1997年及び98年に行ったモスクワでの旧ソ連公文書館日本関係秘密文書調査は、実り多いものであった。もともと国崎定洞や勝野金政など旧ソ連で粛清・弾圧された人々の関係資料を求めてロシアを訪れたのだが、アルヒーフの日本関係資料整理は非系統的で、さまざまなファイルに分散されていたため、国崎定洞ファイルのほかにも、多くの副産物があった。このコーナーは、そうした副産物のなかでも「20世紀の神話」を崩壊させるに足るようないくつかの資料を紹介し、解読していく。これらの資料は、日本の社会運動史研究の中心センターの一つである法政大学『大原社会問題研究所雑誌』にエンドレスに掲載されていく予定なので、今後活字で公刊後3か月を原則として、HP上にも公表していく。以下にその第1回を掲載する。ちなみにこの論文の発表そのものが共同通信配信で大きく報道されたものなので、ここに東京新聞1998年10月18日付をスキャナーした記事を併せて収録しておく。


『大原社会問題研究所雑誌』第480号(1998年11月号)掲載

モスクワでみつかった河上肇の手紙

加藤 哲郎

 筆者は、昨1997年12月及び本1998年6月、モスクワのロシア現代史資料保存研究センター(旧ソ連共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所中央文書館)を訪れ、コミンテルン時代の日本関係文書・史料を探索した。筆者がこれまで『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)、『国民国家のエルゴロジー』(平凡社、1994年)、『人間 国崎定洞』(勁草書房、1995年)などで探求してきた、1930年代のスターリン粛清期に旧ソ連に在住し行方がわからなくなった約80人の日本人の消息を求め、そのなかでも、元東京大学医学部助教授国崎定洞、元片山潜秘書勝野金政、元プロフィンテルン(赤色労働者インターナショナル)日本代表山本懸蔵らの関係資料を閲覧するためである。閲覧は、97年12月はメキシコ大学教授で佐野碩研究家の田中道子氏、98年6月は富山大学藤井一行前教授と一緒に行い、ロシア語資料の解読については田中・藤井両教授のお世話になった。本連載は、そこで見いだした1000枚以上の日本関係資料のなかの重要と思われるいくつかを紹介し、その意味を考えるものである。

 第1回は、執筆月日は特定できないが、1930年夏に書かれたと思われる河上肇の未発表書簡と、それに関連する資料を紹介・解読する。この解読にあたっては、『河上肇全集』(岩波書店)の編集に携わった神戸学院大学教授・神戸大学名誉教授一海知義氏、関西大学・甲南大学名誉教授杉原四郎氏、岩波書店編集部、及びこの時期の日本の社会運動について詳しい同志社大学田中真人教授の手を煩わせたが、もとより本稿の全責任は筆者にある。記して感謝の意を表する。

 問題の手紙は、ロシア現代史資料保存研究センター所蔵日本共産党関係ファイルボックスの1931年関係文書の中に入っていた。旧ソ連共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所コミンテルン・アルヒーフの時代に、一応日本語がわかる所員が整理したようだが、分類は厳密なものではなく雑然としている。もともと筆者は、元東京大学医学部助教授国崎定洞関係資料を探索する過程で、国崎の筆跡と特定できる手紙1通を含む5通の手紙を発見した。それが、ここで紹介する「RTsKhIDNI,f.495/op.127/d.313」=「河上肇ファイル」(これは筆者の命名で、一続きに綴じてあっただけのことである)である。同じボックスには、コミンテルンに活動資金を要請した日本共産党の報告文書やプロフィンテルン第5回大会日本代表団関係の文書などが一緒に入っていた。

 それは、綴られていた順序からすれば、以下の5通の手紙となる。同じボックスのファイルの──おそらくコミンテルンにとって重要とみなされた──いくつかには、日本語や英語・ドイツ語資料と共にロシア語全訳を付したものがあったが、この5通の日本語及びローマ字の手紙には、ロシア語訳は添付されていなかった。

(1)無署名の河上肇「私信」を届ける旨の日本語文書1頁(f495/op127/d313/72、後述国崎定洞の解説文によれば「M氏」=宮川実のもの)
(2)無署名だが河上肇直筆とみなされる日本語手紙6頁(f495/op127/d313/73-77、国崎定洞の解説文によれば河上肇から「M氏」への「私信」)
(3)「Honda」の署名のある1931年3月30日付けローマ字連絡文書6頁(f495/op127/d313/78-83、岩田義道の疑惑を告発する内容で、河上肇『自叙伝』中にある「モスクワ方面へ事情を通じるための手紙」か?)
(4)同じく「Honda」署名だが、(3)とは筆跡の異なる1931年3月5日付けローマ字連絡文書4頁(f495/op127/d313/84-87,1931年2月の闘争報告)
(5)無署名だが、筆者の所蔵史料の筆跡から国崎定洞執筆と特定できる、上記(1)(2)をコミンテルン(たぶん片山潜宛)に送るさいに付したと思われる解説の日本語手紙4頁(f495/op127/d313/88-91)。

 この(5)は、オリジナル手紙の冒頭2頁が欠落していると思われるが、それは国崎・片山間の私信か、別件に関連する部分で、このファイルには、河上肇関係の部分のみが綴られていた。

 なお、アルヒーフには、これら日本共産党関係のボックスとは別に、人名から検索できる個人ファイルがあり、そのなかの「国崎定洞ファイル(f495/op280/d168)」には、小林峻一・加藤昭『闇の男──野坂参三の百年』(文藝春秋社、1992年)に巻末資料として初出し、加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』で用いられ、川上武・加藤哲郎『人間 国崎定洞』に重要部分が訳出されたものの一部が入っているのを確認できた。

  以上の5通の手紙は、しかし執筆順に綴じ込まれたとは限らない。内容を解読していくと、(2)(1)(5)(4)(3)の順序で書かれた、一続きの文書であることがわかった。ただし(1)と(2)はワンセットで、ミュンヘン滞在中の宮川実からベルリンの国崎定洞に届けられたと推定できる。したがって、以下では(1)(2)(5)(4)(3)の順序で紹介し、必要なコメントを付しておく。結論的にいえば、(1)は宮川実から国崎定洞への手紙、(2)はそのさい添付された河上肇の宮川実宛私信、(5)は国崎定洞のモスクワ片山潜宛て手紙で、(1)(2)を示してベルリンからの「河上肇工作」の承認を求めたもの。(3)(4)は、日本の河上肇がベルリンの国崎定洞経由でモスクワに送ったと思われる暗号(?)での報告書であった。


コミンテルン「河上肇ファイル」手紙(1) M=宮川実の国崎定洞宛手紙

(加藤哲郎解読、強調は原文傍点、[  ]は解読者の注、以下を含め、旧漢字の一部は現代漢字に改める)


 ここに封入した手紙は、労農党の河上先生の私信です。日本を出発するときに、河上先生が、自分の意見をあなたに通じる方法がないと云って、嘆じてをられたので、この私信をあなた[=国崎定洞]にお見せする次第です。何等かのお役にたてば幸と存じます。(もちろん、私は、労農党員ではなく、従って労農党に対しては別の意見をもってゐますが、先生とは久しい以前から個人的交際がありますので、このお手紙を戴いたわけです)。
 先生は、もし労農党が真に何等の進歩的役割をも果たしえないことが明白になれば――先生がそのことを納得すれば――、直ちに労農党を解散して了ふ、と云ってをられました。

コミンテルン「河上肇ファイル」手紙(2) 河上肇のM=宮川実宛私信

(1998/3/6加藤哲郎暫定解読、3/15一海知義校閲解読、3/18加藤哲郎最終解読、岩波書店編集部及び杉原四郎・田中正人解読協力、文責・注=加藤哲郎、強調は原文傍点・傍丸、< >は原文不明瞭部分、[ ] は解読者注)


 吾々は非常なる多忙の中に生活してゐます。キカン誌の拡大を計画しましたため、締切りの日は殆どテツ夜、その翌日は工場に出かけて校正、等々。最近の発行の折も、工場から帰つたのは夜二時でした。人手が殆どない。私の外には二人しか執筆者がないと云ふ有様!
 D[=団迫政夫]も同様です。最近の一例……十一日朝出て行つた。夜十時頃に彼は帰つた。朝から一滴も水ものまずですよと彼は言つた。かく言ひつゝ昼飯兼夕飯をすましてからまた出かけた。夜の二時に帰つた。私はもう床へ入つてゐたが、彼が家内に話す処では「あすあさ五時半に起して下さい」と言つてゐた。朝何ベンも起したらしいが、ともかく起されてから彼は朝食をすましてすぐに出かけた。彼は関東労働者組合から一旦除名されたが、最近は除名を取消されて書記になり、教育部長となつた。朝早く出かけたのは川口(埼玉県になつてゐる)のストライキのためだ。工場主へ交渉へ出かけたら、交渉に行つた者全部が検束されたのださうで、Dはそのまま帰宅しない。
 大塚[有章]は京都へ再転居した。必死の運動をしてゐるが、彼もまた検束中だ。京都市外の鐘紡のストライキを総同盟が売つたので、労働者がフンガイして労農党の応援を求めて来たのだ。大塚は最近決死的なカクゴで或る争議を遂行しよい成績をあげたので、京都では信頼が強い。鐘紡応援のための会が田中村水平社の夜学校で持たれた。その時大塚以下十名以上のものが尽くケンソク。等々。……右によつて日本の状勢の一端をお察し下さい。
 インプレコル[=コミンテルン機関紙]の西欧局の指令が出てゐるの見ましたが、日本にゐてあゝいふ指令を見ると、夢の国の話のやうに思ひます。元来日本の情勢は以前から甚しく誇大に報告されてをり、そのために指令はいつも実行不可能なものとなつてゐたと考へます。先方でも不思議に思ひさうなものだが、それに気が付かぬのかなあと考へます。古い事はよくは存じませんが、伝へ聞く所によると、評議会等々から成つてゐる統一同盟全部がプロフィンテルンに加盟した事に報告されてゐたのださうですが、実際は意識の進んだ極く少数の人がそれぞれの組合を代表したのに過ぎず、従つて一たびダンアツがあると、それら少数の人々のみが地下にモグリ、大衆からはキレイに切断されてしまふ。しかしあちらへは全部が地下へモグツたやうに報告されるから──そしてそういふ事が事実なら之は大変な事ですが──それに相応した指令が来る。そしてその指令にむりに合はして行かうとするから、運動は益々ヘンなものになる。委しくは書き切れないが、さういふのが日本の現状だと思ひます。
 X[=党]は大衆化した、大工場へ既に根をおろした、等々のウソをいふことが根本的の間違で、且つ世界的の罪悪だと考へてゐます。Xが何百人になつた、何十人になつたと云ふ風に数字的に自ら広告する必要はないにしても、今やダンアツの<為に>極度に小さくなつたと云ふ事を、ハッキリ大衆に知らしむべきです。いくら小さくなつてもそんな事で大衆は失望もしなければ、Xの支持を躊躇するものでもない。赤松[克麿]、鈴文[=鈴木文治]の政党なら、そういふ事をありのまゝに言ふと、大衆はチリヂリバラバラになるであらうが、そんなものと真の労働者党とは本質が違ふ筈だ。しかるにナンデいつまでもウソを言ふのだ。マルで力の確信なきものの虚勢を張るのと同じことだ。しかるにさういふ虚勢的の報告が依然としてコミンテルンへ行くらしい。だから馬鹿馬鹿しい指令が来る。これが今の日本の根本的病源だ!
 他方において、Xの無力は驚きべきものだ。失業闘争を如何に闘ふか、反動的労働組合法案の提案に対し如何に闘ふか、等々について何等具体的な意見が出ない。労農党をブツツブセと言ひながら、それなら之をブツツブしてあとはどうする積りか? それについて何等具体的の政策が示されてゐない。大山[郁夫]は勿論河上[肇]までが、ポンチ繪の材料にされてをり、どうかすると演壇に立つた場合に一隅から「裏切者」の掛声を聞くが、吾々は引込めと云ふのならいつでも引込む。しかし吾々が引込んだアトにはまた大なり小なりの大山や河上が、その地位に代位するであらう。そんな事で問題はカイケツされないのだ。
 私の見る所では、労農党は未組織の組織(之が一の大問題だが)のため有力なる槓杆になつてゐる。一は旧労農党の伝統があるため、一は大山等が有名なため。之は農村では特に重大な関係がある。ツマリ一つの看板として入用なのだ。その看板を百パアセント利用して未組織を組織する、之が労農党の任務に対する私の現在の考です。
 合同労働組合、それは一の変則的なものだ。しかしそれが必要な場合がある。そこへ暫定的にともかく労働者を吸収する。そして時機を見ては、産業別の組合へ分岐してゆく。いつまで経つても母体たる合同労働の組合員は増加しない。それでよいのだ。合同労働そのものを大きくしようと考へたら間違だ。それは一つのトンネルだ。そのトンネルを通ることが必要だ。トンネルは暗い。そんなものをなるべく長くするのが問題ではない。それを無くするのが問題だ。しかしそれが必要なかぎり、ただ無くするといつても駄目だ。それはネセサリーイヴル[=必要悪]だ。労農党は今正にそれだ。労農党をフンサイせよと云ふが、フンサイしたあとはどうするつもりか? その具体案を聞かぬうちは、私は依然としてトンネル保存論者の列に止まる外ないのです。
 最近星[製薬]争議をやりました。Dは始終アヂトにゐました。労働農民新聞における星争議の教訓は彼が書いたのです。その争議の折もXは何回もビラを争議団に持ち込んだのですが、『労農党のダラ幹をケトバして諸君自らの争議団を組織せよ』といふやうなビラなので、大衆は相手にしないのです。単なるビラの撒布で大衆が獲得できるものでは断じてない。日常の経済闘争の指導が絶対に出来ないと云ふのが、Xの現状だ。星争議団本部のあつた地方は全協の勢力がある地区だと称されてゐるのだが、工代会議を開いても一人も出て来はしないのだ! 
 他方において労働者農民大衆の自然発生的なフンゲキは場所によつては燃ゆるばかりになつてゐる。しかも片端から総同盟等々のダラ幹の指導により圧殺される。彼等は消防夫だ。
 メーデーにはXは武装蜂起を主張した。隊列に対してさういふビラもまかれた。「無新」でも盛にアジられた。そのために東京市の内外、大阪神戸等々で若干の『行動隊』がポリを殺したと云ふ事件が前後十位起つた。そのうちに例の『盗犯防止令』が秘密会議による説明のもとに成り立つた。間もなく全協の自己批判といふ奴が出るやうになつた。武装蜂起は間違つてゐたと云ふのだ。──極めて純真な青年が文書によるアジおよびスパイによるアジのために、ポリを殺すための行動隊となつたらしい。ブルヂヨアジーは二重三重の利益をなした。何故ならば、之によつて純真な活動分子を何程かトリコにした上に、治安維持法を俟たずしてXXX[共産党]員をすぐ殺しうる『盗犯防止令』を安々と成立せしめたから。そしてX又は全協は時々メチャな指令を出すものだといふ事を大衆に知らしめたから。ポリの四五人の生命のみが彼等の損害だが、之はもちろん眼中にあるべき筈はない。ソシキも活動も地下と来てゐるから、スパイはウヂヤウヂヤしてゐるらしい。警視庁へ呼び出された星争議団長は右の争議団に持ち込まれたXのビラ十三種を示されたが、そのうち三種のみが実際には持ち込まれたのだ。アトは分からない。おそらくスパイ網にヒツカゝリ、そのまゝ警視庁へ『お届け』となつたものであらう。こういふビラを一寸でも争議団へ分配したら、すぐに一網打尽だ!
 二・二六事件はまだ記事禁止中だ。この事件の余波のために、最近平野[義太郎]、山田[盛太郎]の二人(東大、法および経)が首になつた。寄付金を出したとのケンギとの噂。……指導部に可なり上等のスパイがゐるのではないかとの疑問が強くなつてゐる。X自身は何一つ具体的な方策をたてずにおいて、しかも左翼的な立場から何かしようと試みる者があると、片端から『最悪の敵』のレツテルを貼る。そこで、左翼的立場に立つ一部の人々の活動はスクム。さもなくば謂はゆる『最悪の敵』の仲間を敵視する。それかと云つて、Xは何一つ具体的な方策を示してゐないから、これらの人々も無為無活動に終る、さもなくばキフ金を出して引掛かる、等々。かくて左翼方面は、Xも無為、X外の人々も無為、ただXの罵声の下に若干の人々が当面必要なことを可能な限りにおいて為しつゝ有る。……右翼のみは『確信』の下に活動する。
 Xの極端なる狭量は、スパイのせいとでもしなければ不思議である! 自分は何一つしないで、何かするものがあれば、右翼の者なら取り合はぬが、左翼のもののみを『最悪の敵』としてヤツツケル。謂はゆるウルトラはしばしば反動とすら握手して吾々をヤツケようとする。
 『労働農民新聞』は今全部の印刷費を私がフタンしてゐる。私は大半の力を之に注ぐつもりだ。労農党第一主義の流れに抗しつつ、合法新聞としての最大の機能を発揮せしめたいと考へてゐる。日常の経済的諸闘争の指導、セン動、組織化等々、之を等閑に附してよいとは私にはどうしても考へられぬから。
 私の残生はいくばくもない。しかも老いてから、生活を急変し、しばしばテツ夜もする。私はこの最大限度にコントンたる情勢の下で、マルクス主義を学んだものとしての最大可能の仕事をして死ぬるつもりだ。遠方にゐる人、書斎にゐる人、そんな人々の空疎なヒハンは、──たとひ心から私の残生の汚れる事を憂ひてくれてゐる人々からのでも──今私を動かす力となりえない。失業苦にあへぐ労働者、絶体絶命の農民、これらが今私の眼を一杯にふさいでゐる!


 この(1)(2)の手紙には封筒も日付・署名もなかったが、(2)が河上肇の直筆であることは、比較的容易に判明した。(1)(5)の手紙で河上肇のものと示唆されており、何よりも、特徴ある達筆の日本語で書かれていたからである。(2)の筆跡は、岩波版『河上肇全集』各巻口絵の写真版、一海知義教授及び岩波書店編集部所蔵の河上肇直筆文からも、河上肇自身のものと確認できた。

 また(1)の筆者は、(5)で国崎定洞は「M氏」と記しているが、当時和歌山高商教授で、師河上肇と岩波文庫版『資本論』を共訳中の宮川実である。宮川は、1930年5月1日に日本を発ってミュンヘンに留学中であった(文部省専門学術局『文部省在外研究員表』昭和7年3月31日調)。これも、岩波書店所蔵の直筆手紙と参照して、特徴ある筆跡から、宮川と確認できた。

 問題は、(2)の手紙の執筆時期の特定であった。ロシア現代史資料保存研究センターでの整理では、このファイルと同じボックスのなかのいくつか前の番号のファイル(f495/op127/d299)に「Report-Japan:March 1931」と題する日本共産党のモスクワへの報告書があり、1929年4・16事件後の党組織・財政の実態を詳しく報告したうえ、「月2000円」の援助をコミンテルンに要求していた(詳しくは次回以降に紹介)。後述するように、(5)以降に書かれたと思われる(4)(3)の日付けは1931年3月5日、3月30日となっており、また宮川実の文部省派遣での留学=「日本を出発する時」とは1930年5月からであるから、(2)(1)(5)の執筆時期は、1930年5月以降、31年3月までと限定できる。この期の河上肇は、『自叙伝』や『全集』別巻年譜からもわかるように、いわゆる「新労農党解消運動」のさなかである。これらが、執筆時期推定の材料となる。

 (2)の手紙の内容からして、河上肇は、これをミュンヘンにいる宮川宛の私信として書いている。ベルリンやモスクワに転送されることを予定していない。だから率直に、「X」=日本共産党への批判を記している。一つはコミンテルンへの情勢の誇大報告と左翼主義的指導・戦術について、いま一つは上層部におけるスパイの可能性について。もっとも手紙中で河上が、田中清玄・佐野博指導下の1930年「武装メーデー」で警察官が10人も殺されたと述べるのは、それ自体が誇大報告であるが(実際の死亡は一人とされる)。

 河上がここで述べる「キカン誌」とは、いうまでもなく『労働農民新聞』である。1928年4月に京都大学教授を辞して後、大山郁夫、細迫兼光らの新労農党結成に加わり、地下の日本共産党からは厳しい批判を受けながら、30年2月総選挙には京都一区で立候補し落選した。生活の本拠も東京に移し、労農党機関紙部員として、刊行費用までほとんど自分で拠出していた。同時に労農党内部のあり方には失望し、30年8月以降は解消運動に入り、9月11日「労農党の発展的解消とは何か?」を、10月23日上村進・神道寛治と連名で「労農党の発展的解消のために残された唯一の途としての戦闘的解体」を発表、10月23日に党を除名され、11月21日に『労働農民新聞』「廃刊の辞」を述べて実践活動から身を引き、『資本論』翻訳に専念する。河上の「求道」の人生の中でも、波瀾万丈の時期である。

 この手紙(2)では、まだ労農党解消の方向を述べていないから、書かれたのは30年9月以前である。他方、6月に河上肇自身が演説した星製薬争議について記し、「最近平野、山田の二人が首になった」と書いているから、5月20日に共産党シンパ事件で検挙された平野義太郎・山田盛太郎の東大辞職、すなわち7月11日以後の執筆である。『河上肇全集』別巻「年譜」によると、8月4日に「河上宅にて南喜一ら11人が集い、労農党の解消と総評議会結成につき協議」とあるので、おそらくその直前、すなわち1930年7月中下旬の執筆と推定できる。手紙はミュンヘンの宮川実に送られた。(5)の国崎定洞の手紙に「M氏から河上氏は私をかなり信用してゐる、ベルリンに行ったら会っていろいろ話してくれなどとM氏出発の時に云ったと云ふ事を聞いた」とあるから、ミュンヘンの宮川は、おそらく30年初秋、ベルリンの国崎定洞を訪ねこの河上の手紙を(1)を添えて直接手交した、あるいはドイツ国内で郵送したうえで会談したのであろう。

 では、何故に宮川実は、おそらく河上肇自身の了解もなしに、「この私信をあなた[国崎定洞]にお見せする」という挙にでたのか? 手紙(5)の執筆者国崎定洞と河上肇の関係が問題となるゆえんである。


コミンテルン「河上肇ファイル」手紙(5) 国崎定洞のモスクワ(片山潜?)宛解説手紙

(加藤哲郎解読、川上武協力、強調は原文傍点、[  ]内は解読者注、< >内は原文不明瞭)

[1-2 頁欠]
 一 藤[=藤森成吉?]氏への御手紙の中にある事はグループ全体としての問題のみならず、直接小生へも極めて深い関係をも<有して>ゐるので、F氏[=藤森?]へくはしくきいた上で是非お書きし度い事がありますが、この次にします(この手紙の後にかきます)。
 
  河上氏の解消運動特に廃刊之辞に対する小生の考
 
 今回河上氏の運動については、既に氏に対する従来の関係から云って(僕は氏の労農党結成賛成、レニンの小児病引用なんかについて、書いた事もあり、河上氏の一高弟[=堀江邑一]へも直接手紙を書いて批判をした事もあります、)特に大変な興味をもって見てゐたのですが、大阪の解消運動第一<義?>に対して、氏が本部派を弁ゴする上から、労農党の発展的解消なる、実に奇怪な、客観的には極めて反動的な論文を改造に書かれたのを見て、且ての小児病引用と同程度の唾棄すべき態度であると奮慨したのですが、その後事件は実に急激に発展して、河上氏等の労農党改造案の提出となり、これと本部案との衝突、終に労農党は労農同盟への転化不可能なる事の認識、すすんで労農党の解体へと最<近?>進行して来ました。
 この間の変化の少くとも河上氏個人の心的進化過程は、氏がM氏[=宮川実]へ宛てた私信によく出てゐると思ひます(この私信は既にあなた[=片山潜?]へコピーを書き送りました)。少くともこの私信から得られる印象は、氏が極めて真面目な人であり、ともかく切迫つまって自らの誤謬を認めざるを得なくなつた時には、勇敢にこれを認め得る勇気のある人たることを示してゐます。
 少くとも氏の如き社会的地位のある人としては、これだけの事でも相当困難な事であり、これだけでもある程度の尊敬を感じたのです。(解消運動発生の社会的根拠はしばらくここで論ずるのでなく、河上氏個人の問題を論じます。河上氏の発展ももちろん社会的客観的状勢の発展のなすところであるは云ふを待たないところですが)。このある程度の尊敬が前より強固となったのは、M氏から河上氏は私をかなり信用してゐる、ベルリンに行ったら会っていろいろ話してくれなどとM氏出発の時に云ったと云ふ事を聞いたためです。
 と云ふのは、小生は河上氏と一面の識もなく、且つ嘗て文通もした事はない、氏が小生を知るとすれば、私が氏をかなり思い切って攻撃した文章[=在ベルリン山本三郎名「故国の同志、後れをとるな!」『戦旗』1930年2月号、川上武・加藤哲郎・松井坦編訳『社会衛生学から革命へ──国崎定洞の手紙と論文』勁草書房、1977年、所収]を通じてより外ないのです。
 その中のある手紙では、状勢の変化に応じて、合法非合法的いづれの活動をなし得る人で初めて革命的党の党員たり得るし指導者たり得る。たとへば大山氏や河上氏の如く非合法的活動の出来ない人若くは出来ないと自ら考へてゐる人は、一つの運動に方向を与えるやうな意見をはく資格もなく、また指導も出来る筈がない、合法党結成の提唱もこんな連中がその全生活上考へ出す敗北的なものである。といふ事をいひました。
 それらのかなり悪く批判した文章のみを通じて小生を知ってる河上氏が小生を信用してるといふ事は意外であると共に、あの人が苦言もこれも聞き得る人であり、同時に少くとも小生の言に一味<ママ>の真理のある事を認めてゐる事を知り、氏の純真な点をますますある程度迄高く認めたのです。
 それで氏の今回の解消運動は、労農党の稲村隆一などは、頭から朝に意見をかへ、夕にまたまた前の意見をかへる無定見な人間だと罵倒してゐますが、そうばかりは云へない、否そんな人ではない、むしろ極めて歩みはのろいが進んで行く人であると、評価すべきではないかと考へてゐるのです。河上氏は「労農政党は有害物である」といふ論文[=「有害物としての労農政党」1930年10月27日付けリーフレット、『全集』第19巻所収]の中で、小生がかつて氏を評して云つた事を殆んどそのままくりかへして、氏自身らの従来の致命的な弱点を率直に認めてゐます。これなんかも氏に対していい印象を起させるものの一つでせう。
 廃刊之辞[『労働農民新聞』1930年11月21付け第125号、『全集』第19巻所収]は氏の云はんと欲したところを、短文ではあるが、公明にかくすところなく述べ、従ってあなたの云はれる通り、一つの力強いドキュメントとなってゐます。この点小生はあなたの意見に全然賛成です。これによれば従来云はれてゐた細迫[兼光]、小岩井[浄]なんかの解消運動がその進む方向を示してゐないといふ事は河上氏らには云へない事です。
 以上河上氏個人についての意見です。同じ事が少くとも氏と行動を共にした上村[進]、神道[寛治]氏や或は、細迫氏らについても云へるかどうかは、何とも云へません。小生はあの人たちの言葉やある行為から氏等を判断するだけの接触点を従来もってゐないのです。
 廃刊之辞其他について無新[=『無産者新聞』]其他左翼の方でどう云ふ見解をはいてゐるかは、十一月以後の無新を見てゐないので、云ふを得ませんが、無青[=『無産青年』]や、戦旗その他でボツボツ見たところでは、こう云ふ意見ではないでせうか。
 解消運動は大衆の著しい革命化の表現であり、河上・上村その他の人々は、この大衆の圧力に押されてそこまで来たものだ。彼らは小ブルジョア的気分をぬけきってゐない。まだ運動のすすむべき方向を明確に示してゐないし、殊に身を以て示してゐない。
 われわれは彼らの下について来てゐる大衆を真の解消運動のすすむべき目的に押しすすめて行くと共に、これらの小ブル的指導者に対してあくまで不信と看視の眼を見はってゐなければならぬ。……
 この限りに於ては小生もこの意見を正しいと思ふのです。日本に於けるインテルゲンチアの数多い裏切りと、少くとも河上氏の従来の動揺は、この程度の不信を左翼がもつ事を当然と考へます。そして左翼の側からの不断の批判とはたらきかけによってのみ、この解消運動がともすれば陥り易い中途半端(聞くところによれば細迫氏等などは正にその中途半端のところにひっかかりつつあると云ふ噂です。これは報告がカンタンで(一月号戦旗)これ以上の事は云へません)から救ふ事が出来るでせう。この点で左翼の取ってゐるある程度の首領連に対する批判的態度は徹頭徹尾正しいと思ひます。
 だが問題はそれだけに左翼がとどまってゐていいか? 如何の問題です。
 この点であなたの手紙に書いてある産労[=『産業労働時報』]十二月号の文章はまだ見るキ会がないので(送って来ませんでした)何を云つてゐるのか分りませんが、左翼は解消運動の大衆に対しても首領に対しても、批判だけ、傍観的態度にとどまるべきでない事は云ふまでもない。積極的に運動に導き入れる事、それこそまた批判と共に解消運動を真の目的に導く所以でせう。然しこの事は解消運動の指導者達に対して云へる。勿論それが重要なる指導的地位におくとか、カンバンにまつり上げる事でない事は、云ふまでもなく、適当な地位においてはたらかし、利用する事でなければならぬ。産労十二月号が何を云つてるか、御聞きし度いものです。
 この意味から、河上氏について十一月末か十二月始めに、あなたへ書いたのですが、それがまだあなたが河上氏最近の発展を見てゐられなかつたときと見えて、御返事には、河上は従来極めてその動揺的無定見なことを示した男だ、日本の左翼運動は河上なんかを利用する事を必要とせぬとありました。それが労農党の発展的解消[『中央公論』1930年10月号]を書いたあとの印象では全く正しい印象でありませうが、その後の様子を少くとも氏の論文で見てゐた小生は、一〇〇%には賛成出来ませんでした。そしてこれはまだ新しい状勢をよく知ってお出でないためであり、また何れにしても氏等の言葉に、まだ行動がはっきりつづいて来てゐない今日のところでは、左翼の不信、懐疑的態度と同じくある程度まで理由のある事と信じてゐました。
 解消運動の大衆は云ふまでもなく、首領もその進むべき道を求めてゐる。
 これは与えてやるべきであり、しかもある程度極めて親切に与えてやるべきである。(特に大衆には)
 一部指導者は脱落するかも知れない、だがそれはいつでもあり得る事だ。
 適当にこれを与え、これを見とどけて行く事だ。私はさう信じます。
 党なんかの重要な指導部には勿論いけないが、ある部門に入れて働いて貰ふ事は必要であり、殊に河上氏の如く、ある特別の才能ある人はそこで働いて貰う事は党発展のために絶対的に必要である。党指導部がまだ弱いからとて、それは出来ない事ではない。勿論この中心を強くする運動を主としつつ、外部のキカンを強めて行く事によって、党の大衆的キソは出来る。日本の党はこのカーデル[=幹部]の問題の重要さに当面してる。同時に特殊なる専門的補助組織の欠乏になやまされてゐる。この方面に人を必要とする。それをやって行く事が必要で、河上氏らに対してもその事がどの程度やられてゐるか、やらうとされてゐるか、小生は重大な問題として見てゐます。
 勿論論文でオービラに書く事ではないでせう。が文章の調子でどの程度やらうとされてゐるかは感づき得られませう。だがこの点については、小生はまだ何がなされてゐるか、何も知りません。
 それで小生としては、少くともあなた方[=片山潜らモスクワの日本共産党指導部]にどんな事があっても御迷惑をかけない事で、しかも河上氏をわれわれの仕事にひき込むために、まづ手初めとしてM氏を通じて日本から、無新無青その他資料の送附(これらは出来ない事はないでせうから)、左翼大衆団体とのある種の連絡(これも従来のK氏ですから、何とか出来やう)をたのみしてゐます。まだ何とも返事は来ません。M氏によれば可能だらうと云ってゐます。
 ここに到った事は、少くとも廃刊之辞、その他についてあなたと同意見を抱くからです。
 Mによればその後いろいろの方面から河上氏に対して誘惑の手がのびてゐるさうですが、氏は動かないでゐるらしい。勿論解党派その他が誘ひの手を出す事は自明です。
 廃刊之辞以来改造[=1930年12月号「自決すべき労農党」、『全集』第19巻所収]中央公論[=12月号「反動的固定化の一路を急ぐ労農党」、同前]にあれと同じやうな事を書いた以外(別に新しい事はかいてゐません)即ち解消運動の一応の段落以来、何もかいてゐないところを見ると、河上氏も静かに将来の活動のためにひそんでゐると見ていい、下らないものなんかかかずに、事実あなたの云はれる通り、資本論のホンヤクでもやってゐられるのかと思ひます。この事は小生の見るところでは、氏が正しく行動してる事を示すものと見ていいと思ひます。
 小生の考では赤色救援会や、党のアジプロ、出版の方面なんかに活躍されるなんかはいいところではないかと思ひます。

 以上の国崎定洞の手紙(5)は、1930年11月下旬の『労働者農民新聞』廃刊を見定め、12月号の雑誌論調や新聞等の日本側情報をベルリンで集め判断して書かれているから、おそらく1931年初めに、モスクワの片山潜に宛てて書いたものであろう。「この私信は既にあなたへコピーを書き送りました」「河上氏について十一月末か十二月始めに、あなたへ書いた」という記述から、すでに30年秋にはモスクワの片山潜もベルリンの国崎定洞も日本での河上肇の動向に注目していたことがわかる。「Mによればその後いろいろの方面から河上氏に対して誘惑の手がのびてゐる」「まづ手初めとしてM氏を通じて日本から、無新無青その他資料の送附、左翼大衆団体とのある種の連絡をたのみ」「M氏によれば可能だらう」といった記述から、M氏=宮川実自身が、このモスクワ・ベルリンからの「河上肇工作」に重要な仲介の役割を果たしている。

 国崎定洞は、1928年に文部省派遣による留学からの帰国を拒否し、東大医学部社会衛生学教室初代教授への道を棄てて、ドイツ共産党日本語部の責任者になっていた。千田是也、勝本清一郎、藤森成吉らと共に、ベルリン在住の日本人左翼グループのリーダーとなり、千田を介して知り合ったモスクワの片山潜とは特に親しくしていた。ここで河上肇に与えた「任務」=日本の左翼資料のベルリン経由モスクワへの送付は、1927年10月、まだ東大助教授として有澤廣巳や堀江邑一らと共にマルクス主義の学習会を開いていた頃、国崎自身が秘かに日本の小宮義孝に頼んで片山宛に転送し始め、実践活動に飛び込むきっかけとなったものであった(国崎定洞の小宮義孝宛手紙、1927年10月14日、『社会衛生学から革命へ』所収)。コミンテルン幹部会員片山潜がベルリンに訪れるさいには、この日本人グループといくどか会見し、当時の片山の主たる活動舞台である国際反帝同盟の会議には、ベルリン・グループが日本代表を派遣していた。1930年11月のハリコフ世界革命作家会議には、文芸評論家勝本清一郎と作家藤森成吉がベルリンから日本代表として出席しており、モスクワで片山に会っている。手紙(5)の欠落した2頁、上記の解読文冒頭の数行には、これに関連した連絡がなされていたと推定できる。

 手紙にある通り、医学者国崎定洞と経済学者河上肇は、日本で直接の面識はない。ただし国崎定洞の「医と社会の関係」を探求する思想的成長過程で、河上肇の影響は大きかった(『人間 国崎定洞』第8章)。蝋山政道の提唱で始められ、国崎定洞と有澤廣巳が中心であったベルリン社会科学研究会の主たる人材供給源は、東大新人会関係者と京大河上肇門下生であった。東大の有澤廣巳・山田勝次郎・横田喜三郎・土屋喬雄・平野義太郎らのほか、河上門下の堀江邑一、谷口吉彦、山本勝市、八木芳之助、蜷川虎三らが、国崎定洞と一緒にレーニンやブハーリンを読んでいた(加藤「ワイマール期在独日本人のベルリン社会科学研究会」本誌455号、1996年10月、参照)。中でも堀江邑一は、帰国後に師河上に国崎を紹介し、新労農党問題では国崎の手紙を河上に示して翻意を促していた(堀江「果敢な自己革命の歴史」『回想の河上肇』世界評論社、1948年、195頁)。

 国崎定洞が手紙の中で触れた在ベルリン山本三郎名の論文「故国の同志、後れをとるな」は、『戦旗』1930年2月号に発表されたものであるが、「老河上博士に一言」と言いつつ新労農党に厳しい批判を浴びせたものだった。これをきっかけに、河上肇は国崎定洞に注目し、「自分の意見をあなた[国崎]に通じる方法」を宮川実に託したことになる。河上『自叙伝』から良く知られているように、この国崎定洞ー河上肇ルートは、1932年にいわゆる「32年テーゼ」の日本への伝達ルートとなった(ただしそこでの宮川実の役割については筆者は疑問がある、加藤「政治と情報」『社会と情報』創刊号、1996年、参照)。

 河上『自叙伝』には、「労農党の破壊のため出来うるかぎりのことを為し了へた私」のところに「モスクワの片山潜氏から懇篤な手紙が来た」喜びが記されている。「モスクワの片山潜氏とも連絡が付いて、同志の要求により、私の方からは、私の入手しうる一切の非合法的印刷物を絶えず郵送していた」ともいう(『全集』続5巻、384・442頁)。この国崎定洞のモスクワ宛手紙(5)は、そのきっかけを作ったものであろう。

 ただし、国崎定洞がこの手紙を送った1930年末から31年初め、片山潜がそれを本当に受け取ったかどうかは確認できない。というのは、片山は30年12月末に重病で倒れ、31年前半はクレムリン病院に入院していた。その心労の背景に、父の看病のために29年夏ソ連に来た娘千代との別居、30年10月に片腕としていた私設秘書勝野金政が山本懸蔵の告発により「スパイ」容疑で逮捕されラーゲリ送りとなった事件など、当時のプロフィンテルン日本代表山本懸蔵との確執があったであろうことは、拙著『モスクワで粛清された日本人』第4章に詳説した。

 なお、国崎定洞は、「国崎定洞ファイル」中の自筆日本語履歴書で、「1931年3月頃」から「日本共産党との公式の組織的連絡」が始まったと書いている。この「河上肇工作」は、国崎定洞にとっても、モスクワのコミンテルン指導部と日本共産党をつなぐドイツ共産党日本語部責任者としての「公式の」仕事に移行するきっかけになったと考えられる。こうした「知識人工作」こそが、片山潜や野坂参三は理解を示したが、生粋の労働者あがりである山本懸蔵の忌み嫌ったものであり、モスクワ亡命・片山潜没後の国崎定洞の不遇と粛清死に連なったものであったが(『モスクワで粛清された日本人』参照)。

 モスクワの片山潜とベルリンの国崎定洞の「工作」の対象とされた河上肇は、この「コミンテルンから与えられた任務」を喜んで受け入れ、手紙(2)の「私信」で宮川に対して吐露した日本共産党への批判をも忘れて「コミンテルンの権威」に従ったように見える。河上『自叙伝』では、30年12月以降書斎に戻って『資本論』翻訳に専念し、獄中の佐野学・鍋山貞親に手紙を書いたりして共産党に近づき、32年6月にはベルリンの国崎定洞から送られてきた「32年テーゼ」を翻訳する「栄誉」を担い、同年9月、遂に念願の日本共産党員として認められる。

 ただし、当時の「32年テーゼ」の日本語公表文には、河上『自叙伝』の記す訳者としての党名「本田弘蔵」はなかった。「本田」の署名のある論文・訳文は、これまで発見されていない。ところがモスクワには、それが実在した。それが、以下のローマ字文で書かれた(暗号文のつもりの)手紙(4)(3)である。まずは、その日本語訳文を示そう。


 

コミンテルン「河上肇ファイル」手紙(4)原文ローマ字、Honda署名、1931年3月5日

(加藤哲郎解読、ローマ字文は河上秀か?、Hondaのサインのみは河上肇の欧文筆跡に酷似)
 

 
「山宣云々」の言葉の含まれていた手紙の写しを非常な感激と感謝とをもって読んだ男からの報告(全部代筆)。
 2月25日の闘争(全協産別本部機関にいる人の直話)。
 今度の闘争は準備が不十分であった。10日前から会議を持った。組合員に動員令を出したのはその日の朝だ。
 4時半に三田に集まることにした。もしそこが失敗したら、4時40分に三田シコク町の総同盟本部の前に集まる。またそれも失敗したら、今度は芝公園に集まる。こういう予定であった。
 4時30分に三田に集まることにしたのは、ちょうどその付近にたくさんの大工場があって、4時半という時間に大勢のアルバイターが工場から出てくるからである。──場所及び時間の選定は誤りでなかったと考えられる。
 当日動員した数は1500である。官憲の動員された数もほぼ同じ。
 デモはどこでも成功しなかった。
 最初の出発点へはただ1台の自動車のみが予定の時刻に到着して、予定通りの行動をとった。すなわち自動車から伝単を撒いた。この自動車隊は官憲の追跡をまいて、無事に逃げ帰った。予定では、各産別から1台ずつ、合計10台の自動車が予定の時刻に予定の部署に集まるはずであったが、官憲がいたるところで自動車をとめて身体検査をしたために、その警戒網を突き破り得たのは、ただ1台にすぎなかったのだ。警戒網を突破することに成功しなかったものは、自動車から引きずりおろされて、半死半生の目にあわされた。
 デモは最初の予定地点で成功しなかった。その次の総同盟本部のところでも同じであった。第2の地点をそこに指定したのは、ちょうどその時間に芝浦のストライキの仲間がその総同盟本部で会合を持つことになっていたからだ。しかるに、分会員が予定の活動をなしえず、ひっそり閑としていたため、そこに集まっていた労働者をデモにおし出すことが出来なかった。
 芝公園にいたるまでところどころにたむろしていた労働者もそれぞれ官憲に蹴散らされて、ちりじりばらばらになった。
 芝公園から議会へおしかけるはずであったのが、かようにして全部失敗に終わった。
 動員された者は、ほとんど組織した組合員に限られた。ただ、化学だけが未組織の動員に少しばかり成功した。ある工場では、工代を開いて、ストライキを宣言し、一同デモに参加しようとしたところもある。
 検束されたものは約200名。
 検束されたものを奪還するために、官憲と勇敢に抗争した例は、少なからずある。
 総体からいうと、今度の計画は成功したと言って良い。去年の10月に再建されてから、まだ半年もたっていないのに、このひどい弾圧の中で、ともかく1500人を動員したのだから。動員されたものは、ほとんどアルバイターだけだ。学生が主だなどという報道は、官憲のデマだ。
 これから3・15及び4・16等々の闘争日には、盛んに工代会議を持つことにして、やがて来るべきメーデーにととのえて盛んなデモをやるつもりだ。
 無新、労新、無青は迅速かつ確実に送るつもりだ。
 
 前に書いた産別本部の人を通じてもっと奥の方と連絡をとることも可能である。だがそれはさしあたり僕の任務でなかろうと思われるので、控えておく。もし必要あらばお指図を乞う。その他何でもお指図を受けたら、いつもベストをつくすための心の用意をしている。 
                     1931年3月5日  ホンダ[署名]

コミンテルン「河上肇ファイル」手紙(3)原文ローマ字Honda署名 1931年3月30日

(加藤哲郎解読、ローマ字文は河上左京か? Hondaのサインのみは河上肇の欧文筆跡に酷似、内容は岩田義道をスパイと疑う告発文)

 

 
 別紙『国民』[=『国民新聞』1931年2月21日付]の記事は、すでにご覧済みのことと考える。以下それについての情報を書き送る。──これは、[鍋山]歌子夫人と懇意な人から絶対に秘密として聞き取ったことである。話してくれた人は決して嘘を言う人でないと信じている。
 『国民』の記事は、嘘も混じっているが、しかしあういう事実が実際あったのだ。連絡のために出てき<た>人というのは、元薬剤師をしていたもので、他人を堕胎さしたため罪に問われて入獄していたものだ。連絡の目的は、獄中の同志が党の本部へ意見を伝えうるようにすること、これが主眼であった。もちろん脱獄の計画もあった。看守が二人買収されていたはずだ。連絡に出てきた男は、なかなか悪いやつで、三田村氏のような人ならともかく、外にいるものではなかなかうまく使いこなせず。そのためくだんの男はあちこちで金をしぼり、ついに今年の1月13日に警視庁へ事件を売った。そのために事実が具体的に敵に暴露した。
 警視庁はこの事件を闇から闇へ葬ることにした。それぞれ係りの人の責任問題が生じて(ことに議会開会中ではあり)、事が面倒になることを恐れたのだ。それで、関係嫌疑者の取り調べも、割合に厳しくなかったようだ、歌子夫人は18日に召還されたが、なにも証拠がないのでまもなく帰された。
 記事が『国民』に出たのは、前記の男が警視庁との約束を破って、特ダネとして売り込んだからだ。彼のいとこにあたる人が『国民』にいたのだ。それを通じて売り込んだものと思われる。大新聞は『国民』の記事をでたらめだと言っているそうだ。警視庁も同様に『国民』の記事を否認している。だが獄中の取り締まりが急に厳しくなったのは事実だ。
 以上の計画は、すでに昨年の9月頃に、漠然とではあるが、刑務所の敵にもれていたようだ。──何かやってるらしいというくらいのことが。なお、鍋山[貞親]氏が獄中にいた解党派のやつに(変心していることを知らずに)ある紙切れを投げ込んだことがあるそうだ。そいつがその紙切れを典獄にまで提出したと言うことだ。
 
 以上が最近に聞いた話の要領だ。──次に書き記すのは労農党解消派のK氏[=河上肇]が人に話したことがらの要点だ。それを彼が自分で話しているかたちで書きつづる。
 昨年10月11日の『労働農民新聞』に載せた「労農同盟の革命的性質」は、大山も言ってるとおり、いよいよ本部派と解消派とが分裂することを暗示したものだが、ちょうどこの新聞が現れた頃に、Y・I[=岩田義道]なるものが出獄したと言って訪ねてきた。彼は、若い人たちの仲間では、私が最も愛した男であり、理論的にも実践的にも最も役に立つ男と信じていたものだ。彼は、私を訪問した最初の日に、次のことを語った。「獄中では中央委員会がもたれている。自分はその命令を受けて出てきたものだ。脱獄の計画があるのだ!」。
 彼は先ずかくのごときことを私に話した。私は半信半疑で聞いた。彼はまた、私が当時ほとんどただの一人でやろうとしていた解消問題につき、できるだけの加勢と助言をしたいと申し出た。彼は私の最愛の弟子であったのだから、彼がかくいうに不思議はなかったが、しかし1、2回会ってみると、どうも腑に落ちない点があるので、まもなく警戒をはじめ、したがって10月21日の『労働農民新聞』に載せた解消意見書は、彼に見せずに発表した。そして、その後間もなく彼を遠ざけた。その後何回かやってきたが、当分会わないと宣言した。
 ところが、ある左翼書肆の主人[=希望閣・市川義雄]が、Y・Iは本物だ、彼を疑うのは誤りだということを言い出した。私はこの男をも疑いの目をもって見た。
 2月の初め、まだ記事が『国民』に出ない前に、この男は、「いよいよ計画がばれた、それでY・Iは地下に潜った」と言い出した。
 それでも私は信じなかった。
 この左翼書肆の主人とY・Iとは、同じ穴のムジナではないかと疑うように、だんだんなってきた。
 この左翼書肆の主人のことを、全協の人に頼んで、機関の意見を聞いてみた。そしたら、その返事に「彼は釈放される時から解党派だ、あんな人間を相手にする者はいない」とのことであった。
 彼は私が前から知っている人で、労農党の結成前にいろいろな情報を聞いたのも彼からであった。彼はその当時労農党賛成の手紙までよこした人だ。そういう関係の人だけれども、彼の行動に不審な点がだんだんあるので、ついに機関の意見を聞いてみたのだ。今ではその意見が正しかろうと思う。ブックセラー春陽堂は解党派が食い入っている本屋だが、そこから直井[武夫]の本がでた。直井は市川のシスターの婿だ。
(話はだんだんKの主観的なことになるが、もすこし彼の話を書き続ける。)
 水野[成夫]、門屋[博]、浅野[晃]、南[喜一]、菊田[善五郎]等々の公然たる解党派は、一時労農党の組合の中へ盛んに進入してきたし、今も尚なにほどかの連絡があるだろうと思われるが、しかし一般的に労働大衆のあいだには人気がない。まず彼等は失敗したものとみてよい。それで、敵は必ず第2の解党派を送り出すにちがいないと思っていたのだが、先に述べた連中は、つまりそれではないか? というのが、私の疑問なのだ。彼等は何らかの関係で、秘密を知っていた。それで、それを利用して、人の信用を買い、人を利用して、第二の策動をしようとしたらしく思われる。
 
 最近『労新』は印刷所を襲われた。それで発行が遅れている。『無新』は連絡に故障があって、手に入るのが遅れた。できるだけ早く手に入れるように、党へも連絡をとった。この次からは迅速に確実に送れるだろう。
 
      1931年3月30日          ホンダ[署名]
[追伸?]無新、労新、ただいま手に入ったので同封しておきます。

  以上の2通の手紙は、いずれもローマ字で書かれていた。日付が入っており、「Honda」の署名がある。「Honda」という署名部分は、特にHやdの筆跡に特徴があり、それは岩波書店所蔵の河上肇のドイツ語文の筆跡とよく似ていると一海知義・田中真人両教授も鑑定したが、確認はできない。しかも「Honda」の署名以外のローマ字文は、手紙(4)と手紙(3)で筆跡が異なっている。河上肇が代筆させた日本文の筆跡から判断すると、(4)は妻河上秀、(3)は実弟河上左京である可能性があるが、秀・左京の欧文筆跡との比較が厳密にはできないため、確言できない。

 にもかかわらず筆者は、この2通のローマ字手紙を、内容的に見て、河上肇がベルリンの国崎定洞経由でモスクワの片山潜=日本共産党指導部に宛てた秘密報告と判断し、特に(3)は、自分の最愛の弟子であった「Y・I=岩田義道」を「第2の解党派」であると疑い密告した手紙であると考える。その最大の根拠は、河上肇『自叙伝』中の以下の記述であり、長く河上研究者のなかで謎とされてきた問題と関わる。

 河上肇『自叙伝』での岩田義道への長文の論及は、「解消運動に関聯して思ひ浮ぶことども──解党派一味の跋扈」の項に出てくる。京大学連事件で獄中にあった岩田が、新労農党解体を宣言した河上のもとに突然訪ねてくる。1930年10月下旬のことである。愛弟子岩田の出獄を喜んで迎えた河上は、やがて「彼の言動について、どうしても腑に落ちない何ヶ条かの事実」に直面し、彼を「スパイ」とまで疑い接触を絶つ。日本共産党の公式党史では、岩田は1930年10月「釈放」の後、「31年1月から地下活動」に入り、風間丈吉・松村ことスパイM(本名飯塚盈延)・紺野与次郎らと中央委員会を再建したことになっている。しかし河上は、出獄直後に解党派を話題にした時の岩田の態度、保釈理由、河上肇の義弟大塚有章に対する言動、希望閣の市川義雄を介して河上の疑惑が岩田に届いたにも関わらずその疑惑を打ち消しにこなかったこと、などを挙げて「共産党内へ検事局のスパイが潜入した」と考えたと告白している。自分自身が1932年9月に正式に日本共産党員になり、岩田がその直後に検挙され拷問死した後も、「私は一度自分の抱いた疑惑が全く無根のものだつたらうとは思つてゐない」と記した。

 河上は、この岩田に対するスパイ疑惑を、当時「最も信頼する一人の同志H」にうち明けたが、「完全に同意見であつた」ともいう。その「H」に擬された長谷川博は、河上没後の回想で、「或はわたしであったかもしれない」と認めつつ、非合法活動を知らない河上が獄中指導部から党再建の任務を帯びて偽装転向し出獄した岩田の「芝居」を見抜けなかった故の「あきらかにあやまりで、たんてきにいえば河上さんの政治性のすくないのを示している」事例とした(長谷川博・田代文久「真のコミュニスト・河上博士」『回想の河上肇』316-318頁)。

 問題は、この「H」の賛同をもえて、河上肇がとった措置である。『自叙伝』には「当時私は、モスクワ方面へ事情を通じるための手紙を出したりなどしたけれど、(その手紙は、国崎氏に宛てたと思つてゐる。発信者の氏名を明記しないと、こんな手紙は先方で信用される筈はないが、途中官憲の手におちる危険があるので、それは非常に書きにくかつた。)それは届かなつたことを、後日に至つて伝聞した」と書いている(以上、『全集』続5巻、375-381頁)。

 筆者は、今回見つかった手紙(3)は、ここでいう「モスクワ方面への手紙」そのものだと考える。それは、確かに「国崎氏に宛てた」ものであり、「発信者の氏名を明記しない」「非常に書きにくかった」であろう文体で書かれている。もっともそれがローマ字日本文で、第3者が河上から聞いた話を記したかたちをとった程度のカモフラージュでは、もしも「途中官憲の手におち」ていたならば、容易に読みとられていたであろうが。

 河上『自叙伝』の岩田義道=スパイ説の叙述では、「こんな事を書くのは、心持善くはないが、私が或時かくかくの事を考へたと云ふことは、間違つた考にしろ何にしろ、打消すことの出来ぬ過去の既成事実であるから、これをそのままに書いておくことを許して貰はねばならぬ」(同381頁)と断っている。しかしこの手紙(3)では、「自叙伝」にも挙げていない岩田義道への具体的疑惑を記している。

 それは、『国民』の記事と鍋山歌子から聞いた話に関わるもので、獄中指導部の脱獄計画の情報漏れのようである。モスクワのファイルには、手紙に同封したらしい「別紙『国民』の記事」は入っていなかったが、『国民』とは当時の『国民新聞』(現在のサンケイ新聞の前身)であろうと見当をつけて、国会図書館所蔵の同紙のマイクロフィルムを調べて見ると、1931年2月21日付け『国民新聞』7面全紙半分に、「共産党の首領佐野学一派、外部と策応、脱獄を企つ、密使の返信から計画遂に発覚して3名、小菅刑務所へ移送」「大胆! 雑役夫を抱き込み獄中で中央委員会を開く、当の雑役夫の出獄を幸ひ同志の許へ密書を封じた着衣を託す」「獄内の取締り緩慢、脱獄を企つる何よりの原因」「いや、失敗したよ、佐野学獄中に苦笑」と大きな見出し・写真が並ぶ、センセーショナルな記事があった。当時の東京・大阪朝日など「大新聞」には載っていない特ダネ記事である。  「Honda」の手紙(3)によると、警視庁が否認し大新聞も黙殺したこの記事には、十分な根拠があり、「Y・I」=岩田義道は、この記事が出る4か月前の出獄直後の河上肇訪問のさいに、党員でもない河上に獄中中央委員会や脱獄計画の存在をもらし、しかも鍋山歌子の話によれば、それを知っているのは、警視庁に情報を「売った」当人か、鍋山貞親が誤って渡したメモを刑務所側にもらした「解党派」とつながっていることになる。 河上はこれを、「解党派」の線と考え、岩田の地下潜行を伝えてきた市川義雄(獄中指導部のの市川正一の実弟)をもその一派と疑い、全協の党員にも確かめた上、「モスクワ方面」にこれを伝えようとしたことになる。

 この具体的疑惑があったために、河上肇は、たとえ日本共産党中央委員として岩田が特高警察により虐殺された後であっても、「ありのままのことを書いておけば、……私は彼が一度はほんとに変心し、それから後また元の本心に帰つたのではないか、と想像してゐる。それは自然、検察当局を極めて巧妙に騙した結果にもなつたであらう。事によるとそんなことが警視庁の小役人の憤慨を買つたのではあるまいか、スパイの松村と一緒に仕事をしてゐたのだから、殺されなければならぬほどの秘密を有つても居なかつたらう、といふ風にさへ、私は想像を逞しくしてゐる」と書き得たのであろう(『全集』続5巻、381頁)。

 「Honda」名でのローマ字文の報告は、手紙(4)が先で、(3)がその3週間後であった。「コミンテルンの権威」に屈して愛弟子を「売った」左翼インテリ河上肇の無惨な記録という読み方も可能であるが、手紙(2)の延長上で読むと、当時の現実に存在した日本共産党に対する、河上肇なりの痛烈な批判とも読むことができる。すなわち手紙(4)は、日本共産党のコミンテルンへの誇大報告とその結果としての情勢の過大評価、左翼主義的戦術をただすための運動実態の率直な報告であり、手紙(3)は、日本共産党頂点にも食い込んでいると河上が信じた「スパイ」の告発である。

 ただし、これら「河上肇ファイル」が、コミンテルン指導部(具体的には幹部会員クーシネンとミフ部長以下コミンテルン東洋部)に特別に重視され、何らかの政策決定の参考資料として用いられた形跡はない。前述した日本共産党の報告書「Report-Japan:March 1931」(f495/op127/d299)の一部と思われる断片が、なぜか別のファイル(f495/op127/d288)に分割され入っていたが、そこには、31年1月風間丈吉を委員長とした中央委員会再建の項で、「同志鳥羽[=岩田義道]は、三・一五事件に於て捕はれ、現在保釈出獄中の同志であり、且つ同志佐野、鍋山、三田村等の次の如き指令を受けて出獄したものである。――若し党中央委員会が破壊されて組織されずにある場合は、党中央委員会を組織せよ、若し又中央委員会存在する場合は、中央委員会に参加すべしとの指令」とあった。河上肇が岩田義道に抱いた「スパイ」容疑は、おそらく過剰な警戒心と使命感によるものであったろう。とはいえ、それらは一括してファイルされ、60年以上も秘かに保存されていた。

 確実に言えることは、もしも岩田義道が1932年秋に虐殺されずに、ちょうどこれら河上肇の手紙が書かれた頃ソ連に入った野坂参三・龍夫妻や関マツ(山本懸蔵夫人、岩田の娘みさごを伴って入ソ)のようにソ連に亡命していれば、36-38年のスターリン粛清最盛期にこのファイルは活用され、岩田はソ連で粛清されていたであろうことである。モスクワの片山潜も、ベルリンの国崎定洞も、日本の河上肇も岩田義道も、「社会主義の祖国ソ連」への共同幻想のもとにあった。

 そして、おそらくこれらの痛ましい事実を知りながら、最期まで生き残り、沈黙していた、もう一人の当事者がいた。河上肇の『資本論』の共訳者で、戦後の労働者教育協会会長宮川実である。宮川はその晩年になって、奇妙にも「32年テーゼ」を留学先のドイツから持ち帰り河上肇に手交したのは自分だ、と言い出した(宮川『河上肇──その人と思想』学習の友社、1979年、61頁、杉原四郎・一海知義『河上肇──芸術と人生』新評論、1982年、264頁、それが帰国日程等から疑わしいことは前掲拙稿「政治と情報」)。そのことで堀江邑一らに反論された宮川実には、河上肇と国崎定洞を結びつけ「密使」をつとめたのは実は自分だったのだ、という自負があったのだろう。河上肇が、気懸かりな「モスクワ方面へ事情を通じるための手紙」が届いたかどうかを確かめた相手とは、宮川実だったのか、野坂参三だったのか、第3者であったのか、今日では確認しようがない。また「それは届かなかった」という「伝聞」がどこから届いたのかのかもわからない。

まだまだ謎は多いが、ひとまず「河上肇ファイル」の紹介を終える。



 
研究室に戻る

ホームページに戻る