以下に収録するのは、私の一番分厚く一番高価な書物『コミンテルンの世界像』(青木書店、1991年)の「あとがき」である。担当編集者は香川彪さんだった。彼の編集者としての最期の仕事だったかもしれない。ここで国崎定洞の粛清にたいする「沈黙の責任」を告発した野坂参三は、この時はまだ日本共産党名誉議長であった。しかし旧ソ連共産党日本関係秘密文書が現れる前のことで、その野坂が秘密警察に「売った」山本懸蔵が、実は国崎定洞を「売った」当の人物であることまでは、想像もできなかった。私の90年代現代史研究の出発点になった文章である。


 歴史は音をたてて流れる

(『コミンテルンの世界像』あとがき)


1  歴史は音をたてて流れる

 

 あれは、いつのことだったろう? 『東京大学新聞』の仕事で、たまたま駒場寮に取材で出かけたときだろうか? 以前から顔見知りの学生運動活動家の友人に、喫茶店に誘われた。雑談が佳境に入った頃、その友人は、薄い政治パンフレットを示した。その冒頭には、「いま、歴史は、音をたてて流れている」と書いてあった。そして、真面目に聞かれた。「耳をすませてごらん、君にはきこえるかい」と。

 「音をたてて流れる世界史」――そんなものは、東北の片田舎から上京して1年足らずの私には、何のことやら見当もつかなかった。もちろん、日韓条約反対のデモには幾度か参加した。ベトナム戦争は泥沼化していた。「東風は西風を圧する」――中国では「文化大革命」がはじまっていた。その時なぜか、「歴史の音」がきこえないのが恥ずかしく、沈黙してしまった。友人は、『ドイツ・イデオロギー』だったか『矛盾論』だったか、文庫本を貸してくれた。あたかもそれが、レコードであるかのように。マルクス主義の文献に本格的にとりくんだのは、それからだった。激流とまでいわぬまでも、せめてせせらぎぐらいはきこうと思って。

 そんなバックグラウンド・ミュージックがあったので、2年後に始まる大学闘争の日々は、「歴史の音」をはっきりきいたように感じた。自分たちが歌う『インタナショナル』や『国際学連の歌』ばかりでなく、日々の歴史を自分で奏でる手ごたえがあった。しかもその音は、巨大帝国の星条旗がベトナム農民の抵抗でゆらぐ音や、もうひとつの帝国の戦車が「プラハの春」をふみにじる音と、反響していた。もっとも「歴史の音」を教えてくれた友人によると、プラハの音は、本流の水源近くのよどみに生じたちょっとした逆流で、雑音だったらしい。

  それから20年たって、世界史は、大音響をたてて流れた。世紀的規模での激流で、68年の比ではない。ただし今度は、『インタナショナル』はなかった。天安門前で学生たちが歌ったが、例の戦車の音でかき消されてしまった。その代わり、もっと西から、『ラ・マルセイエーズ』をバックにした民衆の合唱『歓喜の歌』が聞こえた。『別れの曲』も、『モルダウ』も聞こえる。『仕事の歌』や『ステンカラージン』もおいかけて、ひとつの交響曲になった。

 それらの共鳴したうねりに、『24時間たたかえますか』の軍歌調演歌が、不協和にオーバーラップしはじめた。全然テンポが合わないのに、演歌だけが高まる。1968年に眼前で見た、両手いっぱいに広げた無抵抗の学生たちのフランス・デモに襲いかかる、完全装備の機動隊のように。ただし、よりソフトに。「サミット」という名の指揮者を伴って。

 資本主義世界システムは、74年間現存した社会主義を、いまや再吸収しようとしている。それは、イマニュエル・ウォーラーステインがいうように、1968年にある程度定まっていたのかもしれない(丸山勝訳『ポスト・アメリカ』藤原書店、1991年)。考えてみれば、あの時「プラハの春」に込められていた想いと、アメリカとたたかうベトナム民衆の想いと、そのアメリカで徴兵カードを焼いた若者たちの想いは、ひとつの方向を向いていたのではないか? それを逆流とききちがえた友人も、いまでは、ソ連共産党解体を、もろてをあげて歓迎しているというではないか。あの音は、幻聴だったのか? それとも、指揮者が問題だったのか? いや、エリート指揮者への一般奏者たちの反乱こそ、ひょっとしたら、1989年・91年に受け継がれたものではなかったか?

 1989年の東欧革命につづく、91年夏のソ連共産党解体で、なにが音をたててくずれたのだろうか? メルボルンからニューヨークへと亡命の地を変え、ハンナ・アレントの名を冠した講座をついだアグネス・ヘラーは、祖国ハンガリーを含む東欧革命のなかに「全体主義」の崩壊をみいだした。その起源は、レーニン『何をなすべきか?』のボリシェヴィキ型党組織だったという(A.Heller, The End of Communism, Thesis Eleven, No.27, 1990)。エドワード・トムソンやクリストファー・ヒルらがイギリス共産党を去ったとき、友人たちの選択を理解しつつ党にとどまったエリック・ホブズボームも、レーニンとロシア革命の生命力の枯渇を最終的に認めた(E.Hobsbawm,Goodbye to All That,MarxismToday, October 1990)。その党は、「民主的左翼」に変身した。

 私自身は、『東欧革命と社会主義』(花伝社、1990年)のなかで、「国家主義的社会主義」を崩壊させた「テレビ時代の連鎖的市民革命」と規定した。同時に、「レーニン=コミンテルン型前衛党」を打倒した「フォーラム=円卓会議型の革命」でもあったと書いて、いろいろな人々から批判され、またはげましを受けてきたが、どうやらそれは、「短い20世紀の終焉」でもあったようだ。

 

2  黄昏のレニングラード、白夜のヘルシンキ

 

 『コミンテルンの世界像』(青木書店、1991年11月)の原稿が完成したのは、1991年8月上旬だった。青木書店編集部の香川彪さんに渡してまもなく、例のソ連の「クーデタ」があった。「クーデタ」とよぶにはあまりにあっけない、ロシア革命の末裔の最終的崩壊だった。1898年のロシア社会民主労働党に始まる、ひとつの歴史が終わった。巨大な廃船が沈む、水音しかきこえなかった。その沈没現場ではなく座礁状態をみるために、8月のソ連訪問を以前から予定していたが、「クーデタ」でヴィザの発行も1時停止された。けっきょくレニングラードに入ったのは8月末、ソ連共産党が沈没した「革命」直後だった。

 20年ぶりのレニングラードは、ダーティだった。エルミタージュ宮殿前の広場では、1週間前に15万人とも40万人とも報じられた市民集会があったはずだが、そんな息吹きは、感じられなかった。ネフスキー大通りをせわしく歩く人々は、どこでも何でもいいから、「貨幣」という名の紙切れで「商品」を確保しようしていた。

 プーシキン市近くの村では、共産党の事務所を見に行った。村の中心の広場に面して、事務所だけは残っていた。ただし、だれもいない。もともとレニングラードからきた「おえらいさん」がいたが、「クーデタ」後にどこかに逃げていった、村の集会所にでもしようかとみんなで話していると、「ロシア」を感じさせるおばあさんが教えてくれた。

 チャイカという名の、こぎれいなパブ・レストランがあった。のどがかわいたからビールを飲みたいと、案内してくれたN君・A君を誘う。レニングラード科学アカデミーの誇り高き2人は、外貨払いだからやめようという。私はドルやマルクを持っていた。買うものもないルーブルに、愛想が尽きていた。大丈夫だからと、強引に誘い込む。ハイネッケンのビールが、小さなソーセージつきで6ドルだった。2人はしきりに恐縮する。あとで換算すると、闇ドルレートで彼らの月収の半分以上だった。エリツィン似顔絵入り最新マトリョーシカに、50ドルも払った日本人を、彼らはどういう思いで通訳していたのだろうか?

  巨大なレーニン像には、袋がかぶせてあった。私が離れた翌日、レニングラードは名前を変えた。ペトログラードでさえなく、サンクト・ペテルスブルクに戻った。逆流ではなく、袋小路に入った支流をあきらめて、本流に戻ったのかもしれない。

 ヘルシンキ郊外に住む元日本人S君とは、この春彼が里帰りしたさい会っていた。しかし、彼の永住したフィンランドでの出会いは、6年ぶりであった。彼はすでに、フィンランド国籍だ。夫婦でひきとったエチオピア生まれの男の子も、フィンランド人になった。以前から聞いていた、自慢の新居に移っていた。日本円に換算して500万円だったという旧い農家は、休日ごと2年の歳月と、1000万円ほどの費用で、ペンキを塗りかえられ、きれいに内装されていた。すべてS君と奥さんの、手づくりだ。5部屋のほかにサウナ・ルームを持つ、豪邸に変身している。家そのものばかりでなく、まわりの生態系がヴァナキュラーだ。外装の色や窓のかたちは、環境と調和するよう、条例で細かく規制されている。広い庭は森につながり、野いちごもキノコも採り放題。森の一部は彼らの所有だが、境界の柵などない。みんな知合いの小さな村である。そもそも外国人は不動産を買えない。森の先は湖。ヘルシンキまではバスで40分。日本では想像できない「豊かさ」だ。

 白夜の太陽の沈まぬ夕刻、といっても9時頃、みんなで庭の食卓をかこむ。ビールとワインと手づくりソーセージとキノコ・ソティ。のんびりと、ソ連の沈没の話をする。隣家の若い夫婦もやってきた。バルト3国の独立は大歓迎だ。だが、エストニアの出稼ぎ労働者でヘルシンキの風紀が悪くなった、という。彼らは、きつい汚い危険な労働に従事する。日本のアジア系労働者と同じだ。ただし、排斥論はでてこない。受け入れ体制こそが問題だ、という。

 S君とフィンランド人の奥さんは、もともとモスクワ留学中に知り合った。ダーティなレニングラードの話は、悲しい知らせにちがいなかった。とはいえそれは、日本で新旧左翼の気遣う、「社会主義・共産主義の終焉」ではなかった。かつて暮らした地つづきの隣国の、ロシアで生きる人々へのいたわりだった。そんな大人たちの話をよそに、黒い膚のわんぱく坊主は、すっかりフィンランド少年になりきっていた。隣家の白い膚の男の子と、とっくみあっている。旧ソ連邦のこどもたちは、大地にふんばって新時代を生きていくのだろうか? それとも、西欧の人々がおそれるように、巨大な難民の群れとなって、新天地にむかうのであろうか?

 

3 「長い長い喜劇的な悲劇」のあとに

 

 ケルン駅前の大聖堂には、ルーマニア人の物乞いがいた。そこで待ち合わせて、バングラデシュ生まれの旧友A君と落ち合う。ボン郊外の彼の家におちついて、ロシアからの旅の足を休めた。A君も、転居していた。教会のまわりに30軒ほどが立つ、小さな集落だ。周囲は花で埋まった、優雅な家だ。かつてのバングラデシュ農業大学助教授も、すっかりドイツ先端産業のプログラマーになりきっていた。真っ先に見せてくれたのは、日本製の車とパソコン、それに最近はじめたという盆栽だった。ガスト・アルバイターにはちがいないが、確実に生活は向上していた。彼の両親の住む国の水害の話には、顔を曇らせた。日本はいま、その国へのODAのトップ・ドナーだ。イスラム教徒としての礼拝は、無論つづけている。一人娘は15歳、すっかり美しいドイツ・メトヒェンになった。柔道をならっているという彼女の将来こそ、この家のなによりの絆だ。

 教会近くのマーケットで、数十種類のビールを買う。日本風にいえば地酒だ。これを全部飲むまで泊まっていけと、A君はいう。全部は飲みきれなかったが、十種類ほど味わううちに、不思議にスムーズにドイツ語が出てきた。語学は生活体験とハート、20年ぶりで本格的に話すが、なんとか通じるようになった。

 A君はキッチンで、心尽しのカレー料理を作っている。彼の奥さんは、旧東ドイツ出身。いまはライプツィヒ大学と名を変えた、かつてのカール・マルクス大学の卒業だ。花々でにぎわう庭で、彼女に「壁」崩壊からドイツ統一の感想を聞く。なにしろ彼女の生まれ故郷であり、人生の半分以上をすごした国の消滅である。彼女の両親は、今もオスト(東)に住んでいる。外国人A君との結婚許可に、5年もかかった。ようやくバングラデシュへの出国が認められた頃に、娘が生まれた。A君がボンに留学した機会に、そのまま西ドイツ永住を決めたのも、一人娘の将来を案じた彼女の決断だった。彼女自身はそれで、いったん祖国も両親も捨てたつもりだった。その国が崩壊して存在そのものをなくし、自分が新天地として選んだ国に吸収合併された。彼女の言葉では、「西の植民地」として。

 「DDR(東ドイツ)って、何だったんだろう?」――私の問いに、しばし沈黙。彼女の答えは、「ランゲ・ランゲ・コーミッシェ・トラージク(長い長い喜劇的な悲劇)」。

 地ビールもほぼ一巡した滞在3日目の夜、近所の人もよんで、別れのパーティを開いてくれた。隣家の夫人は小学校の先生、しきりに日本の教育を問いただす。マイネ・フラウも同業だからと、東京の40人学級の話をすると、「そんなに多くて授業ができるの?」土曜も学校があると聞いて、「オー・マイ・ゴッド」と思わず英語。いや学校5日制には母親たちが反対している、こどもたちもどうせ塾にいかされるからと反対すると話すと、想像を絶する東洋の大国に、しばし絶句。亭主がひきとって「明日はどちらへ?」。「電車で8時間でライプツィヒの友人の所へ」と答えると、「そうか、おれたちの国は、そんなに広くなったんだ」――A君の奥さんが、一瞬、ワイングラスを握りしめたようだった。

 ケルンから東への電車の旅は、憂欝だった。「壁」は取り払われてはいたが、ボーダーははっきりわかる。車中から見える民家の窓辺に、色とりどりの花が飾られた「西」。すべてがグルーミーに変わると、やはり「東」だった。DDR屈指の工業都市ハレの駅前は、荒れはてた工場の残骸だけが残り、まるでゴースト・タウンだ。「西」の資本は、どうやらプレ・フォード主義段階の工場解体コストを計算し、重厚長大施設には見向きもしないようだ。新規投資は、むしろ郊外の更地らしい。「新フォーラムによる革命」発祥の地、ライプツィヒは、荒廃がいっそう目立つ。駅前で昼から賭博にふける若者たち。旧知の友人たちも、皆失業者。「植民地」が、実感された。

 「ベルリンの壁」は、なくなっていた。ブランデンブルク門をくぐっては戻りしながら、カフカの世界に入ったような錯覚をおぼえる。これが自然で当り前なのだが、20年前も、6年前も、ここには「国家とは支配階級の暴力装置である」というレーニン・テーゼが、そのまま生きていた。チェック・ポイント・チャーリーの方角へ少し歩くと、「地雷注意」の目印がまだ残る。「壁」のかけらも、ブランデンブルグ門前の屋台で売っているものより大きいのがみつかる。色つきの大きめのをいくつか拾う。いまや「暴力装置」も、商品化された。DDRの軍服やソ連駐留軍の帽子や時計や勲章が、トルコ系行商人の生活の糧となっている。レーニン風国家論も、「壁」と一緒に崩壊したようだ。「ポスト冷戦」が実感される。

 しかし、西から東ベルリンへの電話には、いまでも旧国番号・市外番号をまわさなければならない。なかなかつながらない。それでも知人の話では、かつて党中央と秘密警察が独占していた回線が開放され、だいぶよくなったという。

 その知人のH氏自身、かつてはDDRで、高い地位にあった人だ。当然ながら失業し、年金だけでくらしている。いままで120マルクだった家賃が、10月から5倍の600マルクになる、年金の半分は家賃だ、とこぼす。とはいっても、4DKに地下室・車庫・庭つきアパートが5万円。東京ならこれは20万円以上だというと、仕事で何度か東京を訪れたことのある彼は、それはそうだ、ポーランドやルーマニアではこうはいくまい、われわれはBRD(西ドイツ)の福祉に感謝しなければ、と神妙だ。かつてDDRの言論・思想界を牛耳っていた面影はない。

 アレクサンダー・プラッツで15年ぶりで会った途端、涙まじりに抱きついて、「カトウ、われわれは大変な誤りをおかしてしまった」といったのは、真摯な自己批判であったのか、それとも旧体制への執着だったのか? そこを率直に問いただすと、「われわれは労働者の生活向上に失敗した」というのが第一声。「いや、思想・表現の自由と、人権・民主主義の問題では?」と突っ込むと、苦しげに認める。レーニンとロシア革命の意味やマルクス解釈にふみこみ、しばしの論争。かつての雄弁なマルクス・レーニン主義党イデオロギー幹部は、たった2年前の遠い昔をみつめるように、自分の全人生をかけた「社会主義国家の誤り」を告白する。この記録は、別のかたちで発表することにしよう。

 長い「イデオロギー闘争」のあと、H氏は、急に話題を変えた。新しい車を買ったから、明日はこれで新生ベルリンを案内するよ、と。真っ赤なスポーツ・タイプのカローラだ。来週はこれで、オーデル(旧東独のフランクフルト・アン・デア・オーデル)ではなくマインのフランクフルト(旧西独フランクフルト・アム・マイン)に行くんだ、という。もはやどの政党にも絶望しているという彼は、残りの人生を、自分自身を倒して獲得された自由を満喫することに、ストックしているかのようだった。

 

  4  国崎定洞と半世紀後の「名誉回復」

 

 「東」の変貌を見つめながら、西ベルリンに居を定め、国崎定洞の遺児タツコ・レートリヒさんと再会した。一時期病気療養中という便りがあり、「国崎定洞をしのぶ会」の川上武医師とともに心配していたが、元気だった。

 彼女の父国崎定洞は、日本の社会衛生学の草分けだった。東京帝国大学医学部助教授としてドイツ留学中に、ドイツ共産党員フリーダと知合い結婚。自分自身も、東大教授への道を捨ててドイツ共産党に入党、反ファシズム闘争に参加した。レーニン『左翼小児病』の本邦初訳者、「1932年テーゼ」の日本への送付者としても知られるが、世界恐慌期のドイツ共産党日本人部、在独革命的アジア人協会のリーダーだった。ナチスの台頭で、1932年に妻子とともにモスクワに亡命、その時タツコさんは3歳だった。「プロレタリアートの祖国」では、「アレクサンダー・コン」の名前で、東方人民大学や外国語労働者出版所に勤務。1937年8月4日、「日本帝国主義のスパイ」として逮捕され、12月10日に獄死した。スターリンに粛清された、日本人犠牲者の一人である(川上武『流離の革命家――国崎定洞の生涯』 草書房、1976年)。

 6年前のタツコさんは、幼いころの思い出や共産主義の問題を、あまり話したがらなかった。自分の顔かたちが日本人そっくりで、1980年に一度「国崎定洞をしのぶ会」の招きで訪れた日本に興味は持っていたが、スターリンに父を奪われた1937年8月の夜のことも、母と2人ナチス・ドイツに強制送還されてからの苦労話にも、ふれたがらなかった。亡きフリーダさんの思い出さえ、自分だけで守ろうと必死のようだった。私の方は、フリーダさんの遺書ともいうべき、生涯を綴った手紙を受け取っていたのだが。

 その彼女が、今回はすっかり明るくなり、率直に心を開いて、すべてを語ってくれた。事前にフリーダさんの手紙をはじめ、国崎定洞関係資料のドイツ語訳を送っておいた。そのうえ、ベルリンで思わぬ新資料がみつかり、彼女の記憶をよみがえさせることができた。

 今回のベルリン滞在にあたり、ベルリン労働運動史研究所(旧東独マルクス・レーニン主義研究所)のエルヴィン・レーヴィン教授にも、国崎関係の同じ資料を送っておいた。『マルクス=エンゲルス全集(新メガ)』刊行継続とともに、同研究所再生のいまひとつの柱が、「スターリン主義テロルのドイツ人犠牲者発掘」である。作業グループの研究に役立ててばと思って資料を提供し、あわせて、旧ドイツ社会主義統一党党史アルヒーフの国崎およびドイツ共産党日本人部関係資料を見せてほしいと頼んでおいた。

 党史アルヒーフから、ひとつの新資料がみつかった。初めて訪問した日に、レーヴィン教授が見せてくれた。1937年8月22日付の、ソ連の秘密警察により逮捕された、亡命ドイツ共産党員の「幹部リスト」である。当時のドイツ共産党在モスクワ指導部から、コミンテルン幹部会員・書記局員ヴィルヘルム・ピーク宛である。以下の者が逮捕されたのでドイツ共産党員名簿から抹消するようにという内容で、25人の名前の19人目に、国崎定洞の名がある。

 「国崎定洞(アレクサンダー・コン) 1894年日本生まれ。ブルジョア出身、医者。 日本国籍。1926年にベルリンに来て、1928年ドイツ共産党入党。1932年9月にソ連に入国、外国語労働者出版所勤務。1937年8月逮捕。」

 このタイプ書類一片で、国崎は、約束された東大教授の地位を捨ててとびこんだ、ドイツ共産党からも見捨てられた。まともな裁判もなく、12月10日獄死する。享年44歳。いまの私と同じ年齢だ。残された32歳の妻フリーダと8歳のタツコは、路頭に迷った。隣人も、それを助けることはできない。自分自身を守るのにせいいっぱいだった。ドイツ共産党員である妻と、日本人の顔をした娘は、翌38年2月、国崎の生死もわからぬまま、ナチス・ドイツに強制送還された。

 実はこの「幹部リスト」は、1136人のドイツ関係スターリン粛清犠牲者の記録の1部として、私のベルリン訪問直前に出た労働運動史研究所編のドイツ語の書物『ソ連秘密警察に捕らえられた人々』に、用いられていた(In den Fangen des NKWD---Deutsche Opfer des stalinistischen Terrors in der UdSSR, Diets Verlag Berlin,1991)。

 その129頁に、国崎定洞の名前がある。国崎については、ソ連で1959年に、日本では1975年に、一応「名誉回復」されていた。ドイツでもようやく、無実の罪がはらされたのである。半世紀以上の後に。

 その書物を読むと、この「幹部リスト」そのものが、数奇の運命をたどったことがわかる。当時のドイツ共産党選出コミンテルン幹部会員ピークが、在モスクワのドイツ共産党員の3分の2が粛清されるのをみかねて、こっそりと保管して戦後のドイツに持ち帰り、死ぬまで個人的にかくし持っていたものだという。

 戦後DDRの初代大統領が、それを公表できなかったことのなかに、すでに1989年の芽がひそんでいた。ピークの死後にそれは、党の秘密文庫に、こっそりと保存されていた。研究者がアクセスできるようになったのは、半世紀後の1987年からであった。

 レーヴィン教授ら「スターリン主義テロルのドイツ人犠牲者発掘」作業グループは、私たちの寄せた国崎関係資料に、心から感謝してくれた。BzG誌に詳しく書くよう、勧めてくれた。関係者に物故者が多く、一つひとつの事例を掘り起こすのは大変なのだという。

 

5 歴史における沈黙の責任

 

 日本では、「抵抗の医学者」としての国崎を尊敬していた小宮義孝、曽田長宗ら、ベルリン時代の友人千田是也、鈴木東民、野村平爾、山田勝次郎、平野義太郎、堀江邑1らが、戦後も国崎定洞の安否を心配してきた。しかし、生死のほどさえ定かでなかった。

 1937年当時、同じモスクワ外国語労働者出版所で働いていた野坂竜(日本共産党選出コミンテルン幹部会員野坂参三夫人)は、国崎のモスクワでの消息を知りうる、数少ない一人なはずだった。医師川上武が、『国崎定洞――抵抗の医学者』( 草書房、1970年)執筆のため、野坂竜に問い合わせたさいも、国崎のモスクワでの同僚であったことは認めたが、妻子がドイツに帰国したこと以外、「あまりおつきあいはしておりません」のでわからない、という返事だった。

 私が国崎の存在を知り、1972ー73年のベルリン滞在中に国崎の活動を追いかけたのも、川上武の先駆的研究を読んでのことであった。

 ドイツでは、ナチスに迫害されながらも生き延びたフリーダ夫人が、必死で国崎の行方を捜し求めていた。遺児タツコさんの方は、日本人との混血ゆえに差別されてきたこともあって、むしろ、父を忘れようと努めてきた。

 あらゆる手がかりを求めて、ソ連大使館や東独ドイツ社会主義統一党(SED)にも夫の消息をたずねあるいてきたフリーダ夫人が、在ベルリンのソ連大使館から国崎の死を告げられたのは、1956年の「スターリン批判」後だった。もっとも、命日さえわからぬ口頭の通知では、彼女は、あきらめきれなかった。遺児タツコさんにも、父の死を伝えなかった。

  二つの国での国崎の行方の探求は、1974年に、偶然結びついた。戦後読売争議を指導し、釜石市長を長く勤めながらも国崎を捜し続けてきた、鈴木東民とゲルトルード夫人が、西ベルリンの電話帳から「フリーダ・レートリヒ」の名前をみつけ、それがたまたまフリーダ・国崎夫人の兄嫁だったことから、35年を経て、国崎が粛清された前後の事情が明るみに出ることになった(鈴木東民「スターリンに粛清された東大助教授」『文藝春秋』1975年5月)。

 今回タツコさんから私がきいたところでは、タツコさんが、忘れようとしても忘れられない父定洞の行方について、母フリーダから、「ソ連で死んでいたのよ」と初めて伝えられたのは、鈴木夫人が、ベルリンのフリーダ夫人を40年ぶりで訪ねてきた、1974年11月のことであったという。

 川上武、石堂清倫、私などが、それぞれ独自に進めてきた国崎定洞探求も、1975年には、二つの「国崎定洞をしのぶ会」開催として、結実し、合流した。

  そうした流れのなかで、ちょうど「スターリンの誤り」を本格的研究課題と認めはじめていた日本共産党も、調査にのりだした。1975年4月末、日本共産党は、ソ連共産党に国崎定洞の行方について問い合わせ、その回答にもとづき、国崎の1937年12月10日の死と、1959年のソ連側での「名誉回復」の事実が、日本共産党の立木洋参議院議員の記者会見で、公式に発表された。1975年8月2日のことだった。

 私は、その新聞報道をドイツ語に訳して、フリーダ夫人に伝えた。フリーダ夫人とタツコさんは、それで初めて父の命日を確認できた。タツコさんが、父の祖国日本にようやく関心をもつようになったのは、この事情を通じてであった。

 1989年9月、ハンガリー経由で東独(DDR)市民が大量に国を捨て、ライプツィヒの月曜デモが始まった頃、日本では、元コミンテルン幹部会員、現日本共産党名誉議長、野坂参三の自伝『風雪のあゆみ』第8巻が刊行された(新日本出版社)。この本のなかで、野坂参三は、野坂夫妻が早くから国崎の粛清されたことを知っていた事実を、告白した。

 実は、国崎と同じ頃、野坂竜夫人自身が「人民の敵」として逮捕され、6ヵ月間も拘留されていた。しかし夫人は、その詳細を、死ぬまで夫の参三にさえ告げなかったという。「このような事実の詳細を、夫であるわたしが今日まで知らなかったのは、おそらく、わたしを悲しませまい、怒らせまいととする彼女の配慮だったのであろう。彼女には、そういう気丈さと思いやりがあった」(228頁)。美しい夫婦愛である。

 1937年当時、野坂参三はアメリカで活動しており、竜夫人の方は、国崎と同じモスクワ外国語労働者出版所で働いていた。野坂参三は、1938年初めにモスクワに戻り、妻の拘留――ただし「2ヵ月間」といったという(211頁)――、山本懸蔵、国崎定洞らの逮捕を、初めて知ったという。1935年に、コミンテルン第7回大会文書の日本語訳を、竜はロシア語・英語から、国崎はドイツ語から翻訳して、野坂参三が監修する仕事も一緒にしていたから(75ー76頁)、参三は「深く彼を知ってはいなかった」としても、竜が「国崎についても、私以上に心配した」(225頁)のは当然であった。

 野坂夫妻は話合い、山本懸蔵と国崎定洞を救おうと、クーシネンやディミトロフに働きかけた、という。しかし、ディミトロフからは、「自分は知らないし、知ることもできない」と「苦渋の色」を浮かべた答え。野坂は、「ディミトロフの答えを聞き、表情を見て、あらためて事態の深刻さを感じた。世界の共産主義運動の最高指導者である彼[ディミトロフ]も知ることの出来ない、どのような事態がソ連におこったのだろうかと考えてみた」と記している(224ー226頁)。そして、「2、3日後にディミトロフに上申書を提出して、事態の究明を依頼した。しかし、これに対する返事は、ついにこなかった」という(227頁)。

 ディミトロフも、ピークも、野坂夫妻も、スターリン粛清に心を痛めたというのは、事実だろう。それは人間的である。だが、なぜそれが、何十年もたって、ようやく明らかになったのだろうか? なぜ半世紀も後まで、秘密にされなければならなかったのだろうか? 1989年になって、野坂は、「社会主義のイメージが汚されることのないようにするためにも、その全貌と総括が公式におこなわれることを期待する」と書いている(228頁)。その通りであろう。だが、歴史の主人公である民衆と、歴史そのもの以外のいったいだれが、それを「公式に総括」できるのか? スターリンは40年近く前に没しており、ソ連共産党は、1991年に解体した。

 なぜこうした事実は、第2次世界大戦が終わってすぐに、公表できなかったのだろうか? 野坂参三の有名な『亡命十六年』(時事通信社、1946年)には、スターリンは「非常に素朴で謙遜で、地味な親切な人」であり、「かれのおこなった政策はいつも正しい。かれのした仕事はいつも成功している」とある(42ー43頁)。

 1953年にはスターリンが没し、56年にはソ連共産党第20回大会のフルシチョフ「秘密報告」で、「スターリン批判」がおこなわれた。1961年には、今日ではすでに「自主独立」であったとされる、日本共産党の現綱領も採択されている。しかし、『野坂参三のあゆんだ道』(新日本出版社、1964年)には、山本懸蔵についての「不幸にして、わたしがソ連にいなかった時期に、根拠のない容疑をうけて、彼は逮捕された。彼は1942年4月に病死した。しかし、彼にたいする容疑が無実であることは明白にされた」という短い記述はあるが、国崎定洞や野坂竜についての事実は、いっさいふれられていない(106頁)。それは、当時問題とされていなかったし、だれからもきかれなかったからなのだろうか? フリーダ夫人は、このころ、まだ夫がソ連のどこかの収容所ででも生きていると信じ、タツコさんにも、何も知らせていなかった。

 1970年に、川上武『国崎定洞』が刊行された。1975年には、鈴木東民夫妻の努力が結実して、国崎の粛清の事実が、『朝日新聞』2月4日の「確認された非業の死――共産主義医学者 国崎定洞」を皮切りに、マスコミでもいくどかとりあげられた。日本共産党は、ソ連共産党に国崎の件を問い合わせ回答を発表するにあたって、なぜ野坂参三の証言を、真っ先に出さなかったのだろうか? それとも個人の党活動でえた情報は、党のものであり、党という名前においてしか、発表できないものだったのだろうか? フリーダ・国崎夫人は、1937年8月4日から、鈴木ゲルトルード夫人と40年ぶりで会見した74年11月15日まで、ひたすら夫の消息を求め、野坂の証言のような事実を確認するためにのみ、生きてきた。

 あるいは、日本共産党の公式発表ののち、1975年9月発行の大森実『戦後秘史 3祖国革命工作』(講談社)のなかで、大森のインタビューに答え、国崎にたいする粛清について初めて言及したことが(241ー242頁)、野坂なりの「歴史にたいする責任」のとりかただったのだろうか? そのインタビュー項目の表題は、「スターリンの粛清はまったく知らなかった」であった。

 奇妙なことに、コミンテルンの流れをひく日本共産党は、ソ連共産党が解体したいまごろになって突然、「国崎定洞、これも日本共産党員でしたが、ソ連で殺されました」といいだした。自党が「覇権主義・大国主義」の「被害者」であったと弁明するために(聴なみ弘「ソ連党が解体しても日本共産党は不滅」『赤旗評論特集版』1991年10月7日)。 もっともこれは、「党史」もまともに勉強していない同党イデオロギー幹部の、ケアレス・ミスかもしれない。国崎は、コミンテルン=世界共産党の一員ではあったが、ドイツ支部=ドイツ共産党員だったはずだ。同じ文章の別の箇所では、ゴーゴリを引いて「ロシア人は、あやまるということが大嫌いな人種です」などという。北方領土を「人種問題」にするのだろうか? この人は、日本共産党の「理論・政策の第一人者」で、参議院議員選挙候補者なそうだ(『赤旗』10月20日)。国崎が日本共産党員だったという根拠があるのだろうか? 歴史の真実のために、ぜひ資料を公開してほしいものだ。

 実は、ピークや野坂参三にみられる秘密主義こそが、「社会主義のイメージ」を、今日では取り返しがつかないまでに、汚してきたものではなかったか? DDR初代大統領ピークは、死ぬまで自分の身近に見聞したかつての「同志たち」の運命を、隠ぺいし続けた。その「沈黙の罪」により、今日では、「エピゴーネン・スターリニスト」として、歴史により裁かれ、やがて忘れられようとしている。

 かつての野坂参三は、いまとは反対に、妻を含む日本人へのスターリン粛清の事実を知っていながら、公表すると「社会主義のイメージ」をそこなうと、考えていたのではないか? 野坂竜が、夫である参三に、自分の受けた屈辱の詳細を胸にしまい続けた事実は、ある種の夫婦愛として了解できる。しかし、当時のコミンテルン幹部会員であり、戦後の「愛される共産党」の顔であり、日本共産党議長で、国会議員であった野坂参三が、政治家として、政党人として「沈黙」し続けたことに、歴史は、どう裁きを下すべきなのだろうか?

 私は、こうした秘密主義的心性・非人間的党派性をつくりだしたものこそ、「レーニン=コミンテルン型共産党」の伝統であり、『コミンテルンの世界像』で分析した「民主主義的中央集権制」そのものであった、と思う。

 

6 国崎タツコの61歳の誕生日――「ベルリンの壁は崩れた!」

 

 フリーダ夫人は、1980年、私たち「国崎定洞をしのぶ会」の招待で、亡き夫の祖国を1目見るため、来日することになっていた。しかし、それを目前にして持病が悪化し、帰らぬ人となった。私はその死の直前に、手紙をもらった。夫定洞の行方を半世紀近くも追求しつづけ、非業の死の事情を明らかにしてくれた日本の関係者に感謝するという、すがすがしいものであった。代わりに、私たちは、遺児タツコさんを招いた。その時は、タツコさんが、父のかたみとしていまでも大切に持っている、モスクワで定洞がスケッチしてくれたという12枚の日本の風景画の世界を、案内した。富士山や、京都や、国崎の生まれ故郷の姿を、目に焼きつけてもらうために。言葉の通じない親族、国崎家の人々と手を握って涙ぐむタツコさんは、美しく、感動的だった。

 今回ベルリンでみつかった新資料は、これまでの私や川上武の探索を、裏づけるものだった。ベルリン労働運動史研究所からもらった本と資料のコピーを持って、6年ぶりで、タツコさん宅を訪れた。はじめてドイツ語の活字でみる父の名前に、タツコさんは、とまどった様子であった。それでもこれは、犯罪者リストではなく、無実の罪で殺された人たちのリストだ、序文には日本人とインド人のドイツ共産党員犠牲者も敢えて収録したと書いてある、もう半世紀以上たったし「ベルリンの壁」も崩れたことだから、あなた自身の思い出を語ってくれませんか、と頼む。しばらく考えたうえで、インタビュ−に応じてくれることになった。翌日、質問表とテープレコーダーを持って訪問し、「短い20世紀」の歴史に翻弄された、日本人の顔をしたドイツ女性の、数奇な人生の記録を収録することができた。これは、別に書物にする予定である。

 タツコさんが明るさをとりもどし、インタビューにも応じてくれたのには、実は、2つの別の理由があった。ひとつは、いうまでもなく、「ベルリンの壁」が崩壊し、彼女の「心の壁」も崩れたからだ。彼女の生まれたのは、1928年11月9日、「壁」が崩れた日が、奇しくも61歳の誕生日だった。

 いまひとつの理由は、さまざまな差別と迫害にさらされながら、必死で生きてきた彼女が、89年革命前に、年金生活に入ったことだった。「40年間食べるために働いてきた」とタツコさんはいう。そして、晴れて「苦役としての労働」から解放されて、2DKのアパートにひっそりすみ、年に1度の旅行と、月に幾度かの演劇観劇を楽しみに生きている。「壁」が崩壊したおかげで、東のオペラや「ベルリーナー・アンサンブル」のブレヒト劇も見れるようになった、と屈託ない。

 部屋には、花ばかりでなく、以前はなかった日本人形や、父定洞の写真も飾られていた。「冷戦の崩壊」は、彼女と私たちをへだてていた国境をも、こわしてくれた。ベルリン滞在中に何度も会って、日本に残る国崎の友人や親戚に「父を誇りに思うようになった」と伝えてくれ、と頼まれた。

 唯一心残りなのは、ベルリン・モスクワ時代の国崎を知る、2人のドイツの老婦人に、会えなかったことだ。1人は、ベルリン時代に、国崎の『インプレコール』紙執筆などの原稿タイプを打っていたユダヤ人女性、ベルタ・バーターシュトラウトさん。1975年に、フリーダさんの回想に従い、フリーダさん経由で短いメッセージをもらい、東ベルリンの住所までわかった。しかし、私たちの接触で彼女に迫害が及ぶのを恐れ、そのままになっていた。DDR国家の消滅を機会に「歴史の真実」を語ってもらおうと、H氏の協力で、電話番号までつきとめたのだが、「壁」の崩壊数カ月後に、すでに亡くなっていた。

 いま1人は、1990年の『労働運動史紀要(BzG)』誌第4号に、国崎と同じモスクワ・外国語労働者出版所ドイツ語部に勤務しての粛清体験を発表した、マルタ・グロービヒさん。レーヴィン教授にアポイントメントをとってもらったが、彼女も、私がベルリンに到着するわずか10日前に、没していた。「歴史の真実」の貴重な証言は、きけなかった。コミンテルンの底辺での生きた歴史は、こうして、ひとつひとつ、永遠に消え去ろうとしている。

 

7  権力の魔性と生活世界の民衆理性

 

 コミンテルンは、「世界革命」のための「世界共産党」だった。だが、それを方向づけ、基本的決定にあたったのは、コミンテルン頂点での、ひとにぎりの「政治家」や「理論家」たちだった。

 無論、底辺には、数百万人の共産主義者たちがいた。国崎定洞も、その1人だった。その底辺の共産主義者たちの圧倒的多数にとって、ファシズムの本質が「大資本のテロル独裁」(コミンテルン綱領)なのか、「ボナパルティズムと共通」(タールハイマー)であるのかは、おそらく大きな問題ではなかった。世界恐慌による失業・生活苦と、眼前に迫るワイマール民主主義の危機と、世界戦争の危険こそ、多くの人々の心を動かし、行動にかりたてたものであったろう。

 その人たちの想いは、フィンランドのS君や、ボンのA君や、父の生死もしらずに「苦役としての労働」とたたかってきたタツコさんの生活世界と、そんなにかけはなれたものではなかったはずだ。頂点近くにいたH氏でさえ、「悪夢」からさめてみれば、生活者としての自分を、再発見できた。

 本書『コミンテルンの世界像』で対象としたのは、コミンテルン頂点の「権力」の世界である。そして、「権力」の本質とは、どうやら、生産関係とか経済体制で決定されるとはいえないようだ。

 9月末に日本へ帰国してみると、感動的な文章が目についた。89年の「ビロード革命」で、望むことなく「権力」におしあげられたチェコスロヴァキアの抵抗の文学者、いまでは、チェコ・スロヴァキア共和国大統領である、バーツラフ・ハベルの言葉である。ハベルは、「人間は、なにゆえに政治権力を願望するのでしょうか。そして、なにゆえにこの権力を――いったん手に入れると――手放したがらないのでしょうか?」と自問して、告白する(「死にいたる権力」『世界』1991年10月号)。

 「われわれは心ならずも、自分たちが排撃していた前任者たちに、しばしば深刻なまで に似通い始めているのです。……私は、特典、例外、コネの世界にいるのです。市街電 車の乗車券やバターが幾らするか、コーヒーの入れ方、自動車の運転や電話のかけかた さえ、もはや知らないことになり始めている、名士の世界にいるのです。つまり、私が 生涯批判し続けた、あの共産党的上流階級そのものの世界の入口に立っているのです。」

 ――言葉を大切にする人の言葉、また、現に「権力」にある人の言葉だけに、胸に迫るものがある。

 「権力」とはまた、権力関係である。ミシェール・フーコーを引くまでもなく、「国家権力」だけが権力ではない。あらゆる社会領域に遍在し、地球大でも存在している。「多国籍企業」や「セクシャル・ハラスメント」や「教師の権力」や「党指導部の権力」のようなかたちでも。

 たぶん、19世紀の思想・運動としての「社会主義」が、「国家権力の奪取」をめざしたとき、すでに、20世紀に現出するレーニン=コミンテルン型共産主義、「国家主義的社会主義」のわなに、1歩をふみだしていた。

 無論、「権力」なしで社会は動かないし、人々の人権や福祉の保障もないことも事実だ。「権力」に関わるものは、その魔性を自覚し、自己抑制しなければならない。「政治にはことさら用心深い人達が従事すべきです。政治のもたらす、存在の自己確認のあいまいな勧誘に対して、とくに感受性の強い人たちが」と、ハベルはいう。

 コミンテルンは、「資本主義の権力=悪」「社会主義の権力=善」という教義を極限におしすすめ、「プロレタリアートの世界独裁=世界ソヴェト社会主義共和国連邦」を夢みた組織であった。「国家権力=階級支配の道具」説を、忠実に信じ込み、実践した組織だった。

 その長くにがい実験の終わったいま、「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような共同社会」をめざす人々は、「自由」の概念を改めて再考し、コミンテルンとはちがった意味での「インタナショナリズム」=地球市民主義を、構想しなければならないであろう。「頂点から」ではなく「底辺から」の眼を大切にし、生活世界からの社会形成=市民社会主義の途を、探らずにはいられないであろう。



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