1998年10-12月、99年8-9月、2000年8月、2006年11月の海外滞在レポート
[Berlin Report No.1]
1998/10/20
ふたたびベルリンからの更新です。ドイツはもうすぐ冬です。9月総選挙でSPDが勝って、赤緑連立政府の見通しはたったものの、ロシアや日本の危機、アメリカのバブル崩壊のとばっちりを受けて、経済再建は多難です。もっともここベルリンは、2000年の首都機能移転に向けて大型建設ラッシュ。かつてチェックポイントチャーリーがあったポツダム広場周辺は、銀座4丁目とそっくりのソニービルをはじめ、「壁」などなかったかのごとくに、ポストモダンの競演です。それでも失業率は相変わらず、なによりも旧東独の影は残っており、私の住むフンボルト大学周辺では、総選挙でもPDS(旧東独SED民主派)が勝ちました。驚いたのは、ベルリンの中心ZOO駅においてある英語のガイド冊子"English
Insider
Information"、「東にはまだオッシーがいる」「西のベルリーナーは金を使って時間をセーブするが、オッシーは時間を使って金をためる」と旧東地域の探索を観光の目玉にしています。ニューヨークやシカゴで黒人街を売り物にするのと同じですね。ゴミの分別はたしかに進んでいますが、タバコは意外に自由、地下鉄の駅にさえ灰皿があり、ポイ捨てもみられます。それを清掃する雇用で、失業救済に役立っているとか。いつも感心するのは、電車への車椅子・乳母車・自転車の持ち込み自由。学生が自転車でクーダムやウンターデンリンデンをスイスイ走るのもすがすがしいですが、Sバーンの駅にエレベーター、エスカレーターが完備し、障害者や幼児の昇降をみんなで助けています。やっぱり福祉先進社会?
ベルリンでの調査も順調。『人間 国崎定洞』増補改訂分と「『山本正美裁判関係記録・論文集』の刊行に寄せて」(図書新聞10月17日付)の延長上で、ナチス台頭期の在独日本人社会を、アルヒーフに通い調べています。私はまだ未見ですが、日本からのメールによると、昨年12月のモスクワ調査でみつけた河上肇のモスクワへの秘密の手紙のことが、10月18日共同通信配信で『東京新聞』ほか全国の新聞に大きく報じられたとか。今月末刊行の11月号から、法政大学『大原社会問題研究所雑誌』に旧ソ連日本関係秘密資料の紹介・解析を始めるのですが、その掲載予告記事になっているでしょうか? どうも新聞社やテレビ局は「発見」とか「幻の手紙」といった見出しが好きらしく、肝心の学術的解読の内容がどこまで紹介されているのかが心配。年末帰国後に、本HPにも論文として公開していきます。6月モスクワ調査による下記のテルコ・ビリチ情報は、残念ながらその後もありません。引き続き情報を求めます。
ベルリンでのひそかな楽しみは、久しぶりの自炊と週末の蚤の市。一昨年インド滞在では、高いカーストの豪邸での間借りで、私専用のメードまでついて自炊どころではなかったのですが、ここベルリン・フンボルト大学ゲストハウスは、生活機能一式がととのった快適なシングルルーム。私の勤務先の国際交流会館シングル室の3倍の広さで、自炊もネットサーフィンもばっちりです。さっそく国崎定洞遺児タツコさんや当地に留学中の院生に日本食のもてなし。電気釜がないので小鍋での炊飯が一苦労ですが、なんとかコゲもなしで炊けるようになりました。もっとも日本食といっても、当地の名物ソーセージをゆでて醤油と日本製マヨネーズで味付けただけ、もう少し気の利いたオリジナル料理を考案しなければ。その調理のまずさを補い、食卓に彩りを添える小物は、週末のアンティーク市で調達。なにしろフンボルトのゲストハウスは、ベルリンの中心フリードリッヒシュトラーセ駅からすぐで、毎週末蚤の市のたつペルガモン博物館前の通りは目と鼻の先、早速趣味の灰皿集めから、アフリカ製のじゃもじ、ワイマール期のコーヒーカップ、ナチス時代の砂糖ポット、敗戦直後の古地図などを買いあさって、悦に入ってます。それぞれのモノに秘められた歴史を解読するのが楽しみ。大阪大学木戸衛一さんが編集された最新刊『ベルリン──過去・現在・未来』(三一書房)が大変役だってます。旧東独関係の政治的地名の一掃で、旧「レーニン大通り」が「ランツベルク大通り」などと名前が変えられていますが、そのなかで、ナチス時代の旧日本大使館跡の通りが「ヒロシマ通り」となったのは朗報、木戸さんの情報を現地で確認してきたので、本HPにも右の新ロゴを入れて平和をアピールします。ちなみに当地のテレビの一番のニュースは、ずっとコソボです。
[Berlin Report No.2] 1998/10/31
当地ドイツの赤緑連合政権が正式に発足しました。でも別に「革命」ではありませんから、街は静かなものです。「政権交代のある民主主義」に慣れているわけです。そういえばイタリアでも旧共産党PDS首班の新政権、でも後房雄さん風に「だから日本でも菅直人でオリーブの木を」と勧める気にはなりません。むしろ注目したいのは、ヨーロッパ社会に根付いた社会的バリケードの強さです。それを古典的「市民社会」とよぶか、Zivilgesellschaftとポスト89年ドイツ風に位置づけるか、それともアメリカ風にSafety
Netsなんて言って粋がるかはともかく、国家や市場に対するバリケードであると共に、社会内部の相互承認・相互自助の力が、SPD=Green政権の下支えになっているのです。日本で「社会的バリケード」を訴えたのは、晩年の清水慎三さんでした。その系譜の協同社会研究会のHPが産ぶ声をあげましたので、覗いてみてください。
ベルリンの古地図を入手しました。ワイマール期と、ナチス時代と、敗戦直後と。たしかに通りの名前がいろいろ変わっています。当地での調査で見つけた千田是也らワイマール末期日本人左派グループのアドレスを、一人一人地図に転記していきます。なるほど当時日本人が多く住んだ西部ばかりでなく、東部の労働者街に出没していたようです。でも地図よりも確実なのは、現地に足を運ぶこと。竹久夢二の住んだPrager Platzそばの安下宿、彼の教えたバウハウス系譜の画塾Itten SchuleがあったKonstanzerstrasseに行ってみました。なるほどナチスに反発し、ユダヤ人に同情して活動する雰囲気があります。この実感は書物では味わえません。下記のテルコ・ビリチ探索も、シベリアが凍土でおおわれる冬にこそふさわしいのかもしれません。引き続き情報を求めます。
宿舎がベルリン伝統文化の中心の一つFriedrichstadt
Palastのすぐそばなので、夜8時開演間際に急に思い立ち、レビューなるものを観劇しました。モスクワでみたボリショイ・オペラとニューヨ−クで入り浸ったブロードウェイ・ミュージカルの中間、芸術性を保った軽音楽劇といったところでしょうか。例えば歌手とダンサーがはっきり分業になっている点が、オペラともミュージカルとも違います。結構楽しく、2時間があっという間でした。そういえば当地でナチに抵抗したベルリン反帝グループに、二宮周(にのみや・しゅう?)という音楽学生がいたと、こちらにくる直前に、画家の鳥居敏文さんから聞きました。パリ経由で日本に帰国し、宝塚歌劇の音楽監督をしていたそうですが、日本でタカラヅカものの書物を読みあさった限りでは、出てきません。きっとこのベルリン・レビューを、なんとか日本の労働者文化と結びつけたかったのでしょう。神戸の医者の息子ということで、ヅカもののHPも時々覗いていますが、未だに手がかりなしです。どなたかその辺に詳しい方、ご教示願います。
[Berlin Report No.3] 1998/11/9 今日は何の日か知ってますか? そう、1989年に「ベルリンの壁」が崩壊した日であり、本HPではおなじみの国崎定洞遺児タツコさんの70歳の誕生日です。自炊で鍛えた腕によりをかけてテンプラを作り、タツコさんと乾杯しました。そして
明日から、最初のハンブルグだけを予約し、気ままな旅に出ます。ドイツでは、German
Rail
Passという外国人向けIC特急乗り放題の切符が国内でも買えるようで、試しにZoo駅のライゼビューローで聞いてみたら10日間300米ドル、早速購入してきました。これに限らず交通体系は合理的にできてます。自転車・乳母車・車椅子の電車乗り込み自由は前に書きましたが、運賃もベルリンならZoon区分ABの1日券、1週券(DM40)、1月券(DM99)でSバーン・地下鉄・市電・バス乗り放題、例の改札なしのシステムです。そろそろスキーシーズンで、車をスキー場近くまでカートレインで運んでくれるサービスもあります。要するに、アウトバーンの国ですが、公共交通機関の方も充実させることで、結構EcologiicalかつErgologicalなシステムになっているのです。地球にも人間にもやさしい社会的バリケードのインフラストラクチュアです。
旅にはもちろんMac Power Book G3を同伴します。でも、悲しいことに、こちらでいくつかMacシステムの不具合が生まれました。メール・インターネットの電話接続は、ドイツはヨーロッパでも有数の複雑さですが、夏の下見がきいてぴったりのアダプターをみつけ、なんとかクリアできました。ところがデジタルカメラが壊れてしまいました。しかも宿舎近くの墓地でフィヒテ、ヘーゲル、ブレヒトの墓を写してきたその晩から。どうもナップサック内でなにかの衝撃が加わったようです。次の苦労はマウス。 Power Book用のかわいい黒いマウスがBundesarchivで資料を入力中に動かなくなり、急遽いかつい大きな灰色マウスをDM50で購入、しかもMac用を置いている店をみつけるのに一苦労しました。きわめつきはプリンター、長年愛用したApple Stylewriter2200がついに寿命で、Canon BJC-80Vを持ってきたのですが、問題はプリント用紙の重さ。日本から持ってきた紙がきれたところで、こちらの事務用コピー紙にしたら、重すぎたり軽すぎたりで、紙送り不能になったり10枚以上吸い込み突然とまったりと、さんざんでした。結局80グラムの紙ならなんとか日本なみに使えることがわかり一件落着しましたが、思わぬところで不具合が生じるのはインド以上です。海外モバイルには、以前紹介した『旅先通信』(Softbank)のほかに、各周辺機器の説明書が必携です。なお、現地の日本人の話では、コンピュータの修理費用は莫大で時間もかかるようですから、自分でなんでも直す覚悟が必要です。
でもPower Book G3の思わぬ効用もあります。両側にCDROM・FDDがバッテリーと差し替えできるシステムなのですが、このCDROM Playerがなかなか音が良く、原稿執筆等作業中も、バックグランドミュージックを流してくれるのです。このレポートのバックはミレーユ・マチュー、といっても知らない人が大部分でしょうが、フランスのシャンソン歌手です。四半世紀前の初めてのドイツ滞在のさい、「ベルリンの壁」の内側での緊張した日々を慰めてくれた、心の糧でした。日本で反戦フォークや山口百恵が華やかなりし頃、当時のDDR(東独)には、フランク・シューベルという国民的男性歌手がいて、ホーネッカーの前で歌ったり、世界青年平和友好祭の前座をつとめたりの、つまりは御用歌手でした。しかし女性歌手では、東西をこえて、ドイツ語で愛をうたうフランス人ミレーユ・マチューが、抜群の人気でした。東では、貧しい労働者家庭出身で13人だったかの兄弟姉妹の長女、歌で弟・妹の生活を支えている、なんて政治的意義づけもされていましたが、そんなことはどうでもよくて、とにかく声量豊か、澄んだソプラノ、圧倒的な表現力に魅せられたのです。代表作「Meine Welt ist die Musik (私の世界は音楽)」の入った東独製LPを苦労して入手し日本に持ち帰ったのですが、日本のレコード店を探してもみつからず、音質の悪いLPをカセットに再録して、アメリカでもインドでも聞いていました。そのミレーユのCDが、なんとこちらのレコード店にあったのです。それも3枚も。本国ではまだ活躍しているらしく、98年の録音まで入っています。25年ぶりの感激のご対面で大満足。ジャケットの写真はさすがにちょっとふけましたが、音楽は人生の円熟味を増して、いっそう豊かになっています。今年の旅の最大の個人的収穫は、どうやらこれになりそうです。
なんだか今回は『地球の歩き方』風になったので、シリアスな話も一つ。当地でも本屋に山積みのユルゲン・クチンスキー『回想録』(大月書店)を読了。今は亡きDDRマルクス経済学の大御所が、いかに自分は学問の自由のためにたたかってきたかを「壁」の崩壊後に懸命に語っているのですが、結末が見えて読んでいるので、滑稽で虚しさが漂うのです。照井日出喜さんの翻訳は名訳ですが。同じ老大家でも、エリック・ホブズボーム『20世紀の歴史』(三省堂)の方が、はるかに実のある「自己批判」です。この虚しさの由来は、おそらく「正統派の異端者」という訳書副題にある通り、クチンスキーがウルブリヒトやホーネッカーに重用されながら、その権力の頂点内でいかに「自由に」「批判的に」ふるまったかをとくとくと語っているからでしょう。あらゆる権力は腐敗しうるという「絶対的真理」を証明したにすぎないかのようです。そういえば先週Bundesarchivで見つけた、1937年に反ファッショ統一戦線を訴えた作家Heinrich
Mannの手紙をDimitrov に転送したWilhelm
Pieckのコメント付き回状。かつて私は、なにゆえに反ファッショ統一戦線やスペイン戦争国際義勇軍とスターリン粛清が同時併存できたかの学問的解明に悩んだのですが、こちらでコミンテルン書記局資料を読むと、簡単なことでした。情報が統制・秘匿され、粛清の事実は上層部内に隠されていたのです。クチンスキーのようなエリートの視点からではなく、ミレーユ・マチューに「ベルリンの壁」を超えて共感していた民衆の視点で、インターネット時代の情報市民ネチズンの視点で、「短い20世紀」をふりかえりたいものです。この辺の研究成果は帰国後に。加藤ゼミの関係者には、来年1月15日のゼミ同窓会案内が入りました。寝室からどうぞ。
[Berlin Report No.4]
1998/11/20 前回11月9日更新を、<ベルリンの壁>崩壊9年と国崎タツコさんの70歳誕生日だけで祝ったのは、問題がありました。そう、1938年ナチスがユダヤ教会に放火しユダヤ商店を襲った<クリスタル・ナハト(水晶の夜)>も60周年として挙げるべきでした。気づいたのは旅先のIC車中で読んだ朝日新聞社編『日本とドイツ──深き淵より』(朝日文庫)、外岡秀俊記者らの文章を含めて、なかなかいい本です。訂正できなかったのは、German
Rail
Passをフルに使っての国内旅行のため。ベルリン、ハンブルグ、デュッセルドルフ、ケルン、ボン、コブレンツ、フランクフルト、ライプツィヒ、ドレスデン、ベルリンと、時計の逆回りにドイツを一周しました。モーゼルとラインの合流するコブレンツでは晴れていたのに、チューリンゲンバルトあたりから雪で、エルベ河畔のドレスデンでは吹雪、ライプツィヒを経てベルリンに戻ったら、ここもしんしんと雪が降りつもっていました。もっともボンとコブレンツの文書館に3日づつとられ、駆け足の調査旅行になりました。旧東のドレスデン・ライプチヒではザクセン州だけの祝日にぶつかり公共機関・大学・商店が全部休み、統一ドイツの広さと分権政治を体験しました。
ボンのドイツ外務省文書館、コブレンツの連邦アルヒーフは収穫大でした。東京ドイツ大使館から本国外務省への東大教授を追われた国崎定洞についての「要注意人物」通知とか、竹久夢二の画展を告げる在独日本人会の記録とか。中にはあのリヒアルト・ゾルゲの訪日を東京に伝える外交文書もありました。ベルリンもそうですが、文書館はどこも親切です。受付で自分の研究テーマを告げると、そのテーマに詳しい(たいてい博士号をもつ)研究員を紹介してくれ、その助言にそって資料を探します。ただし1日目はFindbuchというカタログで関連資料の入った資料ファイルの番号を探し閲覧申請、実際の閲覧は翌日になります。2日目の閲覧資料が掘り出し物で関連資料が必要になると再申請しますから、どうしても平日3日がかりの仕事になります。特に2日目は、朝8時から夕方6時まで5000頁以上のドイツ語資料と格闘、必要資料はコピーを申請して終わるとぐったり、という旅でした。それでもベルリンではあたりをつけて探しても無駄に終わるアルヒーフが多かったので、テーマの直接資料のみつかった旅は、大変充実・有意義でした。なお、昨年冬・本年夏のモスクワでのアルヒーフ通いの成果は、法政大学『大原社会問題研究所雑誌』に発表し始めました。今月号は、先日共同通信から東京新聞・中日新聞などに配信・報道された「モスクワでみつかった河上肇の手紙」です。次号からはいよいよ「1922年9月の日本共産党綱領」、7月の誤植ではありません。乞うご期待!
当初予定したマンハイム・ハイデルベルグは上記事情でまわれませんでしたが、旧東独のドレスデン・ライプツィヒは再訪できました。ライプツィヒは90年にも見ましたが、ドレスデンは実に4半世紀ぶりです。クリスマスセールで商品が溢れているのは、ボンやフランクフルトと変わりありません。でもどことなく活気がなく見えるのは、たまたま吹雪にぶつかった天気のせいなのか、こちらの偏見なのか、高い失業率のためなのか? それでもすっかり修復したドレスデンのツヴィンガー宮殿には感動しました。前にも一度見たはずですが、著名なラファエロの「システィのマドンナ」もさることながら、2部屋を占めるルーベンスの大作の迫力に圧倒されました。ホテルのサーヴィスもまずまずで、どうやらエルベの観光都市としてやっていけそうです。同じ50万都市ライプツィヒは、メッセ(見本市)の最中なのに、暗い感じです。昔語学研修で3ヶ月滞在し、こちらがある程度内情を知っているからだけではなさそうです。中心街には旧西と同じ大手デパートが並び、郊外にも大きな新型工場ができているのですが、東独時代の国営企業とおぼしき駅前の旧工場地帯が、廃墟のままなのです。それに異様に高いエンピツ型の旧カール・マルクス大学=現ライプツィヒ大学本部棟。かつての社会主義的モダニズムの象徴がすっかり色褪せて、ようやくバッハやゲーテの伝統に戻ったマルクト広場やゲバントハウスと、実にミスマッチなのです。あの京都タワーをさらにグロテスクにした感じ。近くのニコライ教会の礼拝デモから東独89年革命がおこった理由を、再認識しました。日本のどこかの「一流大学」でも、「世間」の時流に乗って「改革」が進んでいるようですが、歴史に無理に逆らうと、悲喜劇に終わるようです。
ベルリン滞在もあと3週間、しかしアルヒーフ通いは終わりそうにありません。それでも中間決算する必要があるので、畑違いですが、当地森鴎外記念館の12月例会講演を引き受けました。ワイマール末期の在ベルリン日本人知識人・文化人について報告します。ユダヤ人救出に加わった竹久夢二の絵をドイツ人聴衆に紹介したくてInfoseekでサーフィンしたら、格好のサイトがありました。ミレーユ・マチューを聞いたことがあるという日本文学史の岐阜大根岸泰子さんHPが当HPをリンクしてくれたおかげで、こちらからでも報告に必要な文学史関係サイトにアクセスできそうです。インターネットは、当地で実に役立っています。ドイツ全土のアルヒーフの所在地・開館日時をチェックしたり、ドイツの日本研究拠点を確かめたりもできます。下記のテルコ・ビリチ探求の副産物で糸口の開けた井上角太郎研究は、アメリカ在住の井上の二人の娘さんとメールでつながり、ほとんど距離感なく井上のベルリン大学時代の探求が進んでいます。まだ竹久夢二とは直結しませんが、ベルリン大学内のユダヤ人救出組織に加わった「もう一人の杉原千畝」であったことは、まちがいないようです。当地でアグネス・スメドレーと夫婦だったインド独立運動家チャットパディアについても、つい先頃ストックホルム在住のガンジー研究者から情報が寄せられました。気がかりなのは、読売新聞ニュースHPでみた将棋の竜王戦、谷川が「藤井システム」に4連敗でタイトル交代とか。そういえばCNNは、連日モニカ嬢の新テープとスタール証言をかわしたクリントン訪日の政治的意図を語っていますが、日本の新聞サイトは、わりとノーテンキですね。デジカメが直せないなど異国にいる故の不自由はありますが、逆にこちらにいるからこそ見える日本もあります。あと2回ほど、当HPの「ベルリン便り」とおつきあいください。
[Berlin Report No.5] 1998/12/1 クリスマスが近づいて、ベルリンのあちこちの広場でWeihnachtsmarktが開かれています。ソーセージもおいしいですが、Gluehweinという赤ワインの熱燗が最高、身体が芯から暖まります。ベルリン独日センターで開かれたドイツ社会科学日本研究学会に出席、特別ゲストでやってきたアメリカ留学時代の恩師の一人、ロナルド・ドーアさんに会いました。1924年生まれというのに、相変わらずお元気。インターネット最新情報の日中共同声明に「侵略」が入ったことも、両首脳がノーサインなことも、小渕・小沢の自自連合も、全部知っていました。わずかに宮沢蔵相の加藤紘一への派閥継承を口実にした辞意表明のみが、私の方がちょっと早かったニュース。もっともドーアさんのコメントがまたふるっていて、「所詮高橋是清とは格が違います」ですって。元気の秘訣は好奇心を持ち続けること、と納得しました。
前にも書きましたが、私の住むフンボルト大ゲストハウスは、ベルリン文化の中心フリードリヒ・シュトラーセのそば。でもドイツ語だけのシリアス劇は、昔ベルリーナ・アンサンブルに通ってブレヒトがどうしてもわからず悩んだ苦い体験があるので、敬遠していました。ところが近くのメトロポール劇場で、"Yesterday"という、表題もGesternではなく英語、しかも1960年代ミュージックをふんだんに使った音楽劇があるというので、覗いてみました。ひょっとしたら「ベルリンの壁」問題やJFKの"Ich bin ein Berliner"、それにミレーユ・マチューもでてくるかもしれない、と期待して。──しかし、残念ながらストーリーは、貧しく不器用なベルリンの歌手志望の青年が、エルビス・プレスリー風のテキサスの大金持ちに恋人をとられ、それでもなおヨーロッパ原産のビートルズを必死で歌っているうちに、恋人も「ゲルトよりリーベ(お金より愛)」に気づいて戻ってくる、という他愛ないもので、葉巻をくわえたテキサス氏をクリントンとモニカにひっかけたアドリブはありましたが、「壁」もケネディもミレーユも学生運動もでてきませんでした。あたかも60年代ベルリンに「東」などなかったかのごとくに。もっとも深読みすると、プレスリーとビートルズ、ゲルトとリーベの対比は、アメリカとヨーロッパ、テキサスとベルリンの象徴にとどまらず、アメリカ軍とドルに守られて存続した西ベルリンと、清く貧しく美しく(?)生きた東ベルリン庶民大衆をも、想起させるのかもしれません。私自身は、ミレーユやジョーン・バエズはともかく、久しぶりでベンチャーズやビートルズをふんだんに聞いて、結構ご機嫌でしたが。
こんな深読みには、わけがあります。実はこのメトロポール劇場(あるいは隣のKabarett劇場だったか?)は、かつて東ベルリンの時代に、最も切符をとるのが難しい超人気のドイツ現代劇を演じていました。私は当時の政権党のイデオロギー幹部氏に連れられて、一度だけ見ましたが、なるほど超満員で大受けでした。それというのも、ここの売りは政治風刺劇で、掛け合い漫才風の早口話のなかに、西の資本主義の批判ばかりでなく、田舎者のザクセン訛りを馬鹿にしたり、無能な工場長の官僚主義を辛辣にやっつけたり、失脚したばかりのウルブリヒト議長を皮肉るセリフが、しっかり入っていたのです。特に官僚主義批判や前書記長の風刺には、やんやの喝采と爆笑でした。まじめなマルクス坊やだった私は、思わずこんな批判が社会主義で許されるの、とイデオロギー幹部氏におそるおそる尋ねたものでしたが、彼氏は余裕たっぷりに「いや党の文化部で脚本を見ている」と。そうです、ここはかつて、社会主義統一党公認で現状批判が許される唯一の場所で、時の書記長ホーネッカーに累が及ばない限りで、前書記長ウルブリヒトや中間幹部の官僚主義批判が要所要所に織り込まれ、その最新の政治的小話(ロシアのアネクドートで、ドイツ語では確かヴィッツェといいました)を聞きたくて、東独庶民は長い列を作ったのです。いわば庶民の不満のガス抜き装置で、批判そのものが管理され、笑いが統制されていたのです。それを百も承知で、庶民は秘密警察シュタージに密告されないですむ政治批判の限界点を探り、新しいヴィッツェは口コミで観客から工場へ事務所へ家庭へとただちに広がったのです。もっとも機転のきく市民や知識人は、その官許小話をちょっと改作して、鋭く本質的な体制批判に切り替え、仲間うちのビールの肴にしていましたが。
「東独DDRには、人類史の遺産が総結集されている。なぜならここには、社会主義・共産主義という現在・未来ばかりでなく、原始共同体(配給制度)も奴隷制(強制労働)も封建制(家父長制・女性差別)も資本主義(売春・ドルショップ)もそろっている」「外は快晴なのにウルブリヒトが室内で傘をさしている。なぜ? モスクワは雨だから」──こんなアネクドートがきけなくなって、10年近くになります。モスクワでも同じで、東欧市民革命は、自由と民主主義を手に入れた代償に、この貴重な地下抵抗文化の伝統を、忘れてしまったかのようです。酒場の小話もフランス風のお色気話になって、すっかり政治的緊張感を失いました。せめて歴史史料として保存しようと、ひそかに探していますが、残念ながらベルリンでは本の形ではみつかりません。旧ソ連ものは、時事通信の名越記者が集めて日本語の本にしてくれたんですが。どなたか東欧、特に旧東独のヴィッツェを集めていませんでしょうか?
伝統文化といえば、こちらは日本風の奇妙な体験。近くの森鴎外記念館で、隔週金曜日夜、ベルリン将棋フロイントシャフトという催しがあります。もちろんマニアとしては見逃せず、これまで2回参加しましたが、先週対局したドイツ人の強いこと強いこと。段位認定ソフトで1度だけですが3段をとり気をよくしていた私も2連敗、それも完敗でした。なにしろ日本人・ドイツ人入り乱れ、自己紹介もそこそこに将棋盤に向かい、夜10時の時間切れまで目いっぱい指す、という会ですから、相手の名前も知りませんでしたが、後で聞けば、実はヨーロッパ・マイスター、つまりアマ名人で、世界選手権のため東京の将棋会館に毎年行くという強者でした。谷川竜王を破ったという藤井システムなる4間飛車を、読売HPからダウンロードし早速試してみたのですが、相手は『将棋世界』愛読者で対策も先刻承知でした。脱帽。法政大学『大原社会問題研究所雑誌』に発表し始めたモスクワ収集資料の解読、11月号は「モスクワでみつかった河上肇の手紙」、12月号から「1922年9月の日本共産党綱領」です。本HPには雑誌公刊3か月後に掲載します。乞うご期待!
[Berlin Report No.6]
1998/12/10 ドイツの分裂と統合の象徴、ブランデンブルグ門のそばに、大きなクリスマスツリーが立ちました。子供たちは橇遊び。師走です。私にとっても、ベルリンでの最後の更新です。前回のレポートで、「あの政治批判小話=アネクドート文化は、どこにいってしまったのでしょうか?」と書いて「どなたか東欧、特に旧東独のアネクドート=ヴィッツェを集めていませんか?」とホームページから呼びかけました。早速メールで答えてくれたのが、東大大学院からベルリン自由大学に留学中の井関正久さん、フリードリヒシュトラーセ駅近くのDussmann書店の書棚の位置まで教えてくれて、行ってみたらばっちり、それも旧東独SED御用出版社だったディーツ書店が自己批判を兼ねて作った"DDR-WITZE"という本がありました。早速"Witze
bis zur
Wende"なんて研究書(?)を含め6冊購入、ついでにミレーユ・マチューの6枚目のCDもみつかって、大満足でした。さすが東独市民運動の研究者井関さん、目配りがいいですね。その中から短い2題。「なぜ現存した社会主義国DDRにはかくも多くのヴィッツェがあったのか? だれもそれを真面目にとりあげなかったからさ」「最も短いヴィッツェ。ドクター・エーリッヒ・ホーネッカー」──これで、思い残すところなく日本に帰れます。
12月3日夜、フンボルト大学日本研究センター付属森鴎外記念館で「ワイマール末期在ベルリンの日本人文化人・知識人」という講演(Ogai-Vorlesung)をしました。はじめはどうせくるのは日本語のわかるドイツの日本研究者10人くらいだから日本語でいいという話だったのですが、いざ行ってみると、ハレのマルチン・ルター大学日本語科で10月から日本語を学び始めたばかりという学生たちの一団がいて、会場いっぱいの40人余。しょうがないのでぶっつけ本番、OHPを使いながら、生まれて初めて公式のドイツ語講演をしました。80分ほど、時に日本語・英語をチャンポンしながら、なんとかワイマール期日本人のドイツ留学の意味、国崎定洞・有沢広巳・千田是也ら左派グループの活動、彼らのワイマール民主主義・ナチズム体験が戦後日本の民主主義に持った意味を熱演(?)、要するに、下手なドイツ語でも一所懸命やればなんとか通じることを実証しました。いや、付録として作った1932年当時の文部省派遣研究者一覧やベルリン大学付属外国人向けドイツ語学校の統計がきいたのかも。会場で出された鋭い質問。当時の日本人にとってのドイツ留学の意味は、当時の在日中国人、現在日本で学んでいるアジア人留学生の想いと相通じるのではないか、と。その通りなのです。会場に来ていた日本語の達者なキムさん、千田是也『もう一つの新劇史』の独語訳者ですが、ナチスの時代にベルリンで日本の植民地朝鮮人の父とドイツ人の母との間に生まれ、戦後たまたま住まいが東でDDR国籍となり、84年に千田さんの招待で一度だけ日本に行ったことはあるが、朝鮮語は全然話せないし読めないといいます。後で詳しく聞くと数奇で波乱に満ちた半生で、ここにもあった日本帝国主義の落とし物でした。
ドイツ語にきりかえたもう一つの理由は、当日になって、日本語がわからない国崎定洞遺児タツコ・レートリヒさんが、ぜひ出席したいといいだしたこと。彼女にとっては、自分の父のことがベルリンで公けに語られる、初めての機会でした。それも日本の衛生学の草分け森鴎外のかつての下宿で、日本の社会衛生学の開拓者国崎定洞にスポットがあたるのですから。そこで彼女のためにもドイツの若者たちに「もう一つの日独交流の伝統」を伝えなければ、となんとかやってみました。国崎定洞や竹久夢二らの一つ一つの活動までは、時間が足りず十分伝えられませんでしたが、まあ良しとしておきましょう。タツコさんとも、今晩オペラ「白雪姫」を一緒に観て、またしばらくお別れです。
森鴎外記念館には、朝日新聞国際版が入っています。久しぶりで読んだら、なんだか相変わらずチマチマした、さえない日本ですね。某宗教政党提案の景気対策商品券とやら、ちょっと恥ずかしくて、環境税の国では説明できません。CNNは隅田川沿いのホームレスを特集していました。いっそアメリカ式にフードスタンプにして低所得層の存在を明示すればいいのに。問題が問題として提示されない限り、解決の条件は出てこないのです。でもそのあまり品の良くない国に、私は戻るのです。法政大学『大原社会問題研究所雑誌』に発表し始めたモスクワ収集資料の解読、11月号は「モスクワでみつかった河上肇の手紙」でしたが、12月号の「1922年9月の日本共産党綱領(上)」がもう出たはずです。その分野では画期的で、ウソー!といいたくなるような内容です。事実は清張の小説より奇なり、まあ読んでみてください。本HPには、雑誌公刊3か月後に掲載します。"Auf
Wiedersehen, Berlin!"
[Berlin Report 番外編]
1998/12/20 ほうほうの体で日本に帰国しました。ベルリンを発つ日も雪景色、どんよりとした空に感じた不吉な予感が的中、ベルリンからフランクフルトへの飛行機が1時間遅れ、機内でもう乗り継ぎ便に間に合わないと言われました。がっくりしてフランクフルトについたら、フランク・成田便も30分の遅れ、ルフトハンザの乗り継ぎカウンターで急げば間に合うといわれ、あの広いフランクフルト空港内を疾走、いつものパスポートコントロールも面倒なパソコンチェックも省略で、離陸5分前に滑り込みセーフ、体力を使い果たして機内ではもうぐったり、おかげでスモーキングの禁断に苦しむこともなく成田に着きました。ところがスーツケースの方は全力疾走できなかったらしく、フランクフルト空港に足止め、ドイツでの調査の結晶アルヒーフ資料も一時行方不明となりました。翌日ルフトハンザ職員が通関を代行して到着、ところが事故荷物は厳しくチェックされるらしく、苦労してつめこんだスーツケースは開けられ施錠不能になって帰ってきました。スーツケースの損害1万5千円也は補償されるそうですが、乗り継ぎ便は余裕をもたないとえらい目に遭うよという教訓、皆さんもくれぐれもご注意を。
前回紹介した東独のアネクドート「最も短いヴィッツェ。ドクター・エーリッヒ・ホーネッカー!」──この意味がいま一つわからない、という人に種明かし。SEDの独裁者ホーネッカーは、もともと屋根葺き工資格をもつ職業革命家で、権力につくまでは「労働者階級出身」であることを誇り、「社会主義」国の「労働者階級の前衛党」書記長となる正統性根拠にしていました。ところが頂点にのぼりつめると「知性」も誇りたくなるらしく、まわりもヨイショして演説集・伝記を出版したり、DDR経済学の大御所クチンスキーに代筆させて世界資本主義分析まで始める始末、とうとう80年代には「ドクター=博士号」まで取得して、その権力を権威づけようとしました。資格社会であるドイツ風にいえば、このヴィッツェは「へえ、あのホーネッカーが博士だってよ!」という笑い話になります。ではこの博士号、どこでとったのか? てっきりフィヒテ、ヘーゲル、マルクス、コッホを輩出したベルリン大学=フンボルト大学からの政治的「名誉博士」号かと思っていたら、ちがいました。中曽根康弘がボストンで1回演説しただけの「ハーバード大学名誉博士」であるように、政治家の博士号とは、外国訪問のさいに立ち寄った大学から進呈されるものなようです。「ホーネッカーをドクターにしたのはどこのどいつだ」って真面目にドイツ人に追求されると、返答に窮します。"Wer war Wer in der DDR: Ein biographisches Handbuch"(Fisher Tashenbuch, 1995)のErich Honecherの項(S.322)から忠実に引用します。「Mai 1981 Dr. h.c. Univ. Tokio [1981年5月、東京大学から名誉博士号取得、東海大学の誤植?]」ですって!──「知は力なり」どころか、「あらゆる権力は腐敗する」テーゼの傍証を、歴史に一つつけ加えたお粗末でした。
12月16日、久方ぶりのゼミテン諸君との帰国歓迎会兼忘年会で飲んでいるあいだに、本HPのカウンターは、3万ヒットを記録しました。皆様の日頃のご愛顧に、厚く感謝いたします。ちなみに一時張り合った藤岡センセイの「自由主義史観研究会ホームページ」に直後に入ったら、22146番目でした。まあ、マメな更新の差ですね。厳寒のベルリンに比すると、東京はホワイトどころかサニー・クリスマス。でも景気も世相もやっぱり世紀末、「1998年を象徴するキーワード=毒」と忘年会でゼミの学生に聞き納得。おまけにクリントンの火遊びの火消しにしか見えない米英のイラク爆撃に、従来の「理解」ではなく「支持」まで踏み込んだ羅針盤なき政府、99年も寒々とした年になりそうです。11月に
Niftyserveのローミングサーヴィスを使ったベルリンでのネット接続料が6万円、外国でのHP維持にはやはり現地プロヴァイダーが必要なようです。帰国直前フンボルト大学日本研究センター付属森鴎外記念館で行ったドイツ語講演「ワイマール末期在ベルリンの日本人文化人・知識人」(Ogai-Vorlesung)は英語ページに収録、法政大学『大原社会問題研究所雑誌』に発表し始めたモスクワ収集資料の解読は、11月号「モスクワでみつかった河上肇の手紙」、12月号と99年1月号は「1922年9月の日本共産党綱領」、それに岩波書店ホームページで論文そのものをダウンロードできる「思想の言葉」(『思想』巻頭言)が、99年1月号に公刊されます。この小論「短い20世紀の脱神話化」は、ベルリンから電子メールで送稿した、私なりの98年のまとめですから、ご笑覧ください。
正月は恒例大更新です。年賀状は買ってないので、HP挨拶・メールで代行し、書状は返事のみにさせていただきます。年末もドイツ語でしめくくりましょう。Frohe
Weihnachten und ein gutes Neues Jahr!
1999.8.29 [Berlin Report 1999, No.1] 書きかけの原稿・資料をスーツケースに詰め込んで、ルフトハンザに飛び乗り、8か月ぶりにベルリンに来ました(戻りました、の気分)。いまや定宿となったベルリン・フンボルト大学ゲストハウスで、早速ネット接続のチェック。どうやらメールもHP更新もOKのようです。あわただしくなったのは、春にメキシコで苦労したモバイル用マック・パワーブックG3の重武装。メキシコで操作不能となった液晶画面を修理してもらったさい、パワーブック用内蔵ハードディスク(HD)が安くなり、10GBで5万円ほどのものもあるという業者情報。いつも外国に持ち歩くZIPドライブが不要になり、「広辞苑第5版」など重いCDもそっくり収蔵できますから、出発2日前に思い切って購入。ところがオリジナルに入っていた2GB・HDを、新しい10GB・HDに組み込むのが意外な難事業。いっぱいソフトが入っているので、業者も予想外の時間をとり、出発前日午後にようやく完了・引き渡し。これで元のHDはそっくりそのまま新HDに移ったはずでしたが、実際に動かしチェックすると、インターネットに不可欠のPPP、TCP/IPの再設定をはじめ、不具合が続出。ソフトによっては改めてCDからインストールしたり、シリアルナンバー再登録が必要だったりと、HD改造が難事業であることを実感しました。もとの内蔵HDはそのままでは使えず、外付けケースに入れれば10+2=12HDになるという甘言に誘惑されて始めたのですが、同じことを考えている方はご注意。たっぷり2日がかりは覚悟しましょう。
おまけにルフトハンザの東京・フランクフルト便は2時間の遅れ、ベルリン乗り継ぎ便も変更になって、空港に迎えに来た国崎定洞遺児タツコ・レートリヒさんを待ちぼうけにするアクシデントもありました。そのタツコさんとは翌日ご対面(写真)。ベルリンは、いま21世紀に向けての首都移転大改造中。宿舎そばのフリードリヒ・シュトラーセからポツダム広場付近はクレーンが林立し、建設ラッシュです。すでに大使館や政党本部はボンからベルリンに移ったといいますが、国会議事堂(かつてナチスに放火されたライヒスターク)やポツダム広場の中心になるソニービル(銀座4丁目とそっくり!)は、まだ内装・化粧直しは終わっていません。それでも歩くと変化は感じられます。フリードリヒ・シュトラーセ駅前のいきつけのスーパーマーケットがなくなり、駅構内に立派なスーパーが入りました。ウンター・デン・リンデンとフリードリヒ・シュトラーセの交差点にあったカフェ、私のベルリン訪問第一日の定番喫茶店が、なんと消えていました。何時間本を読んでいてもやさしかった、あのウエイトレスは、どこへ行ったのでしょうか? 商圏の中心となったポツダム広場のアーケード前は、「マリーネ・ディートリヒ・プラッツ」と命名されていました。なるほどナチスや東独SEDに政治的地名をつけられ変遷してきた歴史を想えば、安全パイですね。日本なら、さしずめ「美空ひばり広場」というところでしょうか。覚悟していたとはいえ、ショックだったのは、今春エッセイ「フォーラム型運動の21世紀へ」でも紹介した「ハウス・デア・デモクラティ(民主主義の家)」の消滅。旧東独の一等地に、89年革命を担った市民運動や環境運動の本部がたくさん入った旧いビルがあり、一階のバーや売店はベルリン社会運動情報の宝庫だったのですが、まわりにベンツ・VW・BMW・アウディの新社屋が次々にオープンし、ついにこのビルも売却されて、市民運動の占拠も続行不能になりました。まだ建物は残っているのですが(写真)、売店はすでに消え、バーも風前の灯、いつも重宝した市民運動機関紙誌・ビラのコーナーもなくなっていました。寂しい限りです。これで「ベルリンの壁」の雰囲気は博物館行きとなり、21世紀の首都大ベルリンの準備が完了したことになります。
とはいえ、内部に立ち入ると、「もう一つの敗戦国」ドイツの21世紀への準備も複雑です。かつての首都ボンがどうなるかは来週見てからレポートしますが、社会民主党シュレーダー政権は、20世紀の大衆的労働者政党SPDから様変わりし、イギリス労働党ブレア政権の「第3の道」に似た、新自由主義に親和的な中道政党になりました。左派の分裂の大きなきっかけが、昨年から引き続くNATOのコソボ爆撃をめぐる深刻な論争。SPDと連立した緑の党のフィッシャー外相が率先して実行し、かのユルゲン・ハーバーマスまでが「人権の普遍性」の観点からNATO爆撃を認めるにいたって、絶対平和主義派やローカルな市民運動は、守勢に立たされました。前回リンクした千田善さんのサイトが詳しく伝えているユーゴスラヴィア問題が、20世紀的な「民族自決」や「内政不干渉」だけで対応できないことは事実です。国連の機能不全も深刻ですが、アメリカが事実上支配するNATOが「ヨーロッパの警察官」として民族対立・宗教対立に介入している姿は、やはり悲劇的です。日本ではこれが、日の丸・君が代法のような大国ナショナリズムの雰囲気に乗って、新ガイドライン法から盗聴法・憲法調査会設置にゆきつき、有事立法や靖国法案まで自自公ブロックの手で成立しそうな勢いですが、ヨーロッパではそれが、EU15か国中13か国で社会民主党など左派が入閣しているもとで、NATOや国連の大義名分と「自由・人権・民主主義の普遍性」の名のもとに、地域紛争への軍事的介入が常態化しているのです。インターネットによる情報のグローバル化・市民化も、新自由主義市場・経済格差拡大と結びついて普及しますから、なお残る国民国家間・政府間の「インターナショナルな軍事化」には対抗できていません「ヨーロッパ」を「アジア」に置き換えると、いまドイツ左翼のかかえるジレンマと分裂は、21世紀日本の社会運動・政治運動の未来のハードルを、先取りしているように見えます。たとえアジア諸国民への歴史的謝罪と信頼回復をなしえたとしても残るであろう「戦争と平和」の問題、アジアの地域的政治秩序の問題です。日本国憲法第9条の行方を考えるためには、「21世紀の平和」への遠大な構想力が必要なのです。
今回は短期の滞在なので、研究の焦点は、バウハウスの画家ヨハネス・イッテンと、ワイマール末期のイッテン・シューレで日本画を教えた竹久夢二、それに関連する1930年代ドイツ在住日本人反帝グループ中の井上角太郎についての調査に絞り込みました。竹久夢二といえば、大方は大正ロマンの美人画をイメージするでしょうが、彼はもともと「平民新聞」の挿し絵画家として出発しました。当時同居していた荒畑寒村が、美人画で売れた恋多き夢二を「堕落した」と評して以来、夢二は、非政治的な「日本のモジリアーニ」として扱われてきました。しかし1934年に病没する竹久夢二の晩年を調べると、「平民新聞」時代への先祖帰りではないにしても、社会問題への執着が感じられます。彼は、20年代末に榛名山の麓に産業美術学校を建てる構想を持ち、島崎藤村や有島生馬の賛同を得ますが、そのプランの下敷きは、当時のワイマール共和国公認のモダニズム芸術の殿堂、左翼の文化的・芸術的拠点でもあったバウハウスです。31年5月アメリカ経由で初めての「洋行」に出ますが、船中では千田是也の兄で舞踊家の伊藤道郎やハリウッドで活躍中の早川雪洲と一緒です。アメリカでは西海岸の日本人移民左翼と親しく交わり、後にゾルゲ事件で捕まる宮城與徳とも会っています。32年9月にヨーロッパに渡り、33年9月までベルリンに1年間滞在しますが、ちょうどナチスの政権掌握と重なります。その間、バウハウスから独立したヨハネス・イッテンの画塾イッテン・シューレの講師をつとめ、個展を開いています。ナチの迫害でつぶされるイッテン・シューレの末期です。このドイツでの夢二の芸術活動を支えたのは、当時のベルリン日本大使館商務官事務所の今井茂郎らとされていますが、夢二は、英語もドイツ語もあまりできませんでした。その夢二が、ベルリン時代の日記に、ナチへの嫌悪とユダヤ人への同情を記したことは知られていましたが、1985年に映画監督の故藤林伸治さんが、夢二が当時ユダヤ人救出の地下活動に協力したという情報を、ドイツで得てきました。朝日新聞94年9月19日夕刊等によると、当時夢二は、ユダヤ人である師ヨハネス・イッテンの影響もあり、ナチスの政権奪取で始まったユダヤ人迫害に憤り、プロテスタント教会の牧師たちに協力して、ユダヤ人の国外脱出や貴重品運搬を助けたというのです。後にこの点は、NHK岡山放送局が藤林情報を後追いし、スイス・チューリッヒに亡命したイッテン夫人の証言をも得ています。故藤林さんの集めた関連資料は、昨年、法政大学大原社会問題研究所に寄贈されました。
私の推論は、ここから始まります。ドイツ語のできない夢二が、イッテンや今井茂郎の援助があるとはいえ、ナチスの監視下で危険な地下活動を果たして独力でなしえたのだろうか、と。すると当時、ベルリンに約500人いた日本人コミュニティの左派、国崎定洞・千田是也ら反帝グループとの関係が問題になります。当時在独した島崎藤村の3男島崎蓊助や、藤村の信任厚い勝本清一郎との関係を探りましたが、この線での結びつきは、今のところ見つかっていません。最も有力な可能性は、当時商務官事務所の通訳をしていたベルリン大学学生井上角太郎との関係です。井上は、当時ユダヤ人の恋人(後のヘレーネ夫人)や友人を持ち、ベルリン大学の地下学生運動・ユダヤ人抵抗運動に携わっていました。その井上の親友が、国崎らとつながる反帝グループのメンバー小林義雄(戦後専修大学教授・経済学者)で、小林の戦後の回想には、ベルリンで井上・ヘレーネと遊んだ話や今井茂郎とテニスをした話が出てきます。もう一つは、当時のベルリン大学に10人以下だった日本人学生と夢二との交流で、井上角太郎の当時の同級生には、小林義雄のみならず反帝グループの八木誠三や戦後の昭和天皇侍従長徳川義寛がおり、八木と徳川は、日本への帰国時に、共に夢二の絵を持ち帰っています。アメリカでの夢二については、法政大学袖井林二郎教授が、西海岸で夢二の絵を発掘し、「平民新聞」時代に志したが美人画時代にはみられない油絵を再開したことを実証しています。ドイツでも油絵を残しており、徳川義寛が日本に持ち帰った「ベルリンの公園」という絵は、例の宵待草風美人画とはずいぶん違う画風を示しています(岡山・夢二郷土美術館所蔵)。この竹久夢二の在独生活と井上角太郎・小林義雄・八木誠三らドイツ在住日本人反帝グループとの接点を求め、実証しようというのが、私の数年来の試みですが、先日ニューヨークでお会いした井上角太郎の娘さんにも、夢二や夢二の絵の記憶はなく、今のところ、竹久夢二と井上角太郎のユダヤ人救出運動は、二つの別個の「もう一つの杉原千畝」のままです。その手がかりが、どうやらベルリンのバウハウス博物館とチューリッヒのイッテン美術館にありそうなので、今回は現地調査に入ります。美術館めぐりが続いて、だいぶ絵を見る目も肥えてきました。ナチス期反ナチ地下活動という性格故に、文献資料での実証は困難を伴いますが、なかなか面白いテーマで、病みつきになりそうです。前回2周年記念で、リンクページ「ネットサーフィンの階段」が更新され、「今年の尋ね人」欄には、ウラジオストックの「徹武彦」が新たに加わっています。
英文ページには、人気の"World Ideologies
Explained by Cow"=Cow JokeにFeminism, American Democracy
など最新作が入り、ヴァージョン・アップ(ver.5)しています。そちらの方もよろしく。
1999.9.10 [Berlin Report 1999,
No.2]
おかげさまで6万ヒットです。皆様の日頃のご愛顧に感謝いたします。前回更新直後から、ベルリンを離れ、旅に出ました。9月7日、ベルリン・ブンデスタークの内装も完成し、連邦議会開設50周年記念式典が行われました。当地の雑誌では早々と「ベルリンの壁」崩壊10年の特集がみられます。首都移転によるベルリンの建築ラッシュは前回レポートしましたが、移られたボンの方はどうなったでしょうか? 4半世紀来の友人Dr.
Jasim Ahmed
夫妻が住んでいるので、しばし定点観測。政治の中心は去りました。その最大の影響は、首都故に存続していた大使館の吏員・運転手からコピー屋・レストランにいたる労働需要。仕事が激減して、失業が増えたことです。連邦政府は、その代償として膨大な補助金をつぎ込み、ボンへの企業投資の優遇措置をとりましたが、やはり衰退は否めないようです。ヤシム夫人のカローラさんもボンの職場を失い、朝早くケルンまで通う仕事に変えていました。ボンに残された旧首都の記念碑が、国立歴史博物館(Haus
der Geschichte der
BRD)。ナチ時代の反省は、さすがに徹底しています。1945年以降のドイツの歴史は、できるだけ「公正に」描こうとしています。選挙では各党のポスターを並べ、時期区分は首相交代に設定する、という風に。でも「東」を扱うと、やはりBRDの歴史になります。1989-91年の転換は「東における変化」から「平和的統一」への自然成長的流れとして描かれ、市民運動も、"Wir
sind das Volk!(われわれこそが人民)"ではなく"Wir sind ein
Volk!(われわれは一つの民族)"の方がクローズアップされています。アメリカ・スミソニアン博物館のヒロシマ原爆展が深刻な論争になり、日本でも平和祈念館の展示が問題になっていますが、20世紀の歴史の解釈は、どこでもなお未決のままです。
「新しい中道」を掲げる政権党SPDは、9月5日投票のザール、ブランデンブルグ州議会選挙で大敗しました。年金問題などシュレーダー連邦政権の経済政策への不満の現れとされていますが、見逃せないのが若者のSPD離れと、連邦政府に連立し入閣した緑の党の衰退。現在のSPD政権を担うのが「68年世代」のJUZO(SPD青年部、ユング・ゾチアリステン!)活動家出身者であるのに、そのユーゾーの再生産が、地域レベルでも労組・学生のなかでも、たちゆかなくなっているというのです。グリューネ=緑の党の場合も、環境政策はもう専売特許でなくなり、かつての活動家中の「現実派」がフィッシャー外相以下NATOのコソボ爆撃を率先する側になり、「原理派」は党を離れて、地域の社会運動に戻っているようです。社会運動・市民運動レベルには結構若い世代もみられるのですが、「若者の政治離れ」は、どうも先進資本主義国に共通する傾向で、親世代にあたるベビーブーマーたちの「過剰政治化」への反動だとか。日本の「団塊世代」にも、他人事ではない話です。
ドイツ最古の大学、ハイデルベルグ大学の日本研究ゼミナールには、日本でも良く知られている二人のヴォルフガングさんがいます。Wolfgang Schamoni 教授は言語学、Wolfgang Seifert教授は政治学です。このお二人は、丸山真男『日本の思想』ドイツ語版の共訳者であり、最新の『丸山真男手帖』第10号には、シャモニさんの「丸山先生と『シュピーゲル事件』」連載が始まりました。旧知のお二人を訪ね、この間のワイマール期在独日本人研究を進行状況を説明し、協力を依頼。ハイデルベルグ大学にも、羽仁五郎・三木清らが留学していましたから、早速成績表などその原資料をみせてもらって感激。博学のシャモニさんは、日本人反帝グループの勝本清一郎・藤森成吉のドイツ語論文をコピーしてくれ、私の方からは、小林多喜二『1928・3・15』ドイツ語版の訳者「イトー」とは千田是也の本名「伊藤圀夫」であることを教えて研究交換。荒畑寒村と親交のあったシャモニさんも、バウハウスに刺激された竹久夢二の産業美術学校構想、32-33年訪独とユダヤ人救出については知らなかったということで、大いに関心を持ってもらいました。
しかし、竹久夢二のベルリン時代の絵(前回言及した徳川義寛の持ち帰ったのは「ベルリンの公園」写真左)捜索、夢二の師ヨハネス・イッテン(写真右)のもとに残されたベルリン・イッテン・シューレ時代の遺品探しとユダヤ人救出活動の実証は、唯一の手がかりだったイッテン夫人アンネリーザさんが重病で、暗礁にのりあげました。ベルリン・バウハウス博物館の勧めもあり、ナチ政権掌握後のイッテンの亡命先スイスのチューリヒまで足を延ばしたのですが、チューリヒにはベルリンで示唆されたイッテン美術館などありませんでした。国立美術館や古本屋でイッテン資料はみつかりましたが、夢二との関わりは出てきません。イッテン自身はユダヤ系ということではなく、イッテン・シューレの弟子たちにユダヤ人が多かったということのようです。イッテンが初代館長をつとめたリートベルグ美術館(チューリヒ東洋美術館)の日本画担当者も、浮世絵には詳しいが夢二など知りません。そこで最後の手がかりとなった、日本でのこの問題の開拓者藤林伸治さんの遺品中にあったアンネリーゼ夫人の手紙のアドレスを、地図を頼りに訪ねましたが、そこには、イッテンとは全然関係ない若夫婦が住んでいます。思いあまって近所を聞き込みしたところ、隣家のおばあさんが夫人は昨年重病で倒れて息子さんが引き取ったようだというので、中央駅の電話帳で手当たり次第に「イッテン」にあたって、滞在最終日にようやく、息子のクラウス・イッテン博士と連絡がとれました。クラウスさんの話では、アンネリーザさんは脳梗塞で倒れ言葉が不自由になり、インタビューは到底無理、その代わり、竹久夢二の絵の整理は、アンネリーザさんのイッテン・アルヒーフ作りの一環として倒れる前から進めており、近い将来に公開されるだろう、とのこと。ユダヤ人救出や井上角太郎との関わりは調査できないまま、アンネリーザ夫人の快復を願って、スイスを後にせざるを得ませんでした。
ここ数年のドイツと日本での調査で、どうしても見つからない資料があります。鎌田慧さんの『反骨──鈴木東民の生涯』(講談社)にも出てきますが、ワイマール時代後期からナチスの政権獲得期、1928-34年頃にベルリン在住の日本人向けに出されていた『ベルリン週報』という日本語新聞です。電通特派員だった鈴木東民が始め、反帝グループの与謝野譲・安藤鶴太郎も手伝ったという謄写版(ガリ版)刷り(わからない人は、井上ひさしの最新作『東京セブンローズ』文藝春秋社刊をお読みください)のドイツ生活情報紙で、500部ぐらい出ていたといいます。よく海外のジャパニーズ・レストランなどにおいてある、日本語のご当地情報紙の走りです。政治的資料ではありませんが、これが当時の在独日本人の日常生活を知る上で重要だと考え、ずっと探しているのですが、どうしても見つかりません。鈴木東民夫妻には生前おたずねし、先日お亡くなりになった安達鶴太郎夫人にもうかがいましたが、確かに自分たちがつくったという記憶がありながら、現物は持っていませんでした。日本の外務省外交史料館所蔵の在独日本大使館関係資料・日独協会資料にも入っていません。日本人反帝グループのご遺族・関係者の聞き取りのさいは必ずうかがっているのですが、どなたも持っていません。途中にファシズムと戦争の時代が挟まるとはいえ、現地のドイツならあるだろうと思って、こちらでも探しました。ベルリン連邦図書館、ブンデスアルヒーフ(ベルリン、コブレンツ)、ランデスアルヒーフ、ボン外務省史料館、独日協会、ベルリン日本センター、各大学図書館など、ドイツ中の関係アルヒーフに問い合わせ、実際にも資料にあたってみましたが、一部もみつかりません。ドイツの日本研究の友人たちにも頼んで探しているのですが、当時のドイツ語日本研究誌『YAMATO』などは連邦図書館に全号揃っているのに、『ベルリン週報』は、どこにもありません。博識のシャモニさんも、その存在そのものを知りませんでした。どなたか、戦前ドイツにいらっしゃった方のお宅に、今となっては貴重なこの資料、何かの包み紙としてでも眠っていませんでしょうか? 皆様の情報提供を、切にお願いし、期待いたします。おかげで私は、どの国に行っても日本語現地情報紙は持ち帰る習慣がつきました。もう帰国ですから、今夏の「ベルリン便り」は次回の補足で終わりにし、昨年の「ベルリン冬便り」と合本にして、「98・99ベルリン便り」として収納する予定です。 英文ページの"World Ideologies Explained by Cow"=Cow Jokeに新たな寄稿があり、ヴァージョン・アップ(ver.6)しました。
1999.9.20 [Berlin Report 1999, No.3番外編] 帰国してしばらくは、時差ボケが続きました。トシのせいでしょうか、外国旅行後の身体適応が鈍くなってきたように感じられます。もっとも医学的には、時差ボケへの心身適応には、西回りと東回りで違いますが、7−14日間を要するというのが常識。これ、かつて過労死研究で読んだ医学書の受け売りです。今年のドイツはやや暑かったといえ、それでもクーラーは不要でした。ところが東京に戻ったら、クーラーなしではいられない毎日、帰国直後に学生と伊豆にゼミ合宿にいったら(写真)、今度は台風が直撃、終わるとすぐに大学院入試以下山積の大学の仕事、と身体を休める暇はありません。オランダではワークシェアリングが進んで、選択パート制週3日勤務・4日勤務が当たり前になってきたとか。パートといっても、時間あたり賃金・労働条件は、週5日勤務の常雇労働と同一なんだそうです。日本にそれは、適用不可能でしょうか?
今年のドイツで気がついたこと。ベルリンへの首都移転やSPDの様変わりは現地でレポートしましたが、やはり「ベルリンの壁」10周年に想いが行きます。それを特集した雑誌や書物も持ち帰りましたが、「現実に存在した社会主義」東独=DDRの外見的痕跡が無くなり、秘密警察シュタージも市民的抵抗の地下水脈も学問研究の対象となりながら、「オッシー・ヴェッシー」問題は内面化し、特に中年以上の年齢層では深いトラウマを構成しているようです。例えばかつての東の主要駅アレクサンダー広場からウンター・デン・リンデン、ブランデンブルグ門をくぐり、西の主要駅ツォー、クーダムへと結ぶベルリン名物「100番」バスに乗ると、ベルリン観光にきたドイツ人が西出身か東出身かは、何となくわかります。旧東の国立歌劇場(シュターツ・オーパ)や修復された旧西・連邦議会の建物を、アメリカ人観光客と一緒にあれこれにぎやかに批評しているのは、たいてい西出身者、東出身とおぼしき人々は、グループ・家族連れでも黙々と、ブランデンブルグ門を食い入るように見つめていたり、かつて「壁」のあった辺りを遠目で確認していたり。「心の壁」は、そう簡単には消えません。でも確かなことは、ドイツの人々が、ナチスの犯罪と「ベルリンの壁」と、20世紀の自分たちのおこした悲劇に、真正面から取り組んでいることです。日本の私たちは、アジアへの侵略戦争のことも、ヒロシマやミナマタの記憶も、世紀末不況の中で、風化させがちであるのに。
ベルリンのある雑誌の特集は、東で使われていた生活用品やテレビ番組の写真を年代順に並べ、それをなつかしむ旧東の人々の談話を集めています。あのおもちゃのような車トラバントばかりでなく、石鹸・洗剤・電気製品や往年の人気歌手・スポーツ選手が出てきます。たぶん西の人=ヴェッシーは、それを骨董品風に品評し、東の人=オッシーは、自由はなかったがそれなりに充実していた日々をなつかしむのでしょう。しかし帰国前日に、国崎定洞遺児タツコ・レートリヒさんと訪れたウンター・デン・リンデン近くの「コーミッシェ・オーパ」は、東にもそれなりの前衛文化と民衆的革新があり、それは21世紀にも受け継がれるだろうことを、示唆していました。ベートーベンの歌劇「フィデリオ」上演だったのですが、しっかりした古典的演奏のうえに、歌詞はすべてドイツ語に訳して本格的オペラ歌手が熱唱、衣装と演出は古典から離れて現代におきかえ、普通の背広・ジーンズ姿にストーリー性を加味したブレヒト風舞台、つまりオペラを、国立歌劇場の古典に忠実な王朝風舞台とは全く違った仕方で、民衆にわかりやすい現代演劇に近い形で、表現していました。ちょうどフリードリヒ・シュタート・パラストの音楽舞踊劇「レビュー」が、ヨーロッパ・オペラとアメリカン・ミュージカルの中間に近い格式を保っていた、あの感覚です。そのためイタリア・オペラになじみのない人でもドラマが楽しめ、またCDで音楽を聴く限りでは、十分ベルリン・フィルに対抗できるクラッシックとなります。恥ずかしながら私は、かつて東に住んでいた時も、その後何度かベルリンに足を運んだ時も、オペラは国立歌劇場か西のドイッチェ・オーパのみで見てきたのですが、「コーミッシェ・オーパ」は、ちょうど演劇においてブレヒトのベルリーナ・アンサンブルの果たした役割に近い、グローバルに通用する文化的刷新を成し遂げてきたようです。たまたま夏休みで国立歌劇場が休演中で見にいったのですが、料金も国立歌劇場の半分以下で、すっかり満足して帰ってきました。来年以降も研究のかたわら、ぜひ通ってみたいものです。ベルリンの楽しみが、また一つ増えました。
今年の「ベルリン夏便り」はこれで終了し、昨年の「ベルリン冬便り」と合本にして、1998・99「ベルリン便り」として収納します。ここ数年の調査でどうしても見つからないベルリン反帝グループの鈴木東民・与謝野譲・安藤鶴太郎らがかかわり、ワイマール時代後期からナチスの政権獲得期=1928-34年頃にベルリン在住の日本人向けに出されていた『ベルリン週報』という謄写版刷り日本語生活情報紙の探索は、やや変則ですが「今年の尋ね人」欄に移し、引き続き情報を求めます。法政大学『大原社会問題研究所雑誌』第489号(1999・8)の資料紹介「第一次共産党のモスクワ報告書(上)」、『歴史評論』第594号(1999・10)「特集 歴史学とインターネット」の「インターネットで歴史探偵」に続いて、『アエラ・ムック マルクスがわかる』(朝日新聞社)がまもなく発売され、拙稿「マルクスにとって、共産主義社会ははたして究極の目標だったのか」が掲載されます。ご笑覧下さい。10月2-3日の日本政治学会研究大会(東京渋谷・國學院大學)を前に、10月1日(金)午後、東京市ヶ谷・法政大学大学院棟601号室での全国政治研究会で、私がこの間の体験を踏まえ「海外史資料による日本政治研究」を報告します。関心のある方はどうぞ。日本では自民党総裁選・民主党代表選の真っ最中、しかし合宿での学生たちの関心は、巨人・中日戦とオリンピック野球・アジア代表戦の方でした。
2000.8.15 本HP開設3周年の今回更新は、ベルリンで迎えました。1945年日本の敗戦記念日であり、1996年丸山真男の没した日でもあります。昨日入った方は、予定日に更新されていなかった、とおっしゃるかもしれません。それは、日本時間だからです。ヒロシマの原爆投下は、日本時間では1945年8月6日朝8時でしたが、ヨーロッパもアメリカも、まだ8月5日でした。古代から現代にいたる戦争の歴史を統計的に解いた研究が、戦争は春の種蒔きから秋の収穫の間、6−8月期に始まることが多いと法則化したところ、いやそれはわが国では真冬だと、オーストラリアの研究者がコメントしたことがありました。こんな地球上での時差や季節のズレが、歴史感覚のズレにつながることもあるようです。私はいま、日本の各新聞の8月16日付け朝刊ニュースをインターネットで覗いた上で、ベルリン時間の8月15日夜に更新中です。ウェブニュースの限りでは、終戦記念日の諸行事よりも、南北朝鮮離散家族の涙の対面や高校生殺人事件の記事が多いようです。日本の敗戦記念日が、朝鮮半島や在日朝鮮人の人々にとっては解放記念日であること、日本でも、沖縄の人々の記念日は6月で、それは敗戦と解放の入り交じったものであったことが、想起されます。記念するとは、記憶すること、想起することであり、同時に、忘れること、抽象化し象徴化することでも、ありえます。本HPでは、「初心に帰る」を3周年記念のモットーとしたいと思いますが、「インターネットで歴史探偵」に書いたように、本HPの出発も、想い起こせば単純なものでした。それが「20世紀の謎の暗室――1930年代ドイツ・ソ連在住日本人についての情報をお寄せ下さい!」のコーナーを設け、そこに研究情報が集まるようになってから、飛躍的に機能と内容を充実させることができました。この流れを大切にするとともに、3年間にアクセスいただいた、のべ10万人以上の方々に、改めて御礼申し上げます。
政治の時間の流れを味わうには、1990年代日本の政党再編のようなチマチマした変化もありますが、やはりここベルリンでの「ベルリンの壁」崩壊後の政治空間の変容は、こたえられません。ドイツ統一帝国以来の国会議事堂が、1933年ヒトラー政権獲得直後に放火され、他政党弾圧・一党独裁確立の契機となりました。ナチス総統官邸近くのそれが、第二次世界大戦の敗戦のさいに廃墟となり、荒れ果てた残骸のまま、戦後東西分裂・1961年「ベルリンの壁」敷設により冷戦・民族分裂の無惨な象徴となりました。それが、89年東欧革命・91年統一で、再び国民統合の象徴として再建されました。この国会議事堂再建を核として、旧西側の立法・外交機能もボンからベルリンに移され、かつての「壁」周辺の広大な荒れ地が、公共空間に生まれ変わりました。その政治中枢の空間再編に伴い、今年オープンしたソニービルをはじめとしたポツダム広場やフリードリヒ・シュトラーセのグローバル・ビジネス空間が、再配置されました。他方で、旧東のウンターデンリンデン通りや旧西のベルリン・フィルハーモニーは、文化的伝統を保存したまま化粧直しし、現代美術館など新しい機能をも加えて、ドイツの「中心」が確実に再確立されました。まだまだ再開発・建設中が多いのですが、20世紀とは異なる21世紀の姿が、ここでは確実に具現しつつあります。本HP特別室1998・99「ベルリン便り」の延長上で、定点観測3年目の印象を加えると、フェーリエン(バカンス)真っ最中の8月滞在は初めてであることもありますが、ベルリンの時間の流れは、東京やニューヨークに比べると、はるかにゆったりしています。ブランデンブルグ門近くの壮大な都市再開発は、単年度予算主義の東京なら1年で完全な変身を遂げるところでしょうが、しっかりした土台の建設からはじまり、いくつかの中核機能の建設と周辺整理で、年ごとに徐々に具体的姿を現し、しかも完成にはほど遠いままです。昨年工事中に見た時は、銀座4丁目ソニービルを大きくしただけではと思ったポツダム広場のソニーは、周辺ビルを加えて巨大なドームでおおった広場のなかに身をおいて完成した姿を見ると、ベルリン都市計画のスケールの大きさと周到な計算を実感させる、脱日本でグローカルな世界企業ビルに変身していました。そうです。これは、丸山真男も耽読したヘーゲルの世界です。「ベルリンの壁」崩壊後の世界が、フランシス・フクヤマ風「歴史の終わり」でも、ハンチントン風の「文明の衝突」でもなく、新しい理念を具現化する第3ミレニアム的な「概念の自己展開」ともなりうることを、ベルリン統合の10年は示しているように思われます。無論それは、建築技術や都市計画のハードばかりではありません。原発廃止・渓流再生のエコロジカルな景観創出や、女性の社会進出という、ソフトの新理念をも伴っています。また、ヘーゲル的な相互承認による市民社会創出が、概念的「計画」通りに進むわけではなく、旧東地域の格差や外国人労働者問題を内包しつつ、ネオ・ナチの若者や猥雑なアメリカ風文化のアナーキーな逆流表出をも伴いながら、公論の対象となり、目に見えるかたちで、進行しているのです。いずれにせよベルリンは、あと10年は、エキサイティングな「21世紀の実験都市」であり続けるでしょう。
旅行中で不便なデジタル環境にありますので、3周年更新は、最小限にしました。リンク集「ネットサーフィンの階段――政治学が楽しくなるインターネット宇宙の流し方」のバージョンアップが好評で、自他薦リンクやデザイン一新のご意見も寄せられていますが、帰国後にさせていただきます。ただし「沖縄から世界へ」「過労死と地域通貨」のコーナーには、マイナーチェンジをほどこしてあります。ジャーナリスト有田芳生さんのホームページ「今夜もほろ酔い」を本欄でコメントしたら、有田さんから全文引用しての過分な評価とエール交換をいただきました。『大原社会問題研究所雑誌』5月号の「『非常時共産党』の真実──1931年のコミンテルン宛報告書」に大きな反響があり、「竹久夢二探訪記」にもある「在独日本人反帝グループ」の井上角太郎探求では、ウィーン在住の90歳のユダヤ人反ナチ闘士(井上角太郎の義兄)から重要な証言をいただいたのですが、これも帰国後にまわします。本HP第4年目も、皆様よろしくお願い申し上げます。
2000.9.1 今年も、ドイツで夏を過ごしました。暑いのはヨーロッパも同じでしたが、あのバカンスの雰囲気は、独特です。大学に行っても、教授も秘書もみな休暇中。図書館はわずかな時間開きますが、それも担当係員が休暇に入ればおしまい。でもだれも文句などいいません。みんな、ゆったり休むのです。定点観測地フンボルト大学のゲストハウスを離れ、ケルン郊外の友人ヤシム・アハメッド君宅を訪れて、しばしの休養。彼は心臓を悪くして失業中、カローラ夫人は保険会社で働く普通の労働者ですが、長期休暇中。でも、優雅な生活です。ドイツでは平均的な郊外労働者住宅ですが、日本風には百坪以上の広い庭に池があって、大きながま蛙が棲んでいます。日本なら錦鯉を泳がせる、そんな池です。同じ大きさのお隣りでは、10メートルプールとミニゴルフコースにしています。こちらは盆栽と家庭菜園とリンゴの木々と花々で、間にベンチが三つほど。デッキチェアに寝そべって、のんびり本を読みます。ヤシム君の故郷バングラデシュの悠久の音楽が、バックグラウンドに流れます。夜はもちろん、ホームパーティです。失業中の主夫ヤシム君の、カレー料理の出番です。こちらは日本から持参したテンプラ粉でチャレンジ。材料など買う必要はありません。庭のナスにピーマンにポテトにニンジンで充分。ビールもワインも地元特産です。ゆっくりビールを傾けて、失業者のヤシム君に「日本なら億万長者(Millionaer) の暮らしだぜ」と冷やかすと、「それは日本がクレージーで、マネー中毒なのさ」ときり返される。旧知のドイツ人外交官氏が、日本に出張した時驚いた「ラッシュアワー」と、総理大臣の名前で朝8時からの公式パーティに招待され着るものと飲みものに苦労した「ワーカホーリック」見聞記を挿入。ドイツの通勤電車なら自転車も乳母車も車椅子もOKですから、女性たちが深くうなずきます。全くその通りです。夜空には星がいっぱい。近所のあちこちで親しい友人を呼んでのパーティがあるらしく、遠くの方からはダンスミュージックも。ローソクのランプで清談。夜もずーと長い感じ。
かつて20世紀に共に「勤勉」といわれ、世紀の前半に同盟を組んで世界制覇をもくろみ敗れたドイツと日本、それが世紀の後半で、どうしてこんなにもライフスタイルが違ってしまったんでしょうか? こんな感想を持ったのも、ケルンに飛ぶ直前に、ベルリン郊外ザクセンハウゼンの強制収容所跡を訪ねていたから。1936−45年に、ユダヤ人や反ナチ活動家20万人を収容していた、ホロコースト遺跡です。その入口の標語は、アウシュヴィッツもブーヘンヴァルトも同じで、「ARBEIT MACHT FREI」(労働は自由にする)でした。「労働を通じての人間の自由」──それが死に至る館に掲げられたのは皮肉ですが、ナチスの正式党名は国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)、「労働」は柱の一つでした。事実、ナチ時代のドイツ経済はワイマール期を上回る成長を見せて、後に「ナチズムの近代化効果」という問題になります。ナチスと敵対し、「プロレタリア独裁」を掲げた旧ソ連も同じでした。「労働者こそ主人公」とされ、「労働英雄」をつくるスタハーノフ運動や「土曜労働」奨励、さらには「人民の敵」を鉄道・運河建設に強制動員する「収容所列島」が集権的計画経済にビルトインされていました。猿が人間になるにあたっては「労働の役割」こそ決定的だった、資本主義の「疎外された労働」は社会主義では克服され「労働が喜びになる」というイデオロギーをも伴って。ザクセンハウゼン収容所は、戦後も存続されました。1945年から50年まで、ここは、ソ連軍に占領された旧東独地区であったため、ナチスのユダヤ人収容所が、そのまま旧ソ連に反対したり社会主義・共産主義の批判をした約6万人の「政治犯」を収容し、1万2千人の命を奪ったのです。入口の「ARBEIT MACHT FREI」は、そのまま掲げ続けられました。「労働」は、本当に人間を自由にするのでしょうか? そもそも「労働」は、本当に人間の本質で、不可欠の社会的紐帯なのでしょうか? ナチスのホロコーストと、旧東独社会主義の経験をくぐって、ドイツの民衆は「ナイン(ノー)」という回答を、実践的に見出したように思われます。「滅私奉公」が「天皇」から「会社」へと乗り移り、いまなお「IT革命による(バブル?)景気回復」を夢見る日本とはちがって。
こんな「ARBEIT MACHT FREI」への本質的異議申し立てを述べた、ドミニク・メーダ『労働社会の終焉』(法政大学出版局)の書評を、ドイツ出発直前に書き、『エコノミスト』9月5日号に発表しました。ザクセンハウゼン訪問と、ヤシム君宅滞在は、それを裏付けるものとなりました。ちょうどフランクフルト社会研究所留学中の住沢博紀さん(日本女子大学)から、住沢・堀越栄子編『21世紀の仕事とくらし』(第一書林)を送っていただきましたが、住沢さんは「19世紀(階級国家)=所有と労働」「20世紀(国民国家としての大衆国家)=生産と消費」「21世紀(グローバル市民社会)=情報革命と共生」と整理しています。「労働」への距離は微妙に違いますが、メーダと共通する視角です。ドイツでも「情報革命」が進み、インターネットのつながり具合は、毎年確実に良くなっています。ヤシム君宅のISDNから、3つの国籍をもつ4人で集まって、私の英語版ホームページに入りました。ヤシム君が面白がって英語版ヤフーで「Tetsuro KATO」と打ち込んだら、同姓同名の化学者の英文論文も含めて、700近いサイトが表示されました。開設3年で、いつのまにやら世界中からリンクされたらしく、特に英文「過労死」論文、「ワーカホーリズム」批判の引証が目立ちます。いくつか入って見ると、なんとILO(国際労働機構)の公式サイトに、ロブ・スティーヴンとの共著『日本資本主義はポスト・フォード主義か?』が「労働」研究参考文献として挙げられ、そこから派生して「労働ストレス」国際研究ネットに組み込まれたらしいのです。「Carl Webb's Revolutionary Japan Web Page」なんていう日本の左翼サイト紹介にも使われているらしく、赤面。ネットサーフィンも、ドイツで試みると、スケールが大きくなります。日本に詳しくない友人たちに、英語のオキナワ関連サイトを紹介しておきました。
今夏の旅では、『大原社会問題研究所雑誌』5月号に発表した「『非常時共産党』の真実──1931年のコミンテルン宛報告書」とも関連して、「竹久夢二探訪記」にある「在独日本人反帝グループ」の井上角太郎探求で、大きな進展がありました。私の『モスクワで粛清された日本人』267頁以下に、1934年夏にロンドンからモスクワに入って野坂参三宛の手紙を国崎定洞に渡そうとしてKGBの監視記録に残された「イノウエ夫妻」が出てきます。その有力候補としていた北海道出身の「井上角太郎」は、ナチスの政権獲得当時ベルリン大学経済学部学生で、スイス国籍ユダヤ人の恋人ヘレーネと共にロンドンに亡命した後も、ドイツでのユダヤ人自身による反ナチ地下抵抗運動を助けていました。また国崎定洞ら在独日本人の反ナチ反戦グループに友人を持ち、竹久夢二のユダヤ人救出活動を通訳として助けた可能性の一番高い人物です。この井上角太郎・ヘレーヌ夫妻の長女エヴァさんにお会いし、ウィーン在住のヘレーヌ夫人の実兄(やはりユダヤ人反ナチ闘士で、現在90歳で健在)の証言として、井上角太郎・ヘレーヌ夫妻が「確かに1934年夏モスクワを訪問した」こと、その後も長くユダヤ人の反ナチ抵抗運動にたずさわっていたことを、確認できました(写真は1950年代ニューヨークから日本訪問時の井上角太郎一家)。経済学志望の井上角太郎にベルリン大学留学を勧めたのは「当時の日本の有力な経済学者」なそうで、これは井上についての証言を残したベルリン大学での友人、故小林義雄専修大学教授のケースに照らして、国崎定洞の親友有澤広巳(当時東大経済学部助教授)である可能性が強まりました。残念ながら竹久夢二との直接的つながりは見いだせませんでしたが、夢二の1931−33年欧米滞在時のスケッチ画集をエヴァさんに渡して、井上夫妻の周辺に夢二の絵がないかどうか、探索を頼んできました。歴史の結び目が、またひとつ解けました。しかしそこから、新たな謎が生まれます。「国際歴史探偵」の旅は、まだまだ続きそうです。
2006.11.25 いつもより10日あまり遅い更新になりました。ドイツから帰ってきたばかりで時差ボケ中です。出発日の11月9日は、帝政を廃止し共和制へ移行した1918年ドイツ革命の記念日、そしてその71年後、1989年に「ベルリンの壁」が崩壊した日でした。でも最初に入ったハンブルグは静か。どんよりと低く曇がたれ、時折冷たい雨のまじる、北ドイツに典型的な晩秋の景色です。「ドイツ現代日本社会科学学会」の「過渡期にある日本の社会科学」報告とシンポジウム出席の合間を縫って、郊外アルトナの街を歩いてきました。1932年の大晦日、作家島崎藤村の3男で画家の島崎蓊助が、ユダヤ人の恋人と分かれ、在独日本人反帝グループの仲間たちにも見放されて、失意の内に日本へ帰国した港町です。アルトナの街は、ハンブルグのユダヤ人街だったらしく、ところどころにヒトラーのナチスによるユダヤ人迫害犠牲者の碑やプレートがあります。中心のアルトナ博物館は、すぐそばが北欧の港らしく、海賊から船の発達史まで見せる展示。そこにセピア色の心象風景を見出した島崎蓊助は、やはりユニークな画家です。ベルリンのドイツ国立図書館に、私のこの間の著作と共に『島崎蓊助自伝──父・藤村への抵抗と回帰』(島崎爽助と共編、平凡社、2002年)を納本して帰国した直後に、島崎蓊助夫人で、私の在独日本人研究のかけがえのない証言者の一人であった島崎君代さんの訃報に接しました。享年84歳、心よりご冥福を祈ります。たった2週間の旅で、まだ新聞を読み返していませんが、その間に宇井純さん、渡辺洋三さん、大石嘉一郎さんら、書物を通じて学んできた先達が亡くなっていました。寒さ厳しくなる折、皆様もくれぐれも御身ご大切に。
この旅の本来の目的は、本サイト日本語・英語版で公開情報収集中の、特別研究室「2006年の尋ね人」「日独同盟に風穴をあけた日本人<崎村茂樹>」ほか戦時在独日本人の探求。1944年7月20日ベルリンの「ヒトラー暗殺未遂事件」と、1950年10月1日北京の「毛沢東暗殺未遂事件」という二つの大きな政治的事件の関連資料探求です。ボンの成人教育研究所で崎村茂樹のドイツ語論文「ナチス・ドイツにおける青年の職業教育」をコピーし、ハイデルベルグ大学とベルリン日独センター、ベルリン大学日本研究所付属森鴎外記念館では、周辺資料と研究交流を重ねてきました。特にハイデルベルグ大学の中国現代史研究者トーマス・カンペン教授は、私の英語版ホームページを見て事前に資料を集めてくれていて、1950年毛沢東暗殺未遂事件についての貴重な情報をもたらしてくれました。同事件のドイツ人被告Walter Genthnerが崎村茂樹と同じ禁固5年で、崎村が北京から日本に帰った1955年にドイツに帰国しているとのこと。ただしドイツではごくありふれた名前なので、出身地やその後の消息は特定できていないとのことで、今後の調査を約してくれました。崎村茂樹の1942年のドイツ語著書『日本経済の新編成』(1942)も現物を入手。分析はこれからですが、1943−44年にかけての崎村茂樹のスウェーデン滞在の謎に迫る基礎材料が揃いました。また、この12月には出版される、Herausgegeben in Zusammenarbeit mit dem Filmmuseum Berlin - Deutsche Kinemathek: Wolfgang Aurich (Hg.), Wolfgang Jacobsen (Hg.) Band 4, Karena Niehoff. Feuilletonistin und Kritikerinという本に、戦時ドイツのユダヤ人女性ジャーナリストで戦後の映画評論家Karena Niehoffの交際圏に、日本人崎村茂樹が出てくるとのことで、今から楽しみです。この成果は後日公開。
今回更新が遅れたのには、理由があります。一つはドイツでハンブルグ、ボン、ハイデルベルグ、ベルリンと移動しつつの調査で、ホテルのIT事情がいずれもダイヤルアップで遅く、特にpdf.ファイルが送られてくると数十分かかる情報環境にあったことですが、もう一つが、実はボンでの盗難被害。デジタルカメラと海外用携帯電話とiPodを、喫茶店でコートのポケットから抜き取られてしまいました。いずれも最新型の日本人好みのIT兵器ですが、今回の旅では、ハードではなくソフトこそがITの命なことを痛感。ボンのカフェで親友アハメッド博士と懇談中、椅子の背もたれにコートを掛けたのがまちがいのもとで、どうやらベートーベン・ハウスをデジカメでパチパチしていたあたりから狙っていた外国人狙いの若い男に、そっくり抜きとられたらしいのです。資料接写用の高級カメラだったのもありますが、ハンブルグの会議の模様も、出発直前のリヒアルト・ゾルゲ、尾崎秀実墓前祭のスナップも、夏のソ連・ベトナム旅行の写真も、すべて再生不能になりました。というのも、2GBの記憶装置をつけて次々に使ってきたのが、今思えば間違いの元。小さなメモリーでこまめにパソコンに取り込んでおいた方が良かったことになります。やむなく旅の後半は、使い捨てカメラ4台で我慢。これが性能が悪く、曇天のドイツはいっそう暗い感じ。現像・焼き増し代を考えると、現地で安いデジカメに乗り換えた方がよかったようです。携帯電話も、海外で使用可能なドコモのN900iGを持っていたのですが、ドイツでの友人たちの電話番号を事前に打ち込んでいたため、いざ鎌倉という際に、ハイデルベルグやベルリンの友人たちには到着の連絡できず。やむなくパソコンメールで何とか伝えて、ホテルに来て貰うことに。日本での日常使用の電話帳も全部チャラになり、日本の電話会社に使用停止の国際電話をかけなければならないのにその番号もわからず。やむなくこちらもメールで留守宅に頼み、時差の関係で2日後に停止。その間に泥棒に使われていた可能性があり、来月の請求書が憂鬱です。iPodの方にも、ドイツゆかりの曲を沢山入れていたのですが、こちらは幸いマックのパソコン経由で入れたので、パソコンの方に原曲はしっかり残されていました。ドイツでもiPodブームで、今ごろ闇市で高値取引されていることでしょう。パスポートや航空券はしっかり身につけていたのが、不幸中の幸い。帰国後の海外旅行保険申請書作成に、時差ボケの丸一日かかりました。というわけで、現地写真を連ねた定期更新は茫然自失で断念。その間にも、皆様にはアクセスいただき94万ヒットに達しましたが、毎日更新の畏友五十嵐仁さん「転成仁語」サイトは、あっさり本サイトに追いつき追い抜いていって、「日本一の政治学サイト」の栄誉を五十嵐さんに譲ることになりました。もっとも、あちらは時評サイトで、こちらは「国際歴史探偵」のデータベースサイトと割り切れば、「政治サイト」と「政治学サイト」の使い分けで、まあ定番サイトと誇ることもできます。
上記のネット事情で、日本の様子はほとんどGoogleニュース日本版のみが頼り。それでも教育基本法改正案が衆議院で強行採決されたニュースは、「愛国心」の説明で早速ハイデルベルグ大学での特別講義で使い、好評でした。日本国憲法改正は、国会で3分の2以上の賛成による発議なので、自民党は、むしろ民主党との合意による提案をめざすだろうという手続き論の中に嵌め込みました。むしろドイツの研究者・学生たちが驚いていたのは、「格差社会のどこが悪いか」という小泉前首相のような発言が出てくる基盤と、安倍新首相の「美しい国へ」という、何とも中身のない基本政策。英語で<beautiful country>が新首相の政策だと紹介すると、何が政策だという嘲笑と、やはり右翼ナショナリストだという警戒の眼。ドイツのメルケル大連立内閣も評判はよくないですが、自民=民主連立政権で「美しい国へ」の憲法改正なんていうことになると、日本の国際的孤立は、末期症状でしょう。教育基本法のみならず、労働時間規制緩和や国立大学の法人化、「非核3原則」再検討など、20世紀後半の「繁栄」を支えてきた日本の基本的骨格のゆらぎ=「国法の政治化」が憲法改正を待たずに進行していることを述べました。第二次世界大戦の同盟国ドイツにも同様の事情はあったとはいえ、ドイツの場合はEU設立と東西統一という「革命」を経ていますから、ドイツ語にもなった「Ijimeいじめ」に象徴される日本の内向きで陰湿な国家再編は不気味。だから一番質問が多かったのは、やはり中国問題。EUにとっても、今やアジアへの関心の中心は、中国とインドの動向です。アメリカと同様、大学での日本語クラスから中国語クラスへの再編も進んでいるようです。質問がでるかと冷や冷やしたのが、小泉内閣の「メールマガジン」と並ぶ「劇場政治」の目玉だった「タウン・ミーティング」のヤラセ質問問題。資料を持ってこなかったのと、日本的「やらせ」の訳語(made-up?)が面倒なのと、これで「民主主義国」とは恥ずかしくてとても紹介できない、驚くべき醜態です。日本通の研究者は知ってましたが、中国語ブームの中でもなお日本語と日本社会を学んでくれているドイツ人学生たちには、進んで説明したくない事態。パワーポイントを使った日本的「公共」概念、「官僚政治」一般の問題の説明で、お茶を濁してきました。
ベルリンは私にとって第二の故郷。30数年前の留学から数えると何回目になるか、特に「ベルリンの壁」崩壊後は、本サイト「ベルリン便り」にあるように、定点観測地点です。といっても久方ぶりで、まずは変貌が一番目に見えるベルリン中央駅からポツダム広場に直行。初めて見る「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための慰霊碑」は、予想外にいいものでした。というのも、実は、その慰霊碑の脇の新しくできた通りが、「ハンナ・アーレント通り」と名付けられているのを発見したから。すっかり気をよくして地下のホロコースト記念館の文献を、手当たり次第に買いあさってきました。ただし「ベルリンの壁」崩壊後17年という時間は、表面的には歴史を消し去ります。かつてブランデンブルグ門のまわりを埋め尽くしていた「壁」のかけらや旧ソ連の軍服・帽子・バッチ売りの類は姿が消え、旧東ドイツは、ペルガモン博物館の裏にある「DDR博物館」という小さな河畔のカフェに残された程度です。プラスチック製自動車「トラバント」の本物が入っているのはご愛敬ですが、旧東ドイツがヌーディスト・キャンプだらけだったかのような展示にはびっくり。映画『グッバイ・レーニン』のDVDも売られてましたから、いまや悲劇と言うより喜劇の対象になったようです。他方で、最新のIT化の進展にもびっくり。何しろハンブルグの学会も由緒あるハイデルベルグ大学の特別講義も英語でしたから、グローバル化=アメリカナイゼーションは日本もドイツも同じとは分かっていましたが、ポツダム広場周辺や変身したフリードリヒ・シュトラーセとウンター・デン・リンデンの交差点近くの商業文化は、ほとんどニューヨーク、ロンドン、東京と変わりません。かえって、旧西ベルリンの中心クーダム周辺の方が、ドイツっぽく感じられる程です。いつもビールを飲んでいたカフェはつぶれていて大きなホテルに変貌中、やけ酒代わりにクリスマスに飲まれるグリュー・ヴァインを置いた古い酒場をみつけてぐい飲み。想定外だったのは、かつて通ったドイツ国立図書館の電子化と利用方法の変化。7,8年前までは、外国人でも簡単に登録・入館でき、カードで調べて本を見つけるとその場でみつけて持ってきてくれたものですが、今や完全にIT化。一度登録証をもらうと、自宅からでもパソコンで文献を探して見たい本を注文でき、何時間後ないし翌日から見られるとインターネット上に答えがでてくる仕組み。帰国前日を国立図書館に宛てていたため、目当ての資料は、帰国便当日の朝から昼までコピーに専念という事態に相成りました。でも、コピー代も安く自分で取り放題、研究上はしごく便利で、東洋大学の和田博文さんらの研究グループの手に成る『言語都市・ベルリン 1861−1945』(藤原書店)が手頃な道案内になりました。私の国崎定洞研究や「在独日本人反帝グループ」研究では、今回国崎定洞遺児タツコさんと一緒にまわった地図が成果で、それは次回に。
「日独同盟に風穴をあけた日本人<崎村茂樹>探索」は、「健物貞一探索・遺児アラン訪問記」と同様に別ファイルにして、特別研究室「2006年の尋ね人」と、英語版Global Netizen
Collegeで公開情報収集中。逐次、バージョンアップして行きます。英語のRoutledge社の"Japanese-German
Relations, 1895-1945 War, Diplomacy and Public
Opinion" (Edited by: Christian W.
Spang, Rolf-Harald Wippich )という最新論文集に寄稿した、Kato
Tetsuro (Hitotsubashi University/ Tokyo):Personal Contacts in
German--Japanese Cultural Relations during the 1920s and Early
1930s
は、書物そのものではなく、草稿から図表等を削除したウェブ版です。