『大原社会問題研究所雑誌』第481/482号(1998年12月・99年1月号)掲載
ところが、私のモスクワでの調査、ソ連崩壊で可能になったコミンテルン・アルヒーフ閲覧で出てきたのは、1922年(7月ではなく)9月に(堺ではなく)荒畑寒村を「総務幹事(書記長)」として作られた共産党の、これまで全く知られていない(草案ではない)「創立綱領」で、そこには「君主制廃止」など入っていませんでした。それどころか、当時の日本共産党のモスクワへの報告書類では、いわゆる「27年テーゼ」まで「君主制」が問題になった形跡はなく、問題にされたのは、もっぱら「政治革命とプロレタリア革命」の関係、普通選挙と合法無産政党結成問題だけでした。
どうやら「日本共産党創立=1922年7月15日」そのものが、1930年代初頭に獄中の徳田球一・市川正一らによって作られた「神話」にほかならず、「君主制廃止の(俗にいう22年)綱領草案」も、モスクワで23年秋に作成され24年に独英仏語で発表されたが、実際の日本の運動にはほとんど影響を与えなかったようです。つまり、日本共産党は、もともと堺利彦・山川均・荒畑寒村という戦後の日本社会党左派につながる系譜により「1922年9月綱領」をベースに創立されたものなのに、今日の日本共産党につながる26年以降の指導部は、レーニン死後のソ連共産党のスターリン化とコミンテルンのボリシェヴィキ化のなかで、歴史を偽造し「神話」や「伝説」をつくってきたようです。
長大な学術論文ですから、興味ある方は、ダウンロードしてじっくりお読みください。証拠写真も、いくつか入れておきます。そうすると、最近の日本共産党の天皇や日の丸・君が代についての政策はその先祖帰りか? などと連想される方もいるでしょうが、まあそこまで性急に短絡させないで、私のいう「短い20世紀の脱神話化」を、じっくり味わってみてください。これが、問題の日本共産党創立綱領の本邦初公開です。学術論文としては、これまでの研究史を踏まえて「君主制=天皇制問題の不在」を論じましたが、日本の政党史のなかでみると、朝鮮・中国民衆との連帯がはっきりと出ていて、なかなか面白い内容ですよ。じっくり味わってください。
前号の「河上肇ファイル」に続いて、当初の予定では、そこでも用いた1931年の日本共産党報告書「Report JAPAN (March 1931)」(RTsKhIDNI,f.495/op.127/d.299)を資料紹介する予定であったが、1998年6月のロシア現代史資料保存研究センター再訪のさい、この報告書の一部が別のファイル(f.495/op.127/d.288)に分割されて入っており、風間丈吉・松村=スパイM(本名飯塚盈延)指導下の「非常時共産党」についての重要資料で、より慎重な解読が必要であることがわかったため、今回は時代を遡り、同じく6月に閲覧した日本共産党関係初期のファイルに入っていた、1922年9月の日本共産党創立大会綱領「PROGRAM OF THE COMMUNIST PARTY OF JAPAN (Adopted by the National Convention of the Communist Perty of Japan, Sept. 1922)」(RTsKhIDNI,f.495/op.127/d.9/104-107)を、論説のかたちで紹介しよう。
なお、以下の解読にあたっては、資料閲覧・入手とロシア語表記・欄外書き込みなどについて藤井一行富山大学名誉教授、内田健二大東文化大学教授、内容解読について石堂清倫氏、関連資料について法政大学大原社会問題研究所五十嵐仁教授、一橋大学渡辺治教授らにご教示 ・ご協力を受けたが、内容上の全責任は、もとより筆者にある。記して謝意を表する。
日本共産党の「22年綱領」というと、通常、1922年6月のコミンテルン第2回拡大執行委員会で設けられた執行委員会綱領問題小委員会で提議され、同年11ー12月のコミンテルン第4回大会時にモスクワで討議・起草され、同大会日本共産党代表団(高瀬清、川内唯彦)が持ち帰って、23年3月石神井での日本共産党臨時大会で審議されたとされる「日本共産党綱領草案」(村田陽一編訳『資料集 コミンテルンと日本』第1巻、大月書店、1986年、141-144頁)を指す場合が多いが、ここに紹介するのは、それとは全く別のものである。
それは、英文タイプ文書であるが、草案ではない「日本共産党綱領」で、「1922年9月、日本共産党全国大会で採択」と明記され、「General Secretary Aoki Kumekichi, International Secretary Sakatani Goro」の直筆手書き署名がある。さらに中央に星印、そのまわりに「日本共産党幹部之印、The Executive Committee of the Communist Party of Japan」と彫られた大きな朱色の丸印まで押されてモスクワに届けられ、旧ソ連邦共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所コミンテルン・アルヒーフに保存されていたことからして、これまで知られていなかった日本共産党創設期の重要文書である。
ちなみに、この文書と同じファイルの前の方(f.495/op.127/d.9/11-18)に綴じ込まれた「CONSTITUTION OF THE COMMUNIST PARTY OF JAPAN (The Members of the Provisional Central Executive Committee of the Communist Party of Japan, April 24th 1921)」は、故村田陽一がロシア語雑誌『極東諸民族』第4号(1921年10月)から訳出した「日本共産党規約(日本共産党暫定執行委員会、1921年4月ごろ)」(村田編訳同上書、486ー489頁)の英文オリジナル(ただし村田氏の推測した執行委員個々人の署名はなかった)と思われ、ドイツ語・フランス語・ロシア語訳も一緒に綴じてあったが、この1922年9月「日本共産党綱領」の方は、このファイル中では英文のみで、英語で複写文が作られていた。まずはこれを、英文オリジナルから訳出してみよう。なお、この綱領を後に記憶にもとづいて再現したと思われる日本文「綱領」が、1926年日本共産党再建期のファイルに入っていたが(f.495/op.127/d.145/202-207)、脱落が多い不完全なものなので、ここでは英文から現代日本語に直接翻訳する。
この1922年9月日本共産党綱領は、英語で書かれたもので、日本語文はなかったが、警察文書である立山隆章『日本共産党検挙秘史』(武侠社、1929年)に紹介された「英国共産党暫定規約」(日本共産党創立大会規約の市川大会改訂版、100頁以下)などとは違って、コミンテルン文書館に保管されていたものである。日本語文やドイツ語・ロシア語訳が別なファイルに保管されている可能性は否定できないが、正規の党印が押され、二人の幹部の直筆署名がある。官憲の手に成る偽造文書とは考えられない。
今日の日本共産党の公式党史では、日本共産党は、1922年7月15日に東京渋谷で創立大会を開いたとされ、そこでは「党規約を採択し、コミンテルンへの加盟を決議、中央執行委員長に堺利彦を選出」したとされている。1921年4月堺利彦・山川均・近藤栄蔵らの日本共産党準備委員会「日本共産党宣言」「日本共産党規約」の存在は認めているが、綱領については、「コミンテルンは1922年6月の第二回拡大執行委員会で綱領作成の作業にとりかかり、その一環として日本共産党綱領作成のための委員会をつくり、片山潜の参加のもとに、日本共産党綱領草案の起草をすすめた。党は、その年の11月にひらかれたコミンテルン第四回大会に、高瀬清、川内唯彦を派遣し、日本共産党の成立を報告した。コミンテルン大会は、これを承認し、党は、コミンテルン日本支部・日本共産党として正式にみとめられた」としたうえで、1923年2月4日市川での第二回大会で「コミンテルン第四回大会の報告、規約の改正、役員の改選など」を行い、同年3月15日石神井での臨時党大会で「綱領草案を討議」し、「君主制の廃止」など「22項目の当面の要求は出席者によって確認されたが、綱領全体についての決定は大会後に持ちこされた。そして、綱領委員会でひきつづき審議することになったが、同年6月の第一次検挙のため、綱領草案は審議未了になった」という(『日本共産党の七十年』1994年)。
いうまでもなく、今日の日本共産党が初めての綱領的文書として公認する「綱領草案」とは、筆者の訳出した「日本共産党綱領」ではなく、1924年のレーニンの死の頃、コミンテルン『共産主義インタナショナル綱領問題資料集』に初めて発表された「日本共産党綱領草案」を指す(加藤哲郎『コミンテルンの世界像』青木書店、1991年、91頁)。こうした叙述の典拠となったと思われる村田陽一編訳『資料集 コミンテルンと日本』第1巻は、これを「日本共産党綱領草案起草の作業は第四回大会までにはまだ完了していなかったが、1923年6月の第三回拡大執行委員会のときにはすでに終了していた。……正式には採択されなかったが、高瀬と川内によって日本にもちかえられて、1922年3月15日の石神井臨時党大会の審議にかけられたが、綱領の全文としては審議未了になった」と注記し(521頁)、「1922年12月ごろ、コミンテルン執行委員会綱領問題委員会日本委員会」が作成したものとして収録している(141頁以下)。いわゆる「22年綱領草案」である。
しかし、これらに関連しては、学問的には深刻な論争がある。主題的に論じた犬丸義一『第一次共産党史の研究』(青木書店、1993年)はおおむね村田陽一説=公式党史に近いが、松尾尊兌「創立期日本共産党史のための覚書」(『京都大学文学部紀要』19号、1979年)、岩村登志夫『コミンテルンと日本共産党の創立』(三一書房、1977年)、同「お天気と歴史──日本共産党創立神話」『思想』715号(1984年1月)、川端正久『コミンテルンと日本』(法律文化社、1982年)などは、日本共産党創立の指標・時期、創立大会の有無・年月日、綱領・規約など基本資料の有無・作成時期・内容・位置づけなどについて、それぞれ史資料に依拠しつつ、独自の説を展開してきた。今日の学界レベルでは、岩村説に触発された江口圭一『体系日本の歴史』第14巻(小学館、1989年、104-106頁)や松尾尊兌『普通選挙制度成立史の研究』(岩波書店、1989年、229、251-254、465頁)の叙述によって、むしろ1921年春日本共産党創立説が有力になってきたともいえる。
それというのも、1922年7月創立説自体、1930ー32年の日本共産党公判闘争のなかで初めて出てきたもので、コミンテルン文献では22年7月以前から「日本共産党」の表現が幾度も用いられていたし、7月15日創立大会開催を根拠づけるのも、高瀬清の晩年の回想『日本共産党創立史話』(青木書店、1978年)のみで、文献的根拠を欠くからである。
本資料「日本共産党綱領」は、「日本共産党全国大会で採択、1922年9月」と明示している。英語のthe National Conventionが正規の「全国大会」であり、規約上の「全国協議会」the National Conferenceと区別されることは、同じオーピシ中の1921年4月24日付け全48条「規約」The Constitution of the Communist Party of Japan第29条(村田『コミンテルンと日本』第1巻、488頁)からはっきりしている。しかしそれは、「創立大会」「第1回大会」とは明示していない。また「1922年9月」が「全国大会」開催時期であるのか、綱領起草時点であるのかは、この記録からだけでは特定できない。創立大会で採択されたと公式党史でも扱われる全24条の山川均執筆とされる「規約」についてさえ、松尾尊兌が詳しく考証したように、原本そのものははっきりしていない(前掲論文88-95頁)。大会でそのまま採択されたものか、コミンテルン第4回大会に高瀬・川内が出席するさい指導部により手を加えられたものかも判然としない。
これらの問題をめぐって、犬丸・松尾・岩村氏らは執拗に議論を繰り返しているが、筆者自身は、そもそもコミンテルン本体の綱領・規約自体がきわめて政治的なもので、必ずしもそのまま遵守され実践されたものではなく、ましてや個々の支部のそれは、モスクワ=ソ連共産党とコミンテルン執行委員会の意向でご都合主義的に改変されてきたものと考えるから、綱領・規約フェティシズムは採らない。その内容を含めて、コミンテルン型世界政党内の政治史的文脈で理解する。
公式党史「日本共産党の七十年」は、前述のように、モスクワで作成された「日本共産党綱領草案」を「党の最初の綱領的文書」として扱うが、1922年「創立大会」があったと仮定しても、学問的にはそこで「綱領」がつくられたかどうかが論点になっている。
松尾尊兌は、「規約(英国共産党暫定党規)が作成されたことは確実だが、綱領については不確実。戦前の証言は綱領を作成しなかったとの立場をとるものが多い」としたうえで、戦後の近藤栄蔵、鈴木茂三郎、野坂参三の言及と高瀬清の『近藤栄蔵自伝』(ひえい書房、1970年)所収座談会及び志賀義雄との対談での「日本から持っていった綱領」という発言に注目した(前掲論文、167-168頁)。犬丸義一は、これを踏襲しつつ、「戦後は綱領採択説も有力になってきている」として、野坂参三、鈴木茂三郎、高瀬清、荒畑寒村の証言を考証したうえで、「正式の綱領は創立当時存在せず、きわめて簡単な行動綱領のみ暫定的にきめられたのであろう」と結論づけた(前掲書、181-182頁)。
こうした論争がおこるのも、確たる資料が存在せず、当時の関係者の記憶による証言のみで、あれこれ推測が行われてきたからである。
本資料を綴じ込んだファイルには、一緒にあってもおかしくない全24条「規約(憲章)」その他「日本共産党全国大会」関係の他の資料は入っていなかったが、それは、筆者の閲覧し得たファイルが「フォンドf.495/オーピシop.127」のなかの限られたファイルに留まるものであり、他のフォンドやオーピシ・ジェーロ、さらには一般ファイルでなく個人ファイルをも詳しく探索すれば、本資料を肉づける記録が出てくる可能性がある。
例えば故村田陽一が『資料集 コミンテルンと日本』全3巻を補って編訳した『初期日本共産党とコミンテルン』(大月書店、1993年)所収資料は、本資料と同じ旧ソ連ML研究所アルヒーフで1989年以前に未公開であったものであるが、本資料と同じ時期を対象としながらも、本資料の入っていたボックスとは異なる「フォンド534・オーピシ4」から探索されたものが多いようである。筆者の探索したフォンド495からと明示されたものは、「資料24 コミンテルン執行委員会アメリカ・日本地域書記局、1927年1月7日会議議事」(オーピシ154)と「資料29 コミンテルン執行委員会日本地域書記局、1927年4月26日会議議事録」(オーピシ154)のみであり、筆者が多数の日本語文書を含む1000枚以上を閲覧した「オーピシ127」の資料は入っていない。もっとも旧ソ連時代のML研アルヒーフは、今日とは逆に、所蔵資料番号を明示しないよう研究者に求めていたのであるが(こうしたアルヒーフ事情については、R・W・デイヴィス『ペレストロイカと歴史像の転換』『現代ロシアの歴史論争』共に岩波書店、1990・98年、参照)。
政府・政党・マスコミやロシア大使館の援助を受けることなく、外国人の一研究者として、通常手続きで、現時点における公開資料を閲覧してきた筆者の経験的印象からすると、同アルヒーフには、日本語を含む膨大な日本関係資料が残されており、しかもそれらは、さまざまなフォンド・オーピシに分散して所蔵されている。
本稿は、もともとロシアを主たる研究対象とせず、ロシア語を解せず、コミンテルンといっても主に1930年代に関心を持ってきた筆者が、旧ソ連在住スターリン粛清日本人犠牲者の足跡を探索中に、たまたま遭遇した断片的資料を紹介・解読するものである。犬丸・松尾・岩村・川端氏ら第一次共産党史の専門研究者が、長期に系統的に旧ソ連アルヒーフ資料(旧ML研のみならず、他のいくつかのアルヒーフにも日本関係資料がある)を探索するならば、これまでの日本共産党史に関する論争問題の多くは、案外簡単に資料的裏付けを得て解決されるであろう。
やや回り道をしたが、先に訳出した「日本共産党綱領」自体を検討してみよう。
第一に、この綱領は、1922年1月極東民族会議でのサファロフ報告・日本代表団政綱や、22年夏のヴォイチンスキー論文、22年末モスクワ作成とされてきた日本共産党綱領草案、27年テーゼ、31年政治テーゼ草案、32年テーゼ、36年日本の共産主義者への手紙、等々とくらべると、きわめて一般的かつ短文であり、歴史的叙述がなく、行動綱領も入っていない。わずかに、アナルコ・サンディカリズムに対する態度や「統一戦線」に当時の日本的・状況的特徴が反映されているが、君主制=天皇制については軍部官僚制と愛国主義イデオロギーに解消しており、普通選挙権への態度も曖昧である。「Japanese Zardom」「東洋のドイツ」といった表現は、極東民族大会サファロフ報告を連想させるが(村田『コミンテルンと日本』第1巻、64,72頁、川端『コミンテルンと日本』289,319頁)、当時のありふれた表現でもある。この意味で、かつて隆盛した日本マルクス主義理論史・日本資本主義論争史・天皇制国家論争史風の問題設定からすれば、とりたてて特徴のない、つまらない内容である。
しかしまたこれは、それまで国内で相互に対立していたいくつかの社会主義の流れをまとめあげ、コミンテルン日本支部としてモスクワで承認と援助を得るという実際的目標からすれば、「アナ・ボル論争」やブルジョア民主主義革命とプロレタリア社会主義革命の関係、日本の天皇制や当面する普通選挙権・議会制への態度等について詳論せず、当時のマルクス主義理解による一般的原理を述べるに留めているがゆえに、創設に加わったメンバーから異論の出にくい、「最大公約数」たりうるものである。筆者はそれゆえに、これは、日本共産党創立時の正式の綱領であったと判断する。
ではなぜ、見方によっては凡庸な(?)、一般原理にとどまるプログラム=綱領を、全国大会を開いたばかりの日本共産党は、モスクワに届けたのであろうか? それは、一つには当時のコミンテルンの綱領討論全体の特徴を、より低い次元で反映しており、そもそも綱領とはマルクス『共産党宣言』風のアピールなのか(前年4月の「日本共産党宣言」)、ドイツ社会民主党「エルフルト綱領」風の最大限綱領・最小限綱領を含むものなのか、日本の共産主義者たちには、わからなかったためであろう。当時コミンテルン執行委員会内に綱領問題委員会がつくられ日本問題もとりあげられるというモスクワ情報が伝わっていたかどうかは定かでないが(岩村登志夫『コミンテルンと日本共産党の成立』78頁は、野中誠之の来日からこれを示唆する)、たとえ伝わっていたとしても、どのような長さ・構成のどこまでふみこんだ綱領をつくるべきかは、彼らには判断できなかったであろう。モスクワでもなお、「綱領とはなにか」が、機関紙誌上で散発的に論じられている局面だった(加藤『コミンテルンの世界像』72頁以下)。
したがって、1922年夏時点で日本共産党正式結成を志す人々がさしあたり必要とした綱領とは、コミンテルンとの関係では、「加入条件21か条」を認めて日本支部として承認されることであり、旧来の規約との関係では、21年暫定執行委員会全48条規約のいう「党の原則と戦術」「党憲章」(第3条)──英語ではprinciples and tactics of the party , the party constitution=規約そのもの──、同じ22年夏創立大会で採択されたとされる全24条「英国共産党暫定党規」に従えば「無産階級の独裁によって資本主義を撤廃し、社会主義を実現する」(第2条)という一般的「目的」レベルでの「共産党インタナショナルの主義及び政策」「綱領と規律」(第3条)であった。
当時のコミンテルン「加入条件21か条」第15条には、「いまなお旧い社会民主主義的綱領を保持している諸党は、できるだけ短期間にその綱領を改訂し、自国の特殊な諸条件に適合しながらも、共産主義インタナショナルの諸決定の精神に立つ、共産主義的綱領を作成する義務がある。……各党の綱領は、共産主義インタナショナルの定期大会または執行委員会の承認をえなければならない」とあったが、そのような意味での公式綱領を持つ支部=各国共産党はロシア共産党(ボリシェヴィキ)以外生まれていなかったし、日本では「旧い社会民主主義的綱領」さえなかった。そもそもコミンテルン指導部自体が、統一した「綱領観」を持っていなかったのである(加藤『コミンテルンの世界像』第一部参照)。当時の日本の共産主義者が、メンバーの意見の「最大公約数」を「綱領」と考えたとしても、何の不思議もない。
ちなみに、筆者が「f.495/op.127」の数百綴りのファイルをおおまかに通観した限りでは、この1922年夏「日本共産党綱領」以前と思われる綱領関連文書は、前述21年4月「The Constitution 」(村田氏はその構成・内容からConstitutionを「規約」と訳したが、第3条条文中では「憲章」と訳している)のほかに2つあった。
一つは、「米国共産党合同大会で採択されたもの」と日本語で注記された「米国共産党の綱領」(f.495/op.127/d.9/40-103)という日本語手書きの長大な訳文で、片山潜ら米国共産党結成に加わった日本人共産主義者グループが、1921年5月のアメリカ共産党合同大会文書を訳したと思われるものである。
いま一つは、極東民族大会準備のために日本代表団の誰かにより書かれたと思われる「Program of the Far Eastern Conference」という、「1921年12月28日、モスクワ」と末尾に付された英文タイプ文書(f.495/op.127/d.12/108-119)で、中国・朝鮮・シベリア・日本の情勢を分析し、各国及び極東革命全体のプログラムを述べたものである。
この後者は、当時の日本人共産主義者による「Program =綱領」についての認識を知る上で参考になるので、そのc項「日本のための綱領」の項のみを全訳すれば、以下のようになる。
当時の極東民族大会日本代表団内の最大の問題は、いうまでもなく、日本での「アナ・ボル論争」が、そのままモスクワに持ち込まれたことであった。その和解策が、さしあたり労働者の政治活動を認める「綱領」づくりであった。
事実、別のファイル(f.495/op.127/d.36/1-2)には、1922年1月23日付で、日本代表団の旧アナーキスト吉田一、北村栄以智、和田軌一郎、小林進次郎が、「第三共産党国際同盟執行委員 同志チノヴィブ[=ジノヴィエフ]」宛に「私達は無政府主義を放擲し共産主義者たることを宣言し第三国際共産党の宣言、綱領及手段に基いて日本革命運動の途程に就くことを誓ふ」と署名した、日本語手書きの「決議書」が入っていた。
1922年夏に日本で作られた日本共産党綱領は、このような意味及び次元での「綱領」であり、「プロレタリア独裁樹立」を究極目標とし、労働者の政治活動への参加を認める程度の合意形成で足りる、と理解されていたのであろう。
それではこの22年日本共産党綱領は、本当に1922年9月に、正規の全国大会で採択されたものであろうか? 事実とすれば、大会での正式綱領採択という決定内容においても、7月15日とされてきた創立大会開催日についても、旧来の日本共産党史研究は、大きく書き換えられることになる。このレベルで、従来の研究が主として依拠してきた、第一次共産党参加者と目される人々の回想・証言が、改めて検証されなければならない。
先に松尾・犬丸説を引いて紹介したように、当時の関係者の証言には、創立時の日本共産党に規約のみならず綱領もあったという証言は、ないわけではない。
野坂参三は、堺利彦から第一項目「君主制の廃止」をきりとった「行動綱領」をみせられたといい(『風雪のあゆみ』第4巻、新日本出版社、1977年、86-87頁)、鈴木茂三郎は、初対面の山川均から無造作に「第一次共産党の綱領」を示されたと証言している(「わが交遊録」『鈴木茂三郎選集』第4巻、労働大学、1971年、24頁)。
高瀬清は、主著『日本共産党創立史話』では触れていないものの、『近藤栄蔵自伝』(ひえい書房、1970年)に付された座談会「『暁民共産党』と第一次共産党」では、「あとで『英国共産党綱領』といわれる」綱領があり、コミンテルン第4回大会で「持っていった綱領は討議されました。そのうえでブハーリンによる修正が起草された」「日本から持っていった綱領には天皇制の問題が書いてない。それを補正するという意味でブハーリンが修正案を出したわけです。日本に持って帰って討議にかけるという条件があるんですから。綱領はきまったのです」という(478頁)。
また、志賀義雄は、浦田武雄からの伝聞として「必要な綱領規約案はやはりつくっていたそうです。最近、浦田さんに聞いてもそういっていました。日本共産党の方針書をすべてモスクワ製とする一部の史家は、日本帝国主義の逆宣伝を半ばうのみにしているのです。その中に、君主制の問題は書いてなかった。というのは、これを書くと危ないから、わかり切ったこととしてふれないでおこうということであった」と述べている(『日本共産主義運動の問題点』読売新聞社、1974年、69-70頁)。
本資料との関係で注目されるのは、荒畑寒村の第4回予審訊問調書(1930年2月18日)である(『現代史資料』第20巻、みすず書房、1968年)。
正式の綱領は持たなかったが、「極めて簡単な公式を採用せるに過ぎざる暫定的」綱領の存在を認めている、とも読める。
ただし犬丸義一は、これを極東民族大会日本代表団がブハーリンから示された「帝政の廃止」を含む「行動綱領」と読むが、それは野坂参三『風雪のあゆみ』第4巻の「君主制の廃止」要求が当初から日本共産党の綱領的第一要求であったことを根拠づける記述に、引きつけすぎている。加藤『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)で詳述したように、野坂参三『風雪のあゆみ』は、当時日本共産党議長・名誉議長であった著者野坂と日本共産党公式党史を正統化するための、虚実混淆の「伝説」である。
今日では、極東民族大会でブハーリンが日本代表団に「天皇の廃止」を求めたという徳田球一予審訊問調書(『現代史資料』第20巻、71頁)に発する「神話」も解体したし(岩村前掲書79頁以下、川端前掲書315頁以下)、そもそも第一次共産党が天皇制打倒をメイン・スローガンにしたという話自体、疑ってかからなければならない。
むしろ、ここに紹介した「天皇制の問題が書いてない」1922年9月日本共産党綱領であれば、当時の党員たちの暫定的な出発点・合意点たりうるであろう。
それではこの綱領は、いつ、どのようにして作られたのであろうか? 筆者はこれを、9月に、ただし正規の「全国大会」での字句の検討などは経ずに、指導部数名により起草・決定され、モスクワに届けられた、と考える。それは、コミンテルン第4回大会への代表(高瀬・川内)の離日時期であるが、高瀬がそれを帯同したか、それとも上海ないしウラジオストック経由のルートで密使により届けられたか、いずれかであろう(たぶん後者)。
ではなぜ「全国大会採択」となるのか、それは、極東民族大会出席者が帰国し伝えたコミンテルンの意向を受けて、22年6月以降9月までに、7月15日とは特定できないが7月の渋谷高瀬下宿での会合を含む幾度かの会合がもたれ、そのどこかで、おそらく口頭で上記綱領の骨子が指導部から説明されて、ほとんど討論されることなしに、指導部に起草が一任されたもの、と考えられる。したがって、それら一連の準備会合のうちで、どれを「全国大会」とするかは、党指導部の解釈の問題となる。
その種の会合としては、鈴木徹三『鈴木茂三郎(戦前編)』(日本社会党機関紙局、1982年)で「橋浦時雄日記」から引かれた22年「六、七月頃幡ヶ谷における幹事会における山川氏執筆の英国共産党暫定規約(カモフラージュ名)が検討され、党の銅印も発表された(吉原太郎がもたらしたもの)」会合、「この頃山川、徳田、吉田一の三人による片山指令の党改組なるものの」会合(142頁)、高瀬・橋浦証言の7月15日「創立大会」ないし「細胞代表者会議」、その後と橋浦が回想する「山川氏宅」で山川が指導部の分担を割り振った会合、などが知られている(『寒村自伝』290ー291頁)。高津正道の「堺、山川、荒畑、橋浦、吉川、私などが組織の秘密の会合を市内のあちこちで持って協議した」という回想もある(高津『旗を守りて』笠原書店、1986年、203頁)。荒畑寒村が大久保百人町の自宅で党創立会合を開いたかもしれないと述べた間接証言もある(志賀義雄前掲書、113-114頁)。9月にも同種の会合があっても、なんの不思議もない。
最後に、署名者・起草者の問題がある。「General Secretary Aoki Kumekichi, International Secretary Sakatani Goro」とは何者であろうか?
結論的に言えば、筆者は、このInternational Secretary Sakatani Goroを堺利彦と特定し、General Secretary Aoki Kumekichiは、従来公認党史においてさえ「初代委員長」とされてきた堺利彦ではなく、荒畑寒村と判定する。ただし綱領自体を起草したのは、堺でも荒畑でもなく、おそらく山川均であろう。署名に付された朱印は、橋浦時雄が回想する幡ヶ谷の準備会議で山川執筆の規約が検討(承認?)されたさい吉原太郎がもたらしたという「銅印」であろう。当初のモスクワとの連絡に用いられた、日本共産党の公印と考えられる。
これらの根拠を示すためには、別の資料を紹介しなければならない。詳しい紹介は次回以降にするが、コミンテルンに公式に加わったばかりの1923年の日本共産党は、ひんぱんにモスクワに公式報告書を提出していた。
それらのなかには、同じ公印を使った文書だが、「Sakatani Goro」をInternational Secretaryではなく、今度はGeneral Secretaryに選んだことを示す23年2月市川大会報告書、コミンテルンから綱領作成指令・草案が届いて、それを討議し審議未了となったことを弁明しつつ、「同志Aoki」をコミンテルン第3回拡大執行委員会総会への代表としてモスクワに派遣することを告げた23年3月石神井大会報告書、なども綴じ込まれていた。これらによって、犬丸・松尾・岩村氏らがあれこれと論じてきた論争点のいくつかが、第一次資料によって決着することになる。
まず、1922年夏の「International Secretary Sakatani Goro=堺利彦」の根拠であるが、これは比較的簡単である。日本共産党綱領と同じオーピシの後ろのジェーロの冒頭文書(f.495/op.127/d.61/1-3)は、「Feb.18, 1923 An abstract of the proposed report to the Comintern」と題された公式報告書で、22年綱領と全く同じ公印が押され、「全国大会が東京近郊で2月1日に開かれた。執行委員5名、各専門部から7名、細胞を代表する62名の代議員が出席した」として、その議題を紹介し、新執行部選出を告げている。
その文書の末尾の署名が、「G.S. Sakatani Goro, I.S. Hanada Yoshio」となっており、GS=General Secretary, IS=International Secretary であるから、23年2月大会で新たに選ばれたGSが、22年夏のISと同一人物であることがわかる。この23年2月市川党大会については、出席者数・氏名などいくつか論争点はあるが、日本での従来の研究でも代表者(総務幹事長)に堺利彦が選ばれたことは一致している。したがって、堺のモスクワ向けの党名が「Sakatani Goro」であったことになる。ついでにいえば、この市川大会でIS=国際幹事になったのは佐野学で、「Hanada Yoshio=佐野学」となる。
「General Secretary Aoki Kumekichi=荒畑寒村」の根拠は、やや複雑である。そもそも第一次共産党の最高指導者は堺利彦といわれるが、堺は、22年夏全国大会で選ばれた「委員長」ではなく「国際幹事」であった。General Secretary(旧ソ連風に訳せば「書記長」) とモスクワに報告されたAoki Kumekichi とは誰になるのか? これについては、高瀬清が22年7月会合で「暫定役員として総務幹事に山川、荒畑、高津、国際幹事に堺、会計幹事に橋浦、規律委員に吉川の諸氏を決定」(『日本共産党創立史話』175頁)と回想し、荒畑寒村『寒村自伝』に引かれた橋浦時雄の「荒畑、山川、高津の三人が総務幹事、堺さんが国際幹事、私が会計幹事になったことは、山川氏宅において山川氏が割振ったものでよく記憶に残っています」という証言がある(『寒村自伝』論争社、1961年、290-291頁)。いずれも堺利彦が「委員長」になったなどとは言っておらず、堺は「国際幹事」で「総務幹事」は山川均・荒畑寒村・高津正道の3人であったという。
ではGeneral Secretaryとして党を代表し、IS=堺と共に綱領に署名したAoki Kumekichi は、3人の総務幹事中の誰になるのか? 堺が1871年生の日本社会主義の最長老であることは誰の目にも明らかだが、高津は1893年生、荒畑1887年生、山川1880年生、これだけでも総務幹事中の幹事長格は、山川均である。ましてや橋浦によれば、この役員人事を決めたのは、開催月日は書いていないが(7月高瀬宅会合後の)山川宅での会合で、山川自身が「割振った」ものである。全24条規約の起草者も、山川均とされる。高瀬回想では「どんな文書でも山川さんが書いたんです。わるくいえば堺・山川の党だった」「コミンテルン第4回大会にこの決定を報告する代表の選定に入ったが、この問題は堺、山川、近藤の三氏に委任」されたともいう。これら一連の証言からすれば、日本共産党のGS=Aoki Kumekichiの最有力候補 は、山川均となる。
しかし、よく知られているように、山川は第一次共産党との積極的関わりを、晩年まで否定し続けた。多少とも事実関係に触れた『社会主義』第62号(1956年10月)の座談会では、「西、田所、上田の三青年から党結成の報告を聞いて初めて知った」と述べて、盟友荒畑寒村さえ「とうてい私の承服し得ざるところ」と書いた(『寒村自伝』、291頁)。
同時に『社会主義』座談会で、岩井章が「共産党が結党したのは大正十年ですね」と述べたのに対し「いや十一年です。十一年の夏ころだったでしょう」と、1921年春の準備委員会ではなく22年夏を創立時期にしている(28頁)。また綱領との関わりでは、しばしば引かれるように、『前衛』22年7/8月合併号の山川論文「無産階級運動の方向転換」を市川正一の3・15公判陳述「日本共産党闘争小史」が「日本共産党の党議決定」としたのに対して「党の意向など頭から考慮に入れていなかった」(42頁)と答え、23年石神井大会で山川が天皇制打倒に反対したとする俗説に、次のように反論する。
しかし、「君主制の廃止」をかかげたいわゆる22年綱領草案ではなく、ここに紹介した「天皇制の問題を書いてない」22年9月綱領なら、山川均起草でもおかしくない。筆者は現段階では、その内容的特徴からして──署名者Aokiではなく──、綱領起草者については、山川均と推定する。英文タイプ文書なため、筆跡鑑定は困難で、あくまで推定に留まるが(当時の指導者たちの英語力、英文タイプ保持者と字体の特徴等から、タイピストを特定できる可能性はある)。
同時に、生まれたばかりの日本共産党は、ボリシェヴィキ型の「書記長」制度をまだ持っていない。「加入条件」である「民主集中制 」理解も牧歌的だった。綱領にGSと署名できるのは、山川・荒畑・高津の3名で、「総務幹事長」は決まっていないようである(犬丸前掲書180頁は「堺利彦が委員長(General Secretary)となったという点ではほとんど一致」とするが、それは直後の高瀬『創立史話』の引用と矛盾する)。
ただし、橋浦時雄は、1957年の荒畑寒村からの問い合わせの後、56年に書き出した回想録を66年に「第一次共産党事件の経緯」としてまとめている。そこでは、1921年春の日本共産党準備委員会=第1期の役員を「準備会の幹事に堺、山川、荒畑、高津、近藤栄蔵、橋浦が当り、堺国際、山川総務、橋浦会計などがきまった。荒畑は京都で下獄してその年の末に出獄した」としたうえ、第2期=22年初めから7月15日「第一回大会」までに「荒畑出獄、総務主席就任、近藤栄蔵幹事辞任」と記し、第3期=7月15日以降23年2月市川大会までの時期について、「堺国際、荒畑総務主席(関西部兼任)、橋浦会計(兼産業部)、高津政治部、浦田農民運動部、吉川規律委員会長等が選任」されたと回想している(「橋浦時雄日記」鈴木徹三前掲書、141-142頁)。これが正しいとすると、「山川総務」は21年準備委員会の段階で、22年は荒畑寒村が「総務主席=General Secretary」であったことになる。そしてこの方が、執行委員会が互選で「総務幹事長1名、総務幹事2名、国際幹事1名、会計幹事2名」を決めるという創立時全24条規約第14条にも近い(松尾前掲論文、86頁、ただし橋浦66年回想では、山川・高津が総務幹事であったかどうかは不明)。なお、典拠は不明だが、警察資料である立山隆章『日本共産党検挙秘史』では、創立時共産党の「最高幹部(執行委員)」リストに、堺・山川・橋浦・高津とともに「荒畑勝三(委員長)」を挙げている(92頁)。
そして「Aoki=青木」とは、第一次共産党時代の荒畑寒村の党名であることは、予審訊問調書で荒畑自身が「大正十二年ニ検挙サレタ第一次ノ日本共産党ノパーテイネームトシテ青木ト云フ名ヲ使用シテ居リマシタ」と認めている(『現代史資料』第20巻、7頁)。
さらに、後述モスクワへの石神井大会報告書で、大会後のコミンテルン第3回拡大執行委員会総会への日本共産党代表に選ばれたのは「com. Aoki(同志青木)」で、それが荒畑寒村であることは、『寒村自伝』等から容易にわかる。創立時日本共産党綱領に署名したGS=Aoki Kumekichi とは、「極メテ簡単ナ公式ヲ採用セルニ過ギザル暫定的」綱領の存在を認めていた荒畑勝三=寒村であったと判定できる。なお、綱領原文とともに本稿草稿を読んだ石堂清倫氏によると、内容的には山川と思われるが、英訳の文体は荒畑ではないか、ともいう。
山川により起草されたと思われ、荒畑・堺によって署名された日本共産党綱領に記された「全国大会、1922年9月」とは、あるいは橋浦の回想する7月高瀬宅会合後の山川宅の指導部会議、荒畑が述べたという荒畑宅での創立会合であったかもしれない。これが、綱領採択という指標からみれば、日本共産党の創立=第1回大会である。もっともこの時期の共産党が、規約通りに動いていたとは考えにくい。あるいは6-9月の一連の会合を集約して、荒畑・堺・山川が「全国大会」とモスクワ向けに潜称した可能性も否定できない。とにかく日本共産党は、1922年夏、「綱領には天皇制の問題が書いてない」まま、ひとまず綱領と規約をもち出発した。
次に、1922年7月高瀬宅か、その後の8月ないし9月の山川宅・荒畑宅その他の会合であったかはともかく、綱領に記された「全国大会」を「創立大会」と筆者が認定するのは、別に松尾・岩村・川端氏らの1921年春創立説を否定し、通説・犬丸説につくからではない。1921年4月24日(?)に「日本共産党宣言」「規約=憲章」を作成し暫定執行委員会を持ったいわゆる日本共産党準備委員会も、同年後半の近藤栄蔵らによるいわゆる暁民共産党も、コミンテルンや中国・朝鮮の共産主義者たちから「日本共産党」として扱われてきたことは、今日では常識に属する。そしてそれが、22年9月「綱領」の内容からして、1919年コミンテルン創立大会にリュトヘルスにより紹介された「日本の社会主義者の挨拶」や21年4月暫定執行委員会「宣言」の延長上にあることも明らかである。
筆者が敢えて1922年夏創立説につくのは、何月何日かは特定できないが、22年夏に正規の「全国大会」が開かれ(あるいは開かれたかたちをとり)、そこで綱領・規約をつくり、コミンテルンに報告して承認され、正式にコミンテルン日本支部として再出発するからである。筆者のいう「コミンテルン型共産党」としての日本共産党成立である。
犬丸義一が、松尾尊兌の7月15日説への疑問に対し「非合法・非公然活動である戦前の共産党の場合、文献史料はありえず、記憶以外にない以上、徳田球一の記憶で、一九三二年の六月の終わりに決定されたものであることは確かであるが、戦後になって、共産党を離れている高瀬清も七月十五日と記憶しており、高津、浦田が肯定し、四人が一致しておれば、ほぼ確実と私は考える」(前掲書、394頁)と答えたひそみにならえば、「文献史料」が出てきた以上「22年9月」と主張することも可能であるが、筆者はむしろ山川均にならって、敢えて「22年夏」としておく(前掲『社会主義』座談会、28頁)。
1922年夏の全国大会を第1回=創立大会と認定する根拠は、もうひとつのモスクワ・ファイルによる。「March 25, 1923 」の日付で、例の公印は押されていないが、「The General Secretary Sakatani Goro, The International Secretary Hanada Yoshio」の直筆署名がある報告書「A Report to the E.C.of the Comintern on the General Status of the J.C.P.」(f.495/op.127/d.58/7-12)の存在によってである。
そこでは、前便23年2月18日報告では議題・規約改正・役員改選などが簡単に報告されたのみだった「2月1日」東京郊外開催の「全国大会」が、「J.C.P up to the time of the 2nd National Convention」の見出しで、「日本共産党第2回全国大会が、1923年2月5日に開かれた。大会参加者総数は73名、内5名は執行委員、8名は各専門部代表、2名の第4回世界大会代表者、細胞を代表する58名」と開催日・出席者構成が訂正され、「第2回大会」と明示された。議題は「1.総務幹事報告、2.国際幹事報告、3.会計幹事報告、4.各専門部代表報告、5.提案についての討論、6.執行委員会選挙」と整理され、「1922年8月から1923年2月まで」の党活動が詳しく報告されている。この報告書によると、第2回大会時の細胞(cell)数は22年8月時の42から62へと増え、総党員数は361名になったという。
それは、大会出席者数について、犬丸義一が日本の官憲記録・回想等から考証した「2月4日」市川大会の出席者17名(前掲書、264頁)よりもかなり多い。細胞数・党員数も、3月15日石神井大会時について犬丸が考証した14細胞・党員数58人(同277頁)の4-6倍の規模で、モスクワに報告されている。10人の執行委員が選ばれたとするのは犬丸考証と一致するが、この報告書は、執行委員の氏名は挙げていない。その代わり、党財政を月毎で詳しく報告し、単位が円であるかどうかははっきりしないが、例えば「22年10月 収入15.00 支出2.207.65 残1.189.15 」などと細かい数字を挙げる。申告党員数と予算(=コミンテルンからの援助?)が連動しているとも考えられる。そして、3月5日に綱領問題での「特別全国大会」即ち臨時党大会を開いたが、それは「別報a separate report」で詳しく報告する、と結んでいる。
いずれにせよ、同じ「Sakatani Goro=堺利彦」の署名した公式報告書で、1923年2月の大会が「第2回大会」と明記されているから、前年22年夏の「全国大会」は「第1回=創立大会」とならざるをえない。ただし党務・会計報告が「1922年8月」から報告されていることは、「第1回大会」が9月ではなく8月、ないし高瀬回想のいう7月と想定されていた可能性もある。1922年8月の党財政は「収入9.031.99」(支出2.307.94残6.723.06)と他月に比しても巨額の収入である。これが円建てだとすると、党創立のためコミンテルンからの援助があり、総額9031円(野坂参三にならって当時の1円=現在約1000円と控えめに換算すると約900万円、立花隆風に4000倍とすると3600万円)の党資金で出発した、とも読める。
この第2回市川大会関係報告書は、次回以降に紹介・解読するが、この資料も、日本共産党創立大会の時期を、1922年7月ないし9月と確定するものではない。22年夏に創立大会があったとコミンテルンに報告されていたことを示すに留まる。
ちなみに、これまでの研究では全く注目されていないが、日本共産党創立を「1922年9月」とする日本側の記録も、ないわけではない。それは、『現代史資料 16 社会主義運動 3』(みすず書房、1965年)に収録するにあたって、編者山辺健太郎がなぜかわざわざ「党史にかんする部分は信用できない」と注記した、3・15、4・16事件統一公判裁判長宮城実の「私の経験より見たる共産党事件の審理に就て」と題する1933年の講演記録で、「大正11年9月5日に愈々日本共産党が成立せられた」と、典拠は挙げずに、日付まで特定して述べていた(594頁)。無論、第一次共産党事件判決文の採用した1922年12月(『日本政治裁判史録 大正』第一法規、1969年、367頁)とも、統一公判で日本共産党獄中指導部が主張した22年7月説(市川正一『日本共産党闘争小史』国民文庫、1954年、51頁)とも、異なっている。
前号で1923年2月日本共産党第2回大会をモスクワに伝えた、3月25日付の日本共産党報告書を紹介したが、関係資料として、日付・朱印はないが、やはり「The General Secretary Sakatani Goro, The International Secretary Hanada Yoshio」の直筆署名がある、「Report on the Special Convention for the Drawing up of a Party Program 」と題する報告書(f.495/op.127/d.62/9-13)がある。
3月25日報告書が述べていた石神井臨時党大会についてのモスクワへの公式報告で、同じ3月25日付「別報」であった可能性が強いが、モスクワのアルヒーフでは、別のジェーロに入っていた。これも詳細な紹介・解読は次回以降にまわすが、出席代議員数などは入っておらず、英文タイプで、以下のように書き出されている。
この報告から、従来わが国の研究史上で争点とされてきた、いくつかの問題が解消する。主として第一次共産党事件で当局に押収された書記高瀬清執筆の議事録にもとづき議論されてきたもので、1979年に松尾尊兌「創立期日本共産党史のための覚書」が先駆的に提起し、犬丸義一が一度は松尾に賛同しながら、その後に意見を改めた、1923年石神井大会での日本共産党「綱領の行方」の謎である。
松尾論文は、石神井大会での日本共産党綱領草案の「A 審議未了説=日本共産党の公式見解」「B 完全採択説=岩村登志夫」「C 一部承認説=犬丸義一説」の3説を分類し、自らは、鍋山貞親証言などに依拠して、「共産党の執行部が、石神井会議では審議未了におわった二二テーゼを、コミンテルンへは、採択されたと報告していた」と結論づけた(164頁)。上記報告書からは、この松尾説の結論部分の誤りは明らかで、「審議未了」とする通説が正しかったことが、容易にみてとれる。
ただし実は、松尾は、自らアメリカ・スタンフォード大学フーバー研究所で発掘した議事録の詳細な解読過程で、犬丸・岩村を含む他のすべての論者とは異なり、もっぱら徳田球一予審調書と高瀬清証言、及びそれに依拠した野坂参三『風雪のあゆみ』を土台とする通説を根底からゆるがす、本質的問題を提起していた。すなわち、「モスクワから持帰られた二二テーゼは英語で書かれていた可能性が強い。これが邦訳されたとき氤。「の四段にわかれていたことは、堺の第二回調書(六月八日)における、『其ノ草案ト云フノハ之レテハナイカ。此時大正十二年押第七七四号の二二ヲ示ス。之テス。之ヲ見テ思ヒ出シマシタ、成程氤。「トナツテ居リマス』の記述で知れる。ところが今日知られている限りの草案の英・独・露版にも、各種の邦訳にも、このような番号を付したものは見当らない。この『押第七七四号の二二』そのもの、あるいはその写しが入手できれば一目瞭然となろうが、今日知られている邦訳とは異質なもの、すなわち、二二テーゼ[=いわゆる22年日本共産党綱領草案]の骨子を要約したものである可能性もある」と指摘し(134頁)、「現存のあらゆる回想録をみても、二二テーゼの全文を会議に先立って読んだという証言は皆無である」(136頁)「はたして草案朗読が実際に行なわれたかは疑わしい」(149頁)、「二二テーゼは今日流布している邦訳とはかなりちがう体裁のものであったこと。明確に四段にわけてあり、しかもその第一段は各国の共産党綱領に共通すべき一般綱領であった可能性が濃い」(151頁)と述べていた。歴史は、この松尾の透徹した資料批判に、軍配をあげることになった。
今日通説のスタンダードとされる犬丸義一『第一次共産党史の研究』は、その通史的部分で「綱領全体は採択・承認され、天皇制の行動スローガンとしての扱い、革命の性質の問題、この二つの部分が審議未了になったと考えるのが妥当であろう」と述べながら(286頁)、「補論2 石神井会議における綱領討議再論」では、23年6月コミンテルン第3回拡大執行委員会総会でのブハーリン報告が日本共産党内に存在する意見の相違に言及しているのに着目して、最終的に「審議未了」と結論づけた(377頁以下)。実はこのブハーリン報告の当該部分の典拠となったのが、ここに紹介する日本共産党報告書である。
この報告書は、もう一つ重要なことを述べている。それは、いわゆるブハーリン綱領草案(第4回世界大会に提出された個人意見としての一般綱領=世界綱領草案、加藤『コミンテルンの世界像』81頁参照)を一般理論的土台とした、日本共産党綱領草案の作成・伝達時期で、堺利彦らが故意にコミンテルンに弁明したのでなければ、いわゆる日本共産党綱領草案は、1922年11-12月の第4回大会時にも、同年末の高瀬清・川内唯彦の帰国時にも存在しておらず、1923年2月の市川大会時にさえ出来ておらず、ようやく石神井大会開催2週間前に日本に届いたことになる。
しかも、その内容は、後に『共産主義インタナショナル綱領問題資料集』に収録されるかたちとは、構成・内容・スローガンとも大きく異なり、まだ骨子と梗概だけの「綱領づくりのための他の資料」=英文メモ風のものであったと考えられる。本稿の主題との関わりでは、今回紹介した1922年9月綱領が、石神井大会前の(さらには第一次共産党期全体の)唯一の日本共産党綱領となる。その内容的検討に立ち入る前に、通説の成立過程を検討しなければならない。
犬丸義一・岩村登志夫らが「お天気」=気象情報まで用いて詳しく考証したように、そもそも日本共産党創立が「1922年7月」とされたのは、1930年の徳田球一予審訊問調書からであり、31年の市川正一「日本共産党闘争小史」で3・15、4・16事件公判闘争の統一見解となった。7月15日が創立記念日とされたのは、その「10周年」を記念する1932年『赤旗』7月5日号の岩田義道執筆という党中央委員会アピール「八月一日を準備せよ!」からである。その詳しい経緯は省略するが(犬丸前掲書209頁以下、志賀前掲書113頁以下、参照)、「党史」そのものの政治性を示してあまりある。
かつてコミンテルン中央での綱領論議の歴史的再構成を試みたことがある筆者の視角からすれば(『コミンテルンの世界像』第一部)、モスクワにあった石神井臨時大会報告書のいう1923年3月初旬のコミンテルン指令到着は、正しいと思われる。もともと1924年になって初めて独文『綱領問題資料集』に公表される「日本共産党綱領草案」を、コミンテルン第4回大会時に作成され、日本共産党大会代表の高瀬・川内が持ち帰ったものと同定するのは、おそらく1930年徳田球一予審訊問調書に発する「神話」である。
徳田球一は、1929年5月20日第2回訊問調書で天皇制の歴史を機関説風に概観し、5月27日第8回訊問調書では、「君主制ノ廃止トハ所謂ブルジョアデモクラシーノ徹底ノ中心的目標デアツテ此ノスローガンハ即チブルジョアデモクラシーノ徹底ト見テ良イノデアリマス」「ブルジョアデモクラシーヲ徹底スル為ノ所謂行動ノ中心的目標トシテ君主制ノ撤廃ヲスローガントシテ居ルノデアル」と、「27年テーゼ」の徳田なりの理解を表明していた(『現代史資料』第20巻、63-64頁)。
翌1930年に入って、1月28日第10回訊問以降は、党史についても固有名詞を挙げて積極的に自説を展開し、極東民族大会について、「ブハーリンニヨリテ、当面日本共産党ガ為スベキ行動綱領ニ付テ次ノ如キ指示ヲ与ヘラレマシタ。(一)日本ニ於ケル政権ノ構成ガ半封建的デアリ、而テ地主即チ天皇ノ覇権ノ下ニアル事ヲ前提トシテ、『ブルジョアデモクラシー』ノ徹底ガ当面ノ政治政策デアル事ヲ断ジマシタ。而シテ其『スローガン』トシテ、(一)天皇の廃止、(二)普通選挙権ノ獲得、(三)言論、集会、出版、結社の自由ヲ掲ゲマシタ」と述べる(同71頁)。
しかし、この「日本共産党ノ初期ニ於ケル運動ニ一大変革ヲ与ヘタ」と徳田の自認する極東民族大会での「天皇の廃止」スローガンが、コミンテルン側の記録からして裏付けがなく、「日本代表団政綱」としては全くの虚構であったことは、今日では明白である。つとに風間丈吉がこの徳田供述に疑問を呈していたが(『モスコウとつながる日本共産党の歴史』上巻、天満社、1951年、72頁、升味準之輔『日本政党史論』第5巻、東京大学出版会、1979年、396頁)、前述のように岩村登志夫・川端正久が詳しく解明し、晩年の村田陽一も暗に認めた通りである。実際は、サファロフ報告を基調としたもので、第一スローガンは「政治制度の完全な民主化」であった。
注目すべきは、徳田調書が極東民族大会での「此指示ハ次ノ年ニ完成サレタ ブハーリンノ起稿ニ係ル日本共産党『プログラム』ノ基調ヲ示シテ居ルモノ」(71頁)と述べて、ほかならぬ「君主制廃止」の「一本の赤い糸」で日本共産党史を描こうとする政治的企図が、はっきりとうかがえることである。
そして、「創立大会ハ一九二二年七月ニ行ハレマシタ」「党ノ綱領ニ付テデアリマスガ、之ハ私達ガ齎ラシタ極東民族大会ニ於テ支持サレタ既述ノ内容[=「天皇の廃止」]ヲ充分討議シ決定スル事ガ出来ズ、何レ此創立大会後直チニ派遣サル、『コミンターン』第四回大会ヘノ代表ノ帰国ヲ待ツト云フ事ニナリマシタ」という、よく引かれる一節が続く(74頁)。この話に信憑性を持たせるためか、「獄中18年」の先に書記長となる自分の「党歴」を予見してか、堺利彦・山川均・荒畑勝三・近藤栄蔵・高津正道・橋浦時雄の創立大会「中央委員」リストに自分の名前を加えることも忘れなかった。
次の30年1月31日第11回訊問調書で、第2回市川大会での高瀬清報告によると断りつつ、22年末コミンテルン第4回大会で「日本共産党ノ採用スベキ綱領ガ同志ブハーリンニヨリテ作成」され、高瀬がこれを持ち帰り、「日本ニ於テ討議シテ決定スル事ニナツタ」とし、第2回大会で「党綱領ノ討議決定ニ関シテハ更ニ臨時大会ヲ開イテ之ヲ討議スル事トナリ、其間各『ヌクリア』ニ於テ此綱領ノ審議ヲシテ置ク事ニナリマシタ」とする(76-77頁)。
しかし、前述コミンテルンへの2通の報告書中の第2回大会議事・決定内容には、徳田が市川大会の最重要議題の一つとして述べた「綱領問題」は、入っていない。
「然ラバ綱領審議大会[=石神井大会]デハ何ガ為サレタカ」の問いに、徳田は「此綱領審議大会ニハ私ハ出席シマセヌノデ大体後デ聞知シタ事ニヨツテ述ベマス」といいながらも、「審議ノ中心ハ勿論同志ブハーリンノ綱領草案ヲ基礎ニシタノデアリマスガ、最モ問題ニナツタノハ君主ノ日本ノ政治及経済上ニ於ケル地位及此制度ノ廃棄ト云フ事デアリマシタ。併シ遂ニ此事ハ解決ヲ見ナカツタノデ、遂ニ綱領審議ノ効果ヲ得ナイ事ニナリマシタ」とあたかも出席したがごとくに話す(78頁)。ただしこの時点では、「ブハーリンノ綱領草案」の内容を、「既ニ極東民族大会ノ時ニ指示サレタ闘争題目」「先ヅデモクラシー徹底ノ為メニ普通選挙運動及一般労農大衆ノ政治行動ニ対シテノ党ノ政策」(78頁)と「行動綱領」風にしか説明していない。すでに日本共産党を離れた荒畑寒村に、「第一次日本共産党ノ創立大会ハ大正十一年七月デアツタノカ」と予審判事が訊ねたのは、30年2月18日、徳田供述の2週間後のことであった(同12頁)。
ところが、いったん27年テーゼ、28年第1回普選まで、徳田なりの武勇伝風党史が述べられた後の1930年4月1日、豊多摩刑務所内での第23回訊問で、予審判事藤本梅一は「日本共産党綱領草案(註、草案ノ序言的部分ハ全部同志ブハーリンノ綱領草案ト一致スル)」(「共産党インターナショナル綱領問題材料集」一九二四年カール・ホイム発行独文ヨリ訳出)なる文書を徳田に示し、「第一次共産党第三回大会ニ於テ審議サレタブハーリン起草ノ日本共産党綱領草案ト云フノハ斯様ナモノデナイカ」と訊ね、長文の「之ヲ読聞ケタリ」。徳田の答えは、2か月前には自分は出席していなかったと断っていたはずなのに、「之ト同一内容ノモノデシタ。 被告人 徳田球一」(同181頁)──これが、今日まで続く「神話」の誕生の瞬間であった。
もともとコミンテルン第4回大会でブハーリンが日本共産党綱領草案を起草し、それを高瀬清・川内唯彦が日本に持ち帰って石神井大会で討論したという筋書き、石神井大会で討議した草案が「君主制の廃止」を第一スローガンとする24年発行『共産主義インタナショナル綱領問題資料集』所収の日本共産党綱領草案そのものであるという「神話」は、この徳田球一予審訊問調書に発し、野坂参三の伝記を書くために採用された高瀬清の回想により根拠づけられたもので、それを鵜呑みにした村田陽一・犬丸義一らの説である。
しかし、この創生期日本共産党のモスクワへの公式報告書によれば、高瀬がいわゆる22年日本共産党綱領草案をモスクワから持ち帰った形跡はない。そればかりか、第一次共産党検挙事件で警察に押収されたいわゆる石神井会議議事録と、このモスクワへの報告書の内容(後述)は基本的に合致するが、松尾前掲論文が鋭く見抜いていたように、今日知られている日本共産党綱領草案の構成・内容とは、大きなギャップがある。
堺利彦・佐野学署名の石神井大会についての公式報告書は、実は「君主制」には一言も触れていない。相手が日本の官憲ではなく、君主制打倒をコミュニストの常識としているモスクワのコミンテルン執行委員会であるにもかかわらず、である。もしもそれがコミンテルンの草案ないし指令の最大のポイントであるならば、それは、この報告書にぜひとも書かれねばならないはずである。日本の共産主義者により主体的にとりあげられ討議された可能性は、この報告書からでもゼロとはいえないが、おそらくこの23年3月時点では、コミンテルンからも「君主制廃止」スローガンは、必須のものと求められてはいない。
ところが徳田予審訊問調書と市川正一公判論述以来、「転向」した鍋山貞親の1934年「上申書」(社会問題資料研究会編『日本共産党に対する批判・其の二』東洋文化社、1973年、2-6頁)や戦後の鍋山『私は共産党を棄てた』(大東出版社、1949年、61頁以下)、佐野学・鍋山貞親監修・風間丈吉『モスコウとつながる日本共産党の歴史』(上巻、天満社、1951年、102頁以下)までが、石神井大会での「君主制廃止」討論を証言し記述している。近藤栄蔵も『コンミンテルンの密使』(文化評論社、1949年、187頁)ではあっさり済ませていた石神井大会の記述を、遺稿『近藤栄蔵自伝』(ひえい書房、1970年、266頁)では「天皇制廃止」問題中心に加筆修正している。もっともこれらも論拠を辿ると、高瀬清の回想に帰着するようである。はたしてそれは、本当なのだろうか?
この問題については、石神井大会報告書の他の部分で、裏付けが得られる。上記の報告に続く部分では、日本の党内での意見の不一致の二つの論点として、「政治革命とプロレタリア革命の関係」「合法プロレタリア政党組織化の是非」があげられ、対立する二つの立場が詳しく報告されているが、君主制問題は、全くでてこない。官憲文書と議事録から従来の研究でも言われてきた「第一革命と第二革命」「無産政党問題」が中心論点であり、それに尽きる。その詳細は、次回以降に紹介しよう。
報告書では、「綱領の形式」=全体構成が「初めて」問題になったとして、以下のようにあげている。おそらくこれが、コミンテルンから送られてきた綱領草案の柱(構成案)であり、石神井会議議事録で四段に分けられたもので、松尾尊兌が日本共産党綱領草案との齟齬・不一致を指摘した、当のものである。
報告書によると、この四段構成そのものについてはおおむね反対はなかった。しかし、上述二つの対立点に関連して意見がまとまらず、執行委員会のもとに綱領委員会を設け、草案を3か月以内に起草することにした、という。
どうやらコミンテルンから1923年3月初めに日本に届いたのは、第4回大会に提出されたブハーリンの世界綱領(上記第汳iの基本素材)と、日本の綱領を作るための指令だけで、その「綱領草案」の中身は、後に『綱領問題資料集』に収録される立派に成文化されたものではなく、新綱領作成のためのガイドラインのみだったようである。ただし、議事録で堺利彦総務幹事長や佐野学国際幹事により説明されたような、各項目の基本的特徴づけは添えられていたかもしれない。「現在の政府は、封建分子軍閥にある」といった第段の論点に関わる限りで、だれかが君主制に言及した可能性も、ゼロとはいえない。そこで大逆事件を知る堺利彦らがそれをいさめ、アメリカ帰りの猪俣津南雄らが抗議するシーンがあったり、だれかが「オヤジ」の名で天皇に論及することも、なかったとは断言できない。とはいえ、討論の基調が「第一革命と第二革命」にあったことは、報告書からも議事録からも、一目瞭然である。
末尾で報告書は、綱領そのものは作れなかったが、「日本共産党の過渡期の戦術」(上記第「段)についてはある合意点ができたとして、以下の諸点を挙げる。
また、合意にいたらなかった対立点として、以下の4点を挙げ、詳しい日本の情勢は「拡大執行委員会への我々の代表同志青木」=荒畑寒村に説明させる、と結んでいる。
このコミンテルンへの公式報告書による限り、これまで「君主制廃止」を中心に論じられてきた石神井会議の様相は、ずいぶん異なったものになる。コミンテルンの指令中に当代日本国家の特徴づけや「君主制の廃止」スローガンがあった可能性は否定できないが、それが重大な論点になった形跡はない。たぶん、もともとなかったのであろう。
合意に達したという「完全に民主的な政府」という政治的第一要求は、22年1月極東民族大会日本代表団政綱の第一要求「政治制度の完全な民主化」そのものである。ただし、そのさい一緒に提示された「土地の国有化」や「労働者の生産管理」要求は(村田『コミンテルンと日本』第1巻、498頁)、石神井会議合意には入っていない。おそらくコミンテルンの指令にもなかったのだろう。犬丸義一らが「一部承認」と錯覚した「日本共産党綱領草案」の22項目行動綱領とは、項目的にも要求内容・水準でも、ずいぶん異なる。
したがって、今日「22年日本共産党綱領草案」とか「二二テーゼ」として知られるものは、早くても1923年石神井会議以後に作られたものである。さらにいえば、23年6月コミンテルン第3回拡大執行委員会総会ブハーリン綱領問題報告での以下の発言の土台となったのは、この日本共産党報告書、及び、石神井大会決定でモスクワに派遣された荒畑寒村の持参した報告書類であったと考えられる。
しかし、この6月21日時点でブハーリンが「手もと」にあるという綱領草案も、24年『綱領問題報告集』所収の成文と同一とは、考えにくい。せいぜい山川・荒畑・堺の22年日本共産党綱領を日本資本主義論風にソフィストケートした程度のものであったろう。
というのは、この第3回拡大執行委員会の頃、6月5日の日本共産党検挙について、6月中に上海で書かれたと思われる、もう一つの日本語「報告書」がある。署名はないが、「執行委員会の訓令によりて日本を脱走した我々三人」=佐野学・高津正道・近藤栄蔵の合作と思われ、内容と筆跡からして、おそらく佐野学執筆である(f.495/op.127/d.61/81-98)。
そこには、「第一 JCPの近況」「〈四)各部委員会」に「d綱領委員会」の項があるが、以下のような短いもので、ブハーリンのいう「草案」作成に、日本本国の綱領委員会が関与した形跡はない。
更に「第二 今次の検挙事件」についての報告「(1)発覚原因」で、発端となった早稲田大学軍研事件の経緯の説明のなかで、次のように述べる。「君主制廃止」に触れた重要文書が押収されたという認識はなく、比較的冷静に書かれている。
そして「(二)警察側の手中にありと想像せられる物件」では、次のように述べる。
どうやら石神井大会議事録は、すでに一斉検挙前の時点で、もともと押収されても大逆事件の再来につながるような性格のものではないと認識されており、逮捕を覚悟した党員たちにもその旨伝えられ、意思統一されていたようである。これは、高瀬清が晩年に回想する、獄中で堺利彦が死刑を覚悟したり、高瀬自身が取り調べで議事録を示されて天皇制問題を筆記していなかったことに気づき安堵する話とは、大分異なる。
そして、「第三 今後の方針に関する見解」は、次のようになっており、モスクワで綱領を作成する方向を、日本共産党側から提案している。
ここに、第一次共産党検挙事件の結果として、日本共産党綱領の作成が、日本支部=日本共産党執行委員会側からモスクワに託された、と推定できる。
ちなみに、この頃モスクワに派遣されていた「Aoki」=荒畑寒村の予審訊問調書、『共産党をめぐる人々』(弘文堂、1950年)などの回想には、いわゆる日本共産党綱領草案への言及はない。『寒村自伝』では、石神井大会決定として「コミンテルンに提出して承認を得べき綱領草案」を挙げただけで(313頁)、小山弘健との対談では「綱領をどういうふうに問題にしたのか記憶ありませんね」という(小山編『回想・日本の革命運動』第5巻、現代史研究所、1971年、13-14頁)。晩年の石堂清倫・伊藤晃による聞き取りでも、綱領問題への言及は残さなかった(『運動史研究 9』「特集 荒畑寒村」三一書房、1982年)。
荒畑がモスクワで感じとったのは、「ロシアの指導者で日本に亡命し、日本語を解し、日本の事情に通じている者はほとんど絶無」「これではコミンテルンの執行部が、いかに世界の革命的頭脳を網羅していようとも、日本の情勢に関する的確な知識を得て具体的な方針をたて得る筈がない」ことであった(『寒村自伝』400頁)。自分が代表となった第3回拡大執行委員会総会でブハーリンにより日本共産党綱領が言及されたという記憶さえなく、むしろ直前に東京で起こった第一次共産党検挙に心を痛めたことを記している。
荒畑はまた、「君主制の廃止」スローガンについて、既に引用した1930年予審訊問調書で「無産者独裁」の綱領を「理論的ニ追究サレレバサウデアル」ものとしてのみ認めたが、山川均が「市川」大会で「規約」に天皇制廃止を加えることに反対したという「日共伝説の受売り」には、「山川君はこの大会に出ていなかった」事実を挙げて、一笑に付している(『寒村自伝』313頁)。荒畑寒村にとっては、第一次共産党自体が「粗製濫造の共産党」だったが、その後の徳田球一・市川正一・野坂参三らによる「党史の粗製濫造」に、あきれ果てていたのだろう。
そのようにして読むと、松尾尊兌が発掘し詳しく分析した石神井大会議事録に「君主制」論議などなく、「日本共産党綱領草案」の内容に照応する具体的論点がみられない理由がわかる。この23年3月石神井大会討論、6月第一次共産党検挙事件時点でもなお、日本共産党は本稿で紹介した「1922年9月日本共産党綱領」の路線・水準にあったと考えられる。
以上の推定の裏付けとして、ここで、松尾尊兌が石神井大会議事録解読のさいに用いた、第一次共産党事件堺利彦予審調書における綱領問答に立ち返ってみよう。基本資料でありながら、なぜかわが国では活字になっていないので、大原社会問題研究所所蔵の長谷川博がもっていたと思われる写本を用いる。綱領問答は1923年6月8日第2回調書のなかにみられるが、重要なので、長文だが敢えて引用する。なお、筆者は日本語文語体毛筆書き下ろし文書の解読に慣れていないため、冒頭の1-5問は省略し、原本丁数169第6問答以下の暫定読み下しである。
以上の1923年6月の堺利彦による石神井会議供述から分かることは、第一に、堺利彦が予審判事に問われて初めにイメージし答えた「ブハーリンの綱領草案」とは、1922年11月にコミンテルン英文機関紙『インプレコール』に公表された、一般綱領(世界綱領)草案であったことである。
このブハーリン「共産主義インタナショナル綱領(草案)」は、かつて筆者が独文『インプレコール』1921年11月21日号から解読して、コミンテルンにおける全般的危機論の原型として紹介したものであるが(加藤『国家論のルネサンス』青木書店、1986年、191頁以下)、全体が「氈@資本主義的奴隷制」「 労働者の解放と共産主義的社会秩序」「。 ブルジョアジーの打倒と共産主義のための闘争」「「 プロレタリア独裁への道」の全4章で構成された、当時の共産主義革命理論の簡潔な体系的記述であった。問答中の堺の4段の内容紹介は、それに完全に照応している。
第二に、予審判事が第2回訊問で堺に提示した押収証拠「大正十二年押第七七四号ノ二十二」は、その後の問答と、後に紹介するモスクワへの報告書の内容からして、堺の記憶にあった英文『インプレコール』のブハーリン綱領草案であるのかどうかは、はっきりしない。松尾は裁判記録中の全押収物件を整理して「『ヴハーリン』の『プログラム』草案」を「押774-22」に分類したが、このブハーリン世界綱領草案は今日でも邦訳はないから、英文または独文『インプレコール』でなければならない。ところが堺の4段の説明内容に対する予審判事の無関心からして、どうやら『インプレコール』ではなかった可能性がある。
また、この「押774-22」は、今日知られている限りの資料では、堺の第2回調書以外の訊問や公判で用いられた形跡はない。それが堺に提示された後のやりとりからすれば、それは、氤。「の番号が出てくる石神井大会議事録そのもの(松尾のリストの「押774-3」)である可能性が高い。「ブ氏=ブハーリンのプログラム」にしろ「インストラクション=指令」にしろ、「第一革命と第二革命」の論点、「戸田[議長=猪俣津南雄?]」にしろ、ここに出てくるのは、すべて松尾の発掘した議事録及び党規改正案の範囲内での質疑応答である。
仮にもしも「押774-22」が、いわゆる「二二年テーゼ=日本共産党綱領草案」であれば、当然重要な証拠として他の被告への訊問や公判廷でも用いられ、「第二の大逆事件」になるはずであるが、それはもちろんありえない。第3回訊問以後は、この証拠ナンバーは記録に残っていない。
そのため議事録と堺調書を精査した松尾は、「この『押第七七四の二二』そのもの、あるいはその写しが入手できれば一目瞭然となろうが、あるいは今日知られている[日本共産党綱領草案の]邦訳とは異質なもの、すなわち、二二テーゼの骨子を要約したものである可能性もある」と記したが(前掲論文、134頁)、たとえ「要約」ないし「骨子」であっても、日本の情勢分析や君主制廃止スローガンが入っていたならば、物的証拠が乏しく被告らの供述も曖昧なこの治安警察法事件では証拠として法廷に持ち出されたであろう。
実際は、松尾が詳しくリスト・アップしたように、堺利彦の23年末保釈出獄後の24年2月8日第9回調書、及び25年8月20日(=治安維持法制定後)の東京地裁第1審判決文中で、「押774-1」が「英国共産党暫定党規」、「押774-2」が「党規改正」書類、「押774-3」が「議事録」となっており、この3点が物的証拠の中心である。それゆえに、取り調べの重点は、「押774-3」=議事録の筆跡鑑定による書記高瀬清・仲宗根源和の特定に費やされた。「押774-22」は、なぜか使われていない。
どうやら、堺がこの第2回調書の問答で聞かれている「押774-22」の内容は、佐野学のもとから押収されて警察の手に渡り、松尾がアメリカで発掘した、石神井大会議事録そのもの=「押774-3」のようである。皮肉なことに、それは『インプレコール』に載ったブハーリン世界綱領草案と同じく氤。「の全4段で構成されていたが、その内容は、前述のように、ブハーリン綱領草案の氤。「とは対応しない。そのため問答は、官憲側にとっては、よく意味の通らないものになっている。
そのさい堺が、官憲側の「誤解」を意識したかどうかは不明だが、「第一革命と第二革命」の理論問題、「無産政党結成問題」には一般的に答えつつも、日本共産党の存在の有無、石神井大会の有無、ブハーリン指令=「インストラクション」の存在や議長・発言者の氏名特定にはむすびつかないよう供述していることは、明らかである。この時点での「党の秘密」とは、日本共産党結成の事実そのものであり、綱領の内容に立ち入ったものではなかったことがわかる。
第3回以降の訊問で、堺は市川・石神井の会合への出席は認め、共産党もできたらしいと認めるようになるが、自分の積極的関わりは否定し、市川・石神井会合は合法政党結成準備の話し合いだったともいう。23年11月5日の第6回調書では、「党ノ組織ニシテモ石神井ノ会ニシテモ議事録ニ表ハレテ居ル様ナアンナニキチントシタモノテハナク乱雑ナモノテアツタノテス アノ議事録ハ事ヲ誇張シテ」いる、と逃げる。その結果、第1審・第2審判決とも、物的証拠とされたのは「押774-1・2・3」であり、堺に示された「押774-22」ではなかったのである。
この謎の解明は、更なる第一次共産党事件裁判記録の発掘を必要とするが、もしも「押774-22」が英文『インプレコール』のブハーリン綱領であったならば、日本に関係する叙述は全然ない外国語の公刊物であるから、治安警察法第28条(秘密結社・加入)による起訴立件の有力証拠にはなりえない(これら法律問題については、小田中聡樹「第一次共産党事件」『日本政治裁判史録 大正』、渡辺治「治安維持法の成立をめぐって」『季刊現代史』第7号、1976年、参照)。前述した事件後のコミンテルンへの日本語報告書の内容や公判過程からして、コミンテルンからの「インストラクション=要旨ないし骨子」が押収されていた可能性もない。
第三に、堺が「押774-22」を示され訊問された1923年6月時点では、24年1月に『共産主義インタナショナル綱領問題資料集』に公表され、「君主制の廃止」を第一スローガンにかかげた日本共産党綱領草案は、堺はもちろん目にしたことはないし、警察側も存在を知らない。そしてそれは、氤。「の番号などなく、1930年に徳田球一が予審判事から読み聞かされたように、「草案の序言的部分ハ全部同志ブハーリンの綱領草案ト一致スル」と注が付された、全く別個の草案であった。松尾は、議事録と堺調書の解読からこの矛盾に気づき、真実に肉薄したが、石神井討論時にもなんらかの「二二テーゼ」が存在し押収されたと前提したために、鍋山証言に依拠した中途半端な結論になった。
しかし、以上の問答を含む第一次共産党事件の日本側公式裁判記録には、またモスクワに送られた日本共産党の1923年の公式報告書類にも、「君主制廃止」問題は全く登場しない。警察・検察側も「君主制廃止」などもともと問題にしておらず、もっぱら日本共産党結成の有無、「ブハーリンのインストラクション」と議事録中の「第一革命と第二革命」、及び出席者・発言者を問題にしていた。それが、通説では「堺らの天皇制廃止問題の慎重な扱い方、より直接的には[ 議事録から君主制論議を省いた]高瀬の機転によるもの」(小田中前掲論文)とされてきたのであるが、果たしてそうであろうか?
過激社会運動取締法案が流産し、治安維持法が制定される狭間での事件であるから、「歴史の後知恵」ではそのように理解されがちであるが、すでに1924年初めには英独仏語で公刊されていた日本共産党綱領草案が、25年の治安維持法成立過程で問題にされた形跡はない。権力側にとっては「朝憲紊乱」「国体の変革」の格好の事例となったであろうにもかかわらずである。その存在そのものが、どうやら「27年テーゼ」から28年3・15事件にいたる時期まで、知られていないようである(渡辺治教授のご教示による)。
日本共産党綱領草案の日本語訳は、青野季吉「震災前後二三」(『社会科学』1928年10月)や太田黒年男編著『日本左翼運動小史』(新興書房、1929年)、白揚社編集部編『日本共産党小史』(白揚社、1931年)などに伏せ字だらけで紹介されるが、それ以前から『共産主義インタナショナル綱領問題資料集』各国語版は流布していたともいう(犬丸「これまでの日本共産党の資料集と研究の概観」『現代史資料月報』1964年11月、岩村前掲書、103頁)。とはいえ、共産党側でも、当時のコミンテルン文献に最も精通し、無産政党の綱領問題を詳しく研究し論及していた山川均が、「ウワサを小耳にはさんだ」ことはあったが、現物を見たのは「昭和二、三年ごろ」フランス語版『綱領問題資料集』であったという(『山川均自伝』395頁、なお、山川『無産政党の研究』叢文閣、1925年、『無産政党の話』千倉書房、1931年、参照)。
第四に、見方によっては「のらりくらり」と評しうる以上の堺供述は、高瀬清回想のいう「死刑を覚悟した」悲愴な黙秘ないし陳述ではなく、逮捕前に執行委員間で意思統一した通りの、コミンテルン日本支部=非合法共産党結成を隠匿するという方針に沿ったものである。むしろ、6月一斉検挙前に「暁民共産党事件」の欠席判決で豊多摩刑務所に入り、そのため執行委員会決定を伝えられていなかった堺の娘婿高瀬清が、自分の党名=「梅田」を明かすなど、秘密の一部を漏らしていたことがわかる。
同じく別件で事前に逮捕されていた徳田球一は、「警察側の手中にありと想像せられる」印刷工「小林進」=極東民族大会に徳田・高瀬らと同行し、党資金詐取の疑いがもたれていた「小林進次郎」とのつながりからして、堺利彦らから警戒される立場にあった(徳田「わが思い出」『徳田球一全集』第5巻、五月書房、1986年、218、306、424頁、『寒村自伝』292頁)。
もっともその高瀬や徳田さえ、権力側に「君主制の廃止」討論をもらすことはなかったようである。もともとそんな討論は、石神井会議では出なかったのであろう。だから高瀬回想のいう堺の「従容として死につくという悲愴な覚悟」(高瀬『日本共産党創立史話』147頁)や関東大震災直後の混乱した獄中で高瀬が「私はあの記録を予審廷で見ましたが、オヤジのことは一言も書いてありません」と秘かに伝え堺を安心させる話(同157頁以下)は、おそらく高瀬のフィクションである。堺自身が、すでに検挙直後の訊問で「押774-22=744-3」=議事録を目前に示され質問されていたのであり、その後の調書・裁判記録からも、高瀬のいう意味での「悲愴な覚悟」は読みとれない(「震災の獄中」『堺利彦全集』第6巻、法律文化社、1970年、をも参照)。
たぶん真実は、こうであったろう。1922年9月には、山川が起草し堺・荒畑の署名した日本共産党綱領が存在した。それは、コミンテルン第4回大会時に、モスクワで不充分とみなされた。その理由は、高瀬が回想する「天皇制の問題が書いてない」どころか、もっとプリミティヴな社会主義観・世界観レベルの問題であったと思われる。
そこで、コミンテルン全体の綱領作成作業にあわせて日本の新綱領作成が課題となったが、高瀬・川内の帰国する22年12月時点では、ブハーリンの世界綱領草案はすでに独文『インプレコール』21年11月21日号に発表され討議されていたものの、日本についての綱領草案は、もともと存在しなかった。しかし新綱領をつくれという指令は高瀬により日本に持ち帰られ、市川大会で報告され、石神井大会直前にその素材としてブハーリン世界綱領草案と簡単な4段構成の指令が届けられた。しかし日本の共産主義者は、大逆事件以前からの直接行動論対議会政策論、アナーキズム対ボリシェヴィズムの対立の流れを色濃く残しており、審議未了になった。そこに第一次共産党検挙と関東大震災で綱領どころではなくなり、「解党」へと向かったのだろう。
いわゆる「日本共産党綱領草案」は、「最大の半封建的大地主で日本政府の元首たるミカド」を問題にし、「君主制の廃止」を「政治的分野における要求」の第一に掲げるがゆえに、日本の共産主義者にとっては衝撃的なものとなったが、それは実は、1924年初出のドイツ語版に「草案の序言的部分は大きく全体が同志ブハーリンの綱領草案と一致する」と注記されていた(Materialien zur Frage des Programms der Kommunistische Internationale, Hamburg 1924, S.274) 。英語版では、この注が「この草案はブハーリンの草案にほかならない。日本の同志たちは、それに日本共産党の特殊的要求にかんする一章をつけくわえた。ここでは、この補足的な章はのせない」とあったため、村田陽一は『コミンテルン資料集』第2巻(大月書店、1979年)に訳出するさい、「この注は誤解にもとづくもの」と解釈し(610頁、訳注306)、『資料集 コミンテルンと日本』第1巻(大月書店、1986年)再録にあたっては、その英語版訳注を無視してしまった。
しかし、独語版・英語版注は「誤解」ではなく、コミンテルンの側からすれば、もともと1924年に公表された日本共産党綱領草案とは、ブハーリン世界綱領草案の氤。「に、今日「22年綱領草案」とか「二二テーゼ」とよばれている日本に直接言及した部分を付け加えた(第V章?)構成であったと推定できる。これは、当時のコミンテルンの綱領討論における世界綱領と民族綱領との関係に、ぴったりと照応する(加藤『コミンテルンの世界像』84頁以下、参照)。
この第」章=日本の民族綱領の成文は、おそらく関東大震災後の1923年秋に、モスクワのコミンテルン東洋部及び上海のコミンテルン極東ビューローで作られたものであろう。そのさい、岩村登志夫が注目したヴォイチンスキーの役割が重要であろう。
かつて岩村『コミンテルンと日本共産党の成立』が詳しく論じたように、1922年9月のコミンテルン理論機関誌『共産主義インタナショナル』各国語版に掲載されたヴォイチンスキーの論文「日本の階級闘争」は、日本における封建遺制評価、君主制=絶対主義説や普通選挙・合法大衆政党への積極的態度において、いわゆる日本共産党綱領草案に連なる認識を示していた。
しかし、この方向が、コミンテルンの公式見解として強く打ち出されるのは、1923年11月5日にコミンテルン執行委員会で決定され、11月8日に日本へ送られたという極秘テーゼ「震災後における日本共産党の戦術についてのテーゼ」以降と思われる。そこでは、「日本の軍閥と封建的官僚の政府」に対して、「勤労者の統一戦線」を樹立し「現存体制の打倒」スローガンを掲げる必要を強調していた(村田陽一編訳『資料集 初期日本共産党とコミンテルン』大月書店、1993年、3頁以下)。
その同じ頃、上海のコミンテルン極東ビューロー責任者ゲ・ヴォイチンスキーは、第二論文「日本におけるブルジョアジーと封建制の残存物」(『新しい東方』第4号、岩村前掲書、101頁以下)を書いており、それを「1923年12月頃刊行」と紹介した岩村は、その内容が24年発表の日本共産党綱領草案にも反映された可能性があるとして、「1923年6月のコミンテルン第3回拡大執行委員会総会は、3月の日本共産党第1回全国協議会による綱領草案採択が荒畑から報告され、草案自体の確定がブハーリン報告に示唆されるが、その後の修正がなかったという保証はない」と述べていた(103頁)。この前段の記述は史実に照らして訂正さるべきであるが(3月石神井会合は全国協議会ではなく臨時党大会、6月荒畑報告に綱領問題は登場しない)、その末尾の叙述は、綱領草案成文が23年秋に作られたと考えると、合理的に説明できる。
ただしこの頃、国内の日本共産党臨時中央ビューローも、関東大震災後の党再建に取り組んでいた。国内に残された党員たちは、正規の党大会を開き、23年11月10日付で英文タイプ報告書「To the E.C.of the C.I.」(f.495/op.127/d.58/72-74)、11月15日付で日本語手書き報告書(f.495/op.127/d.69/64-76)をモスクワに送っている。
そこでは、10月22日に秘密裡に党大会を開き、臨時ビューローを廃止し、本山[饒平名智太郎?]を総幹事(GS)、野田[佐野文夫?]を国際書記(IS)とした6人の国内執行委員会(山田[赤松克麿?]=財務幹事、大井[北原龍雄?]、田[立田泰?]、朝日[浅沼稲次郎?]が幹事)を再建したこと、 6月検挙、関東大震災後の戒厳状況下で、党組織を整理・再編し、「合法活動」に専念し普選運動・合法労農政党など「民主主義運動」に積極的に加わる新方針を決定したこと、そのため党内に16名の委員から成る政党組織準備委員会を設けたことなどを、モスクワに伝えた。無論、組織の維持でせいいっぱいで、綱領討議どころではなかったが、3月石神井大会時に比すれば、「第一革命」説・「合法無産政党積極設立」説の全面採用であり、党内路線対立の解消であった。
しかしモスクワでは、この6月検挙と関東大震災後の大杉栄虐殺、亀戸事件、朝鮮人虐殺、戒厳状態を見て、「現存体制の打倒」に力点をおいた新指令を作り、「君主制の廃止」を第1スローガンにした綱領草案を仕上げようとしていた。国内共産党が天皇制国家の弾圧・テロルからようやく合法政党結成・普選運動積極参加の方向に歩みだしたのに対して、モスクワのコミンテルンは、それを封建遺制とその国家機構の分析にまで徹底し、政治的にも「君主制の廃止」スローガンを正面に掲げるよう求めたのである。
佐野学・近藤栄蔵らの入露後、モスクワには、片山潜を中心に佐野・近藤らを加えた「在外日本共産主義者団」が設けられていた(f.495/op.127/d.58/28-43)。彼らこそ、コミンテルン執行委員会東洋部と国内共産党の橋渡しになるはずであったが、これら在露日本人共産主義者も、日本共産党綱領草案作成に加わったかどうかは不明である。その後の回想や獄中供述等から判断すると、積極的役割を果たしたとは考えられず、おそらく日本人の手の届かないところで作られたものであったろう。
だから、生まれたばかりの日本共産党にとっての「君主制の廃止」スローガンの衝撃は、1922年1月極東民族大会でも、同年9月創立綱領作成時でも、23年2月市川・3月石神井大会においてでさえなく、23年6月第一次共産党検挙事件、9月関東大震災以後の最も活動困難な時期に突然モスクワで発表され、ようやく自力で普選運動積極参加、合法政党設立の方向に歩み出した国内共産党を「解党」に導く一契機となったと思われる。もっとも「解党」論議のなかでさえも、日本共産党綱領草案や「君主制廃止」が中心論点であった形跡はないのであるが。
それを、1930年の徳田球一は、「27年テーゼ」を念頭において、「君主制の廃止」が党創立準備期からのバックボーン・中心論点で政治目標であったかのように歴史を捏造した。この、いまや治安維持法を持った天皇制権力と、冒険主義的な「武装共産党」「非常時共産党」獄中指導部との奇妙な合作=逆方向からの利害の一致として、「一貫して天皇制に反対した共産党」という「神話」が、一人歩きを始めたのである。
おそらくその徳田球一・市川正一らの公判闘争の筋書きに触発されて、重要当事者の一人であった高瀬清は、自ら歩んだ軌跡をおぼろげに回想し、自分がコミンテルン第4回大会時に日本共産党綱領草案を持ち帰り、「君主制の廃止」が石神井大会での中心論題であったと前提して、その討論内容・波紋についての、あれこれの「伝説」を創作したのであろう。第一次共産党について述べることの少なかった山川均が、石神井大会での天皇制討論について、「真偽は保証できません」「石神井大会には私は出ていないし、その他の機会、たとえば堺さんや荒畑君などとの私的な話の中でも、天皇制の問題を論議したことは一度もなかった」と言い切ったことの意味が(『山川均自伝』395頁)、改めてここに浮かび上がってくる。
最後に残された問題は、その「解党」を受けて、1925年1月上海での日本共産主義者会議で採択されたとされる 「上海テーゼ」の、次のような叙述の解釈である。
このいわゆる「上海会議一月テーゼ」は、1933年頃に東京地方裁判所検事局思想部でつくられた謄写印刷版が、1964年に山辺健太郎『現代史資料』第14巻(みすず書房)に収録されて、知られるようになったものである。そのさいの官憲訳は、上記引用の「絶対主義」が「専制主義」、「君主制反対」が「専制政府に対する」となっていたが(同書37頁以下)、1993年に村田陽一が、本稿の資料と同じ旧ソ連共産党ML研コミンテルン・アルヒーフから英文タイプ文を発掘して『初期日本共産党とコミンテルン』に新たに訳出・収録した(ただし典拠の資料番号は不明、「解題」ではヴォイチンスキー執筆、ロシア語から訳出とされている)。
本稿の立論との関わりでは、官憲訳でも村田訳でも「二年前に共産主義インタナショナルによって決定された日本共産党の綱領案」と述べられているのがポイントで、1925年1月の「二年前」とすると、日本共産党綱領草案は22年末ないし23年市川・石神井大会期に「共産主義インタナショナルの決定」であったことになり、その時点ですでに「絶対主義=君主制」反対スローガンがコミンテルンから指令された、ということを意味する。したがって、この「上海テーゼ」からは、むしろ通説の方が合理的に説明できる。
しかし、以上に紹介してきた1923年期の日本共産党からモスクワへの報告書類からは、「絶対主義=君主制打倒」の方向性は、理論的にも政治的にも見出しえない。むしろ封建遺制=軍閥官僚とブルジョアジーとのブロック権力説が支配的である。そして、山川均は、この「上海テーゼ」についての高橋正雄の質問に答え、「私が読んだものには、そういう部分[=「天皇制打倒」スローガン]はなかった」と回想している(前掲『社会主義』座談会、48頁)。荒畑寒村の「いわゆる上海テーゼ」の理解も、「解党の誤謬を認めて再建のために積極的な運動を開始すること」であったというものである(『寒村自伝』469頁)。「22年綱領草案=君主制廃止」の神話は、結局「27年テーゼ」以降のものではなかろうか? この問題については、筆者は「上海テーゼ」の原文を確認しえないため、保留にしておこう。
今日「22年テーゼ」ともよばれる1924年『綱領問題資料集』に収録された「日本共産党綱領草案」とは、おそらく23年秋に、コミンテルン極東部で成文化されたものである。それはいわば、第一次共産党のモスクワ製墓碑銘であった。
「君主制の廃止」が、日本共産党創設時からのメイン・スローガンであったというのは、1930年代初頭に徳田球一・市川正一らにより政治的に創作された「神話」であった。
その「神話」が産み出され、「歴史的事実」として流通し、佐野学・鍋山貞親・風間丈吉ら後に「転向」した人々にまで信奉され、高瀬清や野坂参三らによって「革命伝説」に仕上げられて今日まで受け継がれてきた共産主義者の日本的意識構造こそ、これからの社会科学・歴史学の対象とされなければならない。
そして、歴史的に実在したいわゆる第一次共産党とは、山川均・堺利彦・荒畑寒村に代表される、後の「労農派」から日本社会党への系譜、日本型左翼社会民主主義者の指導する党であった。今日の日本共産党は、その「解党」の後に、スターリン指導下のモスクワ製政策・規約を擁してその遺産を簒奪し、再出発したものであった。
レーニンの死に前後するこの時期、コミンテルン全体においても、ドイツにおけるローザ・ルクセンブルク主義批判や初期統一戦線戦術の後退など「ボリシェヴィキ化」が始まる。歴史的に見れば、いわゆる日本共産党綱領草案は、通説のいうコミンテルン第4回大会統一戦線戦術の日本への適用というよりも、レーニン時代の堺・山川・荒畑指導部からスターリン時代の渡辺政之輔・徳田球一・佐野学らの指導への転換を伴う、日本における早発的「ボリシェヴキ化」の出発点となる。組織構造も、それに伴い「民主集中制」へと変貌する。
ちなみに、「福本イズム」の影響下に再出発した1926年12月五色温泉大会を「第3回大会」とするのも、正しくない。第一次共産党検挙と関東大震災の後、1923年10月22日に秘かに開かれた党大会報告書(f.495/op.127/d.69/64-76)があるからである。
ひとつだけ、従来の諸説との関わりで、典拠の問題に触れておこう。今日の日本共産党公式党史、野坂参三『風雪のあゆみ』、村田陽一・犬丸義一説などの有力な土台となった高瀬清『日本共産党創立史話』の信憑性の問題である。高瀬は、確かに第一次共産党の貴重な証言者の一人であり、その回想は、検討に不可欠の資料である。しかし、22年極東民族大会で「天皇の廃止」をブハーリンから指示された話に始まり、7月15日自宅大会説、コミンテルン第4回大会日本問題委員会での綱領草案討議、その草案を自分で持ち帰ったという話、23年石神井会議で後の日本共産党綱領草案のプリント刷りが配られ、佐野学がそれを朗読して討論に入った話、堺利彦の死刑の覚悟のエピソードなどは、松尾・岩村・川端らの資料批判をふまえた学問的検討や、今回筆者が発掘した新資料に照らして、徳田予審訊問調書に始まる政治的な「歴史の後知恵」を自らの過去に投影した、フィクションとしかいいようがないものである。「記憶はつくられる」のは避けられないとすれば、その虚構イメージの生成メカニズムを探求する事が、後の世代の仕事である。
もっとも、これから現れるであろう歴史の真実は、本稿がその一端を明らかにしたレベルに留まるものではありえまい。戦前日本共産党史に関わる「神話」「伝説」のほとんどは、史資料によって解体されるであろう。
無論それは、モスクワ資料によってばかりではない。フランス共産党は、党アルヒーフをあらゆる傾向の研究者に公開して「党史」を歴史の審判に委ねる決断を行ったが、日本共産党の党史資料室は、一般公開されるきざしはない。中国共産党史・朝鮮共産党史から光をあてる作業も進んでいない。戦前社会運動の証人たちは、次々に世を去りつつあるが、そうした人々の記憶を保存する仕事は、おおむね個々の研究者の努力に任されている。当時の共産主義運動が「プロレタリア国際主義」を旗印にしていた以上、モスクワのみならず世界に散在する日本問題資料について、系統的に収集し保存する集団的しくみ・作業が必要であろう。
本稿との関わりでは、創立大会で綱領と共に採択された規約(Constitution)にも英文の正文があったと考えられるし、モスクワのアルヒーフを精査すれば、コミンテルンの綱領問題委員会議事録、第4回大会日本問題委員会議事録、高瀬清・川内唯彦のモスクワでの言動を示す個人ファイル、(22年ではなく)23年秋日本共産党綱領草案作成の経緯、コミンテルン側の山川均・堺利彦・荒畑寒村評価、片山潜ら在露日本人共産主義者の果たした役割、大庭柯公スパイ容疑粛清事件の真実、等々も明確になるだろう。本稿の範囲内で一つだけ仮説を述べれば、今回紹介した22年綱領・23年報告書・石神井大会コミンテルン指令等は、高瀬清・川内唯彦ら日本共産党員によってモスクワに届けられたものではなく、おそらく中国共産党員・朝鮮共産党員を含む上海経由の密使によって、さらには吉原太郎ら赤色ブローカーの影の暗躍によって、交信されたものであったろう。
その根拠等を含め、次回以降は、本稿では22年綱領との関わりでのみ一部を紹介した、1922・23年の日本共産党公式報告書類を中心に、資料そのものを紹介する。