『歴史評論』1999年10月号所収の同題公刊論文は、雑誌版元の版権によりそのままではインターネット上に掲載できないため、ここには、オリジナル原稿に加筆したウェブ特別版を入れておきます(2000年1月1日)


 

インターネットで歴史探偵(ウェブ版)

 

加藤 哲郎(一橋大学・政治学)


1 はじめに

 政治学者で非会員の私が、なぜか歴史科学協議会の機関誌に執筆を求められた。1998年にも歴史学研究会の大会によばれ「戦後日本と「アメリカ」の影」を報告したが、それは全体会テーマ「20世紀における<アメリカ>体験」に関する報告だった。ところが今度は、『歴史評論』の「歴史学とインターネット」特集である。二つ返事で引き受けた。なぜ?と思われる人は、一度ぜひ私の個人ホームページ「加藤哲郎の研究室」を覗いてみてほしい。私はバーチャル・アカデミズムの世界では、政治学者であるよりも、ちょっぴり趣味的な現代史研究者ということになっている。1997年夏に開設以来、すでにアクセス数は99年末で7万をこえるから、ちょっとした地方自治体公式サイトなみで、その筋ではメジャーなホームページの一つになっている。とはいえインターネット一般を論じるほどの技術も知識も持ち合わせないので、小論は、もっぱら個人的なホームページ(HP)体験記である。

2 ホームページを作るまで

 実は、この原稿は、時差14時間のメキシコシティで書いている。当地のエル・コレヒオ・デ・メヒコ(メキシコ大学院大学)に招かれ日本現代史を講じているのだが、原稿は締切間際に電子メールで送る約束になっている。1999年1月号の『思想』誌に「思想の言葉・短い20世紀の脱神話化」を書いたが、それはヨーロッパ滞在中に電子メールで依頼され、ベルリンから電子メールで送った。こんなことは、パソコンと電子メールを日常的に使っている人には改めてことわるまでもないが、歴史研究者には多いらしい古典的アナログ派、ワープロさえさわったことのない人には、驚異(脅威?)かもしれない。

 私自身も、数年前までは、そんな世界にいた。ワープロは早くから使い、フロッピー入稿もしてきたが、それでも郵送で、せいぜいファクス送稿だった。それがある時、NECパソコンからアップルユーザーに乗り換えたさいにモデムを買い足して、電脳世界にさまよいこんだ。初めはパソコン通信と電子メール一本で、ニフティサーヴの「思想ファーラム」あたりで満足していたが、やがて図書館に自宅からテルネットで入る文献探索をおぼえ、モザイクをクリックしてのバーチャル世界旅行を知って、ネットスケープが爆発的に広がり、モデムをISDNに切り替えた頃から、インターネットに病みつきになった。

 それでも当初は、本特集の読者の多くがそうであるように、もっぱらネットサーフィンを楽しむ側であった。研究に役立ちそうなサイトにあれこれあたったり、趣味の将棋や旅行の情報を得るのがせいぜいであった。1999年末に、20年前からその生涯と活動を探求してきた元東大医学部助教授国崎定洞のモスクワでの粛清死の悲劇を示す旧ソ連秘密文書を入手し、その経緯と背景を分析した3冊の書物を公けにしたが(『モスクワで粛清された日本人――30年代共産党と国崎定洞・山本懸蔵の悲劇』青木書店、1994年, 『国民国家のエルゴロジー――「共産党宣言」から「民衆の地球宣言」へ』平凡社、1994年, 『人間 国崎定洞』(川上武と共著、勁草書房、1995年)、その頃はまだ、インターネットを研究そのものに本格的に使えるとは思っていなかった。

 1997年の夏休み、一冊の本から冒険が始まった。ネットワーク研究会編『これなら誰でもつくれる! 超簡単ホームページ』(かんき出版)で、「今日からすぐできるHTML入門」「特別なソフトや知識はいりません」という宣伝文句にだまされたつもりではじめてみた。本の説明は、なかなか飲み込めなかった。でもそれはパソコンではよくあることで、とにかく動かしてみるにかぎる。図解が親切だったから、3時間後にはネットスケープで自分の原稿と対面することができた。

 その何の変哲もない履歴書・著作一覧と論文一本のみのホームページ開店を、何人かのその道の達人(ほとんどがゼミの教え子たち!)に電子メールで知らせた。すぐにトップページのデザインからカウンター・写真の入れ方、ロゴの著作権、ヤフーなど検索エンジンへの登録の仕方、等々の情報が寄せられた。

 特に「市民のための丸山真男ホームページ」を主宰するH・田中氏からは、最初にアップロードした私の市民社会論への本格的な批判が寄せられ、それに知識人論として応答したHP上での往復書簡が多くのギャラリーに注目されて、後に活字で雑誌にも再録されることになった(加藤哲郎=H・田中「市民とアカデミズムと知識人」(H・田中との往復書簡、『葦牙』24号、1998年3月)。また、同年秋に来日した国家論研究の友人、Bob Jessopの講演会案内・報告草稿等を日本語・英語で掲載して、しだいに発信機能を高めていった。

 その過程で思いついたのが、ちょうど研究途上であったワイマール期在独日本人反帝グループ関係者名簿および旧ソ連日本人粛清犠牲者名簿の未完成のリストを、データベースとしてホームページ上に公開し、インターネットを通じて広く情報を収集するシステムの構築であった。私のHPの目玉である「現代史の謎解き」は、こうして開設された。そこに「今月の尋ね人」という戦間期ドイツ・旧ソ連在住日本人のリストから二人を選んでスポットライトを当てるコーナーも設けた。もっとも月単位では更新頻度からして十分な威力を発揮できず、98年からは「今年の尋ね人」として長期に集中的に消息を求めるかたちに切り替えた。その間、他の学術サイトとの相互リンクも充実させ、リンクページ「政治学が楽しくなるインターネット宇宙の流し方」を通じて多くのネット上の友人を新たに得ることができた。本誌編集部鵜飼政志氏の主宰する「歴史学関係リンク集」とも、こうしてつながった。

3 旧ソ連秘密文書との出会いと粛清犠牲者探索

 1998年から99年夏にかけて、私のホームページへのアクセスは急増し、毎月約3000人が定期的に訪れ通算5万ヒットに達した。WWW上の学術サイトを紹介するメールマガジン"Academic Resource Guide"では、学術研究に有用な「定番」サイトの一つに選ばれた。ちょうど海外調査・在外研究の時期と重なって、海外からホームページを更新する技術も身につけた。その推進力となったのは、歴史学とも関係するHP上での二つの「仕掛け」だった。ただしもう一つ企画倒れに終わった「仕掛け」がある。そちらを先に記そう。

 1998年5月の歴史学研究会大会全体会に「戦後日本と「アメリカ」の影」を報告するよう頼まれたのは、97年のクリスマスを厳寒のロシアで迎える直前だった。ちょうど英語版HPを充実させ、「ボブ・ジェソップの客室」を作って海外ともリンクする体制を整えたので、歴史学研究者とのネット上の対話を通じて大会報告を作成・推敲する実験を試みることにした。具体的には、歴研大会報告要旨を機関誌『歴史学研究』に送稿すると同時にホームページにも掲載し、大会2か月前に報告第一次草稿をネット上に発表してコメントを募り、その反応を取り入れたうえで本報告に仕上げる算段だった。

 ところがこれは、失敗に終わった。シカゴ学派の身体計測学やジョン・ダワーの戦時日米敵国イメージ研究をとりいれて、インターネットの特性である画像データをもふんだんに使いアップロードしたのだが、ほとんど反響がないまま大会当日を迎えることになった。歴研会員の多いメーリングリスト<H-JAPAN>に投稿する手も考えたが、長文なので断念した。ホームページ上の原稿は、枚数制限なし・締切なしでエンドレスに更新できる。そんな長文をわざわざダウンロードして本格的に批判してくれる人はいなかった。ただしなぜか、画像化した図版データについては国内外からいくつか意見が寄せられ、数字を修正したり出所を確認したりすることができた。どうやらインターネット上での対話は、視覚を通じたチャット方式が向いているらしく、硬派の論理的討論はお呼びでなかったようだ。

 成功した「仕掛け」の一つは、藤岡信勝教授率いる「自由主義史観研究会ホームページ」とのアクセス競争である。私のホームページが5000ヒットに達した1997年末、ネットサーフィンで自由主義史観研究会の公式サイトをみつけ、まだ約8000ヒットで手の届く距離にあることがわかった。そこでトップページで自由主義史観研究会の批判とアクセス数の競争を宣言し、ほぼ半年後に14000ヒットの段階で追いつき追い抜いて、以後は1万以上の差をつけた。まさかそのためではなかろうが、自由主義史観研究会HPは最近カウンターを付け替えたようだ。このアクセス数とは無論延べ人数であるが、ホームページ作りで肝要なことは、更新のたびにアクセスし覗いてくれるカスタマー=固定客を獲得することである。私の場合、自由主義史観とは対立するサイトであることを敢えて強調し宣伝して、毎月数千人の現代史ファンが見に来てくれる「定番サイト」にすることができたのである。

 もう一つの「仕掛け」が、先述した1920・30年代ドイツ及び旧ソ連に在住した日本人の消息をインターネット上で探る「現代史の謎解き」ページの開設と、そのなかの数人にスポットを当てて情報を求める「今年の尋ね人」キャンペーンである。この試みはたびたびマスコミで取りあげられ、また実際に「尋ね人」情報がネット上から寄せられることにより、私のホームページを特徴づける「目玉」となった。法政大学大原社会問題研究所五十嵐仁教授HPから「国際歴史探偵」という称号(?)をいただいた所以である。

 「現代史の謎解き」ページには、ここ数年私が研究を進めているワイマール共和国末期からナチス政権獲得期にベルリンに在住した国崎定洞・有沢広巳・千田是也ら約百名の在独日本人反帝グループ関係者の略歴付き名簿と、このグループからモスクワに亡命した国崎定洞・佐野碩・土方与志らを含む百人近い旧ソ連在住日本人粛清犠牲者リストが掲載されている。これらは前述『モスクワで粛清された日本人』等の執筆過程で作成し、既に著書・論文で活字化したものであったが、インターネット上では研究の進展によりデータを随時更新できるメリットがあり、また写真や第一次資料をスキャナーにかけて画像で表現することもできる。HP開設当時は政治学者の副業紹介程度の位置づけであったが、「尋ね人」欄に実際に情報が集まってくると、それ自体がインターラクティヴな研究の舞台となった。

 このページは、活字マスメディアとの連携で、具体的成果を挙げることができた。特に旧ソ連粛清日本人犠牲者探求は、HP開設以前から、須藤政尾について毎日新聞・朝日新聞・北海道新聞・徳島新聞、勝野金政について朝日新聞、小石濱蔵について北海道新聞、安保吉五郎については北海道新聞・日本経済新聞の報道記事や私の寄稿を通じて、犠牲者の身元が判明し、遺族・関係者と連絡がついた実績があった。インターネット上での探索でも、必要に応じて新聞社・通信社と連絡をとり、私のHPのURLを添えて掲載してもらう実験を試みた。その端緒は、1998年2月5日付読売新聞「20世紀、どんな時代だったのか」特集で、私のHP上での旧ソ連粛清犠牲者探求がリスト付きで紹介されたが、この時はURLが掲載されず、常連や友人たちにメールで激励される程度の反響だった。

 4 テルコ=松田照子探索の成功

 1998年6月モスクワでの調査で、ネット上の探索に格好のドキュメントがみつかった。サハロフ博士記念人権センターのスターリン粛清犠牲者データベース中に、12人の日本人らしい名前があり、その多くはロシア現代史資料保存研究センター(旧ソ連共産党付属マルクス・レーニン主義研究所)コミンテルン・アルヒーフや旧KGBアルヒーフの資料と重複していたが、1938年3月に「日本のスパイ」として粛清・処刑された「テルコ・ビリチ」という未知の日本人女性の記録が、当時の顔写真入りで入っていた。サハロフ人権センター自身、将来インターネット上にも公開する予定でこれらのデータベースを作成していた。私と共同研究者の藤井一行富山大学名誉教授は、日本人データのネット上での転載・捜索についてセンターの許可を得、それぞれのホームページ上に掲載しリンクしあうことにした。そのさい、私のHPの旧ソ連在住日本人粛清犠牲者リストには、当時モスクワ滞在中で三七年八月に国外追放となった土方与志・梅子夫妻の回想中にでてきた「ロシアの外交官と結婚した陸軍中佐の娘チルコ・ビリチ」があり、サハロフ人権センターの「テルコ・ビリチ」と同一人物と推定できたので、九八年夏、「テルコ・ビリチ」を「尋ね人」欄にアップロードし、あわせていくつかの新聞社・通信社にそのことを通知した。

 大きく報道したのは読売新聞で、1998年8月20日付社会面トップで「テルコ」の顔写真と共に、その消息と遺族との連絡を求める私のHPの「今年の尋ね人」欄の写真とそのURLをも掲載した。その頃私はスペイン滞在中であったが、持参したモバイル・コンピュータで自分のHPを覗き、新聞掲載当日普段の倍の300人以上のアクセスがあったことを確認できた。ただし新聞報道での「尋ね人」は、それまでも経験したことだが、おおむね24時間以内に情報が寄せられない限り、直接情報収集は困難となる。後に判明したことだが、この時は「テルコ」のご遺族・関係者が読売新聞を読んでいなかったため、事実解明にはつながらなかった。その代わり、旧陸軍関係者名簿の所在などいくつかの間接情報が電子メールで寄せられ、その後の探求に役立つものとなった。

 さらに貴重な成果は、新聞記事そのものは「テルコ」にスポットをあてたものであったが、私のHPの写真とURLが掲載されたことにより、当時「今年の尋ね人」のもう一人の対象者であった「井上角太郎」──ナチス政権獲得期のベルリン大学学生で、迫害されたユダヤ人の救出・地下抵抗活動に携わった戦後の朝日新聞ニューヨーク通信員──の近親者が、電子メールで名乗り出たことである。アメリカ在住のご遺族とも電話とメールで連絡がつき、ユダヤ人の夫人と結婚した井上の生涯と活動についての資料と証言が集まり、「もう一人の杉原千畝」の存在を実証する重要な手がかりをえた。本稿脱稿直後、メキシコからの帰路ニューヨークでご遺族と初めて会見するが、電子メールとHPを通じて幾度も交信しているので、その会見は、既知の友人との出会いに近いものとなるはずである。

 「テルコ・ビリチ」探索の方は、九八年後半の私のドイツ滞在中は大きな進展がなかったが、帰国後1999年2月に、東京麻布の外務省外交史料館資料とそれまでの情報を照合することにより、ついにご遺族に関連資料をお渡しし、命日と埋葬地をお伝えすることができた。その詳しい経緯は、私のホームページに「テルコ・ビリチ=松田照子探索記」が入っているので省略するが、最初の手がかりは、歴史研究の王道に沿って、戦前の膨大な旅券発行記録にあたり、昭和初期にソ連に渡った「テルコ」名の女性を「東京都麻布区出身松田照子、一九一二年生」としぼりこんだことであった。その時点でホームページで「松田照子」情報を求めたところ、特に麻布の郷土史サイト「DEEP AZABU」に集う人たちが、当時の麻布の町内会地図や小学校同窓会名簿にあたって、メールで報告してくれた。また私のHPを見た幾人かのジャーナリストからは、捜索協力の申し出があった。

 決定打は1998年2月18付日本経済新聞で、社会面トップで「テルコ=松田照子」の写真と私のHPでの探索をURL付きで紹介したところ、たまたま読んだご遺族が、まずHPを見て「テルコ・ビリチ=松田照子」の詳しい情報と私の探求意図を確認したうえで、自分の親族が「照子」の実妹であることを電子メールで伝えてきた。日経新聞掲載当日のアクセスは千件に達し、ビジネス世界でのインターネット普及度の高さを、改めて思い知らされた。この「テルコ・ビリチ=松田照子」の消息判明は、日経新聞のほか読売新聞と共同通信も大きく報道し(2月25日)、また数多くのメールが寄せられて、かつて「日本のスパイ」としてモスクワで粛清された無名の日本人女性の社会的な「名誉回復」をもはかることができた。

5 インターネットでできること、できないこと

こうしたインターネットを活用した現代史研究の体験から、いくつか気がついたことを述べて、小論の締めくくりとしよう。

 第一に、インターネット上には無数の情報があふれているが、そこから目的意識的に有益な情報を選び出し、データとしてストックしていくと、さまざまな学問上での「発見」が可能なことである。私の場合、旧ソ連粛清犠牲者の探求は、共同研究者藤井一行教授の日ロ文化関係史HPや北大スラブ研究センターとのリンクはもとより、モスクワのサハロフ人権センターマンハイム大学社会史研究所スタンフォード大学フーバー研究所等のホームページを参照しながら進めている。世界各地のアルヒーフの第一次資料直接閲覧はまだできないが、アルヒーフの所在と資料目録は日本にいながら(メキシコにいても!)瞬時に参照できる。かつて手工業的な職人芸であった史資料探索は、インターネット上のデータベースの出現で、時間と労力の多くを節減できるようになっている。「松田照子」探索にあたっても、これらは有力な武器となった。またその探索の副産物である、1922年9月日本共産党創立綱領など旧ソ連秘密文書中に発見した日本関係の新資料は、法政大学『大原社会問題研究所雑誌』に随時紹介している(第480号以下)。

第二に、にもかかわらず、インターネットはあくまで研究の補助手段であり、「テルコ・ビリチ」を「松田照子」と確定するには、モスクワでのアルヒーフめぐりや外交史料館旅券マイクロフィルムとの格闘が必要であった。直接ご遺族に面会して確認をとるまでは、あくまでもバーチャルな推定犠牲者であった。そして、ネット情報が活字情報とうまくかみあい相乗効果をあげることによって、私の「テルコ」探求は一つの結末を迎えることができた。ホームページだけの力では、到底この成果は挙げ得なかったであろう。

第三に、学術研究でのインターネット活用は、情報収集・受容に限定さるべきものではなく、自ら情報を発信し公開することによって、書物・論文執筆とは異なる反応・社会的効果が期待できる。じっさい私のHPの常連=固定客の多くは(電子メール等から判断する限り)書物の読者層とは大きく異なっており、書評や学会コメントとは違った思わぬ反響に、眼を開かれることが多い。文学・美術関係者や諸外国の研究者にも、多くのネットフレンド=情報提供者を持つことができた。インドやメキシコの大学院生たちとも日常的にバーチャル・ゼミナールを進めることができる。

 ただし、歴研大会報告の場合のように、端的で視覚的な即応性はあっても、論理的な対応・論争は、きわめて希である。HPに電子メールアドレスを公開すると、コマーシャルメールやいやがらせメールも日常化し、未知の読者の単純な質問にも丁寧に応対しなければならない。ここでは研究者が社会的にウォッチされるのは避けられない。情報を選択し発信する責任も大きくならざるをえない。

 しかしまた、そのような研究スタイルが、二一世紀に常態化することも、不可避であろう。ホームページまでゆかずとも、すでに一部の欧米誌や新聞記事で散見されるが、活字論文の文末に著者の電子メールアドレスを載せ、読者の批判やコメントを求める方式は、大いに取り入れらるべきであろう。

 ここで問題になっているのは、研究者の社会的アカウンタビリティと情報公開なのである。もっとも今日の段階では、そうした冒険に踏み込むか否かは、さしあたりは研究者の好みの問題であり、選択の問題なのであるが。(E-mail: katote@ff.iij4u.or.jp)




 

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