情報――岩波書店の『広辞苑』第四版によれば、「(information)@あることがらについてのしらせ、A判断を下したり行動を起こしたりするために必要な知識」とある。現代政治で決定的に重要になりつつある一般概念であるが、日本の政治学が本格的に扱うようになったのは、ごく最近のことである。
1954年に刊行された平凡社の『政治学事典』は、丸山真男以下当時の日本の政治学者が総力をあげて完成した古典的名著であるが、情報については、項目そのものがない。「情報活動」と「情報機関」の2つは項目になっているが、「情報活動」は「→情報機関」となっており、「情報機関」で内閣情報局やナチス・ドイツの国民啓蒙宣伝省、アメリカCIAなどが扱われた。関連項目は「→諜報活動、宣伝、言論統制」――明らかに、第二次世界大戦と東西冷戦開始期の問題設定を色濃く反映していた。ちなみに、「情報機関」の執筆者は若き新聞学者の内川芳美であった。政治学者の数も少なかった。
1978年の阿部斉・内田満編『現代政治学小辞典』(有斐閣)の段階になると、一応独立項目になる。「情報――受け手になんらかの形で伝達されるメッセージの内容。受け手の意思決定(人間の場合、態度・評価・感情の形成を含めて)に有用な度合(将来の可能性を含めて)に応じて価値が高まる。人間が受け手の場合、言語の形式で伝達されることが多いが、高級品の所持をステイタス・シンボルとして誇示するなど言語以外の形式で伝えられることも少なくない。情報の観念は、情報工学や通信工学の発展に伴って、これら諸科学の発想や概念を援用して論じられることが多い」となっている。つりあいのとれた記述であるが、情報概念の政治学的規定はなく、関連項目も「情報化社会」のみで、最新の政治学テキストである松下圭一『現代政治の基礎理論』(東京大学出版会、1995年)などに頻出する「情報公開」のような項目はない。
理論的には、日本政治学会の「年報政治学」(岩波書店)1979年版特集『政治学の基礎概念』で、猪口孝が「情報」を正面から扱っている。情報科学の「不確定度を取り去るか減少させるもの」という定義を前提しつつ、政治学の文脈で扱うために、通信を媒介とした送信者→受信者のコミュニケーション過程のなかに情報を措定し、「情報は政治目標をもつ政治主体に対して、政治環境についての不確定度を減少させ、政治目標の達成をより容易にする確率を高める。いいかえると、政治目標の達成のための政治環境の操作を成功させる度合を高めうる要素のひとつとして考えられる」と定義した。そして、「意識、意思、権力、自律、斉合性、学習、創造性、フィードバック、自己閉塞などが問題とされる」と、サイバネティクス理論から説明される。より具体的には、「言語と環境」のレベルで外交公式書簡の意味論的分析を、「認識と行動」レベルとして国家の情報管理・公開、軍事情報、選挙戦略、外交交渉、連合政府などの事例を検討している。日本における「情報の政治学」の先駆的業績である。
1991年刊行の『現代政治学事典』(ブレーン出版)の段階では、情報は重要項目として扱われる。美ノ谷和成の執筆で、「生活主体と外部の客体とのあいだの事柄に関して、選択的指定をもたらす『知らせ』のこと」と一般規定を与え、政治との関わりにも触れて「この『知らせ』は、それゆえ生活主体と関係のある外部の客体についての事実や状況に関するものであり、したがって各種の政治過程もこの『知らせ』という形態をとる。『知らせ』は社会諸科学では『記号―意味』化された情報、すなわちまず意味のある記号やシンボルとして捉え、メッセージとして表現・伝達されることによって知識や思想などとして扱われてきた。一般にコミュニケーションとよばれているものは、このような記号やシンボルからなるメッセージを、意味の乗りものとする情報の伝達・受容の過程をさしている。ところが情報科学の対象となる情報は、もっと広く自然界に遍在する『物質・エネルギーの時間的・空間的、および定性的・定量的パターン』と定義づけられている。……」と述べる。この事典には、中村紀一執筆の「情報管理」「情報機関」の項目もあり、市民参加や国際政治との関わりも解説して、読者に対して親切である。
戦後日本の政治学にも一定の影響を与えたマルクス主義理論の系譜はどうか? 「科学的社会主義の最新の成果を反映」した「わが国で唯一の社会科学の総合辞典」と銘打った『社会科学総合辞典』(新日本出版社、1992年)には、「情報=一般に、ある事柄について伝達される知らせ、その内容をいう。通信システムの効率化のために発展した情報理論の概念であるが、生命ある自然、人間社会、工学的制御機能にもひろく適用される概念となった。唯物論の立場では、情報の概念は反映論の基礎の上に考察されている。情報と雑音とは対概念をなし、雑音が混沌とした反映であるのにたいし、情報は秩序のある反映とされ、数学的理論としてその秩序性の程度がはかられる。その秩序のうちに、対象のある事態が、信号のことばに翻訳され、情報として保持された仕方で伝達されるのである。……」とやや立ち入った規定がある。
同じマルクス主義の系譜の辞典では、『大月経済学辞典』(大月書店、1979年)に「物質、エネルギーにならんで自然を構成する基本概念である。一般には、ある事柄を表示するパターンで物体やエネルギーに担われて伝達・授受されるものをいう」以下の数学的記述(佐藤敬三執筆)が入っていた。マルクス主義には「資本主義社会と社会主義社会とでは情報の所有形態や利用のされかたが異なる」(『大月経済学辞典』の「情報化社会論」の説明、河村望執筆)という把握があったためか、両辞典とも「情報化社会論」に批判的立場をとり、「情報産業」に注目して独立項目にしているのは共通である。だが、『大月経済学辞典』とは異なって、『社会科学総合辞典』では「情報と雑音」が対概念にされ、「秩序のある反映」と定義されている。
この観点からすると、『社会科学総合辞典』に「情報=秩序のある反映」規定が入った経緯が興味深い。この辞典の原型である初版『社会科学辞典』(1967年)には、そもそも「情報」関連の項目はなかった。改訂版の『新版社会科学辞典』(1978年)では、「情報科学」だけが、サイバネティクスやコンピュータとの関連で入った。さらにそれを改訂した『新編社会科学辞典』(1989年、いずれも新日本出版社)の段階で、「情報」「情報科学「『情報化社会』論」の3項目になり、1992年刊行の現行『社会科学総合辞典』段階で、「情報公開」「情報・通信産業」が加わり5項目になったのである。
しかも、情報概念の内容に立ち入ってみると、89年の『新編社会科学辞典』段階では、「唯物論の立場の論者のあいだでは、反映概念とむすびついているという点では一致があるが、おもにつぎの二説にわかれる。一つは、情報とはあらゆる物質に属するもので、雑音と区別して秩序ある反映の状態の尺度をあらわすという。他の一つの説では、情報とは制御にもちいられる反映の側面であって、制御システムに固有のものだとされる」と「定説がない」とされていた。それが、89年東欧革命・91年ソ連崩壊をくぐった3年後の『社会科学総合辞典』段階では、前者が「定説=科学的真理」と認定されたらしく、情報は「秩序のある反映」となったのである。
いずれにせよ、戦後日本における「情報化」の現実と市民の「情報公開」要求の進展が、支配的政治学であれ、マルクス主義であれ、情報概念の理論化を要請したことがわかる。
編集部からの当初の依頼は、「情報概念と政治学」について論述せよとのことである。「コミュニケーション」ほどではないにせよ、「情報」を扱った政治学研究も国内外でみられるようになったから、以上に略述した理論状況を踏まえて、情報概念を政治学的に整理し深化する必要はたしかにあるだろう。
だが、私にとって問題なのは、情報が「雑音の対概念」で「秩序のある反映」であるかどうかという概念規定の問題ではない。むしろ、なぜ「科学的社会主義」の世界でそのような定義に一本化されたのかという政治的文脈であり、政治学者武者小路公秀がアントニオ・グラムシの「機動戦から陣地戦へのヘゲモニー闘争」になぞらえて、「機動戦・陣地戦から情報戦・諜報戦へ」と定式化している、情報が政治学の問題として提起されるようになる歴史的文脈である。
村山政権から橋本政権への「禅譲」にせよ、沖縄の日米地位協定問題にせよ、住専問題にせよ、この国の現実政治の不透明さは、政治情報の重要性と情報公開の切実さを、ありあまるほどに示している。阪神大震災と地下鉄サリン事件という戦後50年目の大惨事は、支配層をして、情報収集と情報伝達システム構築という危機管理の原点の重要性を、改めて認識させた。
薬害エイズについての厚生省の情報隠しの背後には、産学協同と薬事行政の権力構造が見え隠れしてくる。この場合は、厚生省ぐるみで裁判所に対してさえ情報操作を行ったと考えるべきだろう。同様な例は、医学用語として確立していないという理由で、労働省がそもそも「過労死」の存在そのものを認めず、長時間過密労働による突然死としての過労死への労災補償をほとんど認定せず、実態把握さえしてこなかった事例にもみられる(加藤『エルゴロジーの政治学』花伝社、1996年)。
じっさい政治における情報は、その時々の政府・党派・リーダーの政治的闘争・交渉・決定のリソースであるだけではない。より長い歴史の流れの中でも、民衆レベルでの政治的選択にあたっても、情報の収集・秘匿・公開・操作が、独自の役割を演じる。
以下では、情報の概念論を離れて、むしろ情報の日常的イメージ(『広辞苑』的規定)と現代政治史の文脈のなかで、政治との関わりを考えてみよう。
よく知られた例から始めるならば、1972年5月の沖縄の本土復帰は、1969年11月の日米首脳会談で基本的合意がなされた。すでに当時から、佐藤栄作首相とニクソン米国大統領との会談で、米軍の核兵器持ち込みを日本側が容認した秘密協定があるのではないかという疑惑は、「核抜き本土並み」という佐藤首相の公式の説明にもかかわらず、流布していた。72年施政権返還後も長期にわたってささやかれ、政治情報の一つの焦点となっていた。
そこに、四半世紀後の1994年、佐藤栄作の密使として当の交渉にあたった京都産業大学若泉敬教授の告白手記『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋社)が発表された。そこには佐藤栄作の未公刊日記をも用いて、秘密交渉の経過と密約の内容が詳細に述べられていた。その内容を、当時のアメリカ大統領補佐官キッシンジャーも、佐藤首相秘書官楠田實も基本的に認めることによって、事実関係が明らかになってきた。
沖縄返還を政治目標に掲げたのは、1960年の改訂日米安全保障条約が固定期限10年とされ「70年安保決戦」を革新勢力が主張し始めたことに対する、保守勢力の対応の一つであった。沖縄では、祖国復帰協議会の返還運動が大衆的規模で盛り上がっていた。一方でのアメリカのベトナム参戦・泥沼化とドル危機、他方の日本の超高度経済成長と自由化による世界市場参入が、交渉の土台をつくっていた。若泉手記によれば、「佐藤首相は極めて用心深い人で、よほどの自信と決意がなければ、あるいは時間的にギリギリまで追い込まれないかぎりは、自分の意見を表明しない。その一方で、さまざまな情報を誰よりも早く入手するのに人一番熱心」な指導者であった(24頁)。そしてそれが、外務省を通じた公式ルートとは別に、私的密使を用いた秘密交渉という外交手法に導いた。
似たような密約情報は、1956年の日ソ国交回復と北洋漁業との関係や、1958年のインドネシアへの賠償と利権をめぐっても、ささやかれてきた。もっとも日本の政治情報は、情報公開法のあるアメリカなどとは異なって、政府の内部資料の公開が極端に遅れているという事情がある。沖縄返還秘密交渉や厚生省のエイズ検討資料の秘匿は、その氷山の一角である。日本国憲法制定時の貴族院憲法改正小委員会の筆記記録から、現憲法の「文民」規定の立法プロセスが明らかになったのは、半世紀も後のことであった。
筆者自身も、1991年のソ連崩壊以後、旧ソ連秘密文書から新たな情報を得て、戦前社会主義・共産主義運動の歴史的再認識にとりくんでいる。きっかけは、学生時代から関心を持ってきた元東京大学医学部助教授国崎定洞の旧ソ連での死にまつわる真相の解明であった。極端に情報が少なかったスターリン粛清期モスクワでの日本人コミュニティについて、クレムリンの奥に眠っていた秘密情報が現れてきたのである。
旧ソ連の秘密文書は、建国時からのソ連共産党の書記局文書を含めて、現在膨大な量のマイクロフィルムが公開されつつある(Archives of theSoviet Communist Party and Soviet State, 1994-)。『レーニン全集』未収録の内戦期のテロル指令やイネッサ・アルマンドへの恋文を含む3724点のレーニン資料は、一足早くヴォルコゴーノフの『レーニン――新しい伝記』(D.Volkogonov,Lenin:A NewBiography,New York 1994)で一部が公開された。ただし、その邦訳である『レーニンの秘密』上下巻(NHK出版、1995年)では、なぜかアルヒーフ番号など典拠を示す注解が省略されており、歴史的資料としての価値を半減させている。
戦後のコミンフォルムの完全会議録・秘密文書が公開されて、ソ連・ユーゴスラヴィア両共産党間の決裂の決定的契機の一つがバルカンにおけるスターリンとチトーの権益争いであったことが明らかになった。冷戦起源論への新情報である(The Cominform: Minutes of the Three Conferences 1947/1948/1949,Milano 1994)。。かつて日本のマルクス主義経済学に大きな影響を与えたヴァルガの晩年の政治的遺書も、ようやく陽の目をみた。ひそかに噂されていた情報の資料的裏付けである(G.Duda,Jeno Varga und die Geschichte des Instituts fur Weltwirtschaft und Weltpolitik in Moskau 1921-70,Berlin 1994)。
私の探求してきた国崎定洞の死の真相も、1930年代の在モスクワ日本共産党指導者片山潜・野坂参三・山本懸蔵らとの関わりで、思わぬかたちで明らかになった。以下に、私のパソコンの情報ファイルのなかから、最近『思想の科学』誌1996年3月号に寄せた小論をよびだして、一部を省略して転載しておこう。
国崎定洞といっても、なじみのある読者は少ないであろう。1894年生まれの医学者で日本の社会衛生学の開拓者、東京帝大医学部助教授として留学中の1928年にドイツ共産党に入党し、日本語部責任者として千田是也、勝本清一郎、小林陽之助、野村平爾ら在独日本人の反戦反ナチ活動を指導した国際的革命家である。ベルリン日本人反帝グループの代表としてアムステルダム国際反戦大会に出席した直後、1932年9月4日に片山潜の招きでモスクワに亡命、37年8月4日に逮捕され12月10日に銃殺された。いわゆるスターリン粛清による日本人犠牲者の一人である。
実はこんな経歴が明らかになったのは、2年ほど前のことである。東大医学部時代については小宮義孝・曾田長宗ら医師・医学者たちの、ベルリン留学時代については有沢広巳・千田是也・鈴木東民・山田勝次郎・平野義太郎・堀江邑一ら共に青春をすごした友人たちの証言・回想である程度は知られていたが、モスクワでの国崎定洞については、謎につつまれタブーにされてきた。1930年代後半にソ連で行方不明になったのだから「偉大な同志スターリン」によって暴かれた「帝国主義の手先・スパイ」であったろうという憶測が戦後の日本共産党周辺でささやかれ、党幹部から公然と語られていた(神山茂夫「武装メーデー事件」『文藝春秋臨時増刊・昭和の35大事件』1955年8月)。
国崎定洞が戦後に再発掘されたのは、医学史家川上武らの『国崎定洞――抵抗の医学者』(勁草書房、1970年)によってである。川上は、日本医学史を資本主義発達史のなかで位置づける作業のなかで、小宮・曾田・有沢・千田らからの綿密な聞き取りによって、社会衛生学の先駆者としての国崎定洞の生涯に光をあて、国崎の名を歴史に蘇生させた。
国崎定洞のソ連での粛清・客死が明らかになったのは、1974年のことである。ベルリン時代の友人鈴木東民夫妻が、西ベルリンの電話帳を手あたり次第にあたって、フリーダ夫人・遺児タツコの存命を奇跡的に確認した。フリーダ夫人は1960年頃に、ベルリンのソ連大使館から夫国崎定洞のソ連での死亡を口頭で通知されていた。鈴木・千田・有沢・石堂清倫ら友人たちが「国崎定洞をしのぶ会」を開きマスコミもとりあげた。それを後追いして日本共産党もソ連共産党に問いあわせ、国崎定洞の1937年8月4日の逮捕、12月10日「獄死」の命日、59年法的「名誉回復」の事実が明らかになった。32年ソ連亡命後の国崎が、クートベ(東洋勤労者共産主義大学)大学院に学び外国労働者出版所で働いていたこと、片山潜の死後なぜか国崎は在ソ日本人のなかで孤立したこと、フリーダ夫人は夫の生死も不明のままスターリンのソ連からヒットラーのドイツへと強制送還され娘とともに苦難の生活を強いられたことなどが、フリーダ夫人の証言で判明した。
しかし、国崎定洞の逮捕・粛清の理由は、依然謎に包まれていた。「しのぶ会」事務局の川上武と私は、国崎の伝記を改訂し遺稿集を編んで、その粛清の理由を、ベルリン時代の国崎がドイツ共産党反対派として後に粛清されたハインツ・ノイマン、ヴィリ・ミュンツェンベルグらと親しかったこと、36年に国崎がスペイン戦争国際義勇軍に志願しソ連出国を拒否されたのでそれが「トロツキスト」と疑われたのではないか、と推定した(『流離の革命家』1976年、『社会衛生学から革命へ』1977年、共に勁草書房)。
ところが1989年のベルリンの壁の崩壊、91年のソ連解体は、全く予想外の国崎定洞粛清の真相をもたらした。日本共産党名誉議長野坂参三の失脚・除名を導いた小林峻一・加藤昭『闇の男』(文藝春秋社、1993年)の付録資料のなかに国崎の名が出てきた。そこには59年10月のソ連最高裁判所「国崎定洞の名誉回復決定書」も入っていた。私たちは、それらソ連共産党公文書館秘密資料「国崎定洞ファイル」を解読して粛清の真相をつきとめた。国崎の「獄死」は「銃殺」であった。「売った」のは山本懸蔵であった。
その詳細は、加藤『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)、『国民国家のエルゴロジー』(平凡社、1994年)、及び川上・加藤共著の決定版伝記『人間 国崎定洞』(勁草書房、1995年)に記したが、モスクワでの国崎定洞は、党籍はドイツ共産党のままでも多くは日本共産党関係の仕事に従事していた。国崎をモスクワに招いた当時の片山潜は、日本からやってきた指導者山本懸蔵・野坂参三と折り合いが悪かった。特に片山と山本はたがいに「スパイ」と疑いあっており、片山死後の34年秋から、後見人を失った国崎は、山本の密告によりソ連秘密警察にひそかに監視されていた。
銃殺時の国崎のスパイ容疑は東大助教授就任前の兵役中に陸軍諜報部とつながったということであったが、「ファイル」を仔細に検討すると、入国時からモスクワ日本共産党指導部内の疑心暗鬼に巻き込まれ、プチブル出身の片山派として山本に逆恨みされ秘密警察に売られていた。国崎と同期に粛清された1930年代ソ連在住日本人は、国崎を売った山本懸蔵夫妻や野坂参三夫人龍を含め約40人が確認された。その他40人余が逮捕・銃殺・強制収容所送り・国外追放になった可能性が高いが行方不明のままである。そのほとんどは、片山・山本・野坂・国崎の4人の指導者との政治的・人的つながりがそのまま「スパイ団」とされたものであった。在ソ日本人コミュニティは、連鎖的に粛清されて壊滅した。その頃ソ連の雑誌では「外国に居住する日本人はみなスパイであり、また外国に居住するドイツ人はみなゲシュタポの手先である」と公言されていた。この時代を自己保身を重ねて無傷で生き残りえたのは、野坂参三だけであった。
旧ソ連からの新しい情報によって、私の戦前日本社会運動史の見方は再考を迫られた。野坂参三や山本懸蔵はともあれ、「国崎定洞ファイル」に登場する在ソ連日本人の名は、ほとんどが初めて聞くものであった。国崎定洞と共にドイツで反帝反ナチ活動を行った千田是也・勝本清一郎・平野義太郎・島崎蓊助・三宅鹿之助らの名前も、秘密文書には出てきた。ただし、スターリンの指導する国際共産主義運動を支持した人々としてではなく、モスクワや日本共産党の意向に従わない「スパイ」の疑いもあるブルジョア知識人グループとして。
秘密文書を解読していくと、次々と新事実がでてきた。片山潜の秘書であった勝野金政は、すでに1930年秋に山本懸蔵の密告でソ連の強制収容所に送られていた。その根拠となったのは、ベルリンの国崎定洞の紹介で片山潜を頼ってモスクワに渡った根本辰という哲学青年がスパイと疑われ、勝野が根本をかばったからであった。根本は、ソ連を国外追放になり日本で病死したが、遺族のもとにはいくつかの遺品が残されていた。勝野は、34年に強制収容所を脱出し、モスクワ日本大使館の助けで奇跡的に日本に帰国した。戦後はひっそりと実業家として生きて、回想記『凍土地帯』(吾妻書房、1977年)の他にも、多くの未発表手記を残していた。
私は、秘密文書中の偽名を含む日本人の名前を一つ一つ洗いだし、当時の特高警察文書など乏しい日本側情報を整理しながら、千田是也・寺島儀蔵らの生存者や関係者遺族から聞き取りをし、史実を再構成していった。国崎定洞らベルリン反帝グループと旧ソ連で粛清された日本人についての情報は、無秩序であり、断片的であった。秩序立てられた日本共産党の公式党史や歴史学者の既存の仕事はほとんど役に立たず、逆に真相解明の妨げになる「雑音」も少なくなかった。関係者の一人一人について情報ファイルをつくり、ベルリンやモスクワ時代のことばかりでなく、彼らの全生涯の情報を集め整理していくと、現代政治史のいろいろな断面が見えてきた。
たとえば、比較的よく知られた、戦前日本の女優岡田嘉子と日本共産党員であった演出家杉本良吉の「恋の逃避行」の真相と帰結。二人の樺太経由でのソ連越境は、1938年1月3日、それを決意したのは、37年12月中旬だった。ちょうど日本軍の南京入城、すなわち南京大虐殺の頃である。越境を言い出したのは、共産党員杉本良吉ではなく、愛人の岡田嘉子だった。岡田は、排外ナショナリズムの熱狂のなかで、もはや自分の思うような芝居や映画は、日本国内では不可能になったと感じとった。軍国主義のお先棒をかつぐのはまっぴらだったと、後に語っている。杉本良吉は、5年前に、越境当時は獄中の宮本顕治から「コミンテルンとの連絡」を命じられ、北海道からの渡航を試みて失敗していた。特高警察の監視と病弱の妻と愛人岡田との葛藤から逃れるためにも、杉本にとっては渡りに舟の誘いであった。
だが、彼らの情報収集はあまりにお粗末で、計画は無謀であった。当時のソ連は、数千万人に及ぶ大粛清のさなかであった。共産党員杉本にとってはソ連はあこがれの「労働者の祖国」であったが、実際には共産党員であれ一般労働者であれ、全労働力の1ー2割は強制収容所の奴隷労働に従事していた。ソ連の官僚主義や民主主義抑圧についての情報も、ないわけではなかった。たとえばソ連の擁護者から批判者に転じたフランスの作家アンドレ・ジイドのソ連旅行記は、日本でもすぐに翻訳・紹介されていた。だが、民主主義抑圧なら、日本の軍部・特高警察も負けず劣らずであった。杉本の親しかった宮本百合子らは、ジイドを批判しソ連を信じて疑わなかった。岡田は素朴にソ連の演劇にあこがれていた。杉本も岡田も、幻想の社会主義に酔っていた。
なによりも、二人がモスクワにいけば会えると信じていた日本人演出家、土方与志夫妻も佐野碩も、国崎定洞の逮捕の頃、37年8月には国外追放になっていた。岡田嘉子による国境警備隊慰問を装って奇跡的に越境した二人は、「天国」のはずのソ連側に入って即座に逮捕された。政治亡命を主張したが認められず、密入国とされた。取り調べも別々にされ、2度と会うことはなかった。
モスクワから粛清ノルマを課されていたサハリンの国境警備隊は、二人に「日本のスパイ」としての自白を迫った。それどころか、二人が頼ってきた佐野碩も、その師である当代ソ連の著名な演出家メイエルホリドも「スパイ団」の一味であることを認めさせようとした。岡田嘉子がまず拷問に屈し、越境1週間後の38年1月10日の供述では、日本の特務機関のスパイであると認めた。その供述書をもとに、杉本良吉も佐野碩・土方与志がスパイであったと認め、39年10月20日に銃殺刑に処された。岡田も10年の強制収容所送りとなった。佐野の師であったソ連の演出家メイエルホリドは、岡田・杉本の供述を根拠に、39年6月に「日本のスパイ」として逮捕され処刑された。岡田嘉子は獄中で、対日工作にも従事させられた。戦後に釈放されてモスクワで演劇を学び、1972年以来幾度か来日して92年2月10日に没した。だが、生前の3種の自伝やインタビューでも、ラーゲリ時代の真実を語ることはなかった。旧ソ連に残された岡田嘉子、杉本良吉、メイエルホリドらのファイルによって、岡田の死後にようやく真相が解明された(加藤『モスクワで粛清された日本人』、名越健郎『クレムリン秘密文書は語る』中公新書、1994年、今野勉「岡田嘉子の失われた十年」『中央公論』1994年12月)。
岡田嘉子・杉本良吉のような有名人の場合は、それでも生存の噂を含む情報が戦後にも残され、その消息を求める友人・知人・ジャーナリストたちがいた。戦前日本共産党やマルクス主義文献の影響を受け、ソ連を「労働者の天国」と信じて海を渡った無名の日本人数十人の粛清については、ソ連の崩壊後にようやくその存在そのものが明るみに出た。
旧ソ連の野坂参三や国崎定洞に関わる秘密ファイルのなかに、日本人と思われる人物の供述や名前が出てきた。「アメ亡組」とよばれる、アメリカ経由でソ連に渡った日本人17人がいた。多くは沖縄出身で、貧しい日本からアメリカ西海岸に移民し、人種差別のなかで労働運動やアメリカ共産党に加わり、30年代初めに国外追放になって、日本に帰らずソ連に渡り行方不明になっていた。その大部分が、1836ー38年に無実の罪で逮捕され処刑されたことが、ソ連側の文書によって確認された。
それ以外にも、多くは東北・北海道の貧しい農家の出身で、鉱山労働者や船員・漁師として北樺太オハ石油鉱業所、ウラジオウトックなどに渡り、そのままソ連に住み着いて善良な市民となっていた数十人の日本人が、「スパイ」として逮捕・粛清されたことがわかってきた。そのうちソ連でロシア女性と結婚して子供をもうけた須藤政尾・安保由五郎については、ロシアの遺族と日本の遺族に連絡がつき、法的「名誉回復」がなされた。小石濱蔵についても、日本の遺族は半世紀以上たって、その命日を知った。
スターリン粛清日本人犠牲者のほとんどは、他の日本人の自白供述をもとに「スパイ」とされていた。野坂参三、山本懸蔵、国崎定洞らとの直接・間接のつながりがそのまま「日本のスパイ団」とされ、拷問で友人の名前を挙げさせられ、その友人たちも逮捕された。
これらは私が、25年の強制収容所生活を体験して現在ロシアで生存が確認できる唯一の犠牲者である寺島儀蔵らと連絡をとり、日本の心ある研究者・ジャーナリストやロシア側の粛清犠牲者救援ボランティア団体メモリアルなどの協力で、この2年ほどで明らかにしてきたものである。幻想のユートピアにあこがれ裏切られた人々――情報は、それが誤報や雑音であったにしても、時に人の生命や運命を左右するのである。
国崎定洞が当時の日本共産党モスクワ代表である山本懸蔵によって密告され、ソ連秘密警察に「日本帝国主義のスパイ」として粛清された根拠のひとつに、彼が責任者をつとめ指導していたナチス台頭期ベルリンでの日本人留学生・滞在者による反戦・反帝国主義活動が、山本懸蔵やソ連側からみれば「党に反対」で「ファシスト」が含まれているという記述が、旧ソ連秘密文書「国崎定洞ファイル」に入っていた。在独日本人左翼グループ、ドイツ共産党日本人セクション、ベルリン会などとよばれたこの日本人反帝グループについては、千田是也、勝本清一郎ら帰国して戦後の日本で活躍した中心メンバーの回想で、ある程度は知られていた。
1975年の日本共産党による国崎定洞の「名誉回復」後は、それまで沈黙を守っていた人々も、断片的にその青春の思い出を語り始めた。当時私は、医学史家川上武と共に「国崎定洞をしのぶ会」の事務局を勤めており、ベルリン反帝グループの活動を「統一戦線」の視角から再現しようと試みた。まだ存命中だった千田是也・平野義太郎・鈴木東民・堀江邑一・八木誠三らから話を聞き、ドイツ留学中に集めてきた1932年に国崎定洞らが日本の満州侵略に反対して組織した革命的アジア人協会関係資料、それに、今日のような復刻版もない時代に川上武らが苦労して集めた大岩誠や小栗喬太郎らの日本の特高警察への供述調書などの情報から、国崎定洞の周辺で活動した学者・芸術家・ベルリン大学学生らの名前を特定していった。その成果は川上武『流離の革命家』にとり入れられると共に、私自身の論文としても発表した(「国崎定洞論」『日本の統一戦線運動』労働旬報社、1976年)。しかし、当時は情報が限られており、私の研究ももっぱら国崎定洞と直接関わる時期と関係者に限定したため、このベルリン反帝グループの国際的広がりや歴史的意義は、十分に把握できなかった。
1993年秋に「国崎定洞ファイル」を入手し、20年ぶりでベルリン反帝グループを再検討しようとした時、もはや多くの関係者は亡くなっていた。20年前なら得られたかもしれない証言や情報は、文書資料がようやく出てきた時には、収集不能になっていた。国崎定洞のモスクワでの死の真相をつきとめるために、私は改めてベルリン時代の国崎定洞の活動と軌跡の情報を整理し、再吟味しなければならなかった。
グループの前身は、ベルリン社会科学研究会である。関東大震災後、文部省は大量の若手研究者を在外研究に派遣していた。その大部分は、ドイツを渡航先に含めていた。ワイマール民主主義のもとで世界の学術文化の中心になり、しかも日本人にとってはマルクが安いベルリンは、格好の留学・滞在先であった。
1926年末に、有沢広巳・蝋山政道・国崎定洞ら文部省派遣の東大助教授、蝋山の弟で京大助教授の山田勝次郎、堀江邑一・谷口吉彦・山本勝市ら京大河上肇門下の若き経済学者たち、東大出身で九州大学の菊池勇夫・舟橋諄一、福島高商の松山貞夫らが集まって、日本語なら伏せ字だらけのブハーリン、スターリン、ヴァルガ、マルクス、エンゲルス、レーニンらの文献を読む研究会を始めた。これが社会科学研究会である。後に横田喜三郎、土屋蕎雄、平野義太郎、黒田覚、八木芳之助、高野岩三郎、蜷川虎三らも顔を出し、鈴木東民、岡上守道、与謝野譲ら在独ジャーナリスト、それに演劇の千田是也を介して衣笠貞之助、岡田桑三、岡内順三ら芸術青年たちも関わる。
この社会科学研究会のなかから、ドイツ共産党に入党する国崎定洞、千田是也らを中核に、29年頃には、より実践的な左翼グループが生まれる。社会科学研究会の若手学者たちのほとんどは帰国するが、有沢広巳、平野義太郎、堀江邑一らは、友人や後輩をこのグループに送り込む。1929ー33年期には、東大医学部教授のポストを捨ててドイツ共産党に入党し、日本語部責任者として職業革命家になった国崎定洞の指導のもとに、反帝グループが組織された。三宅鹿之助、服部英太郎、小林義雄、三枝博音、岡部福造、大岩誠、野村平爾、山西英一ら若手学者ばかりでなく、千田是也、岡内順三、勝本清一郎、島崎蓊助、藤森成吉夫妻、山口文象、佐野碩、鳥居敏文、竹谷富士雄、土方与志ら文学・演劇・美術・建築・写真などの芸術家たち、それに、多くは旧制高校で左翼運動に加わり放校され親が心配してドイツに送った良家の子弟たちがいた。
小林陽之助、川村金一郎、根本辰、和井田一雄、喜多村浩、安達鶴太郎、嬉野満洲雄、八木誠三、小栗蕎太郎、井上角太郎、大野俊一、千足高保らベルリン大学等の留学生たちを含むこのグループは、マルクス主義文献の読書会のほか、日本のナップやプロ科、反帝同盟、モップルなど左翼組織との連絡、革命的アジア人協会などでの在欧中国人・朝鮮人組織との連帯、反戦反ナチの街頭行動・文化活動、それにモスクワやロンドン、パリ、ニューヨークの日本人左翼グループとのネットワークづくりにたずさわっていた。ちょうどワイマール民主主義のなかから、ドイツ共産党とナチスの両翼が台頭し対立が尖鋭化していた。日本でも左翼運動が最盛期を迎え、軍部主導の中国侵略が本格化する時期であった。
在モスクワの片山潜・野坂参三とベルリンの国崎定洞・千田是也・勝本清一郎らとのつながりで、当時の左翼情報は、このグループがいち早くモスクワから入手し、さまざまなルートで日本に伝えていた。いわゆる「32年テーゼ」がベルリンの国崎定洞から日本の河上肇に送られ『赤旗』特別号に訳出されたことはよく知られているが、そればかりではなく、当時のナチス台頭を伝える『改造』『中央公論』から『戦旗』『働く婦人』にいたる日本の雑誌へのドイツ現地からの寄稿の多くに、このグループが関与していた。
日本人反帝グループと共に活動した朝鮮人李康国は帰国して京城帝大助手になり、ベルリンで一緒だった助教授三宅鹿之助と共に、1934年5月に抗日活動の容疑で検挙された(京城帝大赤化事件)。また、日本人グループと共にドイツで日本の満州侵略に反対した中国人グループの廖承志・章文晋・王柄南・成仂吾らは、戦後の日中友好運動の中国側窓口の中心となる。
1930年夏に、新明正道、大熊信行、杉本栄一らは、国崎定洞らとは別個にカール・コルシュ、アウグスト・タールハイマーを囲む研究会を開いていた。このグループからも、服部英太郎は反帝グループに加わる。またパリには、ベルリン反帝グループと密接な関係をもち、大岩誠・嬉野満洲雄・野村平爾・佐野碩・和井田一雄、大野俊一ら一部メンバーが重なる、ガスプ(在巴里芸術科学友の会)という組織があった。パリ・ガスプ・グループの中心は、ファシズムの芸術抑圧に反対し、自由と平和に敏感な内田巌・佐藤敬・吉井淳二・田中忠雄ら若手画家たちで、後にドイツに移る野村・嬉野・大岩・和井田・大野らのほか、美術研究の富永惣一、建築の坂倉準三、化学の平田文夫らが加わっていた。歴史家ねずまさしが、岡田桑三の勧めでモスクワに向かう途中、33年5月にパリで会ってフランス的反戦感覚を学び、日本に戻って新村猛・真下信一・中井正一らの『世界文化』の活動に加わる契機をつくったのは、このパリ・ガスプ・グループとの出会いであった。
当時の在欧日本人知識人の反戦平和ネットワークとは、東大新人会、京大学連事件、3・15日本共産党検挙、プロレタリア文化運動などの共通体験に、最新の反ファシズム左翼情報の共有をオーバーラップさせたものであった。
ベルリン反帝グループについての情報で、なお未解明な謎がいくつかある。そのなかのひとつをとりあげて、政治と情報との関わりを考える小論の締めくくりとしよう。それは、1932年5月25日付ドイツ語版コミンテルン機関紙『インプレコール』初出の「日本の情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」、いわゆる「32年テーゼ」がどのように日本に伝えられたかという問題であり、政治的文脈での情報過剰により歴史的事実の解明が困難となっている事例である。
いわゆる「32年テーゼ」は、1932年6月28日付日本共産党謄写版パンフレットにドイツ語から初訳され、7月10日付『赤旗』特別号、『インタナショナル』32年9月1日号にも発表された。折から岩波書店で刊行が始まっていた『日本資本主義発達史講座』との基本的合致によって、戦前・戦後のわが国社会科学に大きな影響を与えた。その内容的問題にはここでは立ち入らないが、この「32年テーゼ」日本語訳の作成経緯は、河上肇『自叙伝』に、次のように記されている。やや長くなるが引用しておこう(第2巻、岩波書店、1952年、173頁以下)。
「偶然にも私はこのテーゼに対して特別の関係を有ち得た。と云うのは、日本共産党の中央部がまだ之を手にしていない以前に、私は逸早くその全文を翻訳して之を党に提出することが出来たからである。このテーゼの独逸語訳が独逸版のイムプレコールに載るや否や、当時ベルリンにいた国崎君(元東京帝国大学医学部助教授)が直ぐに私の処へ郵送してくれた。で私はまた直ちにその事を党本部に通じると、大至急それを翻訳し原文を添えて提出しろと云うことであった。そんな関係からそれは非常に急いで訳出されたために、遺憾ながら訳文は頗る生硬を免れなかったが、(訳文を提出し了へるとまた国崎君から独逸語訳そのものの誤謬を詳細に訂正して来たけれど、その時はもはや私の手許に先きの原文がなかった。で私は訂正表をそのまま党本部に回送するに止めたが、その後それはどうなったものか、行方知らずになってしまった。後日私は中央委員長風間丈吉君に之を尋ねたところ、そんなものは自分は全く知らないと云うことであった。資金局の手を経たから、そこの実権を握っていたスパイ松村が握り潰したものかも知れない。)
ともかくかうした歴史的文書を逸早く党のために訳出し、それが早速印刷に付せられて広く同志の間に散布され得たと云うことは、私の非常に満足した所であった。テーゼの原文は1932年(昭和7年)6月25日付で発表されているが、その日本訳は早くも7月10日の『赤旗』特別号として頒布されたのである。それには本田弘蔵訳としてあった筈だ。本田弘蔵、これが私の地下の党名である。」
これは、河上肇の戦後に発表された回想である。1938年執筆開始とされ、事実関係とは異なる記述もある。情報化の今日ならともかく、シベリア鉄道・船便の時代に6月25日にドイツの新聞に発表されたテーゼが、7月10日に日本語訳が出るのは、いかにも早すぎる。調べてみると、5月20日付独文『インプレコール』が初出で、日本語初出は日本共産党の謄写版冊子があり6月28日付である。最近の岩村登志夫の研究によると、テーゼそのものは4月初めにロシア語で草案が書かれていたと確認できるが(Jahrbuch fur Historische Kommunismusforshung 1994,Berlin 1994)、日本語初訳の底本は国崎定洞から河上肇に渡ったドイツ語版『インプレコール』に公表されたものである。
また、当時の日本共産党による翻訳には、訳者は書かれていない。実際には河上肇訳がもとになっていたが、村田陽一が手を加えていた。したがって「本田弘蔵」は河上肇の党名であったにしても、「32年テーゼ」がその名で発表されたわけではない。河上が届けた「党本部」とは、河上の教え子で当時の日本共産党の4人の中央委員の一人、『日本資本主義発達史講座』の山田盛太郎の幼ななじみでもある岩田義道とも読めるし、後半の「資金局」云々からは、特高警察のスパイM=松村=飯塚盈延とも読める。もっとも後者の場合でも、共産党の依頼で翻訳に加わった村田陽一は、確かに河上肇の訳文を読み、ドイツ語原文のMonarchieの河上訳「君主制」を「天皇制」と改めたというから、松村が「握りつぶした」わけではない(村田「32年テーゼと河上さん」『河上肇全集・月報5』岩波書店、1982年5月)。
河上肇は、「32年テーゼ」をベルリンの国崎定洞から「郵送」されたという。国崎定洞と河上肇のあいだに文通があったことは、堀江邑一らの証言でも確認されている。河上『自叙伝』の上述箇所の直前には、1932年頃に「モスコウの片山潜氏とも連絡がついて、同氏の要求により、私の方からは、私の入手しうる一切の非合法的印刷物――党関係のもの、全協関係のもの、等々――を絶えず郵送していた」とある(153頁以下)。
この当時の日本とモスクワの片山潜との連絡は、ベルリンの国崎定洞が担当していた。「国崎定洞ファイル」中に入っていた日本語の自筆履歴書(1932年6月執筆)で、国崎定洞は、1929年からモスクワの片山潜と日本共産党との連絡を始め、31年頃からそれが「公式の組織的連絡」になったと述べている(川上・加藤『人間 国崎定洞』)。 32年当時の日本共産党中央委員長風間丈吉も、転向前の獄中手記で、国崎定洞と中央委員岩田義道との連絡ルートを示唆している(『「非常時」共産党』三一書房、1976年)。また、千田是也・勝本清一郎・藤森成吉・山口文象らは、それぞれ演劇・文学・建築・美術など自分の専門分野のプロレタリア文化ネットワークで、モスクワやベルリンの情報を日本に送り、日本からの情報をベルリン・モスクワの国際組織や片山潜に送っていた。日本共産党は、1931年6月のヌーラン事件で上海ルートが途絶えて後、国崎定洞らのベルリン・ルートを、モスクワとの国際連絡の最重要ルートとしていた。
問題は、モスクワと日本共産党をつないだ国崎定洞と河上肇の手紙の、1932年5月当時の伝達ルートである。一方は、元東京大学助教授で、ドイツ共産党に入党して帰国を拒否した職業革命家、他方は、京大教授を辞して実践活動に飛び込み、当時のマルクス主義の普及と左翼運動隆盛に絶大な影響力をもった求道の経済学者、当然、特高警察は私信を含めて監視している。だから、二人の情報伝達・交換には、第3者を介する特別の手段が用いられていた。
私自身の1973ー76年段階での聞き取り調査では、ベルリン留学中にドイツ共産党に入党し帰国後も国崎らと連絡を保っていた堀江邑一は、高松高商図書館長の地位を利用して、ドイツから図書館宛に送ってもらった本の中をくりぬき、グループからの通信を恩師河上肇や日本共産党に渡したという。山田盛太郎と並ぶ『日本資本主義発達史講座』の代表的論者平野義太郎も、ドイツ留学中に知り合った国崎定洞からの通信を、『講座』の編集委員である野呂榮太郎を介して日本共産党に託したと語っていた。国崎定洞の東大医学部時代の後輩であり親友であった小宮義孝は、1932年当時は政治的に日本共産党から離れていたが、国崎定洞からの依頼は忠実に果たしていた。そして、一海知義によると、河上肇自身は、弟の河上左京を国崎定洞との連絡ポストにしていた(一海「国崎定洞」、杉原四郎・一海知義『河上肇――芸術と人生』新評論、1982年)。
だから、私はかつての論文で、当時モスクワにいて「32年テーゼ」作成に実質的に関わった唯一の日本人山本正美、日本側窓口として河上肇・岩田義道・野呂榮太郎らと連絡をとっていた平野義太郎・堀江邑一、「32年テーゼ」翻訳者の一人村田陽一らからの聞き取りにもとづいて、国崎定洞の「32年テーゼ」伝達ルートは複数以上存在し、河上肇にはそのうちの一つから渡ったのであろうと述べた(加藤「『32年テーゼ』の周辺と射程」『思想』1982年3・4月)。
ところが、最近『河上肇全集』を読みなおしてみると、宮川実という河上肇の弟子の経済学者が、自分はドイツ留学からの帰途、帰国直前に出た「32年テーゼ」を海路持ち帰り直接河上肇に渡した、それが河上訳の底本となった、と晩年に告白手記を残していることを知った(宮川『河上肇――その人と思想』学習の友社、1979年)。しかも、『河上肇全集・月報』を読むと、村田陽一や岩村登志夫のような専門研究者が、あっさり宮川証言を認めている(村田「32年テーゼと河上さん」『月報5』、岩村「河上訳稿の行くえ」『月報16』1983年4月)。
しかし、宮川実とならぶもう一人の河上肇直系の弟子で、自ら国崎定洞を河上肇に紹介したという堀江邑一は、宮川証言は誤りだとする。同じ『河上肇全集・月報』誌上で、「宮川君が、先生が訳された32年テーゼのことをどこかで書いていて、あの原文が載った『インプレコール』は自分がドイツから持ち帰ったものを先生に渡して、それを先生が訳されたというように言っているようですが、それはなにか宮川君の勘違いですね。宮川君も確かにあの頃ドイツから帰ってきますから、なんらかの形で持ち帰ったのでしょうが、先生は国崎定洞がドイツから送って寄越したものを使われたのでね。そのことは私がうかがった時にも先生の口から直接おききしました」と明言している(堀江「思い出すままに」『月報28』1984年9月)。
河上肇研究の世界でも、一海知義は、河上『自叙伝』の「国崎定洞からの郵送」と「海路持ち帰り手交」とする宮川証言との矛盾に疑問を持ったらしく、宮川実に直接手紙で問いただした。宮川は、「わたくしがドイツにいたとき、国崎君とは親交があり、わたくしを片山潜に紹介したのもかれでした。『32年テーゼ』を日本に持ち込もうということになり、わたくしが持って帰ったのです。先生にお渡ししたとき、先生は、国崎君が郵便で送ったことにしようと、言われました。当時はそれほど警察の追求がはげしかったのです。……なぜ自叙伝にわたくしのことを書かれなかったというと、先生は、わたくしに迷惑のかかるのをおそれられたからだと思います」と書簡で答えてきた。一海は、それでも納得できなかったのか、「日本への帰国が何月何日だったか、宮川書簡には書かれていなかった」と注記し、河上左京の子である河上荘吾からの聞き取りで、国崎定洞→河上左京→河上肇→日本共産党という「郵送」連絡ルートが実際にあったことを述べている(『河上肇――芸術と人生』)。
当事者のすべては、すでに故人となっている。文書資料での事実の確定が困難であるため、ここでは推定に留まるが、国崎定洞研究にたずさわってきた私は、先の宮川実証言は、「雑音」情報ではないかと考えている。その理由は、おおむね三つである。
一つは直感的なもので、宮川実の晩年の告白が、日本共産党による国崎定洞の政治的「名誉回復」(1975年)の後に、初めて語られたことである。私の四半世紀の国崎定洞研究の体験からすると、国崎定洞が「スパイ」とされていた時代には沈黙し、日本共産党の「同志」と認定されると実は自分は国崎定洞の友人だったと語るような人物の情報は、疑ってかからなければならない。
証言当時の宮川実の肩書きは、労働者教育協会会長であった。国崎定洞がモスクワでスパイとして粛清されたという噂が日本共産党周辺で根強かった敗戦直後の時期から、国崎生存の希望をもって野坂参三や伊藤律らに問い合わせ、国崎の友人であったことを隠さなかったのは、小宮義孝、曽田長宗ら東大医学部関係をのぞけば、千田是也、有沢広巳、勝本清一郎、土屋喬雄、安達鶴太郎、八木誠三、浅野晃といった、戦後の日本共産党に距離をおいていた人々であった。『回想の河上肇』(世界評論社、1948年)で「在独の同志国崎定洞」と河上肇の交流を述べた堀江邑一は、例外に属する。平野義太郎、野村平爾らは、日本共産党とソ連共産党が疎遠になった1960年代末から70年代はじめに、公式に口を開いた。こうした人々は、少なくとも国崎定洞の「名誉回復」に積極的であった。 1970年代の日本共産党議長野坂参三は、モスクワでの国崎定洞を知るほとんど唯一の生き残り証人であったが、重い口を開いたのは、鈴木東民の献身的努力でフリーダ夫人の存命が確認され、千田・有沢ら関係者の「名誉回復」運動が始まり、大森実のインタビューなどでマスコミもとりあげるようになってからであった。それも、幾重もの粉飾と虚偽情報を交えての、自己保身の弁明であった。日本共産党によるソ連共産党への問い合わせは、野坂証言とほぼ同時に行われ、1937年12月10日という国崎定洞の命日と、1959年におけるソ連内での法的「名誉回復」が報じられた。それを確認してから初めて、自分はベルリンで「同志」国崎と一緒だったと語り始めた人もいた。
宮川実が1930年から32年にドイツに留学しベルリン・ミュンヘンに滞在したことは、当時の文部省「在外研究員表」で確認できる。河上肇『自叙伝』中の『資本論』翻訳のいきさつに、「当時ドイツ国のミュンヘンに留学していた宮川実君」が出てくることでも間違いはない。しかし、後のマルクス経済学者宮川実の歩みからすれば不思議なことに、当時の和歌山高商教授宮川実の名は、ベルリン反帝グループのなかにも、その周辺にも現れない。1975年の日本における国崎の「名誉回復」時も、その後も、国崎定洞のベルリン時代を知る関係者の口からは、一度ものぼったことはない。
つまり、私の知る限り、国崎定洞の周辺には宮川実の影は全くみあたらない。にもかかわらず、宮川の方は「親交」があったと述べている。ただし、アドラツキー版『資本論』の翻訳のために、宮川がモスクワで片山潜と会ったのは事実と思われるから、河上肇の依頼でその紹介ぐらいは国崎がしていたかもしれない。特高警察の目をおそれた国崎定洞が、ベルリン反帝グループの実践活動に加わっていなかったがゆえに、いわばノーマークの宮川を河上肇への「密使」として使った可能性もなくはない。ただし、それを示唆するような情報は、宮川本人の晩年の回想のみである。
第二に、宮川実の晩年のドイツ留学時代の回想の全体が、信憑性のうえで疑いがある。たとえば宮川は、1930年に新明正道、服部英太郎とともにカール・コルシュを訪れ、「福本[和夫]君はどうしていますか」と尋ねられた、と記している。
ところが新明正道は、この時期詳細な日記を残しており(家永三郎夫妻所蔵)、30年夏からのコルシュ宅訪問の記述も7回でてくるが、宮川実を同行した記述はない。コルシュ宅への同行者は、東大新人会の後輩で東北大の同僚である服部英太郎のほかは、杉本栄一、大熊信行、小畑茂夫といった東京商大出身の文部省留学組である。そもそも1930年5月に渡欧した宮川実の名は、29年5月から31年5月まで残されている新明正道の在欧日記に、一度も登場しない。服部英太郎・美代夫妻のドイツ留学の回想記録は、新明に比して断片的であるが、そこにも宮川実との接点はない。
たしかに東大新人会出身者と京大河上肇門下は、前身である社会科学研究会の成立経緯からして、ベルリン反帝グループに加わった知識人の2大供給ルートであった。しかし、新明らのコルシュ=タールハイマー研究会は、社会科学研究会で国崎定洞と対立した蝋山政道と親しい新明と、杉本栄一・大熊信行ら東京商大福田徳三門下の流れでつくられた。日本での3・15共産党検挙、4・26事件をくぐったこの時期、外事特高警察の監視が厳しい約500人の在ベルリン日本人コミュニティのなかで、新明正道らのグループは、国崎定洞らドイツ共産党系グループと意識的に距離をおいていた。同僚新明の帰国後に国崎に近づく服部英太郎の例外があるとはいえ、1930年のコルシュ宅訪問という宮川の記述は、当時の事情を知る者にとってはむしろ、国崎定洞グループとは疎遠であったことを示唆することになる。新明は、宮川証言後に自分の在独時代の記録を『ワイマール・ドイツの回想』(恒星社厚生閣、1984年)としてまとめているが、ここでも宮川のことは一言も出てこない(加藤「ベルリン反帝グループと新明正道日記」『新明社会学研究』5号、1995年9月)。
第三に、宮川実の在独時期と「32年テーゼ」発表時期との関係の問題がある。先に述べたように「32年テーゼ」は、1932年5月20日に初めてドイツ語で発表されている。3月2日のコミンテルン執行委員会で東洋部指導責任者である幹部会員クーシネンが報告して骨子がかたまり、4月初めにロシア語で草案がつくられたが、当時は全文は発表されていない。ところが、宮川実の日本帰国を当時の「文部省在外研究員表」で調べると、1932年3月30日となっている。これが日本帰国の日ではなくドイツ出発の日であったとしても、5月20日に発表される「32年テーゼ」を国崎定洞から手交され河上肇に手渡すことは、物理的に不可能である。
より詳しくいうと、「和歌山高商所属 宮川実 教授 学位法学 統計学及財政学研究 在留国独・伊・米 在留期間二箇年 在留地到着期日昭和5年5月1日 在留満期昭和7年3月30日」というのが、「在外研究員表」における宮川についての記述で、「備考」欄には「短縮1月2日」とある。これは、他の在外研究員の欄をも参照すると、文部省から2年分の在外研究費用が支給されて1932年5月1日まで滞在する権利があったが、本人の都合で「1月2日=32日分」の国費滞在費用が減額支給されたという意味である。
ただし、私の手許にある文部省専門学務局「在外研究員表」は、「昭和7年3月31日調」となっており、宮川が私費で滞独期間を延長した可能性もなくはない。和歌山大学の人事記録や宮川実の遺品にそうした情報が含まれていないか、一度調べてみようと思っている。一海の提起した宮川の「日本への帰国が何月何日であったのか」が決定的に重要となるゆえんである。
もっとも宮川離独が1932年5月20日以降と証明されても、依然として、河上肇訳の底本が堀江のいう「郵送」であったか、宮川実のいう「手交」であったかという謎は残る。どうやらこの問題は、河上肇門下の「一番弟子」争いとも関わっているようである。長谷部文雄・小林輝次・山本勝市ら周辺からの証言も重要になってくる。情報が増えれば増えるほど、「政治環境の不確定度」は低くなるどころか高まり、問題が錯綜してくる場合もありうるのである。
現時点での私は、村田陽一・岩村登志夫とは異なり、宮川実の「直接手交」証言は疑わしいと考えている。国崎定洞は、堀江邑一、平野義太郎、小宮義孝、河上左京ら複数の郵送ルートで「32年テーゼ」の載ったドイツ語版『インプレコール』を日本の岩田義道・野呂榮太郎、河上肇らに送り、実際に日本で用いられた河上肇訳・村田陽一補正の底本になったのは堀江邑一ルートか河上左京ルートでのものであったと推定している。
政治に関わる情報は、情報そのものが政治的性格を帯びており、その情報の発信・受信のコンテクストを見誤ると、事実認定が困難になる。「雑音」そのものが情報であり、本筋と「雑音」を見極める能力が、決定的である。そのさい「雑音」は切り捨てられるのではなく、なにゆえにその「雑音」が生じたかを解明することが必要である。
情報とは「判断を下したり行動を起こしたりするために必要な知識」という『広辞苑』の一般的定義にたちかえるならば、情報公開にもとづき可能なあらゆる情報をアクセス可能にすることとともに、「雑音」を見分ける知識こそが、インターネットにまで広がった情報戦の時代の情報化社会において必要とされる、現代人の市民的教養なのである。