以下に収録するのは、1994年に書き下ろした私の著書『モスクワで粛清された日本人――30年代日本共産党と国崎定洞、山本懸蔵の悲劇』(青木書店、1994年)の目次と「プロローグ」「エピローグ」「あとがき」である。B・ジェソップは、自分の著作の中で『プーランザスを読む』(日本訳、合同出版、1980年)を自分のもっとも愛着ある書物としているが、私にとっては、この書物が、かけがえのない作品となった。


 モスクワで粛清された日本人

  ――1930年代日本共産党と国崎定洞、山本懸蔵の悲劇――

 

 加藤 哲郎(一橋大学・政治学)


 [目  次]

プロローグ――リヒアルト・ゾルゲとアイノ・クーシネン

序 章 粛清の解剖学――歴史となった共産主義

第一章 暗闇の書誌学――『闇の男』の提起した国崎定洞問題

第二章 疑惑の噂の考現学――山本懸蔵はなぜ国崎定洞を告発したのか?

第三章 遺稿の解釈学――人は死を前に何を語るのか?

第四章 革命集団の世代論――片山潜自伝『わが回想』の周辺

第五章 疑心暗鬼の政治学――モスクワ日本共産党の秋の憂欝

第六章 クートベ選抜の教育学――「三二年テーゼ」を支えたトロイカとは?

第七章 諜報社会の遊泳術――オムス工作員関マツと野坂参三の自己保身

第八章 人民戦線の地政学――在欧日本人の反ファシズム・ネットワーク

第九章 善意の党派性の現象学――「偽装スパイ」とされたモスクワ日本人社会の壊滅

終 章 こわれた鏡の偏光学――杉本良吉・岡田嘉子の越境と宮本顕治のマンダート幻想

エピローグ――地獄への道は、無数の善意で敷き詰められていた

関係略年表

人名索引


プロローグ――リヒアルト・ゾルゲとアイノ・クーシネン

 「微笑みの国」日本に魅せられたスウェーデン作家ハンソン女史

 

 昭和11(1936)年10月8日付けの『東京朝日新聞』社会面に、「瑞典の女作家再び来朝」という、短いが顔写真入りの消息記事が載っている。

 「2年前日本に来たスエーデンの女流作家リスベート・ハンソン女史(37)が今春、ストックホルムで発行した『微笑む日本』(デット・レーエンデ・ニッポン)をお土産に[10月]7日の秩父丸でヒョッコリ来朝、帝国ホテルに入った。」

 その女流作家「エリザベート・ハンソン」女史は、2週間後の10月22日付け『東京朝日新聞』東京版に再び登場し、今度は「北欧の女流作家に微笑む東京の姿――第二の印象記、ハンソン女史寄稿」と3段見出し、6段通しの大きい記事が載っている。2段ヌキの大きな写真が、スウェーデン語のサイン入りで、微笑んでいる。ただし、リードの「2年前桜の花が咲く頃憧れの日本を訪れた夢を忘れ難く」というのは誤りで、本当は、1934年11月に来日して東京に滞在、35年11月にいったん日本を離れ、今回著書を携えて再来日したようである。

 「東京を初めて訪れた外国人は、余り澤山の事柄に心をひかれるのでその中からどれが一番大きな特徴だか別に取り分けるとは困難です。大きなビルジングの近代的建築、それは建築技術の最新語です。そして街や裏庭の清潔なことも初めて見てすぐ心をひかれます。驚く程幅の廣い通りや並木道、廣大な公園、運河、競技場などすべて大きな印象を与えました。東京は世界中で最も美しい都市になりつつあるといふことを断言します。」

 その後には、日本女性のキモノの美しさについての、歯の浮くようなほめ言葉が続く。ハンソン女史の本『微笑む日本("Det Leende Nippon")』は、確かに1936年春にストックホルムで書かれ、6月にはスウェーデン語で出版された。すぐに英語版("Japan, Land of Smile")も出された。著者は、あらかじめその本を、日本の友人たちに送っておいた。

 「特に誇らしく思ったのは、日本人の国民性と生活観に関するわたしの記述を賞賛した、日本のある大学教授からの感謝の手紙であった」と、著者は、30年後に、遺稿に記している。

 実は、この本は、ハンソン女史の日本での「任務」がスムーズに達成されるように、彼女が1936年初めにストックホルムで執筆し、ある秘密機関が手をまわして、急いで印刷し刊行したものだった。

 彼女の著書や『東京朝日』の記事を見て、「ハンソン女史」の正体を知っていた男が、当時の日本に、ただ一人だけいた。それは、在日ドイツ人で、ドイツ大使館に出入りするナチス党員の肩書をもつジャーナリスト、リヒアルト・ゾルゲである。ゾルゲは、対日大物スパイ団のリーダーとして、1941年10月、元『東京朝日新聞』記者・近衛内閣のブレーンであった尾崎秀実らとともに、逮捕された。いわゆる「ゾルゲ事件」である。

 ゾルゲがハンソン女史を知ったのは、尾崎秀実からではない。尾崎は、二・二六事件から日独防共協定締結にいたるこの夏、ヨセミテの太平洋問題調査会に日本代表として出席、元老西園寺公望の孫である西園寺公一とも親交を結んだが、たぶん、自分の勤める新聞に報道されたとはいえ、キモノに魅かれたスウェーデン作家のことなど、何も知らなかっただろう。

 ハンソン女史のことを書いた朝日新聞記者は、女史自身の記憶によると、「中野男爵」という。この朝日の中野記者と、英字紙『ジャパン・タイムズ』の上原記者の二人が、ハンソン女史の日本での諜報活動の、主要な取材源となったようである。

 ハンソンは、実はこの時50歳だった。しかし、華奢で若く見える北欧のジャーナリストは、その美貌と教養で、日本の社交界でもてはやされた。やがて、皇居の園遊会に招かれ、天皇の弟秩父宮とも親交を結んだという。

 彼女「エリザベート・ハンソン」の日本滞在は、正確には、1934年11月ー35年11月、36年10月から37年12月の、2年余りに及んだ。その間の「本国への里帰り」とは、「中野男爵」らに語ったスウェーデンではなかった。彼女は、本当はフィンランド人であった。ただし、「本国」とは、生まれ故郷のフィンランドでもなかった。それは、ソヴェト連邦で、そこには、世界的にも著名な夫が住んでいた。

 

ゾルゲ・尾崎事件における謎の女性「イングリッドまたはオリガ」

 『現代史資料』(みすず書房)全4巻にまとめられた「ゾルゲ事件」の記録のなかには、「エリザベート・ハンソン」は出てこない。

 代わりに、ゾルゲ・グループの無線技師マックス・クラウゼンの1941年12月24日第5回警察訊問調書のなかに、「イングリッド」という謎の女性が登場する。

 「此の女は昭和12年から13年にかけて数ヶ月九段の野々宮アパートに止宿した40歳位の美貌、金髪、小造りで、英語の発音から見て米国婦人と思われ、表面の職業は新聞記者だと想像して居りました。私も当時『ゾルゲ』の家で二、三回出会った事があります。彼の話によると、彼女は、日本の知名士から情報を取って居たさうです。電報には二、三回其の名が現れて居ますが、本当の名は存じません。それから私からは金は一回も与えませんでした。之れは『ゾルゲ』が知って居ると思ひます」(『現代史資料』「ゾルゲ事件・4」みすず書房、1971年、255頁以下)。

 他方、同じゾルゲ・グループのアバス通信記者ブランコ・ブーケリッチの「訊問終了に際しての警察意見書」(1942年3月4日)には、「被疑者[ブーケリッチ]は、‥‥『コミンテルン』の諜者バルト人『オルガ』なる婦人の勧誘に依り同[1932]年5月頃巴里に於て『コミンテルン』の系統に属する諜報団体に加入することを決意し、同年10月日本に派遣せらるることに決定」とある(同369頁)。

 日本の警察は、グループの取調べの段階で、1932年にブーケリッチをグループに誘い日本へ派遣した「オルガ」と、クラウゼンのいう37-38年日本にいた「イングリッド」とを、北欧系の同一人物と考えたらしい。

 そこで、主犯格であるゾルゲに対しても、「イングリッドことオリガ」として訊問した。ゾルゲは、たぶん、これ幸いと、1941年12月22日の大橋秀雄警部補の訊問に、オリガは5ヵ月しかいなかったとして、次のように答えている。

 「『イングリッド』或は『オリガ』。

 彼女は私に何等の通告なく中央から特別の使命を帯びて東京に来たのであります。しかし私は彼女が『スカンジナビヤ』に居た時から知って居り古い知合であります。

 私は彼女の使命が何であるかと云ふ事は知りませんが、しかし、私の信ずる処では何か軍事関係の使命を帯びてでも来たものと思ひます。しかし彼女は私並に私の『グループ』とは何等の関係を持つなと云ふ命令を受けて来て居りました。

 唯、彼女が電報を発送するときとか、手紙を出すときは自分のグループを通してやりました。それ以外私と彼女とは何等かの関係はありませんでしたが、彼女の東京に於ける財政状態が、非常に悪かったと云ふ事実からして、彼女は私に援助を求めて来ました。其後も彼女は数回私の所へ金の事で来て会ひました。それは滞在期間五ヶ月間に一ヶ月一度位の事であります。約五ヵ月後に私宛に送られた電報に依って欧洲に呼び帰へさせられました。しかし彼女はその使命を果たす事が出来なかった様に思ひます。東京に滞在中は、帝国ホテルに二ヶ月位、後に野々宮アパートに三ヶ月位滞在して居た模様です」(「ゾルゲ事件・4」136頁)。

 ゾルゲは、いわゆる第一手記(警察側がまとめたもの)では、次のようにいう。

 「『オリガ』と云ふ『スエーデン』人に就いては先に申上げてあるが此の女は確か1937年か1938年に上海から来て数ヶ月間帝国『ホテル』に宿泊して居た年齢は40歳位に為ると思ふが現在は何処に居るか解らぬ」(『現代史資料』「ゾルゲ事件・1」みすず書房、1962年、133頁)。

 予審訊問段階で、クラウゼンは、なおも「イングリッド(オリガ)」を「グループの成員」と供述したが(『現代史資料』「ゾルゲ事件・3」みずず書房、1962年、156頁)、ゾルゲは、「協力者とは云へません」と断言し(「ゾルゲ事件・1」351頁)、以後の裁判の過程では、「イングリッド」は、もはや問題にされることはなかった。

当時の日本の警察側は、この件を、次のようにまとめた。

 「『ゾルゲ』一味と他の諜報組織との間には何等横の交渉関係無くモスクワ中央本部に直属し、これと縦の関係に於てのみ連絡するのみと認めらるるも、‥‥又『イングリッド』なるもの東京に派遣されたることあり、何等かの特命を帯びて活動せるものの如く、偶々『ゾルゲ』とは在『スカンジナビヤ』当時共に活動したる旧知の間柄なるため、個人的にしばしば『ゾルゲ』を訪れ、資金の融通を受くる等のことありたるも、その活動の内容等は一切これを秘めて語らず、『ゾルゲ』一派と連絡することを絶対に避けるよう指令され居たる趣きにして、約五箇月程滞京の後欧州に退去したる事実もあり、『ゾルゲ』一派の他に之と類似の組織あるに非らずやとも思料され、[モスクワ]中央本部に於ては各組織よりの情報を比較綜合して、之を取捨選択するものと認めらるることは大に注意すべきものなり」(「ゾルゲ事件・1」98頁)。

 当時の取調官大橋秀雄警部補は、戦後の覚書のなかで書いている。

 「イングリットことオリガ(女姓)。ゾルゲとはスカンジナビヤ時代からの知り合いで、モスコーから軍事関係の特別使命を帯びて来日したが、在日五カ月で欧州に呼び返された。ブケリッチがパリで日本行きを勧誘された『オルガ』と同一人物か否かは確認されていないが、ゾルゲは同女に対しスパイ団の活動資金の中から援助していたので、ゾルゲグループと無関係ではなかったと思われる。オリガのことは、ゾルゲは自供していなかったが、クラウゼンがゾルゲの命令で金を渡したことを自供したので判明した」(松橋忠光・大橋秀雄『ゾルゲとの約束を果たす』オリジン出版センター、1988年、162頁)。

 

ハンソン=イングリッドは、コミンテルン幹部会員クーシネンの妻だった

 実際は、ゾルゲは、「イングリッド」はもちろんのこと、「ハンソン女史」の正体も、よく知っていた。なぜなら、二人は同一人物であったから。というよりも、どちらも偽名であったから。

 「オリガ」は、おそらく「イングリッド」とは別人だった。なぜなら、「オリガ」がパリでブーケリッチを日本諜報団に引き入れた時、「イングリッド」の方は、アメリカで活動中であったから。もっとも、そのことを、上海にいたゾルゲは知らないで、同一人物と考えたかもしれない。諜報員は、互いの活動歴を語らないのが鉄則だという。

 なお、最近NHK取材班が発掘した証言に出てくる、1933年にモスクワでゾルゲと共に日本での諜報活動の訓練を受けていたというドイツ人「オルガ・ベルナール」「オリガという女性」が、ブーケリッチを勧誘した北欧系諜者オリガと同一人物かどうかは、まだ確認されていない(NHK取材班・下斗米伸夫『国際スパイ・ゾルゲの真実』角川書店、1992年、66頁以下)。

 「イングリッド」とゾルゲは、たしかに「旧知の間柄」だった。なぜなら、「スカンジナビヤ」以前に、モスクワで、家族ぐるみの交際をしていたから。というよりも、ゾルゲのかつての直属上司が、彼女の夫で、コミンテルンの高官であったから。

 そのゾルゲの上司の名前は、ゾルゲ事件の調書には、「イングリッド」よりも、はるかにひんぱんに登場する。「クージン」または「クーシネン」という名で。ゾルゲは、1919年にドイツ共産党に入党したが、クーシネンは、マヌイルスキー、ピアトニツキーと共に、25年にソ連共産党に転籍・入党するさいの、保証人の一人であった。

 つまり、「イングリッド=ハンソン女史」の本名は、「アイノ・クーシネン」であった。本当はフィンランド人で、彼女の夫オットー・クーシネンは、当時の世界共産党、コミンテルン(1919年創立)のフィンランド共産党代表、コミンテルン幹部会員であり、ゾルゲがモスクワでコミンテルン機構の活動を始めた当時のコミンテルン情報部長であった。オットー・クーシネンは、日本共産党の「1932年テーゼ」作成を主導した、理論家としても知られている。

 アイノ・クーシネン自身は、「コミンテルンいちばんのコケティッシュな猫」とよばれた、魅力的な女性であった(ルート・フォン・マイエンブルク『ホテル・ルックス』晶文社、1988年、139頁)。実際は、1934年から37年末まで、日本でゾルゲと似たような諜報活動を行っていた。『東京朝日新聞』の記事や『ジャパン・タイムズ』への寄稿も役立ったのだろうか、皇居の園遊会に招かれたり、秩父宮に会ったりしている。

 アイノとゾルゲは、無論、モスクワ時代からよく知り合っていた。アイノの日本での任務の直接の指令者、モスクワとの連絡窓口、活動資金の出所は、ゾルゲと同じく、ソ連赤軍第四本部ベルジン将軍であった。ただし、アイノは、ゾルゲとは別個の任務を与えられ、別個に活動していた。ゾルゲのいうように「軍事情報」に特化していたか否かは不明だが、また実際に重要な情報を送れたかどうかも彼女の回想だけではわからないが、アイノ・クーシネンは、ゾルゲと同格の国際諜報員であったろう。

 ただし、1937年末、東京のアイノ・クーシネンは、モスクワに召還された。それを伝えたのは、リヒアルト・ゾルゲであった。この時、実はゾルゲ自身とゾルゲ・グループ全体も、モスクワに召還されていた。二人は、そのことで話し合った。アイノは、モスクワ帰還を選び、ゾルゲは、あれこれの口実をつくって東京に残り、なお四年ほど活動を続けた。ちょうど第一次近衛内閣のもとで日中戦争が本格化し、国民精神総動員運動や企画院設置で重要になった尾崎秀実経由の情報収集が、軌道に乗り始めていた。

 アイノの方は、日本の官憲の目を完全にごまかすことができたが、スターリンの目は、逃げられなかった。モスクワに戻ってすぐ、1938年1月1日、ソ連の秘密警察NKVDに、突然逮捕された。これは、当時ソ連中で荒れ狂っていた「スターリン粛清」の嵐が、コミンテルン中枢部にまで迫った、一つの象徴だった。

 獄中のアイノは、ソ連の秘密警察に夫オットー・クーシネンの反ソ陰謀を認めるよう脅迫されたが、認めなかった。

 ゾルゲの方は、日本で時の権力中枢にくいこみ、歴史に残る諜報活動を進めたが、1941年10月に逮捕され、44年11月のロシア革命記念日に、東京で死刑台へと送られた。もしもゾルゲが、アイノと一緒に1937年末にソ連に帰国していたら、その処刑の場所は、東京ではなく、モスクワになっていただろう。ただし、NHK取材班の最近の調査によると、ゾルゲの妻というべきロシア人女性カーチャは、1942年に「ドイツのスパイ」として逮捕・粛清され、翌43年に流刑地で死んだことが、KGB文書館資料で確認された(『国際スパイ・ゾルゲの真実』69/252頁以下)。日本の獄中のゾルゲは、そのことを知る由もなかった。

 アイノの夫オットー・クーシネンは、逮捕された妻を見殺しにして、ソ連での自己保身と延命の道を選んだ。すでに多くのフィンランド共産党の「同志」を切捨て、コミンテルン東洋部のサファロフ、マジャールの他、日本人を含む多くのコミンテルン活動家を、ソ連の秘密警察に売り渡していた。だから、1964年に死んだ時には、ソ連共産党中央委員会政治局員まで、出世していた。

 妻アイノは、15年のラーゲリ(強制収容所)暮しを強いられた。そのことで、二人の間には、いかんともしがたい亀裂が生じた。1935年に最後に話し合って以降30年近く、二人は離婚はしなかったが、二度と会うこともなかった。

 夫オットーは、1964年に没し、ソ連の国葬に付された。妻アイノは、葬儀の時だけ、夫を失った喪主の役を演じてみせた。そのまま生まれ故郷のフィンランドに戻り、1970年に没した。日本では年齢を偽っていたが、1886年生まれだったから、天寿といっていいだろう。

 ただし、アイノ・クーシネンは、「イングリッド=エリザベート・ハンソン女史」としての滞日時代の回想を含む、一冊の遺稿を残した。1972年にドイツ語で出たその遺稿の表題を直訳すると、「神は己の天使を滅ぼしたもうた(Der Gott sturzt seine Engel)」。その邦訳は、ソ連の解体後、ようやく1992年に、『革命の堕天使たち――回想のスターリン時代』と題して出版された(平凡社)。

 本書は、リヒアルト・ゾルゲやアイノ・クーシネンが、内側で体験し見聞してきたコミンテルン(世界共産党、共産主義インターナショナル、第三インターナショナル、1919-43年)が、日本人にとってはいかなるものであったのかを考える物語である。

 同時に、1930年代ソ連に在住した、日本人共産主義者に対する粛清のケース・スタディを踏まえた、スターリン粛清のメカニズムについての学術研究である。

 

1994年3月      東京国分寺にて        著  者


  地獄への道は、無数の善意で敷き詰められていた

――『モスクワで粛清された日本人』エピローグ――


 本書をかきおろすための調査で、国崎定洞の最期を探求して、私は、旧ソ連秘密文書「国崎ファイル」を手がかりに、何人もの現存する当時の関係者に会った。

 印象的だったのは、それぞれの人は、自分の関わった活動や事件については詳しいが、その行動や事件の全貌と歴史的文脈を、なかなか理解できずにいることだった。風間丈吉逮捕後、1933年の日本共産党の最高指導者を引き継いだ山本正美でさえ、宮本顕治が前年杉本良吉に訪ソの指令を出し試みられたことを、知らなかった。国崎定洞が、もしも山本懸蔵の「噂」の伝達者であったとしても、おそらくそれが原因で山本懸蔵から怪しまれ、恨まれ、密告されているとは、ほとんど自覚できなかったのではないか?

 それぞれの人々は、善意に溢れ、国崎定洞をなつかしんだ。野坂参三や山本懸蔵のウラの世界での言動には、いまだに信じられずにいる人が、ほとんどであった。

 まことに、地獄への道は、無数の善意で、敷き詰められていたのである*。

  * K・マルクス『資本論』第1巻第3編第5章第2節「価値増殖過程」注14参照。

 職業政治家の心情倫理と責任倫理の問題を提起したのは、マックス・ウェーバーであった(『職業としての政治』)。日本共産党に「前衛政党としての、あるいはその指導者としての政治的責任」「結果責任」を問いかけたのは、丸山真男であった(『戦中と戦後の間』601頁)。私が「歴史における沈黙の責任」を追及した野坂参三は、沈黙したまま「同志を裏切った」責任をとらされ、寂しく世を去った。

 勝野金政や根本辰、国崎定洞や伊藤政之助を「売った」山本懸蔵は、野坂に「売られ」自らが粛清されることで、責任をあがなったことになるのだろうか? 杉本良吉にソ連渡航を命じた宮本顕治は、当時は「善意のコミュニストは誰も予想しない」事態であったが故に、免責されるのであろうか?

 いや、ここでも熊沢光子の運命を想起し、her-storyに目配りすべきだろう。

 国崎定洞の妻フリーダ・レートリヒにとって、夫の生まれた日本、および夫を奪った日本人とは、何であったのか? 野坂竜や関マツに、非党員片山安子や千代子に、党に献身して家庭を顧みず、同志でありながら互いに密告しあう男たちは、どう映っていたのだろうか? 愛する杉本良吉とともに越境し、あっけなく引き裂かれ、10年の禁固・流刑を体験した岡田嘉子にとって、杉本に渡航を命じた日本共産党とは、杉本をかりたてた「社会主義」とは、本当は何であったのか? 岡田の人生において、宮本顕治の杉本への「任務」の指示は、歴史的にいかなる意味を持っていたのだろうか?

 日本の女たちは、その時代について多くを語らず、自らの文字での内面の記録をほとんど残すことなく、沈黙したまま世を去った。

 これらモスクワでの戦前日本共産党指導部の歴史と、リンチ査問致死事件から中央委員会壊滅にいたる国内共産党指導部の歴史は、表裏一体である。その歩みは、いかに天皇制特高警察の弾圧・謀略やスターリン体制の残虐性を考慮に入れても、私には「自壊」に見える。そこで素朴に反戦平和を願い、自由と搾取なき社会を熱望しながら、「資本」として失われた多くの一般党員・非党員の生命の痛みを、今日どのように感じとるべきかが、「国崎定洞ファイル」解読のためにはじめた、私のモスクワ日本人粛清の真相を求める旅の、いまなお答えの出ない、重く痛切な問いである。


  

あ と が き


 本書の成立にあたっては、実に多くの方々の、有形無形の協力をえた。

 旧ソ連公文書館の「国崎定洞ファイル」の入手については、『闇の男』の著者である小林峻一氏と加藤昭氏に、大変お世話になった。沖縄出身アメリカ共産党員のファイルについては、フジテレビ報道局熱田充克氏(現在パリ在住)から、資料の提供を受けた。

 千田是也さん・石堂清倫さん・山本正美さんら、当時を知る大先達たちには、90歳前後の高齢にもかかわらず、私の長時間のインタビューに応じていただいた。

 1930年代日本人粛清の最初の犠牲者であった勝野金政氏と根本辰氏のご遺族には、進んで資料を提供していただき、また、忘れられた真実の発掘に積極的にご協力いただいた。

 その他にも、ここに名前を挙げることはしないが、同じく当時のベルリン、モスクワ、日本についての証言をいただいた、多くの人生の先輩たちがいた。また、そのご家族・ご遺族・関係者の皆さんには、私の不躾な質問に答えていただき、様々にお世話になった。これらの方々に、本書の刊行によって、ご迷惑がかからないようにと願っている。

 したがって、本書の内容についての問い合わせや、本書に関わる新たな関連情報は、実名を挙げた人々についても、すべて、「国崎定洞を偲ぶ会」事務局である、私の方に寄せていただきたい(〒186 東京都国立市中2ー1、一橋大学社会学部加藤哲郎研究室)。

 無論、ベルリン在住の国崎定洞遺児タツコ・レートリヒさん、国崎拓治氏ほか日本に住む国崎家の皆さんのご協力と励ましに、心から感謝しなければならない。本書は、故国崎定洞、フリーダ・レートリヒ夫人と、タツコ・レートリヒさんに捧げられる。

 「国崎定洞ファイル」の解読そのものでは、旧ソ連秘密文書解読の先駆者である小林峻一氏・加藤昭氏のほか、もともとドイツ語・英語で研究してきて、ロシア語資料解読は辞書を使ってもおぼつかない私を助けて、富山大学藤井一行教授が、厳密な学問的態度で、歴史的諸文書を日本語に翻訳してくれた。藤井教授との妙高高原での合宿で、粛清文書の欄外書き込みや日付の奥深い意味を解読できたことが、本書の研究対象を、国崎定洞個人の粛清に留まらない、広い領野に導くものとなった。

 川上武氏・上林茂暢氏ら「国崎定洞を偲ぶ会」事務局と医学史研究会の皆さんは、かつて私に日本社会衛生学の先駆者、「流離の革命家」国崎定洞の名を教えてくれただけでなく、医師として出発した国崎定洞の生涯の最後の空白を埋めるための、今回の私の調査にあたっても、重要証人馬島們の結核菌入手の問題などについて、医学史の観点からコメントし、積極的にアドヴァイスをいただいた。

 なにしろ問題が多岐に渡ったため、関連資料を探求する過程では、窓社の西山俊一氏、朝日新聞社の大内要三氏、岩波書店の大塚茂樹氏、社会運動資料センター代表渡部富哉氏、国立国会図書館の秋山勉氏、ノンフィクション作家鎌田慧氏、東京大学小森田秋夫教授、静岡大学大江泰一郎教授、都立商科短大竹森正孝教授、法政大学高橋彦博教授、日本女子大学成田龍一助教授、それに一橋大学の同僚諸氏や、私のゼミナール出身で各界で活躍中の教え子たち多数の、有益な資料・情報提供、コメント・ご教示をえた。

 ただし、個々の問題での資料や事実の憂欝なジグゾーパズルを仕上げたのは私であり、できあがった図柄には、これらの人々は、何らの責任もない。内容の全責任は、私個人にあることを、明示しておく。

 また、本書の出版については、青木書店の皆さんに、いつもながらの無理をお願いし、ご配慮いただいた。

 政治学を専攻する私が、このようなかたちで、ノンフィクションとも、推理小説とも、現代史研究ともつかない、ある意味では中途半端な書物を書くことになったのは、もっぱら、私が学生時代に国崎定洞の名を知り、その生涯に関心をもって以来の、私自身の思想的軌跡のなせるわざである。

 ただし、今回は、「国崎定洞ファイル」に秘められた謎の探求の過程で、専門領域の一つであるコミンテルン史研究や現存社会主義研究の知識ばかりでは足りず、当時のプロレタリア文学・演劇の領域から、日本ジャーナリズム史・ゾルゲ事件にまで、立ち入らざるをえなかった。というよりも、1930年代の日本人の共産主義運動とは、どうやら、これら全社会領域を一つに単純にくくりうるという論理で構成されていたらしく、当事者たちの人間的な、あまりに人間的な、善意や愛憎、友情や怨恨が、政治や文化や学問やコミュニケーションの世界にも深く投影されていることを、知ることが出来た。

 本書と並行して、私が研究し発表してきた著作の主要なテーマは、過労死に象徴される日本の企業社会の政治経済学と、戦後冷戦構造の崩壊、近代国民国家の限界のマクロな位置づけ、その分析を可能にする理論的枠組みの探求であった(加藤哲郎=R・スティーヴン編『日本型経営はポスト・フォード主義か』窓社、1993年、田口富久治・加藤哲郎編『講座現代の政治学・第1巻 現代政治学の再構成』青木書店、1994年、平田清明・加藤哲郎他『現代市民社会と企業国家』御茶の水書房、1994年、中内敏夫・加藤哲郎他『企業社会と偏差値』藤原書店、1994年、加藤哲郎「戦後の国際的枠組みの確立と崩壊」『シリーズ日本近現代史・第4巻 戦後改革と現代社会の形成』岩波書店、1994年、加藤哲郎『国民国家のエルゴロジー』平凡社、1994年、など)。

 そこで提唱した、エコロジー(生態学)とエルゴロジー(働態学)の視点、すなわち、人間の自然性に立脚し、社会的生産力と人間労働のリズムの限界性をわきまえること、あらゆる社会制度も、この自然性を究極の基礎にしており、ストレスの蓄積・発現や制度疲労がさけられないことは、実は、本書においても、その深層において前提されている。エルゴロジー風にいうと、マルクス主義理論が「猿が人間になるにあたっての労働の役割」から出発し、「近代の近代主義的超克」「自然の征服による溢れるばかりの物質的富の獲得」を志し、共産主義運動が「全面的に発達した諸個人」「全知全能の科学的社会主義と前衛政党による全世界の獲得」を目指していた限りで、その制度疲労と人間的摩耗は、不可避であったのかもしれない。

 本書の草稿は、当初、「地獄への道は、善意で敷き詰められていた」という表題で、書き起こされた。「国崎定洞ファイル」を一読した私の第一印象が、そうであったからである。だが、草稿を読んだ幾人かの友人から、疑問が寄せられた。1930年代の共産主義運動を「善意」から説明し、その帰結を「地獄」と総括することが許されるのか、と。

 当初四百字50枚ほどだった草稿が、700枚近くにふくらんでくる過程で、「善意」と「地獄」の問題を、考え続けた。たとえば、片山潜・山本懸蔵や野坂参三の「善意」と、国崎定洞や杉本良吉・岡田嘉子の「善意」は、同じ天秤にかけれるものなのか、日本の特高警察やナチスのゲシュタボの拷問・弾圧と、ソ連のスターリン粛清とNKVDの組織的暴力の帰結を、同じ「地獄」の観念でくくっていいものか、と。何よりも、「地獄」以外の選択肢が、1930年代に反戦平和を願い、自由とユートピアを求めた人々の前に、いったいありえたのか、それは、20世紀の人類全体に仕掛けられた、大きな罠ではなかったか、と。研究途上で中国や韓国を訪れ、自然生態系と人間働態系の破壊をまのあたりにし、開発独裁下の民主活動家たちと交流したことが、その感をいっそう強めた。

 リヒアルト・ゾルゲやアイノ・クーシネンの諜報活動にまで考察が及んだのは、ある意味では、この自問の帰結であった。国崎定洞や岡田嘉子の生き方を通して、何らかの糸口を得ようとしたが、確たる答えは、未だに提示できない。さしあたりは、表題を改め、マルクスのいう「地獄への道‥‥」は、政治指導者の結果責任の問題に限定し、エピローグでのみ用いることにしたが、あらゆる既成の観念から離れて、知識人の役割と学問そのものの意味を、考え直したい誘惑にかられる。20世紀と西欧近代の意味を、根本的に、自然史的に再考するという方向以外には、出口を見いだせないのではないかと予感する。

 そのうえ、本書で扱ったのは、これから無数に現れるであろう旧ソ連公文書館秘密文書の、ほんの一部による分析である。この「あとがき」を書いている局面でも、新たに「野坂竜ファイル」などの新資料が届き、それは、本書では用いていない。かつて『コミンテルンの世界像』(青木書店)で予告した『コミンテルンの日本像』を仕上げるには、これからも現れるであろう日本人粛清関係史資料と共に、テーゼや決議の草稿類やコミンテルン執行委員会・東洋部の議事録・速記録など、コミンテルン文書館のより政治的・理論的な史資料の発掘・整理が、必要になるだろう。その前に、国崎定洞の伝記の空白を埋める仕事、沖縄出身の青年たちの側から同じ過程を見直す仕事、野坂参三や山本懸蔵の政治史的位置づけを明確にする仕事も、派生してきている。

 だから、本書は、もっぱら1930年代在モスクワ日本人粛清の「人間の劇」に限定した、私の研究の中間報告であり、未完の旅路の第一歩にすぎない。そして、その旅は、とても私一人の力で歩みきることは、できそうもない。当時を証言しうる人々の多くは、すでに高齢である。21世紀まで生き残ることのできる人は、ほんのわずかであろう。若い人々のなかから、こうした問題を積極的に研究する、勇気と問題意識ある青年たちが現れることを、期待したい。

 20世紀社会主義・共産主義の歴史は、まだいくつかの国では終わっておらず、自由・平等・友愛のユートピアを求める無名の男たち・女たちの物語は、これからも、地球のすみずみで、無限に編まれ続けていくであろうから。



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