以下に収録するのは、国崎定洞生誕100年記念として勁草書房から刊行された、川上武・上林茂暢『国崎定洞』(1970年)・川上武著『流離の革命家』(1976年)の増補改訂決定版である評伝、川上武・加藤哲郎共著『人間 国崎定洞』(1995年、勁草書房)の「まえがき」及び加藤執筆の第19−21章、その他基本資料である。本書は、残念なことに、勁草書房の都合で刊行後わずか3年で絶版とされたため、私の担当した原稿をほりおこし、復元できる部分だけでもすべてをHPに収録し、記録として残すことにした。そのため、部分的には『人間 国崎定洞』にも手を加えたエンドレスの国崎定洞伝となる(1998年9月)。 


『人間 国崎定洞』まえがき


 1994年12月19日、東京中野サンプラザホールで、「国崎定洞生誕百周年の集い」が開かれた。医学史研究会関東地方会主催のささやかな夕べであったが、草野信男、若月俊一など戦前から国崎の存在を知る医学研究者ばかりでなく、三浦聡雄・上林茂暢ら戦後医学部闘争世代の臨床医たちも出席した。また、出席者のなかには、犬丸義一・渡部富哉ら社会運動史研究者、坂本玄子ら看護史研究者、さらに国崎家の跡を継いだ国崎拓治をはじめ、勝野金政の娘明子・素子、山本正美夫人菊代ら、国崎定洞ゆかりの人々の姿もみられた。

 集いの冒頭で、ベルリン在住の国崎定洞遺児タツコ・レートリヒからのメッセージが読み上げられた。

国崎定洞生誕百周年の集い出席者の皆様へ  1994年12月19日

 

 尊敬する出席者の皆様!

 私の父、国崎定洞の生誕百周年のために開催される、この集いにおみえになった皆様、および、集いを準備された川上武先生、加藤哲郎教授、千田是也さん他の皆様に、このようなメッセージの形で、感謝の意を表します。

 私の父については、あなた方のうちのほんのわずかの方しか、個人的な思い出をお持ちではないでしょう。あなた方の大部分は、川上武先生や加藤哲郎教授の著作から、国崎定洞の運命を、国崎定洞が力を尽くし、なんとか伝えようとした、その仕事、その理想、その見解を、お知りになったでしょう。私自身の思い出といえば、こどもの時の愛情に溢れた父親の思い出であり、それは、残念ながら、たった数年間しか、体得することが許されないものでした。

 あなた方が国崎定洞のことを考えることがあれば、いつでも私も、父を思いだしています。あなたがたのご出席に、心から感謝し、挨拶を送ります。

 

    タツコ・レートリヒ」

 ついで、信州からわざわざかけつけた佐久総合病院総長若月俊一が、東大医学部の学生時代に聞いた国崎定洞伝説、若月ら後輩を左翼運動から社会医学へと導いた、後の世代に長く語り継がれた医学者国崎定洞の活動と生き方について述べた。

 若月の話の途中で、満90歳を過ぎた俳優座代表千田是也が会場に現れた。1904年生まれの千田は、1920年代後半から30年代初頭の青春時代をベルリンですごした。千田は、かつて国崎定洞を責任者としたドイツ共産党日本語部の一員で、ベルリン反帝グループの重要メンバーであり、国崎を「クニさん」と呼び、心から尊敬していた。

 高齢の千田是也への私達の当初の依頼は、寒い季節の夜の会合でもあり、遺児タツコと共に友人としてのメッセージを寄せてほしい、というものだった。だからプログラムにも、そのように記していた。ところが千田は、ほかならぬ親友国崎定洞の生誕百年の集いであるからと、当日出席して話をしたいと伝えてきた。麻布の自宅から杖をついて、わざわざ会場までやってきた。

 千田の話ぶりは、元気なように見えた。父伊藤為吉と片山潜とのつながりから説き起こし、ベルリン反帝グループでの国崎定洞らと一緒の活動の想い出にいたる、出席者を感動させる長い話であった。当初の10分程度という予定は、30分に及んだ。しかもそのまま会場に留まり、川上武による日本での国崎定洞の活動、加藤哲郎によるベルリン・モスクワ時代の国崎定洞についての報告にも、最前列にすわって耳を傾けた。国崎拓治が遺族を代表して挨拶し、出席者に礼を述べた。

 日本の新劇を支えてきた千田是也は、この集いの翌々日、94年12月21日に亡くなった。肝臓ガンであった。千田の公式の話は、国崎定洞生誕百周年の集いが最期となった。私達は、「国崎定洞をしのぶ会」として弔電を送った。

 「千田さんの突然の訃報に接し、心から哀悼の意を表します。19日の国崎定洞生誕百周年の集いにおいでいただき、お元気なお話を聞いた直後だけに、出席者一同、まことに残念に思っております。ベルリンの青春を共にすごし、モスクワから旅立ち無実が明らかになった国崎定洞と共に、安らかにおやすみください。    国崎定洞をしのぶ会」

 晩年の有沢広巳(経済学者、日本学士院長、1988年3月7日没)も、娘に看病される入院中の病院で、しきりに国崎定洞のことを思いだしていたという。

 「そんなある日、父は今まで、私にはあまり話したことのないような思い出話を始めました。二高時代の話に始まり、経済学部入学のいきさつ、恩師糸井先生やドイツ留学中ご一緒だった国崎定洞氏の話へと続きました。若くして留学先で亡くなられた糸井[靖之]先生と、ついに日本に帰国されなかった国崎氏のお二人については、もし日本に帰っていらしたら、きっと日本の統計学と社会衛生学に大きな影響を与えただろうと、その才能を惜しんでおりました」島津祐子「父とタバコ」『有澤広巳の昭和史・回想』1989年、190頁)。

 生誕百周年の集いには、ベルリン・グループの存命者、専修大学・國學院大学で長く教鞭をとった経済学者小林義雄からも、メッセージが寄せられた。その小林義雄も、集いから3週間足らずの95年1月7日、永眠した。享年85歳であった。千田是也と小林義雄の証言は、本書の成立にあたっても、重要な役割を果たしている。残された証人の1人である喜多村浩とは、集いの終了後にようやく連絡がついたが、日本やドイツでの国崎定洞の活動を直接に知る日本人は、ほとんどいなくなった。

 東大新人会で国崎定洞を知った石堂清倫は、病気で出席はできなかったが、旧制高校時代の友人が詠んだ「ゲーペーウーの 秘密資料の公開に 国崎の死は 陽の目を見たり」という歌を送ってきた。

 ベルリンのタツコ・レートリヒには、この会の模様が、手紙と写真で伝えられた。ベルリン時代の国崎定洞のかつての同志、千田是也・小林義雄が亡くなり、歴史の証人がほとんどいなくなったという悲しい報せを伴って。

 本書は、抵抗の医学者、流離の革命家であった国崎定洞の評伝である。国崎定洞は、1894年生まれの元東京大学医学部助教授で、1920・30年代にベルリンおよびモスクワで反戦反ファシズムの活動に加わり、1937年にスターリン粛清によって非業の死を遂げた。

 ただし、本書は、通常の伝記とはやや異なるかたちで構成されている。国崎定洞の伝記としては、1970年に川上武・上林茂暢編著『国崎定洞――抵抗の医学者』、76年に川上武『流離の革命家――国崎定洞の生涯』が、資料集としては77年に川上武・加藤哲郎・松井坦編訳『社会衛生学から革命へ――国崎定洞の手紙と論文』が、本書と同じ勁草書房から、すでに刊行されている。本書は、これらを踏襲しつつ、その後に判明した国崎定洞に関する史実を書き加えて、改訂増補したものである。

 より正確にいえば、本書の原型は、第1ー第10章、第12ー16章で、1970年の『国崎定洞』段階で判明した、主として「日本の社会医学の先駆者」としての国崎定洞の伝記である。ただし、第7章・第13章は、76年『流離の革命家』の時点で大幅に書き換えられている。

 第11章の国崎定洞の小宮義孝宛手紙の章、および第17ー18章は、1976年の『流離の革命家』段階までに新たに明らかになった事実をもとに書かれている。74年の鈴木東民夫妻の国崎定洞夫人フリーダ・レートリヒとの奇跡的再会と、75年の日本における国崎定洞の「名誉回復」をふまえて、主として「ベルリン反帝グループの国際的革命家」としての国崎定洞のその後を扱う。もともとこれらは、70年の『国崎定洞』に増補された。

 したがって、以上の第1ー18章までは、川上武の手に成るものである。各章末の人名注は、その後の消息がわからない場合があるので、1976年執筆当時のかたちでそのまま収録されているが、生没年を確認しえたものについては、第19章末の注で補正されている。

 そして、1995年に刊行される本書では、第19ー21章に、主として1991年のソ連崩壊によって可能となった国崎定洞の非業の死にまつわる史実を加藤哲郎が書き加え、完成されている。それは、1932年秋にモスクワに亡命してから、37年12月10日に銃殺されるまでの「ソ連で粛清された日本人犠牲者」としての国崎定洞を、新たに発見された旧ソ連公文書館秘密文書「国崎定洞ファイル」によって跡づけたものである。同時に、1959年のソ連最高裁判所軍事法廷における法的無罪確定・名誉回復過程をも、「国崎定洞ファイル」により再構成するものである。

 つまり、本書は、国崎定洞の伝記的事実が解明されてきた3つの歴史的段階を忠実に再現するもので、読者は読み進めていく過程で、国崎定洞の生涯を追いかけてきた私達著者をも驚かせた劇的な新事実の発見と解明の過程を、追体験できるようになっている。

 とはいえ本書は、前2書のたんなる改訂増補でもない。その後の調査で明らかに誤りと判明した箇所については、必要な加筆修正を行っている。新たにわかった事実や注を追記した箇所もある。すなわち、国崎定洞の伝記的研究の決定版をめざしている。

 口絵写真には、前2書を踏襲しながら、いくつかの新写真を追補した。そのなかには、これまで確認できなかった国崎の一高・東大・伝研での親友松岡冬樹のベルリン訪問を証拠だてる、国崎定洞・フリーダ夫妻と松岡冬樹・達子夫妻のならんだ1928年秋ドイツでの写真、37年夏にソ連で逮捕・粛清された際に没収されて旧ソ連共産党文書館に眠っていた国崎定洞の大日本帝国政府発行のパスポート、および、国崎定洞に対する政治的冤罪と法的無罪を証明した1959年秋ソ連最高裁判所の「名誉回復証明書」などが、新たに掲載されている。国崎の同級生で無二の親友であった松岡冬樹が、民俗学者柳田國男を親代わりに育てた長兄松岡鼎(医師)の長男であること、つまり柳田國男の甥であることも、冬樹の実弟松岡文雄氏(医師)の証言で、本書の仕上げ段階で判明した。

 第2部の巻末資料については、日本およびベルリンでの国崎定洞について、前2書および『社会衛生学から革命へ』所収のものについては解題と目次一覧のかたちで示し、年譜や参考文献を追補した。そのうえで、モスクワ時代の国崎について、今は亡きフリーダ夫人の2通の手紙での証言と、旧ソ連公文書館の秘密文書「国崎定洞ファイル」を中心に、新資料を収録している。

 これら「国崎定洞ファイル」ほかの旧ソ連公文書館秘密文書は、部分的には本文中にも組み込んでいるが、国崎定洞の不幸な死の真相を解きあかす基本資料であるばかりでなく、日本の戦前社会運動史研究・旧ソ連粛清史研究の貴重な歴史的資料でもある。

 「国崎定洞ファイル」のようなスターリン粛清に関わる個人ファイルは、東欧革命・ソ連解体のなかで、ソ連共産党が崩壊し秘密警察KGBが無政府状態におちいった1990ー93年期に、主として世界各国のジャーナリストや、旧ソ連の心ある犠牲者・遺族・歴史学者・ボランティアの人々の手で、ソ連共産党やKGBの秘密文書館から発掘され、世に出たものである。その後、ロシア共和国エリツィン政権は再びこうした公文書の閲覧を制限し、直接の犠牲者ないし家族以外は、ほとんどアクセス不能になっている。日本人で強制収容所に送られた数十人の粛清犠牲者の生き残り、歴史の真実の貴重な証言者も、岡田嘉子は1992年2月10日に、永井二一は94年10月7日に没し、ウクライナに存命中の寺島儀蔵氏のみになった(「ZEK――ソビエト強制労働秘史」フランス・トランスパランス・プロダクション製作、NHK衛星放送1995年1月15日放映)。

 これらの資料を発掘し提供してくれたジャーナリスト小林峻一氏・加藤昭氏・熱田充克氏、ロシア語資料を厳密に日本語に訳してくれた藤井一行氏(富山大学教授)・金森寿子さん(富山大学大学院)に、記して感謝の意を表する。

 また、本書の出版にあたっては、かつて『国崎定洞』『流離の革命家』『社会衛生学から革命へ』を刊行していただいた勁草書房の皆さん、なかでも石井正子さんに、大変ご迷惑をおかけし、ご尽力いただいた。


 

第19章 ソ連崩壊と「国崎定洞ファイル」の発見

 本書の原型である川上武・上林茂暢『国崎定洞――抵抗の医学者』(1970年)、及びその増補改訂版である川上武『流離の革命家』(1976年)が刊行されて以降、元東京大学医学部助教授国崎定洞の名は、日本の社会医学の先駆者として、反戦・反ファシズムの悲劇の革命家として、ある程度は知られるようになった。『日本社会運動人名辞典』(青木書店)、『日本人名辞典』(三省堂)や日本共産党の公式党史『日本共産党の六十年』などにも、その名前や履歴が記されようになった。

 1979年秋、「国崎定洞をしのぶ会」は、ベルリンで存命中であったフリーダ・レートリヒ夫人を、国崎定洞の生まれ育った日本に招く計画をたてた。千田是也、有沢広巳、堀江邑一、山田勝次郎・とく、島崎蓊助、三宅鹿之助、嬉野満洲雄、舟橋諄一、八木誠三、服部美代(英太郎夫人)、喜多村浩、小林義雄、曽田長宗、滋賀秀俊らがたがいによびかけあって、基金をつのった。鈴木東民、平野義太郎は、計画途上で世を去った。私達(川上武、加藤哲郎)が事務局を勤めた。

 計画は順調に進行し、翌80年の初夏に、フリーダ夫人は来日することになっていた。ところが来日を目前に、フリーダ夫人は持病が悪化し、1980年4月22日、ベルリンで永眠した。享年75歳であった。計画は、国崎定洞とフリーダの遺児、タツコ・レートリヒを招くことに変更された。80年7月2日にタツコは来日し、16日まで二週間滞在した。日本の国崎家の人々、国崎定洞のベルリン時代の旧友たちと交流したほか、医科学研究所(伝染病研究所の後身)や東大医学部衛生学教室をも訪問した。タツコは、日本でなお父国崎定洞をしたっている人々がいることに驚き、感銘した(川上武「国崎定洞の遺児、タツコ・レートリッヒを迎えて」『東京大学新聞』1980年7月14日付)。

 以来、国崎定洞の生涯を追いかける仕事は、タツコ・レートリヒのその後を見守ることに主として限定され、10年以上がすぎた。その間、加藤哲郎は、1985年と91年にベルリンを訪問し、タツコのモスクワ時代の記憶を聞き取りしたり、ドイツ共産党関係資料から国崎定洞の名を発掘したりしてきた。

 しかし、前章までで述べたように、国崎定洞の1937年8月4日の逮捕と12月10日の「獄死」は確認されたものの、その粛清の根拠と経緯については、不明のままだった。1980年のフリーダ夫人の没後も、フリーダの回想(本書第二部付録資料参照)などにもとづき、私達は、国崎定洞がドイツ共産党員であったことから、ベルリン在住当時のKPD反主流派指導者で後に失脚・粛清されたハインツ・ノイマン、ヴィリ・ミュンツェンベルグ、ヘルマン・ドゥンカーらとの個人的つながり、逮捕される前年のモスクワでのスペイン義勇軍への志願を、国崎定洞が粛清された政治的根拠と推定してきた。

 こうした推定をくつがえす決定的資料が、私達の前に現れたのは、1993年秋のことである。それは、今日では日本共産党名誉議長野坂参三(当時)の政治的失脚に結びついたことで知られる小林峻一・加藤昭共著『闇の男――野坂参三の百年』(文藝春秋社、1993年、第25回大宅壮一ノンフィクション大賞受賞作)の刊行によってであった。

 そして、その条件をつくったのは、1985年のソ連共産党ゴルバチョフ書記長の登場に始まる世界史的変化、ゴルバチョフのペレストロイカ(立て直し政策)とグラースノスチ(情報公開)、89年の「ベルリンの壁」崩壊をはじめとした東欧連鎖革命、91年のソ連崩壊・解体であった。

 ソ連崩壊後の1992年5月18日、日本共産党中央委員会は、同党と関係する山本懸蔵、国崎定洞、杉本良吉の三人の粛清犠牲者について、新たな情報を発表した。ロシア政府に問い合わせた結果として、山本懸蔵の死亡は、従来日本共産党が述べてきた1941年4月病死ではなく、39年3月10日に銃殺され、56年5月23日に名誉回復されていたこと、国崎定洞は、37年12月10日に銃殺され、59年10月29日に名誉回復されたこと、杉本良吉は、39年10月20日に銃殺され、59年10月15日に名誉回復されたこと、などが明らかになった。

 『闇の男』の著者たちは、このうち山本懸蔵が、なぜ長く日本共産党により41年病死とされてきたかに注目した。それは、山本懸蔵の「刎頚の友」と自称する野坂参三の証言によるもので、野坂参三が故意に真相を隠してきた疑いが強くなった。それはやがて、文書によって証明された。ソ連の崩壊によって閲覧可能となった旧ソ連共産党中央委員会公文書館の秘密文書から、野坂参三が同僚山本懸蔵を当時のコミンテルン(世界共産党)指導者ディミトロフらに密告した手紙などを発掘して、戦前日本共産党の歴史を大きく書き換える衝撃的事実を明らかにした。それは同時に、1930年代旧ソ連に在住した日本人多数の粛清記録をも発掘して、そのメカニズムを示唆するものであった。

 『闇の男』を一読しただけでも、国崎定洞は日本共産党員ではなかったが、当時の在モスクワ日本人共産主義者社会に深く組み込まれていた。

 これまでほとんど知られていなかったことであるが、1930年代のモスクワの日本共産党組織は、片山潜、山本懸蔵、野坂参三、国崎定洞の四人を軸として活動しており、33年秋の片山潜の死後は、山本・野坂・国崎三者の政治的・人間的関係が、旧ソ連在住日本人社会壊滅の鍵となっていた。

 『闇の男』によれば、野坂参三(党名岡野進)と山本懸蔵(党名田中)の確執のはざまで、およそ二五人の日本人が粛清されていた。国崎定洞(党名アレクサンダー・コン)は、以前から日本人犠牲者として知られていたが、実は、これら二五人のなかのキーパースンの一人であった。

 なぜならば、野坂参三と山本懸蔵の確執の起源が、どうやら1932年9月の国崎定洞のモスクワ亡命・クートベ入学をめぐってのものであったこと、さらにその背景には山本懸蔵と片山潜の対立があり、山本懸蔵は自分の28年3・15事件逃亡・日本脱出のさいの「疑惑の噂」を国崎定洞が片山潜に告げ口したものと思い込んでいたことが、『闇の男』の著者たちが集めた旧ソ連公文書館秘密資料からわかってきた。

 第一に、『闇の男』に巻末資料として収録され、本書第二部に「国崎定洞ファイル」所収のロシア語原文から新訳を収録した、山本懸蔵の妻関マツのコミンテルン統制委員会での会談記録(1938年11月26日)には、次のようにあった。

 「タナカ[山本懸蔵]がコン[国崎定洞]に反発していたこと、彼を信用していなかったことを知っている。同志オカノ[野坂参三]、[ヤ・]ヴォルク、故同志カタヤマ[片山潜]はコンを信用していた。タナカはコンをクートベの日本課で学ばせることに反対だったが、コンは入学することになった。タナカは私に、自分が反対したにもかかわらず、コミンテルンの日本セクションがコンを入学させたと言っていた」(本書付録、『闇の男』227-228頁)。

 第二に、山本懸蔵が国崎定洞のクートベ入学に反対した根拠は、1928年の山本懸蔵自身の日本脱出・入露疑惑と関わることが、関マツの会談記録ばかりでなく、野坂参三が山本懸蔵を告発した39年2月のディミトロフ宛手紙でも、指摘されていた。

 1938年11月の関マツ会談記録によると、すでに国崎定洞が37年に逮捕・処刑されていたのを背景に、山本懸蔵は、自分は国崎定洞を早くから疑っていたというアリバイの供述に続けて、国崎定洞のクートベ入学を支持した故片山潜・野坂参三をも告発していた。

 「コン[国崎定洞]は、一九二八年にベルリンからIKKI[コミンテルン執行委員会]の同志カタヤマ[片山潜]宛てに、タナカ[山本懸蔵]は疑わしい人物だという手紙を送っており、同志オカノ[野坂参三]は一九三一年にはそのことを知っていたのに、なぜ今までタナカとともに活動してきたのだろう? 同志オカノはこの手紙の内容を調査しなかったのだと思う。同志オカノがIKKIでコンについてすべて話したかどうか私は知らない」(本書付録、『闇の男』228頁、)。

 野坂参三は、逆に山本懸蔵と関マツの疑惑を、39年2月のディミトロフ宛手紙で密告して自己の保身をはかったが、そこでも「ベルリンの日本人共産主義者グループ」の名で、片山・山本の対立への国崎定洞らの関与が示唆されていた。

 「一九二八年三月、一千名の共産主義者が逮捕された時、田中は『奇跡的に』包囲を逃れ、次のような方法でソ連に渡ったのです(党中央の指示による)。警官隊が彼の家を襲った時、彼は重い病の床にあり(これは事実)、署に連行されませんでした。彼は家に閉じ込められ、二十日間、昼夜の別なく二、三人の警官の厳重監視下におかれたのです。奇妙なことに、この間、警察医は田中の病状をたった二度しか診ていず、私たちのシンパの医師が世話をすることが許されていました(彼の妻の話による)。さらに奇妙なことに、『周到に準備したトリックを用いて』、この家から首尾よく脱出してしまったのです。
 その後、彼はソ連に行きました。しかし、この脱出劇は彼に不利なある噂を労働者層の間に生じさせたのです。この噂はベルリンの日本人共産主義者グループを経て、一九二九年? には、モスクワの同志片山のもとに届きました。
 田中の話によれば、この問題はコミンテルン執行委員会の機関で提起されて解決済みということです」(『闇の男』218-219頁)。

 第三に、国崎定洞は、すでにコミンテルン第七回世界大会(1935年夏)以前の35年2月の時点で、コミンテルン執行委員会とソ連の秘密警察NKVD(内務人民委員部)から「日本のスパイ」の容疑を受け、ひそかに監視されていたことが、明らかになった。

 『闇の男』の巻末資料には、コミンテルン執行委員会東洋部からNKVDに宛てた、1935年2月9日付の秘密文書「国崎定洞に関する報告」が訳出されており、国崎定洞のモスクワでの政治的・人的つながり、勤務先や交友関係が詳しく記され、ベルリン時代の盟友小林陽之助や野坂参三夫人竜らが国崎とつきあっていることは、「このメンバーたちのみならず、日本共産党の活動に関する他の諸策にとっても直接的な危険をもたらしている」と指摘されていた(本書付録の新訳、『闇の男』235-237頁)。

 第四に、『闇の男』には、1959年10月29日付のソ連最高裁判所の決定第4N2438/59号「国崎定洞の名誉回復決定書」が訳出され、収録されていた。この文書こそ、故フリーダ夫人がベルリンで幾度もソ連大使館に足を運んで捜し求め、日本の国崎定洞を知る友人・同志たちが、長く待ち望んでいたものであった。

 それは、国崎定洞の「日本のスパイ」という容疑が無実のデッチ上げであることを明らかにすると共に、37年の逮捕・裁判・銃殺刑の全体を法的に無効にし、名誉を回復するものであった。そしてそれは、法的に名誉が回復されても、なぜか妻フリーダに渡されず、1992年までモスクワの文書館の奥深くに眠っていた。

 「コン・アレクサンドルことクニザキ・テイドウに対し、犯罪構成要素の欠如により、一九三七年一二月一〇日付のソ連邦最高裁判所軍事部会の判決を取り消し、審理を打ち切る」(本書付録の新訳、『闇の男』239頁)。

 同時に、この「名誉回復決定書」には、国崎定洞の逮捕・粛清が、いかなる法的根拠にもとづくものであったかが、詳細に記されていた(詳しくは本書第二部の新訳資料参照)。それは、なんと「日本軍参謀本部諜報部将校タケダの命を受けて、1924四年から逮捕の日まで、日本、ドイツ、モスクワで革命活動家達に敵対するスパイ、テロ及び裏切り行為を行ったとして有罪と認められた」というものであった(本書付録)。

 その証拠とされたのは、おそらく拷問によるであろう国崎定洞自身の予審段階での自白供述と、別件で既に逮捕されていたモスクワ外国労働者出版所での国崎の同僚伊藤政之助(党名タケウチ)、元在東京ソ連大使館員A・S・ビリチの自白供述であった。

 国崎定洞は、法廷では無実を主張したが、ソ連刑法第58条スパイ罪で銃殺・財産没収の刑に処されていた。

 第五に、この「名誉回復決定書」から、国崎定洞の逮捕が、沖縄出身でアメリカに移民して労働運動に加わり、アメリカから国外追放になってソ連に亡命した日本人四人(いわゆる「アメ亡組」のユク=島正栄、パク=宮城與三郎、ニュー=照屋忠盛、ツォイ=又吉淳)の38年粛清のきっかけになったらしいことも、明らかになった。

 私達は、ベルリンに住む遺児タツコ・レートリヒや日本の国崎家に「国崎定洞の名誉回復決定書」を届けるため、『闇の男』の著者の一人である小林峻一氏に、ロシア語原文のコピー閲覧を願い出た。ジャーナリスト小林峻一・加藤昭両氏は、事情を了解して、『闇の男』に公表した資料のみならず、モスクワで収集した国崎定洞に関連するロシア語(一部ドイツ語及び日本語)資料一式を提供してくれた。そこには大日本帝国発行の国崎定洞のパスポートも入っていた(口絵写真参照)。それが、「国崎定洞ファイル」である。その主要部分は、本書口絵、本文中、及び第二部付録に、資料として訳出・収録されている。

 加藤哲郎は、ロシア語に堪能な富山大学藤井一行教授の協力を得て、「国崎定洞ファイル」を他の史資料を参照しながら解読し、1994年6月、国崎定洞の粛清の背景と経過を『モスクワで粛清された日本人――三〇年代共産党と国崎定洞・山本懸蔵の悲劇』(青木書店)という書物にまとめた。また、同年11月に刊行した『国民国家のエルゴロジー――「共産党宣言」から「民衆の地球宣言」へ』(平凡社)においても、日本の国境を越えた国崎定洞の活動の意味を、リヒアルト・ゾルゲ、アイノ・クーシネン、片山潜、野坂参三、山本懸蔵、杉本良吉・岡田嘉子らとの対比で論じた。

 それらとある程度重複することは避けられないが、以下では、1992年以降に明らかになった点を中心に、改めて国崎定洞の生涯を振り返ってみよう。

 「国崎定洞ファイル」に入っていた新資料で、本書にとってとりわけ貴重なのは、一九三二年六月二五日の日付の入った、ベルリン時代の自筆の日本語履歴書がみつかったことである。

 1970年に執筆された本書第1章では、「国崎個人が自らについて語ったものが全くないので」関係者からの聞き取りに頼らざるをえなかった事情が述べられた(9頁)。しかし、旧ソ連に残された資料の中で、国崎定洞は、ベルリン留学までの自分の足跡を、以下のように簡潔に述べていた(口絵写真参照、ここでは、一部を現代漢字・かなづかいに改め、三節に分けて紹介する)。

 「明治二十七[一八九四]年十月五日、熊本に生まる。医師国崎宗英の次男に生まれ、川越中学校、第一高等学校を経て、東京帝大医学部に入学、大正八[一九一九]年十二月卒業、細菌学を研究する目的をもって伝染病研究所に入り、翌九[一九二〇]年技手に命ぜらる。
 大学在学中より興味をもって研究したる社会学に対する興味は、当時勃興しつつあった労働運動と共に、ますます増大するものありしも、何等連絡を有せざりしため、特別なる実践的活動に入るに到らず。やがて一年志願兵として麻布歩兵第三連隊に勤務、一年四ヵ月の入隊後、陸軍三等軍医、予備役に編入せらる。
 大正十四年(一九二五)、東大衛生学教室に社会衛生学研究のための助教授に任ぜられる。伝染病研究所より東大に移るに到って、当時勃興の状態にありし革命的学生運動と接触するの機会を得、新人会に出入り、更に当時労働者農民党結成準備のために結成され活動中の政治研究会に入会す。」

 ここまでのきわめて簡単な記述によっても、いくつか注目すべき点がある。

 第一に、国崎定洞は、東大医学部在学中から社会科学への関心を持ち、ただ社会運動との「連絡を有せざりしため、特別なる実践的活動に入らず」と述べている。本書第三章で推定した国崎定洞の思想形成を裏書きする。

 第二に、大正10(1921)年12月1日からの軍隊生活が、「一年四ヵ月の入隊後、陸軍三等軍医、予備役に編入」と語られている。この履歴書は、加藤『モスクワで粛清された日本人』第五章で述べたように、1932年6月に片山潜の求めに応じて書かれ、同年9月のモスクワへの政治亡命とクートベ入学の手続きのために作られたものと思われるが、この時点では軍歴を、国崎定洞は何の不安もなく履歴書に入れている(ただし、24年に陸軍一等看護長に任ぜられたことは述べられていない)。

 ところがこの軍務歴が、1937年夏の粛清にあたっては、「日本陸軍参謀本部諜報部将校タケダの命を受けて、一九二四年から逮捕の日まで、日本、ドイツ、モスクワで」スパイ活動をしていたというデッチ上げの根拠とされ、銃殺されたと推定できる。

 第三に、国崎定洞は、1925年に伝染病研究所から東大医学部に移り助教授になったと申告している。医学部助教授に登用され高等官六等に叙されたのは24年8月21日であったが、国崎定洞にとっては、25年に伝染病研究所から衛生学教室に移ってからの仕事が東大の職務と自覚されていたのであろう。

 「大正十五年(一九二六年)秋、社会衛生学研究の目的をもってドイツに二年間留学を命ぜらる。既に従来より抱懐しつつあった古典的社会衛生学の反動的役割に対する認識は、ドイツに在りて益々明瞭となり、つよくプロレタリアの革命的運動に共鳴し、一九二八年初め、赤色救援会ドイツ支部に入会、次いで一九二八年七月、ドイツ共産党に入党す。
 ベルリン・クロイツベルグ区の街頭細胞に所属し、ウンターカッシーラー[会計係]となり、一九二九年一月ー二月、党本部に行われたる党役員のための講習に参加す。これより先、一九二八年三月十五日に行われたる日本共産党に対する大衆的逮捕に際して逮捕されたる当時党員たりし友人浅野晃宅に於ける家宅捜索により、発見せられたる書簡により、余と日本共産党との連絡を推測したる官憲は大学当局を圧迫し、ついに当時医学部部長たりし林[春雄]学長の来欧となり、免官を強要せらる。一九二九年春三月辞職す。」

 この自筆履歴書の出現によって、国崎定洞のドイツ共産党入党の時期は、かつて堀江邑一の証言などから私達が推定した1927年冬ではなく、28年7月であったことが判明した。また、国崎定洞が、28年3・15事件における浅野晃の検挙により東大に戻れなくなり「免官を強要せらる」としていることが注目される。

 というのは、私達のこれまでの研究では、第12章に紹介したように、一方に有沢広巳のように国崎定洞は28年春にはまだ日本に帰国する意志があったという証言と、他方で、堀江邑一のように3・15事件当時は既に職業革命家への道を歩みはじめていたという証言があった。東大当局は、国崎のベルリンでの言動に頭を痛めていた。国崎を医学者として高く評価していた長与又郎教授は、28年3-8月のヨーロッパ滞在中、なんとか国崎と会おうと努めた。当時の医学部長である林春雄学長も、ベルリンで国崎定洞と会おうとした。しかし、東大当局が28年に帰国と教授昇格を説得しようとしたのか、それとも辞表提出を強要しようとしたのかは、これまでのところ、定かでなかった。この自筆履歴書の出現によって、国崎定洞自身は、東大助教授辞職を「免官を強要」されたものと受け取っていたことが明らかになった。長与教授も林学長も、けっきょく国崎とは会えなかったが、おそらく東大は辞めさせたがっているという情報が、国崎に届いていたのであろう。

 これに関連して、本書第12章で、川上武は、故名倉重雄・赤松茂の証言にもとづいて、国崎定洞の一高・東大医学部・伝染病研究所を通じての無二の親友であった松岡冬樹が、ベルリンで長与教授の意向を国崎定洞に伝えたのではないか、と述べていた。この事実は、私達にとっても思いがけないかたちで、本書執筆中に確認された。

 文芸雑誌『新潮』の1995年2月号に、岡谷公二「松岡国男の恋」という評論が載っている。松岡国男とは、民俗学者柳田國男の柳田家に養子に入る前の名前である。岡谷の評論は、柳田國男の学生時代の新体詩や田山花袋宛手紙に出てくる恋愛の相手と意味を考証したものであるが、明治30(1897)年頃の柳田=松岡國男は、当時下総布佐(現千葉県我孫子市布佐)に凌雲堂医院を開業していた長兄松岡鼎のもとで暮らしていた。この凌雲堂医院の周辺が柳田國男の成就しえなかった恋の舞台で、そこでの國男の悲恋の体験が、柳田家への養子縁組、「歌のわかれ」と官吏への道の選択に影を落としている。

 川上武は、たまたまこの評論を読んで、旧い記憶がよみがえった。かつて『国崎定洞』(1970年)執筆の際に連絡をとった松岡冬樹の関係者が「松岡文雄」という我孫子市布佐在住の医師であり、岡谷の評論には「松岡鼎の次男で、凌雲堂医院を継いでいる松岡文雄氏の証言」が出てくる(157頁)。松岡冬樹が、柳田國男の縁者である可能性が出てきた。

 そこで柳田國男の評伝類を調べると、松岡鼎には、生まれたばかりの長男を残して1893年に亡くなった三番目の妻がおり、翌年冬に四度目の結婚をしていた。また、鼎の弟で、國男の次弟にあたる松岡静雄が、第一次世界大戦後に貴族院書記官長を勤めた柳田國男の支援をえて「日蘭通交調査会を設立」したとある(岩本由輝『続・柳田國男』柏書房、1983年、237-246頁)。

 『流離の革命家』で川上は、松岡冬樹は「叔父の関係で、伝研より日蘭通商[正しくは交]調査会に」いったと聞書きしていた(146頁)。松岡静雄は、松岡鼎の長男からみて「叔父」にあたるので、国崎定洞(1894年生まれ)の同級生であった松岡冬樹は、松岡鼎の三番目の妻との間に生まれた長男、柳田國男・松岡静雄の甥であると推定できた。

 このことを、川上武が94歳で存命中の松岡文雄氏に電話で確かめ、松岡冬樹は、松岡文雄氏の実兄、すなわち鼎の長男で、叔父の松岡静雄をしたってジャワなどで衛生学研究に従事、1928年秋にブラジルに行く途中で、ベルリンに立ち寄ったことが確認できた。

 さらに重要なことに、私達の手元には、国崎定洞の姪田中あやから提供された、かつてドイツから田中あやの生家(国崎定洞の姉定雄の婚家)に送られてきた一枚の写真があった。それは、本書口絵に収めてあるが、右側に若々しい国崎定洞とフリーダ夫妻が並び、左側に偉丈夫な日本人夫妻とおぼしい姿が写っているもので、その左側の二人が誰であるかは、長い間、私達にとって謎であった。一時は在独革命的アジア人協会のインド人と推定してフリーダ夫人や千田是也らに問い合わせたが確認できず、加藤『モスクワで粛清された日本人』では、右側だけを切り取って、第六章のカバー写真とした(201頁)。

 川上武は、松岡冬樹こそ問題の写真の人物ではないかと推定し、松岡文雄氏に確認を求めた。そして、実弟文雄氏により、この写真は松岡家にも保存されており、松岡冬樹とその妻達子がベルリンの国崎定洞を訪問した際のものであること、松岡家にある同じ写真には「昭和3[1928]年10月29日伯林にて」と冬樹の手で記されていることが確認された。つまり、名倉・赤松の回想する国崎・松岡会見が、写真によって証明された。

 松岡冬樹は、1893年2月18日生まれで、1925年に達子夫人と結婚している。国崎定洞と斎藤ともが新居をかまえた年である。松岡文雄氏の話では、ジャワやブラジルに渡って、広く海外で伝染病や衛生学を研究していた。松岡冬樹・達子夫妻がベルリンで新婚の国崎夫妻と会ったのは、南米拓殖株式会社がアマゾンの奥地に日本人村を建設する仕事に、シベリア経由で向かう途中の1928年10月29日のことであり、11月にはブラジルに到着してアマゾン流域の衛生学研究にとりくんだ。30年に日本に帰国、横浜で結核の病院長をつとめたが、自らも結核に感染して38年9月18日に死亡した。

 松岡冬樹には、半年前に訪ねたが会えなかった長与教授からの国崎へのメッセージが託されていたにちがいないが、その内容は定かではない。同じ叔父でも、「日本」や「郷土」にこだわった柳田國男よりも、海外で活躍した松岡静雄の影響を強く受けていたという松岡冬樹は、おそらく親友国崎定洞の異郷での再婚と活動にも、理解を示したと思われる。

 国崎定洞とフリーダが、1928年11月9日に生まれた娘に日本名「タツコ」と名付けたのは、二週間前に会ったばかりの親友松岡冬樹の愛妻の名を借用したのかもしれない。松岡文雄氏は、37年に中国に召集される前に、生前の兄から「国崎は独国留学から帰らず入蘇以後消息全く不明、おそらく彼の地で消されたのに違いない」と聞かされたという。

 この1932年日本語自筆履歴書の、東大当局より「免官を強要せらる」という国崎の記述が、ソ連に入国するための政治的方便(自分は軍国主義日本の政府から抑圧されたという亡命の根拠づけ)だという解釈もありえないわけではないが、そうではないであろう。つまり、ソ連亡命用に粉飾したのであれば、この履歴書の書かれた32年時点ではすでに「解党派」として日本共産党を追われていた「当時党員たりし友人」浅野晃の名前を挙げるはずはない。「古典的社会衛生学の反動的役割に対する認識は、ドイツに在りて益々明瞭となり」という叙述とともに、国崎定洞が医学者の道と決別した率直な理由と考えられる。

 ドイツ共産党入党後のベルリンでの街頭細胞員としての活動の記述も興味深いが、ここではむしろ、この履歴書に書かれていないことに、注目しておこう。個人名は、浅野晃と次項の片山潜以外、日本人の名前はでてこない。交流のあったドイツ共産党幹部(ハインツ・ノイマン、ヴィリ・ミュンツェンベルグ、ヘルマン・ドゥンカーら)の名前も、この履歴書には登場しない。ドイツ留学中に病死した亡妻斎藤とものことも、その後にベルリンで知り合ったフリーダ・レートリヒのことも、書かれていない。さらにいえば、和田哲二の名によるレーニン『共産主義内の「左翼」小児病』翻訳のことも、医学者として『社会衛生学講座』を刊行した話も、ここには出てこない。国崎定洞は、自らの主体的意志で過去と決別し、革命家への道を選択したことを、ここに記したのである。

 「一九二九年七月反帝国主義世界同盟の第二回大会に出席、片山潜と会う。潜氏の委嘱及び友人の勧告により、ドイツに留まり、日本の革命的諸団体と国際本部[コミンテルン]との連絡に努力することとなる。
 二九年末より当時ベルリン滞在中の同情者を糾合して革命的日本人グループを結成、尚二、三の共産党入党者と共に日本人スプラッハーグループ[日本語部]を構成し、その責任者となる。モスコーにおける代表との連絡は、余の特別なる任務として行う。
 一九三〇年夏、ベルリン郊外ベルクフェルドに移転、理由不明の事由により(政治的理由か)ニーダーバルニム郡より追放せられ、再びベルリンに帰る。一九三〇年秋以来ベルリン西南区レーウェ・ラジオ工場細胞内に配属せしめらる。一九三一年三月反ファシスト・ベルリン大会に委員として参加す。日本共産党との連絡は、この頃に到りて個人的連絡より公式の組織的連絡となる。
 一九三一年夏反帝同盟国際本部執行委員会に出席し、日本の支部を代表し活動報告をなす。
 一九三一年十月国際労働者救援会第八回大会に参加。日本代表団長となり、当時結成の運びに到りつつあった日本労農救援会のために連絡者として活動す。一九三一年十二月、反帝同盟国際本部に対する官憲の襲撃に際し逮捕せらる。尋問後即日釈放せらる。一九三二年一月ドイツ滞在革命的亜細亜人協会の設立に協力し、組織部長となる。
 三二年三月、国家の安寧を乱す活動をなしつつある故をもって、ベルリン警視庁よりプロイセン退去を命ぜらる。五月末、ハンブルクにおけるISH[世界水上港湾労働者組合]の国際大会にゲストとして出席す。
 ベルリン日本人グループ(ベルリン協議会)と連絡ある日本の団体は、
  一 コップ[日本プロレタリア文化連盟]所属のすべての文化団体
  二 赤色救援会[IRH、モップル]
  三 反帝[同盟]日本支部 反帝本部内に日本委員会を設け、日本支部との連絡に努力す
  四 労農救援会[IAH]。
 日本スプラッハグループ[ドイツ共産党日本語部]は、この協議会内のフラクションとして活動。
 なお、ISHのために働きつつある一同志(ハンブルク)、一同志(マルセーユ)、一同情者(ロンドン)との組織的協働のために努力しつつある。
                        一九三二・六・二五」

 ここで国崎定洞のいう「革命的日本人グループ」とは、1920年代末から30年代初頭の、国崎定洞を指導者としたドイツ共産党(KPD)日本語部のことである。その周辺には、多くの在独日本人左翼青年グループ(ベルリン反帝グループ)を結集して、反戦・反ファシズムの理論的・実践的活動を展開したことは、すでに第13章で詳述されている。

 そこには、千田是也、平野義太郎、山田勝次郎、堀江邑一、三宅鹿之助、三枝博音、服部英太郎、与謝野譲、藤森成吉、勝本清一郎、島崎蓊助、和井田一雄、小林陽之助、野村平爾、大岩誠、佐野碩、嬉野満洲雄、喜多村浩、小林義雄、八木誠三、小栗喬太郎、安達鶴太郎など、後に日本の学術・文化・芸術活動を牽引するようになる著名な人々をも、多数含んでいた(加藤哲郎「国崎定洞論」『日本の統一戦線運動』労働旬報社、1976年、参照)。

 また、ここに記された国崎定洞のドイツでの活動歴の多くは、この履歴書により初めて明らかにされたものである。

 片山潜とのつながりは、本書第15章でも述べられているが、「モスコーにおける代表との連絡は、余の特別なる任務として行う」、1931年春頃から「日本共産党との連絡は、‥‥個人的連絡より公式の組織的連絡となる」という記述は、当時の日本共産党中央委員会が風間丈吉・岩田義道らにより再建され、その国際連絡は松村ことスパイM=飯塚盈延が担当し、ちょうど野坂参三がソ連に出国する時期であるだけに、重要である。第13章で述べた革命的アジア人協会では、国崎定洞は組織部長であったと述べている。

 末尾のベルリン反帝グループとつながる日本の連絡団体は、いずれも1931-32年当時に戦前最高の組織人員を示した日本の大衆運動団体である。たしかに当時のナップ機関誌『戦旗』などには、国崎定洞らのベルリン反帝グループからの寄稿が多数収録されている。国崎定洞は、これらを通じて、30年代初頭の日本の反戦民主運動とつながっていた。

 また、末尾に特記されている「ISH=世界水上港湾労働者組合」は、当時の日本に世界の反戦反ファッショ運動の息吹きを伝えた海員労働者の国際組織で、ハンブルクの小林陽之助、マルセーユの大岩誠の日本人船員向けの宣伝活動は、小林・大岩の日本での検挙後の調書に詳しく供述されている。ロンドンの「一同情者」は特定が難しいが、加藤『モスクワで粛清された日本人』では、戦後日本のトロツキー研究家山西英一が候補者の一人となりうることを述べておいた(273頁)。

 いずれにせよ、この自筆履歴書の出現によって、国崎定洞のベルリン時代の活動領域と活動の骨格が、国崎自身の手で明らかにされたのである。

 ベルリン反帝グループの活動については、日本の特高外事警察記録のなかからも、国崎定洞の自筆履歴書の記述を裏付ける、新たな資料が見つかった。1992年末に復刻された内務省警保局「昭和八年中に於ける外事警察概要・欧米関係」である(原文は1933年末、『特高警察関係資料集成』第17巻、不二出版、1992年、361-363頁)。そのなかに、演出家村山知義の義弟で、27年3月に音楽研究のために渡独し、33年2月に帰国した、岡内順三(当時27歳)の供述内容が記されていた。

 岡内順三自身については、次のように書かれている。

 「昭和二年入独後は千田是也(伊藤圀夫)の勧誘を受け、当時「在伯林日本人マルクス主義読者会」に加入し、其後発展転化せる「日本人革命的左翼主義者団」「ナップ伯林支部」「伯林無産者団体協議会」に所属し各種会合に出席し、又小林多喜二(カニ工船)黒島傳次(シベリヤ物)其他作家同盟員の作品、作家同盟の規約並に同ニュース等の独訳提供に従事し、又伯林に於て開催の(一九三一年頃)国際プロレタリア写真家大会日本代表となり(佐野碩より依嘱され‥‥)他面国際革命作家協会員独逸人詩人ベッヒャー、ワイネル、評論家ピーハー等と親交ありたり。尚本人の述ぶるところによれば在独邦人左翼団体関係左表の通りにして、書記局員国崎定洞、勝本清一郎及小林等の三名が極秘に政治部を組織し、同地及内、外各種団体と連絡しつつありと。」

 これは、岡内順三が、日本の特高警察の求めに応じて、国崎定洞らベルリン・グループについて詳しく供述したことを意味する。それは、加藤『国民国家のエルゴロジー』にも紹介したように(74頁)、次のように図示されている(写真参照)。原図は、手書きガリ版印刷で読みにくく、事実関係の誤りも含まれているので、修正して解読すると、次のようになる。

 最上段には、1926-29年頃の「在独日本人マルクス主義読者会」が描かれている。正確にいうと、蝋山政道、有沢広巳らにより始められた「ベルリン社会科学研究会」のことである。岡内順三は、27年に入独し、28年に千田是也の勧誘でそこに加わり、毎週土曜日午後2-6時にビアホールに集まって、エンゲルス『住宅問題』、レーニン『国家と革命』、ブハーリン『史的唯物論』などを読んでいたという。

 岡内順三は、その読書会メンバーとして、与謝野譲(鉄幹・晶子の甥)、千田是也(演出家)、有沢広巳(当時、東大助教授)、舟橋諄一(九大助教授)、土屋喬雄(東大助教授)、蜷川虎三(京大助教授、後の京都府知事)、国崎定洞(東大助教授)、山田勝次郎(京大助教授)、岡上守道(朝日新聞特派員、別名黒田礼二)、鈴木東民(日本電報通信社特派員、戦後の読売争議指導者)、それに自分の名前などを挙げている。「某(高松高商先生)」とあるのは、経済学者堀江邑一である。岡内はさらに、「山形太助(画家、帰朝)」「山田一(ベルリン週報、帰朝、神戸税関勤務)」「浦和高校体操教師(土屋と帰朝)」と、これまで知られていなかった三人の人物をも挙げている。

 本書第10章、13章の有沢広巳、堀江邑一らの証言によると、この社会科学研究会には、蝋山政道(当時、東大助教授)、谷口吉彦(京大助教授)、山本勝市(和歌山高商教授)、高野岩三郎(東大教授)、菊地勇夫(九大教授)なども加わっていた。岡内によると、会合そのものは三〇名ほどで行われ、「主催は国崎なるも表面に立たず、当時東大助教授のため」と注記している。

 岡内順三によれば、これが29-32年には、より政治的なかたちに発展する。いわゆる「ベルリン反帝グループ」である。岡内はこの会を、毎週土曜日か水曜日にカフェーやバーで約二〇名でもたれたといい、そのメンバーとして、有沢広巳、国崎定洞、平野義太郎(東大助教授)、小林陽之助(仙台、二高中退)、勝本清一郎(文芸評論家)、島崎蓊助(画家、藤村次男)、三宅鹿之助(京城帝大助教授)、岡田自身の他に、「根本(斎藤コト東大哲学)」の名をあげている。この「根本」が、「根本辰(とき)」で、後述する国崎定洞の粛清過程で、重要な役割を演じる。ただし、岡内の供述は根本を「東大哲学」としているが、「京大社会学科昭和三年卒業」の誤りである。同様の事実誤認は他にも見られ、28年春に帰国した有沢をメンバーにしたり、三宅を「学習院教授」としたり、国崎を「東大教授」としたりしている。

 岡内によれば、このベルリン・グループの内部に、1930年代に入って結成されるのが、「日本人革命的左翼主義者団」である。岡内はここに、平野・三宅に加えて藤森成吉(作家)と「河村某」の名を挙げ、「表面藤森成吉代表となるも事実は国崎これを牛耳る」と注記している。「河村某」は、「中野方面で兄は画家」とあるから、おそらく島崎蓊助のことである。ただし、このような団体名は他のベルリン反帝グループについての記録・回想にはなく、平野義太郎は29年11月に離独している。

 さらに内部には、30年4月から「ナップ・ベルリン支部」があり、藤森の他、佐野碩、「石村某」が加わっていたという。「石村」は「東京高等工芸出身」とあるから、かつて小林義雄や石堂清倫が指摘した建築家「岡村蚊象」こと山口文象と推定できる(『小林義雄教授古稀記念論集』西田書店、1983年、46頁、石堂清倫『中野重治と社会主義』勁草書房、1991年、214頁)。

 こちらの方は、当時のナップ機関紙『戦旗』『ナップ』に多くのベルリン・グループの投稿がみられ、「ベルリン支部」に近い体裁があった可能性はある。ただし、日本の官憲が考えたほどには組織だったものではなかったであろう。

 岡内は、1930年5月には「ベルリン無産者団体協議会」がつくられ、作家同盟(勝本)、劇場同盟(佐野・千田)、美術同盟(島崎)、プロレタリア科学・無神論その他(国崎、小林、藤森、根本)という任務分担ができており、その中心の書記局には、国崎定洞、勝本清一郎、小林陽之助が所属し、コミンテルンとつながる秘密の「政治部」をつくって指導していた、反帝同盟、モップル(国際赤色救援会)などとも連絡していた、と供述している。これは、国崎定洞の自筆履歴書と照らし合わせると、岡内なりに感じ取った「ドイツ共産党日本語部」のことであり、国崎・勝本・小林が中心にいたことは事実であるが、岡内が想像したような明確な任務分担ができていたとは思われない。「無産者団体協議会」という名称と共に、日本の特高外事警察のしたてあげたデッチ上げであろう。

 つまり、ベルリン・グループは、岡内順三が日本の警察に誘導尋問されて書かされた供述ほどには、系統だったものではなかった。ドイツ共産党日本語部の国崎定洞、千田是也、勝本清一郎、小林陽之助らの組織する、さまざまな反戦反帝活動、文化芸術活動に、それぞれの問題に関心を持つ留学生や学者・文化人が加わる、ゆるやかなグループであった。後の大岩誠調書にも、岡内供述と同様なベルリン・グループについての誇大報告がみられるが、日本の特高警察は、帰国したこれらの人々をなんとかコミンテルンと結びつけ、治安維持法で取り締まろうとしたのである。

 また、岡内供述は挙げていないが、1931年9月に満州事変が勃発し、ドイツでナチスの政権掌握が近づいた時期には、このグループを中心に中国人・朝鮮人・インド人らも加えて、「在独革命的アジア人協会」が結成された。国崎定洞・小林陽之助らの他、野村平爾、大岩誠、喜多村浩、和井田一雄、三枝博音、小栗喬太郎、八木誠三、小林義雄、安達鶴太郎、嬉野満洲雄らが、反帝反戦活動に関わっていた。 こうしたベルリン反帝グループの活動については、本書第13章や加藤「国崎定洞論」(『日本の統一戦線運動』労働旬報社、1976年)、同『モスクワで粛清された日本人』第8章に詳しい。

 これまで判明したベルリン反帝グループの関係者を、そのドイツ滞在時期に留意して一覧表にまとめると、別表のようになる。

 これらのメンバーのうち、大岩・嬉野・野村・佐野・大野は、パリ経由でベルリン入りした。和井田一雄と大野俊一は、独仏両語に堪能であった。これらの人々を媒介に、ベルリン反帝グループは、モスクワの片山潜、野坂参三ばかりでなく、パリのガスプ・グループ(野村平爾によると、在巴里芸術科学友の会、1931年10月頃結成)とも密接な連絡を保っていた。

 パリのガスプ・グループには、画家の佐藤敬、内田巌、田中忠雄、吉井淳二、美術評論の富永惣一、建築の坂倉準三、化学の平田文夫らが加わっていたとされ、このモスクワーベルリンーパリー東京の人的ネットワークの周辺には、勝野金政、岡田桑三(俳優山内光)、衣笠貞之助、山西英一、土方與志、ねずまさしらがグループと直接接したほか、新明正道、杉本栄一、大熊信行、名取洋之助、矢代幸雄、山田智三郎、山脇巌、武林夢想庵、村山知義、蔵原惟人、宮本百合子、林芙美子、芹沢光治良、中村光夫、竹山道雄、中島健蔵、林達夫ら、当時の多彩な知識人・文化人・芸術青年たちの姿が見え隠れしている(大岩誠、小林陽之助、ねずまさしの供述調書、千田是也、野村平爾の回想のほか、第二部付録の参考文献参照)。

  また、学問・芸術・文化の多領域を横断するこれらの人々の青春時代の濃密な共通体験は、帰国後さまざまな政治的立場に分かれた戦中・戦後も、ゆるやかなネットワークのかたちで保持され、ドイツのワイマール・デモクラシーを日本の戦後民主主義へと架橋する、いくつかのルートをかたちづくる。伝説化した国崎定洞と有沢広巳、千田是也、勝本清一郎は、その人格的結節環であった。

 先の国崎定洞の日本語自筆履歴書は、1932年6月25日付で書かれていた。「国崎定洞ファイル」のなかには、この日本語自筆履歴書を下敷にして、ドイツ語で書かれた自筆履歴書も入っていた。このドイツ語自筆履歴書は、1932年夏のアムステルダム国際反戦大会に国崎定洞・片山潜が出席した直後、国崎一家がモスクワに亡命した9月に書かれたもので、10月2日付でソ連側(いかなる機関かは不明だが、おそらくクートベ=東洋勤労者共産主義大学と思われる)の受領印があった。

 この9月のドイツ語履歴書は、6月の日本語履歴書とほとんど同内容だが、細かい点でいくつかの修正・省略がある。第一に、ドイツ語履歴書では、東大助教授になった時期が1925年でなく24年と正確にされている。第二に、東大免官の経緯の説明では、28年3月の日本共産党への大弾圧で「私の友人たちが逮捕され」とのみ記され、浅野晃の名は省略されている。また、「大学当局は二九年三月に私を共産主義思想の故に追放した」と述べ、林学長の来欧の件も省略されている。第三に、27年の片山潜との出会いと個人的連絡、その個人的連絡が31年3月頃から「公式の組織的連絡」になったという日本語履歴書の記述、ドイツ共産党内での所属細胞などの具体的記述も省略されている。

 三ヵ月を隔てて書かれた二つの自筆履歴書は、その構成も内容も近似している。だがドイツ語履歴書は、なぜ1932年9月に、なんのために書かれたかのだろうか? おそらくそのポイントは、当時の在モスクワ日本人の長老、コミンテルン幹部会員片山潜と国崎定洞との関係である。

 これまでのわれわれの研究によると、この32年の二つの履歴書は、いずれも片山潜の手を経てソ連当局に渡ったと推定できる。つまり、6月の日本語自筆履歴書は、片山からソ連への渡航とクートベ入学を勧められ、国崎がベルリンからモスクワの片山に送ったものであり、9月のドイツ語履歴書は、ソ連亡命直後にクートベ入学手続きの正式書類としてヨーロッパ語に訳すよう求められ、日本語履歴書をもとに国崎定洞が自分自身で独訳して片山に提出し、片山潜から関係当局に届けられたものと推定できる。

 このことから、国崎定洞のソ連への亡命理由は、従来考えられてきたナチスの台頭で国崎がドイツで活動できなくなったためであったかどうかが問題になる。国崎が日本語履歴書を書いた32年6月のベルリンは、ナチスが台頭してきたとはいえ、ドイツ共産党も勢力を伸ばしている局面で、反戦反ファシズムのために東大教授の椅子を捨ててドイツに残った共産主義者国崎が、この局面でソ連亡命を希望するとは考えにくい。ナチスの政権掌握、ドイツ共産党の非合法化は、翌33年に入ってからである。

 むしろ、この履歴書の二つの日付が意味するものは、モスクワの片山潜の要請が、国崎定洞のモスクワ亡命の直接の理由であったことを物語っている。次章で詳述するように、当時の片山潜は、1930年秋に山本懸蔵の告発で秘書勝野金政をラーゲリに送られ、重病で半年以上入院し、31年末にモスクワに戻った山本懸蔵と対立していた。片山のクレムリン病院入院中の31年4月に、野坂参三夫妻が日本からやってきたが、野坂の態度は片山と山本との間であいまいで、片山の頼りにはならなかった。なによりも、老片山の最期の仕事は、『自伝』執筆と、そのドイツ語訳の完成であった(当時の国際著作権上、ロシア語版では著作権の保護が受けれず、ドイツ語訳を先に出す予定であった)。その手足となっていた勝野金政の代わりに、国崎の訪ソを要請したと考えられる。

 同時に、当時のクートベ卒業生は、国内日本共産党の幹部候補生であった。天皇制特高警察の弾圧のもとで、日本共産党は指導部を根こそぎ奪われていた。クートベを卒業してモスクワから日本に派遣された風間丈吉、山本正美は、帰国してすぐに党委員長になった。片山潜は、国崎定洞にクートベ卒業の経歴を与えて、日本共産党再建の切札にしようと考えたのかもしれない(『モスクワで粛清された日本人』第6章、参照)。

 しかし、1932年の日本語・ドイツ語の自筆履歴書は、ソ連側による37年の国崎定洞の逮捕・粛清、59年の名誉回復の基礎資料の一つとして、国崎定洞の裁判記録と一緒にモスクワの文書館の奥に眠り続けた。

 1959年11月31日付「名誉回復決定書」によると、37年に国崎定洞が無実の罪で逮捕・銃殺された理由は、1924年以来国崎定洞が「陸軍諜報部員タケダ」とのつながりがあったという容疑であった。「タケダ」の名前は、本書第四章にもその他の記録にも出てこない、ソ連秘密警察によるデッチ上げである。

 日本語及びドイツ語履歴書には、たしかに国崎定洞自身が軍隊生活について記している。徴兵制の戦前日本では入隊は義務であり、もしもこれを書かなければソ連では「経歴詐称」で疑われたはずであるが、国崎定洞の粛清裁判では、「日本陸軍のスパイ」の根拠としてこの履歴書が使われた可能性が高い。

  ベルリン時代の国崎定洞に関わる問題で、「国崎定洞ファイル」によっても明らかにならなかった謎がある。本書第十八章で述べられ、川上武・加藤哲郎・松井坦編訳『社会衛生学から革命へ――国崎定洞の手紙と論文』にも収録された、満州事変(1931年9月)直後から32年のコミンテルンのドイツ語機関紙『インプレコール』に多くの論文を執筆し活躍した理論家「ヨベ」が、国崎定洞であるかどうかの問題である。

 1977年の『社会衛生学から革命へ』で、加藤は「ヨベ」を日本国内の事情に詳しい当時の在外日本人共産主義者であると判断し、存命中のフリーダ夫人が国崎定洞は『インプレコール』にも執筆していたと証言したことから、「ヨベ=国崎定洞」と推定した。

 しかしその後、加藤の「ヨベ=国崎」説については、労働運動史研究家村田陽一が疑問を提起した。「ヨベ」の論文は、当時の『インプレコール』紙上できわめて重要な指導的分析を広く行っているので、ドイツ共産党日本語部の国崎定洞とは考えにくく、むしろモスクワのコミンテルン東洋部の日本担当の高官、具体的にはラヨシュ・マジャールではないか、と異議を唱えた。「ヨベ=マジャール」説である(村田陽一『コミンテルンと日本』第2巻、大月書店、1987、506・511頁)。

 さらに最近、歴史学者岩村登志夫は、「ヨベ」の諸論文の内容を検討し、日本共産党のいわゆる「三二年テーゼ」の「日本=絶対主義」説というよりも「三一年政治テーゼ草案」に近い「日本=ファシズム」説を下敷に書かれているので、「ヨベ」は、当時のコミンテルン日本問題担当者のなかの「三二年テーゼ」に対する反対派と推定され、むしろプロフィンテルン(赤色労働組合インターナショナル)日本担当のカール・ヤンソンではないかという新説を発表している。「ヨベ=ヤンソン」説である(Toshio Iwamura, The 1932 Theses of the Japanese Communist Party and the Koza-ha, in, Jahrbuch fur Historishe Hommunismusforshung 1994,Berlin 1994,S.38ff.)。

 「ヨベ」が国崎定洞であるという積極的証拠は、「国崎定洞ファイル」にはなかったが、いずれの説も確証があるわけではない。国崎定洞は、自筆履歴書でいっさい自己の理論活動にはふれず、和田哲二名でのレーニンの翻訳や、『戦旗』など日本の雑誌への寄稿についても、何も書いていない。村田の「ヨベ=マジャール」説、岩村の「ヨベ=ヤンソン」説も、加藤の「ヨベ=国崎定洞」説を決定的に否定しくつがえすものとはなっていないので、本書では残された謎であることを指摘し、そのままにしておく。

 

(1) 野坂参三  戦前・戦後を通じての日本共産党指導者。一八九二年生。日本共産党創立に加わり、一九三一年モスクワに渡り、コミンテルン幹部会員、アメリカ、中国で活動し、戦後は日本共産党の国会議員、中央委員会議長、同名誉議長。別名岡野進。一九九二年に、旧ソ連大粛清期に山本懸蔵をコミンテルン内で告発していたことが明るみに出て、日本共産党を除名される。一九九三年没。
 (2) 伊藤政之助  旧ソ連に亡命して粛清された日本共産党員。共同印刷労働者で、一九二七年にクートベに派遣され、二九年帰国。三〇年に訪ソし、三四年からはモスクワで外国労働者出版所に勤務。三六年に山本懸蔵の告発で党を除名され、そのまま粛清される。
 (3) 浅野 晃  評論家。一九〇一年生。東大新人会の活動家で、二七年から労働農民党内共産党フラクションのキャップ。二八年三・一五事件後逮捕され、三〇年保釈後に水野成夫らと日本共産党労働者派(解党派)を結成、除名さる。三四年に転向し日本浪漫派に加わる。戦後は立正大学教授、文芸評論家。一九九〇年没。
(4) 松岡冬樹 一高・東大医学部・伝研と国崎定洞と一緒だった同級生で親友。一八九三年、民俗学者柳田國男の長兄で医師である松岡鼎の長男として生まれる。叔父である松岡静雄(柳田國男の次弟)のはじめた日蘭通交調査会などに関わり、ジャワやブラジルで伝染病研究に従事、一九三〇年に日本に帰国して横浜の結核病院長をつとめたが、三八年九月に結核で病死。一九二八年一〇月二九日に妻達子(旧姓山内、一九〇四ー五九年)と共に国崎定洞・フリーダ夫妻と写ったドイツでの写真が残されている(口絵参照)。
 (5) 小林義雄  経済学者。一九〇九年生。東大経済学部で有沢広巳に学び、卒業後の三一ー三二年、ベルリン反帝グループに加わる。戦後は専修大学・國學院大学教授。一九九五年没。
 (6) 八木誠三  一九三一ー三三年にベルリン反帝グループに加わり、革命的アジア人協会などで活動した。戦後は名古屋で実業家。故人。
 (7) 安達鶴太郎  一九〇六年生。東大新人会出身で、一九三一ー三三年頃、ベルリン反帝グループに加わる。ナチス台頭後もベルリンに留まり日本語新聞『ベルリン週報』を鈴木東民から引き継ぐ。三六同盟通信発足に伴いベルリン支局長。戦後は時事通信社政治部長・編集局長などを歴任し、一九八九年没。
 (8) 山西英一  戦後日本でのトロツキー、ドイッチャー紹介者。一八九九年生。一九三一年、イギリスに渡る途中でベルリン反帝グループと接触し、三二年夏まで小林陽之助らと文通を続ける。イギリスでトロツキーに共鳴し、以後、コミンテルンや日本共産党とは対立。一九八四年没。
 (9) 岡内順三  演出家村山知義の義弟。音楽研究のため二八年渡独、三三年帰国。ベルリン反帝グループに加わる。
 (10) 蜷川虎三  一八九七年生。統計学者で戦後長く京都府知事をつとめた。京大助教授であった一九二八ー三〇年にベルリンに留学し、国崎定洞らの社会科学研究会に加わる。一九八一年没。
 (11) 山口文象  建築家。一九〇二年生。別名岡村蚊象。グロピウスのもとでバウハウスを学んだ日本におけるモダニズム建築の代表者。一九三〇ー三二年にベルリン反帝グループに加わる。一九七八年没。
 (12) 勝野金政  一九二〇年代末モスクワでの片山潜私設秘書。一九〇一年生。早稲田大学からパリ大学に留学、フランス共産党に入党し二八年春国外追放、ドイツの平野義太郎、国崎定洞の紹介でモスクワの片山潜のもとに渡りソ連共産党に転籍、片山の『自伝』執筆を助ける。三〇年秋、山本懸蔵の告発でソ連秘密警察に逮捕され、強制収容所送り。
三四年に日本に帰国し検挙・転向。戦後は故郷の南木曾で実業家。一九八四年没。
 (13) 根本 辰  一九〇四年生。京大で学生運動に加わり、無産者新聞を経てドイツに留学、ベルリン反帝グループに加わる。三〇年秋、国崎定洞の紹介でモスクワの片山潜を訪れクートベ入学を志願、片山潜・勝野金政は根本を援助しようとしたが、山本懸蔵がスパイと疑い秘密警察に告発、国外追放になる。勝野はこの時逮捕・強制収容所送りとなった。帰国後は地方行政学会などに勤務したが、一九三八年病没。
 (14) 本書第一ー十八章の章末などに注記した人名の内、『著作権一覧』や各種人名録・辞事典等でその後の生没年が確認できたのは、以下の通りである。
 中村敬三(一八九六ー一九九三)、真柄正直(一九〇〇ー八六)、水原秋桜子(一八九二ー一九八一)、森戸辰男(一八八八ー一九八四)、小宮義孝(一九〇〇ー七六)、曾田長宗(一九〇二ー八四)、岡野丈雄(一九〇〇ー八二)、勝木新次(一九〇三ー八五)、山田盛太郎(一八九七ー一九八〇)、名倉重雄(一八九四ー一九八五)、市川義雄(一八九四ー一九七一)、守屋典郎(一九〇七ー)、石堂清倫(一九〇四ー)、宮本忍(一九一一ー八七)、井上善十郎(一八九三ー一九六一)、有沢広巳(一八九六ー一九八八)、堀江邑一(一八九六ー一九九一)、谷口吉彦(一八九一ー一九五六)、蝋山政道(一八九五ー一九八〇)、舟橋諄一(一九〇〇ー)、山本勝市(一八九六ー一九八六)、山田勝次郎(一八九七ー一九八二)、土屋喬雄(一八九六ー一九八八)、高野岩三郎(一八七一ー一九四九)、菊地勇夫(一八九八ー一九七五)、岩田芳夫(一八九五ー?)、野辺地慶三(一八九〇ー一九七八)、岡上守道(一八九〇ー一九四三)、三宅鹿之助(?ー?)、与謝野譲(?ー一九三〇)、島崎蓊助(一九〇八ー九二)、嬉野満洲雄(一九〇七ー九三)、小林陽之助(一九〇八ー四二)、野村平爾(一九〇二ー七九)、喜多村浩(一九〇九ー)、小栗喬太郎(一九〇六ー六七)、大岩誠(一九〇〇ー五七)、三枝博音(一八九二ー一九六三)、藤森成吉(一八九二ー一九七七)、千田是也(一九〇四ー九四)、服部英太郎(一八九九ー一九六五)、鈴木東民(一八九五ー一九七九)、平野義太郎(一八九七ー一九八〇)、勝本清一郎(一八九九ー一九六七)、野坂竜(一八九六ー一九七一)、山辺健太郎(一九〇五ー七七)、土方与志(一八九八ー一九五九)、佐野碩(一九〇五ー六六)。

 第20章 山本懸蔵の国崎告発と粛清の真実

  


 旧ソ連公文書館秘密文書「国崎定洞ファイル」には、1935年3月14日付でドイツ語で書かれた、もう一通の自筆履歴書が入っている。それは、同16日付でドイツ語にタイプされて「02783/Da./2」と分類され、さらに16日付で「2783/I/нем/A.Б.」とタイプされたロシア語に訳され、「コンの履歴」と題して「ファイル」に収められていた。「コン」とは、すでにフリーダ夫人の回想にもとづき本書第17章に記したように、モスクワでの国崎定洞の名前「アレクサンダー・コン」のことである。

 この履歴書からは、先の1932年自筆履歴書とは異なり、ソ連に入国してからの経歴が詳しくわかる。以下に、国崎の手書きのドイツ語オリジナル原稿から全文を訳出する。

 

「 コン[国崎定洞]の履歴書
 
  a) 私は、一八九四年一〇月五日、日本の熊本という町で生まれた。父は貧しい医師で、一三歳になるまで私は父が村医をしていた対馬という島で暮らした。東京の近くで弁護士をしていた姉の夫の物質的援助を得て、私は、中学・高校、さらに東京大学(医学部)での勉強を終えることが可能になった。大学を卒業後、約三年間、私は、帝国伝染病研究所で助手として働いた。それから一年間の徴兵があり、併せて約一年半、軍医として入隊した(地位は陸軍少尉)。軍務を終えてから、私は東京大学の衛生学の助教授となった。一年後の一九二六年、社会衛生学研究のためにドイツに派遣された。
 助教授として働いていた時に、全日本に強力な革命的学生運動が巻き起こった。それは、この国で次第に発展しつつあった労働者農民の運動に、強く影響されていた。私は学生運動組織、さらには革命的インテリゲンチャを統合した政治研究会とも緊密に結びついた。ドイツ滞在中も、これらの人々との連絡を保ち続けた。
 一九二八年三月に最初の大量検挙[三・一五事件]があり、私の友人もまた逮捕されて、私とこれらの人々との連絡が明るみに出た。私は危険な政治思想を持っているという理由で、大学から追放された。それ以来私はドイツに居残り、一九三二年にソ連に来た。
 私の妻はドイツ人で、ラジオ工場の労働者である。彼女の両親は亡くなったが、政党所属はなかった。彼女の長兄は警察官として働いているが、他の姉妹・兄弟は労働者で、政党所属はない。
 私の父はずっと前に亡くなり、三人の姉妹はいずれも結婚している。その夫たちは、学校教師、弁護士、エンジニア等である。彼らのなかに、政党員である者はいない[国崎定洞の姉妹は本当は定雄・菊雄・トク・須那の四人であるが、国崎はなぜか三人と記している――国崎拓治氏のご教示による]。私はドイツのことを知っており、イギリス、ソ連についても多少はわかる。ドイツ語は話し書くことができ、英語は読めるだけ、ロシア語は読むことができ、多少は話せる。
 b)高等教育は大学卒業。党の政治教育は、ドイツのベルリン党本部で二ヵ月間の活動家コースを修了。それ以外はほとんど独学。ソ連に来てから、クートベ[東洋勤労者共産主義大学]で一年間大学院生として学び、それから三ヵ月間、セクターA[クートベ日本部]のコースで学ぶ。私はドイツで、ベルリンの日本人政治サークルの指導者として活動した。ドイツ語は自由に使うことができ、英語は読むことができ、ロシア語は読むことができ日本語に翻訳できる。
 c及びd) 一九二八年七月に、私はドイツでドイツ共産党に入党し、最初は細胞内のグループの会計係として働いた。ドイツで私は、同志たちと共に、ベルリンにおける日本人政治サークルを組織し、全期間を通じてそれを指導した。構成員数はしばしば変わったが、一時は二〇名に達した。一九二八ー三一年頃には、革命的大衆組織(文化、反帝など)が力強く発展し、国際組織とも結びつこうと努めた。われわれのグループとドイツ共産党日本語部は、ベルリンで、モップル[国際赤色救援会]組織、文化組織、反帝同盟などの窓口になり、日本から多くの資料と文献を入手した。反帝同盟第二回国際大会、反帝同盟執行委員会、国際労働者救援会第八回大会などに、私は代表として出席した。私は反帝同盟第二回大会で同志片山[潜]と知合い、彼からの依頼で、後には同志岡野[野坂参三]からの依頼で、私がドイツに滞在中、日本からモスクワへの資料送付の活動に携わった。一九三二年には、日本人グループからアムステルダム[国際]反戦大会に派遣された。党内分派活動に加わったことはなく、党から処分を受けたことはない。
 e) 一九三一年の終わりに、反帝同盟本部の家宅捜索のさい、私もまた逮捕されたが、同日中にまもなく釈放され、プロイセン政府から行政的に追放命令を受けた。モップルの弁護士の助けで、私は一九三二年半ばまでベルリンに留まることができた。モップルの援助で、同年九月に、家族(妻[フリーダ]と娘[タツコ])と一緒にソ連に向かった。ソ連入国後は、クートベで学んだ。一九三四年七月以来、ソ連外国労働者出版所の日本部長として働いている。そのほかに、ナリマノフ学院[モスクワ東洋学専門学校]で、日本人の学生グループを指導している(日本問題の講師)。私は暫定的になおドイツ共産党員である。出版労働組合にも所属している。
 ベルリンの日本語部責任者として、私は主としてアルフレッド書記と連絡していた。だから私は、彼が私の関係した仕事について裏付けてくれると信じる。
 反帝同盟での私の仕事については、同志フェルディが知っている。
 日本の組織との連絡については、同志岡野が一番よく知っており、彼が私の仕事を裏付けてくれるだろう。
国崎 定洞(A・コン) 一九三五年三月一四日」(加藤哲郎訳)

 

 この履歴書は、1935年3月に書かれた。モスクワでは、34年12月にスターリンの潜在的政敵キーロフの暗殺事件が勃発し、それを口実にジノヴィエフ、カーメネフらソ連共産党の旧反対派に属した党員たちが次々に逮捕された直後である。コミンテルンに即して言えば、夏の第七回世界大会で採択される反ファシズム統一戦線・人民戦線への路線転換がディミトロフ、マヌイルスキーらの主導で完成しつつあり、ドイツ共産党内でも、それまでの「社会ファシズム」論が否定され、政策転換が進められる時期である。

 この履歴書は、なぜこの時期に、いったいなんのために書かれたのか? それが実は、国崎定洞の生涯の最期の粛清の悲劇を解明する鍵となった。

 小林峻一・加藤昭著『闇の男――野坂参三の百年』には、巻末に、日本に関係した旧ソ連公文書館秘密資料の重要なものが翻訳され、収録されていた。そのなかに、前述したように、国崎定洞に直接かかわる二つの資料が入っていた(本書では、これらのロシア語資料の新訳を、第二部付録として収録した)。

 その第一は、コミンテルン執行委員会東洋部人事係からソ連秘密警察NKVDに宛てた「国崎定洞に関する報告(1935年2月9日)」である(『闇の男』資料5)。コミンテルン執行委員会が、国崎定洞を危険人物とみなし、国崎定洞のモスクワでの交友関係を秘かに調べ、野坂竜・小林陽之助ら国崎定洞と近い人物にも監視の眼を広げようとしていた。しかも、世界共産党の政治組織であるコミンテルンからNKVDに秘かに文書でその疑惑が報告されているのは、国崎定洞が、逮捕される二年半前のこの時点で、すでに「スパイ」「人民の敵」と疑われていたことを意味する。

 その第二は、ソ連最高裁判所の発行した「国崎定洞の名誉回復決定書」であり、1959年10月29日付で、1937年の国崎定洞の逮捕・銃殺が予審段階での自白以外に根拠のないものであり、国崎定洞は無実であったことを公式に承認した文書である。

 この「名誉回復決定書」から、国崎定洞の銃殺の罪状とされたものが、「日本軍参謀本部タケダの命を受けて、一九二四年から逮捕の日まで、日本、ドイツ、モスクワで革命活動家達に敵対するスパイ、テロ及び裏切り行為を行った」ことであったこと、その根拠とされたのは、国崎定洞自身の予審段階での、おそらく拷問による強制自白、及び別件で逮捕されたタケウチ(山本懸蔵によって日本共産党を除名されソ連秘密警察に逮捕された外国労働者出版所の同僚伊藤政之助)、ビリチ(日本人妻と結婚しブハーリン派として粛清された元在日ソ連大使館の下級官吏)の自白供述であったこと、国崎定洞は、後に予審段階の自白を否定し、裁判では無実を主張しつづけたこと、などが判明した。

 1935年3月の自筆履歴書は、この二つの資料から、国崎定洞が外国労働者出版所日本課長の職にありながら、すでに秘かに「日本軍のスパイ」と疑われている状況のもとで、なんらかの口実を設けて国崎定洞に執筆が要請され、国崎からコミンテルン執行委員会機構に提出されて、そのままソ連秘密警察機構にまわされた書類であると推定できる。国崎定洞がドイツ語筆記体で書いてすぐに、ドイツ語で正式にタイプした文書に直され、ただちにロシア語訳文まで作られているのも、それを傍証する。

 それではなぜ、国崎定洞は、35年2月の時点で「日本のスパイ」と疑われたのか? 32年・35年の自筆履歴書にある日本での軍務経験が怪しまれたのか? どうも、それだけではなさそうである。

 たしかに1959年の「名誉回復決定書」に「二四年から日本軍参謀本部タケダのスパイ」とあるのは、履歴書の軍務経験に合わせてデッチ上げられたと考えられるが、当時の日本は徴兵制度であり、これを履歴書からはずしたら、逆に「経歴詐称」で疑われたであろう。いいかえれば、この「軍のスパイ」は、「タケダ」の名前と共に37年判決時につじつま合わせでつけられた罪名で、国崎定洞が「日本のスパイ」と疑われた本当の理由は、別にありそうである(山本懸蔵、沖縄出身アメリカ共産党系亡命日本人、岡田嘉子・杉本良吉の粛清のケースでも、同様の日本人名がデッチ上げられている)。

 そのように想定して、『闇の男』や和田春樹「歴史としての野坂参三」(『思想』1994年3-5月)など旧ソ連秘密資料にもとづく最新の研究、当時のソ連について証言しているクートベ帰りの元日本共産党党委員長風間丈吉・山本正美らの回想証言などを参照しながら、新たに入手した「国崎定洞ファイル」を解読していくと、これまで予想もしなかった国崎定洞粛清の秘密が明らかになってきた。

 それが、加藤『モスクワで粛清された日本人』で詳しく展開した、当時の日本共産党在モスクワ指導者山本懸蔵のコミンテルン執行委員会組織部・ソ連秘密警察に対する告発による、国崎定洞粛清の真相である。

 その決定的証拠となったのは、「国崎定洞ファイル」に収められていた、1934年9月のコミンテルン組織部コテリニコフによる山本懸蔵の会談記録、及び同年10月のコテリニコフによる国崎定洞・野坂竜の会談記録である。

 この二つの文書の全文は、すでに雑誌『季刊 窓』第19号(1994年4月)に発表した加藤「歴史における善意と粛清――『闇の男――野坂参三の百年』の読み方」及び加藤『モスクワで粛清された日本人』に藤井一行氏による訳文が掲載されているが、山本懸蔵は、片山潜の助力による国崎定洞のモスクワ亡命・クートベ入学に反対したこと、それどころか、国崎定洞のソ連亡命は、当時の在モスクワ日本共産党指導者片山・山本・野坂参三の三者の疑心暗鬼の中心問題であったこと、さらにさかのぼれば、1920年代末の片山・山本の対立の初発から国崎定洞らベルリン・グループと片山潜の親しい関係が関わっていたことがわかってきた。

 さらに、それを背景に、すでに1930年秋には、国崎定洞と共に片山潜を助ける片山秘書勝野金政と、国崎定洞の紹介でベルリンからモスクワの片山のもとにやってきた根本辰という青年が、山本懸蔵の告発により「日本のスパイ」として逮捕され、勝野は強制収容所(ラーゲリ)送り、根本は国外追放になっていたことも、新たに明らかになった。

 それらの詳細は、加藤『モスクワで粛清された日本人』及び『国民国家のエルゴロジー』にゆずるが、国崎定洞の生涯にかかわる限りで略述すると、以下のようになる。

 1928年3月、日本で共産主義者に対する大弾圧が行われ(3・15事件)、ベルリンで医学者国崎定洞が急速に共産主義運動に傾いていった頃、留学中のパリ大学でフランス共産党に入党し国外追放になって、ベルリンの国崎定洞宅にやってきた文学青年がいた。1901年信州南木曾生まれの、勝野金政である。島崎藤村と同郷で、フランクフルトの平野義太郎の紹介であった。勝野は国崎宅に二、三日滞在し、そのままモスクワに入り、国崎定洞・千田是也らと親しかったコミンテルン幹部会員片山潜の私設秘書となる。

 勝野金政がモスクワに亡命した1928年頃の片山潜は、対外的には日本共産党の最高指導者とみなされてはいたが、孤独であった。1922年創立とされる日本共産党は、すでに片山と同じ堺利彦・荒畑寒村らの第一世代は党外に去り、佐野学・渡辺政之輔らの第二世代の指導するものとなっていた。片山がアメリカ・ソ連で育て後に日本に帰国した近藤栄蔵・田口運蔵らは、日本の社会主義運動の中で傍流となっていた。モスクワのクートベ(東洋勤労者共産主義大学)には、20年代に延べ約50名の日本人労働者が送られたが、片山に対しては敬して遠ざかる態度をとっていた。

 すでに片山潜は、70歳の老人であった。1928年夏のコミンテルン第六回大会ではかつての親友トロツキーがソヴェト国家の敵と断罪されたが、片山には、レーニン死後の指導者スターリンを支持する以外にモスクワで余生を送る手だてはなかった。この大会でコミンテルン執行委員に選ばれた佐野学は、片山老人を頭から馬鹿にしていた。日本で3・15検挙を免がれソ連にやってきた労働運動出身の山本懸蔵は、プロフィンテルン(コミンテルン傘下の赤色労働組合インターナショナル)日本代表としてモスクワ常駐となったが、当代日本の階級闘争を知らない片山潜とははじめから肌が合わなかった。

 片山は、佐野や山本とうまくいかない分だけ、国崎定洞らベルリン・グループを頼りにした。アメリカ以来の直系である間庭末吉がコミンテルン第六回大会後に日本に帰国すると、ベルリン経由でモスクワ入りした勝野金政を何かと頼りにした。勝野金政は、モスクワで東洋学専門学校の日本語講師の職につき、ソヴェト作家同盟に出入りして小説を現地の雑誌に発表したりしていた。フランス共産党の指導者セマールの推薦でソ連共産党に転籍することができ、片山の最期の仕事というべき『自伝』(後の『わが回想』上下、徳間書店、1967年)の完成に協力していた。

 1929年夏、片山潜は、次女千代(通称千代子)を日本から呼び寄せた。長女のヤス(通称安子)とはアメリカで暮らしたことがあったが、千代とは幼時に別れたきりであった。老境に入った片山は、日本では父の名声故に暮しにくい娘を、社会主義の国ソ連で、のびのびと育てたかったのだろう。当時23歳の千代は、7月13日、父の看病のためと言い残して、一人で敦賀から旅立った(『大阪朝日新聞』1929年7月9・14日)。

 しかし、千代のソ連入国の頃、父片山潜は、コミンテルンの仕事でモスクワを離れていた。コミンテルン執行委員になった佐野学は、中国経由で日本に帰国する途中で、1929年6月に上海で逮捕されていた。モスクワの日本共産党指導者は、山本懸蔵であった。片山潜は、千代のモスクワでの受け入れについて山本懸蔵に頼んでおいたが、山本は何も手を貸さなかった。千代は、やむなくウラジオストックの日本領事館とアナーキスト武林夢想庵の力を借りて、広大なソ連を横断しなければならなかった。

 片山がモスクワに戻り、千代と再会できても、父娘の水入らずというわけにはいかなかった。コミンテルン執行委員会は、モスクワ在住の各国共産党員の履歴書を保管していた。コミンテルン幹部会員の同僚、フインランド共産党創設者であるオットー・クーシネンらが、コミンテルン専用宿舎であるルックス・ホテルの片山の部屋に若い日本娘がいるというのでチェックしたところ、片山の履歴書には、結婚歴も家族についても記載がなかった。片山に確かめると、親に勧められた形式的結婚で生まれた娘で、日本共産党の援助でモスクワに派遣されたと弁明するので、念のために山本懸蔵を通じて日本の党に問い合わせると、日本共産党は関知しないという返事であった。クーシネンらは、日本の警察が老片山の色恋沙汰に乗じてスパイを送り込んだものと疑った(アイノ・クーシネン『革命の堕天使たち』平凡社、1992年、100頁)。共産主義者は、個人の人権や家族よりも、党を優先すべきであった。老片山の行動は、コミンテルンにおいては、党に対する裏切りを意味する経歴詐称であった。

 片山潜の方は、娘をクートベに入学させ、ソ連式の学歴を身につけて「労働者階級の天国」での輝く人生を与えようとした。しかし、当時のクートベは、あくまで労働者階級出身の革命家・活動家を養成する学校であった。アジア各国の共産党員を訓練し、本国に送り込むのが主要な任務であった。非党員であっても労働者出身で労働組合活動などの経験があれば入学できる場合があったが、千代には労働歴も活動歴もなかった。

 山本懸蔵は、片山千代のクートベ入学に強力に反対した。そればかりか、ルックス・ホテルでの父との同居も、党員片山の規律の問題として承認できないという。無論その背後には、クーシネンらが千代をスパイと疑っている事情があった。片山は、おそらくクーシネンらに対して経歴詐称を自己批判したのだろう、千代は国外追放は免れたが、レニングラードの工場で「学習」することになった。

 その後の千代の、1946年の死亡にいたるソ連での生活については、定かでない。31年の父の入院時は姉ヤスと共に看病し、34年から国崎が日本課長である外国労働者出版所に勤めたという情報もあるが、46年の死亡直前には、病院から姉ヤスに「早く迎えにきてくれ」と手紙を出していたという。不遇な生涯であったと推察される。

 その千代が入れなかった1929年秋のクートベの新学期に、プロフィンテルン日本代表山本懸蔵は、ウラジオストックから三人の船員労働者を推薦し入学させていた。ところが、そのうちの一人であるニコライフ=石田某が、クートベの厳しい寮生活・学習規律についていけず、クートベ近くの日本大使館に逃げ込むという事件が起こった。山本にしてみれば、これは大きな政治的失態であった。当時の在モスクワ日本大使館は、特高スパイの巣窟とみなされていた。日本人共産主義者は大使館に近寄ってはならず、大使館に出入りする中条(後の宮本)百合子らと口を聞くことも、上級機関の許可なしには禁じられていた。

 片山潜にしてみれば、自分の娘をさしおいて山本懸蔵が入学させた学生が、こともあろうに日本の特高警察の出先である日本大使館に逃げ込んだのであるから、山本懸蔵の責任追求の格好の材料であった。片山は、28年3・15事件での肺病を口実にした検挙逃れにまで遡って山本懸蔵の疑惑を調べ、追求しようとした。

 山本懸蔵の3・15逃亡疑惑とは、『モスクワで粛清された日本人』第2・3章で詳述したように、『無産者新聞』1928年5月15日号や『戦旗』30年3月臨時号でも報じられた、特高警察の厳重な警戒をくぐっての山本懸蔵の自宅逃亡・訪ソの武勇伝のことである。片山が関心を持ったのは、山本懸蔵の逃亡が、はたして本当に特高警察の関与無しに可能だったのかという問題だった。

 山本懸蔵は、28年3・15事件の警察による共産主義者一斉検挙のさい、重度の結核を理由に逮捕・拘束をまねがれ自宅療養が認められた。当時の結核は不治の病とされ、空気感染がおそれられていた。山本懸蔵は、特高警察の厳しい監視下におかれたが、看病を許された妻の関マツと、主治医として往診する東京労働者診療所所長馬島們の助けで、肺病をわざと重症にみせかけ、馬島の義弟服部之総や西村桜東洋を通じて、外部の日本共産党指導部とも連絡をとった。28年5月初旬、警官の二四時間監視の眼を盗んで秘かに自宅を脱出し、そのまま変装して党のシンパ小林武次郎の知合いの待合いに身を隠した。6月には日本からソ連へと密入国して、7-9月のコミンテルン第六回世界大会に佐野学・市川正一らと共に出席、そのままプロフィンテルン日本代表としてモスクワに留まった。

 この山本懸蔵日本脱出の武勇伝は、当時の『無産者新聞』に面白おかしく報じられ、ナップ(全日本無産者芸術団体協議会)の機関誌『戦旗』誌上では久板栄二郎の手で脚本化された。しかし、モスクワの片山潜は、そのあまりにあざやかな山本懸蔵の逃亡ぶりに不審をもった。日本から山本逃亡の「疑惑の噂」を手にいれ、コミンテルン執行委員会で告発し、正式に問題にした。そのさい山本懸蔵がどのような査問をされたのか、どのような供述をしたかは不明だが、29年秋ー30年春段階のコミンテルン執行委員会の査問では、山本懸蔵の疑惑はいったん証拠不十分とされた模様である(詳しくは、『モスクワで粛清された日本人』第2章、参照)。

 後の1938・39年段階の野坂参三・関マツの話によれば、この「疑惑の噂」は、ベルリンの国崎定洞らを通じて日本から片山に伝えられた。ちょうどこの疑惑がモスクワで浮上したのは、ソ連共産党のスターリン派が、トロツキー派・ジノヴィエフ派の「左翼反対派」に続いてブハーリン派を「右翼的偏向」として追い落とそうとした、コミンテルン内第一次粛清運動の時期(1929年9月25日ー30年1月30日)にあたった。

 日本国内の共産党では山本懸蔵逃亡が怪しいという「噂」は政治的にとりあげられることはなかったが、モスクワのコミンテルン本部では「噂」は「疑惑」へとふくれあがった。晩年の片山潜は、33年11月の死まで山本懸蔵を「特高のスパイ」と疑い続けた。そして、山本懸蔵が37年にNKVDに逮捕され、39年に銃殺されるさいの罪状にも、この28年の自宅逃亡・ソ連越境の事情がつきまとった。

 国崎定洞と勝野金政は、片山潜が執筆中の『自伝』完成を助けていた。ドイツ語版を先に刊行すると国際著作権法上の保護を得られるため、片山が日本語で書いた原稿を勝野がベルリンの国崎定洞に送り、国崎はそれをドイツ人助手の協力を得て独訳していた。勝野は、あわせてロシア語版をも、友人エレナ・テレノブスカヤに訳させ準備していた。勝野金政が、片山潜と山本懸蔵の対立・疑心暗鬼のなかでどのような役割を果たしたかは定かでない。しかし、勝野が片山潜の側にあり、片山と共に山本を忌み嫌っていたことは確かである。勝野の日本帰国直後の回想のなかでは、片山は子どものように純粋な老闘士、山本は権謀術数の陰謀家として描かれている(『赤露脱出記』日本評論社、1934年)。

 1930年9月、二年前の勝野金政と同じように、ベルリンの国崎定洞の紹介状をもってモスクワの片山潜のもとにやってきた青年がいた。京大出身の根本辰、名は「とき」と読む。根本辰は、1904年生まれ、宮城県気仙沼町の医者の息子であった。

 根本辰は、京大文学部社会学科に籍をおき、社会科学研究会に加わって河上肇の経済学や西田幾太郎の哲学を学んだが、西田哲学を超えることこそ当代マルクス主義の課題だと考えていた。学生運動にも関わり、郷里の気仙沼に帰郷するさいには地方に新しい社会運動の息吹を伝えた(『気仙沼町史』臨川書店、1953年、363頁)。

 根本辰は、無産社新聞の仕事を手伝い、1929年秋か30年初めにはベルリンに渡り、国崎定洞らのベルリン反帝グループに加わった。先の岡内順三供述にもその名がみられる。根本は、モスクワでのクートベ入学を志願し、自らを唯物論者に仕上げようとした。片山潜と国崎定洞・勝野金政は、それを援助しようとした。根本辰の京大社研時代の知合いのなかに、勝野金政にとっても関係の深い、島崎藤村の姪で小説『新生』の主人公節子のモデルである島崎こま子がいたことが、勝野と根本の二人を急速に近づけた(勝野『藤村文学――人とその風土』木耳社、1972年、188頁以下)。

 しかし、そこに立ちはだかったのが、当時のプロフィンテルン日本代表山本懸蔵だった。

 山本懸蔵は、根本辰が京大出身なのが気にくわなかった。勝野金政も早稲田大学からパリ大学留学であり、山本の考える日本の階級闘争のために必要な階級的労働者の適格者ではなかった。おまけに根本は、日本でもドイツでも共産党員ではなかった。

 1931年10月、ちょうど片山潜は、コーカサスに療養にでかけることになっていた。山本懸蔵は、根本のクートベ入学決定を引き延ばした。そして、片山がいなくなった10月末、山本は、コミンテルン東洋部の日本担当ヤ・ヴォルグを通じて、ソ連秘密警察GPUに根本と勝野を「日本のスパイ」の容疑で売り渡した。根本は国外追放に、勝野は強制収容所(ラーゲリ)送りとなる。

 無論それは、根も葉もないデッチ上げで、二人は社会主義を信じる純真な青年だった。しかし勝野金政は、ソ連刑法第五六条スパイ罪で、懲役五年の有罪とされた。根本は直ちに国外追放となった。歴史から忘れ去られた二人の犠牲者の以後の数奇な運命は、『モスクワで粛清された日本人』や『国民国家のエルゴロジー』で論じた。二人は明らかに無実で、山本懸蔵に密告された結果だった。それは、自分を告発した片山潜への、山本懸蔵の間接的報復だった。

 片山潜は、この勝野・根本に対する山本懸蔵の仕打ちを知って、いっそう山本を疑った。1930年10月の自分の留守中に、山本懸蔵が自分の手足である秘書勝野金政と、自分をしたってきた根本辰をGPUに売り渡したのに反発してか、同年一二月には、たまたま来欧中の医師馬島們をモスクワに呼び寄せ、山本懸蔵の入ソ疑惑の証言と始末書を取ろうとした。その片山・馬島会見を仲介したのは国崎と思われるが、詳細は不明である。しかし山本は、持病の結核療養を理由に、しばらくモスクワから遠ざけられた。片山潜の方も、心労が重なって重病におちいった。クレムリン病院にかつぎこまれ、精根を傾けてきた『自伝』執筆をも中断して、翌31年正月から秋まで、長い入院・転地療養に入った。

 この頃日本では、ソ連から帰国したクートベ出身の風間丈吉が、日本共産党を再建して党委員長になった。風間とスパイM=松村の指導する中央委員会からソ連に派遣されたのが野坂参三・竜夫妻であり、山本懸蔵の妻関マツだった。野坂参三は、片山潜と山本懸蔵のモスクワ不在中に、コミンテルン東洋部で働き始めた。

 モスクワの日本共産党指導部は、1931年9月の満州事変勃発から32年5月の独文『インプレコール』紙上での「三二年テーゼ」発表の時期まで、片山潜、野坂参三、山本懸蔵が互いに疑心暗鬼であった。コミンテルンの「三二年テーゼ」は、日本では折から刊行された『日本資本主義発達史講座』と相まって戦前日本資本主義分析のバイブルになるが、コミンテルン東洋部でその草案作成作業に加わった山本正美を除けば、日本共産党指導部はほとんど役割を果たさなかった。独文『インプレコール』紙上で、「ヨベ」がはなばなしく日本や中国の問題を論じ、国崎定洞が片山潜からモスクワに呼ばれるのは、この頃のことである。

 片山潜の推薦による国崎定洞のソ連亡命は、野坂参三と山本懸蔵の間の関係にも、影響を与えた。先にみた関マツの三八年の会談記録においてばかりでなく、後述する1934年9月のコテリニコフとの会談記録でも、山本懸蔵は、国崎定洞のクートベ入学に反対したこと、それが野坂参三との対立の起源となったことを告白している。

 片山・野坂・山本の「疑心暗鬼のトロイカ」は、1933年6月の佐野学・鍋山貞親の獄中「転向」声明に対しては、モスクワから共同声明を発する。しかし、片山潜は同年11月に没し、野坂参三は34年初めにはアメリカに出発する。32年9月にソ連に亡命した国崎定洞は、片山の『自伝』完成を助け、片山の推薦でクートベ大学院で学んだ後、外国労働者出版所に勤務した(34年7月から日本課長)。同時にナリマノフ東洋学専門学校で日本問題を教え、沖縄出身者などアメリカ共産党系日本人共産主義者グループを指導していた。

 ただし、後のフリーダ夫人の回想によると、「モスコーでは国崎定洞は実にしばしば片山潜と一緒でした」が、「片山潜の死によって、国崎定洞はなぜか知りませんが、かつてほど日本人支部とのつながりは強くなくなりました」(フリーダから加藤哲郎宛の手紙、1975年5月13日付、本書付録資料)。

 勝野金政が、強制収容所生活を経て日本に帰国したのは、1934年8月のことである。勝野は、白海のラーゲリで三年半の奴隷労働に従事させられたが、34年6月に減刑されて出獄した。片山潜のもとに戻ろうとしたが、片山はすでに33年11月に亡くなっていた。ソ連共産党籍があったので再審・名誉回復を求めたが、とりあってもらえなかった。思いあまってモスクワの日本大使館員の家に駆け込み、ようやく命は助かった(勝野『凍土地帯』吾妻書房、1977年)。

 勝野金政が1934年夏に日本大使館に逃げ込み、NKVDの追究を逃れて日本に脱出したことは、モスクワに留まる亡命日本人たちにとって、ソ連側の監視が一段と強まることを意味した。片山潜はすでに亡く、野坂参三は任務を帯びてアメリカに旅だっていた。

 真っ先に事情を聴取されたのは、当時のモスクワ日本共産党代表、山本懸蔵であった。山本懸蔵は、34年9月、コミンテルン組織部のコテリニコフの尋問を受けた。その記録が、34年9月19日付のコテリニコフの「同志タナカとの会談記録」である。ソ連の秘密警察NKVDによって、「極秘」と分類されている。

 そこで山本懸蔵は、コテリニコフに対して、国崎定洞の名を、勝野金政とつながるスパイ容疑者として挙げた。モスクワ亡命中で外国労働者出版所に勤める国崎定洞と、ラーゲリから日本へと脱出した勝野金政には緊密なつながりがある、1930年に「スパイ」として国外追放になった根本辰も国崎定洞の推薦により入ソしたものだった、最近でも国崎は身元不明の日本人と会っている、と当時コミンテルンで「札付きの密告魔」と恐れられていた組織部のコテリニコフに対して供述した。それが、以下のコテリニコフとタナカとの会談記録(1934年9月19日)で、「国崎定洞ファイル」には、これと同文ながら第四ー八項が削除された9月23日付異文も入っていた(『モスクワで粛清された日本人』86頁以下、参照)。

 「<極秘> 同志タナカ[山本懸蔵]との会談の記録
 
 一九三四年九月一九日の私との会談で、同志タナカは以下のように報告した。
 一 カタヤマ[片山潜]の秘書ハヤシ(カツノ・カネマサ[勝野金政])は、同志コン[国崎定洞]によって推薦された。ほかならぬ彼によって、一九三〇年にソ連に来たある日本人[根本辰]が推薦された。タナカはその人物の姓は覚えておらず、彼が今どこにいるかも知らない。それはヴォルクが知っている可能性がある。
 二 ドイツに、コン[国崎定洞]、セイダ[千田是也]、ヒザナ[平野義太郎]、カツェモト[勝本清一郎]、シマザキ[島崎蓊助]、ヨサノ[与謝野譲]というメンバーからなる日本人グループがあった。カタヤマは、このグループと文通していた。現在の彼らの所在は、コンがモスクワ、セイダは日本で非党員の芸術家、ヒザナは日本で反共産党闘争をおこなっており、カツェモトはファシズムにくみし、シマザキは反共産主義者闘争を行っており、ヨサノはドイツでファシストの通信員になっている。
 三 このグループは、反帝国主義同盟とつながりをもっていた。
 四 カタヤマはこのグループと文通していたが、タナカ[山本懸蔵]は反対だった。彼らは雑誌『セッキ』[戦旗? 赤旗?]を受け取っていた。警察はおそらくこのグループの助けをかりて、日本の一連の共産党員を知っていたことであろう。概してこのグループは、党に反対であった。
 五 このグループはカタヤマに手紙を送っていた。彼の秘書ハヤシ[勝野金政]はそれらの資料を読んでいたが、それらの資料をタナカには渡さなかった。その手紙をカタヤマは、当時レニングラードにいたオコという日本人[丘文夫]に、翻訳してもらうために送っていた。いま彼は存命していない、死亡した。
 六 タナカは、一九二九ー三〇年にドイツにいる同志コンにあてて、カタヤマに手紙を出さないようにという手紙を書いた。コンがこの手紙を受け取ったかどうか、そして彼がどうしたか、コンに尋ねる必要がある。
 七 タナカは、コンをクートベに受け入れることに反対であった。しかし、オカノ[野坂参三]とヴォルクが彼の受け入れに賛成した。
 八 コンの受け入れに対するそのような対応のため、オカノとタナカとのあいだの相互関係は、決して正常ではなかった。また、そのような場合、コミンテルンの指導的幹部たちは、彼タナカではなくオカノを支持する、とタナカは言明した。
 九 タナカは、日本と連絡をとること、身元調べがついておらずコミンテルンから派遣されたのでもない、他国在住者と連絡をとることに、断固として反対である。
 一〇 一九三四年の五月か六月に、ある外国人旅行者がドイツからソ連にやってきた。タナカはその姓をしらない。その旅行者はコンと会いたがっていた。しかし彼はコンがどこに住んでいるか知らなかった。彼はモスクワにいる二人の日本人[土方与志・佐野碩](二人は作家大会に参加していた)に連絡をとった。その作家たちは、ドイツからきた旅行者がコンに会いたがっていると、キム・シャン[野坂竜]に電話した。キム・シャンはそのことをコンに伝え、かつ、その旅行者と会う必要はないと彼に言った。それにもかかわらず、コンは彼に連絡をとり、彼と会った。
  一九三四年九月一九日    <サイン>エフ・コテルニコフ」(藤井一行訳)
 

 山本懸蔵は、この会見で、国崎定洞・千田是也・平野義太郎・勝本清一郎らベルリン反帝グループのメンバーは総じて「党に対して反対」であり、勝本・平野ら日本に帰国したメンバーは「ファシスト」に転向したと非難した。さらには、自分が反対した国崎定洞のソ連入国・クートベ入学についての意見の相違によって、故片山潜や野坂参三と自分との間の関係も悪化したのだと、国崎定洞をひそかに告発した。

 山本懸蔵の告発によって、国崎定洞は、ただちにコテリニコフの尋問を受けた。外国労働者出版所の同僚野坂竜も呼び出された。ただし、国崎・野坂の二人には、山本懸蔵の告発内容はそのままでは示されなかった模様である。この国崎定洞と野坂竜のコテリニコフへの供述も、記録に残された。それが、「秘密」と分類されたコテリニコフの1934年10月10日付「コン及びキムシャンとの会談記録」である。

 そこで国崎定洞は、ベルリン時代の自らの活動や勝野金政とのつながりを正直に述べた。野坂竜は、国崎定洞と距離をおいて、自らの弁明に終始した。

 「<秘密>   一九三四年一〇月一〇日
 同志コン[国崎定洞]およびキム・シャン[野坂竜]との同志コテリニコフの会談
 そして、同志コンは、ドイツの日本人サークルの性格付けに関する質問について、このサークルは量的には一五名にのぼり、そのなかに三ー五人の共産党員[コムニスト]がいた旨を報告した。党員の人的構成は、ミナミ[和井田一雄]、コバヤソ[小林陽之助]、ニシムラ[喜多村浩]、トジョ[野村平爾]、オイワ[大岩誠]。現在、トジョとオイワは日本におり、コミンテルンに対する態度は不明。オイワは一九三四年の春に、トジョはもっと後で日本に帰った。ドイツにいるニシムラは逮捕され、いまスウェーデンにいるが、コンは、彼がまだ党員のままだと考えている。コバヤシ(リ・コ)はドイツで逮捕されたが、釈放され、一九三三年にソ連に来た。現在『セクターA』[クートベ日本人部]にいる。ミナミは、彼がいまどこにいるか承知していないが、彼が党員だと考えている。あとのメンバーはシンパで、現在ではほとんどみな日本にいる。
 ホリエ[堀江邑一]は一九三三年に逮捕され、ミヤキ[三宅鹿之助]は一九三四年に朝鮮で逮捕された。イト[千田是也]は一九三三年に日本で逮捕された。ヤマド[山田勝次郎]は日本で逮捕されたが釈放された。チラノフ[平野義太郎]も逮捕されたが釈放された。ドイツの日本人サークルにいた他の旧メンバーの消息はコンには不明だが、彼らは活動しておらず党とのつながりはないと、コンは考えている。
 一九三四年七月、ツェンゾコ[千足?]がモスクワにきて、一ヵ月いた。彼の入国の目的は、ソ連情勢の視察である。彼は、サノ(第一回作家大会に参加した演劇芸術活動家[佐野碩])のところに滞在していた。コンはツェンゾコと一度、七月二九日に会った。彼らは一緒に街を歩きまわった。二人は前にベルリンで知り合っていた。彼はシンパとして日本人のサークルに入っていた。現在彼はベルリンにいて、言葉とマルクス主義を勉強している――そうコンは言明した。コンの言明によれば、彼はドイツ共産党に協力していて、ビラや工場新聞を印刷しており、党の地区委員会とつながりをもっている。前に彼は、一九三三年に日本からドイツで勉強するためにやってきた。彼の肉親はインテリで、兄弟は商人である。彼は、ドイツに三名からなる日本人グループがあること、彼らがドイツ共産党に協力して、市電労働者向けのビラを印刷していることを、コンに伝えた。この三人組の一人であるアダチ[安達鶴太郎]は、ドイツで合法的に日本の新聞を発行している。自由主義的な傾向の発行部数五〇〇部の日本語の新聞[『ベルリン週報』]である。このグループの三人目は、キムという姓の朝鮮人[金?]で、勉強している。やはりグループにいて、その一員としてドイツ共産党に協力している。
 ミナミについては、ツェンゾコはコンに、ミナミはパリにいて、やはり同様にドイツ共産党とつながりをもっている、と伝えた。ミナミはオカノ[野坂参三]とつながりをもっていて、日本から雑誌『セッキ』[赤旗? 戦旗?]やその他の資料を入手するのに協力している。いまは連絡が悪いが、その理由はコンには不明である。
 その年の夏、ロンドンからモスクワへ、イノウエ[井上?]という日本人がやってきた。サノは、オカノの妻のキム・シャン[野坂竜]に、このイノウエの到来を手紙で伝えた。イノウエは、ミナミとつながりをもっており、ミナミからのオカノ宛の手紙をもってきた。この手紙は、オカノの妻へ渡された。コンは、イノウエとは会わなかったし、話もしなかったし、彼をよく知らないと報告している。ミナミは、ベルリンの新しい住所を伝え、また、自由主義的な新聞で働いて金をかせいでいるので、援助がなくても生きていけると伝えた。さらにコンは、イノウエの妻がモスクワにきたことを伝えた。コンは、彼女を知らないし、彼女がどこに住んでいるかも知らない。このことについては、サノがオカノの妻に伝えた。
 コンは、一九二八年にベルリンでカツノ[勝野金政]に会った。カツノは、フランス共産党の党員であった。パリで逮捕された。数日間、留置場にいた。ドイツに追放された。ドイツで彼はコンの知合いであるヒラノ[平野義太郎]に連絡をとった。ヒラヌはカツノにコンの住所を教え、カツノはコンのところに二日間いた。カツノは、フランスのモップル[国際赤色救援会]がドイツのモップルへあてた手紙をもっていた。コンは、その手紙をモップルへ渡した。カツノはドイツ・モップルの助力でソ連にきた。コンは、その後はカツノに会っていない。その後のことでは、彼のカタヤマ[片山潜]との文通、カツノが教師をしていることが、コンにわかっている。
 ツェンゾコは、カツノについてコンに、彼がソ連で逮捕されたと語った。白海運河の建設場で働いていたが、日本の官吏の要請で釈放された後、彼らの管轄下に移された。コンは、カツノの釈放のことは、やはりツェンゾコから知ったと言明している。
 同志キム・シャンは、セッキ・サノ[佐野碩]が、ドイツからやってきた日本人からのコン宛の手紙を、リュクス[ホテル=野坂夫妻の住居]にもってきた、と伝えた。コンは、その日本人と会うことの是非について、キム・シャンの意見を求めた。キム・シャンは彼に、妥当とは思わないと答えた。それでも、コンは会った。
 一九三四年一〇月一〇日  (手書きサイン)[エフ・コテリニコフ]」(藤井一行訳)
 
 ここで国崎定洞が述べた、ナチス・ドイツのもとでも地下で続行されたベルリン反帝グループの活動については、「ツェンゾコ」や「イノウエ」が誰であるかなど、なお未解明の点が多い。それらの詳しい考証は、加藤『モスクワで粛清された日本人』にゆずる。

 いずれにしろ、山本懸蔵による国崎定洞の告発情報は、コミンテルン組織部から国際統制委員会を経てNKVDへと即刻伝えられた。そして、先のコミンテルン東洋部からNKVDへの通知がなされ、1935年2月にはソ連秘密警察の秘かな監視下に入った。本章冒頭に紹介した国崎定洞の35年3月履歴書が書かれたのは、この直後なのである。

 1935年夏、コミンテルン最後の第七回世界大会が、モスクワで開かれた。反ファシズム統一戦線・人民戦線を決議し、ディミトロフを書記長に選出した、有名な大会である。

 この大会に、日本共産党からは三人の代表が出席した。アメリカから一時帰国した岡野こと野坂参三、田中こと山本懸蔵と、「ニシカワ」と名乗る「日本青年代表」である。この「ニシカワ」が国崎定洞ではないかという説が一時期あったが、今日では小林陽之助と確認されている。小林陽之助は、たしかに理論的にも政治的にもすぐれた共産主義者であったが、国崎定洞と比べれば、ドイツ共産党内での経験は浅く、クートベでも後輩であった。だが35年夏には、国崎定洞はすでに「日本のスパイ」と疑われていた。小林陽之助が「ニシカワ」名で日本代表となり、国崎定洞は、かつてフリーダ夫人が証言したように、ディミトロフ報告の日本語訳など裏方をつとめた。

 このころ、国崎定洞の外国労働者出版所の同僚に、国崎定洞と同じくソ連秘密警察から疑われている日本人がいた。伊藤政之助である。伊藤は、共同印刷活版工出身の日本共産党員で、国崎の「名誉回復決定書」で最終的に国崎有罪の二人の証言者の一人とされる党名「タケウチ」である。

 伊藤政之助は、岩尾家定・松村(スパイM=飯塚盈延)などと同期入学のクートベ出身者で、1928年7月に帰国後日本共産党に入党、28年10月に検挙された。29年10月に偽装転向の誓約書を書いて病気で仮釈放、「党の許可」なく30年6月に入ソし、ウラジオストックで働きはじめた。この時、在ウラジオストックの日本共産党代表山本懸蔵は「党の許可なき入ソ」を理由に伊藤を一度譴責処分にする。33年12月、野坂参三は、日本語印刷所をつくるために元活版工伊藤をモスクワによびよせた。伊藤は34年6月から外国労働者出版所に勤務し、国崎の同僚で部下となった。

 この伊藤政之助の経歴が、コミンテルンでは問題とされたらしい。コテリニコフの山本会談直前の9月10日には、コミンテルン東洋部に最初の問い合わせがあった。そして、どうやら国崎と伊藤のつながりが怪しまれたらしく、コテリニコフの山本懸蔵・国崎定洞・野坂竜との会談の時期、34年10月2日に伊藤と国崎の二人の住所が秘密警察NKVDに通知されていた(小林峻一「野坂参三の何が問題か」、社会運動資料センター『野坂参三と伊藤律』五月書房、1994年)。35年2月9日のコミンテルンからNKVDへの国崎定洞に関する報告文書中、「タケウチ[伊藤]は直接にそして恒常的にコン[国崎]とつながりを持っており、このことによってもまた。コンはクートベのセクター『A』[日本人部]の職員たちの情況を知る得るはずである」という一節は(本書付録)、この文脈にある。先に見たように、国崎定洞は、この直後の1935年3月10日に独文で詳しい履歴書を書かされている。

 外国労働者出版所日本課で国崎の同僚・部下となった伊藤政之助は、翻訳の仕事上での金銭トラブルで、35年11月に外国労働者出版所を解雇された。同時に、山本懸蔵とコミンテルン第七回大会出席のためモスクワに戻っていた野坂参三に査問され、第二回譴責処分をうける。伊藤政之助は、36年4月に片山の娘ヤスと結婚し、自分で仕事をみつけて軍事アカデミーの日本語教師になる。

 しかし、36年5月に野坂が再び渡米すると、山本懸蔵は、36年8月4日付けで、伊藤が日本共産党の許可なく入ソした過去を再び蒸し返し、コミンテルン国際統制委員会に伊藤の除名を申請した。山本の告発で、伊藤政之助は、36年10月29日付で国際統制委員会において除名が決定される。36年11月10日にはヤ・ヴォルクによる身柄引渡しの報告書がつくられ11月25日逮捕、37年9月14日、スパイ・撹乱・テロ活動で銃殺宣告、同日執行、1990年8月13日の大統領令で名誉回復した。埋葬地はモスクワ・ ドンスコエ墓地、墓第1号37年中(月日不明)。

 この頃、フリーダ夫人の証言によると、国崎定洞は三六年夏のスペイン内戦勃発に際して国際義勇軍に志願し、反戦反ファッショ活動の最前線に立とうとした。しかし、日本共産党を通じた申請であったためか、コミンテルン及びソ連当局から出国許可がでなかった(本書付録)。

 山本により再度告発され除名された伊藤政之助は、国崎と共に外国労働者出版所日本課の中心であり、同時にナリマノフ東洋学専門学校での国崎の教え子であった。このつながりで、国崎はいっそうNKVDに怪しまれていたのである。

 伊藤は、おそらく拷問により、国崎定洞とのつながりの「自白」を強制された。それを「証拠」として、国崎定洞は、ついに1937年8月4日に「日本のスパイ」として逮捕され、同年12月10日に銃殺された。

 この頃の「粛清」公開裁判では、多くの無実のソ連共産党幹部が「日本のスパイ」とされて、命を奪われた。当時のモスクワの雑誌では、「外国に居住する日本人はみなスパイであり、また外国に居住するドイツ市民もみなゲシュタポの手先であるといってもけっして誇張ではないであろう」と公言されていた(メドヴェーデフ『共産主義とは何か』上、三一書房、1973年、363頁)。スターリンの仮想敵国ナチス・ドイツや軍国主義日本からの政治亡命者は、秘密警察NKVDにとって「偽装スパイ」の候補者であった。

 国崎定洞逮捕の頃、多くの日本人が同様な目にあっていた。1937年8月の国崎定洞の逮捕以前に、すでに伊藤政之助、須藤政尾、ヤマサキ・キヨシ、前島武夫の4人が逮捕されていた。国崎の逮捕とほぼ同時に、モスクワで演劇を学んでいた佐野碩、土方與志・梅子夫妻が国外追放になった。ソ連の日本研究者、レニングラード大学のニコライ・ネフスキーも、37年10月4日に「日本のスパイ」として逮捕され、11月24日に銃殺された。ネフスキーの日本人妻、北海道出身の萬谷イソも、ほぼ同時に逮捕され、同じ運命をたどった(1957年名誉回復、加藤九祚『天の蛇――ニコライ・ネフスキーの生涯』河出書房新社、1976年、檜山真一「弾圧されたネフスキイ夫妻」『北海道新聞』1991年8月9日)。

 伊藤政之助や国崎定洞を「売った」山本懸蔵も、前島武夫や伊藤政之助の「自白」供述をもとに、1937年11月2日に逮捕され、39年3月10日に銃殺された。38年正月に軍国日本を逃れてソ連に新天地を求めた当時の人気女優岡田嘉子と演出家杉本良吉のカップルも、樺太からの越境直後に逮捕され、杉本良吉は銃殺、岡田嘉子はラーゲリ送りになった。そればかりか、杉本良吉と佐野碩とのつながりを口実に、当時のソ連の著名な演出家メイエルホリドの逮捕・銃殺に利用された(小林・加藤『闇の男』、名越健郎『クレムリン秘密文書は語る』中公新書、1994年、和田春樹「歴史としての野坂参三」『思想』1994年3-5月、加藤『国民国家のエルゴロジー』など参照)。

 『闇の男』には、1937年7月3日付スターリンからNKVD議長エジョフへの粛清指令書、NKVDフリノフスキー将軍による26万人近くの粛清作戦実施計画書(7月30日付)など、当時のスターリン粛清がソ連の党と国家の組織的計画的犯罪であったことを裏付ける歴史的資料が収録されている。

 国崎定洞の逮捕は、フリノフスキー計画=「この作戦は一九三七年八月五日をもって開始されること、そして四カ月間で終了させること」(同書186頁)の作戦開始日、8月4日深夜であった。つまり、この局面での粛清候補者リストの先頭にあった。

 スターリンのエジョフ宛指令が発せられた直後、1937年7月9日・10日のソ連共産党機関紙『プラウダ』には、「日本諜報機関の破壊工作」と題する論説が掲載された(内務省警保局『特秘・外事警察報』第182号、昭和一二年九月、93頁以下)。そこには、「日本の諜報機関は他国の諜報機関よりその任が重く、諜報機関の活動は戦略計画の最重要部分である」として組織と歴史が詳しく説明され、ソ連市民に「トロツキー派、ブハーリン派等のスパイの外に、亡命労働者、サーカス団、左翼インテリ(舞台監督、文学者等々)の各種の看板でソ連に潜入して来る日本人スパイがあるが、彼らの偽装は巧妙で、之が暴露は相当に困難である。彼等は日ソ開戦と云ふ重大時機前に暴露される事を恐れ、一時活動を中止する方法を以て周囲の疑惑から逃れ様としている」と警告した。

 「亡命労働者」伊藤政之助、須藤政尾・前島武夫は、すでに逮捕されていた。ヤマサキ・キヨシはこの『プラウダ』論説直後の7月22日に逮捕されたが、その入ソは「サーカス団」の一員としてであった。次は、「左翼インテリ」の番であった。その最初に、国崎定洞が逮捕された。つまり、国崎定洞の逮捕は、NKVDにとっては粛清ノルマ達成の一手段であった。

 同じく「左翼インテリ」として例示された非党員の「舞台監督」佐野碩・土方与志の国外追放・出国は、国崎定洞逮捕直後の37年8月12日であった。やがて11月2日に山本懸蔵が逮捕され、38年に入ると国崎のクートベ・東洋学専門学校の教え子であった日本人も、次々と逮捕される。岡田嘉子・杉本良吉のように、軍国日本を逃れてソ連にあこがれた密航組も同様であった。野坂参三の妻竜も、山本懸蔵の妻関マツも逃れることはできなかった。逮捕も追放もされなかったのは、アメリカ滞在中の野坂参三と、片山潜の娘ヤスぐらいであった。

 その後の加藤の調査では、当時ソ連に在住していたと判断しうる日本人は八〇名以上にのぼり、そのほとんどが、何らかのかたちで粛清されたと推定できる。しかも、その逮捕・粛清は、野坂参三・山本懸蔵・国崎定洞を中心とした旧ソ連日本人社会の政治的・人的つながりと、拷問による「自白」供述の線にそった、芋蔓式のものであった(加藤『国民国家のエルゴロジー』に掲載した図参照)。

 1937年8月4日の国崎定洞の逮捕は、当時のモスクワ日本人社会に、大きな衝撃と疑心暗鬼をもたらした。フジテレビ報道局が収集した、アメリカ共産党出身でソ連に亡命したいわゆる「アメ亡組」日本人たちのKGB(GPU・NKVDの後身)ファイルのなかには、いくども国崎定洞の名前が出てくる。

 37年8月の国崎定洞逮捕直後に、国崎のナリマノフ東洋学専門学校の教え子で、日本語教師の同僚でもあった八人の「アメ亡組」日本人たちは、心理的恐慌状態におちいった(この8名のグループとは、セヌこと箱守改造、イエンこと福永與平、キムこと吉岡仁作、パクこと宮城與三郎、ツォイこと又吉淳、ユクこと島正栄、リこと山城次郎、ニューこと照屋忠盛)。

 そのなかの「キムこと吉岡仁作ファイル」に入っていたセヌこと箱守執筆と思われる日本語「申請書」はいう。

 「‥‥ニュー[照屋忠盛]は安子[片山ヤス]に逢った時、先ず根[国崎定洞]の検挙について何か知らんかと尋ねた。安子はニューの質問に対して、根が検挙された事は聞いたが其他何も知らないと答え、そして根が検挙されてから十日位後で関[佐野碩]さんや土方[与志]さん等がフランスへ行った事を話した」

 「ユクこと島盛栄ファイル」中に入っていた別の「申請書」(やはり箱守執筆と思われる)には、党員でありグループのビューローである照屋が、「非党員」片山安子に「根」=国崎定洞の行方を聞いたのは、「党の内部問題を党外にもちだした」行為だったという山本懸蔵による批判が出てくる。山本懸蔵は、そうした疑問はNKVDに提起しろとまで、率直に述べている。

 「セヌ[箱守]、ニュー[照屋]は同志田中[山本懸蔵]に疑問符(?)をつけ片山安子に逢って根[国崎定洞]及同志田中に就いて尋ね、不注意からして政治的誤謬を犯しました。我が八名のグルーパは集会を開き此の誤謬を批判し『若し再びかかる誤謬を犯す時は党から除名すると云ふ警告付きの譴責』の申請決議をした。‥‥
 [三七年]八月十五日、私[箱守?]は同志パク[宮城與三郎]から八月四日、根が検挙された事を聞いた。当時我がグルーパとコンミンテルン日本部との連絡は絶えていました。(毎週同志エン[福永]が連絡をとり日本新聞を借りていた)。十九日、同志田中は連絡をつける為に私[セヌ=箱守]の所へ来られた。私は同志田中に根の検挙事件に就いて尋ねたが、同志田中は、根はコンミンテルン日本部とは何等関係がないと云って其の問題には触れなかった。
 同志岡野[野坂参三]が根を我々八名のグルッパに紹介してから、根は我々に接近し四ヶ年以上も我々のグルーパの党集会に毎月出席し実際上我々を指導した。又三年以上も我々の先生だった。‥‥我がグルーパとかかる関係にあった根が検挙されたのであるから、根の検挙事件には触れないにしても我が八名の階級的鋭敏性が無かった為め根の仮面を観破し得なかった事に就いて自己批判の必要があると云ふ見地から何等かの注意を同志田中が(十九日セヌと逢った時)我がグルッパに與えるのが当然であると私は思った。‥‥
 此の時、ニュー[照屋]は同志田中が[片山]安子と自分が逢って話した事に就いて尋ねているものと察し、二十四日、安子と逢って話した事を語った。同志田中は之れに対して両人が発意性を発揮してやった事はよい。然し其の手段方法が悪かった。若し疑問があったら内務省[NKVD]或は党の組織を通じてやる可きである事を強調した。次に同志田中に対する古いデマ[例の三・一五事件時の山本懸蔵逃亡疑惑]の出所や、其のデマを根[国崎定洞]が手紙で独乙から同志片山[潜]に知らせた事等に就いて話した。又千代子、安子に対する同志田中の過去、現在、将来の態度を話した。終りに安子、千代子と関連して同志片山と同志田中との関係に就いて話した。‥‥
 同志田中は疑問があったら党外の片山安子に聞かずに内務省[NKVD]か或は党組織を通じて適の手段を取るべきと云はれた。しかし前にも述べた如くセヌ、ニューはただ単なる少さな疑問を解かんとしたのに過ぎません。両人が起した疑問の理由だけでは内務省や党組織に提出する材料たり得ないのであります」。

 これが、1937年8月4日に国崎定洞が逮捕され、11月2日に山本懸蔵が逮捕される直前の局面での、モスクワ日本人共産主義者社会の疑心暗鬼の情景であった。この8人のアメリカ共産党系日本人グループの内7名は、38年3月22日に一斉逮捕され、5月29日に全員銃殺された。逮捕のきっかけは、国崎定洞の拷問による「自白」供述であったろう。しかし、彼らの供述書では、なぜか国崎定洞や山本懸蔵との関係よりも、野坂参三との関係でのスパイであることを認めるようNKVD尋問官に迫られている。

 ニューこと照屋忠盛は、7人の逮捕の直前、38年3月15日に逮捕されたが、頑強に容疑を否認し続け、なぜか同じグループの7人とは異なり、強制労働5年の判決を受けた。服役後に釈放されたともいうが、その後は行方不明である。

 かつて私達は、国崎とKPD反主流派ハインツ・ノイマンやヴィリ・ミュンツェンベルグとのつながりや、スペイン義勇軍志願のような政治的要因を、国崎定洞粛清の原因として推定していた(本書第16章)。それらが間接的に疑惑を強めたにしても、在モスクワ日本人内部の疑心暗鬼の人間関係の方が、国崎粛清の主たる直接的理由だった。

 その遠因は、1920年代末に遡る、片山潜と山本懸蔵との対立であった。すでに30年10月には、国崎定洞とつながる片山秘書勝野金政と根本辰が山本懸蔵により告発されラーゲリ送り・国外追放になっていた。国崎定洞は、おそらくそうした事情を詳しく知らずに、片山に誘われるままソ連に亡命し、晩年の片山潜に登用され『自伝』完成を助けた。そのことが、33年11月の片山潜死後は、いっそう山本懸蔵に恨まれ「スパイ」と疑われる背景となった。

 1934年秋の友人勝野金政のラーゲリ出獄・日本脱出と、外国労働者出版所で伊藤政之助の上司となったことが、国崎定洞の運命を決定した。山本懸蔵の密告によりソ連秘密警察の監視下に入り、伊藤の逮捕が、国崎定洞粛清の直接の引金になった。

 国崎定洞逮捕のさいの、「タケウチ=伊藤政之助」と共にもう一人の「自白」証言者となった「ビリチ」については、『土方梅子自伝』から、在日ソ連大使館に勤務し日本人妻と結婚して帰国したロシアの下級外交官A・ビリチと推定できた(早川書房、1976年、238頁以下)。このビリチは、土方夫妻と交流があり、当時ブハーリン派として粛清されたというが、国崎との具体的つながりは不明である。その日本人妻であるチルコ・ビリチ(当時35歳位。東京生れ、陸軍中佐の娘)も、行方不明のままである。

 国崎定洞の共産党員の党籍は、1991年夏に加藤がベルリン旧ML研究所で発掘した37年8月22日付在モスクワKPDの除名指令書でも、最後までドイツ共産党とされていた(『ソ連崩壊と社会主義』花伝社、1992年、227頁以下)。

 国崎定洞の逮捕後、ドイツ共産党員ライトネル・マックスも、国崎が怪しかったという密告供述を残している(本書付録  頁参照)。しかしそれは、37年9月11日付であり、国崎がすでにドイツ共産党を除名された後のことであった。国崎定洞の粛清理由としては副次的であり、傍証に使われたものであろう。

 国崎定洞は、モスクワではむしろ日本共産党関係の仕事に主として従事し、その指導部の内部葛藤と疑心暗鬼にまきこまれ、逮捕・銃殺されたのであった。

 「国崎定洞ファイル」には、予審尋問調書、公判記録は入っていなかった。だから、獄中での国崎定洞の詳細はわからない。だが1959年の「名誉回復決定書」によると、逮捕された国崎定洞は、いったん拷問により、教え子であるナリマノフ東洋学専門学校の島正栄、照屋忠盛、宮城與三郎、又吉淳から情報を得ていた、と供述したようである。

 「コンの起訴は、コンにスパイ情報をもたらしたのは、ユク、パク、ニュー、ツォイであるという、予審での彼自身の自白に基づいていた」(本書付録)。

しかし、公判でははっきりと予審段階での「自白」を否定した。

 「法廷でコンは自分の供述を否認し、いついかなる時も日本の諜報部員であったことはないし、スパイ活動をしたこともないと証言した」(本書付録)。

 国崎定洞は、無実を訴えたが認められず、1937年12月10日、モスクワの監獄で銃殺された。この時、日本人粛清は山本懸蔵、野坂竜の逮捕に波及し、国崎定洞の妻フリーダは職場を解雇されていた。フリーダは、夫の生死もわからぬまま、遺児タツコと共にナチス・ドイツへと強制送還された。

 この1937-38年の粛清絶頂期に逮捕・銃殺され、また強制収容所送り、国外追放になった日本人は、これまでわかったところで30名以上に達し、当時ソ連在住と推定され、そのまま行方不明になった日本人を加えると、80名以上にもなる(加藤『国民国家のエルゴロジー』参照)。

 国崎定洞の逮捕・銃殺は、これら在ソ連日本人総粛清の中心環の一つであり、典型であった。

(1) 山本懸蔵  戦前日本共産党の代表的な労働運動指導者。一八九五年生。米騒動や総同盟友愛会で活躍し、野坂参三らと共に日本共産党結成に加わる。二八年三・一五事件時に逮捕を免がれソ連に脱出、以後、プロフィンテルン日本代表。野坂参三のアメリカ滞在中は日本共産党のモスクワ代表。一九三〇年から勝野金政、根本辰、伊藤政之助、国崎定洞らを「スパイ」としてソ連秘密警察に告発しながらも、三七年秋に逮捕され、同僚野坂参三の告発もあって、三九年に「日本軍のスパイ」として銃殺された。
(2) 風間丈吉  「非常時共産党」時代の日本共産党党委員長。一九〇二年生。二五年訪ソしクートベで学び、山本懸蔵らプロフィンテルン日本部の通訳。三〇年末、日本に帰国し日本共産党を再建、党委員長となる。三二年逮捕され、獄中で転向。一九六八年没。
(3) 山本正美  一九三三年当時の日本共産党党委員長。一九〇六年生。二七年訪ソし、クートベを卒業、コミンテルン東洋部で「三二年テーゼ」作成にたずさわる。三二年末帰国し党委員長になるが、三三年逮捕・入獄。戦後は湯本正夫の名で評論活動など。一九九四年没。
(4) ビリチ  東京のソ連大使館に勤務したことのあるソ連の下級官吏。妻は日本人チルコ。
ブハーリン派として粛清され、妻も行方不明。
(5) 岡田嘉子  戦前日本の人気女優。一九〇二年生。演劇・映画で活躍。三六年、日本共産党員の演出家杉本良吉と恋におち、杉本と共に三八年正月、樺太からソ連に越境。即刻逮捕され、「日本のスパイ」であることを強制自白させられた。十年の強制収容所・監獄を経験し、戦後はモスクワ放送アナウンサーを経て、演出を学びソ連演劇界で活躍。七二年以降幾度か日本に里帰りしたが、九二年モスクワで没。
(6) 杉本良吉  戦前日本の演出家・日本共産党員。本名は吉田好正。一九〇七年生。プロレタリア演劇運動に加わり演出・評論・翻訳で活躍。三八年正月の岡田嘉子との「恋の越境」でソ連に渡ったがそのまま逮捕され、拷問により佐野碩やメイエルホリドとの関係をスパイ・グループとして自白、これがメイエルホリド粛清の口実となった。三九年銃殺、五九年名誉回復。
(7) 片山ヤス  片山潜の長女。一八九九年生。白百合学園を出て渡米、バレリーナとなるが、一九三一年、父の看病のためソ連に入り、片山潜の死後はモスクワの東洋学専門学校で日本語教師。非共産党員ながら、国崎定洞らの粛清を目撃してきた。戦後はソ日協会副会長として日ソ親善に尽くす。一九八八年、モスクワで死亡。
(8) 片山千代  片山潜の次女。一九〇八年生。青山学院卒業後、二九年、単身ソ連に渡り父を看護しようとした。しかしソ連当局からスパイと疑われ、クートベ入学も父との同居も許されず、片山潜の死後は不遇な生活を送った。一九四六年没。
(9) オットー・クーシネン  フィンランド共産党創設者でコミンテルン幹部会員。一八八一年生。日本共産党の「三二年テーゼ」作成などに大きな役割を果たした。戦後はソ連共産党政治局員になり、一九六四年没。妻は日本に滞在した諜報員アイノ・クーシネン。
(10) 馬島 們  医師、東京労働者診療所長。一八九三年生。産児制限運動で活躍、戦後は新日本医師会会長、日ソ協会副会長などを歴任。一九六九年没。
(11) ヤ・ヴォルク  コミンテルン東洋部員。日本を担当し野坂参三・山本懸蔵らを指導したが、スターリンに粛清された。
(12) 須藤政尾  北海道から樺太経由でソ連に入り、モスクワで粛清された労働組合活動家。一九〇三年生。一九三七年銃殺さる。
(13) 前島武夫  一九〇一年生。クートベ卒業後、三七年に粛清された日本共産党員。
(14) メイエルホリド  一九三〇年代ソ連の代表的演出家で、スターリン粛清犠牲者。
(15) 「アメ亡組」 アメリカに移民労働者として渡った日本人で、労働運動やアメリカ共産党に加わり、三二年一月のロングビーチ事件などで捕まり、アメリカから国外追放になって三二ー三四年にソ連に亡命した、在米日本人共産主義者たちのこと。照屋忠盛、箱守(森?)改(平?)造、福永興平(麦人)、吉岡仁作(北次郎?)、又吉淳(純?)、島(袋?)正栄、山城次郎、宮城與三郎、永(長?)浜丸也(敬次郎?)、永(長?)浜さよ、健(剣?)持貞一、堀内鉄治、小林勇、西村銘吉、山口栄之助、平礼次、谷登の一七人(カッコ内は、当時の官憲資料など各種文献に現れる異名・異表記)。多くはクートベに学び、小林勇のように野坂参三の指導で日本に派遣され逮捕された者もいるが、ほとんどはソ連で粛清された模様。
(16) 丘文夫 モスクワの片山潜をレニングラードで助けたエスペランティスト。早稲田大学卒業後ソ連に渡り、ロシア文学を研究。一九三三年没。
(17) 和井田一雄  一九一一年生。ベルリン反帝グループの国崎定洞・小林陽之助がソ連に亡命した後のリーダーの一人。一高卒、東大入学直後にベルリン大学に留学した学生で、別名ミナミ。ナチスの政権掌握でベルリンからパリに移って、三六年に帰国し、三八ー四六年外務省勤務。四八年から東京理科大学助教授として独語・独文学を教え、スタンダール『赤と黒』(思索社)などの翻訳を残したが、肺病で病気がちで、一九五八年没。評論家・作家中村光夫は一高時代の同級生で、「外務省諜報部」(『憂しと見し世』中公文庫、四三頁)などに、和井田のことを記している。戦後も鈴木東民、勝本清一郎、三枝博音らベルリン時代の友人と往き来していた。
(18) 喜多村浩 一九〇九年生。一高で安達鶴太郎の後輩で、ベルリン大学留学当時、国崎定洞らのベルリン反帝グループ末期のリーダーの一人。別名ニシムラ。ヒトラー政権成立後スイスに移り、バーゼル大学で学位をとった経済学者。三九年から読売新聞中欧特派員を勤め、戦後四九年に帰国後は、東京都立大学、エカフェ経済発展課長、青山学院大学、国際キリスト教大学、国際大学教授などを歴任。著書に『国際経済学』勁草書房、一九五一年など。
(19) 「ツェンゾコ」 三四年当時ベルリン大学学生千足高保(一九一〇ー八〇、戦後東京女子大学教授)の可能性が高いが、最終的には未確認。
(20) 「イノウエ」 加藤『モスクワで粛清された日本人』では、一九三二年頃ベルリン大学学生で、三三年のナチス台頭後イギリス経由でアメリカに渡った戦後占領期の朝日新聞ニューヨーク通信員井上角太郎か、当時アメリカ在住で三六年連合通信発足時のパリ支局長、戦後時事通信社取締役になった井上勇(一九〇一ー八五)の可能性が高いとしたが、ベルリン反帝グループに属した小林義雄・喜多村浩のその後の加藤哲郎への証言から、ほぼ井上角太郎にまちがいないと思われる。
 芳賀武『紐育ラプソディ――ある日本人米共産党員の回想』(朝日新聞社、一九八五年)によると、井上角太郎(芳賀は「覚太郎」と記している)は、「京大の経済を出てドイツに留学中に共産党に入党した。ドイツで結婚した夫人がユダヤ人だったため、ナチスの迫害を逃れてアメリカへ渡り、日米開戦の少し前に私たちの東部日本人共護委員会に参加した。夫人がかなり裕福で当面の生活には困らないようだった。彼は開戦まで『朝日新聞』のニューヨーク特派員だった森恭三とも親しく、戦後は復活した朝日のニューヨーク支局の仕事をしている」(二三七頁)。戦時中は、芳賀と共に日米民主委員会などで活動し『紐育時事』を編集、戦後は「日系人社会で初の『民主的新聞』」と『ニューヨーク・タイムズ』で報じられた『北米新報』の主筆をつとめた。ベルリン大学時代の友人小林義雄によると一九六二年死亡というが(『小林義雄教授古稀記念論集』西田書店、一九八三年、四三頁)、アメリカで知り合った芳賀によると「五八年に夫人の里があるスイスに行って六七年に亡くなった」(『紐育ラプソディ』三二七頁)。朝日新聞社史編集室『朝日人事典』一九九四年には、「昭二四ー三二 朝日新聞外報部嘱託、ニューヨーク駐在、一九六七 ジュネーブで死去」とある。
 


第21章 三つの国での名誉回復のあとに


 1959年10月29日、ソ連最高裁判所は、国崎定洞の容疑は根拠がなかったとして、法的「名誉回復」を行っている。

 国崎の生死は、戦後もわからず、スターリンのソ連からヒットラーのドイツへの強制送還後、さまざまな迫害と差別を受けながらも生き残ったフリーダ夫人と遺児タツコは、ベルリンのソ連大使館に幾度も足を運んで、夫の行方を捜し続けた。日本でも、千田是也・有沢広巳・土屋喬雄・鈴木東民・勝本清一郎らが、野坂参三や日本共産党を通じて国崎定洞の消息を知ろうとしたが、何もわからなかった。

 同じ日本人犠牲者の「名誉回復」であっても、日本共産党指導者山本懸蔵のケースでは、1956年の「名誉回復」後に、モスクワに住んでいた妻関マツに対して、山本懸蔵の「名誉回復」書類が渡されていた(小林峻一・加藤昭『闇の男』224頁)。杉本良吉と一緒に越境した岡田嘉子のケースでは、杉本の法的「名誉回復」がなされた後に、岡田は「死亡通知書」「無罪証書」を受け取ったという(名越健郎『クレムリン秘密文書は語る』中公新書、1994年、69頁)。

 ところが、国崎定洞の妻フリーダの場合は、時期は定かではないが、1959年以後にベルリンのソ連大使館から「国崎は死んだ」と口頭で伝えられたのみであった。だから、フリーダは、なお夫の死が信じられず、すでに成人していた遺児タツコにも、そのことを知らせなかった。

 フリーダが、タツコに父の死を打ち明けたのは、1974年秋に、日独両国での国崎探求が奇跡的に結びついて、鈴木東民夫妻がベルリンを訪問し、フリーダと40年ぶりで再会したさいであった。フリーダとタツコが1937年12月10日という国崎定洞の命日を知ったのは、1975年8月の日本共産党によるソ連共産党への問い合わせ結果の発表文を、加藤がドイツ語に訳してフリーダ夫人に送ったことによってであった。それが、日本では、国崎定洞の政治的「名誉回復」となった。

 「国崎定洞の名誉回復決定書」の存在が明るみに出たのは、ソ連崩壊後の1992年、文藝春秋社取材班による「国崎定洞ファイル」の発見によってであり、遺族である日本の国崎家、ベルリンのタツコがそれを手にしたのは、加藤が93年冬に「国崎定洞ファイル」をジャーナリスト小林峻一から入手し、それをコピーしてそれぞれに送り届けてのことである。これによって、ドイツの遺族にも「名誉回復決定書」が渡され、三つの国での名誉回復」は、ようやく完結した。

 山本懸蔵や杉本良吉、多くの旧ソ連市民の粛清犠牲者の場合とはちがって、国崎定洞の「名誉回復」は、なにゆえにこんな回り道をたどったのか?――この謎は、未だに解明し尽くされてはいない。

 「国崎定洞ファイル」を詳しく見ると、国崎定洞の法的再審査が開始されたのは、1959年7月8ー9日付のソ連邦閣僚会議国家保安委員会(KGB)犯罪調査局長チスチャコフからソ連共産党中央委員会宛の、国崎定洞に関する資料送付の依頼状によってである。そして、同年10月29日に、ソ連最高裁判所軍事部会で無実が確定し、「名誉回復決定書」が発行された。11月10日の最高裁判所リハチョフ法務少将からソ連共産党中央委員会宛の通知書には、「名誉回復証明書」は、「コンの妻フリーダ・レートリヒに届けらるべく、軍法会議議長に送られた」とある(本書第2部付録資料)。

 しかし、そこには当時のフリーダ夫人の西ベルリンの住所まで明記してあったにもかかわらず、フリーダには「名誉回復決定書」は渡されず、「死亡」が口頭で伝えられたのみで、「名誉回復」の事実さえ伝わっていなかった。

 この謎を解く鍵は、1959年10月という、ソ連における国崎定洞「名誉回復」の時期にあると考えられる。

 スターリン粛清犠牲者の「名誉回復」は、すでに粛清直後の1939ー41年にも一部で行われており、53年の独裁者スターリンの死、56年ソ連共産党第20回大会でのフルシチョフ秘密報告でのスターリン批判によって、本格的に開始されている。山本懸蔵の「名誉回復」は1956年5月23日であるから、これはフルシチョフ報告の直接の結果と考えられる(山本懸蔵夫人関マツも、直後の7月7日に「名誉回復」)。

 しかし、1992年に初めて明らかになったことであるが、岡田嘉子と樺太国境を越えた杉本良吉の「名誉回復」は、59年10月15日であった。これは、同年2月9日に、当時の日本共産党書記長宮本顕治らが、ソ連共産党幹部会員スースロフ、クーシネンらとの公式会談で、杉本良吉についての調査を依頼した結果であると推定される。国崎定洞の「名誉回復」は、その日ソ共産党会談をきっかけにした杉本良吉の「名誉回復」の、わずか2週間後であった。

 さらにいえば、ちょうどこの頃、片山潜の生誕百周年を記念した日ソ両国での盛大な記念行事があり、1959年10月初めに片山潜『自伝』(後の日本語版『わが回想』上下、徳間書店、1967年)のドイツ語原稿が、モスクワで初めて発見されている。1929ー32年に片山が日本語で執筆し、国崎定洞が独訳して33年にはほぼ完成していたが、ナチス政権成立で刊行できなかったものだという。

 この1959年10月時点での、1 初旬の片山潜『自伝』ドイツ語原稿発見、2 15日の杉本良吉の「名誉回復」、3 29日の国崎定洞の「名誉回復」、という日程上での近接は、偶然とは考えにくい。

 ここから加藤は、当時モスクワ在住で片山ヤスとも親しかった岡田嘉子が、ソ連共産党第21回党大会出席のためソ連にやってきた日本共産党代表宮本顕治らに杉本良吉の消息調査を依頼し、宮本顕治らがソ連共産党中央委員会スースロフらに対して、年末に予定されていた日本共産党の片山潜生誕百年記念事業へのソ連側資料提供と合わせて杉本良吉の調査を申し入れたことが、その副産物として、杉本良吉と同じくある程度著名な無実の日本人粛清犠牲者であり、片山潜『自伝』の独訳担当者でもあった国崎定洞の「名誉回復」を誘引したのではないか、と推定した。

 そして、国崎定洞のソ連での「名誉回復」が、その後も闇に葬られたのは、1959年秋の発見当時はなばなしく称揚された片山潜の新たな『自伝』が、実は片山と国崎定洞と勝野金政の合作であることがわかり、それを公表するのは、当時のソ連共産党・日本共産党にとって政治的に都合が悪かったためではないか、という仮説を提示している(詳しくは、加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』第4章、参照)。

この「名誉回復」の謎は、資料的裏付けがとれないため、なおひとつの仮説に留まるが、国崎定洞の場合は、その法的「名誉回復」さえ日ソ両国共産党の政治力学に翻弄されたと思われ、スターリン粛清の底知れぬ闇の深さをうかがわせる。

 こうした事情は、すべて、旧ソ連の崩壊と秘密文書の発掘で、半世紀以上たって明らかになった。残されたいくつかの謎とともに、国崎定洞の遺体がどこにどう埋葬されたかは、未だにわかっていない(山本懸蔵・杉本良吉については判明)。

 しかし、粛清当時からこれらの事情を知りながら、遺族や私達にいっさい伝えようとしなかった日本人がいた。野坂参三・竜夫妻である。野坂参三は、妻竜を通じて国崎粛清の経緯を知っていたが、「愛される共産党」のシンボルで国会議員となった戦後も、勝本清1郎に聞かれて「必ずソ連のどこかに生きています」と述べていた。本書第16章で引用したように、川上武の野坂夫妻への問い合わせに対しても、国崎が逮捕された事実さえ証言しなかった。国崎定洞の無実と「名誉回復」が日本で確認された1975年以降も、わずかに大森実との対談で「すばらしい理論家なんです」と答えたのみで、日本共産党議長・名誉議長として沈黙を守り続けた(大森実『戦後秘史3・祖国革命工作』講談社、1975年、240頁以下)。

 1989年秋、ちょうど「ベルリンの壁」崩壊の頃に刊行された野坂参三の自伝『風雪のあゆみ』第8巻は、ようやく国崎定洞、山本懸蔵、妻竜の逮捕の事情にある程度言及したが、その記述は、自己保身のために、著しく粉飾されていた。

 晩年の野坂参三は、山本懸蔵告発の責任をとらされ、「ソ連の内通者」として日本共産党を追われ、1993年11月14日、百歳で寂しく没した。しかし、国崎定洞らを告発し秘密警察に引き渡した山本懸蔵の方は、野坂参三に告発され銃殺されたことが明らかになったためか、1994年発表の『日本共産党の70年』のなかで顕彰され、野坂の対極の悲劇の英雄とされている。

 国崎定洞は、日本共産党員ではなく、ドイツ共産党員であった。しかし、戦前のドイツ共産党(KPD)の伝統は、戦後は東ドイツ=ドイツ民主共和国(DDR)の支配政党であるドイツ社会主義統一党(SED)に継承された。SEDはソ連共産党の強力な影響下にあり、スターリン粛清の真相解明はタブーであり続けた。しかし、ワイマール共和国でナチスと対抗したKPDは、ソ連に多くの亡命者を送りだしていた。その多くが粛清犠牲者になったことは、ひそかに語り継がれてきた。

 ようやく状況が動きだしたのは、やはりゴルバチョフのペレストロイカ・グラースノスチの結果としてであった。

 1991年、「ベルリンの壁」崩壊と東西ドイツ統一の後、かつてSEDの御用出版社であったディーツ書店から、1冊の書物が刊行された。『ソ連秘密警察(NKVD)に逮捕されて――ソ連におけるスターリン主義テロルのドイツ人犠牲者』と題したこの書物は、旧SED付属マルクス・レーニン主義研究所(ベルリン労働運動史研究所)のスタッフが、ソ連とDDRのイデオロギー的正統化のための研究に特化してきた自分たちの過去を自己批判し、ようやく可能となったソ連共産党・ドイツ共産党関係秘密文書を探索して見いだした、ドイツ人粛清犠牲者のリストを収録していた。

 1136人に及ぶ略歴つき犠牲者リストのなかに、ただ1人、日本人の名前が入っていた。それが、国崎定洞であった。タツコがそれを知ったのは、加藤哲郎が日本からベルリン労働運動史研究所に問い合わせて、加藤のベルリン訪問のさい、エルヴィン・レーヴィン教授からその本を手交されてからであった。

 「国崎定洞(A・コン) 1894年日本生まれ。医者。1926年にベルリンに来て、1928年にドイツ共産党入党。1932年9月にソ連に渡り、外国労働者出版所に勤務、1937年8月に逮捕された」(In den Fangen des NKWD---Deutsche Opfer des stalinistischen Terrors in der UdSSR, Berlin 1991, S.129)。

 この短い記述が、事実上、国崎定洞のドイツ共産党員としての「名誉回復」となった。

 とはいえ、1959年のソ連における「名誉回復」も、75年の日本における「名誉回復」も、91年のドイツにおける「名誉回復」も、遺族であるフリーダ夫人、遺児タツコ、日本の国崎家の人々に、なんらかの公式的通知が送られたものでも、謝罪がなされたものでもなかった。ただ、1937年の悪夢が法的に無効であったことにされ、3000万人ともいわれる犠牲者のなかの一人として、名前が記録に残されたものにすぎなかった。


 国崎定洞探求の長い旅を終えて


 本書「はしがき」で述べた1994年12月の「国崎定洞生誕百周年の集い」は、本書の著者である私達(川上・加藤)にとっては、これら三つの国での「名誉回復」の集大成であり、私達の国崎定洞研究の、ひとつの歴史的総括を意味した。

 当日の川上武の報告は、本書「あとがき」に組み入れられている。ここでは、私(加藤哲郎)自身の国崎定洞研究の歩みをふり返って、本書全体のまとめにかえたい。

 私が国崎定洞の名を知ったのは、1968年のことである。ちょうどいわゆる大学紛争のさなかで、私は当時、東大法学部の学生自治会(緑会)委員長であった。

 東大闘争は、医学部から始まった。医学部教授会の閉鎖的体質とインターン教育の問題が底流にあり、学生の誤認処分事件をきっかけに、全学に広がった。

 教授会の閉鎖性と教育内容への不満は、法学部でも同じだった。医学部と法学部は、東京大学の権威主義の象徴だった。私達法学部の学生も、全学に遅れてではあるが、開学以来の無期限ストライキに突入した。

 ストライキで自主管理となったバリケードのなかで、数々の講演会が開かれた。法学部では、自主講座という名で学外から講師をよび、日本資本主義や大学問題についての連続学習会が開かれた。医学部でも、同様の研究会・講演会が行われていた。そのどちらであったかは、今では定かでない。たぶん、三浦聡雄ら医学部学生の主催した会だったろう。戦前東大法学部を追われたことのある、平野義太郎の講演会があった。

 当時の東大学生運動内部の路線上の争点は、「東大解体か、東大民主化か」であった。歴史学者羽仁五郎は、「東大解体」を志向するグループによばれてやってきた。同じ「講座派マルクス主義」に属した平野義太郎(当時日本平和委員会会長)は、「東大民主化」の線にそった話をした。その話の詳細は、記憶にない。ただ、「もうひとつの東大の伝統」の話だけが、妙に印象に残った。平野は、天皇制国家の支配者養成機構として誕生し、じっさい多くの権力者を育ててきた東大にも、それに抵抗する流れがあったことを強調した。森戸事件や新人会の話もしたのだろうが、それはほとんど覚えていない。

 初めて聞く国崎定洞の話が、私には強烈だった。戦前医学部に国崎定洞という少壮助教授がいて、文部省派遣によるドイツ留学中に反戦平和の運動に加わった。戻れば東大教授のポストが約束されていたが、そのままドイツで革命運動に飛び込み、反戦反ファッショの活動家になった。ナチスの台頭でソ連に亡命し、世界の労働者階級解放の運動に命を捧げた、という筋だった。

 もっとも、当時の私は、マルクス、レーニンや野呂栄太郎の方に魅かれていた。その系譜に属し、世界をまたにかけて活躍した「カッコイイ」医学者がいたエピソードとして、国崎定洞の名が記憶に残った。

 1970年に大学を卒業した私は、学生運動のなかで体得した初志を貫くべく、当時マルクス主義文献を数多く翻訳・刊行していたある出版社に就職し、編集者になった。最初に手掛けた仕事のひとつに、平野義太郎の著作があった。平野の白金の自宅に足しげく通い、企画の相談や原稿をもらう合間の雑談のなかで、よく国崎定洞の話が出た。レーニン『左翼小児病』の本邦初訳者であったことや、平野自身が国崎率いるベルリン反帝グループの一員であったことは、その時初めて知った。

 同じく学生運動から民主医療運動に飛び込んだ友人がいて、辺境の地で医療に情熱を燃やす彼から、川上武・上林茂暢編著『国崎定洞――抵抗の医学者』という本をぜひ送ってほしいと頼まれ、国崎の伝記の発刊を知らされた。モスクワでの国崎については、平野も多くを語らなかったから、国崎定洞が1937年にスターリンに粛清され消息不明になったことは、この本から教えられた。私にとっては、川上・上林『国崎定洞』の出版は、医学史のなかで忘れられていた一人のすぐれた社会医学者の発掘というにとどまらず、日本の社会運動史において意図的に消されてきた国際的活動家の名をクローズ・アップするものとなった。

 1972ー73年に、勤務先の出版社から派遣され、今はもう存在しないドイツ民主共和国(DDR=東ドイツ)に留学したさい、国崎定洞のベルリン時代について調べることができた。それは、一部は親しい著者である平野義太郎や小林良正(当時専修大学教授の経済学者、故人)の話に刺激された編集者としての関心によるものであったが、同時に、私にとっては初めての外国である「社会主義ドイツ」の生活体験からの、ある種の内発的要求によるものであった。

 その「現存社会主義」のもとでの生活体験は、私のその後の思想的軌跡をも定めるものになるが、万巻の書物以上に雄弁な反面教師であった。

 留学先であり宿舎であったベルリン社会科学研究所の窓から見える「ベルリンの壁」、ヴィッツェ(政治的小話=アネクドート)以外での体制批判の自由の欠如、「党」を中心とした目に見える社会的ヒエラルキー、バナナが入荷するたびに出来るマーケットの長い行列、そこに昼から手提げ袋を抱えて黙々と並ぶ普通の人々、公式的で無味乾燥な新聞・雑誌・テレビ、「マルクス・エンゲルス『共産党宣言』の4つの意義について述べよ」という試験問題に順番を間違えずに教科書通りに答えなければならない「科学的共産主義」という名の大学必修講義、そして、そのなかで「西側からのゲスト」としてドルショップに通い、特権階級なみの生活を許される自分自身――当初はマルクス主義理論やドイツ労働運動史を研究しようと思っていた私も、この「現存社会主義」そのものの歴史的生成を、批判的に解明したいと考えるにいたった。

 スターリン粛清の犠牲者と推定された国崎定洞の生涯の発掘は、その格好の素材だった。幸い留学先の便宜で、ドイツ社会主義統1党付属マルクス・レーニン主義研究所への出入りはフリーパスだった。そこで私は、日本の社会主義運動とコミンテルン=世界共産党の関係資料を漁り、1932年に国崎定洞らの組織した在独革命的アジア人協会機関誌『革命的アジア』やコミンテルン独文機関紙『インプレコール』の日本関係の諸論文を集め、普通のDDR市民や学生には到底不可能なゼロックス複写まですることができた。『流離の革命家』所収の『革命的アジア』誌関係資料や、川上武・加藤哲郎・松井坦編訳『社会衛生学から革命へ』に収録した「ヨベ」の諸論文は、この研究過程の産物である。

 私にとって国崎定洞が身近になったのは、ドイツからの帰国後である。1974年秋に鈴木東民が西ベルリン在住のフリーダ夫人を探しだし、それをきっかけに、川上武ら医学史研究者ばかりでなく、千田是也、有沢広巳、平野義太郎、堀江邑一、野村平爾、石堂清倫、曽田長宗ら国崎の旧友たちが動きだして、日本国内でも、国崎定洞の「名誉回復」運動が始まった。編集者に戻って、平野や堀江から国崎定洞について本格的に聞き取りをし、鈴木東民・ゲルトルート夫妻に紹介されてフリーダ夫人との文通を始め、川上武を助けて「国崎定洞をしのぶ会」の事務局を担当するようになった。ちょうど、日本共産党が国崎定洞の消息についてソ連共産党に照会し、国崎の1937年12月10日の命日とソ連における1959年の「名誉回復」の事実が判明した頃であった。

 私の手元にある1975年12月10日の「国崎定洞をしのぶ会 式次第」によると、この33回忌の席で、平野義太郎、曽田長宗、堀江邑一、鈴木東民、野村平爾らとともに、まだ28歳だった私自身も、「資料紹介」と題して発言したことになっている。国崎家を代表して姪の田中あやが挨拶したのは、よく覚えている。

 ところが鎌田慧の『反骨――鈴木東民の生涯』(講談社、1989年、386頁)や石堂清倫『中野重治と社会主義』(勁草書房、1991年、214頁)では、この時鈴木東民は、この会に山田勝次郎夫妻・中野重治ら日本共産党からの除名者・離党者が呼ばれなかったことに抗議し、「こんなセクト的なやり方は許されない」と声明文を読み上げて途中で退席したことになっている(鎌田『反骨』には77年とあるが、川上武・堀江邑一らが主催したというから、1975年の33回忌の会以外にない)。

 しかし、私はこの日は裏方で忙しかったためか、鈴木東民の抗議・退席の記憶はない。

ただし、手元の「式次第」によると、この日の「日本共産党代表あいさつ」は、当初「袴田里見(副委員長)」と予定されていた。それが2本線で消されて、「紺野与次郎」と訂正されている。実際にも出席の返事がきていた袴田は欠席し、紺野が挨拶した。この会が、日本共産党による公式の国崎定洞「名誉回復」の場と想定されており、その共産党自身が国崎の「名誉回復」に及び腰で、土壇場で袴田より格下の紺野の派遣に変更されたと考えられる。

 国崎の日本での「名誉回復」にも政治力学が及び、真相発覚をおそれる野坂参三らの影がつきまとったことは、私の知る限り、疑いない事実である。当時はなお、ソ連共産党でも日本共産党でも、スターリン粛清の真相解明は、ある種のタブーであった。私は、「名誉回復」を強く意識ながら、国崎定洞とベルリン反帝グループの活動について、「労働運動史研究者」の名で、いくつかの論文を発表した(「国崎定洞論」『日本の統一戦線運動』労働旬報社、1976年、「ベルリン及びモスクワでの国崎定洞について」『医学史研究』第46号)。その帰結として、1976年の川上武『流離の革命家』の増補部分(本書第16ー18章)には、私の研究のいくつかが採用された。また、岩田芳夫の手元に残されていた国崎定洞の小宮義孝宛手紙を川上武が編纂し、私が収集した「ヨベ」の諸論文などを私と松井坦が編集・翻訳して、川上武・加藤哲郎・松井坦編訳『社会衛生学から革命へ――国崎定洞の手紙と論文』(勁草書房、1977年)が刊行された。

 ただし、この「ヨベ」論文が、国崎定洞のものであるかどうかは、本書第19章末尾で述べたように、確認し尽くされてはいない。最近の岩村登志夫の「32年テーゼ」ロシア語草案などを使った研究では、『インプレコール』紙上での「ヨベ」の論評の存在が、コミンテルンが当時の日本共産党に与えた革命戦略の変遷を理解するうえでのひとつの重要な鍵とされている。その意味では、川上武がかつて私のこの期の仕事を「『ヨベ』なる人物が、国崎であることをはっきりさせた。これは日本労働運動史での画期的な仕事の端緒となるであろう」(『流離の革命家』「はしがき」)と評したのは、やや不正確ではあったが、必ずしも誇張とはいえないのかもしれない。

 今日の私自身は、この期に国崎定洞研究にとりくんだことを、後に「1932年テーゼ」の成立過程を解明する学問研究に役立ったことよりも(加藤「『32年テーゼ』の周辺と射程」『思想』1982年3・4月号)、旧ソ連に在住し粛清されたと推定される80人以上の日本人犠牲者解明の端緒となったことの方に、より重要な意味を見いだしている。

 同時に私は、石堂清倫のメドヴェーデフ『共産主義とは何か』上下巻の翻訳(三一書房、1973・74年)や上田耕1郎の「理論政策活動の新しい前進のために」(『前衛』1975年11月号、本書第16章)に刺激されて、当時労働組合の委員長をつとめていた勤務先の出版社でも、スターリン主義批判の一連の著作を企画し編集した。中野徹三・藤井一行・高岡健次郎編『スターリン問題研究序説』やヘゲデュス『社会主義と官僚制』などは、そうした産物であった。

 その出版社での田口富久治『先進国革命と多元的社会主義』の編集・刊行が、名古屋大学田口教授と日本共産党不破哲三書記局長(当時)のいわゆる「田口・不破論争」に発展するに及んで、私は、出版編集者としてなしうる変革の限界を感じとり、アカデミズムに移った。この過程で知り合った富山大学藤井一行教授は、1993年以降の「国崎定洞ファイル」の解読にあたって、私のかけがえのない同志となり助言者となった。本書のロシア語資料の多くも、藤井教授のもとで、原文から厳密に翻訳されている。

 1978年、名古屋大学田口富久治教授のもとで、私は政治学研究者として再出発した。東独留学以来のコミンテルン史の研究でわずかに国崎定洞と交錯することはあったが、もっぱら西欧マルクス主義の新しい国家論・政治学の摂取と紹介に忙しくなり、国崎をそれ自体として論じる機会はなくなった。79年から80年夏の国崎定洞夫人フリーダ、遺児タツコの日本への招待計画――途中でフリーダ夫人が逝去し、タツコが来日した――では、ちょうど一橋大学に赴任したばかりで自由時間ができ、川上武とともに接待役をつとめた。それは「国崎定洞をしのぶ会」事務局としての活動であり、照井日出喜ら友人たちに、ドイツ語通訳などを手伝ってもらった。

 タツコ来日後の1980年11月、学生時代からの親友で戦友であり、『社会衛生学から革命へ』所収の「ヨベ」論文などを一緒に編訳した松井坦(当時東京大学経済学部大学院、宇都宮大学講師)を、不慮の交通事故で失った。それは、私にとって、学問的にも思想的にも大きなショックであり、喪失であった。国崎定洞のスターリン粛清による死と、千田是也ら残された友人たちの痛みが、間近に肌で感じられた。『国家論のルネサンス』(青木書店、1986年)や『東欧革命と社会主義』(花伝社、1990年)で展開したその後の私の理論活動は、レーニン主義とは異なるグラムシ風「ネオ・マルクス主義」、スターリン粛清や国崎定洞の悲劇を繰り返さない「社会主義的民主主義」の探求であった。故松井坦の恵美子夫人も、私と彼の出会いの場であった東京大学新聞で医療史を研究していた谷みゆきと共に、1994年12月の国崎定洞生誕百周年の会に列席していた。

 その後の私は、タツコ・レートリヒとの交流を続け、イギリス留学やドイツでの国際会議の機会にベルリンのタツコを訪問することはあっても、国崎定洞研究にとりくむことはなかった。1986ー88年のアメリカでの在外研究のさいに、スタンフォード大学フーバー研究所図書館やハーバード大学ホートン図書館でコミンテルンと日本社会運動史の関係資料に一応あたってはみたが、国崎定洞に直接つながる手がかりはなかった。

 だから、1991年のソ連崩壊後に突如出現した「国崎定洞ファイル」は、私にとって、晴天の霹靂であった。その解読は、私にとっては20歳台で一応「卒業」したはずの国崎定洞研究の仕事に、一気にタイムスリップさせた。同時にそれは、私自身の理論的・思想的軌跡にも自己切開のメスを入れざるをえないほどに大きな衝撃と、ある種の苦痛と解放感を伴う作業であった。

 私は、ここ数年、「エルゴロジー」を提唱している。「エコロジー」と一対で、人間と自然との共生を人間身体において復活し、働き過ぎや過労死の日本社会に警鐘をならす思想である。『社会と国家』(岩波書店、1992年)の執筆中に出会った言葉で、エルゴロジーは、エコロジーの「生態学」とパラレルで、日本語では「働態学」と訳される。

 1989年の「ベルリンの壁」崩壊以来、東欧革命やソ連崩壊についての分析を一連の書物にしてきたが、並行して進めた現代日本の政治と社会の批判的研究が、エルゴロジーという視角に行きついた。具体的研究対象は、過労死やサービス残業からエイズやアトピー性皮膚炎へ、自民党支配や冷戦体制から国民国家や近代工業化の限界へ、国家論・政治経済学から経済人類学・歴史考古学へと広がって、いまやマルクスの唯物史観をも、西欧近代に特有な生産力史観・人間中心主義・労働還元主義の一種と考えるにいたった。

 公害・環境破壊や過労死労災補償・長時間労働の研究では、国崎定洞の出発した社会衛生学と重なりあうようになったが、レーニン主義や国際共産主義運動については、かつての国崎定洞の場合とは逆に、もっぱら学問的分析・批判の対象と考えるようになった。

 エルゴロジーに近づいた私は、1993年秋に「国崎定洞ファイル」を入手して、国崎定洞の生涯そのものを、社会医学ならぬ病理社会学の対象として、診断することになった。それは、対象そのものが歴史的既知となり、国崎定洞が飛び込んだ幼年期・青年期のソ連邦とコミンテルンの病巣を研究途上で見いだしたからであった。過剰ストレスと制度疲労による国家主義的社会主義の老衰死を目の当たりにして、遺体を切開して現れた旧ソ連秘密文書のなかから、私は、国崎定洞を死に追いやったガン細胞と、その増殖メカニズムを見いだした。その痛々しい解剖所見は、『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)、『国民国家のエルゴロジー』(平凡社、1994年)に詳しい。

 国崎定洞の直接の死因は、ソ連刑法第58条スパイ罪による銃殺刑であった。だが、そこにいたるモスクワでの生活は、ボートできたえた健康そうにみえる国崎の肉体と精神を、じわじわと蝕むものであった。すでにベルリン時代の活動歴が、モスクワ日本共産党の指導者山本懸蔵から「階級敵」と診断されていた。孤独な老人指導者片山潜への善意の親切が、インテリを嫌う階級闘士山本懸蔵には、「小ブルジョア」病原菌浸入と疑われた。文学青年勝野金政や哲学青年根本辰を片山潜に紹介したことが、外的刺激と感染に極度に敏感な、免疫なき「一国社会主義」ソ連の体内への雑菌持込みと警戒された。

 1932年9月に国崎がソ連に亡命した時点で、すでにモスクワ日本共産党指導部の片山潜・野坂参三・山本懸蔵は、互いに疑心暗鬼のさなかにあり、国崎定洞への対応も分かれた。山本懸蔵は国崎定洞のクートベ入学にも反対した。翌33年秋の片山没後のモスクワ日本人社会のなかでの国崎は、眼にみえぬ秘かな監視のまなざしと、「同志」という名の冷たい人間関係に囲まれて、孤独で神経の疲れる毎日であったろう。スターリン主義のガン細胞が、キーロフ暗殺事件を機に一気にモスクワに広がった時には、もはや日本にもドイツにも帰ることができず、自らがウィルスと見なされたと予感できたのではないか? 36年夏のスペイン国際義勇軍への志願は、ガン病棟からの脱出の最後のチャンスであったが、すでに肉体的にも精神的にも隔離されたと同然で、逃れようにも逃れられない狂気の密告網に包囲されていたのではないか?

 国崎定洞には、遺書も遺稿もなかった。1937年8月4日の逮捕の夜、フリーダ夫人に残した最期の言葉は、「フリーダ、僕は潔癖なんだからね。また帰って来るよ」というものだった(鈴木東民へのフリーダ夫人の手紙、74年11月21日付、本書付録)。それは、手紙でも遺書でも、素直に心境を述べれば証拠書類にされて家族や友人に累が及ぶのを自覚しての、覚悟の入獄ではなかったか? そうでなければ、日本の社会医学の先駆者国崎定洞は、あまりに大きな誤診を犯したことになるのではないか? あるいはそれも、遺体を切開し解剖してわかった歴史の後知恵で、予防医学を志した国崎定洞は、すでに国際共産主義という巨大な病体に組み込まれたひとつの細胞になり、ガンに蝕まれた異常な身体も、正常に機能しているかに見えたのであろうか?

 粛清最盛期に就業人口の1割を強制収容所の奴隷労働に囲い込み、国崎定洞ら数十人の日本人を粛清し、さらに戦後はシベリア抑留で6万人の日本人の生命を呑込み奪いさったソヴェト国家は、74年の生涯を終えて、私達の眼前にある。そこからは、その心臓についても、血液についても、末梢神経についても、閉鎖的監視国家の遺体にふさわしく、最高指導者レーニンやスターリンのテロル指令を含む数百万点の歴史的史資料が流れ出している(ロシア共和国国立文書館=スタンフォード大学フーバー研究所『旧ソ連共産党・ソヴェト国家機密文書集成』チャドウィック・ヒーリー社、1994年ー、『共産主義の歴史』叢書、イエール大学出版、1995年ー)。

 エルゴロジー(働態学)は、人間自身の体内に潜む自然の生理・サーカディアンリズム(人体時計)と生態系をベースにして、正常と異常を仕分けし、健康と病気とを診分けていく。だがそれは、そう単純ではない。適度の刺激とストレスが心身活動になくてはならないように、労働(labour)と仕事(work)はしばしば同じ活動(action)のコインの表裏であるように、過剰ストレスや働き過ぎの絶対的・1般的基準を設けるのは難しい。

 社会や政治にも、似た事情がある。「社会」主義が、いつからなぜ「国家」主義になったのか? いかなる社会にも必要な行政組織活動が、どこから官僚主義に転化し、いかにして国家権力になるのか? ソ連型社会主義が、あの時代に、どのような生理と病理のメカニズムを持ち、ロマン・ロランや国崎定洞のような知識人を含めて、なにゆえにかくも多くの人々をひきつける「20世紀のユートピア」たりえたのか? それがなぜ、第2次大戦後にいたっても、それなりの生産的社会システムとして機能し、冷戦体制の一極として存続しえたのかが、その老衰・崩壊の病理とあわせて、解剖されなければならない。

 「マルクス・レーニン主義」や「科学的社会主義」のイデオロギー的外皮でおおわれ、国家宗教で聖化されてきた謎の身体に、生理と病理の社会学のメスを入れなければならない。国崎定洞の生涯を無意味にしないためにも、その解剖は、徹底的でなければならない。20世紀の人類の歴史は、その心臓部から、もう一度切開されなければならない。

 それが、私にとっては、「抵抗の医学者」「流離の革命家」国崎定洞の見果てぬ夢の足跡を4半世紀にわたって追究し、そのやりきれない粛清の真相にゆきついて感得した、エルゴロジー的総括である。


第二部 国崎定洞に関連する資料

 


(ベルリン時代    解題 加藤 哲郎)


 「社会衛生学から革命へ」第二部所収の”ヨベ”論文については、本書第19章末尾で詳論したように、国崎定洞の筆名とは最終的に確認できていない。しかし、当時のコミンテルンの「三二年テーゼ」作成と関わる重要文書である。山本三郎論文については、同書の解説に詳しい。

 なお、1976年刊行の川上武著「流離の革命家――国崎定洞の生涯」の巻末には、「国崎定洞にかんする新資料」として、以下の文献が収録されている(いずれも加藤哲郎訳)。

1 革命的アジア人協会宣言(「革命的アジア」第一号、一九三二年三月)  一九三一年九月の満州事変勃発を受けて、国崎定洞らが三一年一月に組織した、在独革命的アジア人協会の創立宣言で、起草者は不明である。在ベルリン反帝グループの日本人が中心になって組織し、中国人、朝鮮人、インド人が加わり、それにドイツ人が協力した。国崎定洞は、その組織部長であった。

 一九三二年一月の日付で、「組織の中心目的は、ドイツにおけるアジア人の連帯と、ドイツ住民とアジア被抑圧者の団結と共感をうちかためることにある」とあるように、日本帝国主義の中国侵略に反対し、植民地・半植民地民衆との連帯を、ドイツの地で表明した。

2 ヨーロッパの勤労者へ(よびかけ)(「革命的アジア」第二号、一九三二年四月)  「中国の勤労者への帝国主義的略奪に対して立ち上がろう」とヨーロッパ民衆によびかけた、革命的アジア人協会の文書。

3 片山潜の手紙(『革命的アジア』第二号、一九三二年四月)  一九三一年一二月一八日の日付のある、当時のコミンテルン幹部会員片山潜による満州事変反対のアピール。「満州・モンゴールの軍事占領は、世界的規模での帝国主義戦争の開始を意味している」と位置づけ、「万国のプロレタリアート、団結せよ!」と結んでいる。注目すべきは、これが、三一年一月から満州事変勃発まで重病で入院・療養していた片山の健在を示す第一線復帰のアピールであることである。

 また、国崎定洞執筆と思われる「『革命的アジア』編集部のまえがき」に、「我々は、まもなく(モップル書店から)ドイツ語で公刊される片山の自叙伝『わきあがる自叙伝』をドイツの労働者に参照していただきたい」とあるように、片山潜の「自伝」(後の『わが回想』徳間書店、一九六七年)執筆と国崎による独訳の進行状況、刊行予定題名がわかる。

  


 

 モスクワ時代      編集 加藤 哲郎


 付録資料(一) フリーダ夫人の手紙

 

 以下に収録するのは、国崎定洞の故フリーダ・レートリヒ夫人が、生前に国崎定洞について回想した二通の手紙である。

 一通は、鈴木東民の努力で奇跡的に存命中と判明した西ベルリン在住のフリーダ夫人が、鈴木夫人ゲルトルードに宛てた日本への初めての手紙である。

 もう一通は、鈴木に紹介された加藤哲郎が、フリーダに手紙で問い合わせたさいの回答の手紙である。加藤は、その後もフリーダと文通して多くの手紙を保存しているが、この手紙が最も包括的に国崎定洞の活動と生活について答えている。

 この二通の手紙は、一九七五年一二月の「国崎定洞をしのぶ会」で配布された「国崎定洞にかんする新資料」(タイプ印刷、非売品)に収録されたものだが、今日では入手困難なので、ここに資料として再録する。


付録資料(二) 国崎定洞ファイル

 

 ここに収録するのは、ソ連崩壊によって初めてその存在が明らかになった、旧ソ連共産党公文書館秘密文書「国崎定洞ファイル」である。

 「国崎定洞ファイル」は、約二〇点のロシア語・ドイツ語・日本語資料から成る。そのなかには、予審尋問調書や法廷裁判記録はなかったものの、『闇の男』に公表された資料3(三八年関マツ供述書)・資料5(三五年NKVD文書)・資料6(五九年名誉回復決定書)のほかに、『闇の男』では用いられず、従って本書で初めて日本語になるドキュメントも入っていた。

 ファイルの全資料には、同じ筆跡のロシア語で「四九五/二八〇/一六八」というナンバーがついており、多くは「極秘」「秘密」とされている。これは、ロシア現代史史料保存センター(コミンテルン文書館)の「国崎定洞ファイル」の整理ナンバーである。

 ファイルは全体が、直接裁判に使われたとみられる資料と、その他の個人資料に分けられ、個別に資料ナンバーが付けられている。前者には、一九四五年一一月二四日付けで作成された一覧表があり、以下のようなリストが掲げられていた。

@ 身上書(ロシア語一頁)

A 履歴書(ドイツ語一頁、一九三二年九月)

B 個人カード(ロシア語二頁、一九三三年三月二五日)

C 同志タナカ[山本懸蔵]との会談記録、署名はコテリニコフ(ロシア語二頁、一九三四年九月一九日、『季刊 窓』第一八号に初出、本書第二十章に収録)

D 同志コテリニコフのコン[国崎定洞]とキムシャン[野坂竜]との会談記録(ロシア語二頁、一九三四年一〇月一〇日、『季刊 窓』に初出、本書第二十章に収録)

E 同志タナカ[山本懸蔵]との会談記録(ロシア語一頁、一九三四年九月二三日、Cの異文)

F 身上書(ロシア語二頁)

G 履歴書(ドイツ語手書き二頁、一九三五年三月一四日、本書第二十章に収録)

H 履歴書(ドイツ語タイプ四頁、一九三五年三月一四日)

I 個人カード(ロシア語一頁)

J コミンテルン東洋部人事係からNKVDへの手紙(ロシア語二頁、一九三五年二月九日、『闇の男』巻末資料5、二三五頁以下、以下に新訳を収録)

K コンの履歴書(ロシア語三頁、一九三五年三月一四日)

L 証明書(ロシア語一頁、一九三六年三月六日)

M ミュラー署名の国崎に関するデータ(ドイツ語一頁、一九三七年九月一一日、以下に初めて収録)

N ベロフ署名の手紙(ロシア語一頁)

O ベロフ署名の同志ポリャチェク宛の手紙(ロシア語一頁、一九三七年九月一四日)

簡単に説明を加えると、@FIは、それぞれの時点の身分証明書にあたるもので、一覧表と実際に収録されているものは、必ずしも一致しない。本書では、以下に、それらのなかで相対的に死亡時に近く、かつ完成度の高いIと思われるアンケートを新訳し収録した。

 Aはソ連入国・クートベ入学に用いられたと思われる履歴書で、そのもととなっているのは、この一覧表には入っていない一九三二年六月二五日付日本語履歴書であるので、本書ではそれを第十九章に収録した。

 GとHは同文で、『闇の男』所収のJのように秘密警察NKVDの監視下に入ってから、たぶん経歴再審査のため書かされた履歴書である。Kは、そのロシア語訳である。本書では、Gを第二十章に訳出した。

内容的に重要なのは、JのNKVDによる監視の原因となったと思われる、Cコテリニコフの山本会談記録(及びその異文E)とDコテリニコフの国崎定洞及び野坂竜との会談記録である。この二つの資料は、すでに『季刊 窓』第一八号(九四年三月)に発表した私の書評論文「歴史における善意と粛清――『闇の男――野坂参三の百年』の読み方」のなかに、藤井一行富山大学教授の手によって、全文が訳出されており、本書では第二十章にそれをそのまま収録した。

Mは、国崎定洞が三七年八月四日に逮捕されてから、党籍がドイツ共産党であったため、当時の在モスクワ・ドイツ共産党の悪名高き党書記で、「恐怖の猟犬」「人事のミュラー」とよばれたA・ミュラーが、当時のコミンテルン人事部長ベロフに与えた、国崎についての追加情報である。NOは、そのロシア語訳である。

 以上にリストアップされたファイルを基礎に、五九年の「名誉回復」裁判が行われたらしく、さらに以下の資料が、一九四五年のリストにはないが、後に追加されている。

 これらは、五九年名誉回復のさいに、右のリストの資料以外で検討され(Q)、または、新たに作られた(PRS)書類と思われる。これらは、以下に金森寿子氏(金沢大学大学院)による新訳を収録した。

P ソ連閣僚会議国家保安委員会(KGB)犯罪調査局長からソ連共産党中央委員会への手紙(ロシア語一頁、一九五九年七月八ー九日、以下に初めて収録)

Q コミンテルン国際統制委員会での関マツの供述書(ロシア語三頁、一九三八年一一月二六日、『闇の男』巻末資料3、二二七頁以下、以下に新訳を収録)

R ソ連最高裁判所軍事法廷の国崎定洞の名誉回復決定書(ロシア語二頁、一九五九年一〇月二九日、『闇の男』巻末資料6、二三八頁以下、以下に新訳を収録)

S ソ連最高裁判所軍事法廷からソ連共産党中央委員会への名誉回復決定通知書(ロシア語一頁、一九五九年一一月一〇日、以下に初めて収録)

これらの他に、たぶん三七年の裁判でも、五九年の名誉回復でも、直接には使われなかったと思われる個人資料として、国崎定洞自筆の日本語履歴書(一九三二年六月二五日付け、本書口絵および第十九章参照)、国崎とは筆跡の異なる日本語履歴書断片(日付なし、実は小林陽之助の自筆履歴書の一部、『モスクワで粛清された日本人』参照)、日本政府発行のパスポート(一九二六年、本書口絵参照)、ロシア語のクートベ大学院出願身上書、外国労働者出版所就職時身上書の下書きと思われるものなどが、別に一括されている。

 以下の訳文は、金森寿子氏によるもので、訳文中の[ ]内は訳者による訳注である。公式機関名や党名・筆名の本名などは、加藤哲郎の責任で解読し、各資料末尾にそれを編者として注記した。ただしそのさい、その後の研究の進展により、『モスクワで粛清された日本人』および『国民国家のエルゴロジー』での解読とは異なる表記を採用したものもある(「東洋大学↓東洋学専門学校」、「島袋正栄↓島正栄」「箱守正造↓箱守改造」など)。


新資料1 コミンテルンからNKVDへの国崎定洞についての通知書(一九三五年二月九日)

 <編者注> この文書中の人名は、以下のように解読される。

 カンジョ=前島武夫、マイジング=伊藤巳三郎、ヴァンピング=小石濱蔵、クイフ=永井二一、リクオ=小林陽之助、コン=国崎定洞、タケウチ=伊藤政之助、タンホ=泉政美、リャンフ=小林勇、ホミン=山本一正、キム・シャン=野坂竜、イェン=福永興平、ユク=島正栄、ニュー=照屋忠盛、シェヌ=箱守改造、リー=山城次郎、パク=宮城與三郎、キム=吉岡仁作、ツォイ=又吉淳、フヴァン=永浜丸也、ナム=永浜さよ。

新資料2 国崎定洞の身上書(一九三六年一二月七日)

 <編者注> 国崎定洞の身上書・個人カードは、ファイル中に比較的多く残されているが、ここでは、一九四五年のリストには掲げられていないが、相対的に逮捕直前に書かれ、比較的体系的に書かれている、一九三六年一二月七日付のものを収録した。オカノは野坂参三の党名。

新資料3 ドイツ共産党からコミンテルンへの国崎定洞についての通知(一九三七年九月一一日)

新資料4 関マツのコミンテルン国際統制委員会における会談記録(一九三八年一一月二六日)

 <編者注> この文書は、山本懸蔵の逮捕後も逮捕されずにいた妻関マツが、おそらくアメリカから帰国した野坂参三の告発によってコミンテルン国際統制委員会に召喚され、一九三八年一一月二〇日、二三日、二六日に行われた会談中の、二六日分の供述記録で、内容的に重要なためか、「国崎定洞ファイル」に入っていた。『闇の男』によると、この会談にはコミンテルン側から書記長ディミトロフ、幹部会員クーシネン、ピーク、野坂参三らが出席しており、その場で野坂参三は山本懸蔵を「左派」と告発し、関マツは同年一二月三一日付で日本共産党から除名された。文中の人名を解読すると、アンドー・ユキ=関マツ、タナカ=山本懸蔵、コン=国崎定洞(但し慶応大学でなく東京大学卒)、シミズ=堀内鉄治、コンの妻=フリーダ・レートリヒ、オカノ=野坂参三、オカノの妻キミ・シャン=野坂竜、カン・ジョ=前島武夫、タケウチ=伊藤政之助、ヴォルク=コミンテルン東洋部員、カタヤマ=片山潜、カワタ=細木榛三、ジョンソン=プロフィンテルン日本担当カール・ヤンソン、ササキ=健持貞一?、サノ=佐野碩、ヒジカタ=土方與志、タケダ=風間丈吉、カタヤマの娘=片山ヤス?。

新資料5 KGBからソ連共産党への再審開始問い合わせ(一九五九年七月八ー九日)

 <編者注> この資料によって、国崎定洞の名誉回復手続きが、この頃始まったことが確認できる。

新資料6 ソ連最高裁判所による「国崎定洞の名誉回復決定書」(一九五九年一〇月二九日)

 <編者注> 資料中の人名は、次のように解読できる。

 コン=国崎定洞、タケダ=二〇年代日本軍・警察関係の人名録をあたっても不明でNKVDによるデッチ上げと考えられる(タケダは風間丈吉の党名でもありうるが、それを示唆した資料はない)、ユク=島正栄、パク=宮城與三郎、ニュー=照屋忠盛、ツォイ=又吉淳、タケウチ=伊藤政之助。

 新資料7 ソ連最高裁判所からソ連共産党への「国崎定洞の名誉回復通知」(一九五九年一一月一〇日)

 <編者注> ここには当時のフリーダ・レートリヒ夫人の住所まで明記されているが、本文で述べたように、この後フリーダ夫人は在ベルリンのソ連大使館に呼び出され、国崎定洞死亡の事実のみを口頭で伝えられた。


 

国崎定洞略年譜

一九二八

 初め、赤色救援会ドイツ支部に入会

 この頃、勝野金政がパリから国崎宅を経由してモス クワに渡り、片山潜の私設秘書となる。

 七月 ドイツ共産党に入党、街頭細胞に所属し会計 係をつとめる。

 

一九二九

 一ー二月 ドイツ共産党幹部講習会に出席。

 七月 反帝同盟第二回世界大会に片山潜・平野義太 郎と共に出席。

 年末より「革命的日本人フループ」結成、ドイツ共 産党日本語部を組織し責任者となる。

  

一九三〇

 二月 山本三郎名で「故国の同志遅れをとるな」を 「戦旗」に寄稿。

夏、ベルリン郊外ベルクフェルド地区に移るが、ニ ーダーバルニム郡より追放される。

 秋 ベルリン西南区のラジオ工場細胞に所属。

 一〇月 モスクワで、ベルリン・グループ出身の根 本辰が山本懸蔵にスパイと疑われ国外追放。根本を 援助した勝野金政は強制収容所送りとなる。

 一二月モスクワの片山潜は国崎経由で在欧の馬島們 をモスクワに呼ぶ。

一九三一 

 三月 反ファシスト・ベルリン大会に出席、「日本 共産党との連絡は、このころより公式 の組織的連 絡となる」

 夏 反帝同盟国際本部執行委員会に日本代表として 出席・報告。

 一〇月 国際労働者救援会(IAH)第八回大会に 日本代表として出席。

 一二月 反帝同盟国際本部で逮捕されたが即日釈放。

一九三二

 一月 在独革命的アジア人協会を結成、組織部長と なる。

 三月 ベルリン警視庁よりプロイセンからの退去命 令を受ける。

 五月末 ハンブルクの世界水上港湾労働組合国際大 会にゲストとして出席。

 六月二五日 日本語自筆履歴書を執筆。

 八月末 アムステルダム国際反戦大会に片山潜と共 に出席、そのまま九月四日、ソ連に入国、片山潜の 「自伝」(後の「わが回想」)完成を助ける。 

一九三三

 三月 クートベ大学院に入学(山本懸蔵は反対)。

 片山潜の死後、「なぜか知りませんが、日本共産党 とのつながりは強くなくなる」(フリーダの回想)。

一九三四

 六月 勝野金政が強制収容所から釈放され、モスク ワの日本大使館に逃げ込み、八月に無事帰国。

 七月 国崎定洞は外国労働者出版所日本課長となる。

 同時にナリマノフ東洋学専門学校で日本問題を教え、 「アメ亡組」日本人グループを指導する。

 九月一九日 コテリニコフの山本懸蔵との会談。国 崎定洞は、山本懸蔵により告発された。

 一〇月一〇日 コテリニコフの国崎定洞および野坂 竜との会談。

一九三五

 二月九日 コミンテルン東洋部からソ連秘密警察N KVDへの「国崎定洞についての通知」。

 三月一四日 ドイツ語自筆履歴書を執筆。

一九三六

 年末までに、山本懸蔵の告発により外国労働者出版 所日本課の同僚伊藤政之助が逮捕される。 

一九三七年(昭和一二年)四四歳

 八月四日 日本軍のスパイ容疑で逮捕される。

 八月二二日 ドイツ共産党除名の手続きがなされる。

 一二月一〇日 無実のスパイ罪で銃殺される。

一九三八年(昭和一三年)

 一月三日 杉本良吉・岡田嘉子の「恋の越境」。

 二月一七日 フリーダ夫人とタツコ、国崎の生死も わからぬまま、ナチス・ドイツに強制送還。

一九五九年(昭和三四年)

 七月八日 ソ連KGBが再審開始。

 一〇月初め モスクワで片山潜「自伝」のドイツ語 原稿が発見された。

 一〇月一五日 杉本良吉がソ連で法的名誉回復。

 一〇月二九日 ソ連最高裁判所で国崎の法的名誉回 復、西ベルリンのフリーダには口頭で死亡通知。

一九七〇年(昭和四五年)

 七月 川上武・上林茂暢「国崎定洞」刊行。

一九七四年(昭和四九年)

 一一月 鈴木東民夫妻、西ベルリンでフリーダ夫人 と奇跡的再会。

一九七五年(昭和五〇年)

 一月二七日 鈴木東民、石堂清倫らによる「国崎定 洞をしのぶ会」

 八月二日 日本共産党が、国崎定洞は三七年一二月 一〇日に「獄死」、五九年に名誉回復と発表。

 一二月一〇日 千田是也・堀江邑一らによる「国崎 定洞をしのぶ会」

一九七六年(昭和五一年)

 四月 川上武「流離の革命家」刊行。

一九七七年(昭和五二年)

 一月 川上武・加藤哲郎・松井坦「社会衛生学から 革命へ」刊行。

一九八〇年(昭和五五年)

 四月二二日 フリーダ夫人、西ベルリンで病死。 

 七月二ー一六日 「国崎定洞をしのぶ会」の招きで 遺児タツコ来日。

一九九一年(平成三年)

 八月 ドイツ共産党の国崎除名文書発見。

一九九二年(平成四年)

 五月一六日 日本共産党が、国崎定洞は「銃殺」、 名誉回復は五九年一〇月二九日と発表。

 夏 モスクワの文藝春秋取材班、野坂参三が山本懸 蔵を密告した手紙とともに、「国崎定洞ファイル」 を発見(野坂参三は日本共産党を除名される)。

一九九三年(平成五年)

 一〇月 小林峻一・加藤昭「闇の男」刊行。

 一二月 タツコおよび国崎家に「国崎定洞ファイル」 が届けられる。

一九九四年(平成六年)

 六月 加藤哲郎「モスクワで粛清された日本人」刊 行。

 一一月 加藤哲郎「国民国家のエルゴロジー」刊行。

 一二月一九日 「国崎定洞生誕百周年の集い」開催。


主要参照文献一覧

 


1 基本文献

川上武・上林茂暢編著「国崎定洞――抵抗の医学者」一九七〇 勁草書房

川上武著「流離の革命家――国崎定洞の生涯」一九七六 勁草書房

川上武・加藤哲郎・松井坦編訳「社会衛生学から革命へ」一九七七 勁草書房

加藤哲郎著「モスクワで粛清された日本人」一九九四 青木書店

加藤哲郎著「国民国家のエルゴロジー」一九九四 平凡社

 

2 参考文献

(一) 一九七〇年『国崎定洞』段階で国崎定洞に一言でも言及されていたもの(川上武作成)

「医海時報」第一六六九号(大正一五・七・三一)

「医海時報」第一六七六号(大正一五・九・一八)

川上武”国崎定洞のこと――抵抗の医学者”「朝日新聞」一九七〇・一・二九

 

(二) 一九七六年『流離の革命家』段階での国崎定洞関連文献(川上武作成)

 

3 その後の国崎定洞関連文献

   (加藤哲郎作成) 

(一) 日本での名誉回復と粛清の真相解明

”やはり粛清の犠牲”「朝日新聞」一九七五・八・三

”ソ連で三八年前獄死”「読売新聞」一九七五・八・三

”三八年前、無実の罪で獄死”「毎日新聞」一九七五・八・三

”ソ連で獄死していた国崎定洞”「週刊読書人」一九七五・八・一八

”革命家・国崎定洞の業績”「赤旗」一九七五・一二・一四

”先覚者・国崎定洞の足跡”「赤旗」一九七六・五・一二

川上武”国崎定洞の新資料”「図書新聞」一九七六・四・一七

川上武”国崎定洞の手紙――ベルリン時代の記録”

「医学史研究」第四六号、一九七六

川上武”著者は語る”「科学朝日」一九七六・九

川上武”国崎定洞との出会い”「医学史研究」第五〇号、一九七八

川上武”めぐりあい――国崎定洞への導き手”「毎日新聞」一九七九・二・一三

川上武”国崎定洞の遺児タツコ・レートリッヒを迎えて”「東京大学新聞」一九八〇・七・一四

川上武”国崎定洞の遺児タツコ・レートリッヒを迎えて”「医学史研究」第五四号、一九八〇

『国崎定洞――抵抗の医学者』書評

 「神戸新聞」一九七〇・八・二五

 「エコノミスト」一九七〇・九・一(若月俊一)

 「週刊読書人」一九七〇・一〇・五(中村隆英)

 「暮しと健康」一九七〇・一〇(原田正二)

 「Book Stand」(丸山博)

 「朝日ジャーナル」一九七〇・一〇・二三(平野義  太郎)

 「東京大学新聞」一九七〇・九・七(川村善二郎)

 「世界」一九七一・一(岡田靖雄)

『流離の革命家――国崎定洞の生涯』書評

 「出版ダイジェスト」一九七六・五・一

 「東京大学新聞」一九七六・五・一〇(和気朗)

 「赤旗」一九七六・五・一七(堀江邑一)

 「朝日新聞」一九七六・五・三一

 「週刊朝日」一九七六・六・四

 「東京新聞」一九七六・六・五

 「民医連新聞」一九七六・六・一一(高橋実)

 「読売新聞」一九七六・六・一四

 「日本読書新聞」一九七六・六・一四(辻野功)

 「東京新聞」一九七六・六・一五(村松博雄)

 「毎日ライフ」一九七六・七

 「日本医事新報」一九七六・七・一五(自著を語る)

 「サンデー毎日」一九七六・七・二五(高橋晄正) 「公明新聞」一九七六・八・三〇

 「歴史学研究」第四四〇号、一九七七・一(吉井確  三)

 「科学朝日」一九七七・五(野村拓)

「毎日新聞」一九七七・七・一二(聴診器)

『社会衛生学から革命へ』書評

 三浦聡雄「流離の革命家の生涯”「東京大学新聞」 一九七七・八・八

 若月俊一”インテリゲンチアの運命”「エコノミス ト」一九七七・五・三一

渡辺悦次”国崎定洞訳『帝国主義論』”「図書新聞」一九七六・五・二二

浅野晃”政治と文学のあいだで”「昭和史を歩く」一九七六 第三文明社

曽田長宗「社会医学へのはるかな道」一九八五 非売品

加藤哲郎”国崎定洞論――日本労働運動史と国際労働運動史の統一的把握のために”労働運動史研究会「日本の統一戦線運動」一九七六 労働旬報社

加藤哲郎”三二年テーゼの周辺と射程――コミンテルンの中進国革命論”「思想」一九八二年三・四月

加藤哲郎「国家論のルネサンス」一九八六 青木書店

加藤哲郎「社会主義と組織原理 T」一九八九 窓社

加藤哲郎「東欧革命と社会主義」一九九〇 花伝社

加藤哲郎「コミンテルンの世界像――世界政党の政治学的研究」一九九一 青木書店

加藤哲郎「ソ連崩壊と社会主義」一九九二 花伝社

小林峻一・加藤昭「闇の男――野坂参三の百年」一九九三 文藝春秋社

加藤哲郎”歴史における善意と粛清”「季刊 窓」第一九号、一九九四・四

和田春樹”歴史としての野坂参三”「思想」一九九四・三ー五

加藤哲郎”スドー・マサオを追う”「毎日新聞」一九九四・六・七

加藤哲郎・小林峻一”密告と粛清――モスクワの日本共産党”「諸君」一九九四・八

加藤哲郎・和田春樹”問題としての野坂参三”「季刊窓」第二二号 一九九四・一二

社会運動資料センター「野坂参三と伊藤律」一九九四五月書房

加藤哲郎”旧ソ連で粛清された日本人”「北海道新聞」一九九五・一・二四

『モスクワで粛清された日本人』書評

 「週刊朝日」一九九四・七・八(有田芳生)

 「月刊東京」一九九四・七

 「労働運動研究」一九九四・七(酒井博)

 「季刊 窓」第二一号、一九九四・一〇(河西英通)

 「エコノミスト」一九九四・一二・六(石堂清倫)

 「月刊フォーラム」一九九五・二(栗原幸夫)

 「大原社会問題研究所雑誌」第四三五号、一九九五 ・二(神田文人)

 

(二) 国崎定洞に言及している日本側官憲資料

”極秘・昭和八年中に於ける外事警察概要・欧米関係”「特高警察資料集成」第一七巻、一九九二 不二出版

”在露邦人共産主義者調”「社会運動の状況 昭和十年」

”在露中の日本人共産主義者一覧表” 内務省警保局「極秘外事警察概況」昭和一二年

”日本共産党入露者調”「思想月報」第三三号、昭和一二年三月

「コミンテルン対日謀略の一断面――クウトベ出身者伊藤利三郎の供述」 昭和一四年七月 司法省刑事局

「共産党秘録 コミンテルン密使小林陽之助の告白 野坂陰謀を發く」一九五〇 道理社

 

(三) 国崎のベルリン時代に関わる証言と評論

勝本清一郎「赤色戦線を行く」新潮社 一九三一

勝本清一郎”プロレタリア文学と私”「現代日本文学講座・小説六」一九六二 三省堂

勝本清一郎「近代文学ノート・4」一九八〇年 みすず書房

堀江邑一”国崎定洞の憶い出”「文化評論」一九七五・一一

嬉野満洲雄”私のみたナチス・ドイツ”「反共主義――歴史の教訓」一九七五 日本共産党出版局

野村平爾「民主主義法学に生きて」一九七六 日本評論社

広田重道「稿本 平野義太郎評伝」上巻、非売品

「平野義太郎――人と学問」一九八一 大月書店

「小林義雄教授古稀記念論集」一九八三 西田書店

山西英一”ファシズム把権の前夜”「運動史研究」第一五号、一九八五

小中陽太郎”西は夕焼け、東は夜明け・第一五章 流離の革命家”「思想の科学」一九八七・七

田村紀雄「海外へユートピアを求めて」一九八九 社会評論社

鎌田慧著「反骨――鈴木東民の生涯」一九八九 講談社

石堂清倫・堅山利忠「東京帝大新人会の記録」一九七六 経済往来社

石堂清倫「中野重治と社会主義」一九九一 勁草書房

千足高保「ドイツに学ぶ」一九四九 美和書林

平井正「ベルリン 一九二八ー三三 破局と転換の時代」一九八二 せりか書房

 

(四) モスクワ時代の国崎定洞と粛清関連文献

野坂参三「風雪のあゆみ」第八巻、一九八九 新日本出版社

「土方梅子自伝」一九七六 早川書房

「土方與志演劇論集・演出家への道」一九六九 未来社

藤田富士男「ビバ! テアトロ――炎の演出家佐野碩の生涯」一九八九 オリジン出版センター

勝野金政「赤露脱出記」一九三四 日本評論社

勝野金政「二十世紀の黎明・第一部 巴里」一九三六第一書房

勝野金政「ソヴェート滞在記」一九三七 千倉書房

勝野金政「藤村文学――人とその風土」一九七二 木耳社

勝野金政”ラーゲリを逃れて”「中央公論・歴史と人物」一九七三・一一、七四・一、三、五月

勝野金政「凍土地帯」一九七七 吾妻書房

風間丈吉「モスコー共産主義大学の思ひ出」一九四九三元社

風間丈吉「日本共産党の地下工作」一九五〇 日刊労働通信社

風間丈吉「モスコウとつながる日本共産党の歴史」上巻、一九五一 天満社

風間丈吉「雑草の如く」一九六八 経済往来社

風間丈吉「『非常時』共産党」一九七六 三一書房

山本正美「激動の時代に生きて」一九八五 マルジュ社

馬島們”山本懸蔵は何処へ行ったか”「特集文藝春秋」一九五六・二

馬島們「激流を生きた男」一九七一 日本家族計画協会

「山本懸蔵」一九七三 日本共産党茨城県委員会

「山本懸蔵集」一九八六・九二 新日本出版社

森村誠一/下里正樹・宮原一雄「日本の暗黒 シリウス墜落つ」一九九〇 新日本出版社

神山茂夫”武装メーデー事件”「特集文藝春秋」一九五五・八

神山茂夫”ギャング事件の謎の男『M』”「特集文藝春秋」一九五六・二

伊藤律”三重スパイ野坂参三”「文藝春秋」一九九四・一

 

(五) 日本共産党、コミンテルンその他の文献

「日本共産党の五十年・増補版」一九七七

「日本共産党の六十年」一九八二

「日本共産党の六十五年」一九八七

「日本共産党の七十年」一九九四

聴濤弘”ソ連党が解体しても日本共産党は不滅”「赤旗評論特集版」一九九一・一〇・七

日本共産党中央委員会常任幹部会”スターリンの専制主義、覇権主義の犠牲となった同志たちを哀悼する”「赤旗」一九九二・五・一九

不破哲三「日本共産党にたいする干渉と内通の記録」上下 一九九三 新日本出版社

「宮本顕治の半世紀譜」一九八三 新日本出版社

立花隆「日本共産党の研究」上下 一九七八 講談社

田中真人「一九三〇年代日本共産党史論」一九九四 三一書房

片山潜”病中の感想”「改造」一九三一・一〇

「労働運動史研究・片山潜生誕百周年記念特集号」一九五九・一一

「前衛・片山潜生誕百周年記念特集号」一九五九・一一

片山潜「わが回想」上下 一九六七 徳間書店

高谷覚蔵「コミンテルンは挑戦する」一九三七 大東出版社

高谷覚蔵「レーニン、スターリン、マレンコフ」一九五三 磯部書房

ソルジェニツィン「収容者群島」新潮文庫

メドヴェーデフ「共産主義とは何か」上下 一九七三三一書房

コンクェスト「スターリンの恐怖政治」上下 一九七六 三一書房

寺島儀蔵「長い旅の記録」一九九三 日本経済新聞社

寺島儀蔵「続・長い旅の記録」一九九四 日本経済新聞社

キリチェンコ”戦後地下エージェントとしての野坂参三”「諸君」一九九三・三

リャーボフ”現代劇の先駆者 メイエルホリドの尋問と処刑”「月刊Asahi」一九九〇・八

岡田嘉子”告白嘆願書”「諸君」一九九二・九

岡田嘉子「悔いなき命を」一九七三 廣済堂出版

岡田嘉子「心に残る人びと」一九八三 早川書房

岡田嘉子「ルパシカを着て生まれてきた私」一九八六婦人画報社

川越史郎「ロシア国籍日本人の記録」一九九四 中公新書

名越健郎「クレムリン秘密文書は語る」一九九四 中公新書

「現代史資料・ゾルゲ事件・一ー四」一九六二ー七一 みすず書房

NHK取材班「国際スパイ・ゾルゲの真実」一九九二角川書店

渡部富哉「偽りの烙印」一九九三 五月書房

白井久也「未完のゾルゲ事件」一九九四 恒文社

ジョー・コイデ「ある在米日本人の記録」一九七〇 有信堂

カール・ヨネダ「在米日本人労働者の歴史」一九六七新日本新書

カール・ヨネダ「がんばって――日系米人革命家六〇年の奇跡」一九八四 大月書店

芳賀武「紐育ラプソディ――ある日本人米共産党員の回想」一九八五 朝日新聞社

ルート・フォン・マイエンブルグ「ホテル・ルックス」一九八五 晶文社

アイノ・クーシネン「革命の堕天使たち――回想のスターリン時代」一九九二 平凡社

アゴスティ「コミンテルン史」一九八七 現代史研究所

村田陽一編訳「コミンテルン資料集」大月書店

村田陽一編訳「コミンテルンと日本」大月書店

運動史研究会「運動史研究」三一書房

岩村登志夫”カール・ヤーソンの生涯”「日本史研究」第二六五号、一九八四・九

ラジッチ=ドラチコヴィッチ「コミンテルン人名事典」一九八〇 至誠堂

「日本社会運動人名辞典」一九七九 青木書店

小森恵「社会運動・思想関係資料案内」一九八六 三一書房

萩野富士夫「特高警察体制史」一九八四 せきた書房

松本清張「昭和史発掘」文春文庫

クリヴィツキー「スターリン時代」一九六二 みすず書房

アンドルー=ゴルジェフスキー「KGBの内幕」一九九三 文藝春秋

スドプラトフ「KGB――衝撃の秘密工作」一九九四

ほるぷ出版

丸山真男「戦中と戦後の間」一九七六 みすず書房

E.H.Carr,Socialism in One Country,Vol.3, London 1964

M.Buber-Neumann, Kriegsschauplatze der Weltrevo-lution,Stuttgart 1967

Getty & Manning eds., Stalinist Terror, New York1993

H.Weber, Weiss Flecken in der Geschichte, Berlin1990

In den Fangen des NKWD, Berlin 1991

Kommunisten verfolgen Kommunisten, Berlin 1993

D.P.Hornstein, Arthur Ewert, London 1993

Jahrbuch fur Historische Kommunismusforschung,

Berlin 1993,1994

A.Knight, Beria: Stalin's First Lieutenant, Pri-nceton 1993

G.Duda, Jeno Varga und die Geschichte des IMChMPin Moskau, Berlin 1994

 

4 聞き取りをした人

(1)  タツコ・レートリヒ 鈴木東民・ゲルトルード 平野義太郎 堀江邑一 千田是也 八木誠三 小林義雄稲田明子 勝野素子 勝野春喜 山根和子・弥生子 千足恵美子 山本正美・菊代 石堂清倫 寺島儀蔵 須藤ミノル (以上、加藤哲郎)

 

(2) 手紙・電話などで連絡をしたり助言・証言・資料提供・援助を受けた人 

 フリーダ・レートリヒ 国崎拓治 ギュンター・ヘニヒ ヴァーター・シュトラウト エルヴィン・レーヴィン 喜多村浩 山田勝次郎・とく 舟橋諄一 藤井一行 小林峻一 加藤昭 有田芳生 熱田充克 西山俊一 大内要三 大塚茂樹 名越健郎 都沢行雄 今野勉 渡部富哉 村岡信明 和田春樹 富田武 藤田勇 小森田秋夫 大江泰一郎 竹森正孝 早川弘道今井清一 成田龍一 豊下楢彦 高橋彦博 中野徹三森武麿 栗木安延 田中真人 高屋定國 宝木武則 宮西直輝 由井格 佐藤正 向山寛夫 小笠原欣幸 石村多門 小川光雄・明美 須藤チヨ 間藤治征 永井正巳 安達重子 中野銀二郎 松岡文雄 鎌田慧 伊藤智永 沢田猛 寺田達雄 上村英生 中村喜和 木山英雄 坂内徳明 井上修一 油井大三郎 渡辺治吉田裕 西成田豊 唐木國彦 大島幹雄 檜山真一 横須賀壽子 照井日出喜 吉岡達夫 佐藤明夫 小中陽太郎 小林治彦 細川康雄 松崎裕子 秋山勉(以上、順不同・敬称略 加藤哲郎)



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