ネチズン・カレッジ日誌にようこそ!

ある政治学者のホームページ奮戦記――わが家のできるまで、できてから(2012年1月ー6月

 ここには、<What's New>で定期的にトップに現れた、本ホームページの作成過程、試行版への反響、更新の苦労話、メールへのご返事、ちょっといい話、外国旅行記・滞在記、研究室からカレッジへの改装の記録が、日誌風につづられます。趣味的なリンクガイドも兼ねます。ま、くつろぎのエッセイ集であり、対話のページであり、独白録です。日付けは下の方が古いので、逆読みしてください。

古い記録は、「図書館特別室3 ネチズン・カレッジ生成記録」として、以下のようになっています。お好きなところへどうぞ。

被災地にまわらない復興予算、増税を原子力村の延命に使わせてはならない!

かと 2012.10.16  久しぶりで震災被災地をまわってきましたので、一日遅れの更新です。今回は岩手と福島です。陸前高田の旧市街は、がれきが大分片付いていましたが、ホテルや道の駅の大きな残骸はそのまま。町そのものは市役所・病院・商店・仮設住宅他丸ごと高台に移したかたちで、復興はまだまだ。よくテレビで報じられる大船渡の被災地中心にできた仮設商店街・屋台村は、客も品揃えもまばら。復興の意気は感じられますが、仮設は仮設です。地元の人々の懸命な努力と想いが、痛いほどにわかるだけに、ここに投入さるべきだった震災復興予算19兆円の使途には、驚き、あきれます。自衛隊機の購入調査捕鯨のシーシェパード対策大阪・姫路の税務署の耐震改修、はては「もんじゅ」や核融合の研究まで入り、なんと原子力村の延命・再編にも使われています。他方で、被災地の個人事業主が知恵を集めた『中小企業グループ補助事業』では、予算不足で申請の6割が却下されている不可解。これが、所得税・住民税増税でひねり出された震災復興予算の実態です。消費税増税の行き先をも、暗示しています。新幹線が福島に近づくと、それまで0.05μSv/hだった放射線量が、目に見えて大きくなります。福島駅で0.20,福島市内では0.60以上も記録しました。福島から川俣町、飯館村、南相馬市に入り、6号線を浪江町から双葉町へと南下して、途中で立入禁止となり南相馬へ逆戻り。このコースで最も高い線量は、南相馬でも浪江町でもなく、30キロ圏外の飯館村で、広く1.00を越え、山道に入ると1.20-1.40に達します。南相馬市街地では0.20-0.50でしたから、同心円での避難区域設定のいい加減さ、SPEEDIが生かされなかった昨年3月決定的時点の決定的無策が、改めて悔やまれます。無人のスーパーやコンビニの看板も不気味ですが、浪江町「警戒区域」には時間の止まった津波の被害がまざまざ。仮設住宅に10万人、県外避難者6万人がさまようこんな状態で「収束」を強弁し、けっきょく不要だった大飯原発を再稼働させ、いまだに脱原発の腰が定まらない野田内閣に、改めて怒りを覚えます。

かと 10月上旬はノーベル賞の季節、一昨年のノーベル平和賞は亡命者中心の独立中国ペンクラブ劉暁波に授与され、矢吹晋・加藤哲郎・及川淳子『劉暁波と中国民主化の行方で論じましたが、今年の文学賞は、中国政府公認中国ペンの莫言に授与されました。しかし国際ペンクラブホームページは、劉暁波と莫言の写真を並べて、獄中作家の釈放を求めています。平和賞はEU(欧州連合)に。国際赤十字などは第1回のアンリ・デュナンから三度ももらっていますから、国際組織の受賞そのものはよくあること。でも、このタイミングでの受賞には意外の感。そして、医学・生理学賞の山中伸也教授の受賞は、素直に喜びたいところ。特に共感できるのは、次の2点。第1に、「特許」についての山中教授の考え方、新自由主義・市場原理主義の時代には「独占させないための特許」が必要という考え方、ウェブ上の問題にも、応用できそうです。第2に、現代日本で最も生産的な京大iPS細胞研究所ですら、その担い手の9割が、任期付きか非正規雇用の研究員たちであり、そのことに山中所長が大きな危機感を持っていることです。国の財政危機のしわよせをまともにうけた、日本の科学技術体制の危機です。最先端で応用性も高いiPS細胞研究ですら、貧弱な研究予算で人件費が出せないのですから、基礎研究、人文・社会科学研究は推して知るべし。その小さなパイをめぐって競争が激化し、産学協同から軍学協同、果ては経歴詐称から虚偽業績申告まで産み出す構造的問題。かつて廣重徹『戦後日本の科学運動』(こぶし文庫)が告発した体質の再現です。そしてそれが、1954年に日本で「原子力の平和利用」が出発した背景であり、原発「安全神話」が作られ、安富歩さんのいう「東大話法」が跋扈し、原子力研究者のほとんどが「原子力村」に組み込まれる一因になりました。

かとかと 前回更新で入れた1954年3月21日『読売新聞』夕刊トップ、アメリカ大統領アイゼンハワーの「アトムズ・フォー・ピース」演説の3か月後、ビキニ水爆実験で被爆した第5福竜丸乗組員のケロイド写真と「原子力を平和に、モルモットにはなりたくない」という見出しには、当時の中曽根康弘ほか改進党議員たちが提案した2億3500万円の原子力予算通過の事情が隠されています。この写真の2週間前、3月4日に吉田自由党内閣補正予算中に滑り込ませた原子力予算は、衆院を通過していました。3月11日には日本学術会議が「平和利用」の条件付きで承認にまわり、3月13日『毎日新聞』社説は「原子力研究を期待する」と宣言しました。第5福竜丸被爆帰港の『読売新聞』スクープは、その3日後、3月16日でした。その1週間後がこの「原子力を平和に」の写真です。その詳しい経過は、先日9月29日の早稲田大学20世紀メディア研究所第70回公開研究会で「日本の原発導入と中曽根康弘の役割 1954-56――米軍監視記録Nakasone Fileから」と題して報告し、10月8日号『エコノミスト増刊 戦後世界史』の加藤哲郎「原爆と原発から見直す現代史」にも「1954年3月が分岐点だった」と書いておきました。予算が通ったら反対から条件付き承認へと1週間で「転向」した科学者側の事情については、山崎正勝さん『日本の核開発』(績文堂)が詳しく述べています。その条件とされて最終的に55年末原子力基本法に入ったのが、もともと占領期に「原子力の平和利用」の唱道者であった武谷三男が発案した「平和利用3原則=自主・民主・公開」でした。

かと この過程を「議論にあけくれる学者を札束で目をさまさせた」と公的な『原子力は、いまーー平和利用の30年』(日本原子力産業会議編、1986年)の冒頭に書き込んだのは、自ら被爆者で湯川秀樹の愛弟子の一人であった森一久でした。山崎さんも引用していますが、これは当初茅誠司に中曽根康弘が「札束で頭をひっぱたいた」と語った話として核物理学者に伝えられ、武谷三男が「原子力と科学者」(『著作集』2,396頁)で広めたものです。当時、朝永振一郎は「札束で学者のおしりをひっぱたいた」話として紹介し(『毎日新聞』54年4月2日)、中曽根自身は、1965年の「原子力開発への準備」(日本原子力産業会議『原子力開発十年史』)で公式に否定した後、『政治と人生』などでは、茅に対して「札束でほっぺたを打って目を覚まさせる」と言ったのは同僚議員の稲葉修だったとしています。ここでは「札束=予算のエサ」で学者をひっぱたいたことは共通していますが、「頭」なのか「おしり」なのか「ほっぺた」なのかが対立しています。私は朝永の「おしり」説が一番説明力があると思っています。というのは、「頭」や「ほっぺた」にはいかにも政治家が学者を脅迫・強制したようなニュアンスがありますが、どうやら54年3月時点では、学者のなかにも原子力研究をやりたい、でも原爆体験からの慎重論・反対論があるから大きい声ではいえない、研究費が少なくて海外情報収集さえままならないから何とか予算がほしいという雰囲気が相当ありました。日本学術会議内では茅誠司・伏見康治の提案にもとづき原子力の基礎研究を再開すべきか否かの検討を始めた段階でした。そこに、いきなり原子炉作りのための2億3500万の予算が提案され、造船疑獄で揺れる「政争の具」として、あっさり通ってしまいました。そこで茅誠司藤岡由夫伏見康治らは、予算がある以上、条件さえつければ、学者の力で軍事研究への応用は阻止できる、原子力研究を統制できると考えて、一気に「平和利用」の名目での中曽根・稲葉の誘惑、原子力研究費の魔力にとびついた、というあたりが真相と思われます。脅迫や強制ではなく、すでに前のめりになっていた科学者たちに、「研究費」のエサを与え、「おしり」にムチを入れたら一気に走り出した、ということでしょう。

かと  後に中曽根康弘伏見康治の対談「黎明期、そして今後の原子力開発は」(『原子力文化』29巻7号,1998年7月)で、中曽根は当時の新聞に「原爆予算」「中曽根が予算を出して、また原爆を作るんだろう」と批判されたと認め、伏見は、日本学術会議の「平和利用3原則」を「我々の提案は、中曽根提案が出てから大急ぎでつくったんですよ。我々の間では『中曽根さんはきっと原子兵器を作るに相違ない。それにはくつわをはめなくちゃだめだ』と(笑)」いうものだったと認めています。この対談で中曽根は、予算提案時に学術会議から公式に抗議に来た茅誠司が、「できちまったから仕方がない」と述べたことも明かしています。「これは内心は通してくれというんだ。私はそう読みました」。こうして、1年半後の1955年12月13日、国会での原子力基本法の提案理由の説明で、中曽根康弘は「各国の共通の特色は、この原子力というものを、全国民的規模において、超党派的な性格のもとに、政争の圏外に置いて、計画的に持続的にこれを進めているということであります。どの国におきましても、原子力国策を決定する機関は半独立自治機構としてこれを置いておきまして、政争の影響を受けないような措置を講じております」と述べ「政争の具」ではなく「国策」であると強調して、原子力基本法と原子力委員会発足をほぼ満場一致で通過させます。統一したばかりの日本社会党右派の松前重義(東海大学学長)を味方につけた、科学者の弱みを握った政治家中曽根らの工作で、日本の原子力発電は出発します。

かと 「平和利用3原則」は基本法に入りましたが、「安全」は原則になりませんでした。5人の委員のうち3人、湯川秀樹藤岡由夫有澤広巳が学界から入った原子力委員会は、初代委員長正力松太郎の強引な運営と財界の支援のもとで、基礎研究をじっくり進めるどころか、すぐに外国の原子炉を輸入して実用化する方向に進みます。湯川秀樹はそれに抗議し、「研究と両立できない」という理由で委員を辞任します。その代わり、科学技術庁も発足して、原子力研究の予算は他分野から突出して優遇され、多くの原子力村住人を育てます。あまり注目されることはありませんが、55年原子力基本法制定時の中曽根康弘の提案理由には、「日本の原子力の問題というものは、広島、長崎の悲劇から出発いたしました。従って、日本国民の間には、この悲しむべき原因から発しまして、原子力に対する非常なる疑いを持っておるのであります。すでに、外国においては、原子力はかっては猛獣でありましたけれども、今日は家畜になっておる。遺憾ながら日本国民はまだこれを猛獣だと誤解しておる向きが多いのです。これを家畜であるということを、われわれの努力において十分啓蒙宣伝をいたし、国民的協力の基礎をつちかいたいと思うのであります」と原爆を猛獣に原発を家畜にたとえ、「安全神話」作りを提唱して、産業としての原子力に道を拓きます。歴史的には、原子力を「 エネルギー源の問題を主として外国は取り上げておる。日本は広島、長崎のエレジーとして今まで取り上げてきておった。この国内の雰囲気の差と国外の界囲気の違い、これを完全にマッチさせるということが、まず第一のわれわれの努力であります。広島、長崎のエレジーとして取り上げている間は、日本の原子力の進歩は望むことができません。外国と同じように、動力の問題として、産業の問題としてこれを雄々しく取り上げるように、われわれは原子力政策を推進したい」というのは、英語の「Energyエナジー=エネルギー」と「Elegyエレジー=悲歌」をかけた、ハイカラ青年政治家中曽根らしいレトリックでしたが、あいにく英語は苦手の当時の国会議員たちにはほとんど通じなかったようです。「ヒロシマからフクシマへ」の転換点となった日本における「原子力の平和利用」の出発は、「原子力の夢」と研究予算の誘惑に負けた科学者たちと、いつかは原爆を持ってアメリカと対等にと願う政治家たち、それに巨額予算に新たな儲け話をかぎ取った産業界の合作でした。湯川秀樹博士のノーベル賞受賞で湧いた「科学立国」の夢が背景にあって、ジョン・ダワー風に言えば、「原爆を抱きしめて」原発が経済成長の土台になっていくのです。山中伸也教授の受賞が、これを他山の石として、日本の科学技術の新たな展開への手がかりとなることを期待します。

 


国会前に100万市民が集まれば、野田「自民党代行」内閣も原発推進を続けられないのでは?

かと 2012.7.5 待望の公的フクシマ調査報告です。国会原発事故調査委員会の報告書が、ダイジェスト版、要約版、本文、英語版と簡単にダウンロードできます。いい内容です。フクシマ原発事故は収束していない現実から出発し、被災した市民の目線で、東電、政府、保安員、原子力安全委員会などの制度的・体制的弱点を指摘し、「人災」と断定しています。 マスコミはもっぱら管首相と東電の指揮関係に焦点を当てていますが、事故の原因について地震による配管損傷などの可能性も認め、いわゆる原子力村の体制の抜本的改革を提言しています。野田内閣がなぜか原発再稼働を急ぎ、原子力規制委員会法案を急いで国会通過させ、夏の電力供給に論点を誘導しているのも、この国会報告書が出るのを予測した駆け込みだったのではないかと思えてきます。原子力基本法案や再稼働安全基準は、せっかく国会も会期延長されているのですから、早速この報告書に基づき見直されるべきです。さしあたり、国会原子力常置委員会の設置、引き続き事故原因を解明する原子力臨調の設置は、ただちに開始すべきです。明日7月6日の首相官邸前金曜デモ(午後6時)は、活断層調査もせずに動き始めた大飯3号機の再稼働反対のほか、この国会事故調報告にそった国策転換への第一歩にしたいものです。30万人なら60年安保闘争最高潮期 なみです。7月29日脱原発国会大包囲まで、毎週・毎週、大きくなっていくでしょう。


かと 2012.7.1   ようやく参与観察できました。毎週金曜夜の首相官邸・国会前脱原発デモ、3月の300人からどんどん大きくなって、メキシコ・アメリカの日本に関心を持つ若者たちも注目していた日本版「オキュパイ・霞ヶ関」、または「紫陽花革命」といわれるまでになったとか。野田内閣の再稼働決定後、先々週1万5千、先週4万5千と参加する市民はうなぎのぼりです。1960年5月の国会強行採決から国民の怒りが爆発し、改訂安保条約が発効しても岸内閣退陣を導いた60年安保闘争を想起させます。6時からの行動予定なのに、5時半頃には身動きできず、体調が思わしくないので、反対側の歩道の石塀に腰を下ろしてじっくり観察。といってもお年寄り多数、お子様づれ若いママの集団も、外国人もいっぱい、女性の数が目立ちます。マイクのある歩道の反対側で「再稼働反対」のシュプレヒコールが始まると、正式会場の何キロか後ろの方でも、私たちのいる反対側の歩道でも、誰かが「再稼働反対」と叫べば数十人がただちに呼応します。もちろん腰をおろした私やまわりの老人たちも、仕事帰りで通りかかっただけらしい急ぎ足のサラリーマンも、小さな声で「再稼働反対」、でもそれらがこだまし、反響して、首相官邸にも確実に届いています。帰宅して見たテレビでは、組合旗・全学連旗が見られないと解説されていました。正確には多少赤旗が混じっていても、それぞれ手作りで持ち寄ったプラカードに囲まれ、ほとんど目立たないかたち。60年安保世代の知り合いと何人かお会いしましたが、それも多様な老若男女の群れのなかでは「やあ」の一声でデモの渦のなかに。前回4万5千人より多いのは5時半頃でもわかりましたが、主催者発表15万人ー20万人というのも、昔の政党や組合動員の会ではありませんから、大ざっぱでしょう。かといって警察発表2万人以下は、あいかわらずの政治的発表。帰宅時の地下鉄駅の長い列の実感では、10万人は確実にいたでしょう。大飯原発再稼働が強行されても、このデモは続きそうです。この国のエネルギー政策の基本が確定されるまで、市民の闘争はつづくでしょう。とにかく政府は、国民の声を聞いていない、だったら直接声を届けようという人たちが、圧倒的なのです。次は30万、50万、100万です。

かと 野田内閣は、いまや自民党の政策を自民党以上に熱心に実行する半民主党内閣・自民党政策代行内閣といっていいようです。前回スポット更新で述べた原子力基本法への「安全保障」挿入がそうです。武器輸出3原則の緩和がそうでした。沖縄の普天間基地移転問題に続いて、米軍「未亡人製造機」オスプレイの配備も盲目的に認め実行しそうです。何よりも「政治生命を賭けて」衆院を通過させた消費税増税自体が、自民党内閣が試みても実行できなかった財務省官僚一押しの懸案でした。TPP参加もこのまま進めるつもりでしょう。そして「脱原発」を「脱原発依存」といいかえ薄めてきた野田首相は、国会の事故調査委員会報告も待たずに再稼働と原子力規制委員会設定に動き出し、よくて「ベスト・ミックス」での原発・核燃サイクル存続、悪くすると輸出促進と新規原発認可・原発大国再建の「原子力村の夢再び」に、向かいかねません。2009年総選挙は、日本で初めてのマニフェスト選挙ともてはやされましたが、民主党のマニフェストは満身創痍、けっきょく「政権交代」という小選挙区制に由来する与野党逆転が残されただけで、二大政党制本来の理念的・政策的対立軸は消えてしまいました。それだけ日本政治には、自民党・官僚制・経済団体のトライアングル支配の痕跡が歴史的に残されており、いわゆる「原子力村」もその中核にあったということでしょう。こういう政治は、もう一度総選挙に投げ込んで、民意との関係を正常に戻してから、仕切り直しすべきです。

かと 3月のニューヨーク大学に続いて、6月メキシコでののラテンアメリカ・アジアアフリカ研究学会で、日本のフクシマ原発事故の歴史的意味について報告してきました。3月のニューヨークでは、ヒロシマを体験し3・11を経験した日本でなぜドイツやイタリアのような反核運動が起こらないのかと問われ、占領期の原子力へのあこがれや高円寺ではじまった「素人の乱」の紹介で何とかしのぎましたが、6.29国会包囲で、ようやくこの面での海外への説得は可能になりそうです。メキシコでは、ドイツの脱原発を決定づけた倫理委員会報告「安全なエネルギー供給」を下敷きとして、原子力を「ある種の暴力」と位置づけてきました。その歴史的背景として、(1)マンハッタン計画から戦後にいたる原爆・原子力開発の一体性、(2)1953年末アイゼンハワー大統領演説「Atoms for Peace」の冷戦からの出自と、スターリンの死・朝鮮戦争休戦後の「冷戦のもとでの雪解け・平和攻勢」の二重性格、をあげ、その日本的特徴として、(1)1955年原子力基本法以来の「Energy First, Safety Last」体制、(2)原発推進・安全神話構築における「原子力村」の存在、(3)「国策民営」という「安全」にはなじみにくい国家と電力会社の無責任もたれあい体制、(4)ヒロシマ・ナガサキ原爆そのものを「平和をもたらした威力」と把握し「原水爆反対、原子力の平和利用」を主張し続けた日本の非核運動の原爆・原発観の問題、(5)政党・労働組合に依存した日本的社会運動・平和運動の内部対立と、反原発運動の異質性・周辺性、を説いてきました。地震国メキシコの人々はおおむね熱心に共感してくれましたが、かの国にもどの国にも「原子力マフィア」はいます。フクシマでは死者がでなかったとか内部被曝の病理的影響は統計的に証明されていないとか、少人数でしたが「安全神話」を守る参加者がいて、失笑をかっていました。英文ですので、夏休みに詳しい日本語での論文・著作にします。体調が思わしくなく、今回はこの程度に。


「安全」抜きで原発再稼働?「『それでも原発は危険だ』と言い続けること」(森瀧市郎)

 2012.6. 23  ようやく帰国しましたが、本格更新は7月1日にします。2週間足らずのメキシコ・アメリカでしたが、帰りのワシントンDCからの飛行機が遅れ、首相官邸前に寄ることはできず。昨晩は4万人とか、日本の新聞もテレビもなく、ウェブだけで情報を見ていると、ちょうど52年前、1960年6月の安保闘争時のように、国会に再稼働反対の脱原発市民が続々集まっているようです。驚いたのは、消費税増税法案の3党合意の取引につかわれたらしい原子力基本法の改正、渡航前の下記更新でも危惧していましたが、野田・仙谷民主党は、あっさり自民党の原子力規制法案への「安全保障」追加を飲んで、ほとんど討論もなく「平和利用」どころか「軍事利用」に道を拓く改訂を行ったようです。1978年原子力基本法改正は、74年原子力船「むつ」放射能漏れ事故から4年後に「安全」を加える「改正」で、それゆえに原子力村は「安全神話」をでっち上げざるをえなくなったのですが、今回の3・11フクシマを踏まえた「安全保障」挿入は、1955年原子力基本法全体の性格を変える可能性を持つ「改悪」です。端的には科学者たちの「自主・民主・公開」3原則との妥協による55年法出発以前の、54年3月中曽根改進党原子力予算提案時に孕まれていた「いつかは日本も原爆を」の夢を法文化する、重大な変更です。韓国などの新聞が「日本は核武装するのか」と報じるのは、当然の反応です。フクシマの危機は、なお続いているのに。ナオミ・クラインのいう「ショック・ドクトリン」、どさくさまぎれの危機便乗資本主義の横暴を、許してはなりません。

 2012.6.17   まだメキシコです。ついに日本政府は原発再稼働決定、国会では原子力規制委員会法案が与野党大連合の消費税増税取引カードにも用いられて採択へ、とか。当然民意を問うべき重要決定です。世界は、フランスに続くギリシャ再選挙、エジプトも民主化後の新たな選択、当地メキシコも7月大統領選挙で、11月アメリカ大統領選、12月韓国大統領選まで、政権党の施政の可否を民意に問う国政選挙が目白押しです。民意と施政が離れたら、主権者国民の意向を確かめ尊重するのが民主主義です。日本の民主主義の危機の深化です。ようやくプエブラの遅い無線LANから、首都のホテルの有線ラン接続になりましたが、映像視聴は難しく不安定。その国で開かれるG20に。野田首相が入れ違いで到着予定。私の方は、アメリカに抜けてから、改めて更新します。


2012.6.1  政府は、どうやら関西電力大飯原発再稼働を強行する決意を固めたようです。先週、「全ての原発の終焉をめざして」の集会で、長く反原発運動を続けてこられた、たんぽぽ舎の皆さんや、経産省前で抗議のテント村を開き全国の反原発運動のネットワークを組織している皆さんにお会いしました。その「持続する意志(こころざし)」に、頭が下がります。日本の反原発運動は、何度も何度も、裏切られてきました。立地を狙われた地域で反対運動が盛り上がっても、政府や電力会社の「札束」の切り崩しにあい、弁護士や良心的科学者の支援を得て訴訟を起こしても、裁判所は「御用学者」の説を容れて「国策」を擁護し、チェルノブイリ事故後「広瀬ヘ現象」とよばれるまでに「安全神話」に肉薄しても、「左」の学者や政党から「反科学」と診断されて勢いをそらされ、その間に幾度も幾度も事故があったのに、原子力村はエネルギー不足や料金値上げや地球温暖化まで口実にして、情報隠蔽・ウソ・札束作戦を繰り返し、学校教育やタレントを使って「安全神話」を補強し、いつのまにやら世界でも第3位の原発大国になっていました。「安全神話」は、なぜかくも厚化粧して、2011年3月11日「フクシマ」を迎えたのでしょうか。再稼働で脱原発をあきらめ、日常に戻るのでは、また元の木阿弥です。「核と人類は共存できない」と生涯を反核に捧げたヒバクシャ森瀧市郎は、四国電力伊方原発訴訟で理を尽くして原告側が論証した「危険」が、松山地裁の「安全判決」で退けられ、米国スリーマイル島事故でおそれていた「危険」が現実のものとなった時、「伊方の人たちは『それでも原発は危険だ』と言い続けるだろう」と日記に記しました。そしてまた、ガンジーから学んだ「座り込み」という抗議行動を続けました。

 日本の原発導入史と平行して、反原爆・反原発運動史を見直している過程で、素朴に疑問を持ったことがあります。日本の「原子力の平和利用」は、もともと武谷三男らが言い出し、日本学術会議で長時間討議され、中曽根康弘の提案した原子力予算の暴走に、科学者たちの専門知識で歯止めをかけるための3条件「自主・民主・公開」を付して始められました。それにもとづき1955年末に原子力基本法が作られ、原子力委員会が組織され、実際に原発が動き出しました。事故がおこるたびに「3原則に戻れ」と言われてきました。吉岡斉さんの言葉を借りれば、「3原則蹂躙史観」からの原発批判です。確かに「自主・民主・公開」は、「軍事利用」=核兵器を許さず「平和利用」=原発を導入するさいの一つの基準にはなりえたでしょうが、中曽根予算と同時に、ビキニ水爆による第5福竜丸被曝事件がおこり、原水禁の国民運動が生まれる時期でした。なぜ当時の科学者たちは、「安全」を「原則」に入れなかったのでしょうか。「3原則」ではなく「4原則」であっても、よかったはずなのに。当時のことを調べると、どうやら原子力研究を始めたい科学者たちは、濃縮ウランを使い原子炉をつくる「研究・実験」開始の条件として「自主・民主・公開」を考えていたようです。もともと「安全Safety」など念頭になく、「実用化」「商業化」による経済成長のエネルギー源と位置づけ、心中いつかは核兵器をもちたい中曽根康弘正力松太郎が、「学者たちのほっぺたを札束でひっぱたいて」、一部の学者の反対も見越して、動かしてしまえば政治家と財界の思うまま、ということで出発したようです。原子力基本法に「安全」が入るのは、1978年、原子力船「むつ」の放射能漏れ事故の後の、法律一部改正のさいです。「安全神話」は、それから広がります。なぜ「安全」は「原則」にならなかったのでしょうか。問い直す必要がありそうです。あまつさえ、「安全Safety」ではなく「安全保障Security」という軍事的ニュアンスを、今回のフクシマを契機に原子力基本法改正に盛り込もうという、火事場泥棒的案も出てきています。

 原子力基本法の「安全」軽視は「札束=研究費」の誘惑に負けた自然科学者の責任が大きいでしょうが、社会科学・人文科学には、原発の「危険・リスク」の問題を学問の課題にせず、放置してきた責任があります。すでに占領期の労働基準法には「安全・衛生」原則が入っていたのですから。社会運動史研究でも、同じです。ビキニ水爆第五福龍丸被爆から原水禁運動の開始・展開については、政党系列の分裂を含む「反原爆」の歴史、「平和運動史」として、それなりの研究があります。しかし「反原発」運動の方は、「平和運動」としてさえ、認知されなかったようです。この間、法政大学大原社会問題研究所の『日本労働年鑑』を読んできました。毎年の社会運動や「革新」政党の動きが、大分類「労働運動」の中の「その他」の欄などで、資料も含め、詳しく紹介されているからです。するとどうも、「反原発」は、居座りが悪かったようです。すでに1955年版には「平和運動」欄があって、原水爆禁止運動は、基地闘争や青年・婦人運動などと共に、その中心に座り、毎年紹介されるのですが、「反原発」は、1970年代からです。1972年に「農民運動」の一部に三里塚など「土地取り上げ反対運動(反公害)」が入り、77年版に「農民運動」中の「軍事基地・公害反対その他のたたかい」に「東北電力女川原発反対運動」が入ります。80年にようやく「農民運動」ではなく、「公害反対闘争」の一部として「原発反対闘争」が独立します。85年版は「原発反対闘争その他の公害反対運動」ですから認知度は高まったんでしょうか、翌86年に「労働組合と平和・社会運動」のなかに「原水爆禁止運動」とならんで「反核・軍縮・平和運動」欄ができ、「反原発」は「反核」の一部となります。逆に言えば、「原水爆禁止」は「反核」から一時はずされたようです。87年から大分類が「労働組合と政治・社会運動」になり、その「社会運動」のなかに原水禁運動を含む「平和・社会運動」とならんで「反核・平和・反原発運動」が、「反基地・反戦運動」や「公害反対運動」と同等の位置につきます。88年には「原水禁・反核運動」と「反基地・反原発・平和運動」が並置され、89年にようやく「広瀬ヘ現象」が注目されて「反原発運動の活性化」が、「反核原水禁運動」や「反基地平和闘争」とも異なる、独自の運動と認められます。そして90年版で、「反核・原水禁運動」と「反原発運動」が同等の運動と認められ、「脱原発法」運動が紹介されます。 ただし21世紀に入っても、「反核」は「反核・原水禁運動」の方にあり、「反原発運動」は「反核」ではないかのような日本的扱いです。総じて「反原発」は「反原爆」とは異なる運動とされ、「土地取り上げ」や「公害反対」の住民運動ではあっても、「平和運動」の王道としての原水禁運動よりは軽く扱われ、一時的に「反核」の方に入りますが、「反核」が「原水禁運動」の方になると、「反核」とは別の「反原発運動」にされるという、ややこしい流れです。もちろん「原発労働の安全」は、視野の外でした。

  これらすべての起源が、「危険」は「原爆」に振り向けられて原水禁運動になり、「夢の原発」は「安全」と思い込んで「原子力の平和利用」が始まり、同時に出発しながら別々に展開してきた、1954−56年の出発点でのボタンのかけちがいにありそうです。極言すれば、「原水爆禁止=唯一の被爆国」と「平和利用=原発推進」が、ちょうど「二大政党制」とさわがれた「55年体制」(実際は自民党一党支配に社会党ほか野党が抵抗する1か2分の1政党制)と高度経済成長(まだ石炭・水力で60年代石油へ)のスタート地点から、コインの裏表のような「国策」になってきたようです。「安全」ぬきの3原則の入った「原子力の平和利用」=原子力基本法が、「政権交代」をかかげる日本社会党左右統一と保守合同=自由民主党の成立の直後に、「中曽根康弘君ほか421名」つまり二大政党の全議員連名の議員立法として成立し、翌年には共産党まで相乗りする「挙国一致」の「国策」として、原発は稼働を始めたわけです。「政権交代可能な二大政党制、与野党一致の成長エネルギー=原発稼働、蚊帳の外の反核運動」ーーいやな予感がしてきました。昨年10月早稲田大学20世紀メディア研究所公開研究会報告は、『東京新聞』10月25日「メディア観望」、『毎日新聞』11月2日「ことばの周辺」でもとりあげられ好評でしたが、本サイトでは「占領下日本の『原子力』イメージ ーーヒロシマからフクシマへの助走」のデータベースにしてあります。それをもとに書いた論文が、『インテリジェンス』誌第12号の加藤「占領下日本の情報宇宙と『原爆』『原子力』ーープランゲ文庫のもうひとつの読み方」(文生書院)に、その要約版が歴史学研究会編『震災・核災害の時代と歴史学』(青木書店)に「占領下日本の『原子力』イメージーー原爆と原発にあこがれた両義的心性」と題して、それぞれ発売になりました。本カレッジのもうひとつの原発データベース、12月同時代史学会年次大会報告日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのか」は、その応用編です。関心のある方は、ぜひどうぞ。来週からまた海外で、次回更新予定の15日はメキシコです。ラテンアメリカ・アジア研究学会の国際原発シンポジウム中で、ようやくホームページ更新用ソフトは使えるようになりましたが、学会はいつもの首都メキシコ・シティではなく、地方都市です。ハードとインフラの関係で、更新が遅れる可能性がありますので、その際はご了承ください。


「抵抗の心ゆるめじ あやまてる

核権力の ゆくてみつめて」(森瀧市郎)

2012.5.21  嬉しい予告。下記の更新でカザフスタンの反核運動の歌ザマナイ (時代)」を紹介したら、その日本語版を歌っている歌手のTOMOKOさんから、26日明大での「全ての原発の終焉をめざして」集会で、「ザマナイ」をボランティアで歌ってもいいという申し出があり、主催者とも相談して、4時からの第二部冒頭で、生で「ザマナイ」を歌っていただくことになりました。すでにたんぽぽ舎の案内などには出ているようですが、本サイトでも案内しておきます。世界のすべてのヒバクシャの苦悩を受け止め、日本が脱原発に踏み出せるように。

◇「全ての原発の終焉をめざして」講演会
 日時 5月26日(土) 午後1時開場、1時半から5時
 於 明治大学リバティタワー 1011教室

 【第一部】演題 反原爆と反原発の間  講師 加藤哲郎さん
 ヒロシマからフクシマヘ―原水禁運動と原発の同時出発・別展開 1)アジアへの戦争責任・加害者認識の欠如 2)経済成長の影で 3)沖縄の忘却 4)社会主義「平和勢力」への幻想 5)核戦争反対・核兵器廃絶と核エネルギー利用を使い分ける二枚舌の「平和」

 【第二部】反核兵器、脱原発活動のアピール 椎名千恵子さん(原発いらない福島の女たち) 渕上太郎さん(経産省テント村) たんぽぽ舎、他
 ◎カザフスタンの反核の歌「ザマナイ」の紹介 歌手TOMOKOさん
 主催 社会運動史研究会、現代史研究会
 問合わせ先 由井 格  090-7181-3291


 2012.5.15  「沖縄復帰40年」で、新聞やテレビの特集が組まれています。でも「サンフランシスコ講和独立60年」の方から見た方がわかりやすいのが、現在の日本。朝鮮戦争のさなか、「独立」の名で米軍直接占領下の沖縄・奄美を切り捨て、ようやく独立したの「だからこそ」と当時の科学者たちは「原子力の平和利用」を求め、「自主・民主・公開」3原則での日本経済自立=欧米へのキャッチアップを夢見ました。中曽根康弘正力松太郎がそこに目をつけて便乗し、日本における原発導入・商業化の道を拓きました。もう5年遡ると、日本国憲法65周年になります。中国新聞「ヒロシマ平和メディアセンター」には「フクシマとヒロシマ」 特集欄のほか、膨大な「ヒロシマの記録」ページがあります。1970年以後しかないように見えますが、「次へ」をクリックして遡ると、1945年8月以後の詳しいニュース記録がデータベースになっています。その1947年5月15日の記録。 アーネスト・ホープライトUP特派員が「スターズ・アンド・ストライプス(米軍星条旗紙)」に広島訪問記。「浜井広島市長は国連原子力管理委員会に出席し、原子力を平時に使用することの必要性を述べたいと語った。現在の広島にはアメリカに対する親しみを示すものが多くある。」 さらに遡ると、1946年7月2日に、木原広島市長がビキニの原爆実験で談話。「広島に対する原子爆弾が世界の平和を促進し、市民の犠牲がその幾百倍、幾十倍の世界人類を戦争の悲劇から救出することが出来た。ビキニ実験は広島の当時の惨状を改めて世界に訴える好機である。世界の同情は自ずから広島へ集まるであろう。平和をもたらした原子爆弾が破壊のためでなく、永遠の平和を確立し原子力が人類の幸福のために利用されることを念願する。」ーーこうした原爆・原子力観が、当時は支配的でした。

K 勝者=アメリカの方は、余裕がありました。「ヒロシマの記録」1946年8月4日に「ヒギンボタム米科学者連盟会長が原子力の未来語る。原爆攻撃こそが原子時代の幕開け。大衆は原子力を兵器としてしか考えていないが、2年もたてば原子力発電が実現し、5年もすれば原子力が巨船を動かす」と助言します ーー2011年3・11以後の日本は、1945年8月以降のこの国の「復興」の仕方と照らし合わせると、さらによく見えてきます。「第一の敗戦」時は、「原子力の平和利用」ならぬ「原爆の平和利用」の時代でした。いま「第二の敗戦」というべき東日本大震災・福島原発事故のもとで、野田首相は「サンフランシスコ講和独立60年」の日にあわせて訪米し、日米首脳会談で「動的防衛力の構築」「安全保障、エネルギー分野などで包括的な協力関係」を合意しました。「付属文書では日米が原子力協力委員会を設け、原発の廃炉や除染などで共同活動を進めると明記」したとのこと。沖縄の基地移転についても、原発再稼働についても、日本国民に対しては曖昧にしたまま、基本方向を、まずは米国に伺いを立てて決めています。いま、ホンモノの「平和国家」への、再出発の仕方が問われています。

K You tube から、ザマナイ (時代)」という音楽ビデオを入れました。一度 2009年8月NHKの「ノーモア・ヒバクシャ」という原爆記念日特集番組でうたわれたことがあります。旧ソ連の中央アジア、現在のカザフスタンの反核ヒバクシャ運動のなかで歌い継がれてきた歌です。うまれた場所は、カザフスタンのセミパラチンスク、1949年8月29日、旧ソ連で初めての原爆実験が行われたところです。ソ連の崩壊する1991 年の実験場閉鎖まで、459回の核実験が行われ、推定120万人のヒバクシャを産んだ、世界最大の核人体実験場です。占領下の原子力イメージ日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのかに続いて、「唯一の被爆国」と「核アレルギー」の神話を追いかけているのですが、「フクシマ」が新たに加わる「ヒバクシャ」の歴史と世界的広がりを調べていて、ザマナイ (時代)」に出会いました。映像でも見られますが、森住卓さんの写真をバックに、「心ない仕打ちよ ザマナイ ザマナイ ザマナイ  清き故郷はなぜ消えた  哀れなるわが大地  数え切れぬ爆発閃光に  引き裂かれたわが心よ 」と、TOMOKOさんの日本語版はうたいます。

K このほかに、NHK特集でも放映されたカザフの歌姫ローザ・リンバエバさんのカザフ語の歌に、「優しき心を欲する この時代 ザマナイ ザマナイ 悲しいかな清らかな故郷は汚された あわれなりわが祖国 奪われ苦しめられた かつての自由は奪われ 悲しみに代わった 大地は核の閃光に 目を開けられないだろう」というアケルケ・スルタノバさんの訳詞もあります。アケルケさんは、「ザマナイ」の日本への紹介者、実は私の一橋大学時代のゼミ生です。YOKOさんのon this Blue Planetは、「癌、白血病、心臓病...他にも様々な病気や障害児出生率の増加、若年での死亡率の増加、そして自殺率の増加。ペレストロイカを機にカザフスタン全土で200万人が抗議運動に参加。「ザマナイ」はこの運動と共に歌われ、多くの人々に勇気を与えた。1989年、セミパラチンスク核実験場を閉鎖させることに成功したが、周辺住民の苦しみは今日も続いている。人類は、核と共存することはできない」と紹介しています。ヒロシマ・ナガサキでも、ヒバクシャは、当初「被災者」「原爆病」「障害者」とよばれ、差別されました。今こそ私たちは、世界のヒバクシャに学ぶ必要があります。

 旧ソ連では、チェルノブイリのほかにも、いくつもの核実験・原発事故がありました。いや1949年のセミパラチンスク核実験以来の封印された放射能拡散・人体実験のデータがあったからこそ、軍主導で住民の強制移住ができたのでしょう。ヒロシマもセミパラチンスクも、チェルノブイリもフクシマも、「その日のあとで」ヒバクシャが生まれ、長期の深刻な放射能汚染にさらされ、とりわけこどもたちが苦しむのは、同じなのです。核の問題性には、「軍事」利用も「平和」利用もありません。人類による統御が困難な破壊力と核分裂生成物を産み、ただ「戦時」利用と「平時」利用の使い分けがあると考える方が、20世紀後半以降の世界史が、よく見えてきます。「原水爆時代」と「原子力時代」は異なるとして、後者に希望を託し前者の核兵器に反対したのが、武谷三男以来の日本の平和運動でしたが、それは「核時代」のコインの片側だけでした。「ヒロシマからフクシマへ」を理解するには、それとは別の、原理的思考を必要とするようです。

か こんなことを、来る5月26日(土)午後1時30分−5時、明治大学リバティータワー1101号室、社会運動史研究会・現代史研究会主催「全ての原発の終焉をめざして」で、「反原爆と反原発の間ーー日本マルクス主義からなぜ高木仁三郎、小出裕章は生まれなかったのか」という講演にして話します。後援・協賛団体には、ちきゅう座のほか、変革のアソシエ・九条改憲阻止の会・ルネサンス研究所も加わったようです。占領下の原子力イメージ日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのかに続く第3弾ですから、今度は森瀧市郎池山重朗水戸巌久米三四郎高木仁三郎、そして今日の小出裕章さんにつながる「反原発」思想・運動史の方を主にとりあげ、武谷三男・徳田球一・日本共産党の系譜は従の反面教師とします。5月26日は、歴史学研究会大会や、明治大学に近い日本教育会館での「さようなら原発」講演会なども開かれます。私の講演会は、「人類は核と共存できない」の学習会風になります。歴研大会に合わせて、講演「占領下の原子力イメージ」を活字化した論文が、歴史学研究会編『東日本大震災・原発事故と歴史学』(青木書店)に収録され公刊されます。『インテリジェンス』第12号「占領下日本の情報宇宙と『原爆』『原子力』――プランゲ文庫のもうひとつの読み方」の短縮版です。「国際歴史探偵の方では、かつての CIA:緒方竹虎を通じ政治工作 50年代の米公文書分析を拡張して、共同研究者の吉田則昭さんが『緒方竹虎とCIA― アメリカ公文書が語る保守政治家の実像』(平凡社新書)として公刊します。 産経新聞5月11 日のスクープ報道「独に流れた…ソ連対日参戦のヤルタ密約情報 「小野寺電」に有力証拠」には、資料を提供し、コメントしておきました。消費税増税に「いのちをかける」野田首相、「「津波で電源喪失」認識 海外の実例知りつつ放置 06年に保安院と東電 福島第1原発」が今頃になって明るみになりながら大飯原発再稼働へと走る政治家と官僚。この国の政治は、海図を持たないまま、漂流中です。


 2012.5.7  ついに地震大国日本の50基の原発は、すべて停止しました。日本の原子力発電の黎明期から、実に42年ぶりのことです。政府と電力会社の「安全神話」「エネルギー神話」は信用を失い、広がる放射能汚染のもとでの脱原発世論の動きを、無視できなかったのでしょう。あの残された原発大国フランスでも、サルコジ現大統領の原発推進策は支持されず、「減原発」をかかげた社会党オランド大統領が誕生、「グローバル原子力村」は、いよいよ発展途上国にシフトせずには、生き残れなくなってきました。ニューヨークの教会で、小出裕章さんが、すばらしい講演を行い、記者会見をしています。まだまだ油断はできませんが、国際世論も、野田内閣・原子力村の再稼働策動を包囲しつつあります。連休中に新しいホームページ作成ソフトの概要をようやくマスター、しばらく休んでいた写真やyou tubeのリンクを入れて、ちょっぴり ヴァージョンアップ。最後に止まった北海道泊原発の地元、「学術論文データベ ース」に札幌学院大学佐々木洋教授から送られてきた詳細な原発史年表、佐々木洋「日本人はなぜ、地震常襲列島の海辺に『原発銀座』を設営したか?ーー3.11フクシマ原発震災に至る原子力開発の内外略史試作年表」を「資料と解説」と共にアップ。ロシアの歴史学と生物学のメドヴェージェフ兄弟と交流する佐々木教授の自家製にふさわしく、要所要所に鋭い分析が含まれています。『札幌学院大学経済論集』第4号(2012年3月)に発表されたものですが、年表各項目の典拠を入れたファイルを「学術論文データベ ース」用に送っていただきました。私の占領下の原子力イメージ日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのかを見る際にも、ぜひ座右にどうぞ。


 昨年10月早稲田大学20世紀メディア研究所公開研究会報告

「精神的原子の連鎖反応が、物質的原子の連鎖反応に勝たねばならぬ!」(森瀧市郎)

5月1日  5月5日に北海道電力泊原発3号機が停止すると、日本は「原発ゼロ」状態になります。しかし野田内閣は、なおも関西電力大飯原発3・4号機を突破口に再稼働を狙っており、安心はできません。この1週間も大きな地震が続き、日本原子力発電敦賀原発の直下に活断層が見つかりました。地震学者からは、大飯原発ほか多くの原発のそばに連動活断層の疑いが指摘されています。世界一の地震大国日本が、いつ脱原発に踏み切れるのかを、世界が注目しています。前回更新で、原発再稼働を決めた関係4閣僚会議の完全議事録公開を求めたら、なんと議事録を作っていないという驚きの答えを、官房長官が涼しげに語っていました。まったくあきれた「先進国」です。あのソビエト・ロシアでさえ、政治局やクレムリン頂点の政策決定の記録を残していました。今日から見れば荒唐無稽な、えん罪での政治犯粛清裁判や強制収容所の労働記録も、生真面目に記録され、保存してありました。日本の戦時記録の多くが敗戦時に焼却されたり私蔵され拡散されたことにより、日本の現代史研究者は、世界の公文書館・資料館に、残された記録を、探しに行かねばなりません。それがまた、第2の敗戦ともいうべき2011年3月11日についても、繰り返されそうです。権力を私物化する指導者たちの責任逃れ、「無責任の体系」のなせるわざです。もっとも原発再稼働への実質的決定は、4相会議メンバーの枝野・細野氏に、仙谷政調会長代行・古川元久国家戦略相、斉藤勁官房副長官を加えた「チーム仙谷」5人組にあったようですから、そちらの記録・議事録も、公開してほしいものです。内閣支持率はついに20%台前半に、再稼働反対世論は6−7割、それでも野田内閣の大飯原発正面突破姿勢は、変わっていません。まだまだ要注意です。

 4月28日、野田首相が、労働組合「連合」の中央メーデーに招待され、消費税増税を「何としても実現」する決意を述べたそうです。奇妙な光景です。主催者発表3万5千人参加の働く人々の祭典に、働く人々の生活を直撃する増税を首相が堂々と語りかけ、すでに大きな被害・失業と不安・不信をもたらしている福島原発事故と焦眉の再稼働問題には、触れないのですから。そういえば、民主党内で野田首相の消費税増税に反対する小沢一郎元代表からも、法的無罪をかちとり政治的復権を狙っているのに、東北岩手が出身選挙区なのに、震災復興・原発についての政策提言は、聞こえてきません。日本政治の倒錯です。もともとメーデーは、世界的に5月1日に行われてきた労働者の統一行動日。古代ローマの五月祭にまで遡ることもできますが、1886年にシカゴの労働者が8時間労働要求のストライキを打ち、1889年の第2インターナショナル創立大会で世界の労働者の国際連帯の日に決定しました。20世紀の世界では、産業労働者階級が主人公になる、社会主義・共産主義の示威の日ともなりました。日本でも、1905年以降、さまざまな示威が試みられますが、本格的始まりは1920年、8時間労働日を求めた友愛会の上野公園集会で、1万人が集ったといいます。労働組合が合法化された1946年以降に大きくなり、46年は東京皇居前広場に50万人、全国100万人が参加しました。今年の4月28日の連合中央メーデーに3万5千人、5月1日の全労連メーデーに2万人のほか、全労協も別集会と分裂している今日からみると、隔世の感です。日本の戦後民主主義の息吹は、戦闘的労働組合運動と一体でした。

1952年のメーデーが、朝鮮戦争のさなか、デモ隊と警察の衝突するいわゆる「血のメーデー」になったことは、よく知られています。法政大学大原社会問題研究所HPの『日本労働年鑑』で調べると、翌1953年も「再軍備反対、中立堅持、朝鮮戦争を止めろ」「日本のファッショ化反対、平和憲法と民主主義を守れ」「統一闘争で最低8000円を闘いとれ」を掲げて、第24回中央メーデー(神宮外苑)50万人、全国200万人以上の参加で、すぐに復活しています。54年第25回も「MSA再軍備反対、平和憲法を守れ」「ファッショ勢力の排除、自由と民主主義を守れ」「賃金引上げ、重税反対、最低賃金制を守れ」の統一スローガンで、神宮外苑50万人です。55年第26回の東京は雨でしたが、やはり神宮外苑40万人、「労働者の団結で自由と平和・生活と権利を守れ」「失業・低賃金・重税反対、社会保障と最低賃金の獲得」「平和憲法擁護、すべての国の原水爆反対、民族の完全独立を闘いとれ」「労働戦線の団結強化、社会党の合同促進」と意気盛んです。当時のメーデーは、日本労働組合総評議会(総評)が指導し、全国的求心力を持っていました。

 実は、そのメーデーの第27回、1956年5月1日神宮外苑50万人の中央集会のスローガンに、「全労働者の団結で賃金引上げ、最低賃金法の制定、労働時間を短縮しよう」「憲法改悪阻止、お手盛り小選挙区粉砕、すべての国の原水爆反対、原子力の平和利用の促進」「社会保険の改悪阻止、首切り重税反対、労働基本権を守れ」と、「原子力の平和利用」が初めてかかげられました。ただし昨年来本HPで掲げてきたように、1945年8月の広島・長崎原爆直後から、日本では原子力の威力への恐怖と畏敬のアンビバレント(両義的)な心性があり、仁科芳雄・武谷三男ら科学者たちの解説も、新聞・雑誌の論調でも、「原子力の平和利用」が語られていました。「占領下の原子力イメージ」で述べた詳細は、加藤「占領下日本の情報宇宙と『原爆』『原子力』――プランゲ文庫のもうひとつの読み方」という論文として、20世紀メディア研究所の雑誌『インテリジェンス』第12号に掲載されました。労働組合や日本共産党も、特に1949年のソ連の原爆実験成功以降、「社会主義のもとでの原子力の平和利用」の夢を語ってきたことは、昨年末同時代史学会報告「日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのか」で述べました。これらの延長で、来る5月26日(土)午後1時30分−5時、明治大学リバティータワー1101号室で開かれる、社会運動史研究会・現代史研究会主催、ちきゅう座後援「全ての原発の終焉をめざして」で、「反原爆と反原発の間ーー日本マルクス主義からなぜ高木仁三郎、小出裕章は生まれなかったのか」という講演を行うため、その準備の過程で、56年メーデー・スローガン「原子力の平和利用」を見つけました。 

この1956年総評のメーデー・スローガンは、前年「六全協」で朝鮮戦争期の分裂・非合法活動から立ち直り、再建されたばかりの、日本共産党をとらえました。もともと占領期の共産党は、武谷三男の「原子力時代」論の影響下に、「原子力の平和利用」の急先鋒でした。徳田球一書記長は、1949年末に「なぜ資本主義社会では原子力を平和的につかえないか、なぜソ同盟では平和的に使えるのか」と明快に述べていました。徳田書記長の北京での客死後も、宮本顕治・野坂参三らの指導部は、ソ連の原水爆実験と原子力発電を「社会主義・平和勢力の勝利」「帝国主義への抑止力」と誇ることこそあれ、批判することはありませんでした。1954年のビキニ水爆実験・第5福竜丸被曝で放射能の恐ろしさが再認識され、原水爆禁止運動が国民的盛り上がりを見せると、そこに食い入ろうとしました。中曽根康弘らの原子力予算が国会で通過し、正力松太郎らのAtoms for Peace キャンペーンを背景に「自主・民主・公開」をうたった原子力基本法ができると、当初は保守勢力主導の法案と早期の商業化に反対していたのに、「平和利用」の合唱に加わります。同党機関誌『前衛』1956年7月号の永田博「原子力問題について」という(筆名の)論文がそれで、労働者がメーデーで「原子力の平和利用」をとりあげたのは「ソ同盟における原子力の平和利用の飛躍的発展」を背景とした「国際的たたかいの成果」であり、労働者階級の「積極的意志」だから、「頭から拒否、反対の態度だけをとる」ことは「国民の力の軽視」になる、とさとしました。「原子兵器禁止を要求する国民の力こそ、本来原子力平和利用を保証する力」と、「軍事利用」と「平和利用」を対置します。

 ちょうど広島では、前年米国からの広島原子力発電所建設案は断ったものの、5−6月に原爆資料館で「原子力平和利用博覧会」が開かれたばかりでした。8月6日の平和記念式典で、渡辺広島市長は「原子力の解放が一方において人類に無限に豊かな生活を約束する反面、その恐るべき破壊力は人類の存続を根本からおびやかしている」と述べ、同時に開かれた第2回原水爆禁止世界大会には「原子力の平和利用」分科会が設けられ、大会決議にも盛り込まれます。その直後、1956年8月10日に、長く国内でも差別を受け、十分な治療からも国家補償からも見放されてきた広島・長崎の被爆者たちが、ようやく一つになって、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が結成されました。その結成宣言には、「私たちは今日ここに声を合わせて高らかに全世界に訴えます。人類は私たちの犠牲と苦難をまたふたたび繰り返してはなりません。破壊と死滅の方向に行くおそれのある原子力を決定的に人類の幸福と繁栄との方向に向わせるということこそが、私たちの生きる限りの唯一の願いであります」とうたわれ、「私たちは、遂に集まることができた今日のこの集まりの熱力の中で、何か『復活』ともいうべき気持ちを感じています。私たちの受難と復活が新しい原子力時代に人類の生命と幸福を守るとりでとして役立ちますならば、私たちは心から『生きていてよかった』とよろこぶことができるでしょう」と宣言されます。この宣言の起草者こそ、後に「核と人類は共存できない」という見地から、反原爆ばかりでなく反原発の先頭に立つ、被爆者森瀧市郎でした。後に、「草案を書いたのは私自身だった」「あれだけ悲惨な体験をした私たち広島、長崎の被爆生存者さえも、あれほど恐るべき力が、もし平和的に利用されるとしたら、どんなにすばらしい未来が開かれることだろうかと、いまから思えば穴にはいりたいほど恥ずかしい空想を抱いていた」と告白します(「核絶対否定への歩み」)。

 width=日本の反核運動は、「反原爆」の平和運動が「原子力の平和利用」=原子力発電の増殖と平行して進み、「反原発」の方は、当初は立地候補地の農漁民運動・裁判闘争として、後に反公害・環境保護の市民運動として展開し、交わることは稀でした。そのごく稀な接点で、1970年代以降、警告を発し続けたのが、もともと英国倫理学の哲学者であった、故森瀧市郎でした。その遺著『反核30年』(日本評論社刊)、『ヒロシマ40年―ー森瀧日記の証言』(中国新聞社刊)、追悼集『人類は生きねばならぬーー森瀧市郎の歩み』(刊行会)などは、3・11を経ても何らふるくはなく、いや、福島原発の悲劇を経た今こそ、強く胸を打ちます。ガンジーから学んだ「祈りと抗議の座りこみ」という森瀧市郎の抵抗の方法は、いま経済産業省前テントひろば等で、多くの人々に受け継がれています。バートランド・ラッセルをはじめとした世界の反核活動家、ヒバクシャと結んでいた森瀧市郎は、「座りこみ」の有効性についてのある少女の問いに答えて、その決意を、日本語と英語の言葉にしました。「精神的原子の連鎖反応が、物質的原子の連鎖反応に勝たねばならぬ Chain reaction of spiritual atoms must overcome Chain reaction of material atoms」ーーいま日本の政治に必要とされているのは、3・11を忘れず、脱原発に踏み込む、心と声と行動の連鎖です。


 

原発再稼動へと暴走する政府と原子力村、関係閣僚会議の完全議事録公開を!

2012.4.15   国会の党首討論で、この国の基本問題が論じられていません。消費税や年金・医療が問題にされても、現に放射能に汚染され故郷に帰れるかどうかもわからない福島県民のいのち、いまなお「収束」どころか高放射線と高濃度汚染水のなかで働き続ける東電福島原発下請け労働者のいのち、地震・津波で被災し復興も補償もとどこおったままの被災者の生活、がれき処理や農業・漁業再開の困難、ミルクや食品をこどもたちにどう与えるべきかと悩む親たち、全国に離散した故郷を奪われた人々のくらし、それらのすべてがおきざりにされたまま、福井県大飯原発の再稼働がはかられています。事故の原因が地震か津波か、設計上のミスの可能性や運転体制の問題、事故後の対応を含む安全・保安体制の問題等が何ら解明されないまま、しゃにむに原発再稼働を急ぐ勢力があり、その勢力が、政治家、官僚、財界のなかで権力を握り、マスコミや学会にも影響力を持っているために、国民の過半数が脱原発を求めているもとで、いのちとくらしと日本の未来を左右しかねない、重大な決定がなされようとしています。

 異常です。異様です。福島原発事故への政府の事故調査委員会も、国会の事故調査委員会も結論を出す前に、新たな原子力安全委員会も原子力規制機関も発足する以前に、再稼働が急がれています。ほとんど毎週大きな地震があり、地震と津波についての新たな知見で、南海トラフ地震や東海・東南海・南海3連動地震、北海道でも大飯原発周辺でも新たな活断層が見つかり、東京でも大阪でも直下型大地震による巨大被害がありうるという予測が出された矢先に、メキシコやインドネシアの大地震で地球的規模での不安が高まってきている時に、旧態依然の「安全基準」なるものが、にわかに作られました。それも当初の大飯原発用「暫定基準」から、全原発再稼働の「安全基準」標準に格上げされ、2週間足らずで書類上の数字あわせが進められ、「安全性」も「必要性」も確認できたというのです。関西電力はあっという間に「工程表」を作り、防潮堤も免震事務棟もベントのフィルターも「計画」をたてただけでパス。3年以内に大地震や大津波がくる可能性を、政治家が、どのようにして否定し安全を保証できるのでしょうか。「必要性」の根拠となる電力不足なる数字は、関西電力の提出史料を経産省安全保安院が確認するという、かつて「安全神話」を演出してきた原子力村のもたれあい・やらせ構造のままの作文です。揚水発電も他電力会社からの融通も、実は年間数十時間にすぎないピーク時への特別対応も、考え抜かれていません。

 決めたのは、民主党内閣の4人の関係閣僚、野田総理と藤村官房長官、枝野経済産業相、細野原発事故担当・環境相です。そこで、わずか11日間に6回の会議で、あれよあれよと大飯原発再稼働が決まり、直後に経産相が福井県知事と大飯町に要請に出かけました。まともな討論がない「政治判断」なことは明らかです。後世のために、4相会議の正確で詳細な議事録を公開させる必要があります。3・11直後の日本政府中枢での公式議事録不在の国際的お粗末を挽回するためにも。この4人の会議参加者が、将来歴史により判定されるだろう再稼働決定の責任者です。ただし、どうやらシナリオライターは、別のところにいるようです。ほぼ毎日開かれた4相会議には、見慣れた政治家がいつも陪席していました。仙谷前官房長官・民主党政調会長代行です。原発報道では出色の『東京新聞』が、例によって詳しく解明してくれました。4相会議決定の裏の立案者は、4相会議メンバーの枝野・細野氏に仙谷政調会長代行・古川元久国家戦略相、斉藤勁官房副長官を加えた5人組で、「チーム仙谷」とよばれ、昨年7月から再稼働の機をうかがってきた確信犯たちです。東電新会長人事にもからんでおり、背後に前原政調会長が透けてみえてきます。

 そして案の定、4相会議のお済み付けを受けて枝野経産省が福井県知事を訪問すると、仙谷政調会長代行が福井県民主党の締め付けに出かけ、前原政調会長は民主党内の批判者を抑え込み再稼働の必要を公言し始めました。「政治判断」の主役たちの一斉出動です。背後に経産省と財務省幹部がいるのは見え見えです。財界総本山経団連米倉会長への忠誠メッセージでもあります。でもそれは、3・11前に「安全神話」を広め原発利権で膨らんできたいわゆる原子力村の、悪あがきかもしれません。民主党内にも多数の反対派・慎重論があります。官僚制のなかにも、いるかもしれません。財界内部の亀裂は、『世界』5月号川口雅浩「揺れる経団連」が詳しく論じています。立地都道府県知事や市町村のなかでも、はっきり脱原発を唱える主張が広がっています。マスコミにも推進派科学者のなかでも、4相会議の前のめりは「拙劣」と映っています。かつて一枚岩を誇った原子力村にも、多くのほころびが生まれています。無論、それは、国民世論の動きをみてのものです。5月5日の北海道電力泊原発3号機の定期点検入りまでに大飯原発再稼働ができなければ、原発ゼロ稼働状態が生まれます。それは枝野経産相の「要請」に福井県知事が世論の風向きを見て「保留」回答したことから、現実性を持ってきました。枝野流二枚舌は、それを「一瞬」にすべく、まだまだ揺れながら続きそうです。

 仕掛け人の仙谷政調会長代行は、再稼働を「脱原発依存」へのプロセスとして、説明し始めました。「安全対策が取られており、東京電力福島第1原発を襲った津波が来ても炉心損傷にはならない」などと、御用学者並みの技術的詭弁も使い始めました。原子力村中枢は、焦っています。役者はそれほど名優ではなく、時々セリフを間違えます。私たちは、下手な芝居の観客になるよりも、自分たちで舞台を作って、脱原発世論構築の大道を歩むべきでしょう。原理的に、ウラン採掘から事故収束・廃炉にいたる労働者被曝の危険を除去できるか、「トイレなきマンション」の最終廃棄物問題は解決可能なのか、すでに膨大に蓄積された使用済み燃料・プルトニウムをどうするのか、イランや北朝鮮の「核疑惑」からも垣間見える、核兵器保有願望と原子力発電の関係は日本では歴史的にどうだったのか、と。考えてみましょう。大江健三郎流に「倫理」の問題として。森滝市郎にならって「核と人類は共存できるのか」と問いかけて。4月21日(土)午後3−6時、早稲田大学16号館820号室で、第12回桑野塾「日本のソルジェニツィンーー勝野金政の生涯」を講演します。勝野金政長女稲田明子さんの「父・勝野金政のラーゲリ記憶検証の旅」の前座です

 


事故の真相究明なしでの原発再稼動を許さず、世界の厳しい眼に耐えうる新生日本の構想を

2012.4.1  アメリカ西海岸から東にまわって、ワシントンDCで満開の桜の散りぎわを眺めつつ、帰国しました。まだ時差ボケ気味ですが、新しいハードと慣れないソフトで、とりあえず1か月ぶりの更新です。日本政治は、ピントがはずれています。3・11一周年は世界でもそれなりに報じられ、東日本大震災・大津波の爪痕が残り復興が遅れていること、「収束」にはほど遠い福島原発のメルトスルー状況と放射能汚染の陸海空への広がりは広く知られましたが、今の首相がなんと言う名前のどんな人物で、どんな政党がどのように政権を動かしているかについては、ほとんど関心をもたれていません。米国オバマ大統領主導の「核なき世界」への主要国サミットにも、直近のソウル開催なのに他国首脳より遅れて出席し、かつての「唯一の被爆国」が「最大の放射性物質拡散国」になりつつあるのに、その弁明も教訓も「握手・立ち話外交」程度でしか伝えられずすぐ帰国。何とも存在感がありません。かつて「持続可能な開発」への1992年国連地球環境サミット発足時は、日本は「経済一流、政治は三流」で、やはり内政が理由で出席できなかった当時の宮沢首相の不在がそれなりに問題になりましたが、いまやアジアには「経済も政治も一流」になった中国があって、米国と世界秩序を競い合っていますから、核サミットでの日本の沈黙はほとんど話題にもならず。円高・財政再建・消費税引上げも、ヨーロッパ金融危機の重大性に比すれば、ドメスティックな「コップの中の嵐」扱いです。私の昔の著書『ジャパメリカJapamericaの時代に』(花伝社、1988年)との対比でいえば、「チャイメリカ(Chimerica)の時代」の到来です。無論それは、「資本主義対社会主義」ではありません。資本主義世界システム内での覇権争いです。

  どうして、こんな風になったのでしょう。3・11への政権の初発の対応の失敗と無策、「原子力村」の頑迷な抵抗と脱原発社会運動の国際的に見た立ちおくれがあるのは否めませんが、おそらくもっと深刻な、地震大国日本の近代化の歩み全体が、問われていると考えるべきでしょう。米国への旅の往復では、iPadに入れた森滝市郎日記と故高木仁三郎『いま自然をどう見るか』(白水社)に感銘を受け、成田龍一さんの新著『近現代日本史と歴史学』(中公新書)が頭の体操になりました。英語では、ニューヨークの古本屋で見つけたJohn Hersey, HIROSHIMA,1946とHoward Zinnの遺著The Bomb, 2010に考えさせられました。前者ハーシーの『ヒロシマ』は、法政大学出版局から新訳も出ていますから紹介するまでもないでしょう。第二次世界大戦終了直後のアメリカでのベストセラーです。古本屋でも、65年前の原著からVintageペーパーバック版まで何冊も並んでいました。後者、2010 年に没したハワード・ジンの『爆撃』は、岩波ブックレットに邦訳が入っているということで、いま取り寄せ中です。ハーシーはルポルタージュの手法で、ジンは民衆の歴史学の立場から、1945年8月6日の広島原爆投下が、アメリカのみならず人類にとって、本当に必要であったのかを問いかけるものです。そして、米国トルーマン政権や軍産複合体から「原爆ヒステリー」と攻撃された、ハーシーの本やメソジスト教会の「ノーモア・ヒロシマズ」運動こそが、日本の戦後原水禁運動や反核平和運動の源流ともいうべきものであり、その後の世界的規模での核エネルギーをめぐる情報戦の原型を作ったのではないか、という印象を受けました。成田龍一さんの近代日本解釈史からヒントを得るとすれば、原爆と原発はワンセットで20世紀以降の世界史の基軸を成してきたという、新しい世界史解釈が必要になるでしょう。

  もちろん下に一部を再録する3・11一周年の世界の日本報道のなかでは、日本の反原発運動も、ドイツやフランスのフクシマに刺激された大きな反核行動と共に、紹介されていました。ただしアメリカの新聞・テレビ報道では小さく断片的で、日本のマスコミでも相変わらず無視されたらしく、ウェブ上から主体的に探さないと、全容はつかめませんでした。大統領選を控えたアメリカでは、かのOccupy Wall Street(OWS)運動が、ニューヨークでは弾圧され追い込まれていましたが、西海岸の大学キャンパスやワシントンのホワイトハウス近くの公園のテント村では「99パーセントの声」を掲げて、持続していました。ニューヨークの発祥地・根拠地であった Zuccotti Parkが、9・11の世界貿易センター跡地のすぐそばで、しかしOWSは9・11にはほとんど触れず、反対側のWall Street金融街に向けて声を挙げデモをしたと聞いて、考えさせられました。社会運動とナショナリズムは、かつてコミンテルン型共産主義運動が楽観したようには一つにならず、中東のファイスブック革命も、中国や日本ではずいぶん違った様相を持って現れるのだろうと。アメリカのOWSと、日本の原発再稼働反対・放射能汚染からこどもたちを守る運動は、どこでどうつながるのだろうかと。日本を報じる映像メディアでは、英国BBC: Inside the MeltdownおよびChildren of Tsunami、ドイツZDF「フクシマのウソ」が、ジャーナリズム本来の姿を示し、強烈でした。帰国後手にした日本語刊行物では、東京新聞原発事故取材班『レベル7』(幻冬舎)が秀逸です。ウェブで探求すれば、日本にもまだジャーナリズムの精神は、残されているでしょう。60年前の「白鳥事件」の真相を探る講演会の予告が「ちきゅう座」ホームページに出ています。4月14日午後1時、明治大学リバティータワー・1013教室とのこと。米軍占領と朝鮮戦争を背景に、真実探求が長く曖昧にされてきた、札幌での警官射殺事件の解明です。福島原発事故は、世界史的な巨大犯罪です。その真相究明と責任追及を、うやむやにしてはなりません。今すぐ、取りかからなければなりません。本サイトは、新学期も、歴史の真実を微力ながら探求し続けます。

原発再稼動を許さぬ、まっとうな世論構築へ

 

2012.3.11  現在アメリカ西海岸ロスアンゼルス滞在中です。まだウェブ更新の環境は整いませんが、東日本大震災・津波・福島原発事故の一周年ですので、古典的なhtml言語とFetchのみを使って、一言。こちらはまだ3月10日ですが、CNNは、日本の3・11追悼式典の首相・天皇悼辞のライブ映像を含め2時間の特集番組を組み、当地のゴールデンアワーに大きく報じています。昨日までは、福島原発の「冷温停止状態」などまやかしで制御できておらず、石巻や陸前高田の復興が進まない状況を、スポットニュースで報じていましたが、今日は、包括的に日本の現状を詳しく報じ、家族を失ったこどもたちのその後、暑さにも寒さにも弱かった非人間的な仮設住宅、放射能汚染の広がりと母親たちの不安、復興景気に湧く仙台市と取り残された石巻や気仙沼、福島原発事故現場に専門のエンジニアはおらず下請け労働者がお金のために危険な被爆作業に従事していること、無責任な東京電力の対応など、日本のマスコミではなかなか報じられない映像・証言を交えて、報道しています。肝心の原発再稼働については、もうすぐ現在稼働中の2機も定期検査に入ってすべてが止まり、国の方針が不確定なので地元の了解は難しいだろうという程度ですが、今日全国で行われているはずの脱原発行動については、まだ具体的報道がありません。この数日なら、たぶん日本のマスコミよりは、大きく報じてくれるでしょう。今日は日本だけではなく、当地ロスアンゼルスやニューヨークでも、オーストラリアでも、ドイツやオランダでも、追悼・支援・脱原発の集会があるとのことですから。世界は、ここ数日の日本の動きを、あの地震・津波大国でなお原発にしがみつくのかどうかを、注意深く見ています。


2012.3.1  (おわびとご注意) HP更新用パソコン及びソフトの不具合で、しばらく更新できません。前回の「日本人の核アレルギー」神話が戦後米国製「核ヒステリー」を起源とする探求に続いて、これとは対照的に、「唯一の被爆国」が地理的・社会科学的には誤りでも、1950年代に日本で創られ原水禁運動を導いた民衆的「神話」であることをつきとめ、3・11一周年に向けた長い分析を準備していたのですが、パソコンごと壊れてしまいました。被災地・被爆地への政治の役割をはじめ、語るべきことはたくさんあるのですが、今回はタイトル画面にいくつか映像・音楽を追加し、3・11郡山での脱原発大集会ほか全国での集会・行動への皆様の参加を訴えるのみにとどめ、以下、前回更新をそのまま掲載しておきます。リピーターの皆様にはご迷惑かけますが、3月いっぱいはアメリカ滞在でIT環境は不安定ですので、次回4月1日更新までお待ち下さい。


2012.2.15.  野田内閣の支持率低下が止まりません。読売新聞調査が典型的ですが、支持を減らし、不支持が増え続けています。読売ではなお30%の危険水域ぎりぎりですが、朝日放送ANNは27%フジ/産経では26、4%と3割を切っています。なぜかNHKだけは31%1ポイント挽回と出てますが。重要なのは、与党民主党と最大野党自民党の支持率を加えても4割に達しない既成政党離れ、政党支持なし層が5割を越えて、政治そのものへの不信を示しています。それもそのはず、「冷温停止状態」なる新語まで作っての福島原発「収束」宣言は、破たんしました。原子炉の内部がどうなっているかは何もわからず、温度さえまともに測れない状態で、住民を戻していいのでしょうか。事故の原因もはっきりしないままで、「ストレステスト」なる安易な評価で、原発再稼動の準備がすすめられています。普天間基地返還/海兵隊再編とセットだったはずの米軍基地名護移転は、沖縄県民の強い反対のみならず、米国のアジア戦略の都合による海兵隊再配置先行で、日米合意そのものが怪しい雲行きに。世界の焦点であるヨーロッパ金融危機や中東危機に、日本はなんらの役割も果たせないまま、円高・貿易赤字が続き、GDPもマイナスに。そんな政治経済の閉塞の間隙をぬって、憲法改正による「維新」を唱える新興勢力の台頭も。リーマン・ショックから3年たった世界が、1929年世界恐慌後3年目の世界とダブってくる憂鬱が、杞憂であればいいのですが。

 希望は、「維新の会」とは、別の方向にあります。相変わらず大手マスコミは無視するか小さな扱いでしたが、2月11日、東京代々木公園で、さようなら原発1000万人アクションの集会・デモがあり、1万2000人の市民が参加しました。1か月後の3・11一周年に向けて、福島での「放射能からいのちを守る全国サミット」400名/「反貧困フェスタ in ふくしま」330人ほか、全国で同様の脱原発集会・示威がもたれました。実は3月は昨年同様海外滞在になるので、久しぶりで代々木公園に出かけました。あふれるばかりの人と旗と「原発再稼動を許すな」のプラカード・シュプレヒコールで、元気づけられました。集会での大江健三郎さん、澤地久枝さん、山本太郎さん、落合恵子さん、それに福島現地からかけつけた市民の発言は、ユーチューブの動画で見ることができます。感心したのは、中学3年だという藤波心さんの話、アイドルタレントというので歌だけかと思ったら、実に内容のあるしっかりした発言で、この国の未来に勇気を与えるものでした。団体なし市民のデモに加わって、原宿の繁華街を歩きましたが、街頭から加わる人や、歩道橋から手を振る人も。マスコミでは、再稼動を急ぐ「原子力村」の動きや、性懲りない経産省・東電の無責任な対応ばかりが目立ちますが、インターネットでつながったネットワークの広がりも、こうした集会に出ると、確かな手ごたえを得ることができます。大阪に続いて、東京でも原発住民投票を求める署名が25万人を越え、有効に条例制定を請求できそうです。

 3・11には、福島県郡山で、全国から集う県民大集会が予定されています。東京では、2月19日にも、昨年4月10日に全国に先駆けデモが行われたあの高円寺で、「素人の乱」の皆さんの脱原発杉並「有象無象」デモがあります。2月11日には、すでに脱原発の方向を決めたドイツでも、各地で日本に連帯するデモがありました。ドイツ語ですが、ウェブで見ると大変な数です。東京の集会でも、外国メディアの取材が目立ちました。3・11に向けて、久方ぶりに、世界の眼が日本に注がれます。日本政府と国民は、東日本大震災・福島原発事故から何を学んだのかを、改めて問われます。震災直後の「パニックを起こさない日本人」のような賛辞は、もはや期待できません。すでに福島から世界中に放射性物質をまき散らし、海洋まで汚染させたことを、世界の心ある人々は知っています。昨日欧州の専門誌に発表された「福島原発直下で地震の恐れも」という東北大学趙大鵬教授(地震学)の調査結果のようなニュースに、どのように応え、どんな対策をとっているかが問われます。地震は、なお頻繁におこっています。途上国への原発輸出の前に、白日のもとにさらされた地震大国日本で、なお「原子力の平和利用」がありうるかどうかが、そして国民がなお選択するかどうかが、問われているのです。

 学術論文データベ ースの常連宮内広利さんが、「貨幣・自由・身体性ーー想像の『段差』をめぐって」、「戦後大衆意識の成長と変貌ーー現在を映すカメラをさがして」に続いて、大作言語の初源から限界までーー言語思想はどこへ向かうか」を寄稿してきました。ちょうど江藤淳の「閉ざされた言語空間」の再検討を「占領下の原子力イメージ」で一応終えて、日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのかの関連で吉本隆明『「反核」異論』を読みなおしていたので、この二人の批評を含む宮内さんの新稿はタイムリーです。高木仁三郎さんの9つの「原子力神話」にならった10の「原爆・原発神話」の検証、3・11一周年を前に、改めて課題を確認しておきましょう。10の「原爆・原発神話」とは、1、原爆はナチス・ドイツへの必要悪、2、原爆投下で早期終戦・犠牲最小化、3、日本は唯一の被爆国、 4、原子力時代、第3の火、5、国連・国際管理で平和利用が可能、 6、科学者の良心で統御可能、7、社会主義の核は防衛的、8、核抑止、原発は潜在的抑止力、 9、日本人の核アレルギー、10、占領期原爆報道の消滅、でした。このうち「占領期原爆報道の消滅」については、昨年10月占領下の原子力イメージ」報告でほぼ脱神話化できたのですが、この間すすめている「日本人の核アレルギー」「唯一の被爆国」の検討で、これらが「早期終戦・犠牲最小化」神話、すなわち、もし広島・長崎の原爆投下がなかったならば、本当に軍国日本はポツダム宣言を受諾しただろうか、「天皇陛下のため」の無謀な本土決戦でさらに数十万・数百万の犠牲者が出たのではないか、という問いに、深く関わっていることがわかりました。

 「日本人の核アレルギー」神話の直接の起源は、1960年代の米原子力空母の寄港問題であったこと、しかしその背景に、50年代半ばのビキニ水爆実験「死の灰」体験、第5福龍丸被爆時の日本人の「病的なまでに核兵器に敏感」な反発を「治療」するという米国軍・国務相の診断があったことを、前回述べました。英語サイトをあたって、そのさらに裏が、見えてきました。それは、1946年当時の言葉で「原爆ヒステリー atomic bomb hysteria」、後に「核ヒステリー nuclear hysteria」とよばれた、アメリカ国民自身の原子戦争への恐怖・不安、ひいては広島・長崎への原爆投下を正統化するトルーマン大統領への疑問でした。核兵器使用・放射能拡散への批判・不安を抑え込むため、そうした声を「病気」「ヒステリー」として抑圧した診断書の起源は、おそらく『リーダース・ダイジェスト』英語版1946年2月に掲載されたDe Seversky, Alexander P. "Atomic Bomb Hysteria." (Reader's Digest Feb. 1946)です。原爆批判を「核ヒステリー」と診断して切り捨て、特にジョン・ハーシー『ヒロシマ』(新訳・法政大学出版局)の影響力をそぐことによって、アメリカにおける「核安全神話」が創造され、普及するようです。ウェブで読める Patrick B. Sharpさんの論文「From Yellow Peril to Japanese Wasteland: John Hersey's "Hiroshima"」が説得力あります。日本語でなら、R・J・リフトン/G・ミッチェル『アメリカの中のヒロシマ』(岩波書店)で、状況がわかります。フクシマ後の今日でも、英語/日本語のウェブ上には、脱原発運動を「集団ヒステリー」「放射能ヒステリー」などとする言説があふれ、アメリカの核による世界支配、原発再稼動を正統化しようとしています。それに追随する日本の「核ヒステリー」論もあります。正常と異常、健康と病気の境界を「ヒステリー」の一語で抑え込み、逆転させる、権力のレトリックで、マジックです。「唯一の被爆国」の方には、こうした言論抑圧に対する抵抗から生まれた、科学者や広島・長崎被災者の叫びが、含まれていました。私たちは、米国心理学の戦争動員による誤診は無視して、健康的に、まっとうに、反核・脱原発・再稼動反対の声をあげていきましょう!

 


昨年10月早稲田大学20世紀メディア研究所公開研究会報告は、『東京新聞』10月25日「メディア観望」、『毎日新聞』11月2日「ことばの周辺」を付して 占領下日本の『原子力』イメージ ーーヒロシマからフクシマへの助走」へ。12月専修大学での同時代史学会年次大会報告日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのかは、その各論です。10月沖縄大学地域研究所・日露歴史研究センター共催第6回ゾルゲ事件国際シンポジウムでの私の報告宮城與徳訪日の周辺ーー米国共産党日本人部の2つの顔」も、沖縄タイムス』10月23日号を付して情報学研究室へ。「国際歴史探偵 」活動の一環としてアップした私の論文亡命者佐野碩ーー震災後の東京からベルリン、モスクワへ」(桑野塾講演、The Art Times, No.3, October 2011)、及び福本イズムを大震災後に読み直す」(『「福本和夫著作集』完結記念の集い・報告集』こぶし書房、2011年10月)は、いずれも「関東大震災後」という社会的災禍・激変のなかで「福本イズム」がなぜ受け入れられていったのかを、福本和夫の理論の側からではなく、「復興」にあきたらず受容した若者たちの意識の側から解読しようとしたものです。また崎村茂樹の6つの謎に迫る『インテリジェンス』論文に続く第二弾『未来』10月号掲載「社会民主主義の国際連帯と生命力ーー1944年ストックホルムの記録から」も、第二次世界大戦中の「反ファシズム」を、より広い文脈で理解しようとする試みです。政治学研究」室に、「国家権力と情報戦——『党創立記念日』の神話学」(『情況』2006年6月号)の前篇なのに入れ忘れていた『党創立記念日』という神話加藤哲郎・伊藤晃・井上學編著『社会運動の昭和史——語られざる深層』白順社 、2006、所収)をアップ。やや専門的ですが、ご笑覧ください。瓜生洋一さん・安田浩さんの追悼文は、図書館に入れて永久保存としました。

新年の図書館に、森宣雄さん『地のなかの革命ーー沖縄戦後史における存在の解放』(現代企画社)の書評をアップ。『同時代史研究』第4号(2011年)に掲載されたものです。学術論文データベ ース寄稿の常連宮内広利さんが、「貨幣・自由・身体性ーー想像の『段差』をめぐって「戦後大衆意識の成長と変貌ーー現在を映すカメラをさがして」に続いて、言語の初源から限界までーー言語思想はどこへ向かうかで、3・11以後の思想状況に斬り込みましたのでアップしてあります。昨年、中国研究の専門家矢吹晋さんとの対談が、矢吹晋・加藤哲郎・及川淳子『劉暁波と中国民主化の行方と題して、花伝社から本になっています。信州大学国際シンポジウムでの基調講演汕頭市(貴嶼村)の現状からみる 中国の経済発展と循環型社会構築への課題が、信州大学からブックレットになりました。パソコン・携帯電話など「電子ゴミ」の地球的行方をNIMBY (Not in my backyard)の観点から追ったものですが、おそらく「核廃棄物」の将来にも、応用できるでしょう。ゾルゲ事件関係のファイルが増えてきたので、「情報学研究室カリキュラムに、情報学研究<専門課程2ーー世界史のなかのゾルゲ事件> を追加。ゾルゲ事件2010年墓前祭の講演記録新発掘資料から見たゾルゲ事件の実相(日露歴史研究センター『ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集』第28号、2011年1月)等が入っています。日本経済評論社の加藤哲郎・丹野清人編「21世紀への挑戦 7 民主主義・平和・地球政治」序論「情報戦の時代とソフト・パワーの政治の草稿段階での講演記録は、アメリカニズムと情報戦『葦牙』第36号、2010年7月)菅孝行・加藤哲郎・太田昌国・由井格「鼎談 佐野碩ーー一左翼演劇人の軌跡と遺訓(上)(下)」(『情況』2010年8・9月、10月)も、pdfで入れました。これまで「当研究室刊行物一覧」にありながら、ウェブ上では未公開だった体制変革と情報戦——社会民主党宣言から象徴天皇制まで」(岩波講座『「帝国」 日本の学知』第4巻『メディアのなかの「帝国」』岩波書店、2006年)、「戦争と革命ーーロシア、中国、ベトナムの革命と日本」(『岩波講座 アジア・ 太平洋戦争』第8巻『20世紀の中のアジア・太平洋戦争』i岩波書店、200 6年)、「<天皇制民主主義>論」(松村高夫・高草木光 一編『連続講義 東アジア 日本が問われていること』岩波書店、2007年3 月)、「グローバル・デモクラシーの可能性ーー世界社会フォーラムと『差異の解放』『対等の連鎖』」(加藤哲郎・国廣敏文編『グローバル化時代の政治学』法律文化社、2008年3月、所収)なども、本サイト研究室に収録されています。早稲田大学大学院政治学研究科私の開講する大学院講義・ゼミ関係は、早稲田大学ホームページからアクセス願います。一橋大学時代の教育関係ファイルは、2012年を機に、削除しました。


「アレルギー」でも「ヒステリー」でもなく、原発再稼動を許さぬ、まっとうな世論構築へ!

2012.2.15  野田内閣の支持率低下が止まりません。 右の読売新聞調査が典型的ですが、支持を減らし、不支持が増え続けています。読売ではなお30%の危険水域ぎりぎりですが、朝日放送ANNは27%フジ/産経では26、4%と3割を切っています。なぜかNHKだけは31%1ポイント挽回と出てますが。重要なのは、与党民主党と最大野党自民党の支持率を加えても4割に達しない既成政党離れ、政党支持なし層が5割を越えて、政治そのものへの不信を示しています。それもそのはず、「冷温停止状態」なる新語まで作っての福島原発「収束」宣言は、破たんしました。原子炉の内部がどうなっているかは何もわからず、温度さえまともに測れない状態で、住民を戻していいのでしょうか。事故の原因もはっきりしないままで、「ストレステスト」なる安易な評価で、原発再稼動の準備がすすめられています。普天間基地返還/海兵隊再編とセットだったはずの米軍基地名護移転は、沖縄県民の強い反対のみならず、米国のアジア戦略の都合による海兵隊再配置先行で、日米合意そのものが怪しい雲行きに。世界の焦点であるヨーロッパ金融危機や中東危機に、日本はなんらの役割も果たせないまま、円高・貿易赤字が続き、GDPもマイナスに。そんな政治経済の閉塞の間隙をぬって、憲法改正による「維新」を唱える新興勢力の台頭も。リーマン・ショックから3年たった世界が、1929年世界恐慌後3年目の世界とダブってくる憂鬱が、杞憂であればいいのですが。

 希望は、「維新の会」とは、別の方向にあります。相変わらず大手マスコミは無視するか小さな扱いでしたが、2月11日、東京代々木公園で、さようなら原発1000万人アクションの集会・デモがあり、1万2000人の市民が参加しました。1か月後の3・11一周年に向けて、福島での「放射能からいのちを守る全国サミット」400名/「反貧困フェスタ in ふくしま」330人ほか、全国で同様の脱原発集会・示威がもたれました。実は3月は昨年同様海外滞在になるので、久しぶりで代々木公園に出かけました。あふれるばかりの人と旗と「原発再稼動を許すな」のプラカード・シュプレヒコールで、元気づけられました。集会での大江健三郎さん、澤地久枝さん、山本太郎さん、落合恵子さん、それに福島現地からかけつけた市民の発言は、ユーチューブの動画で見ることができます。感心したのは、中学3年だという藤波心さんの話、アイドルタレントというので歌だけかと思ったら、実に内容のあるしっかりした発言で、この国の未来に勇気を与えるものでした。団体なし市民のデモに加わって、原宿の繁華街を歩きましたが、街頭から加わる人や、歩道橋から手を振る人も。マスコミでは、再稼動を急ぐ「原子力村」の動きや、性懲りない経産省・東電の無責任な対応ばかりが目立ちますが、インターネットでつながったネットワークの広がりも、こうした集会に出ると、確かな手ごたえを得ることができます。大阪に続いて、東京でも原発住民投票を求める署名が25万人を越え、有効に条例制定を請求できそうです。

 3・11には、福島県郡山で、全国から集う県民大集会が予定されています。東京では、2月19日にも、昨年4月10日に全国に先駆けデモが行われたあの高円寺で、「素人の乱」の皆さんの脱原発杉並「有象無象」デモがあります。2月11日には、すでに脱原発の方向を決めたドイツでも、各地で日本に連帯するデモがありました。ドイツ語ですが、ウェブで見ると大変な数です。東京の集会でも、外国メディアの取材が目立ちました。3・11に向けて、久方ぶりに、世界の眼が日本に注がれます。日本政府と国民は、東日本大震災・福島原発事故から何を学んだのかを、改めて問われます。震災直後の「パニックを起こさない日本人」のような賛辞は、もはや期待できません。すでに福島から世界中に放射性物質をまき散らし、海洋まで汚染させたことを、世界の心ある人々は知っています。昨日欧州の専門誌に発表された「福島原発直下で地震の恐れも」という東北大学趙大鵬教授(地震学)の調査結果のようなニュースに、どのように応え、どんな対策をとっているかが問われます。地震は、なお頻繁におこっています。途上国への原発輸出の前に、白日のもとにさらされた地震大国日本で、なお「原子力の平和利用」がありうるかどうかが、そして国民がなお選択するかどうかが、問われているのです。

 学術論文データベ ースの常連宮内広利さんが、「貨幣・自由・身体性ーー想像の『段差』をめぐって」、「戦後大衆意識の成長と変貌ーー現在を映すカメラをさがして」に続いて、大作言語の初源から限界までーー言語思想はどこへ向かうか」を寄稿してきました。ちょうど江藤淳の「閉ざされた言語空間」の再検討を「占領下の原子力イメージ」で一応終えて、日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのかの関連で吉本隆明『「反核」異論』を読みなおしていたので、この二人の批評を含む宮内さんの新稿はタイムリーです。高木仁三郎さんの9つの「原子力神話」にならった10の「原爆・原発神話」の検証、3・11一周年を前に、改めて課題を確認しておきましょう。10の「原爆・原発神話」とは、1、原爆はナチス・ドイツへの必要悪、2、原爆投下で早期終戦・犠牲最小化、3、日本は唯一の被爆国、 4、原子力時代、第3の火、5、国連・国際管理で平和利用が可能、 6、科学者の良心で統御可能、7、社会主義の核は防衛的、8、核抑止、原発は潜在的抑止力、 9、日本人の核アレルギー、10、占領期原爆報道の消滅、でした。このうち「占領期原爆報道の消滅」については、昨年10月占領下の原子力イメージ」報告でほぼ脱神話化できたのですが、この間すすめている「日本人の核アレルギー」「唯一の被爆国」の検討で、これらが「早期終戦・犠牲最小化」神話、すなわち、もし広島・長崎の原爆投下がなかったならば、本当に軍国日本はポツダム宣言を受諾しただろうか、「天皇陛下のため」の無謀な本土決戦でさらに数十万・数百万の犠牲者が出たのではないか、という問いに、深く関わっていることがわかりました。

 「日本人の核アレルギー」神話の直接の起源は、1960年代の米原子力空母の寄港問題であったこと、しかしその背景に、50年代半ばのビキニ水爆実験「死の灰」体験、第5福龍丸被爆時の日本人の「病的なまでに核兵器に敏感」な反発を「治療」するという米国軍・国務相の診断があったことを、前回述べました。英語サイトをあたって、そのさらに裏が、見えてきました。それは、1946年当時の言葉で「原爆ヒステリー atomic bomb hysteria」、後に「核ヒステリー nuclear hysteria」とよばれた、アメリカ国民自身の原子戦争への恐怖・不安、ひいては広島・長崎への原爆投下を正統化するトルーマン大統領への疑問でした。核兵器使用・放射能拡散への批判・不安を抑え込むため、そうした声を「病気」「ヒステリー」として抑圧した診断書の起源は、おそらく『リーダース・ダイジェスト』英語版1946年2月に掲載されたDe Seversky, Alexander P. "Atomic Bomb Hysteria." (Reader's Digest Feb. 1946)です。原爆批判を「核ヒステリー」と診断して切り捨て、特にジョン・ハーシー『ヒロシマ』(新訳・法政大学出版局)の影響力をそぐことによって、アメリカにおける「核安全神話」が創造され、普及するようです。ウェブで読める Patrick B. Sharpさんの論文「From Yellow Peril to Japanese Wasteland: John Hersey's "Hiroshima"」が説得力あります。日本語でなら、R・J・リフトン/G・ミッチェル『アメリカの中のヒロシマ』(岩波書店)で、状況がわかります。フクシマ後の今日でも、英語/日本語のウェブ上には、脱原発運動を「集団ヒステリー」「放射能ヒステリー」などとする言説があふれ、アメリカの核による世界支配、原発再稼動を正統化しようとしています。それに追随する日本の「核ヒステリー」論もあります。正常と異常、健康と病気の境界を「ヒステリー」の一語で抑え込み、逆転させる、権力のレトリックで、マジックです。「唯一の被爆国」の方には、こうした言論抑圧に対する抵抗から生まれた、科学者や広島・長崎被災者の叫びが、含まれていました。私たちは、米国心理学の戦争動員による誤診は無視して、健康的に、まっとうに、反核・脱原発・再稼動反対の声をあげていきましょう!


昨年10月早稲田大学20世紀メディア研究所公開研究会報告は、『東京新聞』10月25日「メディア観望」、『毎日新聞』11月2日「ことばの周辺」を付して占領下日本の『原子力』イメージ ーーヒロシマからフクシマへの助走」へ。12月専修大学での同時代史学会年次大会報告日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのかは、その各論です。10月沖縄大学地域研究所・日露歴史研究センター共催第6回ゾルゲ事件国際シンポジウムでの私の報告宮城與徳訪日の周辺ーー米国共産党日本人部の2つの顔」も、沖縄タイムス』10月23日号を付して情報学研究室へ。「国際歴史探偵 」活動の一環としてアップした私の論文亡命者佐野碩ーー震災後の東京からベルリン、モスクワへ」(桑野塾講演、The Art Times, No.3, October 2011)、及び福本イズムを大震災後に読み直す」(『「福本和夫著作集』完結記念の集い・報告集』こぶし書房、2011年10月)は、いずれも「関東大震災後」という社会的災禍・激変のなかで「福本イズム」がなぜ受け入れられていったのかを、福本和夫の理論の側からではなく、「復興」にあきたらず受容した若者たちの意識の側から解読しようとしたものです。また崎村茂樹の6つの謎に迫る『インテリジェンス』論文に続く第二弾『未来』10月号掲載「社会民主主義の国際連帯と生命力ーー1944年ストックホルムの記録から」も、第二次世界大戦中の「反ファシズム」を、より広い文脈で理解しようとする試みです。政治学研究」室に、「国家権力と情報戦――『党創立記念日』の神話学」(『情況』2006年6月号)の前篇なのに入れ忘れていた『党創立記念日』という神話加藤哲郎・伊藤晃・井上學編著『社会運動の昭和史――語られざる深層』白順社 、2006、所収)をアップ。やや専門的ですが、ご笑覧ください。瓜生洋一さん・安田浩さんの追悼文は、図書館に入れて永久保存としました。

新年の図書館に、森宣雄さん『地のなかの革命ーー沖縄戦後史における存在の解放』(現代企画社)の書評をアップ。『同時代史研究』第4号(2011年)に掲載されたものです。学術論文データベ ース寄稿の常連宮内広利さんが、「貨幣・自由・身体性ーー想像の『段差』をめぐって「戦後大衆意識の成長と変貌ーー現在を映すカメラをさがして」に続いて、言語の初源から限界までーー言語思想はどこへ向かうかで、3・11以後の思想状況に斬り込みましたのでアップしてあります。昨年、中国研究の専門家矢吹晋さんとの対談が、矢吹晋・加藤哲郎・及川淳子『劉暁波と中国民主化の行方と題して、花伝社から本になっています。信州大学国際シンポジウムでの基調講演汕頭市(貴嶼村)の現状からみる 中国の経済発展と循環型社会構築への課題が、信州大学からブックレットになりました。パソコン・携帯電話など「電子ゴミ」の地球的行方をNIMBY (Not in my backyard)の観点から追ったものですが、おそらく「核廃棄物」の将来にも、応用できるでしょう。ゾルゲ事件関係のファイルが増えてきたので、「情報学研究室カリキュラムに、情報学研究<専門課程2ーー世界史のなかのゾルゲ事件> を追加。ゾルゲ事件2010年墓前祭の講演記録新発掘資料から見たゾルゲ事件の実相(日露歴史研究センター『ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集』第28号、2011年1月)等が入っています。日本経済評論社の加藤哲郎・丹野清人編「21世紀への挑戦 7 民主主義・平和・地球政治」序論「情報戦の時代とソフト・パワーの政治の草稿段階での講演記録は、アメリカニズムと情報戦『葦牙』第36号、2010年7月)菅孝行・加藤哲郎・太田昌国・由井格「鼎談 佐野碩ーー一左翼演劇人の軌跡と遺訓(上)(下)」(『情況』2010年8・9月、10月)も、pdfで入れました。これまで「当研究室刊行物一覧」にありながら、ウェブ上では未公開だった体制変革と情報戦――社会民主党宣言から象徴天皇制まで」(岩波講座『「帝国」 日本の学知』第4巻『メディアのなかの「帝国」』岩波書店、2006年)、「戦争と革命ーーロシア、中国、ベトナムの革命と日本」(『岩波講座 アジア・ 太平洋戦争』第8巻『20世紀の中のアジア・太平洋戦争』i岩波書店、200 6年)、「<天皇制民主主義>論」(松村高夫・高草木光 一編『連続講義 東アジア 日本が問われていること』岩波書店、2007年3 月)、「グローバル・デモクラシーの可能性ーー世界社会フォーラムと『差異の解放』『対等の連鎖』」(加藤哲郎・国廣敏文編『グローバル化時代の政治学』法律文化社、2008年3月、所収)なども、本サイト研究室に収録されています。早稲田大学大学院政治学研究科私の開講する大学院講義・ゼミ関係は、早稲田大学ホームページからアクセス願います。一橋大学時代の教育関係ファイルは、2012年を機に、削除しました。


「である」ことから「する」ことへ、原発再稼動を許さぬ市民の政治を!

2012.2.1  青空文庫」に入っているSF作家海野十三「敗戦日記」1945年1月1日に、「1月ではない、13月のような気がする」という話が出てきます。敗色濃い東京で、毎日米軍の空襲におびえる日々の続く新年のことでした。その伝で言えば、いよいよ「14月」でしょうか。例年この時期は、1月末のアメリカ大統領一般教書演説世界経済フォーラムダボス会議、WEF)、世界社会フォーラムWSF)の定点観測に当てるのですが、どうも力が入りません。強い地震が1月も頻繁で、マグニチュード7クラスの首都圏直下型地震が「4年以内に70%」という東大地震研究所の試算が、現実味を帯びてきます。東北沖「日本海溝」の東側の海底で規模の大きな地震が起きやすい状態になっているとも(右図)。北日本は大雪、東日本大震災のさなかに長野県栄村でも大きな地震がありました。その被災者が、仮設住宅の雪下ろしの最中に梯子から転落して死亡するという理不尽。東日本の地震/津波/原発事故被災者の仮設住宅には、お年寄りが多く入居しています。インフルエンザも流行中、暖房は大丈夫でしょうか。原発被災者への補償は、なかなかすすみません。失業保険が切れた人も出てきて、寒さがひとしおです。国会は消費税増税一色で、外では怪しげなロートル新党話、政党政治の機能麻痺が、被災地・被災者を直撃し、おいてけぼりにしています。そのうえ今頃明るみに出た、昨年大震災・原発事故時の議事録未作成という話。政府の緊急災害対策本部にも、原子力災害対策本部にも、被災者生活支援チームにも、公文書管理法に定められた議事録がなかったというのです。本当でしょうか隠されたか破棄されたのではないでしょうか。あの旧ソ連の共産党政権でさえ、政策決定の行政文書・議事録はきちんと残され、その記録=旧ソ連秘密文書の解読によって、私は数十人の日本人スターリン粛清犠牲者御遺族に、無実の処刑の事情や命日をお伝えすることができました。2万人近い大津波の犠牲者、30万人以上の避難者、10万人以上といわれるが実数がつかめない原発避難民の記録ーーそれらに責任を持ち、歴史により審判されるはずの国家中枢の失態の記録が、失われてしまったというのです。世界への恥辱であり、後世への侮辱です。防衛省沖縄防衛局の宜野湾市長選介入の話とあわせ、この国の民主主義は、発展途上国なみとみなされるでしょう。

 1月27日の枝野経済産業相の記者会見、「夏に全国で稼働している原発をゼロと想定し、今春にも対応策を公表する方針を明らかにした。原発の再稼働が難しくなっているためだ」とあります。これ、朝日新聞では26日の独占インタビューです。27日閣議後記者会見のロイター電は、「原発稼働ゼロでも「夏乗り切れる可能性」=枝野経産相」と中身に即して報じていますが、朝日のウェブ版は、「今夏、原発ゼロを想定 枝野経産相、制限令は回避」の見出しで、「枝野氏は「(今夏は)原発がゼロになる可能性はある」との認識を示した」と述べています。「今夏、原発ゼロを想定」も「ゼロになる可能性はある」も、ある状態を記述しただけです。見方によっては、「だから再稼動が必要だ」「火力のために電気料金値上げもやむをえない」と続きかねません。なぜ「ゼロにする」という政策的決意を引き出せなかったのでしょうか。もちろん枝野大臣のガードが固かったのでしょう。しかし、どうも朝日新聞自体が「脱原発」に確固として踏み出せない、曖昧さを表現しているようです。「であることとすること」とは、よく入試問題にも出る丸山眞男『日本の思想』の名言です。いまではこの言葉だけで、wikipediaに立項されています。「である」価値から「する」価値へとも言われるように、伝統から近代へ、認識から行動・参加への主体的意味も込められています。政治には、まさに「である」Aから「である」Bへと「する」主体的営為が求められるのです。3・11からまもなく1年、政治の停滞・失速は、致命的です。永田町が、霞ヶ関と原子力村の抵抗巻き返しにあって動かないのなら、市民が自ら「すること、行動に出るしかありません。アメリカのWall Streetから始まり、今も続く99%市民政治のように。すでに140日以上続いている、経産省前テント村に集う、福島のおかあさんたち若者たちのように。そのテント村の強制撤去が狙われています。撤去すべきはテントではなく原発です。2月11日全国一斉!さようなら原発1000万人アクションがあります。東京では、1時から代々木公園B地区です。大江健三郎さん、山本太郎さんらが発言します。

   故高木仁三郎さんの9つの「原子力神話」にならった、10の「原爆・原発神話」の検証、前回は「日本人の核アレルギー」を取り上げました。英国シェフィールド大学東アジア研究所グレン・フック教授の論文「言語の核化(ニュークリアライゼーション) : 政治的陰喩としての核アレルギー」(『広島平和科学』1984年7号)、オーストラリア国立大学テッサ・モリス=スズキ教授英文報告ペーパー「The Atomic Shadow on Japanese Society: Social Movements, Public Opinion and Possible Nuclear Disarmament」(2009年9月)にヒントを得て調べると、「核アレルギー」という表現があらわれる最初は、1964年8月29日『朝日新聞』夕刊ワシントン支局松山幸雄特派員送信「米、日本の自発的協力を喜ぶ」という記事でした。当時の荒瀬豊・岡安茂祐「『核アレルギー』と『安保公害』ーーシンボル操作・1968年」(『世界』1968年9月号)からは、アメリカ原子力空母の寄港問題が「核兵器の持ち込み」と海洋の放射能汚染という「軍事利用」にも「平和利用」にも通じる問題を喚起し、佐藤内閣の「核アレルギー」の多用は、「非核3原則」の裏での沖縄返還交渉「核密約」と結びついていたことを知りました。ちょうど、被爆者森滝市郎原水禁国民会議が「核と人類は共存できない」という、原爆にも原発にも反対する核絶対否定の立場を確立する時期でした。ただし、「核アレルギー」という言葉には、「日本人の病気」というニュアンスと「治癒=核保有」というイメージが、つきまといます。この点まで踏み込むと、ひどいというか、やはりというか、アメリカ国務省/諜報機関の診断でした。『中国新聞』昨年7月23日「被爆国の原発導入背景、米文書が裏付け」を読むと、1954年のビキニ水爆実験での第5福龍丸被爆のさい、米国国務省極東局は、大統領あて極秘覚書で「日本人は病的なまでに核兵器に敏感で、自分たちが選ばれた犠牲者だと思っている」と分析し、「放射能」に関する日米交流が「日本人の(核への)感情や無知に対する最善の治療法」になる、と指摘していました。典型的な「病気/治癒」の論理です。中曽根康弘・正力松太郎主導の「原子力の平和利用」=原発導入とは、まさにこの、ヤブ医者の誤診による麻薬の注射だったのです。

 続いて、「唯一の被爆国」の神話解体に、取り組んでいます。本サイトでは、ずっと「カッコ」つきで使ってきました。もともと盟友袖井林二郎さん『私たちは敵だったのかーー在米被爆者の黙示録』(岩波同時代ライブラリー)や春名幹男さん『ヒバクシャ・イン・USA』(岩波新書)からも、「唯一の被爆国」の誤りは自明ですが、なぜかくも長く使われるのだろうか、という疑問です。今日では「ヒバクシャ」は、ウラン採掘から核実験、原発事故も含め世界中に広がり、福島の経験からすると、中国・インドを含むすべての原発保有国が「ヒバクシャ」を産み出そうとしているのに。そこで私は、空間的広がりよりも、時間的流れを追うことにしました。占領期の新聞雑誌を網羅し、昨年占領下日本の『原子力』イメージ 」報告のさいに絶大な力を発揮した、プランゲ文庫の「占領期新聞・雑誌情報データベース」には、「唯一の被爆国」はありません。「被爆」そのものも25件で、「被爆者」も「被爆地」も2件だけです。1946年7月『短歌長崎』に「被爆ののち」という短歌集が入っていますが、あまり定着しなかったようです。広島・長崎は「アトム都市」などと呼ばれていました。森滝市郎さんの日記や中国新聞社編『ヒロシマの記録 年表・資料編』などを追いかけて、あることに気付きました。占領期は、放射能の後発性症状・内部被爆がGHQの検閲で隠ぺいされていたこともありますが、「被爆」そのものは、1945年8月6日広島と9日長崎の地域的「事件」に限定してイメージされ、どうやら「被爆国」という観念はなかったようなのです。中国新聞社編『ヒロシマの記録』によると、もともと米国の教会からはじまった「ノー・モア・ヒロシマズ」運動が、48年原爆3周年に浜井広島市長の世界160都市宛メッセージに使われました。国家を介さない、直接世界へのアピールです。『中国新聞』などは、その後も「被爆」を強調しますから、「被爆」になるには、原爆を投下された「日本民族」という意識と、ビキニの水爆実験による「死の灰」=放射能体験が加わることが、必要だったようです。奥田博子さん『原爆の記憶』は「唯一の被爆国」を神話とし、その脱構築をはかっていますが、8月6日新聞社説で「原爆の唯一の体験者である日本人」と述べたのは『朝日新聞』が1955年であり、『毎日新聞』が翌56年8月「唯一の被爆国であるわが国」、『読売新聞』では59年「世界でただ一つの被爆国日本」が初出だったようです。この「広島」と「日本」をつなぐものは何だったのか? どうやら、戦後日本のナショナリズム再生の物語になりそうです。以下の探究は、次回更新で。


「核アレルギー」神話によってではなく、

「核と人類は共存できない」から脱原発へ!

2012.1.15  民主党野田改造内閣が出発しました。消費税増税正面突破の布陣ですが、内閣支持率の回復効果はなく、むしろ朝日(左)でも読売(右)でも不支持増大がとまらないという、珍しくぴったり一致した世論の流れ。3・11以後のジャーナリズムを振り返ると、原発事故の「大本営発表」の果てに増税と政局をあおってきた在京大手マスコミの気紛れにくらべると、普天間基地移転問題をふまえた沖縄タイムス社説の原点からの政権批判が、さわやかです。実際、本来の政治の焦点、東日本大震災・福島原発事故への対応の遅れは、厳しい冬の被災地の生活を直撃しています。震災失業者12万人の命綱、失業手当ての給付期限が、この13日から順次切れ始めています。孤軍奮闘する在京のジャーナリズム、東京新聞が、福島第一原発各原子炉の現況を、1月8日の紙面でも詳しく紹介(下図)しているのは、さすがです。2012年は、世界の主要国で政権選挙の年ですが、この国の永田町政治の刷新は、あまり期待できません。3か月後に大統領選挙を控えたフランスをはじめとしたヨーロッパ諸国の国債が格下げされ、世界金融危機は、アジアにも波及してくるでしょう。中国の指導者が代り、アメリカは大統領選挙の年です。国際環境は大きく変わります。そうした国際環境への適応能力が極度に低下しているのが、3・11以後の日本社会と国家。アメリカのよびかけた対イラン経済制裁に、日本の安住財務大臣はすぐさま原油輸入削減で応える稚拙、現在の国際的孤立の日本国民には隠された最大の要因である、福島原発汚染水の海洋投棄を東電が再び試みようとしたり、2012年も、憂鬱な年になりそうです。

 昨年3・11以後の私の「国際歴史探偵 」は、崎村茂樹ゾルゲ事件の探究を継続しながらも、「原爆・原発」神話の解明に力を注いできました。故高木仁三郎さんの9つの「原子力神話」にならって、10の「原爆・原発神話」を設定し、そのうち「占領期原爆・原子力報道消滅神話」については、昨年の「占領下日本の『原子力』イメージ ーーヒロシマからフクシマへの助走日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのか」で、おおむねつき崩すことができました。冬休みから、「日本人の核アレルギー」神話に取り組みはじめました。占領期の日本の新聞・雑誌には、GHQの検閲があったとはいえ、原爆・原子力報道は4000件以上にのぼり、その内容も「かぜにピカドン」や「巨人の原爆打線」のような「脅威とあこがれ」の両義性がみられ、「アレルギー」は見られませんでした。そこで、よく引かれるサンフランシスコ講和条約による独立直後の『アサヒグラフ』1952年8月6日号の原爆報道あたりから「原爆アレルギー」の語が使われるのではないか、あるいはそれより一年早い1951年7月京都大学での総合原爆展あたりが起源か、と調べはじめたのですが、日本人全体が原爆・原子力を強く拒否しているという報道は見当たりません。「アレルギー」という病理学的表現から、この言葉は、米軍情報機関かCIAあたりが、ビキニ水爆実験と原水爆禁止署名運動の広がりを称して使いはじめたのではないかと、ここ数年米国国立公文書館で集めてきたCIAやMISの対日諜報文書を再読してみましたが、1950年代の日本を「核アレルギーNuclear Allergy」として描く文書はみあたりません。再軍備反対や米軍基地反対、原水禁運動の始まりを、共産党をバックにした「反米」として警戒し、「反ソ・親米」にしようとする方向・政策は明確ですが、原爆や原発をとりあげて「アレルギー症状」とする診断は出てきません。

 「アレルギー」とするからには外国からの診断ではないかと、Googleに "Nuclear Allergy"と打ち込んでチェックすると、意外なことがわかりました。「日本人の核アレルギー」研究での必読文献は、海外の日本研究者のものでした。一つは、1980年代に岡山大学にいた英国人日本研究者、私自身も何度かお会いした現在英国シェフィールド大学東アジア研究所グレン・フック教授の論文「言語の核化(ニュークリアライゼーション) : 政治的陰喩としての核アレルギー」で、日本語では『広島平和科学』1984年7号に掲載され、ウェブでも読めます。その後フック教授の『軍事化から非軍事化へーー平和研究の視座に立って』(御茶の水書房, 1986年)に収録されています。フックさんはそこで、「アレルギー」とは治癒の対象であり、核を持つのが正常で健康的だという前提にたった「日本人の病気」として使われ、「核兵器アレルギー」から「核アレルギー」に展開してきた政治的言説分析を試みています。もう一つは、これも何度かお会いしたオーストラリア国立大学テッサ・モリス=スズキ教授英文報告ペーパー「The Atomic Shadow on Japanese Society: Social Movements, Public Opinion and Possible Nuclear Disarmament」(2009年9月)。これもウェブで読めますが、「核アレルギー」という言葉が、「核の傘」と並んで、日本の平和運動から北朝鮮拉致問題にいたるナショナリズムの中で果たしてきた政治的機能を跡づけています。

 これらからわかったのですが、「核アレルギー」という表現があらわれる最初は、アメリカの国務省・国防省・CIA文書ではなく、なんと、私が「占領下日本の『原子力』イメージ」で分析した「原子力の平和利用」の場合と同じく、日本の朝日新聞社の報道でした。年月日・命名者も特定されており、1964年8月29日『朝日新聞』夕刊のワシントン支局松山幸雄特派員送信「米、日本の自発的協力を喜ぶ」という記事でした。米国の原子力潜水艦シードラゴン号が初めて佐世保に寄港する問題で、反対運動もあったが日本の佐藤栄作内閣は寄港を受け入れたことについて、「その背景には、米側をもっと信頼してもらいたいということ、それに時間をかければ日本の核アレルギーはおさまるだろう」という米国政府の態度についての観測記事で、どうやらもともと和製英語らしいのです。フック教授論文の註から、日本側でこの問題を論じた『世界』1968年9月号の荒瀬豊・岡安茂祐「『核アレルギー』と『安保公害』ーーシンボル操作・1968年」も見つかり、原子力空母エンタープライズ佐世保寄港に際して、もともと自社が作った言葉である「核アレルギーとは何か」を、『朝日新聞』1968年1月11日社説が、「『核アレルギー』という言葉は、そもそも核武装に狂奔する核大国が、核軍拡競争の拡大と核兵器の維持を正当化するために、それを批判し避難する国民、とくに日本国民に対して投げかけた言葉にほかならない」とマッチポンプ風に論じていることもわかりました。当時の国会では、佐藤首相自身が、沖縄返還交渉から「非核3原則」をつくる過程で多用しており、「核アレルギー」は「核の傘」「非核3原則」とワンパックで定着してくる「創造=想像された神話」であることが見えてきました。また「核兵器アレルギー」から「核アレルギー」へと転用される過程で、原子力潜水艦寄港時の放射能調査を媒介に「原子力の平和利用」=「安全神話」にもつながることがわかってきました。ちょうど一昨年NHKテレビ「核を求めた日本」が報じたように、日本政府が「当面核兵器は保有しない政策はとるが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは保持する」と決め(1969「わが国の外交政策大綱)、被爆者森滝市郎原水禁国民会議が「核と人類は共存できない」という原爆にも原発にも反対する核絶対否定の立場を、確立する時期です。3・11以後の日本の非核平和運動が、「核アレルギー」に依拠するかたちでいいのか、「核と人類は共存できない」という立場を明確にすべきか、私には明らかに後者と思えます。詳しくは次回以降にしますが、本サイトは、今年も「原爆・原発神話」の一つ一つを、歴史的に解体していきます。14・15日の横浜「脱原発世界会議」の模様は、you tubeに、その狙い開会式福島のこどもの訴え佐藤栄佐久・前福島県知事被爆者肥田舜太郎医師、飯田哲也さんの話などが、次々とアップされています。上野千鶴子さんの発言が、よくまとまっています。脱原発は、人類史の、世界史の課題です。


昨年10月早稲田大学20世紀メディア研究所公開研究会報告は、『東京新聞』10月25日「メディア観望」、『毎日新聞』11月2日「ことばの周辺」を付して占領下日本の『原子力』イメージ ーーヒロシマからフクシマへの助走」へ。12月専修大学での同時代史学会年次大会報告日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのかは、その各論です。10月沖縄大学地域研究所・日露歴史研究センター共催第6回ゾルゲ事件国際シンポジウムでの私の報告宮城與徳訪日の周辺ーー米国共産党日本人部の2つの顔」も、沖縄タイムス』10月23日号を付して情報学研究室へ。「国際歴史探偵 」活動の一環としてアップした私の論文亡命者佐野碩ーー震災後の東京からベルリン、モスクワへ」(桑野塾講演、The Art Times, No.3, October 2011)、及び福本イズムを大震災後に読み直す」(『「福本和夫著作集』完結記念の集い・報告集』こぶし書房、2011年10月)は、いずれも「関東大震災後」という社会的災禍・激変のなかで「福本イズム」がなぜ受け入れられていったのかを、福本和夫の理論の側からではなく、「復興」にあきたらず受容した若者たちの意識の側から解読しようとしたものです。また崎村茂樹の6つの謎に迫る『インテリジェンス』論文に続く第二弾『未来』10月号掲載「社会民主主義の国際連帯と生命力ーー1944年ストックホルムの記録から」も、第二次世界大戦中の「反ファシズム」を、より広い文脈で理解しようとする試みです。政治学研究」室に、「国家権力と情報戦――『党創立記念日』の神話学」(『情況』2006年6月号)の前篇なのに入れ忘れていた『党創立記念日』という神話加藤哲郎・伊藤晃・井上學編著『社会運動の昭和史――語られざる深層』白順社 、2006、所収)をアップ。やや専門的ですが、ご笑覧ください。瓜生洋一さん・安田浩さんの追悼文は、図書館に入れて永久保存としました。

新年の図書館に、森宣雄さん『地のなかの革命ーー沖縄戦後史における存在の解放』(現代企画社)の書評をアップ。『同時代史研究』第4号(2011年)に掲載されたものです。学術論文データベ ース寄稿の常連宮内広利さんが、「貨幣・自由・身体性ーー想像の『段差』をめぐって」に続いて、「戦後大衆意識の成長と変貌ーー現在を映すカメラをさがしてで、3・11以後の思想状況に斬り込みましたのでアップしてあります。昨年、中国研究の専門家矢吹晋さんとの対談が、矢吹晋・加藤哲郎・及川淳子『劉暁波と中国民主化の行方と題して、花伝社から本になっています。信州大学国際シンポジウムでの基調講演汕頭市(貴嶼村)の現状からみる 中国の経済発展と循環型社会構築への課題が、信州大学からブックレットになりました。パソコン・携帯電話など「電子ゴミ」の地球的行方をNIMBY (Not in my backyard)の観点から追ったものですが、おそらく「核廃棄物」の将来にも、応用できるでしょう。ゾルゲ事件関係のファイルが増えてきたので、「情報学研究室カリキュラムに、情報学研究<専門課程2ーー世界史のなかのゾルゲ事件> を追加。ゾルゲ事件2010年墓前祭の講演記録新発掘資料から見たゾルゲ事件の実相(日露歴史研究センター『ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集』第28号、2011年1月)等が入っています。日本経済評論社の加藤哲郎・丹野清人編「21世紀への挑戦 7 民主主義・平和・地球政治」序論「情報戦の時代とソフト・パワーの政治の草稿段階での講演記録は、アメリカニズムと情報戦『葦牙』第36号、2010年7月)菅孝行・加藤哲郎・太田昌国・由井格「鼎談 佐野碩ーー一左翼演劇人の軌跡と遺訓(上)(下)」(『情況』2010年8・9月、10月)も、pdfで入れました。これまで「当研究室刊行物一覧」にありながら、ウェブ上では未公開だった体制変革と情報戦――社会民主党宣言から象徴天皇制まで」(岩波講座『「帝国」 日本の学知』第4巻『メディアのなかの「帝国」』岩波書店、2006年)、「戦争と革命ーーロシア、中国、ベトナムの革命と日本」(『岩波講座 アジア・ 太平洋戦争』第8巻『20世紀の中のアジア・太平洋戦争』i岩波書店、200 6年)、「<天皇制民主主義>論」(松村高夫・高草木光 一編『連続講義 東アジア 日本が問われていること』岩波書店、2007年3 月)、「グローバル・デモクラシーの可能性ーー世界社会フォーラムと『差異の解放』『対等の連鎖』」(加藤哲郎・国廣敏文編『グローバル化時代の政治学』法律文化社、2008年3月、所収)なども、本サイト研究室に収録されています。早稲田大学大学院政治学研究科私の開講する大学院講義・ゼミ関係は、早稲田大学ホームページからアクセス願います。一橋大学時代の教育関係ファイルは、2012年を機に、削除しました。


自然の復讐は鎮まらず、放射能拡散は続く、

東アジア非核共同体を見通す構想力を!

  2012.1.1  例年なら門松、賀正を金屏風の壁紙で飾り新年の挨拶なのですが、2012年の年頭トップは、いつも通りで綴ります。それは、2011年3月11日以降の日本が「いつも通り」ではないからです。「いつも通り」の故郷での家族水入らずの正月を経験できない人々が、数十万人いるのです。本来ならば、東日本大震災と福島第一原発事故の深刻な被害に見合った、政治と経済と社会の大きな変化が伴うはずです。地震と噴火で壊滅した古代ローマのポンペイのように。ペストが大流行した14世紀のヨーロッパのように。チェルノブイリ原発事故後の旧ソ連のように。でも、この国は、これからです。日本政府は、12月16日に、福島第一原発事故「収束」宣言を出しましたが、日本国民の多くも、世界のメディアも、まともに信じてはいません。「冷温停止状態」という新語を作って、原子炉の内部がどうなっているかもわからない状態を隠ぺいし、人類史上未曾有の原子力事故をとりつくろって、深刻な放射能汚染や廃炉への長い道のりを、曖昧にしようとしています。地元の福島県知事は不快感を示し、福島県議会は、野田首相の事故収束宣言撤回の意見書を採択しました。

 夏目漱石が述べた「自然の復讐」は、鎮まっていません。日本列島周辺の地殻変動は、活発に続いています。大晦日の12月31日だけで9回の地震があり、岩手県から茨城県のラインに集中しています。震度3も一つあり、めっきり報道の減った福島第一4号炉の核燃料プールの状況など、気になります。紅白歌合戦の時間に入ってきたニュース、「経済産業省原子力安全・保安院は31日、原発事故に備え各地の原子炉の状態を把握するシステムが故障し、30日午後から約26時間、情報が表示できない状態になっていたと発表した。保安院によると、故障したのは「緊急時対策支援システム」(ERSS)。運転中の全国の原子炉内の圧力や温度などの情報を集約し、事故時には放射性物質の放出量などを予測するシステムだが、30日午後0時半ごろ、端末に情報が表示されなくなった。保安院が原因を調べたところ、ソフトウエアの不具合と判明。31日午後2時半すぎに復旧した。この間、データは正しく取得されていたが、集約するシステムにデータが自動入力されておらず、故障中に事故が起きれば、手作業でデータを入力する必要があったという」。「成長神話」と「安全神話」のもとで、自然を征服し制御できると信じてきたこの国のシステムは、2011年3月以降、政治も経済も機能不全が続いています。

 年末の1週間は中国でした。1年ぶりの北京と、はじめての天津。自動車