無論、宮本顕治さんも読んでくれたのだろう。残念ながらご本人からの返事はなく、今回88歳になって、やっと私の忠告通りに辞める気になったようだが。同じシリーズで『日本社会党への手紙』も刊行されたが、こちらは反響がさっぱりだったというから、やはり共産党の周辺には理論志向のまじめなファンが多いんだなあ、と納得したものだった。
そういえば、旧日本社会党・現社会民主党のホームページは、英語・スペイン語版まで持つ日本共産党の豪華ホームページには遠く及ばないが、一応それなりの体裁でつくられている。そこには旧社会党の「50年史」が年表風に入っていて、政治学者には重宝なのだが、その冒頭の党創立大会の演説者「鈴木茂三郎」の名前が「茂三朗」と誤植されたまま、ずっと更新されずにいる。無知なのか、遊びなのか、だれも社民党のHPなど見ないからなのかわからないが、これがもし共産党のホームページで「宮本顕治」を「宮沢賢治」なんて誤植していたら、そのHP管理者・作成者の運命はどうなるだろう、なんて想像したくなる。逆に井上ひさしさんあたりが「宮沢賢治」を勝手に指導者にかついで「イーハトーブ・クラブ」なんて運動を始めたら、楽しいだろうなあ、とも連想してしまう。
7年後にここに収録するのは、5インチ「一太郎ファイル」に入っていた草稿なので、有田芳生さんの編集で実際に刊行された掲載論文とのあいだには、多少の異同があるかもしれない。当時も今も、これが「反共反動攻撃」であるかどうかの判断は、読者の皆さんにおまかせします(1997年9月)。
さらに4年後、必要があって本論文の再チェックを行い、松岡英夫・有田芳生編『日本共産党への手紙』(教育史料出版会、1990年)に収録したさいのかたちに改めました。いわば完全保存版です。興味のある方は、もう一度味わってください。そういえば今委員長の志位某氏は、この時の私への批判でデビューし、共産党官僚のトップに登用されたんでしたね。宮本氏が去り、規約が改められ、綱領も変えようといっている10年後、1990年の時点での私の提言が正しかったか、共産党の方に理があったか、読者自身でご判断下さい(2001年2月)。
私は、日本共産党を、日本社会のなかの善意にあふれる良心的な人々の結晶体だと思っています。地域住民のために地道に活動する地方議員や、企業社会のなかでたたかう労働者党員や、毎朝『赤旗』を配達する人々のなかには、日本社会の民主化のために献身的に活動する姿が見られ、つねづね敬服しています。
国政レベルでも、ロッキード事件やリクルート疑獄の追求や、消費税反対運動などでは、自民党政治をチェックする日本共産党の役割が、大きかったと思います。先進資本主義国のなかでも、異常に企業と国家の力の強いこの日本では、社会的弱者の人権と生活を守るうえで、こうした政党の果しうる仕事は、無数に存在します。
とはいえ、今日の日本共産党は、一九二二年の結党以来の大きな岐路にたたされているように見えます。私の『ジャパメリカの時代に――現代日本の社会と国家』(花伝社、一九八八年)、『社会主義と組織原理 1』(窓社、一九八九年)などのなかに、世論調査の歴年データを示しておきましたが、日本社会のなかで、日本共産党が目標とする社会主義・共産主義の理念は、高度経済成長から石油危機を経て日本資本主義が資本主義世界システムの頂点へとのぼりつめる過程で、確実にその影響力を失い、いまでは数パーセント程度へと「ゲットー化」されています。
世論調査で「社会主義はよい」と答える人は、六〇年安保闘争前には三割いたのに、いまでは数パーセントへと衰退しています。この傾向は、実は世界的です。私は、モスクワ市民の世論調査との比較を、近著で試みています(『社会主義の危機と民主主義の再生』教育史料出版会、一九九〇年、参照)。
無論、国民意識のうえでの社会主義・共産主義思想の衰退は、日本共産党や日本社会党への政治的支持の弱化を、ただちには意味しません。リクルート疑獄の追求や消費税反対運動、あるいは職場や地域でのさまざまな要求実現の活動での、護民官としての日本共産党の役割は、それなりに国民に支持され、議席を大幅に減らした一九九〇年総選挙でも、なお五〇〇万票以上を集めています。
しかし、そうした選挙で投票してくれる人たちのなかでさえ、共産党のかかげる社会主義日本や共産主義社会までを支持する人々は、確実に減少しているのです。
一九八九年に東欧現存社会主義諸国でおこった一連の出来事を、私は、『東欧革命と社会主義』(花伝社、一九九〇年)のなかで、「連鎖的民主主義革命」「テレビ時代の市民革命」と分析しました。『赤旗』を読むと、「東欧問題」「東欧の激動」などとよんでいて、「革命」とは見ていないようですが、私は、ふつうの市民たちが主人公になって、一党独裁を打倒し、自由と民主主義の政治体制を創造した偉大な民衆革命であった、と考えています。
この東欧民主主義革命が、前述した日本における社会主義・共産主義思想の「ゲットー化」をいっそう深化させることは、不可避と思われます。なぜなら、東欧革命の過程にはさまざまなナショナルな色合いがありましたが、短期間に、共通して打倒されたものは、「社会主義国家」を名乗る共産主義政党の独裁政権であったからです。
日本共産党は、この二〇年来、ソ連や中国などの現存社会主義のあり方にはさまざまな批判をおこない、「自由と民主主義の日本」をかかげてきました。最近では「共産党」となのらず「日本共産党」と国名をつけて、現存社会主義諸国の共産党との違いを強調しているようです。
しかし、東欧諸国共産党が解体したり社会民主主義政党に脱皮したりし、伝統あるソ連共産党が分裂寸前であり、資本主義圏最大のイタリア共産党が名前も変えて脱皮しようとしている時に、日本だけはちがうと自党の歴史を誇ってばかりいても、あまり説得力がありません。このままでは、政治的にも、いっそう「ゲットー化」されていくでしょう。
いま、世界史的に問われているのは、「共産党」の名称が、一九一九年の共産主義インターナショナル=コミンテルン結成に由来し、一九二二年創立の日本共産党も、その「日本支部」として誕生したという結党の事情そのものであり、国際共産主義運動のその後の歴史的展開です。
私は、コミンテルン型共産主義運動の、植民地・半植民地の解放運動に果たした役割や、反ファシズム闘争の意義を、否定するものではありません。しかし、コミンテルンを通じて世界に広められ、現存社会主義のもとで国家的に公認されてきた、「プロレタリアート独裁」や「労働者階級の唯一前衛=共産党」や「鉄の規律=民主集中制」といった諸原理が、中国天安門事件や東欧革命によって、世界の民衆から根本的に見はなされ、崩壊したことを、深刻にうけとめるべきだと思います。
『東欧革命と社会主義』に詳述したように、私は、東欧革命を「フォーラム・円卓会議型の革命」ともよんでいます。「労働者階級の前衛党」「プロレタリアートの独裁」を自称する共産主義政党の独裁国家を、ポーランドの「連帯市民委員会」、ハンガリーの「民主フォーラム」、東ドイツの「新フォーラム」やチェコスロヴァキアの「市民フォーラム」など、それ自体が民主主義的・多元主義的で、軍隊的「鉄の規律」とは正反対の組織原理を持つ市民的運動体が中心になって、民衆が平和的に打倒したものです。
日本共産党も、「自民党一党支配」に反対し、さしあたりは「民主主義革命」をめざしているのですから、この革命の経験から、徹底的に学ぶべきだと思います。そのさいの最大のポイントは、日本共産党がいまでも保持している、「民主集中制」という組織原理の再検討だと思います。たとえば、チェコスロヴァキア「市民フォーラム」は、結成後わずか一〇日足らずで、数百万人が加わるゼネラル・ストライキを整然と成功させ、共産党一党独裁を自壊させました。この「フォーラム型」の運動体の組織のあり方は、「鉄の規律」や「民主集中制」とは逆の、「開かれた討論の広場」でした。
東欧革命のなかで、旧共産主義政権党は次々と名称を変更し、社会民主主義政党へと変身していきました。ポーランドやルーマニアでは、党そのものが解体しました。そのさい、生き残った旧共産主義政党は、「民主集中制」を放棄して、「民主主義」(ハンガリー社会党)や「党員主権」(東ドイツ民主社会党)などの、新しい組織原理を構成しました。
党内の多様な意見と政綱を持つ潮流の公認と党外への発表の自由、党員同士が基礎組織を離れて水平的・横断的に相互交流する自由、中央指導部の権限をチェックする党内権力分立制度、指導者の任期制や定年制、党内情報公開や財政民主主義、旧除名者の名誉回復と復権を、進めています。「民主集中制」の祖国ソ連の共産党でも、レーニン主義の見直しと並行して、党内にいくつかの潮流が生まれ、公然と多様な意見が表明されています。
これは、レーニンとコミンテルンを通じて共産主義運動の自明の組織原理とされてきた「民主集中制」が、国家原理や経済運営原理に拡延され、憲法にまで書き込まれて、極度に中央集権的な一党独裁の正統化根拠にされてきたことへの反省であると共に、党内においても、ホーネッカーやチャウシェスクら最高指導者の個人独裁を許す温床であったことを認めてのものです(加藤ほか「共同討議・民主集中制」『季刊 窓』四号、一九九〇年六月)。
この点からすると、日本共産党は、政権党ではありませんが、東欧諸国で民衆から解体を迫られた共産主義政党と、同種の問題を抱えていると思います。
たとえば、宮本顕治氏が、三〇年以上も最高指導者の地位にあり、八〇歳をすぎた今日でも第一線にあり、日本共産党の最終的政策決定権者であるように見えるのは、総選挙や地域での護民官としての活動にとっては、大きなマイナス要因でしょう。党内事情があるのでしょうが、国民のなかでは、ホーネッカーやチャウシェスクやとう小平や金日成と、宮本顕治氏のイメージがだぶってくるのは、ある意味では不可避なことです。
『朝日新聞』一九九〇年四月一〇日付に発表された、連載インタビュー「どうなる社会主義」第一回での、宮本氏の指導者任期制についての発言は、自分は「いろいろなポストにかかわってきたので、ある意味では任期制ともいえる」(『前衛』一九九〇年六月号の「詳報」では「指導部に入ってからも、われわれは制度を変えて、書記局、幹部会、中央委員のそれぞれの長など分業制度をとっています。これはある意味では任期制ともいえます」)、および「たまたま経験をもっていたので、指導部に選ばれた」(『前衛』では「何十年間も私が書記長だけのポストにいたのではなく、たまたま古くて経験をもっているからということで指導部に選ばれています。政治権力もないし行政ともいっさい関係なく、苦労を長くしているということです(笑い)」)というものでした。
この説明は、チャウシェスクやとう小平も、党や国家の制度を改廃してまでいろいろな役職を渡り歩き、実質的独裁権力を長期に維持してきたわけですから、あまり説得力がありません。「古くて経験をもっていた」のは、「たまたま」ではなく、まさに自分が長期に最高指導者に居座りつづけていたからに、ほかならないのではないでしょうか?
「私たちとちがって権力をもっているところの行政機関の責任者は一定の期限をもつのは当たり前」(『前衛』一九九〇年六月号、三八頁)というのは、行政機関と政党、政権政党と野党という区別をつけたつもりなのでしょうが、民主主義のもとでの任期制や定年制は、たとえそれが選挙制で選ばれるものであっても、「特定個人への権力集中に対する抑制」という目的においては、行政機関でも与党でも野党においても、異なるところはありません。
しかも、日本共産党は、日本の政党中最大の党財政を持ち、四〇数万人が所属しているといわれる組織です。「党内の人事については、これを適切にきめる大会などがある」という理由だけでは、日本共産党全体の集権主義的イメージや、宮本氏の個人独裁ではないかという疑念を、国民からぬぐいきれないでしょう。
これに関連して、この間の日本共産党中央機関紙『赤旗』のルーマニア報道は、独裁者チャウシェスクと親しかった宮本氏の「無謬の指導者」のイメージを大切にするためか、ルーマニア共産党と日本共産党の長い友好関係が持っていた深刻な意味を、強引に正当化しようとしていて、疑問を持ちます。両党関係は、「自主独立」のレベルだけであったかのような弁明や、ルーマニア社会主義が変質しはじめたのは中国天安門事件以後であったとか、チャウシェスク独裁の問題を革命後にはじめて知りえたかのような主張は、読者の不信をつのらせるばかりです。
仮にもし、天安門事件以前に問題を知りえなかったとすれば、後述するように、その認識の「科学性」が疑われます。実は本当は知っていたが、「社会主義」の威信低下を恐れて報道しなかったというのなら、ルーマニア共産党と同じ、コミンテルン起源の秘密主義的・指導者崇拝的体質の現れとみられても、仕方がないでしょう。
もう一つ、最近の例を挙げれば、日本共産党の総選挙での敗北後、一九九〇年三月六日のマルクス主義哲学者古在由重氏の死去にさいしての、『赤旗』の不可解な態度です。
古在氏は、よく知られているように、戦後日本の代表的マルクス主義哲学者でした。日本の唯物論哲学の発展に貴重な貢献をされたばかりでなく、平和や統一戦線の問題でもしばしば『赤旗』に登場し、私たちアカデミズムの世界では、日本共産党を支持する多くの非党員の人々からも尊敬され、信頼されていました。『思想とはなにか』(岩波新書、一九六〇年)などを通じて、日本の自由と民主主義への思想的影響力は幾世代にもわたり、多くの共産党員も感動して読んだことでしょう。
その古在氏の死にさいして、あらゆる一般新聞が大きく報じているのに、なぜか『赤旗』には、一行の訃報も、報じられませんでした。私のまわりには、これに憤慨して、共産党本部や『赤旗』編集局に抗議した人や、『赤旗』購読をやめたという人が、何人もいます。
おそらく、古在氏が、原水爆禁止運動・平和運動のあり方をめぐって、日本共産党と意見が対立したことがあるのが、不掲載の理由でしょう(そうでないのなら、ぜひとも理由を示してほしいものです)。「一紙でまにあう」と宣伝している新聞にしては、余りにも非常識で、不見識な扱いです。長く日本の民主運動に貢献してきた古在氏の霊に対する、黙殺というかたちでの仕打ちは、これまでアカデミズム内で日本共産党を陰に陽に支持してきた人々のなかでは、同党への信頼を致命的なほどに傷つけ、期待を裏切るものでした。
それは、日本共産党の人間の尊厳にたいする態度を疑わせるものであり、私自身、深く失望しました。
一九九〇年五月二三日『赤旗』には、こうした疑問に答えるかたちで、「古在由重氏の死亡の報道に関して──金子書記局長の報告の要点」という記事が、大きく報道されました。そこでは、古在氏の一九四五年の「入党」から原水禁運動をめぐっての一九八四年一〇月の「除籍」にいたる日本共産党との関係が述べられ、「そういう事実がありながら、ただ党との関係の深い一人の哲学者の死として報道することは、『赤旗』読者をあざむくことになります。一方、同氏の死にあたってその事実を報じれば、一般的には避けるべきとされている死者に鞭打つことにもなります。このため、『赤旗』ではあえて報道しなかったのです」と説明されました。
私は。この記事を見て、いっそう疑問を深めました。一つは、なぜ高名な研究者の死亡記事に『赤旗』は、「党との関係」を書かねばならないのか、ということです。日本共産党籍のある、または持ったことのある研究者は、必ず『赤旗』の死亡記事にそのことを明記されるのでしょうか? そうでなければ、「読者をあざむく」ことになるのでしょうか? そんな「党との関係」にふれない一般的死亡記事は、『赤旗』でもよくみかけます(たとえば、『赤旗』一九九〇年三月七日の「男性長寿日本一」藤原喜一さんや三月八日の「NHKのスポーツ中継などでおなじみ」の山田康夫アナウンサーの死亡記事)。古在氏についても、そのような報道はできなかったのでしょうか?
あるいはそれは、古在氏が「離党届」を出したが受理されず、日本共産党にとっては、原水禁運動での「厳密にいえば分派活動」による「除籍」であったからでしょうか? 自発的結社である日本共産党には、「離党の自由」はないのでしょうか? だいたい、中央委員会での書記局長報告というかたちで。一九四五年時点にまでさかのぼり、古在氏の「かつての哲学的立場と同氏の言動との矛盾」にあれこれの政治的評価を加えること自体、「死者に鞭打つこと」ではないでしょうか? 一九四〇・五〇年代の「立場」と今日の「言動」について、生涯のどこかで日本共産党員であったことのある人々は、その「矛盾」を死にあたって追及されるのでしょうか?
たとえば「同志スターリンに指導され、マルクス・レーニン・スターリン主義で完全に武装されているソ同盟共産党が、共産党情報局の加盟者であること」から共産党情報局=コミンフォルムの「指針的役割」を一九五〇年に述べていた宮本顕治氏は(『前衛』四九号、一九五〇年五月、日本共産党五〇年問題文献資料編集委員会編『日本共産党五〇年問題資料集 1』新日本出版社、一九五七年、三三頁)、その今日のスターリン評価との「矛盾」のゆえに、責任を追及されるのでしょうか? 人間の一生の価値は、日本共産党においては、その死亡時の共産党の政治方針との距離により、はかられるのでしょうか?
古在氏の訃報をいっさい掲載せず、むしろ「死者に鞭打つ」政治的評価を掲載した『赤旗』の姿勢は、ソ連・東欧の共産党独裁国家が、異論者を排除・抑圧し、党内では「分派」「反党分子」とレッテルを張り、公認哲学である「マルクス・レーニン主義」の正統的解釈や時々の共産党の政治路線に疑問をいだき批判する学者・研究者を、系統的に排斥・弾圧・粛清してきた歴史を、想起させます。
実は、東欧革命のなかでは、そうした原理が、完全に崩壊しています。
東ドイツの「社会主義統一党」が「民主社会党」と名前を変えるさいの、一九八九年一二月の党大会の第一ゲストは、かつて「反党分子」として国外に追放されていた、ルドルフ・バーロでした(Neues Deutschland, 19. Dezember 1989)。長く「反党=反国家=反社会主義=帝国主義の手先」として世界の共産主義運動から批判・抹殺されてきたトロツキーは、ペレストロイカ・グラースノスチ下のソ連では、ほぼ完全に復権し、多くの肯定的研究・言及が現れています。日本共産党は、これまで長く「トロツキズム=レーニン主義の敵」としてきたようですが、史実に照らして、この点をも再検討する用意はあるのでしょうか?
かつて東ドイツ社会主義統一党の準党営出版社であったディーツ書店から、かつての編集方針を改め社長ら経営陣も一新されて、新たに出された出版物の第一弾が、トロツキーの『スターリンの犯罪』やI・ドイッチャーの『スターリン』、それに『ドイツ社会主義統一党とスターリン主義』と題する自己批判的ドキュメントであるのは、偶然ではないのです(Dietz Verlag Berlin, Internationale Leipziger Buchmesse 1990)。
こうした問題は、日本共産党が、自己の見解を「科学的社会主義」であるとするばかりでなく、「真理」であると自己規定していることと、関わります。また、党内外の学者の研究に、あたかも自分たちがマルクス主義理論の独占的解釈者であるかのごとくに政治的批判を加え、時には個人的中傷をも加えてきた歴史と、深く関わっています。
たとえば、私の専攻する政治学の学問世界でいえば、田口富久治名古屋大学教授の『先進国革命と多元的社会主義』(大月書店、一九七八年)に対し、現日本共産党委員長不破哲三氏が、党機関誌『前衛』誌上で「科学的社会主義か『多元主義』か」という批判をおこなったことが、記憶に新しいところです。
そこで不破氏は、田口氏の「民主集中制」の運用についての疑問や「多元主義的社会主義」の主張に対して、「科学的社会主義の世界観の真理性を事実上否定する相対主義への後退の危険」「『公明新聞』との奇妙な一致」「マルクス主義理解の貧困」「近代政治学への転進」などとレッテルをはり、まるで、「科学的社会主義」の審問官であるかのように、ふるまっていました(不破哲三『続・科学的社会主義研究』新日本出版社、一九七九年、同『現代前衛党論』新日本出版社、一九八〇年)。
私は、日本共産党の個々の指導者が、自分なりの「科学的社会主義」理解に指針を求めて政策をつくること自体を、否定しようとは思いません。しかしそれを、「科学的真理」の次元で主張し、党が体現していると自称し、マルクス主義研究者に対して審問官のようにふるまうのは、大変危険なことだと思います。そのような態度は、長い間、日本共産党も崩壊したと認める「スターリン=ブレジネフ型社会主義」の国家=共産党に、共通するものでした。
しかも、東欧市民革命は、現存社会主義のもとで、田口氏のいう「多元主義」を求めて勃発し、不破氏の主張した「民主集中制」を唱える共産党独裁を打倒し、「一枚岩主義から多元主義的民主主義へ」の政治・経済・文化におよぶ全社会的規模での編成原理の根本的転換をもたらしました(加藤『東欧革命と社会主義』、参照)。ペレストロイカ下のソ連でも、社会主義に不可欠なものとしての「プルラリズム=多元主義、複数主義」の概念が、真剣に検討されています(モスクワ大学共産党委員会主催シンポジウム『社会主義的多元主義』協同産業出版部、一九九〇年、藤井一行『共産党組織のペレストロイカ』窓社、一九九〇年、参照)。
歴史的見通しの問題としていえば、田口氏の方が東欧革命にいたる現存社会主義の問題を深く洞察しえていたのであり、不破氏の批判が恣意的で限界を持っていたことは、今日では、はっきりしています。
不破氏がなお、一〇年前の自説を保持したまま、日本共産党幹部会委員長の要職にあり、「科学的社会主義」についての「真理」の唯一の正統的解釈権者であると考えているとすれば、それは、大きな時代錯誤です。こうした態度を、過去にさかのぼって率直に反省しなければ、かつてはある程度の影響力を持ちえた日本の知識人から、日本共産党は、決定的に見はなされることになるであろうと思います。
私は、『東欧革命と社会主義』において、「レーニン=コミンテルン型社会主義」の崩壊が始まった、と論じました。ソ連のゴルバチョフも、「レーニンの劇的な時代は過去のものとなった」と宣言しました。革命後の東欧では、レーニンの銅像が、労働者と民衆の手で、次々と撤去されています。ポーランド「連帯」運動発祥の地、グダニスクの「レーニン造船所」は、労働者の手でレーニン像を撤去し、「グダニスク造船所」と名前を変えました。私は、ソ連・東欧で偶像視されてきたレーニンの理論と思想の批判と「等身大のレーニンへの置き換え」が、現時点での「人間の顔をした社会主義の再生」の課題の、重要な一部であると考えています。
日本共産党は、「スターリン=ブレジネフ型社会主義の崩壊」という規定にみられるように、「レーニン時代に帰れ!」の方向で、現在の危機をのりきろうとしているようです。これ自体は、日本の社会主義研究者のなかでも意見の分かれる問題ですから、将来の歴史のなかで、評価が定まっていくことでしょう。私も、自説に固執するつもりはありませんし、『東欧革命と社会主義』に記したように、学問的批判は歓迎しています。
ですから、私は、日本共産党のレーニン評価に、注目しています。しかし、一九九〇年四月一日付け『赤旗』の、「レーニン時代の社会主義」という記事は、私を驚かせ、失望させるものでした。「複数の政党が活動、活発に討論」「全民族に独立の自由認め民族自決権擁護貫く」という、解説記事そのものではありません。これについても、私なりの意見はありますが、問題は、そこに付された「モスクワの劇場広場で演説するレーニン(一九二〇年五月五日)」という大きな写真の方です。
それは、西側世界ではよく知られた、政治的偽造写真の典型とされているものであり、今日では「歴史の歪曲」であったことが、ソ連共産党によっても公式に認められているものです(たとえば、アラン・ジョベール『歴史写真のトリック――政治権力と情報操作』朝日新聞社、一九八九年、二八頁、ソ連共産党『中央委員会通報』一九八九年九月号、一〇三頁)。つまり、オリジナルの写真から、トロツキーとカーメネフの姿が消された、スターリン時代に偽造された有名な写真だったのです。
私自身もこのことを、『赤旗』編集局に投書し訂正を求めましたが、これについての訂正記事は、『赤旗』一九九〇年五月二六日付でようやく現れ、五月二九日付で正しい写真入りで「おわびして訂正」されました。こうした歴史の真実の前での謙虚さと、誤りをただす勇気こそ、いま、日本共産党に必要とされているものでしょう。
このこと自体は、小さな事例ですが、こうした問題に対する一つ一つの態度が、日本共産党自身も今日では主張している「無謬主義はとらない」という姿勢が、どれだけ本物であるかを判断する、試金石です。たしかに、同党の『日本共産党の六五年』を見ると、朝鮮戦争やハンガリー事件については――あまりに遅きにすぎたとはいえ――、日本共産党のかつての公式見解が、修正されています。しかし、ルーマニア社会主義の評価や、「田口・不破論争」については、どうなのでしょうか?
ルーマニアについていえば、私の『東欧革命と社会主義』の「あとがき」に長く引用しましたが、宮本顕治氏は、一九七一年に初めてルーマニアを訪問したさい、チャウシェスク書記長下のルーマニア共産党の内外政策に言及し、その「活動が、全体として、わが日本の労働者階級と人民に対して、社会主義建設の理想についての新しい励ましを与える要素を持っていた」と、はっきり述べていました(『赤旗』一九七一年九月五日)。
これは、当時であっても、本当に「正しかった」のでしょうか?
今日では、すでに一九六九年の政治改革において、チャウシェスクが各級党機関と国家機関を織り合わせることを提言し、たとえば市党第一書記が行政機構の市長を兼任することが決定されていたこと、七一年六月からのいわゆる「小文化革命」で、イデオロギー・文化面での党の政治路線徹底と党・軍・官僚・文化人のパージが始まっていたことが、歴史的事実として、明らかにされています(中沢孝之『デタントのなかの東欧』泰流社、一九七七年、木戸蓊『東欧の政治と国際関係』有斐閣、一九八二年、同「ルーマニアのハード・ランディング」『世界』一九九〇年三月、Robert R.Ring, History of the Romanian Communist Party, Hoover 1980, など参照)。
あるいはそれは、今日では明らかでも、当時は知りえないものだったのでしょうか?
宮本氏は、一九七八年にルーマニアを再訪して、「ルーマニアなりの社会主義的民主主義の拡充の努力」を、見いだしてきました(『前衛』一九七八年九月)。この宮本氏の認識は、「科学的」であったのでしょうか?
ルーマニアでは、すでに一九七二年に、党書記局員八人中五人が解任され、チャウシェスク独裁が、始まっていました。七六年には、工場・学校から幼稚園にいたるあらゆる機関で「社会主義的な意識の発展と新しい人間づくり」が義務づけられ、四歳児から「祖国のはやぶさ会員」に全員登録され、チャウシェスクは、「現代の偉大なマルクス主義思想家」とよばれるようになっていました。こうしたことは、当時のルーマニア共産党機関紙や特派員を通じて、宮本氏なら当然知り得たはずです。
一九七七年一月には、チャウシェスク夫人エレナが党の執行委常設事務局に入って実質的なナンバー・ツーになり、今回のルーマニア革命で「市民が主役だ!」と叫ぶ民衆から最も忌み嫌われた、「同族支配」もはっきりしていました。
わが国でも、たとえば、東欧研究を専門とする政治学者木戸蓊氏の『中央公論』一九七七年五月号の論文「地搖れする東欧は訴える――地震・デタント・人権」には、「戦後反体制運動がほとんど表面化しなかったルーマニアでも、七七年二月に人権要求の動きが発生した」として、ヘルシンキ宣言(一九七五年)にもとづくルーマニアの人権擁護を訴えた、作家パウル・ゴマらによるアピールが、紹介されていました(前掲『東欧の政治と国際関係』所収、二五〇ー二五一頁)。
一九七七年九月に刊行された、時事通信の元モスクワ特派員中沢孝之氏の『デタントのなかの東欧』では、「ルーマニア自主外交の限界」として、「ルーマニアの内政面の特徴は、チャウシェスク大統領兼党書記長への独裁的な権力集中と、スターリン時代のソ連にも比較される厳格な『鉄の規律』である。この二つは、自主独立外交と裏腹で、国内体制をがっちりと固めることによって、ソ連に容喙の口実を与えないためのものといわれる。これがドプチェクの『プラハの春』と根本的に異なっている」と、事実に即して詳しく論じられていました(同書、二三八ー二四二頁)。
一九七八年一月のチャウシェスクの六〇歳の誕生日のころには、チャウシェスクは、「天才的で、独創的なマルクス・レーニン主義理論家」にまでもちあげられていました。宮本氏がルーマニアを再訪したのは、その年の夏のことでした。
チャウシェスクの対外的「自主独立」と、国内での人権抑圧・思想統制・同族支配との密接な関係は、欧米ではよく知られていましたし、日本でも「派手な対外自主外交とセットになった対内的抑圧構造」(木戸蓊氏)は、知りうるものでした。
一九八二年に邦訳の出たC&B・ジェラヴィチ『バルカン史』は、その日本語版のために寄せた一九六五年以降のルーマニアについての記述のなかで、ルーマニアと中国との緊密な関係とともに、ルーマニアとソ連との関係を「ルーマニアの地理的位置はソビエトの軍事的圧力を特に受け易く、その意味でルーマニアの独立には、非常に現実的な限界があったのである。しかしながら、内政において、チャウシェスクによって維持された強固な共産党支配は他の領域で示された抵抗を相殺し、ルーマニアが真の危険となるかもしれないというソビエトの懸念をやわらげた」と記していました(恒文社、一九八二年、一九一頁)。R・オーキー『東欧近代史』は、ルーマニアの国内は「チャウシェスクのもとにあっても、かつてのゲオルギュウ・デジ時代と同じく、いぜん厳格な統制社会のまま」と断じていました(原書、一九八二年、邦訳、勁草書房、一九八七年、三二一頁)。
だからこそ、当時の『赤旗』ブカレスト特派員で、現在は日本共産党を離党した一市民である巖名泰得氏は、総選挙直後の『サンデー毎日』一九九〇年三月四日号や、『現代』五月号誌上で、自己批判をもこめて、宮本顕治氏を真剣に告発しているのではないでしょうか? 私は、一人の政治学者である市民として、巖名氏の文章を「反共攻撃」ときめつけ、同氏の人身攻撃をおこなってまで、ルーマニア問題についての宮本氏の正統性を守ろうとする日本共産党の態度に、いきどおりを感じます。
宮本顕治氏は、チャウシェスクとの交流が、ルーマニア革命勃発のわずか数週間前まで続いた理由を、「一つの党がある党を、とくにいままで友好関係にあった党を公然と弾劾するというのは、確たる証拠がなければだめなんです。……今回はなかなかそういうきっかけがなかったのです。……天安門事件への態度や、とくに八月にわが党を除いて会議を開く提案をしているというのがわかってからは裏切られたという実感を強めたのです」(『前衛』六月号、四四頁)と弁明しています。
天安門事件後にはじめて「裏切られた」というのは、宮本氏のまさに「実感」なのでしょうが、政治学者としての私には、「老醜」としか形容できません。「同志」として「信頼」していたからこそ、「裏切られた」と感じたのでしょう。
いま、多くの良心的社会主義研究者が共通にいだいている、次のような誠実で痛苦な自己批判を、宮本氏は、自分自身の問題として、どのようにうけとめているのでしょうか?
「ヨーロッパでは七〇年代の初めから、チャウシェスクは暴君であり、ルーマニアでは人権が抑圧されていること、ルーマニアの自主独立外交がチャウシェスクのイメージ・アップの手段にすぎないことが知れ渡っており、西欧のマスコミはこのことを繰返し報道していた。……ヨーロッパでは、チャウシェスクと共同声明を出す政治家は一人もいなくなった。ソ連では、チャウシェスクに勲章をやったブレジネフの責任が、あらためて問われている。……
ルーマニアが専制支配の国であることは、東欧に関心を持つ日本の研究者の常識だった。それなのに、どうしてそのことを書かなかったのか。筆者の経験を記すと、スターリン主義はルーマニアで生きている、ルーマニアは個人崇拝と同族支配の国だと、研究仲間で話し合っていたが、諸般の事情から、ル0マニア批判を活字にせず、ルーマニアは保守的だと記すにとどまっていた。ルーマニアの例は、ソ連・東欧を研究する者に、政治的配慮から知っていること、考えていることを書かなかったことに反省を要求している」(『ソビエト研究』三号、白石書店、一九九〇年四月の稲子恒夫の巻頭言「研究者の責任」四ム五頁)。
こうした問題を率直に自己批判し、「科学的社会主義」についての審問官的態度を改めることこそ、いま、日本共産党と「人間の顔をした社会主義の再生」のために、必要なことだと思います。
そのためには、東欧市民革命の主人公であった「フォーラム」に学び、党員と国民にオープンなかたちで、日本共産党の内部で自由で真摯な討論がおこなわれ、護民官としての日本共産党の衰退を心配する外部の意見や批判に、素直に耳を傾けることが必要だろうと思います。
その前提として、やや具体的に提言すれば、たとえば、党内外で世論調査を実施し、指導部選出の民主的手続きを明確にし、宮本顕治氏や不破哲三氏の政治責任を、支持者や国民にもよくわかるように、はっきりさせることです。
民間機関に委託しての党のイメージ調査や、執行部と異なる機関による党内世論調査や、無記名秘密投票での一般党員による指導者選出は、世論と民主主義を重んじ、「開かれた党」を本気でめざすならば、かんたんにできることでしょう。
ソ連では、いまや各種の世論調査が行われ、国民の共産党への不信が、一九八九年三月から九〇年二月の一年間に二三パーセントか三五パーセントへと急増したこと、四二パーセントもの国民が、工場・事務所の党組織は不要だと答えていること(Moscow News,No.15,April 15)、人類の未来を共産主義と結びつけて考えている者は、非党員では二・三パーセント、党員でさえ四・八パーセントにすぎないこと(『世界政治』八一一号、二二頁)などが明らかにされ、党改革論議の参考にされています。
日本社会党が、飛鳥田委員長時代に行った民間委託による党イメージ調査では、「暗い」「時代遅れ」とあまりに社会党に不利な結果が出て、党指導部が結果の公表をためらい、世間の笑いものになりました(『毎日新聞』一九八二年一二月一一日)。日本共産党は、そんなことはしないで、党内外に情報を公開し、いまかかえている問題を、「フォーラム」風に議論してほしいものです。それこそが、「民衆への限りない信頼」でしょう。
党指導部の選出手続きと、政治責任のとり方も、東欧革命での各国共産主義政党の経験に照らすならば、再考すべきでしょう。日本共産党は、九〇年七月に党大会を開くそうです。詳しくはわかりませんが、党大会の代議員構成は、本当に全党員の意志を反映するものとなっているのでしょうか?
ソ連・東欧のこれまでの多段階間接選挙では、上級指導部の指名により代議員リストがつくられ、実際には反対意見が事前にスクリーン・アウトされて、指導部の固定化とノーメンクラトウーラ支配が、保証されていました。これを深刻に反省して、ソ連共産党の民主的政綱派は、「民主集中制」の「民主的原則」へのおきかえや、「分派の自由」「水平的交通の自由」のほか、各級選挙での政綱にもとづく直接秘密投票、党統制機関や党機関紙誌の執行機関からの独立、党役員・専従者のあらゆる特権の廃止などを、提案しています(『世界政治』八一一号、四三頁)。
日本共産党では、どこまで直接秘密投票が実施されており、どのレベルでどのように指導部の政治責任がチェックされるのでしょうか?
現行日本共産党規約によると、「党の各級指導機関は、次期委員会を構成する候補者を推薦する」ようです。また、「党大会の代議員選出の方法と比率」は、党大会で決め規約に明示するのではなく、「中央委員会で決定する」ようです。私は、こうした方法は、再考の余地があると思います。民主的手続きは、民主主義にとって、形式であり第一歩にすぎないと考えられがちですが、しかし、形式的手続きでの民主主義なしには、民主主義そのものがなりたたないからです。
日本共産党内にも、党名変更を含むさまざまな疑問や意見があり、指導部が必死で「八中総決定」を徹底しようとしてもあまり「決定」そのものが読まれず、党費納入率が下がり、『赤旗』購読者も激減していることは、最近の『赤旗』の「党生活」欄からも、推察できます。
それならなぜ、だれもが加わりうる常設討論欄をもうけて、みんなで議論しようとしないのでしょうか? 総選挙での敗北と、ペレストロイカ・東欧革命は、善意の人々の知識と知恵を集めて党のあり方を再検討する、絶好のチャンスではないでしょうか? その障害となっているのは、ロシア革命から生まれた「前衛党=職業革命家集団」イメージの惰性や、コミンテルン起源の「軍隊的『鉄の規律』=民主集中制」という経験主義的伝統だけではないでしょうか? そして、こうした障害こそが、東欧革命のなかで、劇的に崩壊したものではなかったでしょうか?
たとえば、政権を失った東ドイツの党は、「党員は党の主権者である」という原理を明確にしたうえ、党員が党の「決定にたいして批判を加え、自分の立場を主張すること」のみならず、「党内意見の形成を目的として他の基礎諸組織の同志たちと連携し、見解をまとめ、採決に付すための提案を提出すること。この目的で、常設のフォーラムや、作業集団、有志集団、討論会を組織すること」、さらには「世論によびかけること、またこの目的でメディアを利用すること」をも「党員の権利」と認めることにより伝統から脱皮しました。
初めての自由選挙にさいしては、党の「議員」は、党に対してではなく、「自己の活動についてその選挙人に対して責任を負い」「(党議員)グループの強制を受けない」と明言することによって、からくも在野の一政党として生き残りました(『世界政治』八〇六号、三三−三四頁)。
ハンガリーの党は、「社会党」に改組するにあたって、規約に自らを「前衛党」ではなく「党員の共同体」と規定して、「民主主義」を組織原理とし、「党内と社会の異なる見解、意見、潮流にたいする寛容」の原則を確認しました。その具体化として、たとえば、被除名者の復党が認められ、「どの基礎組織に所属するかについて、また別のいかなる共同体のなかで政治活動をおこなうかについて自由に選択できる」「党の資産状態と財政状態、資源を認識し、運動と政治活動に際して党の物質的・技術的手段を利用し、党によって保障された教育の可能性とサービスを受ける」などの党員の権利が、明記されました。
また、「全国幹部会は、集団指導の原則にもとづいて活動するのではなく、個人の自由な表現と広報を基礎とする責任にしたがって活動する」という「指導者の個人責任」を明確にし、党議長の信任投票を含む全党員投票制度や、党員の権利擁護のための全国調整委員会制度などを、導入しています(『世界政治』八〇二・八〇三号)。
ハンガリー社会党規約のいうように、「党指導者の個人責任」を明確にすることは、日本共産党に即していえば、たとえば、前述した「田口・不破論争」についての不破氏個人の責任、ルーマニア問題での宮本氏個人の責任、総選挙敗北について、主権者である四〇数万党員に対して、また五〇〇万人の支持者に対して、指導部一人一人の政治責任を、明確にすることなのです。
私が『東欧革命と社会主義』のなかで、天安門事件後にルーマニア共産党が「信頼できる『同志』」とみなして「社会主義防衛」についての「国際会議」をよびかけた共産主義政党として、中国・北朝鮮・インドの共産党とともに日本共産党にも言及したところ、日本共産党は、一九九〇年五月一日付け『赤旗』の新原昭治国際部長の長大論文「国際連帯についての日本共産党の基準とルーマニア問題」で、「まったく根拠のない中傷」と批判しました。
ルーマニアのチャウシェスクが、中国共産党や朝鮮労働党ほどには日本共産党を「信頼」していなかったのは、事実でしょう。しかし、チェコスロヴァキアのゼネスト直前の一九八九年一一月下旬(市民革命=独裁崩壊の一ヵ月前!)のルーマニア共産党第一四回大会に、資本主義圏最大のイタリア共産党などは人権抑圧を理由に代表を送らず、ソ連共産党も「民主化をうながすメッセージ」を送ったのに対して、日本共産党は、(1) 公式代表団を派遣し、(2)「親愛なる同志」ではじまるメッセージを送り、(3) 独裁者チャウシェスクと「特別室」で公式に会談し、(4)そこでチャウシェスク自身から「宮本議長、不破委員長のあいさつ」「代表団を派遣した」こと自体に「感謝」され(『赤旗』1989年11月25日)、(5)しかも 「社会主義防衛の国際会議」問題で個別に「要請を受けた」「意見を求められた」と新原氏自身が認めているのですから、従来の国際共産主義運動用語でいう「同志」的関係であり、「よびかけられた」ことは、まちがいないでしょう。いいかえれば、日本共産党は、独裁者チャウシェスクから最晩年まで「同志」とみなされた共産党の一つだったのです。
私の『東欧革命と社会主義』の記述が、日本共産党に「根拠のない中傷」を加えたものか、それとも「事実的根拠にもとづく学問的問題提起」であるかは、『赤旗』読者の皆さんが、客観的に判断してくれるでしょう。
この問題については、私は、一人の政治学者として、五月三日付で新原氏への反論を『赤旗』編集局に投稿し、「反論権」にもとづく掲載を求めました。そこでは、前述した宮本顕治氏のルーマニア認識への批判(第二節)を含め、私の反論を詳細に展開しましたが、スペースの都合で新原氏に直接反論した第一節部分のみが、『赤旗』本紙ではなく、『赤旗評論特集版』に掲載されました。そして、新原氏からは再版論があり、新たな事実も公表されてきています。詳しくは、そちらの方をぜひ参照してください(『赤旗評論特集版』一九九〇年五月二八日・六月四日・六月二五日号)。
私は、『赤旗』が私の反論を一部とはいえ掲載したこと、まがりなりにも新原氏との論争がはじまったこと自体は、有意義であると評価しています。ただし、新原氏の私に対する再批判が、「『学問』のイロハをわきまえないもの」「なによりも加藤氏自身が日本共産党をどうみているかが問題」などと私を批判し挑発しているのは、感心しません。「日本共産党への否定的印象」を、読者に与えるだけです。
私自身の日本共産党への意見は、すでに五月三日付反論の未掲載部分で述べており、それを掲載しなかったのは新原氏らの方の責任です。私は、六月四日付で未掲載の第二節の再録をふくむ再反論を投稿しました。それは『赤旗評論特集版』六月二五日号に掲載されるそうです。また、この『手紙』は、新原氏の要請にこたえて、私の見解をより詳細に展開したものです。
しかしながら、私自身が『東欧革命と社会主義』のなかで主として問題にしたのは、同書「あとがき」にあるように、宮本顕治氏個人の一九七一年・七八年のルーマニア認識や、チャウシェスクの七〇歳誕生日(一九八八年)への宮本氏のメッセージの持つ歴史的意味でした。これは、日本共産党とルーマニア共産党のあいだで合意された国際問題についての三度の共同文書よりも、政治家宮本顕治氏のルーマニア社会主義の認識のあり方に、私が疑問を感じたからです。
日本共産党のいう「集団指導」原則からいえば、宮本氏の発言への私の疑問は、「党への攻撃」と映るのでしょう。しかしそれは、「指導者の個人責任」が明確にされていないがゆえに、そうなるのではないでしょうか?
宮本氏の個人的認識・行動が、日本共産党全体の認識・政策に影響力を持ち同一であるかぎりで、党の責任が生じうるにしても、日本共産党の四〇数万人の党員のなかには、ルーマニアでの生活を実際に体験した人や、東欧社会主義を研究している人、宮本氏と異なるルーマニア認識を持っていた人は、数多くいるでしょう。そうした人々の認識や意見は、日本共産党の政策や『赤旗』の報道に、どのように反映されていたのでしょうか? 先に紹介した木戸氏や中沢氏の分析を、宮本氏はどのように受けとめていたのでしょうか?
少なくとも、政治学者としての私が問題にしたのは、主として宮本顕治氏個人のルーマニア社会主義認識であり、その「科学性」でした。ですから、この点については、ぜひとも、宮本顕治氏自身に、学問的に答えてもらいたいものです。
このことは、個々の共産党員の人たちと、自発的政治結社としての共産党との関係に、関わります。
日本共産党の規約には、なお「党員は、全党の利益を個人の利益の上におき、だれでも党の上に個人をおいてはならない」という文章が、残っているようです。また、「党員の義務」が、「党員の権利」に先行して、規定されているようです。私の社会主義運動組織の歴史的考察によると、これらは、「裏切り者は死刑」の陰謀的秘密結社に発する、「職業革命家の党」のイメージの名残りです(加藤『社会主義と組織原理 1』窓社、加藤ほか「共同討議・民主集中制」『季刊 窓』四号、一九九〇年六月、参照)
これらは、個々の党員の全人格・全生活を「党」に従属させてきた、スターリン時代の遺物ではないでしょうか? あるいは、中国共産党一九五六年規約に、影響されたものではないでしょうか?
ハンガリー社会党新規約は、「党の活動原則」の第一に「自発性」をあげ、個々の党員の「選択の自由」と指導者の「個人責任」を、明確にしました。ソ連共産党の新しい規約改正案でさえ、「党員の市民的権利と自由」をうたっています。これらは、圧倒的多数の共産党員にとっては、党生活は市民生活の一部であり、全人格を党に捧げさせる「党崇拝」「一枚岩的思考」こそ、「鉄の規律」とひきかえに党の硬直化を生み出し、一部の指導者や専従党員の長期党支配を許していたことを、反省してのものです。
ですから、東ドイツの民主社会党規約を含め、東欧革命のなかでの党改革によってできた新規約では、「党員の権利」が「党員の義務」に優先するように、改められています。
ソ連・東欧の共産主義者・社会主義者たちは、70年の共産主義運動の苦い経験をふまえて、なによりもまず、自分たち自身が自由な個人=「市民」であり、その市民としての多面的生活の一部を自発的な政党活動に割くかたちに、自己変革しようとしているのです。
日本共産党も、こうした経験に学び、まず、中央指導部のさまざまな会議の議事録の公開からはじめ、機関紙誌の編集権を独立させ、綱領や規約の見直しを含めて、さまざまな意見を表明できるようにした方が、いいのではないでしょうか?
現行日本共産党規約の原型は、中国共産党一九五六年規約の影響を色濃く受けた一九五七年の「党章草案の規約部分」です。中国共産党の「党風」の痕跡を、一日も早く払拭すべきではないでしょうか?
冒頭に記したように、私は、現代日本の政党政治のなかで、日本共産党が果たしている護民官としての役割、金権政治の浄化や職場や地域の民主化の機能には、おおいに期待しています。個々の日本共産党員は、日本社会のなかでも善意で良心的な人々であろうと思っています。
東欧革命のなかで、旧ハンガリー社会主義労働者党の改革派グループが示したように、あるいは、チェコスロヴァキア共産党内に生まれた「共産党民主フォーラム」が示したように、多くの善意の党員の人たちが、勇気をもって自分の疑問や考えを発言し、日本共産党の自己再生能力を私たちに示してくれれば、それは、同党にとってばかりでなく、日本の民主主義の将来にも、明るい希望をいだかせるものとなるでしょう。
それは、指導部や専従職員の地位にある人々にとっては、長く維持してきた「鉄の規律」の弛緩であり、つらいことかもしれませんが、党内のいわば主権者である四〇数万のふつうの党員の人たちにとっては、「党員主権」「多元主義的民主主義」の発現の場であるはずです。
そしてそれは、現在の五〇〇万人の支持者の多くも日本共産党に対して抱いている不安、「反対政党としてなら期待し投票するが、政権政党になるとソ連や中国のようになるのでは?」という不安を払拭することになり、「護民官としての党」への期待に応えることになるだろうと思います。
逆に、内外のさまざまな意見や批判に耳をかたむけず、これまでしばしばみられたように、「反党分子」や「分派」のレッテルはりや異端審問的反論・人身攻撃――『赤旗』紙上での巖名氏への批判や、『評論特集版』六月四日号の新原氏の私への再批判には、こうした悲しい特徴がみうけられました――がつづけられるようであれば、日本共産党は、世界のコミンテルン型共産主義運動と共に、停滞から脱することができず、ついには崩壊の道をたどるしかないだろうと思われます。
そうした党改革の先に、イタリア共産党のような党名変更があったとしても、私は、驚きません。自由で活発な討論の結果として、現在の党が分裂したとしても、それは、いま全世界的規模でおこっている、「人間の顔をした社会主義の再生」のための、産みの苦しみの一環でしょう。
共産党が、一国の社会主義・共産主義思想を独占できた時代、マルクス主義理論や「科学的真理」の決定権を主張できた時代は、世界史的には、はっきりと終焉しました。
この日本では、日本共産党ばかりでなく、「反党分子」や「分派」といういまや世界的に死語となりつつあるレッテルを共産党からはられてきた社会主義者たち、「トロツキスト」や「新左翼」といわれてきた人たち、それに日本社会党内の左派の人たちを含めて、社会主義・共産主義思想の全体が、テレビや新聞の「社会主義は死んだ!」の大合唱のなかで、思想的ゲットーに入れられようとしています。
世界的にみれば、コミンテルンの流れを引く国際共産主義運動は、劇的に崩壊しました。社会主義インターナショナルも、歴史的な再編期に入りました。ソ連・東欧やイタリア共産党ばかりでなく、イギリスでもフランスでもドイツでもスペインでも、共産党や社会党の内外で、おそらくロシア革命以来の、社会主義をめぐる原理的討論が、まきおこっています。
そして、中国・北朝鮮・ベトナムなどアジアの共産党では、東西ヨーロッパやソ連の共産党に比してあまりに旧態依然な、とう小平風「四つの原則」(1 社会主義の道、2 プロレタリア独裁、3 共産党の指導性、4 マルクス・レーニン主義)に、指導部がしがみついているのが目立ちます。日本共産党は、この面でも、「アジア的」なのでしょうか?
日本共産党が、勇気ある自己批判と党改革にとりくみうるならば、それは、いま世界的に危機にある社会主義思想・運動をわが国で守りぬき、二一世紀の「人間の顔をした社会主義」の再生へとつながる回路を、残しうるかもしれません。
私は、一人の政治学者である市民として、こうした点についての日本共産党と善意の党員の人々の再生への努力に、注目しています。
そして、くりかえし述べてきたように、科学的真理の審問官としてではなく、党内外の研究や意見に学んでの、多国籍企業や自民党政府とたたかいながら、労働強化や不当な差別を強いられている労働者と、老人、女性、こどもたち、未組織労働者、農民など社会的弱者のための、生活と自由と人権を擁護する護民官としての活動に、大いに期待しています。
また、地球環境や南北問題を重視し、女性や外国人労働者の問題にとりわけ敏感な、新しいタイプの革新政党として再生するよう、願っています。