20 世紀メディア研究所インテリジェンス 』誌第9号(紀伊国屋書店、2007年11月)所収
2006-07年崎村茂樹の6つの謎>探求、中間報告

本稿は、もともとインターネット上での崎村茂樹探求ネットによる共同研究の産物なので、活字版とは別にリンクを多用し、今後の研究で訂正・加筆出来るように構成する。情報をお持ちの方は、加藤katote@ff.iij4u.or.jpまでぜひ!


 

情報戦のなかの「亡命」知識人――国崎定洞から崎村茂樹まで

 

加藤哲郎(一橋大学)

 


1 情報戦における知識人の役割――国崎定洞らの場合

 

 2007年3月10日の20 世紀メディア研究所特別研究会報告で与えられたテーマは、「情報戦のスパイとされた在欧・在ソ知識人――国崎定洞から崎村茂樹まで」というものであった。佐藤優氏の報告とかみ合わせるため、1920〜30年代にドイツやアメリカ経由で旧ソ連に「亡命」し、スターリン粛清の犠牲となった日本人知識人についての報告を、イントロに用いた。元東京大学医学部助教授でベルリンからモスクワに「亡命」して1937年に粛清された国崎定洞を中心に、佐野碩土方与志小林陽之助らについては、すでにいくつかの書物で述べてきた★1)

 当時のソ連は、スターリンの独裁体制のもとで、一国社会主義建設を目指していた。ドイツのヒトラー政権成立で、ロシア革命に発する世界革命の波が最終的に去り、世界革命のために生まれた共産主義インターナショナル=コミンテルン(1919〜43年)は60以上の国に支部=共産党を持っていたが、それらは事実上「労働者の祖国」ソ連邦擁護のための在外機関に転化した。そこでは、ブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争はソ連国内にも「スパイ」として浸透し、常に社会主義政権打倒の脅威にさらされているという「敵の包囲」「社会主義内階級闘争」「人民の敵」の論理で、とりわけ外国からやってきた「インテリ」出身共産主義者は、ソ連国家と共産党への忠誠をたえず試された。

 スターリン時代のソ連の情報戦の特徴は、第一に、ソ連国家・党やコミンテルンの活動を通じて社会主義・共産主義のイデオロギーを世界に広め(ホワイト・プロパガンダ)、各国の労働者・農民はもとより、知識人・文化人・ジャーナリストを資本主義批判・ファシズム批判に導き、ソ連社会主義の支持者にすること、第二に、その一部をコミンテルン国際連絡部(オムス・OMS)やソ連の内務人民委員部(NKVD、KGBの前身)、赤軍第四部等の諜報活動に調達・動員し、各国政府中枢での情報収集や偽情報発信・攪乱(ブラック・プロパガンダ)、テロや拉致を含む秘密工作に従事させることだった。

 日本に即して言えば、モスクワ外国労働者出版所日本部長の国崎定洞や『太平洋労働者』編集人山本懸蔵らの活動は、国外からのホワイト・プロパガンダであり、リヒアルト・ゾルゲや尾崎秀実、アイノ・クーシネンらの活動は、日本内部でのブラックな情報戦であった。

 戦後日本共産党議長となる野坂参三は、その両面を併せ持っており、一方でアメリカ西海岸から『国際通信』等のホワイト・プロパガンダに従事しながら、他方で滞在地の「スパイ」摘発や諜報・秘密活動をも担っていた。だからこそ、粛清最盛期のソ連の雑誌で「外国に居住する日本人はみなスパイであり、また外国に居住するドイツ市民もみなゲシュタポの手先である」といった言説がまかり通っていた時代にも、ソ連国家の庇護の元に生き残り、戦後の国際共産主義運動指導者の一人、日本共産党の最高幹部になりえた★2)

 上海でリヒアルト・ゾルゲと尾崎秀実を引き合わせたアメリカ共産党日本人部出身の鬼頭銀一、30年代アメリカ西海岸で野坂参三の助手を務めたジョー小出こと鵜飼宣道も、こうした活動に加わった日本人知識人だった。ただし、共にキリスト教と白樺派風ヒューマニズムからアメリカ・デンバー大学に留学し、アメリカ共産党を通じて国際情報戦に組み込まれた鬼頭や鵜飼は、日本の社会運動史やメディア史には居場所がない。鬼頭銀一は、1938年南洋パラオのペリリュー島で謎の死を遂げた。鵜飼宣道は、戦時中は米国戦略情報局(OSS)のブラック・プロパガンダにもたずさわったが、戦後の自伝でも自らの最高機密活動を語ることはなかった★3)

 知識人・文化人、とりわけ外国で活動し「亡命」した人々は、各国情報機関にとって――ジャーナリストや商社マンと並んで――、ヒューミント活動の格好のターゲットだった。

 この観点から、本稿は、当日反響の大きかった報告の後半部、第二次世界大戦時の在独日本大使館嘱託、東大農学部講師の経済学者崎村茂樹のスウェーデン「亡命」について述べる。

 

2 戦時ヨーロッパにおける情報戦――崎村茂樹の場合

 

 崎村茂樹(1909〜82年)といっても、ピンとくるのは、私のホームページ「ネチズンカレッジ」の熱心な読者くらいだろう。事実、私自身も2006年夏まで、何も知らなかった。そこに、東西統一後の新生ドイツの象徴、ポツダム広場に建設されたソニービル内ベルリン・フィルムセンター(映画博物館)からの問い合わせが届いた。「崎村茂樹という第二次世界大戦時にベルリンにいた日本人を知りませんか」と★4)。インターネットで調べてもほとんど出てこない。アジア歴史資料センターにキーワードを入れても資料はない。ともかく「国際歴史探偵」のホームページに掲げ探求を始めた。「崎村茂樹を知りませんか」と。

 最初の反応は、ハワイからだった。英語版GoogleShigeki Sakimuraを検索すると、英文『タイム』誌1944年6月5日号に崎村茂樹についての記事が載っているという。『タイム』の記事は戦時中のものもインターネット上で読める。確かに「抵抗の方法」という奇妙な記事にぶつかった。

 『タイム』誌によると、(1)崎村茂樹は30歳で東大教授になるほどの優秀かつ努力家の、マルクス主義を学んだ経済学者だった、(2)ドイツの重要産業をくまなく調査しているうちに、ドイツ経済はナチスが言うほど、また日本が信じているほどには強くないと考えるようになった、(3)オランダ人女性と結婚、結婚生活は幸福であったが妻を親元に帰し、自分は1943年秋にスウェーデンに亡命、スウェーデン学者政治亡命委員会から援助を受けて生活し、敗戦後の日本経済について本を書こうとしていた、(4)これを英紙がすっぱ抜いた、日本とドイツの政府は彼の友人25人を人質として拘留、ストックホルムに10名の友人を送りドイツに帰国するよう説得させた、オランダの妻にも圧力をかけて脅し、日本人の役人4名がストックホルムに出かけ彼を拘束、先週ベルリンに連れ戻した、と★5)。東大教授の肩書きやオランダ人妻など事実関係の誤りが多く、無署名だが、センセーショナルなプロパガンダ記事である。

 やがて『ニューヨーク・タイムズ』1944年5月1日に、より正確な記事が見つかった。「日本人がベルリンの大使館から逃げ出した――産業分析専門家がスウェーデンに避難し連合国に支援を申し出た」というもので、1943年暮れにベルリンからストックホルムに入った在独日本大使館勤務の前東大講師崎村茂樹が、日本の右翼黒龍会とドイツのゲシュタポの弾圧を恐れて、ストックホルム大学講師トルステン・ゴルトルンドの庇護の元、スウェーデンに亡命してきた。ベルリン日本大使館の狂信的ヒットラー支持者大島浩大使の専横を嫌い、鉄鋼分析官としての学者の眼で独日枢軸の敗北を予測し英米連合軍に庇護を求めてきた、石炭産業がアキレス腱になって鉄鋼生産も軍需一辺倒になっていると戦時下のドイツ経済を冷静に分析し、「初めて連合軍に加わろうとした日本人」「枢軸国の敗北を初めて公言した日本人」として秘かにストックホルムの病院でインタビューに応じたが、日本側はベルリンに戻るよう強く働きかけている、という。当時の『ニューヨーク・タイムズ』敏腕記者でストックホルム特派員ジョージ・アクセルソン(George Axelsson)による署名インタビュー記事だった★6)

 崎村茂樹についての基礎的な調査では、『日本紳士録』の1964年版から没する82年版まで名前が出ており、1909年10月17日東京都生まれ、1932年東大農学部農業経済学科卒業、東大・上智大講師、拓殖大学教授・東京理科大学教授を歴任、八幡製鉄嘱託、崎村研究所代表取締役、等々の経歴がわかった。ただしその住所・電話番号には連絡がつかなかった。崎村茂樹の戦前・戦後の学術論文の多くは、ドイツ語を含め、入手することができた★7)

 その後、東京在住のご遺族と連絡がつき、崎村茂樹が日本に帰国したのは1955年4月、ドイツからではなく中国からで、それも1950年に毛沢東暗殺未遂事件に連座して検挙され5年間の軟禁生活を送った後の15年ぶりの帰国であった、と知らされた。

 第二次世界大戦中に同盟国ドイツの日本大使館に勤務しながら中立国スウェーデンに亡命し、1949年成立の中華人民共和国では毛沢東暗殺未遂事件に連座したという崎村茂樹とはいったい何者なのか。

 以下は、私を含む7人の「崎村茂樹探索ネットワーク」による調査の記録であり、第二次世界大戦時の情報戦に翻弄されたある日本人知識人の軌跡についての、私個人の責任での中間報告である。

 

3 崎村茂樹―――情報戦に翻弄された知識人の「亡命」

 

 崎村茂樹は、1941年2月渡独時は東大農学部講師、戦時中は在独日本大使館嘱託として日本鉄鋼統制会ベルリン事務所で鉄鋼産業分析に従事、1943〜44年にいったんスウェーデンに「亡命」して連合軍側と接触、しかしベルリンに連れ戻され、45年5月のベルリン陥落までドイツ滞在、といったところまでは、インターネット上の浩瀚な大堀聡「日瑞関係のページ」中の「ベルリン日本人会と欧州戦争★8)や関連する書物でわかった。

 調査の大きな転機になったのは、2006年8月末に崎村家ご遺族と連絡がつき、「崎村茂樹年譜」の提供を受けたことであった。ただし、ご遺族自身、1955年中国から帰国後は拓殖大学、東京理科大学で教授を勤めた崎村茂樹の、1941〜55年外国滞在期のことを、詳しくは知らなかった。私は、「日独同盟に風穴をあけた日本人」と題して崎村茂樹探求のホームページを和英両文で作り、さしあたりの調査目標を、次の6つの謎解きに絞りこんだ。

 謎(1)若き崎村茂樹は、リベラル左派だったのか、親ナチ右派だったのか? 

 謎(2) 崎村茂樹はなぜスウェーデンに「亡命」したのか? 

 謎(3)崎村茂樹「亡命」は連合軍との「和平工作」を意味するか? 

 謎(4)いったん「亡命」した崎村茂樹はなぜベルリンに戻り、ドイツ敗戦をいかに迎えたか?

 謎(5)1945年5月ドイツ敗戦で、崎村茂樹はなぜ日本に戻らず中国に向かったのか? 

 謎(6)1945年9月以降、崎村茂樹はなぜ中国に入り、何をしていたのか?  

 

(1) 若き崎村茂樹は、リベラル左派だったのか、親ナチ右派だったのか?

 

 ご遺族提供「崎村茂樹年譜」によると、崎村茂樹は、1909年に生まれ、1932年東京大学農学部農業経済学科卒、農学部から経済学部に移った荒木光太郎教授の助手をしていた。上智大学のヨハネス・クラウス神父、小林珍雄教授と親しく、非常勤講師を勤めていた。農業経済学者として中国大陸で農村・土地調査に加わり、他方で経済学部荒木教授の経済理論・貨幣論研究を手伝ってハイエクなどの理論研究もしていたという。1941年2月に東大農学部講師を休職、外務省嘱託としてドイツに渡るが、それまでの崎村茂樹の政治的・思想的立場がはっきりしない。ご遺族は、学生時代は剣道とボートに熱中し「ノンポリ」だったという。

 崎村茂樹が東大に在学した1928〜32年は、戦前日本マルクス主義の全盛時代だった。農業経済学でもその影響を受けたことは想像に難くない。中国での農村土地調査を踏まえた東大農学部助手時代の学問的処女作は、崎村茂樹・京野正樹・神谷慶治「農村人口移動の階級性とその社會經濟的諸要因 」(『農業經濟研究 』第13 巻第4號,1937年2月)で、そこには農民層分解分析など方法論上でのマルクス主義の影響が見られる。共同執筆者の神谷慶治は、戦後の東大農学部長である。

 崎村茂樹にドイツ語を教え、上智大学に非常勤講師として招いたというヨハネス・クラウス神父は、『カトリック大事典』全5巻監修者として三木清戸坂潤古在由重清水幾太郎らの戦時中の学問研究と生活を助け、丸山真男のドイツ語の先生としても知られる、反ナチスのカトリック・リベラル派だった。崎村茂樹のドイツ渡航にあたってのドイツ人人脈は、クラウス神父の紹介だったろう、とご遺族はいう。

 これらからは、マルクス主義の影響も受け、リベラルな思想を持つ、反ナチ・反軍部の崎村茂樹像がでてくる。崎村茂樹の主要な学問的業績はこの系譜で、東畑精一の名著『』(中央公論社、1940年)には、共著者とはうたっていないが、巻末「付録」の27頁分は崎村茂樹「北支の食糧問題」が収録されている。崎村家に残された数少ない在外時代の遺品の中に、1942年2月にベルリンから東大農業経済学科の那須皓東畑精一両教授に宛てて書いた手紙がある。それは、占領期に活躍した東大教授東畑精一が、崎村茂樹の消息を尋ねて崎村家に立ち寄った際、留守家族に託したものだったという。

 ところが崎村茂樹を助手に登用した恩師荒木光太郎教授は、その経歴を見ると、山田盛太郎らマルクス主義経済学者の治安維持法違反による辞職で農学部から経済学部に移り、当初近かった自由主義者河合栄治郎とも袂を分かって平賀粛学後も教授として生き残り、戦時東大経済学部のファッショ化を担った一人である。竹内洋『大学という病』(中央公論新社、2001年)や立花隆『天皇と東大』(文藝春秋社、2005年)でも右派の金融論・貨幣論学者として登場し、戦後は東大から追放された。その学識はGHQ/G2のウィロビーに見いだされ、GHQ/G2戦史室服部卓四郎有末精三ゴードン・プランゲらと一緒になる★9)戦史室に一緒に関わった荒木光太郎夫人光子は、三菱財閥経営者の娘で、戦前は各国大使館や上流階級のパーティで、戦後はウィロビーとの関係で、華やかな噂の絶えない社交的な女性だった。

 崎村茂樹も、恩師荒木光太郎の系譜で、ハイエクやナチス経済学の紹介にたずさわった。光子夫人の通訳兼助手として上流社会の集いにも出入りし、ドイツ大使館のオット大使夫妻やリヒアルト・ゾルゲとも知り合ったという。崎村茂樹の農学部講師就任、1941年2月ドイツ派遣自体、1938〜39年に日独交換教授としてベルリン日本研究所代表をつとめた荒木光太郎の推薦なしには考えられない★10)

 しかも、1941年日独学術交流会議日本代表としての渡独は、東大農学部講師の崎村茂樹と三高教授であった芳賀檀(はが・まゆみ)の二人で、共に外務省嘱託の辞令を得ていた。アメリカ、ポルトガル経由でドイツに同行した芳賀檀は、高田里恵子『文学部をめぐる病』(ちくま文庫、2006年)にも登場する親ナチ日本浪漫派のドイツ文学者である。二人は、もともと半年のヨーロッパ滞在予定で、1941年6月末には帰国の途につくはずだった。ところが6月22日に独ソ戦争が勃発して足止めをくい、そのまま長期のドイツ滞在になった。芳賀檀は1942年9月にバルカン経由で帰国するが、崎村茂樹は、その後15年間、日本に妻子を残して消息を絶つ。

 ドイツ連邦公文書館に残された独日協会関係資料でも、二人は1941年中はベルリンで同じ下宿に同居していた。41年3月の第3回日独学徒会議に崎村茂樹、芳賀檀と一緒に参加した桑木務の回想では、崎村は「満州国建設と五族共和」を報告したという★11)。41年4月9日には、芳賀檀と崎村茂樹が、ナチスに大きな影響を与えた地政学者カール・ハウスホーファーを訪問した記録もある★12)。これらからは、むしろ親ナチ右派の崎村茂樹イメージが出てくる。

 ただし、芳賀檀の帰国後、1942年からベルリンで一緒に住むのは、日本鉄鋼統制会ベルリン事務所長の島村哲夫であった。戦後1953年に八幡製鉄の常務取締役になった島村哲夫が、55年中国から帰国後の崎村茂樹にとって、公私ともに最も親しい兄貴分でスポンサーだった。この島村哲夫との関係では、どちらかといえば政治的にはノンポリで、鉄鋼経済の技術的アナリストとなる崎村茂樹像が浮かんでくる★13)

 

(2) 崎村茂樹はなぜスウェーデンに「亡命」したのか? 

 

 崎村茂樹は、1943年9月7日から44年5月23日までの約9か月間、在独日本大使館嘱託の業務を放棄し、スウェーデンに滞在した。それを「亡命」と報じたのは、『ニューヨーク・タイムズ』1944年5月1日付け記事「日本人が大使館から脱走」という戦時ストックホルム特派員George Axelsson記者による署名インタビュー記事と、英語版『タイム』誌1944年6月5日号抵抗の方法」という無署名記事だった。戦時アメリカ・マスコミによる日本報道で、これだけ大きく取り上げられた事件について、戦後の研究が全くないのは、不思議である。

事件には、ドイツとスウェーデンの日本大使館・公使館・領事館が関与し、ドイツやスウェーデン政府との外交問題にもなった。しかし、アメリカが傍受した「マジック文書」やスウェーデン国立公文書館の保安警察文書には「崎村茂樹亡命事件」が入っているのに、現存する日本側の公文書には崎村茂樹「亡命」についての記録はみつかっていない。当時の在独日本大使館関係者は戦後にいくつかの回想を残しているが、それらは1945年5〜6月ドイツ敗戦時の日本への帰国談が多く、崎村事件は出てこない。

 戦時ヨーロッパ情勢を日本に伝える使命を持つジャーナリストたちは、当時ベルリンにも中立国スウェーデンにも特派員が滞在していた。私たちが見つけた英語・独語・スウェーデン語の資料では、東京日日新聞のベルリン特派員加藤三之雄やストックホルム特派員向後英一、同盟通信ストックホルム特派員齋藤正躬らの名が、関係者として出てくる。しかし彼らは、当時も戦後の回想等でも、事件について触れることはなかった。どうやら戦時欧州の日本人ジャーナリストは、戦後に従軍取材の武勇伝を語ったり独日敗戦はわかっていたとしたり顔で述べる場合でも、結局は日本の情報戦の手駒であったらしい。あたかも箝口令が敷かれ、タブーになった如く、崎村茂樹については沈黙する。

 わずかに読売新聞ストックホルム・ベルリン特派員だった嬉野満洲雄の敗戦直後の記録『勝利を惧れる』(共立書房、1946年)のなかで、以下のように匿名で出てくるのが、事件を示唆する唯一のジャーナリストの記録である。

「私は1943年10月末、満2ヶ年振りでストックホルムから伯林に帰って行った。……ストックホルムに伯林から静養に来ていた日本の若き某助教授は、多少神経衰弱気味であったが一、二週間中に伯林に反戦運動が起りさうだから行くのは取り止めよと頻りに引き止めてくれた。好意は感謝したがその内容は信じられぬものがあった。この若き学徒は間もなく、ドイツの事情について語ったことがストックホルム発ロイターで報道されたため問題になり、日本側出先は『ゾルゲ事件の仇討をされる惧れがある』とて大いに狼狽、同君を伯林に呼び返して官庁の監視下においたが、ナチスの敗戦後、帰国を肯んぜず、輸送用トラックから姿を消した由である。★14

 しかし、アメリカの在欧情報機関は、崎村茂樹のケースを重視し追跡していた。この点で、20世紀メディア研究所の蓄積資産である山本武利編『第2次世界大戦期日本の諜報機関分析 』(柏書房、2000年)は、崎村茂樹情報の貴重な宝庫であった。

 同書第7巻『欧米編1』に収められた1944年6月1日の米国戦略情報局OSS「ヨーロッパにおける日本諜報機関と機関員リスト」では、その総論の中で、ヨーロッパにおける日本の諜報機関のヘッドをベルリン日本大使館の一等書記官内田藤雄と特定したうえ、その情報戦略が破綻しつつある第一の実例として「崎村教授のスウェーデン逃亡」を挙げた。

 総論の後に、各国別の概観と個人名が延々と出てくるが、この時点では崎村はスウェーデンにいるものとされ、ドイツ編ではなくスウェーデン編の方に出てくる。小野寺信陸軍武官は3行で済まされているが、崎村茂樹については岡本季正公使以上の長文の記述で、以下のようになっている。

「崎村教授 現在スウェーデンで、黒龍会とゲシュタポから逃げてきたと言っている。
連合軍に加わろうと企図した最初の日本人であり、独日枢軸は勝利できないと述べている。そのためストックホルムの日本公使館は、彼がベルリンに戻ろうとするよう圧力をかけた。給与は止められ、暴力の脅しが加えられた。彼は今スウェーデン学術機関にかくまわれてくらしている。1941〜43年に彼はベルリン日本大使館のスタッフの一員であった。彼は、表面上は戦後の日本貿易統計の算出を仕事とする日本鉄鋼統制会の指導的専門家である。崎村はドイツの日本大使大島浩を批判し、彼をヒトラーを愛する暴君と呼んでいる。★15)

 崎村茂樹がベルリンに強制送還された後、1944年9月17日の連合国軍情報部=G2の分析「ドイツ周辺における日本諜報機関」でも、やはり長文で、44年5月1日付『ニューヨーク・タイムズ』記事を用い、崎村を「反ナチ・親連合国」の日本人として扱う。崎村の詳しい履歴を調べたうえ、ドイツ入りが芳賀檀と共にシベリア鉄道ではなくアメリカ経由だったこと、彼の知識をドイツの敗戦に導くために英米に自由に提供したいと申し出たこと等を記している。

 作成者不明の米国国立公文書館(NARA)文書1944年12月1日現在「ヨーロッパ各地における日本諜報機関員リスト」では、ドイツ在住453人・全欧1051人の日本人が「諜報員」としてリストアップされている中で、崎村茂樹は唯一人「新聞報道によれば、連合軍支持を言明」と好意的に特記された。三井 ・三菱の商社員や千足高保ら学者も、1940年にユダヤ人6000人を助けた外交官杉原千畝もすべて「日本の諜報員」扱いの中で、唯一の例外であった★16)

 大きな謎は、崎村茂樹「亡命」の動機である。『ニューヨーク・タイムズ』で「初めて連合軍に加わろうとした日本人」「枢軸国の敗北を初めて公言した日本人」などと報道されたが、その記事内容は、ほとんどOSS報告書と同じである。

 ドイツ語で書かれた崎村茂樹の小冊子『 "Neuordnung der japanischen Wirtschaft"(日本経済の新編成)』(1942)、及びフランツ・モクラウアー(Franz Mockrauer、1889-1962)文書中の「ナチス・ドイツにおける青年の職業教育」(1944年頃?)は、ナチス礼賛ではなく、統計資料を用いた実証的な叙述で、どちらかといえばナチスに批判的にも読めるが、マルクス主義的とか親ソ連とかを感じさせる記述はない。

 当時のドイツでは、陸軍の大島浩大使と犬猿の仲だった海軍駐在武官小島秀雄や朝日新聞の笠信太郎と親しく、一緒に住んでいた日本鉄鋼統制会ベルリン事務所の島村哲夫とも独日伊枢軸が英米ソ連合国に勝てないだろうと日常的に話し合っていたという。ただしそれは、在独日本大使館内でも、ナチ狂信派の大島浩大使、内田藤雄牛場信彦らを除けば、在独日本人の中でひそかに話し合われていたことであった。

 日本大使館嘱託の崎村茂樹が、帰国後の東大教授のポストを棒に振ってまで「亡命」し、英米紙で枢軸国敗戦を公言した理由は、科学者の学問的信念のみとは考えにくい。

 当時のベルリン海軍武官事務所が、陸軍とは対立し、日独同盟の立役者でありながらナチスに追われたフリードリヒ・ハックと親しい小島秀雄酒井直衛を擁していたとはいえ、1943〜44年時点で連合国側(アレン・ダレスを長とするOSS欧州総局)との和平工作のため崎村をストックホルムに派遣し「亡命」させたとするのは、これまで出てきた資料からは無理がある。

 この点で、2007年1月に、本調査のもともとのきっかけを作ったベルリン・フィルムセンターの『カレーナ・ニーホッフ:伝記がドイツで刊行され、一つの仮説が提示された。そこでは、戦後西ドイツの著名な女流映画評論家・批評家であったカレーナ・ニーホッフ(Karena Niehoff,1920〜92)の軌跡を、ニーホッフ家の協力を得て映像ジャーナリスト・ベッカー氏が追いかけ、ニーホッフ家の遺品とドイツ連邦外務省史料館文書から、「戦時中、ユダヤ系ドイツ人で日本鉄鋼統制会助手であったカレーナ・ニーホッフをゲシュタポから救った日本人」として、崎村茂樹が描かれた。

 その要旨は、(1)1942年に、カレーナ・ニーホッフは、「ベルリンの反ナチス思想を持つ日本人のグループ」とコンタクトを持つ様になり、そこで崎村茂樹と知りあい、1942年夏以来日本鉄鋼統制会のベルリン支部に勤務し、彼の元で助手として働くようになった。(2)ユダヤ人である母と同居していた彼女は、1943年2月1日にユダヤ人用の食料配給券を偽造使用したとして逮捕され、2月5日には禁固6か月の判決を受けてベルリン・モアビート刑務所に監禁された。(3)そのさい、崎村茂樹は、彼女がいかに日本鉄鋼統制会の仕事に重要な役割を果たしているかを説明し即時釈放してくれるよう求める嘆願書を書き、ナチスの裁判所に陳情した。結局彼女は1943年7月21日に釈放された。(4)「半ユダヤ」のニーホッフが日本人のもとで働いていること、崎村が彼女を釈放するよう働きかけたことがゲシュタポの疑惑を呼び、彼女は他の仕事に携わるよう奨められたが、ニーホッフは続けて崎村のもとで働き、公的にはドイツ語を教え、崎村の講演原稿の語学面の校正などを行う仕事をした。(5)非公式には、崎村は匿名でドイツ語の書物を出版しようと計画していた。ナチズム前史の批判的調査としてドイツの戦争責任を問い、ベルリン・東京枢軸を疑問視する本を一緒に編集することが彼女の仕事だった。(6)1944年初めに崎村は何ものかに告発されてスウェーデンに逃れるが、6月に日本大使館から連れ戻される。崎村は「大逆罪」の汚名を着せられたが、その証拠となるはずの彼が出版を予定していた原稿は発見されなかった。ドイツ政府の要請によって、日本大使大島浩は崎村が日本大使館を去ってはならないと指示した。大島大使は、崎村を政治的尋問と保安警察によって容赦なく取り扱うべきだとし、1944年6月に大使は崎村の日本送還を考慮した、と解説されていた★17)。

 崎村茂樹訪独までの履歴は、フィルムセンターの問い合わせに答えたベルリン日独センターや私たち調査チームの2006年夏段階のデータが用いられていたが、崎村茂樹による勇気あるユダヤ人女性の釈放嘆願、それがゲシュタポに睨まれスウェーデンに亡命、大島浩大使による強制送還と厳罰・監視に帰結という筋書きは、日本側の調査では、崎村家のご遺族も含め、全く出てこなかったものだった。

 しかし、このベッカー氏の記述の根拠となったドイツ連邦外交史料館資料を成城大学田嶋信雄教授が訪独して精査し、2007年夏に現地でニーホッフ家ご遺族から聞き取りしてみると、この「崎村茂樹のユダヤ人救済」物語には、誇張が含まれていることがわかった。(1)の「ベルリンの反ナチス思想を持つ日本人のグループ」は、実在しなかった。崎村茂樹の言動は、日独経済を連合国と比較し、枢軸国の敗戦を予見し時に公言するものの、あくまで個人的な学問研究の結果であった。カレーナ・ニーホッフは、崎村茂樹のドイツ語個人教師から鉄鋼統制会で働くようになったという。(2)(3)の「半ユダヤ人」カレーナ・ニーホッフの検挙と崎村茂樹の釈放嘆願書は実在した。したがって、当時のナチスのホロコースト局面では、ドイツ側から見ればきわめて勇気ある反ナチの行動だった。ニーホッフ家ご遺族、ニーホッフ伝著者ベッカー氏を含めての懇談で、ニーホッフ家所蔵の1943年3月20日、4月2日の嘆願書写しから、裏付けがとれた★18)

 ただし、スウェーデン現地調査で発掘した警察資料「崎村茂樹ファイル」と照らし合わせると、このニーホッフ逮捕・釈放嘆願事件が崎村茂樹の「亡命」の直接の原因とするには無理があった。むしろ当時の、ユダヤ人問題に対するドイツ人と日本人の捉え方の違いが反映していたとも考えられる★19)

 1943年7月2日のカレーナ釈放から9月7日の崎村茂樹ストックホルム訪問までの間に、二人が再会する機会はあっただろうが、それが崎村の「亡命」につながった、ましてや「ドイツの戦争責任を問い、ベルリン・東京枢軸を疑問視する本を一緒に編集する」具体的計画があったという裏付けはなかった。崎村茂樹が1944年5月23日ベルリンへの強制送還後、カレーナ・ニーホッフと再会した可能性は低い。

1955年に日本に帰還し、拓殖大学経済学部教授であった1960年頃、崎村茂樹は(西)ドイツを再訪する。しかしその頃、西独映画評論のスターになっていたカレーナに会おうとした形跡はない。崎村家に残された住所録によると、別の何人かのドイツ人とは会っていた。そこには、ドイツの占領下パリから日本舞踊公演でベルリンに入り、音楽家近衛秀麿邸で1943年崎村茂樹に会い、 崎村のストックホルム「亡命」の話を記録に残した日本舞踊家中村万作(本名原田弘夫)の崎村回想中に登場する「フラウ・クッツナー」らしいアドレスも入っていた★20)

 

(3) 崎村茂樹「亡命」は連合軍との「和平工作」を意味するか? 

 

 今日では、1945年に入って顕在化する、連合国とのさまざまな和平工作が知られている。

 (1)「バッケ工作」=東京での駐日スウェーデン公使バッケと朝日新聞鈴木文志朗のルート、(2)「小野寺工作」=ストックホルム陸軍武官小野寺信少将とスウェーデン王室プリンス・カール、OSSのエリック・エリクソンのルート、(3)「藤村工作」=スイス・ベルンでの海軍武官藤村義朗中佐、朝日新聞笠信太郎らとフリードリヒ・ハックを介したOSS欧州局長アレン・ダレス、日本担当ポール・ブルムらのルート、(4)「ヤコブソン工作」=それとは別個の、チューリヒでの陸軍武官岡本清福、国際決済銀行理事北村孝治郎、吉村侃らと国際決済銀行ヤコブソンを介したアレン・ダレスへのルート、(5)「バチカン工作」=バチカンでの富沢孝彦神父を介した原田健公使、金山政英書記官とOSSマーチン・キグリーのルート、等々である。

 しかし、これらのいわゆる「終戦和平工作」に、崎村茂樹が関わった、もしくは崎村「亡命」事件が影を落とした形跡は認められない。

 むしろ、時期的には、1944年7月20日のドイツ国内での反ヒトラー派によるヒトラー暗殺未遂事件(ヴァルキューレ作戦)に近いことが気にかかる。ヒトラー暗殺未遂事件は、ドイツ国防軍、外務省、財界、ベルリン大学教授、社会民主主義者を含む幅広い反ヒトラー・グループを背景に持ち、多くの研究があるが、日本人の関与は知られていない★21)

 しかし、日独関係に関わるドイツ人は、何人かが関与していた。ベルリン大学「水曜会」グループの一員で、1936〜37年日独交換教授として来日し東京大学等で教えたエドゥワルド・シュプランガー教授は、日独協会の荒木教授やクラウス神父を介して、崎村茂樹も日本滞在時代から知っていた可能性がある。地政学のハウスホーファー教授の息子アルブレヒト・ハウスホーファーも、1937年にリッペンドロップ外相事務所の仕事で来日し、戦争中に父とも対立してヒトラー暗殺事件に加わり検挙・処刑された。ドイツ国防軍諜報部(Abwehr)のカナリス将軍は、ヨーロッパの日本軍情報将校のほとんどとつながっており、米国OSS欧州総局長アレン・ダレスとも秘かに連絡を取って、ヒトラー暗殺未遂の黒幕となった。

 ベルリンの崎村茂樹は、島村哲夫と共に、軍需産業と関わる鉄鋼統制会の仕事をしていた。そのドイツ側窓口のクルップ社など財界(シャハト)やシュペアーのドイツ軍需省にも、反ヒトラー派は伏在した。もしも崎村茂樹のストックホルム「亡命」が組織的・計画的なものであれば、それは、日本外務省や軍部の反ナチ派よりも、ドイツの国防軍、軍需省、鉄鋼産業、知日派知識人とのつながりであった可能性がある。

 ストックホルムで崎村茂樹が頼ったのは、反ナチ知識人亡命を援助してきたストックホルム大学講師のトルステン・ゴルトルンド(戦後ストックホルム経済大学教授で、経済学のいわゆるスウェーデン学派の重鎮)であった。当時ストックホルムで海外ドイツ社会民主党員の反ファッショ運動組織化にあたっていたフランツ・モクラウアーとも連絡した形跡がある。

 しかし、崎村の「亡命」が組織的なものであったことを示す資料はなく、全くの個人的行動であった場合、その動機は依然として不透明になる。当時ヨーロッパから日本に帰国するルートは、空も海も陸も、すでに閉ざされていた。

 この点で、2007年夏に見つかったスウェーデン国立公文書館所蔵のストックホルム保安警察による1943〜44年崎村茂樹の監視・訊問記録「崎村茂樹ファイル」(スウェーデン語)は、崎村茂樹による「亡命」の発意よりも、米英連合国側による情報戦の崎村茂樹への工作・利用を示唆するものだった★22)。 

 崎村茂樹の中立国スウェーデン入国は、1943年9月7日だった。計画的「亡命」ではなく、当初はベルリン鉄鋼統制会の公務出張で入ったらしく、日本大使館発行のパスポートを持ち、公使館の接待を受けていた。偶発的な足の怪我で入院した病院で、当時ストックホルム大学講師、スウェーデン社会民主党思想誌Tiden編集長だったトルステン・ゴルトルンド(Torsten Gardlund,1911〜2003)と知り合い、ゴルトルンドが率いていた反ナチ知識人亡命者支援組織に組み込まれ援助された。1943年12月初めからスウェーデン日本公使館にパスポートを取り上げられた状態のまま、「亡命」生活に入った。44年1月には日本外務省嘱託を解任された。

戦火を離れ、森と湖に囲まれたストックホルムで、崎村茂樹は、同年輩の経済学者ゴルトルンドや、先にドイツから亡命していたSPD(ドイツ社会民主党)在外ネットワーク組織者であるユダヤ系教育学者フランツ・モクラウアーらの庇護のもと、カレーナ・ニーホッフの協力で1942年に刊行したドイツ語著作『日本経済の新編成』に続く、2冊の本『日本の農業経済』『日本経済史』執筆を準備していた。ストックホルムの日本公使館は、崎村を黙認ないし居所をつかんでいなかった形跡がある。

 ところが1944年4月末に、崎村茂樹は、戦時ヨーロッパの情報戦に巻き込まれる。これまでの調査で見つけた『ニューヨーク・タイムズ』1944年5月1日付け記事「日本人が大使館から脱走」英語版『タイム』誌1944年6月5日号抵抗の方法」ばかりではなく、スウェーデン語でも夕刊紙『AT』1944年5月3日、週刊グラフ紙『SE』1944年6月8〜15日号で報じられ、スウェーデン社会民主党系の新聞『MT』1944年8月11日では、「戦争に反対して政治的亡命を試みたが強制送還された日本人崎村茂樹」と写真入りで大きく報じられていた。ただし、政治的には、戦時の大衆的情報宣伝メディア、ラジオが重要な役割を果たしていた。

 1944年4月28日、ゴルトルンドのネットワークの紹介でスウェーデンの労働市場調査を生活の糧にしていた崎村茂樹のもとに、ゴルトルンドの紹介状を持って、連合国側有力保守紙、イギリスの『デイリー・メール』記者と名乗る人物(たぶん『ニューヨーク・タイムズ』ストックホルム特派員でもあるGeorge Axelsson記者)が、枢軸国ドイツ、日本の事情を論説として執筆してほしい、と現れた。「亡命」中とはいえ、平穏な学究生活を望む崎村茂樹は、借金の保証人で庇護者であるゴルトルンドの紹介であったため面談には応じたものの、反ナチ論文の執筆依頼は断った。ところが、その面談と周辺取材から、記者は勝手に崎村茂樹についての記事を作り上げ、『デイリー・メール』『ニューヨーク・タイムズ』ほかに発表した。それがロイター電で流され、ラジオでも放送されたため、ナチスのドイツ通信(DNB)が傍受し、スウェーデン政府と在独日本大使館に問い合わせた。

同じ頃、イギリスの新聞が一番早く届くリスボンの在ポルトガル陸軍武官室(三島美幸大佐)は、ベルリン(小松光彦)とストックホルム(小野寺信)の武官室に電報を送り、在独日本大使館では大騒ぎになった。インターネット上の大堀聡「日瑞関係のページ」中の「ベルリン日本人会と欧州戦争」に紹介されているが、日本の戦時暗号電報を解読したアメリカの「マジック文書」によれば、リスボン陸軍武官室は1944年5月2日にベルリンの武官室に「英国紙によるとドイツの鉄鋼統制官崎村は、ストックホルムで敵に走った。関係する書類に対して、早急で徹底した対応をとられたし」と打電した。大島駐独大使は、ドイツの秘密警察ゲシュタポに対し、崎村のベルリンへの連れ戻しを依頼した。そのさい「崎村は共産主義者とは接触していない」とも述べていた。早速効果が現れた。5月24日に、今度はスウェーデンの駐在陸軍武官(小野寺信)が、ポルトガルの三島美幸に向けて「崎村とゲシュタポと(日本)外務省の間で合意に達した。崎村の過去は問わず、再び鉄鋼統制官に戻ることとなった。5月23日にベルリンに戻った。崎村の性格からしてそちらからもかれを励ます手紙を書くことは良い考えでしょう」と打電していた。ベルリン鉄鋼統制会の島村哲夫とリスボン陸軍武官室の三島美幸は、きわめて親しい友人であった。

 崎村茂樹の「亡命」シナリオは、どうやらスウェーデンで反ナチ活動を組織していたゴルトルンド博士、ないしはその背後にある大きな力によって描かれ、1944年5〜8月の国際情報戦の一焦点になったようである。

 

(4)いったん「亡命」した崎村茂樹はなぜベルリンに戻り、ドイツ敗戦をいかに迎えたか? 

 

 ご遺族によると、1944年5〜6月のスウェーデンでの「亡命」騒動を、1955年に中国から帰国後の崎村茂樹は「記者にだまされた」と言ったことがあるという。たしかに当時のドイツ国内でも、5月5日ストックホルム発電として、崎村茂樹は、ストックホルムの同盟通信記者、日本公使館員立ち会いのもとで、ドイツ通信(DNB)記者に対し「自分の個人的仕事が政治的に利用された、自分は政治活動は一切しておらず、ここで研究を続けたい」と否定的談話を述べ、「ロイターの詐術が暴かれた――崎村教授は反枢軸に転向していない」というかなり大きなドイツ語新聞記事も発表された★23)。もっともスウェーデン夕刊紙『AT』1944年5月3日によると、ここでドイツ通信の記者会見に立ち会ったと思われるストックホルム日本公使館の土屋準書記官は「日本人が亡命することなどありえない」、同盟通信齋藤正躬記者は「研究をしすぎて頭がおかしくなったのではないか」と現地新聞にコメントしていた。連合国のプロパガンダに対する、枢軸国側の逆宣伝である。

 「亡命」=国籍喪失まで決意した崎村茂樹が、なぜベルリンに戻ることになったのか。その理由と思われるものは、早稲田大学山本武利教授から提供を受けた、米国OSSの後身SSUの「小野寺信ファイル」中にあった。「小野寺信ファイル」中の「スウェーデンにおける日本人の諜報活動」という1945年1月30日付文書には、以下のようにある。

「崎村茂樹(博士) 日本国籍、1904年[実は1909年]10月17日生まれ。住所:Korsbarsvagen 6, Stockholm, Sweden. ベルリン日本大使館経済部雇員。1944年1月スウェーデンに脱走し、政治的亡命者になろうとした。彼がおとなしくしなければ友人・親族が消されるだろうとベルリンに戻ることを説得され、徳永太郎と佐藤彰三が同行して、1944年6月ベルリンへ戻る。彼が連合軍に身を委ねることは、拒否された★24。」

 生年、脱走・復帰月が事実と異なるが、「おとなしくしなければ友人・親族が消される」と脅されてベルリンに連れ戻されたのは事実だろう。ベルリンに戻った後の『タイム』誌6月5日号が、25人のベルリンの友人が人質にとられ、10人が崎村説得に派遣されたとセンセーショナルに書いたのは、それを誇張したものだろう。

 そこには「徳永太郎と佐藤彰三が同行」とあった。外務省の「徳永太郎」については、大堀聡「日瑞関係のページ」に、夫人からの聞き取りにもとづく詳しい記録がある。朝日新聞の反ナチ派ジャーナリスト笠信太郎と親しいリベラルな若い外交官(戦後チェコスロヴァキア大使)で、ナチスに同調しないために大島大使に疎まれ、大使館ではなく、当時在独日本人の世話をする領事館の仕事をしていた★25)。領事館員としての崎村の監督責任はあったが、崎村を脅迫して連れ戻す役回りにはふさわしくない。

 もう一人の「佐藤彰三」こそが、おそらくこの問題の日本側責任者であったろう。インターネットで検索すると、神奈川県特高課長、群馬県警察部長を経て渡独前に忠君愛国の著書を数冊出し、ベルリンの内務省公館に派遣された警察官僚・特高外事警察官であった。そこで佐藤に「友人や家族を消す」と脅されて、崎村は、やむなくベルリンに戻ることを了承した。スウェーデン語の週刊グラフ紙『SE』1944年6月8〜15日号では、崎村が途中で逃げたりしないように、3人の日本人が崎村を囲んで護送する模様が写真入りで出ている。

 ところがベルリンに戻った崎村茂樹は、拷問されたり懲罰を受けたり監禁された形跡はない。そればかりか、ここで名を挙げられた徳永太郎も佐藤彰三も、大島浩大使も小島秀雄海軍武官も、崎村と同居し一緒に鉄鋼統制会を動かした島村哲夫や大原久之浅井一彦荒谷正雄らも、外交官・ジャーナリストや学生として事件を知っていたはずの新関欽哉邦正美江尻進笠信太郎桑木務守山義雄齋藤正躬篠原正瑛千足高保らの回想でも、いっさい「崎村茂樹亡命事件」はでてこない。ストックホルムの小野寺信の記録にも「崎村亡命事件」はない。戦時在独日本大使館の恥ずべきスキャンダルとして、将来に渡る箝口令がしかれた如くである。

 1955年崎村茂樹の帰国後も同様で、家族にもスウェーデン亡命についてはほとんど語らず、ご子息が島村哲夫や小島秀雄と会って聞いた際も、答えてくれなかったという。

 この点も、2007年夏のスウェーデン、ドイツにおける現地調査で、大筋が見えてきた。ドイツ連邦外務省史料中の日本大使館河原峻一郎参事官の1944年9月1日付ドイツ側への説明文書によると、崎村茂樹の身柄はドイツ側ではなく日本側でひきとり、監視することにした。在独日本大使大島浩は「大逆罪に値する」と怒り、崎村茂樹に(1)ベルリンを離れない、(2)旅行の禁止、(3)外国人との接触・文通禁止、等の条件を付して、44年5月からベルリン郊外のBernau-Eichwerder, Fritz Reuterstrasse 7, bei Frau Pohl に「保護監禁」しているように読める。

 ところが、戦災にあわなかった上記住所には、今日でもPohl家の子孫が在住していた。詳しく聞き取りすると、崎村茂樹は、確かに同家の屋根裏部屋に1944年6月頃から45年2月に姿を消すまで住んでいたが、日本大使館員やゲシュタポ要員が同居し監視したわけではなく、監視に訪れることもなく、大家族のポール家の人々と平穏に暮らしたという。日本語で書き物をしていることが多く、Sバーン(郊外鉄道)で1時間足らずのベルリン中心部にも自由に出かけていたという。つまり、ゲシュタポに追われるユダヤ人カレーナ・ニーホッフとの再会は難しいにしても、鉄鋼統制会の島村哲夫や大使館関係者とは自由に会える環境にあった。ポール家には戦後も長く崎村の残した日本語の原稿があり、ドイツ語がうまくユーモアも解する同盟国の良き下宿人として語り継がれていた。

 当時、やはり日本大使館から疎外され舞踊公演もできなくなって疎開していた日本舞踊家の原田弘夫(中村万作)の21世紀に入っての回想では、地名は「コールベルグ」と異なるが、「崎村は暇をもて余していた。連合国側に寝返り、日本大使館に睨まれている人間に、日本人会のメンバーは近寄ろうとはしなかった。原田は日本大使館を敵に回しても一切気にしていないから、崎村とはつきあった」とこの期の崎村の「唯一の友人」だったと語り、「マルクス経済学を学び、平和主義者を自認する崎村茂樹」から『資本論』の手ほどきを受けたと証言している。ただし、そこにある「フラウ・クッツナー」というドイツ人女性と同居していたという話は、「だれもたずねてこなかった」というポール家の証言とは異なり、真相は藪の中である★26)

 どうやら日本大使館は、「ゾルゲ事件の報復」を懼れたかどうかはともかく、ドイツ側には崎村茂樹を厳しく罰し監視するように報告しながら、実際は郊外の小さな村に追いやって「厄介払い」していたようである。連合国軍のノルマンディ上陸、パリ解放の時期である。

 

(5)1945年5月ドイツ敗戦で、崎村茂樹はなぜ日本に戻らず中国に向かったのか?

 

 1945年4月30日のヒトラーの自殺でドイツは無条件降伏し、在欧日本人はベルリンに集められ、日本にとっては中立国であるソ連経由シベリア鉄道で満州国に入り、日本に帰国することになった。ところが、外務省外交史料館の在独日本人引揚関係文書によると、マールスドルフに避難していた邦人182名は貨物自動車12台に分乗して5月18日、ソ連軍命令で急遽ベルリンに出発、同夜は「リヒテンベルグ停車場付近の民家に泊」したが、「崎村茂樹は『マ』出発の際に居りたるも出発の瞬間に姿を闇ましたるもののごとく、伯林にて黙呼の際に不在なる事を発見せり」とある★27崎村茂樹の登場する、数少ない日本語公文書である。

 つまり、ドイツが敗北して日本の降伏もほぼ間違いなく予測できるようになって、そのことを1年前に『ニューヨーク・タイムズ』『タイム』で予見したことを誇って良いはずの崎村茂樹が、ソ連のドイツ占領下で日本人がまとまって帰国できることになったその時に、突然ベルリンから消えて行方不明になるという。確かに日本はまだ戦争を続けているから、帰国すれば前年のスウェーデン亡命という「売国」行為が罰せられる懼れはあった。突然の行方不明を、日本で帰国を待ちわびた家族は、在欧日本人一行が6月末に帰国して初めて知った。左翼的経歴からソ連に入ったのだろうという噂もあった。

 ところが崎村家に残された「年譜」によると、崎村茂樹は日本敗戦後、1945年9月には、中国の旧満州国長春に入っている。ドイツ敗戦から日本のポツダム宣言受諾までの時期、一人の日本人知識人が、誰の案内もなしでベルリンから中国に入ることは果たして可能だっただろうか。それは、帰国後の弾圧を懼れた突発的逃亡だったのか、それとも何らかの計画的行動だったのか。そのさい崎村が頼ったのは、ベルリンを占領したソ連軍だったか、クラウス神父以来のバチカン・カトリック人脈か、それともストックホルムで接触した英米軍ないしOSSなど情報機関だったのか。その後の10年間の中国生活を考えると、米国情報機関が何らかの役割を果たした可能性が強いが、そうしたことは1955年日本帰国後も、崎村茂樹は家族にも一切明かさなかった。

 ただし、ベルリンでの逃亡・行方不明説は、外務省引揚文書や嬉野満洲雄の戦後の示唆であり、実は他の日本人と共にシベリア鉄道経由モスクワから満州に入り、そのまま日本に戻らず長春で8月の日本敗戦を迎えた可能性も否定できない。実際、シベリア鉄道経由で満州に入った在欧日本人のうち79人は満州に留まり、空襲の続く日本に戻らなかった★28)

 この点では、21世紀に入って、養道希彦『薔薇色のイストワール』中の原田弘夫回想が現れた。音楽家近衛秀麿の愛人だった澤蘭子と近衛の娘あき子と共に満州に向かった原田は、少なくともモスクワまでは崎村茂樹と一緒にシベリア鉄道に乗り、しかも崎村は、モスクワまでドイツ人女性「フラウ・クッツナー」を同道したという★29)。この点はなお、藪の中である。

 

(6)1945年9月以降、崎村茂樹はなぜ中国に入り、何をしていたのか? 

 

 崎村家に残された「年譜」によれば、崎村茂樹は、1945年9月には中国国民政府蒋介石政権下の中国紅十字会日本人引揚に重要な役割を果たした)長春分会勤務、46年6月から在長春アメリカ領事館翻訳員になる。48年には北京に移ってアメリカ領事館の勤務員になり、アメリカ領事館は49年9月の共産党毛沢東の新中国発足にあたって蒋介石国民党と共に台湾に移るが、崎村茂樹はなぜかそのまま北京に留まる。

 しかも、ご遺族に残された資料と証言では、1950年8月、毛沢東暗殺未遂事件に連座した廉で逮捕され、55年釈放まで5年間、新中国で監禁生活を強いられた。1955年4月に日本に帰国するまで、崎村は都合10年、中国に滞在したことになる。これも、謎だらけである。

  まずは当初の国民党政権、ついでアメリカ領事館長春・北京での仕事。かつて農村調査をして中国語もできたので(ご遺族によれば、戦前つきあいのあった中国人が手引きしたらしいという)、経済学者としての情報分析・翻訳にあたったのは事実だろうが、それは公式のアメリカ領事館勤務員としての仕事だったのだろうか。それならなぜ日本の留守宅に連絡しなかったのか、なぜ台湾に移らなかったのか。

 ご家族が崎村茂樹の中国での生存を確認するのは、1950年夏毛沢東暗殺未遂事件の1年後、1951年8月に事件が新華社電、北京放送で報じられ、51年8月21日の毎日新聞で、崎村茂樹が関係者として報じられた時だった。ベルリン時代の親友島村哲夫(戦後八幡製鉄常務)だけは、ベルリン逃亡時から中国に入ると聞いていたらしく、戦後にご家族に中国で生きているのではと示唆したが、ご家族がそれを確認できたのは、毎日新聞記事に「崎村某」が山口隆一以下毛沢東暗殺未遂事件の実行犯グループと一緒に逮捕されたらしいと報じられた後だったという。

 しかも、崎村茂樹の名が出るのは、1951年8月21日の毎日新聞記事で「世界民主研究所理事 草野文男」という、後に矢部貞治総長のもとで1956年4月から拓殖大学で崎村茂樹の同僚となる「中国通」の談話中のみである。当時の英文『タイム』誌1951年5月27日「Old Hands, Beware!」という記事、朝日新聞、日経新聞等の新華社電報道では、日本人名は死刑になる山口隆一以外はでてこない。

さらにいえば、「崎村某(元アメリカ総領事館嘱託で昨年8月逮捕)」も毛沢東暗殺グループとしてつかまったのではないか、と出てくるのは、毎日新聞8月21日の早版記事だけである。この毎日新聞早版記事は、暗殺グループの背後に米国情報機関があるという中国側発表を否定していなかったためか、朝鮮戦争のさなか、占領軍GHQに検閲された。「崎村某」についての説明は毎日新聞同日の遅版では消え、名前だけが出て、代わりに「事実無根の話だ」という「元米北京駐在武官談」と差し替えられている。崎村家に長く保存されていたのは、この遅版の「元アメリカ総領事館嘱託で昨年8月逮捕」が消えた、「崎村某」の名前だけの切り抜き記事だった。

 毛沢東の新中国政府は、1950年国慶節の天安門広場爆撃を狙ったという毛沢東暗殺未遂事件を、アメリカのCIA(OSSの後継機関)が計画し、当時の在北京日本人、イタリア人、ドイツ人ら7人のグループの、カトリック教会・バチカン人脈を隠れ蓑にした共産中国転覆陰謀として大々的に報道し、2人を死刑、5人を懲役刑に付した。新中国最初の外国人への死刑で、その裁判記録(判決文も、今日では公表されている。ただし、その7人の被告のなかには、崎村茂樹は含まれていない。いいかえれば、「毛沢東暗殺未遂事件」と崎村茂樹を結びつけたのは、毎日新聞1951年8月21日に「中国通」として談話を発表した世界民主研究所理事草野文男のみで、帰国後の崎村茂樹は、その草野と拓殖大学の同僚になる。草野は、おそらく別ルートで崎村茂樹と山口隆一を結びつける何らかの情報を得ていたのだろう★30)

 日本人山口隆一とイタリア人アントニオ・リーヴァが死刑になった毛沢東暗殺未遂事件についての日本語情報は、2004年7月の共同通信時事通信読売新聞報道まで繰り返し報じられ、黒井文太郎謀略の昭和裏面史(宝島社文庫、2007年)にも出てくる。しかし、崎村茂樹の名は、1951年草野文男談話以降は現れず、問題を本格的に追究した学術研究もない。

 ただし中国では、実行犯として死刑にされた山口隆一や計画立案者とされる日高富明中島辰次郎らをも扱った新しい書物、朱振才建国初期北京反間諜大案紀実』が2006年 に刊行され、膨大なウェブサイトで取り上げられている。山口隆一のスポンサーとして渋沢敬三、逮捕・処刑の糸口を作った日本人として吉澤国雄医師らの名も登場した。この本では、1950年夏の北京で、「毛沢東暗殺未遂事件」とは別に「崎村茂樹経済間諜事件」があったとしている。第5章で「毛沢暗殺未遂事件」について詳しくのべたうえで、「付録」中に「崎村茂樹経済間諜事件」についての以下の記述があり、両事件は、当時の中国北京公安局により別個の事件として扱われていたことがわかった。

「1950年8月8日に解決した『崎村茂樹』事件は、もっぱら中国経済情報を収集した重大な間諜事件である。日本人の崎村茂樹はアメリカ国務省情報部門の間諜だった。1948年2月、彼は駐北京アメリカ領事館の通訳となり、経済情報の研究を行った。北京解放後、彼は相変わらずアメリカの間諜となって、北京の公安機関がスパイ粛清、反革命活動の取り締まり、混乱状態の秩序の建て直しに忙しい隙間を狙って、中国人を装ってもう1人のアメリカ間諜の三沢赳と一緒に毎日東単や王府井の商店に行って市場調査を行い、下着、靴下、歯磨き、コーヒー、牛乳、お茶および闇市の黄金、銀貨、ドルなどの情報を集めて、電報で定期的にアメリカ国務省に送った。1949年4月から5月にかけて、二人は中国では銅線、変圧器、磁石、X線管など電気製品の部品を製造できないという情報をアメリカ国務省に報告したが、これは同年7月アメリカ政府が中国に対して経済封鎖を行う根拠の一つになった★31」(許寿童訳)。

 ここに出てくる共犯者「三沢赳」とは何者か、謎はいっそう深まった。崎村茂樹の中国での活動については、私たちの調査チームの成城大学田嶋信雄教授が、米国国立公文書館で資料を収集し、詳しく研究中である。

 

4 おわりに――1955年帰国後の崎村茂樹

 

 中国からの帰国後に、崎村茂樹が真っ先に連絡し公私共に援助を受けたのは、かつて日本鉄鋼統制会ベルリン事務所長で、戦後は八幡製鉄の常務になっていた島村哲夫であった。上智大学のクラウス神父は1946年に亡くなっていたが、その弟子小林珍雄の助けで講師になる。恩師の荒木光太郎教授は1951年に没したが、光子夫人とは旧交を取り戻した。

 1956年4月には、前年就任した矢部貞治総長に、高橋亀吉らと共に招かれ、拓殖大学経済学部の教授になる。奇妙なことに、51年8月21日の毎日新聞で崎村茂樹を毛沢東暗殺未遂事件の関係者として名指しした草野文男も、崎村と同時に拓殖大学経済学部教授・海外事情研究所長になる。その経緯は、『拓殖大学創立80年史』と『矢部貞治日記』から読み取ることができるが、ここでは省略する。

 矢部貞治総長と事務長格の草野文男は、崎村茂樹に中国社会主義経済分析や国際政治経済事情の研究を期待したようだが、崎村茂樹は、八幡製鉄の島村哲夫と組んで、特許や工業所有権の研究に入る。やがて矢部総長と対立し、東京理科大学へと転勤する。1982年に亡くなるまで、ドイツ体験も中国体験も語らず、日記や自伝のかたちで書き残すこともなかった。崎村茂樹自身ばかりか、生涯の親友で帰国後のの生活再建をも助けた八幡製鉄の島村哲夫も、 1944年の崎村亡命事件を直接扱ったはずの小野寺信、三島美幸、徳永太郎、佐藤彰三らも、まるで箝口令がしかれたかのように、崎村茂樹のドイツと中国時代に触れることはなかった。

 この問題については、崎村家のご遺族自身が、亡父の過去の真実について、正面から向き合おうとしている。読者の皆さんからの、さらなる情報提供を期待する。

 


<注>

1) 加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』青木書店、1994年、川上武・加藤哲郎『人間 国崎定洞』勁草書房、1995年、加藤『国境を越えるユートピア』平凡社ライブラリー、2002年、加藤『情報戦と現代史』花伝社、2007年、など。

2) 和田春樹『歴史としての野坂参三』平凡社、1995年。加藤『情報戦と現代史』第一・第二部。

3) 加藤『情報戦と現代史』第二部、参照。

4) 本調査は、2006年6月、もともとドイツの映画博物館であるベルリン・フィルムセンターから、ドイツ語圏での日本情報提供の窓口ベルリン日独センターほか日本の研究者に対して、戦後西独の著名な女流映画批評家であったカレーナ・ニーホッフ(Karena Niehoff 1920〜92)の第二次世界大戦期資料中に出てくる日本人名「Shigeki Sakimura」についての問い合わせがあって始まった。ベルリン日独センターは、所蔵資料では生年及び著作の一部以外は回答できず、日独関係の研究者に調査を依頼した。フィルムセンター及び日独センターの問い合わせを受けた日独在住の7人で、電子メールを通じた調査チームを作り、探索を続けてきたものである。7人とは、一橋大学大学院社会学研究科教授の私加藤哲郎(政治学)のほか、東京大学大学院経済学研究科教授石見徹(国際経済)、成城大学法学部教授田嶋信雄(国際政治史)、在野の大庭定男(東京、元三井物産ドイツ)、宮井光平(大阪、元関西電力)、大堀聡(デュッセルドルフ、日本企業勤務)、それにベルリン日独センター・ドキュメンテーション部長桑原節子である。調査にあたっては、ご遺族崎村家の協力が大きな力となった。ただし本稿は、「崎村茂樹ネットワーク」の探求記録を、加藤哲郎個人の責任でまとめた中間報告である。

5) ‘Foreign News: Way of a Rebel’,"Time", June 5 1944.

6) George Axelsson ,‘Japanese Deserts Embassy in Berlin: Industrial Experts Takes Refuge in Sweden to Offer His Assistance to Allies’, “New York Times”, May 1 1944. George Axelsson 記者については、Laurel Leff, Buried by the Times : The Holocaust and America's Most Important Newspaper, Cambridge UP, 2005.

7) 崎村茂樹の著作論文は、以下の通り。

ハイエ−クの景気理論と利子説――最近の新学説(1)(2)(3)」(『ダイヤモンド』VoL.25No.11,1937-4-11日号、Vol.25No.12,1937-4-21日、Vol.25No.13,1937-5-1日号)再録荒木光太郎編『動揺期の金融学説』(ダイヤモンド社、1938)

ヨハネス・ラウレス、崎村茂樹訳『スコラ学派の貨幣論』(有斐閣、1937)

崎村茂樹・京野正樹・神谷慶治著 「農村人口移動の階級性とその社會經濟的諸要因 : 福井縣下農村調査中間報告 」(『農業經濟研究 』第13 巻第4號 、1937.12)

紹介:フリッツ・ノイマルク『經濟政策の新しきイデオロギー』(東大『経済学論集』第8巻4号,1938.4)

「北支農村経済の諸問題」(国際経済学会編『北支経済開発の根本問題』刀江書院、1938)

報告「事変下の農業問題を主題として」東京帝国大学助手崎村茂樹(文部省教学局編纂『日本諸学研究報告』第五編(経済学)1939.3)

崎村茂樹「北支の食糧問題」(東畑精一『米』中央公論社、1940、付録)

「北満における小作形態の考察」(近藤康男他編『佐藤寛治博士還暦記念農業経済学論集』日本評論社、1940)

報告「満州国建設と五族共和」第3回日独学徒会議1941.3、チロル、ホッホゼルテン

Shigeki Sakimura, Neuordnung der japanischen Wirtschaft, Bremen : NS.-Gauverl. Weser-Ems, 1942, 13 S.(Weimar大学ほか所蔵)

手稿「ナチス時代のドイツの青少年の職業教育」Shigeki Sakimura, Die Berufsausbildung der Jugend im nazistischen Deutschland, in,Briefwechsel aus dem schwedischen Exil(ボン大学Franz Mockrauer文庫所蔵)

フリードリッヒス・ゴーセンス著・崎村茂樹訳『アメリカにおける利潤分配の実際、西ドイツの訪米視察団報告書』(日本生産性本部、1957)

「通貨交換性と貿易自由化」(『拓殖大学論集』12号、1956.12)、

「経営パートナーシャフトについて」(『拓殖大学論集』15号、1957.12)、

「特許ライセンス研究序説、アメリカの反トラスト法との関連において」(『拓殖大学論集』25号、1960.10)

8) http://www.saturn.dti.ne.jp/~ohori/sub23.htm

9) 「GHQ/FEC, Military Historical Section, The Reports of General MacArthur(マッカーサー元帥レポート)」の国立国会図書館解説には、「米太平洋陸軍総司令部G-2歴史部(G2 Historical Section, GHQ/AFPAC)(1947年から極東軍総司令部(GHQ/FEC)に改編)は、1946年春に職員3名で発足し、1946年夏から秋にかけて南西太平洋・極東地域の陸軍諜報部門史(Intelligence Series)やマッカーサーのための同地域の戦史と日本占領史(Southwest Pacific Area Series 通称マッカーサー戦史)などの編纂をはじめた。マッカーサーのための戦史の編纂は、もともと1942年からG-3のニーダープルエム大佐(William J. Niederpruem)のグループが着手し、1945年末から1946年初頭にはすでに原稿を仕上げていたが、それを読んだマッカーサーも、参謀長サザーランドも気に入らず、1946年秋からG-2部長ウィロビーの直接指導の下にG-2で書き直すことになったものである。 同部では、戦史に日本軍側の対応の記述を加えるため、ウィロビーの指示で、1947年の早い時期から司令官の地位にあった日本軍人の尋問を開始し、さらに1947年夏には元東京帝国大学経済学部教授荒木光太郎・光子夫妻、有末精三、河辺虎四郎、服部卓四郎、大前敏一らの元軍人を歴史部のスタッフに加えた。同局のスタッフの数は、最も多いときには、約80人にも上ったという。同部は、1951年6月には極東軍総司令部戦史部(Military Historical Section)に改編された。…プランゲ文庫で知られるゴードン・W・プランゲ(Gordon W. Prange)は、文官の修史官(Historian)として1946年10月からG-2歴史部に勤務し、1949年6月〜1951年6月歴史部長、1951年6月から1951年8月に帰国するまで戦史部長代行をつとめた」とある。(http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/senryo/ROM.html,  http://www.army.mil/cmh-pg/books/wwii/MacArthur%20Reports/MacArthurR.htm

10) 崎村茂樹の恩師荒木光太郎については、多くの著書のほか、荒木光太郎編『日独文化の交流』明善社、1941年、荒木光太郎教授追悼論文集刊行会『荒木光太郎教授追悼論文集』 1981年、火曜会編『おもいで 故荒木光太郎先生三十年忌の思い出集』東京火曜会、1981年、参照。没後に出された『おもいで』には、崎村茂樹が「助手」とあるため、当初東大経済学部助手と誤認したが、古島敏雄『社会を見る眼、歴史を見る眼』農文協、2000年、71〜72頁には、1938年当時東大農学部農業経済学科には4つの講座があり、農学第一講座が佐藤寛次教授、農政学・経済学第一講座が荒木光太郎教授だが「経済学部と兼担」、第二講座が東畑精一教授、第三講座が那須皓教授で、崎村茂樹が荒木の農学部の助手、京野が佐藤の助手とされている。

11) 桑木務『大戦下の欧州留学生活 : ある日独交換学生の回想』中公新書、1981年、66-69頁。

12) ハウスホーファー日記を解読中の、獨協大学講師W.Spang氏よりご教示を受けた。

13) 島村哲夫については、島村哲夫『鉄鋼経済論』東洋経済新報社、1958年、島村哲夫随想集『徹平随想』非売品1962年、追悼集『島村哲夫君を偲んで』非売品1978 年、参照。

14) 嬉野満洲雄『勝利を惧れる』共立書房、1945年、144〜145頁。「ゾルゲ事件の仇討」には、「ドイツ人が東京で処刑されたに対し、今度は日本人が報復的にドイツで罰せられんことを日本側出先官辺は気にしていた」と注記されている。

15) 山本武利編『第2次世界大戦期日本の諜報機関分析 』第7巻『欧米編1』柏書房、2000年、97 ,155頁。

16) 同上書、40、214頁。

17) Karena Niehoff. Feuilletonistin und Kritikerin. Mit Aufsaetzen und Kritiken von Karena Niehoff und einem Essay von Joerg Becker. FILM & SCHRIFT, Band 4. Muenchen ,Verlag edition text + kritik, 2007.1,SS.18-20,67-69.

18) ニーホッフ家との連絡・資料入手には、私たちの調査チームの田嶋信雄成城大教授、桑原節子ベルリン日独センター資料部長があたった。

19) この点で示唆的なノンフィクションとして、石黒健治『 サキエル氏のパスポート 愛と幻の満州国へ』光人社、2001年、及び邦正美『ベルリン戦争』朝日新聞社、1993年、参照。

20) 養道希彦『薔薇色のイストワール ナチ占領下、パリを震撼させた舞踊家・原田弘夫の92年』講談社、2004年、344頁。

21) ヒトラー暗殺未遂事件については、さしあたり、小林正文『ヒトラー暗殺計画』中公新書、1984年、山下公子『ヒトラー暗殺計画と抵抗運動』講談社、1997年、参照。

22)  スウェーデン国立公文書館「崎村茂樹ファイル」の入手・解読と現地調査にあたっては、ストックホルム在住の陶芸家藤井恵美氏の協力を得た。

23) この新聞記事は、カレーナ・ニーホッフの遺品中にあった切り抜きで、新聞名・発行月日不明。1944年の「半ユダヤ人」カレーナ・ニーホッフが、ゲシュタポに追われ友人宅を転々としながらも、崎村茂樹の消息を気にかけていたことを意味する。

24) Japanese Intelligence Activities in Scandinavia, Jan.30, 1945, NARA RG263,Entry A1-87. 「小野寺信ファイル」については、本誌本号で山本武利教授が紹介・分析する。

25) http://www.saturn.dti.ne.jp/~ohori/sub18.htm

26) 養道希彦『薔薇色のイストワール』400頁。

27) 在伯林帝国総領事馬瀬金太郎、外務大臣東郷茂徳殿「在独邦人引揚に関する件」昭和20年7月28日、外務省外交史料館「第二次欧州大戦関係一件、在留邦人保護避難及引揚関係 独、墺の部」第二巻、A-7-0-0-8/6.

28) 同前。

29) 養道希彦『薔薇色のイストワール』413、425頁。

30) CIA=OSSの機関員と自称する中島辰次郎の自伝風記録『馬賊一代 下 謀略流転記』(番町書房、1976年)によると、中島が属する旧陸軍華北特務機関日高富明の日高機関が、台湾に移ったCIA=OSS工作機関と共同で立案したのが毛沢東暗殺計画で、北京でつかまった7人は、それぞれ計画の全貌を知らない手足で実行犯にすぎなかった。ただし、そこにも崎村茂樹の名はない。中島辰次郎は、1970年に松川事件の真犯人だと名乗り出て国会でも問題になり、その証言の信憑性には疑義がある。しかし「毛沢東暗殺計画」についての叙述は具体的で、何らかの役割を果たしたことは間違いなさそうである。アメリカ情報機関と中国国民党情報機関の間には、第二次世界大戦期から協力関係があった。米中合作社や国際問題研究所等の名前を使って、1945年以降の内戦・革命期も反共産党陰謀を続けていた。そのワシントン及び東京とのつながりは錯綜していて、戦時中のアメリカ親中派の外交官らは、冷戦開始期にマッカーシズムにより排除される。日本を占領したGHQのマッカーサーは、アジアでのOSS=CIAの活動を好まず、G2のウィロビーを使った謀略を朝鮮戦争時まで続ける。中島辰次郎は、自分と日高富明の日高機関は、ワシントン直結のOSSと東京のG2キャノン機関の双方に関わったという。戦時中のOSS欧州総局長アレン・ダレスは、1953年CIA長官に就任するが、その部下でスイスの「藤村工作」を担当したポール・ブルムは、戦後1948 年東京でCIA支局を開設し初代支局長になった(春名幹男『秘密のファイル』新潮文庫)。なお、草野文男は、終戦時北京で共産党「転向」組の鍋山貞親の家で、毛沢東暗殺未遂事件で死刑になった山口隆一らと研究会を持っていた(鍋山貞親『私は共産党をすてた』大東出版社、1950年、214 頁、国松文雄『わが満支25年の回顧』新紀元社、1961年、135頁)。帰国後は、鍋山貞親佐野学風間丈吉らが矢部貞治を担いで作った「世界民主研究所」の事務局長をつとめた。

31) 朱振才『建国初期北京反間諜大案紀実』中国社会科学出版社、2006年3月、342-343頁。

 

<関係文献>

Karena Niehoff. Feuilletonistin und Kritikerin. Mit Aufsaetzen und Kritiken von Karena Niehoff und einem Essay von Joerg Becker. FILM & SCHRIFT, Band 4. Muenchen ,Verlag edition text + kritik, 2007.1

千足高保『ドイツに学ぶ』(美和書林、1949)

桑木努『大戦下の欧州留学生活』(中公新書、1981)

篠原正瑛『ドイツにヒトラーがいたとき』(誠文堂新光社、1984)

邦正美『ベルリン戦争』(朝日新聞社、1993)

新関欽哉『第二次大戦下ベルリン最後の日』(NHKブックス、1988)

藤山楢一『一青年外交官の太平洋戦争』(新潮社、1989)

佐藤彰三『時局と情熱』(新光閣、1939)

芳賀檀『ドイツの戦時生活』(朝日新聞社、1943)

佐貫亦男『追憶のドイツ:ナチス・空襲・日本人技師』(酣燈社、1991年)

小松ふみ子『伯林最後の日』(太平洋出版社、1947)

嬉野満洲雄『勝利を惧れる』(共立書房、1946)

嬉野満洲雄「私のみたナチス・ドイツ」(日本共産党『反共主義 歴史の教訓』1975)

江尻進『ベルリン特電』(共同通信社、1995)

『守山義雄文集』(非売品、1965)

笠信太郎『知識と知恵 その他』(文藝春秋、1968)

樽井近義『ヒトラー最後の十日間』(美知書林、1948)

小野寺百合子『バルト海のほとりにて』(共同通信社、1985)

齋藤正躬『北欧通信』(月曜書房、1947)

養道希彦『薔薇色のイストワール ナチ占領下、パリを震撼させた舞踊家・原田弘夫の92年』(講談社、2004)

和田博文ほか『言語都市ベルリン 1861-1945』(藤原書店、2006)

山本武利編『第2次世界大戦期日本の諜報機関分析 欧米編1』(柏書房、2000)

英語版『タイム』誌1951年5月27日「Old Hands, Beware!」

『毎日新聞』1951年8月 21日草野文男談話「毛沢東暗殺陰謀の真相」

朱振才『建国初期北京反間諜大案紀実[建国初期の北京におけるスパイ事件ドキュメンタリー]』(1950年8月8日発覚「崎村茂樹経済間諜事件」、中国社会科学出版社、2006)

「毛沢東暗殺の首謀にされ銃殺された山口隆一君」(国松文雄『わが満支25年の回顧』新紀元社、1961)

鍋山貞親『私は共産党をすてた』(大東出版社、1950)

川口忠篤『日僑秘録』(太陽少年社、1953)

中島辰次郎『馬賊一代 下 謀略流転記』(番町書房、1976)

畠山清行『キャノン機関』(徳間書店、1971)

ミナーエフ『あばかれた秘密 国際帝国主義の陰謀』(新日本出版社、1961)

「山口芙美子夫人の手記」(朝日新聞1951.8.25,齋藤しょう『悪の研究』東京元々社、1959)

黒井文太郎『謀略の昭和裏面史』(宝島社文庫、2007)

大堀聡「ベルリン日本人会と欧州戦争」http://www.saturn.dti.ne.jp/~ohori/sub24.htm

「日本とドイツの雑学交換」http://history.log.thebbs.jp/1083643857.html

「加藤哲郎のネチズン・カレッジ」http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml

崎村茂久『ドイツと日本』(三修社、1978)

崎村茂久「ヨーロッパ/鍵のシンボリズム」『鍵のかたち、錠のふしぎ』(INAX、1990)

島村哲夫『鉄鋼経済論』(東洋経済新報社、1958)

島村哲夫随想集『徹平随想』(非売品、1962)

追悼集『島村哲夫君を偲んで』(非売品、1978)

草野文男編『拓殖大学創立80年史』(1980)

古島敏雄『社会を見る眼、歴史を見る眼』(農文協、2000)

荒木光太郎編『日独文化の交流』(明善社、1941)

荒木光太郎教授追悼論文集刊行会『荒木光太郎教授追悼論文集』 (1981.4)

火曜会編『おもいで 故荒木光太郎先生三十年忌の思い出集』(東京火曜会、1981)

『矢部貞治日記』(読売新聞社、1975)

 



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