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98/08/20 東京朝刊 社会面Top06段

旧ソ連外交官と結婚、モスクワへ テルコ・25歳の粛清 スパイ容疑で60年前

 ◆一橋大教授ら現地で確認 「遺族に消息伝えたい」
 昭和の初め、駐日中の旧ソ連外交官と結婚し、モスクワに渡った後、消息を絶った日本人女性がスパイ容疑で二十五歳の若さで銃殺されていたことが、十九日までに分かった。ロシアを訪れた加藤哲郎・一橋大教授(政治学)らが現地の博物館の「粛清」犠牲者資料で確認したもので、顔写真や日本を出た後の詳しい動向もロシア側資料で初めて明らかになった。「甘い新婚生活を夢見た結果の銃殺。命日や埋葬地、名誉回復の事実だけでも遺族に伝えたい」と、加藤教授らはインターネット上のホームページ=写真=で女性の顔写真などを公開、情報提供を呼びかけている。

 加藤教授はロシア革命後の共産社会下で行われた粛清の実態などを調べており、「モスクワで粛清された日本人」などの著書がある。今年六月、同じテーマを追っている藤井一行・富山大名誉教授(ロシア思想史)とロシアを訪問。三百万人以上とも言われる粛清犠牲者の経歴のデータベース化を進めているモスクワの「サハロフ記念平和・進歩・人権博物館」で、この女性の資料を発見した。

 これまでの研究で、日本人約九十人が粛清の犠牲になったと見られているが、データベースに六月時点でデータが登録されていた日本人は十二人。多くは、すでにリストアップされていた人物だったが、その中に「ビリチ・テルコ」という未知の女性がおり、唯一、顔写真が添付されていた。

 データによると、テルコは一九一二年、東京生まれ。居住地はモスクワ市ゲルツェン通りで、共産党籍はなく、モスクワ市の哲学・文学・歴史大学の学生となっていた。三七年十二月二十五日にスパイ容疑で逮捕され、三八年三月十四日にソ連最高裁軍事法廷で銃殺宣告。その日のうちに刑が執行され、モスクワ郊外に埋葬された。五七年九月十九日、同軍事法廷の決定で名誉回復されたという。

 加藤教授は、昭和初期のプロレタリア演劇指導者・土方与志の妻の自伝などから、土方とモスクワで親交があった「チルコ・ビリーイッチ」という人物の存在を事前につかんでおり、粛清された可能性が高いとしてリストアップしていた。

 ロシアに渡った土方の動向を追った戦前の特高(特別高等警察)記録などによると、チルコは三七年に粛清された在日ソ連大使館下級外交官A・ビリチの妻で、東京生まれの三十五歳くらい。陸軍中佐の娘で、ビリチが粛清された後、行方不明となったとされている。

 加藤教授は、年齢は異なるものの、名前や状況が酷似していることから、「チルコ」と「テルコ」は同一人物と推測。テルコの顔写真と、藤井名誉教授が和訳したデータをそれぞれのホームページで公開して情報を募ることにした。

 非党員のテルコにスパイ容疑がかけられた理由は〈1〉駐日経験のある外交官の妻〈2〉日本軍人の娘〈3〉スパイ容疑をかけられた土方と付き合いがあった――などが考えられるという。

 加藤教授は「昭和初期、旧ソ連の外交官と結婚するのは親の反対も大きく、相当な勇気が必要だったはず。当時では珍しいケースなので、どこかに遺族の手がかりがあるのではないかと思う」と話している。

 

 ◆粛清 「恋の逃避行」杉本さんらも
 ロシア革命直後からスターリン時代にかけて行われた共産主義体制内の分派勢力の排除。加藤教授の研究によると、一九三六―三八年の最盛期には、モスクワ郊外のブートヴォ刑場だけで一日千人もの人々が銃殺されたという。日本人では、土方与志・梅子夫妻(三七年国外追放)のほか、「恋の逃避行」で知られる女優・岡田嘉子(三八年強制収容、四七年釈放)と演出家・杉本良吉(三九年銃殺)、ドイツで共産党に入り旧ソ連に亡命した元東大医学部助教授・国崎定洞(三七年銃殺)らが対象になった。八〇年代のゴルバチョフ時代から復権が本格化し、九一年には「政治的弾圧の犠牲者の復権に関する法律」を制定。弾圧被害者を対象に名誉回復の審査が行われるようになった。

 加藤教授のホームページのアドレスはhttp://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Homef.html。藤井名誉教授のページにもリンクしている。