1998年夏から「今年の尋ね人」欄で消息を求めてきた、1930年代旧ソ連在住日本人粛清犠牲者「テルコ・ビリチ」については、心あるジャーナリストのご協力と皆様の情報提供により、ご遺族の身元も判明しました。私自身の探索では、須藤政尾、安保由五郎、小石濱蔵に続く、4人目の資料・ご遺族発見となりました。ご遺族との接触のなかでその生涯を発掘した勝野金政・根本辰を別にすれば、須藤政尾については1994年夏の毎日新聞朝日新聞、北海道新聞、小石濱蔵については北海道新聞、安保由五郎については日本経済新聞と北海道新聞、そして今回のテルコ・ビリチ=松田照子探索では、読売新聞日経新聞・共同通信社等のご協力をえました。記して感謝の意を表します。(1999年3月)

 

「テルコ・ビリチ」探索記

 
1998 夏まで──日本側記録のみの段階 

 テルコ・ビリチ

 日本側記録では「チルコ」で、当時ブハーリン派として粛清された在日ソ連大使館下級外交官「A・ビリチ」の妻。日本の土方與志についての警察資料では、モスクワで土方夫妻の知っていた日本人として、「チルコ・ビリーイッチ 当三十五歳位。東京生れ、陸軍中佐の娘、ソビエート大使館商務官下僚ビリーイッチと結婚、モスコー東洋語学校教師」とある。

 ビリチが1937年にブハーリン派として粛清された後、チルコも行方不明となったことについて、『土方梅子自伝』は、「私たちの知人で下級外交官だったビリチ氏も、その[ブハーリン、ルイコフ]一派として追放されました。その夫人[テルコ]は東京生れの日本人で、外交官として来日中のビリチ氏と結婚し、夫とともにモスクワへ来た人でした。私どもは日本にいる時の知りあいではありませんでしたが、モスクワへ来てからは、ビリチ夫人やその知人の洋服を、時々縫っていました。このビリチ夫妻も急にいなくなったのです」と述べている(『土方梅子自伝』早川書房、1976年、239頁、内務省警保局『社会運動の状況・昭和十六年』「土方与志の活動状況」、『土方與志演劇論集・演出家の道』未来社、1969年、450頁)。


1998夏──サハロフ人権センターでファイル・写真発見

 

1938年モスクワで銃殺された日本人女子学生テルコ・ビリチさんの身元を探して下さい!読売新聞98年8月20日付朝刊社会面で大きく報道されましたが、いまだにてがかりはありません)

 1998年6月のロシア訪問時に、旧ソ連共産党やKGBのアルヒーフのほかに、サハロフ博士記念人権センターを訪問したことは、本HPリビングルームで紹介しました。ソ連水爆の父でありながら、後半生を世界平和と人権擁護に捧げた原子物理学者サハロフ博士は、ノーベル平和賞を基金に、旧ソ連時代から駆け込み寺=人権センターを創りました。

 センターでは現在、旧ソ連で罪なく銃殺されたり強制収容所に入れられた膨大な犠牲者たちの経歴の、気の遠くなるようなデータベース化を進めています。そのデータベースはまだHP上では公開されていませんが、そのなかの日本人12人分のデータを、私と共同研究者藤井一行教授が訪問し、もらってきました。藤井教授がそれを翻訳し、サハロフ・センターの許可を得て、藤井教授のHP本HP「今年の尋ね人」及び「旧ソ連粛清日本人犠牲者リスト」に、それを公開することにしました

 本HPからは藤井一行教授HPへのリンクとしますが、12人の記録のなかには、私たちがすでに詳しい情報を持つ須藤政尾・山本懸蔵・杉本良吉・小石濱蔵・箱守平造、島袋正栄のほかに、未知の名前がいくつか入っていました。本HPの目玉「今年の尋ね人」の一人である伊藤政之助=タケウチについては、1936年11月25日逮捕、37年9月14日銃殺刑、90年8月名誉回復の新事実がわかりました。

 中でも気になるのが、当時25歳の日本人女子学生「テルコ・ビリチ」のことです。これは、私の「旧ソ連粛清日本人犠牲者リスト」中に、「チルコ・ビリーイッチ。当時ブハーリン派として粛清された在日ソ連大使館下級外交官A・ビリチの妻。日本側警察資料では、当三五歳位、東京生れ、陸軍中佐の娘。ビリチが1937年に粛清された後、チルコも行方不明となった。当時在モスクワの演出家土方与志・梅子夫妻は、ビリチ夫妻と親しくしていた(『特高月報』昭和16年7月、内務省警保局『社会運動の状況・昭和16年』「土方与志の活動状況」、『土方與志演劇論集・演出家の道』未来社、『土方梅子自伝』早川書房)」とある当の人物と思われます。「チルコ」は特高資料を『演出家の道』に転記するさいの編集者のミスのようです。詳しい情報は、藤井一行教授HP及び本HP「今年の尋ね人」のページのページへ。

 1930年代にソ連の外交官と結婚した日本人女性は珍しいでしょうし、今回彼女が1912年生まれと分かり、当時25歳の美しい写真(サハロフセンター提供)までみつかりましたから、日本のご遺族について、手がかりが出てくるのではと期待しています。そうすれば、1938年3月14日の命日や、ブトヴォの墓地に埋葬されていること、1957年に無実として名誉回復されたことも、お伝えできます。どなたか情報をお持ちの方、ぜひメールをお寄せ下さい。

 1998年6月に、サハロフ博士記念人権センターのデータベースから、より詳しい情報が得られた。同データベースには写真も納められており、以下のようになっている(藤井一行訳)。ここから次の手がかりが得られるものと期待される。サハロフ記念館のオリジナル写真はここURL http://www.fujii.edu/mart.htmlにあります。

生年  1912
民族  日本人(女)
出身  東京市
居住地  モスクワ市ゲルツェン通り26-2号棟第53室
教育  中等
党籍  非党員
逮捕前の活動  モスクワ市の哲学・文学・歴史大学の学生
逮捕日時  1937年12月25日
判決  ソ連最高裁軍事法廷
容疑  スパイ活動
銃殺宣告  1938年3月14日
判決執行  1938年3月14日
名誉回復 ソ連最高裁軍事法廷の決定により1957年9月19日
埋葬地 ブートヴォ=コムナール
<参考文献>『特高月報』昭和16年7月。
 内務省警保局『社会運動の状況・昭和16年』「土方与志の活動状況」。
『土方與志演劇論集・演出家の道』未来社、1969年、450頁。
『土方梅子自伝』早川書房、1976年、239頁。

1999冬──「テルコ=松田照子」と判明、ご遺族と連絡がつく

1999.2.9 緊急の人捜しアピールです。「99年の尋ね人」=「テルコ・ビリチ」(左の写真、1938年粛清当時25歳)の身元が判明しました。1930年夏にロシア人と結婚して旧ソ連に渡った、1912年生まれで東京都麻布区市兵衛町(現在の港区六本木3丁目4ないし5)出身の「松田照子」さんで、父親は陸軍中佐だったといい、当時「松田美枝子」さんという妹がいたようです。どなたか、松田さんの近親者・関係者を知りませんか?

 昨年夏、世界一の発行部数を持つ「読売新聞」社会面トップで情報提供をよびかけたのに、旧ソ連で粛清された日本人女性「テルコ・ビリチ」については、その後の私の在外研究中にも、何の情報も寄せられませんでした。そこで、この間ロシアとドイツで修得したアルヒーフ探索の手法を使い、日本側資料に自分で当たることにしました。まずは東京麻布の外務省外交史料館で、戦前日本人旅券発行記録都道府県別マイクロフィルム(J門2類2項0目J13-7号、全44巻)を探索し、「1930年7月25日発行 旅券番号161513 松田照子 戸主美枝子姉 東京都麻布区市兵衛町2丁目25 明治45(1912)年5月15日生 渡航先 ソヴィエト連邦 旅行目的 結婚のため」という候補者をみつけました。同時に、夫「A・ビリチ」に相当すると思われる在日ソ連外交官を、『特高警察関係資料集成』全17巻(不二出版)に収録された外事警察記録のなかから探索し、その候補者の一人として、警保局保安課外事係「第57帝国議会説明参考資料(1929年12月)昭和4年10月末現在ソ連大使館員名簿」中の「警手 アレクサンドル・ザムイロヴィチ・ビリッチ 27歳、昭和4年3月9日着任、京城総領事館より転勤す」を抽出しました。ここまでが、前回更新時までの「99年の尋ね人」情報です。

その後の外交史料館通いで、この二人の結婚が事実であったことが判明しました。先日、膨大な戦前日本外交史料と格闘したところ、「在外本邦人動静関係雑件」(K門3類2目1号3)という100頁ほどの目立たぬファイルのなかに、在ソ連日本大使広田弘毅から外務大臣幣原喜重郎宛の昭和5年12月11日付け機密公532号「共産党員に嫁したる松田照子の動静」と題する1枚の文書を発見しました。それによると、1930年7月25日付け旅券を持つ「松田照子」という女性が、同年9月2日にモスクワの日本大使館に在留届を出した。それで大使館が身元を調べたところ、「本年まで東京に留学していたソ連共産党員ビリチと正式に結婚」してソ連に入り、「目下東洋学院にて日本語の教鞭を執り月200ルーブルを受け」ていることがわかった。しかしビリチは共産党員でありながら外国人と結婚し、ソ連の「官憲側より相当の圧迫さる」ため、妻の照子は日本国籍を離脱してソ連国籍を得ざるをえないだろう、なお照子本人の「思想的傾向は未だ十分に判明せざるも共産主義に共感して居るものに非ざるに認めらる」、つまりノンポリのようだ、というものです。照子の本籍地・住所・生年月日、ビリチのフルネーム等はありませんでしたが、先に私が見つけた旅券と発行日が一致し、1912年生まれはモスクワ・サハロフ博士記念人権センターのロシア語記録とも合致しますから、「テルコ・ビリチ=1930年7月25日発行旅券番号161513 松田照子」であり、結婚相手は「A・ビリチ=ソ連大使館警手 アレクサンドル・ザムイロヴィチ・ビリッチ 昭和4年3月9日着任当時27歳」と最終的に確認できました。

そこで、外交史料館から歩いて5分の「麻布区市兵衛町2丁目25」も、ついでに探索しました。戦前及び昭和30年代の地図で「市兵衛町2-25」をみると、旧スペイン大使館やお寺のたてこんでいた地域なので、すぐにわかりました。六本木通りから右折し六本木プリンスホテルに入る坂をまっすぐのぼっていくと、昭和30年代に4つのお寺がならんでいたところに、円林寺と善学寺という二つの寺が、今でも残っています。その二つのお寺の墓地裏一帯が「市兵衛町2-25」です(お寺は旧今井町)。善学寺さんの紹介で、戦前・敗戦直後から住んでいる旧2丁目25番地の4軒のお年寄りにお聞きしたところ、残念ながら「松田さん」には4軒とも記憶がありませんでした。東京大空襲で一度焼け野原になったということで、現在はマンション、アパートが多く、近所の聞き込みだけでは手がかりがなさそうです。現住所でいうと、「東京都港区六本木3丁目4」20-27、及び「3丁目5」4-8近辺で、六本木交差点から溜池方面に少し下り、六本木プリンスホテル入り口の1本手前の寄席坂(よせざか)を上って松本治一郎記念館=部落解放同盟中央本部までの50メートルほどの坂の両側、約50世帯ほどの範囲内です。現在の昭和電工労働組合の建物が、旧「市兵衛町2-25」の中心のようです。そこで、インターネット上の麻布の郷土史サイト「DEEP AZABU」さんのゲストブックで、「松田照子・美枝子」についての情報提供を依頼しました。すでに「昔近くに永井荷風が住んでいた」「麻布小学校の卒業者名簿には該当者がいない」といった情報が寄せられています。

ここまでわかれば、「松田照子」のご遺族についても、何らかの手がかりが出てくるのでは、と期待しています。そうすれば、1938年3月14日の命日や、ブトヴォの刑場に埋葬されていることも、1957年に無実として名誉回復された資料も、ご遺族・関係者にお届けできます。私としても、研究の一区切りになります。どなたか情報をお持ちの方、ぜひここにメールをお寄せ下さい。マスコミ方面の方の調査・報道も歓迎いたします。


1999.2.17 17日朝から半日で、800人もの方が、このHPにアクセスしてくれました。そうです。本HPでの「松田照子」探索を、日本経済新聞が朝刊社会面トップで報じてくれたからです。ありがたいことです。日経の記事を見て、共同通信社会部も協力してくれるそうです。日経の記者は、本籍地六本木の近所で聞き込みをし、登記簿・寺社過去帳も調べたうえで、記事にしてくれました。でもまだ「松田照子」さんの直接情報はありません。引き続き情報を求めます。どんな手がかりでもかまいませんから、ここにメールください。!
1999.2.18
 「テルコ・ビリチ=松田照子」さんの妹美枝子さんは、ご健在でした。昨日深夜、美枝子さんの息子さん(照子さんの甥にあたります)から、日経新聞と本HPを見たうえで、メールをいただきました。本日朝改めて電話をいただき、ご親族にまちがいないことが確認されました。近くこの間収集した資料一式を、美枝子さんにお届けしてきます。これで「今年の尋ね人」は一件落着です。皆様のこれまでのご協力に、心から感謝いたします。今後ともよろしくお願い申し上げます。
モスクワでの無実の粛清犠牲者「松田照子」さんのご遺族と連絡がとれました。皆様のご協力、ありがとうございました! 照子さんのご冥福を祈って、合掌!1999.2.25 本日の日経新聞および読売新聞朝刊の第2社会面で報じられているように、松田照子さんの実妹美枝子さんにお会いし、照子さんが無実の罪で銃殺された命日や埋葬地、それに1957年の名誉回復の事実が記されたサハロフ人権センターの記録ほか「テルコ・ビリチ」さん関係資料をお渡ししてきました。「おめでとう」というメールもいただきましたが、ご遺族の悲しみを思うと、喜ぶわけにはいきません。肩の荷が一つおりてホッとした、というのが実感です。しかも、まだ50人近い「テルコ」と同じ運命に遭ったと思われる消息不明の日本人犠牲者がいます。「尋ね人」ではなくなりましたから、「テルコ=松田照子」さんの写真ははずし、彼女のほか須藤政尾、小石濱蔵、箱守平造、島袋正栄(箱守・島袋は照子さんと同じモスクワ東洋学院日本語教師)の銃殺・埋葬地と確認されている、モスクワ郊外「ブトヴォの森」の写真を掲げます。かつてGPU=KGBの射撃練習場で、1936-38年の粛清最盛期には毎日数百人の政治犯の刑場となったところですが、現在は犠牲者遺族とボランティアの手で慰霊碑(左)がつくられ、木造のロシア正教の教会(右)が、手作りで建てられています。この教会を守る神父さんの実父も、宗教迫害の犠牲者でした。教会の写真(右)の左端に写っているのは、松田照子と同じくここで銃殺された須藤政尾の遺児ミハイル・スドーさん、右端の女性は、片山潜の秘書で無実の罪でラーゲリ生活を強いられた勝野金政の遺児稲田明子さんです。松田照子さんほか犠牲者の方々に、心からの哀悼の意を表して、合掌!

<付録> このテルコ探索活動が、共同通信社配信の「時の人」欄にとりあげられ、1999年3月末ー4月初めに、全国各地の新聞に掲載されました。ちょっと恥ずかしいですが、『上毛新聞』3月27号掲載分を、きっかけとなった2月18日配電(『佐賀新聞』掲載文)と共に、ここにアップ。どうせなら、「時の人」にもホームページのURLを載せてくれればよかったのに。

旧ソ連、スパイ容疑で銃殺邦人女性判明

『佐賀新聞』1999年02月18日 <共同電>


  昭和初期に旧ソ連外交官と結婚し、モスクワに渡った東京都出身の松田照子さん=当時(25)=が一九三八(昭和十三)年三月にスパイ容疑をかけられ銃殺されていたことが、一橋大の加藤哲郎教授(政治学)らの調査で十七日までに分かった。
 松田さんは五七年九月、旧ソ連最高裁軍事法廷の決定で無実とされ、名誉を回復。加
藤教授は「遺族に命日や埋葬地、名誉回復の資料をお届けしたい」と、インターネッ
トのホームページで松田さんの顔写真などを公開し、情報提供を呼び掛けている。
 ロシア革命後の旧ソ連で行われた粛清を調査している加藤教授は、昨年六月にロシア
を訪問。犠牲者のデータベース化を進めているモスクワの「サハロフ博士記念人権セ
ンター」で「ビリチ・テルコ」という日本人女性の資料を発見した。
 日本の外務省外交史料館などで旅券発行記録などを調べた結果、三○年夏に旧ソ連外
交官「A・ビリチ」氏と結婚した松田照子さんと分かった。松田さんは東京都麻布区
市兵衛町(現在の港区六本木付近)に本籍があったという。
 父親は陸軍中佐で「美枝子」という妹がいたというが、加藤教授の調査でも手掛かり
は見つかっていない。加藤教授のホームページのアドレスはhttp://www.ff.iij4u.or.jp/〜katote/Home.shtml


共同研究者藤井一行教授の日ロ電脳センター=ロシア政治史・現代政治関係CD-ROM/CD-Rの紹介リンク

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