次欄の文章を発表して2か月、ヒット数はすごいのに、さっぱり反応がありません。歴史学関係者がパソコンに弱く顧客が少ないのか、要旨だけではコメントしようがないのか、そもそもこうしたアカデミック・イシューはインターネットになじまないのか、反応がないことも一つの反応で実験の意味があります。そこで、出血大サービス。「報告要旨」が『歴史学研究』5月号に掲載されたので、報告完成稿を、ここに発表します。 あまりに長くなり当日45分の口頭報告ではどうせ大幅カットですから、「いのち」と「くらし」までで、「ふれあい」は別に論じることにしました。まだ出てない活字の予告が、インターネット上ではすでに訂正されているという、情報戦・諜報戦時代にふさわしい実験です。


 以下の文章は、『歴史学研究』1998年5月号掲載予定の歴史学研究会大会全体会(5月23日)「報告要旨」である。敢えて事前に本HPに掲載し、皆さんのご意見・ご助言をえながら、当日の報告に仕上げていくことにした。また枚数が限られているので、その土台になっている第1回報告者会議に提出された私の「20世紀」論草案、及び共著『日本史のエッセンス』(有斐閣、1997年)のために書いた私の現代史概説「戦後日本半世紀の軌跡」をも、参考資料として掲載する。歴研会員というよりも、むしろ非会員・非アカデミズムの皆様のメールを期待している(1998年2月16日)。「影」ではなくオモテの関係は、「戦後冷戦と日米安保のエルゴロジー」(『シリーズ日本近現代史』第4巻)があるので、ここを参照


戦後日本と「アメリカ」の影

──「いのち」と「くらし」と「ふれあい」のナショナル・デモクラシー──

                             

加 藤 哲 郎


<報告要旨>

 もう十数年前になるが、報告者は初めて歴研大会に出席して驚いた。統一テーマでの全体会なのに、日本史の報告が終わりヨーロッパ史の報告になるとぞろぞろ退場する人の波、しかも、その夜の懇親会では「インターナショナル」が合唱された。「史学」の門外漢としては、そんな場での報告は荷が重い。

 第二次世界大戦後の日本については『現代日本のリズムとストレス』(花伝社)でいくつか問題を提起し、共著『日本史のエッセンス』(有斐閣)で概観した。日米関係を中心とした戦後日本の国際的枠組については『シリーズ 日本近現代史』第4巻(岩波書店)などで主に政治経済的・軍事的側面を論じたが、その繰り返しは委員会の要請ではないようである。むしろ東欧革命直前の『戦後意識の変貌』(岩波ブックレット)の延長上で、大衆文化やライフ・スタイルを視野に入れて戦後日本の「アメリカ」イメージを論ぜよということらしい。

 あいにく報告者の最近の実証研究は、もっぱら『モスクワで粛清された日本人』(青木書店)の延長線上での旧ソ連秘密文書日本関係史料の解読とワイマール期在独日本人の反戦反ナチ活動の歴史的解明に限定され、インターネットのホームページ上で逐次更新されている(http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml)。

 そこで、委員会の問題設定と他の2報告との関連を考え、ここでは「戦後民主主義」に関わる「アメリカの影」を「いのち=戦争と平和、飢餓からの解放」と「くらし=生活水準・豊かさ」と「ふれあい=共同性・コミュニケーション」という3つの視角から眺めてその関連を論じ、そう考える根拠を報告者自身の「20世紀」観の文脈で説明するかたちをとる。E・ホブズボームの「短い20世紀=極端の時代」論、I・ウォーラーステインの「ヘゲモニーの循環」論、それにA・ゴードンの「戦前日本=インペリアル・デモクラシー」論などを参照する。

 日本の「戦後民主主義」の中核に、「平和」というデモクラシーの本義とは「本質的な関係をもたない」要素が位置していることは高畠通敏も指摘している(中村政則他編『戦後日本 第4巻 戦後民主主義』序論、岩波書店)。「平和と民主主義を守る」は後に「いのちとくらしを守る」とオーバーラップしてくるが、それは、戦時・敗戦体験、占領期の飢餓・貧困体験を基礎にした「いのち」の身体感覚だった。日本の「いのち」の戦後史は、憲法第9条と日米安保・自衛隊のはざまでたえず政治的争点であり続けたが、国際的に見れば「極端」なほどの身体的達成を記録した。平均寿命の1900年男38.79・女40.67歳が47年男50.06・女53.96歳を経て96年男77.01・女83.59歳は、世界史に例を見ない伸びだろう。生体計測学が「生活水準」の重要な指標にとる成人男子平均身長の伸びは、日本では徴兵検査記録と学校保健統計から精緻なデータが得られる。戦前徴兵記録の20歳男子1892年156.1cmから1937年160.3cmも顕著だが、学校統計での17歳男子1948年160.6cmから97年170.9cmへの伸びは、欧米のデータに比して驚異的な短期の栄養改善・体型変化を示す。ただし当初は工業化・都市化のテンポの違いによる地域別格差を、最近は伸びの鈍化を伴って。

 その「いのち」保全の基礎に「くらし=生活水準」向上があったのはいうまでもない。「平和と民主主義」が「いのちとくらし」とオーバーラップした高度経済成長期に「くらし」は「いのち」から相対的に自立しフォード主義的に標準化された。「いのち=平和」が占領軍による「上からの民主化」の所産であったとすれば、「くらし」は政府と企業による「上からの標準化」に「国民」が企業社会に従いつつGNPを押上げ消費した所産である。しかしその「生活」イメージそのものに「アメリカの影」はつきまとった。1952年太平洋問題調査会での「生活水準」測定から92年「新国民生活指標」設定にいたるまで「アメリカ」への愛憎のなかで「生活」を設計し規律化してきた。国連人間自由度(HFI)や北欧Green GNPのような発想は自生しえなかった。

 そのことの根拠を、戦後日本の「アメリカ」イメージと「ふれあい=共同性・コミュニケーション」様式の変容から探り、「地球社会」が時間的にも空間的にも現実のものとなってきた20世紀の人類史的意味の中に位置づけてみたい。

 なお、本要旨掲載の頃から、大会報告のドラフトを前記報告者インターネットHP上に公開し、日本の学問的「ふれあい」「情報化」「国際化」の現在を探る実験をもあわせて試みる予定である。


<参考資料>1998・1・24報告者会議へのメモ

 

歴史学研究会1998年度全体会報告への問題意識 

                      

加藤 哲郎(一橋大学、政治学)


 戦後日本と「アメリカ」の影──いのちとくらしとふれあいの葛藤

1 脱亜脱欧入米──フォード主義を基礎にした非福祉国家的出発

2 東西冷戦構造と日米安保体制──ナショナリズムの葛藤における視野狭窄

3 ジャパメリカ──資本主義の多国籍企業段階におけるバイゲモニー構造

4 愛憎のプリズムとしてのアメリカ──生産力主義と国民国家のゆらぎのなかで 


 次の千年を目前にして、E・ホブズボームのいう「短い20世紀=極端の時代」を、現存社会主義が崩壊し、地球環境危機が誰の目にも明らかになった今日の時点で振り返ってみると、「資本主義か社会主義か」の二者択一であったかに見えた20世紀にも、実はさまざまな可能性・選択肢が存在したことが見えてくる。

 20世紀を「世界戦争の時代」と特徴づける有力な見方があるが、「宇宙船地球号」という惑星に意識を持って生きる歴史を持つ生物=人類の視座にたち、時間軸で見ると、それは人類が交通・情報技術の発達を基礎に初めて「地球社会」ともいうべき共時感覚を獲得し始めたプロセスであった。空間軸でみると、20世紀は、時間の共有を媒介とした地球上の諸地域があまねく連接化された時代であり、「世界(=地球)経済の時代」でも「世界(=地球)政治の時代」でもあった。そのなかで、諸地域の経済的・軍事的「豊かさと貧しさ」「強さと弱さ」ばかりでなく、政治における「民主主義」や情報アクセス・技術革新の「速い者と遅い者」(S・ギル)の関係性が重要になり、不平等と格差が深刻になった。「世界戦争」のメタファーに即して言えば、機動戦と陣地戦にヘゲモニーと情報戦がオーバーラップしてきた。

 「世界経済」の視点から見ると、それは、「資本主義か社会主義か」と当初設定された枠組みが、東西冷戦下の1970年頃までをピークに、経済体制が生産手段の所有のあり方に規定されるにしても、「社会主義」にも「資本主義」にもいろいろな形態がありうることが明確になった。90年代に体制間競争で勝利したと宣言された「資本主義市場経済」においても、それぞれの政治・経済・社会の連接のあり方によって、さまざまなパターンがありえたことを示した。また「先進国」で共有されたフォード主義的=ケインズ主義的国民経済のなかから「多国籍企業」が出現することによって、地球大での垂直的分業システムがつくられ、一人あたりGNPを基軸に「経済生活」の標準化とそれを指標とした「格差」が拡大した。

 しかも、ニューヨーク・東京・ロンドンなど多国籍企業・銀行本社をもつ世界都市・金融中枢が、政府間関係からも相対的に自立したハンザ同盟的ネットワークをつくりあげ、南北問題をはじめ諸国民経済間の関係に階層性をもたらした。世界人口中の最も豊かな5分の1と最も貧しい5分の1の間の格差は、1960年から89年で8倍になった。そればかりでなく、地球的規模での労働力移動をよびおこし、先進国民経済内部の地域・エスニック格差をも深刻にしている。

 「世界政治」のなかでは、「国民国家」が単位として確立し、「諸ネイションによる地球の国民国家的再分割」がひとまず完了し、「国際関係」が支配的な諸地域連接のあり方となった。その国民国家間関係レベルでの紛争が、二次に渡る「世界戦争」とその後の「冷戦=長い平和?」、旧植民地・従属国の政治的独立をもたらしたが、当の「国民国家」内では、19世紀的な「主権・領土・国民」に加えて、戦間期の「ファシズム」と「現存した社会主義」の「全体主義?」体験を通して、男女平等普通自由選挙を基礎にした「自由民主主義」の政治形態が、唯一の最も正統性ある統合形態となった。ただしそれは、西欧近代から発したイデオロギーでもあって、「民主主義」のあり方も多種多様でありうることをも示している。

 また「世界戦争の時代」であったからこそ「世界平和」が希求され、それは「世界経済」に規定されてひとまず諸国民経済の自由貿易的連接(直接投資・援助・地域経済圏を含む)の形態をとったが、やがてNGO・NPOを含む非国家的主体によっても担われるようになった。国際法・国際機構も飛躍的に増大した。にもかかわらず、地球の運命を決する基本的な政策決定は、大国間同盟としての先進国首脳会議(サミット)、G7、IMF、世界銀行、OECD、BISなどの公式の制度と日米欧委員会のような非公式な「豊かで・強く・素早い」勢力の協議によって担われているのである。

 この近代国民国家と多国籍企業を主要なアクターとした、ボーダーレスな「世界経済」とボーダーフルな「世界政治」の連接と展開──その徴表的表現が「世界戦争」──のなかで、20世紀の歴史の語り部=民衆の「生活世界」は、地球史上前例のない劇的な変化を経験した。それは、衣食住のすべてに渡り、身体組成から心身感覚に及ぶものであった。マクロには地球生態系の人為的「開発」が生態系の存立条件を脅かすまでになり、ミクロには臓器移植や遺伝子組み替えが「倫理」の問題となった。より生活世界に密着したレベルでも、情報メディアの商業化を媒介に「生活水準」の規律化した強制がすすみ、家族関係や日常的コミュニケーションのあり方にまで「近代」が入り込んだ。

 20世紀前半を「脱亜入欧」の「国民国家」形成の延長上で駆け抜け挫折した日本は、その後半を「脱亜」のまま「脱欧」し「入米」した。第二次世界大戦後の「世界経済」の特徴の一つは、敗戦国日本が占領国アメリカ合衆国と軍事・外交的にも経済的にも緊密に結合し、世界第一・第二の大国間同盟として巨大なパワーを持つにいたったことである。両国のGNPを合わせると世界のほぼ4割となり、その比率は1950年代から90年代の今日までほぼ継続している。世界貿易に占める両国をあわせたシエアも、ほぼ同様の傾向を示す。ただしこれを両国間関係として見ると、アメリカのシャアが小さくなった分だけ日本の持ち分が大きくなってきたことを示す。両国の貿易・経済摩擦は次第につよまってはきたが、国民国家単位で他領域から見れば、「ジャパメリカ」ないし「アメリッポン」と形容しうるバイゲモニー(=ヘゲモニー共有)となっている。

 しかも、この同盟の主体は、両国政府と両国に本社をおく多国籍企業である。『フォーチュン』誌が毎年夏に発表する「世界大企業売り上げ500社ランキング」(Global Five Hundred)を見ると、トップのアメリカ企業と2位の日本企業でほぼ300社を占め、3位以下のヨーロッパ諸国を圧倒する。そしてそのトップ100にランクされる巨大多国籍企業1社の売上高は、200近い国民国家のうちの中小国家のGNPよりもはるかに大きい。もっとも1980年にトップ500社中アメリカ217社・日本66社であったものが、88年にアメリカ176社・日本102社、97年にアメリカ162社・日本126社と、やはりアメリカ企業の後退を日本企業の巨大化が補うかたちになっているが。

 無論、日米安保条約にもとづく米軍駐留と日本外交の対米追随、インターネットの世界にも見られる日米文化の緊密性をも考慮に入れれば、両国の結びつきはいっそう強まる。ただしそれは、日本の側からみた場合であって、20世紀のヘゲモニー国家であり「世界の警察官」であったアメリカ合衆国の方は、グローバル戦略のなかに日本を位置づける。いわば「ポスト・アメリカ」「ポスト・ヘゲモニー」へのソフト・ランディングを、日本が支えている構図である。この意味で、60年前後の「従属・自立論争」はコップのなかの嵐であったし、以後の「外圧」の多くもアメリカ経由だった。80年代の教科書問題で初めて本格的に「旧侵略・加害国」「アジアの一員」であることの意味が民衆的に理解しうるようになったとはいえ、日米バイゲモニーの一翼としての日本がドイツを軸にしたヨーロッパ連合に対抗し21世紀のヘゲモニー国家になりあがるという、かつてI・ウォーラーステインの予測したシナリオは、グラムシ的ヘゲモニー概念からすれば、日本のパワーと自立性の過大評価だった。むしろ今後のアメリカ・中国・ASEAN諸国・インドの関係が、21世紀のアジアと世界の秩序を大きく規定するであろう。

 このプロセスで作られた日本資本主義は、官僚制の強力な産業統制力ゆえに、アメリカ資本主義から市場開放・規制撤廃を迫られているが、社会民主主義的福祉国家をビルトインしたヨーロッパ資本主義の軌跡と比すれば、公的規制は経済発展・企業育成を優先し、国民福利・環境保全を二義的にしてきた点で、むしろ相似形を成す。この20世紀後半の日本史の選択は、別に吉田茂や岸信介の政治指導の所産ではなかった。戦後日本経済復興のブレーンであった経済学者有澤廣巳や牽引車であったSONY盛田昭夫らは、むしろヨーロッパにあこがれ、アメリカとの競争を夢見ながら、アメリカから学んで、独特の日本的経済システムをつくってきた。民衆意識のレベルでも、「欧米に追いつき追い越す」という夢はGNPで西ドイツを追い越した68年時点では達成感がなく、むしろ80年代末のバブル経済期に一人あたりGNPでもアメリカを凌駕した時点で、現実のものと受けとめられた。実際は「アメリカに追いつく」だったのである。第二次世界大戦後の日本は「素早さ」において傑出していた。

 この「豊かな社会」への到達を、意識の担い手たるヒトの身体の方から見てみよう。身体計測学が「生活水準」の指標の一つとする成人男子平均身長の伸びから見えてくる歴史がある。日本列島住民の平均身長は、江戸時代まで縄文系と弥生系の混淆が進んでも大きな変化はなかったが、殖産興業・富国強兵の時代に著しい伸びを示す。戦前徴兵検査史料からは、20歳男子で1892年の平均156.1cmから1937年の160.3cmへ、学校保険身体測定統計からは、17歳男子で1948年の160.6cmから1997年の170.9cmへ、という伸びがみられる。それは、栄養状態が変わり、主として脚が長くなったものである。それは、白人成人男性の平均身長が1755年の172.0cmから1944年の173.2cmとほとんど変わらなかったアメリカはもとより、産業化により早く入り緩やかに平均身長を伸ばしてきたヨーロッパ諸国に比しても、著しく短期の劇的な体型変化であった。ただし、当初は都市化と工業化のテンポの違いによる大きな地域別格差を伴って。最近はその飽和による平準化と伸びの鈍化をも伴って。新たな文明病と免疫不全を生み出しながら。

 この身体的に完熟した日本列島住民は、しかし、それを視野の広がりと認識の深化へとつなげることはなかった。第二次世界大戦後の日本は、「国際化」「情報化」の進展にもかかわらず「世界」をアメリカ合衆国に凝集して、アメリカというプリズムを通して認識し了解するようになった。いわゆる「戦後民主主義」は、もともとアメリカ占領軍によって与えられた制度的枠組みを、日本民衆が戦時体験・被爆体験からえた「平和=いのち」と結びつけてたものであった。それは、「逆コース」や日米安保や米軍基地・自衛隊に反対し日本国憲法の諸原理を「守る」運動であり、アメリカの軍事的ヘゲモニーに反対しながらも、単純な「反米」ではなかった。敗戦後に日本民衆がえた「アメリカ的くらし」にあこがれ、占領期の「アメリカ民主主義」のイメージに依拠しつつ、その実体に抵抗して「いのちとくらしを守る」ものであった。

 例えば学生の意識調査で「好きな国」「嫌いな国」を挙げさせると、その双方でアメリカ合衆国が高位を占める。「外国」という言葉からイメージされる国は、圧倒的にアメリカとなる。そのなかで「仕事本位から生活本位へ」「モノの豊かさから心の豊かさへ」といった生活価値観の転換が進むが、その「生活」イメージにもまた、「アメリカの影」がつきまとう。実は、社会科学の世界はその典型で、学問分類から流行理論、近代化論からカルチュラル・スタディーズにいたるまで、たえず「アメリカの影」がつきまとってきた。「二大政党制」を夢見て今なお離合集散を繰り返す「55年体制」崩壊後の政界は、敢えて言うまでもない。

 だが、20世紀の人類に本当に問われたのは、「生活」そのものの考え方、そのトケイとモノサシだった。占領期の「ブロンディ」への夢から始まって、1952年の「生活水準」測定の始まりから、60年の「所得倍増計画」、74年の「社会指標」、79年の「生活の質」、86年の「アメニティ」を含む「国民生活指標」、92年からの「住む、費やす、働く、育てる、癒す、遊ぶ、学ぶ、交わる」の「新国民生活指標」にいたるまで、国連や国際機関から一部を学んだとはいえ、アメリカ的生活様式を鏡にモノサシをつくり、トケイの針を進めてきた。「人間の自由度」を含む国連「人間開発指標(HDI)」や、北欧に生まれた「Green GNP」のような発想は、日本では自生的には生まれなかった。ヨーロッパ諸国は「イギリス病」や「スウェーデン病」と揶揄されたが、日本への感染を恐れてか「アメリカ病」を真剣に説く支配的言説は現れなかった。本当は「病気と健康」「健常と異常」の線引きそのものが問題であったのに。

 そして、アメリカばかりでなくヨーロッパもアジアもあり、アフリカもアラブ世界も私たちの「生活」とつながっており、それらの世界には、さまざまなトケイがありモノサシがあることが広く認識されるようになるのは、ホブズボームのいう「短い20世紀」が終わった90年代に入ってである。日本もアメリカも「特殊」であるように、世界のさまざまな地域にそれぞれのユニークさがあり個性があるという当たり前のことが、「生活世界」からも見えてきたのである。

 無論「アメリカの影」は、「近代国民国家」が地球社会の支配的アクターであり続け、その国家間関係のモノサシでアメリカが頂点にある限りで、ナンバーツーの日本にも、つきまといつづける。そしてそれは、私たちの世界観・歴史観の深層をなお大きく規定し、世界史と日本史、西洋史と東洋史といった歴史学の話法をも存続させつづけているのである。



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