金政 生誕100年記念シンポジウム

 

2001/12/1  月刊『新潮』の2001年10月・12月号に、山口昌男さんが、「20世紀における『政治と文学』の神話学」という力作を連載しています。スポットを当てられたのが、すでに「雑本のなかにひそむもの」で示唆されていた勝野金政『赤露脱出記』、元片山潜秘書で、旧ソ連のラーゲリ体験者ですが、ソルジェニツィンに40年も先駆けたラーゲリ文学として重要だというのです。私の国崎定洞探求や本HPも言及されていて、ちょっとくすぐったい気分です。勝野は4年間のラーゲリ体験後、1934年に奇跡的に帰国し、多くのドキュメンタリーと小説を残します。芥川賞候補にもなったということで、「この時受賞していれば『赤露脱出記』もソルジェニツィンの『収容者群島』の先駆的作品として或いは記憶にとどめられたかも知れない」と山口氏は記します。「スターリン主義を含むボルシェヴィズムの劣性を勝野のごとく冷静に描き得た人物は当時他にいただろうか」「勝野がこのような文章を書けただけで、帰国後、東京外語大学のロシア語、或いは大阪のそれの教授職に任じられる力の持主であったことを示している。当時の日本は、このように有為な人物を適当な位置につけて生かすというシステムをもっていなかった」とも。この「勝野金政生誕百年記念シンポジウム」が、12月15日午後2ー5時、勝野の母校であった早稲田大学ロシア科の皆さんのご尽力で、西早稲田キャンパス小野梓記念講堂で開かれます。私自身もスピーカーの1人ですが、プログラムと報告要旨・勝野金政著作目録ができました。

2001/12/15 今回のシンポジウムに向けて、私の共同研究者藤井一行富山大学名誉教授は、全国の図書館を探索して勝野金政の著作・論文を探しました。日本史研究の伊藤隆教授から、『赤露脱出記』の前に書かれた1934年帰国後最初の著作『ソ聯邦脱出記』が提供されました。山口昌男教授秘蔵の『資料 コミンテルンの歴史と現勢』(1938年)も見せて頂くことになって、勝野の戦前・戦後の労作が網羅され、それをスキャナーして一枚のCDROMに収める試みが進行中です。20世紀の記録は、こうしたデジタル化によって、半永久的に保存できます。山口論文には、去る9月に遺言『20世紀の意味』(平凡社)を残して亡くなった、石堂清倫さんもでてきます。『赤露脱出記』は1934年に日本評論社から刊行されており、「その年に日本評論社の編集部に入った石堂が勝野を知らぬわけがないが、どういう理由か生涯一度も触れたことがない」という一節があります。鋭い指摘です。『赤露脱出記』編集を担当したのは、実は石堂清倫さんでした。二人は戦中・戦後しばらくすれちがいますが、1973年以降旧交を暖め、石堂さんは、戦後信州南木曾で製材業を営んでいた勝野金政を訪ねます。きっかけは、私も関与していた、国崎定洞の粛清死の判明と名誉回復運動の始まりでした。勝野には「国崎定洞君の追悼会に寄せて」と題する未発表遺稿もあります。シンポジウムでは、勝野家長女稲田明子さんから、こうしたいきさつと、勝野金政の未発表大作『白海に怒号する』(遺稿)が発表されます。一度1996年9月20日付『朝日新聞』で報じられていますが、これこそソルジェニツィン級のラーゲリ文学です。 

2001年12月15日午後2ー5時、「勝野金政生誕百年記念シンポジウム」が、勝野の母校であった早稲田大学で開かれ、小野梓記念講堂いっぱいの大盛況でした。。ちょうど月刊『新潮』10月・12月号に「20世紀における『政治と文学』の神話学」という力作を連載して、勝野金政『赤露脱出記』を文学的に高く評価している山口昌男さんが、大雪の札幌からかけつけました。戦後の勝野の発掘者で、『日本の近代16 日本の内と外』(中央公論新社)で国崎定洞ら在外共産主義者の運動にスポットをあてた、日本史研究の伊藤隆さん、それに国崎定洞の甥の国崎拓治さんも、出席してくださいました。この春ロシアの遺児アランさんと70年後につながった日本人粛清犠牲者健物貞一も早稲田大学の出身で、勝野の一年上で建設者同盟の軍研事件に関わりましたから、ご遺族が岡山から出てこられ、勝野家ご遺族に、貞一の弟松太郎の蔵書中にあったという『赤露脱出記』を手渡しました。私自身は、報告要旨に入れたパリ、ベルリン、モスクワでの勝野金政の周辺に、この間膨大な資料が現れた島崎藤村の3男蓊助の遺稿・遺品から、新たに判明した国崎定洞らベルリン日本人反帝グループの活動を配し、島崎藤村『夜明け前』(1929-35)の世界と日本コミュニズムの関わりを、考えてみました。この日に合わせて、共同研究者藤井一行教授は、勝野金政の戦前・戦後の全著作を収めたCDROMを作成し、「勝野金政の前半生」などを発表してきた藤井さんHP「日露電脳センター」で、公刊を始めました。貴重資料保存の新しい試みです。ぜひご参照ください。

2002/1/1 2001年末に力を注いだ勝野金政生誕百年記念シンポジウム勝野の全著作のCD-ROM化による学術的遺産発掘の試みは、大きな反響をよびました。早稲田大学奥島総長からメッセージが寄せられたほか、12月14日信濃毎日新聞、12月27日朝日新聞夕刊論説「窓」欄や12月31日長野新聞で、大きく取り上げられました。2月号で完結した山口昌男論文のおかげで、「新潮フォーラム」にも入りましたから、ぜひご参照を。20世紀の初めの年に生まれ、第一次世界大戦直後にパリで青春を謳歌し、モスクワで片山潜の秘書になったことから、無実の罪で強制収容所の地獄を体験し九死に一生を得て帰国、かつての「同志」たちに見捨てられた勝野金政が、前半生を文学でふりかえり、故郷の信州に帰って実業家となり、家族に恵まれた後半生を終えるにあたって遺した言葉は、「トルストイのヒューマニズムとジャン・ジョレス(第一次大戦勃発時に暗殺されたフランスの平和主義的社会主義者)のインターナショナリズム」こそ自分の人生の導きの糸だった、というものでした。「人間尊重と開かれた平和」──21世紀の入口で、改めてこれを想起し強調しなければならないところに、残された世代の問題があります。


 

日時: 2001年12月15日(土)
午後2時〜5時    記念講演
会場: 早稲田大学小野梓記念講堂
午後5時30分〜 懇親会(早稲田大学校友会館)
 
 
あいさつ: 稲田明子(故勝野金政氏長女)
 

記念講演: テーマ 「政治における幻想と現実」 −スターリン体制と日本人−

 講師 

加藤哲郎 (一橋大学社会学部教授)「勝野金政にラーゲリ体験をもたらした魅力と権力──旧ソ連における日本人コミュニティ」

藤井一行 (富山大学名誉教授)「スターリン体制告発者・勝野金政──母国へ亡命した日系ソヴィエト人の願い」

松井覚進 (ジャーナリスト)「全体主義の爪痕──ラーゲリの取材現場から」

水野忠夫 (早稲田大学文学部教授)「ロシア文化の過去と現在」

 司会:児島和男(トルコ民話研究者)

 

シンポジウム開催の趣意

 勝野金政氏は昭和初期に社会主義実現の理想に燃えてフランス経由でソ連に渡り、片山潜氏の秘書として活動しました。ところが1930年初頭に明確な理由も示されないまま不当に逮捕され、5年間のラーゲリ生活を体験し、釈放後、奇跡的に日本への生還をはたしました。以後、ソ連社会の現実、特にラーゲリの存在や自由の圧殺を批判する文筆活動を開始し、第2次世界大戦をはさむ激動の20世紀を格闘しつつ、波乱の生涯を送りました。

 死後5年目の1989年にソ連最高会議幹部会命令で冤罪であったことが認められ、1997年に、家族からの申請により、ロシア政府から名誉回復証明書が届けられました。 

 この間、日本国内のスターリン体制追従者たちから、『裏切り者』などの根拠のない政治的罵声が浴びせ続けられたことも看過できません。こうした過酷な体験に屈せず、彼は「インターナショナル・ヒューマニズムよ永遠なれ」という遺言を残して逝きました。この遺言にはコミュニスト・インターナショナルへの幻想に挫折しつつ、なお自由で平等な社会を夢見るたくましく、楽天的な人間の精神がこだましています。

 同時多発テロとそれに続くアフガンへの空爆や生物テロなど、政治における幻想と現実の問題はなおわれわれの社会に重くのしかかっています。勝野氏の生涯をふりかえりつつ、この問題について考えてみることは、今日の私たちの社会が直面している諸問題と取り組む上でも重要な示唆を与えてくれるでしょう。

 

連絡、お問い合わせは:

児島(Tel:03−3918−3011、Fax:03−3918−3015)
稲田(Tel & Fax: 0467−32−1650)

講演要旨

勝野金政にラーゲリ体験をもたらした魅力と権力──旧ソ連における日本人コミュニティ

 

加藤哲郎 (一橋大学大学院社会学研究科教授)

 

 作家芹沢光治良の、パリ留学時代の想い出を綴ったエッセイ集『こころの広場』(新潮社、1977年)のなかに、二人の画家について述べた「三岸節子さんと宮坂勝君」と題する小文がある。

 「宮坂君は若い日にパリのソルボンヌ大学に留学して間もない頃会った画家である。フランスへ渡航した時、同じ白山丸に乗りあわせた大本教の西村師が、フランス語の大本教の宣伝誌をパリで発行するが、経済的に困る日本の留学生を紹介してくれと、手紙で依頼されたが、心当たりがなくて、ことわったところ、三週間ばかり後に、パリ大学の文学部の教室で時折顔を見る、小柄で痩せた若い日本人が、はじめて私に話しかけて、西村師を助けることになったと告げた。早稲田大学を中退して、パリで哲学を勉強しているということで、私に親しもうとしたようだが、当時、私は努めて日本人との交際をさけていたから、今ではその人の名も忘れたけれど、この哲学を勉強する学生から、同じ信州人の画家だといって、宮坂君を紹介された」とある(130-131頁)。

 パリ時代の、勝野金政である。大正14年(1925年)のことである。芹沢は、この大本教パンフレットを手伝う青年が、その後、フランス共産党に近づくことを知らない。

 戦後日本経済復興の設計者、有澤広巳の自伝『学問と思想と人間と──忘れ得ぬ人々の思い出』(毎日新聞社、1957年)には、「ドイツで知った三・一五事件」の項に、こうある。

 「帰国する日もあと二、三ヵ月に迫ったので、ぼくは荷物をすっかりまとめて日本に発送し、下宿を引きはらって、パンジョンに移ったのですが、移ってまもないある朝、顔を洗っているとノックするものがある。はいってきた人を見てぼくはビックリした。平野義太郎君なのです。平野君はパリにいるとばかり思っていたからです。数ヵ月まえ、平野君の紹介状をもってひとりの若い日本人がぼくをたずねてきたことがあった。その日本人は、パリから立ち退きを命じられたので、ともかくもベルリンにのがれてきた。これからソ連にゆくつもりだが、旅費がないとの話だった。それでなにがしかの旅費をあつめて餞別に送ったことがあったのです。平野君は前夜ベルリンについて、このパンジョンに旅装をといて、偶然にパンジョンの主人からぼくが泊まっていることをきいたのです」(126頁)。

 1928年2月の勝野金政である。ソ連行きの餞別は、有澤だけからのものではなかったはずである。同年5月の有澤広巳の帰国時に、ポツダムで撮影した日本人12人の記念写真を、先日97歳で亡くなった石堂清倫氏から譲り受け、この2月にインターネットのホームページ「加藤哲郎のネチズン・カレッジ」に公開して情報を集め、ほぼ全容がわかった。千田是也(築地小劇場)、有澤広巳(当時東大経助教授)、平野義太郎(東大法)、土屋喬雄(東大経)、蜷川虎三(京大経)、舟橋諄一(九大法)、八木芳之助(京大経)、堀江邑一・律子(高松高商)、山田勝次郎・とく(京大農)、谷口吉彦(京大経)、菊池勇夫(九大法)といった文部省派遣の少壮学者たちである。当時、国崎定洞(東大医学部助教授)を中心に、「ベルリン社会科学研究会」という読書会を開いていた。千田是也の父とのつながりで、モスクワの片山潜とも交流していた。勝野金政は、この時国崎定洞宅に泊まり、これら戦後日本の立て役者たちから、モスクワ行きの旅費を用立てた。有澤も、勝野のその後を知らない。

 勝野金政は、無事モスクワにたどり着き、あこがれの「労働者の祖国」で、「日本の社会主義の父」片山潜の私設秘書になった。それが1930年秋、突然秘密警察に逮捕され、理不尽な強制収容所生活を体験した。以後の波瀾万丈は、勝野『凍土地帯』(吾妻書房、1977年)などに詳しい。

 だが、生前の勝野氏も知り得なかったラーゲリ送りの秘密は、1992年になって、旧ソ連秘密文書から出てきた。私が長く消息を探求してきた、ベルリンからモスクワに亡命した国崎定洞の、1937年粛清記録である。それから拙著『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)、『国民国家のエルゴロジー』(平凡社、1994年)、『人間 国崎定洞』(勁草書房、1995年)を書き、幾度かモスクワにも足を運んだ。

 1999年に、「コミンテルン執行委員会セクレタリアート」宛の、以下のような文書が、モスクワの公文書館の日本共産党秘密文書の中から見つかった。

 「フランス共産党員なる日本人同志、サヴェート連邦内で学ばうとする目的で最近フランスから来た勝野君について、日本代表者団は、次のように回答し、且つ提案する。(1)吾々は同君について全く何も知らぬ、(2)彼のフランスへ出発する前、即ち1924年前に、彼は党員でもなければ、如何なる形の労働者運動にも日本で参加して居なかった。(3)彼はブルジョア出身である。(4)吾々との会見中、彼は吾々に何等良い積極的な印象を与えなかった。即ち吾々は、共産主義革命のために戦い死せんとする彼の決心、精神を見出だすことが出来なかった。それのみでなく、(5)吾々は悪い印象だけを受けた。例えば彼は非常に増長して居て、日本の党の中央委員会も、モスクワに於ける代表者団も、吾々が見も知らぬ、又かつて日本の党員でもなかった者を、国際レーニン・コースに推薦することは出来ぬといふ吾々の注意を目して、吾々の側のセクタリアニズムと呼んだ程であり、又、彼はそのフランスで得た共産主義の知識に自惚れて居る、等々の事実に鑑みて、吾々日本代表者団は、彼を日本人学生として、国際レーニン・コースに、即ちその任務はボリシェヴィーキ的党指導の新しい指導者群を養成するにあるところの学校に送ることを推挙せず、且つ強く反対する。
 同様の理由から、吾々は彼を、東洋共産大学に送ることにも反対する。吾々はアメリカや欧羅巴からやって来た、日本での無産者運動の経験もない、非労働者の日本人学生を同大学に送って、もう十分苦い経験をなめて居る。彼等は全て日本の労働運動の経験を通って来た労働者・学生の集団的アカデミック研究及び政治生活を少なからず邪魔したのである。
 同志勝野君は、国を離れて約4年になり、何等吾が無産者運動について具体的に知る所がない。
 そこで日本代表者団は直ちに彼を日本に送り帰すことを提議する。若し彼がそのフランスで得た所のものを日本の条件に適用し、共産主義のために戦いつくさんと欲するならば、彼にとってもそれが最善の道だろう。吾々は、諸君がこの方法を講ぜられんことを切望する。  
                (署名)
  追記。 日本代表者団は、若し出来るなら、彼の帰国前に、モスクワの労働組合の仕事その他、出来るならプロフィンテルン[赤色労働者インターナショナル]大会を見聞させるために、又はモップル[労働者赤色救援会]等を通じて何か一時的な仕事に従事させるために便宜を図ってやることをお願いする。」(RTsKHIDNI,f.45,op.127.d.235,l.127-129)

 この文書には、日付も署名もない。だが一緒に綴られた英語訳には、「1928年7月12日、 片山潜、中野[山本懸蔵?](日本共産党中央委員、プロフィンテルン大会代表)、秋田[相馬一郎](東洋共産大学日本人学生事務局)、大村[高橋貞樹](共産主義青年同盟中央執行委員会日本代表、レーニン・コース学生)」とある。

 その片山潜のもとで、勝野氏は働くことになる。やがて1930年秋に、ベルリンからやってきた根本辰という京大卒業の哲学青年が、上記文書の勝野氏と全く同じ理由でクートベ(東洋共産大学)入学を拒否され国外追放となり、勝野金政は、根本を推薦したという理由で、山本懸蔵に「スパイ」と疑われ、強制収容所に送られる。片山潜はその時、コーカサスで療養中だった。

 国崎定洞は、その2年後にモスクワに亡命し、片山潜の片腕になる。しかし片山の死後、34年夏の勝野金政の奇跡的な日本脱出時に、山本懸蔵から勝野・根本をモスクワに送り込んだ「疑わしいインテリ」として告発され、秘密警察の監視が始まる。そして1937年夏、「日本軍のスパイ」として突如逮捕され、そのまま銃殺刑となった。

 芹沢光治良や有澤広巳は、その後の勝野金政の運命を知らなかった。だから、戦後に記録を残した。うすうす知っていた平野義太郎や千田是也は、国崎定洞については語っても、勝野や根本の記録は残さなかった。当時から、モスクワ在住日本人コミュニティでの、日本からの直行組と欧米経由組、労働者出身者とインテリの対立は、噂されていた。もしも1928年にクートベに入っていれば、労働者出身で、戦前日本共産党を壊滅させた特高スパイM=松村こと飯塚盈延と一緒になるはずだった。勝野金政のあこがれ歩んだ道は、当時のインテリの夢だった。ラーゲリでの現実は、労働者もインテリをも巻き込む悪夢だった。勝野金政のその後の人生を決定づけたものも、その陽画と陰画の、埋めがたい深い溝だった。


スターリン体制告発の世界的先駆者としての勝野金政

 

藤井一行(富山大学名誉教授)

 

 社会主義の理想社会をめざしてヨーロッパから、革命まもない新生ソヴェト・ロシアへ入った勝野金政氏は、コミンテルンの日本代表の片山潜の私設秘書として活躍することになるが、2年後に突如としてスパイ容疑で逮捕・投獄され、正式裁判もなく5年の自由剥奪刑を宣告され、ラーゲリに送られることになる。1930年10月のことである。以来、1934年に釈放されるまでシベリアや白海沿岸で「矯正労働」という名の強制労働に従事させられることになる。

 しかし氏は獄中でもラーゲリでも無実を訴えつづけ、ハンストや党中央にたいする度重なる上申など不屈に闘う。ソ連国籍をとっていた氏は釈放後、日本の大使館に逃げ込み、無事、帰国ーーいうなれば母国への亡命を果たす。

 スターリン体制初期におけるラーゲリ体験をはじめとする氏の経歴と活動は、それだけでも記録に値する貴重なものであるが、帰国後から逝去にいたる60年近い年月の間に氏が書き残した膨大な著作(見聞・体験記録やそれにもとずく創作)は、1920年代末から1930年代半ばの「社会主義ソヴェト」のさまざまな側面についての目撃記録として他に類書が見られない尊いものである。なかでも、訪ソした日本人の中で勝野氏だけが体験できた事実ーー囚人として氏自身が従事させられた白海・バルト海運河建設にかんする証言は、ソ連内外で当時賛美されていたスターリン体制下での社会主義的「囚人更正労働」(作家ゴーリキーは「社会主義の真実」という視点から、あまたの文人たちとともに『スターリン記念白海・バルト海運河/建設史』を編纂して運河を讃えた)なるものの実態がいかなるものであったかを如実に明らかにする、世界的に見ても稀有な記録である。

 記念会では、主に、この白海・バルト海運河建設というものがいかなるものであったか、それに勝野金政氏がいかにかかわったか、また氏の一連の記録がいかなる意味をもつかについて考えてみたい。

 


勝野金政著作目録

(藤井一行作成、*印は単行本)

 

■ 戦前編

『サヴェート通信・同志片山の誕生七〇年祝賀会』(『戦旗』昭和5年3月号)

*『故片山潜秘書勝野金政手記・ソ聯邦脱出記ーー入党から転向まで』(日露通信社出版部、昭和9年)

『ソビエト露国の国内情勢について(勝野金政上申書)』(『思想月報』第5号、昭和9年11月、司法省刑事局)

『ソヴェトの裏面を観る』(『改造』1934(昭和9年)11月号)

『赤露脱出記・片山潜と私』(『経済往来』昭和9年11月号)

『赤露脱出記・ウラールの旅』(『経済往来』昭和9年12月号)

*『赤露脱出記』(日本評論社、昭和9年)

*『ソヴェト・ロシヤ今日の生活』(千倉書房、昭和10年)

『座談会・モスクワの今昔を語る』(『月刊ロシヤ』昭和10年7月号)

『ラデック氏に与ふ』(『月刊ロシヤ』昭和10年8月号)

『コミンテルン大会を中心にして』(『月刊ロシヤ』昭和10年9月号)

『コーカサス夜話』(『月刊ロシヤ』昭和10年11月号)

『エレナと小五郎』(『月刊ロシヤ』昭和11年2月号)

『ソヴェト新憲法について』(『セルパン』昭和11年8月号)

『ソヴェトのコムソモール』(『セルパン』昭和11年9月号)

『ソヴェートにおける支那人』(『月刊ロシヤ』昭和11年11月号)

*『二十世紀の黎明』(第一書房、昭和11年)

『全聨邦共産党』(『蘇聨邦要覧』1936年版、日蘇通信社、昭和11年)

『コミンテルン』(『蘇聨邦要覧』1936年版、日蘇通信社、昭和11年)

『モスクワ』(『文芸』昭和12年8月号)

*『ソヴェート滞在記』(千倉書房、昭和12年)

*『資料 コミンテルンの歴史と現勢』(昭徳会版、昭和13年)[未見・探索中]

*『ソ連の実相』(五来欣造著『滅共読本』国際反共連盟発行、昭和14年)

『独ソ戦争と知識人の表情』(『文芸』昭和16年8月号)

『カヴカズ旅行記』(『月刊ロシヤ』昭和17年9月号)

 

■ 戦後編

*『藤村文学・人と風土』(木耳社、昭和47年)

『国際共産主義の巨星たちーー勝野金政氏へのインタビュー』(『歴史と人物』中央公論社、昭和48年11月号)

『片山潜とともに』(『歴史と人物』中央公論社、昭和49年1月号)

『ラーゲルを逃れて』(『歴史と人物』中央公論社、昭和49年3月号)

『参謀本部のなかで』(『歴史と人物』中央公論社、昭和49年5月号)

『回想記』(『月刊信濃ジャーナル』新信州社、昭和49年10月号、11月号、12月号、昭和50年1月号、3月号)

『座談会・資源保護と木曽の林業』(『月刊信濃ジャーナル』昭和49年12月号)

*『<ドキュメント>凍土(ツンドラ)地帯ーースターリン時代のラーゲリ4年間の体験』(『自由民主』昭和50年3月号、4月号、5月号、6月号、7月号、8月号、9月号連載)

『白海に怒号する』(遺稿)



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