加藤哲郎のネチズン・カレッジ情報収集センター

旧ソ連日本人粛清犠牲者・候補者一覧

(2015・9・15現在、加藤哲郎作成)



情報をお寄せ下さい!


2015.9.15  富川敬三・恩田茂三郎・前島武夫の身元が判明しました!

2013年に新たにわかった5人の旧ソ連日本人粛清犠牲者「ニシデ・キンサク」「オンドー・モサブロー」「トミカワ・ケイゾー」「前島武夫」「ダテ・ユーサク」「ダテ・ユーサク」のうち「オンドー・モサブロー」「トミカワ・ケイゾー」について、昨年「官報」から「トミカワ・ケイゾー」を「富川敬三」ではないかと情報を寄せられた新潟県のSさんが、新たにアジア歴史資料センターの記録を調べて、「富川敬三」「恩田茂三郎」についての膨大な事実を明らかにしていただきました。二人とも北樺太石油の関係者で、特に「恩田茂三郎」については「須藤政尾」の影響下にあったと明記してあります。

10年ほど前に、国立公文書館、外務省外交史料館、防衛庁(省)防衛研究所が一緒になって日本の公文書をウェブでも公開するというので、キーワード検索で旧ソ連粛清犠牲者の名前を入れていった時は、ほとんど成果はありませんでした。その後外務相の内部文書や防衛研修所の軍事資料が入力され整理されて、今日では戦前なら重要資料の多くに直接アクセスでき、閲覧コピーも見られるようになりました。私自身もアクセスして、5人のうちのもう一人「前島武夫」の身元が判明したほか、「須藤政尾」「国崎定洞」「佐野碩」「勝野金政」らについても、新たな日本側官憲資料を得ることができました。名前のところに、Sさん提供の資料。「アジア歴史資料センター」蘭に、アジ歴の公文書を入れておきます。

オンドーモサブローー 1898年生まれ。アムール州ゼヤ居住。理容師。1938年4月7日銃殺(ハバロフスク)=恩田茂三郎 本籍 栃木県足尾銅山、北樺太土威炭鉱にて理髪職員、1927年須藤政尾の斡旋でウラジオストック共産大学入学、船員・海員に働きかける宣伝員として活動。「アジア歴史資料センター」資料

トミカワ・ケイゾー 千葉出身。ウラジオストク居住。極東国立大講師。1938年4月7日銃殺=富川敬三 本籍東京小石川区大塚窪町24番地戸主、生地千葉県区瑳郡八日市場町木更津中学・順天中学・大正12年東京外語ロシア語科卒、北樺太石油社員、1929年10月「オハ号」から脱走してソ連へ。須藤政尾の斡旋で、ロシア人女性と一緒にウラジオストックへ。妻ハナの申告で、東京家庭裁判所失踪宣告。審判確定の日 昭和三十一年八月七日死亡と見做される日 昭和十一年十一月二十日。1929年当時、妻ハナ(37歳)、長男正彦(10歳)、長女敦子(7歳)が中野区新井489の借家住まい。「アジア歴史資料センター」資料

前島武夫 1910年生まれ。モスクワ在住。37年11月28日銃殺。鹿児島県大島郡前ン村大字屋入33番地戸主文太郎4男。日興丸石炭夫。上海に向け脱船、1930年7月22日解雇。これh、下記リストにこれまでの情報。「アジア歴史資料センター」資料

 

 これら全体を改めてリストにするには膨大な労力を要しますので、今回は「新潟県のSさん」が寄せてくれた3人の情報を、いかにワードないしpdfで入れて詳しい情報を提供し、ご遺族・ご親族・関係者の皆様からご要望があれば、手元の全資料を提供することにします。

残りの二人 ▽ニシデ・キンサク 1896年生まれ。ハバロフスク居住。商店店長。1938年4月7日銃殺

      ▽ダテ・ユーサク 1881年生まれ。長崎出身。ノボシビルスク居住。収容先で1939年11月19日死亡

についての情報を、引き続き求めます。

 

 

 


2014.5.1 二年前に掲げた五人の新たにみつかった粛清犠牲者の一人、「トミカワ・ケイゾー」の身元について、有力な情報が、「官報」に目を通していた方から寄せられました。おそらくまちがいないでしょう。ご遺族・関係者の方はご連絡ください。


【失踪に関する届出の催告】
 官報の第8684号(昭和30年12月10日)p192に載っています。なお官報のページ数は月の通し番号)
 
昭和三十年(家)第九九六八号
本籍東京都文京区大塚窪町二十四番地二、最後の住所北樺太オハ
不在者 富川敬三
明治三十四年六月七日生
 右の不在者に対し住所川崎市塚越三丁目三八〇岡田方申立人富川ツナから失踪宣告の申立があつた(略)
昭和三十年十一月二十八日
東京家庭裁判所
 

【失踪宣告】
 官報の第8901号(昭和31年8月28日)p542。
 
昭和三十年(家)第九九六八号
本籍東京都文京区大塚窪町二十四番地二号、最後の住所北樺太オハ
不在者 富川敬三
明治三十四年六月七日生
審判確定の日 昭和三十一年八月七日
死亡と見做される日 昭和十一年十一月二十日
東京家庭裁判所 

2014.1.3  大島幹雄さん『明治のサーカス芸人はなぜロシアに消えたか』(祥伝社)が刊行されましたので、サーカス芸人の犠牲者、ヤマサキ・キヨシとパントシ・シマダの項を改訂しました。パントシ・シマダが釜山出身の朝鮮人であったこと、1941年8月6日に逮捕され、42年8月19日に自由剥奪刑8年の自由剥奪刑、58年7月3日名誉回復」との記録がある。

2013.11.23  ユーラシア協会の講演のさい、「岩田みさご」が存命のままになっているとリピーターの方に聴かれたので、訂正。岩田みdさごは、2000年12月5日にガンで死亡しました。


 

新たに見つかった犠牲者「ニシデ・キンサク」「オンドー・モサブロー」「トミカワ・ケイゾー」「前島武夫」「ダテ・ユーサク」について、情報をお寄せ下さい!

2013.4.18   久方ぶりの改訂です。今、早稲田大学演劇博物館では、1937年にソ連からスターリン粛清で国外追放になり日本に帰ることなく「メキシコ演劇の父」となった『佐野碩と世界演劇―日本・ロシア・メキシコ “芸術は民衆のものだ”―』展が開かれています。先日、「アメ亡組」の一人で1942年に強制収容所内で死亡した>健物貞一の孫姉妹が、祖父の墓参がてら来日して、サクラと共に佐野碩展を見ていきました。そこに、モスクワから、新たな日本人犠牲者判明の報道です。産経新聞モスクワ支局の調査報道で、私も協力して以下の記事が配信されました。このうち「前島武夫」は以前から本サイトで「行方不明」としてリストに挙げていましたが、銃殺処刑日が判明しました。他の4人は、まったくノーマークだった地方での粛清です。日本にご親族がおられるでしょう。何か手がかりがありましたら、 katote@ff.iij4u.or.jp まで情報をお寄せください。

 

スターリン大粛清、新たに日本人4人の銃殺判明、犠牲者26人に 欠席裁判 スパイ容疑…格好の標的

2013.4.18 08:02【モスクワ=遠藤良介】旧ソ連の独裁者、スターリンによる1930年代後半の「大粛清」で、当時のソ連に滞在していた日本人4人が銃殺刑に処せられていたことが、ロシアの人権擁護団体「メモリアル」のとりまとめた資料から新たに判明した。専門家によると、大粛清での犠牲が確認された日本人はこれで26人となった。共産主義に共感してソ連入りした日本人がスパイ容疑をでっち上げられ、虐殺の嵐に巻き込まれた構図が資料から改めて浮かび上がった。

 メモリアルはこのほど、スターリンが直接、粛清を裁可した約4万3500人の名簿を各種の公文書や地方の記録を基に作成。この中から日本人10人に関する情報を抽出し、産経新聞に提供した。大粛清の日本人犠牲者について調査している加藤哲郎・一橋大名誉教授によると、これにより日本人4人が銃殺され、1人が収容所内で死亡していたことが新たに確認された。

 犠牲者5人が居住していたのは、モスクワに加えて西シベリアのノボシビルスクや極東のアムール州、ハバロフスク、ウラジオストク。加藤氏は「地方に居住し、地方で処刑された人の情報が出てきたことは貴重だ」と話す。

 共産体制の分派を苛烈に弾圧したスターリンの粛清は37〜38年に頂点を迎える。37年7月、各地の内務人民委員部(NKVD)にはあらゆる「反ソ分子」を粛清するノルマが課され、対象は一気に拡大した。メモリアルでは、37〜38年に銃殺された約70万人のうち9割が「欠席裁判」で判決を下されたと指摘している。今回、銃殺が判明した日本人4人のうち3人は「判決」と同日に刑が執行されていたことが資料で確認された。

 加藤氏によれば、当時のソ連には、大使館の把握していた新聞記者や商社員を別にして約100人の日本人がいたとみられている。(1)野坂参三氏ら日本共産党指導者(2)亡命した国崎定洞・元東大助教授ら知識人(3)北海道や樺太からの政治亡命者(4)極東ウラジオストクなどに入港して住み着いた漁民・船員といった人々だった。知識人や政治亡命者は共産主義を奉じていたほか、漁民・船員や労働者も多かれ少なかれソ連を「労働者の天国」と考えていた可能性が高い。「日本人は『仮想敵国のスパイ』として格好の標的とされた。ソ連当局は1人を『人民の敵』として捕まえると、拷問によってその友人の名を割り出し、次々と『スパイ』に仕立てていった」加藤氏はこう語り、「約100人の日本人のうち、全く“無傷”で生還できたのは野坂参三氏くらいであり、残りは銃殺や強制収容所送り、獄中死、国外追放といった道をたどったと考えられる」と指摘する。

 日本人の粛清をめぐっては、女優の岡田嘉子さんと樺太から越境し、銃殺された演出家、杉本良吉氏のケースなどがよく知られる。ただ、戦後のシベリア抑留と違って国の調査は行われておらず、現在でも推定50人以上の消息が不明だ。

◇大粛清での犠牲が新たに判明したのは次の方々。(敬称略)

 ▽ニシデ・キンサク 1896年生まれ。ハバロフスク居住。商店店長。1938年4月7日銃殺

 ▽オンドー・モサブロー 1898年生まれ。アムール州ゼヤ居住。理容師。1938年4月7日銃殺(ハバロフスク)

 ▽トミカワ・ケイゾー 千葉出身。ウラジオストク居住。極東国立大講師。1938年4月7日銃殺

 ▽前島武夫 1910年生まれ。モスクワ在住。37年11月28日銃殺

 ▽ダテ・ユーサク 1881年生まれ。長崎出身。ノボシビルスク居住。収容先で1939年11月19日死亡

© 2013 The Sankei Shimbun & Sankei Digital 

<産経新聞モスクワ支局から提供された2013年「メモリアル」原簿中の日本人名10人

● ダテ・ユーサク 1881年生まれ/長崎出身/ノボシビルスク居住/鉱山機械工場の警備人/1937年8月3日逮捕/罪状 日本の諜報と反ソ扇動への関与(刑法58−2、58−6の1、58−8、58−11)/1938年6月4日判決(自由剥奪25年)/1939年11月19日死亡(服役地にて)/1971年10月15日名誉回復/ノボシビルスクの追悼記録より

● カンジョ(ブダエフ・ノルバ/マヤ(エ?)シマ・タケオ/ツルオカ) =前島武夫(本サイトではこれまで逮捕後「行方不明」)
1910年生まれ/共産党員候補/モスクワ居住/民族・植民地問題に関する学術研究協会の学生/1937年6月8日逮捕/スパイ・テロ活動/1937年11月28日判決/1937年11月28日銃殺(モスクワ)/1991年12月名誉回復

● コイシ(ワン・ピング)・ハマゾー =小石濱蔵
1907年生まれ/モスクワ居住/民族・植民地問題に関する学術研究協会の学生/1937年11月8日逮捕/スパイ/1938年3月22日判決/1938年3月22日銃殺(モスクワ)/1992年名誉回復

● コン・アレクサンドル(クニサキ・テイドー) =国崎定洞
1894年生まれ/熊本出身/ドイツ共産党員/モスクワ居住/「ソ連における外国人労働者の出版組合」編集者兼通訳/1937年8月4日逮捕/スパイ・テロ活動/1937年12月10日判決/1937年12月10日銃殺(モスクワ)/1959年10月名誉回復

● ニシデ・キンサク
1896年生まれ/ハバロフスク居住/商店主/1937年7月6日/刑法58−1a、2、8、9、11/1938年4月7日判決/1938年4月7日銃殺(ハバロフスク)/1993年10月7日名誉回復

● オンドー・モサブロー
1898年生まれ/カヌム(市)出身/アムール州居住/理髪師/1937年7月26日逮捕/刑法58−1a、2、8、11/1938年4月7日判決/1938年4月7日銃殺(ハバロフスク)/極東管区軍検察により名誉回復

● タケウチ(イトウ・マサノスケ) =伊藤政之助
1908年生まれ/東京出身/日本共産党員/モスクワ居住/「ソ連における外国人労働者の出版組合」日本部門の長/1936年11月25日逮捕/スパイ・破壊活動・テロ活動/1937年9月14日判決/1937年9月14日銃殺(モスクワ)/1992年4月2日名誉回復

● タナカ−ヤマモト・ケンゾー =山本懸蔵
1894年生まれ/東京出身/日本共産党員/モスクワ居住/コミンテルンにおける日本共産党代表/1937年11月2日逮捕/スパイ/1939年3月10日判決/1939年3月10日銃殺(モスクワ)

● トネガワ・シロー(この人物はトミカワ・ケイゾーである)
生年不明/千葉県出身/政治亡命者/極東国立大学の日本語教師/1937年逮捕/1938年4月7日銃殺

● テラシモ(マ?)・ギゾー(ダーシャ・バザロン) =寺島儀蔵
<本項は、ブリヤート人、ダーシャ・バザロンの偽名を与えられたことを含め、本人の回想を交えて記されている>
1911年生まれ/日本共産党員/日本で逮捕/6年半の服役を経て1935年に不法入国、ユジノサハリンスクで政治亡命を申請、モスクワへ/1938年4月3日判決(銃殺)/10日後、判決が変更されラーゲリに25年間収容に/1955年釈放/トゥアプセに居住(1997年)


旧ソ連で粛清された、木村治三郎、蟹江 元河西太郎 のご親族を捜しています!

(2007.1.1)その後、アジア歴史資料センターで、「要視察人関係雑纂 /本邦人ノ部 第十一巻」(外務省外交史料館>外務省記録>I門 文化、宗教、衛生、労働及社会 問題>4類 労働及社会問題>)で「健物貞一」関係資料を探索したさい、「木村治 三郎」ファイルがみつかりました。「木村治三郎  特思秘第五五四五号  昭和五年十月一日 北海道庁長官池田秀雄(警察部長) 内務大臣安達謙藏殿  外務大臣幣原喜重郎殿  各庁府県長官殿 朝鮮、台湾、関東庁各警務局長殿 上海、哈府内務事務官殿 旭川憲兵隊長殿 (管下各警察署長殿)  思想要注意人木村治三郎入露ニ関スル件 要旨 客年十月所在不明トナリタル当庁思想要注意人木村治三郎ハ白川四郎ナル容疑邦人ト 共ニ入露シ勘察加西海岸国営「アコ」会社漁場ニ滞在シ「イーチンスヤー」地 方邦人漁夫ニ対スル宣伝員トシテ活躍中ノ事実判明セリ何時邦人主義者トノ連絡ノ為メ潜入スルヤモ難計ニ付キ各港湾関係 (貴庁)及ビ管下各警察署長ニ於テハ厳重警戒相成度 本籍 北海道函館市台場町37、戸主、宗吉、三男 前住所 同市東雲町二百二十五番地」とあります。「白川四郎」は下記「石川四郎」の誤りでしょう。

数学者木村洋氏のご教示で、「カニエ・ハジメ」は、 終戦時陸軍第5方面軍特 種情報部樺太支部, 蟹江 元少佐, 陸軍士官学校40期と判明した。カニエ・ハジメ 1998年6月サハロフ博士記念人権センターのデータベースから新た に判明した日本人犠牲者。 1908年生まれ、シゴ(日本)県オーツ市出 身、軍人家系出身、日本人、非党員、高等教育、サハリン軍事使節団長、陸軍少佐、 サハリン島トヨハラ市居住。1945年9月16日逮捕、1947年2月15日、ス パイ活動で銃殺宣告、同年3月4日執行。1991年10月18日の法律と、199 3年3月11日のロシア検察庁の決定で名誉回復。埋葬地 ドンスコエ墓地、墓第3号。

カサイ・タロ」は、終戦時 関東軍直轄関東軍情報 部チャムス支部、河西太郎中佐(陸士39期)と思われる。1998年6月サハロフ博士記念人権センターのデータベースから新た に判明した日本人犠牲者。1903年生まれ、東京市出身、日本人、中等教 育、ツジャムシン(満州)軍事使節団長、陸軍中佐、住所不定。1945年9月4日 逮捕。1947年3月5日スパイ活動で銃殺刑宣告、1947年4月9日執行。19 90年8月13日の大統領令などで名誉回復。埋葬地 ドンスコエ墓地、墓第3号。

蟹江 元少佐河西太郎中佐のご遺族は、その命日と埋葬地をご存じでしょうか。ご親族をご存じの方はご連絡下さい。


1929年函館から入露・31年逮捕・41年に銃殺された「木村治三郎=カタオカ・ケンタ ロウ」とその友人「石川四郎」について、情報をお寄せ下さい!

 私にとっての内田義雄『聖地ソロフキの悲劇』(NHK出版)の収 穫は、白海ラーゲリを体験した二人の日本人の話。一人は『長い旅の記録』(中公文 庫)の寺島儀蔵さんで既知でしたが、もう一人は私の「旧ソ連日本人粛清犠牲者名簿 」に「『ソ連共産党中央委員会通報』1990年11月号の銃殺 者リストに、別名タナカ・シマキチ、キムラ・ジサブローとある。1909年生まれで、41年に粛清された日本人犠牲者」とある ものの、全く手がかりなしだったカタオカ・ケンタロウの話でした。著者内田さんの調査では、1935-38年にソロフキ収容所で一緒だったロシア人チルコフ の回想録に、「カタオカ」は印象深い囚人仲間として出てくるそうで、「元将校でスパイ」とされてラーゲリに入れられ、ラーゲリ では理髪師をつとめていたとか。さらに、チルコフ回想には、収容所長から「カタオ カ」が自分の他の日本名についてきかれる場面があり、そこで「ジサブロウ・キム ラ」「テバシ・カメキチ」「カスギ」と出てきます。このうち「キムラ」は、やはり 私の「旧ソ連日本人粛清犠牲者名簿 」にある「木村治三郎(きむら じさぶろう)1929年ウラジオストックから入ソ、日本側警察資料である 『思想月報』第33号(昭和12年3月)では、石川四郎と共に上海より浦塩に渡り入露、宣伝員となるも35年6月現在政治犯とし て入獄中、とある。別名カタオカ・ケンタローと同一人物で、1941年に銃殺された可 能性がある」としてきたものです。つまり、「カタオカ」と「キムラ」が同一人物で あった可能性を推定してきましたが、その通りだったようです。

ここに出てくる「石川四郎」は、31年に山本懸蔵の指示で日本に帰国、日本海員組合刷新会 を組織しようとして特高警察に逮捕された活動家です。「カタオカ」も海員組合で活動したと推定されます。そこで内務省警保局 『昭和6年中に於ける外事警察概要・露国関係』の「国際海員倶楽部宣伝員名簿」に あたると、木村の方は出身地の記載がなく、「本年(1931)春卒業、浦塩邦人主義者グループに加入し居たるも 本人が思想的に共産主義と相容れざるものあるを認め右グループより脱退し一時反革 命運動を企図し居る6月頃、経済状況視察の為ウラル方面に赴きたる由なるが約3か 月前より浦塩ゲペウ(GPU)に拘禁せられたり」とあり1931年にウラジオストックで逮捕されたらしいことがわか るだけです。しかし、すでに日本で逮捕された「石川四郎」については、「明治 39(1906)年12月16日生、本籍東京府三河島町字町屋264戸主長吉4男出生地栃木県河内郡瑞穂村大字下桑島、宇都宮市立下野中学校2年退学、労働総同盟で活動、昭和4(1929)年10月初旬上記木村と共に函館港内停泊中の露国貨物船に潜 入密航、ジャパニーズコミュニストと称し入露希望浦塩上陸」と重要なてが かりがあります。『思想月報』では石川は昭和6年中に予審手続中止で釈放されたようですか ら、こちらの方から「木村治三郎=カタオカ・ケンタロウ」につながる可能性があり ます。内田さんは、私のリストも『ソ連共産党中央委員会通報』もみていなかったた め、カタオカ・ケンタロウについて、「この日本人の本名だったのか疑わしいと言えるし、確 かめようがない」と書いていますが、どちらが本名かは確定できませんが、これで複 数以上の資料から「木村=カタオカ」の実在が確認できました。ロシア正教弾圧から 入って内田さんが発掘した白海ラーゲリの日本人体験者は、この本では寺島・カタオ カの二人だけですが、私と藤井一行教授の共同研究では、勝野金政 や永井二一らも、白海バルト運河の建設に強制動員されていまし た。早速内田義雄さんにコンタクトしようと思いますが、本HPではさしあたり、こ の「木村治三郎=カタオカ・ケンタロウ」を、新たな「尋ね人」に加 え、情報を求めることにします。先日のアメリカ西海岸日系労働運動指導者 健物貞一のケースのように、うまく日本のご遺族までつながればいいのです が。健物貞一 については、英語版HP「国際交流センター」で、1923-32年のサンフランシスコ時代の軌跡の探索・情報収集 を始めました。

(2001年7月18日)


粛清されたサーカス芸人ヤマサキ・キヨシの係累をご存じの方はいませんか?

2001年の尋ね人とした「ヤマサキ・キヨシ」の情報は、残念ながら集 まりませんでした。引き続き、てがかりを求めます(2002/1/20)。

21世紀に入るにあたって、本コーナーの特別室では、「2001年の尋ね 人」として、サーカス研究家の大島幹雄さんが、ご自身のサイト「月刊 デラシネ通信」2000年 12月号で消息を求めている、「ヤマサキ・キヨシ」の係累を探したいと思います。下記 の大 島さんのHP内探索記録からもわかるように、1900年生まれ、1937年に粛清され たことがわかっている、日本人のサーカス芸人です。 ロシアにはロシア人の妻との間に生まれた息子さんが健在で、大島さんが会ってきま した。東京生まれといいますが、どのような事情でサーカス団に加わり渡露したのか は、わかりません。大島さんの「月刊 デラシネ通信」では、も ともと私がフジテレビ・文藝春秋経由で入手し大島さんに提供したKGB秘密資料か ら、1 937年逮捕時のヤマサキの写真も公開されています。 この特別室と提携して、KG B秘密資料「ヤマサキキヨシ・ファイル」の解読も「月刊 デラシネ通信」で連載が 始まります。どなたか自分のまわりでサーカス団に加わり革命前のロシアで行方不明 になった「ヤマサキ・キヨシ」についての情報をお持ちの方は、いらっしゃいません でしょうか?

 ヤマザキ・キヨシ(『闇の男』『モスクワで粛清された日本 人』『KGB秘密資料』から加藤が作ったデータベース)

 旧ソ連における粛清犠牲者。1900年生、東京出身。37年7月22日に「日本の スパイ」として逮捕、12月19日に銃殺された。66年に名誉回復。旧ソ連KGB秘密フ ァイル第28941号によると、父は日本海軍大尉で1905年にサーカス団の一員として革 命前に入露し12年までサーカス団所属、そのまま革命後も滞在、ソ連共産党にも入党 した模様。逮捕時は電気技師。
 1935年に「党員だけがよい暮しができ、みんなは暮しが悪く食べ物はな い」ともらしたため「労働者の間での反ソ・アジテーション」の理由で党を除籍さ れ、それがそのまま逮捕・銃殺の容疑とされている。66年2月8日付の「名誉回復決定 書」によると、ヤマサキは、最終段階で自白供述を撤回し、ゥ分の有罪を認めなかっ た。妻ニキファルブナ30歳、息子アレクセイ3歳、ウラジミル生後4月が粛清当時残さ れたが、その行方はサーカス研究家大島幹雄氏によってようやくつきとめられた。
(参考文献)加藤哲郎『国民国家のエルゴロジー』平凡社、1994年、旧ソ連 KGB秘密ファイル第28941号。

 大島幹雄さんの共同通信配信記事(1997年)

 海を渡ったサーカス芸人の足跡を追うというテーマにとりつかれてから、 十年あまりになる。ひょうひょうと海を渡り、自由に国境を行き来した日本人たちの 姿を通じて、国家の呪縛(じゅばく)を逃れ、海外でしたたかに生き抜いた庶民の姿 を浮き彫りにできないかと思った。しかし、その過程で、自由と代償に死を余儀なく された者たちがいたという事実に遭遇することになってしまった。
 シマダパントシ。彼はヤマダサーカスの一員として一九一〇年ころロシア に渡り、革命後もソ連に残り、シベリアで移動サーカス団の団長をしていた。しかし スターリンの粛清が吹き荒れた一九三九年にシマダは、粛清される。
 もうひとりヤマサキキヨシも粛清されていたことが、加藤哲郎著『モスク ワで粛清された日本人』(青木書店)で明らかにされている。ヤマサキは一九〇〇 年、東京生まれ。サーカス団の一員としてロシア入り。三七年に反ソ活動をした容疑 で銃殺され、その後、六六年に名誉回復されたとある。加藤氏の好意により、私はヤ マサキの調書記録のコピーを手に入れることができた。この調書によって、何故サー カス芸人が粛清されなければならなかったかを知ることができる。
 彼の逮捕の直接的な理由は、職場で反ソ的発言をしたことであるが、尋問 者は彼が日本からサーカス芸人としてロシアに来たことを執拗(しつよう)に問いた だし、その部分には赤線がひかれてあった。それは革命前からロシアに潜入したスパ イではなかったかと疑っていたことを暗に示唆していた。彼もまたヤマダサーカスの 一員であった。
 もうひとり、ヤマダとともにロシアに渡り、革命後もソ連に残った女性が いたことを最近知った。しかし彼女はスターリンの魔手から逃れ、三八年に命からが ら日本に帰ってきていた。この女性山根ハル子は同年、『月刊ロシア』という雑誌に 「私のロシア放浪」という回想録を残していたのだ。
 ヤマダサーカスに在籍して三人のたどった数奇な運命。歴史の修羅場に引 きずりだされたこの運命が語る意味は、私に重くのしかかってくる。  
 昨年十二月、私はロシアでヤマサキの息子アレクセイと会うことができ た。ヤマサキが粛清された時、まだ四才だった彼は、ほとんど父のことを覚えていな かった。ただ母が臨終を前に「おまえの父親の兄弟が日本にいるはずだ、それを探 せ」と言われ、それを果たせずにいまでもきてしまったと、語っていた。
 歴史の闇に葬り去られた、彼ら海を渡ったサーカス芸人たちへの墓銘碑を たてる意味でも、シマダ、ヤマサキ、そしてヤマダの足跡を明らかにしなければなら ない。
<大島幹雄さんのあげる、ヤマサキを探す手がかり>
(1) 一九〇〇年生まれであったこと
(2) ヤマダサーカス団の一員として一九〇五年か六年に出国 し、極東の玄関ウラジオストックに到着したあと、ロシア各地を転々と回っ ていた
(3) 一九一三年にサーカス団とわかれ、ロシアの軍隊に入る
(4) 一九三七年反ソスパイ罪に問われ、逮捕、一二月に銃殺される
(5) 一九五八年ボリショイサーカス初めての日本公演の時に、ふた りの日本人が訪ね、戦前ロシアに渡ったきり戻らない自分の親戚のことを知らないか と、聞いてくる

 このように、ヤマサキの足跡をたどる手がかりは、ほんとうにわずか しかありません。随時ここでは、ヤマサキキヨシの取り調べ記録などを公開していき ながら、闇の中に葬られたままの彼の足跡をたどっていきたいと思っています。な お、「モスクワで粛清された日本人」の著者加藤哲郎氏は、ご自分のホームページの 中で、ヤマサキと同じように粛清された日本人のデーターを公開し、何人かの方々の 血縁の方を調べあげました。関心のある方は、加藤氏のホームページをご覧になって 下さい。

戦間期在米日系労働運動指導者、旧ソ連粛清犠牲者健物貞一(ケンモツ・サダイチ)のご遺族と連絡がつきました!

 健物貞一(けんもつ さだい ち、『闇の男』『モスクワ』『KGB』『思想』『外事』『社運』『特高』『小 田』))

 別名ササキ・三浦。「剣持」「剣物」「健持」「鍵物」とする史料もあるが、 正しくは「健物」だった。1900年6月5日岡山県生まれ。日本の官憲資料では、本籍 地岡山県都窪郡早嶋町出身。早稲田大学商学部を出て、23年7月にアメリカに渡り、 24年アメリカ共産党に入党、太平洋岸の日本人共産主義者グループのリーダーとな る。26年6月サンフランシスコ国際労働擁護会(ILD)機関紙『階級戦』を創刊 し、同年『労働新聞』と改称し編集。29年12月25日にサンフランシスコで逮捕さる。 アメリカから国外追放になり、31年12月16日ドイツ経由ソ連に出航、32年1月ソ連に 入国。

 官憲資料では、モスクワのレーニン・スクールで学び、ウラジオストック付近 で汎太平洋労働組合書記局で活動とされており、ソ連側資料ではクートベ卒業、朝鮮 人女性と結婚、赤色救援会(モップル)で活動していたともいう。遺児ササキ・アレ ンの入手したKGB記録では、32-36年ウラジオストックの海員クラブで活動、36年 モスクワに入りモスクワ第9印章工場で労働、38年4月15日「日本のスパイ」として 逮捕され、39年6月9日ラーゲリに送られ、42年9月8日収容所で死亡。朝鮮人妻シ ェ・オク・スン(1913年生)、息子アラン(1935生)、娘ジェニー(1937年生)が残 された。1989年10月2日に完全名誉回復。KGB記録によれば、健物貞一の父はコウ タロウ(染物業)・母チエ、弟に松太郎、姉にイツノ、コテツがいた。

(2001/6)


1937年9月、レニングラードで粛清されたと推定されるハルピ ン日露協会出身、舞台監督「服部(はっとり)」某氏についての情報をお寄せくださ い! 

 

「レニングラード劇場の舞台監督服部氏」(『モスクワ』 『社運』)  1937年当時、旧ソ連で演出家土方与志の知人であったレニングラード劇場の舞台 監督で、『特高月報』昭和16年7月の「プロット代表として入露せる土方與志の検 挙」中の「在露中交際せる日本人」によると、「服部某 ハルピン日露協会出身、チ タ領事館に勤めたることあり。レニングラード俳優学校卒業後レニングラード小劇場 舞台監督、昭和一二(1937)年九月頃、日本スパイの嫌疑により逮捕せらる」と されており、日本人粛清犠牲者の一人であった可能性が高い。

 資料の出所は、土方与志の帰国後供述と『土方梅子自伝』で、これは、「チル コ・ビリチ=松田照子」の場合と全く同じである。チルコ=テル コ・ビリチ=松田照子については、この間の調査で土方夫妻の証言が正 しかったことが証明されたので、この「服部某」についても、同じ運命にあった可能 性がいっそう強くなった。どなたかこの「服部」氏をご存じでしょうか?


 勝野金政 のご遺族から提供された、梶重樹「レニングラード東洋大 学の日本人たち」早稲田ロシア文学会『ロシア文化研究』4号(1997)によって、 「吉川文夫」の1937年11月4日銃殺が確認されたので、「丘文夫」の1933年病死と共に、データを更新しました(2001年7 月31日)


1932年、ウラジオストックの港から行方不明となった「徹 武彦 (てつ・たけひこ)」について、何かご存知の方はいらっしゃいませんか?

 徹  武彦(てつ たけひこ) 旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。日本側官憲資料では「別 名ヤマグチ」。1937年当時27歳位、鹿児島県大島郡早町村(現奄美群島喜界島=喜界 町)大字白水出身。1932年に第3吉田丸がウラジオストックに入港中逃亡、入ソし海 員クラブで活動したとみられる船員。行方不明になった時母親の胎内にいた息子さん と最近連絡がついたが、旧ソ連内でのその後の消息は、日本側官憲資料での以下の短 い言及以外に、手がかりがないままである。

 内務省警保局編『極秘 外事警察概況』昭和12年中「在露中の日本人共 産主義者一覧表」(昭和12年12月末現在)では、「徹 武彦 仮名=山口、本籍 =鹿児島県大島郡早町村27歳位5尺2寸位、入露年月=昭和7年」「船員出身、昭 和7年浦潮に於て日本船より脱船したるも宣伝員たるの素質乏しく蘇城炭坑にて就 働」。
 『思想月報』第33号(昭和十二年三月)「日本共産党関係入露者調」 (昭和11年12月末日現在)では、「徹 武彦(変名 山口) 入露時=昭和7 年、浦塩にて日本船より脱出、国際海員倶楽部に働きたるも成績不良、其後は炭坑の 仕事をなし居る模様(昭和8年4月現在)」。
 『社会運動の状況 昭和十年 共産主義運動』「邦人共産主義者の滞露状 況、在露邦人共産主義者調」(昭和9年9月現在、但モスクワ以外の地は昭和8年4 月現在)では、「ペンネーム 山口、本名 徹 武彦、本籍又は人相=年26・7 歳、丈5尺2・3寸、鹿児島県大島郡早町村大字白水554武原養子 入露年月=昭 和7年入露、入露前後の行為=昭和7年浦塩にて日本船より脱出、最初海員クラブに て働き居たるも成績不良、現在炭坑の仕事を為し居る模様」。
 内務省警保局『厳秘 昭和十年中に於ける外事警察概況』(国立公文書館 警察庁9.4E,15-4.596,p.243)「浦塩に於ける対日策謀 宣伝状況」に、「山口 ソ連 邦共産党員 鹿児島県人元第3吉田丸火夫徹武彦 海員出身、第3吉田丸より浦塩に 脱船上陸せるもの、実際運動の経験も理論的素養もなくグループ内に信望なし」の記 述。

(参考文献)『外事警察概況 昭和12年』『思想月報』第33号(昭和12年3月) 『社会運動の状況 昭和10年』『昭和十年に於ける外事警察概況』

 モスクワのスドー・ミノル教授が、八方手を尽くして旧ソ連KGB ・公文書館・内務省にあたってくれましたが、残念ながら手がかりはありませんでし た。しかし引き続き情報を求めます(2000年3月)



99年8月 「徹武彦」の息子さんと連絡がとれました。


99年4月 「テルコ・ビリチ=松田照子」と判明したので、詳しくは「探索記」 へ。
 「旧ソ連日本人粛清犠牲者一覧」を詳細改訂版にしました。1997年12月と9 8年6月のモスクワ調査、及び98年冬ベルリン調査にもとづくものです。特にサハロフ博士記念人権センターその他のデータベースやにより 新たにわかったこと、は、青字で表示してあります。もともと『近代日本社 会運動史人物大事典』全5巻(日外アソシエーツ、1997)のために書いた原稿が あったので、それがあるものは、事典原稿を収録します。片山やす・岩田みさごら は、広い意味での犠牲者として載せています。なお、大庭柯公・野坂龍・佐野碩・土 方与志・杉本良吉・岡田嘉子らについては、同『大事典』のそれぞれの項目ほか多く の文献がありますから、それを参照してください。(1999年1月)

 

 

1 旧ソ連秘密文書など記録による粛清確認者=約40名 (2013年5月現在)

 

内銃殺26名=伊藤・須藤・ヤマザキ・吉川・国崎・山本・杉本・箱 守・福永・吉岡・又吉・島袋・宮城・山城・小石・安保・萬谷イソ・松田照子・蟹江元・木村治三郎・前島武夫・「ニシデ・キンサク」「オンドー・モサブロー」「トミカワ・ケイゾー」

強制収容所7名=勝野・岡田・寺島・永井・照屋・片岡・関・健持貞一・ダテ・ユーサク、この内2名健持とダテはは収容所内死亡確認
国外追放4名=根本・佐野・土方夫妻
逮捕後行方不明3名=大庭・新保・シマダ
釈放1名=野坂竜、強制収容後帰国=勝野金政

その他ソ連側文献・犠牲者証言・日本側記録から行方不明の推定犠牲者 約30−50名
(以下の文中の略称資料の原名については、末尾の資料略称一覧を参照され たい)


 大庭 柯公(おおば かこう、『モスクワ』)

 ロシア通ジャーナリスト、1922逮捕、24死亡通知が確認されているが、粛清さ れた模様。『読売新聞』1998/2/5参照。


 新保  清(しんぽ きよし、『思想』)パイロット上がりで、日本側官 憲資料では、1921年頃入ソし、モスクワで日本語教師をしていた。1997年の白井久也 ・渡部富哉の調査では、1922年5月に逮捕され、粛清された模様。『読売新聞』 1998/2/5参照。
(参考文献)『思想月報』第33号(昭和12年3月)
 勝野 金政(かつの きんまさ、『モスクワ』『特高』)

 フランス共産党員で1928年に旧ソ連に亡命、モスクワで片山潜の私設秘書を勤 めながら文学を研究、30年に山本懸蔵の密告でソ連秘密警察NKVDに逮捕され、強 制収容所に送られた日本人犠牲者。ソ連での別名はハヤシ。

 1901年長野県南木曾出身で、島崎藤村と同郷。早稲田大学在学中の24年8月にフ ランスに渡り、パリ大学に留学、反戦平和運動に加わりフランス共産党に入党した。 27年にフランス労働総同盟大会に出席して検挙され、28年2月のフランス共産党大会 に出席したさい「好ましからざる外国人」として国外追放となる。

 28年3月、当時フランクフルト在住の平野義太郎、ベルリン在住の国崎定洞を頼 ってドイツに入り、国崎定洞らに片山潜に紹介してもらい入ソ、モスクワで片山の私 設秘書となる。

フランス共産党からソ連共産党に転籍、片山潜の『わが回想』執筆などを手伝い ながら、東洋大学の講師となり、文学を研究する。当時在モスクワの日本共産党指導 者佐野学・山本懸蔵らとは折り合いが悪かった。

 30年10月、ベルリンの国崎定洞の紹介でクートベ入学を志願してきた根本辰の 処遇をめぐって、片山・勝野と山本懸蔵が対立、根本を「日本特高のスパイ」と疑う 山本懸蔵は、片山の留守中に根本をソ連秘密警察に密告、根本は国外追放、根本を推 薦した勝野も同時に突然逮捕され、「スパイ」として強制収容所に送られた。34年 6月に減刑釈放され、ソ連共産党に再審を求めたが認められず。日本大使館に保護を 求め34年8月に帰国、共産主義運動を離れた。戦時中は日本陸軍の対ソ情報収集に協 力、戦後は故郷南木曾で製材業を営みながら、ラーゲリ体験を文学として残そうとし たが果たせず、84年に没した。遺族の要望で加藤・藤井がスドー・ミノル博士と協力 し長期探索、1996年に正式に名誉回復。『朝日新聞』1996・9・20及び1997・1・14参照。

(参考文献)

加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』青木書店、1994
加藤哲郎『国民国家のエルゴロジー』平凡社、1994
勝野金政『赤露脱出記』日本評論社、1934
勝野金政『凍土地帯』吾妻書房、1977
アジア歴史資料センター資料
 

 根本  辰(ねもと とき、『モスクワ』『特高』)

 旧ソ連で山本懸蔵に「スパイ」として密告され、国外追放にされた日本人粛清 犠牲者。 1904年生まれ、宮城県気仙沼町の医者の家庭出身。京大文学部社会学科在学中 に社会科学研究会など学生運動に参加、無産者新聞を手伝い、29年末から30年初めに ベルリン留学、国崎定洞らのベルリン反帝グループに加わる。西田幾太郎の哲学的批 判を志し、ソ連での唯物論研究のため30年9月に入ソ、KPDに入党申請したのち、国崎定洞の紹介で片山潜にク ートベ入学を依頼した。

 片山潜と片山秘書勝野金政は根本のクートベ入学を実現しようとしたが、当時 の在モスクワ日本共産党指導者山本懸蔵が根本を「スパイ」と疑い強力に反対、片山 休暇中の30年10月、根本と勝野をソ連秘密警察GPUに密告、根本は国外追放、勝野 は強制収容所送りとなった(勝野は34年6月に出獄し帰国)。

 ソ連から追放されてドイツに戻り、33年に日本に帰国した根本は、左翼運動 には戻らず、地方行政学会などに勤務するかたわら、哲学研究を続けた。34年にベル リンから帰国した鈴木東民とは交流し、西田哲学批判を体系的に残そうとしたが、持 病の結核が悪化、37年結婚後の38年11月、息を引き取った。妹は無産者新聞会計をつ とめた根本和子で、ベートーヴェン研究家山根銀二は義弟となる。

 その名は勝野金政の戦後のラーゲリ体験記や勝本清一郎のベルリン時代の回想 に残されていただけであったが、旧ソ連崩壊後の秘密文書「国崎定洞ファイル」中の 山本懸蔵によるソ連秘密警察NKVDへの国崎定洞密告文のなかに勝野と根本の30年 粛清事件が登場し、旧ソ連での日本人粛清の端初として改めてとりあげられた。 

(参考文献)加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』青木書店、1994

加藤哲郎『国民国家のエルゴロジー』平凡社、1994
勝野金政『ソビエトロシヤ・今日の生活』千倉書房、1935
勝野金政『凍土地帯』吾妻書房、1977
 

 カタオカ・ケンタロー=木村治三郎(『ソ党中央委通報』90・11、別名タナカ・ シマキチ、キムラ・ジサブロー)
『ソ連共産党中央委員会通報』1990年11月号の銃殺者リストに、別名タナカ ・シマキチ、キムラ・ジサブローとある。1909年生まれで、41年に粛清された日本人 犠牲者。「キムラ・ジサブロウ=木村治三郎」が本名であるかもしれない。

 その後、内田義雄『聖地ソロフキの悲劇』(NHK出版、2001年) の刊行によって、片岡健太郎=木村治三郎は、1935-38年にソロフキ収容所で一緒だ ったロシア人チルコフの回想録に「印象深い囚人仲間」としてでてきた。「元将校で スパイ」とされてラーゲリに入れられ、ラーゲリでは理髪師をつとめていた。さら に、チルコフ回想には、収容所長から「カタオカ」が自分の他の日本名についてきか れる場面があり、そこで「ジサブロウ・キムラ」「テバシ・カメキチ」「カスギ」と 出てくる。このうち「キムラ」は、や日本側警察資料である『思想月報』第33号(昭 和12年3月)では、石川四郎と共に上海より浦塩に渡り入露、宣伝員となるも35年6 月現在政治犯として入獄中、とある。別名カタオカ・ケンタローと同一人物で、 1941年に銃殺された可能性がある」としてきた。つまり、「カタオカ」と「キムラ」 が同一人物であった。ここに出てくる「石川四郎」は、31年に山本懸蔵の指示で日本 に帰国、日本海員組合刷新会を組織しようとして特高警察に逮捕された活動家。「カ タオカ」も海員組合で活動したと推定されます。そこで内務省警保局『昭和6年中に 於ける外事警察概要・露国関係』の「国際海員倶楽部宣伝員名簿」にあたると、木村 の方は出身地の記載がなく、「本年(1931)春卒業、浦塩邦人主義者グループに加入し 居たるも本人が思想的に共産主義と相容れざるものあるを認め右グループより脱退し 一時反革命運動を企図し居る6月頃、経済状況視察の為ウラル方面に赴きたる由なる が約3か月前より浦塩ゲペウ(GPU)に拘禁せられたり」とあり、1931年にウラジオ ストックで逮捕されたらしいことがわかる。

 しかし、すでに日本で逮捕された「石川四郎」については、「明 治39(1906)年12月16日生、本籍東京府三河島町字町屋264戸主長吉4男、出生地栃木 県河内郡瑞穂村大字下桑島、宇都宮市立下野中学校2年退学、労働総同盟で活動、昭 和4(1929)年10月初旬上記木村と共に函館港内停泊中の露国貨物船に潜入密航、ジャ パニーズコミュニストと称し入露希望浦塩上陸」と重要なてがかりがある。『思想月 報』では石川は昭和6年中に予審手続中止で釈放されたから、こちらの方から「木村 治三郎=カタオカ・ケンタロウ」につながる可能性がある。

(2007.1.1)その後、アジア歴史資料センターで、「要視察人関係 雑纂/本邦人ノ部 第十一巻」(外務省外交史料館>外務省記録>I門 文化、宗教、衛生、労働及社会 問題>4類 労働及社会問題>)で「健物貞一」関係資料を探索したさい、「木村治 三郎」ファイルがみつかりました。「木村治三郎  特思秘第五五四五号  昭和五年十月一日 北海道庁長官池田秀雄(警察部長) 内務大臣安達謙藏殿  外務大臣幣原喜重郎殿  各庁府県長官殿 朝鮮、台湾、関東庁各警務局長殿 上海、哈府内務事務官殿 旭川憲兵隊長殿 (管下各警察署長殿)  思想要注意人木村治三郎入露ニ関スル件 要旨 客年十月所在不明トナリタル当庁思想要注意人木村治三郎ハ白川四郎ナル容疑邦人ト 共ニ入露シ勘察加西海岸国営「アコ」会社漁場ニ滞在シ「イーチンスヤー」地 方邦人漁夫ニ対スル宣伝員トシテ活躍中ノ事実判明セリ何時邦人主義者トノ連絡ノ為メ潜入スルヤモ難計ニ付キ各港湾関係 (貴庁)及ビ管下各警察署長ニ於テハ厳重警戒相成度 本籍 北海道函館市台場町37、戸主、宗吉、三男 前住所 同市東雲町二百二十五番地」とあります。「白川四郎」は下記「石川四郎」の誤りでしょう。


 前島 武夫(まえじま たけお、『闇の男』『モスクワ』『社運』『和田』)

 別名カンジョ。1901鹿児島出身、37・6・8逮捕、11/28銃殺。2013・4/18産経新聞調査で、「1901年生共産党員候補、モスクワ在住、民族植民地問題に関する学術研究協会の学生、1937年6月8日逮捕、スパイ・テロ活動、1937年11月28日判決・同日銃殺。1991年12月名誉回復。」社運ではツル オカ、伊藤利三郎調書では台湾人陳某、和田。プロフィンテルン第5回大会時に入国 してそのまま滞在し、1932にソ連共産党員候補になり、1933クートベ入学(『闇の 男』140)。野坂竜とつながりがあり(135以下)、山本懸蔵逮捕のさいには、その 「自白」供述が容疑に用いられたというが(和田「歴史としての野坂参三(上)」 『思想』94・3、55)、詳細は不明である。

 2013年「メモリアル」原簿カンジョ(ブダエフ・ノルバ/マヤ(エ?)シマ・タケオ/ツルオカ) =前島武夫(本サイトではこれまで逮捕後「行方不明」)
1910年生まれ/共産党員候補/モスクワ居住/民族・植民地問題に関する学術研究協会の学生/1937年6月8日逮捕/スパイ・テロ活動/1937年11月28日判決/1937年11月28日銃殺(モスクワ)/1991年12月名誉回復

アジア歴史資料センター資料

 


 須藤 政尾(すどう まさお、『闇の男』『モ スクワ』『KGB』『須藤自伝』『思想』『社運』『外事』『伊藤利三郎調書』『特 高』)

 旧ソ連における粛清犠牲者。1903年、北海道生まれ。37年4月29日に「日本のス パイ」として逮捕され、同年12月4日に銃殺された。旧ソ連KGB秘密ファイル第 24189号、日本側外事警察資料、遺児ミノル=ミハイル・マサオヴィッチ・スドーの 所有資料、実弟小川光雄・妹須藤チヨの話などによると、北海道空知郡栗沢町茂世丑 7番地2出身、徳島県出身の須藤近一の次男。栗沢町で生まれて置戸町・北見市・鴻之 舞鉱山などを経て、1920年頃札幌市に出る。遠友夜学校で教師からロシア革命につい て学び、23年南樺太に渡り、24年末、北樺太へと入ソ、25年に日本軍の病院に勤務 中、反戦ビラをまき「ソ連のスパイ」として検挙されたが釈放、同年ソ連共産青年同 盟と労働組合に加盟、このとき検挙歴を経歴欄に書かなかったことが、後に「日本の スパイ」として粛清される根拠となる。

 26年ウラジオストックの労働組合教習所を経てオハの日系資本、北樺太石油会 社オハ鉱業所に組合活動家として派遣される。29年にはソ連共産党に入党、しかし 36年に「経歴詐称」を理由に党を除名された。1932年に、北樺太の石油鉱山労働組合 (プロムコム)指導者として、活動家永井二一・小石濱蔵・新宮領一正・伊藤利三郎 をモスクワの山本懸蔵のもとに派遣した。33年に結核転地療養のためモスクワへ行 き、食品工場勤務、37年逮捕時は、モスクワで非党員の消防士であった。逮捕理由は 「日本のための諜報活動」とされる。

 1956年にソ連で法的名誉回復。ロシア人妻マリヤとの間に生まれた息子ミノル =スドー・ミハイル・マサオヴィッチの要請で、1990年に死亡日が1942年から37年 12月に、死因が「急性腎臓炎」から「銃殺」に、それぞれ訂正された死亡証明書が発 行されている。

 銃殺直前に書かれた須藤政尾のロシア語自筆履歴書「須藤政尾自伝」によれ ば、須藤は、北樺太での活動のなかで中村善太郎、柚木勢吉、塚田静夫、橋本徳太 郎、平松仁行らと知り合った模様で、これらの在ソ日本人も、旧ソ連で粛清された可 能性が高い。また、須藤がオハからモスクワの山本懸蔵に送った4人の日本人共産主 義者のうち、新宮領一正はクートベ入学を許されず34年に日本に帰国するが、永井二 一・小石濱蔵・伊藤利三郎はクートベで学んだ。伊藤は35年末に野坂参三により日本 に派遣され41年に逮捕されるまでコミンテルンの諜者となった。永井・小石は、38年 11月にモスクワで「日本のスパイ」として逮捕され、強制収容所に送られた。永井は 釈放後にコミ共和国で生存が確認されたが、小石は以後行方不明。須藤政尾のユダヤ 系ロシア人の妻マリヤも38年から10年間強制収容所暮し。

 須藤政尾の粛清は、父の逮捕当時5歳の遺児ミノルの努力で、粛清経過が明らか にされ、後に日本の親族とも会見できた、きわめて珍しい例である。作家井上靖は、 1965年のシルクロード紀行のさいにミノルと会い、須藤政尾・ミノル父子を主人公に した小説「テペのある街にて」を残した。当時は父の粛清を語ることはタブーであっ たために、ミノルは政尾を「1935年、結核で死亡」と井上に伝えた。

 ミノルは政尾の生涯を追究してソ連検索局に再審を要求、ペレストロイカ・グ ラースノスチのなかでついにKGB秘密資料を入手し、それを手がかりに日本のジャ ーナリズムに父の係累探しを依頼した。1994年6月に、政尾の弟光雄、妹チヨの生存 が確認され、同年9月にミノルが来日して、須藤政尾の全生涯がほぼ明らかになっ た。1998年6月には、埋葬地がブトヴォの刑場であったことが明らかに なった。    

(参考文献)

加藤哲郎『国民国家のエルゴロジー』平凡社、1994
井上靖「テペのある街にて」『文学界』1966年1月号
「伊藤利三郎調書」司法省刑事局『コミンテルン対日謀略の一断面』昭和 17年7月
『思想月報』33号、昭和12年3月
旧ソ連KGB秘密ファイル第24189号

アジア歴史資料センター資料


 吉川 文夫(よしかわ ふみお、『外事』『社運』『思想』『伊藤利三郎 調書』)

 旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。日本側官憲資料では、チェレソン、 キシ、チェンリーなどの別名。1937年当時28歳位A横浜市中区石川町7ー33芳次郎養 子。船員出身で、27年11月に入ソし、国際海員クラブで活動、32年にクートベ入学、 37年当時はレニングラードに在住し東洋大学講師。その後の梶重樹の研究によると、レニングラード東洋大学で、33年 に結核で死亡した丘文夫の後任として採用された「モリ ミノロ、別名チェンリー、 1908年東京生まれ(パスポートでは1912年)、父ヨシカワ・ヨシジロ、母ヨシカワ・ ハル、1923-29年船員。26年神戸で日本警察に逮捕され4日間留置、27-30年ウラジオ ストトック食料品労組で日本人労働者の教導員、29年ソ連共産党員候補、30-33年ク ートベ・セクションAで学び、33年よりレニングラード東洋大学講師。37年春に逮捕 され、37年11月4日に、ニコライ・ネフスキー、萬谷磯子夫妻と共に29歳で銃殺さ る。

(参考文献)

『思想月報』第33号(昭和12年3月)
梶重樹「レニングラード東洋大学の日本人たち」早稲田ロシア文学会『ロシ ア文化研究』4号(1997)

 ヤマザキ・キヨ シ(『闇の男』『モスクワ』『KGB』)

 旧ソ連における粛清犠牲者。1900年生、東京出身。37年7月22日に「日本のスパ イ」として逮捕、12月19日に銃殺された。66年に名誉回復。旧ソ連KGB秘密ファイ ル第28941号によると、父は日本海軍大尉で1905年にサーカス団の一員として革命前 に入露し12年までサーカス団所属、そのまま革命後も滞在、ソ連共産党にも入党した 模様。逮捕時は電気技師。

 35年に「党員だけがよい暮しができ、みんなは暮しが悪く食べ物はない」とも らしたため「労働者の間での反ソ・アジテーション」の理由で党を除籍され、それが そのまま逮捕・銃殺の容疑とされている。66年2月8日付の「名誉回復決定書」による と、ヤマサキは、最終段階で自白供述を撤回し、自分の有罪を認めなかった。妻ニキ ファルブナ30歳、息子アレクセイ3歳、ウラジミル生後4月が粛清当時残されたが、そ の行方はサーカス研究家大島幹雄氏によってようやくつきとめられた。

(参考文献)

加藤哲郎『国民国家のエルゴロジー』平凡社、1994年
旧ソ連KGB秘密ファイル第28941号
    大島幹雄『明治のサーカス芸人はなぜロシアに消えたか』祥伝社、2013

 伊藤政之助(いとう・まさのすけ)  『闇の男』『モスクワで粛清された日本人』『思想月報』などに登場する旧ソ連に おける粛清犠牲者で日本共産党員。ソ連での名はタケウチ、1908年生。日本側官憲資 料では、山形県飽海郡南道(遊)佐村米島字岡畑51(現酒田市米島岡畑)出身。もと もと共同印刷活版工から労働運動に加わり、26年クートベに入学、ソ連名ソコルニコ フであった。
 28年7月、クートベ卒業後にいったん日本に帰国し、日本共産党に入党、短期間だ が共青執行委員長も勤めたが、同年12月に逮捕された。29年10月に「偽装転向」して 仮釈放され、30年6月に「党の許可」なく入ソ、ウラジオストックの国際海員クラブ で働き始めた。そのさい、ウラジオストック在住の日本共産党指導者山本懸蔵によ り、「党の許可なき入ソ」を理由に第1回の譴責処分を受ける。
 1933年12月に伊藤は野坂参三によってモスクワに招かれ、活版工としての経歴を買 われ34年6月から国崎定洞と共にモスクワ外国労働者出版所日本課の中心となった。 ソ連の秘密警察は、34年9月頃から伊藤政之助を国崎定洞と共に「日本のスパイ」と 疑い監視していた。35年10月に仕事上の金銭トラブルで外国労働者出版所を解雇さ れ、その後片山潜の長女片山やすと結婚、軍事アカデミーの日本語教師となる。36年 8月4日に「党の許可なき渡航」などの理由で、山本懸蔵が伊藤をコミンテルン国際統 制委員会に告発する手紙を書き、伊藤は36年10月29日付で日本共産党を除名された。
 山本懸蔵の伊藤告発・党除名により、36年末ー37年初めにはソ連のNKVDに逮捕 され銃殺された模様。おそらく36ー38年期の粛清最盛期における日本人最初の犠牲者 と思われる。国崎定洞や山本懸蔵の逮捕には伊藤政之助の「自白」供述が用いられ た。野坂竜も逮捕されたさい、伊藤とのつながりを追及されている。皮肉なことに、 伊藤を告発した山本懸蔵の粛清理由の一つには、「タケウチ(伊藤政之助)をかくま ったこと」が挙げられていた。山本懸蔵の秘書であった故山本正美は、伊藤は本当に 日本官憲のスパイであったのではないかと私に証言したことがあるが、日本側官憲資 料で詳しい記述をした供述書・予審調書の類は、まだみつかっていない
 その後の調査では、現山形県酒田市に当時は係累が住んでいたが、後に北海道美唄 市方面に転居した模様。
 1998年6月に、サハロフ博士記念人権センターのデータベースか ら、1936年11月25日逮捕、37年9月14日スパイ罪で銃殺、ドンスコエ墓地に埋葬、 1990年8月13日名誉回復の事実が判明した。

2013年「メモリアル」原簿タケウチ(イトウ・マサノスケ) =伊藤政之助
1908年生まれ/東京出身/日本共産党員/モスクワ居住/「ソ連における外国人労働者の出版組合」日本部門の長/1936年11月25日逮捕/スパイ・破壊活動・テロ活動/1937年9月14日判決/1937年9月14日銃殺(モスクワ)/1992年4月2日名誉回復

<参考資料>

小林峻一・加藤昭『闇の男――野坂参三の百年』文藝春秋、1993年。
加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』青木書店、1994年。
社会運動資料センター『野坂参三と伊藤律』五月書房、1994年。
『思想月報』33号、昭和12年。
 

 国崎 定洞(くにざき ていどう、『闇の男』『モスクワ』『思想』『社運』 『外事』『特高』『小田』)

 日本の社会医学の先駆者で、元東京帝国大学医学部助教授。ベルリン留学中に ドイツ共産党に入党、ドイツにおける日本人・アジア人の反戦反ファシズム活動を指 導、ナチスの台頭によりモスクワに亡命した。晩年の片山潜を助け、クートベで学ん だ後、外国労働者出版所日本課長。1934年、在モスクワ日本共産党指導者山本懸蔵に よりソ連秘密警察に密告され、37年に「日本陸軍のスパイ」としてスターリン粛清の 犠牲となった悲劇の革命家。

 1894年、熊本出身。1919年東大医学部卒業、伝染病研究所助手を経て24年医学 部助教授。26年に社会衛生学研究のためドイツ留学、同年和田哲二の名で希望閣から レーニン『共産主義左翼の小児病』翻訳を刊行。27年、アルス社から『社会衛生学講 座』刊行。日本滞在中は東大新人会に協力した。

 ドイツ留学中に共産主義運動に近づき、28年7月ドイツ共産党入党、千田是也ら とともにKPD日本語部に所属し、その責任者となる。帰国すれば約束された東大教 授のポストを捨てて、29年5月依願免官、反戦反ファシズムの職業革命家の道を選 ぶ。モスクワの片山潜と日本の革命運動の中継を勤め、『インプレコール』などコミ ンテルン機関紙誌を日本に送り、『無産者新聞』『戦旗』などをモスクワに届ける。 29年夏のフランクフルト国際反帝大会に片山らと共に参加、ベルリンでは千田是也、 勝本清一郎、平野義太郎、小林陽之助らとベルリン反帝グループを組織。30年に日本 の『戦旗』に山本三郎名で論文を寄せたり、レーニン『帝国主義論』を翻訳、31年 9月の満州事変勃発にあたっては、在欧中国人・朝鮮人・インド人と共に革命的アジ ア人協会を組織、自ら組織部長となる。国際労働者救援会や反帝同盟では、日本代表 として活躍。このころ『インプレコール』紙に頻繁に登場する「ヨベ」が国崎である 可能性もある。

 1932年9月、片山潜の勧めにより、ナチスの台頭するドイツからソ連へと亡命、 片山潜『自伝』(邦文『わが回想』)の完成を助ける。入ソ後クートベ構内に住み、 片山潜・野坂参三の推薦でクートベに入学を申請したが、山本懸蔵は反対、入学が遅 れて33年春からクートベ大学院に学ぶ。党籍はドイツ共産党のままであったが、日本 共産党関係の活動にも従事、34年春からモスクワ外国労働者出版所日本課長、あわせ てナリマノフ東洋大学講師として在ソ日本人共産主義者の育成を援助。ベルリンでの 活動は小林陽之助、和井田一雄らが受け継ぐ(小林も33年5月モスクワ亡命)。

 33年11月の片山潜病没、34年初めの野坂参三訪米のもとで、在モスクワ日本共 産党代表となった山本懸蔵は、28年3・15事件時の検挙逃れ・ソ連逃亡についての自分 の疑惑を片山に告げたのは国崎定洞であると思い込んだ。34年9月、片山の秘書で自 ら強制収容所に送った勝野金政が在ソ日本大使館経由で帰国したのを機に、コミンテ ルン組織部に国崎定洞と勝野の結びつきなどを密告、国崎は、35年2月からソ連の秘 密警察NKVDの監視下におかれた。そのため35年夏のコミンテルン第7回大会では 日本代表にならず、ディミトロフ報告の翻訳などを担当、36年のスペイン国際義勇軍 志願も却下された。37年8月4日「日本のスパイ」として逮捕、同年12月10日銃殺され た。

 残されたドイツ人妻フリーダと娘タツコは、国崎定洞の生死もわからぬまま、 ナチス・ドイツに強制送還された。ソ連では59年10月29日に法的名誉回復がなされた が、フリーダには口頭で死亡の事実だけが伝えられた。日本でも旧友千田是也・鈴木 東民・小宮義孝らが戦後も国崎定洞の行方を捜索、74年秋に鈴木が西ベルリンに存命 中のフリーダ及びタツコを発見、日本共産党がソ連共産党に問い合わせて37年12月の 「獄死」が確認された。しかし、その「銃殺」の事実と粛清の謎は、旧ソ連秘密ファ イルの発見により明らかになった。国崎自身は最後までドイツ共産党員であったが、 その粛清は日本共産党の山本懸蔵の密告によるものであった。 

 1998年6月の加藤哲郎・藤井一行のモスクワ訪問のさい、いくつ かの新事実が判セした。加藤『モスクワで粛清された日本人』について、モスクワ東洋学研 究所の著名な日本エキスパート、ユーリー・ゲオルギエフがロシア語雑誌『今日の日 本』1998年4月号に書評を書き、加藤の研究を紹介しながら、そのなかでゲオルギエ フ氏自身の資料探索にもとづき2つの新事実を明らかにした。それは、

(1) 野坂参三が日本からモスクワに派遣された直後の 1931年5月15日、コミンテルン東洋書記局の議事録で、正式の日本代表を野坂参三に するという案と、当時ドイツ共産党日本語部責任者のコン=国崎定洞にするという二 つの案が出され、結局国崎定洞案が否決され、野坂参三に決まったというもの。当時 は、片山潜は病気療養中で、コミンテルン東洋部(部長ミフ、部員ヤ・ヴォルク、サ ファロフ、マジャールら)内にも、日本の党から派遣された野坂参三ではなく、ドイ ツでの国崎定洞の活動を評価し、モスクワによんで日本共産党代表としようとした者 がいたことを意味する。まだ国崎定洞の亡命前のことあった。
(2) 1934年10月の山本懸蔵による国崎定洞告発と35.2の人 事照会の後、1935年2月23日にコミンテルン東洋部から国崎の勤務先外国語労働者出 版所に回答があり、国崎定洞は要注意ということで日本語部長を解任された。したが って、35年2月には、国崎定洞は自分が疑われていることを自覚できる立場にあった ことを意味する。
 さらに、以下の点も今後研究さるべき問題として明らかにな った。
(3) サハロフ博士記念人権センターが独自に進めている粛 清犠牲者のデータベース化のなかでみつかった日本人犠牲者リストには、国崎定洞は 入っていなかった。
(4) 1929-30年にかけて、国崎定洞が片山潜及び山本懸蔵に 宛てた手紙が数通みつかった。堀江邑一、鈴木安蔵の政治的人物評価をし、ドイツの 国崎グループの活動を詳しくモスクワに報告していた。これまでの研究との関わりで は、国崎定洞・千田是也のほかに、小林陽之助・岡内順三(村山知義義弟)・三宅鹿 之助・勝本清一郎・島崎翁助(藤村3男)が「党員」として報告され、党員でない藤 森成吉の訪ソ希望をどう扱うかが問題になっていた。また、国崎定洞は、日本への連 絡ルートとして、平野義太郎・堀江邑一ではなく、有澤廣巳・土屋喬雄・小林輝次の 名を挙げていた。どうやら当局からマークされる平野・堀江より、有澤・土屋ルート の方が安全ということだったようである。
(5) 日本では、戦前日本共産党書記長山本正美の裁判資料 ・論文集の98年6月出版記念会のさい、菊代夫人から、山本正美が1932年末にモスク ワからヨーロッパ経由日本に帰国したさいに使ったパスポートは、帝大助教授国崎定 洞名だったという話が明らかにされた。しかしそうだとすると、モスクワに残されて いた国崎定洞パスポート(われわれの本の口絵)の偽造版ということになり、当時の 外務省(法務省?)出入国記録にも残っているはずである。
 
2013年「メモリアル」原簿コン・アレクサンドル(クニサキ・テイドー) =国崎定洞
1894年生まれ/熊本出身/ドイツ共産党員/モスクワ居住/「ソ連における外国人労働者の出版組合」編集者兼通訳/1937年8月4日逮捕/スパイ・テロ活動/1937年12月10日判決/1937年12月10日銃殺(モスクワ)/1959年10月名誉回復

(参考文献)「アジア歴史資料センター」資料

ソ連共産党秘密文書「国崎定洞ファイル」
川上武『流離の革命家』勁草書房、1976
加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』青木書店、1994

 佐野  碩(さの せき、『闇の男』『モスクワ』『思想』『社運』『外事』『特 高』)1905東京出身、33入ソ、演出家。1937・8・12国外追放。
アジア歴史資料センター資料
 

 土方 与志(ひじかた よし、『闇の男』『モスクワ』『思想』『社運』 『外事』『特高』)1898東京出身、演出家。同上。

アジア歴史資料センター資料


 与志夫人土方梅子(ひじかた うめこ、『モスクワ』『思想』『社運』 『外事』)

 1902年、三島通庸の孫として東京に生まれ、16歳の時、伯爵でプロレタリア演 劇の演出家であった土方与志の妻となる。本籍地は東京都小石川区林町62。1933年 5月に夫土方与志とともに訪ソ、37年8月、佐野碩・土方与志と共にスターリン粛清に より国外追放になる。モスクワでは、国崎定洞・野坂竜・片山ヤスらと共に外国労働 者出版所に勤務していた。73年12月11日没。

(参考文献)

 『土方梅子自伝』早川書房、1976
 『土方與志演劇論集 演出家の道』未来社、1969

 テルコ・ビリ チ=松田照子(『モスクワ』『社運』)日本側記録では「チルコ」で、当時 ブハーリン派として粛清された在日ソ連大使館下級外交官「A・ビリチ」の妻。警察 資料では、「当三五歳位。東京生れ、陸軍中佐の娘」とある。ビリチが1937年ブハー リン派として粛清された後、チルコも行方不明となった。当時在モスクワの土方与志 ・梅子夫妻は、ビリチ夫妻と親しくしていた、という情報だけだった。(『土方梅子 自伝』早川書房、内務省警保局『社会運動の状況・昭和十六年』「土方与志の活動状 況」、『土方與志演劇論集・演出家の道』未来社)。

 1998年6月に、サハロフ博士記念人権センターのデータベースか ら、より詳しい情報が得られた。同データベースには写真も納められており、以下の ようになっている。ここから次の手がかりが得られるものと期待される。

生年  1912
民族  日本人(女)
出身  東京市
居住地  モスクワ市ゲルツェン通り26-2号棟第53室
教育  中等
党籍  非党員
逮捕前の活動  モスクワ市の哲学・文学・歴史大学の学生
逮捕日時  1937年12月25日
判決  ソ連最高裁軍事法廷
容疑  スパイ活動
銃殺宣告  1938年3月14日
判決執行  1938年3月14日
名誉回復 ソ連最高裁軍事法廷の決定により1957年9月19日
埋葬地 ブートヴォ=コムナールカ
<参考文献>『特高月報』昭和16年7月
    内務省警保局『社会運動の状況・昭和16年』「土方与志の活動状況」
      『土方與志演劇論集・演出家の道』未来社
   『土方梅子自伝』早川書房)
 

その後、99年2月に「テルコ・ビリチ=松田照子」と判明したので、以下詳し くは「探索記」 へ。


 吉川 文夫(よしかわ ふみお、『外事』『社運』『思想』『伊藤利三郎 調書』)

 旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。日本側官憲資料では、チェレソン、 キシ、チェンリーなどの別名。1937年当時28歳位、横浜市中区石川町7ー33芳次郎養 子。船員出身で、27年11月に入ソし、国際海員クラブで活動、32年にクートベ入学、 37年当時はレニングラードに在住し東洋大学講師。その後の梶重樹の研究によると、レニングラード東洋大学で、33年 に結核で死亡した丘文夫の後任として採用された「モリ ミノロ、別名チェンリー、 1908年東京生まれ(パスポートでは1912年)、父ヨシカワ・ヨシジロ、母ヨシカワ・ ハル、1923-29年船員。26年神戸で日本警察に逮捕され4日間留置、27-30年ウラジオ ストトック食料品労組で日本人労働者の教導員、29年ソ連共産党員候補、30-33年ク ートベ・セクションAで学び、33年よりレニングラード東洋大学講師。37年春に逮捕 され、37年11月4日に、ニコライ・ネフスキー、萬谷磯子夫妻と共に29歳で銃殺さ る。

(参考文献)

『思想月報』第33号(昭和12年3月)
梶重樹「レニングラード東洋大学の日本人たち」早稲田ロシア文学会『ロシ ア文化研究』4号(1997)

 萬谷 イソ(まんたに いそ)

 1901年6月10日、北海道後志国積丹郡入舸村のニシン漁の網元萬谷幸八郎の娘と して生まれる。ソ連の東洋学研究者でペテルブルク大学官費留学生であったニコライ ・A・ネフスキーと結婚し、37年、夫と共にレニングラードで粛清された日本人犠牲 者。

 イソ(通称磯子)は、ネフスキーが小樽高等商業学校のロシア語教師としてア イヌ語を研究していた1921年頃に知合い、22年にネフスキーが大阪外国語学校ロシア 科に移ったさいに結婚、28年4月に長女ネリー(エレナ・ネフスカヤ)をもうけた。 イソは、旭輦の号を持つ築前琵琶の名取りであった。正式の結婚登録は、1929年9月 のネフスキーの単身帰国の直前、6月12日に神戸領事館でなされた。一緒に入国でき なかったイソとネリーの母子は、ようやく33年7月に、レニングラード大学とレニン グラード東洋大学で日本語を教えていたネフスキーのもとにおもむくことができた。

 しかし、吉川文夫逮捕を発端とするソ連・レニングラード地域東洋学の粛清 の一環でAネフスキーは1937年10月4日にネフスキーが逮捕され、11月24日に銃殺さ れた(死後1957年に名誉回復され、1962年にレーニン賞受賞)、同時に、イソも逮捕 され粛清された。

 その後の梶重樹「レニングラード東洋大学の日本人たち」早稲田 ロシア文学会『ロシア文化研究』4号(1997)によれば、粛清の発端はレニングラー ド東洋学研究所日本語教師「吉川文夫」の1937年春逮捕で、萬谷は、ネフスキー、吉 川ら8人と同時に、37年11月(24日でなく)4日に銃殺された。

 両親を粛清された娘エレーナは、ネフスキーの親友で著名な日本学者ニコライ ・コンラッドに引き取られて育てられ、医師となってレニングラードに生存。

(参考資料)

近藤富枝『本郷菊富士ホテル』講談社、1974
加藤九祚『天の蛇――ニコライ・ネフスキーの生涯』河出書房新社、1976
檜山真一「弾圧されたネフスキイ夫妻」『北海道新聞』1991・8・9
梶重樹「レニングラード東洋大学の日本人たち」早稲田ロシア文学会『ロシ ア文化研究』4号(1997)

 山本 懸蔵(やまもと けんぞう、『闇の男』『モスクワ』『思想』『社 運』『外事』『特高』『小田』)

 別名タナカ、1895年2月20日、茨木県鹿島郡矢田部村(現波崎町)生まれの労働 組合運動指導者。米騒動や総同盟で活躍した後、1928年ソ連に入り、37年11月2日逮 捕、39年3月10日に銃殺されたスターリン粛清の犠牲者。

小学校卒業後上京、1914年築地造幣工廠に入り工人会に加わる。15年友愛会京橋 支部を設立、18年米騒動のさい日比谷音楽堂で飛び入り演説、逮捕される。19年満期 出獄後、大日本労働総同盟友愛会で活動、日立鉱山争議、足尾銅山争議などに加わ り、検挙さる。22年関東労働同盟常任委員、同年日本共産党入党。22年7月密出国し て、モスクワのプロフィンテルン第2回大会に出席、23年1月帰国。23年6月の第一次 共産党事件のさい、検挙を逃れソ連に脱出、24年6月頃妻関マツを伴い帰国。

 24年12月、関東地方評議会を結成、議長となる。25年5月の日本労働組合評議会 結成に加わり、中央委員となる。25年6月中国に密航、9月評議会オルグとして北海道 に派遣される。26年6月から27年2月まで入獄、出獄後静岡県から衆院補選労働農民党 候補として立候補・落選。27年5月第1回汎太平洋労働組合会議出席のため中国に密出 国。同年日本共産党中央委員、労農党中央執行委員となる。

 28年春の第1回普通選挙で北海道1区から立候補、その選挙運動の模様は小林多 喜二『東倶知安行』にも描かれた。3月15日の共産党大弾圧のさい、重度の結核を装 って、検挙を逃れ自宅療養、警察の厳重な監視のもとで秘かに党とも連絡をとり、医 師馬島們・服部之総・小林武次郎らの援助で5月上旬自宅逃亡、6月にはソ連に逃亡・ 入国した。そのまま28年夏のコミンテルン第6回大会に出席、プロフィンテルン日本 代表としてソ連に留まった。

ソ連ではウラジオストック周辺の日本人船員・漁民らの組織化や『太平洋労働 者』刊行を指導、29年第2回汎太平洋労働組合会議、30年プロフィンテルン第5回大会 に日本代表として出席。タナカ名で35年夏コミンテルン第7回大会演説、オカノ(野 坂参三)と連名で36年2月「日本の共産主義者への手紙」を発表。

 37年以降の山本懸蔵については、戦後も長く不明であったが、37年11月2日にソ 連秘密警察NKVDに「日本陸軍のスパイ」として逮捕され、39年3月10日に銃殺さ れていた。山本懸蔵の粛清の事実自体は、56年5月23日のソ連国内での法的名誉回 復、62年7月の『日本共産党の四十年』での日本共産党による名誉回復で明らかにさ れたが、そのさい当時を知る野坂参三は「1942年病死」と死亡時期・死因を偽った。 しかもそれは、野坂参三がソ連共産党に要請してのものだったことも、ソ連崩壊後の 共産党秘密文書公開で明らかになった。

そればかりか、37年11月の山本懸蔵逮捕の直接の理由は、山本以前に逮捕された 前島武夫・伊藤政之助らの自白供述にもとづいていたが、当時アメリカにいた野坂参 三は、コミンテルン書記長ディミトロフ宛に手紙を書き、山本懸蔵の数々の疑惑を挙 げて告発し、その有罪・銃殺に手を貸していたことが、92年に『週刊文春』誌上で暴 露された。日本共産党も、ソ連秘密文書で野坂参三の手紙を確認し、92年末に野坂参 三を除名処分にした。そのため、野坂参三に「売られた」ことが明らかになった山本 懸蔵は、94年4月発表の『日本共産党の七十年』では復権・顕彰された。

 しかしその頃、他の旧ソ連秘密文書「伊藤政之助ファイル」や「国崎定洞ファ イル」から、野坂に「売られた」山本懸蔵自身が、実は30年代のソ連で、何人もの日 本人共産主義者をソ連の党・国家機関に「売り渡し」ていたことが明らかになった。 30年10月に国外追放になチた根本辰、根本をクートベに推薦して「スパイ」と疑われ 強制収容所に送られた勝野金政、勝野とのつながりで34年9月に山本懸蔵により密告 された国崎定洞、36年に日本共産党を除名された伊藤政之助の4人は、これまで明ら かになった山本懸蔵の告発・密告による粛清犠牲者である。1997年12月の加藤モスクワ訪問のさい、山本懸蔵の自筆日本語履歴 書がみつかっている。

2013年「メモリアル」原簿タナカ−ヤマモト・ケンゾー =山本懸蔵
1894年生まれ/東京出身/日本共産党員/モスクワ居住/コミンテルンにおける日本共産党代表/1937年11月2日逮捕/スパイ/1939年3月10日判決/1939年3月10日銃殺(モスクワ)

(参考文献)

『山本懸蔵集』新日本出版社、1986・92
日本共産党茨城県委員会『山本懸蔵』1973
小林峻一・加藤昭『闇の男』文藝春秋、1993
加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』青木書店 1994

 杉本 良吉 (すぎもと りょうきち、『闇の男』『モスクワ』)1907東京出身、演出 家。1938・1・3入ソ逮捕、1939・10・20銃殺、1959・10・15名誉回復。

 岡田 嘉子 (おかだ よしこ、『闇の男』『モスクワ』)1902広島市出身、女優。 1938・1・3入ソ逮捕・1947釈放、1992死去。

 寺島 儀蔵(てらしま ぎぞう、『闇の男』『モスクワ』『特高』)

別名バザロン・ダーシャ、1909年12月1日、北海道温根沼村(根室の近く)生ま れ。23年家族と共に札幌市に移住。27年北海道自治講習所卒業。26年無産青年同盟札 幌支部加盟、27年11月日本共産党入党。28年3・15事件で逮捕され、30年10月まで独房 生活、出獄直後の12月に左翼労働組合参加のかどで再逮捕されさらに4年の独房生 活。34年、皇太子誕生で減刑され出獄後両親の住む北海道野附牛町(現北見市)で、 特高警察の監視下で労働者消費組合の書記をつとめた日本共産党員。

 1935年8月、樺太国境からソ連に密入国、在モスクワの野坂参三・山本懸蔵の指 導のもと、バザロン・ダーシャのロシア名を与えられ、ソ連の対日工作員教育を受け る。

 ソ連での大粛清のもとで、37年11月に逮捕された山本懸蔵と、直前に電話で話 す。翌12月に、モスクワ郊外の別荘に他の3人の日本人工作員と共に合宿生活、その うちの一人は後に永井二一と確認され、他の一人は小石濱蔵とみられる。38年2月 2日、突然秘密警察NKVDに逮捕され、「日本のスパイ」として38年4月3日、いっ たん死刑の判決を受けるが、虚偽の供述を拒否して監獄内で異議申し立て、38年11月 14日、25年の重禁固刑に減刑さる。ソ連各地の強制収容所でラーゲリ労働の後、55年 8月6日ようやく釈放、56年に法的名誉回復。労働者・通訳として働き、ロシア人の妻 と結婚、1998年現在ロシア・黒海沿岸に生存。旧ソ連の崩壊後、生存中のス ターリン粛清犠牲者として日本に紹介され、幾度か里帰りした。 寺島儀蔵さんは、残念ながら2001年12月3日、トアプセで92歳で亡くな られました。(私の過去ログ2001年12月15日号、参照)  

2013年「メモリアル」原簿テラシモ(マ?)・ギゾー(ダーシャ・バザロン) =寺島儀蔵
<本項は、ブリヤート人、ダーシャ・バザロンの偽名を与えられたことを含め、本人の回想を交えて記されている>
1911年生まれ/日本共産党員/日本で逮捕/6年半の服役を経て1935年に不法入国、ユジノサハリンスクで政治亡命を申請、モスクワへ/1938年4月3日判決(銃殺)/10日後、判決が変更されラーゲリに25年間収容に/1955年釈放/トゥアプセに居住(1997年)
       

(参考文献)

『長い旅の記録』日本経済新聞社、1993(中公文庫)
『続・長い旅の記録』日本経済新聞社、1994(中公文庫

 安保由五郎(あんぽ よしごろう、『社運』『思想』) 旧ソ連での別 名は「スズキ・ナオタカ」。旧ソ連で粛清された日本人犠牲者の一人。同じく犠牲者 でロシアで生存中の寺島儀蔵が、同じ黒海沿岸トアプセの町に暮らしている生存中の 安保の妻クリウシェエワ・アントニーナ・ヤーコブレウナと娘アクショーノワ・リュ ボービ・ナオタコウナと接触して確認したところ、スズキ・ナオタカこと安保吉五郎 は、妻子を残して1937年10月2日に「日本のスパイ」として逮捕され、そのま ま銃殺された。57年10月29日に死後の無罪判決で「名誉回復」されている。

 安保由五郎の本籍は北海道夕張市鹿の谷東丘町11番地(旧夕張市鹿ノ谷3丁 目5番地)。父安保福松・母キエの長男で、安保由五郎は、1908年3月20日、 空知郡三笠山村大字幾春別村奔別炭山五ノ澤で生まれ、母安保キエは、それを11年 3月24日に入籍している。28年の安保由五郎徴兵通達書及び安保松の徴兵検査免 除事由書によると、安保由五郎は26年に夕張から家出し、同年12月にソ連のベロ ボルスク日本領事館に保護され日本に送還される旨の通知を受けている。

 しかし、27年12月には再度行方不明となって、「吉五郎」と表記された日 本側警察記録『社会運動の状況 昭和十年、共産主義運動』によると、ソ連では「鈴 木」と名乗り35年頃に「年37、8歳、丈5尺1寸位、北海道出身、中央ロシア在 住のトラクター運転手、昭和2(1927)年頃、カムチャッカに出稼ぎ中漁場を脱 出、昭和4(1929)年ウラジオに至り、組合の働き手として活動したが成績不 良、昭和5年頃中央ロシアの農場に行き、トラクターの運転手として働きつつある模 様」とある。ただし、寺島『続・長い旅の記録』中の安保のネクリウシェエワの話で は、「スズキの両親は東京から余り遠くない地方に住んで」「時計屋で両親は相当の 資産家」で、ロシア革命後20年頃に日本の貨物船にもぐりこんで密入国し、ウラジ オストックからだんだん西へ移り住んだともいうが、日本側『社会運動の状況』35 年版及び『思想月報』第33号(1937年)では、27年に入露し29年にウラジ オストックで組合活動となっており、詳細は不明。

 ソ連入国後のスズキこと安保由五郎は、34年にクロポトキン市でクリウシェ エワと結婚、37年に2歳の娘リューバと胎内の息子ゲンナジーを残して「日本のス パイ」として逮捕・銃殺された。この事実は、53年のスターリンの死後ようやく妻 子に知らされた。寺島『続・長い旅の記録』によれば、妻クリウシェエワは、ソ連最 高裁判所の「スズキ」の再審証明書と古い身分証明書を持っている。残された妻と娘 は「スズキの両親は資産家」という話に夢を抱いて、ロシアで寺島に「日本に手紙を 出してくれ」といってきたというが、鈴木こと安保由五郎は日本では貧しい労働者家 庭の出身であった。

 これらの事実はすべて、1995年の寺島儀蔵来日時に、北海道の安保由五郎 の親族が見つかり、はじめて明らかにされた。

(参考文献)       

寺島儀蔵『長い旅の記録』日本経済新聞社、1993年
寺島『続・長い旅の記録』日本経済新聞社、1994年
加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』青木書店、1994年
加藤哲郎『国民国家のエルゴロジー』平凡社、1994年
加藤哲郎「旧ソ連で粛清された日本人」『北海道新聞』1995年1月24日
『日本経済新聞』1995年7月14日
『社会運動の状況・昭和10年』
『思想月報』第33号(1937年3月)
『特高警察関係資料集成』第15・16・17巻、不二出版、1992年。
 

 野坂  竜(のさか りょう、『闇の男』『モスクワ』『KGB』『思想』『社 運』『外事』)キム・シャン、1896神戸出身、野坂参三の妻。31入ソ1938・2・11逮 捕、3・31釈放、KGBファイル58303号。

 照屋 忠盛(てるや ちゅうせい、『闇の男』『モスクワ』『KGB』 『特高』『小田』)

 別名ニュー、1898年、沖縄生まれの日本人粛清犠牲者。1918年にアメリカに移 民労働者として渡航し、西海岸の労働運動に参加、29年アメリカ共産党入党。32年 1月のロングビーチ事件でアメリカから国外追放になり、日本に帰ると逮捕されこと をおそれて、33年1月ソ連に入国、クートベで学んだ後、モスクワのナリマノフ東洋 大学で日本語講師となる。

 38年3月15日、山本懸蔵や国崎定洞とつながる「日本のスパイ」の容疑で逮捕さ れた。しかし一貫して罪を認めず、5年の強制収容所生活の後、44年に釈放され、以 後は不明である。       

(参考文献)

小林峻一・加藤昭『闇の男――野坂参三の百年』文藝春秋社、1993
旧ソ連KGB秘密ファイル第28598号

 箱守 平造(はこもり へいぞう、『闇の男』『モスクワ』『KGB』 『特高』『小田』)

 別名セヌ・ステパン・ボリソビチ。改造とする史料もあるが、1997年12月の加藤の調査でクートベ入学申請用自筆履歴書(1933年 1月20日)がみつかり「平造」と確定、別名後藤関。1891年11月21日生まれ、茨城県 真壁群河内村大字関舘農民箱守喜三郎の次男で日本人粛清犠牲者。1915年南米ペルー に移住、チリ、アルゼンチン、メキシコを経て1917年アメリカに移民労働者として入 国、西海岸の労働運動に参加、25年羅府日本人労働者協会に入会、27年無産者新聞支 局設立、28年5月アメリカ共産党入党、日本語部ビューローで活躍、32年1月のロン グビーチ事件でアメリカから国外追放になり、日本に帰ると逮捕されことをおそれ て、33年1月ソ連に入国、クートベに学び、モスクワのナリマノフ東洋大学で日本語 講師となる。38年3月22日、山本懸蔵や国崎定洞とつながる「日本のスパイ」の容疑 で逮捕され、同年5月29日銃殺された。逮捕時の住所はモスクワ市アレクセイエフ学 生村7番4号棟19号。1989年10月2日名誉回復。

(参考文献)

小林峻一・加藤昭『闇の男――野坂参三の百年』文藝春秋社、1993
旧ソ連KGB秘密ファイル第24890号。

 福永 與平(ふくなが よへい、『闇の男』『モスクワ』『KGB』 『特高』『小田』)

 別名麦人、イエン・ボリス・アンドレイビチ。1893年生まれ、大分県南海郡米 水津村出身の日本人粛清犠牲者。アメリカに移民労働者として渡航し、西海岸の労働 運動に参加、32年1月のロングビーチ事件でアメリカから国外追放になり、日本に帰 ると逮捕されことをおそれて、33年1月ソ連に入国、クートベで学んだ後、モスクワ のナリマノフ東洋大学で日本語講師となる。38年3月22日、山本懸蔵や国崎定洞とつ ながる「日本のスパイ」の容疑で逮捕され、同年5月29日銃殺された。逮捕時の住所 は、モスクワ市アレクセイエフ学生村4番6号棟34号。

(参考文献)

小林峻一・加藤昭『闇の男――野坂参三の百年』文藝春秋社、1993
旧ソ連KGB秘密ファイル第24945号。

 吉岡 仁作(よしおか じんさく、『闇の男』『モスクワ』『KGB』 『特高』『小田』)

 別名キム・グレゴリー・ステパノビチ。藤井一行教授は「山下尚」が本名と解 読している。1897年生まれ、北海道小樽出身の日本人粛清犠牲者。アメリカに移民労 働者として25年に渡航し、西海岸の労働運動に参加、28年アメリカ共産党入党、32年 1月のロングビーチ事件で逮捕されてアメリカから国外追放になり、日本に帰ると逮 捕されことをおそれて、33年1月ソ連に入国、クートベで学び、モスクワのナリマノ フ東洋大学で日本語講師となる。38年3月22日、山本懸蔵や国崎定洞とつながる「日 本のスパイ」の容疑で逮捕され、同年5月29日銃殺された。3月23日に野坂参三の命令 でスパイとなったと供述している。1989年法的名誉回復。粛清当時、モスクワ市アレ クセイエフ学生村8番5号棟25号に住み、妻アンナ・ペトローブナ(28歳)あり。

(参考文献)

小林峻一・加藤昭『闇の男――野坂参三の百年』文藝春秋社、1993
旧ソ連KGB秘密ファイル第24953号。

 又吉  淳(またよし じゅん、『闇の男』『モスクワ』『KGB』『特高』『小 田』)

  別名ツォイ、1891沖縄出身、同上、KGB事件番号9394。


 島袋 正栄(しまぶくろ せいえい、『闇の男』『モスクワ』『KGB』 『特高』『小田』)

 別名ユク・ニコライ・ペトロービチ。1903年生まれ、沖縄名護市出身の日本人 粛清犠牲者。島正栄とする資料もある。26年アメリカに移民労働者として渡航し、 28年アメリカ共産党入党、西海岸の労働運動に参加、32年1月のロングビーチ事件で 逮捕されてアメリカから国外追放になり、日本に帰ると逮捕されことをおそれて、 33年1月ソ連に入国、クートベに学び、34年からモスクワのナリマノフ東洋大学で日 本語講師となる。38年3月22日、山本懸蔵や国崎定洞とつながる「日本のスパイ」の 容疑で逮捕され、野坂参三の命令でスパイとなったと供述、同年5月29日銃殺され た。逮捕時の住所はモスクワ市アレクセイエフ学生村8番9号棟24号。1989年9月29日 法的名誉回復。       

(参考文献)

小林峻一・加藤昭『闇の男――野坂参三の百年』文藝春秋社、1993
旧ソ連KGB秘密ファイル第24989号。

 山城 次郎(やましろ じろう、『闇の男』『モスクワ』『KGB』『特 高』『小田』)

 別名リ・アレクセイ・アレクサンドロビチ。1902年11月10日生まれ、沖縄出身 の日本人粛清犠牲者。アメリカに移民労働者として渡航し、西海岸の労働運動に参 加、32年1月のロングビーチ事件でアメリカから国外追放になり、日本に帰ると逮捕 されことをおそれて、33年1月ソ連に入国、モスクワのナリマノフ東洋大学で日本語 講師となる。38年3月22日、山本懸蔵や国崎定洞とつながる「日本のスパイ」の容疑 で逮捕され、同年5月29日銃殺された。 逮捕時の住所は、モスクワ市アレクセイエ フ学生村7番4号棟5号。  

(参考文献)

小林峻一・加藤昭『闇の男――野坂参三の百年』文藝春秋社、1993
旧ソ連KGB秘密ファイル事件番号第9387号。

 宮城與三郎(みやぎ よさぶろう、『闇の男』『モスクワ』『KGB』 『特高』『小田』)

 別名パク、1900年生まれ、沖縄出身の日本人粛清犠牲者。アメリカに移民労働 者として渡航し、西海岸の労働運動に参加、32年1月のロングビーチ事件でアメリカ から国外追放になり、日本に帰ると逮捕されことをおそれて、33年1月ソ連に入国、 クートベに学び、モスクワのナリマノフ東洋大学で日本語講師となる。38年3月 22日、山本懸蔵や国崎定洞とつながる「日本のスパイ」の容疑で逮捕され、同年5月 29日銃殺された。ゾルゲ事件の日本人被告宮城與徳の従兄。      

(参考文献)

小林峻一・加藤昭『闇の男――野坂参三の百年』文藝春秋社、1993
旧ソ連KGB秘密ファイル第26371号。
 

 健物 貞一(けんもつ さだいち、『闇の 男』『モスクワ』『KGB』『思想』『外事』『社運』『特高』『小田』))

 別名ササキ・三浦。「剣物」「剣持」「鍵物」とする史料もある。 1900年6月5日岡山県生まれ。日本の官憲資料では、本籍地岡山県都窪郡早嶋町大字 早嶋243出身。早稲田大学商学部を出て、23年7月にアメリカに渡り、24年アメリカ共 産党に入党、大西洋岸の日本人共産主義者グループのリーダーとなる。26年6月サン フランシスコ国際労働擁護会(ILD)機関紙『階級戦』を創刊し、同年『労働新 聞』と改称し編集。29年12月25日にサンフランシスコで逮捕さる。アメリカから国外 追放になり、31年12月16日ドイツ経由ソ連に出航、32年1月ソ連に入国。

 官憲資料では、モスクワのレーニン・スクールで学び、ウラジオストック付近 で汎太平洋労働組合書記局で活動とされており、ソ連側資料ではクートベ卒業、朝鮮 人女性と結婚、赤色救援会(モップル)で活動していたともいう。遺児ササキ・アレンの入手したKGB記録では、32-36年ウラジオ ストックの海員クラブで活動、36年モスクワに入りモスクワ第9印章工場で労働、 38年4月15日「日本のスパイ」として逮捕され、39年6月9日ラーゲリに送られ、 42年9月8日収容所で死亡。朝鮮人妻シェ・オク・スン(1913年生)、息子アラン (1935生)、娘ジェニー(1937年生)が残された。1989年10月2日に完全名誉回復。

 KGB記録によれば、劔持貞一の父は劔持コウタロウ(染物業) ・母チエコ(?)、兄弟にマツタロウ、姉妹に商船員の妻ワカミ・イツノ、米穀商人 の妻コテツがいた。

 なお、これまで「ササキ・サブロー?(『KGB』『外事』)旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。 KGB秘密文書「野坂竜ファイル」にも名前が出てくる。日本側官憲資料では、別名 ハナイ、ムンヘンシャン、1937年当時39歳位、長崎県出身で、33年にクートベ入学。 30年にウラジオストックから入ソした海員クラブ指導者ともいう」としてきたもの が、健物貞一の変名と判明した。

(参考文献)

『思想月報』第33号(昭和12年3月)

(参考文献) 

小林峻一・加藤昭『闇の男――野坂参三の百年』文藝春秋社、1993
『思想月報』33号、昭和12年3月ササキ、1900岡山出身、1938・11・26以前逮 捕、以後不明、外事・思想でミウラ、39歳位、ウラジオ、アメリカから32入ソ、ほか。

 永井 二一(ながい にいち、『闇の男』『モスクワ』『特高』『伊藤利 三郎調書』)

 別名ヤクーシン・クィフ、1907年4月10日生まれ、新潟県三嶋郡大積村大字三嶋 谷494(現長岡市)出身の電気工。25年長岡工業高校卒業後、日本石油黒川鉱業発電 所に勤務、30年突然解雇され、31年北樺太石油開発に入社しオハの油田に赴任、石油 鉱業労働組合(プロムコム)に入り、活動家となる。32年夏オハのソ連共産党日本人 指導者須藤政尾らにより、小石濱蔵。伊藤利三郎、新宮領一正と共にモスクワに派遣 される。32年10月、クートベに入学、36年3月卒業、そのままクートベ日本部事務員 となる。

 37年末ー38年、小石濱蔵、寺島儀蔵らとともにモスクワ近郊の別荘でソ連の対 日工作員教育を受けたが、38年10月16日、小石と共に「日本のスパイ」として突然逮 捕、8年の強制労働刑を受けた。46年10月15日釈放、94年現在ロシア連邦コミ共和国 でさびしく死亡。

(参考文献) 

小林峻一・加藤昭『闇の男――野坂参三の百年』文藝春秋社、1993
「伊藤利三郎調書」司法省刑事局『コミンテルン対日謀略の一断面』昭和 17年7月
『思想月報』33号、昭和12年3月
『外事警察概況』昭和12年

 小石 濱蔵(こいし はまぞう、『闇の男』『モスクワ』『特高』『伊藤 利三郎調書』)

 旧ソ連での別名は「ワン・ピン」。スターリン時代に無実の罪で粛清された日 本人犠牲者の一人。同じく犠牲者である須藤政尾の部下、永井二一の仲間、寺島儀蔵 とも一時一緒。

 日本側の官憲資料である内務省警保局「昭和六年中に於ける外事警察概要、露 国関係」(極秘、第六十議会参考資料、『特高警察関係資料集成』第16巻、1992、所 収)415頁によると、「明治40(1907)年10月25日生まれ」。北海道函館出身。本籍 地は「北海道亀田郡銭亀村大字石崎村」(別の記録では「谷地町30」)出身。大正三 年四月公立石崎小学校に入学、大正八年三月卒業後、家事に従事。内務省警保局「極 秘 外事警察概況、第3巻、昭和12年」の「在露中の日本人共産主義者一覧表」によ ると「五尺二寸、丸顔」。妹沢田うたさんの話によると、沢田さんの実父母の妹の子 であるがA養子になり長男として入籍。ご遺族はみな函館近辺で健在。小さい頃から よく本を読んで勉強していた。

 「外事警察概況・昭和12年」によると、「北樺太石油会社オハ鉱業所カタンゴ リー支所に電工として勤務、昭和7年9月入露、クートベ[東洋勤労者共産主義大学] に入学、コミンテルンの信用厚く卒業後北樺太ないし日本に派遣さるる模様」とあ る。しかし、実際にはそのままモスクワに留まり、友人永井二一と共に「日本のスパ イ」として逮捕された。他の警察記録などをも照合すると、1931年には樺太のサガレ ンから入ソし、北樺太石油オハ鉱業所で発動汽船運転手(他の資料では雑役夫・電気 工もあり)として出稼ぎ中、石油鉱業労働組合(プロムコム)に加盟し、活動家とな る(沢田さんの25歳位で入ソしオハにいたという話と一致)。1932年夏、オハのソ連 共産党日本人指導者須藤政尾(息子のミノルはモスクワに生存、電話モスクワ 113ー37ー87)らによって、永井二一(後に1938年10月一緒に逮捕され、1946年まで強 制収容所、1994年10月7日、ロシア・コミ共和国で死亡)、伊藤利三郎(1935年末帰 国、41年日本で逮捕、以後不明)、新宮領一正(34年帰国、日本で逮捕、以後不明) と共に、4人でモスクワに派遣された(永井二一の回想、小林峻一・加藤昭『闇の男 ――野坂参三の百年』文藝春秋社、1993年、第2章)。1932年10月、山本懸蔵・野坂 参三らと面接の上、クートベに入学、36年3月に卒業した模様(永井・伊藤の他、野 坂参三夫人竜、山本懸蔵夫人関マツらはクートベの同級生、クートベでの様子は「伊 藤利三郎調書」司法省刑事局『コミンテルン対日謀略の一断面』昭和17年7月87頁以 下、高谷覚蔵『レーニン、スターリン、マレンコフ』磯部書房1953、59頁)。

 1937年末ー38年、永井二一、寺島儀蔵らとともに、モスクワ近郊の別荘で、ソ 連の対日工作員教育を受けた。ただしその時寺島は、小石の名前も同じ北海道出身で あることも知らなかった(寺島儀蔵の回想、『長い旅の記録』日本経済新聞社、 1993、85頁)。寺島は、38年2月に逮捕されて20年の強制収容所生活を送ったが、現 在もロシアに健在。1938年、永井二一と共に、小石濱蔵は「日本のスパイ」として突 然逮捕された。永井は強制労働8年で戦後釈放されて1994年までロシアのコミ共和国 で生存。小石は、逮捕直後には死刑執行された。永井は、小石と一緒に逮捕されて 「その後五四年間再び会っていません」と証言している(『闇の男』97頁)。ただし その逮捕時期を、永井は1938年10月16日としているが、ロシアの粛清犠牲者救援組織 「メモリアル」の調査によると、1938年3月22日に旧ソ連最高裁判所軍事法廷で死刑 を宣告され、同日中に銃殺を執行、モスクワ郊外ブートヴォに埋葬された。小石は、 1991年10月18日に「名誉回復」された。

 正規の名誉回復文書は、遺族の名で北海道新聞モスクワ支局が国家保安局(旧 KGB)に請求し、1995年4月中旬に入手できた。それによると、小石は1937年11月 8日に逮捕され、翌38年3月22日に銃殺されていた。37年12月8日付けの供述書が残さ れており、そこでは、1.東京警視庁勤務の叔母の夫に1928年に頼まれて日本共産党 に入党しスパイ活動を行ったこと、2.その叔父にソ連潜行を指令され、日本共産党 中央の許可を得て30年7月に北樺太石油に就職した、3.32年に北樺太石油の労働組 合活動家として他の3人(伊藤・永井・新宮)と共に9月にモスクワに出発し10月 にクートベに入学したこと、4.35年には自分から日本大使館員に連絡をつけクート ベ学生・教師の氏名・帰国時期等を知らせた、などと「スパイ」活動を供述した。お そらく拷問によるものであろうが、この自白供述は、「アメ亡組」日本人逮捕等にも 用いられた可能性がある。

 37年末ー38年、永井二一、寺島儀蔵らとともにモスクワ近郊の別荘でソ連の対 日工作員教育を受けたが、38年10月16日、永井二一と共に「日本のスパイ」として突 然逮捕され、以後行方不明、粛清の犠牲となったとみられてきた。1998年6月モスクワ・サハロフ人権センターのデータベースから は、1937年11月8日逮捕(山本懸蔵逮捕の直後)、38年3月22日スパイ罪で銃殺、 1991年名誉回復、という新事実が再確認された。 

2013年「メモリアル」原簿コイシ(ワン・ピング)・ハマゾー =小石濱蔵
1907年生まれ/モスクワ居住/民族・植民地問題に関する学術研究協会の学生/1937年11月8日逮捕/スパイ/1938年3月22日判決/1938年3月22日銃殺(モスクワ)/1992年名誉回復
       

参考文献:小林峻一・加藤昭『闇の男――野坂参三の百年』文藝春秋社、1993
     加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』青木書店、1994
     加藤哲郎『国民国家のエルゴロジー』平凡社、1994
     寺島儀蔵『長い旅の記録』日本経済新聞社、1993
    「伊藤利三郎調書」司法省刑事局『コミンテルン対日謀略の一断 面』昭和17年7月
    『思想月報』33号、昭和12年3月
    『外事警察概況』昭和12年
    『社会運動の状況 昭和10年 共産主義運動』
    『特高警察関係資料集成』第16・17巻、不二出版、1992
 

 関 マツ(せき まつ、『闇の男』『モスクワ』『思想』『外事』『社運』)

 別名アンドー・ユキ、山本懸蔵の妻で旧ソ連粛清犠牲者の一人。1897年6月、神 奈川県横浜市中区石川仲町2ー2出身。15歳から16歳まで横浜のビール工場に働いた 後、ウラジオストックに渡り、売春宿風の日本料理店で働く。22年にソ連に密入国し てきた日本の労働運動指導者山本懸蔵と知合い、24年6月、一緒に日本に帰国。夫を 助けて労働運動を援助、28年5月、3・15事件で検挙を逃れた山本懸蔵のソ連逃亡を助 け、同年8月、日本共産党に入党、モップル(日本赤色救援会)の活動に加わる。

 1931年4月、夫山本懸蔵の看病のため、日本共産党の指令でソ連に入国、そのさ いカモフラージュのため岩田義道の娘みさごを一緒に連れていった。ウラジオストッ クで山本懸蔵の活動を助け、31年末モスクワに移り、32年10月から34年までクートベ 日本部で学ぶ。

 クートベ卒業後、34ー36年、コミンテルンの対外活動のための秘密機関オムス (OMS)に関わる。37年11月の夫山本懸蔵の「日本人のスパイ」としての逮捕後、 関マツはなぜか逮捕も尋問もされなかった。38年8月にアメリカから野坂参三がソ連 に帰国して後、22ー23年のウラジオストック滞在時代の経歴詐称などについて野坂参 三が告発し、同年11月にコミンテルン国際統制委員会の査問を受け、同年12月31日、 「党員としての慎重さの欠如」「国際統制委員会に対する虚偽の陳述」の理由で日本 共産党を除名された。しかしそれでも逮捕されず、モスクワ郊外の工場で労働、 41年、コミンテルン本部のウファ移転にあたって、コミンテルン本部の掃除婦として 職を得る。44年にスパイ罪と窃盗罪(コミンテルン本部のソバ粉13kgを盗んだ疑い) でソ連秘密警察に逮捕され、49年まで5年間強制収容所で働く。出所後クラスノヤル スキで56年7月7日に法的名誉回復(山本懸蔵も同年5月23日名誉回復)、58年にはモ スクワに出て、68年8月17日に死亡した。58年以降、山本懸蔵の日本での名誉回復と 自分自身の日本への帰国を求め、モスクワに来た日本共産党代表野坂参三や袴田里見 ・志賀義雄らと接触、しかし野坂参三は関マツの帰国を妨害したうえ、山本懸蔵の死 因・死亡年を偽り続けた。

 こうした山本懸蔵・関マツの粛清期の秘密は、91年の旧ソ連崩壊とソ連共産党 秘密文書の公開で初めて明らかになり、野坂参三は、同志山本懸蔵のみならずその妻 関マツをもソ連側に売り渡したとして非難され、92年末、日本共産党を除名された。 日本共産党は、野坂参三除名の見返りとして、山本懸蔵のみならず関マツをも『日本 共産党の七十年』で顕彰し、関マツの遺骨を93年には日本共産党常任活動家の墓に入 れた。しかし、その後に山本懸蔵の告発・密告による日本人犠牲者の存在が明らかに なり、関マツ自身のオムス関係者としての経歴も明るみに出た。

(参考文献)

小林峻一・加藤昭著『闇の男――野坂参三の百年』文藝春秋社、1993
加藤哲郎著『モスクワで粛清された日本人』青木書店、1994
加藤哲郎『国民国家のエルゴロジー』平凡社、1994
 

2 資料・証言で逮捕・粛清の可能性濃厚=約20名


 「土方与志の知人だったレニングラード劇場の舞台監督服部氏」(『モス クワ』『社運』)1937年当時、旧ソ連で演出家土方与志の知人であったレニングラー ド劇場の舞台監督で、当時の官憲資料によると、「ハルピン日露協会出身、チタ領事 館に勤めたることあり。レニングラード小劇場舞台監督、一九三七年九月頃、日本ス パイの嫌疑にて逮捕」とされており、日本人粛清犠牲者の一人であった可能性が高 い。『土方梅子自伝』。

 パントシ・シマダ 

 日本からロシアに渡ったサーカス芸人で、旧ソ連で粛清犠牲者となった日本 人。革命前の1912年にロシアに興業に出かけ好評を博した「ヤマダ・サーカス」の棒 芸人で、17年のロシア革命後もソ連に残り、ロシア人女性と結婚してサーカスの人気 者となった。

 アンドレイ、ウラジミール、ベラという名の子供を残したが、37年、日本人で あるという理由だけで突如「スパイ」として逮捕され粛清された。アンドレイ、ウラ ジミールの兄弟は、父の遺志を継いで旧ソ連でバランス芸のスターになった。 その後、釜山出身の朝鮮人であったこと、「1941年8月6日に逮捕され、42年8月19日に自由剥奪刑8年の自由剥奪刑、58年7月3日名誉回復」との記録がでてきた。

(参考文献)大島幹雄『海を渡ったサーカス芸人』平凡社、1992 加藤哲郎『国民国家のエルゴロジー』平凡社、1994 大島幹雄『明治のサーカス芸人はなぜロシアに消えたか』祥伝社、2013


 氏名不詳  

 アイノ・クーシネンは、ツンドラのヴォルクタ・ヴォムの強制収容所で、一人 の日本人共産主義者と会ったと証言している。「一九四二年秋のある日、……看? コが一人の男をひきずり出したが、それは、明らかに日本人で、まだびしょ濡れの服 を着けたままだった。男は立ち上がろうとするのだが、立ち上がれず、明らかに重病 のようだった。……彼は弱々しい声で、日本人特有の微笑を浮かべながら、わたしの 質問に答えてくれた。彼は名前を名のり、自分は日本共産党がモスクワに派遣した代 表団長であって、コミンテルンの執行委員会のメンバーをつとめていたと言った。翌 日、わたしは彼が病院で亡くなったことを聞いた」(『革命の堕天使たち』二四一頁 以下)。


 森田 政美(もりた まさみ、KGBファイル33569)

 旧ソ連で粛清の犠牲になった日本人。旧ソ連KGB秘密ファイル第33569号によ ると、1938年に粛清されている。供述書においては、野坂参三・山本懸蔵との関係を 尋問されている。


 サジモ・トラオ(KGB9500)

旧ソ連で粛清の犠牲になった日本人。旧ソ連KGB秘密ファイル第9500号による と、北海道出身で1937年に粛清されている。供述書からは、日本人ではなく、朝鮮人 とも考えられる。


 土橋サダオ(どばし さだお、KGB5842)

 旧ソ連で粛清の犠牲になった日本人。旧ソ連KGB秘密ファイル第5842号によ ると、1942年に国境侵犯の罪で逮捕され、粛清されている。


 成沢 又市(なりさわ またいち、KGB843964)

 旧ソ連で粛清の犠牲になった日本人。旧ソ連KGB秘密ファイル第843964号に よると、1939年に国境侵犯の罪で逮捕され、粛清されている。


 サイトー・ペトローヴァ(『苦悩と記憶』1990)

旧ソ連で粛清の犠牲になった日本人?。A・M・パシコフ著『苦悩と記憶』ユジ ノ・サハリンスク、1990に掲載された、サハリンでの2245名の粛清犠牲者リスト中に その名がある。1912年生まれ、38年4月21日銃殺。須藤政尾の友人の「サイトー」こ と塚田静夫のロシア人妻の可能性もある。


 クボタ・パブロビチ(『苦悩と記憶』1990)

 旧ソ連で粛清の犠牲になった日本人。A・M・パシコフ著『苦悩と記憶』ユジ ノ・サハリンスク、1990に掲載された、サハリンでの2245名の粛清犠牲者リスト中に その名がある。1908年生まれ、38年3月13日銃殺。


 ナカ・カイチロー(『ソ党中央委通報』90・11)『ソ連共産党中央委員会通 報』1990年11月号の銃殺者リストによると、1913年生まれで、41年に粛清された日本 人犠牲者。
 オクザワ・ステパノーヴァ(『ソ党中央委通報』90・11)

 『ソ連共産党中央委員会通報』1990年11月号の銃殺者リストにある。1888年生 まれで、41年に粛清されているが、日本人奥沢のロシア人妻である可能性とともに、 「オクザワ」はロシア名でもありうるので、日本人ではない可能性もある。  


 山本 一正(やまもと かずまさ、『闇の男』『モスクワ』『思想』『外 事』『社運』『特高』『伊藤利三郎調書』『特高』『小田』)

 1935年当時、クートベを卒業してモスクワのナリマノフ東洋大学におり、粛清 の犠牲となった可能性が高い。別名ホミン。日本側警察資料では、1910年3月15日生 まれで、別名タンホー。岡山県児島郡赤崎村赤崎535出身。32年7月北樺太石油に出稼 ぎに行き、塚田静夫の勧めで共産青年同盟加盟。旧ソ連KGB秘密文書「ユクこと島 袋正栄ファイル」中に、山本逮捕の記述がある。

(参考文献)

小林峻一・加藤昭著『闇の男――野坂参三の百年』文藝春秋社、1993


 永浜 さよ(ながはま さよ、『闇の男』『モスクワ』『特高』『小 田』)ナム、

 ソ連で粛清された日本人犠牲者?。別名ナム。鹿児島出身。アメリカからソ連 に渡り、1935年当時、ナリマノフ東洋大学所属。旧ソ連KGB秘密文書「ユク=島袋 ファイル」中に、ナム逮捕の記述があるが、鹿児島の遺族の要請を受けての藤井一行教授のその後の調べでは、 1938年頃、レニングラードで逮捕直前に自殺

(参考文献)

小林峻一・加藤昭著『闇の男――野坂参三の百年』文藝春秋社、1993


 永浜 丸也(ながはま まるや、『闇の男』『モスクワ』『特高』『小 田』)フヴァン、同上ナムの夫。

 ソ連で粛清された日本人。別名フヴァン。アメリカ経由ソ連に入り、1935年当 時ナリマノフ東洋大学所属。ナム=永浜さよの前夫(モスクワで離婚)で行方不明な ので、たぶん同じ頃に逮捕され、粛清されたと思われる日本人犠牲者。

(参考文献)

小林峻一・加藤昭著『闇の男――野坂参三の百年』文藝春秋社、1993


 イチカワ・キンジュ 1998年6月サハロフ博士記念人権センターのデータベースから新た に判明した日本人犠牲者。

 19P6年生まれ、本州(日本)アベ郡ウマガシミ村出身、農民、日本人、中 等教育、少佐、ハルビン軍事使節団付属「特殊部隊」教育・後方撹乱グループの長、 ハルビン、マカイノイ第8号棟居住。1945年10月7日逮捕。1947年2月1 5日、スパイ活動で銃殺判決。同年3月4日執行。1991年10月18日の「政治 的弾圧犠牲者名誉回復法」で名誉回復。埋葬地 ドンスコエ墓地、墓第3号。


 カニエ・ハジメ 1998年6月サハロフ博士記念人権センターのデータベースから新た に判明した日本人犠牲者。 1908年生まれ、シゴ(日本)県オーツ市出 身、軍人家系出身、日本人、非党員、高等教育、サハリン軍事使節団長、陸軍少佐、 サハリン島トヨハラ市居住。1945年9月16日逮捕、1947年2月15日、ス パイ活動で銃殺宣告、同年3月4日執行。1991年10月18日の法律と、199 3年3月11日のロシア検察庁の決定で名誉回復。埋葬地 ドンスコエ墓地、墓第3号。

(2007.1.1)木村洋氏のご教示で、終戦時陸軍第5方面軍特 種情報部樺太支部, 蟹江 元少佐, 陸軍士官学校40期と判明した。


 カサイ・タロ 1998年6月サハロフ博士記念人権センターのデータベースから新た に判明した日本人犠牲者。1903年生まれ、東京市出身、日本人、中等教 育、ツジャムシン(満州)軍事使節団長、陸軍中佐、住所不定。1945年9月4日 逮捕。1947年3月5日スパイ活動で銃殺刑宣告、1947年4月9日執行。19 90年8月13日の大統領令などで名誉回復。埋葬地 ドンスコエ墓地、墓第3号。

(2007.1.1) 終戦時 関東軍直轄関東軍情報 部チャムス支部、河西太郎中佐(陸士39期)と思われる。


 フクダ・ヤサブロー  1998年6月サハロフ博士記念人権センターのデータベースから新た に判明した日本人犠牲者。別名、タニャカ・ヒフリ(ヒフミ)、1892生 まれ、ナラ市(日本)、商家出身、非党員、中等教育、職業不明、住所不定。192 7年に逮捕。1927年9月12日、反革命プロパガンダで銃殺宣告、同年10月2 8日執行。1991年の法律により、1993年7月26日の沿海地方裁判所の決定 で名誉回復。埋葬地 ヴァガニコフスコエ墓地

3 36ー38年在ソ連が確認され、以後行方不明=2名


 堀内 鉄治(ほりうち てつじ、『闇の男』『モスクワ』『外事』『社 運』『小田』『伊藤利三郎調書』)

ソ連で粛清された可能性が高い日本人。別名シミズ、シンミン。堀内は、1937年 に、山本懸蔵の妻関マツに「コン=国崎定洞は大物スパイだったと教え」た人物であ る。大分県西国東郡上真国村出身、アメリカ共産党で活動し、32年8月に入ソしたク ートベ卒業生。37年レニングラード東洋学院で日本語講師であったという情報、40年 に外国労働者出版所勤務の記録もあるが、以後の行方は不明である。

(参考文献)

小林峻一・加藤昭著『闇の男――野坂参三の百年』文藝春秋社、1993
『外事警察概況 昭和十二年』

 泉  政美(いずみ まさみ、『闇の男』『伊藤利三郎調書』『特高』)

 ソ連で粛清された可能性の高い日本人。別名タンホ。1935年当時外国労働者出 版所勤務。日本側外事警察資料では、別名オーメン。1908年11月3日生まれ、秋田県 平鹿郡醍醐村大字上樋口字石塔88出身、戸主寅吉の弟。夕張炭坑に勤務後、33年9月 に北樺太から入ソ、労働運動に加わり、クートベにも一時在籍したとされる。

(参考文献)小林峻一・加藤昭著『闇の男――野坂参三の百年』文藝春秋社、1993  『思想月報』第33号(昭和12年3月) 


4 ソ連側資料で(も)当時在ソ連が推定され、行方不明=約10名


 中村善太郎(なかむら ぜんたろう、『須藤自伝』『特高』『外事』『社 運』『思想』)

 須藤政尾の友人で、旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。別名福田時雄。 日本側官憲資料では、新潟県北蒲原郡字本田14出身、北海道育ち。1937年当時42歳 位。旧ソ連KGB秘密文書「須藤政尾ファイル」や日本側官憲資料外事警察概況昭 12、社運昭10、思想月報昭12・3では、海員クラブ指導者、27年入ソし、須藤政尾と知 り合い、カムチャッカ方面で共に活動。入ソ前は、札幌で労農党活動を行っていた。 第二次大戦中、野坂参三が中国延安で組織した日本反戦同盟のメンバーのなかに、 「中村善太郎」の名があるが(『赤旗』71年9月6日、71年当時日本共産党東京都委員 会勤務員)同一人物かどうかは不明。

(参考文献)『思想月報』第33号(昭和12年3月)


 柚木 勢吉(ゆずき せいきち、『須藤自伝』『特高』『外事』『社運』 『思想』)

 須藤政尾の友人で、旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。別名明石辰雄、 1900年7月18日生まれ、栃木県足利郡久野村瑞穂野4506に家族を残していた。粛清当 時39歳位。

 27年に北海道経由で入ソし北樺太石油勤務、28年にはウラジオストックで活 動、鉱山組合では須藤政尾と30ー32年に共に活動。ソ連共産党にも入党。妻よつ、長 男伝三、二女フサエ、三女ミツを栃木に残していた。

(参考文献)『思想月報』第33号(昭和12年3月) 『社会運動の状況 昭和十年』


 サイトーら4人(『須藤自伝』)須藤のモスクワでの友人で逮捕?→塚田 =サイトー、中村、柚木、平松の可能性あり?

 アイダ(『須藤自伝』)= 「恩田茂三郎」と同一人物である可能性あり 「アジア歴史資料センター資料

 須藤政尾の友人で、旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。旧ソ連KGB秘 密文書「須藤政尾ファイル」中の「須藤政尾自伝」によると、別名ノダ、1928年にウ ラジオストックにいたという。


 橋本徳太郎(はしもと とくたろう、『須藤自伝』『思想』『特高』)

 須藤政尾の友人で、旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。日本側官憲資料 では、1903年7月4日生まれ、北海道函館市台町58、徳右衛門長男。26年ソ連入国、 28年、オハからウラジオストックへ移って活動。ロシア人妻がいた漁船機関士。

(参考文献)『思想月報』第33号(昭和12年3月)


 スギモト(『須藤自伝』)

 須藤政尾の友人で、旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。旧ソ連KGB秘 密文書の「須藤政尾自伝」によると、1925ー32年に「サハリンに残った日本人会」会 長をつとめていた。


 テラヌマ(『須藤自伝』)

 須藤政尾の友人で、旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。旧ソ連KGB秘 密文書「須藤政尾自伝」によると、「サハリンに残った日本人会」会長スギモト某の 娘婿で、1932年、ウラジオストックの秘密警察GPUは、須藤に対してテラヌマのソ 連に対する態度を尋問している。


 塚田 静夫(つかだ しずお、『外事』『社運』)

 旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。日本側官憲資料では別名サイトー、 1937年当時39歳位、宮城県出身。25年頃カムチャッカから入ソ、夕張炭坑出身、北樺 太で鉱山労働組合(プロムコム)委員。28年頃、ウラジオストックで漁業労働組合の 活動。これがもし、須藤政尾の友人「サイトー」と同一人物だとすると、1937年4月 の須藤逮捕後、粛清された可能性が高い。

(参考文献)『思想月報』第33号(昭和12年3月)『外事警察概況 昭和十二年』 


5 日本側資料で当時在ソ連が推定され、行方不明=20名以上


 山口栄之助(やまぐち えいのすけ、『思想』『外事』『社運』『小田』 『特高』『伊藤利三郎調書』)

 『思想』では、朝鮮人、パウレー、30歳位、クートベ卒、レニングラード在、32ア メリカから入ソ。


 西村 銘吉(にしむら めいきち、『外事』『社運』『思想』『小田』 『伊藤利三郎』)

 旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。日本側官憲資料では別名ハンミヤ、 当時39歳位、高知県高岡郡多ノ郷村大字多ノ郷1883出身。1919年3月渡米、24年アメ リカ共産党入党、30年10月サンフランシスコで逮捕され、32年6月に小林勇とともに アメリカから入ソし、37年当時はレニングラードに在住して東洋大学講師。

(参考文献)

『昭和六年中に於ける外事警察概要』
『思想月報』第33号(昭和12年3月)

 大沢 春三(おおさわ しゅんぞう、『外事』『社運』『思想』『特高』) 

旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。日本側官憲資料では、クートベ出身、 別名イシダ、1937年当時34歳位、岩手県生まれで本籍は北海道虻田郡倶知安町基線西 38。27年9月にカムチャッカから入ソし、29年頃ウラジオストックの漁業労働組合、 国際海員クラブで活動、29年にクートベ入学、31年に卒業後は、ウラジオストックの 海員クラブに派遣されたという。

(参考文献)

『思想月報』第33号(昭和12年3月)

 平松 仁行(ひらまつ じんこう?、『外事』『社運』『思想』『特 高』)

 旧ソ連で粛清された可能性のある日本人B日本側官憲資料では、別名カント ー、オカモト。1937年当時30歳位、北海道空知郡芦別村大字御料地の国治の次男。 27年カムチャッカから入ソした船員で、中村善太郎と一緒にウラジオストックの国際 海員クラブで活動していた。

(参考文献)『昭和六年中に於ける外事警察概要』『思想月報』第33号(昭和12年3月)


 川崎  實(かわさき みのる、『外事』『社運』『思想』『特高』)

 旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。日本側官憲資料では、1937年当時、 39歳位、島根県出身。シベリア出兵で樺太に渡り、27年、ウラジオストックの共産青 年同盟・食品労働組合・海員クラブで活動、29年頃にロシア人妻とともにトルキスタ ンに追放されたという。

(参考文献)『思想月報』第33号(昭和12年3月)


 徹  武彦(てつ たけひこ、『外事』『社運』)

 旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。日本側官憲資料では、別名ヤマグチ ともいう。1937年当時27歳位、鹿児島県大島郡早町村大字白水554、武原の養子。 32年に入ソし海員クラブで活動していたもと第5吉田丸船員。1999年8月、息子さんと連絡がつきましたが、旧ソ連での消息は依 然不明。

(参考文献)『思想月報』第33号(昭和12年3月)、『外事警察の概況 昭和十年』


 カワイ 某(『思想』)

 旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。日本側官憲資料では、カワイという のは偽名の可能性あり。1937年当時39歳位、佐賀県出身。27年に入ソした元阪神電鉄 車掌、28年秋、ウラジオストックで漁業労働組合の活動。

(参考文献)『思想月報』第33号(昭和12年3月)


 間  幸義(はざま ゆきよし、『社運』『思想』)

 旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。日本側官憲資料では、別名ヤマダ、 新潟県出身、1937年当時25歳位。28年に入ソ、北樺太石油からウラジオストックの労 働組合学校に入学、漁業労働組合で活動した船員。

(参考文献)『思想月報』第33号(昭和12年3月)


 谷口鑛次郎(たにぐち こうじろう、『思想』『特高』)

 旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。日本側官憲資料では、1923年10月に 入ソした海員、別名ヒデ、ナカムラ。クートベ卒業後ソ連共産党に入党、汎太平洋労 働組合の日本人部責任者であったともいう。28年1月、間庭末吉・高谷覚蔵らと共に 在ウラジオストック日本革命的労働者団を組織したリーダー。愛知県史研究家の佐藤明夫さんよりの情報では、1921年の愛知時計 工場争議の指導者で名古屋労働者協会組織者、22年上京 して関東機械工組合を組織、共青創立に加わり日本共産党入党、24年よりクートヴェ に学ぶ。27年よりウラジオストック方面で船員・漁民の組織化。日本国民救援会の 『解放のいしずえ』(1956年)中には30年12月モスクワの結核療養所で死亡とされて いる。      

(参考文献)『昭和六年中に於ける外事警察概要』『思想月報』第33号(昭和12年3月)


 菊池 熊吉(きくち くまきち、『思想』『特高』)

 旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。日本側官憲資料では、北海道函館市 鶴岡町35、周吉の四男。1925年入ソした漁夫で、ロシア人女性と結婚。食品労働組合 で活動、通訳として働いていた。

(参考文献)『思想月報』第33号(昭和12年3月)


 吉岡 貫治(よしおか かんじ、『思想』)

 旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。日本側官憲資料では、北海道札幌郡 札幌村出身、1927年に入ソし、塚田静夫の指導下で活動した漁夫。

(参考文献)『思想月報』第33号(昭和12年3月)


 張間 石蔵(はりま いしぞう、『思想』)

旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。日本側官憲資料では、1927年に入ソし た漁夫。

(参考文献)『思想月報』第33号(昭和12年3月)


 下田 稲男(しもだ いなお『思想』)

 旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。日本側官憲資料では、1928年に入ソ し、食品組合で活動。

(参考文献)『思想月報』第33号(昭和12年3月)


 阿部 喜蔵(あべ きぞう、『思想』)

旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。日本側官憲送ソでは、1931年頃に入ソ。

(参考文献)『思想月報』第33号(昭和12年3月) 


 花咲 時雄(はなさきときお、『思想』)

旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。日本側官憲資料では、1931年入ソ。

(参考文献)『思想月報』第33号(昭和12年3月) 


 寺田 一夫(てらだ かずお『思想』)

1928ごろカムチャッカ→『特高』にでてくる高谷覚三の別名か?


 矢野 健次(やの けんじ『思想』)

旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。日本側官憲資料では、名前以外不詳。

(参考文献)『思想月報』第33号(昭和12年3月)


 タニ・ノボル(『小田』)

 旧ソ連で粛清された可能性のある日本人。日系アメリカ人ジェームズ小田の研 究によると、アメリカ西海岸の日本人共産主義運動に加わっていたが、1933年6月 4日、アメリカから入ソし、そのまま行方不明。

(参考文献)James Oda, Secret Embedded in Magic Cable, USA 1993


 タイラ・レンジ(『小田』)1933・7・29アメリカから入ソ。


以下、『思想月報』で姓のみ出ており、当時在ソ連の可能性のあるも の=藤岡某(大15入ソ)、柏木某(1930入ソ)、村田某(1930入ソ、海員)、森某、 片岡某、花井某、鶴岡某、鈴木某、石田某、鈴木某、山内某、高橋某、志田某、中川 某、野村某、川合某、井上某、松田某

6 大粛清期前後の日本人犠牲者?


 細木 榛三(さいき しんぞう、『闇の男』『モスクワ』『思想』)

 旧ソ連で活動した日本人共産主義者で、ソ連での別名はカワタ。1921年頃、田 中松次郎・間庭末吉らと海員刷新会を組織、25年5月、日本共産党からクートベに派 遣され、クートベ卒業後、ソ連共産党党員候補、プロフィンテルンのウラジオストッ ク派遣員として海員の組織活動に従事、山本懸蔵の指導のもと、日本人共産主義者の 密出入国を助けた。

 30年夏のプロフィンテルン第5回大会日本代表団の密入国を組織し、秘かに東京 まででかけた後、同年秋スパイの容疑で査問され、地方に追放された。1934年7月、 欧州経由で日本に帰国、転向した。

 旧ソ連滞在中は、山本懸蔵夫妻・野坂参三夫妻の双方と関係があり、37ー38年の 粛清当時、すでに逮捕された山本懸蔵の妻関マツは、野坂参三の告発で38年11月にコ ミンテルン国際統制委員会に査問されたさい、野坂参三夫妻と帰国・転向した細木の つながりをあげて、野坂を逆に告発しようとした。

(参考文献)

アジア歴史資料センター資料
加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』青木書店、1994
『思想月報』第33号(昭和12年3月)

 丘  文夫(おか ふみお、『モスクワ』『特高』)

 旧ソ連に滞在した日本人エスペランティスト・文学者で、粛清された可能性が ある日本人。日本側官憲資料によると、岡山県出身、早稲田大学政治経済学部卒、 26年に野坂参三の産業労働調査所からソ連に派遣され、ソ連共産党に入党、モップル 宣伝扇動部員という。

 1930年頃にはレニングラードに住んでおり、日本の『戦旗』や『文藝戦線』に 投稿しながら、文学を学んでいた。日本語のロシア語への翻訳では、モスクワの片山 潜や勝野金政を手伝っていたため、山本懸蔵には恨まれていた。旧ソ連秘密文書「国 崎定洞ファイル」中の山本懸蔵の34年9月の供述では、丘は34年以前にレニングラー ドで死亡したとある。

 その後の梶重樹氏の研究では、レニングラード東洋大学アルヒー フに、以下のようにある。「1903年7月25日生まれ、25年3月早稲田大学法学部卒 業。25年6月ハルビンで自由業、26年6月満州、26年7-8月ハルビンで非合法小冊子 配布により日本官憲に逮捕される。26年10月越境モスクワへ。26年11月コミンテルン 日本支部によりトヴェリに派遣、化学労働者教導員として工場「プロレタリア」所 属。27年1月13日ソ連共産党員候補、27年11月コミンテルン日本支部によりエヌキー ゼ名称レニングラード東洋大学日本語講師に派遣。28年11月レニングラード共産主義 大学夜間部に派遣。28年当時丘と会った早大教授野崎によると、本名は田和一夫、田 和名で『改正露西亜憲法』(巌松堂、1928)出版。ネフスキー夫妻の遺児エレーナに よると、丘は1933年に結核で死亡。

[2007/11 これまで本名を「田和一男」としてきたが、エスペラント研究の読者からの情報提供 で「一夫」と判明したため、「田和一夫」と訂正。国際語研究社発行の“Esperanto en Nipponlando”1926年3月号に,同年2月15日からハルピンにおいて日露芸術協会ハル ピン支部主催の初等エスペラント講習を「田和一夫」が指導していることが報告され ており,また同誌1926年11月号では「田和一夫氏 Moskvoへ。Nekrasovo氏宅に寄寓」と近況が報告されている、とのことです]。      

(参考文献)加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』青木書店、1994 加藤哲郎『国民国家のエルゴロジー』平凡社、1994  梶重樹「レニングラード東洋大学の日本人たち」早稲田ロシア文学会『ロシ ア文化研究』4号(1997)


 マサウラ・イシヤマ   サーカス団員 40年死亡

 片山 やす(かたやま やす)

 1899年2月28日、片山潜・横塚フデの長女として東京神田三崎町に生まれる。原 たまと再婚した父片山潜の訪米で、従姉原信子のもとで育てられ、仏英和女学院(現 在の白百合学園)を卒業し、1915年にバレリーナを志して原信子とともに訪米、ロサ ンゼルスでアンナ・パブロワに師事、1917ー20年はニューヨークで父と暮らす。

 父片山潜のモスクワ・コミンテルン本部への出発の後、21年原信子と共に東京 に戻り、24年から信子とともにヨーロッパに渡り、バレリーナとなる。31年、父の重 病の知らせにイタリアからソ連に入り、モスクワで父を看病、過労による筋肉障害で バレーを断念、33年11月5日の父片山潜の死後もモスクワに留まり、日ソ友好親善に 尽くした。

 34年からナリマノフ東洋大学で日本語教師として勤務し、非共産党員ながら、 山本懸蔵、国崎定洞、野坂竜らの粛清を間近に目撃した。伊藤政之助と結婚し、すぐ に伊藤が日本共産党除名・逮捕・行方不明になったことからすると、粛清犠牲者に加 えるべきだろう。

 戦後もソ連に留まり、1956年からモスクワ大学付属アジアアフリカ諸国研究所 に勤務、58年からはソ日協会の副会長として日ソ友好・親善の橋渡し役となる。 1974年、労働赤旗勲章・民族友好勲章受賞。1988年2月15日、モスクワで88歳で死 去。

(参考文献)『前衛』1959年11月号『赤旗』1959年12月21日『片山やすさんを偲ぶ会・年譜』1994


 片山 千代(かたやま ちよ)

 1908年1月1日、片山潜と後妻原たまのあいだに、片山潜の次女として生まれ る。片山やすは、母違いの姉。1929年7月、八戸高等女学校から青山学院英文科を卒 業して、老いた父片山潜の看病のため単身ソ連に渡ったが、片山が当時コミンテルン 執行委員会幹部会員で家族がいることを届けていなかったため、クートベ入学や片山 の宿舎ルックス・ホテルでの父との同居を山本懸蔵らに拒否され、レニングラードで 工場労働。1931ー32年、父の重態でイタリアからかけつけた姉やすと共に一時片山潜 を看病したが、その後ウクライナの工場で「労働者階級」になるための重労働。33年 11月5日の片山潜の死後は、外国労働者出版所でタイピストとして働いたとも、モス クワ近郊の工場で働いていたともいわれるが、詳細は不明。日本への帰国を希望し、 入退院を繰り返す。1946年4月23日、モスクワの精神病院で死亡した。死の直前に、 姉やすに宛てて「早く迎えにきてくれ」と手紙を出していた。横須賀壽子氏が詳しく 調査中。

(参考文献)『前衛』1959年11月号『赤旗』1959年12月21日


 岩田 みさご(いわた みさご)

 岩田義道の娘、正式には雎鳩。1931年4月、山本懸蔵の妻関マツの日本共産党の 指令によるソ連渡航のさい、岩田の希望と関マツを母娘連れとカモフラージュするた め、8歳のみさごは関マツに連れられて訪ソ、以後、ほぼ同時期にソ連に入りモスク ワに住んでいた野坂参三・竜夫妻に引き渡され、野坂夫妻の養女としてモスクワで育 つ。モスクワでは革命家子弟のピオニール学校に通う。戦後に成人して帰国、日ソ学 院教師など。2000年12月5日死亡。

(参考文献)野坂参三『風雪のあゆみ』第7巻、1989


資料略称一覧


『闇の男』=小林峻一・加藤昭著『闇の男――野坂参三の百年』文藝 春秋、1993
『モスクワ』=加藤哲郎著『モスクワで粛清された日本人――30年 代共産党と国崎定洞・山本懸蔵の悲劇』青木書店、1994
『和田』=和田春樹「歴史としての野坂参三」『思想』1994・3ー5
『KGB』=フジテレビ報道局収集KGBファイル
『須藤自伝』=スドー・ミハイル・マサオヴィッチ提供1937・11・16須 藤政尾供述書
『苦悩と記憶』=A・M・パシコフ著『苦悩と記憶』ユジノ・サハリ ンスク、1990掲載のサハリンでの2245名の粛清犠牲者リスト、銃殺年月日時間つき
『通報』=『ソ連共産党中央委員会通報』1990・11掲載の1941独ソ戦の 際のメドウェーデフの森における161名の服役中囚人集団虐殺犠牲者リスト
『社運』=『社会運動の状況・昭和10年・共産主義運動』所収の 1934・9段階の「在露邦人共産主義者調」38人のリスト
『外事』=内務省警保局『極秘外事警察概況・昭和12年』所収の 1936・2段階の「在露中の日本人共産主義者一覧表」32人のリスト
『思想』=『思想月報』第33号(昭和12年3月)所収の1936・2段 階の「日本共産党関係入露者調」78人のリスト
『伊藤利三郎調書』=司法省刑事局『「コミンテルン」対日謀略の一 断面――「クウトベ」出身者伊藤利三郎の供述』昭和17年7月
『小田』James Oda, Secret Embedded in Magic Cable, USA 1993、のアメリカから1931ー33年にソ連に渡った17人の日本人共産主義者名簿
『特高』=『特高警察関係資料集成』第15ー17巻、不二出版

これらの人びとが、コミンテルン日本問題委員会報告にいう、1936年 2月現在の在ソ日本人亡命者数「34人」(『闇の男』138以下)に含まれていたか否 かは、個々には特定できない。日本人粛清犠牲者リストは、まだまだ増えることだろ う。

日ロ電脳センターによるロシア政治史・現代政治関係CD-ROM/CD-Rの紹介

リンクURL http://www.fujii.edu/cd.html



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