1999年5-7月、2000年5月、2004年11月、2009年3-5月の海外滞在レポート

 (下の方の2009年版が「パンデミックの政治学」)

 


1999「メキシコ夏便り」総集編

 

Buenas Noches!  加藤哲郎Mexico研究室にようこそ! でも「気流の鳴る音」は聞こえません!

1999.5.10 [Mexico Report No.1]  Hola, Buenas tardes! 12年ぶりのメキシコ・シティです。着いた途端に米国国境沿いのティファナで日本人殺害事件があったそうで、日本からメールで教えてもらい、ご心配をおかけしました。なにしろ標高2200メートルに人口2000万人以上がひしめく世界一の大都会です。昔ツーリストとして歩いた記憶程度では、到底そのエネルギーと変化に太刀打ちできません。ウォーラーステインのいう「分水嶺としての1968年」頃からでしょうか、世界の大都市の定番が、ロンドン・ニューヨーク・東京の先進工業国から「途上国」のチープレーバー吸収地帯に移ったのは。現在のメキシコは、あの上海やニューデリーで経験した熱気のるつぼの中にあります。

 真木悠介こと見田宗介さんの名著『気流の鳴る音』は、私が「時間の政治学」や過労死研究に入るさいの指針の一つでしたが、ここメキシコ・シティにいる限り、インディオの声を聴くのは難しそうです。到着した途端に現地の友人に忠告されたのは、「安全」確保のために、流しのタクシーは絶対やめて必ず電話でチャーターすること、いつ襲われてもいいように貴重品の携帯は最小限にすること、でした。私自身、長い海外旅行のなかで、唯一本格的被害にあった体験のあるのが(ナップサックを地下鉄で奪われた!)、この街です。それでも懲りずに、時差ボケ朦朧の身体で、早速『地球の歩き方』最新版を片手に地下鉄で中央広場ソカロ探検にでかけたら、日本でも早足の私が、いつのまにやら次々に追い越されていきます。肩掛けカバンをしっかり前に押さえて緊張しているせいか、日中の日差しの強さに適応できないためかわかりませんが、とにかく時間が恐ろしく早くなった感じです。地下鉄網が発達して分刻みで運行し、かつては貴重品だった時計を貧しい人々も持つようになったためでしょうか? 最初の驚きは、かつてメキシコ民芸品を買い漁ったサンファン市場の衰退と、近くにできたパソコン市場の賑わいの落差でした。アメリカ人観光客がカンクーンなど避暑地に直行するためでしょうか、マヤ・アステカ文明の名残を味わえる民芸市場は閑古鳥で、日本人のカモが入ると、英語の客引きを追い払うのに一苦労でした。これに対して、近くにできたパソコン市場は、秋葉原風の小さなパーツ店・中古店がぎっしり軒を並べ、ラッシュアワー並の混雑です。気圧・電圧変化のせいか、パワーブックG3の液晶の調子が悪く画面が乱れるのに、残念ながらマッキントッシュの店はありませんでした(不吉な予感!)。NAFTAの一部となったメキシコは、いま大きく動いている印象です。

 かつて旅行者として観光スポットをまわった時は気になりませんでしたが、いざ日常生活を始めると、英語がほとんど通じません。郊外新開地の大学構内は何とかなりますが、そこから車で40分、コヨアカンに近い宿舎周辺では、一切がスペイン語です。銀行でも手話になる始末で、あわてて持参のスペイン語入門で特訓中。前回まで「エル・コレジオ」と書いてきた勤務先EL COLEGIO DE MEXICOは「コレヒオ」と発音すべきでした。「Gracias=ありがとう」「Adios=さようなら」あたりは何とか使えますが、「 Cuanto?=いくら?」に対する答えの金額がわかりません。そこで買い物にはカシオ計算機を持参し、相手にペソ価格を打ってもらう非常手段。この方法で、200ペソ吹っかけられたアンティーク市のソンブレロ風灰皿を、ようやく半額の100ペソ(約1500円)まで値切ってきました。宿舎からコレヒオまで週3回の講義には、出がけはタクシーをチャーターして40分50ペソ。帰りは時間の心配がないのでバスと地下鉄を乗り継ぐと、たったの4ペソ(50円!)になります。庶民の暮らしに慣れるには、まだまだ修行が必要なようです。さしあたり気がついたことを二つ。グローバル市場のモノの流れにも、やはり文化は反映するようです(川勝平太さんのいう「物産複合」?)。こちらに持ってきた教材作成用ホッチキス、予備の針を忘れたため補充しようとしたら、大学売店にも街の文具店でもみあたりません。他の教授たちを見ると、どうやら文書はクリップでとめているようです。次回更新までに、何とかみつけたいものです。クルマ社会になって交通事故が多いのはニューデリー・上海なみですが、地球にやさしい庶民の乗り物自転車が、あまり見あたりません。バイクも少なく、どうやら二本足から四輪へと一足飛びに走った「文明開化」が、アジア的猥雑とはまたちがった展開を示しているようです。

 コレヒオのLANとNiftyのローミングサービスがつながりましたが、LANからはなぜか日本の勤務先サーヴァー(srv. cc.hit-u.ac.jp)に入れません。私宛電子メールは、katote@ff.iij4u.or.jpの方をお使いください。5月13日夜のNHK教育ETV特集で ロシアに在住する旧ソ連粛清体験者寺島儀蔵さんの記録が放映されるはず。どなたかビデオをとっておいてください。ちゃんと仕事をしているアリバイ代わりに、コレヒオでの講義"Japan in the 20th Century"の学生用シラバスを入れておきます。日本のニュースは新聞社サイトなどからとれますが、何か身の回りで面白いことあったら、メールでお知らせください。当地滞在中は、今後もほぼ10日間隔でレポートをお送りする予定です。乞う、ご期待!


Buenos Dias!  加藤哲郎Mexico研究室にようこそ! VWカブトムシの走る街は、トロツキーが亡命し暗殺された芸術の都です!

1999.5.20 [Mexico Report No.2]  Hola, Buenos dias!  5月というのに連日30度近い暑さ、しかも悪名高きスモッグがどんより空をおおい、標高2200mの酸素の薄さがこたえます。歩くと疲れるので、ついつい禁断の流しのタクシーをつかまえます。同じ距離がメーター通り20ペソだったり、こわい兄ちゃん風で80ペソだったり。命が惜しいですから、やむなく要求通り払います。メキシコシティはクルマ社会、あのなつかしいフォルクスワーゲン・ビートルが主役です。世界で唯一VWメキシコ工場ではなおカブトムシを生産しており、タクシーはほとんどこれです。ファミリーカーの本命で、新車で日本円60万円位とか(対抗が日産サニーで、その名も「ツル」!)。産油国ですが石油精製技術に難があり、公害に配慮してタクシーを緑色にしたり、週1日ナンバープレート規制で排煙を減らそうとしてますが、南部郊外のコレヒオの窓から見ると、都心はいつも灰色です。ミネラルウォーターとサングラスは外出必須アイテム、それでもどっこい生きています。コヨアカンの高級デパートで、ついにホッチキスの針をみつけました。

 日本から持ってきたメキシコ関係の書物は2冊、黒沼ユリ子『メキシコの輝き──コヨアカンに暮らして』(岩波新書、1989)と中原佑介『1930年代のメキシコ』(メタローグ、1994)。どちらにも共通するキーワードは、コヨアカン、ディエゴ・リベラ、フリーダ・カーロ、そしてトロツキーとなります。コレヒオでの講義の帰り、そのコヨアカンに行ってきました。リベラ=カーロ夫妻の助けで1937年にトロツキーが亡命してきた頃のコヨアカンは、シティから遠く離れた郊外でしたが、今は都心に近い高級住宅街です。大きなスペイン風邸宅がならび、石畳の道を歩いていると「危険」など全然感じません。高級デパートがある地下鉄コヨアカン駅からゆっくりフリーダ・カーロ美術館へ。トロツキー夫妻の当初の住まいで、フリーダ・カーロとトロツキーが恋におち、トロツキーとリベラの同志的関係も険しくなった、問題の館です。絵画そのものの迫力は、国民宮殿の壁画はもちろんのこと、ここに展示された小品でも、やはりカーロよりリベラに軍配があがります。むしろ20cm四方位の小さな絵を無数に張り詰めた部屋が、大型の壁画とはまた違ったカーロ風な幻想空間を感じさせます。寝室に飾られたマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリン、毛沢東の写真は、リベラ=カーロ夫妻よりも、この国の左翼運動の歴史を想わせます。つまり、なぜかカストロ、ゲバラがないのです。リベラ自身「自己批判」してメキシコ共産党に復党したのです。そういえば、近くの国立自治大学の学生は、授業料徴収に反対してストライキ中です。値上げではありません。政府の新自由主義財政で、これまで聖域で無料だった国立大学授業料が課されるのに反対しての無期限ストです。70年にわたる権威主義的支配政党の名も制度的革命党、革命広場・革命駅と「革命」の名は至る所にみられますが、実体は保守のようです。でも政治抜きでも、メキシコ芸術は十分楽しめます。

 そこから石畳を5分ほど、12年前にも訪れたトロツキー博物館は、すっかり改装され立派になっていました。1940年8月21日、GPUの刺客メルカデルによって暗殺された要塞です。でもその雰囲気は、12年前の方がありました。今は庭が綺麗に手入れされて記念碑が建ってますが、世紀的政治犯罪の舞台には、草花がうっそうと生い茂っていた改装前の方がふさわしいように思われます。もっとも今年のアカデミー賞映画「ライフ・イズ・ビューティフル」のタイトル(トロツキーの「遺書」から採られた)には、現在の真紅のバラ庭園が似合ってますが。英語も話せる若いトロツキスト氏がいて、背後からピッケルで襲われた部屋と、その書斎の書棚に日本語もあるよと、山西英一訳らしい『裏切られた革命』をみせてくれました。スペイン共産党員の暗殺者メルカデルの背後には、スターリンはもちろんメキシコ共産党員シケイロスがいた、と早口でまくしたてます。シケイロスがまだ生きていて危なかったから、ナターリャ夫人はトロツキーの遺品を全部ハーバード大学トロツキー文庫に送ったのさ、おかげでここには文献資料は何も残っていない、とベレー帽のトロツキスト氏。中原さんの本に出てくるシケイロス=リベラ論争の迫力が、未だに生きています。共同研究者藤井一行教授がトロツキー『ロシア革命史』を新訳中で、オリジナル草稿の所在を確かめるよう頼まれてきたのですが、やっぱりアメリカのようです。入場料10ペソに撮影料10ペソを追加してデジタルカメラに納めましたが、英語のパンフレットやトロツキー・グッズを置いていないのは寂しい限り。もっともセピア色の絵葉書だけの方が、「追放された予言者」の最期の館にはふさわしいのかもしれません。

 日本のトロツキー紹介の先駆者山西英一は、イギリス留学でトロツキーに目覚める直前まで、ベルリンで国崎定洞らの在独日本人反帝グループに所属していました。だから私の「20世紀の謎解き」リストにも入ってます。春の東京麻布外務省外交史料館探索で、1932年夏にリバプールでまかれた日本人船員向け日本語反戦ビラをみつけましたが、小林陽之助がハンブルグで、大岩誠がマルセイユでまいたのと同じ、アムステルダム世界反戦大会の宣伝文でしたから、ひょっとすると山西英一がまいたものかもしれません。もっともロンドンの日本大使館は、イギリス人海員労働組合員によって寄港中の日本船水夫に渡された、と外務省に報告していましたが。そんなことを考えながら、さらに5分ほど歩くと、なんとそこは「SUPA ORIENTAL」、つまりメキシコ・シティ在住日本人の定番ショップで、味噌・醤油・海苔・豆腐から蒲鉾・寿司種までなんでもそろいます。早速なつかしいカルフォルニア米「錦」とウナギの蒲焼きを見つけて、「安全」無視で流しのタクシーを拾い、コレヒオのゲストハウス(こちら風にカーサとよびましょう)で久しぶりの自炊。翌日もサンアンヘルの絵画市にでかけましたが、日本人には親しみやすいコヨアカン・サンアンヘル地区は、やっぱり当地では庶民と無縁のスペイン貴族風超ハイソサイアティ。インディオの「気流の鳴る音」とは対極ですから、そのような異人区としてトロツキーやスペイン戦争政府軍兵士たちが亡命してきたのでしょう。37年8月にモスクワを追放されて、パリ・ニューヨーク経由当地に辿り着いた佐野碩が、戦後も日本に戻らずここで活動を続け、「メキシコ演劇の父」となったのはなぜだったのか? 今回のメキシコ訪問の私的な最大の謎解きは、もう少し現地に立ち入ってからになりそうです。


Buenas Tardes!  加藤哲郎Mexico研究室にようこそ! 「佐野碩」って知ってますか? かすかに「気流の鳴る音」が聞こえてきました!

1999.5.30 [Mexico Report No.3]  Hola, Buenos Tardes!  週末、コレヒオの歴史学者田中道子教授 のWeekend Houseに招かれて、かすかに「気流の鳴る音」を聞いてきました。シティからクルマで1時間半、モレロス州の小さな街です。なにしろ総人口9300万人の内2200万人がメキシコ・シティに集中していますから、シティを離れれば、そこはコルテス征服前の遺跡をいたるところに残す農業地帯、まもなく雨期に入れば緑輝く田園です。といってもそこは亜熱帯、セミが年中鳴き、マンゴウ、パパイア、オレンジの木々があちこちにみられます。コーヒーの木と生まれて初めてのご対面、黒いコーヒー豆というのは、おいしく飲む直前のRoast段階からであることを知りました。夜の静けさは格別、各地の村に残るマリア伝説が、真実味をおびてきます。リベラの壁画に描かれたインディオの風の叫びが、確かに聞こえたように感じます。ただし近郊農村にも悩みがあります。昨年クリスマスにはトマト価格が暴落し、いたるところに腐ったトマトが捨てられていたとか。メキシコ農業は、NAFTAに組み込まれています。流通を支配しているのは、アメリカのアグリ・ビジネスです。主食のコーンはアメリカから輸入、トマトや果物はメキシコからアメリカの食卓へと流れます。昨年末アメリカのトマト農家が、メキシコ・トマトはダンピングだとワシントンに圧力をかけたら、一時輸出が止まってトマトが国内市場に滞留し価格暴落、農家は大打撃を受けたそうです。アメリカ経済がくしゃみをすれば風邪をひくのは、日本だけではないのです。市場のグローバル化にセーフティネットがないと、世界中が肺炎になりかねません。そのセーフティネットは、国際機関の役割でしょうか、国家の任務でしょうか、それともローカルな市民社会レベルの問題でしょうか? 橘木俊詔さんの『日本の経済格差』(岩波新書)を読みました。「平等社会日本」の神話は確実に崩れ、所得でも資産でも不平等が広がっているという堅実な実証。メキシコでも近代化途上で生まれた新中間層の再分解、階層両極化が問題になっていますが、他人事ではなさそうです。

 田中道子さんは、当地に骨を埋めた「メキシコ近代演劇の父セッキ・サノ」=佐野碩(1905-66年)の研究家、スペイン語の佐野碩伝の最後の仕上げに入っています。そのうち1930年代初めのドイツ滞在・ソ連潜入、メイエリホルドのもとで演出を学んだ末の37年夏モスクワから国外追放までの活動が、「20世紀の謎解き」リストにある通り、私のワイマール期在独日本人研究、旧ソ連日本人粛清犠牲者研究とぴったり重なります。気流の響きを聞きながら、じっくり交流しました。佐野碩の名は、今は流行らない日本プロレタリア演劇史のなかで、20年代末の移動劇団「トランク劇場」や革命歌「インターナショナル」「ワルシャワ労働歌」の訳者として残されています。佐野碩の祖父は後藤新平、叔父は鶴見祐輔、名門の生まれです。親族には佐野学・佐野博と戦前日本共産党の指導者が輩出しますから(前に挙げていた「佐野文夫」は別でした)、反骨の系譜にも属します。今風には評論家鶴見俊輔の従兄、95年に沢田研二主演で上演された音楽劇「異邦人」のモデル、と言った方がわかりやすいでしょうか。旧制浦和高校から東大新人会で活躍、アメリカ経由ドイツに入り国崎定洞グループに合流、千田是也の日本帰国に際し世界革命演劇連盟(プロット)日本代表後任としてソ連に入国、スタニスラフスキー、メイエリホルドのもとで演出を学ぶ。一緒に入ソした土方與志一家と共に1937年8月ソ連を国外追放になり、フランス、チェコ、アメリカを経て39年メヒコに亡命、そのまま66年の死まで一度も日本に戻ることなく、メヒコ演劇の発展に力を尽くしました。「異邦人」では世界各国で12人の女性に愛された稀代のドンファンにされていますが、もちろんそれは彼の一途な情熱的人生の裏面です。メキシコでは著名な舞台女優と結婚し、シティの一流劇場で成功しながらも、地方のインディオの村々に今日も続く、農村民衆演劇運動の先駆者ともなりました。鶴見俊輔は1973年にこの地を訪れ、亡き従兄の足跡を辿って「佐野碩のこと」を書いています(『グアダルーペの聖母』筑摩書房、1976)。田中さんは、その調査の助手をつとめました。

 亡命という言葉の持つ喪失の響きとは裏腹に、トロツキーにしても佐野碩にしても、メキシコ生活をエンジョイした気配がみられます。どうも私の研究の主役国崎定洞のソ連亡命とは違うようです。ですから田中さんとの深更に及ぶ話の中心も、佐野碩がなぜ戦後も日本に帰らなかったかに集中しました。私がこの春外務省外交史料館でみつけた田中さんへのおみやげ、昭和14(1939)年7月3日「外事警察事務協議会議事録」では、当時の「要視察在外本邦人共産主義者」の筆頭に佐野碩があげられ、以下土方與志・石垣榮太郎と続き、野坂参三や山本懸蔵はなぜか出てきません。在仏・在米・在墨日本大使館・領事館が佐野の海外での入国を執拗に妨害・阻止した記録もあります。親族の力を借りて帰国すれば命は助かったのに。佐野家でただ一人の非転向コミュニストです。だから私は、どうしても佐野の特高警察体験と戦時日本への絶望・戦後日本への懐疑を挙げたくなります。しかし田中さんの戦後期をも詳細に辿った研究では、「メヒコへの愛」が日本への愛憎を超えたようです。そんな佐野碩とメヒコの魅力は、もう数十年当地に根をおろした田中さんでなければ描けないでしょう。私の研究の中では、やっぱり佐野碩は脇役に留まりそうです。

 本HPの目玉「1999年の尋ね人」の対象を、ナチス政権獲得期在ベルリンの宝塚音楽監督「二宮周」と、37年レニングラードで粛清された疑いが濃い演出家「服部某」にさしかえました。ベルリンから入ソし粛清されたインド人Virendranath Chattopadhyayaについては、引き続き英語ページで情報を募ります。日本ではガイドライン法案が強行採決・成立とか。21世紀への暗雲です。どうやら本HPのアクセスは、次回更新までに5万ヒットを記録しそうです。どなたの手に成るかは定かでありませんが、せっかくメキシコにいるのですから、めでたくラッキーナンバーを叩いた方には、巨匠ディエゴ・リベラかシュールなフリーダ・カーロのささやかな記念品を贈呈しましょう。メールで住所をお知らせいただけば、帰国後にお送りいたします。どうせ加藤ゼミナール関係者が、景品狙いでラインを独占しようとするでしょうが。その頃私は、カリブ海の国際リゾート・カンクーンで、しばらくネットからも解放されて、読書三昧を味わいます。持参するのは日本文1200頁の大著『日墨交流史』(PMC出版、1990年)、1609年サンフランシスコ号の千葉御宿海外漂着以来の日本・メヒコ関係史を学んできます。苦難の移民史等の問題は、次回更新のお楽しみ。


VIVA, 50,000 Hits! GRACIAS, Your Frequent Visits! 加藤哲郎Mexico研究室にようこそ! 「ああ、哀れなるメヒコ、かくも神より遠く、かくもアメリカに近く!」

1999.6.10 [Mexico Report No.4]  日頃の皆様のご愛顧ありがとうございます。おかげさまで、本HPは、97年夏の開設以来2年足らずで、通算5万ヒットを記録しました。日本時間の6月5日土曜日ですが、私の時計ではメヒコ時間で4日深夜だったようです。5万人目の方へのささやかな贈り物に「青の館」フリーダ・カーロ美術館特製マウスパッドを準備しましたが、残念ながら名乗り出た方はおられません。そんなこともあってか、電子メールでメヒコまで届く原稿依頼は、なぜかインターネットがらみのものばかり。とっくに約束が過ぎて呻吟している専門研究の著作・論文は脇において(関係編集者の皆さん、ごめんなさい!)鋭意執筆中です。『歴史評論』さん、アソシエ21さん、"Academic Resource Guide"さん、締切日までになんとか送りますので、お待ちください。

 私が今通っているエル・コレヒオ・デ・メヒコは、もともとスペイン人たちにより創られた、私立の小さな大学院大学です。といっても、血の征服者コルテスや20世紀の独裁者フランコの流れではありません。フランコの内乱で倒されたスペイン共和国人民政府側の亡命知識人たちが、メヒコに逃れてつくった高等教育機関です。「大地と自由」という映画を見た方も多いと思います。あのスペイン戦争共和政府軍・国際義勇軍の戦士たちの流れです。正当な民主選挙で選ばれた左派人民連合政府へのフランコ将軍の武装反乱を、日独伊ファシスト勢力が支持し、英米仏政府は中立という名で支援を怠り、大粛清期に入ったソ連は政府側にトロツキストが入っているという口実で干渉し、内部分裂をもたらしました。世界の知識人・文化人・青年たちが国際義勇軍に加わり、スペイン共和国を守ろうと銃をとった話は、20世紀の歴史の清涼剤です。コレヒオは、この流れをひいて、世界に開かれたリベラルな学風で知られています。ですから教員も学生も、メヒコの枠に収まりません。現メヒコ大統領セディーリョも、イエール大でPhDを取った後、一時コレヒオで教えていたとか。学生(大学院生)は、社会主義キューバを含む中南米各地から集まります。

 前回沢田研二の演じた佐野碩を「ドンファン」と形容したのは、無論、真木悠介『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977)の主人公、ヤキ族の古老ドン・ファンにひっかけてのことです。しかし、日本にいる時は時間がとれず読めなかったのですが、こちらに来て図書館の日本語メヒコものを読み始めたら、真木=見田宗介『気流の鳴る音』の他にも、名著がいっぱいありました。石田雄『メヒコと日本人』(東大出版会、1973)、鶴見俊輔『グアダルーペの聖母』(筑摩書房、1976)、中岡哲郎『メキシコと日本の間で』(岩波書店、1986)などです。実はこの3冊、すべてがコレヒオ日本研究コース、つまり今私が担当している客員講義の副産物で、一年間の滞在記でした。何の準備もなく来ましたが、どうやら由緒ある光栄な仕事のようです。私は短期の集中講義方式にしたため、とても作品にまとめるほどの見聞はできませんが、それでも週末はせっせと各地を旅行しています。ユカタン半島のリゾート地カンクーンでは、密林のマヤ遺跡チチェン・イツァーは素晴らしかったものの、リゾートそのものはいわば「リトル・フロリダ」でアメリカ人がいっぱい、興ざめでした。物価もシティの3−5倍で、深夜までアメリカ人ツーリストがどんちゃん騒ぎ、じっくり読書どころではありません。そのアメリカ人も、なぜか卒業旅行風の若い学生と黒人グループが目立ちました。オーランドやマイアミなどフロリダだと、家族連れやリタイアした老人夫婦がのんびりビーチでくつろぐ光景が定番ですが、どうやらカンクーンの高級ホテルは、メキシコ人には高すぎ、アメリカ中流下層に手頃な料金設定で、アメリカ人に疑似フロリダ体験をさせる嗜好のようです。もっとも何でも英語とドルですむので、私は久しぶりでスペイン語辞書から解放され、ホテル専用ビーチで藍より蒼いカリブの波とたわむれ、のんびりフロリダ老人風休日を味わってきました。ここでは日本人は準米国人です。あまり文句いう資格はないかもしれません。コレヒオの私のゼミには、キューバの日本研究者アマウリ君がいます。最近のキューバのリゾート開放区も、カンクーンそっくりのドル稼ぎの場なそうです。翌週訪れたシティ西方のコロニアル都市プエブラ(写真)の方が、メヒコ気分を味わえる美しい街並みでした。

 おまけに文学史研究でいつもお世話になっている岐阜大根岸泰子さんからは、コレヒオといえば大江健三郎『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』にでてきます、というご指摘。恥ずかしながら、かのノーベル賞作家も前任者の一人であることを、当地で初めて知りました。そのメヒコの将来を担う学生たちと、講義後のコンパ。一人一人からなぜ日本を研究するのか聞いてみました。アジア人留学生に多い日本の近代化・工業化に学ぶという姿勢は、あまりみられません。バブル時代の欧米留学生に多かった日本的経営・経済政策への関心は、つかのまの流行だったようです。メヒコの学生たちの関心は日本文化、それも沖縄や女性やサブカルチャーを組み込んだ現代文化に集中しています。ただしアマウリ君のように江戸期の浮世絵と徳川幕府の言論統制の関係を調べたり、シルビアさんのようにヒロシマ原爆報道を通して占領期の検閲制度を研究しているのは、むしろ中南米の権威主義的政治体制、自国の言論の自由と関係がありそうです。また沖縄やアイヌへの関心も、私がこれまでレポートしてきた『気流の鳴る音』への郷愁よりも、先進国入りをめざすメヒコの厳しい現実からきています。一方で先住民インディオを革命の大義名分と観光客誘致用に讃えながら、他方で途方もない貧富の差と経済政策失敗の矛盾を下層農民・最底辺先住民におしつけている政府の二枚舌への抵抗のようです。もっとも日本でも、自自公ブロックが新ガイドライン法に続いて盗聴法案上程とか。盗聴禁止法かと思ったら逆なそうですから、メヒコの言論の自由を笑えません。沖縄・アイヌ政策でも同じです。むしろ日本との共通点をふまえて、経済大国化のひずみ、グローバル化の負の教訓を話した方がよさそうです。

 もちろん違いもあります。中央大国本伊代さんの『メキシコ 1994年』(近代文藝社、1995)や上智大岸川毅さんの「メキシコにおける『政党ー社会』関係の変容」(1997年度日本政治学会報告)で、遅ればせながらメヒコ政治の勉強を始めました。「ああ、哀れなるメヒコ、かくも神より遠く、かくもアメリカに近く!」という言葉があるそうです。輝くマヤ・アステカ文明の地に、1519年コルテス率いるスペイン軍がカトリックと共にのり込んで植民地に。1821年に独立したものの、アメリカにテキサスやカリフォルニアを強奪され、19世紀後半の急速な近代化の矛盾は1910年からの革命で爆発、17年憲法は農地再分配・労働者の権利をうたいあげましたが、クリオーリョ(新大陸生まれ白人)からメスティソ(先住民との混血)の一部へと「中間層」は広がったものの、全人口の25%ともいわれる先住民インディオまでは、革命の恩恵は行き渡りませんでした。アメリカと結んだ外資導入型工業化で一握りの「革命家族」が巨額の富を築く一方、メスティソ農民や先住民の貧困は改善されません。だからメヒコのキリストはいつも傷だらけ、マリア様は先住民アステカの女神の姿です。この国にも議会制民主主義がありますが、革命指導部の流れをひく制度的革命党(PRI)が70年に及ぶ一党支配を続け、古典的コーポラティズム風に、労働組合指導者や農村ボスをも不正と汚職・腐敗の支配の末端に組み込んでいます。野党指導者や反政府報道をしたジャーナリストの暗殺が、いまだに続いています。南部チャパス州の先住民が武装蜂起したのも、つい5年前のことです。「制度的革命」とは、どうみても形容矛盾です。6年任期・再選禁止の大統領制は一見民主的に見えますが、事実上制度的革命党内エリートたちのたらいまわしで、最初の2年に議会・有力者の根回し・基盤固め、次の2年で政策実績をあげ、最後の2年は引退後に備えて蓄財に励み後任を指名する「6年間の絶対君主」なんだそうです。この国の生んだ偉大な詩人オクタビオ・パスによれば、「我が国には異なった人種や言語ばかりでなく、いくつかの歴史的レベルが共存している。さまざまな時代が同じ土地、あるいは数キロしか離れていない土地で相対して、互いに知らなかったり、かと思うと互いにむさぼりあったりしている」(『孤独の迷宮』法政大学出版局、1982)。この異なる歴史の重層的併存、亡命者を世界中から受け入れてきた風土が、外から来た観察者にはたまらない魅力なのですが、その「むさぼりあい」が、旧い文化を受け継ぐ人々ほど生きにくい社会をつくっているとすれば、それは、私たちにも他人事ではない、21世紀の地球的規模での人類の共生につながる問題です。パソの「孤独の弁証法」、すごい本です。日本にいたら読まなかったかもしれないこの詩的・哲学的歴史解釈に出会えただけでも、当地にきた収穫がありました。ようやく読み上げた『日墨交流史』を、パスの史観のなかに位置づけてみたい誘惑にかられます。

 本HPの目玉「1999年の尋ね人」の対象を、ナチス政権獲得期在ベルリンの宝塚音楽監督「二宮周」と、37年レニングラードで粛清された疑いが濃い演出家「服部某」にさしかえましたが、まだ情報提供はありません。日本からの朗報は、本HPのメイン・プロヴァイダーIIJ4Uが、個人ホームページ容量を従来の2MBから5MBに値上げなしで増やすというニュース。おかげで本HPでの写真掲載も、多少は楽になります。でも、今では個人HPでも10MBが当たり前、50MBなんてのもありますよね。長くなったので、メヒコ史日本人移民編は次回に。


1999.6.15夜[臨時ニュース] こちらメヒコ時間15日午後3時40分頃、大きな地震がありました。私はコレヒオで日本の女性差別の講義中でしたが、建物が長く横に揺れ、窓の外の風景が大きく揺らぎました。学生たちの話では、シティ南部のコレヒオは堅い岩盤の上にあり大丈夫とのことですが、脆弱な都心のビルに自宅のあるアドリアーナさんは、すぐに自宅に電話しようとしましたがつながらず、心配そうでした。85年の大地震の記憶は、学生たちにも生々しく残っています。夕方講義が終わって、都心の自宅までバスと地下鉄で帰ったのですが、別にふだんと変わりありませんでした。夕刊紙の見出しはみましたが、地震の話はまだ載っていないようです。しかし自宅のパソコンを立ち上げ、いつものように日本の新聞の朝刊をインターネットでチェックしたら、朝日と読売の大見出しが飛び込んできました。こちらのテレビも報じていますが、メキシコ・シティはおおむね平穏で、先週末に訪れ下に写真を載せた美しい街プエブラ市付近が一番ひどいらしいです。(16日朝追加)朝のテレビニュースでは、建物の被害が大きいようです。もっともスペイン語で、よくわかりませんが。皆様から早速の安否確認のメール、ありがとうございました。私は無事ですからご安心ください。私も以下の朝日コム・ネットニュース以上に詳しい情報はもっていません。とりあえずご報告まで。

メキシコでM6.7の地震 死者15人、負傷者多数  メキシコ南部から中部にかけて15日午後3時40分(日本時間16日午前5時40分)ごろ、強い地震があった。首都メキシコ市から南東約100キロのプエブラ市などで建物が壊れた。少なくとも15人が死亡、負傷者も多数いるという。セディジョ大統領は、非常事態宣言を発令した。国立の地震観測所によると、マグニチュードは6.7。震源はメキシコ市から南東約200キロのオアハカ州ウアフアパン・デ・レオン市周辺で、深さは約30キロ。メキシコの報道では、プエブラ市などで子ども2人を含む12人が死亡、約200人が負傷したという。市立ホールが崩れ、がれきの中に12人が取り残された。公共施設や住宅、スペイン植民地時代からの古い建造物などに被害が出ている。小学校の屋根が落ちたが、直前に児童たちは脱出して無事だったところもある。メキシコ市でも横揺れが感じられ、人々が屋外に逃げ出すなどの騒ぎが一時あった。日本人が比較的多く住むポランコ地区のマンション街では窓ガラスが割れたところもあった。レフォルマ通りに近いメキシコ大使館広報文化センターでは、強い揺れだったが、棚の物が落ちることはなかった。在留邦人の被害の連絡はないというという。メキシコでは1985年9月にマグニチュード8.1の大地震があり、メキシコ市を中心に死傷者多数が出た。(朝日コム、日本時間16日午前10時15分、午後10時修正)


GRACIAS, 53,000 Hits! 加藤哲郎Mexico研究室にようこそ! もしも宮沢賢治がメヒコにきたら、どんな詩を書いたでしょうか?

1999.6.20 [Mexico Report No.5] 15日の地震の直前、南部の古都オアハカに行ってきました。現地では「オハカ」と発音していて、コレヒオ日本研究科院生ホアン君が教えてくれた通り、「古代サポテカ人のお墓のあるオハカ」でした。サポテカの遺跡モンテ・アルバンは、ピラミッドに登っても宮殿の土台が残っているだけしたが、サポテカ人がモンテ・アルバンを放棄した後作られたというミトラ遺跡は圧巻でした。無文字社会に残された遺跡壁面の幾何学模様、太陽や月を象徴しているはずですが、未だに解読されていないそうです。それにしてもこうした高度な文明が、コロンブスの「新大陸発見」とやらで滅ばされ、そこにもともと住み生活していた人たちが「インディアン=インディオ=インド人」なんて勝手に名付けられてそのままになっているのは、人類史にとって、これでいいのでしょうか? アジアのインドの人たちだって迷惑ですよねえ。オハカのもう一つの圧巻は、壁から天井まで全面金箔と宗教レリーフで飾られたサント・ドミンゴ教会。世界各地で教会・寺院を見てきましたが、これほど豪華で見事な教会内部は初めてです。法隆寺や金色堂など問題外という感じ。これも実は、スペインの征服者たちが「インディオ」に改宗を迫り、傷ついたイエスと聖母マリアのもとに「動員」した結果です。略奪された金銀財宝がいかばかりであったか、いまや「加害者」の側にいる日本人旅行者としては複雑な心境です。オハカの土産物屋には、黒いマスクに銃を持ったサパティスタ(チャパスを拠点とする原住民解放戦線)兵士の絵葉書もありました。国本伊代・乗浩子編『ラテンアメリカ 社会と女性』(新評論・1985年)によれば、ラテンアメリカの男性優位主義「マチスモ(マッチョ主義)」と相補関係にあるのが女性の精神的優位を表す「マリアニスモ(マリア主義)」だとか。「力」のマチスモと「母性」を聖化するマリアニスモの双方に挑戦しているのがラテンアメリカのフェミニズムなそうで、先日の日本の女性差別の講義は、私の日本女性の平均賃金=男性の半分、結婚・出産退職によるM字型カーヴ、「ガラスの天井」による職場の昇進差別の話に、日本のフェミニズムを研究するコラールさんはじめ女子学生たちが徹底的にかみつき、大いに盛り上がりました。日本の大学の女性教員比率の話にはほとんどあきれ顔、メヒコ国立自治大学でもコレヒオでも3分の1は女性スタッフです。わが団塊の世代もこの問題では変革し得なかった、雇用機会均等法も実効性はまだまだ、one more generationを経た次世代に期待する、と苦しい逃げ。ここメヒコは1975年に「国連女性の10年」最初の世界会議が開かれた国、インドでもそうでしたが、女性の元気が目立ちます。

 オハカの前の週に行ったプエブラが、今回の地震最大の被災地になりました。そのプエブラのソカロ(広場)のレストランで、名物料理モーレを苦手の鶏肉を注意深く避けながら食べていた時、孫たちを連れた一人のおじいさんに日本語で話しかけられました。「日本の方ですか」と。子供たちはどうみても普通のメヒコ人なので気がつかなかったのですが、なんとこの老人は、日本人移民の子としてメヒコに生まれ、第二次大戦直前に日本の親戚宅に送られ軍国教育を受け、戦後親元に戻り当地で貿易商をしているという、日系二世の方でした。ちょうど分厚い『日墨交流史』を読み切ったところだったので、戦中・戦後の苦労話を聞きました。教育だけは日本でと送り出されたのに、太平洋戦争が始まってメヒコも連合国になり親とは音信不通に、戦後もしばらく日本から出られずサンフランシスコ講和後にメヒコに戻って親に再会したとか。でも軍国教育を受けたこのおじいさん、メヒコは日本人にやさしい国です、と強調します。たしかにアメリカにならって対日宣戦布告はしたものの、敵国日本人をアメリカのように強制収容所に入れるようなことはなく、シティとグアダラハラの二大都市に集住はさせましたが、商売等は自由でした。当時の在墨日本人の体験記を読むと、メヒコにとっても苦々しい隣国アメリカによくぞ立ち向かってくれた、とこっそりメヒコ人に励まされたという類の話が、よく出てきます。もっとさかのぼれば支倉常長の法王使節団はメヒコ経由でローマに向かい、途中で多くの団員がそのままメヒコに住みつきました。明治の不平等条約改正期に真っ先に対等・平等の条約を結んだのがメヒコでした。戦後もおおむね良好な外交関係を保っています。しかしその内実を探ると、前回紹介した「かくも神から遠く、かくもアメリカに近く」と裏腹な、互いに遠いがゆえの儀礼的友好が見え隠れします。日本人移民でも、1897年最初に到着したいわゆる「榎本植民」の一行は、外務大臣榎本武揚の気まぐれに騙されて、大変な苦労を重ねました。その中でチャパスの荒野に一種のコミューンを作った照井基次郎らの「日墨協働会社」については、68年紛争後にコレヒオに滞在した石田雄『メヒコと日本人』がめざとく注目し、書いています。私もこの照井基次郎に、別の角度から注目。この人岩手県花巻市出身で、宮沢賢治の同郷同時代人です。日系移民の信用組合を組織し、「社員互いに相倚り相助け長短を相補すべし」と子供の教育から老後の面倒まで「会社」がみる共同体を作ります。詩は書いてはいないようですが、子供たちのために自腹を切って『西和辞典』を編むなど、ある種の農本社会主義の思想が共通に見いだされます。短い滞在ですが、この関係資料だけは集めていくつもりです。

 雨期に入って、夕方時々集中的にシャワーがきます。10分もしのげば雨足は弱くなるので、あまり傘はみかけません。みな軒下で待っています。時々雷で停電します。でもインドほどひどくはなく、30分もすれば回復します。そんな時パワーブックが電池で作動し、蝋燭代わりになります。残された滞在期間も少なくなったので、『地球の歩き方』や日本大使館の警告を無視し、スペイン語小辞典片手に地下鉄・ペセロ(乗合タクシー)・流しタクシーであちこち美術探訪。交通の便はちょっと悪い郊外ソチミルコのドロレス・オルメド・パティニョ美術館、ディエゴ・リベラとフリーダ・カーロの素晴らしいコレクションでした。大富豪ドロレス夫人の邸宅は、ゴルフ場のような芝生に孔雀が闊歩、大きな池には水鳥が遊び、この国の金持ちの桁違いの生活ぶりをうかがわせます。その一角の美術館外壁はマヤ・アステカ遺跡の出土品で飾られ、内部は膨大なスケッチを含むリベラの大作を豪華に展示。リベラ描く若きドロレス夫人のヌードが、妻フリーダ・カーロのヌードと並べてあり、どうやらこのドロレス夫人、リベラ夫妻のスポンサーであると共に、フリーダを悩ませたリベラの愛人の一人であったことを暗示しています。そのフリーダの絵も、コヨアカンのフリーダ・カーロ美術館以上の充実ぶりです。メヒコ美術の独創性と共に、スペインから入った貴族と芸術家の関係性がかいま見えます。一方、都心アルメダ公園そばの国立芸術館は、ベラスコの風景画やオロスコ、シケイロスの力作が見もの、ルーブルやエルミタージュの名画を借りてきて一点豪華主義で客を集める日本的手法は不要で、メヒコ美術の伝統が奥深いことがわかります。特にベラスコの絵には感動、「革命壁画」に飽きてきたところでの清涼剤です。タマヨが少ないのがちょっぴり寂しいですが、これだけ見られて無料ですから十分満足です。スペイン語の社会科学文献収集はあきらめて、書籍代はもっぱら画集に投入、それでも日本に比べれば一桁安い感じ、メヒコ生活でのストレス解消にはこれが一番です。次回更新が、いよいよ最後のメキシコ・レポートになります。


1999.7.6  アメリカ独立記念日をニューヨークで覗いて帰国しました。6月20日に、突如愛機パワーブックG3が故障し、HP更新はもとより、電子メール送受信も、原稿作成も不可能な状態になりました。メキシコにはマッキントッシュの店がなく、修理もできないまま、世界から完全に隔絶しました。皆様にはこの2週間、大変ご迷惑をおかけしたことをおわびいたします。HP更新及び電子メールの返事は、7月10日までに修復するつもりです。ご了承ください


遂にパワーブックがダウン、メール不通・HP更新不能で、ご迷惑をおかけました。でも空気はおいしく、時間が流れる「メヒコの休日」を味わいました!

1999.7.10 [Mexico Report No.6]  前回のレポートをアップロードした直後、6月20日に持参した愛機パワーブックG3が使用不能になり、予定した月末のHP更新はもとより、電子メールも送受信できなくなりました。プリントアウトしていなかった講義ノートや、月末送信予定でほぼ完成していた『歴史評論』「インターネットと歴史学」特集号(10月号)原稿も出せなくなり、郵便・電話・ファクスの不便なメキシコで、一切外界からの情報を遮断されました。メキシコの秋葉原にあたる、シティのパソコン市場に行って、マッキントッシュの店を改めて探しましたが、百軒以上あるパーツ屋はビル・ゲーツのウィンドーズ一色、ようやく探し当てた一軒もアイ・マックを片隅に置いているのみで応急修理など到底できず、少数派の悲哀を思い知るばかりでした。せめてメールだけでも読もうと、シティに数軒あるインターネットカフェにかけこみましたが、日本語ソフトなど入ってないのに気がつき、これも役立たず、どうせ2週間だけで、残りの講義も3回だけだからと開き直り、以後は10年ぶりで、パソコン一切なしの原生人生活に突入しました。このマックPOWER BOOK G3ディスプレイの症状、企業機密らしいですが、実は構造上の問題のようです。第1回メヒコ・レポートで、パワーブックの液晶画面が乱れ「不安な予感」と報告しましたが、その後も調子が悪く、画面に白い帯が現れ、液晶を指で押さえて調整し、だましだまし使ってきました。途中で症状を日本の購入先にメールで訴えたところ、他にも画面が真っ白になるという苦情があり、日本の工場で修理しなければならない、それまでは他の外付けディスプレイにつなぐしか応急措置はない、というつれない返事。HDのクラッシュではなく、どうやら液晶技術の問題のようです。なんとかコレヒオ・デ・メヒコでの集中講義終了までもってほしかったのですが、とうとう6月20日には画面が真っ白になり、完全使用不能になりました。帰国後、早速業者がひきとりにきて修理にまわりました。PBG3を発売と同時に購入した皆様、ご注意を! また、この間メールをいただいた皆様、6月30日更新を期待して本HPに立ち寄った皆様には、心からおわびいたします。

  そこであきらめて、コンピュータ抜きの生活に突入したら、何やらこの方が、メヒコの風土には合ってました。英語で進めてきたコレヒオの日本現代史講義"Japan in the 20th Century"では、レジメもなしで黒板に日本語を交えながら過労死やバブル経済を説明、エズラ・ヴォーゲルがもともと中国研究者で、冷戦期にアメリカ人は共産中国に入れず、仕方なく日本に留学した体験をもとに書いた本が『ジャパン・アズ・ナンバーワン』で、石油危機後の日本ブームにの乗ってベストセラーになった、その彼が、冷戦が終わり日本ブームが去ると、また自分はもともと中国研究者といいだした、という文脈で「ほれっぽい」という日本語を教えたら、大いに受けて、「○○っぽい」がゼミの流行語になりました。国際関係を専攻するオスカル君は、ライシャワー、ヴォーゲルら「親日派」の日本研究とウォルフレン、チャ−マーズ・ジョンソンら「修正派・異質論」の論争に興味を持ち、D.Okimoto"Between MITI and the Market" (邦訳『通産省とハイテク産業』サイマル出版会、1991)を使って、水準の高い報告をしてくれました。最終講義後のお別れコンパでは、太宰治研究のホルヘ君が「ダイナミックな日本史で良かった」とお世辞を言ってくれ、少女コミックを専攻するアドリアーナさんからは、素敵なチョコレートのプレゼントをいただきました。もっともビールが入っても、日本の女性差別とメヒコのマチスモの比較が最高の酒肴だったのは、メヒコで日本を研究する女性院生の意識の高さでしょうか、国際的に異様な日本の男性中心社会の問題でしょうか? とにかく2か月で半年分の講義は、パソコン無しでも無事終了しました。

 そして、帰国直前まで、シティ南方の保養地タスコ、クアルナヴァカを訪れ、のんびり期末レポート採点と読書三昧、パソコンがないと、こんなにも可処分自由時間が増え、日本のニュースやメールに煩わされずに済むのかと、改めて考えさせられました。「日の丸・君が代」法制化の行方も、憲法調査会・「自自公」連立への動きも、情報がなければあきらめ、開き直るしかありません。むしろそれを世界史の文脈で考える、いい機会となりました。もっともそれには、シティとは違った美しい環境の作用が大です。人口2200万のメキシコ・シティをちょっと離れると、なによりも空気がおいしく、時間がのんびり流れているのです。『自由からの逃走』のエーリッヒ・フロムも、クアルナヴァカで暮らしていたようです。ガルシア・マルケス『百年の孤独』も、イヴァン・イリイチの「脱学校」「ヴァナキュラー」感覚も、この風土の産物であることが、よくわかります。インディオの村に入って「気流の鳴る音」を聞くことまではできませんでしたが、マックの故障のおかげで、メヒコの深層にちょっぴりひたって帰国することができました。充実した2か月でした。GRACIAS MEXICO!  VIVA MEXICO!  ADIOS MEXICO!


[Mexico Report番外編 10年ぶりのニューヨーク]  メキシコからの帰途、ニューヨークに立ち寄って、アメリカ独立記念日を見てきました。1986-88年のパロ・アルト、ボストン留学時にはよく訪れたものでしたが、その後は西海岸やシカゴの会議のみで、ニューヨークは10年ぶりです。アメリカの立ち直りは、ほんもののようです。何よりも街がきれいになり、地下鉄が安全なのに驚きました。きれいといってもメキシコ風の美しさではありませんが、10年前のホームレスが溢れ、落書きだらけの地下鉄をおそるおそる覗いた頃とは、大きな変化です。ブロードウェイで「ミス・サイゴン」を観て、夜11時の地下鉄で帰っても、何の不安もありません。もっともこの感覚には、私が日本国籍であることが刻印されています。ブラック・マンディ後の10年前のアメリカは、瀕死のウォール街がジャパン・マネーで支えられ、バブルの日本から溢れ出た円が、ロックフェラー・ビルから映画ソフトまで買い漁っていました。新聞やテレビに日本関係のニュースが無い日はなく、日本人であるだけで「オーッ、ソニー!」と握手され、「トヨタ・カンバン・システム」について質問される時代でした。それが今では、日本関連ニュースはゼロ。何より驚いたのは、タイムズ・スクウェアーの広告塔の変貌。かつて見渡せばソニー、パナソニック、サンヨー、ニッサン、ホンダ等々日本企業のネオンサインだらけだったところが、今はサントリー・ウィスキーと日清ラーメンが残っているだけです。

 もっとも株価1万1千ドルは、明らかにバブルです。当地の東京三菱銀行NY支店に勤めるゼミの教え子に聞いたところ、貯蓄率の低さは相変わらず、貿易赤字も深刻なままなそうです。これがはじけたら、日本もメキシコも、大波を喰らうことになります。「自由の国」アメリカでは、ブラックやヒスパニック系の人々には、セーフティネットもありません。中国系・ベトナム系の活躍が目立ちますが、今日のグローバル新自由主義のもとでは、先のアジア経済危機の再燃も避けられません。独立記念日を前に、共和党ブッシュ・ジュニア、民主党ゴアら次期大統領候補のベトナム戦争時の経歴を詳しく検証し、その「愛国心」の程度を有権者に判断させるテレビ報道が印象的でした。やっぱりアメリカは、「アメリカ」です。しかもその「アメリカ」には、同じ北米NAFTAの同盟国メキシコもカナダも入っていないのです。むしろ、きたるべきバブル崩壊に備え、グローバル・ケインズ主義や、リージョナル・ナショナル・ローカルなセーフティ・ネットづくりが大切なように思われました。

 私のメキシコ滞在中に、日本の良心的な文芸批評サイト「葦牙(あしかび)」ホームページ」が立ち上がりました。この追加や社会主義理論学会のURL変更を含めて、リンク・ページ「政治学が楽しくなるインターネット宇宙の流し方」をマイナーチェンジ。メキシコからメールで送ったエッセイの一つ「インターネットで社会科学」が『アソシエ21・ニューズレター』第3号に発表されましたのでアップロードしておきます。今回更新でメキシコ・レポートは終了し、新たにトロツキー、リベラ、カーロらの写真を満載して「1999メキシコ夏便り」として特別室に収納されます。


2000「メキシコ春便り」

 


「神の国・国体」選挙は、世界から注目されています、20世紀の終わりにけじめを! 

2000.6.1  まだ時差ボケです。駆け足ですが、メキシコ・アメリカ西海岸をまわってきました。メキシコ人・キューバ人の教え子たちと再会し、立派な感謝状までもらったメキシコ大学院大学「日本文化週間」での私の講演の演題は、「20世紀末の日本」。駐メキシコ日本大使らも出席していて、ちょっと憂鬱でしたが、失業率5パーセントのIT革命下のリストラ不況経済、小渕前首相過労死から「日本は天皇を中心とした神の国」という森首相発言で混沌としてきた政局、「おそるべき17歳」の犯罪と社会不安・階層分化・格差拡大、そして国会憲法調査会設置とそれをめぐる「ネオ・ナショナリズム」「ネオ・グローバリズム」「ネオ・リフォーミズム」3者の対抗、を話してきました。「神の国」と憲法9条改正は、無論「ネオ・ナショナリズム」路線の具体例ですが、7月2日に大統領選挙投票日を控えたメキシコの人々は、案の定、「神の国」「国体護持」風復古主義がなぜ21世紀を目前にした超先進国日本で?、とけげんな顔をしていました。無論、これは自民党の保守派高齢政治家によくみられる隠れた心情・センチメントで、オフィシャルな路線にはなりえないと(なんで私が!?)「弁明」しておきましたが。

 21世紀への支配的潮流である「ネオ・グローバリズム」として挙げたのは、首相官邸ホームページからダウンロードした「21世紀日本の構想懇談会報告書」。英語講演のスペイン語同時通訳だったので、英語版も出ているこの報告書が、格好の素材だったのです。ところが面白いことに、この報告の目玉が「義務教育週3日制」と「グローバル・リテラシー」で、「グローバル・リテラシー」とは「英語の第二公用語化」と「インターネット活用」とされている、と解説したところで、会場は異様な興奮と笑いに包まれました。後で聞くと、実はこれが現在のメキシコ大統領選挙のホットな争点で、日本では支配党=自民党が森「神の国」発言でつまづきましたが、メキシコでは70年続く支配政党=PRIの大統領候補が、先月「グローバル・リテラシー」として「小学校からの英語・コンピュータ教育」を公約に掲げたため、野党候補初勝利・政権交代の可能性がでてくるほどに、支持率を急落させていたのです。というのは、メキシコではスペイン語教育すらまともに受けられない子供たちが多く、黒板・チョークのない小学校が問題になっているのに、PRIの白人大統領候補は、国の実状を顧慮せずにクリオーリョ(新大陸生まれ白人)エリートの夢を公言してしまったため、有権者の圧倒的多数を占めるメスティソ(先住民との混血)や全人口の25%ともいわれる先住民インディオの反発を買い、野党に格好の攻撃材料を与えてしまった構図です(私のメキシコ夏便り参照)。国情が変わると、政治的「失言」も変わるものですね。そういえば、「ネオ・ナショナリズム」の「新ガイドライン法」はうなづいてきいてたのに、「日の丸・君が代法」には反応が鈍かったのですが、なるほどメキシコは革命広場ソカロの中心に国旗がはためき、その正統性を与野党が競い合っているのですから、短時間の説明では、国旗・国歌の法制化がなんで日本では問題なの、という反応も、無理からぬものがありました。

 「ニュー・リフォーミズム」は、新旧左翼・批判的少数派知識人の言説で、必ずしも大きな潮流ではないがと前置きして、3つのキーワードが新しい思考の手がかりを与えてくれる、と説明しました。市場万能主義に対する「セーフティ・ネット」、戦後民主主義の系譜の「戦後責任論」、特定党派・候補支持ではなくインターネットを使った汚職・腐敗のネガティヴ・キャンペーンである「落選運動」です。これら3潮流を日本国憲法をめぐる「改憲・論憲・護憲」に対応させて説明し、おおむねわかってもらえたようですが、全体としては、やはり日本は遠い先進国で、そんなに経済が停滞し社会が混乱しているのに政治はいったい何をしているの、という質問が目立ちました。帰路のロスアンジェルスで、日系移民や二世の方々にお話ししたときも、同じ反応でした。ドイツの「ベルリン将棋友の会」のハンス・ベッヒャーさんからも、「日本は最近おかしいよ、天皇の国になったの?」とメールがありました。「神の国」選挙は、そんなかたちで、世界から注目されています。総選挙特集のホームページも、朝日毎日読売とでそろい、インターネット上の選挙予測も始まったようです。「市民連帯・波21」などの「落選運動」も、それなりに反響をよんでいます。6月25日投票の総選挙は、日本での「インターネット時代の選挙」のさきがけになるでしょう。皆さんの一票が、世界から注目されていることを自覚して、20世紀にけじめをつけ、21世紀入口のこの国の「顔」をメークアップしなければなりません。少なくとも投票所に行きましょう。当日予定があれば不在者投票をしましょう。旅行中に発売された『沖縄を知る事典』に書いた「ロングビーチ事件」や『別冊歴史読本 日本史研究最前線』に寄稿した「高度経済成長は何を変えたか」は、まだ時差ボケ中ですので、3か月後にアップロードします。法政大学『大原社会問題研究所雑誌』5月号の拙稿「『非常時共産党』の真実」、『世界 別冊 この本を読もう』の山之内靖さんとの対談「社会主義」などと共に、ご笑覧下さい。


あなたは「神の国・国体護持」の首相を、21世紀「日本の顔」とすることに、耐えられますか? 自分の頭で考え、自分のスタイルでインターネット時代の選挙に加わり、必ず投票所に行きましょう! 

2000.6.15  なにやら「メキシコの仇を東京で」風ですが、国際会議で森首相の「神の国」発言を「弁明」させられた恨みを晴らそうと、総選挙公示後もこだわり続けています。「国際歴史探偵」になって以来、ふだんは時局モノ原稿はコメント・インタビュー以外断っているのですが、『週刊金曜日』がこのホームページを見て選挙モノを依頼してきたので、引き受けました(投票日直前の6月23日に発売されましたので、本HPにも同時にアップ)。世紀末選挙をどう料理しようかとサーフィンしていたら、二木麻里さんの 「ARIADNE」から入った「アメリカ中央情報局(CIA)ホームページ」で、面白い発見をしました。なにしろ泣く子も黙るCIAです。森首相の「神の国」をどう評価しているかと覗いてみたら、残念ながらアップ・トウ・デイトな情報分析はなく、その代わりに、The World Factbook 1999 という、各国政治経済社会をCIA風に料理したデータベースをみつけました。その日本をクリックしてみたら、面白いことに、「神の国」日本に出合いました。「政府のタイプ」が「立憲君主制」で「エスニック・グループ」が「ジャパニーズ99.4%、その他0.6%(大部分コリアン)」とあるのは予想通りなのですが、「宗教」は「神道と仏教が84%、その他16%(キリスト教0.7%を含む)」とあり、「独立」は「紀元前660年(伝説では神武天皇による建国)」、「ナショナル・ホリデー」は「天皇誕生日、12月23日」のみ、「元首(chief of state)」はなんと「天皇アキヒト」と明記されているのです。これじゃまるで「天皇を中心とする神の国」では!? まさか森首相がCIAの手先とは思えませんが(春名幹男『秘密のファイル』にあるように、CIAのエージェントはもっと賢いですから、朝鮮の「二つの民族の画期的会談」なんていいませんよね?)、CIAが日本をこのように見ていることは、興味深いことです。

 それじゃ日本政府はどう弁明しているかと、「首相官邸ホームページ」にアクセスしたら、ここでも面白い事実をみつけました。英語版日本語版と、どちらにも「森喜朗首相のプロフィール」が載っているのですが、内容が微妙に違うのです。日本語版では、祖父・父から受け継いだ「滅私奉公」をモットーとし、早稲田大学雄弁会で竹下登らに学んだ泥臭い日本的政治家像ですが、英語版では、ラグビーの得意なスポーツマンで、ホワイトハウスHP風に家族の名前まで公表し、何やらモダンでスマートな国際人風なのです。案の定、日本語版には「神の国」発言を弁明した5月26日記者会見が質疑応答まで詳しく出ているのですが、英語版では「神の国」などなかったかのように、「IT革命」を推進し九州・沖縄サミットを成功させる抱負など、もっぱら「外向け」の格好いいスピーチばかりです。これでは日本語を読めない外国の日本ウオッチャーが可哀想です。前回本欄の分類でいえば、「ネオ・ナショナリスト」森喜朗の姿は見えず、スマートな「ネオ・グローバリスト」に変身しているのですから。たぶん外務官僚あたりがサミット向けにほどこした、英語版の厚化粧でしょう。南北朝鮮首脳会談が実現された新しい時代に、さすがに「滅私奉公」「国体護持」の首相を21世紀「日本の顔」として押し出すのは、恥ずかしかったのでしょうか? もちろん、石原慎太郎と一緒に「青嵐会」で血判状に名を連ねたり、リクルート疑獄で名の出たダーティな過去は、英語版・日本語版とも「プロフィール」にはありません。6月25日の投票日、この人を世界に向けて「日本の顔」にしていいかどうかが問われます。よーく考えて、慎重に一票を!

 総選挙については、朝日毎日読売の特集ページがあり、インターネット上の選挙予測「市民連帯・波21」など「落選運動」もあります。せっかくインターネットを始めたんですから、自分で各党のホームページをまわり、自分の頭で一票を投じましょう。マスコミではあまり報道されていませんが、自民党の選挙公約には、1955年の結党時以来の「憲法改正」が入ってますよ。森首相が「国体を守れ」と叫んだのは、民主党共産党の連立を絶対阻止するという主旨でしたが、共産党の政策的変身は、つぎつぎと出されていますよ。あまりの変身ぶりに、「JCPwatch」「さざ波通信」を見ると、党員や支持者の反発も出ているようですが。森首相の「神の国」弁明記者会見のために、番記者が「指南書」を書いたという某国営放送の報道は、今回は信用しないようにしましょう。インターネット時代の幕開け選挙は、あなた自身が自分の流儀でつくりあげることにしましょう!

 次回更新は、『週刊金曜日』の拙文を6月23日発売と同時にアップして、マイナーチェンジするほか、投票結果を踏まえて、月末より早めに、6月27日くらいとします。というのも、月末はフィールドワークで、東京におりませんので。私が最も信頼する出版社の一つ、かつて『季刊 窓』でいろいろお世話になった西山俊一さんの窓社の"Open the Window"ホームページが、たちあがりました。小さな出版社の本は、なかなか本屋さんには出回りませんから、ぜひ覗いて注文してあげてください。同じく骨のある出版社、川上徹さんの同時代社ホームページに間借りしていた、テレビで活躍中の畏友有田芳生さんも、いよいよ7月から自前のホームページをたちあげるそうです。もうひとつ、個人的に嬉しいニュース。本HPが本拠地にしている地域のケーブルテレビが、インターネットサービスを開始します。すでに使っている人から聞くと、ISDNの数倍の早さとか。24時間つなぎっぱなしでも、リーズナブルな定額料金。20日すぎに開通しますが、これでNTTの「テレホーダイ」ともおさらばです。HP容量も増えますし、いいことづくめ。使い勝手は、次回報告します。ちょうど10万ヒットも近づいてきました。法政大学『大原社会問題研究所雑誌』5月号の拙稿「『非常時共産党』の真実」、『世界 別冊 この本を読もう』の山之内靖さんとの対談「社会主義」、『沖縄を知る事典』に書いた「ロングビーチ事件」、『別冊歴史読本 日本史研究最前線』に寄稿した「高度経済成長は何を変えたか」など、新しいネット環境がととのったら、逐次HPにもアップしていきます。乞うご期待。


2004メキシコ再訪記

 

メキシコから見ても、優太くんの「生きる希望」を救った消防庁レスキュー隊、

香田さんの「生きる可能性」をなくしたイラクの自衛隊、どちらが本当の国際貢献?

 

2004/11/15 68万ヒットは、メキシコ・シティで迎えました。ホテルの窓からの眺めは、気流のなる音のようにゆっくり。それにあわせてか、ホテルの電話経由のインターネットは遅く、もどかしい限り。メールは通じますが、スローライフ実践中ですので、今回更新は最小限にとどめます。当地の日本研究国際会議でも、「新史料発見 1942年6月米国『日本プラン』と象徴天皇制」のニュースが、話題になりました。8日のJapan Times等に詳しい外電英語ニュースとして載ったためで、初日冒頭、司会のメキシコ大学院大学ギエルモ・クアルトリッチ教授から、インターネットで見つけたといって紹介されました。あわてて憲法改正問題が主題の翌日報告草稿に、この日本プラン紹介部分を追加。私の報告は「現代日本の護憲・活憲・論憲・加憲・創憲・改憲」で、まあまあ英語で一時間、いいたいことは伝えました。困ったのは、メキシコ1917年憲法の改正手続きも、日本国憲法と同じ国会で3分の2の賛成、国民投票過半数で、同じくいわゆる「硬性憲法」ですから、メキシコでは何度も改正されてきたのに、日本では改訂されなかった理由を、説明しなければなりません。メキシコにおける制度的革命党(PRI)の長期支配と日本の自民党支配の違い、メキシコ憲法の焦点27条(土地国有化条項)と日本国憲法の核心第9条(戦争放棄)の共通性と特殊性を入れて、何とか切り抜けました。在中国メキシコ大使だったオマール・リゴレッタ教授から、「日本プラン」と当時の米国の対中国政策・計画との関連について鋭い質問。さすがです。実は「日本プラン」は対中国「ドラゴン・プラン」の一環であったろうと答えておきました。日本でも7日の『東京新聞』『日経新聞』『京都新聞』等の外8日付け『サンケイ新聞』にも出たというメール。私も知らなかった共同通信配信記事の全文はこれらしく、中村政則さん・五百旗頭真さんのコメントも載っています。でももともと世界』12月号の解読論文の紹介ですから、ぜひとも論文のを読んでいただきたいと思います。

 パレスチナのアラファト議長死亡、イラクのファルージャ大虐殺のニュースは、インターネットだけが便り。ラテンアメリカから見ると、中東は極東よりも遠い国で、スペイン語のテレビや新聞では、情報収集が思うようにいきません。ブッシュ=ブレア=コイズミ連合が、世界の大多数の人々の希望に反した単独行動主義の方向を暴走していることだけは、実感できます。メキシコ行きのトランジットなのに、米国ロスアンゼルス空港では人差し指の指紋押捺と顔写真撮影を強制されました。最高の収穫は、会議にきていた在メキシコ日本人2世・3世の方々からの聞き取り。同じ会議に出席した袖井林二郎さんと共に、第二次世界大戦中に親と離れて日本に行っていて(アメリカの「キベイ=帰米」にならって、「キボク=帰墨」というそうです)学徒出陣で日本軍に組み込まれ、音信不通の家族のいる連合軍(メキシコも米国の側です)とたたかって、戦後メキシコの親元に帰国したマツモトさんの波乱の体験を、詳しくうかがいました。

 


2009.4.30 (メキシコ便り/臨時ニュース6) WHOの「フェーズ5」警告のもとで、突然ですが、日本に帰国することになりました。残念ですが、やむをえません。こちらでお世話になった皆様、日本から御心配・御激励いただいた方々、たった1週間ですが、本サイトの「パンデミックの政治学」を御愛顧いただいた皆様に、厚く御礼申し上げます。帰国しても、しばらくは検疫・健康管理等で大変でしょうから、本サイトの再開は、しばらく先になることを、御了解願います。わが愛するメキシコの皆様の、一日も早い病魔からの解放・回復と、これまで以上の発展・再生を祈っています。GRACIAS MEXICO!  VIVA MEXICO!  ADIOS MEXICO!

2009メキシコ便り「パンデミックの政治学」


Hola, Buenos Dias!

メキシコから見える日本は、地球恐慌最前線!

(2009メキシコ便り・その1)

2009.3.15   メキシコに着きました。昼は25度、半袖で十分です。標高2200メートルにある人口2000万人の世界都市の空は、10年前、5年前にくらべて、少し青空がのぞくようになっていました。これが経済危機の思わざる所産でなければいいのですが。心配していたIT事情も改善、10年前にNifty のローミングサービスにダイヤルアップ接続していた同じ宿舎ですが、今度はワイアレスLANで一発接続のネットサーフィンができます。日本との時差は15時間遅れ、4月1日まで待たなくても、メキシコ便り2009年版をお送りできそうです。でもまだ街は見てませんし、時差ぼけがひどいので、レポートは後日。日本とアジアの政治は、しばらく望遠鏡でのぞくこととします。

2009.3.23(メキシコ便り/その1) 暑い日ざしのもと、コヨアカンを散策してきました。地下鉄の駅には狼のマーク、そう、かつてはコヨーテの出る村だったのです。それが今では、人口2000万の世界最大都市の中心に近い高級住宅街、この国の近代化・都市化は、もはや発展途上国ではなく中進国、ウォーラーステインの世界システム論でいえば、すでに周辺から脱却し、中心への飛躍をめざす半周辺の有力国家です。2004年にも一度国際会議で来てますから、5年ぶりになるでしょうか。コヨアカン巡りの定番コース、地下鉄駅前のデパートを通り抜けて、大きな植物園の緑を楽しみながら、フリーダ・カーロ美術館とレオン・トロツキー博物館をゆったりとまわりました。デパートには世界最先端のブランドショップが並び、マクドナルドもスターバックスもすっかり定着、紫色の花のなる木は何というのでしょうか、日本なら桜並木にあたる満開ぶりです。

 21世紀に入ってフリーダ・カーロの名声はすっかり定着、美術館にはアメリカ人らしい観光客の列、入場料45ペソはちょっぴり値上げしたようですが、5年前1ペソ=15円換算だったのが対ドルペソ安と円高で1ペソ=7円まで半減してますから、日本円をも持つ身には割安な感じ。あの顔や身体に釘やチェーンを打ち付けたフリーダ・カーロの幻想世界がたっぷり味わえます。寝室にかざられたマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリン、毛沢東の写真もそのまま、夫のディエゴ・リベラの壁画の方が芸術的には迫力がありますが、この美術館では脇役です。でも静かな庭のたたずまいもそのままで、あわただしかった日本からの脱出と、時差ぼけのなかでの当地での入国・滞在手続き、赴任先エル・コレヒオ・メヒコ(メキシコ大学院大学)の客員講義もしばし忘れ、「短い20世紀」をぼんやりふりかえる余裕も出てきました。

 そこから5ブロックほど石畳を歩くと、かのレオン・トロツキーが暗殺された砦のような石の館、カーサに着きます。今回が5度目のメキシコで、毎回定点観測してますが、以前より訪問客が増えたようです。教師に引率された小学生のグループにも会いましたから、昨年9月以降の劇的なグローバル世界恐慌突入が、トロツキーの亡霊を蘇らせたのかもしれません。スターリンの刺客の凶器に倒れたトロツキーの墓標のそばに、真っ紅なデイゴの花、すっかり整備されて、おみやげグッズも多彩になっていました。以前は、ここでは受付の老女以外に女性博物館員はみられなかったのですが、今回は、ジーンズ姿の若い女性が庭に水をまいていました。訪問客にも、女性が目立ちます。フリーダ・カーロの人気によって、フリーダとディエゴ・リベラの夫婦仲に水をさした「フリーダの愛人」の役回りが、トロツキー復権に一役買っているのでしょうか。今年1月からの訪問客サイン帳があり、サインしながら覗くと、日本人は私が3人目、アメリカとブラジルなど南米諸国の訪問客が多い様です。かつての「アメリカの裏庭」南米は、今や反米左派政権の林立する合衆国の泣きどころ、NAFTAを通じてアメリカ経済に縛られたメキシコは、南からの左派の波ともつきあわなければなりません。どこかアジアでの中国台頭に悩まされながら、対米運命共同体から逃れられない日本と似てます。残念ながら日本には、亡命者トロツキーを受け入れたような度量の伝統がなく、したがって、世界中から巡礼者をひきつけるような博物館もありません。強いていえば、広島・長崎の原爆慰霊碑と、沖縄の平和の碑でしょうか。

  さらに東に500メートルほど歩くと、なつかしい店がありました。ちょうど10年前に、今回と同じコレヒオの客員講義で滞在し、大学ゲストハウスでの自炊でずいぶんお世話になった、オリエンタル・ショップが健在でした。ここメキシコシティには、日系企業の進出に伴う日本人滞在者が増えて、寿司バーを含む日本食レストランが一説では60軒もあり、日本食専門のスーパーも数軒あるそうですが、このなつかしい店は、中国系・韓国系商品が多く国籍不明、日本系は片隅です。それでもウナギの蒲焼きの冷凍食品や鯖の味噌煮の缶詰め、インスタントラーメン・みそスープにカリフォルニア巻き寿司セットをみつけ早速購入、タコスやトルティージャに飽きても、これでひと安心です。もっとも、寿司やトーフ、醤油や味の素なら、大きな現地スーパーでどこでも売ってます。今回重宝しているのが、日本でもお馴染みの、レンジでチンのごはんパック、近くのスーパーで、簡単に手に入ります。10年前はカリフォルニア米「錦」や「富士」を買ってきて、ゲストハウスの薄鍋で苦労して炊いたのですが、今回は、電気釜も黒焦げのおそれもいりません。ひとり分が3分で、あっという間です。これで19世紀末・20世紀初頭のカリフォルニア日系移民や当地メキシコ榎本移民の苦労が、また忘れられていくだろうなと感じつつ、大使館の滞在心得やガイドブックには絶対乗ってはいけないとある、禁断の流しのタクシー=リブレLibre を調達。メーターを落としてくれないので、いくらかかるかとおそるおそる100ペソ札を出したら、ちゃんと50ペソ=350円のおつりをくれました。もっともメーターなら、たぶん20ペソ=140円くらいでしょうが。

 こんな冒険に役に立っているのが、Google Mapと、現地在住日本人の充実したブログです。「海外ブログ村、メキシコ情報人気ランキング」まであって、数々の生活情報・観光情報が載っています。そこにアドレスがあれば、それをGoogle Mapに打ち込んで、最新の地図が簡単に出てきます。縮尺を工夫して広域・精密の2枚の地図を、ポータブル・プリンターでプリントアウトして持ち歩けば、全くスペイン語の分からない身でも、運転手に見せて、ちゃんと目的地に到達できます。もっとも、料金交渉の技はまだまだですし、流しタクシー=リブレの本当の危険は強盗や殺人ですから、夜の移動には、シティオSitio=ブース待ち無線タクシーが欠かせません。この国の最大の危険は、経済危機と反比例で広がる麻薬売買の巣窟・対米密輸中継地になりつつあること、近く米国クリントン国務長官がやってくるのも、麻薬撲滅の共同行動を強め、国境地帯の治安を維持するためです。日本では芸能界や学生に広まりつつあるドラッグ問題、中南米では、深刻な外交・内政問題です。

 ゲストハウスの自室には、テレビもラジオもありません。2階のロビーにあるテレビもスペイン語のみですから、敢えて見る気にもなりません。世界情報の入手手段はインターネットだけと割り切ると、10年前にはなかった無線LANのありがたみも、ひとしおです。日本のニュースは、日本語のGoogle Newsと 英語のNews on Japanでサーフィンします。日本版Google Newsをこちらから見ると、灰色の民主党小沢代表の続投とか、麻生首相の「株をやると田舎では怪しい」発言とか、藤原紀香の離婚騒動とか、恥ずかしくなるニュースばかりが、大きく報じられています。私が現代日本論を講じるコレヒオの大学院生たちは、ほとんどが日本研究専攻でも、日本語はあまり読めません。ですから講義の配付資料は、News on Japanの英語ニュースから手に入れます。すると、世界から見る日本への関心が、よくわかります。インターネットカフェで寝泊まりする派遣切り失業者企業城下町トヨタ市の様変わり上野公園のホームレスのなかでの古参組と新参者の対立、はてはJapanese Women hunt for Husbands as Refuge from Deepening Slump という、前年比マイナス12.1%の深刻な経済恐慌突入で不安定雇用女性の結婚願望が高まり婚姻率が上がったという少子高齢社会のアイロニーな統計分析とか、深刻な日本社会の現実を鋭く抽出したレポートが満載です。アメリカに発した世界恐慌を、日本の「失われた10年」のグローバル版に見立てて、将来を予測する記事も出てきます。ここメキシコでもアメリカからの打撃は深刻ですが、アメリカとほとんど一体化した日本の政治経済こそ、世界恐慌の行方を占う実験場と見られているようです。

本サイトもこれまで、20世紀を大きく規定した1929年恐慌になぞらえ、今日の危機を「世界恐慌」と呼んできましたが、当地から眺めるグローバルな危機の広がりと、浜矩子さん『グローバル恐慌 金融暴走時代の果てに』(岩波新書)の、タイトルというよりも、卓抜な「円=隠れ基軸通貨」説にならって、これからは「地球恐慌」とよぼうと思います。そこで4月に頼まれた、客員講義とは別の公開講演会の与えられたタイトル「Contemporary Japan in Crisis」に、Global と?マークをつけて、「Contemporary Japan in Global Crisis?」としてみました。つまり、深刻な地球的規模での危機=恐慌下にあり、客観的には沈没・破綻状態にあるのに、なぜか世界に無関心で、政治家も経済界もマスメディアも千年一日の内向き景気対策、表面的には庶民の日常も、かつての「豊かな国」と変わらないように見える日本、それはなぜなのか、という謎解きです。遠くから望遠鏡で見るだけ、日本にいては見えにくい問題が、発見できます。

 実は、日本から持ってきた愛機MAC Powerbook G4 =17 インチの調子が、よくありません。こちらの110ボルトの電圧が不安定で、うまく適応できないようです。なにしろ本サイト「メキシコ便り」にあるように、かつて前身機種G3が壊れた国です。せっかく持ってきたポータブルプリンター、デジタルカメラも、10年前より便利な無線LAN環境も、本機がダメになれば、ただのお荷物です。まだメキシコの秋葉原=パソコン電気メルカドには行ってません。マックを直せる店を、早く見つけておかなければ。これが、今回不定期に2009メキシコ便り第一弾をアップロードした大きな理由です。秋葉原といえば、カタカナのアキハバラにちなんだ当地のコスプレ祭りは今年大盛況で、ANIME EXPO 2009には数千人が集まったとか。いまや、日本の最強の輸出産業で、当地の大学院生たちも、「オタク文化」に強い関心を示しています。麻生内閣誕生も、その後の失言・支持率急落も、このマンガ風文脈で理解されている哀しさ。これをどのように料理すべきか。しばらく悩みが続きそうです。 


2009.3.12  意見広告7人の会「拉致問題:ニューヨークタイムズに意見広告ふたたび」の運動は、2月25日によびかけを始め、4月下旬の広告掲載をめざしたのですが、3月9日には目標の650万円を突破し、その後も続々と善意の醵金が寄せられています。この恐慌というべき不景気の中で、無為無策のまま泥沼化する政治への批判と、定額給付金の使途の一つと考えていただいた方が、多いようです。ありがたいことです。皆様のご協力に感謝致します。


 Hola, Buenas Tardes!

文明は文化を平準化し、文化はマイノリティを駆逐する?

(2009メキシコ便り・その2)

2009.4.1(メキシコ便り/その2) Hola, Buenas Tardes! こんにちわ、メキシコから第2信です。前回お伝えした今が満開の紫の花は、「ジャカランダ(ハカランダ)」というのだそうです。トロツキーの終の棲家の近くにも、いっぱい咲いていました。日本でいえば、春を告げるサクラです。ようやく、メキシコ(メヒコ)風生活に慣れてきました。10年前の滞在記「メキシコ便り」には書いていませんから、その時の入国はスムーズだったようですが、今回は日本大使館、領事館、メキシコ外務省、移民局、銀行口座開設等々の窓口での手続きがやたら多く、サインが一つ足りないとか、写真は眼鏡なしでなければいけないとか、ささいな無駄足もあって、そのたびに相手ののスペイン語に対して英語での交渉。やっと入り口関係はなんとか完了しましたが、出口の帰国日程・航空券の問題は残されており、プチ官僚主義との憂鬱な闘争は続きます。もっとも赴任先のメキシコ大学院大学(El Colegio de Mexico, エル・コレヒオ・デ・メヒコ)の方はスムーズで、講義は無線ランにデル・パソコンをつないで、大型スクリーンにプロジェクターなしで、日本語サイト・サーフィンもパワーポイント授業もでき、受講生への参考文献指示も、メーリングリストにURLを書いて一発、10年前にパスポート写真持参で3日間かかった身分証明書(ID)作りも、デジタルカメラの前にすわってパチリ、3分で出来上がりました。

 IT環境は、飛躍的に良くなっています。といっても、ネットカフェは多いのですが、一般家庭へのパソコン普及率は、世界平均に近い10%以下らしく、携帯電話(セルフォン)普及も、6割程度のようです。先日地下鉄に乗っていて、日本ではおなじみの携帯チャカチャカが、この国ではほとんど見られないのに気付きました。わずかに一度、隣に座った白人中年女性が、こっそりハンドバッグから取り出して画面を確認しすぐしまってましたから、まだまだ子供に持たせるという世界には遠いようです。ウェブ上のあるレポートでは、「メキシコ政府は、"携帯電話ユーザーの全国規模での登録に着手し、利用者すべての指紋を採取する方針"です。"携帯電話を使ってゆすり行為や誘拐の身代金の交渉を行う犯罪"があまりにも多く、"通話やメッセージを携帯電話の所有者と適合させる"必要に迫られているからです。同国では、"現在8000万台の携帯電話が使われているが、その大半はプリペイド方式"であり、"身分証明なしで店舗で購入"できてしまうので、誘拐や麻薬売買の連絡などに使われやすいからということです。これに伴い、利用者は、もし携帯電話をなくしたり盗まれた場合には、すぐに報告しなければいけません。きちんと報告をしないと、盗まれた携帯が犯罪に使われた場合には、その責任を問われることになるからです。また、誰かに貸与する場合も同様に報告が必要です」とあり、流しタクシーや麻薬取り締まり同様、治安維持との関係のようです。こんな問題を、メキシコの学生や友人たちと議論するさい、日本語ウェブの「社会実情データ図録」が、大変役に立っています。先週の講義では、日本女性の就労構造、M字型カーブで盛り上がりました。

 10年前の地下鉄車内では、ギター片手の生演奏やマリアッチ・ライブを、まだみかけました。それがいまや、CDプレイヤーをナップサックに入れてボリュームをあげるだけの物乞いビジネスに変わっていて、興醒めです。ソカロ周辺に行けば、まだマヤ・アステカ文明の名残りを彷佛とさせる、原住民の音楽や踊りの大道芸に出会えますが。世界中どこでもそうですが、周辺=原住民やマイノリティの権利が認められる一方、それが市場に組み込まれ、サービス産業末端で「伝統」を売るショービジネスとしてしか生き残れなくなってきているのが、気になります。ちょうど、20世紀後半に先進国で広がったエコロジー思想が、グローバルには「エコ・ビジネス」「エコ・ツアー」に変身し、定着したように。10年前も紹介したこの国の存在と有り様を解く名言、「ああ、哀れなるメヒコ、かくも神より遠く、かくもアメリカに近く!」が、今回もしみじみと感じられます。

 久しぶりで公用のない土曜日、サン・アンヘルの土曜美術市に行ってきました。無名の画家たちが、自分の作品を路上に展示し、即売しています。中には画家がバイオリンをひいて、絵と音楽をコラボするコーナーもあります。公園の中央の舞台では、野外音楽会も開かれます。野外音楽堂舞台の石造りの背面に、大きな白い布が垂らされました。その布の前には、大きなペンキの缶が五つほど。脇にヤマハのドラムセットもありますが、まだ演奏は始まっていません。すると、一人の若者が、大きな刷毛を持って舞台に上がり、いきなりペンキで絵を描きはじめました。器用です。たちまち音楽堂の舞台全体がキャンバスに変身して、大きな老人の姿が、原色で鮮やかに描かれていきます。その時間約20分、たちまち今日のレゲエ・コンサートのバックが、手作りで完成しました。まさに、ライブのペインティングです。伝統の壁画芸術とエスニック音楽は、一つになっています。周りの小道のにわか画廊に、所狭しとかかげられた絵の中には、フリーダ・カーロ風幻想画もあれば、ピカソ風アブストラクトも、ベラスコ風の風景画も、アステカ風刺繍画もあります。すごいと思う額入りの大きな絵は、さすがに高くて数千ペソ、今回は見合わせです。額なしのペイントやスケッチのいいものを見つけ、その場で交渉です。はじめの1枚は気に入って、言い値で500ペソ=3500円払ってしまいましたが、ポケットにカシオ計算機を入れてきたのを思い出し、2枚目からは、万国共通の、言い値の半額からの価格駆け引き。帰国時の荷造りも考えて、小品数枚をゲットしました。隣で売ってる民芸品や彫刻は、今回はパス。まだ2か月はあります。10年前はメキシコ国内旅行にせっせと出かけましたが、今回はしばらくシティーにおちついて、この週末の愉しみを、じっくり味わうことにします。

 数日前、ウェブからの講義用教材作りに熱中していて、持参したキャノン・ピクサス・ポータブルプリンターのインクが、切れてしまいました。予備も持ってきたのですが、それもおしまいです。久しくレーザープリンターばかり使ってきたので、インクジェットの部品の不便さに、思いいたりませんでした。途方にくれて、キャノンの現地法人電話番号まで調べたのですが、ふと記憶が蘇って、確かソカロの革命広場の近くに「メキシコの秋葉原」があったはずだと、気がつきました。幸い講義は午後からなので、思い立ったらいざで、地下鉄を使いメルカード(市場)探し。インクの空き箱を持って、中華街近くを聞き歩き、ついにみつけました。なつかしい「メキシコ秋葉原」、といっても、現在のオタク、コスプレの麻生首相御用達「アキバ」ではなく、大きなビルに小さな電気機器店がぎっしり入った、「昔ながらの秋葉原」風パソコン通りです。でも、こちらのプリンターは、HPとエプソンが圧倒的に強いらしく、肝心のキャノンの15番は、店頭に見当たりません。ようやくある店で見かけたらカラー用のみで、切れたブラックがありません。すると、近くにいたあんちゃん風若者が、大丈夫おれがみつけてやるといって、手許に商品もないのに、いきなりスペイン語で価格交渉です。メモ用紙に500ペソ=3500円ときたので、さすがに高すぎると値切り、370ペソ=2500円まで落としてシー=イエスの合意。5分待ってろと消えた若者は、どこかの店でみつけたらしく、しっかりキャノンの15番ブラックの箱をみつけて、持ってきました。本当は2箱ほしかったのですが、ともかく中身が気になるので購入、早速宿舎に戻って付け替えると、ばっちり動きます。値段も日本のウェブ上で1500円とありますから、輸入品価格としてはまあまあかと納得。総じてパソコン関係は、国際価格が平準化されていて、安くはなりません。日本製品は特に、米国・韓国・中国製とくらべて、割高な感じです。でも、後顧の憂いなくプリントできそうで満足。ついでに、マックの専門店も一つみつけました。これで、IT関係は一安心です。今週も2度ほどあった短時間の停電と、ブロードバンドとはいえyou tubeまで見るには遅すぎる無線LANを除けば。

 ここまで書いた価格は、すべて1ペソ=7円換算、実はこれが、メキシコ経済の苦境を物語っています。10年前のメキシコ便り」を読むと、1ペソ=15円換算だったようです。円とメキシコ・ペソの直接兌換はほとんどありませんから、間に、米ドルが入ります。円がドルに対して強くなり、ペソがドルに対して恒常的に弱いために、日本人には割安に感じられるのです。実際この国はインフレ気味で、昨年リーマン・ショック以前から、物価は上がり気味でした。地下鉄の1回初乗り全区間2ペソ据え置きは、庶民向け公共料金のためで、例えば前回10ペソのトロツキー博物館入場料は、今回35ペソと3.5倍です。大型スーパーの肉や生鮮食料品、特に医療費や観光客向け商品は、相当高くなっているそうです。そこに、隣国アメリカの金融経済恐慌。NAFTA(北米自由貿易協定)による対米依存度が高いだけ、メキシコ経済を直撃します。まだ外国企業の撤退や首きり・失業の問題は調べていませんが、いずれボディブローが効いてくるでしょう。

 英文News on Japanを見ると、日本政治の混迷もさることながら、英語世界の眼は、日本経済の退潮・沈没を、かたずをのんで見守っているようです。千葉県知事選挙での民主党敗退はとりあげられず、北朝鮮ミサイルへの迎撃はImpossible Missionだとする記事は、あまり大きくありません。「日本の若者の80%以上が自国の歴史と文化に誇りを持っている」というサーベイ報道も、「経済混迷による内向き志向」のナショナリズムと解釈されています。日墨交流400周年の年に、私のまわりの「知日派」メキシコ人たちが憂慮しているのも、それです。トヨタやソニーについての個別情報を、よく聞かれます。世界が協力して地球恐慌に対処しなければならない時に、震源地アメリカに次ぐ経済力を持ちながら、世界への声は聞こえず、ひたすら内向するように見える日本。サン・アンヘルやネット・サーフィンで息抜きしながらも、憂鬱な日々が続きそうです。


Hola, Buenas Tardes!

「ワシントン・コンセンサス」の遺したものは?

(2009メキシコ便り・その3)

2009.4.15(メキシコ便り/その3) Hola, Buenas Tardes!  暑い日が続きます。それでなくとも空気が薄い、標高2200メートルの地。チャプルテペック城の上り坂は、疲れました。ぐったりです。メキシコ・シティの見ものといえば、ソカロの国立宮殿に、テオティワカンの太陽のピラミッド、それにチャプルテペック公園の国立人類学博物館が定番です。人類学博物館は何度か訪ねたので、今回は、同じ公園内の丘の上のお城を目指しました。革命期に倒された独裁者ディアス大統領公邸で、日本で言えば皇居の本丸、現在は国立歴史博物館になっています。そのお城の石垣自体は公園内の平地なのですが、建物が広大で、入り口までの500メートルほどが、結構きつい坂道でした。しかし、ようやくのぼり切ったところからの景観は抜群、人口2000万都市の全容が、ほぼ郊外まで一望できます。教師に連れられた子供達のグループも多く、圧巻のシケイロス描く革命壁画の前で、熱心にメモを取っています。実はこれまでここを訪れなかったのは、シケイロスというとトロツキー暗殺団の画家というイメージがあって、何となく敬遠していたのですが、やはり政治は政治、芸術は芸術で割り切った方がよさそうです。確かにロシア・リアリズム風の迫力があります。あとで中心街ポリフォルムにある公園内の壁画(ポリフォルム・シケイロス)も見ましたが、なるほどデイエゴ・リベラオロスコとは違った味わいがあります。もっとも蜂起した民衆や先住民・農民の一人一人の描き方は、やっぱり国立宮殿のデイエゴ・リベラの壁画の方が、活き活きとしていて個性的です。

こちらにくる前に、わざわざ渋谷駅まででかけて、井の頭線改札口に近いホールに架けられた岡本太郎の「明日の神話」を見てきましたが、日本では「巨大壁画」と称される岡本太郎の傑作も、こちらなら普通の町並みの街路・学校・公園に溶け込んだ、より庶民的な味わいで鑑賞できるんだろうな、などと考えつつ坂を下り、さらに公園内の近代美術館、ルフィーナ・タマヨ博物館まで足をのばしました。美術館内の展示になると、確かにデイエゴ・リベラの妻フリーダ・カーロ、それにタマヨの絵が光ってきます。中に一枚、Luis Nishizawa という日系二世と思われる画家の力強い絵があって、思わず900ペソもする画集を購入、あとで調べると、英語版Wikipediaにも出てくる有名な画家で、メキシコ自治大学(UNAM)でも教えていたようです。演劇の佐野碩といい、この西沢教授といい、バイオリンの黒沼ユリ子さんといい、芸術の世界で活躍する日本人・日系人がいたからこそ、この国の「親日」は長続きしているのでしょう。ちょうどイースター(復活祭)休みに入って、メキシコ湾の港町ベラクレスと中央高原のコロニアル都市グアナファトをまわってきましたが、この話はいずれまた。

 ワシントン・コンセンサスという言葉があります。ワシントンDC所在のシンクタンク国際経済研究所(IIE)の研究員で国際経済学者のジョン・ウィリアムソン(John Williamson)が、ちょうど20年前、1989年に発表した論文の中で定式化した経済用語で、Wikipedia日本語版では、「この用語は元来、80年代を通じて先進諸国の金融機関と国際通貨基金(IMF)、世界銀行を動揺させた途上国累積債務問題との取り組みにおいて、「最大公約数」(ウィリアムソン)と呼べる以下の10項目の政策を抽出し、列記したものであった。(1)財政赤字の是正、(2)補助金カットなど財政支出の変更、(3)税制改革、(4)金利の自由化、(5)競争力ある為替レート、(6)貿易の自由化、(7)直接投資の受け入れ促進、(8)国営企業の民営化、(9)規制緩和、(10)所有権法の確立」とでてきます。ただし英語版では、より詳細に、この言葉がいかに新自由主義グローバリズムの合い言葉になり、IMFや世界銀行、アメリカ財務省によって広められ、ソロスやスティグリッツにより批判され修正されても生き残ってきたかも書かれています。現在進行形の世界恐慌を、こちらで集中的に勉強しようと、日本から金子勝/アンドリュー・デヴィッド『世界金融危機』、本山美彦『金融権力』、水野和夫『金融大崩壊』、浜矩子『グローバル恐慌』をもってきたので、イースター休みにまとめて読みました。いずれもブックレットや新書とはいえ、それぞれに現在の金融経済恐慌に肉迫する力作ですが、ワシントン・コンセンサスは、本山さんの本の冒頭に、今日の金融システム危機を導いた元凶としてでてきます。

少し調べると、そもそもこうしたアイディアの起源が、1980年代のラテン・アメリカ債務危機に対する世界金融資本の立て直し策として生まれ、メキシコは、「ワシントン.コンセンサスの優等生」としてNAFTA(北米自由貿易協定)推進、投資自由化、国有企業民営化の最先端を突っ走り、1994年のペソ切り下げにいたった実験国であったことがわかります。ウェブ上のある論文には、その「ペソ切り下げの帰結とは、1930年代の大恐慌以来、最悪の経済不況である。政府と民間金融部門の失策によって、甚だしいコストがもたらされた。1995年だけで百万人以上が職を失い、多くの銀行が技術的に破産状態に陥り(政府の介入以外に生き延びる道はない)、国内総生産は1年で8%も下落した。影響は中南米やアジアにも及び、何十億ドルもの資金がこれらの新興市場から引き上げられた。この結果、1995年2月、米国財務省が異例の緊急融資パッケージを発表する。当初発表された金額は400億ドルで、これは一国に供与された額としては前例のないものである。1996年を通じて実際に供給されたのは、米国財務省の125億ドル、IMFの170億ドル、世銀とIDBの40億ドル、商業銀行の10億ドル弱である。国内外を問わず、テソボンドの購入者の大半は損をしなかった。資金をドルで取り戻せたからである。実際、メキシコの金持ち投資家たちは、切り下げ直前の数週間の間にペソを使ってテソボンドを買いまくり、巨額の儲けを手にした。テソボンドのペソ建ての価値は、切り下げ後に倍増している。つまり、米国財務省とIMFによる救済パッケージは、テソボンドの買い戻し資金として使われ、メキシコ人富裕層へのさらなる富の移転に利用されたわけだ。メキシコ企業の株式に投資した外国人投資家は、株価の下落によって巨額の損失を被った。ニューヨークの機関投資家たちは、通貨切り下げを無責任な政策として非難する。だが、彼らも1990年から93年にかけてペソがドルに固定されていたおかげで、証券市場で巨額の富を手にしていたのだった。3月のコロシオ暗殺で切り下げの可能性が高まると、機関投資家たちは金融政策の継続を主張し、結果として切り下げリスクとそのインパクトをさらに強めたのである。これまでのところ、金融破綻の最大の敗者は国内の納税者である。米国・IMFの220億ドルの融資に加えて、従来の債務1000億ドルの返済、さらにメキシコ商業銀行への政府の債務400億ドルの返済義務を背負わされている」とあります。つまり97年アジア金融危機以前に、スティグリッツのいう「ポスト・ワシントン・コンセンサス」への軌道修正を余儀無くされる実験が、この国では、国民生活を犠牲にして行なわれてきました。そして、「米経済誌『フォーブス』の富裕者リストに掲載されたメキシコ人12人の資産は同国のGNPの4.9%に相当する」「公式統計によると、メキシコの貧困の75%は地方で発生したものであり、居住者1億人の半数は貧困の状況にひんしている。世銀報告によると、メキシコ人口の最貧20%の所得は全体の3.8%、最富20%の所得は全体の20%を占める」という社会を作ってしまったのです。毎年1月の世界社会フォーラム(WSF)で、ブラジルやラテン・アメリカの人々が執拗にワシントン・コンセンサスを問題にしてきたのは、このことだったのです。

 そのワシントン・コンセンサスは、今日の世界恐慌のもとで、批判のまとになっています。1月の世界の政財官指導者が一同に会したダボス会議、世界経済フォーラム(WEF)においてさえ、「崩れる米国主導の自由化至上主義、多難な1年が世界を宗旨変えさせた?」と、「規制は少なく、国境をまたがるモノとカネの流れは自由であればあるほど良いとする考え方」は崩壊し、「冷戦後世界を率いる米国の主導理念だったこの合意が、いまや疑いの対象となった。ワシントン・コンセンサスの優等生だったメキシコの前大統領が、自らの事跡を全否定する勢いの論文を米誌に投稿した。「それが『コンセンサス』崩壊の象徴である」と、メキシコからの参加者がさかんに注意を喚起した」とのことです。まさに世界は「星雲状態」に入っているのです。ところが4月1日のロンドン金融サミット、G8からG20に拡大された世界の指導者の対応は、特にドル基軸を守りたい米英、ユーロの制度化をはかりたい独仏、独自の主導権を狙う中露などの思惑が交錯し、表面上での国際協力はつくろえたものの、会議は踊っているようです。4月1日のエープリル・フールに開かれたものですから、わが日本のお固い日経ビジネスでさえ、過剰警備で罪のない市民一人の命が奪われた「対話なき『金融バカの日(Financial Fools' Day)』の悲劇」「協調『演出』の裏側:台頭する保護主義・反資本主義」と報じられています。タイでのASEAN首脳会議流会も、国内対立と結びついたこの「星雲状態」の流れで理解できます。

ところが英語版News on Japanを見ると、どうやらアメリカの眼は、メキシコの経験を深刻に反省し、ワシントン・コンセンサスそのものを見直すことよりも、メキシコと同じ90年代に「失われた十年」を経験し、なんとか回復軌道に乗せたことになっている、日本の経験に向けられている様です。Foreign Policy 4月4日配信のThink Again: Japan's Lost DecadeHerald Tribune 4月7日のJapan's 'lost decade' can serve as example, with some caveatsNews Week4月9日の Is The U.S. Turning Japanese?、とたて続けに重要記事が出ています。無論、米国オバマ大統領の就任初会見でのコメント「日本が一九九〇年代の景気後退期に迅速に行動せず「失われた十年」と呼ばれる長期不況に陥った」に対応するものですが、それがどの程度に妥当するかを巡って、新自由主義堅持派と、ノーベル経済学賞受賞者クルッグマン教授らの論争になってます。特に国家の危機管理と政治のリーダシップを巡っては、小泉純一郎内閣の経済政策評価が、国際的論争の焦点です。もっともエイプリル・フール風のノスタルジックな皮肉は、日本の政治にも向けられています。News Week 4月13日発信は、「日本の失われた指導者Japan's Lost Leaders」。この重要な危機の中で、支持率低迷の麻生自公内閣と金銭スキャンダル渦中の小沢民主党が、戦略なき景気対策を競いあっている政局を皮肉っています。笑い事ではありません。今こそ、日本の「失われた十年」の実相を、世界に知らせなければ。


2009.4.25(メキシコ便り/臨時ニュース1)昨24日、突然勤務先の大学が休講になりました。27日までとなっていますが、もっとのびるかもしれないとのこと。ニューヨークタイムズに大きく出ていると言う友人のメールで、新種のインフルエンザの疑いと知りました。その時、日本語のニュースはまだ、アメリカのカリフォルニアとテキサスで豚インフルエンザと思われる症状が出て、メキシコでも数例出ているようだと言う報道だったのですが、その後、たちまちメキシコの死者68人、発症者1000人へと増えました。それも、私の住むメキシコシティが中心です。ちょうど週末は、南部モレーロス州の農村を見に行く予定だったので、友人の車でシティを離れる途中、大きなスーパーでマスクを買おうとしましたが、どこも売り切れ、休校になった小中学校のこどもたちも、青いマスクが目立ちます。ようやく病院街の専門店で、白いフィルター付き高級マスクを入手。なんとか都心を離れました。今の所、田舎の小さなホテルで書いている私は大丈夫、でも来週からいくつか小旅行を計画中で、どこまで広がるか心配です。美術館も博物館も劇場も休み、恒例の大学対抗サッカーも中止になったとか。しばらくは人ごみをさけ、マスクで防衛し、ちっ居しなければならなくなりそうです。


2009.4.26(メキシコ便り/臨時ニュース2)当地の豚インフルエンザは、Google Newsでもトップで、世界経済恐慌以上のホットニュースのようです。まずは、正確な情報を集めなければなりません。WTO(世界保健機構)の緊急事態宣言等の動きは、インターネット上でも、随時報告されています。在メキシコ日本大使館は、メキシコ政府・保健省と日本外務省・厚生労働省の情報の双方を、逐次速報として流し、在墨邦人119番も24時間体制で動いています。午後の情報では、疑いのある死者は81名、感染者数1324名でした。午後9時に、死者は87人に増えました。さらに10時にAP通信は死者103人、感染1614人と報じ、日本大使館も確認しています。ロイターは、カナダやニュージーランドへの広がりをふまえて「パンデミック(世界的大流行)の懸念高まる」と流しました。感染中心地メキシコシティとメキシコ州では、大統領命令による小中高大学、美術館等公共施設の休校・閉鎖措置が、5月5日まで延長されました。6日からの予定の当地の国際シンポジウムがどうなるか、心配です。

「メキシコ市、メキシコ州、サン・ルイス・ポトシ州」となっていた感染区域がどこまで広がったかは、公式発表ではわかりません。さっきまで私のいたモレーロス州では、「死者2人」という報道もありました。そんな時、日本語では、以前も推賞した「メキシコ情報 海外生活ブログ村」が、役に立ちます。アクセストップの「愛的、日日の記録」さん、6位の「メキシコ原色模様」さんらが、現地生活に即した再新情報を伝えています。そこにもありますが、感染者は「メキシコ、モレーロス、オアハカ、アグアスカリエンテス、バハ・カリフォルニア、サンルイス・ポトシ州など」と広がっっている一方、現地の市民生活は、わりと平穏です。航空機と飛行場での国際水際作戦は徹底している様ですが、庶民の国内移動の圧倒的足である長距離バスはまったく規制されていませんし、自動車移動も規制が難しいですから、おそらく今後の広がりは、ある程度避けられないでしょう。特に私の見るところ、米国国境ぞいのバハ・カリフォルニア州ティファナが焦点。米国向け輸出の低賃金工業地帯で国境の行き来は簡単、ここで感染が広がれば、アメリカが強硬封じ込めに乗り出さざるをえないでしょう。すでに日系企業でも日立は現地日本人社員の帰国まで始めたとのことですが。

 メキシコは、本多勝一流に言えば、「メキシコ合州国」です。大統領権力とは独自に、地方政府の権限も大きく、マスクや人ごみ規制を含め、州政府に委ねられています。現に昨日私が見聞した、南部モレーロス州の片田舎の村祭りは、数千人が夜中までソカロにぎっしり、ダンスや花火に興じていました。挨拶の握手もキスも抱擁もいつも通り、露天の豚肉タコスも大繁盛で(調理した豚肉を食べるのはメキシコ保健省も問題ないとしています)、私のような防毒マスク風白マスクの参加者はほとんどなく、薄っぺらの簡易青マスクもほんのチラホラでした。もちろんテレビや新聞の情報は、口コミも含め流れていますが、もともと日本で言えば明治前の自然村にあたる集落ごとの祭りまで規制する力は、州政府にもないようです。また、村人達も、永年の血縁・地縁・友人(アミーゴ!)関係で築いてきた相互扶助連帯ネットワークがあり、そこでアメリカからの世界経済恐慌の波にも抗し、自分達のいのちとくらしを守っている様です。一説では、今回の大統領命令によるインフルエンザ退治は、アメリカから麻薬密貿易取締強化を要請されている中央政府が、南部のサパティスタ解放軍対策を含む、軍隊をも使った治安強化・危機管理の実験として、規制の可能な限界を試しているという、うがった見方もあります。

さっき夕方、長距離バスでメキシコシティに戻ったら、下車口で青い簡易マスクを無料配布中。地下鉄はやめてタクシーで宿舎に戻ったら、日曜5時なのにまことに閑散とした大通り。皆、静かに大波が通り過ぎるのを、ジッと待っているかの様です。そういえば、ドラッグストアとレンタルDVD屋が大はやりとか。なお、幼児・子供や老人の犠牲者が少なく、免疫の強そうな成人に死亡者が集中している点については、こちらでは昨年こどもと老人にはインフルエンザ・ワクチン投与が行われたが、成人は除外されていたからではないかという見方もあります。ただ病原も感染経路もまだまだ未確定です。日本をはじめ、世界各地のアミーゴの皆さんから、多くの問い合わせ・お見舞いのメールをいただきました。この場を借りて、御心配いただいた皆様に、心からお礼申し上げます。皆様、幸い私は無事で、白マスクも籠城食料も確保しましたから、御心配なく。



 
2009.4.27(メキシコ便り/臨時ニュース3) 大統領令から4日目、メキシコでの死者はまた増えて、午後5時現在149人、感染者2000人以上という報道です。世界的広がりも進んで、ついにスペインイギリスと感染はヨーロッパに上陸、WHO(世界保健機構)は、パンデミック前段階の「フェーズ4」と警戒度を高めました。英文タイムのこの記事が、総合的で冷静に問題を解説しています。韓国でもひとり見つかって、「感染力はとてつもないスピードだ」とする専門家の話も。当地夜10時、このWHOフェーズ4」を受けて、日本政府は「新型インフル」宣言、外務省は、28日付「メキシコに対する渡航情報(感染症危険情報)」を出し、日本からの「不要不急の渡航は延期してください」、私達在留邦人には「不要不急の外出は控え、十分な食料・飲料水の備蓄とともに、安全な場所にとどまり、感染防止対策を徹底してください。」「今後、出国制限が行われる可能性又は現地で十分な医療が受けられなくなる可能性がありますので、メキシコからの退避が可能な方は、早めの退避を検討してください」と勧告しています。詳しくは、在メキシコ日本大使館の「インフルエンザの流行について」11(4月27日22:00)。

当地では、学校・大学も役所も休み、この休みは5月5日まで、全国に拡大されました。29日に予定されていた私のメキシコ外務省訪問も、中止になりました。ただ、住民の様子はどうかと、長そでシャツにフィルター付きマスク、ポケットには手袋まで忍ばせて、宿舎の周りに出てみると、確かにいつもの月曜日ほどではありませんが、思ったより人出は多く、商店はほとんど開いていて、地下鉄駅前の露店街も平常通りでした。ただしこの辺は、ダウンタウン・ソカロ(中央広場)と高級住宅街コヨアカンの中間の中高級住宅街、その範囲内での見聞です。月曜は、近所の公園に青空市(ティアンギス)が立つはずなので、籠城生活で自炊となれば新鮮な野菜がほしくなり、ひょっとしたらと出かけました。ちゃんと開いてます。ただ、お客はふだんの半分か、店の人の多くは青い簡易マスク、客の方は、私みたいな完全武装はほとんどなく、ある新聞に書いていた5人にひとりより少ない感じ。マスクをつけていても、この暑さですから、首にかけるだけの人も見られます。ただし、公園のサッカーコートにいつも見られる子供達の姿はなく、タコス屋さんも手持ち無沙汰そうです。新鮮なアスパラガスを買って、もう少し路上観察。接客業のお店の人は、大抵マスクをしています。ただし通行人や交通整理の警察官、ガードマンはあまりつけておらず、緊張感はありません。

 ついでに、地下鉄駅の先まで足を伸ばし、先日騒ぎの前に勤務先の同僚アマウリ教授とロシア料理を食べにいったら閉まっていて、向かいのアラブ・タコス屋に変更した、メキシコでは珍しいロシア料理屋へ。レストランにも休業要請が出されていますが、ランチタイムで、開いていました。客は少ないですが、店員はマスク。数年ぶりの本物ボルシチとビーフ・ストロガノフに挑戦、ボルシチは本場級で最高でしたが、ストロガノフは、メキシコ製ビーフが固くていまひとつでした。ロシア紅茶で仕上げて、まあまあ堪能、日本レストランの半額で、十分ロシアの雰囲気を味わいました。ソリヤンカとピロシキは、キューバ生まれのアマウリ教授と再訪の時のため、メニューのみ確かめて次回に。昼休みのテレビは、いつものバライアテイ番組で、臨時ニュースはありませんでした。昼にはアカプルコ沖で地震もあったはずなのに。外に出た目的の一つは、昨夕戻って2軒のスーパーで売り切れだった、体温計の入手。ロシア料理屋近くのドラッグストアで、ついに見つけました。値段も20ペソ=140円。いや昨日来、インフルエンザでメキシコ・ペソの対ドルレートも株価も5%近く下げているので、もっと安いことになります。つい先日まで、日本にくらべれば世界恐慌の影響がゆるやかに感じられたのですが、豚インフルエンザで、一気に景気後退です。ゆっくりと、割と自動車の少ない大通りを歩いて帰宅、同宿のスペイン人民俗学者サム君と情報交換、つい先日メキシコから帰国したスペイン人学者が本国で感染者と認定されたという私の話に、感染者と似た立場にあるサム君の方がびっくり。

当地には日本人6千人のほかに、多くの中国・韓国・フィリピン系の人々もいます。どうも情報集めに苛立っているのは、ジャパニーズ・ビジネスマンや、英米系のようです。けっきょく昼2時間の観察結果では、マスク着用は10人にひとり程度でしょうか。20ペソの体温計で平温を確認、ただしこれ、日本では電子体温計に駆逐された水銀柱のそれで、見にくいこと限りなし、電子体温計を1本入れてこなかった罰です。確かに日本の新聞では報じられない、メキシコ政府の怠慢はあります。今日の記者会見で、外国人記者から質問された死亡者・感染者の性別・階層別統計について、保健相は「調査中」としか答えられなかったそうです。情報は、下層に行き渡ってはいません。ただし、こんなメキシコ庶民の日常を見て、メキシコ政府はだらしないとかけしからんというのは、先進国の流儀。インフルエンザの恐さをばくぜんと知っていても、医者にかかれない人びと、商売をやめるわけにはいかない人びと、配られたマスクをおもちゃにする路上生活のこどもたちが、たくさんいるのです。このどさくさに、米国GMは北米47工場の34工場への削減、工場従業員4万人近くを解雇する再建案を発表しました。「北米」がみそです。そこにメキシコの工場・メキシコ人は、入っていないでしょうか。



2009.4.28(メキシコ便り/臨時ニュース4)ここのところ、連日の臨時ニュース更新です。2001年9月の米国同時多発テロの際に、「IMAGINE! イマジン」を開設した時以来のことです。何しろ自分自身のいのちと生活にかかわることですから、情報収集も本格的にならざるをえません。英文CNNYAHOO NEWSをまずチェックします。ついで日本語のGoogle News、それから在メキシコ日本大使館公式情報や「メキシコ情報 海外生活ブログ村」、それにメールで皆様から寄せられる数々の公式・非公式情報。あっという間に半日が過ぎます。日本が深夜になるこちらの午後の段階で、公式情報では、疑わしい死者は152人に増えても、その増加率は減ってきており、入院患者も減少傾向にあるといいます。感染者1995人という数字も、昨日より減っています。夜に死者159、感染者2498だが安定化という数字が入りました。ヤマはすぎたのでしょうか。ただし、感染の疑いのある者のいる国は23か国に増え、そのすべてがメキシコ渡航者です。WHOは「フェーズ5」の検討もありうるとのこと。日本大使館はマスク未入手者へのマスク配付を始めました。しかも、メキシコ側統計の信ぴょう性が、気になります。まだ感染源も感染経路も特定されていません。感染検査がこれまで1日15件だったとか、遺族が何のインタビューも検査も受けていないとかで、豚インフルエンザと特定された死亡者の男女別人数さえ発表されていません。英語情報には、犠牲者はもっと多いはずだという病院現場の医師の証言、病院に行ったが無保険で断られた事例も出ています。米国オバマ大統領が16日にメキシコを訪問したさい、この国の誇る国立民族博物館を案内した館長が23日に急死した件で、はじめて実個人名がニュースになりました。ただし館長の急死は豚インフルとは無関係で、オバマ大統領が感染した疑いはないという噂を否定する文脈で。やはり、「ああ、哀れなるメヒコ、かくも神より遠く、かくもアメリカに近く!」なのでしょうか。

 今日も少しだけ、外に出て見ました。人通りは閑散で、心持ちマスク着用が増えてます。それも私と同じ、白くてすきのない防毒マスク風が。ようやく徹底してきたのでしょうか。昨日青空市がたっていた公園のベンチには、まばらな人影、若い男女の抱擁はしょうがありません。子供達も休校に飽きたのか、サッカーコートは2面ともゲーム、マスクをつけたままは二人しかいません。当地のブログのyoutube画像とあまり変わりありません。その近くに、DIEGOという有名な日本食レストランがあり、情報収集を兼ねてランチをとろうとしたのですが、休業中。日本の新聞にメキシコ市のレストラン内食事禁止令とあり合点。でもカフェやタコス屋は開いてましたが。昨晩のWHOフェーズ4」を受けた外務省勧告が効いて、日本企業社員の家族や子供達は、どうやら本格的に帰国を始めた様です。その第一便乗客の言葉「現地ではそれほどの混乱はなく、日本の方が大変なことになっていて今逆にびっくりしている」が、在留邦人の共通の実感でしょう。



2009.4.29(メキシコ便り/臨時ニュース5) 本日、WHOは新型インフルエンザの「フェーズ5」(複数の国で人から人への感染が進んでいる証拠がある)を宣言しました。昨日からメキシコでは、NAFTA(北米自由貿易協定)の同盟国アメリカ合衆国・カナダの医療チームが感染者の検体検査に加わるなどして、強力に新型インフルエンザのメキシコ国内の伝播を抑え込み、国外への広がりを断ち切る方針を固めたようです。昨日のレストラン営業禁止に続いて、今日から全国の観光施設・遺跡の閉鎖措置をとりました。観光産業にとっては大打撃ですが、人の移動を少しでも抑え込むと言う意味では、遅すぎたかもしれません。「メキシコ情報 海外生活ブログ村」の「旅たびMexico」さんサイトに、「本日からメキシコ全土のINAH(国立歴史考古学院)の管轄する遺跡が一時的に閉鎖になりました。世界遺産のテオティワカン、チチェン・イッツァ等、170以上の遺跡に入場観光が出来なくなっています。INAHでは遺跡に先だって管轄する博物館も閉鎖しております。メキシコ観光業の赤字だけで過去1週間で約2億4千万ドルの損失。10日以内には5億ドル以上の損失が予想されています。旅行業に携わるものとしては9・11の時以上の危機です。また、キューバ政府はメキシコからの航空便を一時的に(48時間)運行停止にする決定を下しています。メキシコからのキューバ旅行に影響が出ています。アルゼンチンもメキシコとのフライト運行を一時的にストップしました」とあります。まさに「9・11以上の危機」です。ゴールデンウィークのメキシコ観光ツアーをいち早く中止した日本の観光業者は、胸をなでおろしているでしょう。

世界的広がりは、アメリカ・テキサス州で2歳の赤ちゃんが亡くなったことで、新展開を見せています。メキシコ人のこどもとはいえ、メキシコ以外の国での初めての犠牲者です。そして昨晩のメキシコ「死者159、感染者2498」のおおまかな内訳が示され、日本大使館HPによれば「WHO見解との数合わせ」がされたようです。つまりメキシコ保健省のいい加減な発表に業を煮やしたアメリカ、カナダの強力な介入で、統計がWHO基準に改定されたうえ、アメリカでの乳児死亡、海兵隊員や児童生徒を含むアメリカ91人、カナダ19人の認定感染とあわせて、世界的な「フェーズ5」への急展開の中核地にようやく位置づけられたわけです。ちょうど今日、CNN英字ニュースでは、今回メキシコの第一号感染者とされるベラクレス州の5歳の少年の家庭のインタビューを、実名・写真入りで報じました。つまり、ようやく世界的対策の出発点にたち戻ったわけです。このインタビューは、米国資本の豚肉会社が経営する大規模な養豚場の近くに住む少年が2月に発症し3月下旬に奇跡的に回復した話から始まり、村びと1800人が3月に似た症状を訴えたという重要な証言で、メキシコ保健相は発端は「4月13日に死亡した(ベラクルス州の南にある)オアハカ州の女性だ」として少年第一感染者説を否定していますが、少年には4月にアメリカの研究機関により豚インフルの陽性反応が出ています。メキシコ側の説明の背後には、アメリカの資本と市場に頼らざるをえないメキシコ政府の苦渋がにじみ出ています。死者はまた一人増えて160人、夜には176人に達して、5月1ー5日の連邦政府業務の停止が決定されました。これらの犠牲者、それぞれどんな境遇の、どんな生活をしていたメキシコ人だったのでしょうか。男でしょうか、女でしょうか。統計からは、顔がみえてきません。グローバルな「パンデミックの政治」のはじまりです。例えば「フェーズ5」になったのに、なぜ「渡航制限や国境閉鎖は行うべきでない」とあるのかの裏話。すでに「フェーズ4」決定段階から、世界経済への打撃と各国の思惑が錯綜し綱引きしているようです。

 実は今日も、いつものコースで、地下鉄駅付近まで歩いてきました。頑丈マスクばかりでなく、春ものジャンバーに手袋という完全武装で。地下鉄とバスは動いています。バスの乗客はやや少なめか。昨日閉まっていた理容店が、今日は開いています。カフェ、タコス屋の営業は相変わらず。マスクは通行人でも、確かに増えています。レストランは閉まっていますが、普通の文具店や雑貨屋、インターネットカフェは平常通り。銀行ATMで暴落したペソを補充し、食料補充のため近くのスーパーへ。ものはいいが価格は高いという評判の大型チェーン店ですが、ショッピングカートを取ろうとしたら、マスクをした店員が、取っ手のところを消毒液で丁寧にふいてくれました。日本にもないサービスで、なかなかよく訓練されています。日本ではメキシコで食料不足買いだめ中の報道もあるようですが、商品はたっぷり出ています。価格急騰もありません。いつものミネラル、卵や牛乳、野菜にバナナを補給。オアハカチーズにカップラーメンも入れてレジの行列へ。いつもと変わりません。レジの店員は、ちゃんとビニール製手袋です。この国にしてみれば、慣れないこんなことまでしているのに、なぜ国際社会はこんなにもメキシコを虐めるのか、といった感じでしょう。電話での友人の話では、特にキューバとアルゼンチンの航空機ストップが痛いといいます。キューバ観光は、いまや社会主義キューバのドル箱ですが、アメリカが国交を断っている限り、メキシコ経由のアメリカ人キューバ観光客が、実はメキシコにとっても大変な収入源だったのです。昨28日のニューヨークタイムズに、私たち「意見広告7人の会の、北朝鮮拉致問題での全2面意見広告が載りました。アメリカ政府も全面支援を表明しました。御協力いただいた皆様に、この場を借りて、厚く御礼申し上げます。


2009.4.30 (メキシコ便り/臨時ニュース6) WHOの「フェーズ5」警告のもとで、突然ですが、日本に帰国することになりました。残念ですが、やむをえません。こちらでお世話になった皆様、日本から御心配・御激励いただいた方々、たった1週間ですが、本サイトの「パンデミックの政治学」を御愛顧いただいた皆様に、厚く御礼申し上げます。帰国しても、しばらくは検疫・健康管理等で大変でしょうから、本サイトの再開は、しばらく先になることを、御了解願います。わが愛するメキシコの皆様の、一日も早い病魔からの解放・回復と、これまで以上の発展・再生を祈っています。GRACIAS MEXICO!  VIVA MEXICO!  ADIOS MEXICO!


GRACIAS MEXICO!  VIVA MEXICO!  ADIOS MEXICO! 

厄病神に取り憑かれ、パンデミックの元凶にされたメヒコ!

 一日も早い回復・再生を! 

(2009メキシコ便り・その4、パンデミック政治の中で無事ですが帰国しました)

 

2009.5.7 (メキシコ便り/緊急帰国報告) 

4月の末に在メキシコ日本大使館と日本の所属大学の勧告を受け、緊急帰国することになり、あわただしくメキシコをあとにしました。本当はその週末にも国内ツアーがセットしてありましたが、すべての遺跡・観光施設の閉鎖で中止になりました。レストランばかりでなく、あらゆる商店・ビジネスがストップする中で、日本向け航空便が飛ばなくなる可能性があるという噂が流れ、旅行社に急遽あたったところ、5月1日JAL便にたまたまメキシコ人のキャンセルが出て、感染者急増中のカナダ・バンクーバー経由で、2日夕、成田に着きました。メキシコシティ発朝10時の便ですが、空港検疫も厳しくなったということで、前日遅くまで勤務先のメキシコ大学院大学の教授達と試験採点等善後策を協議したうえ、ほとんど眠らずに出発4時間前の朝6時空港へ。メキシコシティ国際空港には、同じ便で帰国する現地駐在員の家族やこどもたち多数がすでに並んでいて、マスク姿の日本人の長蛇の列、その日から急遽設置されたサーモグラフィーによる体温検査、健康状態の訊問を受けました。

 それから16時間の飛行で、夕刻成田に着くと、今度は機内で日本側のサーモカメラ・チェックと問診票の記入・インタビュー、幸いこの日の便では高熱・咳の「疑いあるもの」は見つからず、1時間ちょっとで成田空港の建物へ。そこでまた空港検疫があり、ようやく解放されて自宅に着くとすでに深夜。インタビューでは、10日間は潜伏期間や機内感染もあって発症の可能性があるから、居住地保健所の指示に従うこと、とのことでした。ところが、成田空港での検疫や問診票にもとづく追跡対象者入力が、ゴールデンウィークと重なり人手が足りないとかで、私の所に保健所から連絡があったのは、ようやく5月6日昼、到着後4日もたってからのことでした。それも「何か症状ありませんか」というおざなりなもので、せっかく電子体温計で毎日チェックした体温データも不要。当初宿泊先のホテルを連絡場所に申告した人もいるでしょうから、4日後には連絡がつかない人もいるでしょう。なにか空港の「水際作戦」に比べて、ちぐはぐな国内での対応です。3日の便でメキシコから帰国した京都の少女が発熱というニュースには緊張。私の乗った便にも、メキシコ日本人学校の生徒たちが、たくさん乗っていました。小さなこどもたちですから、丸々24時間もおとなしくマスクで着席できるはずもなく、おしゃべりしたり、マスクをのどまではずして遊んだりしてましたから、密室航空機内でのウィルス汚染は、大いにありうるものでした。幸い京都の少女は新型インフルエンザではないという診断でしたが。メキシコ現地についてのピントはずれな報道、普通の病院での発熱患者診療拒否という過剰反応、欧州・アジア便を含む一斉空港検疫にくらべてずさんな「追跡調査」等、この国の「パンデミック政治」はまだ試行錯誤のようです。私自身は、時差ぼけは続いていますが、無事です。今回の新型インフルエンザは潜伏期間が6−8日と長いというので、5月12日まで10日間は、外出を自粛し、健康自主管理中です。

 メキシコ外務省から、4月29日に予定されていて延期になった面談を、5月12日に行いたいとメールが来ました。私は日本で政府の監視下にあり、出席できませんと返事しました。発症地メキシコの方では、猛威を振るった新型インフルエンザ感染は下火になり、6日からレストラン他商業活動再開、7日から高校・大学の再開、11日からは小中学校も再開されるそうです。本当は、今日にもメキシコ大学院大学の教え子たちと無事を喜び合えたところですが、残念です。4月末に感染者2000人以上、死者176人とまで報告されたメキシコの実際は、WHO基準の設定とアメリカ、カナダ医療チームの参加で検体検査が進み、5月6日コルドバ厚生大臣会見によれば、「1)3452の検体検査が行われ、うち3079の有効症例のうち1112名の検体から新型インフルエンザを検出。うち1070名の生存、42名の死亡を確認。42名の死亡者の性別分類では、24名が女性、18名が男性、年齢分類では20ー29歳が16名、30ー39歳が9名で、この年齢層がもっとも多くの死亡者が発生。死亡者の地域別分布は、メキシコ市:68%、メキシコ州:12%、サン・ルイス・ポトシ州:7%、トラスカラ州:5%、オアハカ州:3%、チアパス州:3%、イダルゴ州:3%。(2)インフルエンザへの感染発生数は、前年までの傾向とは明らかに異なっている。本年は4月の感染患者数が通年よりも増加しており、同様の傾向は死亡者数の統計にも見られる。2006ー08年に発生したインフルエンザによる死亡者の年齢層の中心は、4歳以下および65歳以上であるのに対し、本年発生している同疾患死亡者の年齢層の中心は15歳ー45歳。(3)新型インフルエンザに感染した患者とその家族は7日間隔離される必要がある。現在当国がとっている様々な行動制限は、15日間感染例が発生しないと確認された時、解除が検討されることになろう。(4)20ー50代の人々は、初期症状が出ても病院にかからず、自己診断で勝手に薬を飲んでしまったこと等が手遅れにつながっている理由と思われる。4月17日以前は、初期症状が出てから病院にかかるまでの日数は7ー9日であったのが、新型インフルエンザ流行の公式発表があった4月17日以降は、この日数が1.5日に短縮している。仮説ではあるが、このような傾向が当初当国で死亡者を多く発生させた一因と考えられる。また、死亡者の多くは、呼吸器疾患を発症しているものの、既に、肝臓や心臓等複数の内臓に疾患を患っていたことが分かっている」ーーようやく本来の医療統計が作られつつあるようですが、メキシコですから、職業や所得階層によっても特徴があるはずです。そこは残念ながら、データがなく分析できません。

大蔵大臣会見では、(1)新型インフルエンザによる国内経済への影響は、GDPの0.3ー0.5%と見積もられ、2009年第2四半期がもっとも影響を受け、その後は回復に向かうと思われる。新型インフルエンザ流行に対応するための次の緊急経済支援を計画。メキシコ市のマクロ経済への影響は、GDPの0.5%の減少により1000万ペソの税収減少が見込まれるも、新税の導入はしない。5月、6月の失業を食い止めるため、雇用主に対しメキシコ社会保険庁(IMSS)の支払を20%削減(2ヶ月で3.5万ペソまでの制限付き)。(2)企業に対しては、2009年の間、法人所得税(ISR)の還付分を従来の年一回から毎月とする。レストラン、ホテル、娯楽産業に対しては、連邦政府が今次事態による損失の25%を補償。航空会社に対しては、4月から6月の間、メキシコ領空通過税を50%割り引く。大型客船会社に対しては、5月から7月まで、港湾使用税を50%割り引く。観光促進基金を設立する。特定の産業に対しては、中銀及び国営投資公社(NAFINSA)と連携の元、特に影響の大きい地域に対して支援を行う」とあります。

 このように、メキシコでは一応沈静化に向かっているのに、世界的には24か国、2100人以上と感染拡大が進み、WHOの「フェーズ6」=パンデミック突入宣言も間近と見られています。メキシコ、アメリカ、カナダのほかに、スペインやイギリスでも感染が増えています。アジアでも香港、韓国で感染が確認され、ゴールデンウィークで多数が海外旅行に出た日本でまだ感染が確認されていないのは、奇跡に近いとさえいえます。メキシコでは、まだ発症源は確定されていません。感染ルートもわかっていません。「豚インフルエンザ」という名前は、いつのまにか「新型」と置き換えられました。60歳以上には重症者がいないから免疫があるのではといった話しもありますが、メキシコの衛生事情、医療事情と貧困を知るものには、そもそも統計がいまひとつ信用できませんし、なによりもNAFTAを通じて日本以上に構造的なアメリカ経済との関係、アメリカへの政治的配慮を考えずにはいられません。そして、もう一つの事情、この強制休暇中に公示され7月投票のメキシコ下院選挙への思惑。現在の国民行動党 (PAN) カルデロン大統領(任期は2012年11月30日まで)は、メキシコ革命後70年以上続いた制度的革命党 (PRI)政権に代わって登場した、もともと万年野党だった政党の代表です。しかし国民の中には、その経済政策にも民主主義についても、政権交代時の期待が大きかっただけに、失望も広がっています。メキシコでは、しばしば自民党長期政権の後の政権交代、自民党復活について聞かれました。メキシコの今年の中間選挙で、かつての支配政党=制度的革命党 (PRI)の復活がいわれているからです。今回のインフルエンザ対策は、やや翳りを見せた政権の、求心力回復の絶好のチャンスともいわれ、4月27日以降急速に進んだ危機管理には、国民行動党 (PAN) のパフォーマンスの側面があります。5月6日からの経済活動再開が、本当に感染拡大を封じ込めたうえでのものであったのかどうか、まだまだメキシコを注視して行かねばなりません。


2009.5.8 そんなわけで、私の「メキシコ便り」2009年版は、中断を余儀なくされました。8月には延期された国際会議開催もあって、再び訪れることになりますが、ひとまず日本からの観察に戻ります。5月1日に更新予定で準備してきたいくつかの文章と、メキシコ渡航のため8年間の連載を終えた『エコノミスト』誌書評「歴史書の棚」の最終版、4月7日号の森田武『大正生れの歌 80年の軌跡』(さんこう社)吉見俊哉『ポスト戦後社会』(岩波新書)を扱った「『大正生れ』と若者をつなぐ現代史の難しさ 」をアップ。3月10日号の山本正編著『戦後日米関係とフィランソロピー 民間財団が果たした役割 1945−1975年』(ミネルヴァ書房)松田武『戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー 半永久的依存の起源』(岩波書店)、2月10日号の加藤周一『日本文化における時間と空間』(岩波書店)『20世紀の自画像』(ちくま新書)及び草森紳一『不許可写真』(文春新書)などと共に、御笑覧ください。なお、「メキシコ便り」は、過去ログ「カレッジ日誌」と共に、写真入りで1999-2009メキシコ便り」にも収録し、永久保存版とします。

 Hola, Buenas Noches! こんばんは。つい2週間前に、復活祭を祝い祈ったばかりなのに、神は、どうしてこの国に、試練を与え続けるのでしょうか。それでなくてもアメリカ金融経済恐慌の波をもろに受けていたところに、豚インフルエンザという新種の疫病が現れ、100人以上のこの国のかけがいのない生命を奪い、世界から入ってくるなと怖れられています。世界的大流行(パンデミック)にはまだ前段階ですが、メキシコの国内は「パンデミックの政治」です。日本では「黄金週間」の時に、この国はひっそりと厄病神の通り過ぎるのを、ひたすら祈り、待ち続けています。「ああ、哀れなるメヒコ、かくも神より遠く、かくもアメリカに近く」が、こんなにも真実味を帯びて感じられたのは、今回の滞在の成果でしょうか。まだ今月中は滞在する予定ですが、日本政府の政策次第では、いつ帰国命令がくるかわからない、不安定な状況です。ーー4月29日まで書いた「臨時ニュース」は、ここで収めて、以下は、この間書きためた印象記を含め、記録に残しておきます。

 先日370ペソ=2500円出してようやく手に入れた、キャノン・ピクサス・ポータブルプリンターのブラック・インクが、もう切れてしまいました。どうやらよっぽど古い長期在庫品を、おしつけられたようです。それではと、また「メキシコの秋葉原」、アラメダ公園近くの電気街に補充に。すると今回は、入り口近くのプリンター・インク専門店に、めざす原物のCanon 15 Blackの新品を発見、聞くと、なんと220ペソ=1500円、やっぱり慣れない前回は、超高値で不良品を押し付けられたようです。まあ授業料と考えましょう。インフルエンザ騒ぎまでは、地下鉄も禁断の流しタクシーも毎日利用し、最新のメトロバス(大通りの専用軌道を走るラッシュアワーでも大丈夫なバス)にも乗り馴れて、どうやらメヒコ生活も、なんとか板についてきたところでした。大かけ引きを覚悟した電気街での買い物があっさり済んだので、すぐ近くの中華街で食事。ここは、5年前の国際会議で報告の際、もう一人の日本人ゲスト袖井林二郎さんを先輩風を吹かせて案内したところで、健在でした。ただし瀟洒にかざられ、どことなく新しくなっていて、「メキシコの銀座」ソナ・ロッサの高級中華店より、値段も味もリーズナブル。満腹してぶらりと入った、近くのペジャス・アルデス宮殿がまたよかったです。よくクラシック・バレーや民族舞踊ショーのおこなわれる格式高い劇場ですが、昼間は観覧自由・無料ということで中に入れました。

 すると、豪華な劇場の大理石の階段の正面・左右に、デイエゴ・リベラ、シケイロス、オロスコ、タマヨの壁画、幕間用のホールにもこの4巨人の名が冠されて小品も展示、美術館と見まごう贅沢です。特に左壁のデイエゴ・リベラの壁画は、国立宮殿のメキシコ革命史の連作に連なる傑作、なぜかトロツキーも出てきて「万国の労働者、第4インターに団結せよ!」とスペイン語、英語、ロシア語で叫んでいます。正面はシケイロスなんですが、ここでもやもやしていたデイエゴ・リベラとシケイロスの違いが、はっきりわかりました。デイエゴ・リベラは、農民も原住民も、女性やこどもたちもしっかり描き、それも闘争というより仕事と生活の喜怒哀楽が革命画に出てきて、活き活きしています。対するシケイロスも、農民や女性を描かないわけではありませんが、あくまで闘う男性プロレタリアートが中心で、例のこぶしを突き出したイメージです。要するに教条的で定型的、原住民にも上からアジるだけです。この発見(?)に気をよくして、早速ペジャス・アルデス宮殿とはアラメダ公園をはさんでちょうど反対側にあるデイエゴ・リベラ壁画館に直行、晩年の傑作中の傑作、有名な「アラメダ公園の日曜の午後の夢」を再見し、少なくともデイエゴ・リベラについては間違っていないことを確認、シケイロスについても翌日「ポリフォノス・シケイロス」を再び見て、やっぱりと納得。これって、ひょっとして「反共主義」でしょうか? ともかくメヒコなら街頭の壁画、日本の絵巻物みたいにチマチマ秘蔵品なんかにせずに(失礼!)、太陽の光を受けて、誰でもゆったり見れるのがいいです。岡本太郎「明日の神話」も、本当はこっちで見るべきだったのかもしれません。

 こんなデイエゴ・リベラvsシケイロスの構図を考えついたのは、別にシケイロスのトロツキー暗殺への関与の問題だけではありません。スターリンとコミンテルンに忠実なシケイロスと、トロツキーとも超現実主義者アンドレ・ブルトンともつきあった、ひねくれ共産主義者にしてフリーダ・カーロの同伴者、デイエゴ・リベラの絵の魅力の秘密を知りたかったからです。復活祭休みに、中央高原北西部のグアナファトを訪れました。そこは、美しい中世コロニアル都市であると共に、デイエゴ・リベラの生家のあるところです。今はデイエゴ・リベラ博物館になっているリベラの生家は、1732年創設のグアナファト大学のすぐそばで、小高い丘の中腹、その大学の壮麗な美しさは、神秘的ともいえるほどで、日本の大学と学問がいかに脱亜入欧のにわかづくりであったかを、思い知らされます。そしてそこが、1810年、メキシコ独立の指導者ミゲール・イダルゴが「イダルゴの叫び」を発した地域です。その街の中心「イダルゴ市場」には、この地の先住民達の作った織物・陶器・銀細工からサボテン料理、とうもろこし料理がずらり、20歳でパリ留学前の絵を愛する少年リベラが、マヤ遺跡や石壁芸術・先住民文化から、後のメキシコ壁画運動のアイディアを汲み取ったことが、よくわかります。そして街中のいくつもの広場に必ずある教会、それはイエズス会の移植文化であり宗教強制ですが、そこに救いを求めて集うメスティーソ(スペイン系と先住民の混血、メキシコ人口の6割以上を占める)やインディオ(先住民、25%)たちを丘の上から見ながら、リベラは、西欧芸術の形式を学びつつ、メキシコ独自の内容を盛り込んでいったのでしょう。ちょうど、あのメキシコ・シティ北部グアダルーベ寺院で、たくさんの人々がひざまずく聖母「褐色のマリア」のように。そして、メキシコ湾の港町ベラクレスで体感した、あの明るく開放的な庶民的ソカロ(中央広場)の夜。それは、粛清期のソ連から国外追放になり、ヨーロッパでもアメリカでも日本官憲から監視・妨害されながら、後の「メキシコ演劇の父」佐野碩が1939年に辿り着き、亡命に入った地ですが、肌の色が違っても、言葉が通じなくても、異邦人をマリアッチで暖かく迎えてくれる雰囲気を、彷佛させるものでした。アメリカ人のリゾート地になりきったカンクーンやアカプルコとは違って、今でもメキシコ庶民が主人公で、日本の鍋に似たシーフード・スープが最高でした。ヴィバ、メヒコ!です。

 前回「その3」に、アメリカはなぜ日本の「失われた十年」から学ぼうとし、同じ時期のメキシコにおける「ワシントン・コンセンサスの失敗」を正面からとりあげないのだろうか、と書きました。前回は問題を外資導入と金融危機、その後の経済再建策の面から問題にしましたが、実はメキシコの1990年代危機には、アメリカにとっては振り返りたくない、もう一つの側面がありました。この国の南端、グアテマラと接するチャパス州の密林から発し、世界に「反ワシントン・コンセンサス」「反グローバリズム」を広めたサパティスタ解放軍(EZLN)が、1994年危機の中で誕生したことです。1994年1月1日、ちょうどワシントン・コンセンサスの産物であるNAFTA(北米自由貿易協定)出発の日に、チャパスの先住民共同体の権利と自治を求めて、サパティスタ解放軍(EZLN)は武装蜂起しました。日本語版Wikipediaでも、けっこう詳しく書かれています。

 1994年1月1日、北米自由貿易協定(NAFTA)の発効日に、サパティスタ民族解放軍は、「NAFTAは貧しいチアパスの農民にとって死刑宣告に等しい」として、メキシコ南部のチアパス州ラカンドンにおいて武装蜂起した。NAFTAによって貿易関税が消失し、アメリカ合衆国産の競争力の強いトウモロコシが流れ込むと、メキシコの農業が崩壊することや、農民のさらなる窮乏化が予測されたのである。実際にメキシコでは、NAFTA発効後、多くの農民が自由競争に敗れて失業し、メキシコ市のスラムや北部国境のリオ・ブラーボ川を越えてアメリカ合衆国に流入した。ラカンドンでは、木材のグローバル商業化や、石油やウランの発掘がもくろまれており、当地の先住民を一掃する大規模な強制排除計画が進みつつあった。具体的には、白色警備隊と呼ばれるギャング組織が大規模農園主によって雇われ、暗躍し始めていた。身に迫る脅威を前に、インディオたちはついに、500年の抑圧を経て立ち上がったのである。これに対し、メキシコ政府は武力鎮圧で応じ、チアパス州のインディオ居住区を中心に空爆を行なったため、サパティスタ側に150人近い犠牲者が出た。これを受けて、サパティスタ側は対話路線に転換したが、結果的にそれが奏功し、以後、メキシコ国内外から高い評価と支援を受けることになる。サパティスタ民族解放軍は、先住民に対する構造的な差別を糾弾し、農地改革修正など政府の新自由主義政策に反対、農民の生活向上、民主化の推進を要求し、政府との交渉と中断を何度も繰り返しながらも、今日まで確実にその支持者を増やし続けている。…… 
 サパティスタ運動の方法論や主張は、従来の左翼ゲリラと一線を画しているため世界的な注目を得ている。サパティスタ運動は、最初のポストモダン的革命運動であると言われているが、それはサパティスタ民族解放軍がインターネットを介して大々的に自らの主張を展開し、またそれによって世界的な支援を獲得したために、もはや武力などの実力を行使せずとも隠然たる影響力をメキシコ政府に対して持つに至ったというまさにIT時代の革命運動だったからである。たとえば、マニュエル・カステルは、サパティスタを「初の国際ゲリラ」と称している[1]。この点において、コロンビア革命軍やIRA、日本の新左翼集団に代表される武力や脅迫に頼り、一般人をも巻き添えにする事も厭わないテロリズムを犯し、最終的には一般社会からの信用を失った前例とは異なった革新的手法と言える。また、サパティスタ運動はメキシコからの独立や、政権の転覆と政権の奪取を目的とする偏狭な反政府運動ではなく、世界的な新自由主義グローバリゼーションがもたらす構造的な搾取と差別に対して闘うことを目的とした運動であるという意味においても従来にない左翼ゲリラであった。

 つまり「ワシントン・コンセンサスの崩壊」事例をメキシコに求めると、先住民・中間層における反米反グローバリズム、中南米における「解放の神学」から左派政権台頭の問題を、アメリカのエコノミストは考慮に入れざるをえません。新自由主義のシナリオに反して、70年の制度的革命党政権下野によりなんとかNAFTAから離脱せずにゆるやかに景気を回復したメキシコよりも、いったん下野した長年の米国の盟友自民党がすぐに政権に戻って「構造改革」の経済金融政策をかじ取りして金融システムを安定させ、経済成長を持続させた日本の「失われた十年」の経験の方が、昨年来の金融・経済危機からの脱出をはかるアメリカにとっては、とっつきやすいということでしょう。ここでは1999年労働者派遣法改悪による非正規労働者の急増、格差社会化、年金福祉のセーフティネットの貧困と言った日本のドメスティックな問題は、考慮に入れる必要がありません。なぜなら日本では、サパティスタ民族解放軍のような目立った抵抗はおきなかったし、かつての最大野党社会党が自衛隊容認に転換して自衛隊海外派遣まで認めるようになったし、何よりも景気回復期の小泉純一郎政権はブッシュのアフガン・イラク戦争の強力な支援者で、日本での反戦運動はヨーロッパやインド、中南米にくらべればネグリジブルなものでしたから。こんなかたちで、本来1929年世界恐慌までさかのぼるべき、少なくとも1980年頃からの新自由主義政策の構造的破綻と見られるべき今日の米国に発するグローバル経済恐慌が、日本の「失われた十年」とそこからの脱出経験と言う金融システム安定化とその国家資金注入の程度という矮小な政策レベルの問題に収斂され教訓化されようとしているのです。新自由主義の枠内でのケインズ主義への部分的回帰で、とうてい現在の世界恐慌からの出口が見えるものではありません。


平常に戻ったメキシコ、異常状態が続く日本

 

2009.5.15 (メキシコ便り/後日談) 3月に私がメキシコに出発した頃、日本の世論調査では麻生内閣支持率10%、民主党政権実現はまちがいなく、総選挙の時期だけが問題とされていました。それが突如、小沢民主党代表の秘書が逮捕され西松建設の献金問題が浮上し、世界経済の深刻な危機のもとで、検察の政治介入とか田中角栄型政治の亡霊の復活とか、外国からはわかりにくい新たな論点がでてきました。メキシコ人学生には、野党の金権スキャンダルで日本の次期政権の見通しはわからなくなった、と説明してきました。こんな単純化を敢えてしたのは、自民党より長いメキシコの制度的革命党(PRI)による一党優位政党制には長く金権政治がつきまとい、ようやく野党国民行動党 (PAN) 政権になっても、金権スキャンダルが陰に陽にささやかれているこの国の人々には、日本のくるくる代わる首相の名前や、外国テレビニュースに出ない野党党首の名前よりも、日本政治の仕組みをわかってもらえると考えたからです。事実、二大政党制下の政権交代による変化への国民の過大な期待は、実際に政権交代があった場合には逆に新政権への失望につながりやすい、特に経済危機下では、経済政策の選択肢は財政的に狭く限られるので、新政権への失望は旧政権へのノスタルジアに反転しやすい、といった話を、インドとメキシコと日本を例にとって説明すると、メキシコ人学生たちは、自分の国に引きつけて、なんとなく日本政治に親近感を持つのでした。

 そんな状態が続き、5月初めにメキシコから緊急帰国する頃には、小沢民主党代表居座りによる野党の失点が、政権与党の支持率を3割まで回復させるほどになっていました。そして、ある意味では緊急帰国便より窮屈で不自由な、帰国後10日間の自宅「停留」がようやく終わる頃、ようやく小沢代表が辞意を表明して、局面が転回し始めました。メキシコ人学生にはわかりやすかった、有力政治家と企業献金の関係については、相変わらず不透明なままですが。低空飛行が続く麻生自公連立政権と、第3極のできないまま野党第一党の党内抗争が続き、総選挙もなく代替経済政策の輪郭が見えない日本、株価もGDPも、昨年9月以来の世界グローバル恐慌突入からの出口が見えない以上、この国の世界史的衰退は、もはや既定の事実とされているかの如くです。かろうじて世界第二の名目GDPは確保しているとはいえ、かつて世界の18%まで占めた(94年)その相対的位置は半分の8%にまで下落し、一人当たりGDPではOECD19位まで後退(07年)、昨年9月以降の落ち込み率も世界の中で突出しています。緊急帰国してしばらくぶりで会えた日本人学生たちも可哀想です。いわゆる就活市場は、かつての就職氷河期以上の深刻さのようです。メキシコ人学生たちが希望の星の如く持ち上げてくれた、マンガ・アニメやオタク・コスプレ文化も、秋葉原や渋谷の景気全体の冷え込みの中で生彩がなく、任天堂やユニクロの奮闘くらいでは、トヨタやソニーの深刻な赤字の世界的インパクトへの代替にはなりません。そんな日本の今を考えるために、学術論文データベ ースには、安藤洋さんが「『新憲法世代』を生きてーー若者たちへのメッセージ」第一部/第二部1/の改訂版を寄せてきました。また、宮内広利さんの「世界史の越境に向けてーー柳田国男から吉本隆明まで」を新規アップ。宮内さんは「マルクス<学>の解体」(2006.2)以来8本目の寄稿で、「世界史の最初と最後」(2008.3)に続く力作です。

 日本での「停留」期間中に、5月7日に再開したメキシコ大学院大学の友人・教え子達からは、メキシコ・シティはまたマッチョで陽気な街に戻った、早く戻ってきてほしいという嬉しい便りです。日本のニュースばかり見ている皆さんは、不思議に思うかもしれません。新型インフルエンザはどんどん世界に拡大し、アメリカの感染者数がメキシコを追い越したとはいえ、確かにメキシコはなおダントツ1位の死者数であり、感染者も増え続けているように見えます。しかし実は、メキシコに限っては死者はほとんど4月までの死亡者の検体検査で新型インフルが確認された数が増えているだけであり、感染者数も検体が進んでやっぱり新型インフルだったと確認された数の増加です。在メキシコ日本大使館公式情報は、すでに第42号までほぼ毎日出ていますが、5月13日のコルトバ厚生大臣会見によれば、「(1)現在までに、約9000の検体検査を行った結果、2446名の検体から新型インフルエンザが検出され、うち2386名が生存、60名の死亡が確認された。死亡者は、56.7%が女性、43.3%が男性で、死亡者は感染者全体の2.5%に相当し、死亡者の95%が4月23日以前に発症している。また、感染者の半数以上が0歳ー19歳である。(ロ)50名以上の感染者が確認されている地域は、サン・ルイス・ポトシ州、サカテカス州、イダルゴ州、メキシコ市、ベラクルス州およびタバスコ州である(メキシコ州も感染者は50名以上)。また、バハ・カリフォルニア・スール州およびコアウイラ州については感染者が確認されていない。全国レベルで見ると、全国の89.4%に相当する市では感染者が確認されていない。カンペチェ州、チアパス州、チワワ州、グアナファト州、ゲレロ州、ハリスコ州、ヌエボ・レオン州、オアハカ州、ソノラ州、ユカタン州では、州内の90%の市で感染症例が見られない。これらの感染者未発生市では、通常の社会活動を再開できるとの勧告を各州政府に行っている。(ハ)国内観光地の多くは感染が確認されていない。また、7件の感染者が確認されたカンクン、8件確認のアカプルコ、2件確認のウアトゥルコ等海岸沿いの観光地では、最後に確認された症例はカンクンが4月28日、アカプルコおよびウアトゥルコが4月26日と最近のものではなく、観光客への危険性はないと考えられる」というように、過去データが整備されて日々増大のように見えるだけです。明らかに第一波のピークはすぎて、平穏な日常生活に戻りつつあります。手洗いは励行されているようですが、マスクの数はずっと減っているようです。

 日本で報じられるWHO「フェーズ6=パンデミック」寸前というニュースは、メキシコに発して世界40か国以上に広がり総感染者数が1万人に近づいた状況を示しています。同時にメキシコ国内では、正常化が急速に進み、いわば過去データを検証する余裕ができてきた局面であることはなぜか省略されています。中南米で停止されていたメキシコ便は相次いで再開されています。同時にこの広がりの中で、日本及び中国の新型インフルエンザ対策の特異性も際だってきました。メキシコやアメリカのテレビでは、日本では到着する飛行機に、宇宙服のような防護服を着た役人が機内に入り、最新ハイテクカメラで乗客をチェックし、特に症状が出ていない外国人に対しても宿泊先を申告させ、まわりに感染の疑いのある日本人が出ると空港近くのホテルに事実上軟禁される「停留」という措置がとられる、と報じられているようです。また中国政府のメキシコ人乗客入国阻止・隔離に対しては、人権侵害だとメキシコ政府が抗議し、お互いに特別機を出して自国民を帰国させ、中国渡航自粛を勧めているとのことです。私自身、「フェーズ5」段階で在メキシコ日本大使館と日本の勤務先大学の勧告で緊急帰国しましたが、どうもそんな措置をとっているのは、世界で日本と中国ぐらいのようです。確かに感染真っ盛りの4月末のメキシコでも、滞在する自国民に「帰国勧告」までしているのは、私の知る限り日本ぐらいだったようです。すでに感染者が出ていたアメリカ、カナダ、スペイン人でも、在メキシコ大使館が不要な外出を自粛し連絡網に加わるようよびかける程度で、帰国勧告とかマスクを配るとか在留人数分のタミフルを確保するといった話は、日本関係者以外では聞きませんでした。感染に対する潔癖さ、水際作戦でのウィルス侵入阻止、少しでも感染の疑いのある人への予防的危機管理という点でいえば完璧で見事とも言えますが、他方で海外では、外国人を含む膨大な人々への機内検疫、乗客管理、停留、入国後10日間の保護観察に、異様さを感じているようです。成田のホテルに「停留」されたアメリカ人が、映像でその窮屈な日常を世界に発信しましたが、海外の日本文化研究にしばしばでてくる「ガイジン」や「ウチとソト」の閉鎖的日本イメージを強めないか、心配です。そんな中でのちょっといい話。成田空港近くで隔離治療を受けてきた4人の感染確認者がようやく退院し、機内でその周囲にいた「停留」対象者も、10日間を7日間に短縮して「解放」されました。全日空は、「新型インフルエンザに関する国際航空券特別取り扱いについて」として、4月28日以降、6月30日までのメキシコ、米国(ハワイを除く)、カナダ便について、国際航空券の払い戻し・変更を手数料なしで認めるとのことです。

 ただし、その裏で秘かに展開される「パンデミックの政治」の本筋にも、注目しなければなりません。WHO(世界保健機構)の「フェーズ」設定自体の政治経済との関わりです。もともとWHOのフェーズ分類は、世界の感染症専門家の意見にもとづき、WHO事務局長が決めるものです。その「定義」にもとづく「目標」には、「フェーズ4」で「ワクチン開発を含めた、準備した事前対策を導入する時間を稼ぐため、新型ウイルスを限られた発生地域内に封じ込めを行う。あるいは、拡散を遅らせる。」、「フェーズ5」で「可能であるならパンデミックを回避し、パンデミック対応策を実施する時間を稼ぐため、新型ウイルスの封じ込めを行う。あるいは、拡散を遅らせるための努力を最大限行う」、最後の「フェーズ6」=パンデミック期には、「社会機能を維持させるため、パンデミックの影響(被害)を最小限に抑える。小康状態の間に、次の大流行(第2波)に向けて、これまでの対策の評価、見直し等を行う」とされています。この「封じ込め」に一番有効なのは、当初の感染発見地メキシコと他国との人とモノの流れをできるだけ断ち切り、日本や中国の政府が行ったように国境での「水際作戦」をすべての国が行うことなのは容易に理解できます。ところがこうした純医学的措置は、グローバル恐慌下でもっともおそれられている世界貿易の縮小、自国中心の保護主義台頭に道を拓きかねません。そのため今回の新型インフルエンザの「フェーズ4」段階では、「現時点ではインフルエンザ発生国への渡航禁止や、発生国に対して国境を閉ざすことは勧告しない」とわざわざ但し書きが加えられました。ヒトーヒト感染地域が複数以上に拡大した「フェーズ5」段階でも、世界経済への影響を考えて、敢えて「渡航制限や国境閉鎖は勧告しなかった」とされています。そして現在検討されている「フェーズ6」=パンデミック宣言でさえ、「欧州の感染拡大を受けたパンデミック宣言となれば、貿易や運輸など経済活動への多大な影響は避けられない」ため、WHO関係者は「地続きの欧州は『運命共同体』意識が強く、欧州連合(EU)が一丸となって抵抗している」状態です。これは、メキシコで感染が公表された初期段階で私が現地から報告した、アメリカ・メキシコ国境を封鎖できないNAFTA(北米自由貿易協定)の事情のグローバル版です。つまり、第一に、この20年で飛躍的に進んだ世界の政治経済のグローバリゼーション、地球社会化の流れ、第二に、昨年来のグローバル経済恐慌化で台頭しがちな自国経済保護主義・世界交易の縮小へのおそれ、1929年世界恐慌からブロック経済化・世界戦争への悪夢の再来への警戒、第三に、そこでしわよせを受ける発展途上国、世界経済「周辺」での爆発的疫病蔓延への危惧が、一国レベルでの「封じ込め」を困難にし、むしろウイルス型の早急な特定、感染ルートの解明、新型ワクチン開発の国際的協力を求めているのです。各国の経済的思惑と、専門国際機関への公式・非公式の影響力行使競争をも背後に秘めながら。

私の中断を余儀なくされた「メキシコ便り」2009年版は、過去ログカレッジ日誌」と共に、10年前の渡航時からの時系列に並べ替え写真を入れて、1999-2009メキシコ便り」にまとめておきました。8年間の連載を終えた『エコノミスト』誌書評「歴史書の棚」の最終版、4月7日号の森田武『大正生れの歌 80年の軌跡』(さんこう社)吉見俊哉『ポスト戦後社会』(岩波新書)を扱った「『大正生れ』と若者をつなぐ現代史の難しさ 」図書館アップ。3月10日号の山本正編著『戦後日米関係とフィランソロピー 民間財団が果たした役割 1945−1975年』(ミネルヴァ書房)松田武『戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー 半永久的依存の起源』(岩波書店)、2月10日号の加藤周一『日本文化における時間と空間』(岩波書店)『20世紀の自画像』(ちくま新書)及び草森紳一『不許可写真』(文春新書)などと共に、御笑覧ください。同じく図書館及び教育センターに、恒例で09年3月卒業加藤ゼミナール学士論文を世界に公開しました。


2009.5.17 民主党代表に鳩山由紀夫が選ばれ、再び麻生内閣に代わる民主党政権への期待が強まってきた頃、日本でもついに神戸の高校生から、新型インフルの国内感染が始まりました。それもあっという間に96人発症地の北米大陸(メキシコ、アメリカ、カナダ)を除くと、ヨーロッパのスペイン、イギリスなみの世界有数の感染拡大国になり、アジアでは唯一最大のヒトーヒト感染の広がりで、WHO「フェーズ6」認定の有力な指標となります。神戸大学をはじめ付近の教育機関は一週間休講、関西ではマスクの品切れ続出とか。メキシコで目撃したパンデミック前段階の始まりです。感染ルートが解明される前に続々と感染が広がり、人と物の移動を政府が強権発動でストップし感染の波をくい止めたのが、メキシコの教訓。もはや空港での「水際作戦」や「停留」隔離では済まないでしょう。専門家の話にも、「感染者への差別的な言動が出るのを見るにつけ、まるで伝染病予防法の時代に戻ったかのような印象を受けてしまう。このような反応が出た理由の一つに、毒性の強い新型インフルエンザを想定した対策に引きずられ、過剰ともいえる対策を取っていることが挙げられる。防護服姿での検疫や長期間の隔離などを見ていれば、医者であっても怖くなってしまう。従来のインフルエンザと同様の対策で対処できる」(岩崎恵美子・仙台市副市長)。同感です。今こそメキシコに学ぶべきです。あわてず情報を集め、不要な外出をできるだけさけて、自分自身を防衛しましょう。首都圏への伝播は時間の問題です。でも、毒性は強くありません。冷静に対処しましょう。あまり騒いでパニックになると、感染拡大を理由に外国企業が引き上げたり、留学生が帰国したりして、世界の日本離れは加速されます。
2009.5.22(パンデミックの政治学1・感染者差別) 昨日、メキシコ市は、新型インフルエンザ制圧宣言を出しました。その前1週間、一人も新たな感染者が出ませんでした。メキシコ保健省作成の発症日別感染者数のグラフは、4月の20日から27日まで急速に広がり、大統領令による学校休校、レストラン閉鎖、観光地・官公庁閉鎖で28日以降広がりが抑制され、その「ゴーストタウン」化のなかで正常化していったプロセスを、クリアーに示しています。もっとも病院に行けない人、行かないで休養やクスリで直った軽症者もいたはずで、ピーク時は政府の発表より一桁は多かったろうと言われていますが。その代わりメキシコは、外国との航空便や国内交通を制限することはせず、外国人の感染は、国内に留まった人ではほとんどありませんでした。ともあれメキシコは、観光産業を始め大きな経済的打撃を受けましたが、ほぼ完全にあの陽気で騒々しいラテンの町に戻りました。日本政府も本日、メキシコへの渡航自粛や在墨日本人への帰国勧告を停止し、なぜかメキシコ人に対してのみ出されていた入国査証(ビザ)の一時停止措置を解除し、相互にビザなし往来自由の「普通の国」扱いに戻しました。私も急いで帰国し(もちろんメキシコに!)メキシコ大学院大学の仕事を再開したいところですが、5月初めの緊急帰国後、ものものしい機内検疫ばかりでなく、10日間の自宅「停留」を強いられ、メキシコ側の要請で、すべては9月に再渡航して、再開することになりました。ようやく先週から行動自由になったら、今度は日本の感染が急速に広がり、相変わらずマスクをはずせない毎日です。

 皮肉なことに、WHO「フェーズ4」「フェーズ5」段階で、自国民保護のための帰国勧告や水際作戦という国際的には異様な危機管理策・過剰反応をとった日本や中国が、ジュネーブのWHO総会では、イギリスに便乗して「フェーズ6」決定に反対し、経済活動や市民生活へのこれ以上の制約拒否にまわりました。新型インフルの疫学サンプルが増えて、季節インフルに似た弱毒性であることがわかってきたこと、EU諸国もアメリカ同様に大がかりな隔離政策はとらなかったこともありますが、現在アメリカと共に最も感染が広まっている日本が「メキシコ化」し、いざ関西での修学旅行中止など経済・市民生活への影響が深刻になると、帰国勧告も水際対策での外国人ホテル幽閉もなかったかの如くに規制緩和に向かう姿は、また異様です。すでに世界の感染者は45か国1万人以上、日本は世界で4番目の感染大国です。同時に日本は、1−3月GDPマイナス15.2%の世界経済恐慌最前線の国、再入国制限と引き換えに帰国旅費まで出してやっかい払いしている外国人非正規労働者が、母国での感染の新たなキャリアにならなければいいですが。

 実はこの間、自分自身がメキシコからの緊急帰国組で、感染を広げる潜在的可能性があったために、本サイトの「パンデミックの政治学」で書かないできた問題が、二つあります一つは端的に、感染者及び感染の疑いのある者、そしてその所属組織、特に高等学校に対する、驚くべき差別発言、電話やネットでの「生徒名を公表しろ」「謝れ」「(経済的損失を)賠償しろ」「バカヤロー」等の排斥の言説です。メキシコでは、感染ピーク時であっても、入国したメキシコ人を強制隔離した中国政府に対して「人権侵害・人種差別だ」とメキシコ政府自身が抗議する一幕がありましたが、日本では、そうした声がほとんど聞こえないのが、私には恐ろしい光景でした。渡航した外国での感染も、日本での感染も、インフルエンザにかかった人は、疾病被害者です。それが日本では、あたかも犯罪者であるがごとく報じられ、行動の一つひとつが全国に公表され、隔離から日常生活に戻るのが妨害され、模擬国連に生徒を派遣した学校の先生が「地域に迷惑をかけた」と謝らなければならない情景。おそらくすべては、初期の「ガバナンスの失敗」です。メキシコからの感染防止のための大げさな水際作戦機内検疫隔離停留の初期対策で、外国帰り(特にメキシコ帰り!)が「バイ菌」扱いされたところから生まれた、排外ナショナリズム、村八分の雰囲気で、あの1989年昭和天皇死亡時に似た「右向け右」の日本的危機意識自粛ムードであったでしょう。今では、この「水際作戦」も、国内外にインフル恐怖感は増幅させて、感染者を特別な眼で見る雰囲気を強め、科学的にはあまり意味のない、抜け道いっぱいの「対策」だったことが明らかになっていますが。日本における「パンデミックの政治」で考えるべきは、この「有事」における島国閉鎖意識の圧倒的広がりの意味です。もう一つの問題は、メキシコで明るみに出た新型インフルの感染源をめぐる情報戦ですが、この件については、また書く機会があるでしょう。メキシコについて書き綴るうちに、いつのまにか、通算120万アクセスを越えました。リピーターの皆さん、ありがとうございます。


パンデミック政治の中で、日本は、世界に振り向いてもらえるビジョンを選挙の争点にできるか?

2009.6.1(パンデミックの政治学2・感染源はどこにあったか)  ようやく日本でも、神戸・大阪での大がかりな新型インフルエンザ蔓延阻止作戦を経て、その修学旅行への影響、観光産業への打撃の大きさに驚き、季節インフルエンザと同じように、ウィルスといかに共存するかを真摯に取り組む段階に入ったようです。5月28日の国会参院予算委員会では、厚生労働省職員で羽田空港の現役検疫官、木村盛世さんの勇気ある証言がありました。政府の当初対策が「厚労省の医系技官の中で、十分な議論や情報収集がされないまま検疫偏重に」なり、北米便を対象に一律に行った機内検疫による「水際対策」に偏りすぎて、「マスクをつけて検疫官が飛び回っている姿は国民にパフォーマンス的な共感を呼ぶ。そういうことに利用されたのではないかと疑っている」と述べました。ご自身のブログでは、「新型インフルエンザの問題は、毎日世界中で報道されています。まさに感染症ワールドカップかWBCといってよいでしょう。その中で我が日本チームは、通常のインフルエンザ並みの新しいインフルエンザに振り回され、バイオテロ並みの装備をして臨んでいます。それだけで無く、カゼと同じような感染の仕方をするこの病気に対して「水際封じこめ」と「感染源追跡調査」などという意味のないことに労力を費やしています」とも発言しています。模擬国連に出席した2人の高校生を出した洗足学園には、100通を越える中傷・いやがらせのメールや電話があった異常な雰囲気も、ようやく報道されるようになりました。外信ではすでに、5月21日の『ニューヨーク・タイムズ』の記事"Spread of Swine Flu Puts Japan in Crisis Mode" は、水際作戦が失敗し、またたくまに関西に広がり、マスク売り切れのパニック状態になった日本を"hygiene-obsessed Japan"," paranoia of foreign diseases"と皮肉っていました。メキシコでは7月に中間選挙があります。日本でもいつ解散・総選挙になってもおかしくない状況ですから、純疫学的に見えるインフルエンザ流行の問題に政治が介入するのは、ある意味では避けられません。私がWTOにおける「フェーズ4/5」設定を踏まえて、なぜ「フェーズ6=パンデミック」宣言が出ないのかを含め、「パンデミックの政治学」とよぶ所以です。

 今年の「パンデミックの政治」の原点ともいうべき問題として、果たして最初の感染はどこからどのように始まったかという問題が残されています。最近日本の報道では「新型インフルエンザ」とよばれていますが、世界の報道では「Swine Flu =豚インフル」という表現がなお支配的で、A Flu, H1N1 Fluなども使われています。実はこの呼称そのものに、ある種の政治がつきまとっています。「豚インフル」を止めて「新型インフル」と呼ぼうと提唱したのはアメリカの農務長官で、日本のメディアは皆右に習えしましたが、こういう時にはまず、アメリカの意図、なぜCDC=疾病対策センターではなく農務省なのかを疑ってかかるのが、ジャーナリズムの常道です。普通の説明ではもともと豚を媒介に発したとしても、感染そのものはヒトからヒトへ直接うつる普通のインフルエンザになったから、強毒型の鳥インフルのように、鳥ーヒト感染はみられず、豚と接触したり豚肉からうつることはないから、とされます。でも、本当でしょうか。メキシコでは4月の急速な蔓延時から話題になっていた点で、私の「2009 メキシコ便り」でも、4月24日段階では、世界的には第一報が「アメリカのカリフォルニアとテキサスで豚インフルエンザと思われる症状が出て、メキシコでも数例出ている」といものだったこと、4月29日に、「CNN英字ニュースでは、今回メキシコの第一号感染者とされるベラクレス州の4歳の少年の家庭のインタビューを、実名・写真入りで報じました。つまり、ようやく世界的対策の出発点にたち戻ったわけです。このインタビューは、米国資本の豚肉会社が経営する大規模な養豚場の近くに住む少年が2月に発症し3月下旬に奇跡的に回復した話から始まり、村びと1800人が3月に似た症状を訴えたという重要な証言で、メキシコ保健相は発端は「4月13日に死亡した(ベラクルス州の南にある)オアハカ州の女性だ」として少年第一感染者説を否定していますが、少年には4月にアメリカの研究機関により豚インフルの陽性反応が出ています。メキシコ側の説明の背後には、アメリカの資本と市場に頼らざるをえないメキシコ政府の苦渋がにじみ出ています」と書いていました。

 今回日本に帰国して感心したのは、「きつこの日記」さんの4月29日号、時差からすればまだアメリカが28日だった段階で、「豚インフル」から「新型インフル」への呼び方変更問題も、メキシコ・ベラクレス州のアメリカ豚肉加工最大手「スミスフィールド・フーズ社」の養豚場感染源問題も、正確にフォローしていました。

今回の「豚インフルエンザ」は、メキシコで発生してメキシコで多くの人が亡くなってるけど、アメリカの企業の養豚場が発生源とされてるために、アメリカ政府のトム・ビルサック農務長官は、イチ早く「豚インフルエンザ」って名前を使わないようにとニポン政府へ指示したってことなのだ。そして、腰抜けの麻生内閣はと言えば、ご主人さまであるアメリカにシッポを振りつつ、自分たちが癒着してるニポンの大企業にもゴマを摺りつつ、何よりも最優先して「輸入豚肉の安全性」を連呼したってワケだ。
 
 このコメントは、当時の世界のウェブ上での様々な議論の中でも的確な一つです。豚肉危険説・輸入禁止論は、その後エジプトでの宗教対立がからんだ豚全頭処分問題や、ヒトーヒト感染の広がりで消えていきましたが。このベラクレス米系養豚場感染源説は、現在でもメキシコ保険省は必死で否定しています。在メキシコ日本大使館の公式情報ページは、メキシコ保健省の日々の発表内容を毎日報告している貴重なアーカイフですが、今日では「最も早い発症例は3月11日のメキシコ市の成人男性」とされています。NAFTA (北米自由貿易協定)の影が見えます。

 もっと過激な説は、実は4月24日頃から、世界中のウェブで各種展開されていました。一つは「豚インフル」なら、別に今回が初めてではないことです。Wikipedia にもあります。豚インフルエンザが人へ感染した最初の発見例は、1976年2月にニュージャージー州フォートディクスのアメリカ陸軍訓練基地(Fort Dix)で死亡した19歳の二等兵の検死によるものである。同基地内で発病が疑われたのは数人だったが、500人以上が感染していることが分かった。事態を重く見た保健衛生当局の勧告に従い、フォード大統領は同年10月に全国的な予防接種プログラムを開始した。予防接種の副作用で500人以上がギラン・バレー症候群を発症し30人以上が死亡したため12月16日にプログラムは中止されたが、それまでに約4000万人が予防接種を受けた。結局、この時の感染は基地内にとどまって外部での流行は無く死者は兵士1人だった」。英語版のSwine influenzaには、もっと詳しく出てます。1918年のスペイン風邪の時に、豚の感染が確認されていました。1930年には、初めて豚インフルのウィルスが確認され、1976年の後も、1988年、1998年にもアメリカでは豚を介した感染がありました。とすると、メキシコ・ベラクレス州のアメリカ資本の養豚場には、どこからウィルスがきたかは簡単に推定できます。「メキシコ風邪」ではなく「アメリカ豚風邪」というべきなのです。

 また陰謀説ともいうべき風評も、早くから出ていました。日本では2ちゃんねるで、人為的ウィルス説やオバマ大統領メキシコ訪問バイオテロ説、タミフル製薬会社有効性証明説などが、5月1日から広がったようですが、私はメキシコで、メキシコの友人から 「米軍フォートデトリック生物兵器研究所でウイルス兵器標本が行方不明になり憲兵隊が捜査中 」という生物兵器説ニュースを4月24日には受信していました。こうした陰謀説の科学的根拠は乏しいですが、4月1日エープリル・フールのG20「対話なき金融バカの日」の後の世界の嫌米世論から生まれた情報戦の一部だと考えると、やはりこのインフルエンザは、世界に9・11に匹敵するインパクトを持ったことになります。確かなことは、このインフルエンザの感染源も感染ルートも、したがって今後の毒性変異の可能性も、確かなワクチンも対処法も、不確かなままなことです。日本では5月31日で10都府県19箇所378人まで広がりました。世界では、冬に入る南半球オーストラリア、チリで感染が急増しつつあり、いまや56か国1万5千人以上、まだまだWTOの「フェイズ6=パンデミック」宣言をめぐる政治は続き、この秋の第二波につながるでしょう。

 忘れてはなりません。新型インフルエンザをめぐる「パンデミックの政治」は、昨年9月リーマン・ブラザーズ破綻以降顕在化した新自由主義の破綻、アメリカ=ドル中心グローバリゼーションの再編成、100年に一度のグローバル金融・経済恐慌のさなかで、人類の生存に関わるさまざまな側面の危機の一つとして現れたものです。米国オバマ大統領の核軍縮宣言と北朝鮮による新たな核実験・ミサイルの危機、中東やアフガニスタンの軍事的緊張も、この大枠のもとで展開されています。今日、明日にも、20世紀世界に君臨した自動車産業の老舗中の老舗、世界一の生産企業だったGMが破産し、事実上の国有化に入ります。世界は大変な勢いで動いています。その中で、経済的打撃の大きさはアメリカ以上で、世界でも群を抜いてマイナスが大きい日本が、景気・福祉・雇用のどの面でも出口は見えません。客観的には半世紀以上を見通した抜本的建て直しが必要な局面です。今年の世界の選挙は、どこでもこうした問題を抱えています。特に中国やインドの動向は、欧米での関心のまとで、今年2月のイスラエル総選挙、5月のインドの「成長と貧困」を一大争点にした総選挙結果には、世界の株式市場も国際政治の専門家も注目し敏感に反応しました。6月12日投票のイラン大統領選挙も、そうした意味を持つでしょう。7月には、「パンデミック政治」で一躍世界に注目され、アメリカ経済に直接影響を持つメキシコの中間選挙があります。日本の総選挙も、遅くても9月までにはあるでしょう。だが、そのこと自体、あまり知られていません。昨年から何度も、もうすぐもうすぐと言ってきたんですから。悲しいことに、世界の眼は、自民党のばらまき補正予算の効果にも、民主党の唱える政権交代にも、懐疑的です。つまり秋以降の政権がどうなっても、日本経済にも政治外交にも大きな変化があるとは期待できず、せいぜいアメリカの国債とドルを支え、アメリカの東アジア政策次第でどんな駐米大使がきてもそれに追随するだろうと、織り込まれているのです。何よりも危機意識そのものが感じられません。危機脱出の構想がみえません。残された数か月で、世界史のなかの日本を措定し直すような抜本的政策構想を争点にする政治が可能でしょうか地球と人類の未来に関わる希望を日本から発信し振り向いてもらえるでしょうか、しばらくメキシコに生活と研究の場を置いて痛感したのは、絶望的なまでに閉塞する日本の惨状でした。


2009.6.15 6月11日、世界保健機構(WHO)は、ようやく新型インフルエンザ=豚インフルの「フェーズ6=パンデミック」を宣言しました。すでにこれまでの基準からいえば、日本で国内感染が始まった5月中旬にはパンデミックを宣言しておかしくない状況だったのですが、イギリス、日本、中国、それに最大の感染国となったアメリカなどの思惑で先送りにされてきたものが、南半球のオーストラリア、チリなどでの広がりから、「国境閉鎖や国際的な人・モノの移動制限措置を取るべきでない」と注意書きし、患者隔離など「封じ込め策」より早期治療を軸とする感染拡大の「軽減策」をとることを条件に、世界経済危機下の疫病大流行の現状を認めたものです。すでに感染者は、世界77か国3万人近く、その半数は「豚インフル」の母国アメリカですが、GM倒産=事実上の国有化まで追い込まれたアメリカ経済恐慌と世界貿易縮小への危惧が先行して、WHOには、有形無形のさまざまな圧力と陰の駆け引きで先延ばしされてきたのですが、ついに純医学的見地のみならず国際関係上でも、パンデミック=世界的大流行を認めざるをえなくなった、というのが現実です。このパンデミックは、秋の第二波ばかりでなく、数年はかかると見積もられています。グローバル経済恐慌からの世界の脱出口の模索と、「2009インフル」と新たに命名された疫病パンデミックからの脱出は、並行して進められることになりました。

 ところがこの日本では、5月の前半は、世界にも類を見ない、ものものしく大げさな「水際作戦」を展開し、それが結局失敗して、関西から国内感染が広がると、今度は感染者バッシング、マスク売り切り、修学旅行中止の「有事」パニック状態に陥り、そして6月、国内感染そのものはその後も増え続け、いまや23都道府県600人にまで広がったのに、世界的なパンデミック宣言には、5月の狂騒が嘘のような静けさです。これが、国内医療体制が確立し、国民の冷静な反応が定着したというのなら大歓迎ですが、どうも、そうとばかりはいえません。むしろ医師不足や緊急医療体制の不備、特に地方医療の深刻さが浮き彫りになったのに、医療政策の深刻な反省はありません。インターネットばかりでなく、月刊誌などでも今回の「パンデミック政治=新型インフルへのパラノイア的反応」への反省がようやく出てきましたが、どうもこの「ウィルス有事」への「過剰反応」や「自粛」の有り様が、あの2005年総選挙における小泉純一郎の「郵政民営化」さわぎと、その後の安倍・福田・麻生政権を経た世界恐慌突入後の「過去への無関心」と、どこか似ているように感じられます。丸山眞男風にいえば「つぎつぎとなりゆくいきほい」となりますが、熱しやすくさめやすい閉鎖的ナショナリズムが、政府のパフォーマンスとマスコミによる過剰報道・世論誘導で、問題をつきつめて、教訓を反芻する以前に、新たな状況に流され、次のトピックに乗り換え、新たな「有事」型対応へと移りかねない浮遊型政治です。

 民主党の「顔」が小沢一郎から鳩山由紀夫に変わっても、企業献金の政治資金問題の重要性が失われたわけではありません。麻生政権下で総務大臣と日本郵政社長が対立し、大臣が更迭されても、郵政民営化の是非という原点に立ち返る議論は出てきません。「消された年金」の規模と行方があいまいなままで、経済見通しが狂ったもとでの年金法改正案が、近日中に国会通過の「いきほい」です。すべて政局と総選挙対策の言説の中で、積み残された原理的問題が曖昧に処理され、争点が移ろいます。情報戦が、2大政党間の「政権交代」に収斂し、90年代「政治改革」の検証もなされないまま、議員定数削減や世襲制限の行方に争点が矮小化されます。いや最大の争点である経済危機対策でも、社会保障費抑制や非正規雇用の是非は置き去りにされたまま、前回総選挙の「小さな政府」は忘れられたかのように、大型補正予算と消費税引上げが、ワンセットで走りはじめています。そして、ソマリア内戦・無政府状態と「海賊」の意味は論じられないまま、自衛隊の海外活動はなしくずしに拡大されています。グローバル経済恐慌下の今こそ、この20年の政治と経済の総決算が必要とされ、「原点に帰る」ことが重要であるのに


(以下は、メキシコの雑誌にスペイン語に訳されて掲載されるエッセイの英語元原稿)

 

Politics of Pandemic in Mexico and Japan:

Impression of my second stay at CEAA

 

 

            Tetsuro KATO (Visiting Professor of CEAA, Colmex;

Professor of Political Science, Hitotsubashi University, Tokyo, Japan)

 

 

I stayed in Mexico in March and April 2009 as a visiting Professor of CEAA, Colmex. As this was my second experience to teach Japanese history to Colegio students, I relaxed in classroom. It was just ten year ago, when I gave my first visiting lecture here in 1999. At that time, Prof. Amaury Garcia Rodoriguez was one of the doctorial students in my class, and the other students also had a strong interest in Japanese politics and economy. But this time, my previous course plan had to be revised slightly by the studentsユ subjects. The majority were interested in Japanese culture: movies, photos, pop musics, manga, anime, cosplay, etc.

Actually speaking, I once met almost all students of the class in Japan last summer. Last year in June and July, Colegio students of Japanese course visited Japan, guided by Prof. Amaury Rodoriguez, and took a joint seminar with my seminar students and seminar members of Prof. Kazuyasu Ochiai at Hitotsubashi University. Mexican and Japanese students exchanged each other in English, and this first meeting in Tokyo enabled my lecture here easier. I could prepare some DVDs and internet documents for culture-oriented students.

My course here was a half part of Masters Degree program in Japanese Studies, Academic Year 2008/2009: Second Semester "General History of Japan IV, 1960-2008" with Prof. Michiko Tanaka Nishishima. The topics were as follows.

 

Topic 5. The End of the Cold War, the Gulf War and the Political Changes of 1993/ Tuesday March 17 and Thursday 19

a. Japanese politics as a domestic cold war
b. Bubble economy and the collapse of the existed socialism
c. The End of the 1955 Political System (One and a half party system)

Topic 6. The Lost Decade and the Neo-liberal Economic Restructuring / Tuesday March 24 and Thursday 26

a. The lost decade of the 1990s, What was lost? And why?
b. Japanese management and KAROSHI (death from overwork)
c. Neo-liberal restructuring in Japanese style

Topic 7. Political Process under the Depression and Globalization/ Tuesday March 31 and Thursday April 2

a. Political issue of the amendment of 1946 Constitution
b. Japanese IT Revolution, theater politics and Koizumi boom after September Eleven 2001

Topic 8. The Lost Generation and the Ciber-culture of the Youth/ Tuesday April 14 and Thursday 16

a. Changing Japanese studies in USA: From area studies, via political economy to cultural studies
b. Neo-nationalism and culture in younger generation
c. Historical oblivion of 'postwar Japan'

 

One important point of my lecture was the growth of web-communication and its political meaning in contemporary history both in Japan and Mexico. Some students gave us presentation of their own studies mainly by web documents, and I introduced them useful Japanese and/or English websites for their subjects.

There was a big difference between ten years ago and this time. Although I could use my personal computer for e-mail at office, I could not use internet in classroom in 1999. But this time, all students showed us their power point presentation and I could easily use web-surfing materials on screen. As I myself have a big website "Netizen [Internet Citizen] College" both in Japanese and English, which has already over one million accesses from all over the world, I recommended my students to use English and Japanese websites for their study

(http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.html).

Internet is not only useful for cultural studies, but also for academic historical research. For example, at the website of Japan Center for Asian Historical Records (JACAR), researchers and students all over the world can directly get the official governmental documents in Japan from the Meiji era through 1945 in the form of scanned images (http://www.jacar.go.jp/english/index.html). It was a good experience both for me and for my students to use internet and visual images actively in classroom, and we all enjoyed web-culture in contemporary Japan.

In my own research, the National Archives and Records Administration (NARA) of USA is a treasure house of valuable documents of Nazi War Crimes and Japanese Imperial Government Records (http://www.archives.gov:80/iwg/japanese-war-crimes/). Although I have to visit Washington DC to see the primary materials, I can check the existence of necessary documents in the website index of NARA, including FBI/CIA declassified files. Such borderless utility of internet is a new technology for academic research in the 21st century.

I had planned to visit Washington DC in June with Prof. Michiko Tanaka Nishishima after my stay at Colmex to find new historical documents at NARA. But this plan was suddenly interrupted by the epidemic of swine flu in Mexico at the end of April. From April 24 through May 6, Colmex was closed. Mexican government strongly controlled the new flu outbreak, closed restaurants and museums, shuttered governmental offices and schools for millions of students in and around the capital, and urged people with flu symptoms to stay home from work. Mexican officials promised a huge immunization campaign in the capital in the coming days, while urging people to avoid large gatherings and to refrain from shaking hands or greeting women with a kiss on the right cheek, as is common in Mexico.

As most of Mexicoユs deaths were young, healthy adults, the swine flu looked like a potentially highly contagious flu. The World Health Organization (WHO) alarmed health officials the pandemic flu ― like the 1918 Spanish flu. Within days, pictures of civilians clad in surgical masks, like scenes from some science-fiction disaster movie, were showed in leading newspaper and television reports around the world.

The World Health Organization (WHO) raised its pandemic alert to phase 4 on April 27, and soon to phase 5 on April 29 by the rapid epidemic in USA and Canada. The C.D.C. of USA warned people not to visit Mexico. Although Mexico neither closed the border nor international airports, some countries stopped the airline to Mexico. The number of foreign visitors to Mexico already had plunged since the beginning of the year because of the sinking global economy, and the H1N1, swine flu virus, straightly damaged the Mexican economy. Mexico's economy shrank by 8.2% in the first three months of this year compared with a year earlier, as the global downturn hit demand for exports. Added to that was the loss of revenue to the exchequer because of Swine flu, which could amount to USD 2 billion. The finance minister has warned that economic output could decline by 5.5% in 2009.

On April 27, Japanese government alarmed and recommended all Japanese in Mexico to return Japan as soon as possible. I at first rejected the recommendation, but on April 30, the Crisis Management Office of Hitotsubashi University sent me the instruction of mandatory return to Japan. I had to go back to Tokyo. Fortunately or unfortunately, I could get a cancelled seat of direct JAL flight to Narita on May 1. My schedule of work at Colmex and in USA was suddenly stopped and interrupted. I discussed with Professors of Colmex to postpone my remained works and conferences to this summer and sent my farewell mail to my students.

Dear my Mexican students,
By the urgent mandatory order of Hitotsubashi University and Japanese Government, due to the alarm of WHO's "phase 5" of Swine Flu, I have to return to Japan as soon as possible. It is very regretful that I cannot stay here until my planned date of May 28, but the emergent situation forced us my sudden return. Fortunately in unfortunate results, I could complete my main task of the visiting lectures for you, and will be back here again for the conference which is postponed to September. I hope that the Japanese and Mexican academic/cultural exchange will continue in near future, and the best recovery of all Mexican people from this hard time. Thank you and see you again !
Your Sensei, Prof. Tetsuro KATO

At the beginning of May, all countries began to guard the entrance of swine flu virus from Mexico, but the Chinese and Japanese policies were exceptionally hard and rigid.

China, which was suffered condemnation at home and abroad for their slow response to the Sars crisis of 2003, reacted swiftly to the threat of swine flu. China cancelled the direct flights between the two countries and banned the import of pork products from Mexico despite WHO statements saying that meat poses no risk of infection. China suspended flights from Mexico, after the first confirmed case of the virus was found in Hong Kong. At the Hong Kong hotel where the swine flu victim stayed, about 200 guests and 100 workers were confined to the premises for a week. China's robust response to the swine flu has provoked strong criticism from Mexico. Mexican President Felipe Calderon accused China of taking "repressive and discriminatory" actions against his citizens. The Mexican plane stopped at three Chinese cities to pick up stranded nationals. China sent its own plane to Mexico to pick up 200 Chinese citizens.

Japan is well known for its paranoia of foreign diseases, as some 10 million people in Japan are infected with seasonal influenza each year, and some 10,000 people die from complications. The media began a sensational campaign to defend Japanese from "awful Mexican flu." The alarm of Japanese living overseas to return was a part of protection policy of Japanese nationalities. It was called a メShoreline operation.モ

The government provided medical care to those who enter Japan from affected countries, especially from Mexico, and issued orders for doctors and nurses to board aircraft from Mexico at Narita airport to check passengers and crew for infection of a new virus. All arrivals were required to fill out health questionnaires, and doctors had checked people who complained of flu like symptoms while they were still on board, using temperature-measuring devices to detect passengers with a fever. Thousands of travelers had to wait for hours in their seats before inspectors could clear them to pass through immigration. About fifty people, including a US citizen, were cleared of swine flu after flying in from the United States with Japan's first case of the virus and spending a week quarantined in a hotel by the airport.

Contact information and test results for those without symptoms were sent to local health centers, which kept in touch with the recent arrivals. If no symptoms appeared within 10 days of leaving Mexico, the government admitted little risk of infection. I was fortunately in this category, but could not go out from home 10 days after my arrival to Tokyo. During these overreactions in Japan, Mexico could control the epidemic and get successful recovery. Colmex opened again on May 7. I hoped to return to Mexico as soon as possible, but the anti-virus atmosphere covering Japan could not allow me to go out freely. I could only introduce the new real situation in Mexico to Japanese citizens in my website. All of my remained works for CEAA were postponed to September.

But soon came the メMexicanizationモ of Japan. On April 17, a 17-year-old male high school student in Kobe city, Hyogo Prefecture, who had no record of overseas travel, was announced as the first domestic confirmed case. As the number of H1N1 cases had risen rapidly in the urban areas of Kobe and Osaka, authorities said the real number of infections could already be in the hundreds with the virus spreading fast in the densely populated island nation. Japan soon became the fourth epidemic country of the new influenza virus after USA, Mexico and Canada.

"New York Times" on May 21 reported, 'Spread of Swine Flu Puts Japan in Crisis Mode.' It said, "the outbreak has come as a particular shock for hygiene-obsessed Japan, where hand-washing is religiously taught in schools, children play in sanitized sandboxes, and everything from underwear to ballpoint pens comes with supposed antibacterial properties." Facemasks became a common sight in Japan. More than 4,800 educational facilities -- kindergartens, and elementary, junior and senior high schools, universities -- in Osaka and Hyogo prefectures have decided to suspend classes for one week following the confirmation of new flu infections in the prefectures. Over 1200 Japanese schools canceled field trips usually scheduled this month and the next in light of the emergence of a new strain of influenza. Japanユs government, schools and companies are on high alert over the flu. Prime Minister Taro Aso even appeared on a television program to ask his people to stay calm.

Tens of thousands of masked spectators visited the Expo '70 Stadium to watch the Asian Football Confederation Champions League. Unmasked spectators were banned from entering the stadium.

Schools and companies asked students and employees to wear masks but the masks were sold out. In an Osaka court, the judge, prosecutors, lawyers and defendants appeared with masks on their faces, along with the audience. Most daycare centers, kindergartens and nursing homes were closed in and around Japan`s second-largest city. More female workers also took a leave of absence to care for their babies and parents.

The swine flu scare has also affected Japanese companies. Mobile communications giant NTT DoCoMo halted an exhibition to release its new mobile phone models. Certain companies have recommended that their employees work from home and others have canceled job fairs or news conferences.

But Japan soon faced the similar dilemma which Mexico experienced in late April. The Japanese economy is not doing well. Last quarter, GDP fell at an annualized rate of 15.6%. Exports in the first quarter were down at an annualized rate of 70.1%. Private investment was down at an annualized rate of 49.7%. The percentage of university students who received job offers before graduation in March declined for the first time in nine years. Massive layoffs from the current economic crisis were falling heavily on foreign workers, many of whom were opting to leave the country to seek work back home.

According to the Tourism Ryokan Association of Osaka and Kyoto, reservations amounting to 360,000 nights at hotels or other lodging facilities were canceled within four days after the first confirmation. Travel agencies and hotels in the two cities were sufferred losses of 4.3 billion yen (US$ 45.7 million), so they asked for financial support from the government.

"It is necessary to take steps to limit damage to public health and maintain social and economic functions," Chief Cabinet Secretary Takeo Kawamura said. "The government will take all possible measures by closely cooperating with other countries, based on the recognition that countermeasures are also important for crisis management." The government decided to provide financial support for primary, middle and high schools that have had to pay cancellation fees for calling off school trips due the new strain of influenza.

The WHO also had the same dilemma in global economic crisis. The WHO chief Margaret Chan expressed her concern at the opening of the World Health Organization's annual assembly followed a sharp increase in swine flu infections in Japan and fears that the virus could take hold in another continent beyond its source in North America. She warned that the world might be facing the calm before a swine flu storm. But when she faced pressure from Britain, Japan, China and other nations not to rush into declaring a pandemic, the phase 6, she had to resign the declaration.

At the end of May 2009, there are more than 13,400 confirmed cases of the flu in 48 countries with more than 95 deaths. In addition to financial and economic crisis, the world faces another kind of global crisis. Some may call it メMexican fluモ of the world in 2009. The world learned the need of global governance for humankind. It must be the メpolitics of pandemicモ in 21st century.

 

 



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