第4回ゾルゲ事件国際シンポジウム「ノモンハン事件とゾルゲ事件」 2006年5月(モンゴル)報告(Draft Only)

国際情報戦の中のゾルゲ=尾崎秀実グループ

――リュシコフ亡命、ノモンハン事件、シロトキン証言――

 

加藤哲郎(日本、一橋大学教授)

 

 

 1 はじめに――ゾルゲ=尾崎グループの国際的広がり

 

 ソ連赤軍第4部諜報員リヒアルト・ゾルゲと日本の朝日新聞記者・近衛内閣嘱託尾崎秀実を中心としたグループ「ラムゼイ機関」は、満州・中国侵略を続ける日本軍国主義に対するソ連赤軍、コミンテルン=世界共産党の諜報工作に携わったとされている。当時の情報戦における最大の功績は、1941年6月のドイツ軍のソ連侵攻を事前にモスクワに打電し、また日本の天皇が臨席した1941年夏の御前会議で、日本が北進政策(満州からソ連への侵攻)ではなく南進政策(中国から東南アジアへの侵攻)を採った決定を伝えて、ソ連軍の対独戦への軍事力集中を可能にしたことだとされている。アメリカのあるインターネット・サイトには、ゾルゲについてのさまざまな歴史的評価が集められている。曰く、「スパイの中のスパイ」「世界を変えた男」「スターリンのジェームズ・ボンド」等々。

 確かに1941年秋、日米戦争開始直前に検挙されたゾルゲ=尾崎グループの最終局面での活動は、独ソ戦を戦うソ連にとって有益であったことは間違いないであろうが、それらは1933年末のゾルゲの来日、34年のゾルゲと尾崎の再会から数えても8年後のことであり、1930年上海でのゾルゲと尾崎の初めての出会いから10年以上の活動の最終的果実であった。その10年の間にも、独ソ戦や日米戦争の前提となる世界史的な出来事は数多く起こっていた。検挙直前の政治的機密事項の漏洩は厳しく追及され供述も詳しくなるのは当然であるが、既に起こった政治外交的問題への敵国情報活動による漏洩は、裁判において厳しく追及されたとはいいがたい。厳しく追及すると、当時の政府・軍中枢にも関係者がいて責任問題が生じる。諜報員にとっても隠蔽・黙秘するのは容易であったから、史実は警察・検察調書、裁判記録に残されるとは限らない。

 しかも、日本での立件は日ソ間の問題に集中されたため、日中・日米・米ソ・ソ中・独ソ・英米関係、さらにはソ連国内の政府・軍部・党情報機関同士の対立やドイツと日本の同盟国間の矛盾など、第二次世界大戦と戦後国際秩序に関わる当時の問題群は、調書や裁判では副次的に扱われる。ましてや日本軍憲兵隊と特高警察の縄張り争い、ドイツ・ソ連と英米の諜報戦、日中ソの狭間でのモンゴルの運命などは、訊問でも厳しく追及されず、記録には残らない。こうした問題は、これまでのゾルゲ=尾崎事件の研究において、一つの盲点になってきたのではないだろうか。

 

 2 ゾルゲ事件へのさまざまな眼差し

 

 かつて1998年11月に東京で開かれた第1回国際シンポジウム「20世紀とゾルゲ事件」において、90歳を過ぎて存命中だった石堂清倫は、その記念講演「世界史の問題としてのゾルゲ事件」において、「ゾルゲも尾崎も、権力の中枢に潜入しようとした形跡は皆無であり、反対に、権力の方から迎えに来た」点を、一般のスパイ事件と異なるゾルゲ=尾崎グループの活動の特徴とした。そのさい、「日本の軍部がゾルゲを信頼し、彼の情報収集に便宜をはかった」のに、裁判記録では日本軍高官(馬奈木敬信、山県有光、武藤章ら)とゾルゲとの関係の問題はでてこないこと、当時のコミンテルン指導者オットー・クーシネンの妻アイノ・クーシネンが「イングリット」の名で調書に出てくるが、アイノが昭和天皇の弟秩父宮と会っていた事実等はなぜか追及されなかったことに、注意をうながしていた(白井久也・小林峻一編『ゾルゲはなぜ死刑にされたか』社会評論社、2000年、94−95頁)。

 ゾルゲ事件研究は、戦後1962年からみすず書房刊『現代史資料』全4巻に収録された裁判記録を、最も重要な基本史料としてきた。1948年末にアメリカで大々的に発表されたチャールズ・ウイロビーの報告書にはマッカーシズムの影がつきまとい、1964年にソ連でゾルゲが突如「名誉回復」した経緯にも東西冷戦の情報戦の色彩がつきまとっていて、日本での検挙直後の裁判記録の方が、より史実に近いとみなされたからである。というよりも、第二次世界戦争当時の情報戦の主人公の一人であるゾルゲの研究は、それ自体が冷戦時代の国際情報戦の一部であり、その基本的性格は、冷戦が終わりソ連国家が崩壊した今日においても、受け継がれている

 例えば、すでに60年にもなる世界的規模でのゾルゲ事件の研究史を、各国別に簡単に見てみよう。アメリカのゾルゲ事件研究は、明らかに戦後冷戦の影を帯びている。ウィロビー報告書での「上海諜報団(Shanghai Conspiracy,1952邦訳『赤色スパイ団の全貌』東西南北社、1953年)」「ゾルゲ=スメドレー事件」という扱いが典型である。そこでは、マッカーシズムの標的とされたアグネス・スメドレーとゾルゲの関係が中心で、尾崎秀実ら日本人は脇役になる。チャーマーズ・ジョンソンのスタンフォード大学フーバー研究所史料をもとに尾崎秀実と彼の中国革命観に着目した研究(An Instance of Treason,1964、邦訳『尾崎・ゾルゲ事件』弘文堂、1966年)や、ゴードン・プランゲの関係者インタビューを交え『リーダース・ダイジェスト』読書向けに記した「東京のスパイ団」中心の遺著(Target Tokyo,1984、邦訳『ゾルゲ・東京を狙え』上下、原書房、1985年)も、対ソ冷戦の産物だった。

 旧ソ連と現ロシアの研究では、主としてゾルゲ情報の軍事的意味が中心になる。つまりゾルゲが実際に進めた日本社会や国家、1930年代日本の政治過程の分析そのものよりも、そこから引き出されソ連に打電された情報が当時のソ連の戦争遂行にどのような意味を持ったかという観点から論じられる。「大祖国戦争の英雄」ゾルゲという、フルシチョフ時代末期の1964年に突如ゾルゲが「名誉回復」したさいの影が、今日までつきまとっている(例えばイ・デモンチェワ他『同志ゾルゲ』邦訳刀江書院、1965年、コレスニコフ夫妻『リヒアルト・ゾルゲ』邦訳朝日新聞社、1973年)。

 他方、ゾルゲが眼前で見てきた日本の侵略の直接被害者であった中国では、長くゾルゲは振り返られることはなかった。上海でゾルゲを助けたアグネス・スメドレーは、英語で朱徳将軍や中国紅軍のルポルタージュを書き、1949年の中華人民共和国成立に貢献したジャーナリストとみなされ、毛沢東を描いたエドガー・スノーらと共に、建国当初から高く評価されてきた。ところが、ゾルゲについて中国で報じられるようになったのは、ようやく最近のことである。ゾルゲが上海で活動した時代の中国共産党は、毛沢東の主導権確立以前の李立山路線で、公式の中国共産党史では政治的に疎んじられる。本シンポジウムに出席予定の楊国光の『諜報の巨星ゾルゲ』が2002年に出版されて、一部で知られるようになったばかりである。

 ドイツでは、ソ連での「名誉回復」に触発された旧東独のユリウス・マーダーらの研究(Dr. Sorge funkt aus Tokyo,1965邦訳『ゾルゲ諜報秘録』朝日新聞社、1967年、DR.Sorge Report,1984、邦訳『ゾルゲ事件の真相』朝日ソノラマ、1986年)があるが、ソ連がナチスに送りこんだ諜報団としては、トレッペルらの「赤いオーケストラ」の方が知られており、ゾルゲは『シュピーゲル』誌などでたまに取り上げられることはあっても、注目されることは少ない。 ドイツでのゾルゲの経歴や東京のドイツ大使館内のゾルゲの動向の記述は有益であるが、むしろ二冊の書物の日本語訳者の短い文章が貴重である。というのは、訳者の植田敏郎が、ゾルゲ=尾崎グループの裁判時の通訳で、ゾルゲの死刑判決時の堂々とした態度を証言しているからである。冷戦崩壊以後は、日独枢軸の隙間の亀裂として、オイゲン・オット大使のゾルゲの過信や、ナチスの送り込んだゲシュタボであるマイジンガーと在日ドイツ人社会の対立、オットとマイジンガーを告発したナチスのジャーナリスト、イーヴァー・リスナーの事件からナチス全体主義の多頭制を導き出すような研究はあるが、ゾルゲ事件の全体像を描く本格的研究は見あたらない。

 だから、かえって、直接の当事国でないイギリスやフランスのゾルゲへの眼差しが、グローバルなスケールでのゾルゲグループの活動を客観的に描き出している。1961年にフランスで作られたイブ・シャンピの映画(QUI ETES-VOUS, MONSIEUR SORGE?、邦題『真珠湾前夜』)は、フルシチョフが見て「名誉回復」のきっかけになったといわれる。イギリスのF・ディーキン=G・ストーリイの研究は、その実証主義的手法で、この分野の古典となっている(The Case of Richard Sorge,1980、邦訳『ゾルゲ追跡』筑摩書房、1980年)。最近のロバート・ワイマントのノンフィクション(Stalin's Spy,1995、邦訳『ゾルゲ 引き裂かれたスパイ』新潮社、1996年)やモルガン・スポルテスの小説(L'Instanse,2002、邦訳『ゾルゲ 破滅のフーガ』岩波書店、2005年)も、「国益」を離れて客観的なゾルゲ像を探求している。ゾルゲ事件の研究にそれぞれの関係国の日ソ情報戦への関わりが反映してくるのは当然のことであり、今日のゾルゲ像は、それらの波長の違いの先に、クリスタル(結晶)している。

 それでは当事国日本の研究が、それらを総合した最先端にあるといえるかというと、必ずしもそうではない。日本の場合は、主役が戦後すぐの時期から尾崎秀実で、「売国奴」なのか「反戦平和の闘士」「国際主義的共産主義者」であったかと、政治的に問題にされてきた経緯がある。戦後すぐの時期に、尾崎秀実の家族に宛てた獄中書簡集『愛情はふる星のごとく』がベストセラーになったが、世界評論社から出たその1946年初版に収められていた作家宮本百合子(日本共産党指導者宮本顕治夫人)の解説「人民のために捧げられた生涯」はその後の版で削除され、松本慎一の解説も変更された。義弟の文藝評論家尾崎秀樹が、戦後日本共産党の有力指導者であった伊藤律を事件発覚のもとになった「生きているユダ」として告発したため、ゾルゲ事件そのものが政治的に扱われてきた。右派にとっては、国策として戦争を進めた日本の権力中枢にあって御前会議の情報を外国に流した尾崎秀実は「非国民」「売国奴」であった。逆に左派にとっては、共産党さえ壊滅して戦時体制が作られた時期に「社会主義の祖国」ソ連の諜報員ゾルゲに協力した尾崎秀実らは「国際主義者」「平和運動家」だった。ただし尾崎が日本共産党員ではなかった故に、左派でも評価が分かれた。こうした政治的バイアスが、資料的には最も整った日本での研究には、長くつきまとってきた。

 本日モンゴルで開かれる国際シンポジウムは、これまで日本、ロシア、ドイツで3回開かれ、さまざまな関心と視角からゾルゲ=尾崎グループの多面的な活動を明らかにしてきたが、こうした交流こそ、遠回りのようにみえながら、最も実り多い真実への道である。

 

 3 ノモンハン事件(ハルハ河戦争)にゾルゲはどう関わったか

 

 各国の研究動向を踏まえ、これまでゾルゲ=尾崎グループ研究においてスポットを当てられなかった問題に接近することで、新たな側面が見えてくる場合がある。

 私は、2004年11月6日に行われた日露歴史研究センター主催・ゾルゲ・尾崎秀実処刑60周年記念講演会で「イラク戦争から見たゾルゲ事件」という報告を行い、これまで無視されてきた、1930年末上海でのゾルゲと尾崎秀実の出会いの仲介者であったアメリカ共産党日本人部の「鬼頭銀一」にスポットを当てることによって、東京でのゾルゲ=尾崎グループの活動と、上海でのアグネス・スメドレーらの活動、それにアメリカ西海岸での野坂参三、ジョー小出(鵜飼宣道、鬼頭銀一のデンバー大学同級生)らの活動を統一的に捉える視座を提唱した。これらを統括するアメリカ共産党ブラウダー書記長の1935年9月2日付コミンテルン書記長ディミトロフ宛て手紙(RTsKHIDNI495-74-463、邦訳『コミンテルンとアメリカ共産党』文書20、五月書房、2000年、106ページ)からは 、アメリカ共産党の諜報組織「ブラザー・サン」指導者ルディ・ベーカー、ゾルゲの親友でもあるアメリカ共産党コミンテルン駐在員ゲアハルト・アイスラー、汎太平洋労働組合(PPTUS)指導者ハリソン・ジョージ、サム・ダーシー、ユージン・デニスらが、当時のソ連邦とコミンテルン国際連絡部(OMS)のアジア工作で重要な役割を果たしたことがわかる。ゾルゲ=尾崎グループの活動も、上海時代からの国際情報戦のなかに位置づけるべきであろう(日露歴史研究センター『現代の情報戦とゾルゲ事件』2005年)。        

 今回は、せっかくモンゴルで行われるので、ノモンハン事件(ハルハ河戦争)との関わりでのゾルゲの活動に、スポットを当ててみよう。

 内務省警保局保安課がまとめて『昭和17年中に於ける外事警察の概況』(1943)に収録した総括記録「ゾルゲを中心とせる国際諜報団事件」のゾルゲの行動欄には、ノモンハン事件についての特別の記載はない。ただし、尾崎秀実の活動についての「別表」には、尾崎がゾルゲに「昭和14[1939]年5月『ノモンハン事件』に就ては政府側に対ソ戦争の決意なく、国民一般も対ソ戦争を欲せざる事情を観測し且つ戦況も日本側の旗色悪しとの風評行われつつたるとの報告を行ふ」とある(『現代史資料1』みすず書房、1962年、50頁)。宮城与徳の項には、1939年5月以降頻繁にノモンハン情報を収集・調査したとある(同67−69頁)。無線技師マックス・クラウゼンについては、満州・中国北部の日本陸軍の動きをモスクワに打電したとあるが一般的記述であり、ブランコ・ブーケリッチは、アバス通信特派員として現地まで出かけゾルゲに報告したはずなのに、この日本内務省の総括報告書には記載がない。これは、日本側が暗号を解読した「7 諜報機関に対するモスコー本部の主要指令」中に、1939年は「4 1939年2月19日 日本に於ける兵器製産能力に関する図表入手に努められ度し」「5 1939年4月13日 日本陸軍将校をグループ員として獲得せよ」の指令があったと述べるのみで、モスクワからはゾルゲにノモンハン戦についての特別の要請がなかったかのようにも読める。

 よく知られたゾルゲの第一手記にはノモンハンの記載は無く、第二手記では、「ノモンハンの戦闘が起ると、私は各人に命じて、蒙古国境方面に対する日本の増援計画を探ることに専念させて、この衝突事件がどの程度に拡大するものであるかについて判定を下す材料を求めた」とあっさり触れるのみである(171頁)。むしろ日ソ戦争の勃発可能性については、「私がいくら反対の説を立ててもモスクワ当局はどうも十分にわかってくれなかった」ソ連側の猜疑心の事例として、「ノモンハンの戦闘中や、1941年の夏日本軍の大動員[関特演]が行われたころ」を挙げている(180頁)。つまり、自分はノモンハンの戦闘は局地戦で本格戦争への拡大はないと伝えたのに、モスクワではノモンハンの過大評価があったといわんばかりである。ブーケリッチのアバス通信通信員としてのノモンハン旅行は「ヴケリッチの情報の出所」に簡単に出てくる。しかし、概してノモンハン事件は、1940年以降の活動に比して、さりげなく触れられる程度である。

 ゾルゲは予審訊問・検事訊問でノモンハンについても追及はされたが、特に重視された形跡はなく、起訴状に当たる「予審終結決定」では、宮城与徳とブーケリッチに対して「ノモンハン事件の推移」を報告させたことが、他の多くの事項の一つとして挙げられたに留まる。1943年9月東京地裁判決はそれらをほぼ認め、ゾルゲに死刑を下した。1944年1月大審院判決は上告を棄却し、刑は44年11月7日に執行された。

 こうした裁判記録からは、ノモンハン事件へのゾルゲの主たる関わりは、戦闘開始後に本格的戦争になるかどうかの戦況判断であったかのように見える。

 実際、日本のNHK取材班が冷戦崩壊後に収集した1939年1月以降のゾルゲの暗号電報では、1月20日に「もし、事態が危険な方向に発展しない場合には、遅くとも今年の5月までには帰国する許可をいただきたい」と言っていたのに、2月から日独伊三国同盟の帰趨の探求に忙しくなり、5月11日にノモンハンでモンゴル軍と満州国軍の戦闘が起こった後も、6月4日の報告で「ハサン湖やモンゴル国境であったような衝突の続発を防止するためには、日本人に対して毅然とした、厳しい手段を用いるように切に勧告する。さもないと、国境での絶えざる紛争をもたらすことになろう」と述べてはいるが、同じ報告中で早期帰国の希望をもう一度繰り返しており、特に重視している形跡はない(『国際スパイ ゾルゲの真実』角川書店、1992年、296頁以下)。

 しかし、ソ連で1964年11月にゾルゲが「名誉回復」したさいの、A・シェレーピン以下3人の署名したKGB対外諜報局報告書の「価値あるゾルゲ情報の中身」の中には、「1936年前半ならびに1939年中頃の、ソ満国境での関東軍による軍事的挑発の理由と性格。1937年の日中戦争勃発と、これに関連した日本軍の展開」があったという(コンドラショフ、セルゲイ・アレクサンドロビチ「ゾルゲとその仲間たちの諜報活動を巡るソ連本国の評価」白井久也編著『国際スパイ ゾルゲの世界戦争と革命』社会評論社、2003年、161頁)

 旧ソ連公文書館でモンゴルに関わるさまざまな資料を収集し、当時の国際関係の中でのノモンハン事件の意味を探求したモンゴル人研究者マンダフ・アリウンサイハンの一橋大学提出博士論文「日ソ関係とモンゴル」(2003年)は、ゾルゲが1939年2月8日、赤軍参謀本部諜報局長宛てに電報を送り、急進派グループの中で「板垣陸相、寺内元陸軍大臣などのグループは中国の南部、中部の作戦を縮小して、対ソ連戦の基地を確保するため中国北部とモンゴルを保持することを望んでいる」ことを伝え、それらをもとに、赤軍参謀本部諜報局長代理オルロフが1939年3月3日に「日本軍がソ連との国境で軍事行動を起こす危険が差し迫っている」「上海の日本の軍人の間には『1939年5月にソ連に対して軍事行動を開始するらしい』といううわさが広まっている。このうわさによると日本軍の行動が戦争に拡大する可能性があるとされている」と予告する報告書を作成して、ヴォロシーロフ国防人民委員に提出した点に注目している(ロシア国防省史料館資料)。

 第1回ゾルゲ事件国際シンポジウムのワレリー・ワルタノフ報告「われわれは最後の最後まで、ソ日戦争回避のため力をふりしぼった」は、「極東におけるソ連の安全確保に当たって、かなり重要な役割を果たしたのは、モンゴルにおけるソ連政府の政策であった。この政策は、とりわけラムゼイ・グループのおかげで、非常に柔軟かつ有効な政策が実施できた。はっきり言えることは、日本が1936年にモンゴル攻撃の準備をしているというゾルゲ情報は、労農赤軍政治指導本部長ガマルニクのスターリン宛1936年2月22日付の報告メモ作成にとって、大変役立った。恐らくゾルゲ情報は、同年3月12日のソ連・モンゴル相互援助協定締結のため、有益な意見の一つとなったはずだ」と、1936−39年のゾルゲ情報がいかにハルハ河戦争(ノモンハン事件)でのソ連の勝利に貢献したかを、軍事史の専門家として詳しく述べた。ゾルゲ情報の貢献は、戦略的には独ソ戦にあたって日本が中立を保つだろうという見通しを可能にし、戦術的には、1938年7月29日のゾルゲ報告が日本の参謀本部は満蒙国境紛争の不拡大方針を採っていると述べていたことだったという(『ゾルゲはなぜ死刑にされたのか』173頁以下、ただし『国際スパイ ゾルゲの世界戦争と革命』所収の1938年7月29日付フェシュン文書100からは、ワルタノフの述べる主旨は読みとれない。別の電文のことか?)。

 

 4 ゾルゲのリュシコフ情報こそノモンハン戦勝利の条件?

 

 こうしたゾルゲ情報の意味を、実は、もっと早い時期に述べた日本人がいた。ゾルゲ担当の主任検事だった吉河光貞である。「ゾルゲ事件の主任検事である吉河光貞は、1939年に起こったノモンハン事件で、関東軍がジューコフ将軍によって大敗を喫したのは、概してリューシコフ事件に際してゾルゲがその任務を完全に果たしたことによるものと信じている。ゾルゲのおかげで、ソビエトは日本軍が蒙古に浸入する前に、日本軍がシベリアの赤軍の兵力をどの程度に見ているかを厳密に知ることができたのである」(ジョンソン『尾崎・ゾルゲ事件』弘文堂、1966年、144頁以下、ワイマント前掲訳134頁)。

 つまり、吉河光貞は、ゾルゲ情報のノモンハン事件への貢献を、ワルタノフの見た満蒙ソ連国境についての直接的な軍事情報よりも、張鼓峯事件(ハサン湖作戦、1938年7月12日ム8月11日)直前の1938年6月13日にソ満国境を越えて日本に亡命したソ連極東内務人民委員部長官リュシコフ将軍についての政治情報をゾルゲが日本で手に入れモスクワに伝えたことに見出し、それがノモンハン事件での日本の敗北につながったと考えていた。それは、軍部の責任追及につながるために日本の法廷では前面に出せなかったが、司法省検事として吉河が当時から抱いていた考えだったであろう。チャーマーズ・ジョンソンは、ゾルゲ情報が必ずしもモスクワのスターリン指導部によって信頼されなかった問題に触れて、「ゾルゲや彼の同志にとって重大な目標は、つねにソ連邦に対する攻撃を見張り、ソビエト[=スターリン]に警告を発することだった」とも述べている。日本軍・政府の知り得たリュシコフ訊問情報、それを補強してドイツ国防軍防諜部がまとめた報告書を、ドイツ軍武官ショル大佐を通じて入手しモスクワに送ったゾルゲ情報は、ノモンハン事件における情報戦の鍵だったことを、吉河光貞は示唆しているのである。

 だが、ライカのカメラを使ってゾルゲが撮影し、膨大な量をモスクワに送ったという、1938年秋にドイツ国防軍がまとめたリュシコフ報告書は、ソ連崩壊後に次々に明らかにされてきたゾルゲからモスクワへの交信記録の中に、なぜか見あたらない。NHK取材班『国際スパイ ゾルゲの記録』(角川書店、1992年)にも、A・G・フェシュン編著『秘録 ゾルゲ事件』を含む本国際シンポジウムの記録集にも、なぜか1938ム39年にゾルゲの送信したリュシコフ関連情報は入っていない(白井久也編著『国際スパイ ゾルゲの世界戦争と革命』社会評論社、2003年)。

 先に引いた1964年「名誉回復」時のソ連KGBの見た「価値あるゾルゲ情報の中身」が、「1936年前半ならびに1939年中頃の、ソ満国境での関東軍による軍事的挑発の理由と性格。1937年の日中戦争勃発と、これに関連した日本軍の展開」と、38年夏のリュシコフ亡命事件がなぜか抜けているのが象徴的であるが、当時のスターリン粛清及び極東ソ連軍配備に決定的に関わるリュシコフ亡命情報が、東京のゾルゲからモスクワにどのように送られたかについては、実はまだ本格的には解明されていないのである。

 ただし、フェシュンの『秘録 ゾルゲ事件』は、その序章で、当時モスクワが日本とドイツの軍情報部が得たリュシコフ情報に「異常なまでに興味を持った」ことに注目し、それをソ連の参謀本部諜報総局内の二つのグループ(ゾルゲ情報を信じた極東部日本課キスレンコ、シロトキン、ザイツェフらと、信用しなかったパクラードク、ラゴフ、ウォロンツォフら及び諜報総局長ゲンジン)の分岐に関連づけていた。リュシコフ亡命問題に触れた数少ないロシア側の研究であるが、残念ながらリュシコフ亡命事件の基本資料が使われておらず、日本側資料も檜山良昭の小説『スターリン暗殺計画』のみである(同書、246−247,256−257頁)。同書所収の極めて貴重な191種類の文書・書簡・電文・回想にも、リュシコフ関連文書は入っていない。

 無論、日本側の裁判記録には、ある程度の記述がある。1942年3月7日の吉河光貞検事によるゾルゲの第39回検事訊問調書には、「私としてはリシュコフが亡命したのは彼がソ連の態度や待遇に対して不満を懐いたのみならず、シベリヤで何か不正な所為を敢てして居り折柄ゲー・ペー・ウー内の粛正工作が行われて居た為彼自身も摘発される虞があったからだと思ひました」「私は裏切者の言動は何時も決まり切ったことなので特に彼には興味を持てなかった」という、スターリンに忠実で、ソ連での粛清に無関心な素振りを示す、ゾルゲの言葉が残されている。予審訊問調書もそれを追認し、ゾルゲはただ忠実に、「(1)リシュコフ自身の反共産主義的態度、(2)スターリン並ソ連共産党中央委員会に対する非難」等をモスクワに打電し、「之に私の見解としてリシュコフの報告中に強調された赤軍の弱点を捉へて、日独双方がソ連に対して軍事行動を採る危険性があることを附加した」としている(『現代史資料 ゾルゲ事件1』265頁以下)。ゾルゲは、日本の国家権力に対しては、忠実なスターリン主義者としてふるまっている。

 だが、実際にリュシコフの日本での言動を知り、彼が日本軍・ドイツ軍へ供述した内容を収集してそれをモスクワに打電する時、ゾルゲには、一切の疑問も一抹の不安もなかったのだろうか。

 ゾルゲの吉河検事への供述では、主として在日ドイツ大使館付陸軍武官補佐官ショル中佐から得たリュシコフ情報を、1938年中に「3、4回に亘り之をモスコウ中央部に打電」した。その後ドイツ国防軍諜報部の特使が来日して「リシュコフ[ママ]訊問の結果を纏めて数百頁に亘るタイプライターの報告書」を作成したことを知り、「私が度々リシュコフに関する報告を打電したにも拘わらず之に関心を示さなかった」モスクワにその報告書が「入用か否かを問合わせた」ところ、モスクワ中央部からは「判明したことは詳細に知らせよ」と言ってきた、そこで、1939年初めに、ドイツ国防軍特使の報告書を「ショル武官から見せて貰い之を通読し其の中特に重要と思はれる部分の半分位を写真に撮影して」フィルムをモスクワに送った、という(同書、265−266頁)。

 そのさい奇妙なことに、ゾルゲは「恐らくモスコウ中央部としてはリシュコフの陳述には相当関心は持って居り乍ら、私の方から決って通報して居たので別に何とも指示して来なかったのではないかと思ひます」と弁明を加えている。自分はリュシコフ情報をちゃんとモスクワに送った、しかしモスクワからは何も言ってこなかった、そこでドイツ軍特使報告書の件は必要かどうかとわざわざ問い合わせた、それでようやくモスクワから詳細を送れと言ってきたので39年に入って半分くらい(それでも数百頁なら百頁以上になる)をフィルムで送った、と吉河検事に答えている。

 実は、この問合わせに対するモスクワからの回答は、ゾルゲ自身による第39回検事訊問ではなく、内務省警保局のまとめた「ゾルゲを中心とせる国際諜報団報告書」の「七 諜報機関に対するモスコー本部の主要指令」の項に、日本側が解読したモスクワの暗号指令として出ている。そこには「2 1938年9月上旬 カナリズ(独逸秘密機関長)の特使が日本陸軍から受領する文書の写若しくは該特使が直接リュシコフとの会見に於て受領する文書の写を獲得する様全努力と全能力を尽せ獲得せるものは直に送れ」とある。つまり、モスクワから38年9月に「全努力と全能力」を尽くして「直ちに送れ」と言ってきたものを、ゾルゲは3か月後の1939年1月頃にようやくモスクワにフィルムで送ったことがわかる(『現代史資料 ゾルゲ事件1』77頁)。それも、報告書の中の「リシュコフ自身の政治的立場に関する声明の様な重要でないものは捨て」て、「シベリヤに於ける反対派の活動」、赤軍関係の情報、等々のみを送ったと語っている(266頁)。

 だが、ゾルゲにとって、またモスクワにとって、「リシュコフ自身の政治的立場に関する声明」は、本当に「捨て」てもいい「重要でないもの」だったのだろうか。ゾルゲは、本当に軍事技術的情報のみを選別してモスクワに送ったのであろうか。

 このリュシコフ亡命事件をめぐる第39回検事訊問の問答には、日本で東大新人会の学生運動をくぐって思想検事になった吉河光貞と、世界革命を信じて母国を離れ活動するコミュニスト・ゾルゲの、緊迫した情報戦が孕まれている。ゾルゲは、リュシコフ亡命情報を直ちにモスクワに送ったが、モスクワからは何も言ってこなかった。それで、ゾルゲは不安になった。これは現在のモスクワでは余計な情報なのか、と。しかも、正確な情報を送るためには、リュシコフが語った言葉をそのままモスクワに伝えなくてはならない。そこにはスターリン粛清の実態、ソ連とスターリンの共産党への悪罵さえ含まれている。その伝達情報が「モスクワ中央部」の不快を買ったのではないか。それなら「政治的」情報は省いて、赤軍関係の軍事的情報に限定しよう、だが、そこにも「シベリアに於ける反対派」についての情報が含まれる。しかし、だからといって日本官憲に対して、ソ連の弱みも自分の動揺も見せるわけにはいかない。そんな葛藤が、透けて見える。

 

 5 フェチュン文書におけるリュシコフ情報の欠落――受信者シロトキン

 

 最近、日本のドイツ外交史研究者である田嶋信雄成城大学教授は、「リュシコフ、リスナー、ゾルゲ――『満州国』をめぐる日ソ関係の一側面」と題する論文で、研究史の空白を埋める、一つの重要な知見を加えた(江夏由樹ほか編『近代中国東北地域史研究の新視角』山川出版社、2005年)。

 ゾルゲの撮影したドイツ国防軍防諜部のロシア専門家グライニング大佐(国防軍防諜部長カナリス提督の特使)によるリュシコフ訊問報告書は、確かに東京ドイツ大使館のショル中佐からベルリンのドイツ国防軍最高司令部に複数部送付されたが、今日ドイツの公文書館に残る関係文書綴りの中には、肝心の報告書は存在しない。戦後アメリカないしソ連が押収して持ち帰った可能性はあるが、なお見つかっていない。日本側は、軍のリュシコフ関係資料を焼却・隠滅した可能性が高い。周知のように、リュシコフは終戦直後の1945年8月20日、大連で彼の身柄がソ連軍に渡ることをおそれた日本陸軍特務機関の手で射殺されている。ゾルゲがマイクロフィルムでモスクワに送った報告書の写しは、田嶋教授によれば「なんらかの理由で、現在まで刊行されているゾルゲ関係資料集には掲載されていない」。先述したように、フェシュン編『秘録 ゾルゲ事件』にも入っていない。

 この報告書の欠落に、田嶋教授が注目した理由が重要である。このドイツ国防省報告書(グライニングによるリュシコフ訊問は1938年8−9月)の撮影・送付以前に、ゾルゲは、1938年7月13日東京でのリュシコフの外国人特派員団との記者会見に、『フランクフルター・ツァイトュング』特派員として出席していた。ナチ党機関紙『アングリフ』の記者イーヴァー・リスナーもそこにいた。ゾルゲは、その模様を、モスクワに8月26日付けで送電した。

 問題は、その電文の中身である。それは、ロシア語で1997年に発表されたロシア古文書資料集に収録されたが(7-(1)Moscow,TEPPA,1997,ctp.148-151)、これまで日本では紹介されていなかった。そこでゾルゲは、リュシコフの記者会見発言中の「政府や軍の責任を負っている中心的指導者のなかで、逮捕された人は1万人を数える」「ソヴィエトの雰囲気のなかで強力な反スターリン的気分が感じられることはまったく明らかだ」「現在ソヴィエトは、恣意によりプロレタリア独裁を一掃したスターリンの個人独裁のもとにある。もはや組織された共産党は存在しないともいえる」といった表現を、モスクワ宛電文報告中でそのまま伝えていた。

 田嶋教授は、これについて、「いくら『裏切り者』リュシコフの公式発言の引用とはいえ、これはあからさまにスターリンを批判したものであり、その内容が当時のソ連において持つ含意をゾルゲが理解できなかったはずはない。ゾルゲはこの報告を送信する際、スターリンとの関係において重大な躊躇を克服したものと思われる」とコメントしている。

 この時期のゾルゲは、1938年4月に最有力の情報源オットが駐日ドイツ大使に任命されたのに、5月に酒に酔ってのオートバイ事故で大怪我をした。その後遺症もあり、精神的に極めて不安定だった。リュシコフの日本亡命は、その退院直後のことだった。

 すでにスターリン粛清は、赤軍に及んでいた。前年1937年6月に、国内戦の英雄で、赤軍最高の頭脳であったトハチェフスキー元帥(国防人民委員代理)を始めとする赤軍最高幹部8名が「ドイツのスパイ」容疑で突如逮捕され、7名(1名は逮捕直前に自殺)が6月11日の秘密軍法会議で有罪判決を受け、控訴なしで即刻銃殺されていた。以後1937年から38年まで、赤軍大粛清が進行する。元帥5名中3名、軍管区司令官15名中13名、軍団長85名中62名、師団長195名中110名、旅団長406名中220名が粛清された。赤軍全体で4万名以上が粛清され、旅団長以上の幹部・政治将校の45%が非業の死を遂げた。

 1937年末に、日本からソ連への帰国命令を受けたゾルゲとアイノ・クーシネンは、秘かに会ったが、ゾルゲは、暗にスターリンを批判して帰国を拒んだ。忠誠を示すため帰国したアイノは直ちに逮捕され、強制収容所(ラーゲリ)に送られた。

 ちょうどその頃、日本から「労働者の祖国」ソ連に「亡命」した女優岡田嘉子と演出家杉本良吉も、樺太国境を越えて直ちに投獄され、杉本は銃殺された。彼等の拷問による訊問記録は、ソ連演劇界のメイエリホリドらを「日本のスパイ」として粛清する材料となった。岡田・杉本のスパイ容疑を日本で調査したのは、ゾルゲだった(加藤『国境を越えるユートピア』平凡社、2002年)。

 ゾルゲの直属上司で尊敬していたベルジンも粛清された。ゾルゲが1937年12月14日のメモで、日本人のソ連軍事力過小評価の例に挙げた「ブリュッヘル元帥の分離主義的傾向への期待」は、ゾルゲがリュシコフ情報をモスクワに送っていた1938年11月9日にブリュッヘル将軍が銃殺され、現実のものとなっていた。

 1938年のリヒアルト・ゾルゲは、「ソ連邦擁護」の態度は揺るがなかったにしても、多数の「日本のスパイ」をでっち上げたスターリンの粛清に、動揺しないはずはなかった。リュシコフ情報の送り方は、モスクワから自分がどのように見られるかの試金石になることを、ゾルゲは十分自覚していただろう。

 このような視角から見ると、直接リュシコフ情報の含まれないフェシュン編著『秘録 ゾルゲ事件』の191の新資料は、改めて重要な事実を教えてくれる。アイノ・クーシネンの帰国直後の暗号電報である文書90は、1938年1月20日付けで「シロトキンが翻訳」している。日付はないが1938年2月頃の文書93も「リュビムツェフが解読、シロトキンが翻訳」している。リュシコフ亡命記者会見後の、文書103として収められている1938年8月6日の暗号電報は、リュシコフには全く触れていないが、「ザイツェフが解読、シロトキン少佐が翻訳」している。同じく文書104の8月10日付け暗号電報も「ザイツェフが解読、シロトキン少佐が翻訳」で、局長から「シロトキンへ。満州での軍隊の部隊配置の送付について、ラムゼイに任務を与えよ。8月17日」と決裁されている。9月2日の文書105も「マリンニコフが解読、シロトキン少佐が翻訳」で、リュシコフ亡命問題をゾルゲが日本から報告していた1938年夏に、モスクワの参謀本部諜報局極東課でゾルゲ情報の暗号受信からロシア語への翻訳を担当していたのは、シロトキン少佐と特定できる。

 ところが、1939年1月23日の文書112からは、「ラクチノフが解読し、ポポフ少佐が翻訳」に代わり、ノモンハン事件を経て1940年8月3日の文書129までは「翻訳 陸軍大佐ポポフ」となる。1940年12月28日の文書135からは、さらに「マリンニコフが解読、ソニン少佐が翻訳」と代わる。その後も翻訳官は代わるが、38年リュシコフ亡命事件時の受信翻訳官シロトキン少佐の名はない。つまり、リュシコフについてのゾルゲ情報をモスクワで受信・翻訳し参謀本部に伝えたシロトキンの名は消える

 このシロトキン少佐が、暗号解読官ザイツェフと共に、参謀本部諜報局極東部日本課で「ゾルゲ情報を信じた」グループであったことは、フェシュンが序章で述べていた。つまり、田嶋教授が発見した1938年7月リュシコフ記者会見発言をゾルゲが8月に送稿した電文「現在ソヴィエトは、恣意によりプロレタリア独裁を一掃したスターリンの個人独裁のもとにある。もはや組織された共産党は存在しないともいえる」は、シロトキン少佐が翻訳したものと推定できる。

 

 6 1941年夏――ゾルゲもシロトキンも「日本のスパイ」と疑われた

 

 しかも、フェシュンの序章は触れていないが、日本でのゾルゲ=尾崎グループ逮捕直前の赤軍参謀本部諜報総局第4部長コルガノフ陸軍少将の手紙である文書38「インソンに対する政治的不信の由来」(1941年8月11日付け報告書)によれば、この頃「インソン」=ゾルゲは、「人民の敵であることが分かった以前の幹部[=ベルジン、ウリツキーら]の下で、働いていた」が、その頃「日本課長ポクラドクは日本のスパイであった」。

 それだけではない。「前日本課長シロトキン(ポクラドクの後任)は、日本のスパイであった。シロトキンは、インソンと彼の情報源全員を日本に売り渡したと、内務人民委員部機関員に証言している。内務人民委員部でのシロトキンに対する取調べの一つに、陸軍大佐ポポフが居合わせていた。シロトキンの証言によると、1938年末に彼はインソンを売り渡した。そしてこの時期からインソンの仕事ぶりは悪くなり、疲労を訴え、祖国に呼び戻してくれるようにしきりに頼むようになっている。1941年にはほぼ1年中、インソンはソ連への帰国を要求している。……インソンの問題は新しいものではなく、一度ならず討議にかけられている。もし、彼がソ連のスパイとして、日本あるいはドイツに引き渡されたのなら、なぜ彼らはインソンを抹殺しないのか。いつも結論は一つです。スパイとしてわれわれのところに差し向けるために、日本あるいはドイツはインソンを抹殺しないのである。インソンからの情報を、他の筋からの情報並びに国際情勢の全般的成り行きと常に比較することが必要であり、そして綿密に分析したうえで、批判的に見なければならない」(邦訳287−288頁)。

 つまり、ゾルゲの諜報活動が、独ソ開戦日を予測し、日本の南進政策通知という頂点を極めた1941年夏の時期に、ゾルゲとそのソ連側受信翻訳者シロトキン少佐は「人民の敵」と疑われていた。1938年リュシコフ亡命情報発信時の受信翻訳官シロトキンは、「日本のスパイ」で「ゾルゲを売った」と断罪され訊問されていた。

 そのシロトキン有罪の証言者・立会人は、1939年のゾルゲによるドイツ国防軍リュシコフ報告書とノモンハン事件情報の受信翻訳官ポポフ大佐――日本資本主義分析で知られるコンスタンチン・ポポフ博士であろうか――のようである。いいかえれば、ポポフは「ゾルゲを信用しない」側にあった。1938年のゾルゲ情報は「ゾルゲを信用する」シロトキンにより忠実に翻訳され参謀本部に提出されたが、最も大部のリュシコフ情報であるドイツ国防軍報告書のフィルム送付は1939年1月だったために、ポポフによって解読・翻訳されたと推定できる。ゾルゲの39年ノモンハン事件情報や日独伊三国同盟関連情報も、ポポフと参謀本部の「疑わしい眼鏡」を通じて扱われたと推定できる。ゾルゲ情報は確かに正確で、ソ連にとって有益だったが、当のソ連は、発信者ゾルゲを「日本かドイツのスパイ」と見なしていたのである。

 ただし、1941年にモスクワで「日本のスパイ」と認定されたシロトキンは、訊問はされたが銃殺されなかった。すでに大粛清の嵐はおおむね去っていた。ゾルゲは日本の警察に逮捕され処刑されることで、少なくとも「日本のスパイ」ではないことを証明できた。

 フェシュン資料中でも特別に長大な文書188は、M・I・シロトキン「『ラムゼイ』諜報団の組織と活動の経験」という1964年の回想である。彼は、生き残って、ウイロビー報告やシェレンベルク回想を読んだうえで、ゾルゲのソ連での「名誉回復」に力を尽くした。同じく「ゾルゲを信用」して、ゾルゲ=尾崎グループ逮捕時に在日ソ連大使館二等書記官として「ラムゼイ機関」と接触していたヴィクトル・ザイツェフも、「ラムゼイ」の業績をソ連邦英雄に値するものと認める短い証言を残した。

 フェシュン資料の最大の功績の一つは、このシロトキン証言の収録である。フェシュンが、ゾルゲ=尾崎グループ検挙の発端が伊藤律問題ではないことを述べた主要な根拠の一つも、このシロトキン証言をもとにしたものだった。シロトキンは、「伊藤律は『ラムゼイ』の諜報網と、何の関係も持っていなかった」「ゾルゲ事件は、幅広い反コミンテルンの支持者を増やし、日本共産党の名誉を失墜させるための土台となりうる、警察にとって極めて好都合なもの」で、「アメリカの防諜機関は、その後、日本の警察の目論見をすぐに理解し、伊藤律の裏切り行為説の作者が計画していたその任務を大々的に実現した」と、発覚問題の本質を衝いていた(邦訳394−395頁)。シロトキン証言は、アメリカのウィロビー報告書やドイツのシェレンベルク回想を発表当時の情報戦の文脈から読み解いて、その情報識別の仕方においても、ゾルゲ事件研究における一つの範を示している。

 シロトキンの1964年カーティン委員会証言では、モスクワの参謀本部におけるゾルゲに対する懐疑と不信の根拠が、「必ず『ラムゼイ』の上海での『過ち』」と関連づけられていたことに、注意を促している。そのゾルゲの「過ち」とは、「暗号が敵方に解読された」おそれと共に、上海での「個人的な行動、すなわち、秘密保持規定の無視と度が過ぎた飲酒による行動ム暴飲、バーやレストランで酒盛りした際の大騒ぎや喧嘩」であった。

 だが、同時に、ゾルゲの活動目的は「主にドイツ大使館」の偵察で、「オランダ人との交流」も蘭領東インド(インドネシア)との関係で重要であったこと、「ノモンハン事件の際には、紛争発展の可能性を探るため、日本がモンゴル国境に差し向ける増援部隊に関する情報に集中する指示を全員に出した」と、ゾルゲの(スターリンではなく)ソ連国家への忠誠を認めている(384,389,390、395頁)。

 他方でシロトキンは、ゾルゲは、(1)ベルリンのドイツ国防軍防諜部、ナチスのゲシュタボから疑われるリスク、(2)上海でのミスで日本の防諜機関の名簿に名前を登録された可能性、(3)上海ドイツ租界や中国警察から共産主義活動家としてマークされていた可能性、があったために、参謀本部で疑われていたという。そのため「1938年あたり」から、ゾルゲのドイツ大使館情報は「しばしば高い評価を得」たものの、モスクワの本部組織では「軽視」された(382−383頁)。

 シロトキンによれば、(1)の疑いは、ドイツ大使オイゲン・オットばかりかゲシュタボのマイジンガーをも欺き通すことができて、ほぼ完璧だった。上海での「左翼過激派との関係やアグネス・スメドレーとの親密さ、共産党系新聞『チャイナ・フォーラム』との関係」など(2)(3)に関する「上海からの噂」についても、事実としてゾルゲが日本に派遣され1941年まで活動できたことから、結果的にゾルゲの諜報活動は成功だったとする。

 ただし、シロトキン証言と一緒に白井久也編『国際スパイ ゾルゲの世界戦争と革命』に収録された、名越健郎「英警察、1930年代に『ソ連スパイ』と断定」によると、上海のイギリス警察は、1932年1月にはゾルゲを監視下におき、約100頁のゾルゲ・ファイルを作成していた。1932年8月29日には「ソ連共産党のエージェント」と見なされ、1933年5月に在上海イギリス警察が作成した「上海におけるソ連スパイ・リスト」13人の中に、アグネス・スメドレーらと共にリストアップされていた。(3)のゾルゲのリスクは、イギリス警察・諜報機関(MI5,MI6)によって1932年にはつかまれており、そのファイル文書は30年代後半に一時日本軍の手中に落ちた後、戦後米国ウィロビー機関の手に渡り、今日では米国国立公文書館(NARA)に保存されている(同書54頁以下)。

 (2)も実は、危ういものだった。名越によれば、イギリス警察の1933年5月「上海におけるソ連スパイ・リスト」13人中に、日本人は入っていなかった。1930年代後半に上海を占拠した日本軍は、この英文ゾルゲ・ファイルを読みうる状態にあったが、実際にチェックされた形跡はない。この筋は、日本敗戦後に、上海に焦点を当てたウィロビー報告書のもとになった。ウイロビーは、それを知りつつ伊藤律端緒説を大々的に広め、日本共産党や尾崎秀樹も、アメリカの情報操作に振り回された。

 私の研究では、もう一つの危険な筋があった。それは、1930年末に尾崎秀実にゾルゲを紹介したアメリカ共産党日本人部初代書記鬼頭銀一が、1931年9月18日に上海で日本領事館警察に検挙されたことである。東京に送還された鬼頭は、日本の特高警察の毛利基による訊問を受けている。ただし、上海でコミンテルン=汎太平洋労働組合PPTUS系列の情報活動に関わっていた鬼頭銀一の検挙容疑は、1931年夏に危篤の母の見舞いで三重県の実家を訪れたさい、治安維持法違反で指名手配中の静岡出身木俣豊次の上海逃亡を助けた逃亡幇助であった。上海で尾崎秀実、水野成を中国共産党員に紹介したり、ゾルゲやスメドレーと連絡していたことは、掴まれていなかった。だから鬼頭は、治安維持法では罪にならないアメリカでの米国共産党日本人部での活動と木俣の逃亡幇助のみを認めて32年10月執行猶予つきで出所し、1933年1月には神戸でゴム販売業「鬼頭商会」をはじめた。ちょうど日本から大阪朝日新聞本社に戻った尾崎秀実と連絡を再開し、尾崎の推薦した永田美秋を店員に雇っている。鬼頭とゾルゲが日本で再会した形跡はないが、1933−37年は神戸で実業家として活動し、1938年5月24日――スターリン粛清最盛期でリュシコフ亡命の直前――なぜか南洋パラオのペリリュー島で、日本海軍基地建設場のそばで雑貨店を開いていたところ、何ものかに毒を盛られて不審死する。現在日本にいるご遺族は、日本の特高警察・憲兵隊による毒殺か、スターリンの刺客による暗殺ではないかと疑っている。

 この鬼頭銀一の日本の警察へのアメリカ共産党日本人部の供述が、日本の内務省による在米日本人共産主義者リストの本格的作成の端緒となった。1932年当時は鬼頭銀一・健物貞一・小林勇・石垣栄太郎ら14人の幹部党員に限られていたが、翌1933年末「昭和八年中に於ける外事警察概要・欧米関係」では、約200名の「在羅府邦人共産主義者名簿」に拡大されて、「党員票番号44 北林トコ 第35街細胞」「(番号不明)宮城(街区不明)」を含むものとなった。ゾルゲ事件でしばしば問題にされる、1938年8月31日付の内務省警保局長から各府県長官宛「警保局外発用第111号 極秘 米国加州地方邦人共産主義者ニ関スル件」47人のリスト、同じく1939年「在米邦人思想被疑者」約400人のリストの原型は、鬼頭銀一供述にもともとの起源を持つ、この1933年末のリストだった。尾崎秀実は、検挙後の1942年3月、吉河検事から「鬼頭銀一の事件の調書」を読まされてから、鬼頭との関係を強く否定したゾルゲの供述に合わせるため、自分へのゾルゲの紹介者名を鬼頭銀一からアグネス・スメドレーへと変更し、判決文にもそのまま採用された。逆に鬼頭銀一は、その後のゾルゲ事件研究から、長く忘れ去られた。

 つまり、シロトキンの証言する、上海時代まで遡るゾルゲの3つのリスクは、幸いドイツのゲシュタボにも、日本の特高警察にも、周辺まで迫られながら発覚することはなかった。しかしゾルゲが所属した当のモスクワ赤軍参謀本部では、常にゾルゲのモスクワへの忠誠を疑い、ゾルゲ情報に不審を抱き信頼されない根拠となった。その容疑は、1938年リュシコフ亡命の頃に頂点に達し、受信翻訳者のシロトキンは「日本のスパイ」と断罪された。1939年初めのドイツ国防軍リュシコフ訊問報告書のフィルム送付、39年5−9月のノモンハン事件時には、ゾルゲに不審を抱くポポフらにより受信・解読されていた。そこで、リュシコフの日本での反スターリン・反ソ連の供述がモスクワでどのように扱われたかが興味深いが、残念ながら、それは今日まで公表されていない。

 そのことにより、ゾルゲも吉河検事も予想できなかったことであるが、ゾルゲが苦心して送ったノモンハンの軍事情報も、ポポフの眼鏡により裁断・選別されて参謀本部に伝えられた。1941年の独ソ戦情報、御前会議南進決定情報も、モスクワでは事前に生かされることはなかった。スターリンに伝わる以前に、赤軍参謀本部極東部日本課内の粛清によって、軍事的には決定的なゾルゲ情報の政治的信頼性が疑われていたのである。

 とすると、ゾルゲが1939年1月ドイツ国防軍のリュシコフ報告書のどの部分を「特に重要と思われる部分」と見なしてフィルムで送ったかの探求が、きわめて重要になる。ロシアの研究者に、ぜひこの報告書の有無を探求してもらいたいところである。さらにいえば、ゾルゲの裁判記録に現れるすべてのモスクワ宛報告文書が、本当にモスクワに送られて使われたか否か、それらが現存しているか否かを、厳密にチェックする必要がある。

 

 7 おわりに――モンゴル人粛清とソ連・モンゴル関係再編の意味

 

 第1回国際シンポジウムのワルタノフ報告は、吉河光貞のリュシコフ亡命への着目より更に遡って、1936年のゾルゲの「日本がモンゴル攻撃の準備をしている」とする情報が、1936年3月12日のソ連・モンゴル相互援助暫定協定締結に役立ち、ハルハ河戦争でのソ連軍勝利の一因になったと述べていた。軍事的には、その通りであろう。だが、この点も、今日のモンゴル民衆の側から見ると、異なる側面が見えてくる。

 1936年3月のソ連・モンゴル相互援助協定は、1937−39年のモンゴルでのスターリン粛清、ゲンドゥン首相、デミド国防大臣らの「右翼日和見主義」「日本のスパイ」名での解任・粛清・暗殺、スターリンに忠実なチョイバルサンの権力確立、モンゴル政府・軍・人民革命党幹部2万6000人の「日本のスパイ」の汚名での大量逮捕・処刑と結びついていた。「ファシストの手先」「反革命」とされたラマ教は、800の寺院の内760が破壊され、37年に11万人いた僧侶は翌年には1100人になっていた。ゾルゲはその内実を知り得なかっただろうが、彼が軍事情報を伝えている間に、約4万人のモンゴル人の生命が奪われた。ここでは、先に引いたマンダフ・アリウンサイハン氏の博士論文「日ソ関係とモンゴル」のインターネット上に公開された要旨の一部を、やや長くなるが、以下に紹介しておこう。

 1935年1月のモ・満国境で発生したハルハ廟事件をきっかけとして、モンゴル人民共和国と満州国との国境付近で国境紛争が頻発するようになった。モンゴル側がハルハ河東方20キロの地点を国境線と主張していたのに対し、日満側はハルハ河をもって国境線と主張していた。ソ連政府は、1935年以来のモ・満国境におけるモンゴル軍と日満軍との間の度重なる国境紛争を日本軍による対ソ攻撃の脅威としてとらえ、モンゴルにおける基地保有の必要性を一層確信した。そして、極東での日本軍の行動を抑止するために、モンゴルとの協力関係を一段と固め、モンゴルの軍事力の増強に本格的に取り組むことを決定した。
 1936年3月12日、ソ連とモンゴルとの間で、締約国の一方に対して武力攻撃が加えられた場合、軍事的援助を含む一切の援助を相互に与えることを約定した「モンゴル・ソ連相互援助規定書」が締結された。この協定は、ソ連の対モンゴル軍事援助を正式に認め、ソ連とモンゴルの対日政策が共同防衛体制という新段階に入ったことを示すものであった。モンゴル政府としては、この議定書の締結によって、モンゴルに対する関東軍の軍事行動の抑制と、モンゴルの独立と安全の保障を期待していた。また、ソ連政府も、この議定書の締結によって、モンゴルに軍事基地を確保し、ソ連の極東地域での安全を一段と強化させることが出来た。実際、本議定書に基づき、1936年4月からソ連赤軍の部隊がモンゴルに進駐し、ノモンハン事件の際には約4万人ものソ連軍兵士が参戦している。 
 他方で、この条約によってソ連がモンゴルへ自軍を進駐させるのに必要な法的根拠を得たことは、日本軍に大きな危機感を抱かせ、モンゴルを取り巻く国際情勢を複雑なものにしてしまった。そして、ソ連・モンゴルの間に共同防衛体制が確立され、ソ連の日満に対する無言の威圧が強まったことは、ソ連抑止のため日本がドイツとの同盟関係を強化しようとする一つの要因となり、1936年11月25日、日独防共協定が締結された。これをきっかけにして、日本の対モンゴル政策は一段と強硬になり、関東軍は、国境問題を実力で解決しようとする行動をとるようになった。 
 日独防共協定の締結はソ連にも大きな衝撃を与え、ソ連のモンゴルに対する内政干渉の強化をもたらした。ソ連は、日本との戦争に備えてモンゴル方面に対する兵備を強化するとともに、モンゴルにおける影響力の強化を図って、モンゴル政府内の「対日宥和派」追放に乗り出した。
 1937年7月に日中戦争が起こると、ソ連政府は、ソ連軍の大部隊をモンゴルに進出させた。このソ連軍部隊の兵力を背景に1937年9月にモンゴルで、4万人にのぼる犠牲者を出した大粛清が行われた。この粛清のモンゴル側の背景には、モンゴル政府内の、僧侶問題や対日政策の選択をめぐっての対立があった。当時のゲンドゥンなどのモンゴルの政治指導者は、日本の脅威に対処するためにソ連との友好関係を強化させていたが、他方では、なるべく日ソ間の戦争にモンゴルが巻き込まれる危険を回避するため、1935−37年にかけて日本・満洲と国境紛争の平和的解決を目的とした会議を継続的に行っていたからである。 
 この大粛清によって、ソ連の外交政策を全面的に支持するチョイバルサン元帥が党・政府の権力を一手に握り、この時期を境に、日本に対して極めて強硬な態度をとるようになった。満州事変勃発以降の極東をめぐる日ソ対立の激化が、ソ連のモンゴルに対する内政干渉の強化をもたらし、モンゴルの粛清を助長した。モンゴルの粛清の理由づけに、モンゴルの指導部と日本との関係が強調されていることからも、当時のモンゴルの政治動向に対して日本の満州進出が大きく影を落としていることが分かる。結局、この大粛清の結果、モンゴル政府が政治・経済や安全保障の面でソ連に依存する度合いが一層高まり、モンゴル自身の外交政策というものが、その独自性を失った。……
 満州里会議は、モンゴルと満州の国境で発生したモ・満国境紛争の平和的な解決を目指して、1935年から37年にかけてモンゴルと満州国との間に行われたが、……モンゴルの大粛清などの影響で、結局挫折に終わった。しかし、この会議は何の結果を出すことなく終わったわけではなかった。満州里会議は日ソ衝突の牽制に重要な役割を果たしていたからである。事実、交渉が行われていた3年間は、日ソ間に大きな衝突事件が起こらなかった。また満州里会議は、モ・満両国が日ソより一足先に国境紛争をめぐる会議の開催に成功し、3年間にわたって交渉を続けたという点で、国境紛争の平和的解決への道を開き、後の日ソ関係改善の交渉にも寄与したのである。この満州里会議の決裂によって、日ソ関係は対立化の度合いを一段と深めた結果、日ソ間の戦争の危機が現実のものとなり、やがて両国はノモンハン事件に突入していった。……
 1930年代のモンゴルの対外政策は、ソ連の圧倒的影響を受けていたが、従来考えられていたよりも、はるかに積極的能動的な性格を有し、満州里会議、ソ連・モンゴル相互援助条約、満州国との国境確定などをふくむ、いくつかの具体的な成果を生み出している。モンゴルは、1921年のモンゴル人民革命以来、ソ連の唯一の同盟国であったが、両国の関係は、一般に言われているほど友好的ではなかった。実際、少なくとも戦前までのソ・モ関係は非常に複雑で、当時の国際関係の推移に大きく左右されるものであった。この意味で、満州事変勃発以降の極東をめぐる日ソ対立の激化が、ソ連のモンゴルに対する内政干渉の強化をもたらし、モンゴルの大粛清を助長した、といえる。 
 次に、満洲事変から日ソ中立条約締結にかけての日ソ関係の歴史的展開を概観すると、当時のモンゴル人民共和国と満洲国をふくむ地域で、両国の利害関係は、国境・領土問題や小国の動向ともからんで激しく衝突し、ついに戦争という帰結を生んでいる。この意味では、この極東アジアをめぐる日ソ両国の緊張・対立の激化の根本的要因の一つは、モンゴルの国境問題、あるいはモンゴルの国際関係上の地位をめぐる問題であった。従って、モンゴル・満州問題(モ・満地域における勢力圏画定問題)の解決は、日ソ国交調整が実現される過程で重要な役割を果たした。この観点からすれば、1939年9月のノモンハン事件停戦協定、次いで1940年6月の日ソ両国の協議によるモンゴルと満州国の国境画定を経て、モンゴルの国境問題が日ソ間でようやく解消されたことこそが、日ソ両国の軍事的政治的緊張関係の改善・懸案解決への重要な転機をもたらし、その結果、1941年4月に、日ソ中立条約が締結された。この意味では、満州国建国以来の極東における日ソ両国の角逐は日ソ中立条約によって突如解決されたものではなく、満州里会議、ソ連・モンゴル相互援助条約、モンゴルの大粛清、ノモンハン戦、停戦協定、国境画定会議などといった日・ソ・モ・満間の一連の政治的諸出来事の帰結であった。 
 そして、……この満州事変以降の極東に対する日ソ対立の過程で、小国モンゴルは粛清、戦争、領土の損失といった被害を負った。すなわち、日ソの国交調整の代償は小国モンゴルが払わせられたのである。この意味では、当時の大国である日ソの極東政策の本質を考えるにあたって、モンゴル問題は再検討されねばならない。それは、30年代の極東国際政治をめぐる日本とソ連との角逐過程には小国モンゴルの悲劇と苦悩が内在しており、その悲劇と苦悩の歴史が、満州事変から日ソ中立条約成立に至る極東の2大国日ソの関係の全貌をはっきりとみせているからである。 <<一橋大学大学院社会学研究科2003年度博士論文、http://www.soc.hit-u.ac.jp/thesis/doctor/03/summary/ariunsaihan.html>>

 

 1936年以来のゾルゲが日本から送った満モ・日ソ間関係情報が、ノモンハン事件でのソ連の勝利に結びついたとすれば、それは、中国北部やモンゴルの人々にとってはどんな意味を持ったのかを、改めて考える必要がある。情報戦は、今も続いているのである。 (了)


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