『山本正美裁判記録論文集』(新泉社、1998)「解説」(1998年4月最終改訂版)

 

 「三二年テーゼ」と山本正美の周辺

   

加藤 哲郎(一橋大学・政治学)


一 はじめに

 山本正美は、戦前の一時期日本共産党中央委員会書記長を勤め、戦後も実践運動から離れることはなかったが、どちらかといえば、政治家であるよりも理論家であった。その山本正美の理論展開のよりどころになったのは、いうまでもなく、一九三二年にモスクワで作成され、五月二〇日にドイツ語で発表された「日本の情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」、いわゆる「三二年テーゼ」である。

 このテーゼは、今日でも日本共産党の戦前における最高の戦略的達成とされているばかりではなく、同時期に発表された『日本資本主義発達史講座』(岩波書店)との基本的な内容的合致によって、戦前・戦後の日本の社会科学にも大きな影響を与えた。その作成に直接関わった唯一の日本人として、山本正美は、それを誇りにし解説する資格があった。それを新しい情勢に応じて組み替え、戦後の日本資本主義分析や社会主義論に発展させる客観的使命を負った。その軌跡の記録が本書なのであるが、それは同時に、一九八九年東欧革命・九一年ソ連崩壊を経た今日の時点でふりかえると、「三二年テーゼ」の歴史的限界をも刻印しているだろう。

 こうした視角から、ここでは「三二年テーゼ」の理論的内容に立ち入ることよりも、その作成過程での日本人共産主義者の関わりを解明することによって、解説にかえたい。

 

二 「三二年テーゼ」の重層的理論構造

 筆者はかつて、当時のコミンテルン・ドイツ語版機関紙『インプレコール』、理論機関誌『KI』等の解読と、まだ存命中であった山本正美、村田陽一、平野義太郎氏らからの聞き取りにもとづいて、「『三二年テーゼ』の周辺と射程」という論文を発表した。ちょうど「三二年テーゼ」及び『日本資本主義発達史講座』発刊五十周年の時で、そこでは、「三二年テーゼ」の理論的問題点の析出に集中した(『思想』第六九三・六九四号、一九八二年四・五月)。

 それは、「コミンテルンの中進国革命論」と副題したように、「三二年テーゼ」の主張・論理を策定主体であるコミンテルンの理論・政策体系のなかに位置づけ、(1)当時のコミンテルン全体の論調を反映する一般的命題、(2)コミンテルン世界綱領(一九二八年第六回大会採択)中の「中位に発達した資本主義国=中進国」に相当するとコミンテルン執行委員会に認定された国々の共産党に当時共通してみられた、中進国的特殊性を反映する命題、(3)個別具体的に当代日本に与えられた日本的独自性を示す命題、の三層に区分し、その重層的理論構造と、それぞれの層における認識の状況的で過渡的な性格を強調するものであった。

 より具体的には、(1)コミンテルン的一般性を表現するものとして、@「帝国主義戦争の不可避性」と「対ソ戦争切迫」の世界情勢認識、A「革命的情勢」の過大評価、「中間層」の無視、「社会ファシズム」論、「左翼社会民主主義主要打撃」論、「赤色労働組合主義」など、三年後のコミンテルン第七回大会で自己批判される左翼主義的情勢分析・戦術、Bトロツキズム批判とローザ・ルクセンブルク主義批判の重合した極左的戦術の状況的手直し、を抽出できる。

 「三二年テーゼ」の基軸を成す、一九三一年「政治テーゼ草案」の「ブルジョア民主主義的任務を広汎に抱擁するプロレタリア革命」戦略から「ブルジョア民主主義革命から社会主義革命への転化」の二段階革命戦略への変更は、(2)中進国的特殊性を反映している。それは、コミンテルンが二八年世界綱領で「中進国」と明示的に位置づけた「スペイン、ポルトガル、ポーランド、ハンガリー、バルカン諸国」と多かれ少なかれ共通するもので、三一年四月のスペイン共和革命を直接の契機とした、コミンテルン執行委員会レベルでの「中進国革命」戦略見直しの一環だった。これらの国々の共産党は、一九三〇年までは「千編一律に社会主義革命」戦略を採っていたが(クーシネン)、三一年春ー三三年にかけてのコミンテルン執行委員会の強力な指導によって、資本主義発展が相対的に高度と認定されたポーランド本土共産党のみは「ブルジョア民主主義的性質の広範な任務を伴う」社会主義革命戦略の保持が認められたものの、スペイン、ポルトガル、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラヴィア、それにポーランドの西ウクライナ、白ロシア地域の共産党は、日本共産党と同様に、ブルジョア民主主義革命戦略とされた。

 その再検討のさいに理論的基準とされたのは、@農業に於ける半封建的諸関係の残存、A社会主義建設に必要最小限の生産力発展、Bブルジョア民主主義的変革の未完成の程度であったが、より具体的に各国の戦略を定めるさいには、C君主制を中心とした国家機構の性格、D民族問題、E労働者・農民と共産党の主体的成熟度、も考慮に入れられた。そして、「中進国」における安易な「ファシズム=金融資本のテロル独裁」規定の適用が否定され、君主制の「絶対主義」的性格が強調された国々では、日本と同様に二段階革命戦略に変更され、金融資本の優勢と「議会制を保持したファシズム」の存在を認められたポーランド共産党のみが、社会主義革命戦略を保持する。

 日本共産党「三二年テーゼ」の「絶対君主制(邦訳では天皇制)」や「ファシズムの幽霊」規定は、この中進国革命論の文脈にあり、その「封建遺制の残存」の強調は、当時のコミンテルンの経済還元主義的マルクス主義による「絶対主義」規定論証の常套手段であった。だから、三三年初頭のドイツにおけるナチスの政権掌握で再び「ファシズム」が主敵としてクローズアップされると、二八年世界綱領にもとづく「中進国」規定自体が有効性を失い、コミンテルン文献では用いられなくなった。資本主義の先進・中進・後進を問わず、すべての国々の共産党が第七回大会の反ファシズム統一戦線・人民戦線へと政策転換していく。

 ただし、日本共産党の場合は、この一九三五年の再(再々)転換段階では、党組織自体が崩壊していたから、野坂参三・山本懸蔵「日本の共産主義者への手紙」(三六年)がモスクワから発されたがほとんど実践されないままにとどまり、「三二年テーゼ」を獄中で護持・信奉した幹部たちを中心に、戦後の日本共産党が再建された。そのことによって、「三二年テーゼ」は、戦後も一時期まで理論的「権威」を保つことができた。

 とはいえ、日本共産党の「三二年テーゼ」が、当時のスペイン共産党やルーマニア共産党の戦略と全く同じ論理構造で作られたわけではない。当然のことながら、三一年九月満州事変勃発の衝撃や、大恐慌下での日本の労働者・農民の状態の具体的分析も、「テーゼ」には反映している。「支配体制の三要素」として@絶対君主制、A半封建的土地所有、B強奪的独占資本主義が明示されているのは、日本共産党向けの「テーゼ」のみであるし、「党の主要任務」として、@君主制廃止、A大土地所有の廃止、B七時間労働制、という「中進国」一般のスローガンに加えて、C銀行・大経営へのソヴェト的統制という、ロシア革命期レーニンの「四月テーゼ」から採られた、ポーランド共産党なみのスローガンが加えられている。これが、(3)日本的独自性の表現である。

 しかし、その理論的根拠は、意外に単純である。「三一年政治テーゼ草案」から「三二年テーゼ」への転換を正統化するための「国際的権威」とされたのは、レーニン『社会主義と戦争』(一九一五年)中の「軍事的・封建的帝国主義」規定の引用と、その日本への「適用」であった。三一年九月満州事変勃発直後のマジャール論文から始まり、三二年三月のクーシネンによる幹部会報告、四月の『KI』無署名論文などで繰り返し引用され、「三二年テーゼ」にも採用された。

 この「三二年テーゼ」に引かれたレーニン「軍・封帝国主義」規定は、もともと二月革命前ロシアについて述べられたものであったが、三二年二月『KI』のアキ=山本正美論文でも用いられたレーニン『帝国主義と社会主義の分裂』(一九一六年)中の「日本及びロシア」についての「補充・代位」規定の引用、レーニン『帝国主義論』(一九一六年)中のロシアについての「前資本主義的諸関係の濃密な網の目によっておおわれている」規定の引用との重合効果で、あたかもレーニンが、一九三〇年代日本帝国主義を「二月革命前夜のロシア」=ブルジョア民主主義革命段階と認定していたかのように認識させる、理論的効果を持つ。実際のレーニンの用例では、例えば『帝国主義論』の「前資本主義的諸関係の濃密な網の目」は、「若々しい、異常な速度で進歩しつつある資本主義諸国(アメリカ、ドイツ、日本)」との対照で、「経済の点でもっとも遅れた国(ロシア)」について述べられたものであったにもかかわらず。

 この点での齟齬を補うために、クーシネンらコミンテルンの御用理論家たちは、二月革命後の社会主義革命に直面した段階でのレーニンのスローガン「銀行・大経営へのソヴェト的統制」をも日本について認め、一九三二年当時の日本資本主義を、スペイン・ハンガリー・ルーマニア等よりは発展し、ポーランド本土の発達水準に近いものとして措定した。ただし、「三二年テーゼ」のこうした認識は、半年後の山本正美も出席・発言した第一二回執行委員会総会におけるクーシネン報告では、「支配体制の三要素」が@独占資本主義、A君主制、B封建的土地所有と順序が変えられ、「絶対主義」規定がはずされて崩れ始め、その後のソ連日本学で長く支配的になる、明治維新を「ブルジョア民主主義革命」と認め、日本型ファシズムを金融資本主導とみなす見解へと再転換して行く(以上の詳細は、加藤哲郎前掲論文)。

 

三 「三二年テーゼ」作成期についての山本正美の獄中供述

 上述の理論構造の分析は、筆者にとって、「三二年テーゼ」の歴史的・過渡的性格を理解するための研究であると共に、それがもっぱら、モスクワのコミンテルン本部で政治的理由により作成され、当時のコミンテルン日本支部=日本共産党は、戦前最高の党勢を記録した局面であったにもかかわらず、実際にはほとんど主体的に関与できなかったのではないか、という仮説にもとづいていた。筆者が『思想』論文を執筆した一九八二年段階では、コミンテルン東洋部で直接「三二年テーゼ」作成に参与した山本正美の証言以外、この仮説を実証するすべはなかった。

 ところが、一九八九年東欧革命・九一年ソ連崩壊は、この面での研究条件を一新することになった。コミンテルン関係の膨大な秘密資料が現れ、日本共産党関係の新資料も、断片的ながらも入手できるようになった。不幸にして、当時の資料を解説しうる生き残り証人山本正美は、一九九四年九月にその生涯を終えた。もう一人の生き残り証人たるべき野坂参三は、百歳をこえてソ連崩壊まで見届けたにもかかわらず、三〇年代後半大粛清期の山本懸蔵粛清への関与が秘密資料から発覚して、日本共産党名誉議長の地位を追われ、当時の事情については沈黙したまま「裏切り者」「内通者」と糾弾されて、九三年に世を去った。

 筆者は、旧ソ連マルクス・レーニン主義研究所コミンテルン資料館(現ロシア現代史史料保存研究センター)から発掘された秘密文書、特に元東大医学部助教授でドイツ共産党日本語部責任者、ナチスに追われてモスクワに亡命し「日本のスパイ」として粛清された国崎定洞の個人ファイル(「国崎定洞ファイル」)をもとにして、山本正美氏らから再度の聞き取りを行い、この間三冊の書物を上梓した(加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』青木書店、一九九四年、加藤哲郎『国民国家のエルゴロジー』平凡社、一九九四年、加藤哲郎・川上武『人間 国崎定洞』勁草書房、一九九五年)。

 ところが、「野坂問題」で旧ソ連秘密文書をも「科学的社会主義」にもとづき検討したはずの日本共産党の最新の公式党史『日本共産党の七十年』(一九九四年)は、いまだに「三二年テーゼ」を、「一九三一年の『政治テーゼ草案』の誤りをただすとともに、『二七年テーゼ』をもさらに発展させたもので、わが国の革命運動のすすむべき道をしめす画期的な方針」「日本帝国主義の前途を正確に見とおしたものであり、科学的社会主義の先見性をみごとに確証したもの」と高く評価している。その作成経過については、「コミンテルンでは、一九三一年から三二年にかけて、片山潜、野坂参三、山本懸蔵ら党代表が参加して、日本問題の深い検討がおこなわれ」た結果だという。実質的な唯一の作成関与者山本正美の名前は、政治的理由で抹殺されている。

 『日本共産党の七十年』における山本正美への言及は、<「三二年テーゼ」にもとづく党活動の拡大>の項で、「三二年十月の弾圧ののち、中央委員野呂栄太郎を中心に、検挙をまねかれた指導的活動家たちは、ただちに党の強化にとりくみ、『赤旗』の発行を継続した。その間、モスクワから帰った山本正美が一時期、党の指導部の責任者となったが、かれは三三年五月に検挙されると敵に屈服してしまった。このとき、中央委員・『赤旗』編集長谷口直平も検挙された。中央委員会は、政治局員野呂栄太郎、宮本顕治らを先頭に、『三二年テーゼ』にもとづく党活動の拡大のために不屈の努力をつづけた」という文脈での一言のみである。

 しかし、本書所収の一九三三年から三六年にいたる山本正美の予審訊問記録、及び「一共産主義者の政治的手記」(一九三四年)を読めば、それが「敵に屈服」と一言で片づけうるものであるか否かは、瞭然である。学術研究者の側からすれば、山本正美の前任者風間丈吉の転向前の獄中手記(『「非常時」共産党』三一書房、一九七六年)とともに、戦前日本共産党史の最高指導者自身による貴重な証言である。無論、その供述自体が獄中闘争の一部であり、国家権力とのかけひきのための虚実が含まれているから、歴史的事実の確定には裏付けをとらなければならないが。

 ここではまず、山本正美の予審訊問での証言に注目しておこう。

 一九三三(昭和八)年一一月二〇日付けの東京地裁「予審請求書」には、「公訴事実」として、「昭和六年春頃より『コミンテルン』西欧『ビューロー』の指示に依り『日本共産党の任務に関する「テーゼ」』の作成に参加し昭和二年五月頃右西欧『ビューロー』会議に出席の為め前記片山潜の外岡野事、某、源五郎丸芳晴等と共に『日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ』を審議決定して之して日本共産党に与え」とある。

 当時の東京地裁検事局は、「三二年テーゼ」が「コミンテルン西欧ビューロー」名で発表されたため、その「西欧ビューロー」が「テーゼ」作成の主体であると思い込み、西欧ビューローの公式会議に片山潜、岡野=野坂参三、源五郎丸芳晴に山本正美が加わって「三二年テーゼ」が採択された、と立件しようとした。山本正美は、それに乗じた供述で「党の秘密」を守ろうとした。

 予審訊問での山本正美の供述では、一九三五年一一月五日付け第八回訊問調書から、「三二年テーゼ」作成の経緯が語られる。ソ連共産党内での担当部署の変遷について、次のように述べる(なお読者の便宜のため、カタカナ漢語表記はヒラガナ現代表記に改める)。

 「私の同党[ソ連共産党]に加入した以後に於ける部署は今迄述べた通りクートヴェ内同盟細胞員でありますが私は一九二九年末以降同細胞ビューロー委員に選ばれ其の後約二ヶ年間右委員を勤めて居りました。
 右任期終了後は単なる一細胞員として今回私が帰国した一九三二年末迄活動して居りました。
 従て同党員としての私の活動はコムソムールの場合と同様、イ、細胞会議への参加、ロ、細胞ビューロー会議への参加が恒常的なものであり其の他に臨時の活動としては ハ、一九三二年テーゼの作成の為めの準備活動 ニ、一九三二年のコミンテルン西欧ビューローの会議――即ち三二年テーゼの採用せられたる会議 ホ、同年九月に於けるコミンテルン第一二回総会への参加 ヘ、若干の論文の執筆 等であります」(本書  頁)。

 「三二年テーゼ」についての本格的訊問は、一九三五年一一月一三日の第一一回、同一八日の第一二回の調書に述べられている。作成過程は、第一一回訊問の主題である。そこで山本正美は、大要以下のように供述する。

 @ 風間丈吉帰国後の一九三一年初頭、クートベ内細胞を通じて「一外国人」から、風間の持ち帰った「政治テーゼ草案」がコミンテルン内で問題になっており、新方針作成の討議が「コミンテルンの同志の間で個人的に行はれて居る」ので、必要な資料提出と意見を述べるよう求められた。山本正美は、「三一年政治テーゼ草案」よりも「二七年テーゼ」の革命戦略の方が正しいと思っていたので、その仕事を引き受けた。「之は在モスクワの日本人共産主義者の間に於てそうした仕事を果すに私が最適任者として挙げられた様であります」。

 A 以後、明治維新を含む日本の政治経済・社会運動の資料を抜粋翻訳し、口頭で報告した。その過程で、風間の持ち帰った「政治テーゼ草案」が「当時のコミンテルンの役員であった二三の同志の意見に過ぎない」もので、執行委員会・幹部会では未決定であることを告げられた。

 B 新テーゼについての意見を求められ、日本の支配体制、土地制度、ファシズムに関する問題等で、「草案の補正に際し間接的であったけれど助力を為しました」。

 C そうして作成された新テーゼ草案を、一九三二年五月のコミンテルン執行委員会西欧ビューロー会議で正式に採択するにあたり、「コミンテルンから特に傍聴を許されて出席しました」。その会議は「一九三二年五月の一夜、コミンテルン内部の一室で持たれ」、ドイツ、フランス、ポーランド、チェコスロヴァキア等コミンテルン指導部から任命された西欧諸国共産党代表と、日本代表として岡野=野坂参三、議長として片山潜が出席し、「夫れ迄に草案が長期に亙り充分に審議し尽されて居るので極く短期間に字句等の問題は別として草案の根本方針は其のまま全員賛成の許に採用されました」。

 D 警視庁の取り調べのさいに、共青日本代表源五郎丸芳晴も右の会議に出席したように述べたのは、間違いだった。「テーゼ」の起草者が誰かはわからないが、一九三二年三月二日の常任幹部会でクーシネンが「日本帝国主義と日本革命の性質」を報告しており、新テーゼの根本方針と一致していた(以上、本書  頁)。

 E また、一九三五年一一月二五日の第一五回訊問で、一九三二年一一月上旬帰国に出発する当時の在モスクワ日本人共産主義者の地位について問われ、片山潜はコミンテルン常任執行委員、岡野=野坂参三は「日本共産党の代表だと云ふ事は仄聞して居ましたが執行委員であるか什うかは判りませぬ」、田中=山本懸蔵の「コミンテルンとの関係は一切私には判りませぬ」と答えている(本書  頁)。

 以上の「三二年テーゼ」作成過程に関する山本正美の予審供述は、ほぼそのまま当局に認められて、一九三六年一月三一日の東京地裁予審終結決定に採用され、『思想月報』第二二号(昭和一一年四月)にも掲載された。

 ただし、その過程でただ一つ、事実認定上での問題があった。上記Dとの関連で、一九三五年一二月一七日に千葉刑務所で源五郎丸芳晴の証人訊問が行われ、源五郎丸が山本正美供述と大きくくいちがう証言をしたため、翌一二月一八日の山本正美の最後の第二八回訊問は、源五郎丸証言の否認に費やされた。

 元日本共産青年同盟委員長・日本共産党中央常任委員源五郎丸芳晴は、一九三一年三月から翌三二年一月まで、共青日本代表としてモスクワに滞在した。ちょうど山本正美の言う「三二年テーゼ」準備期にあたり、日本共産党のモスクワ代表岡野=野坂参三から「一九三二年テーゼを口頭を以て日本共産党に予め伝達する使命」を与えられて帰国した、と証言した。

 そこでの源五郎丸供述には、今日振り返ると興味深い、いくつかの重要な証言が含まれていた。それは、本書収録の証人訊問の第一七ー二二問で、源五郎丸は、「三二年テーゼ」を採択した「西欧ビューローの会議」には出席していないものの、「同テーゼがヤヴォルク及蒙古担当者の両名の共同作成に依りて為った草案が初めて発表されたコミンテルン東洋部内の小委員会であったか或は東洋部会であったかの会議には出席しました。然し之は日本代表として参加したのでは無くて所謂傍聴者として参加したのです」。そこには、日本共産党代表岡野=野坂参三と「正式の代表ではありませぬが」アレキセーフ=山本正美が出席しており、「然もテーゼ作成に関する活動は岡野よりもアレキセーフの方が主と成って活動した模様でした」と証言した。

 源五郎丸によると、この会議の議長は当時のコミンテルン東洋部長ミフで、プロフィンテルン東洋部長のジョンソン=カール・ヤンソンらも出席しており、「ジョンソンがヤヴォルクの案に対して反対を表明し明確なる理由を発見する事無くして結局ヤヴォルクの意見にジョンソンが賛成してしまった」「此点に就いては私及び岡野も無論反対であったのですが其後に於て岡野は其会合に於て指名されたテーゼ作成の小委員会に代表として出席し結局三十二年テーゼに賛成して仕舞った」というのである。

 さらに詳しく問われ、源五郎丸は、風間らの作成した「政治テーゼ草案」がモスクワに到着したのは「昭和六年五月頃」であり、新テーゼ作成はその後に以下のように行われたとする。ブルジョア民主主義革命戦略の新テーゼを作ろうとするコミンテルン東洋部と、「政治テーゼ草案」のプロレタリア革命戦略に固執するプロフィンテルン東洋部の対立を証言するものとして、また「三二年テーゼ」作成の政治的背景を物語るものとして、貴重である。

 「既に同年四月頃に右のプロフィンテルン第五回大会に出席して居る筈のヤヴォルクが三十二年テーゼ草案の復案を作成して居り此の政治テーゼ草案がコミンテルンに到着するや否や之を排撃の材料として使用したのでありますが其間同時に極めて短期間であり何等政治テーゼ草案に基く日本共産党の活動を実際的に検討する事無く三十二年テーゼの作成が着々行はれたのであった其理由は明白ではありませぬ。
 私が山本[正美]に会った当時彼は政治テーゼ草案は何等コミンテルンの正式の機関に於て決定したものでは無いと言ふので其点を追究すると山本はヤヴォルクがそう言ふ話をしたと言ふ様な話でした。
 夫れで私も彼の言葉を信じて三十二年テーゼ支持の立場を採りましたが前述の会議に於て討議を見ますとジョンソンは先ずヤヴォルクに御前恐しく成ったかと言ふ様な事から始まり何等政治テーゼ草案を覆すに足る丈の明確な理由が討論から発見されませぬから私も疑を持って特にテーゼ変更の理由を調べた結果結局之はサハロフがトロツキーズムを信ずるものとして排斥された結果サハロフが主として作成した政治テーゼ草案に対する攻撃がヤヴォルク等に依って為されたものと認めざるを得なかったのであります」(本書 頁)。

 「帰国当時三十二年テーゼは何の程度決って居たか」という訊問には、「既にクーシネンの手許にテーゼ草案が提出されてコミンテルンプレナムの開催を待って居る状態で岡野[=野坂参三]がクーシネンから非公式にテーゼ草案の説明を受け夫れを私岡野アレキセーフ[=山本正美]の三名で翻訳し私は他から意見を訊いたのです」と答えている(同前)。

 ところが、以上の源五郎丸証言を読み上げて確認を求めた予審訊問官に対して、山本正美は、きっぱりとそうした事実を否認する。コミンテルン内でのヤ・ヴォルクとジョンソン=カール・ヤンソンの対立など、源五郎丸は「敵に屈服」して必要以上の供述をしていると思ったのだろう。

 「左様な事実は全部否認します」
 「御訊ねの昭和七年一月頃迄には一九三二年テーゼの根本精神が確定されて居た事は私も訊いて居りますが御訊ねの様な具体的経過については知りませぬ。又三十二年テーゼの根本精神に就いて源五郎丸に私から説明した事はあるかも知りませぬが御訊ねの様な事実については記憶がありませぬ」(本書  頁)。

 以上の源五郎丸芳晴証言への反論を含む、一九三五年予審供述段階での山本正美の「三二年テーゼ」策定に関わる証言の特徴は、行論の限りでは、以下のようになる。「三二年テーゼ」の内容については積極的に展開し擁護しているが、策定過程についてはきわめて原則的・党派的に言葉を選び、訊問された範囲内で最小限の事実を抽象的に認めたに留まる。

 @ 「政治テーゼ草案」の再検討・新テーゼ準備は、一九三一年初め、遅くても春頃には始まった。その主要な問題は、当面する日本共産党の革命戦略そのものだった。つまり、前年夏のプロフィンテルン第五回大会以後の情勢変化や、三一年九月の満州事変勃発ではなかった。

 A 新テーゼの「根本精神」は早くから決まり、長期に草案が検討されたが、「三二年テーゼ」そのものは、三二年三月二日のクーシネン幹部会報告以後作成された。検察側がいう「五月の西欧ビューロー会議」に、片山潜・野坂参三のほか山本正美自身も出席して最終的に採択された。

 B 制定過程の詳細、策定に関連した指導者の名は、オットー・クーシネン、片山潜、岡野=野坂参三以外は挙げていない。山本正美自身の関与は資料作成・意見陳述について認めているが、おそらくヤ・ヴォルクであろう「一外国人」の名も、ミフ、マジャール、サファロフらその他のコミンテルン東洋部員の名も、プロフィンテルン東洋部長ヤンソン、プロフィンテルン日本代表山本懸蔵の名や政治的態度も、「三二年テーゼ」については挙げていない。もっぱら自分自身の関与についてのみ供述し、日本関係資料の入手先も、「三二年テーゼ」制定後の日本への送付ルートについても、一切沈黙している。

 

四 戦後の山本正美による「三二年テーゼ」作成過程の証言

  戦後の山本正美は、「三二年テーゼ」の作成過程について、予審訊問・獄中手記の範囲をこえて、幾度か語っている。なかでも『現状分析』第二〇号(一九六三年七月)の対談「『三二年テーゼ』制定の前後」は、小山弘健という聞き手を得て、比較的詳細にモスクワ体験を語っている。遺著とよぶべき自伝『激動の時代に生きて』(マルジュ社、一九八五年)においては、モスクワ留学から「三二年テーゼ」までに、一〇〇頁以上を費やしている。そして、これら戦後の回想では、一九三五年段階とは異なるかたちで、「三二年テーゼ」策定の真実を証言している。

 第一に、もともと「一九三二年五月の西欧ビューロー会議」などは実在しなかったこと、したがってその会議への日本共産党代表片山潜・野坂参三の出席・承認などなかったことを、認めるようになった。もともとコミンテルンの「西欧ビューロー」名での「テーゼ」発表は、当時のソ連外交を縛らないための便宜にすぎなかったのだが、予審訊問では、日本の警察・検察側が「西欧ビューロー決定」と思いこんでいるらしかったので、それに乗じた供述をしていた。

 この点を、戦後の回想『激動の時代に生きて』では、次のように述べる。

 「正式な党の代表といわれる人が一人も参加しないで作成され、コミンテルン執行委員会名でなく、コミンテルン日本支部の指導と、三二年テーゼの作成に当っていた東洋部でもない、それこそ縁もゆかりもないといえばいい過ぎだろうが、コミンテルンの一部局である西欧ビューロー名で発表されるといった状態は、どう考えてみても『民主主義的』であったとはいえないだろう。
 たとえば当時モスクワには片山潜と山本懸蔵がいたが、片山は前にもふれたような事情で日本問題の審議には前々から関与させられていなかったし、山本はプロフィンテルンの代表ではあっても、コミンテルンの代表ではないとして、党の指導の問題には最初から除外されていた。のちに共青の代表として源五郎丸芳晴が、次いで野坂参三が来たが――野坂は党の正式代表として入ソしたものでないことは風間の書き残したものから明らかだが、その後日本共産党の上部機関であるコミンテルン執行委員会が彼を正式代表として指名したようである――そのときには三二年テーゼの骨格はすでにできあがっており、彼はその最終段階で関与したにすぎなかった。このような状態で、日本人として三二年テーゼの作成過程に最初――実質的には途中――から関係したのは、肩書では単なるコミンテルン東洋部の一日本人職員にすぎなかった私だけであったというのが実情である」(一一二ー一一三頁)。

 第二に、テーゼ作成に至る政治的事情については、「当時の、一路第二次世界大戦に突入しつつあった緊迫した客観情勢や、それと不可分の関係にあった当時の革命運動や、自由や平和のための運動に対する弾圧の強化、また日本の共産主義運動の政治方針における誤りを緊急に是正しなければならぬというコミンテルンの最高指導部(まず第一にスターリン)の意向など」を挙げた上で、三一年六月のヌーラン事件でのコミンテルン極東ビューローの潰滅による日本共産党とコミンテルンとの連絡(上海ルート)の断絶、三一年九月の満州事変の勃発、を加えている。

 そのさい、ヌーラン事件直前の三一年五月の日本共産党委員長風間丈吉とヌーランとの会見では「政治テーゼ草案」が承認されていること、ヤ・ヴォルクの論文「日本資本主義の分析」の『プラウダ』掲載が同年八月であったことに注目し、「少なくともこの時期には、その後三二年テーゼに盛られた戦略思想は、コミンテルン内でもまだ奥深く秘められていた」としている。

 つまり、戦前の獄中供述での「三一年初めから再検討・新テーゼ準備」とした点を微調整し、さらに「二七年テーゼ」がブハーリン主導であり、三一年「政治テーゼ草案」がサファロフらトロツキー派が関与したから新テーゼが必要とされた、という戦後広く流布していた説をも否定している。

 ただし、小山弘健との一九六三年の対談では、「はっきりしているのは、プロフィンテルン派がおしなべてプロレタリア革命説だった」こと、コミンテルン東洋部長ミフ以下サファロフ、ヴォルク、マジャールももともとは社会主義革命説で、「三二年テーゼへの転換で、主に理論を展開したのはあくまでクーシネンだったので、かれの理論にみんな承伏したかたちだった」としている。

 つまり、「三二年テーゼ」の発想は、「コミンテルンとプロフィンテルンをはかりにかけたら。これはもう天ビンにかからない」という当時の大衆団体に対する党の優位の構造のもとで、コミンテルン東洋部よりもさらに上級のレベル、すなわちスターリンらソ連共産党政治局とコミンテルン最高幹部であるピアトニツキー、マヌイルスキー、より直接には東洋問題担当の常任幹部会員オットー・クーシネンから出たことを示唆している。

 また、「三一年秋から満州事変が始まって、政治テーゼ草案をふくめて、日本問題が根本的に再検討されだした。ただその時にね、むしろ妙なところから火がついたんです。トロツキストだという、そんなところからね」「サファロフに一番先にきた」と、ソ連共産党の党内事情との関連をも率直に認めている(前掲『現状分析』二〇号、四七ー四八、五一頁)。

 第三に、源五郎丸芳晴の「三二年テーゼ」作成への関与は否定し続けるものの、モスクワでの新テーゼに対する日本問題関係者内の意見の対立など、源五郎丸証言のかなりの部分を認めるようになった。

 『激動の時代に生きて』では、山本正美がプロフィンテルン東洋部からコミンテルン東洋部に移ったのは「一九三一年十月ごろ」と回想し、「政治テーゼ草案の発想は、コミンテルンの東洋部だけでなく、むしろプロフィンテルンの東洋部の間に根強かった」として、プロフィンテルン東洋部長カール・ヤンソン=ジョンソンの「三二年テーゼ」への反対も示唆している。

 日本共産党関係者については、源五郎丸も野坂参三も当初は「政治テーゼ草案支持」で、その後新テーゼ支持の側に「転換」したとされ、コミンテルン東洋部日本問題担当のヤ・ヴォルクは「政治テーゼ草案」作成にも関わったが、「彼こそ東洋部内で三二年テーゼの原案作成に直接当り、その関係で私がもっとも親しく接触し、ともに仕事をした人間」と評価される。

 元トロツキー派のサファロフは「政治テーゼ草案の思想のもっとも熱烈な支持者であった」が、マジャールは「日本問題には直接には関与していなかった」(七〇ー七二頁)、「片山潜は日本人出身のコミンテルン執行委員でありながら、日本の革命に関する各種テーゼの作成についても、実質的にいってほとんど関与しなかった」「三二年テーゼ作成過程に、山懸は全くといってよいほどタッチしなかった」としたうえで、「三二年テーゼに対する野坂の態度については、いまだに解せないものがある」と、源五郎丸芳晴ほど明確に「政治テーゼ草案」の立場を表明せず、かといって新テーゼへの態度も不明確であった、野坂参三への深い疑念を述べている(五七頁、六二頁、六九頁、九六頁以下)。

 源五郎丸芳晴については、六三年の小山との対談では「私にいろんな点で迷惑かけたひとりでね。三二年に帰国していますが三二年テーゼとは関係ありません。またそれにタッチできるようなレベルでもなかった」と軽く扱っていた(同前、四四頁)。ところが八五年の『激動の時代に生きて』では、先に引用した自分の予審記録中の源五郎丸証人調書の全文を読んで検討したためであろうか、野坂参三への不信の根拠に源五郎丸証人訊問調書中の野坂参三が三二年テーゼに反対していたという証言を用い、共産主義青年インターの会議に源五郎丸と一緒に山本正美が出席したという証言にも「あるいはそういうこともあったかもしれない」と肯定的に扱っている(一〇一ー一〇二頁)。

 第四に、「コミンテルンにおける日本問題の討議を進めるうえで、大きく寄与した」人物として、当時ドイツ共産党日本語部の責任者で後にモスクワに亡命し粛清された元東大医学部助教授国崎定洞の名を上げ、このベルリン・ルートが、ヌーラン事件で上海ルートが断絶した後の「三二年テーゼ」準備過程の資料・情報収集に重要な役割を果たし、かつ「三二年テーゼ」そのものが国崎定洞から河上肇のルートでモスクワからベルリン経由で日本に送られたことを認めている(一〇二ー一〇三ページ、このルートについての筆者の見解は、加藤哲郎「政治と情報」『情報と社会』創刊号、一九九六年、参照)。

 しかし、「三二年テーゼ」の直接の作成が、戦後の山本正美のいうようにコミンテルン幹部会のクーシネンから発し、東洋部のヤ・ヴォルクが実質的中心になり、マジャール、山本正美らが協力しながら進められたものであるにしても、片山潜、野坂参三、山本懸蔵ら山本正美よりコミンテルン内で地位の高い日本人共産主義者たちはなぜ積極的にタッチせず、山本正美のみが実質的内容に関わりえたのであろうか? 

 三一年八月のヤ・ヴォルク『プラウダ』論文から、満州事変勃発直後のマジャール論文、三二年二月アキ=山本正美論文を経て、三二年三月二日幹部会のクーシネン報告が行われ、四月一〇日『KI』無署名論文の予告を経て五月二〇日付ドイツ語版『インプレコール』に「三二年テーゼ」が公表されるまでの理論的軌跡については、かつて筆者も分析した(加藤哲郎前掲『思想』論文)。今日では、岩村登志夫氏により、一九三二年四月執筆の「三二年テーゼ」ロシア語版草稿の存在が確認され、クーシネン指導下のコミンテルン東洋部とロゾフスキー、ヤンソン率いるプロフィンテルン東洋部の対立もかなり明確になった(Toshio Iwamoto, The 1932 Theses of the Japanese Communist Party and the Koza-ha, in, Jahrbuch fur Historische Kommunismusforshung 1994, Berlin 1994)。とはいえ、『日本共産党の七十年』のいう「 一九三一年から三二年にかけて、片山潜、野坂参三、山本懸蔵ら党代表が参加して、日本問題の深い検討」が山本正美証言からしてかなり疑わしいにしても、それが何故かは、必ずしも明確ではない。

 この点での山本正美の証言は上述の通りであるが、実はむしろ、「三二年テーゼ」に直接関わらない山本正美の証言が、この問題を解く一つの鍵を提供していると思われる。すでに加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』『国民国家のエルゴロジー』『人間 国崎定洞』で筆者が述べてきたことの繰り返しになるが、結論的にいえば、「三二年テーゼ」がつくられるこの時期、ソ連在住日本人共産主義者の頂点では、片山潜と山本懸蔵の深刻な対立があり、野坂参三はその調停でおおわらわであり、新しい革命戦略の作成どころではなかったのである。

 この点を示唆する山本正美の証言は、戦前の獄中供述にはなく、戦後の『激動の時代に生きて』などの回想に、いくつかエピソード的に散りばめられている。筆者の視点から、それらの断片を抽出してみよう。

 @ モスクワにくる「日本の共産主義運動指導者たちの片山潜に対する、気負った、偏狭な、いわば島国根性的な態度」。佐野学らは片山を軽蔑し「かなり露骨なかたちで排斥していた」。この片山の「不幸な時代に、娘のやすさんや千代子さんがモスクワに来て、一緒に住むようになった」が、「次女の千代子さんのその後の生涯は、必ずしも順調だとはいえなかったようだ」(『激動の時代に生きて』九六ー九七頁)。

 「片山さんはこういっては悪いけども、もう大体勤めを果たしつくしたといった人ですね。だが先生がああなったについては、大分みんなからひどい目に会ってるんですよ。張本人は佐野学ですが、ほかに沢山いるんですよ。その点あまり悪いことしてないのは、山懸ぐらいです」(小山対談、四三頁)。

 A コミンテルン日本代表となった野坂参三の入ソの資格については疑いがある。彼は「本質はリベラリスト」である(小山対談、四九頁)。

「彼については、彼が二七年テーゼに『君主制打倒』のスローガンを盛り込むことに反対したという理由で、彼のような有名な人物でありながら、治安維持法違反による検挙者としては異常な措置として、保釈が許されたことは知っていた。そのことをめぐって、一部の同志たちの間に、彼に対するスパイの疑惑が深まっていたことも知っていた。しかし、彼にモスクワで接触して得た感触では、おとなしい人だなあとは感じていたものの、スパイ説は信じられなかった。いまもそうである。
 ところが、戦後のことであるが、彼が実は正式の日本代表として入ソしたのではなく、夫妻で勉強するために、党からモスクワへ送られたのだということを知った。そういえば今思い出すと、山本懸蔵はこのことをすでに知っていたようである。何かの拍子に山本懸蔵は、いささか軽蔑の念を込めて私にそのことをちらっと洩らしたことがある」(『激動の時代に生きて』九八ー九九頁)。

 B プロフィンテルン日本代表山本懸蔵は、「ウラジオストクにあった汎太平洋労働組合会議の書記局に長いこと出張した」。「彼は労働者出身の労働運動の指導者」ではあったが、「この経験を十分に系統化し、理論化する能力に欠け」「残念ながら経験主義的境地から十分に脱却しきれなかった」。その彼が「ウラジオストク滞在中に一方ならぬ面倒を見た海員の間から脱走者、スパイ、裏切者が出たことが、彼の運命に大きな影響を与え」「その後スターリンの粛清によって悲惨な最期を遂げた」(同前、六二ー六三頁)。 

 C 「プロフィンテルンの日本代表山本懸蔵と、コミンテルンの日本代表野坂参三との間柄は、私の感触では、あまりすっきりしていなかったようだ」「山懸はプロフィンテルンの城に、野坂はコミンテルンの城にそれぞれ閉じこもっていた」(同前、六二頁)。

 D プロフィンテルン東洋部の関係では、プロフィンテルン第五回大会に通訳として出席した蔵原惟人と、ウラジオストックで山本懸蔵の指導下で活動していた細木榛三(党名カワタ)も、「スパイの嫌疑」を受けていた(同前、六二頁)。

 E 「モスクワー上海ー東京のルートが、ヌーラン事件で断たれたとしても、他のルート、たとえばモスクワーベルリンー東京ルートがなかったわけではない」が、この国崎定洞を中心としたベルリン・ルートの「信頼性にモスクワは確信をもてなかったし、またヌーラン事件以降日本の党の内部事情について、全幅の信頼をおいていなかった」(同前、一一五、一〇二ー一〇三頁)。

 しかし山本正美は、帰国後の三三年党書記長時代の連絡ルートについて、小山との対談で「これだけは伏せておきましょうか」といいつつ、「ドイツの日本人のルートでしょう」と小山に突っ込まれ、「まあね、そこから先はチョット」と暗に認めている(小山対談、四五頁)。

 これらの断片と、風間丈吉・高谷覚蔵らのクートベ・在露体験記、片山潜秘書勝野金政の回想手記、それに野坂参三の公式自伝『風雪のあゆみ』や筆者が入手したソ連崩壊後の秘密資料を重ね合わせると、おそらく山本正美自身も多くは知り得なかった「三二年テーゼ」制定期の片山潜、山本懸蔵、野坂参三の疑心暗鬼と確執、いいかえれば新革命戦略どころではない日本共産党モスクワ指導部頂点での深刻な分裂・対立が浮上してくる。

 その詳しい分析は、筆者はすでに『モスクワで粛清された日本人』において展開した。発端は、山本懸蔵の二八年三・一五検挙を逃れての日本出国に対して、片山潜が疑念を持ち、山本正美の回想するBの海員出身クートベ学生の逃亡事件で「スパイ」とまで疑い、山本懸蔵の方も、@に示唆された片山潜の娘片山千代の入ソの事情とEのベルリン・ルート、特に国崎定洞に対する疑念を持っており、それは、山本懸蔵の密告による一九三〇年秋の片山潜秘書勝野金政の逮捕・強制収容所送りの事件で、ぬきさしならないものとなった。そこに三一年春、野坂参三がモスクワに現れ、いわばキャスティング・ボートを握る調停者として片山潜・山本懸蔵の間に入る。しかもそこで野坂参三が知り得た情報が、山本正美の回想するBの山本懸蔵粛清、Eの国崎定洞粛清、それに山本正美の暗示する@の片山千代のその後の不遇にまで投影された、と考えられる。

 これらのうち、国崎定洞を間にはさんだ片山潜と山本懸蔵の対立、二八年春の山本懸蔵入ソ問題、二九年秋の山本懸蔵の推薦した海員出身クートベ学生ニコライフ=松田某の日本大使館への逃亡事件、三〇年九ー一〇月の勝野金政逮捕・根本辰国外追放事件、その心労による片山潜の病気入院と三一年三ー四月の野坂参三夫妻、山本懸蔵妻関マツ入ソの事情などについては、すでに筆者の三冊の書物で詳述した。ここでは、新たにモスクワで発見された資料を含む、片山潜の二女千代についての記録の側から、当時の在ソ連日本人共産主義者の世界に迫ってみよう。

五 片山潜の娘千代の訪ソが生み出した波紋

 筆者は、一九三七年八月四日モスクワでの、外国労働者出版所日本課長国崎定洞の突然の逮捕・銃殺刑の謎を追いかける過程で、ロシア現代史史料保存研究センター(旧ソ連共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所コミンテルン資料館)に残されていた「国崎定洞ファイル」を解読し、国崎定洞逮捕の背景に国崎定洞のモスクワ亡命・クートベ大学院入学を推進した片山潜と、それに反対した山本懸蔵の確執があったことを見いだした。

 三四年夏の片山潜秘書勝野金政の日本脱出事件を機に、山本懸蔵がコミンテルン執行委員会人事部へ国崎定洞を密告していた記録が、「国崎定洞ファイル」に入っていた。そこで山本懸蔵は、国崎定洞を中心とし千田是也・平野義太郎・勝本清一郎・藤森成吉・佐野碩らを含むベルリン日本人反帝グループ全体を「反党的」と告発しており、片山潜とばかりでなく野坂参三と山本懸蔵の不仲も国崎定洞のクートベ入学承認をめぐる対立をもとにしたものであった、と述べていた。その発端は、一九二八年三・一五事件のさいに山本懸蔵が結核を理由に逮捕されず、警察の包囲網をくぐってソ連に逃亡できたことについて片山潜が疑いを持っており、山本懸蔵の方は、その自分についての「疑惑の噂」の出所を、ベルリンの国崎定洞と思いこんでいたことであった。

 しかし、片山潜と山本懸蔵の対立は、「疑惑の噂」と国崎定洞問題にとどまらなかった。より直接的な対立の発端は、一九二九年秋の二つの事件――片山千代の入国問題とクートベ学生ニコライフ=松田の日本大使館への逃亡事件――にあったと思われる。

 日本労働運動の父と言われ、最初の共産主義者であった片山潜には、三人の子どもがあった。先妻フデの子である長男幹一は、慶應義塾大学に入学し社会運動にも加わったが、若くして病没した。一八九九年生まれの長女のヤスは、従姉の舞踊家原信子と共にアメリカで活動する片山潜のもとに渡り、やがて舞踊家としてイタリアからソ連に入る。片山潜が重病でクレムリン病院に入院した、一九三〇年四月のことである。三三年一一月の父の死後は、モスクワで東洋学研究所の日本語教師となり、戦後は日本向けモスクワ放送やソ日協会副会長として活躍した。片山潜生誕百年の一九五九年には来日し、一九八八年二月にモスクワで没している。

 二女の片山千代は、フデの死後に片山潜に嫁いだ後妻原たまの子で、一九〇八年一月生まれ、父が一三年に渡米すると、母の故郷八戸で母・兄とともにくらした。片山潜がアメリカ共産党を創立してモスクワに渡り、長男幹一が没した後の二三年、革命家の妻ゆえの迫害を避けるため、たまは、潜の親友で子どもたちの親代わりになった岩崎清七東京瓦斯社長や東洋経済新報の石橋湛山の仲介で協議離婚、八戸高女在学中だった千代も、原千代と姓を変えた。それでも学校では、様々な差別と迫害を受けた。東京の青山学院に進学して父への想いがつのり、青山学院卒業後、岩崎清七らの助力でソ連入国ヴィザを獲得、一九二九年七月一三日、敦賀港から天草丸でモスクワへと向かった(『大阪朝日新聞』昭和四年七月一四日)。敦賀でも、ウラジオストックへの船中でも、特高警察の目が光っていた。ウラジオストックで日本領事館に行くと、領事が片山潜と同じ岡山出身で、無事にモスクワにつくよう世話をしてくれた――そんな経緯を切々と述べたのが、一九九六年夏にロシア語訳が、同年秋に日本語直筆原文が見つかった、片山千代の手記である。

 ただし、そのロシア語訳発見のさいに、『北海道新聞』一九九六年八月一六日付に「『労働運動の父』片山潜氏の二女千代さん、スパイの疑い晴らしたい、粛清の苦難手紙に残す」と題して報道され、筆者により岡野=野坂参三に宛てた一九三一年一一月二二日付けの「スパイ容疑を晴らすために書かれた」と解説された手記は、その後の横須賀壽子氏のモスクワでの調査で、もっと以前に書かれた日本語直筆原文が発見された。ロシア語訳も、三一年野坂参三宛ではなく、「田中(=山本懸蔵)受理」と記されたものであったことが判明した。したがってこの手記については、近く横須賀壽子氏によって発表される日本語直筆文が、以下の日本側記録・証言とともに参照されなければならない(後述)。

 片山千代のモスクワ行については、いくつかの日本側の証言・記録がある。ウラジオストックからモスクワへのシベリア鉄道での旅には、作家武林無想庵が付き添った。

 武林無想庵の『無想庵物語・巴里の腹へ』(記録文化社、一九八三年)によると、パリ在住の無想庵が金策のため日本に一時帰国し、谷崎潤一郎や川田順に送られてシベリア鉄道でパリに戻る帰路、ウラジオストックで岡山出身の熊ヶ谷総領事から、モスクワまで片山千代を連れていってほしいと頼まれた。「片山潜氏の二女、原千代子さんが、日本政府の許可を得て、公然父君に会えることになって、このウラジオまで見えているのですが、モスコーとのあいだに、うまく連絡がつかず、今もって先から迎えに来てくれる人も、こちらから送っていく人もないので、領事館では困っているのです。ちょうどそこへあなたがお出になったので、ご迷惑でなかったら。モスコーまで送りとどけていただけませんでしょうか」というのである(四六九ー四七〇頁)。

 そこで、シベリア鉄道で二週間、無頼派アナーキスト作家でアンリ・バリュビュスの日本への紹介者である武林無想庵と、まだ二一歳の片山千代の、奇妙な二人旅が行われた。モスクワの停車場では、ウラジオの日本領事館の電報で朝鮮人の通訳が出迎えにきたが、「カタヤマさんは、このごろ病気で、黒海沿岸に療養にいっていられるが、そのうち帰られるでしょうとのことでした」。無想庵と千代は、片山潜のモスクワの住居ルックス・ホテルに直行した。

 「通訳が、係りの人にわたしたちを紹介すると、三十がらみのルパシカを着た立派な風采のその人は、すぐ二階のおくの、しずかな横丁に面したセン・カタヤマのアパートへ案内し、そうして、セン・カタヤマと書かれた配給通帳を渡してくれました。……通訳が帰ると、千代子さんは、うれしそうに早速その回転椅子に腰かけて、遠慮なくデスクの引出しを開けると、いたずらっ子らしい目つきで、その中をかきさがしたりしました。と、日記帳をさがしだして、あっちこっち読みあげては笑ったり、眉をひそめたりしました。わたしはこの部屋に、千代子さんと二人で二日暮しました。」(四七二ー四七三頁)。

 しかし武林無想庵は、当時パリに住んでいたが、日本への一時帰国にあたって、ベルリンの日本料理店藤巻に、妻武林文子と娘イヴォンヌを預けていた。その妻文子は、ベルリンで藤巻で働きつつ、ポーランド人妻を持つ朝日新聞特派員黒田礼二(本名岡上守道)と怪しい関係になっていた。その自堕落な様子は、文部省派遣で留学中の社会学者新明正道も日記に記していた(加藤哲郎「ベルリン反帝グループと新明正道日記」『新明社会学研究』第五号、一九九五年)。無想庵は、千代の父片山潜とは会わずに、そのまま妻子のいるはずのベルリン、パリへと向かう。

 「一九二七年、南フランスで、バリュビスの『耶蘇』と、世界のインテリーたちへ呼びかけた、かれ自身の共産主義宣言を訳して、日本へ送ったわたしが、三年後偶然この『ルックス』へわたしを導いた、ある意味でのチャンスを、しっかり握りしめることなしに、ただもうベルリンを発つとき、藤巻でわたしにとりすがってワッと泣いたイヴォンヌの姿にひかれて、カタヤマさんの帰りを待たず、千代子さんと別れて、かくあっさりモスコーを発ちさってしまった」(四七二ー四七四頁)。

 武林無想庵は、戦後は日本共産党に入党するとはいえ、一九二九年夏当時はコミンテルンと無縁だった。無想庵が書き残したこの顛末が、片山千代の後半生に、ある影を落とした。無想庵自身は知る由もなかったが、日本領事館とアナーキストの手を借りた千代の入国、片山潜不在時のコミンテルン外国人幹部専用宿舎ルックス・ホテルへの非党員千代・無想庵の宿泊が、政治的に問題になったようだ。

 当時のコミンテルン幹部会員で日本を含む東洋部担当であったオットー・クーシネンの妻アイノ・クーシネンの回想には、オットーの秘書ヘイモが片山に問いただした話が、次のように出てくる。

 「日本共産党の代表であった片山潜は、オットーによれば、上品な老人であったが、秘密活動の能力を持ちあわせず、警戒を要する問題について沈黙していることができなかった。彼は数回、密命を帯びて国外に派遣されたが、あまりに無能だったので、結局はモスクワに留めおかれるようになった。ある日、ヘイモは、一人の日本娘が片山潜のアパートに数か月も滞在して、そこを訪問するコミンテルン職員たちに対して主人のように振る舞っているということを知った。彼女は片山の娘で、日本から父を訪ねて来たということだった。だが、誰かが彼の個人ファイルを調べたところ、彼が結婚しているということは記載されていなかった。ヘイモが片山にこのことを好意的にただしたところ、片山は、この結婚は日本式に両親によって整えられたもので、彼は日本を出る前にほんの短期間しか妻とは住んだことがないので、妻について記す必要があるとは思わなかったと答えた。娘は、日本を出国したあとに生まれ、日本共産党が彼女の渡航費用を出してくれたので、彼女は父に会いに来ることができたというのだ。コミンテルンは日本に問い合わせたのだが、驚いたことに、日本共産党員たちは娘のことを一切知らず、彼女をモスクワへ送ったことなど決してないということがわかった。年端もゆかず片山と結婚した妻には娘などいないことも判明した。
 これはやっかいな事態であった。コミンテルンはその娘が日本の秘密警察のスパイであることを確信していたが、もし、GPUに彼女の逮捕を許したら、その不注意から、コミンテルンはGPUに丸見えになり、この先GPUのより厳重な監督下におかれてしまうという声が上がるのは明白だった。このディレンマのなかで、最も慎重な方策として、できるだけ目立たないように、娘にも片山にも理由を告げず、彼女を東京に送還するということが決まった。彼女が日本の当局にモスクワで見聞きしたことをあらいざらい報告したことは疑いないだろう」(アイノ・クーシネン『革命の堕天使たち』平凡社、一九九二年、一〇〇ー一〇一頁)。

 ただしこれは、フィンランド人アイノの間接伝聞証言で、晩年の回想である。実際には片山千代は「東京へ送還」されなかった。また、アイノのいう「スパイ容疑」の存在は、横須賀壽子氏による一九九六年モスクワでの調査では、確認されなかった。

 とはいえ片山千代の入国が、モスクワ日本共産党の党内問題となったのはまちがいないようである。この点については、当時在モスクワの風間丈吉、高谷覚蔵、それに当時の片山潜秘書勝野金政の証言がある。片山に同情する勝野金政・高谷覚蔵と、山本懸蔵の秘書であった風間丈吉とでは、細部について異なり評価も分かれるが、基本的事実関係については一致している。

 当時の片山潜私設秘書、勝野金政の証言はこうである。

 「片山の娘千代は、異境に年老いた父を見舞いたいと単身東京を発ってウラジオストックまでやってきた。日本の共産党はそれを知っていても党には関係ないことだといって知らん顔をしていた。――党員でない――ただそれだけの理由で取りあわなかったのである。ウラジオストックで只一人駅のプラットフォームに立っていた千代は、偶然に武林夢想庵(ママ)に解逅した。ヨーロッパへ行く途中の夢想庵は大変驚ろき、又同情して、彼女をモスクワまで親切に世話をしながら同道し、モスクワでわざわざ下車してホテル・ルックスの片山の宿まで送り届けた。ヒューマニスト夢想庵なればこそのことで、常人には容易に出来ることではあるまい。このことを耳にした山本懸蔵は、『何? 武林夢想庵につれてきてもらったって? あんな非党員の親切でか?』と、ぶっきらぼうに陰口をきいていた。山本は夢想庵がバルビウスのすぐれた翻訳者であることなど知らなかったのだろう」(勝野金政『凍土地帯』吾妻書房、一九七七年、八四頁)。

 風間丈吉の転向前の日本共産党委員長としての獄中手記『「非常時」共産党』(三一書房、一九七六年)では、「付記」に「われわれの生活と直接関係はないがモスクヴァにいる日本人」として、林=勝野金政、丘文夫、片山千代の名を挙げている。いずれも片山潜の関係者である。このうち千代については、「片山チヨ子――同志片山潜の娘。僕の帰国する頃にはレニングラードの工場へはいると言って出発したはずだがその後父の側にいるとのことである。クウトヴェの学生とは何ら関係なし。同志片山の所で一、二回会ったことがあるが、彼女はクリスチャンであると称していたし、話の具合でも事実らしかった」とある(四七頁)。

 しかし、戦後の風間の回想『モスコー共産大学の思ひ出』(三元社、一九四九年)には、より詳しく書かれている。

 「一九二八年頃だったと思ふが、片山千代子がはるばると父を尋ねてモスコーに来た。彼女は、日本を出発する際には共産党と関係があるだろうといふので大変いじめられたり、厭な思ひをさせられたり、真実に身も縮む程だったさうである。彼女には十分の旅費もなかったので浦塩へ着くと同時に日本領事館を訪れて、モスコーの父に旅費請求の電報を打って貰った。このやうにして漸くモスコー入りした彼女と老父との初対面が、どのやうに感激的なものであったかを私は知らない。又、その後における二人の共同生活がどんなであったかについても余り知らない。
 千代子は日本の娘としては中等教育を受けていたと思ふし、母親一人で育てられたといふ苦労のかげも持っていたと思ふ。しかしながら共産主義思想といふか、共産党的生活態度と言ったものに凝っていた私たち学生とは少なからず感覚が異なっていた。これは彼女の罪ではなしに私たちクウトベ学生の知らない世界に彼女が居たからだといふべきであろう。かういふことも多少影響したのであらうが、彼女をクウトベに入学させるかどうかが問題となった時、彼女が日本共産党乃至はそれの影響下にある大衆団体と何らの関係もなかったといふ理由で、入学は許可されないことになった。このことを目して、これは山懸が片山に反感を抱いていたからだとするのは当らない。山懸が非合法下にある日本共産党に忠実たらんと欲すれば、彼女の入学に就いて訊ねられた場合その入学さすべからざることを主張するのは当然である。山懸の人間味が云々されるのではなく、共産党の組織と規律とが問題とされるべきである。それはともあれ、日本に在っては片山の娘であるが故に迫害され、モスコーに来ては、共産党に関係がなかったからといふことで、極めて少数しか居ない日本人学生との交際すら制限された彼女も亦不幸な人であった。恐らくは父に会った喜びよりも、日本に残して来た母を思っては泣いていたのではあるまいか」(二〇三ー二〇四頁)。

 風間丈吉、山本正美の後を受けてクートベ学生を指導し、一九三四年に帰国・転向した高谷覚蔵も、この問題に触れている。

 「好爺片山が老いの身に唯一つの楽しみとし、秘かに枯れて行かうとする父親の情愛を暖めて待っていた愛娘との解逅に、冷たい無慈悲な水を差す者があった。しかもそれは誰あらう、同じ異郷の同胞人山本懸蔵その人。何につけても特に片山にコッピどく当ったのは今もなほモスクワにある山ケンである。片山の娘がモスクワに着いた。『片山は党員である。たとへ娘であらうとも非党員と同居せしめるわけには行かん。』山本の言ひ分はこうだった。そして知る人もないモスクワの町に、愛する父と別居の憂き目をかこちながら、娘は工場へ働きにやられた」(高谷覚蔵『コミンテルンは挑戦する』大東出版社、一九三七年、四八ー四九頁)。

 さらに、ソ連崩壊で見つかった、日本人粛清犠牲者のソ連秘密警察に対する供述の中にも、断片的ではあるが、姉片山ヤスの話として、この事件のことが出ていた。

 「安子は、『妹千代子が日本から渡露の際、ウラジオからモスコーに旅費を送って呉れる様数回電報を打った。当時父はモスコーに(仕事の関係上)居なかった。で、父は千代子の事を田中[=山本懸蔵]に頼んであった。然し田中さんは千代子からの電報を受取ったのに何も援助しなかった。千代子はウラジオで困った果て近藤栄蔵の助言で不本意であったが止むなく日本領事館に行き助力を借りるに至った』と不満を述べた」(モスクワ東洋学院日本語教師ニューこと照屋忠盛が片山ヤスから一九三七年夏に聞いた内容についての、セヌこと箱盛平造の日本語秘密供述書より、加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』二八六ー二八七頁)。

 これらの資料・証言から、片山千代受け入れについての山本懸蔵の不作為、その結果としての千代の日本領事館と武林無想庵の援助を受けての父不在中のモスクワ入り、父潜との同居の不許可、クートベ入学申請の不許可、ロシア語は全くできないのに父親と切り離されてレニングラードの工場へ――これが、片山潜と山本懸蔵の対立の一因だったと考えられる。ただし千代に「スパイ」の容疑がかけられたと語っているのは、アイノ・クーシネンの回想のみである。

 これらの証言は、千代の日本での後見人岩崎清七が、片山潜の死の直前、一九三三年四月刊行の書物で、次のように書いていることの裏付けともなる。

 「二女の千代子は今から二年程前に、単独で露西亜に在る父の許に赴き、今モスコウの付近に働いて居るとの事である。同女が露西亜に着いた頃は、毎月通信を寄越したが、最近はどうした事か、父子ともに音信不通である。片山も今は七十五六を数ふる歳になった筈だ。老を知るこの頃、久し降りに千代子には遇つても、果して膝下に置て、親子の情誼を味つて居るか否かは頗る疑問である」(岩崎清七『欧米遊蹤』アトリエ社、一九三三年、一五〇ー一五一頁)。

 片山潜不在時の千代の入国にあたって、モスクワ日本共産党責任者山本懸蔵が、千代が「非党員」であるという理由で父の留守中に到着した千代の出迎えも身元証明もせず、ルックス・ホテルでの父との同居や片山潜の願ったクートベ入学に反対したことが、老片山には大変な仕打ちに映っただろう。しかも、千代が入学を拒否されたクートベに、山本懸蔵の推薦で二九年秋に入学した三人の海員出身学生の一人ニコライフ=松田が、厳しい学習と規律に耐えきれず日本大使館に逃げ込んだ。片山潜は、山本懸蔵の指導責任を問い、二八年の山本懸蔵の三・一五事件での検挙逃れ・ソ連入国の疑惑にさかのぼって追及を始めた。その結果が、山本懸蔵による片山潜への逆襲としての、三〇年秋の勝野金政逮捕・根本辰国外追放事件であったと思われる。

 片山潜の一九二八ー三〇年期の私設秘書勝野金政は、島崎藤村と同郷の文学青年で、パリ大学留学中にフランス共産党に入党し、二八年二月にフランス政府から追放され、ドイツの国崎定洞・有澤広巳・千田是也らの左翼グループの援助でモスクワに渡り、ソ連共産党にも入党した。一九九六年にモスクワで発見された「勝野ファイル」によると、フランスから逃れた勝野を受け入れ、ベルリンの国崎定洞・有澤広巳らに紹介したのは、当時東大法学部助教授でフランクフルト大学留学中の平野義太郎だった。その平野に勝野を紹介したのは、勝野とパリで知り合った東大助教授蝋山政道であった。蝋山の高崎中学の後輩でパリ大学での勝野の親友であった井上房一郎が、蝋山と勝野の接点だった。

 有澤広巳らの帰国の後、国崎定洞は帰国して東大医学部教授になることを拒否し、ドイツ共産党に入党して千田是也らとドイツ共産党日本語部を結成し、反戦反ナチの活動に入る。そのベルリン反帝グループの一員で、ソ連でのクートベ入学を希望したのが、京大出身の哲学青年根本辰だった。根本は、三〇年一月にベルリンの左翼グループに加わり、同年九月に国崎定洞の紹介状を持ってモスクワの片山潜を訪ね、秘書の勝野がその世話をする。ところが根本辰も、日本の『無産者新聞』で働いたことがあり、四・一六事件で検挙された経歴とはいえ、日本共産党員ではなく労働者出身でもなかった。山本懸蔵は、根本を「スパイ」と疑ってクートベ入学を拒否しコミンテルンに告発、片山潜のクリミア療養中に根本を国外追放にするばかりか、根本をかばった勝野金政をも秘密警察に売り渡す。

 勝野金政は、一九三〇年一〇月末に突然逮捕され、そのまま三四年六月まで、強制収容所での奴隷労働を強いられる。獄中で勝野の書いた再審請求書や履歴書など膨大な「勝野金政ファイル」が最近発見され、ロシア最高検察庁による名誉回復もなされた。『朝日新聞』一九九七年一月一三日付けに大きく報道されたが、ここでは省略する。詳細は、筆者の共同研究者である富山大学藤井一行教授のインターネット上での勝野資料公開・分析を参照されたい(www.fujii.edu)。

 自分を慕ってきた根本辰と、自分の活動の手足である秘書勝野金政を奪われた片山潜は、三〇年一二月、山本懸蔵の三・一五逃亡疑惑を裏付けるため、たまたまヨーロッパに滞在中の医師馬島們をモスクワに呼びつけ始末書を取ろうとした。東京労働者診療所の馬島は、山本懸蔵の三・一五逃亡劇の主役の一人であった。だが「山本懸蔵=スパイ」容疑の確たる証拠をとれないまま、片山潜は心労で重病に陥り、クレムリン病院に入院する。一九三〇年末から三一年夏まで、長い療養生活に入る。

 片山潜の長女ヤスがイタリアからモスクワに電報でよばれ、レニングラードの工場で働いていた次女千代もモスクワで一緒に父の看病を出来たのは、この時期のことである。片山潜は退院後、そのつかの間の水入らずの家族生活の喜びを、「病中の感想」と題して『改造』一九三一年一〇月号に寄稿する。この間、山本懸蔵はウラジオストックで活動しており、モスクワ日本共産党は、三一年四月に入国した新参者野坂参三が代表となる。

 だが、一九三一年九月に、満州事変が勃発する。山本正美はプロフィンテルン東洋部からコミンテルン東洋部に移され、野坂参三は、ようやく退院した片山潜と再会する。その頃片山千代は、再び父と別れ、ウクライナのハリコフのトラクター工場で働いていた。  この点について筆者は、一つの訂正をしなければならない。『北海道新聞』一九九六年八月一六日付に「『労働運動の父』片山潜氏の二女千代さん、スパイの疑い晴らしたい、粛清の苦難手紙に残す」と題して報道された、モスクワでみつかった片山千代の手記についてである。

 それはもともと、一九三七年にモスクワで粛清された北海道出身の日本人犠牲者須藤政尾のロシア人妻との間に生まれた遺児、在モスクワのミハイル・マサオヴィッチ・スドー博士(国際独立政治学エコロジー大学教授・地質学者)に、筆者がロシア現代史資料保存研究センターの片山千代と元片山潜秘書勝野金政のソ連時代の記録の探索を依頼し、北海道新聞社モスクワ支局の協力をも得て調査をしていたところ、一九九六年七月にスドー教授がファイルの存在を確認・閲覧して、筆者のもとに筆写転記して送ってきたものである。

 それは、ロシア語転写文書の表題から、片山千代が岡野=野坂参三に宛てた一九三一年一一月二二日付けの「私はどのようにしてソ連に入ったか」と題する手記として報道された。筆者はそれを、上述アイノ・クーシネン証言や日本側資料との関連で、千代が日本入国の事情を三一年一一月段階の在ソ日本共産党代表野坂参三に弁明した「スパイ容疑を晴らすため」の文書だろうと『北海道新聞』紙上で解説した。ところがその後、片山ヤスと晩年まで交流し遺骨を日本に持ち帰った横須賀壽子氏が、九六年秋にモスクワに赴き、ロシア現代史資料保存研究センターで片山姉妹に関する多くの資料を新たに発掘してきた。それによって、片山千代のソ連での生活についても、ロシア側資料によって明らかになってきた。

 詳しくは横須賀氏によって近く発表される片山姉妹についての記録を参照してもらいたいが、『北海道新聞』で報じられた片山千代の手記については、日本語直筆原文が発見された。そのロシア語訳は、岡野=野坂参三宛ではなく「田中(=山本懸蔵)受理」と記されており、岡野=野坂参三宛の三一年一一月二二日付けの千代の手紙は別のものであった。千代の手記そのものは、もっと早い時期に書かれた、コミンテルンに関係する日本人なら誰でも書かされた通常の報告書と考えられるという。したがって、筆者が野坂参三宛であることと三一年一一月ハリコフ発であることから推定した「スパイ容疑を晴らすため書かれた」という解釈は、成り立たないことがわかった。

 また、アイノ・クーシネンの証言等から推定された「千代の入国時のスパイ容疑」そのものも、横須賀氏が旧コミンテルン史料館であるロシア現代史資料保存研究センターのみならず、旧KGB史料館にも詳しくあたったところ、千代が疑われたことを裏付ける資料はなかった。この点では、日本側資料から推定した私の従来の説を改めなければならない。

 ただし、山本正美をはじめとする多くの在ソ日本人共産主義者が語っているように、千代のソ連での生活が必ずしも幸福なものではなく、日本への帰国の希望を再三表明していたことは、まちがいないようである。

 筆者は、一九九七年末に、モスクワのロシア現代史史料保存研究センターにおいて「片山潜ファイル」を閲覧したが、そこには、片山ヤスや千代が父潜に宛てた手紙類も保存されていた。そのうち一九三一年から三三年にかけて書かれた約四〇通の手紙の中で、ウクライナのハリコフ・トラクター工場に送られた片山千代は、スターリンの強行的工業化・農業集団化により飢餓におちいったウクライナの惨状を切々と語り、モスクワの父潜・姉ヤスに対しても厳しい言葉を発して、食料と台所用品と金を送ってくれるように、自分を早くモスクワに戻してくれるように、と繰り返し訴えていた。

 「私は今バラックに居る。バラックは六十五名の女性が一つの平屋木造にベッドをキチキチにならべて生活しています」「便所はとうていはいれるものではない」「ハリコフは毎日雨がふってる」「私は着の身着のままで着替えがない。クツは持ってない」「一文無しだ」「あなた方はそれでも血の通ってる人間ですか。だまされるものは馬鹿だと、姉とあなたはいつもの如くウナギメシをつっつきながら笑ふつもりでせう!」(片山千代の父潜宛手紙、一九三二年五月)。
 「私には娘時代は無かった。将来も無いでせう」「あなた方はそれほど私の生活について無関心なのですか。私もつくづく不幸であるわい」「私は今まで随分とこらえもし試みたが月給日までにはどうしても不足して十銭五銭とパン代を工場の少女青年の間を借りて歩く」「姉の如きは女のくせに一本の便りもよこさぬ」「私は母のゆるしを三ヶ年間滞在で来た。ロシアに来たのでなく父のともに来たのだ」「私はすでに三ヶ年を過ぎてますし、父たるあなたも、亭主のある姉安っちゃんを、併も亭主が相当月給をとってる嫁になった姉を世話して[いながら]、あなたのところに訪ねて来た私を、どうにでもなれ、おれの知った事でないとぶんなげてる」「私が帰りたいときには、今度は最後のおさらばをしますから。[日本の]母は今一人で病気して一人娘を待ってますからね。あなた方がウナギメシ、オスシに舌づつみ打ってるとき、母は居候して三度のめしもきがねし、好きな煙草ものめないでる」(同、一九三二年八月)。
 「モスコーに私がゐた時ですら、お父様は私の生活をかえりみなかったし、質問もしなかったし興味ももってなかったし、ホーリぱなしで、室に入って対座していても、一日口をきかなかった事も有った」「旅費と寄せ状をお送り下されば、じ職してモスコーへ帰ります。問題は真面目な事です。片山の娘としてある、二番目娘は馬鹿者であると云ふ事が知れたにしても、お父様の種で生まれて来てますからね。お自分の娘だと云ひながら、八ヶ月間もホッタラカシにし、知らぬ振りしてる。其してハリコフトラクターザDオードの皆のめんどうを見させ、皆に心配させてる」(同、一九三二年末?)。

六 「疑心暗鬼のトロイカ」の認めた「三二年テーゼ」

 山本懸蔵がウラジオストックからモスクワに戻るのは、野坂参三の証言などから一九三一年一二月である。片山潜・野坂参三・山本懸蔵の三人の指導者がモスクワに揃うのは、三一年末である。野坂参三『風雪のあゆみ』第七巻には、この時期についての、意味深長な表現がある。

 「こうして、片山、山本、わたしの三人の協力態勢ができたかに見えた。そこで、ヤンソンなどは、『このトロイカ(ロシアの三頭立ての場橇)によって、モスクワに初めて強力な日本共産党の海外指導部が作られた』といって喜んだ。

 『トロイカ』に与えられた任務は、第一に、前記の『政治テーゼ(草案)』の誤りを正し、かつ『二七年テーゼ』を発展させた、精確で新しい綱領的文書の作成に参加することであり、第二には、日本帝国主義の中国にたいする新たな侵略戦争に反対する日本の人民のたたかいの方針を明らかにすることであった。しかし、老齢の片山と、肺結核で病みがちの山本との『トロイカ』は、ヤンソンが期待したほどには稼働できなかった」(『風雪のあゆみ』第七巻、一九八九年、四四頁)。

 つまり、「三二年テーゼ」作成期に初めて「トロイカ」ができるのだが、それぞれが相互に疑心暗鬼で対立しており、「稼働」を始める前に山本懸蔵の三・一五逃亡疑惑や片山秘書勝野金政逮捕事件など、モスクワ日本共産党頂点の暗部の問題を処理しなければならなかった。

 野坂は晩年の自伝『風雪のあゆみ』で、満州事変勃発に際して片山・山本懸蔵・野坂の三人の連名で『インプレコール』に発表された「日本帝国主義に反対する日本プロレタリアート」という論文は、「原案はわたしが起草し、これに片山、山本、さらにウォルクやマジャール、クーシネンなどの意見を加えて」作成した「新たな路線への転換を示唆するもの」としているが(四九頁)、野坂参三の除名のきっかけとなった山本懸蔵を告発する一九三九年のディミトロフ宛手紙で、山本懸蔵がウラジオストックからモスクワに戻るのは「一九三一年末」と書いているから、病後復帰した片山潜はともかく、ウラジオストックの山本懸蔵の関与は、ほとんど考えられない。電報で名前を借りると伝えられた程度であろう。また野坂参三の原案執筆も疑わしい。コミンテルン東洋部員の作文に、「トロイカ」三人の名前が使われただけであった可能性が高い。

 野坂参三の日本共産党名誉議長時代に書かれた『風雪のあゆみ』第七巻では、「三二年テーゼ」作成過程について、以下のように述べられている。

 「『政治テーゼ(草案)』に代わる新たな綱領的文書の作成の過程では、コミンテルンの極東問題の責任者であったオットー・クーシネンを中心にして、コミンテルンの関係者はもちろん、コミンテルンが結集しうる部外の数多くの専門家もこれに参加した。片山潜やわたし、それにプロフィンテルンの山本懸蔵はもちろん、日本からのクートヴェ留学生で、そこを卒業後に一時プロフィンテルンの研修生をしていた山本正美も、この秋からコミンテルン勤務となって、主としてウォルクの助手としての立場から、この仕事に参加した。そのほか、すでに名の上がっているコミンテルンやプロフィンテルンの極東問題担当者も、当然これに加わった。そのほか、ソ連共産党をはじめとして、世界経済政治研究所、外国労働者出版所、外務省、それに『プラウダ』や『イズベスチヤ』『タス』などの関係者なども、折々に参加し、協力していたようだが、その詳細は記憶にない」(同書、五四頁)。

 野坂参三の失脚にもかかわらず、日本共産党の現行公式党史『日本共産党の七十年』における「三二年テーゼ」作成過程の記述を史料的に裏付けるのは、この野坂参三証言のみである。だが、もともと野坂は「詳細は記憶にない」というよりも、「詳細」を知りうる立場になかったというのが真相であろう。野坂の回想にある「テーゼ」作成の具体的記述は、三二年三月二日のクーシネン報告を「深い感動をもって」聞き、「この日の会議は報告の聴取だけで終わり、これに対する意見は、後日、個別に求められた」という一節のみである(同書、七一頁)。

 野坂により控えめに言及された山本正美だけが、「三二年テーゼ」作成に実質的に関わった日本人であった。片山潜・野坂参三・山本懸蔵の「疑心暗鬼のトロイカ」は、おそらく一九三二年三月以降の段階で、コミンテルン執行委員会幹部会、コミンテルン東洋部、プロフィンテルン東洋部のそれぞれの部署で新テーゼの草案を示され、それを形式的に支持・承認しただけの、きわめて受動的役割しか果たし得なかったと推定できる。敢えて単純化していえば、コミンテルン東洋部としての「三二年テーゼ」作成には、モスクワ日本共産党の「トロイカ」再建の狙いが含まれていたとさえ考えうる。

  この推定の一部は、旧ソ連共産党秘密文書によっても裏付けられた。筆者が一九九七年末、モスクワで収集したコミンテルン関係史料のなかに、オカノ=野坂参三がコミンテルン幹部会員オットー・クーシネンに宛てた、一九三一年一一月二六日付英文書簡がある。すでに満州事変が勃発し、ヤ・ヴォルク論文やマジャール論文が発表され、コミンテルン東洋部では日本共産党「三一年政治テーゼ草案」の批判と「三二年テーゼ」への戦略転換が開始されていた時期である。

 この時期に、野坂はなんと、最近自分は一九三一年四月二二日に草稿ができた「三一年政治テーゼ草案」を入手し英訳したとして、その第二章=社会主義革命戦略を全訳してクーシネンに送り、「大変よくできている(It is very well done)」と注釈していた。つまり、山本正美や源五郎丸芳晴の回想通り、野坂参三は、少なくとも一九三一年一一月末の時点においてはなお「三一年政治テーゼ草案」=プロレタリア社会主義革命戦略に賛成の立場にあり、「三二年テーゼ」へのイニシアテティヴなど到底とりえなかったことが、証明されたのである。

 そして、かくして作成された「三二年テーゼ」の背後には、すでに白海ラーゲリで過酷な奴隷労働を強いられていた勝野金政、ウクライナで働く片山千代の不遇、蔵原惟人や細木榛三の「スパイ」容疑、片山潜の山本懸蔵への不信と山本懸蔵の国崎定洞らベルリン・グループへの不信、調停者野坂参三の自己保身と山本懸蔵との対立など、一九三七ー三八年にクライマックスを迎える疑心暗鬼の粛清連鎖、モスクワ日本共産党自滅の胚芽が、すでに宿されていた。

 勝野金政は、一九三四年六月に釈放され、日本大使館の助けで奇跡的に帰国し、今日では貴重な歴史的証言を残すことができた(勝野『赤露脱出記』日本評論社、一九三四年、『ソヴェトロシア今日の生活』千倉書房、一九三五年、『二十世紀の黎明』第一書房、一九三六年、『ソヴェート滞在記』千倉書房、一九三七年、前掲『凍土地帯』など)。

 片山千代は、三三年一一月の父の葬儀に遺族として出席したのち、モスクワで働くことになった。横須賀壽子氏の調査によれば、アイノ・クーシネンのいう「千代=スパイ」容疑を裏付ける史料はなかった。また、三六年にクートベ出身の元共青委員長伊藤政之助と結婚したことを示唆する資料が「伊藤ファイル」に残されていたが、片山千代側の資料からは千代の結婚歴はなかった。伊藤と結婚したのはヤスであったという。伊藤政之助は、山本懸蔵の告発で日本人全面粛清の先駆けとなり、そのまま行方不明となった。片山千代は、一九四六年にモスクワの病院で死亡した。死の直前に姉ヤスにあてて書いた「早く迎えに来て」というメモが、病院に残されていたという。この面での歴史の真実は、ようやく明らかになろうとしている。

 このような意味で、「三二年テーゼ」の発表後に、その実践的指導のため日本に派遣され帰国できた山本正美は、幸運だった。天皇制権力の弾圧で長く獄中にあったといえ、一応裁判の形式で自分の活動の正統性を訴えることができ、生命を保つことができた。戦後の湯本正夫名での論文は、生きていればこそ発表できたものだった。山本正美があと三年ソ連に残っていたならば、国崎定洞や山本懸蔵と同様の運命になったであろうことは、当時のモスクワ日本人社会の構造からして、ほとんど疑いない。「三二年テーゼ」を共に作成したヤ・ヴォルク、マジャール、サファロフ、ミフらも、「テーゼ」に反対したロゾフスキー、ヤンソンらも、まともな裁判も受けられず、墓所も不明のまま、ロシアの闇の中に葬り去られた。

 山本正美は、おそらく「三二年テーゼ」作成期の片山潜・山本懸蔵・野坂参三の深刻な対立を知っていた。しかし獄中手記では、一切そうした問題にふれなかった。戦後はそれを書き残しはしたが、もっぱら戦略路線に関わる理論の対立として解釈しようとした。しかし、コミンテルン型共産党の政治は、理論家山本正美が善意で考えたようには動いていなかった。政治家山本懸蔵は、勝野金政・根本辰・国崎定洞・伊藤政之助らを「党」への密告を通じてソ連秘密警察に売り渡し、政治屋野坂参三は、その山本懸蔵を売っていた。

 山本正美の遺稿を収録した本書は、そのような「人間の劇」「政治の劇」とは異なる次元で展開されているがゆえに理論的光彩を保ち、同時に、それによる歴史的限界をも、刻印しているのである。

          <一九九六年九月脱稿、九七年三月、九八年四月補筆>



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