1991年1月に亡くなった、戦後日本文学を代表する作家の一人、井上靖の小説「テペのある街にて」(『文学界』1966年1月号初出、『井上靖小説全集』第18巻、新潮社、1974年、所収)は、次のように書き出されている。
――これは、本書『国民国家のエルゴロジー』第4章で詳述した日本人粛清犠牲者「須藤政尾」についての、戦後日本で初めての、貴重な活字記録であった。
作家井上靖は、1965年5ー6月、それまで日本人の立入りが許されなかったソ連の中央アジア地方、西トルキスタンへの旅に出た。その旅が、『西域物語』『おろしや国酔夢譚』など井上のすぐれた紀行小説・歴史小説をうみだしたことは、よく知られている。
井上靖ら7人の日本人一行が、「スドウ・ミノル」と名乗る不思議な青年と出会ったのは、トルクメン共和国の首都アシュハバードでのことである。井上靖は、紀行文にも書き残している。
――これが、須藤政尾の遺児スドー・ミノル=ミハイルにとっての、初めての日本人との出会いであった。帰国した井上靖ら一行は、この不思議な出会いを、日本の新聞やテレビでも述べたが、「スドウ・マサオ」という名前だけでは、あまりに漠然としていた。
小説では、スドウ・マサオの経歴を、「1903年の生れで、左翼運動に関係していたが、1926年(大正15年)に官憲に追われて、樺太の国境を越えて、ソ連領に逃亡した。樺太北部の石油の町オハに暫く居たが、やがてシベリアに移って鉱山関係の仕事をしていた」と、ほぼ正確に伝えていた。ただしミノルは、この時父の粛清については語らず偽ったために、小説には「父親正雄の死は1935年、享年32歳だった。病気は結核で、亡くなった場所はバクー」と記された。
なによりも、当時のミノルには、KGB秘密ファイルも、日本側官憲資料もなかった。まだ存命中だった母マリヤ=政尾の妻の記憶のみをもとに、父政尾の出身地を「東京のタカシマ」と述べた。井上靖らは、「横浜に高島町というのがあったが、或はそこのことではなかろうか」と推測した。肝心の名前も、「偽名であったかも知れない」と書かれた。だから、「四国徳島」出身の父を持つ北海道生まれの政尾の兄弟姉妹にも、シルクロードの旅から井上靖が持ち帰った1965年の貴重な情報は、伝わらなかった。
母マリヤは、ミノルの家を訪れた井上靖一行に、自分の知る唯一の日本語である「オトコノ子」の一語を発したのみで、自分のラーゲリ生活10年については何も語らず、ミノルと井上らの話には同席しなかった。粛清やラーゲリ体験を外国人に話すことは、当時のソ連では、再度のラーゲル送りにつながりかねなかった。だが、日本の文学者の鋭い眼は、その一瞬の出会いからも、「65歳だということで、顔は年齢相応に老けていたが、身体付きは農家の老婆のように頑丈であった」とマリヤの歩んだ苦難の道を見抜いていた。
井上靖によれば、スドウ・マサオについて、ただひとつ、当時も情報が寄せられたとのことである。小説「テペのある街にて」の末尾に、昭和3・4年頃、樺太のオハで須藤と会ったという人の電話があったことが、記されている。
井上は、その後も「スドー」のことを気にかけてきたらしい。9年後の1974年6月16日付『毎日新聞』に執筆した「わが一期一会、砂漠の町アシュハバード」という文章では、
ミノルは、実はその翌1975年に、アシュハバードからモスクワに出て学位をとり、父の粛清記録公開をソ連当局に要求する、孤独なたたかいを始めた。1976年に、証人である母マリヤは没したが、89年には、ついにソ連検察局からKGB資料を入手した。モスクワ在住の日本人ジャーナリストに働きかけて、1990年に『読売新聞』『北海道新聞』、92年にはフジテレビ、村岡信明教授との出会いを介して『徳島新聞』『赤旗』にも、父の捜索を報道してもらった。1994年6月に、私と村岡教授がミノルと日本の須藤家を結びつけた、その経緯については、本文で詳しく述べた。94年の『毎日新聞』『北海道新聞』報道を介して、ついに日本の肉親をみつけ、父の生涯のおおまかな歩みを知ることができた。
その須藤ミノル=ミハイル・マサオヴィッチ・スドー氏が、初めて日本の土を踏んだのは、1994年9月5日のことである(『朝日新聞』9月5日夕刊、『毎日新聞』9月6日、参照)。
ミノルは、来日にあたって、一遍の手記を用意してきた。その手記のなかに、「わたしの生涯における日本人との最初の出会い」として「有名な作家の井上靖氏、彼の息子のシュウイチと彼らの同行者」の話、「しかしその時、私は自分の父に関する真実は彼に語らないことにしていた」話がでてきた。
井上修一氏は、1965年当時はまだ学生で、父のシルクロード探訪の旅に同行した。長く一橋大学での私の同僚であり、最近筑波大学に移った独文学者である。私は、井上教授に、半信半疑で「スドー・ミノル」について問い合わせた。井上教授は、当時のことをよく覚えていた。そればかりか、ミノルを主人公にした父靖氏の小説・エッセイのあることを、教えてくれた。ミノルは来日に当たって、作家井上靖に書いてもらった色紙を持ってきた。こうして、須藤ミノルと井上修一氏の、30年ぶりでの会見も実現された。
須藤政尾の越境と、その遺児ミノルの数奇な生涯を日本に紹介し、最初に解明しようとしたのは、私でも村岡教授でもなく、作家井上靖であった。
須藤ミノル=ミハイルが初めて父の祖国に着いた日、私も、夏休みに4度の国境越えを体験し、日本に帰国した。日本・イギリス・ドイツ・イギリス・日本という旅だった。とはいっても、現代の国境は、ほとんど意識されなかった。全日空でヨーロッパに入ったら、成田からロンドンへの機内も、ほとんど日本社会の延長であった。
ロンドン・ヒースルー空港でのチェックは、十年前のエセックス大学留学のさいは渡航目的の説明で面倒だったが、観光目的にした今回は、ごく簡単だった。EC(ヨーロッパ共同体)からEU(ヨーロッパ連合)へと発展した域内でのイギリス・ドイツ・イギリスの往来は、ほとんどフリーパスだった。無論、そこには、「経済大国」日本のパスポートの恩恵があるのだが。
出国直前に、難行苦行した本書の原稿を平凡社に手渡し、猛暑の日本を逃れてヨーロッパへの旅に出たのは、2つの目的を持ってのことだった。ひとつは、8月下旬のベルリンでの第16回世界政治学会での報告であり、もうひとつは、同じくベルリンで、本書でも紹介した日本人粛清犠牲者、元東京大学医学部助教授国崎定洞の遺児、タツコ・レートリヒさんと会うことであった。
3年に1度の今回の世界政治学会のメイン・テーマは、「民主化(Democratization)」であった。私は、今回は国家論の分科会ではなく、「経済民主主義」の分科会で報告することになっていた。ロブ・スティーヴンとの共編著『日本型経営はポスト・フォード主義か?』(和英両文、窓社、1993年)の延長で、「ジャパニーズ・カローシの政治経済学(The Political Economy of Japanese KAROSHI)」という報告を準備したからである。
その内容は、拙稿「過労死とサービス残業の政治経済学」(平田清明他『現代市民社会と企業国家』御茶の水書房、1994年、所収)と同「過労死と過労児のエルゴロジー」(中内敏夫他『企業社会と偏差値』藤原書店、1994年、所収)をミックス・圧縮して英文にし、「過労死(Karoshi)」と「エルゴロジー(Ergology)」の2つのキーワードを、世界の政治学者に紹介するためのものだった。
予想通りとはいえ、「過労死」は大いに反響をよんだが、「エルゴロジー」の方は、なかなかわかってもらえなかった。
というのは、同じセッションの報告者が、1人はポーランドの経済改革について、もう1人がアルゼンチンの権威主義的開発についてで、私の報告は、「第一世界の経済民主化」をテーマにするものと位置づけられた。司会はノルウェーの、コメントはアメリカの政治学者で、時間の限られた共通討論では、「過労死」は同じ土俵に乗ったが、「エルゴロジー」の方は、スムーズな市場経済移行をめざす旧第2世界、効率的経済発展をめざす第三世界との接点が、見いだしにくいアイディアであった。だから、「この報告は日本モデルを中立化する事実のファンタースティックな検証が行われている」という評者のコメントに満足し、ひきさがるしかなかった。「エルゴロジー」は、おそらく本書が初めて日本語書物のタイトルとした、日本でも未成熟な概念・思想なのであるから。
国崎定洞遺児タツコさんとの再会は、前著『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)にも記したように、「憂欝な旅」でもあった(72頁)。つまり、旧ソ連共産党文書館秘密資料の出現によって、1937年8月の国崎定洞逮捕・粛清の直接的原因が、ドイツ共産党内の問題ではなく、当時のモスクワ日本共産党指導者山本懸蔵の密告にあったことを、タツコさんに説明するためのものだった。
しかし、その「憂欝」は、タツコさん自身が吹き飛ばしてくれた。ケルンから特急列車でベルリンに入ったのだが、ツォー駅のプラットフォームまで迎えにきてくれた。ジャパニーズ・レストランに誘い、片山潜・野坂参三・山本懸蔵らの疑心暗鬼と国崎定洞との複雑な関係について私が説明を始めると、「そういう時代だったのですよ、当時のモスクワは。これは、何のテンプラ?」と話をさえぎる。
考えてみれば、9歳で父と引き裂かれた彼女にとって、日本共産党指導部のだれが父を「売った」かなどは、どうでもいいことなのかも知れない。国崎定洞が片山潜の招きでベルリンからモスクワに亡命し、日本共産党と関わったこと自体のなかに、すでに父の不幸は胚胎していた。そして、歴史の真実が解明されても、父が帰ってくるわけではない。むしろ、10月5日に迫った国崎定洞の生誕百年の誕生日に、どんな料理をつくって霊前にささげるかのほうが、父とのおぼらなつながりを確認する、大問題なのだ。私は、苦労して独訳したモスクワ日本人社会の粛清連鎖図の説明を、中途で放棄した。
それからは、学会の日程の合間をぬって、タツコさんの好きな演劇の話や、息子トーマスや孫の話の、聞き役に徹した。別れ際に、美しい日本のカレンダーを送ってもらったという川上武医師への、ドイツ・ワインを託された。私は、それを郵送せずに、イギリス旅行中も持ち歩き、日本までしっかり送り届けることにした。彼女の言葉にならない想いが、途中で蒸発しないように。
タツコさんにとって、旧ソ連共産党秘密文書「国崎定洞ファイル」発見の最大の収穫は、父が1932年・35年にドイツ語で書いた手書きの履歴書と、「大日本帝国外国旅券第057368号」といかめしい、国崎定洞が最後まで所持していたパスポートがみつかったことだった。当時の日本のパスポートには、日本語・英語・フランス語のページがあり、なによりも、明るく微笑む若々しい父の写真が入っていた。
国崎定洞のパスポートの日本語ページには、こうある。
思わず、自分の持つ現代日本のパスポートと、くらべてみる。
――両者は、似ているようでもあり、違っているようでもある。
はっきりわかる共通性は、その表紙である。戦前の大日本帝国外国旅券も、戦後の日本国旅券も、まんなかに菊の紋章が入っている。「日本国および国民統合の象徴」として。天皇制が見えてくる。
国崎定洞のパスポートの「官命ニ依リ独国ヘ『労農露国及波蘭経由』」の部分は、手書きである。大日本帝国外務省にとってのソ連の公式国名は、「労農露国」だったらしい。この渡航目的の特定は、現在のパスポートにはない。渡航先欄は、別ページになっている。私の大判の赤いパスポートの場合は、「北朝鮮を除くすべての国」である。同行した息子の手帳大の青いパスポートには、この限定もない。
だが、この部分を抜きにすると、2つのパスポートからは、意外と戦前と戦後の継続性が見えてくる。つまり、「官」の優位であり、国境を絶対的に管轄する国民国家の存在、国籍を持つ国民としての個人の被規定性である。
そして、本書が主題にしたものは、まさにこの日本という国家と国境の意味、それを越えることの困難と新しい可能性の問題であった。
外国を旅行していて困るのは、無論、言葉の問題である。意思疎通が十分にできない、言いたいことを全部表現できないので、どうしてもストレスがたまる。日本語を話したくなり、日本人同士で話すとホッとする。もうひとつは、食べ物である。衣食住の内、衣類やベッド生活は、どうにでもなる。しかし食べ物の方は、胃腸が受けつけない時がある。水に注意し、ミネラル・ウォーターを常備しているだけでは、だんだん物足りなくなる。アジアの味を求めて中華街に行く、馬鹿高い値段を承知でジャパニーズ・レストランに飛び込む、といった海外旅行体験を、だれでもが持つだろう。言葉と食事こそ究極の「文化」ではないか、エスニシティの基底にあるのではないか、というのが、今回の旅の非論理的直観だった。
だがこれは、本書で展開したエコロジーとエルゴロジーの視点からすれば、しごく当然のことである。エコロジーの方から見れば、人類は、生まれながらにして自然の一部であり、他の自然との共存・生態系関係のなかで、ひとつの類を成す。だが、個々の人間の方からエルゴロジカルに考えると、その生まれ育った歴史的自然=社会のあり方は、身体化する。働き方、休み方にもそれは表現されるが、その人間的自然は、何よりも、人間と人間の交感とコミュニケーションのあり方、生命を保持する新陳代謝のあり方と身体機制に現れるのではないか?
そんなアイディアをいつか理論化しようと考えながら、ロンドンの中華街ソーホーを歩いていると、数年御無沙汰していた学界の大先輩や、地方に転勤したゼミナールの教え子夫妻に、ばったり出会った。どうやら今年の夏は、暑さと円高で、日本人は海外への民族大移動らしい。「ネイション=民族・国民」はパスポート付きで国境を越えたが、言葉と食事にまつわるエスニシティは、ロンドン観光の日本人を、ピカデリーからソーホーの中華街や日本レストランの方にひきつけるらしい。エルゴロジーからすると、合点がいく。
過労死研究のなかで、「過労死」という言葉をうみだした国立公衆衛生院上畑鉄之丞医師の過労死発症の理論モデルに出会ったが(上畑『過労死の研究』日本プランニングセンター、1993年、25頁)、これを「55年体制の制度疲労」や「職業政治家のストレス」など、社会科学の方法になんとか活かせないものだろうかというのが、私のエルゴロジー研究の現段階である。
本書の執筆の過程で、同僚である親友の1人が、過労死予備軍から本隊に入りかけ、入院する事件があった。彼は、幸い快方に向かっているが、無理はできない。しばらくは、あの精力的な仕事が見られなくなる。
本書は、「これからの世界史」シリーズの1環であるが、その研究会仲間だった二人の先輩を、本書執筆過程で失った。廣松渉さんと、森安達也さんである。お二人とも、本シリーズの執筆が、最期の書き下ろしとなった。
廣松さんとは、本シリーズの母胎となった研究会に呼ばれて、初めて親しく接した。私がアメリカ留学から帰った後だから、1988年であろうか。平田清明・伊藤誠・いいだももに廣松渉という取り合わせの妙に魅かれて、年少者の特権で勝手なことを話させていただいた。活字で知るヘーゲル・マルクス哲学の大家が、平田さんの明治維新と薩摩の話と同様に、意外に日本と日本人にこだわっているのが、新鮮な印象だった。
その後もいろいろな場で顔を合わせ、2人で酒場で議論する機会もあった。政治的には融和できない私の説にも、真剣に耳を傾けてくれた。ロシア革命の評価は最後まで分かれたが、私の『社会主義と組織原理』(窓社、1989年)の共産主義者同盟の記述については、細かい事実誤認まで、いちいち丁寧に指摘してもらった。例の独特の漢語が達筆で書かれた、巻紙風の手紙で。『存在と意味』の第3巻を、ぜひ読みたかった。アジアと日本の意味について、もう一度突っ込んだ議論をしたかった。
森安さんとも、本シリーズ研究会で知り合った。律儀でおとなしい人であったが、いったん放った言葉には重みがあった。その古今東西の歴史の博識には、脱帽した。熱弁ではなかったが、説得力があった。その言葉が活字になる時には、一語に百語が込められているかのように、思索が凝集されていた。絶筆となった本シリーズの1冊、名著『神々の力と非力』への打ち込み様は、尋常ではなかった。病床で原稿を仕上げられ、再びお合いした時には、1瞬別人かと見間違えた。病気で痩せてしまわれたばかりでなく、その眼光の鋭さに、鬼気迫るものがあった。一書の完成に込められた、生命力の執念を教えられた。一語一語を大切にする人で、研究者の責任を考えさせられた。私のヨーロッパ旅行の出発直後に亡くなられたため、帰国まで訃報を知らなかった。合掌。
本書は、全体として書き下ろしであるが、第2部第7章についてのみ、『1橋論叢』第105巻2号に発表した「多国籍企業と国民国家・序説」(1991年)という論文を、ベースにしている。もともと日本政治学会1990年度研究大会の報告「日本型多国籍企業の国家像」の一部である。ただし大幅に加筆し、資料は最新のものに改めてある。
第1部の歴史的記述にあたっては、多くの方々から証言・資料提供など、さまざまな援助をえた。全部の名前はあげきれないが、敬称略・順不同で最小限のお名前を挙げれば、藤井1行、小林峻一、加藤昭、熱田充克、秋山勉、渡部富哉、村岡信明、タツコ・レートリヒ、ミハイル・マサオヴィッチ・スドー、寺島儀蔵、川上武、石堂清倫、稲田明子、勝野素子、山根和子・弥生子、山本正美・菊枝、今井清一、宮西直輝、宝木武則、中野徹三、豊下楢彦、森武麿、羽場くみ子、高屋定國、田中真人、小川光雄・明美、須藤チヨ、都沢行雄、大島幹雄、井上修一らの諸氏のご協力に、多くを負っている。記して感謝する。また、多くのジャーナリストの方々に、有形無形の協力を得た。ただし、内容についての全責任は、言うまでもなく私1人にある。
ヨーロッパ旅行の帰途、ロンドン滞在中に、シェフィールド大学で行われた現代日本政治研究のセミナーに顔を出した。イギリスの日本政治研究者を中心とした2日間のラウンド・テーブルで、日本からは、私のほか、高橋進東京大学教授、新藤宗幸立教大学教授が出席し、高橋教授が興味深い問題提起をした。私は、政治学者でありながら、旧ソ連秘密資料に出会った昨年来、現代日本政治分析からは、意識的に遠ざかってきた。「55年体制の崩壊」も「政治改革」や政党再編も、観客として眺めてきた。それそろ現実政治に戻ろうかと参加したこのセミナーは、旧知の友人も多く、リラックスできた。
そのセミナーのコーヒーブレークの雑談で、日本研究をはじめたばかりの1人のイギリス人の大学院生から、日本国憲法について、質問を受けた。自分は英語で日本国憲法を読んだ、あんな素晴らしい憲法がありながら、なぜ日本では、社会党(英語ではSocial Democratic Partyという)までが、自衛隊容認・実質的改憲に向かうのか、と。
しばらく考えて、私は、こう聞き返した。民主政治の基礎は、国家制度だろうか、社会関係・運動だろうか、私たちには憲法第9条がある、君たちにはEND(反核運動)やグリーン・ピース(環境運動)、ナショナル・トラスト(浜辺の保護運動)がある、いったいどちらが、現実に平和を構築するのだろうか、と。本書で論じてきた主題を、ちょっと現実政治に応用してみた。ただし、その回答は、敢えて未決にしておいた。
「ラ・マルセイエーズ」から「インターナショナル」へ、『共産党宣言』から『民衆の地球宣言』へ、「インターナショナル」から「地球憲章・前文」へ――本書で展開したもうひとつの道筋が、21世紀の主人公である若い人々に、よりよく生きる希望をもたらよう願っている。