本特集の主題は、「民主主義の再検討」とのことである。そのなかで私に「永続民主主義革命の理論」について論ぜよというのは、ひとつは私が東欧革命直後の『東欧革命と社会主義』(花伝社、1990年)終章で、ネオ・マルクス主義、ポスト・マルクス主義、ラディカル・デモクラシーの諸潮流に学びながら、「労働生活における革命」「自由時間における革命」「世界空間における革命」「国家そのものに対する革命」を含む「永続民主主義革命」を提唱したからであろう。いまひとつは、日本における「民主主義の永久革命」の領導者であった丸山真男の永眠によって、また沖縄県に日本国憲法下での日米安保条約のひずみを恒久化する駐留軍用地特別措置法の大政翼賛会的改訂によって、日本の「戦後民主主義」の意味が改めて問われているからであろう。後者の問題は本特集の別の論文で扱われるというので、小論では、私自身の「永続民主主義革命」観を、マルクス主義と「市民社会」概念の関係の歴史的再考というかたちで提示してみたい。
M・リーデルやJ・ホール、コーエン=アラートらの整理によって知られるように、「市民社会」の概念史は、その生誕の地であるヨーロッパにおいても、重層的で複線的である。各国語の表現で微妙なニュアンスがあり、論者によりさまざまな意味が込められている(リーデル『市民社会の概念史』以文社、1990年、参照)。日本マルクス主義の「市民社会」概念との出会いは、英語のcivil
society や仏語のsociete
civileではなかった。マルクスにしばしば現れる、ドイツ語のburgerliche
Gesellshaftであった。それは、「土台・上部構造」論と「国家と市民社会」という方法論的メタファーにフィルターされて、しばしば経済還元主義的に扱われ、「ブルジョア社会=資本制社会」と等置しうるものとイメージされてきた。しかも、マルクス主義理解そのものが、レーニン主義・スターリン主義のバイアスを帯びていた。その「階級・階級闘争」概念の中核性・至高性ゆえに、「市民・市民社会」概念が真面目にとりあげられることは少なかった。
そこには、日本語の「市民」とドイツ語のBurger、仏語のbourgeiosとcitoyen、英語のcitizenとのあいだにあるさけがたいズレ、戦後日本におけるヘーゲル=マルクス系譜の文献解釈学の圧倒的優勢、そして丸山真男・大塚久雄らいわゆる「近代主義」派に対するマルクス派の種差的アイデンティティも反映されていた。近代主義派が「市民革命・市民社会」と日本語訳するものを、マルクス派は「ブルジョア革命・ブルジョア社会」と訳し、唯物史観の単線発展段階論と接合することによって、その「プロレタリア革命」「社会主義・共産主義社会」に対する前史的性格・階級的性格を強調することになった。日高六郎の巧みな比喩を用いるならば、近代主義派が「市民革命」によって達成される「市民社会」を「下車駅」と考えたのに対し、マルクス派は「ブルジョア民主主義革命」によって形成される「ブルジョア社会」を「プロレタリア社会主義革命」によって可能になる「社会主義・共産主義社会」への「通過駅」と考えることによって、前者=近代主義派を批判し、時には軽蔑することさえできたのである。
同時に注意すべきは、戦後日本マルクス派のなかの最大勢力であった日本共産党の系譜が、当代日本の革命戦略を「ブルジョア民主主義革命から社会主義革命へ」と二段階に構想することによって、理論的には対立し「不十分」であるはずの近代主義派も、政治的には「通過駅」までは同行可能な「同伴者」となった。戦後すぐの時期から理論的には「近代主義」批判が行われ、丸山真男に対する批判は晩年まで繰り返されたが、政治史のうえでのいわゆる「戦後民主主義」は、イデオロギー的に対立する両派の政治的影響力の同盟によって支えられていた(山口定ほか『市民自立の政治戦略』朝日新聞社、1992年、後藤道夫「戦後思想」、渡辺治編『現代日本社会論』労働旬報社、1996年、参照)。
その政治的同盟とは、私流に解釈すれば、「階級」と「市民」との対立をこえた「統一戦線」というよりも、「社会」の概念に関わるものであった。敗戦・占領改革によっても、日本には「前近代社会」の様相が色濃く残されていた。「ブルジョア的」であれ「市民的」であれ、ようやく獲得された日本国憲法の「民主主義」の定着が急務であると認識されていた限りで、伝統的保守に対抗する両者の政治的共闘は可能であった。そもそも日本語の「社会」そのものが、明治維新後の輸入語であり「社会問題」の源泉であったから、今日風にいえば、伝統的「世間」に対する近代的「社会」の定着のために、マルクス派も近代主義派も、それぞれに役割を果たさなければならなかった。初中等教育における「社会科」こそ両派の同盟を象徴するもので、「戦後民主主義」の啓蒙による「伝統的世間の市民社会への転換」が志向されていた。
しかし、高度経済成長を経たある時期から、近代主義派・マルクス派の両者の内部に、亀裂が入り始める。「近代化=産業化=都市化」「市民社会=ブルジョア社会=資本制社会」という経済還元主義的理解からすれば、東西冷戦下で西側資本主義圏でアメリカに次ぐ生産力を持つにいたった日本は、すでに「市民社会」を達成したはずであった。事実、丸山・大塚と共に近代主義派の代表と目された川島武宣らの論調には変化が現れた。産業化・都市化による「大衆社会の成立」が語られた。マルクス派のなかにも、当代日本の戦略的課題を独占資本支配に対する社会主義革命に設定する論者が現れた。
ただし、丸山真男のような「永続民主主義革命」論者は、「市民社会」を「資本制社会」と等置することはなかった。むしろ産業化・都市化の進行にもかかわらず形成されない「市民的人間類型」を理念的に純化し、「市民運動」の発展に希望を託した。マルクス派の中にも、内田義彦のように、産業化した日本を「市民社会なき資本主義」とみなす潮流が現れた(『日本資本主義の思想像』岩波書店、1967年)。その延長上で、ソ連・東欧など現存社会主義国の民主主義抑圧、市民的自由の欠如を告発し、『市民社会と社会主義』という問題設定を確立したのが、平田清明の記念碑的書物であった(岩波書店、1969年)。1970年代以降は、さまざまな「市民運動」が生まれ発展し、「市民社会」概念は新たな装いで、眼前の「管理社会」や「企業社会」と対置されるようになった。
私の場合で言えば、欧米におけるネオ・マルクス主義やポスト・マルクス主義における「市民社会」の理論的扱いを参照しながら、丸山真男や平田清明の系譜の問題提起を受容してきた。現存社会主義や高度に発達した資本主義日本での「市民的自由・市民社会の欠如」をひとつの批判的基準として、「自由社会主義」や「永続民主主義革命」を唱える論拠とした。そして実は、「市民社会=ブルジョア社会」概念発祥の地でも、同様の理論的転換が進行していた。統一ドイツにおけるburgerliche
Gesellshaftとは異なる
Zivilgesellshaft論の生成は、それを象徴している。
日本マルクス主義における「市民社会」概念の両義性・問題性は、たしかに日本語の翻訳バイアスをくぐってはいるが、欧米マルクス主義の系譜にも内在していたものである。加藤『社会と国家』(岩波書店、1992年)で略述した、ギリシャ・ラテン語古典系列の政治的共同体(ソキエタス・キヴィタス)の系譜と中世自由都市の経済的政治的自由(ビュルガー)の系譜の語源的複相を別にしても、マルクスの「市民社会」イメージが、ヘーゲルの「家族ー市民社会ー国家」の批判から出発していることの意味は、今日的に興味深い。ヘーゲル法哲学では、周知のように、「欲求の体系」としての「市民社会」は、司法活動・福祉行政・職業団体を媒介に、倫理的国家へと弁証された。マルクスは、ヘーゲルのburgerliche
Gesellschaftにおける「富と貧困の過剰」の官僚制や議会による理念的止揚を認めず、むしろ物質的諸関係にその根拠を求め、普遍的階級としてのプロレタリアートを主体とした私的所有の廃絶に「宗教的・政治的解放から人間的解放へ」の道筋を求めた。その結果、マルクスのテキスト自体に、ヘーゲルの痕跡を残した「市民社会」概念の両義性が入り込んだ。
戦後日本のマルクス主義により「ブルジョア社会」と訳されたのは、「その解剖学は経済学に求めなければならない」とされた歴史的・物質的社会関係=経済社会・資本制社会・階級社会としての「市民社会」であった。明示的には、『経済学批判序言』の有名な「唯物史観の公式」中に「ブルジョア社会の胎内で成熟する生産諸力」「法的諸関係ならびに国家諸形態は、それ自体からもまたいわゆる人間精神の一般的発展からも理解できるものではなく、むしろ物質的生活諸関係に根ざしているものであった。これらの生活諸関係の総体を、ヘーゲルは18世紀のイギリス人及びフランス人の先例にならって『市民社会』という名のもとに総括している」と出てくる(以下、訳文は各種邦訳を参照しつつ、筆者の責任で改める)。
主著『資本論』の用例では、重田澄男の研究によると、「ブルジョア的=市民的」「資本家的」「近代的」は、微妙なニュアンスを伴いつつ、ほぼ同義で用いられている。「生産様式」に対する形容詞では「ブルジョア的」2回、「資本家的」289回、「近代的」6回であるが、「社会」に対する形容詞としては、「(近代)ブルジョア的」16回、「資本家的」12回、「近代的」9回だという(『資本主義の発見』御茶の水書房、1983年)。ここから「市民社会=ブルジョア社会=資本制社会」という経済体制に即した下部構造的「市民社会」理解が生まれ、エンゲルス、レーニンで通俗化されて支配的になった。このレーニン的解釈を下敷きに、「ブルジョア民主主義=形式的平等=ブルジョア階級独裁」「プロレタリア独裁=プロレタリア民主主義=実質的平等」とする「民主主義」概念の階級的分割にまで至ったことは、周知の通りである。20世紀マルクス主義における「市民社会」理解の、いわば主系列である。
しかし、ヘーゲル弁証法の「市民社会」概念は、家族と国家を媒介することからも明らかなように、経済的・物質的関係や階級的社会関係には還元し得ない。マルクスにおいても、それは意識されていただろう。そうした「市民社会」の用法の副系列も、初期マルクスの「ヘーゲル国法論批判」、「市民社会と共産主義革命=政治学批判プラン」における「政治制度の思い上がり――市民的制度と国家制度へのすべての要素の二重化」「国家と市民社会の止揚のための闘争」以来、通奏低音の一つとして流れている。よく知られた例でいえば、『ドイツ・イデオロギー』には、「全歴史のかまど」であり「生産諸力によって規定され、逆にこれを規定し返す交通形態」としての「市民社会」という規定がある。唯物史観とは「現実的生産過程を直接的生命の物質的生産から出発して展開し、この生産様式と結びつき、それによって産み出された交通形態、すなわち種々の段階における市民社会を全歴史の基礎としてつかむこと」であり、「市民社会をその国家としての作用において解明すると共に、意識のあらゆる多様な理論的諸産物および諸形態すなわち宗教・哲学・道徳等をすべて市民社会から説明し、そしてそれらの発生過程をそれらがもとづくそれぞれのところから跡づける」といった用例では、「ブルジョア社会」と訳しても意味が通じる。しかし、「『市民社会』という言葉は18世紀にあらわれたが、その時というのは所有関係がすでに古代と中世の共同体からぬけだしおえた時であった。市民社会それ自体はブルジョアジーとともにだけ発展するのであるが、生産と交通から直接に展開される社会的組織体は、いつの時代にも国家及びその他の観念的上部構造の土台をなしていて、たえずこれと同じ名前でよばれてきた」という場合には、どうであろうか?
マルクス文献の多くはドイツ語であるが、オリジナルがフランス語や英語で書かれたものもある。その場合には、日本語の場合と似た用語上の問題が生じる。たとえば『哲学の貧困』はフランス語で書かれたため、「ブルジョア社会」と「市民社会」の部分的使い分けが行われている。平田清明が「市民社会と社会主義」の発想を得たのは、彼が邦訳マルクス・エンゲルス選集で『哲学の貧困』の訳者となったためであった。すなわち、「諸カテゴリーは生産諸関係の理論的表現にほかならない」が「経済学者たちはブルジョア社会
の生産諸関係を自然的・永久的なものとして通用させようとする」といった表現と共に、「封建制度のもとでブルジョアジーによって発展させられていた生産諸力は、彼らブルジョアジーの掌握するところとなった。すべての古い経済形態、それに照応していた市民間の諸関係、旧市民社会の公的表現であった政治状態が打破された」「ブルジョアジーについては、われわれは二つの局面を区別しなければならない。ブルジョアジーが封建制度と絶対君主制との支配体制とのもとで自己を階級として構成した局面と、すでに階級として構成されたブルジョアジーが社会をブルジョア社会
une societe
bourgeoiseにするために封建制と君主制とを転覆した局面とがそれである。……労働者階級はその発展において諸階級とその敵対関係を排除する一つのアソシアシオンをもって古い市民社会l'ancienne
societe
civileに置き換えるであろう。そして本来の意味での政治権力は、もはや存在しないであろう。なぜならまさに政治権力こそ市民社会la
societe
civileにおける敵対関係の公式の要約であるから」という場合には、明らかにマルクス自身による使い分けが行われたのである。
しかしこれらは、いわゆる初期マルクスの用法である。ヘーゲルを唯物論的に乗り越えた成熟期のマルクスは、『資本論』に見られるように「市民社会=ブルジョア社会=資本制社会」とイメージしていたのではないか? 実は私自身が平田に触発され「市民社会」概念を社会主義論のなかに組み込んだのは、原文が英語であるパリ・コミューン期『フランスにおける内乱』草稿にも「市民社会」と「ブルジョア社会」の使い分けを見いだしたからであった。すなわち、「生きた市民社会
the living civil society
にうわばみのように巻き付いている中央集権国家」「市民社会civil
societyに寄生しながら、その社会の理想的な模像であるかのようによそおっているこの贅物は、第一ボナパルトの支配のもとで完全な発展を遂げた。復古王政と七月王政は、これにいっそう進んだ分業をつけ加えたにすぎなかった。この分業は、市民社会内部の分業が新たな利益集団をつくりだし、したがってまた国家活動のための新しい材料をつくりだすにつれて、それと歩調をともにして拡大してきた」といった分析のほかに、コミューンは「社会に寄食しその自由な活動を妨げている国家寄生物のためにこれまで吸い取られてきたすべての力を社会の身体に還元」し「人民自身の社会生活を人民の手で人民のために回復」して「崩壊しつつある古いブルジョア社会
old collapsing bourgeois society
そのものの胎内にはらまれている新しい社会 new society
の諸要素を解放」した、それは「国家権力の社会による再吸収」である、とする論理を見いだしたからであった(加藤『東欧革命と社会主義』)。にもかかわらず、マルクス主義の「市民社会」理解は、「ブルジョア社会」と訳す方がふさわしい主系列が支配的であった。レーニンの指導によるロシア革命の勝利が、その「科学性」を担保するかに見えた。
しかし、マルクスのテキスト如何に関わらず、自己の社会主義思想のあり方によって「市民社会」概念を積極的に位置づけ創造する試みも、なかったわけではない。アントニオ・グラムシは、その20世紀における代表者となる。
この点で、19世紀末マルクス主義のリベラル化をはかったベルンシュタインの場合は、ドイツ語圏での思考であるだけに興味深い。ベルンシュタインによると、「社会民主主義は、市民社会を解体し、その成員を一人残らずプロレタリア化することを要求するものではない。社会民主主義は、むしろ労働者を一人のプロレタリアとしての社会的地位から一人の市民Burgerにまで向上させ、そのことによって市民的身分ないし市民的存在を普遍化するために不断に努力する。社会民主主義が要求することは、市民社会をプロレタリア社会に置き換えることではなく、資本主義的社会秩序を社会主義的社会秩序に置き換えることである。」つとに平子友長『社会主義と現代世界』(青木書店、1991年)が指摘したように、ここでは「資本制社会」と区別された「市民社会」の意義が述べられ、社会主義は「市民社会の普遍化」として理解されている。レーニン的「ブルジョア民主主義」批判や「プロレタリアート独裁」概念とは、明らかに距離がある。そのうえベルンシュタインは、ドイツ語でこのように論じることの困難をも自覚していた。つまり、ドイツには「特権的市民
der privilegierte
BurgerとしてのブルジョアBourgeiosという外来語」があり、「特権的市民der
bevorrechtete
Burgerの概念と分離したある一つの共同体の同権的市民の概念der
gleichberechtigte Burger eines
Gemeinwesensを表わす固有の言葉を持たない」として、それを自由主義や民主主義の理解にも結びつけようとした。ベルンシュタインによれば、「民主主義」は「人民支配」(『共産党宣言』)ではなく「階級支配の不在」「共同体の全成員の同権」「最高度に可能な自由」という意味である。「社会主義は、たんにその時間的順序からだけではなく、その精神的内容においても自由主義の正統な相続人」であり「組織的自由主義」と言い換えうる。このような理解は、下部構造・経済社会としての「市民社会」ではありえない。
アントニオ・グラムシによる「市民社会の再発見」とネオ・グラムシ派によるその継承は、世紀末におけるベルンシュタインのジレンマを非レーニン主義的に克服し、マルクスの「ブルジョア社会」とは種差的な、副系列の「市民社会」概念を復活したものであった。すなわち、上部構造の要素、ヘゲモニー領域、自己統治の契機として「市民社会」を積極的に位置づけ、かの「国家=政治社会プラス市民社会、強制の鎧をつけたヘゲモニー」という定式にいたる。ここでのグラムシ的「市民社会」は、マルクスのいう土台=下部構造でも上部構造でもなく「中部構造」という新たな水準におく解釈をも産み出したが、「東方では国家がすべてであり、市民社会は原初的でゼラチン状であった。西方では国家と市民社会のあいだに適正な関係があり、国家がゆらぐとすぐに市民社会の堅固な構造が姿をあらわした」とする機動戦から陣地戦へのテーゼ、知的道徳的ヘゲモニー理解をも可能にした。
そのため、経済決定論・還元主義的思考から離れた第二次世界大戦後のネオ・マルクス主義者たちは、グラムシの「現代の塹壕体系」「直接の経済的要素侵入の防壁」としての西方「市民社会」という把握をもとに、教会、学校、社会集団、組合、家族などを含む「市民社会」概念の再構成へと向かう。ルイ・アルチュセールやニコス・プーランザスの「イデオロギー装置」概念は、ここから着想を得たものであった。この「市民社会」の非レーニン主義的理解が、グラムシの「アメリカニズムとフォード主義」「ヘゲモニーは工場から生まれる」といったテーゼと結びつくとき、レギュラシオン理論のような新たな制度派経済学をうみだし、「強制としての政治社会」に「同意としての市民社会」を対置するノルベルト・ボッビオ風のリベラルなグラムシ解釈を可能にする。「市民社会」概念は、グラムシの「実践の哲学」のなかで、「構造の上部構造への超克的練り上げ」を行うヘゲモニーの場であり、「カタルシスの契機」となる。「たんなる経済的契機から倫理的・政治的契機への移行、つまり人間の意識において構造を上部構造に仕上げるという高次の精神的同化作用を表現するために、カタルシスという用語をもちいるのがよいだろう。これによって構造は、人間をおしつぶし自らのうちに同化し人間に受動的な状態を強いる外的な力であることをやめて、自由の手段に転化する。すなわち、新たな倫理的政治的形態を創造するための道具、新しいイニシアティヴのための源泉となる」という有機的知識人の役割の規定、「政治社会の市民社会への再吸収」「政治社会の消滅と自律的社会societa
regolataの実現」という言説は、「自己統治・制御調整社会における人類の文化的統一」という自由で民主主義的な社会主義像の基礎となる。
ちなみに、グラムシは、マルクス「ユダヤ人問題」「経済学批判序言」のburgerliche
Gesellshaftを イタリア語にするさい、societa borgheseとsocieta
civileとに訳しわけたというが(松田博)、上村忠男は、そのsocieta
civileを、敢えて「市民社会」ではなく「倫理的社会」と日本語で新訳した(『新編 現代の君主』青木書店、1994年)。
戦後日本のマルクス主義は、一時期マルクス・レーニン主義という名のスターリン主義一色に染め上げられ、近代主義批判・市民主義批判は、それを背景にしていた。しかし欧米マルクス主義には、社会民主主義の伝統やフランクフルト学派風批判理論、実存主義的マルクス主義にいたる、さまざまな潮流が伏在していた。そのなかから、グラムシを継承したネオ・マルクス主義の流れが、「市民社会の再発見」の一翼を担った。アルチュセール、プーランザスらに影響を受けたネオ・マルクス派のなかでは、B・ジェソップ、J・アーリらが、「国家の相対的自律性」「資本蓄積と国家形態の変化」「広義の国家」「国家=道具説から国家=関係説へ」「国家の民主主義的変形=社会への再吸収」の延長上で、新たな「市民社会」概念を提起した。それは、土台=経済社会と上部構造=国家の方法論上の接点として「市民社会」を設定するものであった。それは、丸山真男が「基底体制還元主義」と読んだ経済決定論・還元主義に反対するもので、グラムシのヘゲモニー概念をもとに、非階級的紛争要因をも承認して「ヘゲモニー闘争の舞台としての市民社会」を論じるものであった。
しかし、E・ラクロウらの流れは、さらに徹底した経済還元主義・階級還元主義・国家還元主義への批判に向かった。ポスト・マルクス主義である。ラクロウ=ムーフらの言説理論では、「市民社会」での言説のヘゲモニー的接合を説き、「マルクスがヘーゲルをのり超えたようにマルクスを超える」(F・ブロック)という方法的立場から、その「社会主義」像をも「市民社会から明確に分化した国家を、多元的市民社会から必要な統御を加える」ものとして構想した。
1989年東欧革命からソ連崩壊にかけて、「市民革命」「市民社会再生」論が世界的に噴出した。かつてベルンシュタインを悩ませたドイツでも、burgerliche Gesellschaftとは別にZivilgesellshaftの語が生まれ、J・ハーバーマスは『公共性の構造転換』第2版序文でZivilgesellshaft概念をとりあげ、その「非経済的意味」を明確にした(未来社、1994年)。もともとそれは「自律的公共空間」「対抗公共空間」として1970年代以降の東欧市民運動家のスローガンであったが、「ベルリンの壁」崩壊に前後して、「自由な意志にもとずく非国家的・非経済的なアソシアシオン関係」(C・オッフェ)、「底辺民主主義」による「非制度的政治空間」形成過程を示す新語として市民権を得たのである(井関正久)。
ポスト・マルクス主義段階の欧米左派の社会科学では、「市民」「市民社会」概念が、分析的にも規範的にもその有意性を再生した。政治経済学では、「国家の絶対的自律性」の主張と共に、コーポラティズム論、レギュラシオン経済学、アメリカ新制度論との接合のなかで「市民社会」の非経済的意味がとりあげられた。政治社会学では、かつての階級構造一元論から離れて、人民・階層・消費者・民族・性差などの政治的意味が復権し、生活者としての「市民」の重層的メンバーシップが重視されるようになった。政治言説学では、「市民社会」そのものが政治的審問・接合の言説闘争の場として設定され、「文化としての市民社会」が語られるようになった。とりわけエコロジー、フェミニズム、エスニシティなど「新しい社会運動」の勃興とその社会科学的意味づけは、マルクス主義的視角からも「市民社会」概念を不可欠のものとした。
かくして、マルクス主義的社会分析に「市民社会」が復権し、脱階級的な「市民」「市民運動」の概念が、左派の社会運動・論争でも用いられるようになった。その中心は、社会主義論と民主主義論の接合の領域である。レーニン『国家と革命』を「神聖な教科書」にしたマルクス・レーニン主義風「ブルジョア民主主義の限界」論は、過去のものとなった。マルクス・レーニン主義の理論的・実践的崩壊によって、「社会主義」は「民主化過程の一部」と再定義され、「自由社会主義」論が台頭してきた(富田・神谷編『自由社会主義の政治学』晃洋書房、1997年)。共産党の一党独裁と国有化中心の集権的計画経済の破綻のもとで、J・ローマー風「市場社会主義」とは別の文脈で、「所有と生産の民主主義」のために「企業の市民的統治」を求めるR・ダールらリベラリズムの議論やボールズ=ギンタスの「公領域としての企業」論も参照されるようになった(以上について詳しくは、加藤『現代日本のリズムとストレス』花伝社、1996年、参照)。
同時に「市民社会」論は、「国家と市民社会の二重化」という古典的問題設定を超えるものとなった。「一国社会主義」の破綻と多国籍企業を主要な担い手とした資本主義の「ボーダーレス・エコノミー」化のもとで、「市民」「市民社会」概念は、新たなグローバルな意味を獲得した。「民主主義」の概念を国家形態に限定せず、「部分社会複合=言説としての市民社会」の論理と接合すると、一国主義的限界を超えて、ローカルからグローバルにいたるすべての階梯での規範的「市民社会形成」が構想され、「地球市民社会」「地球市民」への「程度論的アプローチ」(F・カニンガム)が説かれるようになった。「経済・市民社会・国家」(J・アーリ)の各領域において、「環境と生産・消費の制御者、有機的知識人、公共圏形成者」としての「市民」「市民権」の重層化・運動化をはかることが「永続民主主義革命」の内実となった。かくして「市民社会」論は、ポスト・マルクス主義をも担い手の一部とした、自由主義・民主主義・社会主義の共通論題となった。
そうした論点のなかには、二一世紀的課題としての「公私」区分の再検討や、「市民社会=公共圏」内部での個人的「親密圏」の保護の問題、情報ネットワーク社会における国境をこえた「市民的自由」、NPO・NGOの役割の問題などが含まれている。また、新たな「市民社会」批判としてのポスト・モダニズムの言説、ミクロ権力論や文化多元主義の挑戦を受けて、「近代」の意味の歴史的再考をも、不可欠なものとしている。
もっともマルクス主義的潮流が、いかに「市民」「市民社会」概念を復興し、自己の「社会主義の再生」プロジェクトに採り入れたにしても、そこで自己のアイデンティティを他潮流におしつけ、その「科学的」真理性や方法的優位を語ろうとすると、それがただちに理論的生命力の枯渇と「社会主義」の衰退・死滅につながるであろうことも、まちがいない。マルクスの理論的再審や社会主義像の再検討は、このような意味で、永続民主主義革命の一つの構成部分なのである。
ヘーゲル『法の哲学』1821
マルクス『ヘーゲル国法論批判』1843、『市民社会と共産主義革命』1845-46、『ドイツ・イデオロギー』1845-46、『哲学の貧困』1847、『共産党宣言』1848、『経済学批判序言』1859、『資本論』1867-、『フランスにおける内乱』1871
ベルンシュタイン『社会主義の諸前提と社会民主主義の諸任務』1899
レーニン『国家と革命』1917
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