貴HPのことは、この間インターネットや丸山真男が話題になる場で、その都度紹介してきました。『丸山真男集』編纂に関わった飯田泰三さんや加藤節さんには、貴HPからのダウンロードやアドレスを渡しておきました。私のHPのリンクから貴HPに入って「シャコンヌ」を初めて知ったという政治学者もいます。同じくリンクした宮地健一さんのサイトで日本共産党の丸山真男批判を知ったという学生もいます。貴HPは、いまやインターネット上での丸山真男論のスタンダードとなりました。そのうえ次々とご自分の論稿を発表されて、丸山門下の人々さえできない丸山批判への反論の拠点となっています。その旺盛な評論活動には敬意を表し、脱帽いたします。ぜひ印刷文化の世界にも進出されることを、お勧めいたします。
とはいえ貴HPのパワーの及ぶ範囲は「インターネット上」と限定されます。貴HPが批判してやまないアカデミズムの小宇宙や、もう少し広いアカデミック・ジャーナリズムの世界では、『現代思想』や『大航海』の丸山特集が大きなインパクトを持っています。例の全然リベラルでない「自由主義史観」や佐伯啓思らの「戦後民主主義」批判の文脈での丸山批判も若い世代に広まっています。そのなかで「丸山的思考を受け継ぐ」とはどういうことでしょうか? 「丸山真男ファンクラブ」をつくって丸山の言説を擁護することでしょうか?
私自身は丸山真男と直接接したことはなく、講義を聞く機会もありませんでした。かといって丸山の大学闘争のなかでの言動に「戦後民主主義の虚妄」を見出すグループにも与せず、もっぱら「日本の政治学の最良の伝統」「永田町や霞ヶ関の政争に距離をおき、政治の根底にあるものを見つめつづけ、歴史をラディカルに問い直す思考の流れ」(加藤『現代日本のリズムとストレス』「あとがき」)として丸山の書物に接してきました。学生と一緒に『現代政治の思想と行動』や『日本の思想』を読んではきましたが、かといって丸山真男で日本の政治学が尽くせるわけもありませんから、京極純一や佐藤誠三郎も併せて読むよう勧めてきました。丸山真男を主題的に論じたことはありませんし、貴HPにコメントいただいた論文でも丸山・大塚は「いわゆる『近代主義派』」の戦後政治史上でのイデオロギー的機能の面からのみ扱っています。この論文が掲載された『月刊 フォーラム』97年8月号の特集では、今井弘道さんが丸山の「前期的国民主義」を批判していますが、私は姜尚中・酒井直樹さんらのそうした流れにも与しません。貴HPでは可哀想に「つんどく」用にされた笹倉秀夫『丸山真男論ノート』に共感し、最近の丸山的思考の流れでは、藤田省三『全体主義の時代経験』を評価して、ホブズボーム『20世紀の歴史』と共に、前掲拙著のプロローグで使っています。
どうも丸山真男に惚れ込んで作られた貴HPとは、ひとまず丸山真男への距離の取り方が違うようです。そのことが、私の「市民社会」概念史における丸山真男や平田清明の「一般的で平面的な整理」への貴HPのご不満をよんだようですが、こうした扱いは、現代日本イデオロギー論でも丸山真男論でもなく、主題を「市民社会」概念史に限定した小論では不可避です。そこに貴HPが「毒ガス」とよぶ長谷川慶太郎や藤岡信勝を持ち込んだら、論理が混濁してかえって不自然でしょう。長谷川の経済論や藤岡の歴史教育論は、彼らが論じるその土俵で相手にすべきで、丸山真男が「防毒マスク」になるとは限りません。現代資本主義論については当HP書評倉庫巻頭に意味あると思われる文献をとりあげておきましたし、藤岡「自由主義史観」については彼らの旗揚げした『「現代史」の授業改革』創刊号(95年5月)の「招待席」に乗り込んで、私なりの批判を公にしています(加藤「世間と社会の相克」)。ご参照ください。
しかし、貴HPとの違いは、丸山真男へのスタンスに留まらないようです。貴HPが「日本共産党の躍進」の根拠に「窮乏化」を見出したり、講座派マルクス主義・山田盛太郎を高く評価されたり、日本の労働者は「働きすぎ」ではなく「現時点で世界でいちばん働かない」などと断定されると、どうも現状認識・歴史認識の大きな違いを感じます。「つぎつぎになりゆくいきほひ」以前の、事実認識レベルの疑問を持ちます。それを「日本の社会科学は実社会を知らず」「ヨーロッパの現代思想への逃避」と片づけられるのは自由ですが、私のHP内でデータと共に論じてあるように、日本はまぎれもなく世界システム内の「豊かな社会」の中心にあるとともに、そのセンター内で例外的な「働きすぎ社会」です。残念ながらこのような認識は「日本の社会科学」に共有されているわけではなく、「生産過程の比重を減らして生活過程のシャアを高めよう」という主張は少数派です。いわんや多国籍企業化した日本の大企業や日本政府がそうした方向に進んでいるとはとうてい言えません。リストラの精神的ストレスによる「過労自殺」や地方に広がった外国人労働者問題をケーススタディすれば、貴HPの認識とは異なる「生産過程」がみえてくるでしょう。フェミニズムの役割、「ジェンダー」イシューの位置づけも、バブルの副産物には還元できません。世界史的な20世紀的出来事です。丸山真男なら「状況の制度化」の文脈で異なる判断を示すでしょう。総じて貴HPの論調には、バブル経済崩壊後の局面的情況が「市民感覚」の名で誇張され一般化されている面と、論理的脈絡抜きに「古層」「執拗低音」が前提されている面とが併存しており、読者を戸惑わせます。
貴HPは「われわれ市民」と名乗り、丸山真男を基準に「研究者の皆様」や「アカデミズム」に苦言を呈しています。当HPも「先生」とよびかけられました。インターネットは、「市民」と「知識人」との「対話」の場なのでしょうか? 丸山の「知識人」論や「疑似インテリ」範疇に立ち入る必要はないでしょう。「丸山真男の時代」は、まさに「大知識人」が「市民」を啓蒙しリードし、時には市民運動・社会運動や政党間の接着剤になることが可能な時代でした。同時にそれは、「層としての知識人」が日本史上初めて登場し、定着する時代でした。女性が政治にも学問にも加わり、大学進学率が3%から40%に急増し、第一次産業中心の農業社会は第二次産業中心時代を経ずに第三次=サービス産業従事者が多数派になる社会へと激変しました。「大知識人」や「論壇」は、その過程での「戦後民主主義」に重要な政治的役割を果たしましたが、やがてその機能は「大学」「学会」「マスコミ」「ニュースキャスター」などに制度化され、それ自身が膨大な労働力を抱える一大産業部門になりました。 「大」のつかない「小知識人」は、「知識労働者」であり「市民」であり「消費者」でもある点で、エンジニアやホワイトカラー上層と大きく異なりません。「アカデミズム」という職域に分類され、研究・教育を業務として生計をたて、知識・情報商品を市場に送り出す「市民=生産者」となります。その市場の規模とカラーも変わりました。哲学書の発売に行列ができた時代は去り、コミックやパソコン雑誌やハウツーものと競合しながら「ポスト・モダン」から「ネオ・マルクス主義」「カルチュラル・スタディーズ」にいたるさまざまな記号やブランドをつけて、自分を含む「市民=消費者」「学生=受益者」に日々存在証明=価値実現を迫られているのです。
『大航海』の丸山真男特集で、松原隆一郎は丸山ゼミ出身者を「商品」に見立て、ちょっと見当違いに丸山を論じていますが、一面の真実は含まれています。つまり今日の「アカデミズム」は、知識情報の巨大市場、次世代労働力市場に組み込まれています。そのなかで丸山『現代政治の思想と行動』150刷は驚異のロングセラーであり、『丸山真男集』が商業ベースに乗ったこと自体、業界の一大ニュースでした。しかしそれは、おそらく「最後の大知識人」ならではのことで、さまざまな雑誌の「丸山特集」や貴HPを成りたたせたようなかたちでの影響力は、今日の「小知識人」には期待できないでしょう。「小知識人」は階層・集合として、かつての「大知識人」の果たした機能を分有するのです。「末は博士か大臣か」が過去のものであるように、「大知識人対一般市民」という啓蒙主義的構図も歴史的なものです。今日の「小知識人」は「市民・内・存在」で双方向に互換性があり、「自立した個人」内では人格的にも共棲可能です。ここで当HPが意識しているのは、いうまでもなくアントニオ・グラムシです。「伝統的知識人」から「有機的知識人」への文化的政治的生産=ヘゲモニーのあり様です。
貴HPは「市民」と自己規定することで「アカデミズム」に切り込んでいますが、実は「有機的知識人」の機能を実際に果たしていることでは、当HPや大学・学会関係HP等と異なるところはありません。「われわれ市民」と名乗ることで「知的消費者」規定を前面にたてておられますが、実は一つの「市民像」をきわめて精力的・先端的に再生産しておられるのです。でもそれは「アカデミズム」とは別の、インターネットというヴァーチャル小宇宙でのことです。当HPはこの世界の流通システム・ルールにはなはだうとく、技術的にもまだまだ稚拙ですが、少なくとも当HPの期待を込めたインターネット規定は、おおむね自由時間と自己表現の領域に属し、脱商品化されたスペースとタイム、交換価値より使用価値が重んじられるコミュニケーション領域が広く存在することです。「市民」の歴史的にナショナルな属性を希釈し、グローバルでコスモポリタンな「地球市民社会」への実験を可能にすることです。
ですから当HPは、敢えて国立大学LAN内におかず、もっぱら勤務時間・労働時間外の「遊び」の時間帯に、自宅で作成・更新しています。そのメッセージが「自由時間こそ市民社会の基礎」であることは、「アカデミズム」の基準からしても驚くべき読書量と旺盛な評論活動を示されている慧眼な貴HPは、とっくに気づかれているでしょう。どうも当HPと貴HPとの違いは、現状認識の基礎にある「市民」像、「市民」の倫理的基礎に設定ないし非設定した「労働」「勤勉」の位置づけにあるようです。
当HPの視座は簡明です。また「西欧流行思想の横流し」とお叱りを受けそうですが、J・ハーバーマスやH・アレントをヒントにしたものです。アレント風にいえば「労働」「仕事」の支配的な歴史的社会でいかに自由な「活動」の時間・空間を確保し復権しうるか、「受益圏」と「受苦圏」で構成された「労働中心世界」をいかに「公共圏」と「親密圏」の関係のなかで「活動中心社会」に組み替えていくかです。そのような「市民のaction」として、当HPは開設され運用されています。「What's New」だけを見に来る常連さんが多いことからも、そのようなまなざしのなかにあると思われます。貴HPも自由時間での自己実現「活動」のようにお見受けしますが、いかがなものでしょうか? こんな「公共圏」に開かれた「市民的対話」の素材には、マルクスや丸山真男はふさわしくないかもしれません。この次はぜひ「日本共産党躍進の秘密」や「日本人は働きすぎか」で議論してみたいものです。
貴HPのコメントに感謝し、返事の遅れた非礼を重ねておわびしつつ、貴HPのいっそうのご活躍を期待しております。 「市民」としての「加藤哲郎の研究室」より