ここには、<What's New>で定期的にトップに現れた、本ホームページの作成過程、試行版への反響、更新の苦労話、メールへのご返事、ちょっといい話、外国旅行記・滞在記などが、日誌風につづられます。趣味的なリンクガイドも兼ねます。ま、くつろぎのエッセイ集であり、対話のページであり、独白録です。日付けは下の方が古いので、逆読みしてください。
2011.6.15 第二次世界大戦後の日本は、戦争と空襲で多くの犠牲者を出し、その反省を踏まえて、日本国憲法をつくりました。ナチス・ドイツ、イタリア・ファシズムと結んで世界の民主主義国に敵対し、資源と市場を求めてアジア諸国に侵略した歴史への反省は、日本国憲法第9条「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」に結実しました。いやこれは占領軍の押しつけだという人は、ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』あたりから、当時の歴史を学んでください。もう一つ、第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」も、引いておきましょう。この「生存権」規定は、GHQの草案にもなく、国会審議の過程で追加された、正真正銘の「自主的」条項です。そしてその権利が、東日本大震災から3か月もたつのに、数十万人の人々に、最低限のレベルでも保障されない状況が続いています。避難所生活が続く人々に、世界中から集まった義捐金・見舞金が、まだ1割しか渡っていません。当座の生活に必要な資金が足りません。でも仕事も職場もありません。仮設住宅に入居すると、それまでのコミュニティから切り離され、食料も電気・水道代も自分で支払う「自活」が求められます。ですから抽選にあたっても、入居できない人がたくさんいます。がれきの山が片づきません。海岸線の鉄道復旧は全く見通しがたちません。いまだに8000人が行方不明です。8万人以上が避難所生活3か月です。衣食のために住を捨てるか、住を選んで衣食がまかなえるかの不条理な選択に迫られ、およそ「健康で文化的」以前の、ぎりぎりの生存があやうい状態です。国家の存在意義、政治の前提が、問われています。
福島県相馬市の酪農業の男性が、「原発さえなければ」と書き残して自殺しました。かつての戦争での日本の同盟国、ドイツもイタリアも、福島原発事故の衝撃で、明確に「脱原発」に踏み出しました。ドイツでは、2022年までにすべての原発を閉鎖し、再生可能エネルギーに転換します。沖縄タイムス社説のいう通り、「日本に突きつけた挑戦」です。イタリアの国民投票は、投票率57%で、原発再開反対94%と結論が出ました。チェルノブイリ事故後の国民投票で停止した原発は、フクシマの悲惨を見て、永久に放棄されるでしょう。すでにスイスも国民議会で脱原発を決議、原発大国フランスの世論調査でさえ、8割が脱原発へと動いています。日本でも、14日付朝日新聞の調査では、74%が原発「段階的廃止」と出ています。しかし日本ではなお、世論が脱原発へと動き始めたとはいえ、政治の動きが曖昧で、先行き不透明です。6.11全国「脱原発100万人アクション」は、ウェブのネットワークで呼びかけられ、東京新宿の2万人をはじめ国内140カ所でさまざまな創意的デモ・パレード・イベントが繰り広げられましたが、マスコミの報道は小さく、新聞でいえばローカル紙では大きく取り上げられても、全国紙の多くは無視するかたちです。しかし東京でいえば、4・10高円寺、5・7渋谷から確実に広がり、新たな市民の力が加わっています。日本でも「脱原発の国民投票をめざす会」がつくられ、国民投票を求める動きが具体化しています。東北出身の菅原文太さんも国民投票に乗り出したとか。それなのに、経産省と「原子力村」に乗ったマスコミの最大の関心事は、「今夏の電力不足」です。
世界と日本の世論の動きは、不幸なことに、3つの原子炉が同時にメルトダウンし、メルトスルーにまでいたった事態と並行しています。すでに膨大な放射性物質が放出されたことが、3か月後に公式に認められました。福島第一原発の深刻さは増し、いまなお事態を制御できていません。「核汚染大国ジャパン」の誕生です。第1に、事故現場で格闘する労働者・作業員の皆さんが、東電の杜撰な放射線量管理のもとで、8人が被ばく限度を越え、23人が作業から隔離されるまでにいたっています。悲惨な現場での作業はまだまだ必要ですから、ヒロシマ・ナガサキに続くフクシマのヒバクシャは、ますます増えざるをえないでしょう。第2に、福島県内ばかりでなく、東京を含む日本全体に、放射性物質が拡散しています。茨城・千葉県の一部で放射線管理区域なみの放射線量が観測され、夏を控えて、こどもたちの遊び場や、プール・海水浴場も安心できません。こども全員に線量計を持たせ、土壌や海底を含む観測地点を飛躍的に増やさないと、実態さえつかめません。日本の文部科学省や厚生労働省は、「健康で文化的な生活」を取り戻すための最低限の調査義務すら、果たしていません。外国から観光客がこないのは当然です。第3に、福島原発内の、膨大な汚染水と高濃度汚染のがれきの山があります。小出裕章さんが早くから言っていたように、10万トン級タンカーを買い上げ補修してでも汚染水を減らし、海や地下水への流入をくい止めるべきなのに、政府と東電は、アメリカ・フランス製処理装置の設置に手間取り、その効果も未知数のままです。「多重保護システム」で「絶対安全」だったはずの原発がメルトダウンして、その事後処理は、あの4−5月の「水棺」騒ぎの時と同じく、単線的対策のみです。梅雨の季節をしのげても、台風の季節はどうなるのでしょうか。余震や建屋崩落の危険も去っていません。なにより現在でも、放射性物質は放出され、たれ流されています。この状態を安定させるだけでも、工程表通りには行かないでしょう。ましてや廃炉・閉じこめ・廃棄物処理までの道筋は、一体何年かかるのか。内部被ばくを含む本当の被害・犠牲がわかるまで、何世代を要するのか。気の遠くなるような、いばらの道筋です。いったん暴走した原発は、人間の手に負えない怪物です。私たちはいま、チェルノブイリ以上に長く続く「危険社会化」を眼前に見ています。ヒロシマ・ナガサキ以上になりかねない、人類史上最悪の、人工構築物による緩慢な殺人=自殺を、経験しつつある可能性もあります。世界が注視し、反面教師とするのは、人間であるならば、当然のことです。
まともな国の政府の、まともな政治ならば、全国会議員が地震・津波の被災地に入り、率先して国民の救済にあたるのが当然でしょう。昨年夏のチリの鉱山落盤事故の時のように、福島の下請け労働者に代わって、原発事故・放射能拡大をくいとめようと「英雄的」パフォーマンスに走る政治家も、出てくるものです。ところが、この国の政治家が棲息しうごめく永田町界隈では、なにやら陰謀めいた駆け引きと綱引きばかりで、いっこうに前に進みません。当世風の政治学者としては失格かもしれませんが、次の首相や大連立内閣、政党政治よりも、日本政治の歴史的負荷、どこで道をまちがえたのかの方が、気にかかります。丸山眞男なら、「無責任の体系」で済ますことなく、律令時代の「マツリゴトの構造」まで遡るところでしょうが、非力の私にできるのは、せいぜいこの100年です。日本人と「原子力」の関わりを求めて、吉岡斉さん『原子力の社会史ーーその日本的展開』(朝日選書、1999年)をナビゲーターとして、戦時中の仁科芳雄らの原爆開発から戦後の科学技術政策・国民意識を調べ直して行くと、図書館で探したりアマゾンで注文する多くの文献が、東京外語大学科学史研究の吉本秀之さん「原子力と検閲」というサイトと重なることに気づきました。私の関心が、吉本さんがこの1月から3・11を経て追究している「核エネルギー(原爆・原発と検閲)」の問題と重なり、吉本さんの読む参考文献・サイトの後追いになります。本日付け朝日新聞「定義集」の大江健三郎の言葉を使えば、「ビキニ事件を端緒に、じつに短い期間で核実験反対の世論が原水爆禁止運動を盛り上がらせたが、同時に、日本はアメリカから原子炉、濃縮ウランを導入して、原発をつくるにいたった経緯」、いや、その歴史的根拠です。まさに定年後の科学史の手習いですが、日本の社会科学を含む科学技術の総体が、「ヒロシマ体験」と「悔恨共同体」(丸山眞男)から出発しながら、なぜ原発推進政治とフクシマに帰結したのかを考えるためには、不可欠の手続きのように思われます。
文学の世界では、現代日本を代表する二人の作家の3・11以後の世界への発言、大江健三郎「歴史は繰り返す」と、村上春樹「カタルーニャ国際賞受賞演説」が、注目されています。共に「脱原発」の方向を明確にしながらも、村上春樹の方は、「我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害」「我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?」と問い、「理由は簡単です。『効率』です」と自答して、明快です。他方、今回原発建設を「広島の原爆犠牲者に対する最悪の裏切り」とする立場を明確にし、「ヒロシマ・ノート」以来核兵器廃絶を課題とし実践し続けている大江健三郎が、なぜ1968年には「現に東海村の原子力発電所からの電流はいま市民の生活の場所に流れてきています。それはたしかに新しいエネルギー源を発見したことの結果にちがいない。それは人間の新しい威力をあらわすでしょう。(略)核開発は必要だということについてぼくはまったく賛成です。このエネルギー源を人類の生命の新しい要素にくわえることについて反対したいとは決して思わない」(講演「核時代への想像力」1968年5月28日、大江健三郎『核時代の想像力』新潮社、2007、120ページ)と発言しえたのかが、ウェブ上で問題にされています。それはおそらく、私たち「68年世代」を含む高度成長期を体験した日本人が、なぜ村上春樹のように「我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです」ときっぱり言い切れないのかという、重い問題です。それを考えるために、吉岡斉さんや吉本秀之さんに学びながら、戦後日本の「平和」と「平和運動」を考えています。武谷三男の著作集を読みつつ「イマジン」を更新するのが、さしあたりの日課です。おそらく問題は、冒頭に引いた日本国憲法第9条と第25条の歴史的関係であり、「戦争に巻き込まれない平和」を、モノが溢れる右肩上がりの経済成長のもとで享受し、ベトナム戦争に反対しつつも「対岸の火事」風にしかつきつめられなかった時代精神の限界性でしょう。空間的におけば、東日本大震災の中で、直前までメアー日本部長差別発言で緊張していた沖縄の普天間基地移転問題が忘れ去られ、福島原発事故処理が長引く中で、基地移転そのものが棚上げされてオスプレイが配備されるにいたった事態への、日本政府の無策、本土「国民」の無関心の問題と、つながるでしょう。要するに、「ヒロシマからオキナワへ」「ヒロシマからフクシマへ」を通貫する問題をトータルに受け止める、自省的視座の欠如です。私に与えられた「第3の人生」の宿題は、痛切なものとなりそうです。
2011.6.1 福島第一原発メルトダウンのもとで、放射能被害が深刻になってきました。福島県のこどもたちへの年間20ミリシーベルトという文部科学省の外部被ばく線量限度は、福島のお母さんたちの霞ヶ関への直接抗議で、ようやく「年間1ミリシーベルト以下を目指す」と修正されましたが、「ただちに健康には影響しない」と言われていた間にすでに膨大な量の放射性物質が排出され、その後も政府・東電は原発をコントロールできずにいますから、日々蓄積されて、内部被ばくを含め増えています。飯館村ではすでに、2か月あまりで累積20ミリシーベルトを越えました。小出裕章さんの解説では、チェルノブイリ事故の強制避難区域なみです。東京でもようやく、地上18メートルの文部科学省モニタリングポストではなく、こどもたちの背丈の地上1メートルで観測を始めました。福島原発の汚染水量が増えています。年末までに20万トンになるといわれ、フランス「アルバ」社の汚染処理は1トン1億円で総額20兆円になるとか。気の遠くなるような、原発のコストです。梅雨時でまた溢れてきていますから、4月4日の世界を驚かせた緊急放水の後も、海や地下水に流入している可能性があります。下水道の汚泥から、宮城から千葉沖にいたる海底の泥からも、高い濃度の放射性物質が検出されました。大地震・巨大津波で大打撃を受けた東日本の漁業・水産業は、国内外からの放射能汚染の不安が加わって、存亡の危機の中にあります。 日本国憲法第25条「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が脅かされています。
被災者を救援し原発事故解決を主導すべき政府も東京電力も、相変わらず頼りになりません。ようやく福島第一原発の24時間リアルタイム映像が「ふくいちライブカメラ」として始まりましたが、東電の情報隠蔽体質は相変わらずで、現場で格闘する下請け労働者たちの被ばく量は、十分把握されていません。民主党に大きな影響力を持つ労働組合の連合が、昨夏決めた原発推進政策をとりあえず凍結したのは朗報ですが、労働組合は原発労働者の人権を守ってくれません。肝心の国会での討論は、与野党の政局駆け引きと民主党内抗争に引きずられており、緊急に必要な福島原発の封じ込めも、地震・津波被災者の救済も、先延ばしになっています。何よりも、世界史的事件としての3・11を体験した日本の、将来をめぐる政治路線の選択になっていません。菅首相は、政権にしがみつくためのパーフォーマンスであれ、世論調査向け支持率回復策であれ、浜岡以外の原発を稼働させるための政治宣伝としてであれ、まがりなりにも浜岡原発を停止させました。原発依存からの脱却の強いメッセージにはなっていませんが、エネルギー基本計画を「白紙に戻し議論」し、G8サミットでは再生可能エネルギー重視の方針を国際公約しています。もともと「原子力村」と癒着した自民党こそ、「人災」としての福島原発事故に歴史的責任を負っています。自民党や公明党が、過去の自党の原発政策を深刻に総括し、脱原発への舵取りを明言するなら別ですが、河野太郎議員のような明快な脱原発派はほとんどおらず、むしろ「原子力村」存続と補助金依存のグループが、野党の多数派です。ですから、菅内閣への批判も、すっきりしません。もっぱら首相の初期対応や情報隠しへの批判で、それ自体は正しいにしても、代替政策・代替指導部の顔が見えません。6月2日に内閣不信任案が自民党・公明党共同で提出されましたが、否決されました。民主党内小沢派ばかりでなく鳩山派もそれに賛成すれば、ちょうど1年前の「鳩山おろし」の再来、いや民主党内にとどまらない政界再編の政局がありえたのですが、けっきょく鳩山前首相が引導を渡して、菅総理が民主党代議士会で近い時期の退陣を表明、執行猶予付きで首がつながりました。海外からみれば、「愚かな落日の国ニッポン」でしょう。
本サイトの震災・原発特設ページ「イマジン」のリンクは、連日増えています。ドイツの与党は、2022年までに国内の原発すべての停止を決定しました。スイス政府も、段階的な脱原発を決定しました。チェルノブイリ後に原発を止めたのに、政府が「クリーン・エネルギー」としての原発再開を予定していたイタリアでは、いったん「原発復活を無期限に凍結する」とした政府の先送り案が最高裁で退けられ、脱原発野党の求めた6月12/13日国民投票が行われます。いずれも日本のFUKUSHIMAに衝撃を受けた、国民の強力な反対運動、市民の脱原発デモに応えたものです。ちょうど1年前、昨年日本の6月政変も、普天間基地移転日米合意への沖縄県民の強力な反対運動が背景にあり、民主党連立政府が、これに屈折して応えたものでした。つまり政局・政変は、震災・原発被害者の切実な必要や願いからすれば、矮小で無策の権力争いです。そうであっても、その方向性、屈折の程度を規定するのは、国民の運動であり、マスコミの世論調査・誘導にとどまらない主権者の民意です。マスコミはほとんど伝えませんでしたが、またドイツやスイスには及びませんが、日本でも脱原発の運動は、各地で展開されています。首都圏では、4月10日の高円寺、5月7日の渋谷につづいて、6月11日に、脱原発・全国百万人アクションがあります。次々にイベントが更新されていますが、東京では午後1時芝公園・代々木公園ケヤキ並木、午後2時新宿中央公園・多目的運動広場から午後6時アルタ前「原発やめろ広場」に。梅雨模様で放射線入りの雨が気がかりですが、ぜひとも強力な、政治を動かすデモンストレーションにしたいものです。この希望のイベント、情報は ここで。
前回も述べましたが、「脱原発」は、日本国民にとって重い課題です。1945年以後の日本の核政策・エネルギー政策の歴史からすれば、原発導入を直接に担った正力松太郎や中曽根康弘ばかりではなく、日本の国家と社会の総体が、大きな反省を迫られています。占領期新聞雑誌資料データベース(プランゲ文庫)を調べると、占領期日本の言説空間では、広島・長崎の原爆被害は検閲され隠されていましたが、敗戦を導いた巨大な「原子エネルギー」についての畏怖と希望は、日本国憲法制定と並行して、広く語られていました。「原子力時代」「原子力の平和利用」の言説が、大新聞から論壇・共産党機関紙誌にまで、溢れていました。右派よりも左派が、それを主導していました。占領期新聞・雑誌の見出しでの「原子力の平和利用」の最初の提唱者は、著名なマルクス主義者である平野義太郎『中央公論』1948年4月号論文でした。「社会主義の原子力」を、資本主義を凌駕する「輝かしい希望」の源泉と信じていました。原子力に未来を託す「アトム」の漫画も、手塚治虫より前から出ていました。いわゆる「戦後民主主義」「戦後復興」は、「原子力の夢」にあこがれ、同居していました。
もうひとつつけ加えれば、原発は、核兵器と同じように、旧ソ連中心の東側「社会主義世界体制」の接着剤でした。旧ソ連が、西側NATOに対抗して、東欧諸国をワルシャワ条約機構(WTO)に組み込み「プラハの春」をはじめとした周辺諸国民衆の自立の動きを武力で抑圧したように、ソ連製原発・原子力技術は、東側経済相互援助条約(コメコン)を通じて、東欧諸国をエネルギー基盤の面から支配し従属させるテコでした。そのため現在でも、旧ソ連社会主義の影響下にあった東欧諸国は、原発依存から脱却できないのです。また、下斗米伸夫さん『アジア冷戦史』(中公新書、2004年)が先駆的に明らかにしたように、中ソ対立の背景にも、ソ連の核開発技術供与をめぐるスターリン、フルシチョフと毛沢東の対立があったのです。日本の左翼勢力は、こうした構図のもとで、「脱原発」に積極的になれず、「原子力の平和利用」の神話に呪縛されていました。ちょうど60年代まで、ソ連や中国の核兵器を「社会主義の防衛的核」と容認していたように。だから、高木仁三郎さん、広瀬隆さんらの「反原発」運動は、東西冷戦を背景とした社会党・共産党・労働組合中心の社会運動の中では、孤立を余儀なくされたのです。そうした事情の思想的意味を含む日本の原子力政策史は、吉岡斉さん『原子力の社会史ーーその日本的展開』(朝日選書、1999年)がお勧めです。ただし、アマゾンで古本が2万円です。3・11以後の日本では、思想状況も液状化しています。広瀬隆さん、小出裕章さんらの書物が、大変な勢いで広がっています。それぞれの思惑はともあれ、自民党河野太郎さんばかりでなく、長く「反原発」に対立してきた日本共産党がようやく「脱原発」を明確にし、保守の論客西尾幹二さんが「脱原発こそ国家永続の道」を発表しています。財界でも、ソフトバンク孫正義さんの「メガソーラー」計画や楽天三木谷社長の「経団連脱退」発言が話題になっています。つまり、「脱原発」は、日本の国家と社会のあり方の全般的転換、「戦後との訣別」を意味します。核兵器・核エネルギーを一体のものととらえて考え、「原子力村」の談合による微調整に終わらせることなく、「自主・民主・公開」の広い国民的討論の中で、「脱原発」を選択すべきです。
中国研究の専門家矢吹晋さんとの対談が、矢吹晋・加藤哲郎・及川淳子『劉暁波と中国民主化の行方』と題して、花伝社から本になり、話題になっています。昨年秋の信州大学国際シンポジウムでの基調講演「汕頭市(貴嶼村)の現状からみる
中国の経済発展と循環型社会構築への課題」が、信州大学からブックレットになりましたので、新規アップロード。パソコン・携帯電話など「電子ゴミ」の地球的行方をNIMBY
(Not in my
backyard)の観点から追ったものですが、おそらく「核廃棄物」の将来にも、応用できるでしょう。ゾルゲ事件関係のファイルが増えてきたので、「情報学研究室」カリキュラムに、情報学研究<専門課程2ーー世界史のなかのゾルゲ事件> を追加。ゾルゲ事件2010年墓前祭の講演記録「新発掘資料から見たゾルゲ事件の実相」(日露歴史研究センター『ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集』第28号、2011年1月)等が入っています。日本経済評論社の新著、加藤哲郎・丹野清人編「21世紀への挑戦 7 民主主義・平和・地球政治」序論「情報戦の時代とソフト・パワーの政治」の草稿段階での講演記録「アメリカニズムと情報戦」(『葦牙』第36号、2010年7月)、菅孝行・加藤哲郎・太田昌国・由井格「鼎談 佐野碩ーー一左翼演劇人の軌跡と遺訓(上)(下)」(『情況』2010年8・9月、10月)も、pdfで入れました。これまで「当研究室刊行物一覧」にありながらウェブ上では未公開だった、「体制変革と情報戦――社会民主党宣言から象徴天皇制まで」(岩波講座『「帝国」
日本の学知』第4巻『メディアのなかの「帝国」』岩波書店、2006年)、「戦争と革命ーーロシア、中国、ベトナムの革命と日本」(『岩波講座 アジア・
太平洋戦争』第8巻『20世紀の中のアジア・太平洋戦争』i岩波書店、200
6年)、「<天皇制民主主義>論」(松村高夫・高草木光
一編『連続講義 東アジア 日本が問われていること』岩波書店、2007年3
月)、「グローバル・デモクラシーの可能性ーー世界社会フォーラムと『差異の解放』『対等の連鎖』」(加藤哲郎・国廣敏文編『グローバル化時代の政治学』法律文化社、2008年3月、所収)なども新規収録。学術論文データベ
ースにも、常連の宮内広利さん「初源の言葉を求めてーー中沢新一の自然と『非対称社会』」がアップされています。日本経済評論社の「政治を問い直す」シリーズ2部作、加藤哲郎、小野一、田中ひかる、堀江孝司編著『国民国家の境界』と加藤哲郎・今井晋哉・神山伸弘編『差異のデモクラシー』への書評を、梅森直之さんが『図書新聞』1月22日号に書いてくれました。早稲田大学大学院政治学研究科の新学期が、1か月遅れで始まりました。私の開講する大学院講義・ゼミ関係は、早稲田大学ホームページからアクセス願います。昨年退職した一橋大学社会学部のゼミ学生たちのうち、今年3月に卒業した学生たちの卒業学士論文を、「一橋大学加藤ゼミ学士論文」に増補・公開しました。私の学部学生の最後の組の、全員無事卒業です。「あすの会」のみんな、よくがんばりました!
2011.5.15 本サイトの特設ページ「イマジン」が立ち上がったのは、2001年9月のことでした。アメリカにおける9・11同時多発テロ、それへの「報復」としてのアフガニスタン・イラク戦争に反対してのものでした。その「報復戦争」の最大の標的であったオサマ・ビンラディン容疑者が、パキスタン首都近郊の邸宅に潜伏していたのを米国中央情報局(CIA)が発見し、綿密に計算した軍事作戦を展開して、殺害したと発表されました。アメリカに協力してきたパキスタン政府も事前に何も知らされず、逮捕するわけではなく一方的に銃殺し、その死骸もすでに水葬にしてしまったと世界に発表しました。アメリカにとっては「大勝利」で、「敵」を殺害して歓声をあげるニューヨーク市民の姿が、映像で流されました。パキスタンにとっては明確な主権侵害で、アメリカ非難の議会決議もあがりましたが、「世界の警察官」を自認するアメリカは、意に介しません。これで機動戦・陣地戦が終わり情報戦に移るわけでもなく、早速80人が死亡する「報復テロ」が始まりました。米パ関係の緊張のなかで、「パキスタンが保有する核兵器が米軍やテロリストに掌握されるのではないか」という不安が、パキスタン国民に広がっています。パキスタンは、核弾頭約100個を保有しているとのこと、「報復が報復をよぶ連鎖」は、まだ続きそうです。
アメリカは、パキスタンに対するのと同じ調子で、目下の「同盟国」日本に接します。普天間基地移転問題の遅れに業を煮やし、アメリカ議会の大物議員たちが、普天間と嘉手納基地の統合を言い出しました。3・11大震災・原発事故で頭も手もまわらない日本政府は、米軍基地への「思いやり予算」はそっくりそのまま継続し、沖縄県民のとうてい納得しない普天間基地の名護移転という「日米合意」の再検討もできず、対外関係は、全く無為無策です。そうこうしているうちに、先月末に出した中国研究の専門家矢吹晋さんとの対談(矢吹晋・加藤哲郎・及川淳子『劉暁波と中国民主化の行方』花伝社)で危惧した 「ジャパメリカからチャイメリカ」への新しい動き、米中戦略・経済対話が始まり、世界中が注目しています。東アジアでも、日本は、もはやカヤの外です。3・11で本土の大手マスコミが総崩れの中で、沖縄の地域メディアは奮闘しています。社説でいち早く「再生エネルギー:脱原発の国家戦略急げ」と主張したのは、「琉球新報」でした。それは、沖縄に原発がないからではありません。「本土」の日米同盟から基地を押しつけられ、「核の脅威」をずっと背負ってきたからです。福島原発最前線で、高放射線にさらされながら汚染拡大とたたかう過酷な原発下請け労働者の中に、多くの沖縄からの出稼ぎ労働者がいるのです。日本の反核運動は世界的に見ればユニークです。核兵器廃絶運動が、反原発運動と切り離されて展開されてきました。ヨーロッパ語ならどちらもanti-nuclear、核廃絶と原発廃絶は一体です。
3・11以来の日本政府の原発対応は、国際社会から強い不信と大きな不安をもって、見られています。何よりも、政府が事態を正確に把握できておらず、データが出されても信頼できません。事態をコントロールできず、対策も後手後手です。地震大国なのに、根拠のない「絶対安全」を繰り返してきたツケです。世界からみれば途方もない放射線被ばくを、子どもたちにまで許容し、汚染水対策は海へのたれ流し、原子炉冷却の見通しはいっこうにあきらかにならないまま、国境のない空と海をも、放射能で汚染させ続けているからです。多くの内外の心ある専門家が、3・11直後から指摘し危惧してきたにもかかわらず、日本政府・東電がもっともダメージが少ないと言い続けてきた福島第一原発1号炉の「メルトダウン」が、ようやく公認されました。水量計が調整されたら水がないことがわかったという、深く悲しい「専門家」の笑えない現実です。2号機・3号機も同様ですから、世界史上最悪のメルトダウンです。科学技術的意味でも、危機管理・情報公開という意味でも、かつての経済大国・技術大国の今日の無惨を、印象づけるものとなりました。かつての「風評被害」は現実の被ばくになりました。「安全神話」は完全に崩壊し、「ただちに健康への影響はない」などという政府と東電の「安心神話」も崩れつつあります。残された「神話」は、「原発=環境に優しく安価」という補助金も廃棄費用も度外視した原価計算と、当面この夏の「電力不足」神話くらいか。こうした事態の動きについては、もともと9・11のために作った特設サイト「イマジン」を、連休中に東日本大震災・福島原発震災を知る情報サイトに組み替えました。本トップの月2回の更新とは別に、随時更新していきます。英語版の「Global IMAGINE」も更新しましたので、そちらもご参照ください。
か細い希望は、巨大地震・大津波の生き残り被災者の中から、少しづつ再建への歩みが始まっていること、そして、政局がらみの思惑はともあれ、菅内閣が浜岡原発の停止を要請して中部電力がそれを認め、原発依存の現行「エネルギー基本計画」も「白紙」から議論すると、最高責任者である首相が言明したことです。日本が国際社会に復帰できる道は、現在の原発の危機的状況を一刻も早く安定させ、地震・津波大国でどのようなエネルギー転換を進めるかを国民と世界に宣言し、「脱原発」に生まれ変わった日本の将来の方向づけを明確にすることでしょう。菅首相は、ソフトバンクの孫正義社長と会い、再生可能エネルギー開発に意欲を示したそうですが、今月末のG8サミットに「脱原発」エネルギー戦略を出せるとは思われません。現政権にできるかどうかは、不確定要素が多すぎます。何よりも、チェルノブイリと並び、「Hiroshima, Nagasaki,Fukushima」の表記が当たり前になった福島での世界的危機が現在進行形ですから。福島の「原発労働者」からついに死者が出ました。強制避難を余儀なくされた「原発難民」は、本当にお気の毒です。政府と電力会社、それに「原子力村」に無批判に従ってきた財界や政治家、学者やマスコミにも、大きな責任があります。
いや、この間調べてきた1945年以後の日本の核政策・エネルギー政策の歴史からすれば、原発導入を直接に担った正力松太郎や中曽根康弘ばかりではなく、日本の国家と社会の総体が、大きな反省を迫られています。占領期新聞雑誌資料データベース(プランゲ文庫)を調べて、暗澹たる想いに駆られました。占領期日本の言説空間では、広島・長崎の原爆被害は検閲され隠されていましたが、敗戦を導いた巨大な「原子エネルギー」についての畏怖と希望は、日本国憲法制定と並行して、広く語られていました。「原子力時代」「原子力の平和利用」の言説が、大新聞から論壇・共産党機関紙誌にまで、溢れていました。右派よりも左派が、それを主導していました。占領期新聞・雑誌の見出しでの「原子力の平和利用」の最初の提唱者は、著名なマルクス主義者である平野義太郎でした。「社会主義の原子力」を、資本主義を凌駕する「輝かしい希望」の源泉と信じていました。原子力に未来を託す「アトム」の漫画も、手塚治虫より前から出ていました。いわゆる「戦後民主主義」「戦後復興」は、「原子力の夢」にあこがれ、同居していました。こうした資料は今後、逐次「イマジン」で公表していきます。日本の「脱原発」は、歴史的に重い課題です。国家と社会のあり方の全般的転換、「戦後との訣別」を要します。かつて日本の原子力研究が始まる時に、その「軍事的利用」を危惧する研究者たちが課した開発の条件は、「自主・民主・公開」でした。さしあたり、これを採用しましょう。核兵器・核エネルギーの葬送の過程も、「原子力村」の談合によってではなく、「自主・民主・公開」の広い国民的討論であるべきです。
中国研究の専門家矢吹晋さんとの対談が、矢吹晋・加藤哲郎・及川淳子『劉暁波と中国民主化の行方』と題して、花伝社から本になりました。昨年秋の信州大学国際シンポジウムでの基調講演「汕頭市(貴嶼村)の現状からみる
中国の経済発展と循環型社会構築への課題」が、信州大学からブックレットになりましたので、新規アップロード。パソコン・携帯電話など「電子ゴミ」の地球的行方を追ったものですが、おそらく「核廃棄物」の将来にも、応用できるでしょう。ゾルゲ事件関係のファイルが増えてきたので、「情報学研究室」カリキュラムに、情報学研究<専門課程2ーー世界史のなかのゾルゲ事件> を追加。ゾルゲ事件2010年墓前祭の講演記録「新発掘資料から見たゾルゲ事件の実相」(日露歴史研究センター『ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集』第28号、2011年1月)等が入っています。日本経済評論社の新著、加藤哲郎・丹野清人編「21世紀への挑戦 7 民主主義・平和・地球政治」序論「情報戦の時代とソフト・パワーの政治」の草稿段階での講演記録「アメリカニズムと情報戦」(『葦牙』第36号、2010年7月)、菅孝行・加藤哲郎・太田昌国・由井格「鼎談 佐野碩ーー一左翼演劇人の軌跡と遺訓(上)(下)」(『情況』2010年8・9月、10月)も、pdfで入れました。これまで「当研究室刊行物一覧」にありながらウェブ上では未公開だった、「体制変革と情報戦――社会民主党宣言から象徴天皇制まで」(岩波講座『「帝国」
日本の学知』第4巻『メディアのなかの「帝国」』岩波書店、2006年)、「戦争と革命ーーロシア、中国、ベトナムの革命と日本」(『岩波講座 アジア・
太平洋戦争』第8巻『20世紀の中のアジア・太平洋戦争』i岩波書店、200
6年)、「<天皇制民主主義>論」(松村高夫・高草木光
一編『連続講義 東アジア 日本が問われていること』岩波書店、2007年3
月)、「グローバル・デモクラシーの可能性ーー世界社会フォーラムと『差異の解放』『対等の連鎖』」(加藤哲郎・国廣敏文編『グローバル化時代の政治学』法律文化社、2008年3月、所収)なども新規収録。学術論文データベ
ースにも、常連の宮内広利さん「初源の言葉を求めてーー中沢新一の自然と『非対称社会』」がアップされています。日本経済評論社の「政治を問い直す」シリーズ2部作、加藤哲郎、小野一、田中ひかる、堀江孝司編著『国民国家の境界』と加藤哲郎・今井晋哉・神山伸弘編『差異のデモクラシー』への書評を、梅森直之さんが『図書新聞』1月22日号に書いてくれました。早稲田大学大学院政治学研究科の新学期が、1か月遅れで始まりました。私の開講する大学院講義・ゼミ関係は、早稲田大学ホームページからアクセス願います。昨年退職した一橋大学社会学部のゼミ学生たちのうち、今年3月に卒業した学生たちの卒業学士論文を、「一橋大学加藤ゼミ学士論文」に増補・公開しました。私の学部学生の最後の組の、全員無事卒業です。「あすの会」のみんな、よくがんばりました!
2011.5.1 世界を揺るがした3・11から50日、東日本大震災の 12都道県1万4662人、警察に届け出のあった行方不明者1万1019人(4月30日午後4時現在)のいのちは、ふだんなら家族・親族・友人に見送られ、しめやかな葬儀を経て天国に向かうところを、家族や近親者・隣人の多くも被災者で避難所暮らしのため、当座の仮設住宅も生活費も位牌もままならず、多くは祈りと心づくしの花のみで飾られただけで旅立つ、厳しい49日を迎えました。いたましいことです。外国人犠牲者は23人の死亡が確認されていますが、いまなお消息が求められています。身元の判明した死亡者の国籍は、韓国・朝鮮10人、中国8人、米国2人、カナダ、パキスタン、フィリピン各1人ですが、中国人約40人が消息不明、外国人180人が安否不明と言う情報もあります。天国には国境はありません。数十万人が「ホームレス」です。震災後の避難先での病死や自殺も相次いでいます。いまなお「震災孤児」の正確な数は把握されていません。
政府の救援・支援は、遅すぎます。地域社会や自治体が、壊滅したところがあります。着の身着のままで、いのちだけが助かった被災者が、ほとんどです。もともと過疎化と高齢化が進んでいました。病院も老人ホームも被災し、寒風にさらされたのです。瓦礫の山は、まだまだ続きます。仮設住宅が足りません。仕事がありません。「生き残ること」から「生き続けること」への転換の道を助けるのは、政府と政治の責任です。東北の海岸線は広く長く、地域のあり方は多様です。神戸大震災のような都市型再建の経験と教訓が生かせるのは、ほんのわずかです。岩手・宮城の海辺の多くの町は、漁業・水産加工業と農業、それに観光で成り立っていました。「復興」プランは、何よりも、地元の若者たちの意見と希望を、汲んだものであってほしいものです。また、幾度も地震や津波を経験し、そのつど立ち直り、コミュニティを再建してきた、地域の先人の知恵と教訓を、組み込んでほしいものです。
福島県民は、地震・津波の天災に加えて、福島原発水素爆発・放射線汚染による強制移住=「原発難民」化を強いられています。初動における政府と東京電力の全電源喪失・制御不能の結果であり、重大な責任を伴う人災です。歴史的に見ると、冷戦初期に遡る米国 核戦略「Atoms for Peace」に乗り、保守政治家、電力業界など財界、経済産業省・財務省、それに文部科学省の科学技術政策と原子力研究者、大手マスコミを含むコングロマリットが合作してきた、エネルギー政策と「原発安全神話」の帰結です。はじめは核兵器保持の潜在的可能性をめざして、CIAエージェント正力松太郎や中曽根康弘らが暗躍しました。40年の寿命や使用済み燃料の廃棄方法も定まらないまま、この地震・津波大国に、原発が次々とたてられました。アメリカもヨーロッパ諸国も政策を転換し、代替エネルギーの開発を始めた1980年代になっても、スリーマイル島やチェルノブイリの悲劇を経た後にも、この国は、「脱原発」に踏み出せませんでした。東京・大阪など大都市の近くには建設できず、過疎の海辺に原発立地を押し付けてきました。その後ろめたさを、膨大な補助金と地元有力者への利権で、補ってきました。それでも疑問を持つ住民や、原発の危険を指摘した研究者には、警察・司法権力まで動員されました。政治家には政治資金を、官僚には天下り先を、マスコミには広告料を、御用学者には研究費をばらまいて、学校副読本や原発イベントを使った「事故隠し」と「安全神話」確立をはかってきました。「唯一の被ばく国」といわれたこの国は、3・11の「神話」崩壊まで、世界に冠たる「原発大国」でもありました。それが、FUKUSHIMA CRISISによって、「核汚染大国」になりつつあります。
4月29日午後、幾度か私自身も講演したことのある現代史研究会が、「終焉に向かう原子力」という講演会を開き、京都大学原子炉研究所の小出裕章さんと作家の広瀬隆さんが話をするというので、明治大学に出かけました。ちきゅう座の催し物案内で会場が変更され、どうやら多くの市民が集まりそうだと見当をつけて、10分前には会場に着きましたが、1000人収容の会場はすでに満杯で、通路にさらに200人を入れても1000人以上が入れない盛況、講演を聞くことは、できませんでした。主催者側が、急きょ小出裕章さんのトークを、入りきれなかった1000人のために用意し、長いこと現発の危険を訴えつづけ、それゆえに学会やマスコミから排除されてきた原子力学者小出さんの肉声を、ようやく聞くことができました。さわやかで高潔な、いさぎよい決意表明でした。多くの社会科学者にとって、原発や放射能の問題は、この1か月のにわか勉強でした。政治学者の私だけではありません。憲法学のY教授、経済学のI名誉教授も、市民の一人として会場外に並んでいました。社民党委員長福島瑞穂さんも会場に入れず、近くで小出さんに拍手していました。入場できなかった人には、講演ビデオを動画配信するというので、むしろこんなに多くの人がこの種の集会に集まったのに満足して、会場を離れました。その晩すぐに、小出さんの講演原稿「悲惨を極める原子力発電所事故」が、ちきゅう座ホームページに載りました。5月7日午後には渋谷で、4月10日に高円寺の1万5000人のパレードを成功させた「素人の乱」が、「5・7原発やめろデモ」を行うとのこと、若者たちの行動が楽しみです(午後2時、渋谷区役所前交差点集合!)。
この50日間、日本の大手マスコミには、大変失望しました。ウェブ上の記事を含めて、政府や東京電力の発表をそのまま広報するニュースや解説がほとんどで、外国報道や地方メディア、独立自由メディアにみられるジャーナリスト精神は、感じられませんでした。3月11日から数日間の日本政府や東電の危機管理初動ミスについては、ようやくいくつか批判的検証があらわれ、「脱原発」論者の見解も報道されるようになりましたが、小出さんや広瀬隆さんを登場させたテレビ局には、大スポンサーからの圧力があったようです。総務庁が「ネット上のデマ」削除をプロバイダーに求めたり、日本気象学会が会長名で放射線についての個人的研究成果公表自粛を求めたり、政府・東電・保安院の別々の記者会見を、震災直後なら必要だったデータの統一の名目で、事前登録の共同記者会見にして自由メディアを排除したりーーこの国の「言論の自由」の限界も、あらわになりました。毎日新聞・朝日新聞が、おそるおそるエネルギーの原子力依存に疑問を呈する社説をかかげ始めましたが、「再生エネルギーーー脱原発の国家戦略急げ」と説得的に訴える琉球新報社説のような明解さはありません。政府の放射線規制値引上げに抗議し、内閣参与を辞任した小佐古敏荘東大教授の「辞意表明」全文を読めるのは、NHKの映像によってではなく、NHK「かぶん」ブログという、科学文化部のウェブページです。現場記者たちのささやかな抵抗でしょうが、福島のこどもたちに年間20ミリシーベルトという原発放射線労働者並みの基準を、まともな審議も議事録もなく決めた原子力安全委員会の問題への、つっこんだ報道はありません。その小佐古「辞意表明」で明らかになった「WSPEEDY(第二世代SPEEDY)」については、ウェブの情報を自分で集めるしかありません。
おそらく世界史に残る「事件」になるだろう、東日本大震災・福島原発震災についての情報戦は、新興グローバル・メディアであるウェブ上でこそ、鳥瞰できます。事業家孫正義さんの脱原発・自然エネルギー財団構想や、自民党河野太郎議員のまっとうな少数意見は、インターネットがあるからこそ、即時に耳を傾けることができます。小出裕章さんや広瀬隆さん、石橋克彦さん、後藤政志さんら専門家の発言も、ユーチューブの講演記録で、学ぶことができます。NHKスペシャル「原発導入のシナリオ:冷戦下の対日原子力戦略」ばかりでなく、かつて広瀬隆さんや故高木仁三郎さんらが「原子力村」の推進論者と対決した1988年の「朝まで生テレビ 原発討論」も、映像・音声がそのまま残されています。そこでの原子炉の耐震性、メルトダウンと放射能汚染の危険、「安全神話」をめぐる論点は、現在でも十分通用するものです。映画「東京原発」や故忌野清志郎さんの放送禁止曲、斉藤和義さんの話題の替え歌「ずっと嘘だった」も、映像つきで聞くことができます。3・11以来、私の書き下ろし歴史書執筆の筆は進まず、書きかけのままです。まずは、またとないこの日本史の転換点の意味を理解し考えることに、集中してきました。そこにちょうど、外国の日本研究の友人たちから、英語で読めるJapanese Disaster, Fukushima Crisisについての信頼できる情報はどうしたら得られるかについての問い合わせがきました。その外国人用ポータルサイト構築に専念して、今回の更新は、若干遅れました。英語サイトKATO Tetsuro's Global Netizen College にとりあえず入れた英語リンク集をもとに、増補改訂した日本語版を、IMAGINE! イマジン新版として作りました。今回のみトップにも。
原子力、放射線の問題について現代日本でもっとも信頼できるのは、故高木仁三郎さんらが始めた原子力資料情報室 (英語CNIC)です。地震・津波は東北地方で歴史的に繰り返されてきた天災ですが、福島第一原発事故は、政府と電力会社を中心とした政界・財界・官界・学界・マスコミ=「原子力村」の情報操作によって作られた「安全神話」の崩壊です。批判的言論や反対運動を抑圧し、補助金・政治資金・天下り先・広告費・研究費をばらまいて、「原発は安心・安全」と宣伝してきました。
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ニューヨークタイムズ NYT | |||
三陸沖大津波の歴史(動画) | |||
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フランス語 |
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ハングル |
重要論文/記録/報道(日本語)
高木仁三郎「原発事故はなぜくりかえすのか」(抜粋)「友よ」(遺稿) |
小出裕章「悲惨をきわめる原子力発電事故」「原子力の平和利用は可能か」「熊取6人組」(映像) | ||
広瀬隆「破局は避けられるか」「腐食の連鎖ーー薬害と原発にひそむ人脈」抄 | |||
琉球新報社説「再生エネルギー:脱原発の国家戦略急げ」 | |||
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広瀬隆「地球温暖化説のウソ」 | |||
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Wikipedia: Nuclear Power in Japan(日本の原子力発電) |
Nuclear Earthquake Plan in 1945(米国の原爆人工地震計画) | ||
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2011.4.15 3月11日の東日本大震災から1か月、この国はいま、歴史的な危機のなかにあります。大地震と、それに続く大津波は、過去の歴史にないわけではありませんが、「天災」というべき危機でした。すでに3万人近いいのちが奪われ、または行方もわからず、さらに自治体が壊滅して探索さえしてもらえないいのちが、瓦礫の下で、冷たい海のなかで、さまよっています。政府の第一の責任は、国民のいのちを守り、救うことです。その被害の公式の全容は、4月14日に発足した復興構想会議に提出された、「 東日本大地震の被災地の状況等について」という文書にまとめられています。死者1万3333人、行方不明者1万5150人、避難者14万0468人とあり、津波の高さは岩手県宮古で8.5メートル以上、ライフラインは現在なお東北電力管内16万戸停電、都市ガス9.2万戸供給停止、断水30.2万戸とあります。いまや明確に「人災」「文明災」となった福島第一原発をめぐる「原子力災害対策の状況」は別項目になっていて、福島原発周辺の放射線量積算結果、モニタリング推移、避難者8万3004人、といったデータも出ています。ただし、こうしたデータには、首相官邸ホームページから入って、「復興構想会議」をクリックし、第一回議事次第、資料6、と立ち入らないと、データがあることさえわかりません。そして、行方不明者はもっと増えるであろうこと、3万人の犠牲者と数十万人の被災者の一人一人に家族があり、コミュニティがあり、友人知人がいて、それらが突如中断され、引き裂かれ、生存の危機にさらされた意味、一人ひとりの想い、喪失・虚脱、不安・怒りの程度は、見えてきません。非日本国籍の犠牲者も23人は確認されているようですが、はっきりしません。すでに避難所での新たな犠牲者、自殺者が出ています。被災者のいのちとくらしの再建は、1分1秒を争うものとなっています。緊急の生活支援が必要です。こどもたちの学校が始まり、新しい地で、学用品にも不自由しています。
被災データだけなら、ニューヨークタイムズ/アジア版に、Map of the Damage From the Japanese Earthquakeという、日本語まじりのページがあります。余震の状況から死者・行方不明者の数と地域分布、日々の放射線レベルとその推移、それぞれの地域の観測地点で米国原子炉労働者の許容限度に到達する日数が、一目でわかります。基礎データは日本政府のものですが、日々の放射性粒子の分布やその変化の予測は、ドイツ気象庁(DWD)による粒子拡散シミュレーションでも、みることができます。こうしたデータが外国で公表されてから、日本でもようやく文部科学省の環境防災Nネットに都道府県別データが出てきて、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI) も一度だけ公表されましたが、使い勝手が悪く、肝心の福島県・宮城県データは「調整中」で別に探さなければなりません。1980年代にイギリスに留学していた時、高い失業率のもとで、雇用の地域別増減が毎日天気予報の時間に放映されていました。この3月下旬のアメリカでは、CNNの天気予報で、日本の福島上空の雲がいつ頃カルフォルニアに到達するかが解説されていました。現在の危機のもとでは、テレビの天気予報の時間に、日々の放射線予測や電力供給量予測が発表されてもよさそうですが、NHKも民放も、やる気はなさそうです。政府や東京電力、それに「地震予知」にたずさわり「原発」を推進してきた「専門家」「科学者」たちが「想定外」を連発してきたために、この国では、「政府の情報」「科学的予測」の信憑性が、地に堕ちてしまったようです。文部科学省の学校副読本も、資源エネルギー庁の「なるほど原子力A-Z」も、無惨です。
日本政府は、4月12日に、福島第一原発の国際評価尺度(INES)の暫定評価を、チェルノヴイリと同じ「レベル7」にすると発表しました。それまでスリーマイル島と同等の「レベル5」で、放射線量は「ただちに健康を害するものではない」「安定に向かっている」と言ってきたのですから、突然状況が悪化したのでなければ、これまで国民を欺いていたことになります。その評価基準となる放射線量は、3月15日には飛躍的に増え、3月23日には「レベル7」の水準に達していました。もともと外国報道では、水素爆発直後から、「スリーマイル以上、チェルノヴイリ寸前のメルトダウン」という評価が当たり前で、そのため外国人が大量に国外脱出し、海外からの観光客が半減し、国際会議は敬遠され、農産物・海産品ばかりか工業製品まで輸出が困難になってきました。旧ソ連のチェルノヴイリ原発事故では、広島原爆の400倍の放射性物質が空中に放出されました。政府と東電は「まだチェルノヴイリの1割」と言ってますが、3月中に、すでに広島型原爆40発分の放射性物質が放出されたことになります。これを「風評被害」というマスコミは、自社の1986年縮刷版をひもとくべきでしょう。今はウクライナの小さな村がどこにあるかもわからぬまま、当時の日本メディアは、旧ソ連とヨーロッパがいかに危険かを説き、日本への影響・波及に警鐘をならしていたのですから。現在の日本の危機は、日本だけの危機、菅内閣や東京電力の危機、ましてや政局の危機に、とどまるものではありません。人類史の、近代文明の、地球的危機です。「復興」も「再建」もそこから出発するしかありません。世界はかたずをのんで、 FUKUSHIMA CRISISを見つめています。
ウェブ上に、コラムニストDon Williamsの"Atoms for War, Atoms for Peace: Only Japan knows both sides of nuclear coin"が掲載されています。ジャック・アタリの「全力を尽くして福島と人類を救う」と共に必読です。かつて日本は、敗戦時の広島・長崎での原爆体験をもとに、「唯一の被爆国」として核兵器廃絶を訴えることができました。朝鮮戦争休戦後の1953年12月に、アメリカのアイゼンハワー大統領が国連総会で「原子力の平和利用Atoms for Peace」を提唱した時も、翌54年3月のビキニ環礁水爆実験で第五福竜丸乗組員が被曝・死亡したため、原水爆禁止運動は大きく広まっていました。だからこそ、正力松太郎や中曽根康弘という保守傍流の政治家が、アメリカの電機産業やCIA、日本の電力会社と結びつき、『読売新聞』や日本テレビのキャンペーンによって、原子炉導入・原子力発電への道を拓いたのです。地球上の「ヒバクシャ」そのものは、その後の原水爆実験と核拡散で米ソを含む世界に広がり、スリーマイル島、チェルノヴイリ原発事故で、飛躍的に増えました。だからこそ1980年代以降のヨーロッパ反核運動(Anti-nuclear)は、核兵器にばかりでなく、原発にも反対するものになりました。ところが「最初の被爆国」日本では、地震大国・津波大国であるにもかかわらず、自民党、通産省(現経済産業省)、財界、「科学者」がこぞって原発推進にまわりました。原子力資料情報室の故高木仁三郎さんや京大原子炉実験所の小出裕章さん、今中哲二さんのような「科学者の良心」を排除して、閉鎖的な「原子力村」をつくり、地震学の石橋克彦さんや岡村行信さんらの警告を無視して、度重なる原発事故を隠蔽し対策を怠ってきました。多額の研究予算とマスコミ対策、政治資金を電力会社が提供し、政府が補助金をばらまいて、プルトニウムを用いるプルサーマルや技術的な未熟な高速増殖炉「もんじゅ」や六カ所村再処理施設建設を強行し、ついには30年以内に巨大地震が「予測」された東海地域に浜岡原発までつくって、今日の「核汚染大国」への道を突っ走ってきたのです。日本語では核爆発による「被爆」bombedと放射性物質による「被曝」exposedが区別され、「被曝」の方はレントゲンやCTスキャンと同レベル、高度科学技術があるから旧ソ連のチェルノヴイリのような被曝事故はありえない、と強弁されてきたのです。そうした「神話」はすべてくずれ、いまや日本は「被爆」としても「被曝」としても「ヒバクシャの国」になろうとし、核との長期の全面対決を迫られているのです。この問題こそ、「天災」に対する「安全・安心」「再建・復興」にあたっても、菅内閣や東京電力の責任を考えるにあたっても、ベースにおかれなければなりません。
政府の経済産業省原子力安全保安院、原子力委員会、原子力安全委員会、日本原子力学会、日本気象学会、日本広報学会等はすべて「原子力村」がらみであてにならず、この1か月の日本のマスコミには失望しましたので、おのずとホンモノの情報、信頼できる科学者、ジャーナリストを求め、まずは海外情報を探索し、石橋克彦教授の論文、小出裕章・今中哲二さんの報告、後藤政志さんや田中三彦さんの現場体験を踏まえた解説、上杉隆さん・岩上安身さんらフリーランスの皆さんの報道、中部大学武田邦彦さんの放射線解説、飯田哲也さんのエネルギー構想、孫崎享さんや金子勝さんのツイッター情報をサーフィンする毎日となりました。それらの一つで、「ちきゅう座」には、明4月16日午後一時、明治大学リバティータワーで開かれる「いま原発で何が起こっているのか」シンポジウムが案内されています。後藤政志さんの話をぜひ聞きたいところですが、同じ16日の同じ時間に、私は早稲田大学国際会議場で、20世紀メディア研究所第59回公開研究会で「雑誌『真相』の検閲と深層 ーー崎村茂樹、荒木光子、佐和慶太郎の接点から」の報告です。残念なので、占領期検閲報告のイントロに、前回資料公開した「Nuclear Earthquake Plan」と「原発導入のシナリオ:冷戦下の対日原子力戦略」における正力松太郎・中曽根康弘の暗躍を入れることにしました。こちらの方に興味のある方は、ぜひどうぞ。私のメキシコ滞在中、3・13大震災直前に共同通信配信の私へのインタビュー記事「こんにち話 国際歴史探偵 個人追いかけ新事実に」が数十の新聞に掲載されたようですが、その「国際歴史探偵」の「崎村茂樹の6つの謎・中間報告」以後の成果報告を兼ねます。また、今回の福島原発事故を、私は「戦後日米情報戦の一帰結」と見なしますが、その今後を占う上では、米日中3国の関係が決定的で、「 ジャパメリカからチャイメリカへ」の帰趨が重要だと考えます。後者について、中国研究の専門家矢吹晋さんとの対談が、矢吹晋・加藤哲郎・及川淳子『劉暁波と中国民主化の行方』と題して、まもなく花伝社から本になります。ぜひお読みください。
前回3月1日の更新で述べたように、3月はメキシコ、アメリカ滞在で、月末帰国しました。3月11日の金曜日の悲劇は、メキシコ大学院大学での連続講義の2回目が終わった後、東京からの「大丈夫」という家族の携帯メールで知りました。幸い東京の家も家族も無事でした。M9.0の世界史上4番目の大地震、広く太平洋岸を襲った巨大津波は、もちろんスペイン語世界でも大きく報じられました。インターネットだけが頼りで、ブラジルやフランス、ドイツ在住の日本人と連絡をとりあい、ユーストリームでのNHK24時間放送ライブを小さな画面で途切れ途切れ見ながら、情報を集めました。私の生まれ故郷は岩手県盛岡、宮城県の海岸線に住んでいる親族もいて、4日間行方が分からず、ツイッターからフェイスブックまで使って避難所情報を集め、ようやく無事が確認できて岩手に連絡できました。宮城の親族一家は、メキシコよりも情報が少なく、テレビもなく携帯電話もメールも通じず、盛岡までクルマを飛ばして、それを確認しました。中学時代を過ごしたのは岩手県大船渡市、かつて共に学んだ多くの友人・知人が被災したようです。私の1960年体験は、安保闘争でも三井三池でもなく、大船渡でのチリ地震津波。人間の死を初めて目前に見た記憶がよみがえり、三陸リアス式海岸の湾内に入って高さ十数メートルに増幅した大津波の威力、川が逆流し家屋や畳、布団が内陸部にまで流れてきた体験の悪夢が再現しました。痛ましく、言葉もありません。
翌週の講義では、当初沖縄問題で締めくくる予定だったのを変更し、日本の直面した苦境と悲惨を、画像や映像を用いてメキシコの人々に訴えました。地震や原発の慣れない英語の専門用語は、グーグルで調べました。メキシコも地震国で、東日本地震津波は、チリ地震津波の逆のルートで、ハワイ・カルフォルニアからメキシコ、ペルー等中南米太平洋岸にも到達しましたから、大いに関心を集め、心から同情されました。その場でメキシコ人学生たちの、日本への義捐金集めも始まりました。世界中の人々が、日本に同情し、共感し、心から支援の手をさしのべました。レスキュー隊の派遣も、数十か国に及びました。医師団の派遣は、日本の医師免許を持たないと言う理由で日本政府から断られたとのことでしたが。被災者のなかには多くの在日外国人がいました。メキシコ人もブラジル人も、中国人も韓国人も、アメリカ人英語教師や観光客もいました。その被災情報は、日本の外務省からは得られなかったようです。各国の大使館や旅行社等を通じて、数万人規模での東日本在住外国人の消息が、海外マスコミやウェブ、ファイスブック、ツイッターを通じて大きな話題でした。日本語情報はほとんどありませんでした。ニュージーランド地震の日本人犠牲者報道の裏返しでした。
March 11で日本の受けた「天災」地震・津波の被害・被災には、世界の同情・共感が集まりましたが、日本の直面した第3の災禍、福島第一原子力発電所の原発震災には、世界の人々が、疑いの目を向けました。直後の米国による重水による冷却・封じ込めの協力申し入れが、日本政府と東京電力により断られ、どうやら原子炉事故の人類史的深刻さに気がつかず、運転再開の経済利害を優先しているのではないかと、特に英語報道は辛辣でした。水素爆発による破損やプルトニウムを含むMOX燃料を使っている3号機についての情報は、英語の方が詳細でした。米軍無人偵察機から撮ったと思われる航空写真を積極的に公開し、放射能漏洩の危険も、早くから報じていました。スリーマイル島のレベル5、チェルノヴィリのレベル7と比較し、福島はすでにレベル6−6.5というフランス、アメリカの評価は早くに定着しました。メキシコ政府も在日メキシコ人の日本離脱を勧告し、米国軍人・各国大使館員・中国人労働者の帰国が相次ぎ、大使館機能の関西移転、外資系企業のエクソダスも、当然と受け止められました。天気予報で日本の雲がいつカルフォルニアに到達するかが予告され、米国食料輸入の4%を占めていた日本製品の輸入はストップしました。それが「風評被害」でないことは、カルフォルニアばかりでなく米国東海岸やアイスランドでも放射能が観測され、日本政府が「安定している」と報じたにもかかわらず、上空からの赤外線写真で4つの原子炉が真っ赤になっている高熱状態や、FUKUSHIMAの原子炉設計にかつてたずさわった GE技術者の証言で、裏付けられていました。
現在も続く、この福島原発事故の危機管理をめぐって、日本政府、日本企業、日本の科学技術、日本のマスコミへの信頼は、地に墜ちました。急を要する地震・津波被災者への救援が進まないのも、そのためだろうと判断されました。実際、福島原発は、新たな被災者を日々つくりだし、水を、食料を、ガソリンと暖房を求める被災者のいのちの悲鳴を、世界に届きにくいものにしたのです。メキシコの学生から、日本は産業ロボットの最先端と聞いていたが、なぜロボットを使って原子炉の冷却・封じ込めを進められないのか、なぜ現地の放射線・放射能観測データが日々正確にでてこないのかと、素朴な質問を受けました。最も危険で過酷な現場で、冷却機能回復のために働く下請け「原発ジプシー」労働者のなかに、外国人労働者はいないのかとも聞かれましたが、メキシコからアメリカに移って後、ドイツの新聞に出たという記事くらいしか、情報がありませんでした。せっかく世界から得た「天災」への同情・支援が、原発「人災」の勃発と長期化のなかで日々減殺され、「地震大国日本の奇妙なエネルギー政策・危機管理」へと、世界の見る眼が変わってきています。
最高責任者でリーダーシップを発揮すべき菅首相、東電社長が表に出てこないのも、奇妙でもどかしい光景でした。アメリカの9・11は、レームダックだったブッシュ・ジュニアを突如蘇生し、「対テロ戦争」の英雄にしてしまいました。イラク戦争の根拠とされた「大量破壊兵器」情報は、後に誤りとされましたが、アメリカ人にとっては国民の生命を守るリーダーでした。日本政府と東電の情報隠蔽と原子炉対応の右往左往は、日本の3・11が、米国の9・11とは異なるかたちで、政治のあり方を変容させ、社会の変貌をもたらすだろうことを、予感させます。それは、これから先、数年どころか数十年の日本の行方に刻印されるでしょう。問題は、その方向です。何よりも「人災」のもととなった原子力エネルギー依存政策がどうなるのか。ベトナムなど海外にも売り込もうとしていた原発技術がもろくもくずれ、すでにスリーマイル島以上、チェルノヴイリ寸前の「核汚染大国」になったのにそれを自覚せず、「ただちに健康に被害を及ぼすことはない」と繰り返す政府や「専門家」、マスコミに翻弄される国民のいのち。「安全・安心基準は厳しすぎた」と、当の基準設定者が公言する、倒錯した非日常の日常化。海外では、故高木仁三郎さんが死力を尽くして警告してきた「原子力資料情報室」、「ちきゅう座」などを通じてある程度の情報は得られましたが、この3週間の新聞にもまだ目を通しておらず、何よりも、初めて大画面でまのあたりに見る東北地方の被災映像、被災者の悲痛な声に圧倒されて、悲しみと怒りを表現する言葉が、うまく出てきません。怒りは、この膨大ないのちの喪失と生き残った人々の救援を前に、どうやら福島原発処理の対応にのみ力を注ぎ、失策を繰り返してきた日本政府、そうした政府を日本一の政治資金供給源として支え手なずけてきた電力会社に向けられますが、同時に、そうした政治を許してきた近代日本の「民主主義」の内部切開の必要を痛感します。
2011年3月11日は、世界史的に意味のある日本沈没の日であり、再生の出発点にならなければならない転換点です。先週末まで通ったアメリカ国立公文書館の門前の言葉で言えば、"WHAT IS PAST IS PROLOGUE"(過去は物語の始まりである)。メキシコでの講演に用い、現在の日本の悲劇を暗示すると思われる、二つの過去の記録のみを提示して、読者の皆さんに自分で考えていただきたいと思います。「唯一の被爆国」日本の辿った、もう一つの歴史的真実です。
一つは、米国国立公文書館所蔵の「Nuclear Earthquake Plan」という1945年7月(と推定できる)米国戦略情報局(OSS、CIAの前身)の心理作戦(Morale Operation) 計画。米国の人権サイト「Paul Wolf's universal rights」中の、「Histotrical Research/OSS-The Psycology of War/Morale Operation Branch/Japan」に公開されています。そこに「Causing Panic During Bombing Raids」と並んで、「Nuclear Earthquake Plan」として出てくるのが、皆さんに読んでもらいたい英文文書です。平たく言えば、ハーバード・ノーマンの日本研究や「地震・雷・火事・おやじ」という日本人の恐れる災害を人類学的・心理学的に分析しながら(ベネディクト『菊と刀』の手法)、もともとドイツのヒットラー政権壊滅のために作られた原爆を、ドイツの降伏後、日本で人工地震を起こすために使おうとした作戦計画書。実際には、8月広島・長崎に上空から直接使われ、人工地震パニックという迂回作戦にはなりませんでしたが、米国が、日本人が一番恐れているのは地震だということを熟知していたことを示す文書です。その地震国日本に、占領・朝鮮戦争後のアメリカは、なにをもたらしたのでしょうか?
もう一つは、Scrap Japanというサイトに、「原発ドキュメンタリー」の一つとして出てくる、「原発導入のシナリオ:冷戦下の対日原子力戦略」というNHK1994年放映スクープドキュメント。主人公は正力松太郎読売新聞社主、アメリカ・アイゼンハワー大統領の有名な1953年末国連演説「Atoms for Peace」を受けて、正力松太郎、中曽根康弘らが、日本に「原子力の平和利用」をプロパガンダした記録。これと有馬哲夫さん『原発・正力・CIA』(新潮新書、2008年)や私の「戦後米国の情報戦と60年安保」を併読すれば、CIAエージェント「PODOM」こと「プロ野球の父」正力松太郎が、日本初のテレビ放映権をアメリカから得た後(「テレビの父」)、自ら初代原子力委員長・科学技術庁長官(「原子力の父」)として原子力発電導入に奔走した歴史的事情が、よくわかります。同じサイトからアクセスできる、「原子炉解体:放射性廃棄物をどうする」というチェルノヴイリ後の1988年制作NHKスペシャルも、今後の福島原発の廃炉・解体の行方を考えれば、必見です。2011年3月のNHK報道は、はたしてこうした先達のジャーナリスト精神を受け継いでいたでしょうか? 検証は、これからです。
憂鬱の種は、もう一つあります。いやこちらが本筋の、日本政治の内向と閉塞。いまや菅民主党内閣は、4月統一地方選までたどり着けるかどうかの末期的漂流。「国民生活が第一」に期待した国民の政権交代時の熱気は消えて、政党政治への深い失望と不信が、やりきれない不満と諦観をも伴って、蔓延しています。政策対立軸の見えない国会論議は、二大政党制とは言えません。基軸を作るはずだった国家戦略局は、いつのまにやら国家戦略室のままで政治舞台から退場し、民主党政権下一年の官僚天下りは4240人にのぼるとか。「抑止力は方便」と述べた前首相に続いて、普天間基地移転の沖縄県民への約束を反故にしたまま、現首相のもとで米軍「思いやり予算」が今後5年間現行水準が維持されるという合意。外交政策はアメリカにほとんど丸投げですから、対中関係も対ロ関係も、進展するはずがありません。エジプトやリビアの民衆までは目は届かず、ただ石油価格の高騰だけを気にかけているらしい無策・無気力。こんな国政の時代閉塞が、若者たちから希望を奪い、携帯電話による不正大学入試のような自暴自棄を産み出しているのかもしれません。韓国「朝鮮日報」はこれを、「信頼崩れた日本式システム」として大きく報じています。まじめな若者たちの努力が、ちゃんと報われる社会が必要です。
前回更新で予告したように、まもなくメキシコ、アメリカに旅立ちます。次回更新は3月15日ではなく、4月1日の予定です。執筆中の仕事を抱えての海外ですが、旅行荷物を少なくするため、参考資料・文献と自分の論文はできるだけScanSnapを用いてデジタル化。ゾルゲ事件研究のファイルが増えてきたので、本カレッジ「情報学研究室」カリキュラムに、情報学研究<専門課程2ーー世界史のなかのゾルゲ事件> を追加。ゾルゲ事件2010年墓前祭の講演記録「新発掘資料から見たゾルゲ事件の実相」(日露歴史研究センター『ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集』第28号、2011年1月)等が入っています。日本経済評論社の新著、加藤哲郎・丹野清人編「21世紀への挑戦 7 民主主義・平和・地球政治」序論「情報戦の時代とソフト・パワーの政治」の草稿段階での講演記録、「アメリカニズムと情報戦」(『葦牙』第36号、2010年7月)、菅孝行・加藤哲郎・太田昌国・由井格「鼎談 佐野碩ーー一左翼演劇人の軌跡と遺訓(上)(下)」(『情況』2010年8・9月、10月)も、pdfで入れました。これまで「当研究室刊行物一覧」にありながらウェブ上では未公開だった、「体制変革と情報戦――社会民主党宣言から象徴天皇制まで」(岩波講座『「帝国」 日本の学知』第4巻『メディアのなかの「帝国」』岩波書店、2006年)、「戦争と革命ーーロシア、中国、ベトナムの革命と日本」(『岩波講座 アジア・ 太平洋戦争』第8巻『20世紀の中のアジア・太平洋戦争』i岩波書店、200 6年)、「<天皇制民主主義>論」(松村高夫・高草木光 一編『連続講義 東アジア 日本が問われていること』岩波書店、2007年3 月)、「グローバル・デモクラシーの可能性ーー世界社会フォーラムと『差異の解放』『対等の連鎖』」(加藤哲郎・国廣敏文編『グローバル化時代の政治学』法律文化社、2008年3月、所収)なども新規収録。そして、学術論文データベ ースにも、常連の宮内広利さん「初源の言葉を求めてーー中沢新一の自然と『非対称社会』」が新規アップされています。日本経済評論社の「政治を問い直す」シリーズ2部作、加藤哲郎、小野一、田中ひかる、堀江孝司編著『国民国家の境界』と加藤哲郎・今井晋哉・神山伸弘編『差異のデモクラシー』への書評を、梅森直之さんが『図書新聞』1月22日号に書いてくれました。故須藤ミハエル教授、ヤシム・アハメッド博士、アラン佐々木さんの追悼ページ「† For the Eternal Memories of Prof. Mikhail Masaovich Sudo, Dr. Jasim Uddin Ahmed , and Mr. Allan Sadaminovich Sasaki」は、本トップ客員名誉教授故ロブ・スティーヴン研究室の下に入れ永久保存します。
インターネット上には、Facebook6億人突破やGoogle地域幹部ワエル・ゴニムさんの果たした役割についての情報が溢れています。イタリアでは買春疑惑のベルルスコーニ首相退陣を求める100万人のデモに早速応用されましたが、今回は「モーニングスター」という投資サイトの2月4日号に掲載された、中国における地殻変動についての記事を紹介しておきましょう。小見出しに「1億2500万人の『つぶやき』と検閲の限界」とあります。
こんな世界史の転換点のなかで、日本政治の貧困は深刻です。昨年の尖閣問題が尾を引いているなかで、菅首相の「北方領土」問題でのロシアへの「許し難い暴挙」発言。国内向けの受けを狙ったのでしょうが、ソフトパワーとしての外交では、交渉以前に相手側の窓口を閉ざす、歴史的に拙劣な「暴言」です。そのうえ国会運営では行き詰まって、性懲りもなく社民党に秋波を送り、沖縄の普天間基地移設問題関連経費の予算案計上見送りを口に出す無責任。それなら日米合意そのものを再検討すべきなのに、そんな基本政策見直しの勇気も力もなく、たんなる国会対策の方便です。内閣支持率20%割れも、むべなるかなです。ここでも大手マスコミよりも、沖縄ジャーナリズムの奮闘が目立ちます。エジプト革命に日本でいち早く声をあげたのは、琉球新報2月1日社説「逆ピラミッドの民主化を」でした。2月13日付けで、鳩山前首相に普天間問題の反省を迫り、「抑止力は方便だった」という本音を引き出したのも、琉球新報、沖縄タイムスの地元紙インタビューでした。池田香代子さんのブログで教えられましたが、琉球新報ワシントン特派員与那嶺路代さんの「ワシントン便り」には、いわゆるジャパン・ロビーとは異なる、アメリカ政官学界指導者たちの辺野古移転問題についての率直な意見「普天間は一刻も早く閉鎖しなければならない」が出ています。日本の若者たちのなかに、こうした弱者の声に敏感で、行動参加をよびかける流れが生まれ広がった時、世界の「多様なネットワークによるひとつのネットワーク」に、追いつき加わることができるでしょう。
この間、ゾルゲ事件研究のファイルが増えてきたので、本カレッジ「情報学研究室」カリキュラムに、情報学研究<専門課程2ーー世界史のなかのゾルゲ事件> を追加。名古屋方面の方には、上海東亜同文書院ゆかりの愛知大学で、2月22−23日開かれる愛知大学国際問題研究所ワークショップ「アジア主義・イスラミズム・インターナショナリズムの再検証」をご紹介しておきます。日本女子大学臼杵陽教授の「アジア主義再検証ーー大川周明を中心に」と共に、私は「インターナショナリズム再検証 ーー上海のゾルゲ・尾崎秀実を中心に」 を報告します。フェイスブックに再登録して、そのソフトパワーに驚き使い始めましたが、ハード面での最近の感激は、ScanSnapというデジタル情報整理機。もともと名刺管理用に買って時間をとれずにいたのですが、電子ブック作成の新兵器として使えるというので使い始めたら、手元の資料や論文のpdf化に驚くべき威力、その簡便さとスピードにすっかりはまり、旧い論文も、次々とpdf にできました。その出来映えチェックも兼ねて、前回アップしたゾルゲ事件2010年墓前祭の講演記録「新発掘資料から見たゾルゲ事件の実相」(日露歴史研究センター『ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集』第28号、2011年1月)に続き、日本経済評論社の新著、加藤哲郎・丹野清人編「21世紀への挑戦 7 民主主義・平和・地球政治」序論「情報戦の時代とソフト・パワーの政治」の草稿段階での講演記録、「アメリカニズムと情報戦」(『葦牙』第36号、2010年7月)を新規アップ。菅孝行・加藤哲郎・太田昌国・由井格「鼎談 佐野碩ーー一左翼演劇人の軌跡と遺訓(上)(下)」(『情況』2010年8・9月、10月)も、あっという間にpdfになりました。
そこでついでに、これまで「当研究室刊行物一覧」にありながら、ウェブ上では未公開だった、「体制変革と情報戦――社会民主党宣言から象徴天皇制まで」(岩波講座『「帝国」 日本の学知』第4巻『メディアのなかの「帝国」』岩波書店、2006年)、「戦争と革命ーーロシア、中国、ベトナムの革命と日本」(『岩波講座 アジア・ 太平洋戦争』第8巻『20世紀の中のアジア・太平洋戦争』i岩波書店、200 6年)、「<天皇制民主主義>論」(松村高夫・高草木光 一編『連続講義 東アジア 日本が問われていること』岩波書店、2007年3 月)、「グローバル・デモクラシーの可能性ーー世界社会フォーラムと『差異の解放』『対等の連鎖』」(加藤哲郎・国廣敏文編『グローバル化時代の政治学』法律文化社、2008年3月、所収)なども、書籍新刊期間はすぎたので、ボーナス・アップ。ちょっとした、コピーレフト運動の実験です。そして、学術論文データベ ースにも、常連の宮内広利さん「初源の言葉を求めてーー中沢新一の自然と『非対称社会』」を新規アップ、日本経済評論社の「政治を問い直す」シリーズ2部作、加藤哲郎、小野一、田中ひかる、堀江孝司編著『国民国家の境界』と加藤哲郎・今井晋哉・神山伸弘編『差異のデモクラシー』への書評を、梅森直之さんが『図書新聞』1月22日号に書いてくれたのでアップ。宮内さん、梅森さん、ありがとうございました。次回3月1日更新は予定通りにするつもりですが、その直後から3月はまるまる日本を離れます。その間更新が途絶えますので、じっくり論文のかたちで、本カレッジの研究成果を、お楽しみください。故早川弘道さんの早稲田大学法学学術院の「お別れの会」は、3月2日(水)午後1時ー2時半、早稲田大学8号館地階B107教室にてもたれるとのことですが、葬儀にも 出席できない須藤ミハエル教授、ヤシム・アハメッド博士、アラン佐々木さんについては、追悼ページ「† For the Eternal Memories of Prof. Mikhail Masaovich Sudo, Dr. Jasim Uddin Ahmed , and Mr. Allan Sadaminovich Sasaki 」を、本トップの客員名誉教授故ロブ・スティーヴン研究室の下に入れ、お悔やみに代え、永久保存します。
2011.2.12/1:10am
まだ日本語ニュースは流れていませんが、CNN
TV及びアルジャジーラのライブ放送によれば、エジプトのムバラク大統領はついに退陣しました。全土2000万人のデモに、30年の独裁者も抗しきれませんでした。
2011.2.1
このところ友人・知人の不幸が続いて、気が滅入ります。臨時で入れた下記の追悼ニュースと共に、英語ページに3人の外国の友人の追悼ページを作り、永久保存することにしました。早川弘道さんの早稲田大学法学学術院の「お別れの会」は、3月2日(水)午後1時ー2時半、早稲田大学8号館地階B107教室にてもたれるとのことですが、葬儀にも
出席できない須藤ミハエル教授、ヤシム・アハメッド博士、アラン佐々木さんについては、以下の追悼ページをもって、お悔やみに代えます。心からご冥福を、お祈りいたします。合掌!
† For the Eternal Memories of Prof. Mikhail Masaovich Sudo, Dr. Jasim Uddin Ahmed , and Mr. Allan Sadaminovich Sasaki
2011.2.1 私が個人的に親しい友人たちの永眠を嘆き、日本はアジアカップ・サッカーの優勝に沸き立っている時に、ちょうど米国大統領の年頭一般教書演説、世界経済フォーラム(WEF,
通称ダボス会議)、世界社会フォーラム(WSF)の定点観測の時期に、世界は大きく揺れ動きました。G8にもG20にも十分組み込まれず、世界の貧困と不安定要因が集中するアフリカ、それも歴史的に欧米との政治的距離の近いチュニジアとエジプトで、「インターネット時代の市民革命」です。1月28日にちょうど故早川弘道教授追悼を兼ねた『コミンテルン・コミンフォルム解散と国際共産主義運動の変容─
1989年=1991年への帰結』という講演があったので、コミンテルン(世界共産党)は新聞・雑誌を主要メディアとした1917年ロシア革命の遺物、1943年コミンテルン解散から戦後コミンフォルム(欧州共産党・労働者党情報局)はラジオ時代のスターリン型世界戦略への各国共産党再統合の試み、1956年のスターリン批判、ハンガリー革命から国際共産主義運動が崩壊する1989年東欧革命・91年ソ連崩壊を共産党型政治文化のソフトパワーの枯渇、それに代わる「テレビ時代のフォーラム型革命」、そして、21世紀の9・11以後の世界を「インターネット時代の地球市民革命の可能性」として論じておきました。いうまでもなく、チュニジア、エジプト、スーダン南部等の動きをにらみながら、日本経済評論社の新著、加藤哲郎・丹野清人編「21世紀への挑戦 7 民主主義・平和・地球政治」に寄稿した「情報戦の時代とソフト・パワーの政治」の視点を応用したものです。
それにしても、日本のテレビ・新聞などマスコミのアフリカ・中近東報道は、貧困です。チュニジアやエジプトで何が起こっているかは、現地日本人の消息以外、よくわかりません。しょうがないので、テレビのCNNをつけっぱなしにし、インターネットで情報を集めるしかありません。フェースブックが重要な役割を果たしたというので、昔一度登録した時のパスワードを忘れていましたが、久しぶりで入ってみるとびっくり、さすが世界で6億人が登録しチュニジア革命の原動力になったソーシャル・ネットワークで、あっという間に海外の友人・知人との連絡が回復、特にかつて一橋大学で教えた留学生たち、海外の教え子の多くと、たちまちネットワークでつながりました。国内では、20代から30代の教え子たちが、すぐに反応してきました。エジプトのムバラク大統領が、携帯電話とインターネットを遮断して権力にしがみついている理由が、よくわかりました。このネットワークが政府批判で結びつき、誰かが街頭行動を呼びかけた時、何十年も続いた独裁政権があっという間に倒れてしまいました。権力の側も新しい規制を加えて「Web 2.0がControl(統制)2.0と衝突している」状態です。かつてコミンテルンが重視した戦略・戦術文書や「テーゼ」はありません。これもマスコミはあまり報じていませんが、ウィキリークスで「ムバラク政権下で弾圧や拷問が横行している実態が暴かれた」ことが、市民革命を加速しています。戦後の政党政治に特徴的な労働組合・経済団体や大衆組織との結合も、エジプトのムスリム同胞団が途中から加わったとはいえ、革命の原動力ではありませんでした。1989年東欧の教会や市民運動から始まる「フォーラム型」ともまた違った、「ネットワーク型」の抵抗運動です。ちょうど2月6−11日、「反ダボス会議」、「もう一つの世界は可能だ」の世界社会フォーラム(WSF)が、同じアフリカのセネガル、ダカールで開かれます。ダカールが「持たざる民衆の祝祭」になるか、「反グローバリズムの再確認」の場になるか、あとはエジプト軍部がどうでるか、米英がムバラク大統領を見捨てるかどうか、次男への世襲でも後継指名したスレイマン副大統領でもなく、エルバラダイ前IAEA事務局長ら反政府派に政権が移るのかどうか、エジプトから目を離せません。英語ですが、アルジャジーラのライブ放送が100万人デモを実況しています。この問題でも日本で先駆的に声をあげたのは、琉球新報社説「逆ピラミッドの民主化を」でした。
エジプト革命について、日本政府の枝野官房長官は「暴力的な手段での鎮圧は抑制的にしてほしい。デモの声もしっかりと受け止め、対話によって平和的な事態収拾を求めている」とあたりさわりのないコメントを出しましたが、要するにアメリカ政府の態度がはっきりしないので独自の判断はできない、ということでしょう。例によってのアメリカ頼りの情報戦で、邦人待避のチャーター機派遣が唯一の決定です。菅首相は、世界経済フォーラムのダボス会議に6時間だけ出席して、「平成の開国」=TPP参加をアピールしたようですが、リーマンショック後の金融危機の行方は定まらず、中国の存在感がいっそう増した会議だったようです。しかもその中国清華大の学者が、「統一韓国が核兵器を保有しても、中国など周辺国の脅威にはならない」と主張したのには、要注意。「ダボスでは、昨年までと比べ中国の存在感が薄らいだ」という報道もありますが、日本人出席者だけからの取材で日本への関心そのものが低く、全体の基調は、やはり中国とインドだったようです。世界資本主義の将来が、中国の「赤い資本主義」への依存度を高めている構図です。中国の国民で市場システムへの不満はたった3%、貿易拡大歓迎が90%という面白い国際世論調査も発表されました。私が注目するのは、米国オバマ大統領の一般教書演説における4回もの中国への言及の仕方。直前の米中首脳会談もそうでしたが、「中国の政治体制が米国と異なることは承知している」としたうえで、経済体制についてはむしろ協力と競争を強調しました。かつての米ソ対立、「資本主義対社会主義」の体制間冷戦とは、全く異なる構図です。それが世界市場下の「政治体制」の違いによる「資本主義対資本主義」であるならば、20年以上前のバブル経済期を、私は「JAPAMERICA ジャパメリカの時代」と特徴づけましたが、今日の米中関係をG2=米中バイゲモニーの「CHIMERICA チャイメリカ」と見ることができるかどうかが、ポイントです。私はなおクエッションマークつきですが、世界の関心は「ジャパメリカからチャイメリカへ?」に向かっているようです。他方、「政治体制」は、かつて開発独裁下のアジアで、いまチュニジアやエジプトでも、ピープルズ・パワーの力で変革可能で、現に変わりつつあります。それが中国についてはもとより、アメリカでも日本でも可能であるのか? いま北アフリカで起こっていることは、「対岸の火事」ではありません。
政治における情報戦の役割について論じた、「戦後米国の情報戦と60年安保ーーウィロビーから岸信介まで」に続いて、ゾルゲ事件2010年墓前祭の講演記録「新発掘資料から見たゾルゲ事件の実相」(日露歴史研究センター『ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集』第28号、2011年1月)をアップ。日本経済評論社の新著、加藤哲郎・丹野清人編「21世紀への挑戦 7 民主主義・平和・地球政治」序論「情報戦の時代とソフト・パワーの政治」に続いて、『岩波講座 東アジア近現代通史 第6巻 アジア太平洋戦争と「大東亜共栄圏」1935−45年』岩波書店、2011年1月)に寄稿した拙稿「連合国の戦後アジア構想」も発売されたようです。今こそ情報戦の歴史の延長上で、エジプトを理解できる時です。ご参照ください。
2011.1.15 新年の誓いの矢先に、二つの悲しいニュースが、流れてきました。一つはモスクワから、日本人のスターリン粛清犠牲者須藤政尾の遺児スドー・ミハエルさんの訃報。もう一つはドイツから、私のドイツ・ボン在住の親友で、昨年9月も親しく過ごしたバングラデシュ出身のイスラム教徒、ヤシム・ウディン・アハメッドさんが亡くなったという知らせです。スドー・ミハエルさんは、1932年7月生まれでしたから、享年78歳。父須藤政尾は、当時日本から旧ソ連に渡ってウラジオストックの労働組合で日本人を組織する指導者でした。その日本人の父が、1937年、モスクワで「日本のスパイ」として突然逮捕され、銃殺されました。旧ソ連日本人粛清の初期の犠牲者の一人です。ロシア人の母も検挙されて強制収容所に送られ、ミハエルさんは「孤児」として育ち、独学で地質学の博士・教授になり、戦後も差別されながら父のルーツを求め、その無実の罪をはらし、名誉回復を成し遂げました。私の著書『国境を越えるユートピ
ア──国民国家のエルゴロジー』(平凡社ライブラリー、2002年)の主人公の一人です。1994年には、父の弟・妹が存命する日本への訪問も果たしました。私は、そのスドー・ミハエルさんのルーツ捜しを助けると共に、他の多くのスターリン粛清日本人犠牲者、国崎定洞、勝野金政、健物貞一、寺島儀蔵、小石浜蔵、松田照子らの粛清文書を探索し、名誉回復を進め、日本のご遺族・関係者に命日や埋葬地を知らせる活動のさいに、資料の眠るモスクワ在住で、自分自身のことのように他の犠牲者家族を案じるスドー・ミハエルさんから、絶大な助力・協力を得ました。残念です。心からご冥福を祈ります。
もう一人の、ヤシム・ウディン・アハメッドとは、昨年9月にも会ってきたばかり、この10年闘病生活中とはいえ、まだまだ大丈夫だとクリスマス・カードを交換した矢先の突然の喪失でした。大学を出たばかりの1972−73年、旧東独での生まれて初めての海外生活でのドイツ語語学学校の同級生、同年輩で学生寮のルームメイトでした。ヤシムはその時、すでに、独立したばかりのバングラデシュ農業大学の経済学助教授、開発経済を学んで将来のバングラデシュを背負ってたつはずの新興国エリートでした。寮の同室で、毎日5回イスラム教の礼拝を繰り返すヤシムに、はじめは驚き違和感を持ちましたが、次第に同じアジアからの留学生としてうち解け、生涯の友となりました。後ヤシムの夫人となったドイツ人女子学生カローラを交えての共通の話題は、世界の情勢からイスラム教とキリスト教、仏教の違いまで、アルコールの入った最後の話題は声をひそめての旧東独社会と国家体制への疑問、マルクス主義やコミュニズムの問題点でした。ヤシムは、カローラの願いを聞き入れ、そのまま故国に帰らず、東独籍の夫人と共に西独ボンに移住、IT技術者として働きながら、西独ムスリム移民社会のリーダーになりました。1989年のベルリンの壁崩壊の頃からたびたび会い、私の現存社会主義批判、粛清犠牲者救援、インドやメキシコへの注目への、隠れた視点を与えてくれました。一緒にインターネットの本サイト英語版から、世界に散ったかつての東独語学学校での同級生によびかけ、ロシア人のニーナや、ミャンマーの解放運動闘士とは、連絡を回復することもできました。特に21世紀に入って、9・11以後の「帝国」アメリカ対イスラム世界の対立の読解には、ほぼ毎年意見と情報を交換して、グローバルな世界での異文化共存のあり方を議論してきました。30年以上故国を離れても、ヤシムの魂は、バングラデシュとムスルム世界の将来に、向けられていました。ただし、20世紀の終わりから病魔にむしばまれ、心臓に負担のかかる長時間の空の旅は無理で、幾度か誘い夢見た日本への招待、東京での再会は、幻に終わりました。葬儀はボンのイスラム教寺院で行われるとのことです。合掌!
2011.1.20 新年早々、モスクワ、ボンからの友人の訃報に続いて、ロシアからはもう一人の旧ソ連粛清日本人犠牲者遺児アラン・ササキさん(1920年代早大建設者同盟出身日系カルフォルニア労働運動指導者、「アメ亡組」の一人健物貞一遺児、健物は1942年9月8日強制収容所で粛清死)の1月16日病没の知らせ、さらに、日本で30年来の研究仲間だった早稲田大学教授・前比較法研究所長・早川弘道さんご逝去の、悲しい知らせが入ってきました。 例年1か月間掲げる松飾りをはずし、心から哀悼の意を表します。早川さんも、長い闘病生活でしたが、最後まで研究への情熱は衰えを見せず、実は、この1月28日に、私と一緒に連続講演会「旧社会主義圏諸国における法と社会ーー1956年と現代/世界史的転回点とその帰結」の最終回で、「社会主義体制下のハンガリー1956年革命 Lawful revolutionの起点・切断・帰結」という報告をすることになっていました。昨夏早川弘道さんに頼まれた時には、久しぶりのジョイントを楽しみにしていたのに、けっきょく私一人の片肺で、『コミンテルン・コミンフォルム解散と国際共産主義運動の変容─ 1989年=1991年への帰結』講演することになりました。かえすがえすも残念です。
昨2010年は、3月に学部学生講義と大学運営から「解放」された記念すべき年でした。本「ネチズンカレッジ」のバージョンアップや、気ままな国内旅行、文学書再読など夢をふくらませていたのですが、実際には、夏の冬の国外調査旅行以外は、客員講義や執筆・編集の雑事に追われ、不完全燃焼の「第3の人生」初年でした。カレッジのリンク集だけは、近々更新する予定です。それでも日本経済評論社から、「政治を問い直す」シリーズ2部作、加藤哲郎、小野一、田中ひかる、堀江孝司編著『国民国家の境界』と加藤哲郎・今井晋哉・神山伸弘編『差異のデモクラシー』に加え、何とか新著加藤哲郎・丹野清人編「21世紀への挑戦 7 民主主義・平和・地球政治」を年内刊行に間に合わせることができ、社会評論社の故栗木安延教授追悼本、合澤清・加藤哲郎・日山紀彦編『危機の時代を観る』を加えれば、4冊を編著として世に出すことができました。『年報 日本現代史』第15号「戦後米国の情報戦と60年安保ーーウィロビーから岸信介まで」(現代史料出版)や「ゾルゲ事件の3つの物語ーー日本、米国、旧ソ連」(『ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集』第26号)など論文も含めれば、まあ「現役」研究者として通用する活動ができた、といえるでしょう。
2011.2.1 このところ友人・知人の不幸が続いて、気が滅入ります。臨時で入れた下記の追悼ニュースと共に、英語ページに3人の外国の友人の追悼ページを作り、永久保存することにしました。早川弘道さんの早稲田大学法学部のお別れの会は3月2日(水)にもたれるとのことですが、葬儀にも出られなかった須藤ミハエル教授、ヤシム・アハメッド博士、アラン佐々木さんについては、以下の追悼ページを訪れていただけると幸いです。心からご冥福をお祈りいたします。合掌!
† For the Eternal Memories of Prof. Mikhail Masaovich Sudo, Dr. Jasim Uddin Ahmed , and Mr. Allan Sadaminovich Sasaki
2011.1.20
新年早々、下記のモスクワ、ボンからの友人の訃報に続いて、ロシアからはもう一人の旧ソ連粛清日本人犠牲者遺児アラン・ササキさん(1920年代早大建設者同盟出身日系カルフォルニア労働運動指導者、「アメ亡組」の一人健物貞一遺児、健物は1942年9月8日強制収容所で粛清死)の1月16日病没の知らせ、さらに、日本で30年来の研究仲間だった早稲田大学教授・前比較法研究所長・早川弘道さんご逝去の、悲しい知らせが入ってきました。
例年1か月間掲げる松飾りをはずし、心から哀悼の意を表します。早川さんも、長い闘病生活でしたが、最後まで研究への情熱は衰えを見せず、実は、この1月28日に、私と一緒に連続講演会「旧社会主義圏諸国における法と社会ーー1956年と現代/世界史的転回点とその帰結」の最終回で、「社会主義体制下のハンガリー1956年革命
Lawful
revolutionの起点・切断・帰結」という報告をすることになっていました。昨夏早川さんに頼まれた時には、久しぶりのジョイントを楽しみにしていたのに、けっきょく私一人の片肺で、講演することになりました。かえすがえすも残念です。当日は、以下の要領で、21世紀に入ってからは報告することの少なかった国際共産主義運動の歴史的崩壊について、早川さんの提起したかったであろう問題を私なりに咀嚼して、追悼を兼ねた報告を試みます。ご関心のある方はせひ出席して、共に早川弘道さんを偲んでいただきたいと思います。合掌!
早稲田大学比較法研究所連続公開講演会【第3回】
毎年新年の本サイトでは、その年の世界の行方を占う3つのイベントを紹介し、定点観測を推奨してきました。世界のビジネス・金融・政財界エリートがスイスの山奥で1月末に開く世界経済フォーラム、通称ダボス会議、それに対抗して世界のNGO 、労働運動、平和運動の担い手が集う世界社会フォーラム、そして、米国大統領の年頭一般教書演説です。今年はこれに加えて、もう一つのイベントが加わります。中国胡錦濤国家主席のアメリカ訪問、1月19日の米中首脳会談です。「世界経済問題、北朝鮮やイランに関連する安全保障問題、さらに政治改革と人権に関する重要な問題が議題に上る見通し」といいますから、おそらく1月25日のオバマ大統領一般教書演説、1月26日からのダボス会議の内容にも、大きな影響を与えるでしょう。今年のダボス会議には、内閣改造の期日を早めた日本の菅首相が出席するそうですが、それはマイナーニュース。主催者側が「ウィキリークス(WL)」創設者で編集長のジュリアン・アサンジュを招待する」というビッグな情報が、流れています。また、来年2012年からは、中国とインドの首脳が出席できるよう、日程を1月中旬に前倒しするというニュースもあります。他方の世界社会フォーラムは、昨年は「グローバル・アクション/モビライゼーション・イヤー」として世界各国で分散して開かれましたが、今年はセネガルの首都ダカールで、2月6ー11日に開かれます。21世紀初めの開催地ブラジルも、その後に開催国となったインドも、いまやBRICsとしてG20に組み込まれ、「もう一つの世界は可能だ!」の焦点はアフリカに移り、開催期日もダボス会議とぶつけるかたちをとらず、内部に論争を抱え、独自の道を歩み始めたようです。それでもこれらのイベントは、世界の動きを知るには最適です。最近孫崎享さんのツイッターで知った世界の言論集約サイトReal Clear Politicsなどと読み比べれば、現在の日本の政治、というより政局が、小さく小さく見えてくるでしょう。本サイトは、今年も、グローバルな世界の情報の流れを、追っていきます。
そんな新年の誓いの矢先に、二つの悲しいニュースが、流れてきました。一つはモスクワから、日本人のスターリン粛清犠牲者須藤政尾の遺児スドー・ミハエルさんの訃報。もう一つはドイツから、私のドイツ・ボン在住の親友で、昨年9月も親しく過ごしたバングラデシュ出身のイスラム教徒、ヤシム・ウディン・アハメッドさんが亡くなったという知らせです。スドー・ミハエルさんは、1932年7月生まれでしたから、享年78歳。父須藤政尾は、当時日本から旧ソ連に渡ってウラジオストックの労働組合で日本人を組織する指導者でした。その日本人の父が、1937年、モスクワで「日本のスパイ」として突然逮捕され、銃殺されました。旧ソ連日本人粛清の初期の犠牲者の一人です。ロシア人の母も検挙されて強制収容所に送られ、ミハエルさんは「孤児」として育ち、独学で地質学の博士・教授になり、戦後も差別されながら父のルーツを求め、その無実の罪をはらし、名誉回復を成し遂げました。私の著書『国境を越えるユートピ ア──国民国家のエルゴロジー』(平凡社ライブラリー、2002年)の主人公の一人です。1994年には、父の弟・妹が存命する日本への訪問も果たしました。私は、そのスドー・ミハエルさんのルーツ捜しを助けると共に、他の多くのスターリン粛清日本人犠牲者、国崎定洞、勝野金政、健物貞一、寺島儀蔵、小石浜蔵、松田照子らの粛清文書を探索し、名誉回復を進め、日本のご遺族・関係者に命日や埋葬地を知らせる活動のさいに、資料の眠るモスクワ在住で、自分自身のことのように他の犠牲者家族を案じるスドー・ミハエルさんから、絶大な助力・協力を得ました。残念です。心からご冥福を祈ります。
もう一人の、ヤシム・ウディン・アハメッドとは、昨年9月にも会ってきたばかり、この10年闘病生活中とはいえ、まだまだ大丈夫だとクリスマス・カードを交換した矢先の突然の喪失でした。大学を出たばかりの1972−73年、旧東独での生まれて初めての海外生活でのドイツ語語学学校の同級生、同年輩で学生寮のルームメイトでした。ヤシムはその時、すでに、独立したばかりのバングラデシュ農業大学の経済学助教授、開発経済を学んで将来のバングラデシュを背負ってたつはずの新興国エリートでした。寮の同室で、毎日5回イスラム教の礼拝を繰り返すヤシムに、はじめは驚き違和感を持ちましたが、次第に同じアジアからの留学生としてうち解け、生涯の友となりました。後ヤシムの夫人となったドイツ人女子学生カローラを交えての共通の話題は、世界の情勢からイスラム教とキリスト教、仏教の違いまで、アルコールの入った最後の話題は声をひそめての旧東独社会と国家体制への疑問、マルクス主義やコミュニズムの問題点でした。ヤシムは、カローラの願いを聞き入れ、そのまま故国に帰らず、東独籍の夫人と共に西独ボンに移住、IT技術者として働きながら、西独ムスリム移民社会のリーダーになりました。1989年のベルリンの壁崩壊の頃からたびたび会い、私の現存社会主義批判、粛清犠牲者救援、インドやメキシコへの注目への、隠れた視点を与えてくれました。一緒にインターネットの本サイト英語版から、世界に散ったかつての東独語学学校での同級生によびかけ、ロシア人のニーナや、ミャンマーの解放運動闘士とは、連絡を回復することもできました。特に21世紀に入って、9・11以後の「帝国」アメリカ対イスラム世界の対立の読解には、ほぼ毎年意見と情報を交換して、グローバルな世界での異文化共存のあり方を議論してきました。30年以上故国を離れても、ヤシムの魂は、バングラデシュとムスルム世界の将来に、向けられていました。ただし、20世紀の終わりから病魔にむしばまれ、心臓に負担のかかる長時間の空の旅は無理で、幾度か誘い夢見た日本への招待、東京での再会は、幻に終わりました。葬儀はボンのイスラム教寺院で行われるとのことです。合掌!
2011.1.1 クリスマスから、 年の瀬ぎりぎりまで、北京・上海と中国を駆け足で見てきました。ほぼ毎年見ているのですが、その変化の速さは、尋常ではありません。オリンピックを終えた北京は、不況知らずです。1964年東京オリンピック、1988年ソウル・オリンピックの翌年は、公共工事や高層ホテル建設が一息ついて、落ち込むのが常だったのに。自動車の数と渋滞には悩まされました。自動車を買ってもナンバープレートが手に入らず、連日朝から並んで運転を待っているとか。高層ビルが林立し、胡同(フートン)の面影は隅に追いやられています。大卒でも就職できない「蟻族」の若者たちは、高層ビル地下の窓のない部屋に2段ベットで集住し、「ネズミ族」と呼ばれているとか。もっとも高層住宅は郊外にどんどん延びて、地下鉄工事も突貫で進んでいますから、また来年は別の顔を見せてくれるでしょう。
それでも、どことなく垢抜けない北京に比べ、万国博覧会を終えたばかりの上海の洗練には、驚きました。もう東京以上の超近代都市、アジアのグローバル拠点というべきでしょう。南京路はずれの和平飯店が改装を終えて高級ホテルとして再生し、ガーデン・ブリッジも、通れるようになっていました。街全体がファッショナブルで綺麗になり、河向こうの浦東の開発はなお進行中で、アジアの金融拠点、分厚い中流階級の形成を、目に見えるかたちで示しています。幅広い道路のまわりもしっかり清掃され、日本車や韓国車もありますが、ドイツ車と国産車の新車が目立ちます。かつて見た無灯自転車の大群は、もはやみられません。かつては欧米人客の多かった名門国際飯店のロビーには、背広にネクタイの中国人客に会いに、現地で仕事をしているらしい欧米人が訪ねてきて、英語と中国語が乱れ飛びます。チャンネルリストにはあるNHK衛星TVが映らないのは、この間の深刻な日中摩擦を反映したものかと思ったら、CNN等は映りますから、どうやら激減した日本人観光客を相手にしないだけのようです。朗報は、3年前にはホテルで映らなかった本「ネチズンカレッジ」が、無料の国際ホテル・ランで、ちゃんと映ったこと。別に10月1日更新で「尖閣列島は本当に「領土問題」でない? 」と書いて再評価されたわけではなく、今春中国の友人から本サイトの「復活」を聞いてましたから、万博前の検閲基準改定のさいに、トップページから入れるようになったのでしょう。ただし、私が3年前にたぶんこれで検閲を受け遮断されたのだろうと判断した1950年毛沢東暗殺未遂事件についてのページは、日本語文は見ることができますが、中国語文等の載った写真は開きません。you tubeが全然見られないのも、新嗜好でしょう。3年前に私のサイトと共に検閲され遮断されていた「世に倦む日々」さんサイト、有田芳生さん「酔醒漫録」は、ホテルで試した限りでは、依然アクセスできない状態でした。
2010年統計では、中国資本主義のGDPは、確実に日本を追い越し、世界第二位になります。北京・上海を見ただけでも、またそこで多くの友人たちから得た地方の話でも、まだまだ成長は続きそうです。都市と農村の不均衡、低賃金労働者の山猫スト、農民の土地闘争、急速な大学生増加とそれに見合った大卒職場がないミスマッチによる高学歴ワーキングプア問題、なお目に付く環境問題など矛盾は山積していますが、ちょうど高度成長期の日本が、公害や過労死・福祉貧困を後回しにして、「3種の神器(テレビ、洗濯機、冷蔵庫)」から「3C(カラーTV、クーラー、マイカー)への消費市場拡大で自民党長期政権を下支えしたように、政治の民主化は、簡単ではないでしょう。酒場で話せば、共産党独裁やノーベル平和賞も話題になります。ウィキリークスを待つまでもなく、インターネットを通じて、情報は溢れています。しかし、ずっと貧しく暮らしてきた人々が、ようやく社会的上昇のチャンスを得て、自分自身の力で良い生活と家庭を持てるようになってきたことが、政治体制を支えています。むしろ「社会主義」としての建国から大躍進運動、文化大革命の時代、共産党員の革命戦士や貧農・職工以外の人々は、親が企業家や小地主・小商店主であっただけで「出自階級」ゆえに底辺におかれ、知識人なら、その知識と学歴ゆえに「ブルジョア的」と迫害され、時には生命を落としてきましたから、改革開放以後の中国は、民衆のエネルギーを文革とは逆の方向に解放し、なお解放しつつある面があります。もともと地球人口の20%を占める中国が、いま7%ほどのGDPシェアを得て、世界第2の経済大国になったのは、19世紀以前も長く地球の富の20%程度を産み出していましたから、当たり前のことです。地球人口わずか2%の日本が、15%の富を作ったバブル経済期こそ、文明史的には例外でした。そして、もちろん20世紀に過大な役割を引き受けたアメリカの衰退も、中国に続き躍進するインドも、いまグローバルな宇宙船地球号のなかで、然るべき地位を占めつつあるということでしょう。
それにしても、2010年の日本政治の混迷は、地球的規模でのナチュラルな国力衰退に輪をかけて、存在感をなくしています。今回の中国旅行も、もともと11月に予定されていた日中文化交流の会議で、民主党政権の外交無策に翻弄されて、ようやく1か月後に実現したものです。2009年の「政権交代」が希望を抱かせたが故に、国民の失望、支持率低下は深刻です。4月の統一地方選挙まで待たずとも、政局含みの新年です。民主党のなすべき事は、ただひとつ、年末更新でも述べたように、「国民生活が第一」の初心に戻り、内政・外交の基本を再構築することです。若者に仕事を、働くものに安定した生活を、老人に安心を、この基軸点が曖昧になり動揺したままで、沖縄の普天間基地移転では県民の声より米国の要求を優先し、自民党政権でさえできなかった安全保障政策の転換を、「新防衛大綱」の策定で進めています。民主党政権は、国民への裏切りの1年でした。中国で外交問題について聞くと、日本の政治が不安定なので、重要な交渉・決定ができる相手ではない、問題は山積だが棚上げし、中国側としては様子見せざるをえない、というのです。もちろん、その間にもアメリカやヨーロッパ諸国は中国と交渉し、BRICsもG20も、新たな国際秩序の再編に向かっています。朝鮮半島の緊張は最高度に高まっています。日本政治の現在の問題は、こうした国際環境への無策や外交政策での戦略欠如ではありません。それらももちろん大切ですが、政府が民心から離れ、政府の内部から自壊が始まっていることです。何よりも内政の基本を再構築し、「政権交代」の果実を国民が実感できるものにすることです。2011年が、民主党の「政権交代」の「復初」の年となるよう願います。
昨2010年は、3月に学部学生講義と大学運営から「解放」された記念すべき年でした。本「ネチズンカレッジ」のバージョンアップや、気ままな国内旅行、文学書再読など夢をふくらませていたのですが、実際には、夏の冬の国外調査旅行以外は、客員講義や執筆・編集の雑事に追われ、不完全燃焼の「第3の人生」初年でした。カレッジのリンク集だけは、近々更新する予定です。それでも日本経済評論社から、「政治を問い直す」シリーズ2部作、加藤哲郎、小野一、田中ひかる、堀江孝司編著『国民国家の境界』と加藤哲郎・今井晋哉・神山伸弘編『差異のデモクラシー』に加え、何とか新著加藤哲郎・丹野清人編「21世紀への挑戦 7 民主主義・平和・地球政治」を年内刊行に間に合わせることができ、社会評論社の故栗木安延教授追悼本、合澤清・加藤哲郎・日山紀彦編『危機の時代を観る』を加えれば、4冊を編著として世に出すことができました。『年報 日本現代史』第15号「戦後米国の情報戦と60年安保ーーウィロビーから岸信介まで」(現代史料出版)や「ゾルゲ事件の3つの物語ーー日本、米国、旧ソ連」(『ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集』第26号)など論文も含めれば、まあ「現役」研究者として通用する活動ができた、といえるでしょう。
日本経済評論社の新著、加藤哲郎・丹野清人編「21世紀への挑戦 7 民主主義・平和・地球政治」で私は、『年報 日本現代史』第15号(現代史料出版)掲載、加藤「戦後米国の情報戦と60年安保ーーウィロビーから岸信介まで」ウェブ版の「理論編」にあたる、序章「情報戦の時代とソフト・パワーの政治」を書いています。8月に掲げた戦争に関連した尋ね人<南洋パラオから引き揚げた大垣出身「島原なみ」さん、その娘「福原南生子」さんの消息をご存じの方は、ご一報を!>には、残念ながら手掛かりある情報提供はありませんでした。「2011年の尋ね人」ページで、引き続き情報提供を求めます。『情況』2010年8・9月、10月号には、私も加わった大型座談会菅孝行・加藤哲郎・太田昌国・由井格「鼎談 佐野碩ーー一左翼演劇人の軌跡と遺訓(上)(下)」が掲載されています。「ゾルゲ事件の新資料ーー米国陸軍情報部(MIS)『木元伝一ファイル』から」(日露歴史研究センター『ゾルゲ事件外国語文献翻訳集』第25号、2010年3月)の続編「新発掘資料から見たゾルゲ事件の真相」が、まもなく『翻訳集』第28号に掲載されます。図書館「学術論文データベ ース」には、甘田幸弘「唯物史観反証理論」(2010.6)、宮内広利「死の権力と権力の死」(2010.9)に続いて、このコーナーの常連宮内広利さんの「移動する『疑い』の場所ーー柄谷行人『世界史の構造』を読んで」(2010.10)がアップされています。昨年からの早稲田大学大学院政治学研究科客員教授の仕事は、今年も続けます。来年度開講大学院講義・ゼミ関係は、早稲田大学ホームページからアクセス願います。 今年も本カレッジをよろしく!