日露歴史研究センター主催・ゾルゲ・尾崎秀実処刑60周年記念11/6講演会講演記録集『現代の情報戦とゾルゲ事件』所収(2005年4月、日露歴史研究センター)        


講演録 イラク戦争から見たゾルゲ事件

 

加藤哲郎(一橋大学大学院教授・政治学)

 


 もともと頼まれたのは現代の情報戦ですが、こうやって会場を見回しますと、どちらかといえば「イラク戦争」よりも「ゾルゲ事件」に関心をお持ちの方が多いようなので、今日は「ゾルゲ事件」の方を中心にお話ししたいと思います。

 

「残置諜者」としてのゾルゲ

 リヒアルト・ゾルゲは、ある意味で、ソ連によって日本に残された「残置諜者」のようなものでした。「残置諜者」といっても、おわかりでないかもしれませんが、戦後30年ほどたって、フィリピンで、小野田寛元少尉がジャングルで発見されました。小野田さんは、陸軍中野学校出身で、軍事戦が終わっても情報収集のため敵地に潜行していろと命じられて、忠実に上官の教えを守った、典型的な「残置諜者」でした。本隊が戦地を撤退するとき、特殊な訓練を受けた諜報員を残留させて、周辺情報を本隊に通報する役目を担わせました。

 元日本共産党議長野坂参三も、ある種の「残置諜者」でした。1930年代後半のモスクワには百人近い日本人がいたんですが、「敵国人」の烙印が押されて、そのほとんどが粛清され処刑されてしまいました。生き残った人たちも、野坂の妻龍を含めて検挙され、強制収容所(ラーゲリ)送りか、国外追放になりました。同じく「敵国」であるドイツ共産党員の場合は、数千人が粛清されました。ゾルゲのロシア人妻カーチャも、粛清の犠牲になりました。

 ところがなぜか、当時ソ連にいた日本人の中で、野坂参三だけは、無傷だったのです。それは「一人ぐらいは日本人を残しておけ」というスターリン及びディミトロフの歪んだ「善意」であったのではないかという意味で、和田春樹さんの本への書評で野坂を「残置諜者」と書いたことがあります。コミンテルンや共産党に忠誠を誓っていても、「人民の敵」は容赦しなかったのです。粛清の時代をソ連でくぐりぬけた外国人は、多かれ少なかれ、ソ連共産党への絶対服従と諜報の任務を負わされました。そういう時代だったのです。

 ドイツ共産党出身で、あれほど知的で個性的なリヒアルト・ゾルゲが、なぜスターリン粛清の時代に生き残れたのかも、そうした観点から見直す必要があります。帰国命令があっても日本に留まっていたからこそ、1944年まで生き長らえたといえるかもしれません。ゾルゲと同じ頃に、同じ赤軍ルートで日本で諜報活動をし秩父宮に接近していたフィンランド人アイノ・クーシネンの場合は、帰国したらすぐに逮捕され、15年間強制収容所に入れられました。1936−38年にスターリン粛清の嵐が荒れ狂った後、ゾルゲは、世界革命のための祖国なき「残置諜者」だったのです。

 

 裁判記録には出てこない歴史の真実

 日露歴史研究センター創立の提唱者でもあった社会思想研究家石堂清倫先生は、生前、ゾルゲ事件研究の方法について、重要なことをいっておられました。

 ゾルゲは、確かに4ヶ国語を操り自ら手記も書いたが、警察・検察の供述調書や裁判記録に残されていることが事実だと思っていると、権力・特高警察の思う壷にはまる、歴史の「真実」を見分けることにはならない、というのです。

 その例として、次の二つを、あげておられました。

 第一に、ゾルゲは、陸軍軍務局長武藤章少将や馬奈木敬信大佐ら、ドイツと親しいけれども「皇道派」ではなくて「統制派」に属するような革新将校たちと非常に近い関係にあった。それなのに、なぜかゾルゲ事件では、軍関係者はほとんど取り調べを受けていません。

 もう一つ、軍と同様に、皇室関係も、ゾルゲ事件捜査の射程外に置かれたことです。ソ連から見れば、ゾルゲと同じくらい重要な意味をもつ、もう一人の赤軍諜報員アイノ・クーシネンは、当時のコミンテルン(共産主義インターナショナル)幹部会員で「32年テーゼ」で知られるオットー・クーシネンの奥さんです。日本で秩父宮と何回も会っているのに、またゾルゲとも時々会っていたのに、ゾルゲ事件の裁判記録には、そんなことはでてこない。

 こうしたことから、調書や判決文には出てこないところに大きな謎と真実があるのだと、石堂さんは指摘されています。私も、これにはまったく同感です。

 私が今日お話しするのは、これまでの膨大なゾルゲ事件研究や小説・映画などでは、あまり知られていないことです。できるだけ、ほかの方の話と重複しないように、心掛けたいと思います。

 

 21世紀は情報戦の時代

 まず最初に、今日のイラク戦争からゾルゲ事件を見た場合、何が問題かということを、二つだけお話します。

 19世紀の戦争は、武力と兵士を主体とした「機動戦」「街頭戦」でした。20世紀の戦争は、経済力と国民を動員した「陣地戦」「組織戦」でした。そして、21世紀の戦争は、メディアと言説を駆使してグローバルな世界で正統性を競い合う「情報戦」「言説戦」となる、というのが私の考えです。

 このことについては、拙著『20世紀を超えて』(花伝社、2001年)他、すでに書物や論文で論じてきました。また、インターネットの個人ホームページ「ネチズンカレッジ」「イマジン」を拠点に、平和のための言説戦を展開してきました(http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml)。

 ハーバード大学の国際政治学者ジョセフ・ナイ教授は「ソフト・パワー」と呼び、東大の田中明彦教授は「言力政治」と言っていますが、同じような意味合いです。政治や戦争の中で、「情報」のもつ意味が格段に大きくなって、直接的な軍事力の衝突でさえ、「情報」をめぐって、情報を媒介にして、行われる。21世紀はそういう時代になったということを、認識する必要があります。

 こうした観点からすると、9・11以後の情報戦の一つの重要な特徴は、戦争当事国のアメリカ・ブッシュ政権が「情報戦」の中で揺れ動き、また、「陣地戦」の時代の20世紀後半、東西冷戦期の米国を動かしてきた情報機関CIAの権威が失墜したことが、注目されます。

 

 アブグレイブの虐殺で大義を失った米国のイラク戦争

 たとえば、アメリカ大統領選挙の流れです。今年[2004年]7月の段階では、米国の大統領選でブッシュを再選させたい人が40パーセント、再選反対が51パーセントでした。それは、その春に、イラクのアブグレイブ刑務所で米国人兵士がイラク人を虐待している写真を米国マスコミが発表したことにより、世界の世論ばかりか、米国の世論でさえも「あんまりだ」ということになって、「ブッシュじゃだめだ」という雰囲気が生れていたためでした。

 イラク戦争で、米国の情報戦は、失敗しました。武力行使が絶対正しいという世論が圧倒的なら、米国人兵士の戦死が千人以上になり、イラク人文民を何万人殺しても、ブッシュ支持に結びつくはずでしたが、そもそも攻撃の最大の口実だった大量破壊兵器が見つからず、さらにアブグレイブでイラク人を虐待したという追い打ちを受けて、ブッシュの支持率は急落してしまいました。

 戦争の純軍事的側面、19世紀的な「機動戦」の原理からすれば、虐待でも何でも、敵を殲滅すればよかったわけです。しかし、20世紀の二度の世界大戦で、戦争にもいろいろなルールができてきました。宣戦布告なく奇襲すれば、国際世論ばかりでなく、国際法でも裁かれます。捕虜の扱いや、毒ガス・化学兵器もそうです。戦争にも「道義」や「大義」が必要になりました。もちろん、普通選挙権や議会政治など、民主主義の広がりが背景にあります。

 第二次世界大戦の連合軍の勝利には、経済力の圧倒的な差や、米ソ両大国のイデオロギーを超えた参戦という「陣地戦」の要素が大きいですが、それも「ファシズム・軍国主義の脅威に対して民主主義を守れ」という大義があればこそ、国民動員が可能でした。

 東西冷戦の終焉した湾岸戦争以降の戦争、コソボ紛争もそうでしたが、今日のイラク戦争は、「道義」と「大義」がすべてです。開戦が国際世論の支持、国際連合の同意を得ているか、国際法に沿っているのかが問題になり、武力行使の正統性が問われるのです。

 アメリカ大統領選挙では、イラク戦争が争点になり、マイケル・ムーア監督の「華氏911」という反ブッシュ映画まで参入して、選挙そのものが、虚報・雑音(ノイズ)を交えた情報戦となりました。

 アブグレイブで、現地の米軍兵士たちのやったことを調べてみると、その虐待=拷問の手法は、CIAが長く開発しマニュアル化してきた「敵スパイ」に対する尋問方法そのもので、「上官の命令」なしにはできないものだったことまで、インターネットでは報じられました。

 

 オサマ・ビンラディンに救われたブッシュ大統領の再選

 ではなぜそれが、11月の大統領選挙ではブッシュが巻き返し、共和党が勝利したのか? この問題も、「情報戦」という観点から見れば、ブッシュ対ケリーという政治戦・陣地戦ではみえない側面があります。

 投票日の数日前に、オサマ・ビンラディンが、アルジャジーラというアラビア語のテレビ放送に登場しました。そもそもオサマ・ビンラディンは、CIAが旧ソ連のアフガン侵略のさいに育成した、アメリカの反共反ソ戦略の鬼子でした。

 そのオサマ・ビンラディンが、投票日の直前に、「9・11は自分たちがやった。米国大統領がケリーになろうとブッシュになろうと、われわれはアメリカとの戦争を続ける」と断言する姿が放映されました。

 このテレビ放送は、どういう効果をもたらしたか。大統領選挙の結果を見れば、ブッシュの勝利と言うよりも、オサマ・ビンラディンの勝利でした。つまり「テロに対する脅威」を、投票直前にアメリカ人に再認識させました。オサマ・ビンラディンが出てきたために、せりあっていた民主党ケリーの国際協調主義が敗れ、ブッシュの単独行動主義・先制攻撃主義のネオコン強硬路線が勝ってしまいました。

 オサマ・ビンラディンにしてみれば、米国がイラクから撤退して国連の管理する「国際協調」の新政府が生れると、彼のいう永続戦争が、かえってやりにくくなります。こういう関係ですから、オサマ・ビンラディンの狙い通り、イラク戦争を単独でも継続するというブッシュが大統領になりました。

 皮肉な意味では、情報戦の最高の勝利者は、オサマ・ビンラディンになるわけです。米国大統領選挙という枠内で見れば、選挙直前にオサマ・ビンラディンが出てきて、ケリーではこの危機に対応できないというアメリカ人の中にある不安や危機意識が、中南部の宗教右派や保守的中間層に効いて、ブッシュ再選につながったのです。

 

 権威が地に堕ちた米国CIA

 情報戦としてのイラク戦争について、もう一つ重要なのは、大統領選挙ではブッシュが最終的に再選されましたが、9・11以降のこの3年間で、米国の情報戦の総本山、中央情報局(CIA)の権威が、地に堕ちたことです。。

 米国CIAは、かつて冷戦時代には、ソ連の国家保安委員会(KGB)に対抗して「ソ連の脅威」を封じ込めるために、クーデターからVOA放送まで、さまざまな陰謀や秘密工作を行い、アメリカの世界支配を支えてきました。ところが現在、CIAやNSA(国家安全保障局)をはじめとした米国の情報戦体制全体が、大きく揺らいでいます。

 そもそも2001年9・11の航空機を用いたテロの情報を、米国諜報機関は状況証拠を集めていたにもかかわらず、未然に防げませんでした。ノイズ=雑音と国家的重要情報の区別が、正しく分析できなかったのです。アフガニスタンのタリバン政権を倒し占領してまでオサマ・ビンラディンの行方を追いましたが、いまだにその行方をつかめずにいます。

 「イラクに大量破壊兵器はなかった」「イラク戦争は米国がアラブの石油を狙って始めたのではないか」「ブッシュはイスラエルと組んで、9・11以前からイラクに攻め込みフセインを倒す計画を持っていた」といった情報が、CIA筋からもれてくるようになりました。そして、開戦の最大の口実であったイラクの大量破壊兵器が幻だったことは、いまやアメリカ政府の公式報告書でも明らかになりました。

 そこで、第二次ブッシュ政権では、既存の15の情報機関を統合する国家情報長官をおき、情報収集・分析体制を引き締めようとしています。「第二次世界大戦の夢をもう一度」ということでしょう。実は、米国の国家的情報戦は、ちょうどゾルゲがソ連赤軍ルートで情報活動をやっていた時期に、本格的に始まりました。今日のCIAの前身は、1941年7月に作られた情報調整局(COI)、それが42年6月に再編された戦略情報局(OSS)です。

 その当時まで遡って、国家情報・分析体制を統合し、米国を強大な情報国家として甦えさせるための法案が、9月に提出されました。CIAなど既存の15の情報機関を束ねる国家情報長官のポストを新設して、今よりもっと強力な統一的情報機関を作ろうという方向です。初代の国家情報長官に任命されたのは、直前までイラク大使だったネグロポンテでした(以上について詳しくは、加藤「大義の摩滅した戦争、平和の道徳的攻勢 ――アブグレイブの拷問をめぐる情報戦」『世界』2004年7月号など参照)。

 

 情報戦の原型としての第二次世界大戦期 

 もちろん「機動戦」「陣地戦」の時代にも、「情報戦」がなかったわけではありません。国家間戦争の、主要な側面ではなかっただけです。

 第二次世界大戦の直前、ゾルゲが諜報活動を行っていた時代は、ソ連だけではなく、同じ連合国となった英国・米国も、枢軸国のドイツ・日本も、第一次世界大戦の頃と比べてはるかに情報戦を重視し、飛躍的に情報収集・分析の手法を発達させました。ゾルゲも尾崎秀実も、そういう中で、情報戦の戦士となったのです。

 しかし、その収支決算はどうだったのでしょうか? ゾルゲ事件を、こうした国際的情報戦の中で見る視点も必要です。

 第二次世界大戦は、基本的には戦時総動員体制や軍事物資備蓄・供給、航空母艦や都市絨毯空撃が戦況を左右する「陣地戦」でしたが、その「国民戦」「総力戦」の性格に関わって、「敵国」ないし「仮想敵」の国力を測定し、軍備・軍事拠点や「国民統合・動員」上の政治的弱点についての情報収集・分析・予測、戦略・戦術策定の基礎的情報収集・分析能力が、著しく重要な意味を持ってきました。ましてや、第一次世界大戦の帰結として、ロシア革命と社会主義・共産主義勢力の台頭を経験しており、資本主義勢力・社会主義勢力ともに、諜報・情報技術を飛躍的に高めました。

 

 コミンテルンの情報戦とアメリカ共産党の役割

 この時代に、社会主義・共産主義勢力の情報戦の中心になったのが、ソ連の秘密警察とコミンテルン(共産主義インターナショナル)=世界共産党でした。

 コミンテルンは、一方で各国支部=各国共産党がそれぞれの国で革命運動・労働運動を展開しながら、他方では、「労働者の祖国」ソ連邦を防衛し拡大する国際情報ネットワークを作っていました。

 第一の革命運動の最重要の顔であるドイツ共産党が、1933年1月、ヒトラー政権樹立で地下に追いやられ、「世界革命」の望みが最終的に絶たれると、コミンテルンの基本的活動は、ソ連の外交政策に従属した防衛的情報戦となりました。日本で左派がかつてもてはやしたディミトロフの「反ファッショ統一戦線」は、そうしたソ連防衛の性格を、色濃くもっていました。

 そこで浮上したのが、第一の革命運動ではとるにたらない弱小党でありながら、第二の情報戦・諜報戦では、世界各地の活動にさまざまな人材を提供しうるアメリカ共産党でした。

 アメリカ共産党には、世界中のあらゆる人種・民族出身で、現地語と英語を話せる移民共産主義者が集まっていました。また、当時のアメリカ共産党は、書記長ブラウダーが、1920年代後半に上海の汎太平洋労働組合書記局(PPTUS)初代書記長だったのをはじめ、スティーヴ・ネルソン、ユージン・デニス、ハリソン・ジョージ、サム・ダーシー、チャールズ・クランベイン、ルディ・ベーカーら、コミンテルンの国際連絡部(OMS)と深く関わり、アジアの秘密活動・諜報活動に精通した党員たちが、指導部を固めていました。

 ブラウダー書記長指導下の1930年代米国共産党は、そうした二重組織として、ソ連共産党=コミンテルンから位置づけられ、世界各地での工作担当者を輩出しました。ゾルゲ事件の宮城与徳や、野坂参三の在米活動を助けたジョー小出は、在米日系アメリカ共産党員でしたが、居住地で労働運動や反戦運動を行う一般党員ではなく、ニューヨークの米国共産党本部に直属し、モスクワの要請・指令で、世界革命のために活動する特殊な秘密党員たちでした。

 

 旧ソ連防衛の情報戦としてのゾルゲ事件

 1930年代の、ゾルゲが日本で秘密の情報活動に携わっていた時期、米国では、コミンテルン幹部会員・日本共産党代表の野坂参三が、サンフランシスコとロスアンジェルスを拠点に、ジョー小出を助手にして、『国際通信』『太平洋労働者』の発行・送付など、日本に働きかけて反戦・反ファッショの統一戦線を訴える、さまざまな活動をしていました。一方のゾルゲは、尾崎秀実を片腕に、日本国内で、日本政府の動き、軍部の戦争準備を追っていました。 

 これは、情報戦の用語でいいますと、「ホワイト・プロパガンダ」と「ブラック・プロパガンダ」の違いとなります。

 要するに、野坂の『国際通信』のように、戦争に反対しようと公然とよびかけ、実際に運動を組織していく宣伝方法が「ホワイト・プロパガンダ」です。これに対して、非合法手段をも使って敵から情報を密かに取って分析・工作したり、偽情報を流して敵を撹乱したりする活動を「ブラック・プロパガンダ」といいます。

 戦時アメリカでは、ビラ・ラジオや新聞・雑誌のホワイトの部分を戦時情報局(OWI)が担い、ブラックの部分を戦略情報局(OSS)が担当して、OSSが戦後のCIAに受け継がれました。

 ソ連の場合、ホワイトの部分がソ連政府の宣伝・煽動やコミンテルンの公式活動・機関紙活動であり、ブラックの部分が、赤軍情報部(GRU)や内務人民委員部NKVD(後のKGB)でした。同時にコミンテルンは、国際連絡部(OMS)などを通じて、ブラック・プロパガンダの補助機関ともなっていました。一方で各国支部=各国共産党がそれぞれの国で革命運動・労働運動を展開しながら、他方で「労働者の祖国」ソ連邦を防衛し拡大するネットワークを作っていました。

 

 1935年夏のディミトロフ宛米国共産党ブラウダー書簡

 本日お配りしたレジメに、第二次世界大戦前の情報戦のあり方を端的に示す、一つの資料を入れておきました。

 1935年夏、「反ファッショ統一戦線・人民戦線」を決議したコミンテルン第7回世界大会直後に、米国共産党書記長アール・ブラウダーが、コミンテルン書記長ゲオルギ・ディミトロフに宛てた書簡です。これは、1991年のソ連解体によって、初めて表に出た資料です。モスクワの旧コミンテルン史料館か、ワシントンの米国議会図書館に行けば、現物を見ることができます。

「親愛なる同志ディミトロフ
 急いで出発するので、その前に貴兄と話すことはできないと思う。むろん、われわれの活動の主要な方針は、先の大会以後はっきりしているし、アメリカ合衆国共産党はそれを十全に実現するために全勢力を注ぎ込むだろう。だが、それでもなお、決定を必要とし、貴兄が熟知しておくべき問題がいくつか残っている。それについてかいつまんで話すことにするが、詳しいことが必要なら同志ゲアハルトに聞いてもらいたい。
1. ピーク、マヌイルスキー、クーシネン、エルコリと討議した結果、私の意見としては、同志ゲアハルトを少なくとも1936年初頭の党大会までにはアメリカに戻してほしいと思うし、そうすれば、その一方で同時に同志ゲアハルトはアメリカでドイツ共産党の活動をしながら、必要に応じて、大会の準備をすることができる。同志ゲアハルトは、われわれが次の大会を準備しているまさにこの時期だからこそ、アメリカ合衆国共産党にとってきわめて貴重な人材なのである。
2.われわれは同志岡野、東洋書記局、プロフィンテルンとともに、日本共産党への支援計画とも連動させつつ汎太平洋労働組合書記局の計画を練ってきた。全員がその計画に賛同し、同志ブラッドフォード[=ルディ・ベーカー]をアメリカに送りその計画を指揮させるという重要なポイントを含めて同意した。もし、貴兄がこの計画に同意するなら、残る問題は形式上の決定と資金の手配だけである。
3.目下、上海にいるアグネス・スメドレーが現地で反帝国主義の英字紙[Voice of China]を発行するのを援助するという提案は、最終決定されるべきである。情勢はますます好転しており、そのような新聞が出れば大きな影響力を発揮するだろうと、彼女は手紙に書いている。アメリカ合衆国共産党は、政治的にも技術的にも優れた助手を彼女に提供することができる。中国人の同志たちも同意している。ただし、これら上海の同志たちが、もし中国共産党と接触した場合にはその活動が危険に晒されるから、それを避けるために彼らに中国共産党と接触させないという条件つきである。このプロジェクトの政治的価値は明白だ。承認の形式的手続きと必要な資金の準備が待たれる。
この3件は、未決の主要問題だ。迅速な決定が効果的な活動を促す。最後に、今大会とその成果についての深い満足と、この大会がアメリカ合衆国共産党および全世界の党を新しい高次の体験に導くだろうという私の見解とを表明しておきたい。アメリカ共産党がこの目的のために貢献し得るどんなことであれ、貴兄からの要請を私は喜んで受け入れる。
[1935年9月2日(旧ソ連秘密文書「ブラウダーからディミトロフへの手紙」、出所RTsKHIDNI495-74-463、邦訳『コミンテルンとアメリカ共産党』文書20、五月書房、2000年、106ページ)]

 この手紙は、邦訳が出ても誰も注目していませんが、コミンテルン第7回大会を知るものにとっては、奇妙で不可解な手紙です。ゾルゲ事件の性格を理解するうえでも、きわめて重要なものです。

 コミンテルンが、それまでの「階級対階級」戦術、「社会民主主義主要打撃」の方針を改め、反ファッショ統一戦線・人民戦線へと政策転換した画期的な大会の直後に、それに出席し幹部会員になったアメリカ共産党書記長がコミンテルン書記長に宛てた書簡であるにもかかわらず、なぜか、反ファシズム闘争のことも、アメリカにおける人民戦線の問題も、何も語られていません。アメリカ共産党の方針をどう改めるとか、アメリカの労働運動をどう組織するかと言った話は、一言もでてきません。

 その代わりに、大会で新たにコミンテルン書記長となったディミトロフに対して、「貴兄が熟知しておくべき問題」としてブラウダーが挙げたのが、ゾルゲ事件にも関係する、三つの問題でした。それがなぜか、(1)ゾルゲと親しい「同志ゲアハルト」=ゲアハルト・アイスラーを引き続きアメリカ共産党担当で派遣してほしいという話、(2)岡野進=野坂参三の米国での活動について、(3)中国でのアグネス・スメドレーの活動への資金援助の話と、すべて中国や日本と関係しています。一つの手紙のなかの、アメリカ共産党にとって当面最重要な三点として、ゾルゲ事件と関わる問題が語られています。

 

 ゲアハルト・アイスラーとリヒアルト・ゾルゲ

 その第一は、ピーク、マヌイルスキー、クーシネン、エルコリ=トリアッティという当時のコミンテルンを代表する幹部たちと討議した結果、ゲァハルト・アイスラーを1936年初頭の党大会までにアメリカに戻してほしい、ということです。これは、どういう意味でしょうか? 

 ゲアハルト・アイスラーは、1931年ヌーラン事件時のコミンテルン極東部上海ビューロー政治担当で、ゾルゲと親しいドイツ共産党員でした。その彼を、引き続き米国共産党駐在のコミンテルン代表に留めてほしいというのです。

 当時、コミンテルンは、コミンテルン執行委員会の命を受けて各国共産党を指導する、コミンテルン駐在代表を、主要国に送っていました。1920年代の日本共産党には、カール・ヤンソンがきていました。

 ゲアハルト・アイスラーは、ドイツ共産党員ですが、米国共産党に派遣されたコミンテルンの代表です。コミンテルンの立場から、同時にソ連共産党の立場から、米国共産党を指導し監視するという役割です。

 ゲアハルト・アイスラーのこの頃の動きを、B・ラジッチ=M・M・ドラチコヴィチ『コミンテルン人名辞典』(至誠堂、1980年)から抽出すると、次のようになります。

「1929年から31年にかけては中国へのコミンテルン執行委員会の代表であり、主として上海と南京に住み、ソヴェト秘密情報部員(特にリヒアルト・ゾルゲ)との接触を保持し、プロフィンテルン[赤色労働組合インター、汎太平洋労組PPTUSの上部機関]のために尽力した。モスクワに帰国し、しばらくコミンテルンのレーニン大学で教鞭をとった。その後、フランス経由で合衆国に渡り、そこで1933年から36年まで(党名エドワーズの名の下に)米国共産党へのコミンテルン代表として活動した。在米期間中、彼は一、二度モスクワへ旅行した。……」(邦訳87頁)。

 つまり、アイスラーは、1931年までは、中国を工作拠点にしていました。ちょうどゾルゲが上海にいるときに、上海のコミンテルン極東部の政治代表だったのです。組織代表のヌーランが逮捕されたため、いったんモスクワに帰り、その後米国に派遣された人物です。

 

 アイスラーと3回しか会わなかったという手記は正しいか?

 ゾルゲ事件の調書の中にも、小さくですが、名前が出てきます。ゾルゲは、いわゆる「第二手記」の中で、書いています。

「[上海のコミンテルン・グループの]政治班は、私がドイツにいたときからの知人で、私のコミンテルン時代に一緒に働いたことのあるゲルハルト[アイスラー]と、一、二の補助員とで構成されていた。……ゲルハルトとは偶然上海で会って旧交を温めたが、仕事の上では無関係であった。……私がゲルハルトに会ったのは、全部を通じて3回にすぎなかった」(『現代史資料1 ゾルゲ事件1』みすず書房、1962年、169頁)。

 この程度の供述ですから、日本のゾルゲ事件調書や、それをもとにした研究では、アイスラーとの関係は、あまり重要ではないことになっています。しかし、ゾルゲとアイスラーは、上海で本当に3回しか会わなかったのでしょうか?  

 二人とも、もともとドイツ共産党員で、コミンテルン本部に抜擢された国際活動のアジア担当要員です。一緒に上海で何をしていたかを、日本の警察・検察に、詳しく述べるはずはありません。中国共産党も関わる上海時代のゾルゲやアイスラーの活動の研究は、中国側資料の未公開もあって、まだまだ未開拓です。

 当時のコミンテルンの情報戦の全体の仕組みの中では、ゲアハルト・アイスラーは、大変重要な人物でした。つまり、1931年まで、中国共産党や上海の汎太平洋労働組合(PPTUS)書記局を指導し、ヌーラン事件でいったんモスクワに戻ります。ちょうどジョー小出が在学中のレーニン大学で教え、1933年のジョー小出の帰国、ゾルゲ・宮城与徳のアメリカから日本への入国の頃に、米国共産党へのコミンテルン代表としてアメリカへ渡り、ブラウダーらの米国共産党の活動や、野坂参三の米国西海岸から日本への秘密工作を指導していたことになります。

 ジョー小出の自伝『ある在米日本人の記録』(有信堂、1980年)には、レーニン大学の教師としてではありませんが、「アメリカ共産党には、永いことドイツ共産党のゲルハルト・アイズラーが、スターリンの命を受けて、やってきていた。エドワードという名前で知られていた」と書いてあります(上巻、48頁)。

 

 野坂参三と米国共産党地下指導者ルディ・ベーカー

 手紙の第二の主題は、日本共産党代表で、コミンテルン幹部会員である岡野進=野坂参三の米国での活動を、野坂参三と米国共産党秘密活動の指導者ルディ・ベーカー(=ブラッドフォード)を組み合わせて推進したいので、そのための承認と資金を調達してくれという話です。

つまり野坂参三の米国での活動は、ディミトロフとブラウダーのコミンテルン・トップレベルで決めた、また秘密諜報活動のエキスパートであるルディ・ベーカーが担当した、世界工作の重要な一部であることを、物語っています。

「同志ブラッドフォード」別名ルディ・ベーカーとは、暗号名「サン」で、アメリカ共産党内の最有力諜報組織である「ブラザー・サン」を率いた、影の指導者です。アメリカ共産党の地下活動の最高幹部で、戦時中は、いわゆる原爆スパイ工作の責任者でした。『アメリカ共産党とコミンテルン』第3章・第4章に、詳しく出てきます。

 このルディ・ベーカーが、野坂参三と共に対日工作を行っていたことは、このブラウダーの手紙で、初めて明らかにされました。

 それは、野坂参三自身が『国際通信』発行のようなホワイト・プロパガンダばかりではなく、対日ブラック・プロパガンダや秘密諜報活動に従事していたことを意味します。つまり、野坂の活動は、信頼できるルディ・ベーカーが指導する、コミンテルンを用いた重要な秘密活動の一環であるから、そのための活動資金を出してくれということを、アメリカ共産党の最高指導者ブラウダーが、コミンテルン書記長のディミトロフに述べ、要求しているのです。

 

 『風雪のあゆみ』の謎の人物「K」こそルディ・ベーカー?

 野坂参三は、自伝『風雪のあゆみ』(新日本出版社)で、ブラウダーやジョー小出のことは書いていますが、この手紙にあるルディ・ベーカー(別名ブラッドフォード、ベトフォード)のことは、触れていません。

 しかし、1934年の入国時から幾度か現れる「アメリカ共産党の国際連絡の責任者」で「ユダヤ系らしい、年齢のほど50歳ぐらいの肥った同志」=Kがそれである可能性は、高いと思われます。ブラウダーはじめ、ほとんどが本名で書かれた『風雪のあゆみ』の中で、KだけはなぜかずっとKのままです。

 ただし、この手紙と関連する重要な文書が、別の所に眠っています。

 和田春樹教授がモスクワでみつけ、『歴史としての野坂参三』(平凡社、1996年)巻末に「資料1 野坂参三のディミトロフ宛報告、1938年8月末ム9月8日以前」として収録したもので、和田教授はアメリカ共産党にうとく、内容をうまく解読できなかったためか、資料としてのみ紹介しています。しかしそれは、野坂参三の在米活動を知る上で、第一級の資料です。しかも、スターリン粛清の真っ最中、後に日本共産党から野坂が除名されるさいの最大の理由となる、盟友山本懸蔵が粛清され獄中にあった時期のものです。

 そこに、アメリカからの対日工作を相談する相手として「同志E・B、Bed、D」といった米国共産党幹部の名前が、イニシャルで出てきます。これを『アメリカ共産党とコミンテルン』中の野坂参三関係文書と重ね合わせると、容易に解読できます。E・Bとはアール・ブラウダー書記長、Dとはサム・ダーシー、そしてBedとはベトフォードことルディ・ベーカーにほかなりません。野坂参三のアメリカでの秘密活動を支えた、米国共産党指導者たちです。

 野坂参三のアメリカでの活動は、米国共産党内でモスクワとつながる秘密活動の最高指導者ルディ・べーカーの直接指導下にありました。そして、ルディ・ベーカーは、もともと上海汎太平洋労働組合書記局(PPTUS)出身で、米国共産党派遣のレーニン大学出身卒業第一期生でした。

 ゾルゲ事件で宮城与徳を送りだすハリソン・ジョージや、野坂参三の助手ジョー小出は、共にその指揮下にあったのです。

 

 コミンテルンの秘密資金でスメドレーが新聞を発行

 ブラウダーの手紙の第三の主題は、東京で活動するゾルゲ・尾崎秀実の共通の友人で緊密な「同志」である、アメリカ人作家アグネス・スメドレーの中国での活動に関するものです。

 アグネス・スメドレーが米国共産党員であったかどうかは、戦後のマッカーシズムの一つの焦点でしたが、この手紙で見る限り、ブラウダー指揮下の米国共産党の秘密党員のようです。

 事実、上海の英字紙『ボイス・オブ・チャイナ(Voice of China)』は、この手紙にもとづき、ブラウダーの秘書グレース・グラニッチ夫妻がわざわざ上海に派遣されて、発行されました。この新聞発行が、スメドレーと孫文夫人宋慶齢との仲違いの一因となったことが、マッキンノン夫妻『アグネス・スメドレー 炎の生涯』(筑摩書房、1993年、第10章)に書かれています。

 スメドレーは、1950年の死の直前、共産主義者としてマッカーシズムに告発され、自分はコミュニストではないと反論して軍に謝罪させた逸話の持ち主です。日本でも、石垣綾子さんの書物などで紹介されています(『回想のスメドレー』みすず書房、1967年)。しかし、この手紙は、スメドレーは本当は共産党員ではなかったかと、改めて疑わせるものです。少なくともコミンテルンの資金援助を受けていたこと、しかもそれはブラウダーとディミトロフというコミンテルン最高指導部で決められたことが、わかります。

 以上のように、この1935年夏のブラウダーのディミトロフ宛手紙には、ゾルゲや尾崎秀実のことは何も出てきませんが、ソルゲ事件の周辺にあった三つの問題が、一つの手紙のなかの三つの主要論題として、語られています。

 「この3件は、未決の主要問題だ」というのは、ゾルゲもまたコミンテルン第7回大会時にモスクワに一時帰国していますから、そこで決まったゾルゲ機関の活動の後方支援という意味が、あるのかもしれません。ゾルゲらの「ラムゼイ・グループ」の活動にも、モスクワからアメリカ共産党を経由するルートが、何らかの役割を果たしたことを、示唆するものです。

 そのような目で、ゾルゲ事件を見直すと、アメリカ共産党員宮城与徳や北林トモの関与ばかりではなく、なぜゾルゲの日本入国は、シベリア鉄道でのソ連・中国経由ではなく、わざわざ大西洋からアメリカ大陸を横断してバンクーバー・横浜経由であったのか、宮城与徳の来日に、なぜ汎太平洋労働組合(PPTUS)サンフランシスコ書記局のハリソン・ジョージが関わるのか等々が、改めて問題になります。また、野坂参三の米国西海岸からの日本工作、スメドレーらの上海での活動、それに同時期の日本でのゾルゲ=尾崎グループの活動が、どのように関わっていたのかの解明が、今後必要になります。

 

 ゾルゲの諜報活動と野坂の反ファッショ活動のリンク

 先にも述べましたが、1930年代のアメリカ共産党というのは、党員はせいぜい2万人〜3万人、アメリカ政治のなかでは影響力を持たない泡沫政党と思われがちです。国内政治的には、全くその通りです。

 しかし実際は、ヒトラーが政権を取って、コミンテルンの本来の活動である「世界革命」の展望がなくなったところで、コミンテルン=世界共産党の活動と任務は、もう一つの活動、つまり当時の状況の中でなんとか「労働者の祖国」ソ連を防衛せねばならないという方向に、収斂していきました。

 そのために、革命運動の面では余り意味のないアメリカ共産党が、コミンテルンの中で、一段と重要な存在になってきました。なぜでしょうか?

 一つは、世界中で行われるどんな秘密活動にも、現地で怪しまれず情報収集できる現地語と英語のできる人材を、供給できるからです。つまり、あらゆる人種・民族出身の共産主義者が、党内にいたのです。30年代にはアメリカ共産党内に、一般の州・地区委員会、工場・地域細胞の系列とは別に、16の言語別グループがあって、それぞれ全国的に組織されていました。

 いま一つ、1920年代の党内抗争を経て、30年代米国共産党指導部が、W・Z・フォスターら労働者派を退けて、もともと海外、特にアジアでの国際秘密活動に従事してきたブラウダーら国際派ないしモスクワ派により占められたことが、重要です。

 たとえばアメリカ共産党日本人部は、ニューヨーク、サンフランシスコ、ロスアンジェルスが3大拠点ですが、最高時約200人が組織されていました。その中から、西海岸労働運動などには参加せず、日本領事館からも米国FBIからもマークされたことのない画家の宮城与徳が、日本に送られることになりました。そうした人選は、すべてニューヨークの党本部の直轄です。

 アメリカ共産党は、ラテン・アメリカでもアフリカでもアジアでも、まるで人材派遣業みたいに、モスクワの必要と求めに応じて、党員を送り出しました。世界中どこへ行っても活動できる人材を、アメリカ共産党は、即座に供給することができたのです。

 ゾルゲの1933年夏日本入国も、モスクワから米国に向かい、ニューヨーク・シカゴ経由で、バンクーバーから横浜到着でした。日本での活動の詳細について、アメリカで米国共産党の密使から指示を受けたことを、ゾルゲは隠していません。

 ちょうどその頃、モスクワのコミンテルン高級幹部養成学校レーニン大学出身の米国共産党員ジョー小出=本名鵜飼宣道が、野坂参三の助手となるため帰国し、サンフランシスコの汎太平洋労働組合(PPTUS)で、ハリソン・ジョージのもとで勤務しながら、地下活動を開始します。

 その直後に、同じく米国共産党員で、西海岸労働運動にはほとんど参加していなかった宮城与徳が、日本へと旅立ちます。

 1934年、野坂参三が秘かに米国に渡り、ジョー小出の助力で『国際通信』を発行しはじめた頃、日本に入ったゾルゲは、尾崎秀実と奈良公園で会見し、本格的情報活動を始めるわけです。

ソルゲ機関と野坂機関の活動は、奇妙に時期的に一致します。

 

 尾崎とゾルゲを結びつけたのは米国共産党の鬼頭銀一

 しかし、尾崎秀実とリヒアルト・ゾルゲは、1930−32年、上海で既に知りあっていました。二人を上海で最初に引き合わせたのは、ゾルゲの供述・手記をもとにつくられた宮城裁判長の判決文によると、米国人ジャーナリスト、アグネス・スメドレーということになっています。

 ところが、ゾルゲ事件の関係調書を詳しく分析すると、ゾルゲに対する尾崎秀実の最初の紹介者は、スメドレーではありませんでした。尾崎秀実の当初の供述に何度も出てくるのは、米国共産党の日本人「鬼頭銀一(きとう・ぎんいち)」の名前です。時期や場所まで、具体的に述べています。

 裁判では、ゾルゲが上海での「有名な共産党員」鬼頭銀一の関与を強硬に否定したために、口裏合わせのために尾崎も途中で供述を変更させられ、最初の紹介者はスメドレーということにされました。

 「鬼頭銀一」の名は、そのために、ゾルゲ事件の「謎の人物」として、長く忘れ去られてきました。米国共産党の日本人・日系人について書いたカール米田の書物(『在米日本人労働者の歴史』新日本新書、1967年)では、鬼頭銀一の存在そのものが抹殺されました。よく知られているように、カール米田は、戦後も長く野坂参三と親しかった、アメリカ在住の日系共産党員でした。

 しかし、私の調査では、鬼頭銀一は、実在していました。それどころか、三重県出身の、当時の上海では「有名な共産党員」(ゾルゲ)で、1928年にアメリカ共産党日本人部が再建された時の、初代書記でした。再建というのは、1920年代初めに一度、片山潜・鈴木茂三郎・猪俣都南雄らの日本人部がアメリカ共産党内にあり、片山がソ連に移り、その後とだえていたからです。

 鬼頭銀一は、そのすぐれた政治・組織能力と英語力が米国共産党中央で認められ、当時上海にあった汎太平洋労働組合(PPTUS)書記局に、米国共産党本部から派遣された日本人共産主義者でした。

 

 ジョー小出と鬼頭銀一はデンバー大学同級生

 実は、この夏アメリカまで出かけて私が見つけたことは、このゾルゲと尾崎の仲介者鬼頭銀一と、野坂参三の助手ジョー小出=鵜飼宣道が、同年代の近しい友人だったことです。1925ー28年、米国中部のデンバー大に留学した数少ない日本人であり、同級生だった事実です。

 共に日本では、キリスト教と白樺派の影響を受けたヒューマニストでしたが、デンバー大学で国際政治学者チェーリントン教授に学び、共産主義に近づきました。英語が良くできる若くて有能な日本人学生党員だったため、西海岸の日系労働運動の経験を経ることなく、ニューヨークの米国共産党本部に直接抜擢されました。

 鬼頭銀一は、1929年に、米国共産党日本人部を初代書記として再建後、上海の汎太平洋労組(PPTUS)書記局に派遣されました。満鉄傘下の国際運輸という運送会社にもぐりこんで、尾崎秀実や水野成を発掘・オルグし、尾崎をゾルゲに紹介しました。水野成のゾルゲ事件供述・判決文には、鬼頭銀一の名が、中国共産党と水野の仲介者として出てきます。

 ジョー小出は、初代書記であった同級生の鬼頭が抜擢され上海に派遣されたため、1929年に、米国共産党日本人部の第2代書記に任命されました。ジョー小出は、その政治的才能と英語力を米国共産党書記長ブラウダーに高く評価され、1930年には、ソ連のレーニン大学に派遣されました。レーニン大学は知らないが、東洋勤労者共産主義大学(クートベ)なら知っているという人が多いでしょう。風間丈吉、山本正美、袴田里見等1930年代前半の日本共産党最高指導者は、モスクワのクートベで学んだということで、帰国すればすぐに日本共産党の最高幹部でした。

 アメリカ共産党の場合は、同じモスクワ帰りでも、クートベで学んだくらいでは、せいぜい州委員会書記など中級幹部です。レーニン大学は、コミンテルンの高級幹部養成学校で、ここを卒業して帰国すると、アメリカ共産党では、本部の要職につきました。先に述べたルディ・ベーカーが、その第一期生です。それほどジョー小出は、高く評価されていたのです。

 

 鬼頭銀一と尾崎秀実の神戸での再会

 他方、1932年に上海から帰国して大阪朝日新聞本社に戻った尾崎秀実は、神戸で、鬼頭銀一と再会します。

 鬼頭銀一は、1931年に上海で別件で逮捕され(浜松の活動家木俣豊次の上海逃亡幇助)、33年に執行猶予付きで出所しました。米国での合法共産主義運動参加は、治安維持法では罪にできなかったのですが、特高警察に対して、鬼頭銀一は、米国共産党日本人部について供述しています。その党員リストは、幹部クラスだけの大雑把なものでしたが、その後の日本官憲による米国からの帰国者監視の、基礎資料となりました。鬼頭銀一自身は名をあげませんでしたが、彼の供述した米国共産党員日系人名簿が補充・拡充されて、1933年の外事警察記録では、宮城与徳や北林トモも、リストに加えられていました。

 鬼頭銀一は、1933年に、神戸でゴム販売業「鬼頭商会」を開きます。それまで商売の経験も土地勘もなかったのに、なぜか神戸であり、貿易商品ゴムを扱います。神戸は、当時の日本で最も海外情報の入りやすい港町であり、アメリカ西海岸の野坂参三=ジョー小出による『国際通信』等の反ファシズム文書は、野坂の言う「海のルート」を使って、神戸に持ち込まれていました。いうまでもなく神戸は、野坂参三がソ連亡命の直前まで住んでいた所でもあります。ただし、鬼頭銀一が、野坂参三ラインの活動をしていたという確証は、ありません。

 鬼頭銀一の「鬼頭商会」は、1933ー36年、神戸で店を開いていました。上海時代に知り合った尾崎秀実は、大阪朝日の記者の時も、その後東京に移ってからも、鬼頭とたびたび会っていました。これは、鬼頭家に残された資料と証言で、実証できます。それだけではなく、3人しかいない店員の一人永田美秋を、尾崎秀実が鬼頭に紹介していたことが、『尾崎秀実著作集』第四巻所収の永田美秋宛尾崎秀実書簡からわかります。

 つまり、ゾルゲと奈良公園で会い、東京に転勤する以前から、尾崎秀実は、上海で自分とゾルゲを結びつけた米国共産党員鬼頭銀一と日本で再会し、神戸や大阪で会見を重ねていました。

 上海で鬼頭銀一の勧誘により中国共産党と接触した水野成は、同じ頃に、大阪の大原社会問題研究所に勤務していました。後に尾崎の誘いで、ゾルゲ・グループに加わります。その頃米国共産党から直接派遣された宮城与徳は、すでにゾルゲとの接触に成功し、活動を開始していました。

 

 宮城与三郎が粛清された頃、鬼頭銀一は南方で不審死

 なお、鬼頭銀一は、1936年末に、神戸のゴム販売店をたたんだ後、37年に南洋パラオ諸島のペリリュー島に渡ります。理由は、ご遺族の所蔵する資料からはわかりませんが、当時ベルリュー島では、日本海軍が大きな軍事基地を建設中で、そこに日本人向けの雑貨店を開きました。

 ところが、1938年5月24日、何ものかにペリリュー島で毒を盛られ、食中毒死してしまいます。真相は明らかでありませんが、現在日本にいる鬼頭家のご遺族は、鬼頭銀一は毒殺されたものと信じています。それが、日本の特高警察や憲兵隊によるものか、それともスターリンの刺客によるものかと、疑っています。

 1938年5月といえば、スターリン粛清の真っ最中です。ちょうどモスクワでは、米国共産党からソ連に亡命した宮城与徳の従兄宮城与三郎をはじめとした十数人(いわゆる「アメ亡組」)を含む80人近くの日本人が、総粛清された時期です。そのなかで野坂参三だけが、なぜかスターリン粛清を逃れて、生き残ったのです。鬼頭銀一は、「知りすぎた男」だったのかもしれません。

 鬼頭銀一とジョー小出の生涯を含むこれらの点は、両家のご遺族や関係者の協力で、ようやく最近明らかになってきたことです。両家のご遺族をみつけること自体ひとつのドラマでしたから、近く私は、書物にして発表する予定です。

 いずれにしろ、こうした裁判記録にはない、アメリカ共産党関係の史実をくぐらせると、ブラウダーのディミトロフ宛手紙の意味が、浮上してきます。

 モスクワの使命を帯びて、コミンテルン米国駐在代表ゲアハルト・アイスラーと米国共産党書記長ブラウダーを中継地に、中国のアグネス・スメドレーら、日本のゾルゲ・尾崎秀実・宮城与徳・鬼頭銀一ら、米国西海岸の野坂参三・ジョー小出らが、それぞれに使命感を持ち、一つの大きな目的のために活動し、援助されていました。彼らは、「世界革命」の情報収集・分析戦=情報戦の戦士たちでした。たとえその実際は、「世界革命」はユートピアに留まり、「ソ連擁護」に収斂されていったにしても……。

 

 アメリカ日本学の方向を定めた2・26事件

 ゾルゲ=尾崎秀実らは、日本で1936年2・26事件を経験し、中国侵略の拡大と日本軍国主義のファッショ化に、衝撃を受けます。その時のゾルゲの2・26事件分析は、今日読んでも新鮮な、きわめてすぐれた日本国家論です。

 同じ頃、アメリカでは、本格的な日本研究が、花開こうとしていました。後に戦時・戦後の対日政策策定に大きな影響力を発揮する日本学の若者たちが、日本に留学中でした。コロンビア大学から国務省日本担当になるヒュー・ボートン、ハーバード大学から戦後駐日大使になるエドウィン・ライシャワー、ノースウェスターン大学出身で戦後日米文化交流の仕掛け人になるチャールズ・B・ファーズらは、2・26事件当時、日本に留学し研究していました。

 国務省に入って在日米国大使館に赴任したばかりのジョン・エマーソンも、2・26事件を東京で体験しました。後に1944年夏、米国「ディキシー・ミッション」の一員として延安を訪問し、野坂参三との詳しい会見記録を作り、戦後GHQと日本共産党の繋がりのきっかけを作る人物です。

 戦時国務省内で対日政策作成の中心となるボートンの回想録『戦後日本の設計者』(朝日新聞社、1998年)には、ライシャワー、ファーズ、ボートンの3人が、日本で2・26事件を話し合った話が出てきます。

 戦後60年代ケネディ政権時に、ライシャワーが日本大使として赴任した時、ファーズは文化担当、エマーソンは政治担当の公使として、「ケネディ=ライシャワー路線」を支えました。当時のアメリカ大使館最高指導部は、まるで2・26を体験したジャパノロジストの同窓会です。

 彼らは、太平洋戦争時の米国における最も有能な日本社会の体験者・分析者であり、占領民主化政策の形成、特に天皇制の扱いと治安維持法撤廃、日本共産党の合法化に、重要な役割を果たしました。

 

 アメリカにおける戦時OSS=R&Aの情報戦

 2・26事件から日中戦争、中国西安事件・抗日国共合作への展開が、アジアでの情報戦を、ソ連・米国の双方にとって、死活のものにしました。

 1941年7月、日本でゾルゲ・グループが摘発・検挙される直前に、アメリカでは、ナチス・日本・ソ連の情報布陣をはるかに上回る、情報戦に特化した国家機関が、英国情報機関の援助を得て作られました。ドノヴァン長官のCOI(情報調整局)です。COIは、日米開戦後の翌42年6月にOSS(戦略情報局)に改組され、戦後のCIAの前身となります。連邦警察局(FBI)のフーバー長官は、この新興情報機関発足を目の仇にし、ドノヴァンのOSS対フーバーのFBIの対立は、戦後のCIAとFBIの不仲に受け継がれます。

 COI=OSSの特徴は、世界全域を対象に、情報を組織的に収集し、詳しく分析し、戦略・戦術の基礎に据えたことでした。秘密情報部(SI)、特殊工作部(SO)、モラル工作部(MO)等の特殊工作網を世界全域に「手足」として張り巡らしたばかりでなく、米国中の最高の研究者を総動員して「頭脳」となる調査分析部(R&A)を持ちました。

 戦時米国の情報戦は、ゾルゲ=尾崎グループの個人的技量に依拠した手工業的活動とは異なり、機械性大工業段階の集団的共同研究で、日本の政治・経済・文化を分析しました。歴史研究と実証データにもとづいて、総合的にその弱点を浮きぼりにし、戦略・戦術を立案しました。あわせて戦後の日本をどうするかをも、真珠湾攻撃直後から、計画を立てていました。

 OSSの発足は、ちょうど原爆作成のマンハッタン計画と同時で、マンハッタン計画が物理学など自然科学者を集めたのに対して、OSSの調査分析部(R&A)は、社会科学と人文科学、特に歴史学・経済学・人類学・地理学・心理学等の最優秀な学者を、全米から総動員しました。

 

 コミュニスト・マルキストも活用したOSS

 面白いことに、アメリカでも国務省や陸軍の在来情報機関が保守的な手工業的諜報活動を展開している時、ドノヴァンのOSSは、左翼・マルキストをも積極的に取り込んで、「客観的・科学的分析」にもとづく「現実的に可能な戦略・戦術情報」を、政府・軍の関係各部局に提供しました。最高時約二千人の研究者が加わり、前ハーバード大学歴史学部長ランガー等米国社会科学・人文科学界の重鎮たちと、彼らの選抜した最優秀な若手の助教授・博士たちによる情報分析体制がとられました。

 OSSと米国共産党とのつながりは、前掲『アメリカ共産党とコミンテルン』第7章・第8章で、旧ソ連秘密文書により解明されています。アメリカ共産党がOSSに進んで協力を申し入れ、ルーズベルト大統領、ドノヴァン長官は、それを承知しながら、共産主義者を連合軍の一翼として利用しました。そのことをコミンテルンのディミトロフ書記長も、ソ連の秘密警察NKVDフィチン将軍も、承知していました。

 日本の真珠湾攻撃による米国参戦で、米ソが連合軍として日独とたたかうようになると、このアメリカが「科学的」に収集・分析・立案した世界戦略・対日戦略が大きな力を発揮し、ゾルゲや尾崎のような手工業的諜報活動は、副次的なものになりました。

 OSSが、対独戦線でユーゴのチトーを、アジア戦線ではインドシナ共産党のホーチミンを助けたことは、よく知られています。そればかりでは、ありませんでした。中国戦線では、国民党蒋介石の反対を押し切って、延安の毛沢東や野坂参三に接触しました。そこに国務省のエマーソンも同行しました。

 また、OSSのモラル工作部(MO)の対日ブラック・プロパガンダには、ジョー小出・藤井周而ら、在米日系共産主義者の最優秀な人々が動員されました。延安の野坂参三も、重慶の鹿地亘や青山和夫も、エマーソンを通じて、アメリカの対日戦略策定に一役買います。

 そのOSS調査分析部(R&A)の真珠湾攻撃時における日本担当の最高責任者、後の極東課長が、2・26事件を東京で体験したチャールズ・B・ファーズでした。彼を中心に、日本についての詳細な戦略的分析と、「天皇を平和のシンボルとして利用する」日本改造の基本計画が作られました(加藤「1942年6月米国『日本プラン』と象徴天皇制」『世界』2004年12月号)。

 

 大工業的なアメリカ情報戦と、手工業的ゾルゲ機関の悲劇

 こうした米国国家機関の大がかりな情報戦が、ソ連のゾルゲ機関風手工業的諜報活動を凌駕するのは、時間の問題でした。

 OSSには、極東情報分析だけで、約100人の専門家が配置されていました。新聞・雑誌情報の解析ばかりでなく、日本社会と歴史についての百科全書をつくり、日本語文献解読マニュアルや日本語教育の体系的教材も作られていました。日本の軍備や経済力の限界、階級分析や国民性分析も入っています。

 個々のアナリストの分析は、第3者のレフェリーを経て、正式な報告書に盛り込まれました。関係する政府・軍の各部門には、それが遅滞なく配布されました。アメリカにとって不利な問題や戦況情報を含め、関係者にオープンにまわされました。

 開戦直後から、連合軍の勝利を前提して、戦後改革の各種シミュレーションが進めらていました。その作業の中から、戦後にGHQの占領改革や米国日本研究の中心となる、多くの日本分析専門家が養成されました。

 他方で、ゾルゲや尾崎秀実の個人的能力に頼ったコミンテルン=ソ連の情報戦は、悲劇的でした。強固な確信と使命感を持ち、彼らが命がけで収集した日本の最高機密情報は、せっかくモスクワまで届きながら、スターリンにより無視されました。事実を踏まえて政策決定に活かされることはありませんでした。

 それどころか、捕虜交換で生命だけでも助ける可能性もあったはずですが、ソ連はゾルゲを見放しました。だから、米国情報機関OSSの対日戦略の方が、国務省や軍の政策立案の基礎になり、連合軍総司令官マッカーサーによる戦後占領下での民主化・非軍事化改革、日本国憲法へと結実しました。

 しかし、戦時情報機関OSSは、1945年終戦時、そこにコミュニストを数多く抱えていた理由もあって、フーバーのFBIに告発されます。支えのルーズベルトが病没し、トルーマンに見放されます。オーウェン・ラティモアら中国共産党に近いグループへの「アメラシア事件」が、後のマッカーシズムの先駆けとなり、OSSは、1945年9月にいったん解散されます。

 

 情報戦の「頭脳」を失ったCIAの凋落

 OSSの「手足」だった諜報・秘密工作部門は、1947年に発足したCIAに受け継がれましたが、「頭脳」だった調査分析部(R&A)は解体されます。一部は国務省等の各地域部局に分散して継承されますが、大部分の関係者は、平時の大学・シンクタンク・財団等へと戻っていきます。

 日本担当の中心だったファーズの場合は、ロックフェラー財団に入って、国立国会図書館創設、北海道大学スラブ研究所開設など、戦後米国の対日文化交流を企画し実行します。

 秘密工作の「手足」は継承したものの、戦時OSSが持っていた「頭脳」を失い弱体化したCIAは、冷戦時代の情報を、反共主義のイデオロギーで裁断し、解析しました。偏向した眼鏡には、自分に都合のいい、歪んだ情報しか映りませんでした。朝鮮・ベトナム・中南米・中東など冷戦時代の情報戦でも秘密工作を繰り返しますが、親米反共傀儡政権の恣意的樹立・育成は、ことごとく失敗しました。しかも、戦後200か国近くに膨れあがった国際社会の発展と変容の解析には、秘密工作では対応できなくなりました。

 各種のクーデタや陰謀工作で悪名高くなったため、かつて戦時OSSには積極的に協力した学者たちも、戦後CIAには近づかなくなりました。どんなに世界中から情報を集めても、それを科学的に解析し、政策へと洗練する人材を、CIAは欠いていました。

 

 正義と大義の確信こそが優れた情報戦士を育む

 その帰結が、今日のイラク戦争です。ゾルゲ的な手工業的諜報活動は、過去のものとなりました。アメリカOSSに遠い起源を持つ、新たな「科学的」IT情報戦が、支配的になりました。国際社会は、歴史のIT革命・グローバル化段階にみあった、新しい情報戦と情報秩序を必要とするようになったのです。

 ただし、そこでも残される問題があります。そうした情報活動に使命感を持ち、身を殉じる、優秀な人材が、どれだけいるかということです。

 情報そのものの量や質だけではなくて、その収集者・送り手と、受け手・分析者が、その情報が味方に有利であれ不利であれ、自分たちの目的・理想にとって意味を持つのだということを自覚した時点で、初めて情報は意味を持ち、本格的な情報戦の武器となるのです。

 その意味で、尾崎秀実やリヒアルト・ゾルゲは、情報収集の手法は個人的で手工業的でしたが、きわめてすぐれた情報戦の戦士でした。自分たちが収集し分析した情報が、歴史の洞察にもとづく客観的なものであり、必ずや世界を大きく変革するだろうと確信してやまなかったという意味で、彼らの情報活動は、ある種の歴史的役割を持ちました。

 戦時中の米国は、必要不可欠な情報を巨大な規模で集めていましたが、それも、ファシズムを憎み自由と民主主義を求める情報戦士を大量に抱え、組織できたからです。だからこそ、日本を含むアジアの民衆の解放と戦後の民主化にも、役立ったのです。

 しかし、戦後のCIAになると、いわばサラリーマン情報屋に堕落して、自分のやっている情報活動の意味が分からなくなります。目的・結果に確信を持てないまま、上司から言われて、時の政権に都合のいい情報だけを入手し送り出すことになりました。

 こうした段階で、ブッシュの米国は、情報戦というレベルでは、敗北を余儀なくされました。たとえ軍事的に勝利し、最新兵器と大量物資でイラクを一時的に平定しても、大義なき戦争・占領は、長続きしません。民心を掌握できない親米政府、正統性なき傀儡政権は、必ず敗北します。今日のアメリカは、情報戦で永続的勝利を得ることは難しいことを、自覚すべきではないでしょうか。

 情報の送り手も受け手も、結局は人間です。情報戦に献身する人々を動員しうる「正義」と「大義」こそが、今日でも、情報戦の帰趨を決する鍵なのです。そのことを強調して、私の報告を終ります。ご静聴ありがとうございました。(大きな拍手)

 

 



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