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『図書新聞』書評評論(2000年1月15日号掲載) 

二〇世紀社会主義運動は何を残すのか?

──『生還者の証言──伊藤律書簡集』(五月書房)を沖縄で読む──                              

 

加藤 哲郎(一橋大学教員・政治学)


 沖縄本島北部名護市、ジュゴンの棲息する珊瑚礁の海辺に、米軍ヘリポート基地が設けられようとしている。「本土」の冷たいまなざしのなかで、普天間基地の移設候補地とされ、二一世紀まで植民地的屈辱を強いる日米安保の矛盾の焦点になっている。二千年サミット会場も名護市、「北部振興」のアメで基地が押しつけられ、民意が分断される構図だ。 この名護の町の中心街の一角に、占領期日本共産党の指導者徳田球一の立派な顕彰碑が建っている。徳田は沖縄本島でも周辺の名護出身である。「為人民無期待献身」という徳田の筆跡を刻み、特徴あるマスクも彫られている。近くの由緒ある沖縄そば屋には、「本土」の著名な芸能人やスポーツ選手に交じって、日本共産党現委員長不破哲三の色紙が飾られている。不破もきっとこの地で「徳球」の亡霊を見たにちがいない。自分自身が安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』(文春文庫)に描かれた、徳田時代の東大細胞リンチ事件の被害者の一人だったから。地元の郷土史家に聞くと、一九九八年十月の徳田碑除幕式には、名護市長や地元有力経済人が列席し、今日徳田ら占領期指導者を「徳田・野坂分派」と規定する日本共産党の地元党員たちも表だった妨害はしなかったという。二〇世紀社会運動史で省みられることの少なくなった「徳球」は、沖縄では「郷土の英雄」なのである。

 名護市はまた、ゾルゲ事件で獄死した画家宮城與徳の出身地でもある。「本土」ではもっぱらゾルゲ・スパイ団の尾崎秀実の協力者として知られる與徳は、沖縄では、アメリカに渡って絵を学び、志し半ばに政治に引き込まれ、日本敗戦を知らずに獄死した悲劇の芸術家である。九〇年に遺作展が開かれ、翌年沖縄タイムズ社から『宮城與徳遺作画集』も刊行されている。野本一平『宮城与徳──移民青年画家の光と影』(九七年)も沖縄タイムズ社のローカル出版だ。沖縄の人々は、與徳の絵のなかに島への愛着と望郷を見る。沖縄の中でも相対的に貧しい本島北部のこの地域は、戦前多くの移民を世界に送り出した。小さな集落でもハワイ、カルフォルニアや南米に親戚を持つ家が多い。宮城與徳の親族も何人かがアメリカに渡った。従兄の宮城與三郎はメキシコ経由でアメリカに入り、與徳よりも積極的に西海岸の移民労働運動に加わった。三一年末のロングビーチ事件で国外追放になりソ連に亡命、モスクワ東洋学院の日本語教師になったが、三八年、他の沖縄出身アメリカ共産党員島袋正栄、又吉淳、山城次郎らと共に「日本のスパイ」として粛清された。同じ「アメ亡組」の照屋忠盛のみ死刑をまねがれたが、強制収容所に送られ消息不明のままである(加藤『モスクワで粛清された日本人』青木書店、九四年)。照屋・島袋・山城も北部出身である。長寿の沖縄には彼らを知る古老がまだ存命している。照屋の実兄は、四五年沖縄戦中に「アメリカのスパイ」と疑われ、日本軍によって虐殺されていた。

 徳田球一への愛着も、宮城與徳への共感も、根は一つである。二〇世紀を通じて「本土」に翻弄され、戦争の防壁とされ、戦後もながく放置され、今なおしわ寄せを受け続ける島の屈折した歴史が、「反骨精神」と「郷土愛」を共に育んでいる。本土の「日の丸強制」を横目でみながら、「越境者・亡命者」をも組込んだ独特の政治文化を構成する。

 名護が産んだ徳田球一と宮城與徳を結ぶ線上に、「伝説の革命家」伊藤律がいる。伊藤自身は岐阜県出身で、尾崎秀実の後輩、徳田の右腕の共産党政治局員であったが、沖縄には、ゾルゲ事件や沖縄共産党との関連で、伊藤に関心を持つ人たちがいる。その一人、反基地活動家で沖縄民衆史に詳しい大峰林一によると、戦後の沖縄には地下共産党があった。合法地域政党沖縄人民党の影に隠れ、今日の日本共産党は存在そのものを認めていないが、五三−五五年頃確かに実在した。最近復刻された『平和と独立』全二巻(五月書房)は徳田共産党時代の貴重な第一次資料だが、そこにも収録されていない非合法沖縄共産党旬刊紙『民族の自由と独立のために』が、少なくとも数号刊行されていた。

 だから、渡部富哉の手で編まれた新著『生還者の証言──伊藤律書簡集』は、沖縄で読むと格別の臨場感がある。渡部には、『徳田球一著作集』全六巻(五月書房)刊行に尽力し『偽りの烙印──伊藤律・スパイ説の崩壊』(五月書房、九三年)で尾崎秀樹や松本清張により広められた「生きているユダ」伝説を覆した実績がある。そこには、中国での二七年間の査問・投獄を経て八〇年に帰国してから八九年夏の死に至る、家族や友人に宛てた伊藤の一三九通の書簡が収録されている。音信不通だった妻に「きみ子同志」とよびかけた帰国直前の手紙から、過去を自己批判的に検証する書簡が続く。ゾルゲ事件発覚の発端とされ、日本共産党除名の主たる理由とされた「スパイ」説は、自分の戦前獄中供述が特高警察と占領軍により情報操作され、共産党がそれに攪乱され便乗した結果であることを見出すまでの心境が、率直に綴られる。無論、日本国憲法制定時の共産党の態度は「憲法より飯」で今日流布する「憲法草案」は正式審議を経ない宮本顕治の作文だったこと、二・一ゼネストの内幕や第六回党大会直前のアメリカ帝国主義批判に転じた秘密会議、勃発一年半前の朝鮮戦争情報入手、コミンフォルム批判と「五〇年問題」時の党内闘争、徳田が中国出国時に余命四年の病気であったこと等々も、驚くべき記憶力で回想される。

 いわゆる北京機関での野坂参三・西沢隆二らの伊藤査問の状況、獄中生活の記述は、『伊藤律回想録』(文藝春秋社、九三年)と重なるが、戦前宮本顕治・袴田里見らの「スパイ査問」致死事件や、不破の体験した東大細胞リンチ事件を想起させる。川上徹『査問』(筑摩書房、九七年)、油井喜夫『汚名』(毎日新聞社、九八年)で最近ようやく明るみに出た七〇年代「新日和見主義」事件の原型として、日本共産党史の暗部を照射する。史実の確定にはなお検証を要するが、公認党史『日本共産党の七十年』や野坂参三『風雪のあゆみ』全八巻(新日本出版社)よりは、はるかに説得力がある。「愛される共産党の顔」野坂と違って、伊藤には汚名を晴らす以外の失うべき何ものもなかったのであるから。

 評者の研究する在独日本人反帝グループや旧ソ連日本人粛清犠牲者に関わる情報も、例えば講座派の論客で日ソ友好運動に尽くした山田勝次郎が、戦後党再建の資金提供者で綱領問題学者責任者として出てくる。中でも伊藤が「笑面鬼心」と評する野坂の裏面を知るには本書は必見だ。彼らの存命中は明るみにでなかったが、渡部も注記しているように、野坂は、二八年三・一五検挙直後の検事聴取書でも、保釈前の予審訊問調書でも、「君主制撤廃スローガンに反対」と供述していた。徳田・伊藤の路線とは当然衝突する。いや評者の調査では、日本共産党が創立時から天皇制打倒を掲げてきたという通説自体が、ソ連崩壊後にモスクワで明るみに出た関係資料に照らすと、「神話」であった(加藤「一九二二年九月の日本共産党綱領」『大原社会問題研究所雑誌』第四八一号以下参照)。

 五〇年当時の武装革命路線を凍結したまま保持し、私信でも「徳田の党のため」ときっぱり言い放つ伊藤律に、時代錯誤を見出すのは容易だろう。書簡に見られるマスコミや友人たちへの異常な猜疑心にも驚かされる。しかしそれが二〇世紀日本社会主義の重要な構成部分であり、沖縄ではなお実感できる運動の臨場感でもある。研究者にとっては貴重な証言で一級資料である。残念ながら社会運動史研究の全体が衰退産業となり、再生産不能なまでにリストラされてきているが。沖縄から基地が消え、「スターリンは大勢を粛正して殺したが、裁判にかけて相手に発言の機会を与えている。私には裁判はなかった」という伊藤の慟哭が歴史の中で公正に裁かれる日は、二一世紀のいつ頃になるのだろうか?



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