健物貞一探索・遺児アラン訪問記

(2006/9増補改訂版) 



2006.8.15 今年のロシア紀行は、
国際歴史探偵の延長でのボランティア活動で、本サイト現代史研究の中にある、元アメリカ西海岸日本人移民労働運動指導者でスターリン粛清の日本人犠牲者「ササキことケンモツ=健物貞一」のロシア残留遺児アラン・ササキさんを、健物家ご遺族と共に訪ねる旅でした。アランさん一家と会ったニジニ・ノヴゴルドは、ロシア第4の大都市とはいえ、モスクワから鉄道で5時間かかります。作家マキシム・ゴーリキーの生まれ故郷で、旧ソ連の1932ー90年は「ゴーリキー市」という名前で、外国人立入禁止の秘密都市でした。またソ連水爆の父だったサファロフ博士が、民主平和活動家に転じて後、モスクワでの活動を禁じられて「島流し」にされていた町です。ニジニ・ノヴゴルドには、モスクワでは15年前に引きづり下ろされたレーニン像が健在で、「ソ連」の雰囲気もあちこちに残っていました。旅に持っていった2004年ピューリッツアー賞受賞作の邦訳、アン・アプルボーム『グラーグ ソ連集中収容所の歴史』(白水社)には、晩年のゴーリキーがスターリン粛清合理化宣伝隊に動員された記録が出てきます。しかしニジニ・ノヴゴルドのゴーリキーは、「どん底」の舞台となったクレムリン=要塞城壁下の貧民街を描いたヒューマンな作家でした。何よりアランさんと健物家ご遺族の再会(写真)が感動的でした。日本人の顔をもちながら日本語がわからないアランさんと、ロシア語のわからないご遺族とを、日本から一緒に行ったロシア研究者と現地で日本語を学ぶ若い通訳が懸命に引き合わせました。健物貞一のもう一人の遺児、アランさんの妹ジェニーが、健物貞一の1938年4月逮捕後すぐに両親と生き別れになり死亡したこと、健物貞一の妻だった朝鮮人革命家リ・ボヒャさんは健物逮捕時ウクライナの原野に追放され、苦難の人生を送ったことも分かりました。モスクワでは、アランさんと健物家の出会いのきっかけを作った須藤政尾遺児ミハイル須藤さんと、同じような苦難を味わった山本正美遺児ヴィクトリア山本さんと、健物貞一ご遺族・アラン家の、在露日本人残留遺児3家族の出会いの場もありました。須藤政尾が処刑されたブトヴォの森を再訪し、すっかり綺麗になった正教会の司教に歓迎され、1998年の前回訪問後、須藤政尾以外に8人の日本人がブトヴォで処刑されたらしいのでその足跡を調べてほしいと、大部のロシア語資料(受刑者リスト)を受けとりました。これらの解析が、新たな仕事になります。ミハイル須藤さんは、地質学者のかたわら、その後も日本語の勉強と民間の日本語学校を続け、ちょうど「子供のための日本語」というロシア語の本を出したばかりでした。現地の日本人ジャーナリストとも交流し、新興石油大国ロシアの最新事情も仕入れることができました。かつての常宿、クレムリン前のインツーリスト・ホテルが解体され、ホテル・モスクワもホテル・ロシアも建て直されていたのが寂しく、日本食ブームと物価が高くなったのには驚きましたが。

2006.8.19 本19日付け『朝日新聞』夕刊の「ぴーぷる」欄に、モスクワでの須藤政尾遺児ミハイル須藤さん、山本正美遺児ヴィクトリア山本さんと、ロシアを訪れた健物貞一姪小長庸子さんの出会いが、「歴史の荒波を越え 3指導者の遺児ら対面」と大きな写真入りの記事になりました。私も含めた写真はこちらで、翌日、スドーさんと私たちは、数万人の名もなき粛清犠牲者が眠るモスクワ郊外の旧NKVD射撃場跡「ブトヴォの森」(ポーランドの「カチンの森」のモスクワ版です)を訪れ、須藤政尾健物貞一ら、非業の死を遂げた旧ソ連日本人粛清犠牲者冥福を祈ってきました。かつて「テルコ・ビリチこと松田照子探索記」に入れた1998年時点の「ブトヴォの森」の写真と比べると、慰霊碑もずいぶん整備されています。ロシアの歴史学者らの作ったボランティア組織「メモリアル協会」「サハロフ基金センター」等の活動の成果です。

 

2001/5 戦間期在米日系労働運動指導者、旧ソ連粛清犠牲者健物貞一(ケンモツ・サダイチ)のご遺族がみつかりました!


 健物 貞一(けんもつ さだいち、『闇の男』『モスクワ』『KGB』『思想』『外事』『社運』『特高』『小田』))

 別名ササキ・三浦。「剣持」「剣物」「健持」「鍵物」とする史料もあるが、正しくは「健物貞一」であった。1900年6月5日岡山県生まれ。日本の官憲資料では、本籍地岡山県都窪郡早嶋町出身。早稲田大学商学部を出て、23年7月にアメリカに渡り、24年アメリカ共産党に入党、太平洋岸の日本人共産主義者グループのリーダーとなり、同じ岡山出身ということもあってか「第二の片山潜」といわれた。26年6月サンフランシスコ国際労働擁護会(ILD)機関紙『階級戦』を創刊し、同年『労働新聞』と改称し編集。29年12月25日にサンフランシスコで逮捕さる。アメリカから国外追放になり、31年12月16日ドイツ経由ソ連に出航、32年1月ソ連に入国。

 官憲資料では、モスクワのレーニン・スクールで学び、ウラジオストック付近で汎太平洋労働組合書記局で活動とされており、ソ連側資料ではクートベ卒業、朝鮮人女性と結婚、赤色救援会(モップル)で活動していたともいう。遺児ササキ・アランの入手したKGB記録では、32-36年ウラジオストックの海員クラブで活動、36年モスクワに入りモスクワ第9印章工場で労働、38年4月15日「日本のスパイ」として逮捕され、39年6月9日ラーゲリに送られ、42年9月8日収容所で死亡。朝鮮人妻シェ・オク・スンことリ・ボビャ(1913年生)、息子アラン(1935生)、娘ジェニー(1937年生)が残された。1989年10月2日に完全名誉回復。

 KGB記録によれば、健物貞一の父はコウタロウ(染物業)・母チエ、兄弟に松太郎、姉妹に商船員の妻イツノ、米穀商人の妻コテツがいた。本HPを通じてのよびかけの結果、5月17日に、早島町役場のご協力で、岡山のご遺族と連絡がついた。そのことは、共同通信の配信で、5月18日付け山陽新聞ほかに掲載された。(2002年5月、岡山健物家の招待で来日、同時にカムチャッカ半島に実母リ・ボビャさん(1913年生)存命が判明しました。)


2002/5 健物貞一遺児アランさん来日、貞一夫人の生存が確認されました!

2001/5/15 左の男女の写真は、かつて夫婦でした。1932-38年の短いあいだ、それも二人とも祖国を離れ旧ソ連邦で。白皙の男性は、日本人健物貞一1923年、早稲田大学を卒業して、アメリカの大学に進学するため渡航する時の写真です。実際に渡ってみると、アメリカ西海岸での学費稼ぎの仕事は、アジア人差別の低賃金労働ばかり。早稲田で建設者同盟に関わり人一倍正義感の強かった青年は、日本人・中国人・朝鮮人・メキシコ人労働者を組織した移民労働運動に加わります。岡山出身のため、アメリカで活躍した同郷の先輩になぞらえて「第二の片山潜」とよばれました1925年に日本人労働協会を結成、26年『階級戦』を創刊、29年に逮捕され、31年末に国外追放されソ連へ。当時アメリカからソ連に亡命した17人の日本人(いわゆる「アメ亡組」)のリーダーです。他方の秀麗な女性は、朝鮮人で本名リ・ボビャ。コミンテルンの指令で1923年に20歳でソ連に入り解放運動に従事、朝鮮語・ロシア語のほか日本語・英語もできた才媛です。ソ連ではシェ・オクスンと名乗り、ササキと変名し海員組合で活動していた健物貞一とウラジオストックで知り合い結婚、コミンテルン日本共産党代表片山潜(33年没)によばれてモスクワに移り、35年長男アラン、37年長女ジェニーを得ました。しかし、幸せな生活もつかのま、38年4月15日、「日本のスパイ」の汚名で逮捕され、健物はラーゲリへ、1942年9月8日に強制収容所で死亡しています。リ夫人も逮捕されて、一家は生き別れ、ジェニーはまもなく死亡、アランは孤児院に送られて、自分は日本人の子どもらしいということしかわからずに、60年以上を過ごしました。アラン・ササキさんが娘リュドミラさんのすすめで自分のルーツ探しを始めたのが6年前、昨年のちょうど今頃、モスクワ在住の似たような境遇のミハイル・スドーさん(須藤政尾遺児)の紹介で本ホームページで探索、岡山県在住の親族と結びつきました。そして1年後のこの連休、アランさん・リュドミラさん親娘が岡山健物家の招待で来日、ご親族と水入らずの日本訪問・墓参を果たしました。アランさんの初めての外国が、父の祖国日本で、67歳になっていました。その来日直前に判明し、おみやげに持ってきたのが、なんと実母リ・ボビャさんがカムチャッカに存命中で、日本から帰国後5月末には「瞼の母」とも会えることになった、という奇跡的ニュース。写真のリさんは、戦後に朝鮮人の夫と再婚した1958年45歳の時のもの、現在89歳です。アランさんにはカムチャッカに父違いの妹たちもいることが判明、65年ぶりで自分のアイデンティティを取り戻しました。長い長い旅でした。本HPは、インターネットによる市民外交を通じてそのお手伝いができたことを、大きな誇りとします。この1年の、健物貞一に関する皆様の情報提供・資料探索・ロシア語翻訳等のご援助に、健物家の皆様と共に、厚く御礼申し上げます。

 65年ぶりで並んだセピア色の健物貞一夫妻を掲げたのには、わけがあります。あの世界を驚かせた中国瀋陽の日本領事館亡命事件、あの母をつかまえる武装警官のそばで泣きじゃくっていた女の子は、どうなるのでしょうか? あの警官に帽子を拾ってやる副領事の感性は、日本外務省全体の象徴ではないでしょうか? 健物貞一遺児アランさんの訪日にあたって、日本の健物家は、親族と名乗り出たアランさんを日本に招待する計画を半年以上前にたてて、私が相談に乗ってきました。ロシア語・日本語の招待状もその頃発送しました。ところがアランさんがモスクワの日本領事館にヴィザを申請し、日本側は受入準備を整えたのに、なかなか返事が来ません。もちろんアランさんは、日本人の顔かたちをしていますが、ロシア語しか話せません。思いあまって、ちょうど春休みでモスクワに調査に入った日本人大学院生に調べてもらったところ、領事館にはヴィザ申請受付用の日本語マニャアルがあり、私たちが私的に作った招待状では、招待者の実印・印鑑証明書がないなど、日本側申請規格に合わないことがわかりました。その説明が、申請者であるアランさんに、伝わっていなかったのです。もっとも印鑑証明書なんて、外国人にわかりっこありませんが。

 あわてて戸籍謄本・印鑑証明や実印招待状を揃えて出し直したところで、今度は理不尽な難問がつきつけられました。招待者の健物家は、アランさんとの親族関係を確認し、墓参させるため招待しました。アランさんの方は、6年前に粛清犠牲者遺児としてようやく入手したロシア内務省の父健物貞一の粛清記録やラーゲリでの死亡証明書を持っています。ところが日本の戸籍では、健物貞一の死亡届は、行方不明になって30年後の1962年に、永年消息を求めてきたご遺族が、あきらめて出しています。当然ロシア側の1942年死亡証明書とは、大きく食い違います。だからこそ、来日するのです。それなのに、外務省がアランさんに要求したのは、公的な「親族証明書」でした。本来日本人健物貞一の保護を1923年以来80年間も放置したためにおこった悲劇であるのに、その後始末を、ようやく日本に親族らしい相手をみつけた孤児院育ちのロシア人に、要求するのです。渡航予定の1か月前で、やむなく私が、いつもは使わない国立大学教員や法学博士の肩書きを使って、分厚い「アラン・ササキ氏が健物貞一の子であると推定される理由書」を作り、実印を押してモスクワにファクスし、ようやくヴィザ申請は受理されました。すべて、領事館用日本語内部マニュアルにそった官僚的手続きで、人権とか異国で無念の死を遂げた日本人の遺児への配慮など、みじんも感じられませんでした。幸い、何とか予定通りに来日したアランさん親娘を迎えた岡山健物家の心暖まるもてなしで、父・祖父の国についてのイメージを、挽回することができましたが。あの北朝鮮亡命者の幼子に、アランさんのような辛い人生は、送らせたくはありません。外務省は、国家威信のためにあるのではありません。国民の安全と保護のためのものです。「専制と隷従、圧迫と偏狭を地 上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」ならば、あの副領事がまずなさなければならなかったのは、幼子を守り、母親と共に保護することだったはずです。外務省の腐敗・堕落は、あの島崎蓊助セピア色の絵のドアの向こう側のように、底が知れません。


2002/4/1  もう一つ、朗報がありました。昨年の5月に本HPでご親族を探し当てた旧ソ連粛清犠牲者「ササキことケンモツ=健物貞一」のロシア残留遺児アランさんが、日本のご親族の招待で来日準備を進めていますが、1937年、2歳の時に生き別れになった父健物貞一(写真、ラーゲリで1942年病死)の消息を日本から得たばかりでなく、なんと、同じく強制収容所に送られて行方不明だった実母(つまり貞一の妻)が、カムチャッカ半島に生存しているのを探し当て、67歳にして「瞼の母」とのご対面が実現することになりました。やはり社会主義にあこがれ旧ソ連に入った朝鮮人母シェ・オク・スンさんは、1913年生まれ、90歳近くです。カムチャッカといえば、シベリア抑留で知られるマガダン収容所の先の先。きっと苦難の人生だったのでしょう。すでにアメリカ日系移民史では、大恐慌期のカルフォルニアで「第二の片山潜」といわれアジア系労働運動指導者として知られた健物貞一ですが、70年前の旧ソ連亡命後の軌跡が、ようやく奇跡的に明らかになりつつあります。

(参考文献) 

小林峻一・加藤昭『闇の男――野坂参三の百年』文藝春秋社、1993
加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』青木書店、1994
加藤哲郎『国民国家のエルゴロジー』平凡社、1994



第1段階 旧ソ連秘密資料による探索開始

 
<ロシア在住旧ソ連粛清犠牲者須藤政尾遺児スドー・ミハイル氏から加藤哲郎へのササキ・アラン氏父健物貞一親族捜索依頼の手紙、2001年5月6日>

 

加藤さん、今日は。お元気ですか。しばらくですね。
今私は、大学に電子メールがあります<msudo@yandex.ru>
2・3日前に、私は、ニジェコロツカヤ州、ボゴロツキー地区に住んでいます人から手紙を受けとった。彼の名前はササキ[・アラン・サダミノビッチ]です。佐々木さんのお父さんは、1938年にKGBに逮捕されました。若い[息子の]佐々木さんは日本にいるお父さんの親戚を探しています。彼に手伝ってください。


<ロシア在住旧ソ連粛清犠牲者スドー・ミハイル氏への健物貞一遺児ササキ・アラン氏の手紙( 2001年4月29日付け、島田顕訳)>

 

 日本国領内での親類捜索に関して、以下の住所に居住しているササキ・アラン・サダミノビッチがお便りいたします(住所:ニジェコロツカヤ州、ボゴロツキー地区、クジマ駅、プーシキン通21番地、17号室、自宅の電話番号:69−22−09)。2000年初めに私の元に届いた通知に従い、2000年3月25日に親類捜索のための私の請願書を大使館代表者に渡しました。チムル・ボリス・ボリソビッチとの電話で私にコピーで複写したものをあなたが必要だということが告げられました。だから私はあなたに宛て、私の父、サダイチ・ケンモツの運命についてさらに詳しくお便り申し上げます。

まず自分自身についてお話します。

 1948年2月6日に私が取得しました出生証明書によりますと、1935年5月1日、イワノフスカヤ州プリボルシュク市に生まれました。中央統一アルヒーフにより1998年2月25日に発行された文書番号183184号のアルヒーフ証明書によりますと、私は父の逮捕後、1938年4月初めにモスクワの中央児童院[孤児院か?]におりました。そしてイワノフスカヤ州の孤児院で私は育ちました。1935年[年がまちがっていると思われる]にゴーリキー市第30技能工養成所に送られました。この養成所を1953年に卒業し、第5級環境衛生設備仕上げ工[金属製品の手仕上げ、組み立て、修理をする労働者]の職を得ました。技能工養成所からゴーリコフスカヤ州ジェルジンスク市の設置局への派遣を受け、そこで2年間働きました。1955年から1957年までソ連軍の部隊にいました。除隊後ジョルジンスク市の元の職場に復帰し、また1958年から1961年まで夜間学校に通い、ゴリコフスキー工業建設大学に入学し、1968年に熱ガス供給・換気技師として卒業しました。大学で学んでいるときジェルジンスク市のカリーニン記念工場のプロジェクト部に転勤し、そこで20年以上働きました。

 私の請願により、モスクワ市、モスクワ州のロシア連邦国家保安局からニージニー・ノブゴロド市[旧名ゴーリキー市]の連邦国家保安局[支部か?]に、文書番号25449号の私の両親に関するファイルが送られてきました。このファイルを閲覧したところ、以下のことが明らかになりました。逮捕供述により、私の父サダイチ・ケンモツは1900年6月5日にウカアマ県(日本)―アルヒーフ証明書によりますと岡山県(日本)―に生まれました。1923年に早稲田大学[早稲田市の大学となっている]を卒業し、アメリカに向かい、そこに1932年まで滞在しました。1932年にウラジオストーク市に赴き、そこでササキの姓を得ました。ウラジオストーク市で国際海員クラブの日本セクションの指導者として働きました。1936年から、ササキ(ケンモツ)・サダイチはウラジオストークからモスクワに向かい、そこでモスクワ第9印章工場の補助的な仕事に就いていました。工場で働いていたとき、父は以下の住所に居住していました(モスクワ州、セベスナヤ鉄道チェリュスキンスカヤ駅、スタールィ・ボルシェヴィキ村、テールマン通り10番地)。モスクワ第9印章工場でササキ(ケンモツ)・サダイチは1938年4月15日まで働き、日本のスパイ活動の容疑で逮捕されました。ソヴィエト連邦内務人民委員部附属特別会議の1939年6月9日の決定により、ソヴィエト連邦刑法第58条第6項によって、矯正[もしくは再教育、強制ではない]労働収容所に8年間収容され、さらにマガダンスカヤ州に送られました。1942年9月8日、1997年8月5日の文書番号3/s−77号のアルヒーフ証明書によると、ササキ(ケンモツ)・サダイチはプロフズヌィ[_________]全腸炎、衰弱、心停止[直訳では心臓活動の低下・衰退]という診断で死亡した。

 また尋問調書によりササキ(ケンモツ)・サダイチの家族について明らかになりました。

(ケンモツ)サダイチ:
妻―シェ・オク・スン、人種は朝鮮人女性、1913年生まれ。
息子―アラン、1935年生まれ。
娘―ジェニー(エヴゲーニヤ)、1937年生まれ。
父―ケンモツ・コウタロウ、人種は日本人、染物生産に従事していた。このため雇用労働者3人未満の染物工場を持っていた。この工場で彼は織物工場用の糸の染色を行っていた。納入業者の一人に工場を持っていたフナコシ・チェジロ[ロシア語のままチョウジロウかもしれない]がいた。
母―ケンモツ・チエオ[チエコか?]、人種は日本人女性、主婦。
兄弟[兄なのか弟なのかはわからず、明記なし]―ケンモツ・マツトロ[マツタロウか?]、中学校で教えていた。
姉妹[姉なのか妹なのかはわからず、明記なし]―ワカミ・イツノ、商船船員の妻。
―ニカノ・カテツ、米穀商人の妻。

 8月26日の文書番号4/1302−97号の名誉回復に関する証明書によって、ササキ(ケンモツ)は1989年10月2日に完全に名誉回復が行われた。

尊敬をこめて

  ササキ・アラン・サダミノビッチ



以下は、ロシアのササキ・アランさんから私の自宅にファクスで送られてきた、ロシア及び旧ソ連政府発行の公式書類の日本語訳である。翻訳にあたっては、ロシア科学アカデミー東洋学研究所員・一橋大学客員研究員ドミトリ・ストレツォフ氏が下訳し、一橋大学大学院生で前モスクワ放送日本担当島田顕氏に日本語を直してもらい、藤井一行富山大学名誉教授が校閲して万全の正確を期した。


逮捕・起訴決定書

 

1938年3月23日付き モスクワ州内務人民委員部国家保安局スターリン地区長 ストウーコッフ
ササキ サダイチ(ケンモツ)、1900年生まれ、日本出身、日本人、「モスシュタンプ No.9」工場の補助労働者、住所:北方鉄道線チェリュスキンスカヤ駅、ボリシェビック村テリマン通り10番地、
反革命・スパイ活動の罪状が明白である。
上述の根拠により、ササキ氏を刑法第58条6項の被疑者として起訴し、訴訟と裁判からの逃亡防止措置として、監禁することを決定した。

 

モスクワ州内務人民委員部国家保安局スターリン地区長 ストウーコッフ
 
「承認した」
モスクワ州内務人民委員部内務局第3部長    ソロキン
 
同決定書は1938年4月28日に本人に提示された。
被疑者本人のサイン  ササキ(ロシア文字でかかれた本人のサイン)

ソ連内務人民委員部特別会議決定書の抜粋[強制収容所送付書]

 

No.14、1939年6月9日付
 
聴取項目 決定
1900(1903)年、日本のオカヤマケン生まれ、日本人、ソ連国籍、自営染物業者の息子、無党籍、監禁の前に「モスシュタンプ No.9」工場の補助労働者として働いていたササキ サダイチ(ケンモツ)の原告訴訟、ファイル名5678、モスクワ市。
 
スタンプ文章
当決定書抜粋は第26/13-11469
の文章として、1939年6月17日にモスクワ州総局(?)へ、
本人をコルイマ地域(?)へ派遣する為に送られている。

 

ササキ サダイチ(ケンモツ)をスパイ活動により、1938年4月15日から刑期を数えて8年間の矯正労働収容所に拘禁する。当ファイルを書類保管所に引き渡す。
ソ連内務人民委員部特別会議書記局長    マルケーフ


死亡証明書

 

ササキ サダイチ(ケンモツ)は、1942年9月8日に、42歳の年齢で死亡したことを証明します。上記について、1997年9月15日に、第3の特別登録簿に、死亡登録が記入されました。

死因:心不全。
死亡所:ロシア連邦マガダン州セイムチャンスキー地区ゾロチストイエ村
登録場所:モスクワ州ロブニャ市戸籍登録課
発行日:1997年9月15日

 

戸籍登録課主任 (サイン)
_ 300710 (?)
ロシア連邦最高検察局モスクワ軍管区軍事検察官
1997年8月26日
_ 4/1302-97
郵便番号113035モスクワ市サドブニチェスカヤ通り62番地
Tel(095)23(?)1−49−20、273(?)−7035、
304−6740。


付属文書保管所の資料に基づいた証明書[死因証明書]

 

ササキ サダイチ(ケンモツ)、1900年生まれ、日本岡山県出身
服役中の1942年9月8日死亡。
病理診断:小腸・大腸炎(全腸炎)、栄養失調
死因:心不全。
埋葬地:マガダン州スレドネカンスキー地区ゾロチストイエ村の収容所付属墓地
過去の年月における墓地の保全状態についての情報を、内務省マガダン州支局は把握していない。
ササキ・サダイチ(ケンモツ)氏の死亡証明書を発行する為の通知は、モスクワ州およびモスクワ市の戸籍登録課へ、1942年9月21日と、1997年8月5日に2回送られています。死亡証明書を入手するには、前述の戸籍登録課に申し出て下さい。
写真添え付け

 

総局情報センター部長   I.V.カミュー
書類保管所の係り     I.B.ラズーモワ
 
「認可する」
ソ連内務人民委員部副委員長
国家保安第1級委員 ザコフスキー      逮捕は4月15日認可済み
1938年3月29日              (サイン)

証明書(名誉回復について)

 

ササキ サダイチ(ケン−モツ、同じくケンモツ)、1900(1903)年日本の岡山県生まれが1938年4月15日に不当に逮捕され、ロシア社会主義連邦共和国刑法第58条6項に基づき、ソ連内務人民委員部付属特別会議の1939年6月9日付の決定により、刑期8年の矯正労働収容所での懲役刑に処せられたが、ロシア社会主義連邦共和国の1991年10月18日付の「政治粛清の犠牲者の名誉回復に関する法律」の第3条a項と第8条により完全に名誉を回復された。

 決定は1989年10月2日の内務省軍事検察局によりなる

 
モスクワ軍管区副検察官臨時代理
司法大佐 I.I.チュリパーノフ
ロシア連邦内務省マガダン州支局  1997年8月5日付
_ 3/_-77
685000マガダン市ジェルジンスキー通り9番地
A.S.ササキ
684090 カムチャッカ州ビリュチンスク市プリモルスカヤ通り
2番地−16号室



第2段階 日本官憲資料による身元解明・ご遺族関係者探索


内務省警保局『昭和7年中における外事警察概要・欧米関係』(1932)

「本籍 岡山県都窪郡早嶋町 健物貞一(33)

本名は早稲田大学商学部卒業大正12年7月渡米、桑港に於て12年間翻訳賃仕事に従事したる後紐育に赴き、同地共産学校ランド・スクールを卒業、再び桑港に赴き共産党日本部幹部として邦人間に主義の宣伝を為す。自ら第二の片山を以て任じ、外人側主義者の集会、演説会又は示威運動等には邦人側代表として参加し、在米各地の党員並内地の主義者等とも気脈を通じつつありしが昭和4年12月14日桑港邦人街に於て共産主義宣伝中逮捕せられ、労働長官より送還命令を受け、正式裁判を求めたるも敗れて提訴し、其の棄却せらるるや更に大審院へ上告したるも、労働省に於ては同人が取下ぐるに於ては12月3日迄に米国を退去することを条件として送還に依らずして自由退去を許可する旨指令ありたるを以て本名の弁護士は、ソビエット政府は同人の入国を許可し来りたるに付同人の旅券に独逸及露国行延長査証方在桑港帝国領事館に顔出したるも拒絶せられたり。茲に於て彼は桑港国際労働者擁護会(ILD)、国際労働者救援会等の尽力により、露国当局より入露許可を得たるを以て独逸通過入露すべき旨の宣誓書を作り、之に在桑港独逸総領事の査証を得昨年12月16日桑港発の汽船Witram号にて独逸経由入露したり。本名が入露するに当り、機関紙『労働新聞』の本年1月1日発行第73号に「総領事若杉の妨害を蹴って同志剣持ロシアに立つ」なる見出しの下に小記事あり又同一紙面に本名の次の如き感想文を載せ居れり。……

独逸到着後の本名の行動につきては『労働新聞』2月1日付第74号に「同志劔持ベルリン通過、世界いたる処に俺達の同志は居るぞ!」なる題下にベルリン同志の手により通過の世話がなされたる旨を報道し、別項にリンコルンハイ市監獄山口栄之助なる者が「同志劔持を送る」なる一文を寄せ居り、同紙4月15日付第76号には「ソビエットに入る、モスコーにて 劔持生」なる見出しの下に旅行記風にて入露の経路を掲げ居れり。

尚本名は同志2名と共に昭和6年東京のメーデーに参加せんとしたる事実ありたり。即ち同年4月中旬横浜に上陸(乗船名及当時使用したる変名は判明せず)帰国の目的は昭和3年4月同じく在米日本共産党の為め活躍したる山辺清、影山静子の両名が帰国の際日本官憲に逮捕投獄せられたりとの情報米国に伝はるや、関係者相謀りて犠牲者救援会を組織し拠金したる金員を所持し、両人の動静視察旁々帰国したるものにして日本到着後上京、関係者を訪問し、始めて両人が昭和3年帰国の際、横浜水上警察署に於て一応取調の上釈放せられたるを聞き、其の序にメーデーに参加すべく現地に到りたるに、官憲の服装検査非常に厳重なる為め万一発見せらるるを懼れ参加を断念し同月下旬より更に渡米したる事実本年9月に到り判明したり。」


内務省警保局『昭和8年中における外事警察概要・欧米関係』(1933)

「昨年中追放せられたるもののリスト

剣物 貞一 原籍岡山県都窪郡早嶋町 1932年1月離米 行先 露国(独逸経由)」


『社会運動の状況・昭和10年・共産主義運動』(1935)

「在露邦人共産主義者調(昭和9年9月現在)

ペンネーム 三浦 本名 健持 貞一 年37/8歳 丈5尺2・3寸体格頑丈

浦塩 トス責任者 昭和7年米国より入露 アメリカ共産党員として活動中、昭和7年アメリカ政府より追放されて入露 入露後レニンスクールに入学約1か年間勉学し昭和8年浦塩に派遣され「トス」二本部責任者として活動中」


『思想月報』33号、昭和12年3月(1937)

「健持 貞一?(変名 三浦?) 米国共産党員として活動中、米国政府より追放されて入露(昭7) レーニンスクール入学、約1カ年勉学、昭8 浦塩に派遣され太平洋労働組合書記局日本人部責任者として活動(昭10/6現在)」


内務省警保局『極秘 外事警察概況』昭和12年(1937)

「在露中の日本人共産主義者一覧表(昭和12年12月末現在)

鍵持 貞一 仮名三浦 39歳位 5尺3寸位 体格頑丈 昭7入露 アメリカ共産党員として活動中昭和7年アメリカ政府より追放され入露レニンスクールに学びたるも昭和8年春浦塩に派遣され汎太平洋労働組合書記局(トス)の日本語部責任者となる、日本に特派するには不適当との議あり」 



第3段階 米国国立公文書館・米国議会文書館・UCLA・カール・ヨネダ・ペーパーズによる検証


<カリフォルニア大学ロスアンジェルス校カール・ヨネダ文庫所収アメリカ側資料中の「ケンモツ」、加藤哲郎収集> 

ビラ 在米同胞諸兄姉に檄す 国際労働擁護連盟 東洋人部 健物貞一(March 1, 1927)
ビラ 「日本人労働者ケンモツを送還より救え! 国際労働救援会(1930年3月)
ビラ 「剣持、堀内、山口の送還に抗議せよ! 国際労働救援会北加地区」(April 7 ,1931)
『労働新聞』1931/1/25「剣持送還事件、US大審院へ上告、ILDの擁護」
『労働新聞』1932/1/1「ロシアへ旅立つに望んで 同志剣持生」
『労働新聞』1932/2/1「同志剣持を送る リンコルンハイ市監獄 山口栄之助」
『労働新聞』1932/4/15「ソビエトに入る モスコーにて 剣持生」
『労働新聞』1931/12/1 日本総領事、同志剣持の自由出国妨害、若杉は労働者の敵だ!」
『労働新聞』1935/6/25 写真「ソ同盟出発前の同志剣物(同志剣物は初期の編集者)」
ILD堀内支部『救援ニュース』1932年1月第7号「天使島通信 12月15日 剣持生」


List of Deporters 1931-1935

1. Teiichi Kenmotsu(剣持貞一、32?) Editor, RODO Shinbun, a communist Newspaper, in Japanese, published in San Francisco, arrested Dec. 16, 1929, Left from S.F. abroad a German ship Dec.16,1931.


Karl G.Yonedaの在米ソ連大使館への身元照会の手紙(Nov. 9.1964)

2. Sadaichi Kenmotsu, Arrested on Dec.15,1929 in san francisco as editor of the "Rodo Shinbun" a Communist newspaper in Japanese, published in S.F. Left San Francisco abroad a German ship for the Soviet Union on Dec.16, 1931.


To US Department of Justice, March 26, 1973( Karl G.Yonedaの米国司法省への探索請求、他の「アメ亡組」と共に)

Sadaichi Kenmotsu was ordered deported to Japan on February 13, 1930. However, on November 3, 1931 he was granted permission to depart voluntarily to Russia at his own expense. He departed from San Francisco on December 16, 1931 abroad the S.S. Witram to Russia via Germany.


カール・ヨネダ『在米日本人労働者の歴史』(新日本新書、1967)89ページ以下「劔持貞一(早大卒)の指導下に『階級戦』1926/6創刊、26年以来『労働新聞』と改名、アメリカ共産党員として29年12/25バークレイの自宅で逮捕・送還命令を受けた最初の日本人、31年12月ソ連へ」

カール・ヨネダ『がんばって』(大月書店、1984)32ページ以下「1925年に劔持がバークレーで日本人労働協会を結成、サンフランシスコでヨネダに岡繁樹・とし夫妻を紹介、1930メーデーの「劔持と堀内の国外追放反対」、31/12/16サンフランシスコからドイツ経由ソ連へ、『社会運動の状況』によると劔持は32年レーニン党学校に学んだ後、ウラジオストックの日本人海員倶楽部の長」 

ジェームズ小田『スパイ野坂参三追跡』(彩流社、1995)40ページ以下「健持貞一 共産党日本語機関紙主筆、1931年12月16日サンフランシスコ発、74年の大森実インタビューで野坂は健持の存在を認め、彼はスターリンに粛清された、という[大森インタビューには、剣持ら「アメ亡組」粛清の記述なし]」



第4段階  健物家遺品史料、ソ連公文書館間接史料、日米社会運動史資料による歴史的位置づけ

 


岡山健物家 健物貞一 墓碑銘 (1962年まで弟は兄の生存を信じ死亡届を出さなかった)

 「健物幸太郎長男として明治33年6月5日に生れる。大正12[1923]年3月早稲田大学商学部卒業同年7月24日アメリカへ行く。昭和7年以来消息を絶ち今日に至る。依って昭和37[1962]年7月24日を命日とす

  俗名 貞一 行年62歳」


手紙● 1923年5月26日 健物貞一宛て英文手紙[秘密連絡文書?] Y・杉浦?杉村?辻村?発 

なぜ連絡をくれないのか、アメリカへの旅の計画は? パスポートは? 
あの娘that girlが心配で東京にくるのか? 怒るな、友情だよ、
今日、宮坂と話した、君が所属していた建設者同盟the union of builders [浅沼稲次郎、稲村隆一らを指導者とした早稲田大学の学生運動組織、東大の新人会に相当、23年5月早大軍研事件の中心組織]は、軍部の干渉でついに解散させられた、多くの君の同志Kamaradesが当局に追われている、
君は7月に戻ると宮坂からきいたが本当か? 今日私は[ロシア人?]グリゴリエフGrigorieffと会った、7月28日にアメリカへ渡るので君にグッバイと伝えてくれとのことだった、この手紙がついたらすぐ連絡してくれ、ご両親・ご兄弟によろしく  [宮坂と発信者は、学生運動仲間・合宿仲間か?] 

手紙●1923年7月27日封書 妹尾町南町 中野栄一様 東京にて 貞一

  昨日はありがとうございました、船中至極愉快、横浜出帆は28日正午、それまで東京で最後のみやげに芝居見物

手紙● 1923年8月3日 父上様 貞一

  横浜を出て8日、東洋汽船の春洋丸とすれちがい、6日早朝ハワイ着、洋食ばかり

手紙●1925年5月16日(封筒 妹尾町 中野栄一様 21日消印)兄上様 貞一 

 4月23日お手紙5月16日ありがたく拝見、大阪移転の噂間違いでした、
 ロスでは7万人の失業者が路頭に、労資闘争は毎日新聞紙上の種、活動能力を全く制限された日本人の現況はもっと厳しい、例の土地法以来農業はふるわず、都市に流れ込むも仕事なし、アメリカにいる日本人は全く悲惨です、社会的・経済的・政治的にあらゆる方面で抑圧され、活動能力を抑制され、全く活動領域はない、加州在住の日本人の大部分の人々は毎日ホーキとバケツ、雑巾とを四六時中手放し得ない人々である、現に私もその一人、若いときは一生懸命自らの頭を鍛えておく方が得策と考え来るべき檜舞台にたつ日を待ち努力中、
 震災の時博州?の叔父より便りあったがそれっきり、和田へも長い間無沙汰よろしく

手紙●1932年1月20日 丈一郎様 貞一 ベルリンにて

(封筒 大阪市西区九条発電所前 藤井粂太様方 浦田丈一郎様 ドイツ消印)
 私は元気。兼ねて私の事についてはお聞き及びの事と存じます。今まで国元の両親にも誰にも私が何をし又何をしてきたかは一言もふれませんでした。今とても私は弁解したいと思いません。ただ貧乏し苦労のありたけをしている老いた両親の事を思うといてもたってもいられません。せめてこれだけは、貴兄おさっしくださることと存じます。まことに不孝児中の不孝児の汚名を甘受するよりほか道もありません。
 身に余る教育を授けられ貧乏の中より渡米、私はたとえわずかでも物質的に両親に余を渡させたいとは存じましたがそれもなしえず、加えて計り知れない心労をかけました。また愚弟松太郎にも気の毒に思っております。
 だが私はいつかはわかってもらえる事だけは確信しております。なにとぞこの上とも両親をいたわってください。また松太郎にとってもよき相談相手となってやってください。
 12月16日米国を出帆。先日ドイツ着。米国政府は私の滞在を好まず又他国と雖も同じ事です。それで私は私の勉強の最も安全かつ都合よいロシアに参ります。労働者の政府の樹立されているロシア、ここだけが私の入国を許可し滞在を許してくれます。大いに勉強いたします。
 近い内に米国から私の友人が帰国致します。この友人は京都の人。私が何をしかつなさんとするか、その一端を両親にしらせ、また皆様にきいていただくため、この友人が九条藤井様を訪ねてくれることと思います。非常にまじめなクリスチャンです。どうぞこの人からきいてください。
 母上様、藤井様にくれぐれもよろしく。政枝様にもついでによろしく。
お便りは、S. Kenmotsu R.F.D.I. Box80, Florin,Calif.USA
 貴兄の結婚されたこと、また子どもが亡くなったことききましたが、長い間ご無沙汰して申しわけありません。兄の細君の妹君[亀子さん]が松太郎と結婚していること、子どもの出来たこと等もききました。家庭と親戚の円満と壮健を祈っております


<旧ソ連秘密資料中の「ケンモツ」> 

小林峻一・加藤昭『闇の男――野坂参三の百年』(文藝春秋社、1993)143ページ

「健持(佐々木)=1900年生・岡山県出身、38年11月26日以前に逮捕されているが、その後の運命はわからない。23年に渡米してアメリカ共産党に入党、32年にソ連に来てクートベに入学、卒業後はモップルで活動していた。」


[1]健物アンケート(ロシア語)RGASPI, f. 495, op. 280, d. 188, ll. 37-38.

日本 ささき コピー[鉛筆書き、アンダーライン]

秘密                             形式“A”

注意:アンケートの質問の答えは正確に詳しく与えられなければならない[述べられなければならない]。

アンケート用紙                    写真

 

1.機関の名前  ウラジオストーク、国際クラブ[以下本人記入(ロシア語)は太字で示す]。
2.職位  [単語一語判読できずDev.か?]日本セクション。
3.就職採用年月日、命令書番号  1932年10月。
4.退職年月日、命令書番号、退職理由。  無記入。

質問  回答[本来回答は質問箇所の右側だが、訳では一行あけて書く]

1.名、姓、父称(偽名、ペンネーム、もしくはその他)、姓が変わった場合は、旧姓を述べる(結婚した姓、独身時の姓を述べる)。
さだいち けんもつ。
偽名 ささき。
 
2.生年月日、出生地。ソ連で生まれた者は旧(県、郡、郷、村)、新(州、地方、地区、村)の行政区分に従った出生地を述べること。
1900年6月5日、岡山、日本。
 

3.革命前の階層、もしくは身分(農民、町人階層、貴族、商人、僧侶階層、軍人階層)。

手工業者。
 
4.両親  父親     母親
a)名、姓、父称、(母親の旧姓も述べる)
   父 こうたろう 母 ちの。
b)階層、身分
   父 手工業者 母 主婦。
v)不動産、財産の所有者か、いかなるものか、どこでか。
   父 なし 母 無記入。
g)革命前まで何に従事していたか(具体的に書く)。
   父 無記入 母 無記入。
d)現在、何に従事していたか、どこにいるか(正確な住所)。
   父 知らず 母 知らず。
 
5.あなたの職業、もしくは専門。
定職はない。
 
6.民族
日本人。
 
7.国籍(国籍)[国籍を意味する言葉は2つあり、それらが書かれている]
ソ連。
 
8.家族状況(独身、既婚、未亡人)。家族のすべて[のメンバー]を列挙すること。
既婚、妻。
a)妻(旧姓)、夫の名、姓、父称。
シェ・オク・スン。
妻(夫)がどこで、どのような職で働いていたか(働いているか)。
主婦。
9.妻(夫)の両親:
a)名、姓、父称。
   妻の父 知らず 妻の母 知らず。
b)革命前まで何に従事していたか。
   妻の父 無記入 妻の母 無記入。
v)現在、何に従事していたか、どこにいるか(正確な住所)。
   妻の父 無記入 妻の母 無記入。

 

10.あなた、もしくはあなたの妻(夫)の親戚のうち誰が選挙権を剥奪されたか、何のためか。
誰もいない。
 
11.教育(それらの所在地の指摘とともにすべての教育機関を列挙すること)。
日本の東京の大学を1923年に卒業した。
 
12.どのような言語を知っているか、どの程度それを習得しているか。
日本語、英語(良好)。
 
13.外国に住んだことがあるか、どこに、どのくらいの期間住んだのか。ロシア(ソ連)に移った原因。
はい。8年間アメリカで/MOPRにより労働[活動?]のためソ連に送られる。
 
14.外国で何に従事していたのか。
農業労働者として働いていた。
 
15.外国に親類もしくは近しいものはいるか、どこで、何に従事しているのか、いつ、何故ソ連から出たのか、そしてそれらの住所。
なし。
 
16.軍部隊、最終階級、旧軍隊における職位。
まったく勤務していない。
 
17.白色軍隊、白色政府機関(白色軍隊)に勤務したことがあるか、どのような階級(職位)どこで、いつ;白軍の領土にいたことがあるか、いつ、どのくらいの時間[期間]か。
なし。
 
18.外国使節団に知人もしくは親類はいるか。
なし。
 
19.赤軍に勤務したことがあるか、いつ、どこで、どのような職位で(最終的な職位)。
なし。
 
20.現時点での兵役義務に対するあなたの態度。
a)赤軍の軍籍にあるか。
b)登録しているか、いつ、どこで登録されたか。
v)登録名簿から削除されたか、いつ、どこで、どんな原因で。
まだ登録していない。

 

21.党籍(全連邦共産党(ボ)の党員、全連邦レーニン共産主義青年同盟のメンバーは入党時、党員証番号を述べること)。
1924年12月にアメリカ共産党に入党した。党員証番号は覚えていない。個人ファイルはモスクワにある。
 
22.以前に何らかの政党にいたか、またどこで、いつ、どのような脱党の原因か。
なし。
 
23.告訴されたことはあるか、取調べを受けたことはあるか、逮捕されたことはあるか、裁判秩序、行政秩序において処罰されたことがあるか、いつ、どこで、何のためか。
革命前 なし。
革命後 1929年に戦争反対の示威行動の組織により7ヶ月間牢獄に入れられた。[日本語の自筆履歴書では1週間となっている]
 

24.党内グループ、フラクションに参加したか、いつ、どのようなものか、何においてこの参加が表現されるか、いつそれらとの関係を絶ったか。

革命前 なし。
革命後 なし。
 
25.党の処罰を受けたか、どのようなものか、いつか、どのような組織によるものか(すべての事件を列挙すること)。
なし。
 
26.二月、十月革命、内戦に積極的に参加したか、いつ、どこで、何においてあなたの参加が表現されるか。
なし。
 
27.労働組合のメンバーであるか、どのような労働組合か(加盟の時間[年月日]、組合員証番号)。
1934年1月1日から水上運送業従業員、現在は海員。
 
28.住所(正確なアドレスと電話番号)。
ウラジオストーク、ケタンスカヤ通23番地3号室。
電話はない。
29.何に従事していたか、勤務場所、機関、都市、何としてかを、詳しく正確に述べること。
a)1905年以前
b)1905年から1917年3月まで
v)1917年3月から十月革命まで
1917年まで学んでいた。
 
30.最終的な勤務地、最終的な職位、その勤務の退職の原因、期間の正確な住所を詳しく正確に述べること。
農業労働―アメリカ、カリフォルニアで。そこからソ連に派遣された。
 
31.さらにどこかで兼務の形で働いていたか。機関の住所、労働の性格[形態]。
なし。
 
32.誰があなたを知っているか、誰が助言しているか。
無記入。
 
33.旅券番号
UES000845
 
配置転換
g)十月革命後現在まで
番号順番に 機関の名称と都市(完全な[正確な、欠けるところのない]名称)
職位 いつからいつまでか 移動の原因
1.東京の大学の学生 学生 1918年から1923年まで 無記入。
2.セクションに入る―さまざまな小工場での農業労働者として労働 農業労働者 1923年から1932年まで 派遣。
 
 私、下記に署名された ささき(さだいち けんもつ) は、本当の署名を(機関の名称) IMPRのソヴビューロー に与える。この中で私は私に通告された秘密文書取り扱いの規則の実行の義務を負い、私に知られることができた[私が知ることができた]すべての国家機密を、どこでも、どんな程度においても放言しない義務を負う。
 1927年5月26日付ソ連中央執行委員会幹部会会議の、私にとって承知の秘密決定に従い、法廷外の規則においてこの義務の不遵守のため、私が厳しい責任を負うことは私にとって承知のことである。[私は承知している]
 
1935年2月22日 署名 ささき


KGB野坂龍個人ファイル中に「ササキ・サブロー」として登場(藤井一行HP参照)

   被疑者キム・シアン(リョウ・ノサカ)の供述

                1938年2月17日

問 : ソ連領内に住む親しい知人を全員あげてください。
答 : ソ連領内に住む私の知人のうち、
  1 タナカ[山本懸蔵]は、日本共産党代表で、コミンテルンで働いていたが、1937年11月2日に逮捕されました。逮捕の理由は私にはわかりません。
  2 タナカの妻、アンドー・ユキ・タナカ[関マツ]はレオンチェフ横町第2号棟A 第8号室に住んでいます。   
  3 ササキ・サブロウ[健物貞一]はスターリン地区の工場で働き、セーヴェルナヤ鉄道のチェリュースキンツイ駅に住んでいる。
  4 コン・ジョ[前島武夫]は学生でトヴェルスコイ並木通り第13号棟に住んでいたが、1937年5月にNKVD機関に逮捕された。
  5 コン[国崎定洞]は外国労働者出版所で働き、トヴェルスコイ並木通第13号棟に 住んでいたが、やはり1937年の8月に逮捕された。
問 : あなたがいつ、どこからソ連領内へ国境を越えたのか詳しく話して ください。
答 : 1930年の末にソ連から日本へ帰国した、姓をタケダという知り合い の男性が家にきて、私の夫オカノと私が国境を越えてソ連に行く必要があると言いました。夫は日本共産党についてコミンテルン執行委員会に報告をし、私は日本のモップルの活動についてモップル中央委員会に報告をし、その後、残って勉強するようにと。1931年にタケダの指示に従い、私たちは神戸から日本を出発し、旧東支鉄道を使って満州を抜けポグラニーチナヤ駅まで行き、そこで1人のロシア人同志を訪ね、タケダが私たちにあたえた暗号をつたえました。そのロシア人同志の助けを得て、私たちは蒸気機関車の炭水車に乗り、非合法な形でソ連領に入りました。ヴラヂヴォストークに着いて私たちはタナカに会いました。  
問 : 1931年まで日本であなたは何をしていましたか。
答 : 1918年に日本の東京市の高等師範学校を卒業しました。学校を卒業 してすぐ、兵庫県明石市の女子師範学校で1920年まで英語と国語を教えていました。1919年の初めにオカノに嫁ぎましたが、7月には夫は日本の労働組合の特派員として、経済と労働組合運動を学ぶためイギリスにでかけました。1920年の末に私は日本を出てイギリスの夫のもとへ行き、そこで同じく労働組合運動を勉強しました。1921年のウェールズの鉱山労働者のストライキの時に、私たちはイギリスから追放されフランスのパリ市に移り、そこで1ヶ月ほど暮らしました。そしてパリからドイツのベルリンに移り、そこでも労働運動の研究にたずさわりました。1922年に私たちは日本へ戻りました。
 日本帰国後、私は東京で女性労働者たちの間に手芸サークルをつくり、彼女らの間で政治活動を行ないながら、また労働組合の女性新聞の編集員を勤めました。1923年に私は日本共産党に入りました。1924年から1928年まで労働問題研究所の秘書として働き、モップルの活動をしていました。1928年には私は何度か日本の警察に捕まり、2日間から30日間拘留されました。7月にも逮捕され、東京の市ケ谷刑務所に入っていました。しかし1年後、夫の弟オノ・ゴウイチが私の保証人になってくれ、80円を払って保釈されました。ソ連への逃亡、つまり1931年まで私は母のところで暮らし、モップルの活動を手つだっていました。
問 : あなたの親族のうち、ソ連国外に住んでいるのは誰ですか。
答 : 日本に住んでいる私の親族のうち、母クズノ・アキ(主婦)と、兄 クズノ・サクタロウ(箱工場経営)が神戸市に住んでいます。東京市では 夫の弟オノ・ゴウイチがモーター輸入会社に勤め、夫の兄クズノ・トモツ チが私の兄と1緒に働いており、また夫の姉妹2人ハヤカヤ(主婦)とアベ・リュウ(主婦)も東京に住んでいます。私は1931年以後誰とも連絡をとっていません。
問 : なぜあなたは全連邦共産党(ボ)から除名されたのか話してくださ い。
答 : 私は1923年に東京で日本共産党に入りましたが、非合法にソ連領入 りした後の1932年1月に日本共産党から全連邦共産党(ボ)へ移籍されました。しかし人民の敵タナカとのつながりのため1938年1月、コミンテルン執行委員会の党組織によって全連邦共産党(ボ)から除名されました。
問 : あなたがいつ、誰によってソ連領内でのスパイ目的にやとわれの か、取り調べに対して嘘偽りのない証言をしてください。 
答 : 私は、ソ連領内に住んで、反革命的スパイ活動をしたことは1度も なく、誰にもやとわれたことがないと言明します。
問 : あなたは嘘を言っている。あなたがソ連領内に住み、日本国家のた めに反革命的スパイ活動を行なったことはわかっている。誰があなたをやとったのか嘘偽りのない供述を要求する。  
答 : 私は、誰にもそして1度も私はやとわれたことがなく、また私が反 革命的スパイ活動をしたことがないという先の供述を確認します。
 
 調書は、私のことばどおりに正しく記録されており、私はそれを通読しました。
  
                        キム・シアン[野坂 龍]」 


  "Encyclepedia of Japanese American History" (Checkmark Books, 2001)

Kenmotsu, Sadaichi(1900-unknown) labor leader. Sadaichi Kenmotsu was one of the founders of Rafu Nihonjin Rodo Kyokai (Los Angeles Japanese Workers' Association) in 1925. This group attained a membership of 100 by 1930. Beginning in 1926 Kenmotsu published Kaikyu Sen (Class War) in San Francisco. The newspaper became the Zaibei Rodo Shinbun (The Japanese Workers in America) in 1928, the official organ of the Japanese Workers' Association of America. On July 27, 1929, Kenmotsu was arrested at a Communist Party anti-war demonstration in San Francisco and turned over to immigration authorities. Although he survived this episode, he was less fortunate on April 14, 1930, when he was caught in a mass arrest of 108 at a strike meeting in El Centro, California. Two months later, he was tried, convicted, sentenced and set to be deported. He left for the Soviet Union on December 16, 1931, from San Francisco abroard a German ship. He studied at Moscow Lenin School in 1933 and headed the Japanese Seaman's Club in Vladivostok; his activities after this are unknown.

『日系アメリカ人百科事典』(2001年発行)

健物貞一(1900−不明) 労働指導者。健物貞一は、1925年の羅府日本人労働協会(ロスアンジェルスの日本人労働者団体)創設者の一人である。このグループは、1930人に百人のメンバーを保持していた。1926年の初めに、健物は、サンフランシスコで『階級戦』を発行した。この新聞は、1928年に、在米日本人労働者協会の公式機関紙『在米労働新聞』となった。1929年7月27日、健物はサンフランシスコの共産党の反戦デモで逮捕され、移民局に送検された。この事件では彼はなんとか釈放されたが、1930年4月14日には、不運にも、カリフォルニア州エル・セントロのストライキ集会での108人の大量逮捕で捕まってしまった。2か月後、彼は裁判にかけられ、有罪となり国外追放を宣告された。彼は1931年12月16日、サンフランシスコからドイツ船で、ソ連邦に向かった。彼は1933年にモスクワのレーニン・スクール[共産党幹部学校、本当はクートベ=東洋勤労者共産主義大学だった]で学び、ウラジオストックの日本人海員クラブを率いた。以後の彼の活動は不明である。


加藤「体制変革と情報戦――社会民主党宣言から象徴天皇制まで」(岩波講座『「帝国」日本の学知』第4巻、山本武利編『メディアのなかの「帝国」』岩波書店、2006年)より

 
五 米国共産党日本人部――反ファシズム連合参加と象徴天皇制
 
 アメリカ共産党日本人部については、これまでゾルゲ事件被告宮城与徳の獄中供述と、戦後もアメリカ共産党の日系党員だったカール米田の著作『在米日本人労働者の歴史』『がんばって』等が、数少ない典拠とされてきた。しかし、ソ連崩壊後にソ連に亡命したアメリカ共産党日本人党員の粛清記録や膨大な秘密文書のマイクロフィルム「アメリカ共産党記録集」が公開され、関係者の回想や評伝も出て、新たな研究が可能になってきた。カルフォルニア大学ロスアンジェルス校図書館所蔵「カール米田ペーパー」の中には、機関紙誌類などアメリカ共産党日本人部関係の第一次資料が多数含まれている。それらを本格的に論じる紙幅はないが、メディア史に限定して概略を述べると、以下のようになる 。
 第一段階は、片山潜らの在米日本人社会主義者団である。日本本土でいえば第一次共産党に相当する、明治社会主義の伝統を残した流れである。カール米田の直筆メモによると、「一九一九年CHICAGOで二つの共産党創立。即ちCommunist Party of America[アメリカ共産党]とCommunist Labor Party[共産主義労働党]。前者は外国生まれが中心なので片山潜はこの創立者の一人になる。彼がNEW YORKで始めた日本人社会主義研究会の会員(約十名)全部入党。党内に片山を議長とする ORIENTAL BUREAUを設立。この中には中国人・朝鮮人も二、三人いた。」その土台となったのが、片山が一九一六年から一九年まで二二号を発行した『平民』であった。片山のモスクワ移住後、石垣栄太郎が一九二〇年に『イスクラ』(一号のみ)を、ニューヨーク日本人労働者クラブの機関紙として石垣栄太郎と西村義雄の編集で一九二三年に『労働者の力』(一号から三号まで)を刊行した。
 第二段階は、西海岸の移民労働者を中心にした、理論的志向の強い共産主義で、一九二五年に押山栄蔵編集で『大衆』一号が出た後、早稲田大学建設者同盟の活動家で、同じ岡山出身のため「第二の片山潜」といわれた健物貞一が、カリフォルニアの約三〇人の共産党員と羅府日本人労働協会を土台に『階級戦』を発刊した。後の『労働新聞』『同胞』の原型となる『階級戦』(二八年まで一八号刊行)は、健物貞一の二三年渡米時の日本共産党機関誌名と同じで、ちょうど本土共産党の福本和夫に近い、過渡的指導者となる。カリフォルニアの黎明会等左翼系文芸団体・雑誌、沖縄出身の活動家については、比屋根照夫の研究がある 。
 第三段階は、一九二八年のアメリカ共産党第六回大会での党組織再編成、一六の言語別ビューローの一つとして日本語部が作られ、デンバー大学出身の鬼頭銀一、次いで鬼頭のデンバー大同級生ジョー小出(鵜飼宣道)が書記になって以降の本格的確立期である。ちょうど「二七年テーゼ」以降の本土日本共産党に似て、コミンテルン東洋部とも連絡をとっている。二八年夏のニューヨーク、サンフランシスコ、ロスアンジェルスの日本人労働者クラブ、労働協会の合同による在米日本人労働協会設立の際に、党員のフラクション会議が開かれ、在米日本人労働協会機関紙として『階級戦』を改組した『在米労働新聞』を一九二九年まで続行(第一九号より三四号)、二九年からは党機関紙として『労働新聞』となった。当時の党員は約二〇〇名でほとんどが一世、米国生まれで日本で教育を受けた帰米組と二世が数名ずつ、ただし基礎組織である細胞はカリフォルニア党の地区委員会に所属し、地域では白人・非日本人と一緒に活動するパターンだった。つまり、在米日本人共産党員は、アメリカ革命と日本革命の二重の任務を持ち、日本人部はニューヨークのアメリカ共産党本部に直属した。モスクワのコミンテルンとの連絡もニューヨーク経由で、日本共産党との直接の接触はなかった。ただしニューヨークの日本人部書記と党員数が圧倒的なカリフォルニアとの日常的連絡は困難で軋轢が絶えず、またカリフォルニアでもサンフランシスコとロスアンジェルスの日本人共産主義者間の指導権争いがあった。日本人部書記がニューヨークからサンフランシスコに移るのは、三二年一〇月である。
 さらに複雑なのは、アメリカ共産党本部の指導を受ける日本人書記の英語能力・政治能力で、デンバー大学を卒業したばかりで日本人部初代書記に抜擢された鬼頭銀一は、一年足らずで上海の汎太平洋労働組合書記局に派遣され、ソ連から赤軍情報部員として入ったリヒアルト・ゾルゲと大阪朝日新聞上海特派員尾崎秀実を引き合わせる世界革命の前線に出る。後任で第二代書記になった同じくデンバー大学出身の鵜飼宣道(ジョー小出)も、数ヶ月でその能力を買われてソ連のレーニン・スクール(コミンテルンの各国党幹部養成学校)に派遣され、後に野坂参三の滞米生活での有能な助手となった。つまり、アメリカ共産党日本人部の最高指導者は、英語がよくできる国際的活動家であることを求められ、そこで能力を認められると、アメリカ共産党の幹部学校(ランド・スクール、地域幹部養成学校)、モスクワのクートヴェ(東洋勤労者共産主義大学、中級幹部養成)、レーニン・スクール等に送られ、日本人部の仕事を長く勤めることはなかった。
 しかも、一九二八年以降のアメリカ共産党のこうした言語別グループ政策は、コミンテルン執行委員会の地域別指導系列(日本・中国・朝鮮などはコミンテルン東洋部)、国際連絡部(OMS)経由の世界工作と連動していた。世界中から移民が集まり、英語の堪能な政治亡命者が多いアメリカ共産党は、アメリカ本国での活動よりも、モスクワの要請に応えて世界中に必要な活動家を送りこむコミンテルンの人材養成・補給基地の役割を持っていた。この頃アメリカ共産党書記長となったアール・ブラウダーが、上海の汎太平洋労働組合(PPTUS)初代書記長でコミンテルンのアジア工作のエキスパートであったのをはじめ、後にスペイン国際旅団義勇兵を多数送り出したような国際活動が、アメリカ共産党の重要な任務であった。日本ではあまり知られていない鬼頭銀一、ジョー小出、長谷川泰二、木元伝一らがこの系譜の日本人国際革命家で、コミンテルンとアメリカ共産党にとっては、日本本土で自滅した日本共産党員以上に、最も優秀な日本人共産主義者であった。カリフォルニアの党活動では目立たぬ存在だった画家宮城与徳は、この系列の活動に一本釣りされ、ゾルゲ事件の被告として知られるようになる。逆に言えば、アメリカ共産党日本人部について、日本でよく用いられる宮城与徳のゾルゲ事件供述は、実際の活動経験をほとんど経ずに特高外事警察に誘導され作られたストーリーを認めたものにすぎない。そこからは、アメリカ共産党日本人部の日本の体制変革に果たした役割は見えない。
 アメリカ共産党本部でウィリアム・Z・フォスターを中心とした労働運動活動家系列の流れをカリフォルニアを中心に実践したのが、在米日本人労働協会や『労働新聞』で、健物貞一、カール米田らは、アメリカ国内で日本人・アジア人労働者を組織し、ストライキや大衆運動を指導する任務を果たした。『労働新聞』は最高時二〇〇〇部程度だが、アメリカ共産党日本人部の全国的連絡と党外日本人労働者への宣伝・煽動で重要な役割を果たした。アメリカのFBIや在米日本大使館・領事館が主として警戒・監視したのはこの系列で、理論的指導者で初代『階級戦』『労働新聞』編集長健物貞一をはじめ、小林勇、堀内鉄夫、箱守平造、福永与平、又吉淳、宮城与三郎(与徳の従兄)、照屋忠盛、山城次郎、島正栄ら第一線活動家はデモやストライキ指導で検挙され、一九三一−三二年に国外追放になった。日本に戻らずソ連に亡命、三六−三九年に悉くソ連でスターリン粛清の犠牲となる。沖縄出身者多数を含む、いわゆる在ソ連日本人「アメ亡組」である。カール米田やジェームズ小田ら「帰米」組は、その後の活動家である。
 日本の体制変革に重要な役割を果たしたのは、ゾルゲ事件に関わった鬼頭銀一、宮城与徳を除けば、一九三四ー三八年期に、コミンテルン執行委員としてアメリカからアジア工作を行った野坂参三を助けた、アメリカ共産党のブラウダー書記長、ハリソン・ジョージ(汎太平洋労働組合サンフランシスコ書記局指導者)らの指導する「国際活動」の系列の日本人党員たちである。中でも突出した指導者で、野坂参三と日常的に接触していたのは、ジョー小出(本名鵜飼宣道)であった。これが、一九三五年の本土日本共産党壊滅以降のコミンテルン対日工作の中心部隊となる。そのアメリカ共産党側の実態はなお不明な点が多いが、ブラウダー書記長、ルディ・ベーカーら中央幹部に、カリフォルニアのハリソン・ジョージらが関わったことは間違いない。
 メディアとしては、この流れから一九三四ー三八年期に『国際通信』『太平洋労働者』『海上通信』『国際通信パンフレット』などが日本に持ち込まれ、日本本土で『世界文化』『土曜日』『社会運動通信』『生きる雑誌』等で細々と続く本土での反戦反ファシズムの抵抗への隠れた情報源となった。……


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