『大原社会問題研究所雑誌』第489/492号(1999年8月/11月)掲載


 

第一次共産党のモスクワ報告書

(上)

 

加藤 哲郎


 本誌1998年12月号及び99年1月号の論説で日本共産党の1922年9月綱領を解読したさい、1923年に創設期共産党からコミンテルンに送られた公式報告書類が存在し、その解読によって、23年2月市川での第2回大会、3月石神井での臨時大会の議題・討論内容が、従来の通説とは大きく異なる様相を呈してくることを述べた。

 そのさい、筆者の手元にあり、念頭においていたのは、98年6月に閲覧しえた、以下の34点のドキュメントである(末尾カッコ内はロシア現代史資料保存研究センター・アルヒーフの所蔵資料番号、#はそれ以前の整理番号と思われるが、いつだれが付したかは不明)。

 このリストは、筆者が内容を解読して時系列に並べたもので、見られるように、旧ソ連邦共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所時代につけられたファイルの順番通りではない。これらの資料が保存されていたこと自体は、後世の研究者にとって朗報であるが、旧ソ連邦共産党コミンテルン・アルヒーフにおいて、日本問題についての資料がいかに非系統的に所蔵され整理されてきたかを示し、今後の本格的研究のためには、すべての所蔵資料を閲覧しなければならないことを意味する。

 同時に、そうした資料が日本で入手できない以上、今後の日本社会運動史研究では、官憲資料や関係者の回想・証言類と共に、これら第一次資料の閲覧・収集・整理・解読が不可欠であることをも示唆している。

 これらのほかにも、Aoki=荒畑寒村がコミンテルン第3回拡大執行委員会総会のために書いたと思われる英文労働運動報告書(The Present Condition of the Japanese Labour Movement, f.495/op.127/d.61.124-137)、日本語や英語の青年運動・水平運動についての報告書、片山潜、大庭柯公ら在露日本人の手になる日本語政治分析文書等があったが、ここでは省略する。

 以下、それらの資料の概要を紹介し、第一次共産党の実相に迫ってみよう。今回は分析は極力禁欲して資料紹介に徹し、[ ]< >内に翻訳ないし解読上の注を補うに留める。

 

 1 1922年夏創立大会まで

 

 資料1 日本語手書き「通知書」露西亜労農政府外部コムサリ ボレヅチテリンから大日本帝国外部大臣閣下へ、日付なし(RTsKhIDNI,f.495/op.127/d.3/4-5)

  この資料は、日付がないためはっきりしないが、革命で勝利したロシア・ソヴェト政府が日本政府に対して行った、最初の外交的アプローチの一つを示すと思われる。旧政府時代の条約を遵守すると共に、相互に内政干渉を行わず、平和的友好と通商関係の再開を求めている。これがなぜ日本共産党関係のファイルの最初の方に入っていたのかは不明。

 資料2 英文タイプ「日本共産党規約」「CONSTITUTION OF THE COMMUNIST PARTY OF JAPAN, The members of the provisional Executive Committee of the Communist Party of Japan, April 24th 1921」全48条付則2条、日本共産党暫定執行委員会署名、1921年4月24日付(f.495/op.127/d.9/11-18)[村田陽一編訳『資料集 コミンテルンと日本』第1巻、大月書店、1986年、484頁以下]

  この資料は、村田陽一により、「日本共産党準備委員会の宣言・規約」として労働運動史研究会編『日本の統一戦線運動』(労働旬報社、1976年)に初めて訳出・紹介された。そのさいの原文は、コミンテルン執行委員会極東書記局機関誌『極東諸民族』第4号(1921年10月15日、イルクーツク)に掲載されたロシア語であったが、近藤栄蔵『コムミンテルンの密使』(文化評論社、1949年、106頁)にある近藤栄蔵・山川均の合作であるとすると、オリジナルは日本文または英文であったと思われる。日付が1921年4月24日と明示されたのは、おそらくこの資料が初めてであるが、それが日本共産党準備委員会の結成日を意味するかどうかについては、今後の研究を待ちたい。

 

 資料3 日本語手書き論文「政治之篇」(#5-DEC.1921)1921年12月16日付、署名なし(f.495/op.127/d.12/68-93)

  岩村登志夫によると、1922年春刊行の極東民族大会記念論集には、N署名論文「日本の政治情勢」が入っており、「憲政会・国民党を極東共和国承認・シベリア撤兵・普選賛成の立場の政党として積極的に評価している……。N署名論文は、他の収録論文と明らかに異質のものであり、その内容からみて、論集収録のもののうちでは最もおくれて、あるいは1922年春に執筆されたとも推定される」(岩村『コミンテルンと日本共産党の成立』(三一書房、1977年、86頁)。また、川端正久によると、N論文では、日本の政界内の「長閥と薩閥」の二つの政治的グループが言及され、「1 世界大戦前後の情勢、2 ブルジョア民主主義運動、3 国家主義運動、4 議会政党の特徴」と構成されているという(川端『コミンテルンと日本』法律文化社、1982年、320頁)。

 本資料は、そのN論文の日本語オリジナルと思われる。その構成を、より詳しく示せば、以下のようになる。

    政治之篇
 
  第一 大戦前後の一般的政治状態
(A) 官僚派の戦時政策──外交調査会の創設
(B) 陸軍閥海軍閥間の軋轢
(C) 大陸政策と南進政策
(D) 最近時の陸軍実質の変化
(E) 朝鮮の施政と対満州政策
(F) 対支那政策
(G) 外務省内の三派
(H) 最近の事態
  第二 ブルチュア・デモクラシイ運動
(A) 普通選挙運動
(B) インテリゲンチヤの諸運動
(C) 貴族界の新現象
(D) フェミニストの運動
  第三 ナショナリストの運動
  第四 各種の政治団体

 その執筆者について、岩村は田口運蔵を示唆し、川端は、サファロフから野中誠之を通じて「日本の政治、経済情勢」について報告書執筆を頼まれ、「杜撰なもの」を書いて提出したという鈴木茂三郎の回想(「わが交友録」『唯物史観』7号、1969年6月、70頁、『鈴木茂三郎選集』第4巻、労働大学、1971年、12-13頁)から、極東民族大会準備のために鈴木が執筆したもの、と推定している(同上書、320-321頁)。

 筆者も、「明治維新後の五十年間を通して日本の政治史を一貫してをる二個の官僚閥族たる長閥及び薩閥がある。彼等は最初には、薩長首領の妥協提携に依つて維新の革命を就成したものである。薩長の暗闘が政治に表面に現れたのは、第二西園寺内閣と第三桂内閣との瓦解の時であつた。其際は陸海軍大臣が政府の対議会政策に反対して内閣の一致を欠かしめた為めに両者ともに辞職の止むなき至らしめたほと彼等の反目は既に激烈になつてゐた 。……」といったジャーナリスティックな内容・文体と、大原社会問題研究所所蔵鈴木茂三郎資料との筆跡の酷似から、鈴木茂三郎のものと判断する。 

 資料4 英文タイプ極東民族大会日本代表団文書「Program of the Far Eastern Conference, Moscow December 28, 1921)1921年12月28日付、署名なし(f.495/op.127/d.12/108-119)

 これは、わが国の極東民族大会研究で言及されたことのない文書のようである。極東民族大会は、当初1921年11月にイルクーツクで開催される予定が予備会議のみとなり、12月25日にモスクワ開催に変更となって、徳田球一・吉田一ら日本からの代表団は12月31日夜イルクーツクを出発し、翌22年1月16日にモスクワに到着するので(川端前掲書、156-157頁)、この21年12月28日の「極東会議綱領」は、アメリカからモスクワに直行した片山潜、渡辺春男、間庭末吉、野中誠之、二階堂梅吉、鈴木茂三郎のなかのだれかの執筆となる。6−^−c「日本のための綱領」は本連載で既に訳出したので、以下には構成のみを訳出する。

     極東会議のための綱領
 1 極東及び世界の国際情勢
 2 極東諸国のための綱領
 3 中華民国
  ^中国情勢、国内・対外事情、_社会的・産業的諸条件
 4 朝鮮
 5 シベリア
 6 日本
  ^国際・対外情勢 a 国内情勢、b 日本の対外関係、c 日本のための綱領   
          [_はなし]
 7 極東における共産主義インタナショナルの任務

 資料5 日本語手書き極東民族大会日本代表団「決議書 第三共産党国際同盟執行委員同志チノヴェフ宛」吉田一、北村栄以智、和田軌一郎、小林進次郎の4名署名の無政府主義を放擲し共産主義者になる宣言、1922年1月23日付、梅田良三・水谷健一が連署(f.495/op.127/d.36/1-2)

 この極東民族会議日本代表団内無政府主義者の自己批判については、徳田球一予審訊問調書が、「スターリンハ無政府主義ノ小『ブルジョア』性ヲ強調シ、其非組織的、非革命的事実ニ関シテ『ロシヤメンシェヴィキ』及『エスエル』等ノ判例ヲ引イテ大ニ之ガ克服ニ努力シ、遂ニ吉田以下四人ヲシテ彼等ノ誤謬ヲ認メシメ、共産主義者タルベキ声明ヲ為サシメタノデアリマス。従ツテ吉田一以下四人ハ、日本ニ於ケル共産党組織ニ参加スベキ事ガ誓ハレタノデアリマス」と述べている(『現代史資料』第20巻、みすず書房、1968年、71頁)。

 従来の研究では、印刷工北村栄伊智の名前の表記について、「北村英一、英以智、栄一」など不統一であるが、この資料の自筆署名から「栄以智」と確定できる。

        決議書
 
  私達は是迄無政府共産主義を標榜してこれが貫徹に向つて猛然たる行動を継続して来たが入露三ヶ月在露国の同志諸君から露国革命の経過を聞き且つ私達の運動に付いて忠告を受けた。モスクワに於ては特に同志チノヴェブ、スターリン、ベラ・クーン、ブランダ、サファロフの諸君の懇篤なる忠告と露国革命の経験に付いて充分なる説明を受けた。そこで私達はこれ迄の自分等の運動に付いて充分な討議をした結果私達の運動上に欠陥を見出し自分達の目的を貫徹するには一大組織と労農独裁の必要を感じた。茲で私達は無政府主義を放擲し共産主義者たることを宣言し第三国際共産党の宣言、綱領及手段に基いて日本革命運動の途程に就くことを誓ふ。
 日本に共産党があるけれどもその行動たるや私達の意に満たざることが多い。故に私達は下記二名の日本共産党員と相謀った所彼等と意見の一致を見たので、相団結して既存の共産党の態度如何に拘らず私達の運動を貫徹することを誓ふ。
        一九二二年一月二十三日  
        右署名  吉田 一、北村栄以智、和田軌一郎、小林進次郎 [自署]
 右決議の信実なることを保証し上記四名と一団となり新なる決意を以て日本革命運動の途程に就くことを誓ふ。
        一九二二年一月二十三日     
         右署名 梅田良三 水谷健一 [自署]
 第三共産党国際同盟執行委員 同志 チノヴェブ
 

 なお、「梅田良三」は高瀬清、「水谷健一」は徳田球一の党名とされる(ユーリー・ゲオルギエフ「片山潜と第1回勤労者大会」『今日のソ連邦』1979年3月1日、5号、21頁)。 

 資料6 英文タイプビラ「Japanese Militariam and Genoa Conference, Japan, April 4, 1922, Central Executive Committee of of the Communist Party of Japan」シベリア兵士宛アピール(f.495/op.127/d.12/1-3)

 資料7 英文タイプビラ「Boycott of Japanese Goods and Japanese Soldiers in Siberia, Japan April 10,1922, Central Executive Committee of the Communist Party of Japan」同上(f.495/op.127/d.12/4)

 資料8 日本語活版ビラ「西比利に於ける日本の兵士諸君」1922年6月、日本共産党中央委員(f.495/op.127/d.12/5)

 以上の3点の資料は、いずれもシベリア出兵中の日本兵士宛につくられた宣伝ビラで、英語のものは実際に撒かれたかどうかは確認できない。資料8は資料6の日本語版であるが、日付が2か月遅い。いずれも「日本共産党中央委員」名で発行されている。 

 資料9 英文タイプ報告書「日本共産党報告書、The Report of the Communist Party of Japan」署名・日付なし(f.495/op.127/d.58/75-97) 

 表紙に日本語で「日本共産党報告書」とある。後にモスクワで付されたと思われる「1923」の上書きがあるが、報告内容は原内閣から高橋内閣の時期までであるので、執筆は1922年春、即ち日本共産党創立大会以前、準備委員会段階のものと思われる。日本語からの翻訳ではなく英語でそのまま書かれたと思われる文体と内容から、「暁民共産党」のリーダーであった近藤栄蔵の執筆か? 長文で、以下のような項目が書かれている。 

 政友会、民政党と同志会(桂と同志会、憲政会)、国民党、研究会、官僚、軍閥、国家社会主義者と君主主義者[Loyalist]、急進ブルジョア民主主義者、高橋内閣の一般政策、国家事情(地方政策、普通選挙問題)、思想統制政策と革命運動、軍縮と軍国主義、外交、思想運動・革命運動の傾向、労働運動、小作組合、被差別者、産業状態、工場数・資本・労働者数、鉱業、漁業、経済状態、横浜造船ストライキ、芝浦組合、友愛会の態度、浅野造船ストライキ、石川島ストライキ、ポスター問題、軍事宣伝、党の若干の情報 

 このなかで、「経済状態」の項の末尾に、この報告書の特徴が現れている。

 貨幣流通の重苦しい諸条件によってひきおこされた企業閉鎖・操業短縮による限りない失業は、ますます硬派路線を増長させ、公衆の不安をかきたてた。この社会不安は、不可避的に、なんらかの気懸かりな社会変化を必要とする。この契機が、面白い大仕事を計画しているといわれる山師たちに、絶好の機会を与える。それは、帝国主義者であり、君主主義者とその追随者たちである。1921年3月の皇太子訪米時に彼らが「三月革命」と呼んだ革命を起こそうと計画した連中は、いったん失敗した。
 我々は、日本における特異な傾向を見てきた。多くの他の国々では、労働者と小ブルジョアジーの一部による、官僚と資本家に対する革命が企図されている。だが日本では、労働者と官僚と軍国主義者の多数によって、資本家に対する革命が企図されている。もちろんそれらは相互につながりはなく、共同するものではない。階級的に意識的な労働者がなぜ社会革命を欲するかは、説明する必要はないだろう。しかし軍国主義者や官僚がなぜ資本主義権力を打倒しようと企図するのか? なぜならば、彼らは資本家の権力の急速な増大を見てきて、いまなお増大しているのを見て、政治権力を支配する希望を失いつつある。そして、増大した資本家の権力を破壊し権力を彼ら自身の手中に得る唯一の途は、ミカド[天皇]を彼らの側に持つことであり、ミカドの名における富の国有化を望んでいる。

 日本共産党の現況については、「党の若干の情報」の項に、以下のような叙述がある。いうまでもなくここでの「党」とは、通常「日本共産党準備委員会」とよばれているものである。

   ポスター事件
 
 我が党は、ワシントン会議に反対するキャンペーンを実行するように、というコミンテルンの指令を受け取り、32種類の「ステッカー」を印刷した。それをいつ使うべきかの指示を添えて、全国のすべての労働団体に送った。
 [1921年]11月11日、東京・京都・大阪・神戸・広島・福岡・横浜その他の大都市が、活動の中心になった。店のショーウィンドー、公衆電話、街頭のクルマ、駅がこのステッカーで溢れた。東京のメイン・ストリートである銀座通りがステッカーでおおわれた。当局はそれを知って大騒ぎになった。200人の男女が検挙されて一晩を過ごし、何人かは3週間も調べられた。しかし何も出てこなかった。どこでそれが印刷され、どこから誰によって持ち込まれたかは、わからなかった。しかしもちろん、政府は社会主義と共産党を非難した。」[『近藤栄蔵自伝』ひえい書房、1970年、227頁以下、参照]
 
   党活動
 
 私が帰国して以来、党はいくどか、すべての革命的グループを統一しようと試みた。そして、これらグループから共産主義者をリクルートしている。まずわれわれは、ロシア飢餓救済連盟を組織し、48団体が加わった。その第一回代表者会議は、1921年11月25日に東京で開かれ、代議員たちにより宣言と綱領が起草されて全国に送られた。何人かの急進的作家は原稿を提供し(1頁8円、彼は200部を寄付した)、何人かの美術家は絵を寄付し、すべての労働組合においては喜んで宣伝が実行された。しかしまずいことに、政府は「共産党はロシア飢餓救済を急進的宣伝を広めるために組織している。だからわれわれはそのような組織を弾圧しなければならない」と宣言した。弾圧措置がとられ、我々は集会場を借りたり美術展を開くことはできなくなり、委員会の何人かは逮捕された。これがステッカー事件と反軍宣伝のその後である。そしてB・グレイ事件[『近藤栄蔵自伝』239頁以下、参照]については、宣伝することが困難であるのみならずタイミングも悪く、党はしばらく宣伝を見合わせることを決定した。
 何人かの大阪からの代表を含む、約30人の労働組合代表者によって、急進派の会合が持たれた。日本の働く人々を政治的経済的に正しい革命的組織の方向に統一する方法と手段を話し合うための秘密会議で、もちろん招待状が送られた。労働社(約500人加盟)、時計工組合(800人)、信友会(500人)、正進会(500人)、日本坑夫総同盟(2000人)と共産党に対してである。
 代表者たちのあいだでは、共通の問題での緊密な協力の必要性について理解に達した。この会議に出席したすべての代表者は、労働界と社会主義運動の傑出した人々で、我々は共産党宣伝同盟をつくろうと計画した。その執行委員会に参加すべき最良の労働者は数人しかいなかった。この会議では執行委員会の再組織が決議され、執行委員の3分の2は労働者とすべきとされた。
 「かつての無政府主義者は共産党に加わることに同意した」「党は定期刊行物をもち、全党員がそれを支援すべきだ」「大会を近い将来にもち執行委員会を再選挙すべきだ」──もちろんこの会合は、労働運動においてその勇敢さを示してきた労働指導者のなかの信頼できる人々の秘密会で、その第一回会議は東京で1921年12月5日にもたれた。
 次の会合を招集する前に、反共産党法案が貴族院で提議され、われわれはこの法案に反対するキャンペーンに大部分の時間を割いた。いくつもの秘密の会合場所が警察に知られ、秘密の大会をもつことはいっそう困難になった。党員たちはすべての著名な資本家、両院議員と当局者に死刑執行状[a letter of the death sentence]を送り、彼等を恐怖で震え上がらせた(その手紙は日本革命法廷委員会の名で出された)。彼等は500円の賞金をつけて犯人をつかまえようとした。
 労働組合の全代表者の第二回会合は、[1922年]3月に開かれた。しかし会議を始める前にその場所は警察に急襲された。全代議員は逃亡しなければならなかったが、我々は、我々が信頼できる人々に個別に連絡して相談したところ、全員が統一に同意した。それ以来党は、よい仕事をしている個々人に対して、選考のためのある任務を与えてきた。
 
   上海との連絡
 
 上海への連絡は、いまのところうまくいっている。安全に日本に手紙を送るいくつかの方法があり、我が党の代表者が上海にいて、日本へのいかなる連絡もなすことができる。
日本共産党は、西洋共産党とくらべると若くて弱い。労働運動自身、30年足らずの歴史しかない。しかし労働運動の発展は、日本近代産業の発達と同じである。日本の産業は西洋諸国が200年かかったその同じ過程を、60年で達成してきた。
 党は前述のように若いが、それゆえに、共産主義の宣伝が届きさえすれば、急進的な人々は私心なく今日の革命的流れに容易に身を投ずるのを見いだすだろう。この大きな革命的流れのなかで、無政府主義と共産主義の統一が可能になる。日本の無政府主義は、西洋諸国のアナーキズムとは異なり、むしろサンディカリズムに傾いている。そして日本の労働運動は、友愛会のような保守的な流れでもたいがい反議会主義であり、彼らはいまや綱領から普通選挙権を削除した。今日の労働者のモットーは、「職場委員会の樹立」「8時間労働制」「最低賃金保障」「解雇・退職手当」である。「失業反対」やいくつかのストライキでは「プロレタリア独裁」さえ掲げている。
 我々はいまや労働組合の間での宣伝に「シベリア撤兵」「ロシアの飢えた兄弟を救え」という新しい要求を掲げるであろう。
 輸入過剰は巨額にのぼる。政治危機・経済危機は来るにちがいない。我々は小ブルジョアジーと軍人のあるグループが、近い将来に資本家に対する反乱を起こすとみている。
 我が党は人数は少ないが、広範な労働者農民大衆のあいだに共産主義の宣伝を広め、彼らに新しい社会形態は共産主義であること、共産主義を通じてのみ彼らは解放されること、その政府は「ソヴェト」であることを、彼らに理解させなければならない。

 

 資料10 英文タイプ日本共産党綱領「PROGRAM OF THE COMMUNIST PARTY OF JAPAN, Adopted by the National Conventiom of the Communist Party, Sept. 1922, General Secretary Aoki Kumekichi, International Secretary Sakatani Goro」 日本共産党幹部之印(f.495/op.127/d.9/104-107)

 これは、前号までに詳しく紹介・検討した資料なので、ここでは省略する。

 

2 創立大会から23年6月第一次共産党検挙まで

 

 資料11 日本語手書き「日本青年同盟規約」全14条、日付・署名なし(#9-Dec.1922) (f.495/op.127/d.34/1-8)

 全14条のこの規約には、「出さなかった(1922・12)梅田」という上書きがある。梅田とは、コミンテルン第4回大会日本代表高瀬清である。高瀬はキム=共産青年インタナショナルの指令で日本共産青年同盟結成が準備され、共産党第2回市川大会決定により23年4月5日に日本共産青年同盟が非合法下に結成されたと回想しているが(『日本共産党創立史話』青木書店、1978年、202頁)、その準備のために、モスクワで書かれたものかもしれない。ただし「神楽坂下山田製」原稿用紙に書かれ、以下のような単純素朴な内容なので、日本共産党創立大会の決定を党代表としてモスクワに帯同したものとも考えられる。その内容は、いかに非合法下での青年獲得のためのカモフラージュとはいえあまりにも政治性がなく、コミンテルンに従属しキムに加盟する「共産青年同盟」の規約案としては、モスクワでは到底受け入れられないものであったろう。そのためキムに「出さなかった」のであろうか? 筆跡鑑定をすれば高瀬自身の手になるものかどうか確定できよう。 

     『日本青年同盟』規約
 第1条 本同盟は「日本青年同盟」と云ふ。
 第2条 本同盟は次の目的に向いて協力する青年男女のための機関である。
 一、文化人、社会人としての一般的、基本的要件を獲得する為の自他の訓練と修養。
 二、保守的、反動的傾向を排斥し、進歩的建設的傾向を助ける為の宣伝と教化。
 三、広く新思想を攻究すると共に、それと実生活を結びつける為の研究と調査。
 第3条 本同盟の目的に賛成し、本規約を承認し喜んで本同盟の仕事をする十六歳以上二十六歳以下の青年男女は誰でも加盟することが出来る。
 第4条 同盟員はなる丈地方別、職業別、学校別に団体を組織する。三人以上あれば一団体と見る。
 第5条 加盟団体は、その目的、規約及び会員名簿を同盟本部に知らせる。又月々その団体の仕事と活動を知らせる。加盟した団体は、その団体名の上[に?]『日本青年同盟支部』なる文字を付ける。
 但し、加盟を申し込んでも拒否される事があるかもしれない。
 第6条 各団体は委員を選挙して委員会を組織する。委員会は本同盟の最高機関であつて年二回の大会を春秋に開く。但し、十名以下の団体は一名、二十名以上五十名の団体は三名、五十名以上百名以上[ママ]の団体は七名、百名以上は五十名を為す毎に二名を選出する。
 第7条 委員会は規約を決定改廃し、又同盟の仕事の大方針を定め、会計を査定を行へ、其他凡て本同盟の重要事務を決定する。
 第8条 委員会は幹事を選出し、同盟一切の事務を委任する。幹事は幹事会を組織し幹事長一名を選出する。幹事会は委員会の決議に従つて仕事をし委員会に対して責任を負ふ。
 第9条 委員の任期は六ヶ月であるが、選出団体は何時でも委員を止めさせて代を出する事が出来る。幹事の任期も六ヶ月であるが委員会は何時でも止めさせて代を立てる事が出来る。
 第10条 同盟員は入会金拾銭を納め、毎月拾銭の会費を納める。各団体は自己選出団体の委員を経て幹事会、会計幹事に納める。
 第11条 会計は幹事会会計幹事一切を処理し月一回幹事会の名で同盟員に報告する。会計は、委員会大会の審査を受ける。
 第12条 本同盟の経費は会費、特殊寄付金及他の収入を之れに当てる。
 第13条 先輩を顧問に頼みその指導を受ける。
 第14条 本部を東京に置く。
 <事業>
一 教育 講演会─夏期冬期大学、講義録、巡回図書館、夜学校
二 宣伝─機関紙誌発行─活動写真隊、演説会、ペエジエント、出版(リーフレット、パンフレット)
三 調査、定期研究会─通信質疑応答、生活状態、文化的施設等に関する実地調査及び其発表
四 レクリエーション 陸上、運動会、音楽、舞踊、演劇、登山、天幕、旅行、野球、趣味、其他。
 

 資料12  英文タイプ論文「FASCISM IN JAPAN」日付・署名なし(f.495/op.127/d.37/66-70)[I・アオキ=荒畑寒村、C・マツモト「前進するファシズム」『運動史研究 9』三一書房、1982年、96-98頁]

 イタリア・ファシスタ党のローマ進軍は1922年10月、ちょうど日本共産党創立の頃であるが、その頃に執筆された、おそらく日本で初めての、マルクス主義的なファシズム論である。独文プロフィンテルン機関誌『赤色労働組合インタナショナル』1923年7月号に掲載されたI・アオキ[荒畑寒村]、C・マツモト「前進するファシズム」のオリジナル英文原稿と思われ、邦訳は『運動史研究 9』(三一書房、1982年)に収録されている。

 内容的に1922年12月、23年1月の事例が挙げられているので、あるいは23年3月石神井大会後に、荒畑寒村がモスクワに持参した報告書類の一つとも考えられるが、モスクワ・アルヒーフでは比較的早い時期のファイルに入っていたので、一応市川大会前としておく。

 興味深いのは、英文タイプ文に加えられた英語手書きの書き込みで、上記邦訳は書き込み以前のものの全訳であるが、例えばそこで「老社会主義者堺the old Socialist T.Sakai」となっている部分が、手書きで「わが練達の同志堺our veteran comrade T.Sakai」と訂正されるなど、プロフィンテルンではなくコミンテルン機関紙誌に掲載しようとした気配がうかがえることである。また、この英文では23年1月の岡山藤田農場争議への国粋会の介入までが書かれているが、邦訳されたプロフィンテルン機関紙には2月鉱夫連合会、3月水平社への攻撃が書き加えられており、C・マツモトの原稿に、I・アオキ=荒畑がモスクワで加筆したとも考えられる。

 資料13 英文タイプ市川党大会速報報告書「An abstract of the proposed report to the cominntern, Feb.18, 1923, G.S. Sakatani Goro, I.S. Hanada Yoshio」1923年2月18日付、 日本共産党幹部之印(f.495/op.127/d.61/1-3) 

   コミンテルンへの定期報告摘要
 
 1 貴方の指令に従って、日本共産党は朝鮮共産党のためにモスクワに派遣さるべき「在日朝鮮人」として、キム・ジャク・スイ(金若水)を推薦した。彼は離日の準備ができており、貴方の指令を待っている[辛喜秀「在日朝鮮人運動と日本労働者階級」『運動史研究13』三一書房、1984年、参照]。
 2 第4回世界大会への我々の2名の代表[=高瀬清・川内唯彦]とプロフィンテルン大会への2名の労働者[山本懸蔵、棚橋小虎<?>]は、1月に無事日本に帰国した。
 3 日本共産党は、片山同志のウラジオストック到着の正確な日程を知りたい。
 4 2月1日、東京郊外で、党大会が開かれた。5人の執行委員、7人の専門部代表、62人の細胞を代表する代議員が出席した。議事日程は以下の通り。
  A 報告 1 総務幹事報告
       2 国際幹事報告
       3 会計幹事報告
       4 各専門部報告
       5 第4回世界大会代表報告
  B 党規約改定
  C 党の再組織
  D 執行委員選挙 (詳しくは、まもなく続いて到着する、完全な報告書を参照)
 翌日から2日間、新執行委員会がもたれた。3人の幹事会を選出し、各専門部長を任命し、財政をきめ、細胞再組織と次期一般戦術の計画をたてた。
 大会では、上半期の主たる政策として、党は労働組合獲得と労働者からの新党員採用に焦点を絞ることが決定された。
 5 「プロフィンテルン」と「ユース」
 プロフィンテルン日本支部の組織がまもなく発足する。荒畑と山本がそれにあたっている。東京、大阪、京都、九州の実践的に強力で急進的なすべての労働組合の指導者達が加わる予定だ。東京鉄工組合の7人のリーダーが、すでに日本共産党に入党した。そのなかに野坂と山本がいる。
 「ユース」のために、党はビューローを組織した。共産青年同盟はまもなく組織されるだろう。それは23歳以下の党員と、他の信頼できるプロレタリア青年から成る。組織ができる時点では、全同盟員数は百人をこえると見積もられている。
 赤色労働組合と共産青年同盟の双方とも、地下組織となるであろう。
 6 チタで収監された岩田富美夫は、日本共産党とは何の関係もない。彼は中国浪人(中国における「政治的」冒険家)の一人で、国家社会主義者である高畠素之のグループと緊密に結びついていた。日本共産党は、彼が真の共産主義者になったことを証明するまで、彼を帰国させることを望まない[荒畑寒村『寒村自伝』343頁以下、参照]。
 7 高尾平兵衛は、最近日本共産党から離党した[has seceded]。
 
           総務幹事 サカタニ・ゴロウ[自署、堺利彦]
           国際幹事 ハナダ・ヨシオ [自署、佐野 学]
 
                日本共産党幹部之印
 

 資料14 英文タイプ市川党大会詳細報告書「A Report to the E.C. of the Comintern on the General Status of the J.C.P., March 25, 1923, The Executive Committee of the J.C.P., The General Secretary Sakatani Goro, The International Secretary, Hanada Yoshio」日本共産党執行委員会、1923年3月25日付(f.495/op.127/d.58/7-12)

 日本共産党の一般状況についての共産主義インタナショナル執行委員会への報告
 
氈@第2回党大会までの日本共産党
 
 日本共産党第2回全国大会が、1923年2月5日に開かれた。大会参加者総数は73名、内5名は執行委員、8名は各専門部代表、2名の第4回世界大会代表者、それに細胞を代表する58名であった。議事日程は以下の通り。
 1)総務幹事報告、2)国際幹事報告、3)会計幹事報告、4)各専門部代表報告、5)提案についての討論、6)執行委員会選挙。党大会でなされた報告にもとづいて、我々は、1922年8月から1923年2月までの時期の日本共産党の諸活動を概観すると、以下のようになる。
 細胞数はこの間42から62へ増えた。雑然と組織されていた細胞は、体系的に地域別・職業別・産業別のラインに沿って再編成された。党員総数は大会時で361人であった。労働者階級党員の構成比は徐々に増大し、全党員数の過半数に達した。
 政治部
 政治部は、東京・大阪地区でロシア連帯運動[a Hands-Off-Russia Movement]を組織し、広範な労働者のなかでロシアへの同情と関心、政治的意識を喚起することに成功した。それはまた、共産主義及び他のプロレタリア運動の弾圧を狙った政府の法案[過激社会運動取締法案]導入を阻止するにあたって、プロレタリア大衆のあいだで成功裏に指導性を発揮した。労働者階級のなかに反・反動主義と呼ばれる秘密委員会を組織し、無政府主義の影響力を払拭するよう努力した。
 2 農民部
 党の機関誌『農民運動』は、この期に大成功を収め、全国のほとんどすべての小作人組合のなかに定期購読者を獲得した。農民部所属党員は、小作人組合内に浸透し、彼らの反地主闘争を成功裏に指導している。その結果、二人の党員が逮捕され公判にかけられた。全国規模の唯一の組織である日本農民組合連盟を共産党の影響下におくために、幸先のよいスタートがきられた。
 3 産業部
  産業部の主たる努力はプロフィンテルン日本支部の組織化の準備にあてられた。さまざまな労働組合指導者を秘密裡に勧誘して、プロフィンテルンの基礎となるべき地下委員会が設置された。産業部はまた日本労働組合総連合を組織しようと企てたが、無政府主義者の反対活動によって達成できなかった。関西地区では党員が労働組合を完全に掌握したが、関東地区ではなお成功していない。この期間に、多少とも重要な8つのストライキがあり、党員が積極的役割を果たした。
 4 青年部
 この期の青年部の主たる活動は、学生と農村青年の組織化であった。23の大学、専門学校、予科、高等技術学校に共産主義者の地下組織を設けることに成功した。それは、ロシア飢餓救援、リープクネヒト記念日のデモ、プロレトクラト[プロレタリア文化]運動のような、さまざまな合法運動を組織した。農村地域では、6つの公認青年団体に潜り込み、4つの青年共産主義クラブをつくることに成功した。青年労働者階級党員がプロフィンテルン組織化促進に専念しなければならないので、青年労働者のなかでの活動には多少時間がかかることになった。 
 5 新聞・編集部
 この期に15のパンフレットと24のリーフレットを刊行した。党機関誌『前衛』『農民運動』『労働新聞』の購読者数は労働者階級の熱狂的支持のもと、大きく増大している。
 6 会計──1922年8月から1923年1月期の党財政は以下の通り。

               

収入

支出

 残高

8月

9.031.00

2.307.94

6.723.06

9月

387.24

3.728.50

3.381.80

10月

15.00

2.207.65

1.189.15

11月

8.149.00

3.328.50

6.009.65

12月

348.00

2.427.00

4.030.45

1月

87.50

1.883.20

2.234.75

 新たに選ばれた執行委員会の政策
 
 党大会で新たに選出された執行委員10名は翌日会議を持ち、幹事会3名を選出し、次期の基本政策を以下のように決定した。
 1) 主たる努力を産業領域での党に集中すること。2)党活動のさらなる専門化。3)新党員採用に特に注意を払うこと。4)これまで以上に厳格な党規律の保持。5)党細胞を、そのまわりに合法組織をつくって、より活動的にすること。
 。 今日の状況
 第2回党大会以来、日本共産党の活動はかなり前進した。政府は日本共産党の存在を突き止めようと極度に警戒しているが、明白な証拠を得ることに成功していない。党員はこれまで通り、おのおのの分担以上に活動的・自己犠牲的に任務を果たしている。党の現況はおおむね以下の通り。
 1) 細胞と党員。 第2回党大会以来、党は4つの細胞で21人の新党員を得た。党に加わったもののなかには、安藤・野坂を含む13人の東京労働組合の影響力ある指導者を含んでいる。
 2) 産業部。 プロフィンテルン日本支部が遂に組織された。(この件については別紙参照)。この達成によって、日本共産党は大阪地区と同じく東京地区でもすべての影響力ある労働組合の完全支配を確保した。党員たちはさまざまなストライキその他の労働争議に積極的に加わっている。最近我々は、体系的宣伝・扇動をおこなって、失業者の組織化を開始した。
 3) 農業部。  我々は日本農民組合連盟役員のなかに2名の党員を獲得し、他の2名の党員が役員に選ばれた。連盟は唯一の全国組合であるので、我々はまもなく日本の全農民運動を指導する地位につけると信じている。いま少し時間がたてば、日本共産党は、農村大衆のなかで積極的な教育宣伝を実行する計画である。
 4) 青年部 。 党の青年部は日本共産青年同盟結成の準備を終えた。同盟は来月(4月)初めに結成される。それは100人以上のメンバーから成り、半分はその指導力としての若い共産党員である。日本共産青年同盟は、地下組織であり、現在の日本共産党青年部に代わって、独立した活動単位となる。
 5) 教育研究部。  これは第2回決定にもとづき新たに設けられた。それは主として党員教育に専念している。それは細胞のための教材とさまざまな共産主義文献の翻訳・解説を作っている。
 6) 新聞・編集部。 機関誌『前衛』は、山川均編集の『社会主義研究』と合併し『赤旗』という新しい名前となる。この部門は、合法的・非合法的な共産主義文献を体系的計画のもとに刊行する準備をしている。
 7) 水平部。 この部門の仕事は、「エタ」の人々の水平運動のなかに浸透することである。運動の活動的労働者のなかに3人の党員を獲得し、幸先良いスタートをきった。
 8) 合法政党問題。 現在党外に合法プロレタリア政党の組織化を計画している3つのグループがある。これら3グループのどれも、強くなく、正直でなく、プロレタリア運動の力にならないであろう。日本共産党の中には、即時合法労働者階級政党の組織化を主張するグループがあるが、同時に、それに強く反対するグループもある。この問題は、近く招集される臨時党大会で取り上げられることになっている。
 9) 臨時党大会。 執行委員会は、党綱領を起草するために臨時党大会を3月15日に招集した。詳しくは、別紙報告を参照されたい。
 
          共産主義者の挨拶を込めて、
 
                日本共産党執行委員会
                  総務幹事 サカタニ・ゴロウ[自署、堺 利彦]
                  国際幹事 ハナダ・ヨシオ [自署、佐野 学]
  

 資料15 英文タイプ石神井党大会報告書「Report on the Special Convention for the Drawing up of a Party Program, Executive Committee of the J.C.P, General Secretary Sakatani Goro, International Secretary Hanada Yoshio」日本共産党執行委員会、日付なし(f.495/op.127/d.61/9-13)

 日付はないが 、上記3月25日報告書が述べていた、石神井臨時党大会についてのモスクワへの公式報告書である。同じ3月25日付け「別報」であった可能性が強いが、モスクワのアルヒーフでは、別のジェラに入っていた。 

          綱領作成のための臨時党大会についての報告
 
 党綱領を作成するために、日本共産党執行委員会によって、臨時党大会が3月15日に招集された。しかし大会は、綱領の内容に関わるいくつかの問題で代議員が鋭く分裂し、明確な結論を得るにいたらなかった。したがって我々は、あなたがたの指令[your instructions]が要求していた綱領作成を、延期しなければならなくなった。
 延期の理由の一つは、我々があなた方の指令を受け取ったのが遅すぎ、ブハーリン同志による綱領草案と綱領づくりのための他の資料[the draft of the program by com. Buchkarin and other material for program making]が、我々に届いたのは、ようやく3月初めであったことである。しかし主たる理由は、党員たちの日本革命の見通しと、過渡期の戦術の問題について、鋭く意見が分かれ、合意点が得られなかったからである。
  主たる不同意点は、次の2点である。
 1 党員たちのあるグループは、日本においては政治革命がプロレタリア革命に先行するだろう、だから我々は第一革命を促進するための諸活動を組織すべきである、と考えている。他のグループは、我々はできるかぎり政治革命を妨害しようと試みながら、直接プロレタリア革命をめざすべきだと考えている[Another group maintains that we should aim straight at the proletarian revolution at the same time trying to hinder the political revolution as much as we can.]。
 2 当面の戦術について、一方では、我々は活動の新しいチャンネルを開くために、合法的プロレタリア政党を組織すべきだ、と主張されている。これに反対して、合法政党の機は熟しておらず、我々の活動は、さらなる「政治的直接行動」への展望を持って労働者の経済闘争に集中すべきである、と信じるグループがある。
 これらの意見の相違は、日本共産党の政策に基本的関連があるので、大会は、党員に問題を熟慮する十分な時間を与えるため、綱領採択を3か月延期することにした。その間、綱領委員会が指名され、党員たちの考えが十分に結晶されればただちに綱領が起草されうるように作業している。我々は残念ながら、[コミンテルン第3回]拡大執行委員会総会に我が党の綱領を提示できない。しかし、我々の困難を理解していただきたい。
 臨時党大会は、初めて綱領の形式の問題をとりあげ、多くの異議もなく、以下の形式を採用することに合意した。
 氈D序論的部分(近代資本主義の本質、プロレタリア階級の発展とその不可避的勝利、共産主義の実現、その他の共産主義的な諸理論と諸原理)
 .日本の現在の社会構造に関わる部分(日本資本主義と日本プロレタリア階級の諸特徴、階級分化、政治権力の所在、農民によって占められる特殊な地位、水平運動の特徴づけ、階級闘争の過去・現在・未来)
 。.日本の共産主義運動の目標(政治権力の奪取、プロレタリア独裁、ソヴェト・レジームの樹立)
 「.共産主義革命の戦術(政治、産業、農業、国際、等)
 これに続いて、だれかが綱領第段をカバーする日本の社会構造についての考えを表明するよう動議が出され、実行された。それから討論が始まり、一人が、日本においてはプロレタリア革命は政治革命なしで実現できる、という意見を表明した。しかし参加者の多数は、今日の階級分化とその力関係を考慮すると、政治革命のチャンスが大きく、政治革命の指導者は社会民主主義者かファシスト団体のいずれかになるであろう、という見解に傾いていた。それから政治革命に対する共産党の態度について、白熱した議論が続いた。代議員のあるグループは、共産主義者は民主主義的ないしファシスト的革命指導者の陣営に潜り込むべくであり、我々は政治革命を促進してできるだけ早く共産主義革命をもたらす、という見解を論じた。他のグループは、我々は政治革命を可能な限り妨害し抵抗して、同時に労働者大衆の革命的闘争を組織し促進するために最善を尽くす、という考えを保持し反論した。
 この論争は、戦術の基本問題に関わる論点に導いた。すなわち代議員のあるグループは、合法政党を組織しブルジョア議会をある程度利用すると主張したが、他のグループは、我々は労働者大衆を革命化しプロレタリア革命の発展のために政治的直接行動を採るべきだと主張した。
 革命的戦術についての意見の相違が党内でかくも大きかったので、短時間で体系的な党綱領を作ることは不可能だった。したがって大会は、3か月以内に綱領を起草し、メンバーが主題についてより精通するよう、委員会を任命した。3か月たったら、執行委員会は、綱領委員会により起草された草案を土台にした綱領を決定するために、次の党大会を招集することとした。
 我々は、過渡期における日本共産党の戦術について、おそらく見出された合意点として、以下のように述べることができよう。
 一 政治・社会
1.完全に民主的な政府の要求[demand for a thoroughly democratic government]、2、貴族院の廃止、3.徴兵制廃止、4.言論・集会・結社の自由、5.デモンストレーションの自由、6.プロレタリア政治教育体制の樹立、7.水平運動の革命化、8.陸軍・海軍の革命化、9.植民地反乱の促進(朝鮮・台湾)、10.軍国主義に反対する宣伝・煽動。
 二 産業
1.赤色労働組合主義の普及、2.8時間労働日その他労働条件の改善、3.労働保険その他類似の措置。
 三 農業
1.農民諸組織の革命化、2.小作人・貧農の獲得 。
 四 国際
1.ソヴェト・ロシアの即時承認と貿易再開、2.植民地における自治、3.東洋の被抑圧民族との共同。
 他方で、合意に達することが困難であった諸点は、以下の通りである。
 1.我々は普通選挙運動を積極的に進めるべきか否か、2.我々はブルジョア議会を積極的に利用すべきか否か、3.我々の主たる努力はプロレタリア大衆に政治反乱を積極的によびかけることであるか否か、4.我々はただちに合法的社会民主主義政党ないし労働者政党を組織すべきか否か。
 我々は、日本における一般政治的・社会的・産業的状況に関しては、拡大執行委員会総会への我々の代表である同志青木[荒畑寒村]が説明するよう信託されていることを、付け加えておく。
                大義をもって、
 
                 日本共産党執行委員会
                  総務幹事 サカタニ・ゴロウ[自署、堺 利彦]
                  国際幹事 ハナダ・ヨシオ [自署、佐野 学]
 

 資料16 中国語活版ビラ「告中華民国民衆、中華無産階級萬歳、1923年3月26日、日本共産党」(f.495/op.127/d.57/1)

 日付からいって、日本で作られたか、または中継地上海の極東ビューローで日本共産党名で作られ、上記報告書と一緒にモスクワに届けられた、中国民衆との連帯ビラである。

 資料17 日本語手書き報告書「現今日本に於ける政治状態」(#18-1923)日付・署名なし(f.495/op.127/d.72/49-54)

 この資料17以下資料22までは(場合によったら資料12の英文ファシズム論も)、第3回拡大執行委員会総会への日本共産党代表となった荒畑寒村がモスクワに帯同した、ないし、荒畑の訪ソにあわせて上海かウラジオストック経由でモスクワに届けられた、コミンテルンでの日本問題の検討のための基礎資料=部門別報告書と思われる。

 それぞれの領域の史的研究にとっては、極めて貴重な資料と思われるが、本稿は日本共産党の活動一般の資料紹介を目的とするため、全体の構成と、筆者の判断で重要と思われる部分のみを紹介する。またそれぞれの筆跡を詳しく鑑定すれば、執筆者も特定可能であるが、今回は内容紹介に留める。

 ただし、以下の資料17のみは、石神井臨時党大会時点での党内の争点・理論水準を端的に示しているので、以下に全文を紹介する。当時の日本共産党が、明治社会主義における「直接行動派対議会政策派」、大正期の「アナ・ボル論争」の延長上にあったことが、よくわかる。

            現今日本に於ける政治状態
 
 現在の日本に於ては、政治的権力を直接に積極的に動かしてゐる者は、支配階級である。
 枢密院(天皇の政治諮問機関にして所謂元老の住家なり)
  貴族院──貴族約百五十、大富豪約五十、国家功労者約百を以て組織す。
研究会一三五、
    茶話会四四、
    交友クラブ四五、
    公正会四二、
    同成会二七、
    無所属二六、
    純無所属三九 
 この中政友会系と見るべきもの最も多く、憲政会の勢力はその半数に当る。革新クラブはここには味方を有しない。
  衆議院 政友会   二八三 第一資本家地主党
      憲政会   一〇四 第二資本家党
      革新クラブ  四五 中産階級党
      庚申クラブ  二五 変体的資本家党
      無所属
 無産階級は未だその代表者の一人をこれ等の機関に有せず。単に間接的に極めて少しばかり彼等の政権の運用を牽制してゐるに過ぎない。この支配階級は次の如き三要素から成り立ってゐる。
(a)貴族・官僚、
(b)地主、
(c)資本家。
 日本に於ては、この中で貴族院に勢力を有する(a)が長く政治的中心勢力を把握して専政を行ってゐたが、近年に至つてこの封建的要素は漸次に勢力を失ひ、衆議院が漸次に勢力を得来る傾向と、(b)漸次に勢力を失い(c)が漸次に勢力を得来る傾向とは、他の資本主義国の歴史の如くであるが、日本の貴族官僚(その主魁は所謂元老)と、多くの場合彼等を支持する地主との勢力は、まだ甚だ強いものがある。
 (c)が最近に至つて、(b)の勢力を包含する既成政党に依つては、完全に自階級の利害を代表し得ざることを自覚し、新たに純粋なる資本家党『商工党』を組織し初めたことは、支配階級中に利害階級の相違の存在することを示すものであるが、彼等は苟も無産階級に対する時は常に完全なる共同戦線に立つことを忘れない。
 現在の彼等の施政の大綱領は、その支配的特権の維持と拡張とである。彼等の努力は、大戦に依つて世界の経済王となつた米国と、共産主義及共産主義国を背景とする無産階級とに如何にして対抗すべきかに傾注されてゐる。彼等は政治界の大問題たる普選問題も、日露協商も、専らこの立場から考慮してゐる。
 普通選挙案は、多数党の尚早論に依つて前議会に於ても通過を見なかつたが、二三年内には必ず通過すべき形勢が看取される。恐らくはその普選は『満二十五才以上の男子』と云ふ制限付のものであらふが、それでも一千萬人以上の有権者となり、従来の有権者数(三百萬人)の三倍となるであらふ。
 日本の労働組合は、概して一九一八ー一九年頃までは、議会政策の立場より普選要求の運動をやつてゐたが、一九二〇年後は直接行動の信者となり、今日では普選要求運動に参加する労働組合は殆んど無く、日本労働総同盟の如きも年の大会に於て、普選運動不参加の決議を通過せしめてゐる。かくの如く、組織労働者は議会運動に対してボイコット的態度を示してゐるが、一般労働階級の態度は、必ずしもこの態度に一致しない。従つて無産階級の大部分は、この参政権の獲得と共に、議会にその代表者を送り、その代表者達は社会民主党を組織するであらう。組織された労働者と雖も、その幹部らは彼等の傘下に走るかも知れない。
 
    JCPの立場
 
 この攻勢に応ずる為に、改良主義者に先んじて、CPの外郭として公然の労働党を造り、無産大衆をこの党に加盟せしめて、侮れる指導者の改良的議会政策に堕落せしめず、共産主義の原則によつて革命的政治行動行ふべしといふ議論がJCPの党員の一部に盛んになつて来た。
 この政党組織の問題については、党員間に二種の意見があつた。一つは政党組織の無用乃至尚早論であつて、他は政党組織の必要乃至非尚早論であつた。その内容は次の如くである。
   政党組織無要論と尚早論
(a) 無産階級運動のエーゼントとしては、政党よりも労働組合であらふ。日本の労働組合はこの種のファンクションを発揮し得る特種の革命的性質を有する。別に政党を造る必要はない。
(b) 無産階級は普選の実施後議会に相当の興味を感じ、彼等の代表者を議会に送るであらふ。然しながら無産階級は結局議会行動の無効と支配階級的議会の本質を知るに至つて、議会をボイコットするに違ひない。従来議会を攻撃して直接行動を唱え来つた吾々が議会利用論を棄てざるを得ざる破目に陥るよりも、寧ろ今日よりあらゆる議会運動の排斥を以て押し通すがよい。
(c) 現在の労働者大衆農民大衆の自覚の程度を以てしては、たとひ政党を造るもこの勢力が党内に優越勢力となり、党は欧羅巴の社会民主党の二の舞を演ずるであらふ。即ち改良的議会政策に堕落するであらふ。たとひ政党を組織するとするも今日は尚ほ早すぎる。
(d) 労働組合は無産階級運動の本隊である。従つて吾々は労働組合運動に主力を注がねばならない。然し今日本の労働組合運動は総連合と赤色加盟と云ふ二大問題を有するから、たとひ政党を組織するとするも、この問題を解決後にすべきであつて、今政党組織の運動を起して、組合の闘士をその運動に吸収し、この二大問題の解決に支障を来してはならない。
(e) 吾々の政党は無産階級的本質を持つべきである。無産階級的性質を有する政党は今日尚ほ充分に成立し得まい。かかる性質の政党が充分成立するためには、労働組合の内容が今少し充実した後であることを要する。
   政党組織必要論と非尚早論
(a) 労働組合や小作人組合は生産者としてその経済的利害関係を基礎としてゐるから、無産階級及中産階級の革命の促進に役立ち得る要素の或る部分を抱擁するに過ぎない。そしてかかる要素は無組織のままに置けば改良主義者やファシスタの指導の下に走る怖れがある。吾々は資本主義制度に反抗するあらゆる要素を吸収し得る無産階級の政党を組織して、吾々のコントロールの下に置かねばならぬ。
(b) 無産階級運動に於いて小作人と都市労働者との団結を計ることは極めて大切である。然るに両者の利害関係は必ずしも一致しない点がある。そして地主は努めてこの点を高調して自分等に向ふ反感を都会(その中には労働者もゐる)に向けやうとする。この両者を緊密に団結せしめる為には、両者の連合会の組織を分つべしとの説があるが、別個に政党を組織して両者を是に加盟せしめる方がより有効である。
(c) 普選の実施を見越して改良主義者達は既に政党の組織の下準備を進めつつある。今日に於て吾々が、吾々のコントロールの下に革命的政治運動を行ひ得る政党を組織するに非れば、無産階級の大衆は彼等の指導の下に走るかも知れない。然かも彼等の政党組織に反対するためには単に妨害を試みるのみでなく、吾々が無産階級の大衆を抱擁し得る政党を今日に於て組織し初めねばならない。今日では労働組合の幹部が加盟しないと云ふ観測もあるが、JCPがこの目的のために動員すれば彼等を加盟せしめることは困難ではない。
(d) 吾々は従来の主張通りに、大衆をしてあらゆる議会行動をボイコットさせ、単に院外に於て示威運動を行はせるべきだといふ意見があるが、新有権者の多数がこのボイコットに共鳴するとは考へられない。ボイコット運動は恐らくは大衆を離れ、大衆を率ひることを困難にするであらふ。此意見は大衆が遠からず議会に飽くと云ふ予想の下に立つてゐるが、CPのコントロールの下に動く政党の革命的議会行動は大衆を飽かせる懼れはない。吾々は戦線を議会にまで拡大せねばならない。
 
 この両説は最初容易に接近しさうもなかつたが、ボイコット論者は単なる政党組織尚早論者に代り、又即時組織論者もその準備としての数ヶ月間の宣伝を必要とすることを承認するに至つたので、両者の意見は最近非常に接近して来た。
 JCPは政党組織の仕事を政治部に行はしめることとし、政治部は次の如きタクチックに依つて政党組織の準備を行ひつつあつた。
(a) 組織の手続
 1 政治運動の必要の宣伝
 2 政党組織の必要の宣伝
 3 創立委員会の組織
   A 労働組合、小作人組合、社会主義団体の幹部を集めて政党組織の問題について懇談会を開く。
   B この懇談会の範囲を漸次に拡張して数回開く。
   C この懇談会を政党創立委員会に造り上げる。
(b) 組織の方針
 1 綱領はなるべくレベルを下げること。
 2 幹部中には一定数の党員を入れること。
 3 JCPのコントロールし得る範囲内に於いては右翼社会主義者をも加盟せしめること。
 4 現在、吾々と別個に政党を組織せんとしてゐる分子をば吾々の政党組織運動に入れて彼等の計画を止めさせること。
 

 資料18 日本語手書き報告書「日本の労働者の経済闘争」日付・署名なし(f.495/op.127/d.60/81-84)

  「一八六七年に日本に行はれた革命はブルジョア革命であつた。これより日本は古き封建的形態を脱して、欧羅巴風の資本主義的階段に入つた。しかし経済的発達に於て立ちおくれてゐた日本が、東洋に於ける唯一の大泥棒として立つに至るには、三つの条件が必要であつた。第一は極端なる保護政策であり、第二に戦争による植民地及び市場の掠奪であり、第三は鉄の規律の下に労働者階級を圧迫することであつた。我等の兄弟姉妹は実に長い間、資本の惨虐な搾取に苦しんできたのである。」以下、日清・日露後の日本資本主義発展と労働組合組織化・労働運動の記述であるが、ここでは省略する。

 

 資料19 日本語手書き報告書「JCPと無産青年運動」(#16-1923)日付・署名なし(f.495/op.127/d.67/159-162)

 「(一)日本に於いて青年が常にプロレタリア運動の中堅を構成してゐた事、但し青年運動なる特殊の部門が形成されて居なかったこと」以下青年状態の分析。「(二) 一九二三年四月以前に於けるJCPの青年運動」で党の指導した学生運動等の総括している。

 資料20 日本語手書き報告書「日本共産党と青年運動」(#3、上書き1923)日付・署名なし(f.495/op.127/d.67/163-171) 

 目次は以下の通り。

  (一) 日本に於ける無産青年の状態
   (1) プロレタリア青年と教育
   (2) プロレタリア青年と軍隊
   (3) 少年及び青年賃金労働者
      a 数、b 賃金及時間、c 徒弟制、d 失業。
   (4) 農村青年
   (5) 商業使用人
   (6) 官吏の指導の下に立つ少年及び青年団体
      a 青年団、b 処女会、c 少年団、d 工場青年団
  (二) JCPと無産青年運動

 (二)で資料19と重複する記述が見られた後、「(三)一九二三年四月以後」として、「青年インターナショナル日本支部の形成」を報告している。 

 資料21 日本語手書き報告書「農民運動に関する報告書」(#5-1923)日付なし、「饒平名[智太郎](佐野改筆)」の署名(f.495/op.127/d.60/20-22)

 (一)概説
 (二)日本農民組合の状勢
 (三)農民部の宣伝方法
 

 資料22 日本語手書き報告書「日本共産党と農民運動」日付・署名なし(f.495/op.127/d.60/79-80)

 (1)「農民運動」の発行、
 (2)日本農民組合を赤化する事、
 (3)各地農民組合との接触、
 (4)宣伝演説会の開催、
 (5)青年団体の破壊又は改造を企てる事、
 (6)政治的方面の覚醒を援助する事、
 (7)連合体形成を援助する事

『大原社会問題研究所雑誌』第492号(1999年11月)史料紹介

 

第一次共産党のモスクワ報告書

 

(下)

 

加藤 哲郎

 


 3 1923年6月共産党検挙

 

 

 資料23 英文タイプ連絡文書、日付なし、E.C.of J.C.P、ウラジオストックからの1-3月分の党資金を受け取るようにという指令(f.495/op.127/d.61/112)

 親愛なる同志へ
 ウラジオストックが、あなたへ、1・2・3月分のわが党財政の金を送ったはずだ。
 もしもあなたがその金を受け取っていたら、我々に手紙で知らせてほしい。我々はすぐに、クーリエ[密使]を上海に送るであろう。
 もしもあなたがその金を受け取っていないのなら、その事についてウラジオストックに照会状を送ってほしい。
              共産主義者の挨拶をもって
                           日本共産党執行委員会

         

 資料24 英文タイプ連絡文書、日付なし、E.C.of J.C.P、佐野学・近藤栄蔵・高津正道を上海へ移送する指令(f.495/op.127/d.61/111)

 親愛なる同志へ
 以下のメッセージをウラジオストックに送ってほしい。
 最近日本共産党において、党組織についての重大な事柄が決定された。その事柄は緊急である。
 同志高津・佐野・近藤は、上海に向けて直ちに出発せよ。もしも汽船による出発に長時間かかるようなら、陸路をとれ。彼等が上海に到着次第、我々は彼等に用件を伝えるための代表者を派遣する。彼等が上海に到着次第、わがウラジオストックの同志にメッセージを送り、我々に伝えてほしい。
              共産主義者の挨拶をもって
                           日本共産党執行委員会

 資料25 日本語手書き報告書「報告書」(#20-1923)日付・署名なし(f.495/op.127/d.61/81-98) 

 日付も署名もないが、6月第一次共産党検挙のさい、執行委員会決定で上海に脱出した佐野学・近藤栄蔵・高津正道による、事件についてのコミンテルンへの緊急報告書である。6月中の執筆で、執筆者は、内容・筆跡からして佐野学と思われる 

 
          報 告 書
 
 六月五日に始つた日本共産党検挙事件は我党にとりて大[「根本的」を線で抹消し訂正]打撃である。執行委員会の訓令によりて日本を脱走した我々三人は上海より浦塩に向ふ船中に於て極東局及び第三インターナショナルECの最高の助力を求むために此報告書を認める。我々は第一、JCPの近況(青木[荒畑寒村]の提出した報告書以後の形勢)、第二、今回の検挙事件、第三、今後の方針の三に分ちて記述する。
 
  第一 JCP[日本共産党]の近況
 
(一)序論──日本最近の階級争闘とJCP
 日本に於ける階級争闘は最近数年来特に激甚となつた。日本の資本主義は他国の資本主義と同じく漸次に崩壊の過程を露骨にしつつあるが、無産者運動は是に伴ふて表面化し組織化されつつある。日本の無産者運動は三大部門に分れる。第一、労働運動、第二、農民運動、第三、水平運動である。
 階級意識に徹底せる都市労働者によりて組織せられる労働組合は、従来、量の少ないことを欠点としてゐたが、最近に於ては漸次に量的にも増大し、且つ其範囲は大都市のみならず、地方の小都市にも及びつつあつた。日本の労働階級の思想傾向は共産主義、無政府主義、社会民主主義の三と見なし得るが、従来、指導的勢力たりしものは前二者であつた。今後の運動は最後のものも充分考慮せざるべからざる性質を有してゐる。而して共産主義は漸次に無政府主義を駆逐しつつあつた。日本最大の労働団体たる労働総同盟は殆ど完全にJCPの統制の下に至つたのである。
 次に農民運動は極めて近年の発達物であるが其進歩は実に著しく、争議数は此一両年来、一千件以上を数へてゐた。しかし農民運動は未だ単純の経済運動の域を脱せず、階級意識に立脚した政治的要求を欲するに至らなかった。JCPは、日本人口の二分の一以上を占むる農民階級の向背が日本の共産革命に影響すること甚だ大なるを信じ、至る県[?]の農村に活躍[?]を試み、大なる効果を収めつつあつた。
 次に水平運動は極めて猛烈なるプロレタリア運動である。それは古代日本の賎民の子孫にして今日猶ほ伝統的に社会的賎況を蒙ってゐた特殊部落民と呼ばれる社会的集団の反逆運動である。彼等の数は約三百萬人あり、全国に散在してゐる。団結心、復讐心、等の心理的条件が完全である。JCPは彼等の中に食い入り、指導分子を抜いて党員たらしめ、全水平運動を共産主義的感化の下におかうと努力してゐた。
 プロレタリア運動の主要部門は以上の如くであるが、他方に於てJCPは彼等の運動が終局に於て政治的権力を奪取しソビエットを組織するに非れば到底貫徹し難きことを宣伝し、此方面の活動にも力をつくしてゐた。即ち殆ど全国の社会主義団体を網羅する全国無産者同盟を組織し適宜の運動を随時行い来つたのは其一例である。また外部としての政党の組織に歩を進めつつあつたが如きも其例である。
 他方に於て日本に於ては伊太利F[ascism]に類似する反動団体の発生の可能性がある。即ち国家主義を掲げ暴力を行使する団体である。但し現在の団体は甚だ数が多いが、真面目なるものは殆どなく、多くは資本家及び警察の支持を受くるものであつて、恰も黒百団[ロシアの黒百人組]の如き性質を有する。JCPは将来これらのものとも争闘する場面を有するであらう。
(二)党員及び細胞
 JCPは党員の増殖について極めて厳格なる規定を有する。それはJCPが違法的団体なるが故に極めて厳格に秘密を守らねばならぬからである。JCPは大体に於て知識階級についてはマルクス主義に徹底せること並に単に言論のみならず直に実行をなし得ることを条件とし、労働階級につきては人物堅固なる事並に階級意識に徹底せることを条件としてゐた。此故にJCPの党員は単に全体としての党の活動に任ずるのみならず、各々外部として支配し得べき大なり小なりの活動範囲を有してゐたのである。今日Z[=細胞]数は約六十、党員数約三百であり、労働者が多数を占むる状勢であつた。Zは大抵一週一回集合した。
(三)執行委員会
 執行委員会は二月の大会にて改選せられた所であつた。即ち総員十名、うち二名が関西であつた。[以下を線で抹消──氏名は次の如くである。堺、佐、吉川、浦田、上田、渡辺、杉浦、辻井、小岩井、曽根]
(四)各部委員会
JCPは二月大会以後、其活動の部門を分つこと次の八であつた。即ち^政治部、_産業部、`農民部、a青年部、b婦人部、c水平部、d教育調査部、e出版部、f朝鮮係りであつた。右のうち産業は愈々[?]赤色インターナショナルの支部たる形態を完成し、青年部は青年インターナショナルの支部たる形態を完成した。また三月以後に至りJCPの綱領作成のために綱領委員会が臨時に作られた。今、各部の活動状態を分説すれば次の如くである。
^政治
_農民部
 農民部は機関紙「農民運動」を根拠とし、@日本唯一の全国的組合たる日本農民組合に食い入りこれを党の統制の下におくこと、A農村青年の間に階級意識を喚起し、これを農民運動に参加せしむるに努力する事、B農民運動の政治的方向について特に力をつくす事、C農民の大小の集会には必ず党員を出席せしめて宣伝に努むる事、等を主要の任務としてゐた。そしてそれぞれ効果を収めてゐた。日本主要の農業地方にして且つ争議最も激甚なる新潟、岐阜、岡山等は完全にCPの統制の下にあつた。
`婦人部
 [冒頭、以下を線で抹消──婦人部は山川菊江を委員長とし貞代、真柄、高野<?>を委員とした。うち高野<?>のみが男子である。]婦人部は@婦人の共産主義者の団体たる八日会を統制する事、A職業婦人の団体を組織する事、B労働婦人の間に宣伝する事等を主要任務としてゐた。八日会は赤瀾会の権力[?]であって、活動依然[?]たるものがある。職業婦人の団体は既に成立し雑誌「職業婦人」の第一号を発刊した。労働婦人の間に在りては去る四月に足尾坑山に組織的宣伝を行ふて効果を収めたが今は東京市の紡績女工の間に食い入らんとしつつある。
a水平部
 水平部は水平運動を統括せんがための部門である。水平運動が最近の日本に発生せる最も猛烈の運動たる事は前述の如くである。[以下を線で抹消──水平部は高橋貞樹を委員長とし山川、佐野を委員とする。]水平部は@水平運動より優秀なる分子を抜きて党員に加へる事、A水平運動の内部に共産的分子を結集して水平共産党なる特殊の秘密結社を作りJCPと間接の連絡を保つ事、B外部的に水平運動の発達を助ける事等を主要任務とした。委員長高橋は水平社同人なるが故に多大の便宜があり、水平社の指導分子の来りて我党に投ずるものは次第に多数となりつつあつた。
b教育調査部
 教育調査部は二月大会に於て新設せられたものである。[以下を線で抹消──それは山川を委員長とし戸田<猪俣?>、平林<?>、市川を委員とする。]それは@党員に対する教育材料を作成する事、A各部の依頼に応じて必要事項を調査する事を主要任務としてゐた。同部は既に多くの教育材料例えば第三[インタナショナル]、赤色[労働組合インタナショナル]等の決議書を翻訳して秘密に刊行した。それは各細胞に於ける集会に於て読まれた。
c朝鮮係り
d綱領委員会
 綱領委員会は臨時に設置したものである。[以下を線で抹消──佐野を委員長とし高橋<?>、野坂、戸田<猪俣?>、市川、杉浦、山川等が委員である。] 綱領は第一段 概論、第二段 日本社会の現状、第三段 日本共産革命の目標、第四段 戦術 の各項に分ち、各自分担を定めて研究しこれを綜合して六月中に草案の起案を終り、七月の大会に於て決定する筈であつた。しかし今回の事件によりて中絶するの止むなきに至つてゐる。
(五)ユニオン部及び前衛同盟
 従来、JCPは産業部なる部門に於て労働階級方面の活動をなし来たつたのである。而して RLUI [赤色労働組合インターナショナル]の日本支部を作ることは久しく努力せられた所であつたが、労働組合中に無政府主義の傾向を有するものの少くない結果として、種々の支障が生じ、充分に目的を貫徹し得なかつた。しかし党員の努力は漸く効果を生じ、前衛同盟なる団体を生ずるに至つた。前衛同盟は東京大阪の主要労働組合内に於ける革命的少数分子を統合したものであつて。RUのGerm[胚種]たるものであり、秘密の団体である。メンバーは各労働組合の急進的幹部約百名を包含する。中央機関として、十名より成る執行委員会があつて全部を統括する。JCPの産業部は従来、東京大阪に分れてゐたが、前衛同盟を完全に統括するために、包括的なるものとして名をユニオン部と改めた。日本の労働運動には統一主義及び連合主義の二派があり、前者はJCPが支持し、後者は無政府主義が支持する。前衛同盟は統一主義の標語の下に戦意[1字不明]千である。
 JCPは此前衛同盟を導いて次第に確実なるRedの支部を形成せんと企ててゐるのである。[以下、線で抹消──ユニオン部は野坂、山本、? 、渡辺、杉浦、荒畑、等]
(六)青年インターナショナル
 JCPは従来青年部なる部門の下に、青年運動をなしてゐた。去る四月に至り愈々青年イン[ターナショナル]の日本支部としての形態を完成した。但し此団体も日本にありては違法の団体なるが故に当分のうちJCP内の青年分子のみにて形成することとした。従つて其メンバー数は三十名余に過ぎなかつた。然しこれは最初の一時的状態に過ぎないのは言を待たぬ。其活動機関は組織部、反軍国主義部、教育調査部に分れてゐる。青年運動中、従来最も成功してゐたのは学生間の宣伝運動であつて、地方の農村青年に対するものが是に次いでゐたが、四月以来、労働青年の間の組織を企て東京市内の二三の区域に於ては既に成功しつつあつた。[以下、線で抹消──青年部のECは次の如くである。GS河合、IS高橋、会計荒井(以上常任)、水島、相馬、佐野(CPより)]
(七)機関紙
JCPの機関紙は次の如くである。
^赤旗 _組合運動 `農民運動
 以上の外、党員が編集に参加しこれを動かしてゐるものには、進め、突破、種播く人、職業婦人、其他がある。また青年部婦人部より雑誌を出す計画がある。
[(八)番号欠]朝鮮係
 日本に在留する朝鮮人は二十余万人あるが昨年末渡航制限の法律廃止以来毎月約二萬人宛増しつつある。彼等の向背は日本革命に至大の影響があるから、JCPは此係を置いて彼等の赤化に努めてゐる。
 彼等の中の共産主義者は、まだJCPに加入してゐないが、既に北星会といふ革命団体を組織し、又鮮人労働団体を組織してゐる。この両団体は近時活発に活動してゐるが、此係は常にこの運動を後援してゐる。北星会の機関紙『斥候隊』に対しては、毎月経済的に援助してゐる。将来朝鮮本土に帰りてその運動を指導すべき中堅人物の養成といふことも、この係の特に留意してゐる所である。
[(九)番号欠]政治部
 政治部は、^無産階級の革命的政治運動の必要の宣伝、_JCPのコントロールの下に労働党を組織して、近き将来に実施せられべき普選後の形勢に備へること、`全国各地に散在するソシアリスグループの連盟たる全国無産者同盟のコントロール、及びa未だ何れの無産階級団体に組織されざりし革命的分子及び中立的分子の吸入の四つを主要任務としてゐる。日本に於いては、従来無政府主義及びサンチカリズムが労働階級の幹部の思想を相当に支配してゐたので、その悪影響は未だ去り難く、この部の仕事は非常に困難であつたが、最近に至つて、労働組合、小作人組合、全国無産者同盟の幹部を集めて、労働党組織の第一回の相談会を開く計画を立ててゐた。
 
第二 今次の検挙事件
 
 六月五日早朝、警視庁は予審判事、刑事等を自動車に分乗せしめて党の執行委員長堺氏其他同志の家を襲ひ同志約三十名を拘引した。新聞紙は大陰謀事件、内乱予備事件といふが如き最大級の文字を掲げた。これ共産主義に対する世上の悪感を挑発せんがために警視庁の宣伝したところに依る。従来、共産党の存在は警視庁の既に探知してゐたところであつたが、正確の検挙材料がなく、手を下し得なかつたのである。今回の検挙によりて現在JCPの主脳部で動いてゐた党員の殆ど全部が入獄したから共産主義運動に大打撃たることは残念ながら事実である。次に発覚原因其他に分ちて記述する。
(一)発覚原因
 発覚は最近JCPがワセダ大学内に行いたる反軍国主義運動に原因する。日本の軍閥は民衆の間に軍国主義の組織的宣伝を行はんとしたが其手始めに学校に着眼した。そして学生数一萬を有するワセダ大学に軍事研究団なる学生団体を作り五月十日に其発会式を挙げた。同校教授中には党員二名あり、また党の統制の下に立つ社会主義的学生団体があり、三名の党員(学生)が其牛耳をとつてゐた。軍事研究団発会式当日には陸軍次官、第一師団長、近衛師団長其他三十余名の高級武官が臨場した。社会主義学生団体はこれに対して猛烈の妨害を行ひ陸軍武官に種々の侮辱を加え終に発会式を混乱状態に終らせた。社会主義学生は翌々十二日に学生大会を開いて一挙に軍事研究団を粉砕しようとした。しかるに反動派の勢力も此間に組織化され、彼等は大会当日、暴力を揮つて我々の同志を殴打した。これより社会主義教授学生と反動派教授学生との抗争となつた。警視庁は此反軍国主義運動の背後に共産党ありとなし、探索に狂奔した。終に彼等は成功した。同志教授佐野は学校内の研究室にJCPの規約及び三月に催された臨時大会の議事録を秘してあつたが、二十三日夜に何者かに盗み去られた。二十四日には佐野宅が家宅捜索せられた。但し其時には何物もなかった。佐野研究室に於て証拠物件を盗みたる者が警察側のスパイであるか、反動派の教授学生であるかは明かでないが、それが敵の手中に入れる事は明白である。
(二)警察側の手中にありと想像せられる物件
 六月五日の検挙当日には同志の家は殆んどすべて捜索せられた。しかし早くECの命により重要の証拠書類を壊滅した故に有力の証拠物件を押収せられたものはないと想像される。今日警視庁側の手中にありと想像せられるものは次の如くである。
 ^ JCPの規約及び臨時大会議事録
 右の議事録は綱領問題及び外部たる政党問題に関する大会の議事録であつて、それのみによりては第三インターナショナルとの関係を知ることは不可能であるが、党員の氏名約十四五が記載されてゐる。
 _ 教育材料  教育調査部が発行した資料であって、従来党員の受けた家宅捜索の際に押収せられたものであるが、これは有力なる材料と言ひ得ない。
 ` 印刷工小林進[次郎]の証言 小林はロシヤから帰りしものであるが党員でない。彼は党のことを知つてゐる。彼は警視庁に於て有害なる証言をしたとの噂がある。
 a 通信文にして官憲のために押収せられたものがあるかも分らぬ。しかしこれは全く不明である。
(三)被検挙者
 我々は[6月]八日までしか消息を知らぬ。それまでの事実としては次の人々が検挙せられた。
    堺(GS) [以下空白]
(四)脱走者及びその受けたる訓令
 脱走者は我々佐[野学]、高[津正道]、近[藤栄蔵]の三人である。[以下を線で抹消──我々は任意に?脱走したのでなく、GSの命によつたのである。]GSは党の活動分子が殆んどすべて起訴せらるべきを覚悟したが、かくて党活動が一時全部的に停止すべきを以て二三を選んで脱走せしむる方針をとつた。我々三人が其のために選ばれた。我々は脱走に際して次の訓令をGSより受けた。
^ 極東局及び第三International ECに全部を[ここでモスクワの資料ナンバーは前後し、f.495/
op.127/d.61/95から98へと続き96へと戻る]報告すべき事。
_ロシヤに於て脱走者三人並に片山、荒畑、間庭、山崎等の先住者に於て一個の局を作り日本の運動を指導すべき事。
`局員は二三ヶ月宛交互に帰国し実際運動に参加すべき事。
(五)日本に於ける新EC
 証拠物件を押収せられた後、検挙までには約二週間の時日があつた。当時のECは全部検挙せらるべきを覚悟し次の新しきECを頼みて後事を托した。EC員五名であつて、当分独裁的権力を有するものとした。
(六)今後の勢力関係
 共産党員の検挙によりて我党の活動は一時的に阻害せられるであらう。此際に乗じて日本の社会運動に台頭するものとしてはFascistがあらう。またアナキストは幾分勢力を回復するであらう。更に労働組合の指導分子にしてCPの党員たり得ざりしもの等が幾分の勢力を獲得するであらう。
 しかし共産党が活動を封じられる事は決して有り得ない。猶ほ故国には其素質優秀なる分子が多く残つてゐる。彼等は一層大なる献身の戦と巧妙なる戦術とを以て一歩一歩地歩を獲得して行くであらう。
 
   第三 今後の方針に関する見解
 
 我々は今後の方針について次の諸件[?]を必要であると考える。
 (一) Bureauを作る事
 ロシヤ在住のJCP党員及び脱走者三名[佐野・高津・近藤]にて構成する。これは単に連絡機関若くは代表機関たるのみならずJCPに対する指導機関たるべきであると考へる。
 (二)極東局が新Bureauの意見に従ひて日本に対する方針を決定する事。
 (三)日本局の局員は交代に二三ヶ月づつ秘かに帰国し運動する事。
 (四)日本局に於て日本CPの綱領を作成する事。
 (五)収監者に対して必ず過大の虐待を加ふべきにつき是に対するプロテストの運動を行ふこと。即ち国際的に宣伝すると共にまた日本内地にありては、^労働組合の抗議、_法曹団の抗議、`新聞其他の抗議、a社会主義者の抗議、b学者の抗議等を党に起さしむべき事。
 (六)今後JCPの国際的活動方向を拡大すべき事、即ち^朝鮮支部との具体的提携を完全にする事、_アメリカのCPと共に日米資本の抗争を高潮せしむ事、等。
 (七)運動上のコンネクションを完全にする事。
 (八)極東局より三国共通の宣伝雑誌を発行する事。
 

 資料26 日本語手書き報告書、表題・日付なし、「松村」署名(f.495/op.127/d.61/99-110) 

 諸兄の健康を祝し故国の運動に対する御努力に対し深く感謝します。
 御手紙の項目に対しては取り急ぎプライベートの手紙にて大体の御返事をします。
(1) ST[共産党]其の後の活動 旧MN[執行委員会]は事件突発に先ち之れに代はる可き臨時の機関を指令してをいたが、何等事務の引継を行ふ時がなかつた。其為め臨時機関には、F[党員?]及びZ[細胞]の所在すらも完全に知れて居らぬ有様であつた。
 従って事変直ちに結束を引きしめて動揺を防ぐ可く充分の行動が取れなかったのは遺憾であった。斯くして臨時機関は事変後相当の日子を経て初めて活動を初めることが出来た。
 事後、今日に至ルまで其活動は主として事変の善後策に向けられてゐた。且つ後節に記するが如き形勢の為め外部に向って活発する行動を取ることは、大いに防げられてゐる。
(2) 謂ゆる共産党事件のため、起訴収監されてゐる人は左の通りである。
 堺 曽根 西 田所 浦田 上田 市川正一 野坂 杉浦 渡辺政 渡辺万 橋浦 新井 田代 猪俣津南雄 徳田
 以上十六名であつて通信接見書籍の差入等今尚禁止されてゐる。
 右の内猪俣徳田を除く十四名は六月五日及びその数日後に逮捕され 猪俣氏は七月十四日参考人として召換され直ちに起訴収監された。徳田氏は、それより前、前衛社に於ける講演のために治安警察法違反として起訴収監され居りしが、猪俣氏の収監よく日、共産党事件の治警違反の追訴を受け 同時に接見等も禁止された。高橋貞樹氏は、約一週間前の深夜、突然行衛不明になった。前後の事情と綜合して逮捕と知れたことは、うたがひを容れぬが、恐らく拘留処分に処せられてゐるのであろうと思はれる。
 其他収監者の家族にして二三参考人として出廷せし人あり。市川義雄氏もその一人なり。予審の内容発展等に就いては、全然知ることが出来ぬ。
 専門家と雖も、或は尚ほ発展すべしと云ひ或ひは一段落なりと云ふ。意見区々にして帰着する所なし。尚上記諸君以外の人は、起訴されて居るや否やも不明である。
 約十日前、足尾の抗夫がダイナマイトを隠匿した事件のために、検事局が活動を開始し佐野氏と組合との関係を辿って、共産党事件に関係あるかの如く、誇大なる宣伝をやったが、これは物にならなかったらしい。
(3) 在監者の内一、二病弱な人があるが其の他は健在である。在監者及び行衛不明者の家族の救援に就いては、家族に依って家族会を造り、一切の醵金は、家族会の相談によって、自治的に、使途を定めることとなってゐる。不足額はSTより何等かの形式にて、填補し、不充分ながらも先ず生活だけは、保障されてゐる。在監者の家族中、橋浦氏夫人は大患なり。其の他は異状なし。
(4) 防援会は生憎この事件突発の為め、共産党事件と関係あるものと認められしため、大いに進抄を妨げられた。
 且つ其の筋の圧迫も甚だしかった。然し或る程度の成功を収めてゐる。
(5) 事件の影響  一般世間の人に輿つた印象は、格別記すべき程のことなく、従来の此種の出来ごとと変りなし。一般世間は、又かと云ふ程度のことで一般に印象は弱いらしい。従って、此の点は敢て、憂ふるに足らぬと信ず。
 ただ大学教授の関係してゐると云ふことが従来の此種の事件以上に好奇心を刺激した。また多少理解あり顔の人の間にも、今度の事件を以て狭いセクテリアンの突飛な遊戯的行動と見るような印象と反感を以たした事も争はれぬ。
 労働組合方面への影響は、大体に於て悲観的である。一般組合員は、概して無関心である。必ずしも大なる衝動は受けなかった。然し労働者は斯くの如き人々とは別になって組合で行こう、と云ふ宣伝を受け容れ易い心理状態を造ったことは疑ひがない。
 労働組合の幹部又は中心人物の間には、右の如き心理状態が濃厚である。然し人によつて與えられた影響は、一様でない。比較的に好意的の立場にゐる人の間には、
^自分の除外されて居たことに強い反感を持つ人がある。
_自分はコンミュニストである 然しああした遣り方では一緒に行けぬと云ふ人がある。
 保守的な人々の間には、此の事件を以って主義者に接近する組合の闘士たちに対して警告する絶好の材料と考へて居る人がある。斯くの如く、労働者は同じく革命主義を取るにしても組合で沢山である、組合以外STの如きものに組合労働者が関係するのは有害であると謂ふ考へを起させたことは、多いか少いか一般的の影響であるらしい。
 今一つの影響は、STに引張られて来たと云ふことに気が付いて極度に警戒するようになった。前衛同盟の如きもこの影響を受けて、全く活動が止んでゐる。組合中のFに与へた影響も大体に於て同様である(例へば総同盟の方面のFにしても元来からST意識は組合意識よりも遙かに弱い。之れは日が浅いのと、組合の仕事だけで充分忙しいのと、実際数に於ても組合の方に実力がある結果、止むを得ぬことであるが、兎も角ST意識はもともと薄弱であった。従って今回の動揺から受けた影響も大きく、従って組合部及び前衛同盟の活動が最も恢復の困難な状態にある。
 現に最近の赤色[労働組合インタナショナル]の機関紙(独逸語)には、日本の赤色組合の報告が載ってゐる。これは一読して正式の報告なることが分るそうである。これなども組合方面に宣伝され(殊に大阪方面では)非常な妨害となってゐる。大阪に於ける、総同盟内のFも幹部から警戒され困難な立場に陥つてゐる。
 又九州のAの如きはST加入の勧誘を受けたが拒絶したと公言してゐる。(AがFなるや否やの如きも最近漸くたしかめ得られた)其の為め鉱山方面には一切筒抜けで本部のAなどは盛んにアンチSTの宣伝をし大阪方面(Y及びN、F、H等)その為めに或る程度の握手をした形跡すらもある。
(5) 右の状態であるから政党問題の如きは、一層不利な形勢となった。事変のすぐ前、政党急造の計画ありたる由なれども事変の為めに当然活動は消滅し、彼の際急に政党急造案を持ち出したかに就いては、外部の分子からはかなり疑惑を抱かれてゐる。従って彼の計画を継続することは今日のところ不可能である。然しコンミュニスト孤立の危険を妨ぐため何等かの方法を必要とするので、仮りに正式の政党を不可能としても何か之れに代るべき過渡的団体でも造ることに就いては、目下研究中であるが、之れさへも現在の極めて不利なる形勢の下に現実の可能が疑はれてゐる。
(6) プロテストの運動も勿論希望する所であるが実際に於て労働階級の方にも其他の方面にも彼の事件に対してそれ程の同情がない以上、プロテスト運動と云ふ程のものは遺憾ながら起り得ぬ。
(7)戦線同盟については前以て二三のFが入れてあると云ふことであったが、現に其内の一人は明白にSTに対し敵対行動を取ってゐた。彼は或る人に対し別に一党を組織してモスコーに持出せば幾らかになるだろう、といふような言を発したとさえ伝へられてゐる。恐らく真意は、別に一党を作ってモスコウに持ち出すことにあるらしく思はれる。又、米村襲撃の前夜は、三十名ばかりで南葛労働組合を襲ひ、脅迫して汽車会社の事件に対する謝罪の覚書を書かしめた事実もある。南葛の当局者が組合幹部を辞任し其の内の一人Kは一時組合を脱退するの止むなきに至った。
 然し高尾[平兵衛]氏の死に対しては、我々は充分の同情を表し且つ反動団体に対する抗議と示威との為に協同する意味に於て高尾氏の社会葬にも参加した。目下彼の事件の為め、吉田一、長山、平、岩の四氏は収監されてゐる。なを此の事件の為め戦線同盟の運動も一頓挫を来した。
(8) 学生五十名[をモスクワのクートベへ]送るの件は、到底不能と信ずる。目下東京の在監者と其の家族の外は、先月中名古屋に於ても葉山、依田、酒井氏等十数名が突然検挙された(新聞は共産党事件と関係ありと報じたがあやまりと思ふ。然し同じく治警の秘密結社で起訴されゐる云ふ。之れ亦た通信接見禁止の為め内容は少しも分らぬ)。其後聞き得たところによると前衛同盟の暴露であることがわかった。為に此の方面の費用も巨額に上って居る。故に此の際多くの旅費を支弁することは不可能である。且つ人の足らぬことが痛切に感じられて居る。折角多少でも動き得る人は内地に止める必要あり。
 以上に依り、御手紙中の項目に就いては、大体の御返事を為したつもりである。勿論之れはプライベートの御返事であり、従って以下に申すことも正式の報告ではないのですが、以上の如く形勢に鑑み将来の運動に就いては慎重な考慮を要すると思ふ。事実上今日は、根底からもを一度やり直しをする覚悟でやらねばならぬことと思ふのです。
 第一には、今度の事件の結果、コンミュニストはあらゆる方面から断ち切られて孤立し再び小さなセクトとなる危険が充分である。故に近き将来の問題は、全努力を之が防止に傾注する必要があると信ずる。
 第二には、組合方面に於ける勢力がほんの外面的であって真に扶殖されてゐなかったことが明かになった。今後は一層、堅実に忍耐つよくほんとの勢力を築くことに力を注ぐ必要ありと信ずる。
 第三には、現在の人員を持ってしては運動はほとんど不可能に近い。よって此の際出来る限り形式倒れになるやうなことを廃し且つ一方には、組合部、農民部、政治部に力を集中することが必要と信ずる。
 第四には、人を造ることに従来以上の重きを置くことが必要であると信ずる。
 第五には、同情者及び中立地帯に立つ人にも協同運動に重きを置く必要があると信ずる。
 第六には、右の如き事情故、此の際対外関係を成るべく簡単にし、出来るだけフォマリチー[形式性]を廃し此の方面になけなしの勢力をなるべく殺かれぬやう諸兄の御助力を得る必要ありと信ずる。
 第七。最近ユースの方面の意見を聞くところによると、ユースの方でも現在のところは八人や十人の人間で道具立ては立派に出来たが形式倒れで実際の運動が出来ぬから当分方針を一変して実効を挙げるやうにしたいと謂ふ話しであった。目下青年運動の機運は至る処に勃興してゐるが、ユースで活動してゐる人に聞く処によれば僅かに三四名あるなしであって折角の形勢を如何ともすることが出来ぬ。(然しその割合にして立派な成績を挙げてゐることは事実である)
 以上の通り周囲の形勢は総べて悲観的であるが、我々は諸兄の志をつぎ充分の覚悟を以って努力しつつある。荒井義助氏[山川均?]は旧MNより指名されてゐないが外部より極力努力しつつある。氏が安全なりや否やはまだ明かでない。
 尚ほ暁民共産党事件は大審院に於て左の通り判決あり。藤岡、小野、西氏行衛不明を除き、他は悉く服役したり。
  高津 前審通り、大島 五ヶ月、新井 五ヶ月、近藤 十ヶ月、小野 前審通り、浦田 七ヶ月、寺田 七ヶ月、川崎 前審通り、武・藤岡・仲曽根・貞代・堺真柄(各四ヶ月)
      諸兄の健康を祈る               松村生
 
○ 総同盟では鈴木[文治]氏がいよいよ引退のことに(来るべき大会に於て)決し、その後釜には西尾[末広]氏を推す傾向である。同氏には当分関西も離せない事情があるから、両方をかねるといふことで解決が附くであらうと考へられてゐる。
 

 資料27 日本語手書き「報告」(#16-1923)日付・署名なし(f.495/op.127/d.58/28-43) 

 「1923年7-8月」と、誰かが日本語で上書きしている。収監近いと見られた山川均のモスクワ召還決議を含む、在露日本人11名による「在外日本人共産主義者団」の結成を日本に報告するもの。その内容・筆跡からは、当時ウラジオストック郊外セダンカで合宿していた青木=荒畑寒村か花田=佐野学の執筆と思われるが、確言はできない。またこれが、資料25でのべていた「日本局」に相当すると思われるが、コミンテルン極東部、国内臨時ビューローとの関係での権限は不明である。 

       報  告
 
 一 新聞の伝ふる所に依れば、山川氏が事件の進行につれて、或ひは収監されることになるかも知れぬとのこと。我々は万一かかることがあれば、我々の将来の運動上、又氏自身の健康上重大問題であることを考慮し山川氏をこの地に召致することを決議した。然しながらかかることは、素より山川氏本人の意志に基つかなければならないことではあるが、我々としてはこの決議の実現を期待している。若しこの決議に山川氏が従はれるやうならば、『諸君』に於いて氏の出発、旅行に際して、萬善の策を講じられんことを我々は希望する。尚ほこの地では療養上何等の不自由はない。
 二 先便で略報した如く、我々在露のF[党員?]片山、石岡(青木[荒畑寒村])、小玉、岡田、花田[佐野学]、太田(辻井)、水沼、北浦、秋田、島、吉野の十一名で、今回在外日本共産主義者団を組織した。この団の組織は、ST[共産党]の前AB[執行委員長?]の訓令『今回の亡命者は露国にある片、石等と共に、国外から日本の運動を今後指導して呉れ』と、M[執行委員?]からの同様のインスト[ラクション]とに基いたものである。
 三 就いては、この国とSTのMN[執行委員会]との間の権限の問題、及び今後の運動、即ち政党の組織、プロヒンタン、青年、婦人等の各問題について、STの代表者とこの国の代表者とが、最近に集会協議したいと思ふ。
 四 この両者の集会協議のために、STからST、青[年]、プロ[フィンテルン]、婦[人]の四個の代表権を有する正式の代表者を送って貰いたい。会場は上海か浦塩かのどちらかにしたいと思ってゐる。この二つの場所は各々利害を持ってゐるが、こちらで船の都合を調べて電報で通知するから、その際には直ちに上海(浦町に来るのも今のところ上海を通るのが一番よい。上海から浦塩へは不定期ながら露西亜の義勇艦隊が通つてゐる)に向ひ得るやうに準備しておいて貰いたい。我々は、北原、赤松の両君が来て呉れることを希望してゐる。
 五 従来コンミンから受取つたファンド[資金]について、収支決算をよく調査して来て欲しい。コンミンに報告しなければならないから。
 六 九月の第一日曜日は、インタナショナル・ユースデー故、この日、日本に於いて何等かの運動(演説会、青年大会、集会其他)を行へと、青年共産インタナショナルのECからインストがあつた。こちらからこの運動のために使用すべき印刷物か、印刷に附すべき原稿かを次便にて送る心算でゐる。この便にて、"Youth in the Class Struggle"の翻訳(青木訳)及び最近のYCIの活動に関する報告書(花田記)を送る。前者はリーガルの出版物にして欲しい。これは、『過激』なヶ所は伏字にするか、文章を書き改めるかして下さい。後者は参考資料として御一読を乞ふ。
 七 国際婦人同盟が、日本の婦人部との連絡を希望する旨を先便で伝へて置いたが、今山川菊栄氏に当てて該同盟の浦塩通信員から通信を託したから、別の便で送った。返事を早く願います。
 八 マツモトが不日帰国する。彼は今浦塩にゐる。
 九 今後のオルガン各十部宛、リーフレット、パンフレット、チラシ、ビラ、及びST関係の機関紙「進め」、「突破」其他各労働組合の機関紙、労働運動鼓舞の雑誌(「労働運動」の如き)各数部宛、同じく御送付を乞ふ。尚ほ従来出版されたパンフレットやオルガンをも送付を乞ふ。
 一〇 ST、プロ、青、婦、の各運動について、毎月二回づつ是非報告を送れといふMからのインストがあつた。相当に厄介だと思ふが是非御励行を望む。報告は日本語で差支なし。政治、経済、労働の一般状態についても報告せよとのことだが、この分については僕等が報告を作製する考へである。
 一一 先日鷹取萩子、佐々木春子(両人のアドレスは多代子承知)宛に、宣伝文書を送つて置いたから、有効に頒布を乞ふ。
 一二 活字買入代金として、上海まで一千円送つてある。今STで立て替へて活字(インテル共)を買入れて、上海まで何等かの方法で送つて貰いたいとのこと。こちらの活字は五号、別紙見本の通りか又は最も型の近い活字を買入れ、上海に送る方法を研究御実行を乞ふ。
 一三 今後浦塩に来る日本船の船員に、充分信頼の出来る人物があつたら、STが連絡任務のクレデンシャルを与えて寄こして呉れといふ浦塩港務局(ポートビューロー、プロヒンタン経営)の依頼だが、一寸むづかしからうと思ふ。然し出来る事なら、是非とも御助力を乞ふ。若しこれが成功すれば、吾々の間の通信連絡は確保される訳である。
 一四 安藤が上海からチタに向つたとの報を受けた。我々はプロヒンタンの大会はないし、片山も温泉地に旅行中故、この地に一応呼び寄せることにした。辻井はこの地にゐる。
 一五 以上は直ちにSTのMNに直接報告の上、実行に移つて貰ふ事。並に特に大阪としては、今後神戸に入港すべきロシヤの義勇艦隊乗組のロシヤ同志と、如何にして、何時、何処で、最も安全無事に会見し得るか、その方法を研究確定する事。場所、時間は、度々変更する事。着船の通知は、たとへ官憲の眼に触れても、毫も知られざるが如き内容とする事。(通知の内容を定めれば、船が出る時、こちらが書いて渡し、直ちに投函させる)。
 一六 総連合の再議の生じてゐる際、特にユナイテッドフロントのインストある関係上、たとへ自由連合主義に則る組織に由るとも、総連合を作る事に尽力する方がよくはないかと思ふ。少くともコミンタン及びプロヒンタンの意志は、そこに在る事と信ずるが、日本のST及びプロフィンタンの慎重なる研究を望む。
 一七 青木がモスコウから受けて来たインストは次の如きものである。
A 合法的政党を組織して政治運動を行ふこと。
B 反軍国主義運動の協同戦線を造ること、
C 日本内地に合法的で穏かな機関紙を発行し、非合法的なものは主として浦塩にて発行すること。
D 日本のSTの会計は浦塩で処理し、青木がこの事務を管掌する。但し日本に対する割当ては従前に異らない。
E プロヒンタンの青木を通じて日本のプロに対するインストは次の如し。
 ^ 共同戦線
 _ 労働組合の産業別合同
 ` 自主的工場委員制度の促進
 a 若しMPのプロに加入することが反つて政府の迫害を齎すか如き形勢ならば、必ずしも加入の形式は必要とせず、プロヒンタンの精神を鼓舞し殖付けることを希望する。
 b 労働組合運動の方針としては、抽象的の問題ではなくて、実際的な利害問題を運動の対象とすること。
 一八 ST及日本のプロヒンタンのことについてここで決議したことは詳しく後便で御伝へする。
 一九 白川夜舟君が遠からずモスクワに行くが日本のSTは彼を代表とすることに異存はなからうか。彼は疥[?]鮮の問題の解決のためにモスクワ行きを少し延期してゐる。
 二〇 朝鮮の党は長い間軋レキしてゐたが、我々が公式の権限を与へられて、その調停に当ることとなるであらう。
 二一 この報告は凡てを尽してないが、詳しくは会見評議の際に譲らう。この評議のためにこれだけを今伝へて置くが便利だと思つてこれだけのことを報告したわけだ。
 

 資料28 日本語手書き「報告」(#9-1923、「日本の党に対して、1923年7月29日」)」署名なし(f.495/op.127/d.58/58-60) 

 資料27前半の複写文、若干の表現の違いはあるが省略する。この複写文の存在から、資料27も、1923年7月末執筆と推定できる。

 

 資料29 日本語 手書き連絡文書(#10-1923、「1923 JULY 」の上書き)(f.495/op.127/d.58/62-64) 

  青木=荒畑寒村のモスクワで受けた指令で、資料27後半と同文なので省略する。 

 

 資料30 日本語活版ビラ「故国の労働者と農民にうつたふ、1923年7月、海外日本共産主義者団」(f.495/op.127/d.57/2)

 資料27にある「海外日本共産主義者団」が、第一次共産党検挙事件を「官僚軍閥政府がブルチョアの教唆の下に、日本の労働階級に向つて試みた挑戦」と位置づけ抗議運動をよびかけたビラ。実際に撒かれたか否かは不明。

 

 4 関東大震災から23年10月党大会へ

 

 資料31 独文タイプ文書「Project der Thesen zur Taktik der K.P.J. nach dem Erdbeben」日付・署名なし(f.495/op.127/d.71/21-26)[「震災後における日本共産党の戦術についてのテーゼ」村田陽一編訳『資料集 初期日本共産党とコミンテルン』大月書店、1993年、3頁以下、村田によれば、1923年11月5日付で「11月8日日本へ送付」]

 

 資料32 英文タイプ文書「These of the Executive Committee of the Communist International on the Tactics of the Communist Party of Japan after Earthquake」日付・署名なし、資料31の英文(Confidential[極秘扱い], f.495/op.127/d.71/27-28)[同前]

 

 資料33 英文タイプ報告書 To the E.C. of the C.I. Nov. 10/23, E.C. of the J.C.P., B. Motoyama(G.S.), P.Noda(I.S.), J.Yamada, A.Ishioka, G.Arai署名(f.495/op.127/d.58/72-74)

 

     共産主義インターナショナル執行委員会へ
                            1923年11月10日
 最近開かれた共産党の大会において、日本における今日の諸条件を考慮し、我々の全エネルギーを、「民主主義」の足場獲得の前夜にある大衆に我々が到達することを可能にする、合法キャンペーンの開始に集中することを決定した[in starting a legal campaign which would enable us to reach the masses which are on the eve of gaining a foothold i n "democracy"]。
 このようなキャンペーンはだいぶ前に開始されたが、しかし最近の政府の弾圧──6月の我が同志たちの一斉検挙──はこの領域での計画を大きく妨げ、最近の震災が我々の計画をさらにいっそう困難にした。
 しかしながら、このカタストロフは、我々がそれを共産主義闘争過程での奇貨とする機会を与えた、といいうるかもしれない。
 この大災害の最初の大衝撃の後に、政府の労働者への攻撃性に反対する大衆の目立った反応が現れた。大衆の民主主義精神が高揚し、政府は普通選挙権に賛成することを余儀なくされている。
 この大衆の民主主義的風潮を支持して、我々は、我々の計画を更なる解放へと向かうように実行しなければならず、出版物はこの目的を遂行する手段となっている。我々は日刊新聞を発行したい。しかし我々の最大限の財政能力に関わる今日の困難を考慮すると、それを実行することはあまりにも難しい。したがって、我々が今日の諸条件に適応する[原文はto adopt ourselves to だが to adapt ourselves to the present conditionsの誤りか?]唯一の他の方策は、雑誌を我々の支配下におくことであろう。
 たぶんあなた方もご存じの『解放』は、日本における最も進歩的な雑誌である。それはすでに創刊5年となり、2万部が発行されている。『改造』も同じく5年になるが、しかしながらその発行部数はずっと多い。しかし『解放』は、その共産主義的傾向によって、広く読まれている。同志山川、堺、佐野は主要な寄稿者であったし、同志佐野は編集長をつとめた。
 『解放』は震災で大きな被害をこうむり、全経営がいまや大きな困難に陥っている。この雑誌の経営が、全日本鉱夫総連合会代表理事の麻生久氏と著名な共産主義著述家である黒田礼二氏に対してもちかけられ、この二人は我々に、経営を引き継いでもよいと示唆している。
 『解放』の再建には5万円の資金が必要だが、我々は掛け値なしで2万円の資金で始めなければならない。我々による『解放』の経営は、共産主義闘争の最善の武器を提供するであろう。
 経営権は、完全に我々のコントロール下にある先の2人のいずれかに移されて、この雑誌の全般的経営計画を完成した。
 4人の編集者が任命されるが、そのうち2人は我々の仲間であり、1人は編集長たる力を持っている。財政面の管理は、我々の同志によって行われる。経営の全部門に同志がいるようになろう。著名な社会主義シンパである有能な出版者が、経営のトップにすわるだろう。したがって我々は、この雑誌を合法的なかたちで共産党の完全な支配下におくことができると保証する。
 前述のように、我々はその出発に2万円を必要とする。1万円は11月末までに、残りの1万円は12月末までに入金されたい。もしも1月までに刊行するためには、1923年12月2日までにその資金を調達しなければならない。
 同志よ、どうか我々の要請を軽視しないでほしい。この計画をすべて調査し、機会があり次第我々に回答してほしい。
 我々は、我々と共に同志ヴォイチンスキーがこの計画に協力しており、こうした条件についてよく知っていることを、付け加えておく。もしもコミンテルンが認めるならば、彼はこの問題で我々を可能な限り援助してくれると示唆している。
 もう一度お願いする。この天の賜りものを入手する絶好の機会を見逃すことなく、しっかり検討してほしい。我々は我々の資金要求の正当性が明らかになると確信している。
 同志よ、どうか急いで検討してほしい。同志ヴォイチンスキーがあなたがたの調査を助け、資金と指令は彼を通じて送られるであろう。
 
      できるだけ早くお答え頂くよう望んで、共産主義者の挨拶をもって、
 
             日本共産党執行委員会
                B・モトヤマ(総務幹事) [自著]
                P・ノダ(国際幹事)   [自著]
                J・ヤマダ        [自著]
                A・イシダ        [自著]
                G・アライ        [自著]

 

 資料34 日本語手書き報告書(#23-1923)1923年11月15日付、「野田」署名、執筆者とは別の字体で「1923,15/XI、救援金についての報告(野田律太[=佐野文雄?])」の上書き(f.495/op.127/d.69/64-76)

 

           報 告 書
 同志
 九月一日東京、横浜及び関東地方を襲った一大カタストロフが結果した日本に於ける社会的、政治的、経済的シチュエーションの変動には大なものがあった。茲では吾々の党が直接に蒙った悲劇的損失、十月二十二日の党大会、並びにそれ以後の党の活動に就いて報告するに止める。
 地震による工場及び住宅の倒壊並びに二日に亘る大火災のために吾々は幾多の同志を失い更に狂暴なるミリタリズム及びファシスト自警団の組織された暴力によってわれわれは数十名の精英を奪はれた。最もアクチヴなメンバーであった南葛労働組合の数名の幹部は軍隊と警官の共謀の上で秘密に虐殺されたことが暴露された。そして僅かに逮捕を免かれた同志の多数も或者は退去命令によって首都を放逐され或者は厳重なる監禁の下におかれた。このやうにしてその勢力の大部分を奪はれた党の活動は一時全く停止状態に陥るの余儀なきに到り、僅かに官憲の圧迫を受けること比較的に軽い党員によってソーシャル・デモクラチックな学者、思想家を動かすことによつて官憲の高圧政策(ハイ・ハンデッド・アクション)に抗議すること、罹災労働者の救済運動に尽力することが出来たのみであった。
 けれども監禁された同志の釈放──依然として監視の下には置かれてあるが──と共にわれわれの活動は平常に復帰しつつある。
 従来ともすれば綱規が紊れんとする恐れがあったから ビュウロウでは党員の整理、大淘汰をなさんとの意図があったが此度の大震災、大混乱期を以って正に絶好の機会であるとして党員を一々厳正なる篩にかけて大淘汰を断行した。かくて十月二十二日現在の党員数は左の如しである。
 東京及び横浜地方        一二七名 [七二を線で抹消]
 地方               七二名 [四二を線で抹消]
 在監者              三六名             
 海外               二三名
   合計            二五八名 [一六二を線で抹消]
 このやうにしてわれわれの勢力は数に於て約半減したのである。併しながら残されたる党員は何れも粒選りの精英で、過般の悲劇が吾々の上に齎らしたる損失を恢復するに十分なる意志と情熱とを保持してゐる者である。そしてこの打撃そのものから吾々は更に新なる甦生の力を汲み取ることを知ってゐる。われわれには望多き幾多の有力なキャンディデートを有する。失はれたる勢力は一歩一歩その中から補充されるだらう。そして現に補充されつつある。
 
    大  会
 
 十月二十二日、厳重なる戒厳令下の東京の郊外に於いて党の大会が召集された。
 六月の共産党事件以後の党の活動並びに震災及びクーデターと整理による党勢力の変化に関するGSの報告の後、大会は運動方針並びに党オルガニゼーションに関して討議し、次の諸項に就いて決定した。
(一) 当面の運動方針
 九月一日の自然の齎らした悲惨事の結果せる一般的社会的状勢の変化により並びに六月事件が吾党の戦術の上に結果した諸々の教訓及び経験により当面の運動の方針に重要なる諸修正を加ふる必要があった。
 大会はアクション・プログラムに関し同志荒井[山川均?]の手になるThesesの大体を通過しその細部的完修を新たに選出さるる執行員に委任した。茲には極めて概略的に右の決議の主旨を報告する。
 ^ 組合にオルガナイズされた労働者が無産階級中の極めて小数の部分を占めてゐるに過ぎぬ現在日本の状態の下ではわれわれの任務は労働組合と協力して之等の労働大衆をオルガナイズすることを以って最も重要なる当面の急務としなければならぬ。従って組合の政策及び運動方法の上にも右の方針に適応した改訂を加へることは組合内に於ける共産主義者の任務である。
 _ 工業労働者が人口の小数部分を占めてゐるに過ぎぬ現在の状態の下にあっては無産階級の階級闘争は中間階級の下層分子の向背によって大なる影響を受ける。従ってわれわれの運動は之等の中間階級下層分子を支配階級の反動主義の影響から引放して無産階級の影響の下に置き、もしくは少くとも両勢力に対して中立化せしむることによって反動勢力を殺ぐことは当面の急務である。
 ` 故に当面のわれわれ党の運動は一般大衆の理解を得る範囲内において適切に其利害を代表し彼等の前に直接に社会主義を説き共産主義社会組織の建設を説く前に、先ず眼前の具体的な要求によって彼等の利害が実際にブルジョアジーと両立せずして革命的無産階級と一致してゐることを自覚せしめ彼等が直接の利害を感ずる当面の問題に就いて積極的の行動を取り彼等をして之に参加するに到らしねることに従来より以上のインポータンスを置かねばならぬ。
 a 政治的「デモクラシー」は吾々に決定的勝利をもたらす主要手段ではないこと勿論だが、或程度の政治的自由は無産階級の階級的成熟のための不可避的条件である。資本主義が変則的に発達しブルジョア・デモクラシーが殆んど発達を遂げてをらぬ日本の現状では 政治的自由の要求は無産階級の当面の要求の一たるべきである。故にわれわれは封建的遺制と闘ひ政治的自由を獲得する一切の運動に重要な任務を有する。
 b 無産階級中の小数的分子は絶えず一般大衆によって支持され、又一般大衆に向って訴へねばならぬ。しかしそのためには公然の運動でなければ不可能である。故にわれわれの党の運動を大衆的運動に進展せしめるため一般大衆の目前に彼等の拠るべき所を示す公然の運動をオルガナイズすることに特別のインポータンスをおかなければならぬ。
 右の一般的方針に基きわれわれの当面の任務は、
 c 政治運動においては、
 無産階級の利益を代表し都市及び農村に於ける凡ゆる無産階級並びに准無産階級分子を包擁して独立せる一個の政治的勢力たらしむる政党組織の促進。
 d 組合運動においては、
(a) 組織されざる労働大衆を組合に包含することに第一のインポータンスをおくこと。組合を如何に導くかの問題は右の事業の成功に伴ふて初めて意義を生ずる。
(b) 既成組合の間に産業別合同及び全国的結合の機運の促進。共産主義対無政府主義、合同主義対自由連合主義の原則上の争ひの打切り。合同の不可能な場合にはその前提として連合の促進。
(c) 組合の自足主義及びサンチカリズムの傾向を理論上からよりもむしろ主として実際上から打破すること。
(d) 組合内に於ける政治的教育。労働者の利害を代表する政府の必要を自覚せしむること。
(e) 従って当分の中日本に於ける赤色労働組合運動は 右の如き当面の事業を担任するリーガルな大衆運動たるべきものである。
 e 農村運動においては、
(a) 小作人組合の促進とその組織の改善。
(b) 小作人組合の地方的及び全国的組織の促進。
(c) 地方自治機関の獲得のための努力。
(d) 農村無産者の当面の利害を支持して農村ブルジョアとの間に政治的分裂を促す事。
(e) 農村中間階級下層分子の当面の利害を支持してブルジョアから引離す事。
 f 婦人運動においては、
(a) 労働婦人に関しては、@組合の必要を自覚せしむるための極めて初歩的な教育運動、A既成労働組合をして婦人労働者の組織により以上の注意を向けしめること、B職業婦人の組合組織の促進。
(b) 一般無産婦人に関しては無産階級の経済的要求と封建主義に対する政治的、法律的、社会的、教養的のあらゆる進歩的要求を以って無産婦人大衆と中間階級下層婦人とを社会的活動に参加せしむることに努力すること。
 g 青年運動においては、
(a) 労働青年に関しては、@組合のための啓蒙的教育運動、A組合のために新組合を徴募する別働的機関となり、B組合と組合とが組合の公式の機関により交渉を保つ前に青年運動としての連絡接触を保つことにより組合間の連鎖を一層緊密にし かくして組合愛国主義の発生を防止し、組合の合同乃至連合の機運を促進すること、C[原文B]組合外の一般無産青年運動との連絡により組合運動と組合外の無産者運動との連絡を緊密ならしむること。
(b) 一般青年運動は、@都会にあっては現在の状態では学生を主体とし封建的遺物と反動主義とに反対する一切の進歩的自由主義的分子を包含する青年大衆の運動、A地方にあっては都会の学生の場合に照応した運動から出発し、小作人社会運動の援護、監督官庁と旧来の自治機関とに対し小学教育の地位の擁護、教員組合の促進、B如何なる場合も青年大衆の理解する要求を掲げ 青年大衆を対象とした公然の運動の組織。
(二) 組織
党の組織に関しては、大会は次の諸項に就き改正を行った。
^ ビューローの廃止
 六月事件以来の非常的ビューローを廃止し大会代議員の選出する六名を以って執行委員会を組織し内三名を常任委員とし、常任の中から一名を総幹事、一名を国際幹事、一名を財務幹事に互選する。尚ほ総幹事の任命により一名のセクレタリーを置く。
_ 細胞
 党員勢力の変化に応じ細胞を再編制する。従来は変則的にビューローによって指令されて来た細胞代表者は 細胞内のメンバーによって選挙される。尚ほ各細胞に新たに一名宛の副代表を選出する。
` セクション
 従来の諸セクション中、その活動をデ・ファクトに停止し居るもの又は現在の運動方針及び形勢より見てその特別の設置の必要なきものを全廃し、運動の必要に応じて並びに運動の存続する期間に於てのみ、その都度セクションを設置する。
(三) 機関紙
 従来の機関紙『階級戦』を廃止し、大会によって決議された新運動方針を象徴する党の機関を創立する。
 尚ほ外に共産主義者養成のため共産主義の理論を教ふる一月刊雑誌を創立する。
 [以下、大きな×印で削除?──『前衛同盟』及び『青年国際共産党』の存続又は廃止、又は代置等の点に就いては執行委員会の決定に委任する。]
 
(四)政党組織準備委員会
 大会で決議された新運動方針に基きリーガルな労働者及び農民党を組織するために政党組織準備委員会を党内に設置しその組織のための準備に当たらしめる。
(五)執行委員の選出 
 大会で選挙の結果 左記六名が執行委員に当選した。同志荒井[山川?]は予め病気の故を以って執行委員に選出されることを辞任した結果 一票も投ぜられなかつた。
    本山 [モスクワで後に上書きされたと思われる注記「ヨヘナ」]
    野田 [モスクワで後に上書きされたと思われる注記「山口GM(佐野文雄)」]
    山田 [モスクワで後に上書きされたと思われる注記「赤松」]
    大井 [モスクワで後に上書きされたと思われる注記「北原」]
    田  [モスクワで後に上書きされたと思われる注記「立田」]
    朝日 [モスクワで後に上書きされたと思われる注記「浅沼」]
 互選の結果は本山、野田、山田が常任となり、同じく本山が総幹事、野田が国際幹事、山田が財務幹事に就任した。
(六) 執行委員会の活動
 大会で選出された新執行委員会は左の諸項を決定実施した。
^ 細胞の再編制。
_ セクションの整理。
` 党員資格審査委員会を設置し、新党員の採用、党員の紀律に関する審査を行はしめることにした。
a 政党組織準備委員会の任命。即ち党内から十六名を委員として任命した。
b 党機関委員会の任命。
 大会に於て決議された(三)機関紙の事項を考究調査せしむるため委員を二通り任命した。
c 執行委員会は各方面に亘り各実行委員を任命して震災による諸種の事件を調査実行せしめた。(イ)亀井戸に於ける共産主義者虐殺事件に関しては自由法曹団(吾々がコントロールする急進弁護士団体)と共に事実を調査して東京及び大阪に於ける労働組合の連合をして軍閥並びに官憲にプロテストさせた。(ロ)朝鮮人虐殺事件に就ても特別委員を任命して事実を調査せしめ且つ本問題に対するプロテストの団体をオルガナイズさせた。(ハ)震災当時に於ける共産主義者及び社会主義者に対する官憲の迫害、不法監禁等の具体的事実は之をパンフレットにして官憲及び軍憲のアンチ・ソシアリスト・プロパガンダを打破するつもりで既に着手してゐる。(ニ)罹災労働者救済のため「罹災者救済思想団」なる一団を組織し救済資金及び物品を募集し十月二十四日、十一月四日の二回に渉って最も窮迫せる労働者に救済品を寄贈した。この団体をして尚ほ将来も引続き活動させる筈である。
 
         一九二三・十一・十五日      
                 野田 P. Noda [自署 佐野文雄?]

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