以下のインタビューは、平凡社刊行の『月刊百科』1995年7月号に掲載されたものである。聞き手は同誌編集部。同社から刊行した加藤『国民国家のエルゴロジー』のPRを兼ねたものだが、ここには紙数の都合で削られた部分も再録されている。 


国境を越える夢と逆夢

――『国民国家のエルゴロジー』研究余滴――

                  

 

――平凡社の「これからの世界史」シリーズで今度出された『国民国家のエルゴロジー』は、1938年正月の女優岡田嘉子・演出家杉本良吉の「恋の樺太越境」の謎解きからはじまっていますが、その後、さらにこの問題の資料が出てきているそうですね?

 ええ。岡田嘉子と一緒に越境して捕まった杉本良吉の供述書が、メイエルホリドの粛清ファイルから出てきたんです。当時のソ連で傑出した演出家であったメイエルホリドの逮捕のきっかけになったのが岡田・杉本の越境でした。スターリン粛清の最盛期に日本からソ連にとびこんだ岡田と杉本は、拷問により「日本のスパイだ」と自白させられました。その強制された自白供述のなかで、2人がメイエルホリドに師事していた日本人演出家佐野碩をもスパイであると認めたことが、メイエルホリドの粛清につながったんです。

――杉本良吉の供述のなかに出てくるんですか?

 そうです。テレビマンユニオンの今野勉ディレクターが「岡田嘉子の失われた10年」という1994年夏のNHK衛星放送の番組と同題の論文を『中央公論』94年12月号に書いて、杉本の38年10月の供述調書を紹介しています。そのなかに杉本が日本にいた時に「スエヒロ」と「クロキ」という人物から「メイエルホリドはトロツキズムの傾向があり日本人に優しい。佐野碩はメイエルホリドの家にいると自分の家にいるようだと言っていた」と教えられた、という話が出てきます。

 この供述のことを今野さんに聞いて、私は「スエヒロ」と「クロキ」について調べてきました。当時の杉本と親しい日本共産党員か杉本の所属した新協劇団の関係者ではないかとあたりをつけ、日本側の記録をかたっぱしから読んでいたんです。1930年代初頭の共産党に黒木重徳という活動家がいますが京都で活動していて杉本との接点はありません。新劇関係かと思ってプロレタリア演劇史の資料にあたり、俳優松本克平さんの回想録『八月に乾杯』(弘隆社)のなかに末広美子という新協劇団の女優の名前をみつけ、経歴を調べて俳優座の千田是也さんに照会したところで、全然見当ちがいだったことがわかりました。もっと詳しい秘密資料がでてきたんです。

――どんな資料ですか?

 時事通信のモスクワ特派員だった名越健郎さんが、『クレムリン秘密文書は語る』という中公新書を1994年10月末に刊行されました。そのなかで、ロシアの軍検察局から入手した岡田嘉子と杉本良吉の調書を使っています。こちらで紹介された資料にも「スエヒロ」や「クロキ」が出てきて、そこでは「スエヒロ」は「日本情報機関の所属」「参謀本部第2部のスエヒロ」と書かれている。

 杉本良吉は「1931年以降日本警察の工作員として活動した」という罪状で銃殺されるのですが、そのスパイ活動を杉本に指示した日本警察側の人物として「オオバ、クロキ、スエヒロ」の名前が出てくるのです。しかも、名越さんの発掘した1939年9月のソ連最高裁軍事法廷の裁判記録では、最終局面で杉本は拷問により強制された自白供述をくつがえし、「オオバ、クロキ、スエヒロについては自分が勝手にねつ造したものだ」「佐野碩はスパイでない」とはっきり述べ、「そのような嘘をついたことを恥ずかしく思う」とスパイ目的での越境を否定します。

 この名越さんと今野さんの発掘した新資料で、岡田嘉子と杉本良吉の越境の謎はほぼ解けました。つまり、私が前著『モスクワで粛清された日本人』(青木書店)のなかで疑問を呈し、今度の『国民国家のエルゴロジー』で推論したように、日本共産党員杉本が当時の国際共産党=コミンテルンへの連絡のため人気女優岡田をカモフラージュにして日本を脱出したという政治的越境ではなく、軍国主義日本での演劇活動に絶望した夫と子供をもつ岡田が、妻のある杉本をひっぱってソ連に新天地を求めた文字どおりの「恋の逃避行」だったわけです。ちょうど南京大虐殺の頃です。

 しかし、当時のソ連はスターリン粛清の最盛期で、日本人であれば誰でも「偽装スパイ」と疑われる。二人はすぐに離ればなれにされ、秘密警察の拷問でスパイであることを認めました。そればかりか佐野碩やメイエルホリドもグループの一員とされて、杉本は銃殺刑、岡田は10年の強制収容所生活を強いられます。

 私の調べていた「スエヒロ」「クロキ」は、ソ連秘密警察がデッチあげた名前で、日本共産党や新劇関係での追跡は徒労に終わりました。『モスクワで粛清された日本人』で主として扱った元東京大学医学部助教授国崎定洞の粛清ファイルの調査でも「日本軍参謀本部諜報部のタケダ」という名前が出てきて一応調べましたが、デッチあげだとわかりました。このようなまわり道は、旧ソ連公文書館秘密文書の解読ではさけられません。

――『モスクワで粛清された日本人』には岡田嘉子・杉本良吉、山本懸蔵、国崎定洞の他にも粛清された日本人の名があり、『国民国家のエルゴロジー』には当時の在ソ連日本人の粛清犠牲者リストが載っていますね。

 『モスクワで粛清された日本人』の段階でわかったのは、25人のリストです。それ以前に知られていたのは、山本懸蔵、国崎定洞、杉本良吉の「獄死」、岡田嘉子、野坂参三の妻竜、山本懸蔵の妻関マツの逮捕、演出家佐野碩、土方与志・梅子夫妻の国外追放ぐらいでしたから、山本・国崎・杉本が「銃殺」と判明し、沖縄出身でアメリカからソ連に亡命したいわゆる「アメ亡組」の粛清や、強制収容所(ラーゲリ)生活を体験して生き残った永井二一さん、寺島儀蔵さんの存在が明らかになっただけでも画期的なことでした。

 ところがその後、これらの人々の一人一人の足跡をあたってみると、さらにその知合いの日本人、一緒に海を渡った仲間、共産党や労働組合のつながり、朝鮮人名やロシア人名を名乗っていたソ連在住日本人などが出てきて、どうもそれらの人々のほとんども粛清されたのではないかと考えられるようになりました。私が『国民国家のエルゴロジー』のなかでリストアップしたのは、名前しかわからない粛清犠牲者候補を含めて計84人です。

 こんな調査を進めていると、闇の世界にもぶつかります。今度の『国民国家のエルゴロジー』で詳しく解明したのは、1937年4月に逮捕され12月に銃殺された須藤政尾という北海道出身のソ連共産党員・労働組合活動家の足跡です。

 須藤政尾には、ロシア人妻とのあいだに生まれたミノルという息子がおり、そのミノル=ミハイル・マサオヴィッチ・スドー氏がロシアで日本人の父の係累を探し続けていたことがわかりました。遺児がソ連の検察局から得たロシア語資料と、私の見つけた日本側警察資料をつきあわせると、須藤政尾の樺太からのソ連渡航の経緯、ソ連での活動、政尾粛清後の妻マリヤのラーゲリ暮しや遺児ミノルの数奇な人生などがわかってきました。

 それを私が1994年6月に『毎日新聞』に書いたところ、日本に存命していた須藤政尾の弟・妹さんが名乗りでて、9月にはミノルが来日し、親族水入らずの出会いが実現しました。そこから須藤のソ連での友人10人ほどの日本人名が新たにわかりました。作家の井上靖が1965年にシルクロード紀行の旅でミノルと出会い、須藤父子のことを小説にしていたことまで判明しました。これらは『朝日』『毎日』で新聞報道されましたし、関西テレビがドキュメンタリーとして放映しました。

 これは、私の研究にとっては大きな前進だったのですが、先日須藤政尾の日本にいる妹さんの所に、変な電話がかかってきました。「加藤先生に頼まれて関西で調査している助手ですが、その後モスクワのミノルさんから何か連絡がありませんか」という問い合わせだったそうです。ちょうど私自身が関西に出かけてご親族からお話をうかがってきた直後だったものですから、おかしいと思って私に伝えてきたのですが、無論私はまったく知らないことでした。私の研究は富山大学の藤井一行教授と一緒に進めていますが、関西に手足になる助手でもいたらもっと早く須藤家の出会いの場をつくれたはずなわけです(笑)。

 その電話は、須藤政尾の妹さんに数回かかってきたそうです。つまり、新聞に出た私の名をかたって、高齢のご親族から何か情報をとろうとしたようです。似たようなケースで、シベリア抑留で犠牲者と判明した遺族のところをまわって、「骨を拾ってきてあげますから」とだまし旅費の名目で金をまきあげる商売があるそうです。マフィアや秘密警察とつながっているかどうかはわかりませんが、ちょっと闇の世界をのぞいた感じで後味が悪いですね。

――1930年代後半のソ連には、どれだけ日本人がいたのですか?

 さっき80人以上の日本人粛清犠牲者がいたのではと言いましたが、例の野坂参三による山本懸蔵の告発を明らかにした小林峻一・加藤昭『闇の男』(文藝春秋社)に紹介されたコミンテルン日本問題委員会報告の中の記録では、個々の名前はわかりませんが、1936年2月現在のソ連在住日本人共産主義者が34人とされています。同じ頃の日本側『外事警察概況』では32人、『思想月報』では78人の在ソ日本人の名前と略歴が挙げられており、これらは私の84人のリストのベースになっています。

 この旧ソ連日本人社会の1930年代後半のつながり方は、一言でいえば「同志たちの疑心暗鬼」です。それが、日本人粛清の芋蔓式連鎖を生み出します。『国民国家のエルゴロジー』に疑心暗鬼と密告・逮捕の相関図をかかげておきました。つまり、山本懸蔵が国崎定洞を秘密警察に密告し、その山本懸蔵が野坂参三によって告発されたように、共産主義者の「同志」とよびあう関係が、そのまま相手を「スパイ」と疑い秘かに密告しあう関係に転化し、親しい友人関係は「諜報グループ」として芋蔓式の逮捕、拷問による強制自白、連鎖的粛清をうみだすのです。

 初期に捕まった須藤政尾やヤマサキ・キヨシのようにロシア人の同僚・隣人とのつながりで逮捕・粛清されたケースもないではありませんが、1937年8月以降の国崎定洞・山本懸蔵以下の粛清は、明らかに日本人コミュニティ内部での積年のうらみつらみと疑心暗鬼が、スターリンとソ連秘密警察の「日本人をみたら偽装スパイと思え」という粛清戦略に組み込まれ、利用されたものです。

――もともと先生が国崎定洞に関心を持たれたのはどうしてですか?

 学生時代に学生運動のなかで国崎定洞を知ったからです。ちょうど東大闘争の時代で、当時は「自己否定」という言葉が流行し、東大生である自分自身をみつめ直す機会でした。バリケードの中での自主管理の講演会に、たしか平野義太郎氏がやってきて、明治以来支配者養成機構であった東大にももう一つの伝統がある、文部省から派遣されてドイツに留学し、約束された医学部教授のポストをけって反ナチスの運動に加わり、ヒットラーに追放されてソ連に亡命した抵抗の医学者・革命家がいた、それが元医学部助教授国崎定洞で、戦前の東大は世界をまたにかけてのスケールの大きな革命家を生み出したんだ、というアジテーションに参ったわけです。最初はまあ「カッコイイ」というノリです(笑)。

 それで卒業後にドイツに留学した機会に、ベルリンでの国崎定洞ら日本人留学生グループの活動を調べました。ところがモスクワでの最期の事情がどうしてもわからない。千田是也さんら旧友に話を聞き、ベルリン在住の故フリーダ夫人や遺児タツコさんと文通しながらその生涯を追いかけているうちに、スターリン粛清の問題に突きあたった。それが東欧革命とソ連崩壊でようやく新資料が現れ深みにはまったわけです。

 私の専門は政治学で、国家論や比較政治です。最近は『社会と国家』(岩波書店)や『現代市民社会と企業国家』(共著、御茶の水書房)を出し「過労死の政治経済学」を売りものにしてきました。だからゼミの学生から「先生、最近は変な本も出していますね」と言われる始末で‥‥(笑)。

 もっとも『国民国家のエルゴロジー』の「エルゴロジー」とは、私が専門研究の方から「エコロジー」と一対で重要だと考えている思想です。ソ連社会主義はストレス過剰で制度疲労におちいった、いわばレーニン主義・前衛党・民主集中制にとりつかれて「ゆとり」をもてず過労死した、国崎定洞や須藤政尾はその犠牲者だという意味を込めたものです。日本語では「働態学」と訳され人類働態学会という学会まであるのですが、自然科学者が中心であまり知られていません。「これからの世界史」は21世紀を見通したユニークなシリーズですから、私は21世紀の思想はこれだと思って、敢えて表題にも使いました。

――日本人の粛清犠牲者のなかで、先生が興味あるのはどんな人たちですか?

 1937年春に逮捕された須藤政尾については、『国民国家のエルゴロジー』である程度明らかにできました。次に粛清されたのはヤマサキ・キヨシです。ヤマサキは「サーカス団の一員としてソ連に渡った」と秘密警察の文書に出てきますから、これは『サーカスと革命』『海を渡ったサーカス芸人』(平凡社)の著者大島幹雄さんに調べてもらっています。

 興味があるという点では、『モスクワで粛清された日本人』の研究過程で初めてその名を知り、今度の『国民国家のエルゴロジー』ではご遺族から提供された大量の資料・遺品を使わせていただいた文学青年勝野金政、哲学青年根本辰です。

 勝野金政は、パリ大学留学中にフランス共産党に加わり、国外追放になってモスクワに渡り片山潜の秘書になる。根本辰は、京大で西田哲学を学び、それを超えようとドイツに渡り、国崎定洞の紹介で片山のもとに行き、モスクワで唯物論を学ぼうとする。この二人が、島崎藤村の小説『新生』のヒロイン節子のモデルである島崎こま子を共に知っていたことから意気投合する。ところがそれが、生粋の労働者あがりである日本共産党の山本懸蔵に「日本のスパイ」と疑われ、山本の密告で勝野はラーゲリに、根本は国外追放になる。1930年秋、ちょうど宮本百合子がソ連から帰国する頃です。つまり当時の知識人青年の生き方の問題として、勝野も根本も、国崎定洞と共通する波乱万丈の人生を送る。この辺が実にドラマティックで面白い。二人のご遺族には芸術家として名を成している方々がおられますが、偶然ではない気がします。

 この研究では、1994末に千田是也さんが亡くなったのが、まことに残念です。千田さんには、国崎定洞の親友、ベルリン反帝グループの生き証人として、いろいろ協力してもらいました。亡くなる2日前にも「国崎定洞生誕100周年の集い」にご出席いただき、片山潜と千田さん、国崎定洞の関係について語ってもらったのですが、それが最後になりました‥‥。

 その対極ですが、いわゆる「アメ亡組」の人々も、興味深い研究対象です。天皇制日本の辺境に組み込まれた沖縄からは、アメリカや南米に多くの移民が渡りました。スタンフォード大学に留学していた時に調べたのですが、カリフォルニアの日系移民には沖縄出身者が多く、戦前はプランテーション労働から入って一流庭師やクリーニング屋になるのが成功例でした。照屋忠盛・宮城與三郎(ゾルゲ事件の宮城與徳の従兄)ら粛清される沖縄出身共産主義者たちも、おそらく新天地を求めてアメリカに渡ったわけです。けれども人種差別のアメリカでは、いつまでたっても底辺からはいあがれない。そこで西海岸の労働運動や共産主義に近づき、1931年末のロングビーチ事件で捕まり国外追放になる。

 しかし治安維持法下の日本には、帰ろうにも帰れない。そこで「労働者の天国」とされていたソ連に亡命する。クートベ(東洋勤労者共産主義大学)で教育を受け、野坂参三や山本懸蔵の指導下で東洋大学の日本語教師や外国労働者出版所に職を得る。いわば初めてまともな労働者、まともな日本人として扱われる。ところがその日本人であることが、1930年代後半のソ連では、ただちにスパイ容疑につながってしまった。野坂参三さえスパイと疑われる状況下で、一網打尽に粛清されました。

 彼らの秘密警察KGBファイル中の供述書は、ひどいものです。自分をスパイと認めた全く同文のロシア語供述書にそれぞれサインだけさせられたり、アメリカ滞在中であることが明らかな時期に日本で警察のスパイにされたと出てくる。沖縄の辺境から国境を越えて見た夢が、暗転して逆夢になるのです。

――ずいぶんスケールの大きな夢ですね。

 「労働者の天国」を夢みて日本から直接ソ連に入った須藤政尾を追いかけている時、日本の警察文書に出てくる北海道の本籍地とロシア語供述書に書かれた地名が鍵だったものですから、当時の地図を探してコピーし、1903年の岩見沢近くの生まれ故郷を起点に、北見、紋別、札幌と結んで軌跡をたどったんです。

札幌から南樺太、北樺太と1925年に越境した後は世界地図に書き込むことになります。アレクサンドロフスクからオハに渡りソ連共産党入党、29年にモスクワにいったん出て32年にオハに戻り、翌年再びモスクワに出て37年粛清と、日本を何回縦断しても追いつかない大変な距離になる。

 この時代はシベリア鉄道が、日本とヨーロッパを結び最短距離です。南樺太・北樺太は陸続きで炭坑夫や漁民の出稼ぎもあります。ウラジオストックには、日本人の労働組合もあれば売春宿もある。こうした頭のなかでの越境の追体験が、秘密文書解読には大切ですね。

 季節感覚も重要です。岡田嘉子・杉本良吉の「恋の越境」は、冬の樺太だからロマンティックで、ドラマティックになる。正月の深い雪、一面の銀世界のなかで、馬ソリから飛び降り二人で雪のなかを泳いでソ連国境に向かう。スキーをはいた国境警備官が追いかける。カバンもセーターも投げ捨て、必死で向こう側の白樺林に逃げ込む。実に絵になるわけです。

 ところが、同じルートを2年半前の1935年8月に越えた寺島儀蔵さんに聞くと、意外に楽なんです。寺島さんの自伝『長い旅の記録』(日本経済新聞社)でもあっさりしている。おむすび4個をリュックにつめて歩くんですが「道路は広くはないがよく整備されていて、歩くには気持ちがいい」と書いている。国境近くで林の中にもぐりこみ蚊の大群に悩まされるが、幸い誰にも会わない。4時間ほどで国境に到着して日本側の番小屋をおそるおそるのぞくと、そこは無人。低い鉄条網が地をはう中立地帯を抜けるとソ連の国境警備隊事務所、そこで自分は日本共産党員だと名乗って、無事越境という話です。『モスクワで粛清された日本人』で「地獄への道は善意で敷き詰められていた」と書いたのですが、寺島さんの夏の越境は「労働者の天国への道は、歩いて気持ちが良かった」というのです(笑)。

――先生の『国民国家のエルゴロジー』や前著『モスクワで粛清された日本人』について  の反響はいかがですか?

 広いというより深い反響です。長いお手紙をたくさんいただきました。檜山真一さんからは、片山潜を助けたレニングラードの丘文夫が1933年に死んだことを教わりました。当時のソ連の第一線日本研究者ネフスキーの妻萬谷磯子などの犠牲者名が、新たに判明しました。

 こうした新事実の情報とともに、旧ソ連にあこがれ共産主義運動にかかわった読者の感想が考えさせられます。かつてソ連や野坂参三を信じていたが「暗澹たる想いです」という年配の人の手紙や、「『獄中18年』のような左翼英雄史観で書かれた戦前の日本史や転向の問題も考え直さなくては」という歴史研究者の感想です。国崎定洞の粛清にひっかけて、「ゲーペーウーの 秘密資料の公開に 国崎の死は陽の目をみたり」「密告は スターリンへの忠誠か 山本懸蔵、定洞を売る」「その山本を売りしは野坂と 旧ソ連秘密文書はあばきてやまず」という短歌を、石堂清倫さんを通じて届けてくれた読者もいます。

――ソ連の崩壊でコミュニズムがなくなった状況のもとで、スターリン時代に粛清された  日本人の問題の解明に、どんな意味があるのでしょうか?

 『国民国家のエルゴロジー』に書きましたが、一言でいうと「国境を越える夢」とその歴史的限界を探る作業だと思っています。粛清された日本人のほとんどは、軍国主義日本に幻滅しソ連の掲げるプロレタリア国際主義に夢を託そうとした。ところがそこでも国籍がつきまとう。反戦反ファシズム、労働者解放の運動にたずさわりながら、やはり望郷の念にかられる。そんな彼らの心情と、今日60万人に及ぶ外国で働く日本の企業戦士たち、海外青年協力隊やNGOボランティアたちのあり方を重ねあわせて考えてみたい。

 また日本人犠牲者には朝鮮人名を名乗るケースが多くみられます。中国人粛清は数百人の規模になりそうです。そこから東アジア史と21世紀を考え直したいと思っています。

――野坂参三についてはどうですか。

 野坂参三の自伝『風雪のあゆみ』全8巻(新日本出版社)は、今日の時点ではほとんど信用できません。粛清期の記述のウソは完ぺきにあばかれましたが、眼病を理由になぜか釈放されて1931年にソ連に渡る経緯とモスクワでの活動、渡米の時期とアメリカ滞在期の生活、粛清をくぐっての中国への潜入と延安での活動、と謎だらけです。

 東大の和田春樹さんが学問的研究をはじめましたが、戦後占領期や朝鮮戦争から中国に渡った時期についても、不審なことがいっぱいあります。モスクワの文書館にある「野坂参三ファイル」は、野坂が存命中だったため文藝春秋の加藤昭さんたちも見せてもらえなかったようですが、すでに野坂は亡く、これから出て来るはずです。ゾルゲ事件や伊藤律の北京での幽閉にも野坂が深くかかわっていた可能性が強い。そういう面を追跡している人たちもいます。

 私が関心を持っているのは、片山潜の次女である片山千代の運命です。老父の看病のため1929年に訪ソし46年に亡くなったことはわかっています。ところがアイノ・クーシネンの回想によると、29年にソ連に渡ったさい、片山潜がコミンテルン人事部に妻子の存在を申告していなかったために、「日本のスパイ」と疑われます。山本懸蔵らは、非党員で運動経験のない娘と片山潜の同居にも千代のクートベ入学にも反対し、けっきょく工場に送られてしまう。

 片山が重態に陥りクレムリン病院に入院した1931年頃には、姉のヤスも一緒に二人で看病したようですが、33年の父の死後に、ヤス・千代姉妹が同居していた形跡はない。肝心の粛清期の記録では、千代がどこでどうしていたかがわからない。1946年の死の前に「お姉さん、早く迎えにきてください」という手紙をヤスに出していたそうですが、不遇な生活だったようです。一人でソ連に入国したさいに日本領事館の助けを借りたことが、どうやらソ連での生活全般に影を落とした。

 当時のソ連にいた日本人共産主義者にとって、日本政府の関係者と接触することは、ただちに「特高のスパイ」と疑われることを意味しました。だからモスクワには日本大使館関係者や新聞特派員も住んでいましたが、政治亡命者のコミュニティとは全くの別世界だったのです。そうした大使館筋からの報告は、最近復刻された『外事警察報』などに盛り込まれていると考えられます。

――そうなると、ロシア側の資料の解読とともに、日本側の資料も必要ですね。

 その通りです。幸いここ10年ほどのあいだに、戦前の社会運動史や特高警察の史資料が大量に復刻されています。日本側官憲史料には、KGB史料と同様の意図的記述やフレームアップがあり、一つひとつ批判的に吟味しなければなりません。双方をつきあわせて、初めて真相がみえてきます。



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