LIVING ROOM 31 (July to Dec. 2011)

 ここには、<What's New>で定期的にトップに現れた、本ホームページの作成過程、試行版への反響、更新の苦労話、メールへのご返事、ちょっといい話、外国旅行記・滞在記などが、日誌風につづられます。趣味的なリンクガイドも兼ねます。ま、くつろぎのエッセイ集であり、対話のページであり、独白録です。日付けは下の方が古いので、逆読みしてください。


「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」

2011.12.15  2011年の締めくくり、師走の真っ最中です。先月15日更新の本トップは、「野田佳彦首相の支持率が急落しています。9月発足時のご祝儀相場6割から、毎月1割づつ落として11月は4割、このまま行くと、来年早々には、早くも危険水域の3割割れです」としていましたが、12月朝日新聞調査は、早くも内閣支持率31%、不支持43%、どうやら予測通りになりそうな雲行きです。当然でしょう。普天間基地移転問題も国会議員歳費・定数削減にも手がつかないまま、TPPや消費税増税論議ばかりが先行し、党内はまとまらず、野党との関係も修復できず、閉塞しています。訪中日程も訪米日程も計画通りには行かず、ヨルダン、ベトナム等への原発輸出を認めただけ。何よりも、国民の方を向いていません。2011年最大の国民的体験である東日本大震災・大津波の復興は遅々として進まず、福島第一原発事故のもたらした放射性物資汚染は、ようやく「除染」の試行錯誤が始まったばかり。原子炉のメルトスルー状態は未だに把握できず、冷却のために使った汚染水が飽和し、東電は海に流そうと計画しています。日本製品がすべて核汚染と疑われ、冬期節電も強いられて、底冷えの師走です。今年を象徴する言葉は「きずな(絆)」とか。でもむしろ、3月11日を忘れないために、本サイトは、田中正造の次の言葉で、今年をしめくくりたいと思います。

真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし

 でも田中正造の言葉は、否定形のリフレインです。「真の文明」が何かは、語ってくれません。今年7月、福島県で93歳のおばあさんが命を落としました。「あしでまといになるから、お墓にひなんします、ごめんなさい」という言葉を残して。「文明」以前の、痛切な叫びです。20世紀には、いろいろな「文明の夢」が語られ、その多くは現実になりました。月ロケット、宇宙旅行、ロボット、超高速ジェット機等々。「原子力の夢」も、その一つでした。前回紹介した「原子力の平和利用の夢」の日本におけるルーツ、モダニズム雑誌『新青年1920年8月号に掲載された岩下孤舟「世界の最大秘密」を、改めて収録しておきましょう。小見出しは、「将に開かれんとする世界の最大秘密の扉」「原子力(アトムりょく)の本源と性質、蒸気力よりは何百倍」「日本に居て米国の市街を灰燼に帰せしめる力」「原子爆弾の威力は堂々たる大艦隊も木端微塵」「戦争と貧乏は無くなり、気候は随意に変化さる」「変らないものは恋愛だけ、疾病は駆逐され生命は延びる」と展開します。

 英国バーミンガム大学のアーネスト・ラザフオード教授は、「原子を分解する事に成功した。で、この事は、他の学者の最近の発見と相俟つて、或る『力(フォース)』を解放するに至つた。そして人間を殆ど神様と同様の物にするか、それとも人類文明なるものを粉微塵に破壊して終ふかも、実にこの『力』の掌中に握られてゐるのである。若し仮にこの『力』が実現されたら現代社会の最大難物である労働問題などは忽ちに解決され万人は悉く労働の苦痛から解放される。色んな税金なども不必要になる。泥棒や巡査はいなくなる。汽車も汽船もなくなる。戦争や疾病も無くなり、人間はもっと長命するやうになる」。
 「『力』の偉大さは、実に驚くべきもので、一オンスの物質の中には、英国の艦隊を海底から世界最高の山頂まで持ち上げる『力』が含まれている」「恰も今日無電が大洋を越える事が出来るやうに、吾々は原子力を放つて、この大地を透過させ、地球の反対の面、例へば日本から云へば亜米利加の一市街を灰燼に帰せしめるやうな事が出来やう」「これが有益に使用された暁には、人類を塗炭の苦しみに陥るゝ彼の戦争なるものは、永久に不可能のものとなるに相違ない。何となればこの原子爆弾の威力に対しては、如何なる強国と雖も対抗できぬからである」。
 「原子力利用の専門家は、『原子的家庭(アトミックホーム)』と称してゐるが、そこでは鉄瓶の湯も、凡て原子力で沸かされる。主人や奥様の着物も亦、その力を借りて洗濯する。だから若しさうしたいと思つたら、毎日下着を代へる事が出来る。そこには雇人の問題などはない。何故なら、ボタンを一つ押しさえすれば、真空器か又は掃除機が自ら動いて、室内の塵芥は管から本管へ放出され、そしてそれは町の中央原子力塵芥駆除器で吸収されるのみならず、食物は同様の『力』で料理されるし、食器なども原子力で沸された湯で洗われ、熱気で乾かされるからである」「原子力が利用さるれば、嫌な仕事などは無くなるし、実際今日の所謂『仕事』などは無くなるのである」「以上は単にこの新しい『力』に依って革命されようと思われる数百の事柄から二三を引いたに止まる」「勿論労働問題などはなくなり『社会的不安』は一掃されて終ふ」。 
 
 つまり、この「文明化」の夢は、二様に展開できます。一方で原子爆弾へ、他方で「原子的家庭」=家庭電化にも。前者の夢、核分裂を利用した原子爆弾は、戦時中の日本でも「日米戦争一発逆転」に使えればと夢見られましたが(『新青年』1944年7月号、立川賢「桑港(サンフランシスコ)けし飛ぶ」)、圧倒的な工業力を誇る米国のマンハッタン計画に世界から科学者・技術者が動員され、広島・長崎の悪夢として実現されました。さらに核融合による水素爆弾にまで展開され、核兵器と言う人類絶滅装置の増殖を経て現在にいたります。後者の夢は、「電力」というエネルギーに媒介されていますから、別に「原子力」に頼らなくても、水力・石炭・石油・天然ガスなどによっても、風力・地熱・太陽光などの再生可能なエネルギーへの転換によっても、実現可能であり、現に実現されました。「占領下日本の『原子力』イメージ ーーヒロシマからフクシマへの助走で紹介したように、戦後日本で「原子力時代」ともてはやされた夢の圧倒的部分も、この便利で快適な家庭生活でした。自動車・電車・飛行機など移動・交通手段も、別に「原子力の平和利用」に頼らなくても、世界の科学者・技術者の努力で発達し、実用化されました。福島の悲劇を経験することで、私たちは、原子力発電がとてつもなく危険で高価なエネルギーであることを知りました。いま、核兵器開発以外に、「原子力の平和利用」を語りうるとすれば、放射線治療ぐらいでしょうか。産業界でも20世紀なかばの「原子力時代」の熱気はとっくに消え去り、科学技術の最先端は、iPS細胞やナノテクノロジーに移行しています。14日深夜に共同電で流れ、新聞もテレビも報道しないらしい下記ニュース。いったい何を意味しているのでしょうか。
 
国内廃棄物に大量の核物質 未計量で濃縮ウラン4トン
政府が国際原子力機関(IAEA)の保障措置(査察)の対象となっている全国の262施設を調査した結果、計量や報告をしていない濃縮ウランやプルトニウムなど核物質が廃棄物から大量に見つかったことが14日、分かった。政府は国際社会の批判を避けるためIAEAへの申告を急ぎ、水面下で協議を始めた。複数の政府高官が明らかにした。中でも政府系研究所で高濃縮ウラン約2・8キロ、原子力燃料製造企業で約4トンの低濃縮ウランがそれぞれ未計量だったケースを重視して調べている。中部、北陸、中国の3電力会社などにも未計量とみられる核物質があり、確認を進めている。    2011/12/15 02:09 【共同通信】

 田中正造の「真の文明」は、故森滝市郎が被爆と被爆者運動の痛苦の体験から絞り出した「非核文明」「核と人類は共存できない」と、通底します。12月10日の土曜日、専修大学での同時代史学会年次大会で、「日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのか」と題して報告してきました。1945ー61年までは「マルクス主義政党」としての日本共産党と「マルクス主義自然科学者」としての武谷三男の「原子力」観の両方を入れた詳しいメモを配付資料として準備していたのですが、一緒に報告する予定だった報告者が病欠ということで、急きょ主催者から報告時間延長を要請され、時間調整用にパワーポイントに入れておいた1961ー2011年の共産党の「原子力の平和利用」論の歴史的変遷も、当日報告することになりました。そのため、旧ソ連の歴史や「マルクス主義」など学んだことのない若い参加者には、わかりにくいものとなったかもしれません。もともと日本の平和運動のなかで、反原爆運動(原水禁運動)と反原発住民運動・脱原発市民運動はなぜ長く合流できなかったのかを歴史的に探ることを目的にしていたので、その意味では全面展開するかたちになりました。ただ、「マルクス主義」の系譜上では重要な論点も含まれているので、実証的でなければなりません。当日配付資料に1961年以降の資料を加え、かつ、質疑討論で提起された民衆意識レベル、非共産党マルクス主義や森滝市郎ら原水禁運動、高木仁三郎ら「核と人類は共存できない」と説く主張を補足して、こうした主張を「反科学」と批判しあくまで「原子力の平和利用」を説き続ける日本共産党の政策・主張とを対比したデータベースを作りました。同時代史学会報告ウェブ版として、本年のしめくくりに、アップロードしておきます。報告のポイントは、占領期の武谷三男が原爆の「反ファッショ的性格」から導出した「原爆研究の平和利用」「原子力時代」の主張を、当時の共産党が「原爆の平和利用」として「荒野の開拓、自然の征服」や「資本主義の核に対する防衛的核=抑止力」に仕立てあげたことでした。提唱者の武谷三男自身は、ビキニ水爆以後「死の灰」=放射能の後発性被爆・晩成被害の重大性に気付き、まだ「原子力時代」ではなく「原水爆時代」だとして「夢」を先送りし、かつスターリン批判とハンガリー蜂起を見てソ連の核開発をも批判する立場にほぼ10年で移行=「卒業」していくのに対し、共産党の方は、「社会主義の核」「安全な原子炉の可能性」を信じて、スリーマイル島、チェルノブイリ事故、3・11と主張の論拠を喪失しながら、70年を経てしまったのではないか、という問題提起です。あくまで口答報告のデータベースですので、読者の皆さんからの批判・補足を、歓迎します。なお、データベースの末尾に、報告の参考文献を付し、12月17日に早稲田大学20世紀メディア研究所第65回研究会で報告する「占領期日本の言説空間ーープランゲ文庫のキーワード・クラウド」のデータも入れてありますので、御笑覧ください。今年も、クリスマスは中国になります。皆様、せめて今年よりは良いお年を!


 10月早稲田大学20世紀メディア研究所公開研究会報告は、『東京新聞』10月25日「メディア観望」、『毎日新聞』11月2日「ことばの周辺」を付して占領下日本の『原子力』イメージ ーーヒロシマからフクシマへの助走」へ。10月沖縄大学地域研究所・日露歴史研究センター共催第6回ゾルゲ事件国際シンポジウムでの私の報告宮城與徳訪日の周辺ーー米国共産党日本人部の2つの顔」も、沖縄タイムス』10月23日号を付して情報学研究室へ。「国際歴史探偵 」活動の一環としてアップした私の論文亡命者佐野碩ーー震災後の東京からベルリン、モスクワへ」(桑野塾講演、The Art Times, No.3, October 2011)、及び福本イズムを大震災後に読み直す」(『「福本和夫著作集』完結記念の集い・報告集』こぶし書房、2011年10月)は、いずれも「関東大震災後」という社会的災禍・激変のなかで「福本イズム」がなぜ受け入れられていったのかを、福本和夫の理論の側からではなく、「復興」にあきたらず受容した若者たちの意識の側から解読しようとしたものです。また崎村茂樹の6つの謎に迫る『インテリジェンス』論文に続く第二弾『未来』10月号掲載「社会民主主義の国際連帯と生命力ーー1944年ストックホルムの記録から」も、第二次世界大戦中の「反ファシズム」を、より広い文脈で理解しようとする試みです。政治学研究」室に、「国家権力と情報戦――『党創立記念日』の神話学」(『情況』2006年6月号)の前篇なのに入れ忘れていた『党創立記念日』という神話加藤哲郎・伊藤晃・井上學編著『社会運動の昭和史――語られざる深層』白順社 、2006、所収)をアップ。やや専門的ですが、ご笑覧ください。瓜生洋一さん・安田浩さんの追悼文は、図書館に入れて永久保存します。

 学術論文データベ ース寄稿の常連宮内広利さんが、「貨幣・自由・身体性ーー想像の『段差』をめぐって」に続いて、「戦後大衆意識の成長と変貌ーー現在を映すカメラをさがしてで、3・11以後の思想状況に斬り込みましたのでアップ。中国研究の専門家矢吹晋さんとの対談が、矢吹晋・加藤哲郎・及川淳子『劉暁波と中国民主化の行方と題して、花伝社から本になっています。昨年秋の信州大学国際シンポジウムでの基調講演汕頭市(貴嶼村)の現状からみる 中国の経済発展と循環型社会構築への課題が、信州大学からブックレットになりましたので、アップロード。パソコン・携帯電話など「電子ゴミ」の地球的行方をNIMBY (Not in my backyard)の観点から追ったものですが、おそらく「核廃棄物」の将来にも、応用できるでしょう。ゾルゲ事件関係のファイルが増えてきたので、「情報学研究室カリキュラムに、情報学研究<専門課程2ーー世界史のなかのゾルゲ事件> を追加。ゾルゲ事件2010年墓前祭の講演記録新発掘資料から見たゾルゲ事件の実相(日露歴史研究センター『ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集』第28号、2011年1月)等が入っています。日本経済評論社の加藤哲郎・丹野清人編「21世紀への挑戦 7 民主主義・平和・地球政治」序論「情報戦の時代とソフト・パワーの政治の草稿段階での講演記録は、アメリカニズムと情報戦『葦牙』第36号、2010年7月)菅孝行・加藤哲郎・太田昌国・由井格「鼎談 佐野碩ーー一左翼演劇人の軌跡と遺訓(上)(下)」(『情況』2010年8・9月、10月)も、pdfで入れました。これまで「当研究室刊行物一覧」にありながら、ウェブ上では未公開だった体制変革と情報戦――社会民主党宣言から象徴天皇制まで」(岩波講座『「帝国」 日本の学知』第4巻『メディアのなかの「帝国」』岩波書店、2006年)、「戦争と革命ーーロシア、中国、ベトナムの革命と日本」(『岩波講座 アジア・ 太平洋戦争』第8巻『20世紀の中のアジア・太平洋戦争』i岩波書店、200 6年)、「<天皇制民主主義>論」(松村高夫・高草木光 一編『連続講義 東アジア 日本が問われていること』岩波書店、2007年3 月)、「グローバル・デモクラシーの可能性ーー世界社会フォーラムと『差異の解放』『対等の連鎖』」(加藤哲郎・国廣敏文編『グローバル化時代の政治学』法律文化社、2008年3月、所収)なども、本サイト研究室に収録されています。早稲田大学大学院政治学研究科の新学期に私の開講する大学院講義・ゼミ関係は、早稲田大学ホームページからアクセス願います。

 
「原子力の平和利用」の夢から醒めて、今こそ「世界の核廃絶運動」の先頭へ!

2011.12.1  日本沈没がとまりません。世界全体でも、アメリカ経済もヨーロッパ金融危機も中東革命も出口は見えませんが、日本の場合は、政治の機能不全が深刻です。海外から見れば、ますますそうでしょう。今週の英語での日本関係ニュース・ポータル News on Japan の見出し、とても恥ずかしくて日本語にはできません。そのまま列挙。"Japan defence official sacked for Okinawa 'rape' slur","Radioactive cesium hotspot detected near Tokyo"、"Japan Olympic judo champ fired for sex harassment"、"Yakuza end up with 35 million yen in disaster aid"、"Japan 'gangster son' Toru Hashimoto wins Osaka ballot"、"Japan's Unsustainable Debt Burden: Playing With Fire"、"Ex-Tokyo Performance Doll member Chizuru Tanaka arrested for stimulant drug use"、"More cesium found in rice harvested in Fukushima in Japan"、"Japan to apologise to female NZ war prisoner"ーー原発・放射能関係のニュースも交じって、とうてい日本が「安全な国」には見えないでしょう。 防衛省沖縄防衛局長のオキナワ・レイプ暴言は特に深刻、沖縄県民へ、日本国民へ、世界の全女性に、民主党内閣は、どう責任を取るのでしょうか。国会で消費税増税論議がされている時に、ウェブ上には、「ふざけるな!玄葉外相 日帰り訪中に飛行機チャーター代1200万円」のニュースも。政治資金報告書では、民主党の収入が初めて自民党を上回り電力会社が、役員の個人献金や労働組合の献金として、3年間で少なくとも4億8000万円を政界に。そのうち1億2000万円は電力系労組から民主党へ流れたとか。これ、Wall Street Journalの記事です。

 こんな国の政府が、高速増殖炉「もんじゅ」を含む原発再稼働と、ヨルダン、ベトナムなどへの原発輸出再開に、踏み出そうとしています。事故から8か月たっての、東京電力の新たな発表。「1号機燃料85%超落下」、1号機は「相当量」、2、3号機は一部の溶融燃料が原子炉圧力容器から格納容器に落下したと推定。床面のコンクリートを1号機では最大65センチ浸食した可能性があるが、いずれも格納容器内にとどまっており、注水で冷却されている、とするもの。恐ろしいことです。核燃料の所在はまだ把握されておらず、人類にとって未知の領域を手探りで、いや手探りさえできずに、とりあえず地底に追いやり、地下水脈を汚染し、チャイナ・シンドロームの方へと流し込もうとしているのです。東京電力他電力会社から多額の寄付を受け、多くの「原子力村」関係者をうみだしてきた東京大学が、ようやくフクシマ原発事故を反省する「原子力工学の再考」シンポジウムを開きました。日本原子力学会会長が「教育者はどうあるべきでしょうか」と評論家・柳田邦男さんに質問したとか。まずは「何を教育してきたか」を、自省すべきでしょう。

 日本の科学史研究を率いてきた、伊東俊太郎・東大名誉教授が、目立たぬかたちで、「『原発』よ、さらば」を、岩波書店のPR誌『図書』12月号巻頭言に書いています。「原発が放射性(廃棄)物質を出し続けること」の科学史的意味を問い、「いま日本は、(核兵器を含めた)核廃絶運動で、世界の先頭に立つべきである」と提言しています。同じく「科学」を標榜しても、かつてチェルノブイリ事故3年後に、故高木仁三郎さんら「脱原発派」を「『脱原発』派は、現在の原発が危険だということから、将来にわたって原子力の平和利用を認めないことを原則的な立場にしています。……脱原発派は、核と人類は共存できない、原発はなくす以外にはない、ということを主張しています。われわれは、原子力の発展は人類の英知の所産だという立場です。人類は失敗を繰り返しながら、科学・技術を発展させてきました。同様にして、将来もまた、発展していくだろう、というのが、われわれの哲学、弁証法的唯物論の立場です」と批判し、「科学の進歩によって、必ず死の灰を無害にする技術か、再利用するなどの技術を、人類は見つけるに違いない」「放射性廃棄物をロケットに積んで太陽にぶちこむという方法もある」と夢見て(『月刊学習』1989年4月号)非核運動を分裂させ、いまなお「原子力の平和利用の夢」を「将来、2、3世紀後、新しい知見が出るかもしれない」(毎日新聞8月25日)と信じ続ける「科学的社会主義」を自負する政党よりは、はるかにいさぎよいものです。

こうした「原子力の平和利用の夢」の日本におけるルーツを、ようやくつきとめました。ちょうどコミンテルン日本支部=日本共産党が生まれる大正後期、1920年8月号のモダニズム雑誌『新青年』に掲載された、岩下孤舟「世界の最大秘密」でした。ウェブ上では、作者名がなく、『新青年』1巻7号と紹介されていましたが、図書館で調べると、7号ではなく8号でした。「引用恐るべし」で、私の10月早稲田大学20世紀メディア研究所公開研究会報告占領下日本の『原子力』イメージ ーーヒロシマからフクシマへの助走も7号としていましたが、ここに訂正しておきます。でも内容紹介は、ほぼ正確でした。「将に開かれんとする世界の最大秘密の扉」「原子力(アトムりょく)の本源と性質、蒸気力よりは何百倍」「日本に居て米国の市街を灰燼に帰せしめる力」「原子爆弾の威力は堂々たる大艦隊も木端微塵」「戦争と貧乏は無くなり、気候は随意に変化さる」「変らないものは恋愛だけ、疾病は駆逐され生命は延びる」と展開します。曰く、英国バーミンガム大学のアーネスト・ラザフオード教授は、「原子を分解する事に成功した。で、この事は、他の学者の最近の発見と相俟つて、或る『力(フォース)』を解放するに至つた。そして人間を殆ど神様と同様の物にするか、それとも人類文明なるものを粉微塵に破壊して終ふかも、実にこの『力』の掌中に握られてゐるのである。若し仮にこの『力』が実現されたら現代社会の最大難物である労働問題などは忽ちに解決され万人は悉く労働の苦痛から解放される。色んな税金なども不必要になる。泥棒や巡査はいなくなる。汽車も汽船もなくなる。戦争や疾病も無くなり、人間はもっと長命するやうになる」「『力』の偉大さは、実に驚くべきもので、一オンスの物質の中には、英国の艦隊を海底から世界最高の山頂まで持ち上げる『力』が含まれている」「恰も今日無電が大洋を越える事が出来るやうに、吾々は原子力を放つて、この大地を透過させ、地球の反対の面、例へば日本から云へば亜米利加の一市街を灰燼に帰せしめるやうな事が出来やう」「これが有益に使用された暁には、人類を塗炭の苦しみに陥るゝ彼の戦争なるものは、永久に不可能のものとなるに相違ない。何となればこの原子爆弾の威力に対しては、如何なる強国と雖も対抗できぬからである」。だからこそ、「夢」にも通じる。「原子力利用の専門家は、『原子的家庭(アトミックホーム)』と称してゐるが、そこでは鉄瓶の湯も、凡て原子力で沸かされる。主人や奥様の着物も亦、その力を借りて洗濯する。だから若しさうしたいと思つたら、毎日下着を代へる事が出来る。そこには雇人の問題などはない。何故なら、ボタンを一つ押しさえすれば、真空器か又は掃除機が自ら動いて、室内の塵芥は管から本管へ放出され、そしてそれは町の中央原子力塵芥駆除器で吸収されるのみならず、食物は同様の『力』で料理されるし、食器なども原子力で沸された湯で洗われ、熱気で乾かされるからである」「原子力が利用さるれば、嫌な仕事などは無くなるし、実際今日の所謂『仕事』などは無くなるのである」「以上は単にこの新しい『力』に依って革命されようと思われる数百の事柄から二三を引いたに止まる」「勿論労働問題などはなくなり『社会的不安』は一掃されて終ふ」。

以上に長く、岩下孤舟「世界の最大秘密」を引いたのは、この「原子力の平和利用の夢」が、「共産主義の夢」と、酷似しているからです。日本では両者ともにロシア革命と大正デモクラシーの時代に生まれ、時代の焦点である「労働問題」「社会的不安」の解決を「自然の征服」「溢れるばかりの生産力」に求めています。自然生態系の破壊や、自然に存在しない放射性物質の恐ろしさには、無知で無関心です。もちろんロシア革命指導者レーニンが「 共産主義とはソヴェト権力プラス全国の電化」と述べたように、「革命」のあり方は違ってきますが。同時代の宮澤賢治の「生徒諸君に寄せる」という詩の中に、「彼等は百の速力をもち われらは十の力を有たぬ 何がわれらをこの暗みから救ふのか あらゆる労れと悩みを燃やせ すべてのねがひの形を変へよ」「新たな詩人よ 嵐から雲から光から 新たな透明なエネルギーを得て 人と地球にとるべき形を暗示せよ 新たな時代のマルクスよ これらの盲目な衝動から動く世界を 素晴しく美しい構成に変へよ」という一文があり、解釈に悩んでいます。「新たな時代のマルクス」に課された「素晴らしく美しい構成」とはどんなデザインなのかと。賢治の一時代前の田中正造の言葉「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」の方が、東日本大震災復興の原理としては道標になるのではないかと。なにしろ、「あしでまといになるから、お墓にひなんします、ごめんなさい」という93歳老女の遺言が、ずっと引っ掛かって、頭の中で響いていますから。3・11以後に「夢」を見ること、語ること自体の意味も、問い直したいので。もっとも、宮澤賢治の詩の結びは、明快です。「科学はいまだに暗くわれらに自殺と自棄のみをしか保証せぬ、 誰が誰よりどうだとか  誰の仕事がどうしたとか  そんなことを云ってゐるひまがあるのか  さあわれわれは一つになって」と。12月10日専修大学での同時代史学会年次大会で、日本マルクス主義はなぜ「原子力」にあこがれたのか」と題して報告します。 


外交でも原発でも「いつかきた道」を繰り返さず!

2011.11.15   日曜日の米国『ニューヨーク・タイムズ』は、書評やエッセイが充実し、読み応えがあります。日曜版だけ購入するファンもいます。その"The New York Times" では、11月13日付日曜版に掲載されたのでしょう。12日Fukushima発Martin Fackler記者の福島第一原発視察報告Devastation at Japan Site, Seen Up Closeが、大きく写真入りで、ウェブ版に出ています。事故後8か月もたっているのに、現場はDevastation =荒廃・破滅そのものだ、と世界に報告しています。14日の英国BBC放送ニュースサイトは、Japan farm radioactive levels probedという、東日本のみならず日本全土の土壌のセシウム137汚染レベルの地図を掲載し、In the wake of the accident at Japan's Fukushima nuclear power plant, radioactive isotopes were blown over Japan and its coastal waters. Fears that agricultural land would be contaminated spurned research into whether Japanese vegetables and meat were safe to eat. と、日本の食糧の安全性を問題にしています。An early study suggested that harvests contained levels of radiation well under the safety limit for human consumption.と結んではいますが。New York TimesもBBCも、世界のエリート、アナリストが毎日目を通すメディアです。こんな国が、さらなる市場開放で、輸出を増やすことができるでしょうか。まずは福島原発事故原因を究明し、東電ほか「原子力村」の責任を明確にし空・海・地上での放射能汚染の広がりをくい止めることこそ、世界の疑惑と不安の眼に応えることではないでしょうか。

 BBCの放射性物質汚染マップは、本15日付『朝日新聞』掲載「福島原発の放射性物質、西日本にも 研究チーム解析」という記事で、「東京電力福島第一原発の事故で大気中に放出された放射性物質が、西日本や北海道にも拡散しているとの解析を日米欧の研究チームがまとめた。15日の米国科学アカデミー紀要電子版に発表する。文部科学省は長野・群馬県境で汚染の広がりはとどまったとの見解を示したが、以西でも「わずかだが沈着している可能性がある」と指摘した」という記事のもととなったデータと同じもののようです。しかし『朝日新聞』は、食糧汚染の可能性には触れていません。その日の『朝日新聞』1面トップは、日本の野田首相TPP参加意向表明で「TPP参加へ加速、各国、雪崩打ち表明」の大見出し。サブに「 本社世論調査 TPP賛成46% 反対28%」のTPP参加への誘導報道で、日本全土セシウム汚染地図は、その下に小さく出ています。「雪崩」を打ってTPP参加という「各国」とは、カナダとメキシコのこと。もともと北米自由貿易協定(NAFTA) で、アメリカ経済に深く組み込まれています。メキシコ農業は、米国アグリビジネスの支配下に再編されました。日本のTPP参加がどういう方向に向かうのかを、暗示しています。

 やはりというか、まだこの程度というか、野田佳彦首相の支持率が急落しています。9月発足時のご祝儀相場6割から、毎月1割づつ落として11月は4割、このまま行くと、来年早々には、早くも危険水域の3割割れです。「党内融和」「挙党一致」で選ばれたはずなのに、「強いリーダーシップ」「決断力」もあるぞと色目を使った途端に、与党内部からのTPP(Trans-Pacific Partnership、環太平洋戦略的経済連携協定)交渉参加への反対論、野党のほとんどと与党の半分が反対にまわったところで、決定を1日延ばすという姑息な迂回策。しかし結局、首相自身は何ら説明責任を果たさず、リーダーシップを発揮しないまま、予定通りのAPEC参加に合わせたTPP参加の意向表明。ところがハワイのAPECでは、アメリカが、待ってましたのボディーブロー、早速牛肉輸入規制の緩和、郵政優遇措置見直し自動車市場開放を事前協議の対象にあげました。日米首脳会談で、米ホワイトハウスは、会談後「首相が『すべての物品やサービスを貿易自由化交渉のテーブルに乗せる』と述べた」とし、オバマ大統領がこれを歓迎した、と発表。日本側は、国内向けに、首相が政府の「包括的経済連携に関する基本方針」を説明しただけだと訂正を申し入れましたが米国側は「発表を訂正する予定はないと素っ気ない返事。このプロセス、確か「いつかきた道」と振り返ってみたら、何のことはない、1989年の冷戦崩壊期、日本のバブル経済絶頂期に「日米構造協議」を受け入れ、それを引き継いだ「日米包括経済協議」、そして1994年から現在にいたる米国「年次改革要望書で、次々とアメリカの圧力に屈し、日本経済が「失われた20年」に突入し、脱出できずにいる、歴史そのものでした。もともとアメリカの貿易赤字解消のために始まったもので、今回TPPは、アメリカの国内産業保護・雇用創出・輸出拡大中国へ対抗する「名前を変えただけの年次改革要望書」「日本改造計画」です。なぜなら、今年2月、アメリカ大使館は『日米経済調和対話』(別名「年次改革要望書2.0」)を公表し、膨大な市場開放要求リストを、すでに提示しています。牛肉も郵政も自動車も、もちろん入っていました。農業関連はもちろん、保険や医薬品・医療機器、化粧品なども具体的に要求しています。これを、TPPでは、他国の力をも借りて、日本に押しつけようというわけです。この民主党内閣は、沖縄の普天間基地移転問題ばかりでなく、TPP問題でも、完全にアメリカの世界戦略に組み込まれ屈服しようとしています。

 「いつかきた道」は、TPPばかりではありません。ギリシャ国債からイタリア国債に飛び火し、両国の政権を交代させたヨーロッパ金融危機も、もとはといえば、アメリカのリーマン・ショックが火元でした。2008年9月のリーマン危機が、3年たってヨーロッパで火を噴いたかたちです。本サイトは幾度か書いてきましたが、1929年ニューヨークに発した世界経済恐慌の進行が想起されます。20世紀の1929年10月24日ニューヨーク株式市場の大暴落(暗黒の木曜日)が、ヨーロッパに広がって本格的な世界恐慌になったのは、1年半後の1931年5月11日、オーストリアの大銀行クレジットアンシュタルトの破産からでした。ただちにドイツ第2位の大銀行・ダナート銀行が倒産、7月13日ダナート銀行が閉鎖すると、ドイツの全銀行が8月5日まで閉鎖され、ドイツの金融危機となりました。アメリカは、フーヴァー・モラトリアム、失業者は急増し年末ハンガー行進、イギリスではマクドナルド挙国一致内閣が金本位制停止、フランス、オランダも恐慌になり、ドイツでは大量失業の中からナチスが台頭し、左右の激突を経て、33年1月ヒトラーが政権につきます。すでに農業恐慌下にあった日本は、9月に満州侵略を開始し、15年戦争に入りました。奇しくも2008年9月のリーマン・ショックから1年半後の2010年5月にギリシャ財政破綻が始まり、それから1年半後のイタリアは、さしずめ1932年秋のドイツです。「いつかきた道」をたどるとすれば、世界中で左右の対立が激化し、ナショナリズムが台頭・蔓延する流れです。もちろん国連・G20を含む国際組織・機構の増大、中国などアジア経済の台頭で、国際環境は、20世紀と大きく異なりますが。アメリカ経済の復旧は、第二次世界大戦での軍需によるものでした。

 ついでにもう一つ、「いつかきた道」を、おさらいしておきましょう。1954年の日本は、朝鮮戦争休戦から高度経済成長・保守合同55年体制出発への、インタールードでした。長く続いた吉田茂自由党内閣はすでに死に体で、2月23日造船疑獄発覚、4月に犬養健法相の指揮権発動で、佐藤栄作自由党幹事長が何とか逮捕をまねがれ、後に首相となります。その政局混乱のさなか、3月1日、米国のビキニ環礁水爆実験で、静岡県焼津市のマグロ漁船第5福竜丸ほか日本漁船が大量の放射線被ばくを受けます。ただしそれが「死の灰」とわかるのは、3月14日に第5福竜丸が焼津港に帰港してからです。その合間の3月2日の衆院予算委員会に、改進党の中曽根康弘らが、ウラン235をもじった2億3500万円の原子炉築造費を含む原子力予算を提案し、わずか3日の討論で、3月4日衆院本会議で可決されました。今日のFukushima Devastationへの直接の出発点となる、日本における「原子力の平和利用」の始まりです。当時「科学者の国会」である日本学術会議でも原子力研究再開が議論されており、4月23日の総会で、武谷三男の提唱に起源を持つ「公開・民主・自主」の3原則が採択されましたが、あとの祭りでした。当時の自主防衛ナショナリズムの青年将校中曽根康弘に言わせれば、「学者がボヤボヤしているから札束で学者のホッペタをひっぱたいてやった」政治主導の出発でした。後にこれは、前年53年12月の米国アイゼンハワー大統領国連演説「Atoms for Peace 」日本版と言われますが、正確ではありません。国会での提案趣旨説明には、「平和利用」どころか、最新の原子兵器を扱うための教育と訓練の必要、「新兵器や、現在製造の過程にある原子兵器をも理解し、またこれを使用する能力を持つことが先決問題である」と公言されていました。アメリカ自体、1月にダレス国務長官の大量報復戦略(ニュールック政策)発表、2月17日の大統領特別教書で核物質・核技術の2国間協定供与方式に転換していました。吉岡斉さん『新版 原子力の社会史』(朝日新聞出版、2011年)が、「日本の原子力開発を立ち上げるための決定的な一歩」とし、科学者たちや日本共産党の「3原則」に依拠した「あるべき姿からのズレ」から原発を批判する「3原則蹂躙史観」の無力を説くゆえんです。ここからCIA エージェント正力松太郎による『読売新聞』、日本テレビを動員した「平和利用」プロパガンダ、55年原子力基本法、56年原子力委員会発足、57年東海村原子炉完成・臨界まで、左右社会党統一、保守合同、鳩山内閣発足、日ソ国交回復など政治環境の変化はありますが、原発一直線です。

 他方、ビキニの第5福竜丸被ばく、死の灰」の恐怖は、日本の原水爆禁止運動の出発につながります。1954年3月27日の焼津市議会は、「第5福竜丸原爆被災事件に因る放射能の脅威を痛感し、恐怖する市民の意思を代表し、人類幸福のために左の事を要求する。一、原子力の兵器としての使用することの禁止、二、原子力の平和利用」を決議します。武谷三男の『だからこそ』の論理に似て、この出発点から「平和利用」是認が入っています(藤田祐幸『隠して核武装する日本』影書房、2007年)。反対運動も、すぐに盛り上がったわけではありません。「水爆マグロ」騒動を背景に、杉並区の主婦・婦人団体を中心とした原水爆禁止署名運動は5月7日「杉並アピール」から始まり、8月8日広島での大内兵衛・賀川豊彦・羽仁もと子・湯川秀樹ら呼びかけの「原水爆禁止署名運動全国協議会」結成までに449万署名、9月23日第5福竜丸無線長久保山愛吉さんの被ばく死で一挙に署名は広がり12月2000万人突破、55年8月第一回原水爆禁止世界大会発足時に3286万署名です。ただし、この流れを詳細に追った最新の労作、丸浜江里子『原水禁署名運動の誕生』(凱風社、2011年)を読んでも、「原子力の平和利用」は出てきません。それどころか、かつて森滝市朗『核絶対否定へのあゆみ』(渓水社、1994年)が深刻に自己切開し、今日田中利幸さんらが論じているように、原水禁運動も被爆者運動も「原子力の平和利用」を「軍事利用」の代替案として受け入れ、56年8月10日被団協(日本原水爆被害者団体協議会)結成宣言にさえ、「人類は私たちの犠牲と苦難をまたふたたび繰り返してはなりません。破壊と死滅の方向に行くおそれのある原子力を決定的に人類の幸福と繁栄との方向に向わせるということこそが、私たちの生きる限りの唯一の願いであります」とうたわれるのです。なぜでしょうか? 

 私の10月早稲田大学20世紀メディア研究所公開研究会報告占領下日本の『原子力』イメージ ーーヒロシマからフクシマへの助走は、その背景に、「ヒロシマ・ナガサキ原爆体験の民衆的受容の仕方」の問題を見いだしたものです。幸い好評で、『東京新聞』10月25日「メディア観望」、『毎日新聞』11月2日「ことばの周辺」でも、大きく取り上げられました。もう一つの側面は、12月10日専修大学での同時代史学会年次大会で、日本マルクス主義はなぜ「原子力」にあこがれたのか」と題して報告する予定です。ここでの「いつかきた道」とは、日本における原発導入と原水禁運動の不幸な同時出発、それ自体ではありません。3・11の衝撃から4月の「原発やめろデモ」、反原発アクションの盛り上がり、9・19日東京「さようなら原発」6万人集会・デモにいたる流れが、民主党政権の無策が「原子力村」の復活を許し、原発再稼働から原発輸出まで始まろうとしている現局面における、「これから」の脱原発運動の課題とテンポです。政治の争点自体が、マスコミの世論誘導・操作もあり、脱原発それ自体から放射能汚染に移ってきています。こどもたちを放射線から守ろうとする女性たちのネットワーク運動は盛り上がり、全国各地で多様な運動・学習会が開かれています。11月23日には、上野千鶴子さん、田中優子さんらがよびかけ、吉永小百合さん、竹下景子さんらを賛同人とする「脱原発をめざす女たちの会が、正式に発足します。脱原発の「なでしこジャパン」です。9・19「さようなら原発6万人集会」の流れは、次の節目を、12月10日の日比谷野音集会来年2月11日の代々木公園アクション、3月24日1000万人署名総括集会(日比谷野音)に設定しています。ドイツやイタリアの動きからするともどかしいですが、日本政治の鈍い動きからしても、おそらく2012年こそが、戦後日本のあり方をどう見直すか、ヒロシマ・フクシマ体験を踏まえて原発をどうするかの分岐点になるでしょう。1954年3月から55年の動きをじっくり学び、20世紀の日本を大きく回顧しながら、「いつかきた道」ではない、新しい道を踏み出したいものです。


「原子力時代=成長」ではなく「放射能汚染時代=小国化」から歴史を見ると…

昨日、地球人口は70億人をこえました。1950年に25億人、1999年でも60億人でしたから、21世紀に急速に増えています。中国が13億、インドが12億で、両国で3分の1以上の比率です。日本は現在1億2535万人で各国別第10位ですが、すでに2006年から減少に転じていますから21世紀の世界の中で、相対的な小国化は避けられません。経済力ではなおGDP世界第3位ですが、生産力の基礎である労働力の減少は、不可避です。このような趨勢は、すでに21世紀に入る時には、はっきりしていました。ですから小渕内閣時の2000年1月、「21世紀日本の構想」懇談会最終報告書「日本のフロンティアは日本の中にある」は、外国人労働者の積極的受け入れや英語教育の抜本的強化で「グローバリゼーション」に対処すると述べていました。その第3章「安心とうるおいのある生活」には、「科学技術は、本来人間が産み出し、人間が利用し管理するものであるはずなのに、効率・進歩を至上とする一元的な価値観のもとでは、それが自己増殖していき人間が管理しきれないのではないかという不安さえ抱かせている。生命操作、原子力などにその感がある」とも書かれていました。しかしこうした答申の常として、英語版・中国語版・朝鮮語版が今でも首相官邸ホームページに入っている21世紀構想は、時の政権に都合のよい部分がつまみ食いされるだけで、政治の指針にも政策の基礎にもなりませんでした。2001年9・11と2008年リーマンショックで国際環境が大きく変わり、20世紀末に「安全・安心への不安」が一応語られていた「原子力」は、2011年3月11日の東日本大地震・大津波に際して、「自己増殖していき人間が管理しきれない」本性を悪魔的に発現し、福島第一原発の世界史的事故を引きおこし、放射性物質を陸地にも空にも海にも、まき散らしてしまったのです。日本の「小国化」は、人口だけではありません。経済力でも地球環境・生態系との関連でも、どのような社会と国家をつくるのかが、地球全体から改めて問われているのです。

 東北地方は、まもなく厳しい冬です。ようやく入居できた仮設住宅には、暖かい毛布もお年寄りも使える暖房も、用意されていなかったようです。震災を直接経験しなかった私たちには、想像力を必要とします。故郷岩手で、大船渡や陸前高田の惨状を見てきましたが、それはあくまで東京に住まいのある旅人としてのもの。たとえばウェブ上の、「日本では放送できない 報道できない 震災の裏側」、Metisの「人間失格」をBGMに流れる映像で、夏の海外滞在中は、その1「風化してはいけない出来事」とその2「忘れてはいけない日」を、ほぼ毎日聞いていました。久しぶりでアクセスしたら、その3「生きる、希望version」も見つかりました。そして、すでに毎日新聞HPからは読めなくなっていますが、7月9日同紙1面トップの福島県南相馬市93歳女性の遺した言葉ーー「またひなんするやうになったら老人はあしでまといになるから 毎日原発のことばかりでいきたここちしません こうするよりしかたありません さようなら 私はお墓にひなんします ごめんなさい」。「平和と民主主義」の重要性を若者に説きながら、政治を変えることのできなかった、政治学者の無力を痛感します。そんな「戦後民主主義」の、フクシマに帰結する原発・原子力エネルギー問題での誤りのルーツを探っていくと、1945年8月ヒロシマ・ナガサキ原爆の受容の仕方の問題にまで、行き着かざるをえませんでした。その中間報告、10月15日の早稲田大学20世紀メディア研究所公開研究会報告占領下日本の『原子力』イメージ ーーヒロシマからフクシマへの助走には、多くの研究者・メディア関係者の方々も出席してくれました。『東京新聞』10月25日「メディア観望」、『毎日新聞』11月2日「ことばの周辺」でも、取り上げられました。『朝日新聞』は10月から夕刊で「原発とメディア 『平和利用』への道」を連載しはじめ、NHKは9月に「原発事故への道程」前・後編で、戦後原子力研究再開を主導した茅誠司・伏見康治ら核物理学者に焦点を当てました。研究の素材としては有意義ですが、私の観点からすると、不十分なものです。『朝日新聞』の場合日米戦争開戦時1941年11月から、朝日新聞社が科学朝日』という雑誌を刊行し、2000年12月まで出ていました。戦時中は「無人兵器の続出 使用方法に三種類」「"V2号" ついに飛ぶ 速度は音速の九割か」「威力は野戦重砲級 ロケット砲弾の将来」といった軍事技術情報だったそうです。それが1945年8月ヒロシマ・ナガサキと敗戦を経験すると、今回ウェブ版「占領下日本の『原子力』イメージ 」で増補したように、45年9月1日号「原子エネルギーの利用:平和再建のために」、同11月号「原子爆弾の副産物」「原子機関車登場か」と、ほとんど戦時中と同じ視点で、「原爆の威力」と「原子力の平和利用」を報道し続けるのです。

 NHK「原発事故への道程」については、「ちきゅう座」に、諸留能興さん「問われる科学者の責任 「NHK特集シリーズ 原発事故への道程(前編)『置き去りにされた慎重論』」という批判的コメントが出ています。茅誠司・伏見康治から湯川秀樹にいたる核物理学者の責任を問題にする点ではほとんど同感です。ただし、こうしたメイン・ストリームに武谷三男を対置し、そこに「もうひとつの道」を見いだすことには、賛成できません。武谷の「原子力を戦争のため、破滅のために使用せず、平和的に、人類の幸福のために使用することであれば、大いに歓迎しなければならない」という言説(『戦争と科学』理論社、1953年、『武谷三男著作集』第3巻、149頁)の背後には、「原子爆弾はその最初から反ファッショ科学としての性格を持っていた」「この原子力の解放にあるものは、この社会形態の下における人間と自然との関係において、客観的な自然の法則性に対する確固たる自信と、ち密なるその検討と、そして膨大にして組織的で意識的なその適用にほかならない」とする「原子力時代」という歴史認識がありました(『日本評論』1947年10月号、『著作集』第1巻、211・214頁)。この「原子力時代」は、武谷にとっては徐々に「見果てぬ夢」になり、50年代後半に実際に始まった原子力研究・原発政策を、まだ「原水爆時代」だから未成熟だと規定し、茅・伏見・湯川らにも認めさせた「自主・民主・公開」3原則『だからこそ』の論理、「安全性の考え方」等々の「現実に存在する原子力」への批判を展開しました。しかしそれは、高木仁三郎・小出裕章ら武谷に続く世代の「原子力そのものの問題性」認識とは異なるものではなかったか、ここでも問題は「原発」以前の「原爆」観にあったのではないか、と問題提起しておきます。もっとも、この核物理学者たちの世界における政治は、なお手探りで研究を始めたばかりです。9月・10月のトップで用い、早稲田での『原子力』報告でも扱ったトマス・パワーズ『なぜ、ナチスは原爆製造に失敗したかーー連合国が最も恐れた男・天才ハイゼンベルグの闘い』(福武文庫、1995年)の、ドイツの物理学者ハイゼンベルグの善意=「ヒットラーに抵抗して原爆開発をサボタージュ」「原子炉は将来の平和利用のため」説は、冷戦崩壊後の世界の科学史研究では成り立たなくなった、実際にはハイゼンベルグらは乏しい資源・予算のもとで原爆開発をめざしていたというご指摘を、専門家の方からいただきました。新たな典拠とされるMark Walker, Nazi-Science:Myth,Truth,and the German Atomic Bomb, Perseus 1995, などを読むと、どうやら「サボタージュ」説は、戦後もハイゼンベルグが戦時原爆開発について沈黙し続けたことから生まれた「神話」のようです。日本でも、仁科芳雄・嵯峨根遼吉はもちろんのこと、湯川秀樹・朝永振一郎・武谷三男ら戦時原爆開発に携わった核物理学者たちが、ほとんどは沈黙し、そのまま戦後の「平和利用」の旗手になりました。問題は、「科学の戦争動員」「科学者の戦争責任」、武藤一羊さんのいう『潜在的核保有と戦後国家』(社会評論社、新刊)につながりそうです。

 前回、10月22日沖縄大学地域研究所・日露歴史研究センター共催第6回ゾルゲ事件国際シンポジウムゾルゲ事件と宮城與徳を巡る人々での私の報告宮城與徳訪日の周辺ーー米国共産党日本人部の2つの顔」をアップして、沖縄に行きました。この報告も幸い好評で、『沖縄タイムス』10月23日号に写真入りで報道されました。その頃沖縄には、政府高官が相次いできていました。米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設を「日米合意」として押しつけるための、「説得」活動です。沖縄県知事も名護市長も県内移設に反対しているのに、「沖縄振興策」予算をぶら下げて「民意」を転換させようという、米国国防長官来日に合わせたパフォーマンスです。基地経済をビルトインせざるをえなかった沖縄を見ると、東北・北陸の過疎地に補助金をばらまいて原発を増殖させた「原子力村」のやり方が、よくわかります。「ヒロシマ、オキナワ、フクシマ」を通貫するものを、地元の評論誌『けーし風が特集しています。時の政権に裏切られ、翻弄され、その不作為で被害を拡大してきたのも共通しますが、2004年8月、沖縄国際大学米軍ヘリコプター墜落事件の現場を見、話を聞いて、よくわかりました。小出裕章さんが沖縄での講演で述べていましたが、墜落したヘリコプターには、ストロンチウム90を含む検査装置が積まれていました。それ故米軍は事故現場をただちに立ち入り禁止にし、防護服をきた兵士が放射能をチェックし、機体もろとも証拠物件を現場から持ち去り、いっさい情報を公開しなかったのです。つまり沖縄は、返還時の密約による核兵器の持ち込み・貯蔵によってばかりでなく、放射性物質を積み込んだ航空機やヘリコプターによっても、日々被曝の危険にさらされていました。「ヒロシマ、オキナワ、フクシマ」は、いまや日本全国に広がった放射能の汚染度が局地的にも高く、ヒバクシャ・潜在的ヒバクシャを多数産み出してきたという意味で、つながっていたのです。『けーし風第71号の特集「放射能汚染時代に向き合う」には、福島から沖縄に避難してきて、基地の問題に直面した家族の話も載っています。小出裕章さんがたびたび述べているように、原子力発電の基本的しくみは、石炭や石油の代わりに原子力で水を熱しタービンを回すもので、蒸気機関の延長上にありました。占領期に夢見た「第2の産業革命」でも「太陽の火」でもありませんでした。武谷三男のいう「原子力時代」という時代認識自体、人類にとって危機的な「核時代」の一部でした。「原水爆時代から原子力時代へ」(武谷「『原子力時代』への考え方」『エコノミスト』1955年9月、『武谷三男現代論集』1)ではなく、「原水爆時代から放射能汚染時代へ」と特徴づけることこそ、警世の物理学者・武谷三男のなすべきことだったのではないでしょうか。

 その意味で、日本の社会運動の見方も、考え直さなければならないでしょう。もともとビキニ水爆実験の放射能被害から出発した原水爆禁止運動が、当初から「原子力の平和利用」には警戒心がなく取り込まれていった根拠を探るのが、私の占領下の原子力イメージ見直しのモチーフの一つでした。実際「原水爆禁止」に特化した運動は、「社会主義の核」をめぐる党派的イデオロギーに巻き込まれ、分裂していきました。「反原発運動」は、原水禁運動とは離れた住民運動・市民運動・環境運動の流れから生まれ、展開してきました。3・11を体験することにより、その二つの流れが合流し、9月19日には、東京で「さようなら原発」6万人集会・デモもありました。それを支え、その後も持続し広がっているのは、こどもたちを放射線から守ろうとする女性たちのネットワーク運動です。そこに「脱原発」運動の弱化を見る見方も可能です。何しろ「原子力村」は、停止中の原発再稼働を着々と準備し、政府は「社会主義」ベトナムへの原発輸出さえ進めようとしているのですから。しかし「放射能汚染」を原爆・原発を貫く「反核」の中核的論点におくと、その「トイレなきマンション」の廃棄物処理問題を含めて、原子力エネルギーに不可避的に伴う放射線被害の認識が広がっています。いのちを守り育てる原点から、女性たちのローカルな運動が全国に現れ、除染と補償を求めつつ行政に頼らず、身の回りの土壌・空気・食品の放射線量を調べ、情報を交流しはじめた事態は、むしろ運動の深化・拡大、本来の「反核運動」の始まりとも見ることができます。脱原発を果たしたドイツやイタリア、中東革命や アメリカのOWS運動に比すると、事態はなお初歩的・流動的で、もどかしくもなりますが、それは、この国の「戦後民主主義」の限界を事実として乗り越えようとする「産みの苦しみ」として、見守るべきなのかもしれません。「国際歴史探偵 」活動の一環として、今回アップする私の論文亡命者佐野碩ーー震災後の東京からベルリン、モスクワへ」(桑野塾講演、The Art Times, No.3, October 2011)、及び福本イズムを大震災後に読み直す」(『「福本和夫著作集』完結記念の集い・報告集』こぶし書房、2011年10月)は、いずれも「関東大震災後」という社会的災禍・激変のなかで「福本イズム」がなぜ受け入れられていったのかを、福本和夫の理論の側からではなく、「復興」にあきたらず受容した若者たちの意識の側から解読しようとしたものです。また崎村茂樹の6つの謎に迫る『インテリジェンス』論文に続く第二弾『未来』10月号掲載「社会民主主義の国際連帯と生命力ーー1944年ストックホルムの記録から」も、第二次世界大戦中の「反ファシズム」を、より広い文脈で理解しようとする試みです。政治学研究」室に、「国家権力と情報戦――『党創立記念日』の神話学」(『情況』2006年6月号)の前篇なのに入れ忘れていた『党創立記念日』という神話加藤哲郎・伊藤晃・井上學編著『社会運動の昭和史――語られざる深層』白順社 、2006、所収)をアップ。やや専門的ですが、ご笑覧ください。前回トップで述べた、瓜生洋一さん・安田浩さんの追悼文は、図書館に入れて永久保存します。 


放射能汚染大国、「原爆から原発へ」の歴史的ルーツをたどると…

2011. 10.15  パリではギリシャ国債破綻から世界金融恐慌への危機回避のためのG20、ニューヨークに始まった反格差の99パーセント市民デモは80カ国、千以上の都市へ拡大。そうした世界の流れをよそに、日本は、後戻りできない放射能汚染大国化。新潟県北部でも、東京奥多摩でも、信州軽井沢でも、高い放射性セシウムが検出されています。都心東京世田谷のホットスポットはどうやらフクシマ起源ではないようですが、横浜のマンションでのストロンチウムは、3・11がらみでしょう。「福島」の名も見える大量のがれきが太平洋上を漂流中で、米国でのプルトニウム、ウランが過去20年間で最大値という報も。群馬大早川由起夫さんのつくった放射能汚染地図、最新第4改定版を見ると、なるほどと納得できます。アメリカで公開されたFukushima第一原発の事故後の鮮明な写真を見れば、日本政府のいう「冷温停止」とは裏腹に、つい最近も1号機・2号機の配管で高濃度水素がたまった配管がみつかっていますから、現在でも放射性物質を空に海に放出しているであろうことがわかります。3月の汚染ルートもわかってきましたから、スイスの気象台が教えてくれるFukushimaからの雲の流れをチェックし、日本政府の規制値や食品安全基準に頼るのではなく、特に小さなこどもたちのいる家庭では、いのちをどうやって守るのかを、自分たちで考えなければなりません。泉谷しげるさんが怒っているように、緊急避難区域を解除より先に、行政や医療の体制が整備され、なにより除染がなされていなければなりません。理不尽なことです。あいかわらず政治の世界では、不条理が条理に、非日常が日常にされ、冬の電力不足を名目に、原発再稼働がめざされています。

 夏休みのアメリカ、ヨーロッパの旅のあいだに、二人の親しい友人を失いました。一人は、大東文化大学政治学の瓜生洋一さん、『銅版画フランス革命史』(読売新聞社、1989年)、『フランス革命年代記』(日本評論社、1989年)の翻訳など、フランス革命を画像・表象や手旗信号機をも用いて研究するユニークな政治学者でした。1985年パリの世界政治学会に一緒に参加するずっと前から、多くを教えられてきました。パリでの1789年革命のニュースがフランス山間部の村に伝わるまで数ヶ月かかったという瓜生さんの話にヒントを得て、レニングラードでの1917年ロシア革命のニュースがシベリア奥地にどう伝わったかを調べてみたら、なんと数年かかったという記録がでてきました。どちらも「都(みやこ)では王様がかわったそうだ」という話で、「革命の想像力」の刷新に使わせてもらいました。2011年8月9日、ご家族に見守られて、永眠されました。実は私にMacを薦めてくれた先輩で、IT技術の師でもありました。東京外語大学留学生センターの外国人留学生用教科書『日本の政治』(1992年初版)を一緒に書いたのも、なつかしい思い出です。本サイト「リンク集」で「歴史家のためのパリ案内」を紹介してきた、政治学研究の先駆的ウェブサイト「URIU YOICHI's Laboratory」、ブログ「樹々のざわめき」は、お子さんたちの手で再建され、瓜生さんのお仕事を永遠に伝えるものになりました。心からご冥福をお祈りします。

もう一人、千葉大学歴史学の安田浩さん、長い闘病生活でしたが、9月10日に、ついに力尽きて亡くなりました。私は大学卒業後の研究会仲間でしたが、高校時代からの親友渡辺治さんが協力して仕上げた遺著『近代天皇制国家の歴史的位置ーー普遍性と特殊性を読みとく視座』(大月書店)が、ヨーロッパ旅行から帰ったら立派に仕上がり届いていました。最終校正はベッドの上で間に合ったとのこと、「この本が、多くの若い読者の手に渡り、何らかのヒントになれば」と結ばれています。残念無念ですが、本望だったでしょう。書かれた書物は『大正デモクラシー史論』(校倉書房、1994年)、『天皇の政治史』(青木書店、1998年)と歴史学の王道を行く重厚でオーソドックスな仕事でしたが、そのふところは深く、私が1998年に安田さんの本拠地である歴史学研究会の総会報告を頼まれ、「戦後日本と『アメリカの影』」を、「戦後歴史学」の脱構築を意識し、体位計測と体型変化というちょっとひねくれた視角で展開したところ、すぐに飛んできて「加藤らしくてよかった」と励ましてくれたのが、安田さんでした。留学生の皆さんが慕うように、学問的には厳しいが、暖かい人でした。本HP7月15日トップで、3・11フクシマを踏まえ、「戦後民主主義」を支えた「平和」意識に内在する(1)アジアへの戦争責任・加害者認識の欠如、(2)経済成長に従属した「紛争巻き込まれ拒否意識」、(3)沖縄の忘却、(4)現存社会主義への「平和勢力」幻想の「4つの問題点」に加え、(5)核戦争反対と核エネルギー利用を使い分ける二枚舌の「平和」、を歴史的に検討すると宣言しましたが、実はその「4つの問題点」は、『歴史学研究』2002年11月号に書いたように、今はウェブでも一部が読める安田浩さん「戦後平和運動の特質と当面する課題」(渡辺・後藤編『現代日本』第2巻、大月書店、1997年)を、下敷きにしたものでした。瓜生さん、安田さん、本当にお世話になりました。安らかにお休みください。合掌!

瓜生さんの訃報はアメリカ滞在中、9月はヨーロッパ4か国で、安田さんの葬儀にも出られませんでした。そしてドイツでは、本年1月7日に亡くなった親友 Dr. Jasim Uddin Ahmedの墓参に、ボンでの研究の合間を縫って行ってきました。イスラム教徒ですが、公営墓地の一角にムスリム専用の墓地があり、そこに花で囲まれて、わが友ヤシムは眠っていました。案内してくれたカローラ夫人の話では、タタミ1畳大の区画では、どのような宗教的儀礼も可能で、彼の好きだった盆栽を植えることもできるとのこと。日本式に墓標に水を遣って、白いバラの花を捧げてきました。そこからベルリン、ストックホルム、ヘルシンキと周り、月末までロンドンで英国国立公文書館通いでしたから、「学術論文データベ ース」の常連宮内広利さんが、「貨幣・自由・身体性ーー想像の『段差』をめぐって」に続いて寄せてくれた、3・11以後日本の思潮を解く力作「戦後大衆意識の成長と変貌ーー現在を映すカメラをさがして」のアップロードが、前回更新に間に合いませんでした。今回からアップします。そのうえ10月に入ったら、新学期に原稿締め切り・企画・講演が目白押し、本日10月15日(土)は、早稲田大学20世紀メディア研究所第63回研究会で、「占領下日本の「原子力」イメージ ーーヒロシマからフクシマへの助走の報告です。午後2時30分から、早稲田大学1号館401教室で、「日本原発の父」正力松太郎とCIAの関係を暴いた同僚有馬哲夫さんも、「広島原発と沖縄原発」について報告します。資料代500円ですが、一般公開されますので、ぜひどうぞ。そこで今回更新は、本日報告する「占領下日本の「原子力」イメージ ーーヒロシマからフクシマへの助走の出席者に配布するレジメを、カレッジ日誌に収録された4月1日以降の本HPトップの記述をもとに加筆し、論文調でつくりましたので、それを以下に掲載することで1950年までの日本原子力イメージ史総集編としてみます。ただし報告レジメですので、いつものリンクはありません。配布資料の量的データは、pdfファイルでアクセスしてもらうかたちにします。早稲田の会場での報告では、これらを前提に、データ・写真入りパワーポイント原稿で行い、ここにはそれにもとづく若干の加筆分を掲載します。

 なお、原発とは別に、現在発売中の雑誌『未来』10月号に、前回日本原爆開発がらみで詳論した崎村茂樹についての最新論文「社会民主主義の国際連帯と生命力ーー1944年ストックホルムの記録から」が掲載されています。未来社のPR誌ですので、大学生協や社会科学系書店で簡単にお求めできるはずです。11月号が出たら、本サイトにpdfファイルで入れます。また全く別テーマですが、来週10月22日(土)は、沖縄で沖縄大学地域研究所・日露歴史研究センター共催第6回ゾルゲ事件国際シンポジウムゾルゲ事件と宮城與徳を巡る人々が、沖縄大学土曜教養講座を兼ねて開催されます。沖縄大学3号館101教室(那覇市字国場555番地)で朝10時から17時半、久保田誠一さん、楊国光さん(中国)、白井久也さん、エレーナ・カタソノワさん(ロシア)、比屋根照夫さんと共に、私も宮城與徳訪日の周辺ーー米国共産党日本人部の2つの顔」と題する報告を行います。こちらも当日配布のレジメ集に8月訪米前に原稿を出していますから、当日参加の方の予備知識のために、また沖縄まで行かれないがゾルゲ事件に関心がある方々のために、pdfファイルで入れておきます。ご笑覧を。 


2011.10.15  20世紀メディア研究所第63回公開研究会報告レジメ

占領下日本の「原子力」イメージーーヒロシマからフクシマへの助走  

                                       加藤 哲郎

 

1 私の問題意識ーー3.11以後の「ネチズンカレッジ」から

3月はメキシコ、アメリカ滞在で、月末帰国しました。3月11日の金曜日の悲劇は、メキシコ大学院大学での連続講義の2回目が終わった後、東京からの「大丈夫」という家族の携帯メールで知りました。私の生まれ故郷は岩手県盛岡、中学時代を過ごしたのは岩手県大船渡市、かつて共に学んだ多くの友人・知人が被災しました。世界中の人々が、日本に同情し、共感し、心から支援の手をさしのべました。レスキュー隊の派遣も、数十か国に及びました。

 March 11で日本の受けた「天災」地震・津波の被害・被災には、世界の同情・共感が集まりましたが、日本の直面した第3の災禍、福島第一原子力発電所の原発震災には、世界の人々が、疑いの目を向けました。今回の福島原発事故を、私は「戦後日米情報戦の一帰結」と見なします。大江健三郎の言葉を使えば、「ビキニ事件を端緒に、じつに短い期間で核実験反対の世論が原水爆禁止運動を盛り上がらせたが、同時に、日本はアメリカから原子炉、濃縮ウランを導入して、原発をつくるにいたった経緯」、その歴史的根拠が問題です。

2 「唯一の被爆国」でなぜ「ヒロシマからフクシマ へ」の悲劇が再現したのか?

●3月11日以来、世界から見える日本の光景は、大きく変わりました。人類史上まれにみる大地震と大津波で東日本が壊滅的被害を受けた国、自動車や電気製品の部品工場が被災し世界のメーカーの生産ラインをとめた国。ベトナムほか世界に輸出しようとしていた原発が、福島でチェルノブイリに匹敵する巨大なメルトダウン事故を起こし、いまだに核燃料を制御できず、放射能汚染を広げている国。「技術大国」の神話は、崩壊しました。その事故に際して、メルトダウンの事実を長く認めず、基本データの発表数値がいくども変更され、放射性物質を含む汚染水を近隣諸国に無断で海に流すという、日本政府と東京電力(TEPCO)の情報隠蔽に、唖然とさせられました。 

 そうした政府と「原子力村」公認情報を一方的に流すのみで、まともな真相究明も原発政策批判もできなかったジャーナリズム不在のマスコミ。世界一の発行部数を持つ大新聞と、長時間視聴を誇ってきた日本のテレビのあり方も、地に墜ちました。奥田博子『原爆の記憶』(慶應義塾大学出版会、2010) が詳論したように、そもそも「唯一の被爆国」自体神話なのであり、「ヒロシマからフクシマへ」を考えるさいには、高木仁三郎らに詳しい「原発安全神話」と共に、さまざまな「原爆神話」も再考すべきです。

3 プランゲ文庫に見る占領期「原子力」報道から

●朝日新聞が、シリーズ「原発国家」「原爆と原発」「核の時代を生きて」と、日本人と原子力の関わりの、歴史的検討を始めました。結構なことです。7月31日の「1984年に外務省、原発への攻撃を極秘に予測、全電源喪失も想定」という記事も、ジャーナリズムの信用回復に資するものです。でも、これらを読んでも、すっきり胸に落ちません。何かが欠けています。それは、自己分析の欠如です。1955年のライバル読売新聞社主正力松太郎がCIAとも結んだ「原子力の平和利用」キャンペーンは取り上げられましたが、その1955年「新聞週間」の標語は、「新聞は世界平和の原子力」だったのです。「原爆から原発へ」を批判的に論じるのなら、そうした時代背景を、自らの反省に引きつけて検証すべきでしょう。

 たとえば朝日新聞は、1946年1月22日社説で「原子力時代の形成」を、47年9月10日社説で「原子力の平和利用」を主張しています。48年2月29日の記事では「原子力に平和の用途」を掲載してきました。しかしこれは、別に朝日新聞だけのものではありません。「唯一の被爆国」日本の核意識・核イメージの初発におけるボタンのかけ違い、「原爆」そのものの受け止め方の問題と関わっています。以下、私も属す 20世紀メディア研究所の占領期新聞雑誌情報データベース「プランゲ文庫」を手掛かりに、現在進行形の研究の一部を公開しておきます。この機会に、ヒロシマ・ナガサキの悲劇がいかに忘れられていったか、1945年8月体験の「非日常の日常化」のメカニズムを見ておくことも、意味あると思われるからです。

● 原爆被害・被ばくについての報道の検閲については、モニカ・ブラウ『検閲 1945‐1949:禁じられた原爆報道』(時事通信社、1988)、堀部清子『原爆 表現と検閲ーー日本人はどう対応したか』 (朝日選書、1995)、笹本征男『米軍占領下の原爆調査:原爆加害国になった日本』(新幹社、1995)、高橋博子『封印されたヒロシマ・ナガサキーー米核実験と民間防衛計画』(凱風社、2008)、繁沢敦子『原爆と検閲:アメリカ人記者たちが見た広島・長崎』(中公新書、2010)など、多くの研究があります。

 ただ、その反面、実際に検閲された、検閲をくぐって報道された記事や論説についての研究は、そう多くはありません。これは、プランゲ文庫占領期新聞雑誌データベースを持つ20世紀メディア研究所の独壇場で、中川正美「原爆報道と検閲」(『インテリジェンス』3号、2003)、御代川貴久夫「占領期における『原子力の平和利用』をめぐる言説」(山本武利編『占領期文化をひらく』早稲田大学出版部、2006,所収)、小野耕世「思い出の『原子力時代』」(『インテリジェンス』11号、2011)などを送り出してきました。

● 実はこの問題―――「原爆・検閲・原発」――での先駆的研究は、原爆体験を伝える会・編『原爆から原発までーー核セミナーの記録』上下(アグネ、1975年9月)、特にそこに収録された、袖井林二郎「原爆はいかに報道されたか」と岩垂弘「報道に見る原爆と原発」です。この1975年「核セミナー」は、今日から見ると先駆的な反原爆運動と反原発運動を架橋しようとする試みで、大江健三郎の記念講演「われわれにとって核とは何か」が「核爆弾によってもたらされる死」と「核のいわゆる平和利用によっておびやかされる生」の関係を明確に述べ、小田実のピンチヒッター小川岩雄「核問題の現況」も、「原子力の平和利用」を「潜在核能力」「核兵器の開発能力」とします。

 上巻が関寛治・栗原貞子以下「原爆」、下巻が星野芳郎・高木仁三郎以下「原発」となっているのは当時の状況を反映していますが、袖井報告は、1945年8月7日から9月21日GHQプレスコードまでの『ニューヨークタイムズ』と『朝日』『毎日』『読売』報道を比較し、当初の軍部検閲による「新型爆弾」が、ナガサキを報じる11日朝日、12日読売で「原子爆弾」になり、8月15日以降の「権力の真空地帯」では「原爆の報道が比較的自由に行われ」たといいます。例えば8月23日読売は「死傷19万を超ゆ、広島・長崎の原子爆弾の残虐」です。9月にマッカーサーが来日して、GHQが外国人特派員の広島・長崎取材を禁じますが、日本人記者は自由に入り報道できたといいます。

● ただ袖井報告は、まだプランゲ文庫を見ていませんから、1945年9月21日以後「占領が終わるまでは、マス・メディアによる原爆に関する報道は一切姿を消す」と断言します。

 それにつられてか、現役朝日記者の岩垂弘報告は、たとえば掲載されなかった毎日西部連絡部の8月7日ヒロシマ報道に「ピカドン」という言葉が入っていたこと、9月15日の朝日の鳩山一郎インタビューに「米国の原子爆弾使用は国際法違反、戦争犯罪」とあって、まだプレスコード前ですが、9月10日米軍「言論及び新聞の自由に関する覚書」で発禁処分になったと分析しながら、プレスコードが入って朝日の原爆記事は8月6ー31日の42本から9ー12月の27本に激減する、以後「原爆報道をやろうと思えばできた時代だと僕は思う」が、48年10月の新聞検閲解禁まで「原爆報道はあまりなかった」とします。

 原発については、第1期が1952年から57年の「啓蒙的報道」期で崎川範行や武谷三男の批判も出ていたこと、57ー64年が「バラ色の未来報道」で、57年8月27日の東海村一号炉運転開始を朝日は「第2の火」、毎日「第3の火」、読売「太陽の火」と報じたこと、65年以降が第3期で、事故報道、反対住民運動報道、原水禁の70年11月原発反対全国会議で論調が変わり、例えば朝日の73年9月17日社説は「原子力は不完全な技術」とするようになったといいます。なお原発世論の動きについては、後に柴田鐵治・友清裕昭『原発国民世論――世論調査にみる原子力意識の変遷』(ERC出版、1999)があり、「バラ色の50,60年代」「反対が生まれた70年代」「反対が強まった80年代」「不安拡大の90年代」と世論調査データをもとに整理しています。

● 私の報告は、この間の20世紀メディア研究所の研究、特に雑誌論調をもとにした御代川論文に西日本の新聞記事分を補い、75年の袖井・岩垂論文でパスされた1945ー49年の時期のメディアを見直し、占領期「原爆報道の消滅」神話を再検討しようというものです。

 それは同時に、1954年の第5福竜丸被ばく報道(読売スクープで「死の灰」の語が広まる、death dust は1948年5月科学春秋から)から支配的になる日本人の「原子力アレルギー」も神話ではないかという問題提起です。問題は、1955年の中曽根康弘・正力松太郎の暗躍によるAtoms for Peaceによる原子力発電への出発、「自主・民主・公開」原子力基本法のはるか以前から、「原子力」に「原爆」の裏返しとしての「巨大な力」「無限のエネルギー」「新しい産業革命」を見いだしてきた歴史に遡ります。

● 出発点におくべきは、後の中曽根・正力の原発導入との関係で重要な、長岡半太郎の5男で戦時日本陸軍原爆開発(理研仁科二号研究)担当の東大教授、中曽根康弘にアメリカで原子力を教えた嵯峨根遼吉の『原子爆弾』(朝日新聞社、1945年10月)です。

 『日米会話手帳』と同時期に、すでにプレスコードがあるもとで、朝日新聞社が「被害状況」=爆風・火傷・放射能まで含め広島型ウラン原爆を解説した「啓蒙書」を出したことは、ある意味で驚きです。ただしマンハッタン計画はまだ知られておらず、長崎型プルトニウム爆弾は想定されていません。放射能は半減期が短く「数ヶ月後には動植物には大して影響ない」とされている点が、米軍の眼鏡にかなったといえなくもありません。戦後の「人類への熱源の供給」「大規模な原子核反応の研究を要望」も入っています。

 嵯峨根は、戦時中に「原子核に関する実験」(文部省学術講演会叢書、1943年)を著しており、意地悪くいえば、戦時日本の原爆研究の水準を示す書で、朝日は1946年『科学朝日』『朝日評論』でも嵯峨根を使います。

 嵯峨根は、当時の保守的支配層の原子力の科学研究と技術=実用化・産業化を媒介し、茅誠司・伏見康治の背後で、ちょうど左派=革新勢力の中での武谷三男と似た役割を果たしました。日本学術会議創設に関わりながら、第一回公選で落選したことが、後々までトラウマになったようです。56年日本原子力研究所理事・産業計画会議委員。この辺、朝日新聞は10月から夕刊で「原発とメディアー平和利用への道」の連載を始めましたが、しばしば正力に対照される田中慎次郎の役割を含めぜひ探求してほしいものです。

● 「原爆」「原子力」「アトム」「ピカドン」等のプランゲ文庫索引による数量的データは、別表資料参照。「原爆」も「原子力」{御代川論文651}も、約1500点の記事・論説があります。キーワード検索の記事数でいいますと、「労働組合」「民主主義」「マッカーサー」「天皇」には及びませんが、「資本主義」「吉田茂」「抑留」なみにはポピュラーです。「中国新聞」が、検閲もあるが、報道数も多いようです。検閲は放射能被害中心で、総じて「平和利用」の受容基盤は、占領期からあったようです。「アトム」「ピカドン」とカタカナになると中性化され、やがて「科学技術」「文化国家」の復興と子供たちのあこがれ、「夢」になります。

● 雑誌でも新聞でも、「原爆」「原子爆弾」報道は、外電を含めてですが、1945年9月から普通にみられます。『科学朝日』45年9月1日の「原子エネルギーの利用:平和再建のために」が先駆で、『科学朝日』は11月号「原子爆弾の副産物」「原子機関車登場か」と、その後の朝日新聞社の報道姿勢を先取りしています。研究社の『中学生』でも「原子爆弾に鑑みる」を掲載し始めます(45年9月1日)。CCDの検閲は、中国新聞では厳しく、佐賀新聞など九州ではそれほどでもないようです。プレスコードがあっても、佐賀新聞は、「原子弾講演」(45年9月30日)、「原子弾の公開反対:米の軍事視察団覚書」(10月3日)以下、1945年9−12月に10数本の原爆報道をして、すべて検閲フリーパスです。言論の自由が制限されていたことは間違いなく、占領軍や米国への直接批判は出てきませんが、かといってメディアが抵抗し、敢えて言葉を使い分けたという感じではありません。

● 国際関係の中での原爆管理問題、原子力の解説や原子爆弾の仕組み、原爆被害の報道や医学的調査報告、原爆体験記・子供向け解説も、1945年から多数みられます。『文藝春秋』45年10月1日には「原子爆弾と斬込特攻隊」「原子爆弾雑話」といったエッセイが出始めますし、いち早く現地に入った都築正男教授の「所謂原子爆弾傷について:特に医学の立場からの対策」は、『総合医学』45年10月1日に出ています。「広島に於ける原子爆弾戦災犠牲者」は『日本瓦斯技術協会誌』45年11月25日号です。J・ダワーの述べた1946年5月「長崎原爆美人コンテスト」は記事にはありませんが、阪神の「ダイナマイト打線」に対する巨人の「原爆打線」(『スポーツファン』1948年8月4日)といった報道は見られます。「桑原武夫の放った原爆『現代俳句第二芸術論』」(『新潟評論』48年1月8日)、「音楽界の原子爆弾」(『月刊山陽』49年9月)、「金融界に原子爆弾を投じた」(『西日本新聞』49年3月7日)といった比喩的用法もあります、宇部セメント労働組合青年部の機関誌が『原爆』と名付けられて創刊したのは(1949年3月1日)どういう趣旨でしょうか。北越戸田労働組合の機関誌『暁星』にもコラム「原爆室」がみられます(1948年9月5日)。「原爆を神風にする道」(『北日本新聞』49年8月6日)ともいいます。以下HP掲載分を補足します。

● 1945年8月トルーマン演説に始まる「原子力の平和利用」言説に限定すれば、1946年9月の雑誌『全体医術』と、同月の仁科芳雄・横田喜三郎・岡邦雄・今野武雄の座談会「原子力時代と日本の進路」(『言論』46年8・9月号)に現れ、こどもたちの世界では、『中学上級』47年2月号「科学の新知識」で使われ、朝日新聞社の『こども朝日』47年10月号は、「平和に原子力、すばらしい威力を世界の幸福に利用」と報じます。

 学術論文としては、平野義太郎「戦争と平和における科学の役割」(『中央公論』48年9月号)が先駆ですが、内容的にはもっと早くから、もっと啓蒙的なかたちで、嵯峨根遼吉「原子力は人類を幸福にする」(『講演』48年11月)のように、占領期日本の言論空間では当たり前でした。

● ヒロシマ・ナガサキと敗戦の年、1945年12月には、雑誌『科学世界』に「機関車に原子力を」、『雄鶏通信』に「原子力の工業化は前途遼遠」「原子力自動車」「原子力発電機スピードトロン」が出ています。

 ヒロシマの地元『中国新聞』でも、1946年3月25日にビキニ環礁での核実験で「原子力の漏洩心配なし・ローズス少将談」を報じたのを先駆けに、「強力な武器としてのみに利用されている原子爆弾を食糧増産に利用したらどうか」(46年7月26日)、「原子力の平和的利用法、偉大な発見近し」(48年5月4日)などと、「原子力へのあこがれ」は、日本全体と共有されていました。

 自動車・機関車・船・飛行機など交通手段の動力として、「機関車も燃料いらず、平和の原子力時代来れば」(『九州タイムズ』46年11月27日)、「月世界・金星旅行の夢ふくらむ、今日原子力の記念日」(『西日本新聞』46年12月3日)ですが、もちろんそのエネルギーは発電にも期待されます。「原子力の医学的利用」(『海外旬報』46年6月10日)、「平和のための原子力時代来る、新ラジウム完成す、安価にできるガンの治療」(『京都新聞』48年8月8日)はもとより、「お米の原子力時代」で農業増産(『生活科学』1946年10月)、「農民の夢、原子力農業」(『明るい農家』49年6月)、はては「農家を悩ます颱風の道、原子力で交通整理」と、原子爆弾で台風の進路を変えることさえ夢見られます(『中国新聞』46年7月26日)。寒冷地北海道の科学普及協会『新生科学』48年12月号は「科学の目:近く原子力暖房」という具合です。

● つまり原子力は、敗戦・復興期の日本人の夢でした。『科学の友』1949年3月号の「進歩してきた人類の文化」は、旧石器時代・新石器時代・青銅器時代・鉄器時代から始まり、フランス革命時代・産業革命時代・大戦時代を経て、ついに「原子力時代」に到達します。

 ヒロシマと共に原爆を経験したナガサキでも、「平和にのびる原子力、破壊→幸福の力→建設、驚異・300倍の熱量、航空機・自動車・医療へ実用化」と『九州タイムズ』49年8月9日長崎原爆記念日についての記事で語られます。「平和のために闘う原子力」は『科学画報』49年4月にあり、「原子力は第2の火、人間は別種の動物に進化」(『長崎民友』49年1月1日)と、原子力は「歴史を進める」主体、「進化」「進歩」の象徴として出てきます。

● ですから当時の華やかな労働運動のなかでも、たとえば全逓信労組広島郵便局支部の機関紙が『アトム』と命名され(47年9月20日)、「第2の火の発見ーー原子力時代」は国鉄労組東京鉄道教習所『国鉄通信教育』48年12月号の「教養」欄にあります。

 特に1949年は、1月総選挙で共産党大躍進、夏に下山・三鷹・松川事件、10月毛沢東の新中国建国、そのころソ連初の核実験成功発表ですから、すでに志賀義雄「原子力と世界国家」(日本共産党出版部『新しい世界』48年8月)等で「社会主義の原子力」の夢を語っていた共産党まで、「光から生まれた原子、物質がエネルギーに変わる、一億年使えるコンロ」(日本共産党出版部『大衆クラブ』49年6月号)とボルテージをあげます。

 ソ連の原爆保持でその夢が現実になったとして、1950年1月18日の第18回拡大中央委員会報告、いわゆる「コミンフォルム批判」を受けての日本共産党の自己批判は、冒頭「国際的規模で前進する人民勢力」で「ソ同盟における原子力の確保は、社会主義経済の偉大な発展を示すとともに、人民勢力に大きな確信をあたえ、独占資本のどうかつ政策を封殺した」「原子力を動力源として運用する範囲を拡大し、一般的につかえるような、発電源とすることができるにいたったので、もはや、おかすことのできない革命の要塞であり、物質的基礎となっている」と宣言するのです。

● しかしまだ、「原爆」や「原子力」では、「原子力戦争は人類の破滅」(『週刊東洋経済』48年4月24日)、「原子力と共産党員、使途は平和か武器か」(『九州タイムズ』49年2月25日)、「天国の裏は地獄である、我々は何れを選ぶか」(『農民クラブ』49年6月)、「ソ連の原子爆弾で戦争の危機緩和か、原子爆弾に使われる危険」(『週刊東洋経済』49年10月)と留保があり、危惧もされます。

 占領軍GHQの検閲は、あらゆる出版物に及びますから、原爆を落としたアメリカへの批判や広島・長崎の放射能被害の継続は隠蔽されます。「ソ連に原爆と殺人光線」といった記事は検閲され(『京都新聞』48年3月11日)、逆に「広島・長崎の原爆放射能消滅」というAP電はフリーパスです(『北日本新聞』48年10月8日)。

● ところが、「ピカドン」「アトム」とカタカナになると、あまり抵抗感なく、受け入れられたようです。カタカナの魔力は、「ピカドンと婦人、広島病院のお答え、不妊の心配なし、奇形児も生まれませぬ」(『中国新聞』46年7月10日)などと使われ、『佐世保時事新聞』48年8月2日は、原爆記念日を前に「アトムの街々」特集で、「広島と長崎、それは原爆の地として世界注視のうちに新しい平和を求めて起つところ、人類に原子力時代到来を願って今こそ戦後の世界復興を」と、訴えます。

 広島・長崎を「アトム都市」とする記事は47年から現れ、47年12月の昭和天皇の広島行幸は、「お待ちするアトム広島」(『九州タイムズ』47年12月1日)、「ピカドン説明行脚、天皇がアトム広島に入られた感激の日」(『中国新聞』47年12月11日)のように使われます。「あとむ製薬」から「ピカドン」という薬も売り出されています(『愛媛新聞』49年1月13日広告)。

 しかも「あとむ製薬」は、1948年広島市安芸区に設立された薬種会社で、その後も社名を変えて、ヒロシマで存続しています。どうやら「あとむ製薬」は、もともと漢方薬から出発したようで、「ピカドン」も滋養強壮剤だったようです。これが「お薬博物館」にある富山県黒部産の「風邪にピカトン」という置き薬(1包40円)、富山市電子図書館にあるらしい「かぜに新ピカトンM( UESHIMA SEYAKUSYO)」とは別だとすれば、朝鮮戦争期の日本には「ピカドン」(「ピカトン」であっても包み紙から瞭然)という薬が、ヒロシマから発して全国で流通していたことになります。

 もちろん「ピカドン」といえば、丸木位里・俊夫妻の絵本『ピカドン』が1950年にポツダム書店から発行され、GHQのプレスコード規制(事後検閲)により、発売直後に発行禁止処分にあいました。「ピカドン」に原爆の悲惨や戦争の記憶をだぶらせ、被爆体験をフクシマまで貫こうとする肥田舜太郎さんのような言説もあります。「『ピカドン』が憎い」という小谷静登さんの叫びは、今でも心を打ちます。同じヒロシマに発するこの「ピカドン」への二重性、一方で「ピカドン」を憎み、呪い、他方で「ピカドン」に生命力の回復を託す心性こそ、1954ー55年に原水爆禁止運動と「原子力の平和利用」を同時出発させる、戦後日本の両義性の原型でしょう。    

● 1948年の長崎原爆記念日は、「祈るアトム長崎、3周年記念、誓も新た平和建設」と報じられました(『西日本新聞』48年8月10日)。爆心地は「浦上アトム公園」になり(『熊本日日新聞』48年8月10日)、「アトム公園を花の公園に」とよびかけます(『長崎民友』49年3月24日)。これがこどもたちの世界では、「アトム先生とボン君」(『こども科学教室』(48年5月1日)、中野正治画「ゆめくらぶ・ミラクルアトム」(『漫画少年』48年8月20日)、和田義三作連載マンガ「空想漫画絵小説:アトム島27号」(『冒険世界』49年1月1日)、原研児「科学冒険絵物語 アトム少年」(『少年少女譚海』49年8月1日)と、ほとんど無防備で、「夢の原子力」へと一直線です。手塚治虫「鉄腕アトム」(「アトム大使」1951年)の登場は、時間の問題でした。

● 実はこうした大衆的・啓蒙的「原子力」言説の背後に、敗戦による荒廃・焼け跡闇市からの「復興の夢」、「遅れた国」日本の「近代化の夢」があり、そこで期待される「科学の力」「文化国家」への希望と信頼が読みとれます。

 それを受けた、科学者たちの解説・論評が、「原子力時代」の時代認識を支えています。1945ー49年に論壇・記事への登場回数の多い方からあげると、湯川秀樹134、武谷三男128、渡辺慧88、仁科芳雄68、藤岡由夫37、嵯峨根遼吉37、伏見康治30、坂田昌一17、朝永振一郎14、といった物理学者・原子力研究者たちです。

 私が注目しているのは、左派の原子力解説者武谷三男と、中曽根康弘の核政策ブレーンになる嵯峨根遼吉、しかしフクシマの悲劇を見た今日の時点では、湯川秀樹、仁科芳雄、朝永振一郎らの言説も、「共産党宣言」のヴァージョンアップを謳った渡辺慧「原子党宣言」も、改めて読み直されるべきです。

 4 戦前・戦時日本の「原爆」イメージと民衆的想像力の問題

● 私がアメリカに発つ直前、8月3日の『朝日新聞』に、「被爆国になぜ原発? 問われる『だからこそ』の論理」という塩倉裕記者の論説記事が載りました。そこに「日本人は原爆の唯一の被害者だから、平和な原子力を研究する権利を最も持つ」とする武谷三男の「だからこそ」の論理(『改造』1952年11月)が、加納実紀代さんの「ヒロシマとフクシマのあいだ」(『インパクション』6月号)を用いて、紹介されました。自社の自己分析がない点では画竜点睛を欠きますが、重要な問題提起です。

 ただし、戦後日本の左派の原子力論をリードし実践した武谷三男の言説は、「だからこそ」に尽くされない重層性があり、歴史的にも変化します。「民主・自主・公開」は「原子力研究の原則」で「原子力発電には反対」だったという解釈も成り立ちます。たとえば「原子力とマルクス主義」という論文があり、ソ連の科学技術発展に理論的希望を見いだしながらも(『社会』1948年8月号、『武谷三男著作集』4)、実際にソ連で原子力発電が出発し、日本でも Atoms for Peace から原発導入に入る頃には、「原水爆時代から原子力時代へ」という論理で、未だ技術的には未成熟で「原子力時代」にはほど遠いという実践的批判の立場を貫きます(「『原子力時代』への考え方」『エコノミスト』1955年9月、『武谷三男現代論集』1)。当時の「原子力時代」礼賛論への批判です。

 問題はむしろ、武谷に限らず、日本の物理学者・社会科学者が、東西冷戦の文脈の中で核兵器と原子力発電をどのように位置づけていたかという点にあるというのが、私のさしあたりの仮説です。

● その前提として、第二次世界大戦中に日本も原爆をつくろうとし、そのための情報収集を行っていたこと、米英のマンハッタン計画にソ連が送り込んだような諜報ルートを持たなかったにしても、同盟国ドイツの核兵器開発にはひそかに注目していたことがあります。日本は、1941年から陸軍=理研 仁科芳雄の「二号研究」、海軍=京大荒勝文策の「F研究」で原爆開発を開始しており、その関係者の多くは、戦後の「原子力の平和利用」=原発開発にもたずさわりました(J・ダワー「ニ号研究とF号研究――戦時日本の原爆研究」ダワー『昭和』みすず書房、2010)。成果は初歩的なものでしたが、ナチス・ドイツの協力を得て原爆開発を進め、実際に国内でサイクロトロンをつくり濃縮ウラン燃料を入手しようとしていました。

 ウェブ上の東海大学鳥飼行博さん研究室「日本の原爆開発:核兵器使用の可能性」、および鹿児島大学木村朗さん「原爆神話からの解放と核抑止論の克服――ヒロシマ、ナガサキからフクシマへ」は、日本の原爆開発の歴史的意味を改めて問題にしています。

● トマス・パワーズ『なぜ、ナチスは原爆製造に失敗したかーー連合国が最も恐れた男・天才ハイゼンベルグの闘い』(福武文庫、1995年)に描かれた、マンハッタン計画時のドイツの原爆開発と連合軍側の対応は、戦後日本の原子力開発の歴史を見るさいに、二つの示唆を与えます。

 一つは、故国ドイツを愛してもヒトラーを嫌うハイゼンベルグが、自分は将来の「原子力の平和利用」を見越して原子力エネルギーを開発しているが原爆をつくるつもりはないと、暗に主観的には伝えようとしたニールス・ボーアへのメッセージが、連合軍側には、原子炉は原爆の前段階でやはり原爆製造のためと受け止められ、マンハッタン計画加速の根拠ないし口実にされたことです。いくら「平和利用」と銘打っても、原発開発は原爆開発と一体なのです。

 もう一つ。科学者たちが「平和利用の研究」にとどめ「軍事利用には反対」したとしても、いったん国策となり軍部や巨大資本を巻き込んだ原子力開発の巨大システムは、科学者たちが専門的見地でどう反対しても、核兵器開発へと進行していったことです。その効果の「人体実験」がヒロシマ・ナガサキで実際に行われ、放射性物質による膨大な被爆者と、後戻り出来ない核軍拡競争へと突き進んでいきました。

● 戦前の「原爆から原発へ」の物語には、もう一つ、科学者たちとは別の、民衆世界の想像力の問題があります。マンハッタン計画の発案者レオ・シラードは、SF作家H・G・ウェルズのファンで、大きな影響を受けていました。ウェルズこそ、「透明人間」や「宇宙戦争」と共に、「原子エネルギー(Atomic Energy)」と「原子爆弾(Atomic Bomb)」という言葉の創始者で、核兵器による世界戦争の危険と世界政府の必要性を、想像力と民衆文化の世界で、予見していました。科学小説『解放された世界』(岩波文庫)の中でのことで、第一次世界大戦直前の1913年の作品です。

 日本でも、想像力の世界では、大正9(1920)年『新青年』7月号に、「原子爆弾(ルビ:アトムばくだん)の威力は堂々たる大艦隊も木端微塵」という記述が現れます。日本SFの先駆者海野十三の作品では、青空文庫で読める、1927年の「放送された遺言状」、1944年の「諜報中継局」などが「プレ原爆小説」で、「海野十三敗戦日記」(中公文庫)はヒロシマ直後から放射線被曝に注目していました。

● 鳥飼行博さん研究室は、『新青年』1944年7月号掲載立川賢の本土空襲科學小説「桑港(サンフランシスコ)けし飛ぶ」から、「日本が原子爆弾を完成し、原子力エンジン搭載の爆撃機で、米国本土サンフランシスコ(桑港)に原爆を投下し、ビルを壊滅させ、70万人を殲滅して、戦局を逆転する」ストーリーを抽出しています。「原子爆弾」は、戦前・戦時中でも、日本人の「夢」だったのです。

 海野十三晩年の戦後1947年の小説「予報省告知」は、「人暦10946年13月9日、本日を以て地球は原子爆弾を惹起し、大爆発は23時間に亘って継続した後、地球は完全にガス状と化す」と始まり、「世界暦1955年 地球一周が12時間で出来るようになる。原子エンジンの完成を見たためである。宇宙飛行の企業が盛んになる」という時代を遡る(ディス)ユートピアになっています。

 1954ー55年に原水爆禁止運動と「原子力の平和利用」を同時出発させる戦後日本の心性の両義性の原型は、どうやら戦前からマンハッタン計画まで遡りそうです。

 
原爆から原発、原発から原爆」の轍を繰り返さず、放射線汚染大国で生き抜く、新たな想像力を!

 

2011. 10.2  9月末までヨーロッパ4か国をまわって、帰国しました。まだ時差ボケがひどく、久しぶりの更新も遅れました。ドイツからスウェーデン、フィンランドは深い秋、セーター・コートなしでは肌寒い季節でした。イギリスに入ったら半袖で大丈夫で、日本に帰国したら、まだ夏でした。海外での日本は、率直に言って、普通の人々の関心外です。世界金融危機が続き、中東革命につづいてパレスチナの地位が問題になっているもとで、国連総会に野田という新しい首相が出たそうですが、またどうせ来年は別の顔でしょうからと、注目もされません。したがって、野田首相国連演説の「東京電力福島第1原発事故は着実に収束に向かっている。年内をめどに原子炉の冷温停止状態を達成」「日本の原発の安全性を世界最高水準に高める」も、またいつもの空文句かという程度で、聴衆も少なく、信じた人はいないでしょう。3−4月の東日本大震災・津波・フクシマ原発事故時に比べて、すっかり日本関係のニュースは少なくなりました。CNNテレビで見れたのは、9月19日東京での「サヨナラ原発」5万人デモのニュースだけでした。それも、世界の世論の動きに比べれば、「ようやく当事国日本でも脱原発派が見えてきた」と、25万人デモですでに脱原発を果たしたドイツの報道は、辛口注釈付きです。デモなら、中東でもギリシャでも、アメリカでさえ当然の民衆の表現の自由であり権利ですから、日本に詳しい友人たちは、むしろ9月11日新宿脱原発デモへの警察の弾圧、12人の逮捕に驚き、あきれていました。すでに日本が、チェルノブイリ以上の放射線汚染大国になり、いまなおフクシマから空や海への放出を止めることができず、日本が「危険な国」になったことだけは、広く知られています。プルトニウムもストロンチウムも、やはり出てきました。除染も汚染水処理も、これからです。私自身は、8月アメリカでも9月ヨーロッパでも体験していませんが、日本からの旅行客への放射線特別チェックが続いている国や空港も、あるようです。無論、日本食品ばかりでなく工業製品の輸出も、世界中でチェックされています。風評被害ではありません。フクシマだけの問題でもありません。日本の全体が、3月中旬の1週間で、近隣諸国はもとより地球全体への核被害を与えたとイメージされています。1986年のソ連と同じです。ソ連の場合は、5年後に、国家そのものがなくなりました。関心のある親しい人々には、詳しい事情と資料の入ったPDFファイルを渡すと共に、手っ取り早く、ウェブ上のyou tube 画像と歌、「日本では放送できない 報道できない 震災の裏側」を、ホテルやカフェで見せて、解説してきました。

 8月末からの、1か月ぶりの更新になりますので、少し長くつづります。海外の友人たちから質問され、うまく答えられない問題が、いくつかありました。一つは、東日本大震災での外国人犠牲者・被害者数。参院議員有田芳生さん「酔醒漫録」で4月12日付け23人までは把握していましたが、これはあくまで、外務省が在日各国大使館に問い合わせてまとめた公式の数。大使館の把握していない人々もいたはずですから、実際は、いまだに不明です。どなたかご存じの方は katote@ff.iij4u.or.jpご一報を。もうひとつ。一時は「フクシマの英雄」とまで持ち上げられた、フクシマ第一原発心臓部で働く労働者たちのこと。次第にそれが「原発大国日本」を支えてきた危険な下請け最底辺労働であることが外国にも知られるようになりましたが、その「原発ジプシー」に、外国人労働者がどこまで入っていたかの問題。これも、いくつか事例は拾えますが、規模と全容が見えません。外国人ヒバクシャを、相当数産み出してきたのではないでしょうか? そして、3つ目は、予想通りの質問。「ヒロシマ、ナガサキ体験をしたはずの地震大国日本が、なぜ世界第3の原発大国になり、無惨なフクシマ原発事故でも脱原発できないのか?」と。今回の旅の主たる目的は、これと関連していました。ちょうど雑誌『未来』10月号に「社会民主主義の国際連帯と生命力ーー1944年ストックホルムの記録から」と題して論じた発表したばかりの、崎村茂樹の6つの謎についての調査でした。2007年「中間報告」に続く「国際歴史探偵」で、第二次世界大戦中の連合国対枢軸国の情報戦、いや枢軸国内独日、連合国内米英ソを含む戦時情報戦の主舞台は、中立国スイスとスウェーデンでしたから、その中で崎村茂樹の「亡命」の意味を考えてきました。今回は、日本の3・11を踏まえ、新たな視点を加えました。在独日本大使館嘱託で鉄鋼統制会ベルリン事務所のエコノミストであった崎村茂樹が、スウェーデンに「亡命」したのは、1943年9月から1944年5月、日独伊枢軸のイタリアはすでに脱落・降伏し、連合軍のドイツ空襲は激しくなっていました。これに原爆開発はからんでいなかったのか、と。

 崎村茂樹は、44年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の2か月前に、ゲシュタポと在独日本大使館外事警察・在スウェーデン陸軍武官室にストックホルムの隠れ家を発見され、ベルリンへ強制送還となりました。太平洋戦線は、1943年9月学徒出陣で若者を総動員しても、日本の戦局は悪化するばかり、44年6月米軍サイパン上陸から北九州への空襲も始まり、44年7月18日東条内閣総辞職で、玉砕と特攻の無益な死を積み重ねるだけになります。連合軍の側は、1943年11月米英中カイロ会談と米英ソ・テヘラン会談で独日「無条件降伏」後の戦後世界分割支配の構想=抗争段階に入り、45年2月ヤルタ会談、7月ポツダム会談への最終勝利局面に入ります。この時期の米軍最終兵器、原子爆弾作成のマンハッタン計画に、独日枢軸の方はどう対応したのか、ドイツや日本にも核兵器開発計画があったのではないか、鉄鋼統制会の仕事でドイツのジーメンス社と近かった崎村茂樹は、どこまで日独の軍事情報を持ち、それを連合国側にもたらしたのか。そこに、英国諜報機関MI6 や米国戦略情報局OSSは、どう関わったのでしょうか? 当時の軍事情報戦のひとつの焦点は、ドイツと英米の原子力開発、ヒットラーとルーズベルトと、どちらが先に原爆を作れるかでした。

 こんなかたちで、崎村茂樹の「亡命」を見直したのも、第二次世界大戦中の核開発が、もっぱら米国によるヒロシマ・ナガサキへの二つの原爆投下という結果の方から語られ、「唯一の被爆国日本」と、その日本にこそ「原子力の平和利用」がふさわしいとされてきて「フクシマの悲劇」にいたった謎を、解くためです。フクシマ=原発の悲劇の方から見ていくと、原爆をめぐる情報戦からも、違った歴史の流れが見えてきそうだったからです。結論的にいうと、「亡命者」崎村茂樹や、当時の欧州日本諜報活動のエキスパートであった在ストックホルム陸軍武官小野寺信らが、国際原爆情報戦に関わった資料は、見つかりませんでした。全く無関係であったのかもしれません。ただし、この間発表されたいくつかの日本側資料からして、第二次世界大戦中に日本も原爆をつくろうとし、そのための情報収集を行っていたこと、米英のマンハッタン計画にソ連が送り込んだような諜報ルートを持たなかったにしても、同盟国ドイツの核兵器開発にはひそかに注目していたことは、まちがいないようです。いずれも8月訪米中に日本で発表されたものですが、二つの資料がヒントになりました。一つは、今夏8月6日放映のNHKスペシャル原爆投下 活かされなかった極秘情報で、ワシントンでYou Tube映像で見ました。日本は、1941年から陸軍=理研 仁科芳雄の「二号研究」、海軍=京大荒勝文策の「F研究」で原爆開発を開始しており、その関係者の多くは、戦後の「原子力の平和利用」=原発開発にもたずさわります。日本の成果は初歩的なものでしたが、ドイツから潜水艦によるウラン輸送も試みられました。だからこそ、陸軍特殊情報部は、8月6日のヒロシマの「新型爆弾」をすぐに原子爆弾と見抜き、9日のナガサキについては、投下の5時間前にはB29出撃情報をキャッチしていたと言います。そのプルトニウム爆弾を、空襲警報も出さずにナガサキに落とされ、膨大な犠牲者を出したのです。もう一つ、早坂隆「Uボート内に散った日本人技術者(『中央公論』9月号)は、1945年3月にドイツからウラン235を運ぶUボート234号に乗り組んだ庄司元三海軍技術中佐を扱ったドキュメンタリーでした。庄司は、友永英夫技術中佐と共に、酸化ウラン560kgを日本に送り届けようとキール軍港を出発しましたが、45年5月8日、米軍に発見され降伏、二人の日本人技術兵士は服毒自殺しました。つまり、日本軍は、ナチス・ドイツの協力を得て、原爆開発を進めており、実際に国内でサイクロトロンをつくり、濃縮ウラン燃料を入手しようとしていました。

 これを、鳥飼行博さん研究室は、写真入りの力作「日本の原爆開発:核兵器使用の可能性」のなかで、世界で初めての本格的都市無差別攻撃は1937年8月の日本軍による中国の首都重慶爆撃であったことと重ね合わせ、「日本は原爆を投下された直後から、それまで原爆開発していたことは棚に上げて、原爆の悲惨さ、非人道性を攻撃した。対照的に、米国では、原爆終戦和平説が常識化しており、原爆投下部隊は平和と勝利をもたらした英雄である」とされた経緯を述べています。3・11を踏まえた鹿児島大学木村朗さん「原爆神話からの解放と核抑止論の克服--ヒロシマ、ナガサキからフクシマへ」も、原爆投下についての世界の学説状況を踏まえて、「新型兵器の実戦使用は、日本の侵略戦争で大義名分が立ち、ポツダム宣言も拒否し、1発目の原爆投下では降伏しようとする意思、動きを見せなかったからという理由づけで行われている。戦後のアメリカの核兵器はすべてがプルトニウム型なので、やはり2発の原爆、とりわけプルトニウム爆弾は、実際に落としてその効果、物理的な破壊力だけでなく、人体への影響力も含めて、データを測る必要があったのではないかと思う。そういった原爆投下の狙いについては、戦後の占領期、被害状況も含めて原爆に関するあらゆる情報を秘密にしてーー日本も原爆を開発していたので真っ先にそこを占領して破壊したということもあるけれど−−そういった原爆関連情報が日本内外に伝わることを、厳重な検閲体制を導入して隠蔽した」事実を改めて問題にしています。これも力作です。

 もっとも中立国スウェーデン、スイスを主舞台にした原爆情報戦の焦点は、日本の原爆開発ではありませんでした。ドイツの原爆開発と、英米マンハッタン計画の競争でした。これを詳しく描いたのが、トマス・パワーズ『なぜ、ナチスは原爆製造に失敗したかーー連合国が最も恐れた男・天才ハイゼンベルグの闘い』(福武文庫、1995年)です。上下1000頁を越えるノンフクションの大作なのに、邦訳では典拠や注が省かれているのが難点ですが、崎村茂樹や小野寺信、庄司元三、友永英夫らが介在する余地はなかったかと考え、旅行中に読みました。日本人の出番はありませんでしたが、英米のマンハッタン原爆開発が、もともとナチス・ドイツを標的としており、ドイツよりはやく原爆をつくろうと、亡命ユダヤ人核物理学者らを組織し、巨費を投じて実現されたという、おなじみの問題に関わります。亡命ユダヤ人科学者レオ・シラードが、アインシュタインを動かして、ルーズベルト大統領に原子力の軍事利用について手紙を書かせたのが、第二次世界大戦前の1939年8月2日、国家的プロジェクトとしての出発が42年6月、グローヴス将軍を最高責任者に、ロバート・オッペンハイマーを科学部門の責任者にして、ロスアラモス等で秘密裏に研究開発が始まるのが、42年11月でした。この時、グローブス将軍は、ドノヴァン将軍の戦略情報局OSS(CIAの前身)を使って、敵国ドイツの原爆開発情報の収集も、秘密裏に始めます。したがって、スイスのOSSヨーロッパ総局長アレン・ダレス(戦後CIA長官)も、一役買います。英米側軍人も、オッペンハイマー、ニールス・ボーア、エンリコ・フェルミら科学者たちも、共に恐れたのは、ナチス党員ではないがドイツにとどまり原爆開発に動員されるであろう天才ヴェルナー・ハイゼンベルグの核研究の進展でした。ハイゼンベルグ自身は、ヒットラーには反対で、ドイツ原爆製造の国家的プロジェクト「ウラン・クラブ」を、なんとか膨大な被害が予想される原爆製造まで行かないところで、終戦まで物理学者の仕事場としてもたせようとしました。アメリカに亡命した核物理学者たちと、ドイツに止まったハイゼンベルグをつなぐ共通の友人は、デンマークでドイツ占領後も研究を続けるニールス・ボーアでした。1941年9月に、ハイゼンベルグが、コペンハーゲンのボーアを訪問して交わした会話の内容が、のちのちまでドイツの原爆開発の計画と進展状況を示唆したものとして、情報戦の中で、決定的役割を果たします。ハイゼンベルグは、ボーアに、「ドイツで原爆をつくることは可能」で原子炉を建設中だが、「技術的には多くの困難」があり、「このたびの戦争中に実現する可能性はない」と言ったとされます。しかし、英米側で秘密裏に進むマンハッタン計画を知らなかったボーアは、これに驚き、ドイツの原爆計画は進行中で、すでに具体化され始めたと受け止めます。ハイゼンベルグ自身は、「技術的には多くの困難」という表現で、自分はナチスのための原爆製造をサボタージュし、戦後ドイツ復興のための「原子力の平和利用」=エネルギー開発にたずさわっていることをボーアに伝えたつもりだったとされますが、この情報は、ただちに英米側に伝わり、ドイツの原爆開発計画に全ドイツの科学者が動員されている証左とされます。

 後にニールス・ボーア自身も、アメリカに亡命して、マンハッタン計画にたずさわる科学者たちとこのハイゼンベルグ会見の模様を想起し、ドイツはまだ原子炉実験研究段階で、原爆製造では英米側の方が進んでいると結論づけますが、すでにマンハッタン計画は、デュポン、ゼネラル・エレクトリック、ウェスティングハウスなど民間大企業も加わる巨大事業になっており、フル回転していました。グローヴス将軍ら軍人・政治家は耳をかしません。もともとの発案者であったレオ・シラードなどは、ドイツの敗戦は原爆なしでも可能になったからプロジェクトを中断・廃棄すべきと進言しますが、軍人たちは、 OSSを使って、ドイツの原子力研究を率いるハイゼンベルグの誘拐・暗殺まで企てます。これが実は、崎村茂樹がスウェーデンに「亡命」し、ゲシュタポ・在独日本大使館により拉致・強制送還される時期と、ぴったり重なります。結局、実際には、ドイツ軍需相アルベール・シュペアや「ドイツ物理学」を唱える科学者たちは原爆製造を志しても、最高指導者ヒトラー自身が、時間と資金のかかる原爆開発には大きな関心を示さず、即戦力になるロケット弾開発などに投資をまわして、ドイツは原爆製造に失敗したといわれます。この話は、戦後日本の原子力開発の歴史を見るさいに、二つの示唆を与えます。一つは、故国ドイツを愛してもヒトラーを嫌うハイゼンベルグが、自分は将来の「原子力の平和利用」を見越して原子力エネルギーを開発しているが原爆をつくるつもりはないと、暗に主観的には伝えようとしたボーアへのメッセージが、連合軍側には、原子炉は原爆の前段階でやはり原爆製造のためと受け止められ、マンハッタン計画加速化の根拠ないし口実にされたことです。いくら「平和利用」と銘打っても、原発開発は原爆開発と一体なのです。もう一つ。科学者たちが「平和利用の研究」にとどめ「軍事利用には反対」したとしても、いったん国策となり軍部や巨大資本を巻き込んだ原子力開発の巨大システムは、科学者たちが専門的見地でどう反対しても、核兵器開発へと進行していったことです。そして、その効果の「人体実験」は、ヒロシマ・ナガサキで実際に行われ、放射性物質による膨大な被爆者と、後戻り出来ない核軍拡競争へと突き進んでいきました。湯川秀樹や武谷三男を含む日本の科学者たちも、「ヒロシマからフクシマへ」の長い道程をたどって振り返ってみると、反ファシズムの決意でマンハッタン計画にたずさわり、戦後は核戦争反対の先頭にたったアインシュタイン、シラード、オッペンハイマーらの苦悩の教訓を、十分にはくみ取り得なかったように思われますが、いかがでしょうか。

 この「原発から原爆へ」の物語からは、もう一つ、科学者たちとは別の、民衆世界の想像力の問題が出てきます。マンハッタン計画の発案者レオ・シラードは、SF作家H・G・ウェルズのファンで、独訳までし、大きな影響を受けていました。そのウェルズこそ、「透明人間」や「宇宙戦争」と共に、「原子エネルギー(Atomic Energy)」と「原子爆弾(Atomic Bomb)」という言葉の創始者で、核兵器による世界戦争の危険と世界政府の必要性を、想像力と民衆文化の世界で、予見していました。科学小説『解放された世界』(岩波文庫)の中でのことで、第一次世界大戦直前の1913年の作品です。日本でも、想像力の世界では、大正9(1920)年『新青年』7月号に、「原子爆弾(ルビ:アトムばくだん)の威力は堂々たる大艦隊も木端微塵」という記述が現れます。日本SFの先駆者海野十三の作品では、青空文庫で読める、1927年の「放送された遺言状」、1944年の「諜報中継局」などが「プレ原爆小説」で、「海野十三敗戦日記」(中公文庫)は、ヒロシマ直後から放射線被曝に注目していました。鳥飼行博さん研究室は、『新青年』1944年7月号掲載立川賢の本土空襲科學小説「桑港(サンフランシスコ)けし飛ぶ 」から、「日本が原子爆弾を完成し、原子力エンジン搭載の爆撃機で、米国本土サンフランシスコ(桑港)に原爆を投下し、ビルを壊滅させ、70万人を殲滅して、戦局を逆転する」ストーリーを抽出しています。「原子爆弾」は、戦前・戦時中でも、日本人の「夢」であったのです。ですから、海野十三の戦後1947年の小説「予報省告知」は、「人暦一万九百四十六年十三月九日、本日を以て地球は原子爆弾を惹起し、大爆発は二十三時間に亘って継続した後、地球は完全にガス状と化す」と始まりながら、「世界暦千九百五十五年 地球一周が十二時間で出来るようになる。原子エンジンの完成を見たためである。宇宙飛行の企業が盛んになる。世界暦千九百四十九年十月 日本の食糧欠乏問題が解決する。米を始め、食糧はすべて自由販売となる。世界暦千九百四十七年 飢餓のため日本人死するもの続出」という時代遡りの手法を採り、原子力による宇宙旅行と地球滅亡を逆引きにする、ユートピアになっています。この間20世紀メディア研究所占領期新聞雑誌情報データベース「プランゲ文庫」をもとに、8月3日『朝日新聞』「被爆国になぜ原発? 問われる『だからこそ』の論理」を参照しつつ、本サイトで紹介してきた、1954−55年に原水爆禁止運動と「原子力の平和利用」を同時出発させる戦後日本の心性の両義性の原型は、どうやら戦前からマンハッタン計画まで遡りそうです。この辺の中間報告を、20世紀メディア研究所 第63回研究会で、「占領下日本の「原子力」イメージ ーーヒロシマからフクシマへの助走と題して発表します。「日本原発の父」正力松太郎とCIAの関係を暴いた同僚有馬哲夫さんも、「広島原発と沖縄原発」について報告します。10月15日(土)午後2時30分から、早稲田大学1号館401教室です。資料代500円ですが、一般公開されますので、ぜひどうぞ。


「原子力村」に汚染された永田町・霞ヶ関には頼らず、9月は被災者と市民の力で「脱原発」の民意を明確に!

2011.9.1  8月はアメリカ滞在でしたので、 1か月ぶりの更新です。アメリカ東部で、地震がありました。ワシントン、ニューヨークをハリケーンが襲い、死者も出ました。帰国した日本は、台風シーズンです。地震も続いています。そのたびに、冷や冷やします。原発は、大丈夫かと。停電は、ライフラインはと。3・11は、自然と人間の関係、天災と人災の区別、近代文明と安全・安心の意味を、問いかけました。まだ被災地は「復興」にはほど遠く、生活の基盤はできず、がれきの山は残されたままです。事故後に福島第一原発から、いまや広島原爆168発分のセシウム137、2.5倍のヨウ素131が放出されたとか。文科省が最近発表した土壌中のセシウム137の土壌汚染放射能地図は、朝日新聞が8月29日に概要を図のように報じましたが、チェルノブイリ原発事故で「強制移住」の対象となった値を超えた場所が約8%に上ります。多くは警戒区域や計画的避難区域などに指定されている地域ですが、福島市や本宮市、郡山市などの一部も含まれます。3・11直後から4月まで、福島第一原発事故はスリーマイル島なみの「レベル5」なのかチェルノブイリなみの「レベル7」なのかという論争がありましたが、いまだに原子炉を安定的に制御できないフクシマは、もはや確実に、人類史上最悪の放射能汚染事故となりつつあります。まだ2号機・3号機で水蒸気爆発がありうると、小出裕章さんは見ています。8月16日に作業員の一人が急性白血病で亡くなったと、東京電力は30日に発表しました。東京電力が福島第1原発に高さ10メートル以上の津波が到達する可能性があると認知し、2008年に試算結果を出しておきなから、今年3月まで保安院に試算結果を報告しなかったことが、8月25日にわかりました。もっとも経済産業省原子力安全・保安院も、東日本大震災4日前の3月7日、試算結果を東電が報告した際、保安院の耐震安全審査室長が「設備面での対応が必要ではないか」と口頭で指導しただけというのですから、ほとんど同罪です。保安院自身による原発シンポジウムでの「やらせは、次々に明らかになり、8月31日にも5件が新たにわかりました。退陣目前の官首相が、27日退任あいさつで福島県知事を訪れてのべたのは、「放射性物質に汚染された土壌やがれきについて、中間貯蔵施設を福島県内に設置したい」「放射線量が高い地域で住民が長時間にわたり居住や帰還が困難な地域が生じてしまう可能性が否定できない」という唐突な申し入れ、あの4月の松本健一内閣参与との「原発周辺は10年、20年は住めない」という話が、今頃になって現実となってきました。いや廃炉や核燃料の最終処理を考えれば、何万年、何十万年という気の遠くなるような将来の地球人類への負荷を、私たちは、背負ってしまったのです。

 菅首相がようやく辞めて、野田佳彦前財務相の首相就任が決まりました。海外の報道を待つまでもなく、白けた政権交代です。8月のアメリカでは、来年の大統領選挙に向けた共和党の候補者選びが白熱し、オバマ民主党政権との政策的対決のあり方を競い合っていました。日本の政治は、3・11などなかったかのように、原発・エネルギー問題も、震災復興・災害対策も、沖縄や尖閣の対米・対中外交の問題もほとんど語ることなく、消去法的な民主党内力学で「財務省の操り人形( eine Marionette des Finanzministeriums)」をこの国の顔にしました。9月のヨーロッパ旅行を控えて、大いなる憂鬱です。ドイツの友人たちに「ヒロシマからフクシマへ」を説明するだけでも大変なのに、「カンからノダ、Who? 」まで準備しなければなりませんから。「どじょう(loach)政治」の翻訳をあきらめると、「増税」と「靖国」ぐらいしか、説明材料はありません。日本国民に対してさえ、この国家的危機にどう立ち向かうかを明らかにできないのですから、9月国連総会で5年間に6人目の首相を迎える国際社会では、存在感をもてないでしょう。本来「国民の生活が第一」に立ち返るべき民主党ですが、鳩山内閣の普天間基地移転問題で迷走をはじめ、3・11で方向感覚を失った菅内閣を受け継ぐ野田内閣は、いったいどこへ漂流していくのでしょうか。アメリカへの追随と霞ヶ関官僚への依存は間違いないでしょうが、「国民の生活」からは、ますます離れていきそうです。そして、「原子力村」利権とは無縁な国民と民間企業の方は、それぞれの「節電」努力によって、この夏に「原発なしでも可能なエネルギー需要」のあり方を学んで、乗り切ろうとしています。

 永田町の政局や霞ヶ関の官僚制に期待はできなくても、私たちの意見表出のルートは、開かれています。本サイト特設「イマジン」にあるように、ウェブ上には無数の震災・原発関連サイトがあり、「国民の生活」に根ざした討論が、日々展開されています。9月19日に、東京明治公園で、内橋克人、大江健三郎、落合恵子、鎌田 慧、坂本龍一、澤地久枝、瀬戸内寂聴、辻井 喬、鶴見俊輔さんのよびかけた「脱原発1000万人署名運動の総まとめ、「さようなら原発」5万人集会が開かれます。その前後に、「9月脱原発アクションウィーク」のさまざまなイベントが企画されています。もちろん、東京だけではありません。「脱原発系イベント・カレンダー」には、北海道から沖縄まで、全国の予定が書き込まれています。こどもたちの放射線被ばくを心配するお母さんたちの集いが目立ちます。日本ばかりではありません。『世界が見た福島原発災害ーー海外メディアが報じる真実』(緑風出版)の著者、仙台の大沼安史さんの発信するブログ「机の上の空」は、アメリカ滞在中も毎日覗いて大変重宝しましたが、そこにあるように、イタリア在住の日本人有志が「日本国政府に「脱原発」政策の実現を求める公開嘆願書」運動を始め、全ヨーロッパに広がっています。その嘆願書は、「日本は、ヒロシマとナガサキという、人類にとっての癒せぬ「原爆の深い傷」を負った世界で唯一の国として、今こそ、フクシマという厳しい現実と真摯に向き合い、これ以上のヒバクシャを出さない未来の世代への責任ある選択をする倫理的な義務があるはずです。そして、その選択に必要な叡智と技術、勇気が、今日の日本にはあると信じます。私たちは、真に民意を反映した政策の実現を切に日本国政府に願います」と結ばれています。3・11を経た民主党の代表選挙でも、国会での首班指名でも、原発についての国の姿勢が真剣に問われないのなら、今こそ「民意」の所在を、私たちの行動で示すときです。

 前回8月更新トップで掲げた、 20世紀メディア研究所占領期新聞雑誌情報データベース「プランゲ文庫」をもとにした1945−50年の日本における「原子力の平和利用」言説の私の分析には、多くの反響がありました。なかでも「ピカドン」「アトム」とカタカナになると、あまり抵抗感なく受け入れられ、「鉄腕アトム」以前から少年マンガの世界では「原子力へのあこがれ」が広がっていた話には、いくつか具体的な情報が寄せられました。その一つ、『愛媛新聞』49年1月13日広告欄から拾った、<「あとむ製薬」から「ピカドン」という薬が発売>の件で問い合わせがあり、調べたところ、なんと「あとむ製薬」は、1948年広島市安芸区に設立された薬種会社で、その後も社名を変えて、ヒロシマで存続しています。しかも、どうやら「あとむ製薬」は、もともと漢方薬から出発したようで、「ピカドン」も滋養強壮剤だったようです。これが「お薬博物館」にある富山県黒部産の「風邪にピカトン」という置き薬(1包40円)、富山市電子図書館にあるらしい「かぜに新ピカトンM( UESHIMA SEYAKUSYO)」とは別だとすれば、朝鮮戦争期の日本には「ピカドン」(「ピカトン」であっても包み紙から瞭然)という薬が、ヒロシマから発して全国で流通していたことになります。もちろん「ピカドン」といえば、丸木位里・俊夫妻の絵本『ピカドン』が1950年にポツダム書店から発行され、GHQのプレスコード規制(事後検閲)により、発売直後に発行禁止処分にあいました。「ピカドン」に原爆の悲惨戦争の記憶をだぶらせ、被爆体験フクシマまで貫こうとする肥田舜太郎さんのような言説もあります。「『ピカドン』が憎い」という小谷静登さんの叫びは、今でも心を打ちます。同じヒロシマに発するこの「ピカドン」への二重性、一方で「ピカドン」を憎み、呪い、他方で「ピカドン」に生命力の回復を託す心性こそ、1954−55年に原水爆禁止運動と「原子力の平和利用」を同時出発させる、戦後日本の両義性の原型でしょう。

私がアメリカに発つ直前、8月3日の『朝日新聞』に、「被爆国になぜ原発? 問われる『だからこそ』の論理」という塩倉裕記者の論説記事が載りました。そこに「日本人は原爆の唯一の被害者だから、平和な原子力を研究する権利を最も持つ」とする武谷三男の「だからこそ」の論理が、加納実紀代さんの「ヒロシマとフクシマのあいだ」(『インパクション』6月号)を用いて、紹介されました。前回指摘した『朝日新聞』1946年1月22日社説「原子力時代の形成」、47年9月10日社説「原子力の平和利用」、48年2月29日記事「原子力に平和の用途」等の自己分析がない点では画竜点睛を欠きますが、重要な問題提起です。ただし、戦後日本の左派の原子力論をリードし実践した武谷三男の言説は、「だからこそ」に尽くされない重層性があり、歴史的にも変化します。たとえば「原子力とマルクス主義」という論文があり、ソ連の科学技術発展に理論的希望を見いだしながらも(『社会』1948年8月号、『武谷三男著作集』4)、実際にソ連で原子力発電が出発し、日本でも Atoms for Peace から原発導入に入る頃には、「原水爆時代から原子力時代へ」という論理で、未だ技術的には未成熟で「原子力時代」にはほど遠いという実践的批判の立場を貫きます(「『原子力時代』への考え方」『エコノミスト』1955年9月、『武谷三男現代論集』1)。当時の「原子力時代」礼賛論への批判です。問題はむしろ、武谷に限らず、日本の物理学者・社会科学者が、東西冷戦の文脈の中で核兵器と原子力発電をどのように位置づけていたかという点にあるのではないか、というのが、私のさしあたりの仮説。アメリカで入手したPeter Pringle & James Spigelman, The Nuclear Barons(Holt, Rinehart & Winston ,1981), John Krige, American Hegemony and the Postwar Reconstruction of Science in Europe (The MIT Press, 2008)がこの点で大変役立ちそうですし、今月滞在するドイツからは、Reinhard Zoellner, Japan. Fukushima. Und Wir(udicium Verlag, 2011)が早くも到着しました。日独原発の歴史的比較を含んだ、刺激的な本です。3・11で春学期が5月から始まったために、夏休みが短くなり、本格的読書の時間がとれません。9月はヨーロッパ滞在のために、15日の更新はパスし、次回更新は10月1日とします。ご了承ください。


「非日常の日常化」のなかで、忘れてはならないこと

2011.8.1  新潟県や福島県の豪雨で、また大きな被害が出ています。大きな地震も続きます。台風も近づいています。もう震度5くらいでは驚かなくなった、「非日常の日常化」に、唖然とします。福島や北関東の放射能、野菜から牛肉に広がった汚染食品にこそ、「非日常の日常化」の広がりがあります。つぎに卵や魚から放射性物質が検出されても、政府の「直接健康には心配がない」との説明には半信半疑でも、私たちは「非日常の日常化」を甘受し、今までの生活を続けることになるのでしょうか? そこからまたぞろ、「原子力の平和利用」の日常化が、たくらまれています。菅首相の「脱原発」は、首相の政見から「個人的」意見へ、長期的・段階的「減原発」へと、後退を重ねています。九州電力の「やらせメール」に佐賀県知事まで関与していたと分かったのに、中部電力・四国電力では経済産業省原子力安全・保安院が率先して国主催の原発シンポジウムを「やらせ」に導いていたことまで広がると、やはりというか、あきれはててというか、半ば思った通りと、納得できてしまいます。「非日常の日常化」の極みです。マスコミの報じる問題は、もっぱら今夏を停電なしでのりきれるかどうかのエネルギー需給問題に転化され、再生エネルギー開発には時間がかかるという口実で、「エネルギー供給のベスト・ミックス」「減原発」に落としどころをもっていく、そんな原子力村の算段に乗りかかっています。焦点は、現在とまっている原発を、一つでも再稼働を許すかどうかに、収斂しています。

 朝日新聞が、シリーズ「原発国家」「原爆と原発」「核の時代を生きて」と、日本人と原子力の関わりの、歴史的検討を始めました。結構なことです。7月31日の「1984年に外務省、原発への攻撃を極秘に予測、全電源喪失も想定」という記事も、ジャーナリズムの信用回復に資するものです。でも、これらを読んでも、すっきり胸に落ちません。何かが欠けています。それは、自己分析の欠如です。1955年のライバル読売新聞社主正力松太郎がCIAとも結んだ「原子力の平和利用」キャンペーンは、当然また取り上げられるのでしょうが、その年「新聞週間」の標語は、「新聞は世界平和の原子力」だったのです。 「原爆から原発へ」を批判的に論じるのなら、そうした時代背景を、自らの反省に引きつけて、検証すべきでしょう。たとえば朝日新聞は、1946年1月22日社説で「原子力時代の形成」を、47年9月10日社説で「原子力の平和利用」を主張しています。48年2月29日の記事では、「原子力に平和の用途」を掲載してきました。しかしこれは、別に朝日新聞だけのものではありません。「唯一の被爆国」日本の核意識・核イメージの初発におけるボタンのかけ違い、「原爆」そのものの受け止め方の問題と関わっています。以下、私も属す 20世紀メディア研究所占領期新聞雑誌情報データベース「プランゲ文庫」を手掛かりに、現在進行形の研究の一部を公開しておきます。一つには、今年もヒロシマ・ナガサキ原爆記念日の8月を迎えます。この機会に、ヒロシマ・ナガサキの悲劇がいかに忘れられていったか、1945年8月体験の「非日常の日常化」のメカニズムを見ておくことも、意味あると思われるからです。いまひとつは、私はまもなく日本を離れ、昨年同様、8月アメリカ、9月ヨーロッパの調査旅行に出発します。次回更新は、二つの滞在旅行の合間の一時帰国時、9月1日になる予定ですので、時局コメントや政局モノは、今回は省かせていただくためです。

問題は、1955年の中曽根康弘・正力松太郎の暗躍によるAtoms for Peaceによる原子力発電への出発、「自主・民主・公開」の原子力基本法のはるか以前から、「原子力」に「原爆」の裏返しとしての「巨大な力」「無限のエネルギー」「新しい産業革命」を見いだしてきた歴史にまで遡ります。「原子力の平和利用」言説に限定すれば、1946年9月の雑誌『全体医術』と、同月の仁科芳雄・横田喜三郎・岡邦雄・今野武雄の座談会「原子力時代と日本の進路」(『言論』46年8・9月号)に現れ、こどもたちの世界では、『中学上級』47年2月号「科学の新知識」で使われ、朝日新聞社の『こども朝日』47年10月号は、「平和に原子力、すばらしい威力を世界の幸福に利用」と報じます。学術論文としては、以前も書いた平野義太郎「戦争と平和における科学の役割」(『中央公論』48年9月号)が先駆ですが、内容的にはもっとずっと早くから、もっと啓蒙的なかたちで、占領期日本の言論空間では当たり前でした。

ヒロシマ・ナガサキと敗戦の年、1945年12月には、雑誌『科学世界』に「機関車に原子力を」、『雄鶏通信』に「原子力の工業化は前途遼遠」「原子力自動車」「原子力発電機スピードトロン」が出ています。ヒロシマの地元『中国新聞』でも、1946年3月25日にビキニ環礁での核実験で「原子力の漏洩心配なし・ローズス少将談」を報じたのを先駆けに、「強力な武器としてのみに利用されている原子爆弾を食糧増産に利用したらどうか」(46年7月26日)、「原子力の平和的利用法、偉大な発見近し」(48年5月4日)などと、「原子力へのあこがれ」は、日本全体と共有されていました。一番多いのは、自動車・機関車・船・飛行機など交通手段の動力で、機関車も燃料いらず平和の原子力時代来れば」(『九州タイムズ』46年11月27日)、「月世界・金星旅行の夢ふくらむ、今日原子力の記念日」(『西日本新聞』46年12月3日)ですが、もちろんそのエネルギーは発電にも期待されます。「原子力の医学的利用」(『海外旬報』46年6月10日)、「平和のための原子力時代来る、新ラジウム完成す、安価にできるガンの治療」(『京都新聞』48年8月8日)はもとより、「お米の原子力時代」で農業増産(『生活科学』1946年10月)、「農民の夢、原子力農業」(『明るい農家』49年6月)、はては「農家を悩ます颱風の道、原子力で交通整理」と、原子爆弾で台風の進路を変えることさえ夢見られます(『中国新聞』46年7月26日)。寒冷地北海道の科学普及協会『新生科学』48年12月号は「科学の目:近く原子力暖房」という具合です。

まり原子力は、敗戦・復興期の日本人の夢でした。『科学の友』1949年3月号の「進歩してきた人類の文化」は、旧石器時代・新石器時代・青銅器時代・鉄器時代から始まり、フランス革命時代・産業革命時代・大戦時代を経て、ついに「原子力時代」に到達します。ヒロシマと共に原爆を経験したナガサキでも、「平和にのびる原子力、破壊→幸福の力→建設、驚異・300倍の熱量、航空機・自動車・医療へ実用化」と『九州タイムズ』49年8月9日で語られます。長崎原爆記念日についての記事です。「平和のために闘う原子力」は『科学画報』49年4月にあり、「原子力は第2の火、人間は別種の動物に進化」(『長崎民友』49年1月1日)と、原子力は「歴史を進める」主体、「進化」「進歩」の象徴として出てくるのです。

 ですから当時の華やかな労働運動のなかでも、たとえば全逓信労組広島郵便局支部の機関紙が『アトム』と命名され(47年9月20日)、「第2の火の発見ーー原子力時代」は国鉄労組東京鉄道教習所『国鉄通信教育』48年12月号の「教養」欄にあります。特に1949年は、1月総選挙で共産党大躍進、夏に下山・三鷹・松川事件、10月毛沢東の新中国建国、そのころソ連初の核実験成功発表ですから、すでに志賀義雄「原子力と世界国家」(日本共産党出版部『新しい世界』48年8月)で「社会主義の原子力」の夢を語っていた共産党まで、「光から生まれた原子、物質がエネルギーに変わる、一億年使えるコンロ」(日本共産党出版部『大衆クラブ』49年6月号)とボルテージをあげます。ソ連の原爆保持でその夢が現実になったとして、1950年1月18日の第18回拡大中央委員会報告、いわゆる「コミンフォルム批判」を受けての日本共産党の自己批判は、冒頭「国際的規模で前進する人民勢力」で「ソ同盟における原子力の確保は、社会主義経済の偉大な発展を示すとともに、人民勢力に大きな確信をあたえ、独占資本のどうかつ政策を封殺した」「原子力を動力源として運用する範囲を拡大し、一般的につかえるような、発電源とすることができるにいたったので、もはや、おかすことのできない革命の要塞であり、物質的基礎となっている」と宣言するのです。

 しかしまだ、「原爆」や「原子力」では、「原子力戦争は人類の破滅」(『週刊東洋経済』48年4月24日)、「原子力と共産党員、使途は平和か武器か」(『九州タイムズ』49年2月25日)、「天国の裏は地獄である、我々は何れを選ぶか」(『農民クラブ』49年6月)、「ソ連の原子爆弾で戦争の危機緩和か、原子爆弾に使われる危険」(『週刊東洋経済』49年10月)と留保があり、危惧もされます。占領軍GHQの検閲は、あらゆる出版物に及びますから、原爆を落としたアメリカへの批判や広島・長崎の放射能被害の継続は隠蔽されます。「ソ連に原爆と殺人光線」といった記事は検閲され(『京都新聞』48年3月11日)、逆に「広島・長崎の原爆放射能消滅」というAP電はフリーパスです(『北日本新聞』48年10月8日)。

 ところが、「ピカドン」「アトム」とカタカナになると、あまり抵抗感なく、受け入れられたようです。カタカナの魔力は、「ピカドンと婦人、広島病院のお答え、不妊の心配なし、奇形児も生まれませぬ」(『中国新聞』46年7月10日)などと使われ、『佐世保時事新聞』48年8月2日は、原爆記念日を前に「アトムの街々」特集で、「広島と長崎、それは原爆の地として世界注視のうちに新しい平和を求めて起つところ、人類に原子力時代到来を願って今こそ戦後の世界復興を」と、訴えます。広島・長崎を「アトム都市」とする記事は47年から現れ、47年12月の昭和天皇の広島行幸は、「お待ちするアトム広島」(『九州タイムズ』47年12月1日)、「ピカドン説明行脚、天皇がアトム広島に入られた感激の日」(『中国新聞』47年12月11日)のように使われます。「あとむ製薬」から「ピカドン」という薬も売り出されています(『愛媛新聞』49年1月13日)。

 1948年の長崎原爆記念日は、「祈るアトム長崎、3周年記念、誓も新た平和建設」と報じられました(『西日本新聞』48年8月10日)。爆心地は「浦上アトム公園」になり(『熊本日日新聞』48年8月10日)、「アトム公園を花の公園に」とよびかけます(『長崎民友』49年3月24日)。これがこどもたちの世界では、「アトム先生とボン君」(『こども科学教室』(48年5月1日)、中野正治画「ゆめくらぶ・ミラクルアトム」(『漫画少年』48年8月20日)、和田義三作連載マンガ「空想漫画絵小説:アトム島27号」(『冒険世界』49年1月1日)、原研児「科学冒険絵物語 アトム少年」(『少年少女譚海』49年8月1日)と、ほとんど無防備で、「夢の原子力」へと一直線です。手塚治虫「鉄腕アトム」(「アトム大使」1951年)の登場は、時間の問題でした

 実はこうした大衆的・啓蒙的「原子力」言説の背後に、敗戦による荒廃・焼け跡闇市からの「復興の夢」「遅れた国」日本の「近代化の夢」があり、そこで期待される「科学の力」「文化国家」への希望と信頼が読みとれます。それを受けた、科学者たちの解説・論評が、「原子力時代」の時代認識を支えています。1945−49年に論壇・記事への登場回数の多い方からあげると、湯川秀樹134、武谷三男128、渡辺慧88、仁科芳雄68、藤岡由夫37、嵯峨根遼吉37、伏見康治30、坂田昌一17、朝永振一郎14、といった物理学者・原子力研究者たちです。私が注目しているのは、左派の原子力解説者武谷三男と、中曽根康弘の核政策ブレーンになる嵯峨根遼吉、しかしフクシマの悲劇を見た今日の時点では、湯川秀樹、仁科芳雄、朝永振一郎らの言説も、「共産党宣言」のヴァージョンアップを謳った渡辺慧「原子党宣言」も、改めて読み直されるべきだと思われます。

 8月はアメリカ、9月はヨーロッパ で国際歴史探偵です。この間、夏の旅行のため、世界各地の友人・協力者の皆さんと日程調整のメールをやりとりしたのですが、ニッポンの3・11は、フクシマ のその後も含めて、ほとんどニュースに出なくなったようです。リビアの政治危機、ギリシャの財政破綻、ノルウェーの政治テロ、そしてアメリカのデフォルト問題と、世界は動いていますから、ある意味、当然なことです。こういう中で、大沼安史さん『世界が見た福島原発災害ーー海外メディアが報じる真実』(緑風出版)は、「非日常」が世界から注目されていた局面での日本メディアの問題を浮かび上がらせ、貴重な記録です。仙台で被災した著者大沼さんは、ブログ「机の上の空」で、いまも価値ある情報発信を続けておられます。さっそく「IMAGINE! イマジン」に入れて、小出裕章非公式まとめ」と共に、海外でも毎日チェックします。皆様もぜひ。次回更新は、8・15はお休みとし、9月1日の予定です。


 本「ネチズンカレッジ」「情報学研究」「専門課程2 世界史の中のゾルゲ事件」所収、講演記録「ゾルゲ事件の残された謎」(日露歴史研究センター『ゾルゲ事件外国語文献翻訳集』第19号、2008年6月)に、重大な誤植がありました。といっても、私の講演部分ではなく、日露歴史センターがテープから起こした15ページの由井格さんの発言冒頭部分で、小見出し「ポール・ラッシュがウィロビー報告を執筆」以下の5行は、以下のように訂正になります。日露歴史研究センター作成のpdfファイルへのリンクで、レイアウト上うまく訂正できないため、ここに正文をかかげて訂正とします。由井格さんには、ご迷惑をおかけしました。

由井格「ウィロビー報告の赤色スパイ団について書いている部分は、私の見る限りポール・ラッシュなんですね。ポール・ラッシュは、山梨県の清里にキリスト教の研修・保養のための大きな施設を造ったため、山梨県の教会関係者のあいだでは神様みたいになっている人です。」


「国策」を「脱原発」に転換するために、この夏、何が必要か?
 

2011.7.15  久しぶりで、外信で日本が、大きくとりあげられました。13日記者会見での菅首相の「脱原発」宣言です。ウォール・ストリート・ジャーナルは「国策の転換」として扱いました。もっとも「国民投票や政府の様々な議論を経て脱原発への方針転換を決めたイタリア、ドイツと異なり、菅首相の政策転換は突然だった」と、その実現可能性には冷ややかですが。5月のフランスでのサミットでは「安全性を高めて継続的使用」と世界に福島原発事故を弁明していたのですから、疑われるのは当然でしょう。案の条というべきか、野党の社民党や共産党からは歓迎されたものの、お膝元の閣僚からも民主党内からも権力維持のための延命パフォーマンスという声が出て、14日の枝野官房長官の説明では「首相の希望、内閣の目標でない」「脱原発は将来の思い、当面は原子力活用」。15日の国会では自ら政府方針ではないと弁明する醜態で、何とも弱々しいメッセージです。世論は確実に「脱原発」に向かい、永田町でも「再生エネルギー法案」国会審議がようやく始まりましたが、JR東海葛西会長の「原発推進しか活路はない」宣言をはじめ、原発推進・継続勢力の巻き返しも強まっています。「国策」の行方は、まだまだ不透明です。

 「脱原発」を進行させない大きなバリアが、九州電力の「やらせメール」で明らかになった、電力会社・経済産業省・御用学者一体の「原発再開」世論操作、「原発安全」キャンペーンです。その歴史的起源は古く、1986年のチェルノブイリ原発事故で世界が「脱原発」に向かいはじめ、日本でも広瀬隆さん『東京に原発を』『危険な話』がベストセラーになり、高木仁三郎さんらが「脱原発法」制定をめざし署名運動を始めた1980年代末、「原子力村」は原発継続・増設のために反対意見を封じ込め、テレビのコマーシャルや雑誌・新聞記事ばかりでなく、政府のパンフレットや学校教育まで使ってプロパガンダを強め、「安全神話」を広めてきました。政府の公聴会や地元説明会でも「やらせ」が当たり前であったからこそ、福島原発の悲惨がいまなお続いているもとでも、玄海原発再開の是非を問う政府主催の説明会に、「いつもの手法」で乗り切ろうとしたのでしょう。もともと安全審査の公開ヒアリングさえお手盛りだったのですから。かつて小泉内閣のもとで行われた「タウン・ミーティング」の手法と同じで、民主主義の体裁を整えるだけの目眩ましでした。自民党内閣のさいには「やらせ質問」者に謝礼が払われていたことが問題になりましたが、九州電力は、原発再開賛成意見の「例文」までつくって、社内の上司から部下へ、親会社から下請・系列会社に流していました。その「例文」も「電力が不足していては、今までのような文化的生活が営めないですし、夏の「熱中症」も大変に心配であります。犠牲になるのは、弱者である子供や年配者の方であり、そのような事態を防ぐためにも、原子力の運転再開は絶対に必要であると思います。併せて電力会社の方には、万全な安全対策をくれぐれもお願い致します」と、岩手・宮城・福島で被害弱者になっているこどもやお年寄りをも、原発再開の口実に使っていました。むごい話です。資源エネルギー庁は原発反対世論の監視のために多額の予算を出し、他方、事故後に誤った原子炉情報をテレビで流していた原発推進の東大教授らには、電力会社・原発メーカー・政府から「寄付金」「委託研究費」の名で「8億円原発マネー」が分配されていたとか。そのとばっちりは、圧倒的多数のまじめな研究者の研究費、社会科学や人文科学でも重要な日本学術振興会科学研究費補助金にしわよせされ、今年度科研費の一律3割減額?というかたちで、大学・研究機関に深刻な混乱を招いています。

 もう一つのバリアは、1974年田中角栄内閣時につくられた、電源3法による交付金・補助金に群がる原発立地の地域利権構造です。それがどういうものであるかは、前福島県知事佐藤栄佐久さん『福島原発の真実』(平凡社新書)に、生々しく書かれています。話題の東大修士論文開沼博「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)は、歴史的・構造的問題として描いています。もともと1973年の石油危機で石油価格が高騰し、「石油から原子力へ」の気運が生まれたところへ、70年代にようやく本格化した商業原発の立地を増やそうと、角栄得意の金権補助金で過疎地域に原発を誘致させ、地元の地主・政治ボス・土建業者を太らせながら、「原子力ムラ」は増殖してきたのです。この補助金利権構造が、佐賀県玄海原発再稼働の推進力になっていることは、九州電力の「やらせメール」問題の余波で、明らかになりました。玄海町岸本町長の弟が地元建設会社の社長で16年間で少なくても54億円を九州電力から受注していた事実、また佐賀県古川知事父親は九州電力社員・元玄海原発PR館館長で、知事自身も九電幹部から政治献金を受けていたことが発覚しました。原子力発電は、土建国家と一体で、汚職の温床である利益誘導政治の展開の中で、世界第3の規模にまで増殖してきたのです。

その起源をさらに遡ると、1955年の原子力基本法の成立、中曽根康弘と正力松太郎が暗躍して日本の原子力政治が出発した時点に、行き着きます。前回本サイトは、1954年第5福竜丸事件で「死の灰」を経験し、1955年8月に第一回原水爆禁止世界大会が開かれた原水禁運動の出発と並行して、日本の原子力発電導入が進み、同年12月に原子力基本法が成立して今日の悲劇にいたる経緯が重要だと述べましたが、日本原子力産業会議編『原子力はいまーー日本の平和利用30年』(丸の内出版、1986年)を読んで驚きました。第1章「ヒロシマ、ビキニを超えて」の冒頭が、いきなり「『札束』登場」の見出しで、1954年3月、中曽根康弘が最初の原子力予算を通過させる際に「議論にあけくれる学者を札束で目をさまさせた」武勇伝がでてくるのです。反原発派の藤田祐幸さんの論文you tubeで「札束で頬をたたく」という当時の流行語は知っていましたが、原発を推進してきた日本原子力産業会議(現原子力産業協会)の公式の30年史、それもチェルノブイリ事故直後の1986年11月に出版された書物の冒頭に、得意げにこのエピソードが書かれているのです。ちょうど54年当時「改進党の青年将校」だった中曽根康弘が総理大臣に上りつめた時期で、上に述べた80年代後半の「原発安全」キャンペーン、反原発派批判の「安全神話」づくりの情報戦も、原子力専門家やマスコミを「札束で頬をたたく」手法で推進派に巻き込み、進められたことをうかがわせます。しかもサブタイトルは「平和利用30年」、「原子力の平和利用=原発」と「核兵器廃絶の原水禁運動」が同時に出発し、両者が交わることなく併存してきたことが、日本の「脱原発」を困難にしてきた第3のバリアで、この点がようやく国民的論議にのぼってきたところに、「3・11フクシマ以後」の新しい特徴があります。今年の8月ヒロシマ・ナガサキの原水禁運動・平和運動の中で、どこまで「反原爆」と「反原発」が合流できるか、これこそ、頼りにならない菅首相のパフォーマンスよりも明確な、世界へのメッセージになります。さしあたり、ヒロシマナガサキ市長の「平和宣言」に注目しましょう。全国8府県1457市町村にのぼる「非核平和都市」の皆さんも、自分の自治体の「非核」の意味がどのようなものであるかを点検し、改めて「宣言」を発すべきでしょう。この夏を、「原発がなくても電力をまかなえる夏」「ヒロシマ・ナガサキをフクシマから見直す夏」にすることによって、「国策」転換の国民的討論がスタートできます。

 本当は、さらにその根底にある、敗戦直後からの日本人の「原爆」「原子力」「アトム」イメージの問題アメリカ及び旧ソ連の原子力開発・援助競争の再検討が必要です。「短い20世紀」の後半を特徴づける東西冷戦の時代は、同時に「核時代」であり、核兵器と核エネルギーによって、地球全体が「恐怖の均衡」に巻き込まれた時代でした。いや、膨大な核兵器・核実験、原発増殖・原発事故によって、人類が経験したことがない人工の放射性物質が蓄積され、地球生態系と生活圏が攪乱され汚染されてきた歴史でした。それが、産業革命後とも石炭・石油エネルギーの時代とも異なる、「近代合理性の倒錯」の極限であることは、社会科学者でありながら、つとに坂本義和教授が見抜いていたところです(坂本義和「近代としての核時代」坂本編『核と人間(1)』岩波書店, 1999年)。イマジンに入れた吉岡斉さん原子力の社会史ーーその日本的展開』(朝日選書、1999年)やウェブ上の東京外語大学科学史研究吉本秀之さん原子力と検閲」と共に、必読です。私個人は、前回も述べましたが、米国9・11に際して書いた「現代日本社 会における「平和」──情報戦時代の国境を越えた「非戦」」(『歴史学研究』 第769号、2002年11月)を、見直します。「戦後民主主義」を支えた「平和」意識に内在する(1)アジアへの戦争責任・加害者認識の欠如、(2)経済成長に従属した「紛争巻き込まれ拒否意識」、(3)沖縄の忘却、(4)現存社会主義への「平和勢力」幻想、の4つの問題点(情報戦の時代花伝社 、2007)に加え、3・11によって「根底から今までの原子力問題に対する態度の甘さを認識させられ」た反省のもとに、(5)核戦争反対と核エネルギー利用を使い分ける二枚舌の「平和」、を歴史的に検討していきます。相変わらず政府や東電の発表は信用できませんから、福島原発事故の推移については小出裕章非公式まとめ」を、放射能汚染については週刊誌と中部大学:武田邦彦さんブログを、毎日チェックしていきます。

 


「唯一の被爆国」でなぜ「ヒロシマからフクシマ へ」の悲劇が再現したのか? 

原子力にまつわるあらゆる「神話」の検証を!

2011.7.1  3月11日以来、世界から見える日本の光景は、大きく変わりました。人類史上まれにみる大地震と大津波で東日本が壊滅的被害を受けた国、自動車や電気製品の部品工場が被災し世界のメーカーの生産ラインをとめた国。ベトナムほか世界に輸出しようとしていた原発が、福島でチェルノブイリに匹敵する巨大なメルトダウン事故を起こし、いまだに核燃料を制御できず、放射能汚染を広げている国。「技術大国」の神話は、崩壊しました。その事故に際して、メルトダウンの事実を長く認めず、基本データの発表数値がいくども変更され、放射性物質を含む汚染水を近隣諸国に無断で海に流すという、政府と東京電力(TEPCO)の情報隠蔽に、唖然とさせられました。そうした政府と「原子力村」公認情報を一方的に流すのみで、まともな真相究明も原発政策批判もできなかった、ジャーナリズム不在のマスコミ。世界一の発行部数を持つ大新聞と、長時間視聴を誇ってきた日本のテレビのあり方も、地に墜ちました。わずかな希望としてスポットを浴びたのは、地震・津波被害に遭いながらも24時間治療を続けた医師中国人研修生20名を津波の危機から救い自らは犠牲になった水産会社の専務You Tubeを通じて政府を通さず原発事故の悲惨を伝え世界からの支援を訴えた福島県南相馬市長、そして高放射能の原発事故現場で炉心安定化のために働く下請け・孫請け作業員たちです。事故直後の、略奪も暴動も起こらない沈着冷静な日本人、避難所で助け合う秩序正しい日本人という報道は、ほとんど3月中だけのことで、その後は、政府と東電の場当たりで非情な避難命令に怒りを表情で示さず唯々諾々と従う被災者、世界中から集まった支援物資・義捐金がいまだに被災者に届かない不明朗で不思議な国、原発反対デモの両側を武装警官がとり囲み市民と分断する、途上国独裁国家なみの治安維持・言論の自由。何よりも、この非常時に、政治家が現地の救援・復興に向かわず、首相の不信任や政党の合従連衡で国会が空転する、無為無策の政治。「脱原発」さえ政争の具として扱い、権力にしがみつく、与党からも孤立無援の首相。無論、中東危機やギリシャ財政危機で揺れる世界では、外交的にまともな交渉のできる相手とは、見なされません。「先進国」「民主主義国」というイメージも、深く傷つきました。

 「原発絶対安全神話」と一緒に、さまざまな「神話」が崩壊しました。故高木仁三郎さんは、亡くなる直前の2000年8月に『原子力神話からの解放ーー日本を滅ぼす九つの呪縛』(光文社)を発表していました。1999年9月の茨城県東海村JOCウラン加工工場「臨界事故」をきっかけに執筆されたもので、「プロローグーー原子力の総括として」には、この事故は「原子力産業や政府はもちろんですが、原発反対派の私自身も含めて、根底から今までの原子力問題に対する態度の甘さを認識させられ、痛感させられる、そういう事故だった」とあります。そして、「原子力安全神話」を支える9つの「神話」を、一つひとつ解きほぐしていきます。「原子力は無限のエネルギー源」という神話、「原子力は石油危機を克服する」という神話、「原子力の平和利用」という神話、「原子力は安全」という神話、「原子力は安い電力を供給する」という神話、「原発は地域振興に寄与する」という神話、「原子力はクリーンなエネルギー」という神話、「核燃料はリサイクルできる」という神話、「日本の原子力技術は優秀」という神話。10年前に書かれ、最近講談社文庫に入ったのに、不幸にも、現在の事態を完璧に予見しています。「神話の呪縛」は、21世紀に入っても、しぶとく続いていたのです。最近構造不況の出版界に、異変が起きています。原発事故や放射能汚染を特集した雑誌や週刊誌が売れています。単行本でも、高木仁三郎さんの精神を受け継いだ3・11以後の語り部、京都大学原子炉実験所の小出裕章さんの本が、爆発的ベストセラーになっています。新刊『原発のウソ』(扶桑社新書)は、発売20日間で17万部とのことです。アマゾンで見ても、コミックやダイエット本とならんでベストセラーに入っています。しかし小出さん自身は、原発事故が起こって売れたことに「うれしくない」と言っています。そうです。故高木さんの告発した「神話」は、世界史的なFukushimaの悲劇を体験した後に、小出さんたちの長年の真摯な研究と解説によって、ようやくほころび始めたばかりなのです。この夏は、原発がないと電力が足りない」という新たな「神話をめぐる攻防になりそうです。

 マスメディアにもようやく、小出裕章さん広瀬隆さんが登場するようになり、脱原発世論の高まりの中で、大新聞にも政府・東電に批判的な検証記事や、「原子力村」の内部に切り込む記事が出るようになりました。前福島県知事佐藤栄佐久さんの最新刊『福島原発の真実』(平凡社新書)は、原子力政治の臨場感ある体験記で、日本の政治過程・政策決定の格好の教材となっています。しかし「原発安全神話」は、一朝一夕で出来たものではありません。故高木仁三郎さんの分析した9つの神話の多くは、1945年以後に政治的・社会的に形成された、情報戦の産物というべきものです。イマジンに入れた吉岡斉さん原子力の社会史ーーその日本的展開』(朝日選書、1999年)やウェブ上の東京外語大学科学史研究吉本秀之さん原子力と検閲」に刺激されて、原子力をめぐる情報戦を検討していくと、原発事故を自らの問題と受け止め内在的に批判してきた高木さんや小出さんを例外とする大多数の原子力研究者ばかりではなく、私も末端にいる政治学者や歴史学者、戦後科学技術研究ばかりでなく人文社会科学研究の全体も、「神話」誕生に一役買ってきたのではないかという問題に、突き当たります。「原発安全神話」は、その周辺の「大きな神話」のうえに成り立ち、増殖してきたのではないか、と思われます。たとえば「唯一の被爆国」という神話は、春名幹男さん『ヒバクシャ・イン・USA』(岩波新書、1985年)で、原爆開発のマンハッタン計画段階から多くの米国人「ヒバクシャ」を産んできた事実が述べられていますから、チェルノブイリ以前に崩壊すべきものでしたが、なぜか今日でもよく使われます。ウェブで読める中村功さんらの原子力安全基盤調査研究「日本人の安全観」(2004年)の実証資料、特に第3章「原子力の安全観に関する社会心理史的分析ーー原子力安全神話の形成と崩壊」をじっくり読むと、原発導入時に米国諜報機関の恐れた日本人の核アレルギー」というのも「神話」だったのではないかと気づかされます。

とすると、「平和国家日本」も「民主国家日本」も、「より大きな神話」であった可能性があります。世界から見れば、「憲法第9条」も「非核3原則」も、「杉並の主婦たちの始めた国民的原水禁運動」さえも、いまや原爆5000個分以上に達するプルトニウム保有を弁明するため自分たちを暗示にかけた「神話」だったのではないか、ということになりそうです。さしあたり、二つの歴史的転換点を検討してみようと思います。一つは1955年、前年第5福竜丸事件で「死の灰」を経験し、8月に第一回原水爆禁止世界大会を開いたのと並行して、日本の原子力発電導入が進み、同年12月に原子力基本法が成立して今日の悲劇にいたる経緯です。「原水禁運動」と「原子力の平和利用」神話による原発導入は、同時に出発しているのです。もう一つは1988年、チェルノブイリ原発事故の衝撃で、世界の反核運動が高揚してドイツほか多くの国で「脱原発」が始まり、日本でも広瀬隆『危険な話』が30万部のベストセラーになる「反原発」運動の高揚があった時点です。この冷戦崩壊直前のバブル期、なぜ「唯一の被爆国」神話下の日本は、世界の流れに逆行して、むしろ原発推進・増設の流れにアクセルを踏んだのか、という問題です。この時の世論の転換点を、中村政雄『原子力と報道』(中公新書、2004年)は、「ヒロセタカシ現象」に危機感を抱いた自民党政府・電力会社の情報戦、特に日本共産党『文化評論』誌上の日本科学者会議原子力問題研究会による広瀬隆批判を『文藝春秋』に登用・転載し大々的に利用した「反原発」言説封じ込めに求めていますが、その真偽を含む歴史的検証が必要です。今後当HPでは、さまざまな史資料を公開していきます。

 かつて私は、21世紀のとば口での米国9・11に際して、「現代日本社 会における「平和」──情報戦時代の国境を越えた「非戦」」(『歴史学研究』 第769号、2002年11月)を発表し、「戦後民主主義」を支えた「平和」意識に内在する(1)アジアへの戦争責任・加害者認識の欠如、(2)経済成長に従属した「紛争巻き込まれ拒否意識」、(3)沖縄の忘却、(4)現存社会主義への「平和勢力」幻想、の4つの問題点を析出しました(情報戦の時代花伝社 、2007、所収)。しかし、10年後の3・11によって、「根底から今までの原子力問題に対する態度の甘さを認識させられ」、(5)核戦争反対と核エネルギー利用を使い分ける二枚舌の「平和」、を加える必要を痛感します。震災後の思想状況に、学術論文データベ ース寄稿の常連宮内広利さんが、「貨幣・自由・身体性ーー想像の『段差』をめぐって」で斬り込みましたので、新規アップ。ボードリヤールやポランニーを使って、小熊英二や中沢新一を批評しています。私の『東京新聞』『中日新聞』紙上のジェフリー・ゴーラー、福井七子訳『日本人の性格構造とプロパガンダ』(ミネルヴァ書房)書評も、アップしておきます。昨年、菅孝行・加藤哲郎・太田昌国・由井格「鼎談 佐野碩ーー一左翼演劇人の軌跡と遺訓(上)(下)」(『情況』2010年8・9月、10月)を行った延長上で、7月9日(土)午後3−6時、早稲田大学桑野隆教授らの「桑野塾」(早稲田大学16号館701号室)で、メキシコ大学院大学田中道子教授と共に、佐野碩について講演します。こちらも東日本大震災後に岡村晴彦『自由人 佐野碩の生涯』(岩波書店)を読み直し、佐野碩の思想形成に関東大震災のインパクトを見いだし、「亡命者佐野碩ーー震災後の東京からベルリン、モスクワへ」と題して、佐野碩研究の専門家田中道子さんの話「国際革命演劇運動家としての佐野碩」の前座をつとめます。公開ですから、ご関心のある方はぜひどうぞ。


  学術論文データベ ース寄稿の常連宮内広利さんが、「貨幣・自由・身体性ーー想像の『段差』をめぐって」で3・11以後の思想状況に斬り込みましたので、新規アップ。ボードリヤールやポランニーを使って、小熊英二や中沢新一を批評しています。私の『東京新聞』『中日新聞』紙上のジェフリー・ゴーラー、福井七子訳『日本人の性格構造とプロパガンダ』(ミネルヴァ書房)書評も、アップしておきます。中国研究の専門家矢吹晋さんとの対談が、矢吹晋・加藤哲郎・及川淳子『劉暁波と中国民主化の行方と題して、花伝社から本になり、話題になっています。昨年秋の信州大学国際シンポジウムでの基調講演汕頭市(貴嶼村)の現状からみる 中国の経済発展と循環型社会構築への課題が、信州大学からブックレットになりましたので、新規アップロード。パソコン・携帯電話など「電子ゴミ」の地球的行方をNIMBY (Not in my backyard)の観点から追ったものですが、おそらく「核廃棄物」の将来にも、応用できるでしょう。ゾルゲ事件関係のファイルが増えてきたので、「情報学研究室カリキュラムに、情報学研究<専門課程2ーー世界史のなかのゾルゲ事件> を追加。ゾルゲ事件2010年墓前祭の講演記録新発掘資料から見たゾルゲ事件の実相(日露歴史研究センター『ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集』第28号、2011年1月)等が入っています。日本経済評論社の新著、加藤哲郎・丹野清人編「21世紀への挑戦 7 民主主義・平和・地球政治」序論「情報戦の時代とソフト・パワーの政治の草稿段階での講演記録アメリカニズムと情報戦『葦牙』第36号、2010年7月)菅孝行・加藤哲郎・太田昌国・由井格「鼎談 佐野碩ーー一左翼演劇人の軌跡と遺訓(上)(下)」(『情況』2010年8・9月、10月)も、pdfで入れました。これまで「当研究室刊行物一覧」にありながらウェブ上では未公開だった、体制変革と情報戦――社会民主党宣言から象徴天皇制まで」(岩波講座『「帝国」 日本の学知』第4巻『メディアのなかの「帝国」』岩波書店、2006年)、「戦争と革命ーーロシア、中国、ベトナムの革命と日本」(『岩波講座 アジア・ 太平洋戦争』第8巻『20世紀の中のアジア・太平洋戦争』i岩波書店、200 6年)、「<天皇制民主主義>論」(松村高夫・高草木光 一編『連続講義 東アジア 日本が問われていること』岩波書店、2007年3 月)、「グローバル・デモクラシーの可能性ーー世界社会フォーラムと『差異の解放』『対等の連鎖』」(加藤哲郎・国廣敏文編『グローバル化時代の政治学』法律文化社、2008年3月、所収)なども新規収録。学術論文データベ ースにも、常連の宮内広利さん「初源の言葉を求めてーー中沢新一の自然と『非対称社会』アップされています日本経済評論社「政治を問い直す」シリーズ2部作、加藤哲郎、小野一、田中ひかる、堀江孝司編著『国民国家の境界加藤哲郎・今井晋哉・神山伸弘編『差異のデモクラシー』への書評を、梅森直之さんが『図書新聞』1月22日号に書いてくれました。早稲田大学大学院政治学研究科の新学期が、1か月遅れで始まりました。私の開講する大学院講義・ゼミ関係は、早稲田大学ホームページからアクセス願います。


Back to Home

Back to Library