『平出修研究』第32号(2000年6月)所収


 

ドイツ・スイスでの竹久夢二探訪記  

 

 

加藤哲郎(一橋大学)

 

 


 以下は、インターネットのホームページ「加藤哲郎のネチズンカレッジ」<URL=http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml>中の「1998・99ベルリン便り」に記した、ドイツ・スイスにおける晩年の竹久夢二の活動の探索記録(抜書き)である。詳しくは、ホームページの方を参照していただきたい。


(2005・10・3) 下記の文章について、一部重大な訂正。「ナチスに追われ東洋を愛したユダヤ人芸術家二人」として、ブルーノ・タウトをユダヤ人としていましたが、これは、今日も流通する俗説による、思い込みでした。タウトは、北東ドイツ・ケーニヒスベルク生まれのドイツ人でユダヤ系ではないと、水原徳言さんのお知り合いから、ご指摘を受けました。俗説の根拠も判明。ナチスを嫌ってドイツを離れた日が物理学者アインシュタインと同じだった、という説なようです。しかしこれも、アインシュタインは1932年12月10日、タウトがベルリンを離れたのは1933年3月1日が、史実のようです。ここに訂正して、水原さんほか関係者にご迷惑をおかけしたことをお詫び致します。

 


1998年10月31日  ベルリンの古地図を入手しました。ワイマール期と、ナチス時代と、敗戦直後と。たしかに通りの名前がいろいろ変わっています。当地での調査で見つけた千田是也らワイマール末期日本人左派グループのアドレスを、一人一人地図に転記していきます。なるほど当時日本人が多く住んだ西部ばかりでなく、東部の労働者街に出没していたようです。

 でも、地図よりも確実なのは、現地に足を運ぶこと。画家竹久夢二が、1932−33年に住んだPrager Platzそばの安下宿、彼の教えたバウハウスの画塾Itten SchuleがあったKonstanzerstrasseに行ってみました。なるほど、ナチスに反発し、ユダヤ人に同情して活動する雰囲気があります。この実感は、書物では味わえません。

1998年11月20日  ボンのドイツ外務省文書館、コブレンツの連邦アルヒーフは、収穫大でした。東京ドイツ大使館から本国外務省への東大教授を追われた国崎定洞についての「要注意人物」通知とか、竹久夢二の画展を告げる在独日本人会の記録とかがあって。中には、あのリヒアルト・ゾルゲの訪日を東京に伝える外交文書もありました。

 ベルリンもそうですが、文書館はどこも親切です。受付で自分の研究テーマを告げると、そのテーマに詳しい(たいてい博士号をもつ)研究員を紹介してくれ、その助言にそって資料を探します。ただし1日目はFindbuchというカタログで関連資料の入った資料ファイルの番号を探し閲覧申請、実際の閲覧は翌日になります。2日目の閲覧資料が掘り出し物で関連資料が必要になると再申請しますから、どうしても平日3日がかりの仕事になります。特に2日目は、朝8時から夕方6時まで5000頁以上のドイツ語資料と格闘、必要資料はコピーを申請して終わるとぐったり、という旅でした。それでもベルリンではあたりをつけて探しても無駄に終わるアルヒーフが多かったので、テーマの直接資料のみつかった旅は、大変充実・有意義でした。

 ベルリン滞在も、あと3週間、しかしアルヒーフ通いは終わりそうにありません。それでも中間決算する必要があるので、畑違いですが、当地森鴎外記念館の12月例会講演を引き受けました。ワイマール末期の在ベルリン日本人知識人・文化人について報告します。その講演で、ユダヤ人救出に加わった竹久夢二の絵をドイツ人聴衆に紹介したくて、Infoseekでサーフィンしたら、格好のサイト「夢二美術館」ホームページがありました。

 竹久夢二の反ナチ・ユダヤ人救出活動を助けたと思われる井上角太郎の研究は、アメリカ在住の井上の二人の娘さんとメールでつながり、ほとんど距離感なく、井上のベルリン大学時代の探求が進んでいます。まだ竹久夢二とは直結しませんが、井上角太郎が、ベルリン大学内のユダヤ人救出組織に加わった「もう一人の杉原千畝」であったことは、まちがいないようです。


1999年8月29日  今回は短期の滞在なので、研究の焦点は、バウハウスの画家ヨハネス・イッテンと、ワイマール末期のイッテン・シューレで日本画を教えた竹久夢二、それに関連する1930年代ドイツ在住日本人反帝グループ中の井上角太郎についての調査に絞り込みました。

 竹久夢二といえば、大方は大正ロマンの美人画をイメージするでしょうが、彼はもともと「平民新聞」の挿し絵画家として出発しました。当時同居していた荒畑寒村が、美人画で売れだした恋多き夢二を「堕落した」と評して以来、夢二は、非政治的な「日本のモジリアーニ」として扱われてきました。

 しかし、1934年に病没する竹久夢二の晩年を調べると、『平民新聞』時代への先祖帰りではないにしても、社会問題への執着が感じられます。彼は、20年代末に榛名山の麓に産業美術学校を建てる構想を持ち、島崎藤村や有島生馬の賛同を得ますが、そのプランの下敷きは、当時のワイマール共和国公認のモダニズム芸術の殿堂、左翼の文化的・芸術的拠点でもあったバウハウスでした。

 31年5月、アメリカ経由で初めての「洋行」に出ますが、船中では、千田是也の兄で舞踊家の伊藤道郎や、ハリウッドで活躍中の早川雪洲と一緒です。アメリカでは、西海岸の日本人移民左翼と親しく交わり、後にゾルゲ事件で捕まる宮城與徳とも会っています。

 32年9月にヨーロッパに渡り、33年9月までベルリンに1年間滞在しますが、ちょうどナチスの政権掌握と重なります。その間、バウハウスから独立したヨハネス・イッテンの画塾イッテン・シューレの講師をつとめ、個展を開いています。ナチの迫害でつぶされるイッテン・シューレの末期です。

 このドイツでの夢二の芸術活動を支えたのは、当時のベルリン日本大使館商務官事務所(現在の通産省の出先機関)の今井茂郎らとされていますが、夢二は、英語もドイツ語も、あまりできませんでした。その夢二が、ベルリン時代の日記に、ナチスへの嫌悪とユダヤ人への同情を記したことは知られていましたが、1985年に、映画監督の故藤林伸治さんが、夢二が当時ユダヤ人救出の地下活動に協力したという情報を、ドイツで得てきました。『朝日新聞』1994年9月19日夕刊等によると、当時夢二は、師ヨハネス・イッテンの影響もあり、ナチスの政権奪取で始まったユダヤ人迫害に憤り、プロテスタント教会の牧師たちに協力して、ユダヤ人の国外脱出や貴重品運搬を助けたというのです。日本人は、この頃自由にヨーロッパ内を行き来できたからです。後にこの点は、NHK岡山放送局が藤林情報を後追いし、スイス・チューリッヒに亡命したイッテン夫人の証言をも得ています。故藤林伸治さんの集めた関連資料は、昨98年秋、法政大学大原社会問題研究所に寄贈されました。

 私の推論は、ここから始まります。ドイツ語のできない夢二が、イッテンや今井茂郎の援助があるとはいえ、ナチスの監視下で危険なユダヤ人救出の地下活動を、果たして独力でなしえたのだろうか、と。すると、当時ベルリンに約500人いた日本人コミュニティの左派、国崎定洞・千田是也ら反帝グループとの関係が問題になります。当時在独した島崎藤村の3男島崎蓊助や、藤村の信任厚い勝本清一郎との関係を探りましたが、この線での結びつきは、今のところ、見つかっていません。

 最も有力な可能性は、当時ベルリン日本商務官事務所の通訳をしていたベルリン大学学生、井上角太郎との関係です。北海道出身の井上角太郎は、当時ユダヤ人の恋人(後のヘレーネ夫人)や友人を持ち、ベルリン大学の地下学生運動・ユダヤ人抵抗運動に携わっていました。その井上の親友が、国崎らとつながる反帝グループのメンバー小林義雄(戦後専修大学教授・経済学者)で、小林の戦後の回想には、ベルリンで井上・ヘレーネと遊んだ話や今井茂郎とテニスをした話が出てきます。

 もう一つは、当時のベルリン大学に10人以下だった日本人留学生と夢二との交流で、井上角太郎の当時の同級生には、小林義雄のみならず、反帝グループの八木誠三や戦後の昭和天皇侍従長徳川義寛がおり、八木と徳川は、日本への帰国時に、共に夢二の絵を持ち帰っています。アメリカでの夢二については、法政大学袖井林二郎教授が、アメリカ西海岸で夢二の絵を発掘し、『平民新聞』時代に志したが美人画時代にはみられない油絵を再開したことを、実証しています。ドイツでも油絵を残しており、徳川義寛が日本に持ち帰った「ベルリンの公園」という絵は、例の宵待草風美人画とはずいぶん違う画風を示しています(岡山市の夢二郷土美術館所蔵)。

 この竹久夢二の在独生活と井上角太郎・小林義雄・八木誠三らドイツ在住日本人反帝グループとの接点を求め、実証しようというのが、私の数年来の試みですが、先日ニューヨークでお会いした井上角太郎の娘さんの記憶でも、ユダヤ人救出活動の話はありましたが、竹久夢二や夢二の絵の記憶はなく、今のところ、竹久夢二と井上角太郎のユダヤ人救出運動は、二つの別個の「もう一つの杉原千畝」のままです。

 その手がかりが、どうやらベルリンのバウハウス博物館とチューリッヒのイッテン美術館にありそうなので、今回は、現地調査に入ります。美術館めぐりが続いて、だいぶ絵を見る目も肥えてきました。ナチス期反ナチ地下活動という性格故に、文献資料での実証は困難を伴いますが、なかなか面白いテーマで、病みつきになりそうです。

1999年9月10日 ドイツ最古の大学、ハイデルベルグ大学の日本研究ゼミナールには、日本でも良く知られている二人のヴォルフガングさんがいます。Wolfgang Schamoni 教授は言語学、Wolfgang Seifert教授は政治学です。このお二人は、丸山真男『日本の思想』ドイツ語版の共訳者であり、最新の『丸山真男手帖』第10号には、シャモニさんの「丸山先生と『シュピーゲル事件』」連載が始まりました。旧知のお二人を訪ね、この間のワイマール期在独日本人研究を進行状況を説明し、協力を依頼。ハイデルベルグ大学にも、羽仁五郎・三木清らが留学していましたから、早速成績表などその原資料をみせてもらって感激。博学のシャモニさんは、日本人反帝グループの勝本清一郎・藤森成吉のドイツ語論文をコピーしてくれ、私の方からは、小林多喜二『1928・3・15』ドイツ語版の訳者「イトー」とは千田是也の本名「伊藤圀夫」であることを教えて研究交換。荒畑寒村と親交のあったシャモニさんも、バウハウスに刺激された竹久夢二の榛名山産業美術学校構想、1932−33年訪独とユダヤ人救出については知らなかったということで、大いに関心を持ってもらいました。

 しかし、竹久夢二のベルリン時代の絵の捜索、夢二の師ヨハネス・イッテンのもとに残されたベルリン・イッテン・シューレ時代の遺品探しとユダヤ人救出活動の実証は、唯一の手がかりだったイッテン夫人アンネリーザさんが重病で、暗礁にのりあげました。

 ベルリン・バウハウス博物館の勧めもあり、ナチ政権掌握後のイッテンの亡命先スイスのチューリヒまで足を延ばしたのですが、チューリヒには、ベルリンで示唆されたイッテン美術館などありませんでした。国立美術館や古本屋でイッテンの資料はみつかりましたが、夢二との関わりは、出てきません。イッテン自身はユダヤ系ということではなく、イッテン・シューレの弟子たちにユダヤ人が多かったということのようです。イッテンが初代館長をつとめたリートベルグ美術館(チューリヒ東洋美術館)の日本画担当者も、浮世絵には詳しいが、竹久夢二のことなど知りませんでした。

 そこで、最後の手がかりとなった、日本でのこの問題の開拓者藤林伸治さんの遺品中にあったアンネリーゼ・イッテン夫人の手紙のアドレスを、当地の地図を頼りに訪ねましたが、そこには、イッテンとは全然関係のない若夫婦が住んでいます。思いあまって近所を聞き込みしたところ、隣家のおばあさんが、イッテン夫人は昨年重病で倒れて息子さんが引き取ったようだというので、チューリヒ中央駅の電話帳で手当たり次第に「イッテン」にあたったところ、滞在最終日にようやく、息子のクラウス・イッテン博士と連絡がとれました。

 クラウスさんの話では、90歳のアンネリーザさんは、脳梗塞で倒れ言葉が不自由になり、インタビューは到底無理だという答え、その代わり、スイスに残された竹久夢二の絵の整理は、アンネリーザさんのイッテン・アルヒーフ作りの一環として倒れる前から進めており、近い将来に公開されるだろう、とのこと。ユダヤ人救出や井上角太郎との関わりは調査できないまま、アンネリーザ・イッテン夫人の快復を願って、スイスを後にせざるを得ませんでした。 


2000年4月28日付記  帰国後、イッテン・アルヒーフの作業進展を問い合わせようと思いましたが、クラウス・イッテン博士の電話番号のみなので、そのままにしてあります。今夏もチューリヒに飛び、夢二の絵に対面したいところです。    

 夢二のユダヤ人救出活動を助けたと私が推定する、井上角太郎(戦後占領期の朝日新聞ニューヨーク通信員・故人)の実弟井上新之助さん・よしのさんご夫妻(千葉県在住)からは、先日、下記のようなお便りをいただきました。

 「竹久夢二の絵の件については、ご本人の絵であるかどうかははっきり致しませんが、姑[井上角太郎・新之助の母、加藤注]が、『あまりきれいとも思われない女性の絵が送られてきて、とても大切な絵であるから誰にも渡さず蔵にしまっておいて欲しい、と書かれていた』と申した事がありました。私どもは、きっと夢二の絵であると信じたい気が致しますが、その蔵はもうありませんので、確認することはできません。

 また、昭和29年、角太郎が一人で帰国した時、共産党本部を訪ねたり、徳川[義寛?]様や森[恭三?、戦前朝日新聞ニューヨーク特派員]様に何度かお会いしていました。」

 井上新之助さんは、この証言を残した直後、2000年5月5日にお亡くなりになりました。今夏、井上角太郎の二人の娘さんと、ニューヨークで会ってきます。合掌!


7月21日の「新日曜美術館」では、本HP「ドイツ・スイスでの竹久夢二探訪記」(いつのまにやら「Yumeji りんく」にも入ってました)もちょっぴりお手伝いして、「独逸、夢のかなたへ──知られざる竹久夢二」が放映されました。『平民新聞』の挿絵画家から出発した「社会派」夢二の再評価は新鮮で、ドイツで書いた油絵「水竹居」に焦点を当て、美輪明宏さんの夢二談義も秀逸でした。もっとも当日、私は群馬高崎哲学堂「よろこばしき知識」の皆さんのお招きで、「井上房一郎『洋行』の周辺──勝野金政から島崎蓊助まで」と題した芸術がらみの講演でした。そこでお会いした旧知の工芸家水原徳言さんと、思わぬ芸術談義。ブルーノ・タウトの高弟であった水原さんと、タウト井上房一郎勝野金政が協力した銀座「ミラテス」の話や、写真家名取洋之助、建築家山口文象らとのつながりの話も愉快でしたが、実は水原さん、晩年の夢二の愛した伊香保・榛名山と高崎が近いものですから、夢二の世界にも大変詳しかったのです。朝のNHKに出てきたナチスの政権獲得時ドイツで竹久夢二が東洋画を教えていたヨハネス・イッテンイッテン・シューレについてもよくご存じなばかりでなく、なんと、夢二のイッテン・シューレの教え子で、パリに逃れたユダヤ人画家エヴァ・プラウドさんが、1935年頃来日してタウトに会いに来た際、一緒に同席したというのです。そこで夢二の話は出なかったそうですが、同じくナチスに追われ東洋を愛したユダヤ人芸術家二人が、日本で初めて会ったという話に感激。90歳をこえた水原さんに、エヴァ・プラウドの夢二についての手紙と資料が、法政大学大原社会問題研究所「藤林伸治資料」にあることをお知らせし、すっかり意気投合しました。おかげで講演の方もスムーズに行き、地元の熱心な皆さんと遅くまで語り合うことができました。

 NHK「独逸、夢のかなたへ──知られざる竹久夢二」は、美術番組としては大変良くできていましたが、実は担当ディレクターに取材をお願いして、結局わからずじまいで放映できなかった問題がありました。私の「ドイツ・スイスでの竹久夢二探訪記」 のきっかけとなった、1933年竹久夢二のユダヤ人救出地下運動への関わりです。関谷定夫『竹久夢ニ 精神の遍歴』(東洋書林、2000年)にも描かれ、イッテンの息子さんがスイスで夢二の絵を今なお保存していることまでは私が調査し、今回NHKがその水墨画等10数点を画像に収めてくれましたが、イッテン家ご遺族からは、ユダヤ人救出問題での証言はとれなかったそうです。夢二の知られざる活動が、美術の師イッテンのルートではなく、当時の在独日本大使館員やベルリン大学日本人留学生が関わったルートであったからでしょう。この線で、最近気になるのが、夢二の「ベルリンの公園」と題する水彩ペン画に関わる謎。郵政省の絵葉書になった左側の絵が有名で、多くの夢二画集に収めてあり、今回NHK「新日曜美術館」でも放映されましたが、実は、全く同じ構図の「ベルリンの小公園」という、右の絵も実在します(比較しやすいように並べました)。どちらも現在は夢二の生まれ故郷岡山の夢二郷土美術館所蔵ですが、左側の「公園」は、かつて昭和天皇侍従長徳川義寛の「寄贈」とされていました。ところが先日旧ソ連日本人粛清犠牲者健物貞一遺児アランさんがロシアから来日して、岡山のご親族と対面したさいに、夢二郷土美術館を訪れ確かめたところ、これまで徳川義寛寄贈とされていた「ベルリンの公園」は、1983年に画商から購入したもので、徳川義寛が1982年に寄贈したのは、「公園」と全く同じ構図で同じく紙にペンと水彩で描いた「ベルリンの小公園」という右側の絵であったことがわかりました。徳川義寛が昭和57年10月13日に絵を持参し寄贈したさいの徳川氏自筆のメモをみせてもらったところ、徳川義寛は、その絵を「公園にて」と名付けており、自分がベルリン大学入学後1933年に夢二から記念にもらったものだと解説し、これがベルリン西部「ウィッテルスバッヒャー・プラッツ」のスケッチで、中央に「子どもが曳いている玩具」があり「右上隅のYume 1933 Berlin」と署名がある、と書いています。ところが、数年前まで徳川義寛寄贈とされてきた左の「公園」には、子どもの後ろ姿はありますが「玩具」がなく、また署名は右下です。右の「小公園」の方には、確かに「玩具」が入っており、署名も右上です。左の「公園」よりややこぶりの、徳川氏がベルリンから持ち帰った右の「小公園」は、数ある夢二の画集でも、栗田勇編『竹久夢二 愛と詩の旅人』(山陽新聞社、昭和58年)149頁にタイトルも解説もなく掲載されているくらいで、私の見た他の画集では、最新の『竹久夢二 名品百選』(そごう美術館)をはじめ、もっぱら画商経由の左側の「公園」のみが掲載されています。

 2枚の「公園にて」の絵は、姉妹画で、芸術的価値も同等な感じです。むしろ同一構図でありながら、モデルの服装、ベンチに座る人々、それに署名の位置とこどもの玩具の有無が異なり、芝生の花のかたちからは季節の違いを感じさせます。最新の小川晶子『夢二の四季』(東方出版、2002年)では、左の「公園」は「夏」の作品とされていますが、すると右の「小公園」は「春」か「秋」でしょうか? 徳川義寛はベルリン大学で美学を学んでいたので、芸術作品として譲り受けたのでしょうか? それとも夢二から油絵をもらった今井茂郎、神田襄太郎ら当時の日本大使館員と同じように、ベルリンで夢二に経済的援助をした見返りの謝礼でしょうか? ちなみに、神田襄太郎は東大で新人会蝋山政道らに近く、福本和夫にベルリンでドイツ語を教えたといいます(石堂清倫『わが友中野重治』平凡社、2002年、187頁)……。ここからは、私の政治学的推論です。1932年10月-33年9月在独の竹久夢二(帰国して翌34年病死)は、徳川義寛をはじめ、当時知り合ったベルリン大学の日本人学生たちに、この姉妹画を分け与えたのではないでしょうか? 当時のベルリン大学在籍日本人正規学生約10名の中には、私の「在独日本人反帝グループ関係者名簿」にあるように、国崎定洞の影響下にあった左翼学生が数人入っています。バウハウスに影響を受けた夢二の榛名山産業美術研究所構想1931-33年「洋行」の有力支援者の一人であった島崎藤村の、3男島崎蓊助も、ベルリン大学付属外国人向けドイツ語学校に通い、夢二と3か月ほどドイツ滞在が重なります。32年末に離独する蓊助が夢二の絵をドイツから持ち帰った形跡はありませんが、私が集めた「在独日本人反帝グループ」関係者の聞き取りでは、名古屋の百貨店主の息子で反ナチ「革命的アジア人協会」の活動家であった八木誠三の未亡人と、当時ユダヤ人の恋人を持ちベルリン大学内のユダヤ人地下学生運動に加わっていた井上角太郎のご遺族は、「竹久夢二の絵を持っていた」と証言しています。八木・井上は、当時徳川義寛の同級生で、姉妹画を持ち帰った可能性があります。特に井上角太郎は、当時の夢二の在独スポンサーであったベルリン日本商務官事務所(今井茂郎ら)の通訳をアルバイトとしていました。徳川義寛が右の「小公園」を夢二からもらい持ち帰ったとすれば、左の「ベルリンの公園」の方は、どんなかたちで日本に戻ってきたのでしょうか? どなたか、晩年の竹久夢二に詳しい方の、ご教示を期待します。情報があれば、ぜひメールを!

 



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