社会科学の理論は、現実との緊張関係において、理論たりうる。いかなる政治学の概念にも、現実政治の歴史的性格が刻印されている。20世紀に隆盛した「社会主義・共産主義」「国民国家・民族自決権」といった概念には、そこに費やされた人類の膨大なエネルギーと、そこに生き死んでいった多くの人々の思想的格闘が、きざみこまれている。そのような概念の一つとして、ここでは、「人民」という日本語をとりあげる。20世紀に日本で隆盛し、世紀末に消え去ろうとしている政治用語の鎮魂歌として。
「人民」は、日本の学問世界において、とりわけ第二次世界大戦後の社会科学・歴史学において、一時的にしろ、確固たる位置を占めた。にもかかわらず、ある時期から、この概念は、現実政治でも政治学の理論でも用いられなくなり、今日ではほとんど聞かれなくなった。世界史の流れに抗してなお存続する日本共産党が、世紀末の規約改正にあたって「国民政党」を名乗り、旧規約で多用していた「人民」の用語を抹消したのが、その象徴的表現である。
では「人民」とは、いったい何であったのか? まずは、辞事典から始めてみよう。
国語辞典として広く用いられる『広辞苑』(岩波書店、第5版、1998年)には、「(1)国家・社会を構成する人、特に、国家の支配者に対して被支配者をいう。(2)官位をもたない人。平民」とあり、「人民委員」「人民解放軍」「人民憲章」「人民公社」以下各種熟語がならぶ。「被支配者・平民」に重きをおいた規定である。
語源に目配りした『日本国語大辞典』(小学館、1974年)には、「国家を構成し、社会を組織している人々。ふつう、支配者に対する被支配者、官位のない一般の人々をさしていう」として、『史記』の「天下人民」から『続日本紀』の「人民豊落」などを経て『西国立志編』の中村正直訳にいたる系譜が書かれている。このことは、「人民」が漢籍に発するにせよ、明治期に翻訳語として定着してきたものであることを示唆する。
『日本語大辞典』(講談社、1989年)は、この点が明快で、「社会を構成する人々。People」と英語を併記し、アメリカ合衆国第16代大統領リンカーンのゲティスバーグ演説「人民の人民による人民のための政治(government of the people, by the people, for the people)」のみを文例に挙げる。「人民=peopleの翻訳語」とする理解である。
それでは英語の<people>は何を意味するのかと、『ランダムハウス英和辞典』(小学館、1973年)をひもとくと、確かにpeopleの訳語として、「国民、民族、種族」「人々、住民」と共に、「(支配者・統率者に対比して)人民・民衆」とあり、the king and his people等の用例では「臣民、従者、家来、お供、労働者、召使い、奴隷」等々「被支配者」的意味を持つとされる。同時に英語のpeopleには、「(自治体・国家などの)選挙権を持つ市民、有権者、公民」という意味もあり、この場合は「政治的主体」というニュアンスが強い。リンカーンの演説は、この「公民」的peopleの用例として、挙げられている。
このように「被支配者」にして「政治的主体=公民」ともなりうる<people >の二重性は、別に英和辞典編纂者の苦心の作ではない。英語そのものに内在していることは、Oxford English Dictionary(OED)やConcise Oxford Dictionary(COD)をひもとけば、直ちに判明する。手元のCOD(1982年版)の簡明な説明を引けば、「persons composing community, tribe, race or nation 」であるが、「subjects of king etc.」であり、「the body of enfranchised or qualified citizens」としても用いられるのである。
こうした性格は、政治学関係の辞事典をひもとくと、いっそうはっきりする。古典的というべき『政治学事典』(平凡社、1954年)では、「人民(英)people,(独)Volk,(仏)peuple 英語のピープルという言葉は、ラテン語のpopulusという語源からフランス語をつうじてもちいられるようになったもの。日本語の人民はピープルの訳語で、明治憲法下の官僚政治においては警察官が、民衆を上から蔑称する言葉としてもちいられたが、しかし共和国における国家の構成員をさすのが原則である。したがってこの人民という言葉のなかには自由や解放という意味がともなっている。ことにネーションが国家性を意味する言葉であるのにたいして、ピープルは国境をこえてよばれる性質をもっている。このため社会主義国家や左翼団体ではこの意味で人民という言葉をもちいている。また消極的存在としての大衆 mass とも区別され、人民には主体的性格が強調されている」として、「国民、市民、臣民、民族」の項の参照を求めている。
ここで「フランス語経由」とある点は、『現代政治学事典』(ブレーン出版、1991年)において、ルソーからリンカーンへの文脈で述べられる。「人民 語源としてはラテン語のpopulusからきている。当時は、共和国における平民のplebusのことであった。近代に入り、ルソーが市民の集合体をpeopleと名付け人民主権論を展開したように、人民が国家構成の主体的存在と考えられるようになった。人民の人民による人民のための政府がそれにあたる。なお、階級的抑圧からの解放という立場から特定の意味で人民という場合がある」と説明し、次の「人民主権」の項では、「通常は国民主権と同義に用いられるが、フランスでは両者は厳格に区別され、わが国の憲法学にも影響を与えている。論者によって説く内容は同一ではないが、ルソーに従って、人民は主権を実際に行使しなければならないとする傾向をもつ。国民がそれ自体として意思能力も行為能力ももたない抽象的・観念的な統一体であるのに対して、人民は具体的・経験的な市民の総体であり、主権をみずから行使できるため、直接民主制と原理的に結びつくとされる」と論点を紹介している。
政治学の上記二事典は執筆者名を明記していないが、平凡社の『世界大百科事典』(1984年)では、「人民」の項は政治学者阿部斉の執筆で、よく整理されている。
「じんみん 人民 people 広い意味では国家の構成員を指し、国民と同義であるが、狭い意味では国民のなかから既存の支配層を除いた部分、すなわち被支配層としての国民を指す。こうした対比でみれば、国民が支配層も含めた全体の一体性を強調する概念であるのに対し、人民はむしろ被支配層の連帯と解放を重視する概念として用いられることが多い。<人民主権>や<人民民主主義>などの用例は、いずれもこれまで抑圧されてきた被支配層の解放によって、彼らが真の連帯を実現するために主権や民主主義を用いるとの意味を含んでいる。その意味で、人民はマルクス主義者など左翼勢力に用いられることが多い。ただ、アメリカ合衆国では単一民族を基盤とした国民の観念が成立せず、しかも平等主義的傾向が強力であるため、左翼的伝統の欠如にもかかわらず、人民が国民の意味で用いられた。リンカンの<人民の、人民による、人民のための政治>は、その典型的な用例」。
とはいえ、日本語は魔物である。現行日本国憲法がアメリカ占領軍により作成された英文草案をもとにしていることはよく知られているが、その英文の<people>は、時の日本政府の抵抗と国会の審議過程で、おおむね「人民」ではなく「国民」と訳され、それに血統主義の国籍法がオーバーラップされて、「非日本人」の権利を厳しく制限した。つまり、英語の<people >と日本語の「人民」は、重なり合う部分が多いが、はみ出した部分もある。二つの円を隣り合わせたかたちで、その重なりかた、英語自体の語義のいずれが日本語の「人民」の中心になるかは、歴史的に異なってくる。また「臣民、国民、公民、市民、大衆、民衆」等他の日本語とも、重なりあったり、反発しあったりする。
そこで今度は、日本史の辞事典に当たってみる。現行『日本史辞典』(岩波書店)、『日本史広辞典』(山川出版社)、『戦後史大事典』(三省堂)等には「人民」の項はない。しかし、『新版 日本史辞典』(角川書店、1996年)には、簡潔な説明がある。「人民 民衆を政治的主体としてとらえる概念。もともと被治者の総称。明治維新後、欧米思想の摂取のなかでpeopleの訳語として用いられ、自由民権派は天賦人権の保有者として位置づけた。当初は政府も用いていたが、天皇制の確立に伴い臣民の語にかえ、人民の語は民主主義・社会主義の立場から政治的に目覚めた民衆をさす概念として使用された。歴史学では羽仁五郎が積極的に使用。1960年代後半には人民闘争史研究が活発化した」と。
これらから、(1)中国語の「人民」と日本語の「人民」、ラテン語のpopulus、フランス語peuple、英語のpeopleの差異とニュアンス、(2)ルソー、リンカーンの「人民」と「市民」「国民」、(3)被支配者としての「人民」と政治的主体としての「人民」、(4)左翼・マルクス主義用語としての「人民」、(5)歴史学における「人民」史観ないし「人民闘争」史観、等々が考察の対象として浮上してくる。
この(4)を理解するうえで、マルクス主義の系譜での辞事典も調べておこう。実は先の『政治学事典』の「自由や解放という意味」や『新版 日本史辞典』の「政治的に目覚めた民衆」という記述は、マルクス主義の用例を強く意識したもので、20世紀日本の現実政治で「人民」の語が多用されたのは、マルクス主義の政党や知識人によってであった。それも第二次世界大戦後が最盛期で、なぜか世紀末にはあまり用いられていない。
その大ざっぱな流れを、日本共産党中央委員会の強い影響下で編纂されてきた『社会科学辞典』(新日本出版社、1967年)、『新版 社会科学辞典』(同1978年)、『新編 社会科学辞典』(同1989年)、それらを1989年東欧革命・冷戦終焉、91年ソ連崩壊を踏まえて改訂した現行版『社会科学総合辞典』(同1992年)から見てみよう。四つの『辞典』の「人民」概念は歴史的に変化しており、同党の「人民」概念の規定の変遷を見ることにより、日本で「人民」概念が社会科学・歴史学用語として用いられ、かつ用いられなくなった、歴史的文脈が逆照射できる。
まずは、1967年の『社会科学辞典』初版の規定をみてみよう。
「人民 支配され、抑圧され、搾取されている階級・階層で、革命を遂行する能力をもつ社会的・政治的勢力の総称である。したがって人民のなかにふくまれる社会的・政治的勢力は、その国の歴史的発展段階や当面する革命の性格の相違によってことなる。ブルジョア革命と社会主義革命では、人民を構成する社会的・政治的勢力の内容がことなるし、おなじブルジョア革命でも、帝国主義の段階とそれ以前の段階とではことなる。全般的危機のもとにある今日の独占資本主義国では、労働者・農民・都市勤労市民(都市小ブルジョア)だけでなく、中小資本家階級も人民のなかに含まれる。」
これは、一般辞事典に比べると、きわめてユニークな規定である。第一に、「人民」概念は、生産手段の所有・非所有を指標とする「階級」概念を軸に構成されるものとしている。第二に、それは被治者一般でも政治的主体一般でもなく、「革命を遂行する能力をもつ」水準に措定されている。第三に、「階級」規定を受け「革命遂行能力」をもつ主体=変革主体は、唯物史観の発展段階論によってその範囲を歴史的に規定され、第四に、「資本主義の全般的危機」という1967年当時の日本共産党の時代認識によって、「労働者・農民・都市勤労市民(都市小ブルジョア)だけでなく、中小資本家階級も人民のなかに含まれる」と、(おそらく優先順位も想定して)具体的担い手が挙げられている。
ちなみに、すぐ次の項目は「人民革命」で、「人民(労働者・農民・都市小ブルジョアジーなど)が積極的・自主的に自分自身の経済的および政治的要求をかかげてたちあがり、その経過と結果にふかい影響をあたえる革命をいう。このように人民を原動力とする人民革命は、ブルジョア民主主義革命・社会主義革命のいずれでもありうる。17世紀なかばのイギリス革命・18世紀末のフランス革命・ロシアの1905年の革命・二月革命(旧暦)などは人民革命としてのブルジョア革命の例であり、十月社会主義大革命や第二次世界大戦のおわりごろから48−49年ごろまでに東ヨーロッパ諸国および中国・朝鮮・ベトナムなどのアジア諸国で展開された人民民主主義革命、1959年のキューバ革命は社会主義に前進した人民革命である」と解説されている。
ところが、1978年の『新版』では、ささいではあるが後に大きな意味をもつ改訂が加えられる。第一に、全体的規定はほぼ同一であるが、「革命を遂行する能力をもつ社会的・政治的勢力の総称」という基本規定が、「革命を遂行する力を持つ」に変えられる。「能力」と「力」の概念規定は同辞典にはないから断言できないが、後の規定との関わりでは「潜在的能力」ではなく「現実的・具体的力」のレベルに変革主体を措定したものと理解できる。第二に、「全般的危機のもとにある今日の独占資本主義国」で「労働者・農民・都市勤労市民(都市小ブルジョアジー)だけでなく、中小資本家階級も人民のなかにふくまれる」という規定はそのままであるが、末尾に奇妙な新規定が加わる。曰く、「一定の条件のもとでは革新勢力の内容を総称して国民というばあいもある」と。
つまり、「階級」規定と「革命」概念の結合の上に措定されていた「人民」概念が、「革新勢力」という日本の当時の文脈では「保守対革新」「革新三目標」「革新自治体」など具体的・状況的力関係の中で語られる政治的水準に措定し直され、「国民」と同義にされたのである。この段階ではなお「一定の条件のもとでは」と限定が付されているが。
1989年、東欧革命勃発の直前に、第3版『新編 社会科学辞典』が刊行された。そこでは全体的骨格を残しつつも、三つの重要な変更が加えられた。第一に、「革命を遂行する能力をもつ」(67年)から「革命を遂行する力をもつ」社会的・政治的勢力(78年)と改訂されてきた総括規定から、遂に「革命」概念が消え、「社会の歴史的発展にそう活動によって社会進歩をめざす力をもつ社会的・政治的勢力の総称」と、「社会進歩をめざす力」という主観的規定に書き換えられた。第二に、「全般的危機」というコミンテルン起源の歴史的時代規定がはずされ、「一般に今日の独占資本主義国では、労働者・農民・漁民・勤労市民らだけでなく、中小資本家階級も人民のなかにふくまれうる」と、なぜか「漁民」が加わり、「勤労市民」に付されていた「都市」の地域的限定も「小ブルジョア」という階級的説明もはずされた。第三に、78年『新版』で入った「一定の条件のもとでは革新勢力の内容を総称して国民というばあいもある」がなぜか消されて、代わりに「なお、国際法上『人民』の語がつかわれるとき(例、人民の自決権)は、国家や政府と区別される意味での一つの国または地理的単位(植民地のような)の住民の集合体を意味する」という「科学的社会主義」らしからぬ一般的説明が、末尾に加えられた。「国民」とも異なる「住民の集合体」規定である。
ところがこの『新編 社会科学辞典』は、そのタイトルからすれば皮肉というほかないが、わずか2年も「科学性」を維持できなかった。89年東欧革命・91年ソ連崩壊によって、1967年以来の全「辞典」に込められた世界観・時代認識・政治分析が丸ごと崩壊したのである。急いで作り直されたのが、1992年の『社会科学総合辞典』と大型化した新辞典で、「人民」についても、『新編』冒頭の一般規定と末尾の国際法上の規定のみが保持されただけで、次のように全面的に書き直された。
「人民 一定の国または社会で支配され、抑圧され、搾取されている階級・階層の総称として、科学的社会主義の文献をはじめ、ひろく使用されている用語。日本のように高度に発達しながら対米従属のもとにある国では、労働者、農民、漁民、勤労市民、知識人、婦人、青年、学生、中小企業家などが人民のなかにふくまれ、人口の圧倒的多数を占める。日本共産党では、1970年の第11回党大会で、この見地から人民と国民を同義語とみなし、以後、同党の文献では、人民と国民はおなじ意味で使われている。国際法上『人民』の語がつかわれるとき(たとえば「人民の自決権」)は、国家や政府と区別される意味での一つの国または地理的単位(植民地のような)の住民の集合体を意味する。」
ここでの「人民」は、もはや「革命」の主体でも「社会進歩」の担い手でもない。「人口の圧倒的多数」という理由で無条件に「国民」「住民集合体」と同義とされ、「知識人、婦人、青年、学生」まで加えられ、「中小企業家」も「階級」抜きで他階層と同列におかれた。つまり、事実上「階級」規定を消去している。
「1970年以来」このような見解ならば、なぜ1978年には「一定の条件」を付して89年にいったん引っ込めたのか、なぜ92年に89年規定をあっさり改めなければならなかったのかの説明責任を有するが、もとよりそのような「科学性」は、この『辞典』には求められていない。むしろ、現実政治そのものの変化に「科学的概念」が追随してきたこと、丸山真男=田口富久治風にいえば、「宣伝価値」が「真理価値」に勝っていることを、雄弁に物語っている。先に見た語学辞典や政治学・歴史学の一般辞事典に比して、学問研究のツールとしてはほとんど役立たず、むしろ学問研究の対象として扱うべきものであるゆえんである。
それでは、『社会科学辞典』の定義の無惨な変遷は、何故におこったのであろうか? それは、一般辞事典でいうどのような問題と関連しているのであろうか? この観点から、改めて日本における「人民」概念の展開をあとづけてみよう。
今日の社会科学では、先に『現代政治学事典』が示唆していたように、「人民」と<people>の関係のレベルでは、フランス革命における「人民主権」と「国民主権」の相克を丹念にあとづけた、杉原泰雄らの憲法学的研究が知られている。そこでは、「国民」=ナシオンとは、国籍保持者総体としての全国民で、それ自体は意思能力をもたず、国民代表機関を通じて主権を行使し、「人民」=プープルの意思に法的には拘束されず、民衆の政治参加を排除しうる、したがって「国民主権」とは、「代表機関を事実上の主権者とする体制」で、「君主主権」と「人民主権」の中間形態、とされる。
それに対して「人民=プープル」とは、主権を行使する意思能力をもつ具体的現実的「市民」の総体(=サンキュロット民衆)で、その「一般意思」である「人民主権」は、不可譲・不可分で「代表」されえない、そのため全市民の参加を要請し、命令的委任や直接請求・人民発案・リコール制度を具備しうる、と「社会主義」と結合しやすいルソー的原理を抽出している(杉原『国民主権の研究』岩波書店、1971年、『人民主権の史的展開』同1978年)。
また、アメリカ合衆国におけるリンカーンのゲティスバーグ演説も、今日の研究では、「人民=公民」による「ネイション=アメリカ国民」形成のなかで論じられており、ゲティスバーグ演説中で繰り返されるのは<people>ではなく<nation>であり、かの「人民」規定も、<a new nation>形成の文脈で現れることに注意が喚起されている(James M. Mcpherson, Abraham Lincolon and the Second American Revolution, Oxford UP,1990. ゲリー・ウィルズ『リンカーンの三分間──ゲティスバーグ演説の謎』共同通信社、1995年)。
しかし、ここではこうした問題には立ち入らず、20世紀前半の日本、即ち大日本帝国憲法の天皇主権下で「人口の圧倒的多数」が「臣民」とされていた時代の「人民」の概念と、第二次大戦後に日本国憲法で<people>が「国民」と訳された時代以降の「人民」の盛衰を見てみよう。
「人民」概念を扱う辞事典のなかで、日本の戦後歴史学が総力を挙げて編纂した『国史大辞典』(吉川弘文館)のみは、やや異色のかたちで立項されている。
「人民 明治時代後期の自由党・政友会系の新聞。自由党系の『めざまし新聞』『東京新聞』の後身。『めざまし新聞』は自由平等の主義を以て社会良民の思想を啓発するとして、明治26年(1893)11月15日に創刊され、主筆小松三省、助言者に坂崎斌(紫瀾)が在社した。同紙は、28年12月15日、憲政の保護、自由の先鋒を標榜し『東京新聞』と改題、主筆安藤喜代香・寄稿者として板垣退助・小室重弘・栗原亮一・山口熊野らが名を連ねた。31年10月19日『日刊人民』、35年2月1日『人民』、38年10月18日さらに『人民新聞』と改題を重ね、自由党・政友会系の立場から筆陣を張った。33年社の中枢には菅原伝・日向輝武、記者の茅原崋山・塚越芳太郎(停春楼)・中野寅次郎・岡野敬胤らがいた。40年9月『東亜新報』と改題し紙面は帝国主義的色彩を濃厚とした。41年7月9日付まで発行確認。発行部数不詳、東大明治新聞雑誌文庫に『めざまし新聞』から『東亜新報』まで所蔵、その間若干欠号あり」(北根豊執筆)。
つまり「人民」は、『日刊人民』『人民』『人民新聞』という新聞名として、明治31(1898)年から40(1907)年までの約10年間、明治憲法下の自由党・政友会系ジャーナリズムのなかで用いられていた。
そのルーツを辿ると、自由民権運動の中での「人民」の概念に行きつく。後に「講座派」平野義太郎が、日本の「ブルジョア民主主義運動史」を論じるにあたって、「我亜細谷ノ人民ハ古来専政政府ノ下ニ長ジテ其権利自由ヲ埋没シ、或ハ竟ニ権利自由ノ何者タルヲ知ルナキ」(土佐嶽洋社設立主旨書)、「人民其自立ノ気風ヲ傷ヘバ則天下ノ元気随テ萎靡ス」(立志社設立趣意書、明治7年)に遡り、「日本国民及日本人民ノ自由権利」(植木枝盛「日本国国憲案」第4編、明治14年)「天下人民ノ集会・結社・言論ノ三大自由」(植木の飯田事件檄文、明治17年)等に触れたように、1889年の大日本帝国憲法以前の明治期日本では、「人民」の概念が頻繁に用いられていた(平野『日本資本主義社会の機構』岩波書店、1934年)。
しかし、明治期「人民」の含意を明治新聞雑誌文庫や福澤諭吉らの文献にあたって精査する仕事は思想史学に委ね、ここではベストセラーとなった竹越與三郎『人民讀本』(1901年=明治34年初版=明治版、1913年=大正2年=大正版、共に慶應義塾福澤研究センター・近代日本研究資料(2)、1988年、慶應通信、所収)を見ることにより、20世紀初頭の日本で流布していた「人民」のイメージを見ておこう。
竹越與三郎(三叉)の『人民讀本』は、20世紀の初め、1901年5月5日に初版が刊行され、同年中に6版を数える。各章を「我が親愛する少年少女よ」と書き出す文体からも、広い読者を想定したことがわかる。西園寺公望自筆の題辞を付し、富井政章・梅謙次郎・尾崎萼堂(行雄)らが序文を寄せた。
「少年少女よ御身等の父母、兄弟、姉妹其他の人々相集りたる者を、家族と云ふ。此家族の多く集りたるものを、民族と云ふ(或は国民とも云ふ)。一の政府によりて統轄せらるる民族を国家と云ふ。国家は即ち家族の大なるものなり」とする通俗的家族国家論を前提に愛国心を説きながらも、1889年の大日本帝国憲法発布により「日本国は巳に立てり是より日本人民を作らざるべからず」という観点から、「今日の国体に適応したる自由国民」の育成を目的としている。
竹越によれば、「元来国家の目的は、人民の品性を発達せしめて、其幸福を保つにある」、「憲法は人民の楯籠る所の城塞」で、「天皇と人民との関係は父母の子孫に於けるが如く、天皇の心は即ち人民の心にして、人民の心は即ち天皇の心」である。すると、憲法に記された君主主権、「臣民」との関係はどうなるか? 「御身等は国家に対しては人民たり。天皇に対しては臣子たり」「天皇は日本を統治するの大権あれども、其大権を行ふは憲法の条規に循ふ」、したがって、「教育は国民をして自主の民たり、人の子弟たり、国の人民たる道を悟らしむ」という(以上、明治版)。ちょうど、竹越が言論界から政界に転身する時期である。
1913年の大正版では、さらに、「権力が帝若くは王の手中にあるを君主国と云ひ人民全体の手中にあるを民主国と云ふ。或は君主と人民と共に此の権力を共有すと云ふことを主義とする国民もあり、是また君主国なりとす。君主国にても、生殺与奪の権君主の手中にあるを専制君主政体と号し、同じく君主国にても其の権力を使用するに憲法上の規定に準拠し天子の尊と雖も此の規定を超越する能はざるものは是を立憲君主国と云ふ。我が国は即ち立憲君主国にして国を統治するは天皇の権なれども此の権力を使用するには憲法上の規定ありて之を超越する能はず」「我が天皇は臨御すれども政治せず」「国務大臣は上は天皇に対し下は人民に対して責任を負ふ」と君民共治論を説き、「日本国は日本人民にて組織すと云ふは一切の人民より組織するを云ふ。一切の人民と云ふ中には婦人の包含しあるは論ずるまでもなし」「今や日本人民は立憲国なる新しき建物を建築したり。然れども之が主人たる人民にして立憲人民たる公徳なくば折角の建築も其の効なからむ」と、女性をも含む「臣民」の「人民=公民」化を強調する(以上、大正版)。
これらの言説の中に、20世紀前半の「人民」観は、おおむね示唆されている。即ち「国家公民=人民」であり、立憲君主制のもとにあっても「自由」「権利」を行使する政治的主体と想定されている。いいかえれば、「人民=被治者・被抑圧者」という現実態ではなく、むしろ「治者=公民」という理念型への形成過程が重視される。
このような「人民」観は、昭和6(1931)年初版の高木八尺『米国政治史序説』(第3版、有斐閣、1947年)の用例に、クリアーに見てとれる。同書は、アメリカ独立革命史を英語原書を多用し翻訳しつつ描いた通史で、重要な概念には英語を併記している。興味深いことに、「人民 the people」は、1776年の独立宣言以降に頻出するが、それ以前の時期での記述では、「マサチューセッツ移住民中の自由公民freemen」といった表現が用いられ、peopleはおおむね「衆民」「人々」「国民」などと訳されている。
すなわち、コロンブス、メイフラワー誓約から説き起こし、「自主独立の思想を抱ける植民地人」により、1641年ポーツマスとニューポート連合の宣言は「民主的democratic或は衆民的政府popular government」を構想し、大衆の要求を充たす宗教の民衆化=「大いなる覚醒」によって、「根底には個人主義とデモクラシイの思想」をもつ「地方的provincialなりし植民地人が初めてAmerican」になり「やがて生るべき米国人の国民的自覚の培養」が行われた、ようやく1760年頃「アメリカ植民地人は事実上恰も一の独立せる国民peopleを為すに」至り、「裁判に関する個人の権利と保護、兵士の宿舎に関する人民の権利の保護等」は「英国臣民の憲法上の権利」であると自覚され、トマス・ペインのCommon Sense が「アメリカに於ける中産階級以下の人々の対本国の愛着の観念」に根本的動揺を与え、ついに1776年5月15日大陸会議の決議で「人民の代表者等の意見にて」新政府樹立を勧告、7月4日に「植民地の善き人民の名に於て」独立宣言が可決公布された、と。
ここでは<the people, people>の語を巧みに訳し分け、連邦国家の独立、アメリカ国民の覚醒、人民の形成を、一体の過程として描く。つまり「人民形成=自由公民化=国民化」であり、「人民」は「国民」の主体的・解放的側面を表現する。
崋山茅原廉太郎『日本人民の誕生』は、第二次世界大戦直後の書物であるが (岩波書店、1946年6月)、この系譜の到達点といえよう。かつて竹越與三郎『人民讀本』にも序を寄せた長老尾崎萼堂(行雄)が序を寄せ、1945年の敗戦を「新日本元年」ととらえ、「在来の日本には『人民』の観念殆ど無く、『国民』の意識のみ力説され過ぎ、無条件降伏の屈辱を受くるに至りたるも其の結果とも云ひ得る」とし、「民主主義新日本建設のため現下の要望を充す良書なりと信ず」と推薦している。
著者茅原崋山は、『国史大辞典』にあったように、明治期『人民』の新聞記者である。冒頭から「アメリカは人民の国である。人民を以て始まり、人民を以て終る国である」、しかるに日本は「合群生活はあるが有機的社会生活がない」と断じ、「人間が集まって団結するところに、人民があるのである。人民といへば自由を追求する人間と人間とが、その自由の意志を以て、社会を組織してゐるをいふ。故に人民は先ず国家ではなくして、社会を造るのである。換言すれば、社会とは自由の人民が互に独立の生を遂ぐるがために、組織した秩序ある平等観を基礎としたものでなければならぬ」と論じる。
そして、「アメリカで戦争といへば、陸海空軍がアメリカの社会のため、換言すればアメリカの人民のために戦ふ」のに対し、「日本での戦争は、日本人の知らぬ間に始められ、日本人の知らぬ間に終わった」「軍隊が国民のために戦つてゐるのではない。国民が軍隊のために戦つてゐる」「国家が人民の外に、人民の上に、故に社会の外、社会の上に成り立つている」人民不在の戦争であったが故に敗れた、という。
これを茅原自身の欧米放浪体験に即して敷衍し、「日本の巡査は国家の巡査であって、人民の巡査ではない。英国にあつては官吏は国民の公僕であり、人民の保護者である」「英国や米国では善政といふ言葉すら聞いたことがない。人民自ら政治を行ふのに、善政だの悪政だのあるべきはずがない。若し人民の利益に反した政治を行へば、総理大臣、大統領を改選するまでだ」等々と述べて、「米国は人民の国。日本も亦人民の国とならねばならぬ。如何にして人民の国とならむか。人民の国となるには、先ず人民が誕生せねばならぬ」と結ぶ。
この日本リベラリズムの系譜にみられる「人民」のイメージは、「臣民」「民衆」から出発しながらも「国民」「公民」となる形成的概念で、基本的には、ルソーとフランス革命における人民主権の思想、アメリカ民主主義におけるリンカーンのゲティスバーグ演説の翻訳語を下敷きにしていた。
ところが、20世紀も1930年代に、こうしたリベラリズムの「人民」概念に階級的視点をオーバーラップして解体し、「被抑圧階級・階層」と規定するマルクス主義の「人民」概念が生まれていた。そして、1945年の敗戦を機に支配的になったのは、尾崎行雄風「人民=公民=国民」よりもラディカルな「人民闘争」「人民戦線」の系譜で、これが今日の「人民」イメージの骨格をかたちづくるようになる。
いくつかの辞事典で左翼用語としての「人民」が言及されているように、日本マルクス主義の系譜では、ある時期から、英語の<people>やドイツ語の<Volk>(やはり民族・国民とも訳しうる)を「人民」と訳して、リベラリズムの「公民」とも異なる特別の意味を込めるようになった。ロシア語の「ヴ・ナロード」が「人民の中へ」と訳され、「知識人=インテリゲンチャ」が労働者や農民の貧しい生活を体験して「プロレタリアートの思想」「階級意識」を獲得しようとする運動にも連らなった。
リベラリズムの場合、「人民」は「臣民・国民・公民」等との差異と共鳴が問題であった。マルクス主義の場合は、これに加えて、「階級」「労農同盟」「統一戦線」といった独自の構造的・政治的概念との関わりがあり、「人民」の内部編成が重視される。「大衆・民衆」等と重なり合い、「人民の敵」への粛清に象徴される「階級闘争・革命」の文脈での特異な用法が問題になる。
その骨格を形成するのは、階級と階級闘争、社会主義革命の理論である。マルクス・エンゲルスやレーニンを引くまでもなく、資本主義の発展はブルジョアジーと共にプロレタリアート=労働者という被搾取階級を大量に産出し、そのプロレタリアートは、農民という「小生産者=プチ・ブルジョア」の被抑圧階級と共に、人口の多数を形成するようになる。その階級ブロック=「労農同盟」を基礎としながら、「労働者階級のヘゲモニー」を前提として、同じくプチブルである知識人の一部とも政治的に連携して「統一戦線」をつくり、資本家階級を打倒して「人民の権力」を樹立、やがてそれは「プロレタリアートの独裁」という社会主義権力へと展開していく──おおむねこうした想定が、日本でマルクス主義思想が影響力を持つにいたった1920年代以降の「革命」イメージであった。
つまり、「経済的土台・上部構造」という唯物史観の公式を使って、生産手段の所有関係に規定される「階級」概念を基底におき、「土台」レベルで支配階級たるブルジョアジーに対抗する革命主体である労働者階級と「中間階級」たる農民や知識人とのブロックを構想し、それが「上部構造」たる政治的次元では、「階級や階級分派のおおかれ少なかれ適切な表現」(エンゲルス)である政党・政派間の「統一戦線」となり、「革命を遂行する能力」をもつ「人民」を構成するのである。
ただし、こうした理論的規定を持つ「人民」が日本語で定着するのは、実は1930年代後半、コミンテルン第7回大会で「反ファシズム人民戦線」が提起されて以降である。意外に思われるむきもあろうが、日本で社会主義勢力が公然と活動を開始し、非合法共産党が活躍した1920年代から30年代初頭のいわゆる左翼文献では、「人民」はほとんど出てこない。ましてや「国民」は、もっぱら否定的意味でのみ用いられた。
戦前日本で刊行された共産主義運動文献を網羅的に集大成した山辺健太郎編『現代史資料14 社会主義運動1』(みすず書房、1964年)を例にとると、1928年までは、ほとんど「人民」は用いられない。圧倒的に多いのは、「労働者階級」「無産階級」「大衆」「民衆」などであり、「労働大衆・農民大衆・労農大衆・勤労大衆・小ブル大衆」「大衆団体・大衆的前衛党」「遅れた大衆との結合」「非圧迫民衆・日本民衆」「民衆の手に政治の全権を」といった表現が頻出する。
1922年創立以来の日本共産党の綱領的文書では、筆者が最近モスクワで発見した1922年9月の日本共産党創立綱領でも、筆者が23年作成と推定するコミンテルン作成の俗称「22年綱領草案」日本語訳でも、いわゆる「27年テーゼ」でも、「人民」はほとんど出てこない。「27年テーゼ」では「英国及び合衆国に対する闘争帝国主義的強国政策は人民大衆の肩に莫大なる到底堪ふべからざる陸海軍の負担を背負わせている」という1箇所のみで、「労働者階級」「農民」「大衆」といった概念が圧倒的である。
例外的に現れるのは、1928年2月の総選挙方針書で、「プロレタリアートの独立的革命党たる我党は、この選挙戦に労働大衆の階級意識の高揚と、プロレタリアートの結成への一手段として参加」したが、合法政党である労農党のスローガンは「すべての人民に自由を与へよ」であるという紹介であり、「『普通選挙』議会が人民の代表立法制度たるが如き幻想」といった用法である。特徴的なのは、むしろ国際連帯=「プロレタリア国際主義」の文脈で、1928年コミンテルン世界綱領の訳語として「広範なる人民大衆の指導者となるところのプロレタリアート」と出てきたり、「わがプロレタリア前衛は先ず第一に労働者の間の愛国主義、植民地人民に対する民族的増悪等を打破すること」(28年「コミンテルン十月テーゼ」訳)といった用例が、わずかながら現れる。
「国民」にいたっては、「資本家地主の支配閥は、帝国主義ブルジョアジーの指導の下に国内被搾取、被圧迫人民を鉄血によって圧迫する『挙国一致』へ向って急いでゐる」「帝国主義戦争の血の海に『国民』を引きずり込む」(29年「第56議会と日本共産党」)とカッコ付きの否定的文脈でのみ用いられる。帝国議会は「大衆の眼を誤魔化し、人民を収奪する方法を議し、その収奪したものを自分等の目的にふり当てる談合所」「国家権力は人民の生活に直接容喙し、干渉する。就中租税の負担を負わさるるものは被搾取階級──勤労大衆である」(29年「ブルジョア議会と労働者農民政府」)といった、35年以降の「人民」に近い用例は、きわめて少ない。
ようやくいわゆる「32年テーゼ」の段階で、「日本帝国主義によって火蓋を切られた強盗戦争は、人民大衆を一の新たなる歴史的危機に投げ入れ」と冒頭で用いられ、「人民大衆の排外熱の克服」「人民大衆の不満を天皇制に対する闘争へ」「労働者農民のための人民革命といふ中心的煽動スローガンの下に広汎なる大衆を闘争に動員せよ!」などと、断片的だが数カ所に出てくるようになる。ここでの「煽動スローガンとしての人民革命」とは、1930年ドイツ共産党人民綱領Volksprogramの受け売りで、「人民」は煽動・動員の対象であり、全体としては「階級」と「大衆」が圧倒的である。
事態が変化するのは、1935年以降、コミンテルンが「反ファシズム統一戦線・人民戦線」を掲げるようになってからである。それも、この時期には国内共産党は天皇制権力の弾圧で壊滅しているから、もっぱら海外から送られてくる新聞や非合法パンフレットでの訳語を通してである。すでに34年にも「中国に於ける唯一の人民権力たる中国ソヴェート」(「ファシズム・戦争の危険及び共産党の任務」訳)、「人民の敵、天皇を倒せ」(「おもしろくてためになる戦争夜話」)といった用法がみられるが、1936年2月の岡野(=野坂参三)・田中(=山本懸蔵)「日本の共産主義者への手紙」の段階で、35年夏のコミンテルン第7回大会決定「反ファッショ人民戦線」を紹介しながら「人民」が頻出するようになり、同時に「国民」も肯定的に用いられる。ただし「人民」は、「指導」主体たる「前衛党」の壊滅、「人民戦線」の相手=工作対象たる社会大衆党・民政党によびかける文脈で頻出するが、用語としてはなお「大衆・民衆」の方が支配的である。
曰く、「人民の第一の仇敵は天皇制」「人民をマヒさせる宣伝、教育、宗教」(35年「勤労民解放の道」)「わが人民の究極の解放は帝国主義者に抑圧されている諸民族の解放なしには不可能」(第7回大会田中=山本懸蔵演説訳)、「日本勤労者は労苦多き中国国民を愛し尊敬する」「平和と米と自由を要求する大衆的国民運動の組織に自己の全力を尽す」(同西川=小林陽之助演説)、「日本民衆の十人中九人迄が、民主主義と平和の道をえらぶ」「戦争とファシズムに抗して国民の大多数を奮起せしめる闘争」(36年、岡野=野坂参三「総選挙と国民大衆の闘争」訳)、「ファシスト軍部は、わが国をファシスト的野蛮、経済的軍事的惨禍にみちびき、又、わが日本国民を国際反革命の肉弾たらしめんとしてゐる」「わが国民をファシズムと戦争の戦慄から救ふ道は、労働階級の統一行動と反ファッショ人民戦線を基礎とする偉大な国民運動のみ」「全権力が人民の手にある民主主義日本の樹立」「労働組合、社会大衆党、其他の勤労者団体の合法的存在と、それらの統一とを防衛しなければならぬ」(36年「日本の共産主義者への手紙」訳)といった具合である。
以後、海外からの非合法文書では、「真に人民の名にふさはしい戦線を形成」「全国民の9割を動員」(アメリカからの通信文書)、「民主的人民政府の樹立、平和と自由の日本樹立、日支両国民の団結」(40年「日本の革命的プロレタリアートの任務」中国から)といったかたちで、定訳となる。ただし、こうした海外からの非合法メッセージの受容主体たるべき「前衛」=日本共産党は組織的に壊滅しているから、フランスやスペインの「人民戦線」が紹介されるのは、『改造』『中央公論』等の論壇や京都の『世界文化』『土曜日』など知識人たちの言論活動を通してであった。国家権力の側は、日本共産党に距離をおく労農派マルクス主義者やリベラリストまでをも「人民戦線事件」などで弾圧し、「人民」的言説を窒息させる。
この1935年以降に頻出する「人民」は、必ずしも概念的に規定されない政治スローガンである。だが、論理的には、やはり「革命勢力たりうる存在」と想定されていただろう。その論理とは、戸坂潤が「科学の大衆性」(『イデオロギーの論理学』1930年、所収)において、「多衆」と「大衆」の関係を論じたようなものであった。
そこで戸坂は、「多衆」に固有な性格を「量に基く圧倒性と質に基く平均性」とし、「強力でありながら低質」で「烏合の衆」である、この低質性を止揚するのが「統制と計画」をもった「多衆の組織化」であり、組織化された多衆は「大衆」として「階級化」する、「大衆はただ自らをたえず組織することによってのみ大衆である」と論じる。
戸坂は、この「多衆の大衆化」の過程で、「大衆が現段階に於て持つ処の、歴史的・政治的・使命」に関連して「民衆」という「常に被支配者を意味する政治的概念」にもふれ、その媒介に「未組織大衆」を不断に組織する「前衛」を措定する。「前衛とは単なる前衛ではなくして、正にただ大衆を組織する過程の上での前衛であり、そして大衆を組織するものは前衛において外にはない。それ故前衛は自らを大衆から区別するに拘わらず、両者は又恰も大衆の名に於て結び付いている。この──実践的な──弁証法に於て、前衛は具体的に──実践的に──大衆性を有つのである」と。
つまり戸坂潤は、1930年当時の左翼言説世界で支配的だった「大衆」概念を、「多衆→民衆→大衆」の論理で説き、「多衆→民衆」を「組織」が、「民衆→大衆」を「前衛」が媒介するかたちで論じた。もしもこれが1930年代後半であったならば、ここでの「大衆」は「人民」と置き換えられたであろう。「民衆の人民化」「人民の階級化」のように。
また、「32年テーゼ」と同時に刊行され、戦後社会科学に大きな影響を与える岩波書店の合法出版物『日本資本主義発達史講座』(1932ー33年、全7巻)においても、「人民」は、未だ「変革主体」とはなっていなかった。いわゆる「講座派」のバイブルとされた山田盛太郎『日本資本主義分析』や平野義太郎『日本資本主義社会の機構』は、もっぱら「階級」分析にたずさわる。
平野が「ブルジョア民主主義運動史」を論じるさいに、プロシア「外見的立憲主義」の「議会は、一方では、追加された官府として政府の一構成部分をなし全人民に対立するとともに、他方では、その外見的自同性において、ブルジョア社会の現実を、その形式のうちに解消する」と翻訳調で述べたり、「自由民権運動の階級的性質」の分析にあたって大井憲太郎・植木枝盛等の引用文中に「人民」は出てくるが、その基調は、むしろ明治期「人民」概念を階級・階層的に解析し、「絶対主義的天皇制」形成を根拠づける文脈であった。講座派マルクス主義にとって、リベラリズムの称揚する「人民」は所与のものではなく、あくまでも階級分析の対象であった。
したがって、1935年以降にコミンテルンの「人民戦線」が紹介され「国民」が肯定的に用いられても、「32年テーゼ=講座派」的発想では、「いかなる階級・階層が人民を構成し革命勢力となるか」が焦点となるのである。
戦後の日本共産党は、「獄中18年」を体験した徳田球一・志賀義雄の「人民に訴ふ」(1945年10月)から再出発する。第4回党大会の「人民共和政府」スローガンから「人民共和国憲法草案」がつくられ、「人民大衆」「人民闘争」が頻出し、これが「反米愛国・民族解放」と結合する1950年代初頭まで、左翼的・階級的「人民」概念の高揚期を迎える。
そこでの用法は、「革命」的である。「我々の目標は天皇制を打倒して、人民の総意に基く人民共和政府の樹立にある」(徳田・志賀「人民に訴ふ」)、「天皇制にかえるに人民自身が主権を握る民主制を樹立し、一院制議会を主幹とする人民共和政府を樹立」「人民大多数の賛成と支持とを得、かつ人民自身の努力によって」「暴力を用ひず、独裁を排し、日本における社会の発展に適応する民主主義的人民共和政府によって、平和的教育的手段を以て」社会主義へ(46年、第5回党大会宣言)といった表現が、この時期の共産党文献には頻出する。東欧におけるソ連占領地域での「人民民主主義」政府の樹立、東アジアにおける朝鮮民主主義人民共和国、中華人民共和国の成立が、「日本人民」の「人民連帯」の気分を醸成していた。
その過程で、「人民」は「民族」「祖国」の概念と合体し、「国民」と互換性をもつようになる。それは、1950年代前半朝鮮戦争期に顕著で、「民族の独立のために全人民諸君に訴う」と題する決議に典型的な、「愛国主義」をともなうものであった。曰く、「労働者、農民、知識人、中小業者、民族資本家の諸君! 全国の愛国者諸君!」「祖国と民族と人民を愛するならば、目前の事態に対して不満と憤激を感じ、将来に対して深刻な不安をいだかないものがあろうか」「日本民族の光栄ある共通の目的のために、一切の行きがかりを捨て、民族の独立をおかす帝国主義勢力と、これに結合する国内の売国勢力に対して、ともにたたかわれんことを呼びかける」「わが民族の大目的は、わが人民が奮闘しさえすれば、必ず成就することができる」(1950年3月22日、日本共産党中央委員会)という具合に。
丸山真男が「悔恨共同体」とよんだ戦後日本の知識人世界では、日本共産党は高い威信と知的影響力をもっていた。1945年の敗戦と戦後改革は、天皇制を批判し日本資本主義の後進性を語ってきた「32年テーゼ=講座派」風マルクス主義の「正しさ」を裏付けたものと受けとめられ、羽仁五郎らは「人民の歴史学」を唱えた。それが1950年代初頭、「国民的歴史学」運動へと転化した。石母田正、藤間生大らが主導したもので、「歴史における民族の問題」が語られ、ヤマトタケルに遡って「民族の英雄」が発掘された。朝鮮戦争勃発で、日本共産党はいわゆる「50年問題」による分裂期に入り、その「愛国的」実践は、「中核自衛隊」「山村工作隊」から「トラック部隊」「人民艦隊」にまで及び、極左冒険主義による「人民」からの孤立と弾圧による多数の犠牲者をもたらした。政治による学問への介入や学生運動の引きまわしも、この時期には顕著であった。
1961年の第8回党大会で日本共産党が採択した綱領は、「人民」概念で貫かれていた。「労働者、農民、漁民、勤労市民、知識人、婦人、青年、学生、中小企業家をふくむすべての人民の要求と闘争」を基礎に「アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配に反対する人民の強力で広大な統一戦線、すなわち民族民主統一戦線」を結成し、「ソ連を先頭とする社会主義陣営、全世界の共産主義者、すべての人民大衆」と連帯しつつ、「人民の民主主義革命」から「プロレタリアート独裁の確立」へと展開しようとするものであった。したがって、「日本人民」は全体を貫く中核的概念で、「国民」は用いられていなかった。それが、その後の第17回党大会での改訂(1985年)以降「国民」概念が浸透し、世紀末の現綱領では「人民」と「国民」が混在している。それは、「中小企業家」が「自営商工業者」に、「婦人」が「女性」に置き換えられる過程と併行し、より具体的な政策レベルでは、おおむね1970年頃を境に、「国民」が「人民」を凌駕し押しのけていった。
1968年の政府による「明治百年祭」「紀元節復活」に対抗しようとした歴史学の「人民闘争史」研究は、かつての「国民的歴史学」運動の位相を変えた再版であり、日本における「人民」概念の最後の徒花であった。歴史学研究会、歴史科学協議会、日本史研究会などが一斉に「人民闘争」を大会テーマに掲げたが、その内実は、一方での「人民闘争は階級闘争の現象形態」とする本質還元主義的・階級還元主義的把握と、他方での「生産的実践も人民闘争の一つ」「『闘う人民』と『闘わない人民』『闘えない人民』」とする概念の拡散であった。それに対する歴史研究者の違和感と反発が、「民衆史・地域史・女性史・社会史」の隆盛に道をひらき、やがて「日本・日本国」や「国民国家」をも相対化する流れをうみだした。それは、日本の歴史学の本格的自立であった。
現実政治の中では、「人民」概念の隆盛時に沖縄人民党を有力な担い手とする沖縄祖国復帰運動が展開されたが、72年施政権返還による沖縄人民党の消滅=日本共産党への合流(73年)を最後として、政治用語としての「人民」は衰退の一途をたどり、「国民」がスローガンの中心となる。
その理由のひとつは、左翼的「人民」概念に孕まれていた国際主義の衰退であった。日本共産党は、60年代の中ソ対立、中国文化大革命、チェコスロヴァキア「プラハの春」など国際共産主義運動の分裂を経て、「自主独立」の立場を明確にした。70年代にはなお「ベトナム人民との連帯」は残ってはいたが、「人民」の国際主義的理解は次第に衰退し、「国民」主義的理解が優勢になった。今日インターネットのサーチエンジンで「人民」を検索すると、圧倒的多数は「中華人民共和国」「朝鮮民主主義人民共和国」関係のサイトであり、日本語の「人民」は、「アジア型現存社会主義」のイメージとオーバーラップして、「自由や解放という意味」を喪失した。
国内においては、日本共産党が「革新統一戦線」をめざす相手は主要には日本社会党に設定され、社共両党や労働組合を軸とした「革新自治体」の経験を経ることによって、「地域住民」がクローズアップされた。国政レベルでも、共産党内で一時「人民的議会主義」(不破哲三)が唱えられ、選挙と議会活動重視の「多数者革命」路線が採用されたが、議会を中心とした活動の中では、他党派と政治的言語を共有する必要に迫られて「人民」は後景に退いていった。「人民」は共産党綱領中の党内学習用ジャルゴンとしては残されたが、党外向け選挙・議会用語としては「住民大多数」「国民」「日本人」に取って代わられたのである。
先に見た1967年から92年にいたる『社会科学辞典』の「人民」についての記述の変遷は、共産党のこうした「国民政党」化過程の理論的表現であった。
「労働者階級の唯一前衛党」を長く自称してきた共産党にとって、もともと支持獲得=工作対象であったのは、労働者階級の現実態を表象した「大衆・民衆」であった。それが「統一戦線」の媒介を経ることにより「人民」が登場し、「民族」と合体して射程は中小資本家・愛国勢力にまで広げられた。初期の「人民」に孕まれていた国際主義を「自主独立」で希釈し、「人民的議会主義」のもとでの勢力拡大が富士山や日の丸のナショナルなシンボルと接合することによって、「国民」との種差性を喪失していった。「人民と共に」を信条とした徳田球一や、「人民民主主義」のもとで育った61年綱領主導者宮本顕治の党内リーダーシップ喪失も、「人民」概念の消滅の方向に作用した。
そのような歩みの中で、特殊に20世紀日本的な、左翼的「国民」概念が形成された。その特徴は、「人民」の「国民」化にあたって、その内部構成が「市民」ではなく「住民」として展開されたことである。
日本共産党61年綱領には「勤労市民」という用語があったが、それは「手工業者、小商人、自由業者など」を意味するにすぎなかった。共産党が「革新統一戦線」の主体を「人民」から「国民」へと転換させつつある頃、世界史的には、女性運動・環境運動やNGO・NPOのような「新しい社会運動」が勃興してきた。日本ではそれが「市民運動」とよばれ、「ベトナムに平和を! 市民連合」(ベ平連)や「生活クラブ生協」のように、「革新政党」とは一線を画した個人単位でボランタリーなかたちをとった。
地方政治レベルでは、福祉・教育・環境問題での「住民運動」が盛んであった。共産党にとって、地方政治での社会党・労働組合等との「統一戦線」たる「革新自治体」は、部分的に「市民運動」と結びつくことはあっても、基本的には「住民運動」を基盤としたものであった。特に「市民運動」の側に根強い共産党不信と距離感覚に対しては「反共市民主義」のレッテルをはり、理論的にも「市民」「市民運動」概念に懐疑を示した。
したがって、「人民」から「国民」にシンボルを転換するにあたって、「人民」をいったん諸個人=「市民」に解体して「市民的公共性」を構成する理論的手続きを経ぬままに、もともと「人民」内部の「階級・階層」として措定されていた「労働者、農民、漁民、勤労市民、知識人、婦人、青年、学生、中小企業家など」を並列して「住民の集合体=大多数の有権者」に一括し、それを平板に「国民」として表象することになった。ルソー=杉原泰雄風にいえば、「市民の総体」としての「人民」概念をもつことなく、ずるずるべったりに「国民」へと移行したのである。
そこには、「市民運動」に加わる共産主義の異論者を「反党分子」と厳しく排撃し排除してきた歴史が投影され、「組織の上に個人をおく」ことを戒めるコミンテルン以来の共産党の組織原則=「民主主義的中央集権制(民主集中制)」の理論的作用があった。
学問世界への政治的介入も、「短い20世紀」(E・ホブスボーム)の終焉まで続いた。丸山真男の戦争責任論、田口富久治の組織論、小田実の市民運動論など知的に誠実な共産党への問題提起に対する、共産党側の過剰反応・「反論」キャンペーンはよく知られているが、それは、現実政治の上でなしくずしの「科学的概念」の改変と放棄を進めながら、理論的には「科学的真理の審問官」としてふるまい続けた、政治的退廃の産物であった。戦後の一時期まで持続した共産党の知的影響力は、「マルクス・レーニン主義」を「科学的社会主義」に、「プロレタリアートの独裁」を「労働者階級の権力」と言い換えとりつくろっている間に、学問世界では完全に失墜していた。
かくして、20世紀日本における「人民」の概念は、それを構成する「市民」との緊張・媒介を欠き、「市民的公共性」への回路を設計できないままで、「国民国家のゆらぎ」の時代に「国民」へと置き換えられたのであった。
もっとも日本における「人民」概念の喪失は、20世紀の「現存した社会主義・共産主義」の生成・展開・消滅の歴史の一齣であり、エピソードであった。
ルソー、リンカーン系譜のリベラルないしラディカルな「人民=people」は、リベラリズム内部のコミュニタリアンズに引き継がれ、なお一定の生命力を保持しているが、マルクス・レーニン主義的「統一戦線・人民戦線」系譜の「人民権力」「人民民主主義」は、その発祥の地たるロシアやヨーロッパで虚構と欺瞞が暴かれ、実践的に崩壊した。かつて「人民戦線の提唱者」としてもてはやされた、コミンテルン第7回大会指導者ゲオルギ・ディミトロフやフランス共産党モーリス・トレーズ、イタリア共産党パルミーロ・トリアッティらの、世紀末における「スターリン主義者亜流」としての歴史的評価の定着が、その政治的徴表である。
より理論的次元でも、経済主義的・階級還元主義的「人民」概念の凋落は、1970年代から始まっていた。かつて丸山真男は、日本のマルクス主義にひそむ「基底体制還元主義」の思考に警鐘を鳴らしたが、田口富久治や筆者らは、戦後日本に支配的であった正統的マルクス主義理解に疑義を唱え、ルイ・アルチュセールに発するマルクス主義的構造主義やニコス・プーランザス、ボブ・ジェソップらのネオ・マルクス主義国家論の紹介を通して、「人民」概念の再構成に通じる視座を探求してきた。
たとえば田口富久治が精力的に紹介したプーランザスにおいては、経済的審級と政治的・イデオロギー的審級の「相対的自律性」から、構造レベルの「ル・ポリティーク」と実践レベルの「ラ・ポリティーク」が区別され、「階級」概念も、構造レベルでの「階級的位置」と実践レベルでの「階級的立場」の種差性が説かれた。ボブ・ジェソップの場合は、経済還元主義・階級還元主義批判をさらに一歩進め、「国家は支配階級の道具である」と単純化するレーニン主義的・道具主義的国家論を批判する過程で、政治的な「階級関係」と国家論レベルの「官吏・人民関係officialdom-people=官民関係」 の区別を説いた。
筆者がポスト・マルクス主義として紹介してきたエルネスト・ラクロウになると、「経済的土台」と「政治的上部構造」のいかなる「必然的照応関係」も否定され、「階級」とは異なる民族・性差・宗教等々の紛争要因の政治的意味がとりあげられ、「人民」を含むあらゆる政治的言説が、政治に固有なレベルでの「審問」と「接合」のなかでの「言説的ヘゲモニー闘争」の一環とされた。この系譜から、今日隆盛をきわめるスチェアート・ホールらの「カルチュラル・スタディーズ」が生まれたことは、周知の通りである。
東欧「人民民主主義」諸国家が1989年に劇的に崩壊するにあたって、筆者はこれを「市民革命」「市民社会の再生」「世界市民による永続民主主義革命の一環」と命名し、さまざまに批判をも受けてきた(『東欧革命と社会主義』花伝社、1990年)。それは、東欧革命のなかで共産党一党独裁権力を打倒した勢力が「市民フォーラム」等と名乗っていたことにもよるが、理論的含意としては、伝統的マルクス主義の「人民」概念に孕まれた経済主義的・階級還元主義的性格を脱構築し、政治的諸個人である「市民」にまで解体したうえで、その「フォーラム・ネットワーク型」社会原理を再構築すべきだという意図が孕まれていた。ちょうどその頃、「ベルリンの壁」崩壊をまのあたりにしたユルゲン・ハーバーマスは、名著『公共性の構造転換』を改訂するにあたって、旧版のドイツ語のburgerliche Gesellschaftに代えて、敢えてZivilgesellschaftを採用するにいたった。その後の「市民社会」論の隆盛はよく知られているが、「人民戦線」「人民民主主義」概念の欺瞞性を暴く過程で、ネオ・マルクス主義的な「市民」概念が生起していたのである。
そして、これらの理論的営為に大きな影響を与えた20世紀最高のマルクス主義思想家──世紀末の今日では、そう評していいだろう──アントニオ・グラムシと、グラムシをも歴史的・批判的に解読するカルチュラル・スタディーズの流れからは、オリエンタリズム批判やポスト・コロニアリズムの視点をも組み込んだ、「人民」とも「市民」とも異なる概念が生起した。それは、直接にはグラムシ『獄中ノート』中の「奴隷の言葉」にヒントをえたG・C・スピヴァクらの「サバルタン=下層民」の概念で、道具主義的権力奪取の「社会主義革命」や「プロレタリアート独裁」観念と結びついた「多数派形成=人民」のイメージと決別し、「歴史を語らぬ民、語りえぬ人々」の周辺性・マイノリティの視点から、社会理論全体を再構成する志向を持つ。
それは、「人民から国民へ」とは正反対の、「近代国民国家」そのものを脱構築し、「主体」概念そのものを脱コード化する方向であり、アルベルト・メルッチらの「ディアスポラ」や「ノマド」とも共鳴して、「人民」概念の近代主義的構成そのものと衝突する。
しかしまた、左翼的言説世界における「人民」概念の興亡をたどってきた本稿の立場からすれば、「サバルタン」や「ガンツ・ウンテン(最底辺外国人労働者)」を基礎にした理論構築は、フランス革命後にカール・マルクスが「市民社会」を解剖して「プロレタリアート」を発見する思想的営為に相当するものであり、20世紀の「戦争と革命の時代」をくぐったうえでの、民衆的視点による批判理論の再構築とみなしうる。
「現存社会主義」崩壊後の世界が、社会主義思想の生成期に込められたユートピアの再生を必要にしているのと同様に、左翼的ジャルゴンとしての「人民」の喪失は、かつて「人民」に込められた民主主義への理想を不要にしたわけではない。21世紀を拓くにあたって、現実政治と同様に、政治学や社会科学の世界でも、第3ミレニアムを見通した理論構築が要請されているのである。
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ゲリー・ウィルズ『リンカーンの三分間──ゲティスバーグ演説の謎』(共同通信社、1995)
James M. Mcpherson, Abraham Lincolon and the Second American Revolution, Oxford UP,1990.
平野義太郎『日本資本主義社会の機構』(岩波書店、1934)
竹越與三郎『人民読本』(慶應義塾福澤研究センター、近代日本研究資料2、1988)
高木八尺『米国政治史序説』(有斐閣、1947)
崋山茅原廉太郎述『日本人民の誕生』(岩波書店、1946)
加藤哲郎「1922年9月の日本共産党綱領(上・下)」(『大原社会問題研究所雑誌』第481/482号、1998/12・99/1)
加藤哲郎「第一次共産党のモスクワ報告書(上・下)」(『大原社会問題研究所雑誌』第489/492号、1999/8・11)
山辺健太郎編『現代史資料 14 社会主義運動 1』(みすず書房、1964)
戸坂潤『イデオロギーの論理学』1930(『戸坂潤全集』第2巻、勁草書房、1966)
政治問題研究会編『日本共産党綱領問題文献集』全3巻(青木文庫、1957)
『日本共産党綱領集』(日本共産党出版部、1966)
『日本共産党の七十年』(日本共産党、1994)
『沖縄人民党の歴史 1947-1973』(刊行委員会、1985)
羽仁五郎『日本人民の歴史』(岩波書店、1950)
犬丸義一「歴史における人民・人民闘争の役割について」『歴史評論』1967/6
遠山茂樹『戦後の歴史学と歴史意識』(岩波書店、1968)
『歴史学研究』『歴史評論』1967-73年各号
『歴史評論』1975/4「特集 現代歴史学の課題」
深谷克巳「歴史学と階級闘争史研究」『階級闘争の歴史と理論 1』(青木書店、1981)
歴史学研究会『歴研半世紀の歩み』(青木書店、1982)
『沖縄人民党の歴史 1947-1973』(刊行委員会、1985)
丸山真男『増補版 現代政治の思想と行動』(未来社、1964)
田口富久治『現代政治学の諸潮流』(未来社、1973)
田口富久治『マルクス主義国家論の新展開』(青木書店、1979)
田口富久治『現代資本主義国家』(御茶の水書房、1982年)
加藤哲郎『コミンテルンの世界像』(青木書店、1991)
加藤哲郎『国家論のルネサンス』(青木書店、1986)
加藤哲郎『東欧革命と社会主義』(花伝社、1990)
加藤哲郎「永続民主主義革命の理論・その後――マルクス主義・市民社会・民主主義」(『月刊フォーラム』1997/8)
『現代思想』1999/7「特集 スピヴァク、サバルタンとは誰か」
<付記> 本稿は、もともと2000年6月24-25日、京都で開催された第23回公共哲学共同研究会「国家との関係における人間の位相と公共性」における筆者の報告「『人民』の概念をめぐって──国家、人民、公共性」をもとにしたものである。当日の報告のテープ起こし原稿及び討論記録は同会から別途刊行されるが、本稿自体は、当日の報告レジメに従いながらも、報告では省略した史資料をも加えて新たに書き下ろしたものであり、『政策科学』誌第8巻3号に田口富久治教授の退職を記念して寄稿するものである。
なお、本稿執筆にあたって、リンカーンのゲティスバーグ演説等について、一橋大学教授であった辻内鏡人氏に貴重なご助言を得た。アメリカ史研究の気鋭の研究者であった辻内氏は、本稿の校正過程の2000年12月4日、不慮の理不尽な交通事故により、帰らぬ人となった。ここに感謝の意を記し、心からご冥福をお祈りしたい。