ここに収録するのは、大学1・2年生向け講義用テキストを想定して作られた共著『日本史のエッセンス』(有斐閣)のなかの、私が担当執筆した現代史=戦後日本50年史概要である。書物はまだ発売されたばかりで、この1998年4月から教科書として使う大学もあるようだが、発売後3か月をこえた共著の一部であり、5月の歴研大会報告のベースとなるものなので、敢えてインターネット上にも公開する。ただしこれは、書物のそのままのかたちではなく、活字になる前の最終草稿をハードディスクから呼び出し、インターネット用にアレンジしたものである。表題や章名もあらためているので、書物としての引用・参照は『日本史のエッセンス』そのものにあたってもらいたい。


 戦後日本半世紀の軌跡

 

 加藤 哲郎


 1945年以降の日本は、歴史としてはまだ客観化しにくい、現在と直結する近過去である。国民国家として初めての敗戦を経験し、連合軍による占領によって、日本史は大きく転換した。君主主権の大日本帝国憲法から国民主権の日本国憲法へと、国家体制が組みかえられた。その過去との断絶ゆえに、戦前・戦後という言葉が、今日でも広く使われ流通している。同時にそこには、過去との連続もみられる。天皇制は象徴として残され、官僚制の役割は大きい。会社の経営の仕方や「世間」の構造にも、日本的な特質が色濃く残されている。これまで学んできた日本列島の歴史が、私たちの現在にどのように刻印されているかを知ることが、現代史学習の課題である。

 1945年以降の変化も大きい。50年代に始まる高度経済成長と、それにともなう農業社会から産業社会への移行で、国際社会のなかでの日本の役割は、飛躍的に大きくなった。核家族化・少子化・高齢化、地域の過密・過疎、職場の高学歴化・女性の進出、科学技術の発展と情報化・マルチメディア化は、今日の「豊かな社会」日本の土台となっている。21世紀の日本の未来を見通すためにも、現代史を学ぶことは意味がある。

 日本社会の国際化は、私たちの国家観・歴史観を問い直す契機を与える。同じ日本人といっても、沖縄の人々やアイヌの人々の歩みは、日本列島のなかで独自のものであった。戦後日本に定住した在日朝鮮・韓国人や、1980年代以降急増するアジアからやってきた人々にとっては、20世紀後半の日本史は異なる意味を持っていた。こうした視角から歴史を見直すことも、21世紀を考えるうえでは重要である。ここでは、とくに沖縄の戦後史を重視し、ひとつの縦糸にしている。

 第1章では、1945年の敗戦から占領期の日本を扱う。第2章では、サンフランシスコ条約でようやく独立し経済復興から成長へと入った1950年代を、戦後民主主義と国民生活の変化を中心に扱う。第3章では、60年安保後の高度経済成長で発展し景観が変わる日本が扱われ、第4章では、本土と切り離されてきた沖縄の施政権返還と、高度経済成長末期の社会変化が描かれる。第5章では、1973年第一次石油ショック以降のの日本の経済大国化と国際化を、第6章では、冷戦崩壊・自民党単独政権崩壊後の1990年代を、現在とのつながりで描いていく。


 
第1章 焼け跡、闇市、GHQ

 

 アジア太平洋戦争は終わった。天皇制国家は敗北した。アメリカを中心とした連合国軍の支配のもとに入った日本は、新憲法の制定で国民主権の民主主義国家に再生した。だが資本主義アメリカと社会主義ソ連の対決という東西冷戦の影が、占領下の日本にはつきまとっていた。当初の非軍事化・民主化の占領政策は、反共産主義・資本主義復興の方向に向かった。国民の生活は苦しかった。まずは食糧確保で大変だった。それでも人々はたくましく生きた。中国革命や朝鮮戦争で激動する東アジアのなかで、日本はサンフランシスコ条約と同時に日米安保条約を結ぶことにより、西側自由陣営の一員としてようやく独立を認められた。

 

敗戦と占領 

 1945年8月15日、日本は、連合軍のポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した。8月6日の広島、9日の長崎への原爆投下、それにその合間の8月8日のソ連の対日参戦が、御前会議での決断の決定的引金になった。8月15日の昭和天皇による玉音放送を、日本人はさまざまな思いで聞いた。戦争が終わったとホッとする人もいれば、天皇陛下に申し訳ないと途方にくれる人もいた。連合軍の上陸までには2週間ほどかかった。その間に皇族の東久邇稔彦内閣が成立したが、それは、連合軍総指令官マッカーサーを迎え降伏文書にサインするだけの敗戦処理内閣であった。

 連合軍総指令部(GHQ)は、敗戦国日本の運命を握っていた。新聞は検閲され、戦前の教科書は墨で塗りつぶされた。アメリカ政府の「降伏後における米国の初期の対日方針」(SWNCC150/4、1945年9月22日)にそって、政治犯の釈放や天皇に関する自由な論議の指令からはじまって、次々に改革方針を実行に移した。外務大臣だった幣原喜重郎が10月9日に内閣を組織し、10月11日の民主化に関する5大指令(婦人解放、労働組合結成奨励、学校教育の自由主義化、秘密警察など民衆弾圧機構撤廃、経済機構の民主化)などを実施したが、占領軍の間接統治を担うもので独自の権限はなかった。

 東京・大阪周辺は、戦争末期の空襲で一面が焼け野原だった。しかし、人々は食べていかなければならなかった。かつて「鬼畜米英」と恐れられたアメリカ兵も「進駐軍」とよばれ、チョコレートやガムをこどもたちに与えて歓迎された。焼け跡には闇市がたった。甘いものや腹のふくれるものが好まれた。鍋釜、醤油など生活必需品はもちろん、旧軍需品や飲めば目がつぶれるメチルアルコールまでが、バラックの露天の店にならんだ。日本政府公認で進駐軍相手の性的慰安所までつくられた。食事情が最悪のもとで巷ではやったのは並木路子の歌う「リンゴの歌」であった。

象徴天皇制 

 「惟フニ長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動モスレバ焦躁ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。……朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ。……御名御璽」――このわかりにくい文章が、1946年1月1日の「天皇の人間宣言」とよばれるものである。マッカーサー元帥と幣原首相が話し合い、幣原が英文を起草してGHQの了解を得、詔勅のかたちにととのえたものだった。アジア太平洋戦争は、天皇の名において、天皇の軍隊に国民が動員されたものだった。敗戦の決定も天皇の玉音放送によって国民に知らされた。当然のことながら、天皇制をどうするかが、戦争責任のうえでも、戦後の日本の体制を定めるうえでも重要な争点になった。

 国民のなかでは、「人間宣言」によっても「天皇=現人神」のイメージは残っていた。1945年12月の世論調査では、天皇制支持95%、否定5%であった。合法化された共産党の主張した天皇制廃止は、46年5月でも11%の支持しかなかった。戦勝国アメリカでは、天皇を戦犯とみる世論が強かった。45年6月のギャロップ調査では、天皇の「処刑」33%、「終身刑」11%、「追放」9%。「裁判で決める」17%であった。しかし、アメリカ政府内部では「天皇制は支持しないが利用する」という方針が有力だった。

 マッカーサー元帥は、昭和天皇を温存した占領政策の円滑な実行をめざした。日本の天皇側近や保守勢力も、天皇制存続を第一義的目標としていた。その妥協の産物が、日本国憲法にうたわれた「象徴天皇制」であった。

日本国憲法

 「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と君主主権を定めた戦前の大日本帝国憲法の改正の必要は、GHQにとって自明であった。だが、国のしくみの基本を定める憲法改正は、国民の合意によってなされるのが好ましかった。同じ敗戦国イタリアでは、国民投票によって君主制を廃止し、不戦を誓った新憲法が1946年5月に施行された。日本国憲法については、政府内や政党・民間に多様な憲法構想があったが、当初の日本政府の憲法改正草案は、「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス」と「神聖」を「至尊」に変えただけのものだった。

 GHQは、@天皇は最上位にあること、A戦争放棄と戦力不保持、B貴族制度の廃止、のマッカーサー3原則を骨子として草案づくりにのりだし、それを日本政府に提示した。象徴天皇制とともに、国民主権、恒久平和、基本的人権、国権の最高機関としての国会、地方自治などの考え方が、このGHQ草案段階で示された。日本政府内部には明治憲法の部分的改正に固執する反対意見も根強かったが、けっきょく国民主権・戦力不保持の承認のみが「象徴」としてでも天皇制を残しうる道であると悟り、1946年3月、GHQ草案をもとにした改正草案を発表する。昭和天皇は、「今となっては致方あるまい」とそれを裁可した。ただし、GHQ草案の「外国人は法の平等な保護を受ける」という規定や人権条項のいくつかは削除され、国民主権条項も曖昧にされた。

 国民の多くはこの憲法草案を歓迎した。財界は、資本主義制度が守られ天皇制も維持できたので安堵した。草案発表1ヵ月後の第22回衆議院議員選挙が、事実上の国民投票となった。1946年4月の総選挙は、女性参政権が認められ、選挙権が満25歳から20歳に引き下げられて初めての国政選挙であった。有権者は東条内閣下の翼賛選挙の2・5倍になった。戦前非合法だった共産党も候補者をたてた。公職追放で現職議員の多くが追放されたので新人が目立った。466の定員に2770人(内前・元職146人)の立候補で女性候補も89人にのぼった。1人1党の184人を含め、候補をたてた政党の数は258もあった。4月10日の投票結果は、投票率72・1%、自由党140、進歩党94、協同党14、社会党92、共産党5、諸派38、無所属81であった。39人の女性代議士が初めて誕生した。総選挙後も政局は混乱し、吉田茂を首班とした自由党・進歩党連立内閣が成立したのは5月22日のことであった。

 日本国憲法は、衆議院・貴族院での討論でいくつかの修正が加えられ、1946年11月3日に公布され、翌47年5月3日から施行された。憲法第9条第2項の戦力不保持規定の前に、「前項の目的を達するため」といういわゆる芦田修正(芦田均の提案)が加えられたのは衆議院の審議過程であり、後の自衛隊合憲・違憲論議で重要な役割を果たす。国会の外では労働組合の生産管理闘争が盛んで、46年5月19日の食糧メーデー(飯米獲得人民大会)には「米よこせ」を掲げて25万人もが加わっていた。

 東京裁判

 1946年5月3日に、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷した。東京裁判は「平和にたいする罪」「人道にたいする罪」を戦争犯罪と認め、東条英機元首相ら28人のA級戦犯を被告として、その個人的責任を問うものであった。ナチス・ドイツについては、45年11月からニュルンベルグ裁判が審理中であった。ただし、オーストラリアのウェッブを裁判長とした東京裁判の法廷には、戦争の最高指導者であった大元帥昭和天皇の姿はなかった。マッカーサーはすでに、45年9月27日の天皇との第1回会見以来、天皇を戦犯として訴追せず、占領間接統治に役立てるつもりであった。オーストラリアの検察官が天皇訴追を提議したが、国際検察局は政治的配慮で天皇を免責とした。

 検察側の証拠では、元内大臣木戸幸一や元老西園寺公望の秘書であった男爵原田熊雄の日記が重視された。証人のなかには、元陸軍兵務局長田中隆吉のように検察側に全面的に協力する者もいた。多くの日本国民は、「南京大虐殺」やフィリピンでの「バターン死の行進」を東京裁判を通じて初めて知らされた。精神障害と判定された大川周明、公判中に病死した松岡洋右、永野修身を除く25人の被告全員が有罪判決を受けた。東条英機ら7人が絞首刑とされ、1948年12月23日に執行された。ただし翌24日、GHQは岸信介、児玉誉志夫、笹川良一ら終身刑や禁固刑を宣告された残り17名のA級戦犯全員を釈放し、裁判の終了を宣言した。B級・C級戦犯は、連合国に属するそれぞれの国の法律にもとづき、5700人が起訴され千人近くが死刑となった。ソ連では、一般兵士ら日本人64万人がシベリアなどの収容所に抑留され、6万2000人が極寒のなかで命をおとした。

 東京裁判は、アジアの民衆よりも米英の立場を優先した「勝者の裁き」であり、判決時に米ソ冷戦の影がつきまとったことが、後にその意味を問い直させるものとなった。

 戦後改革

 国家制度としての日本国憲法の制定は、それを支える社会の変革を前提とし制度化したものである。いわゆる戦後改革は、GHQの超法規的命令による「上からの改革」ではあったが、戦後日本のあゆみを方向づけ限界づけた。

 戦後改革は多面的であり、分野によりその深さは異なる。戦前の制度が利用されて機能を変えることがあれば、全く新しい制度をつくったものもある。その内容は一般に「非軍事化」と「民主化」と要約されるが、そこには「日本国が再び米国の脅威となり、また世界の平和と安全の脅威となることのないよう保障する」(「降伏後における米国の初期の対日方針」)というアメリカの国益優先の考え方が貫かれていた。

 財閥解体は、戦前日本資本主義の中核であった三菱・三井などの財閥持株会社を解体し、株式所有の分散と集中排除をねらった。三井物産・三菱商事は、それぞれ200社・130社へと分割された。1947年4月の独占禁止法、同年12月の過度経済力集中排除法は、アメリカの反トラスト法より厳しいものであった。これによって財閥家族による同族的支配力は喪失したが、48年1月になると、アメリカ陸軍長官ロイヤル将軍の「日本を反共の砦にする」という声明にみられるようにGHQの政策全体が「非軍事化・民主化」から「経済復興・資本主義再建」へと転換し、施行過程では集中排除政策は骨抜きにされた。日本製鉄が八幡と富士に、王子製紙が苫小牧・十条・本州製紙に、大日本麦酒は日本麦酒と朝日麦酒に分割されたが、銀行は対象に入らなかった。旧財閥系企業は、銀行と商社を軸に、株式相互持合の企業集団へと再結合していく。

 労働改革は、1945年12月に労働組合法が成立し、労働者の団結権・団体交渉権・争議権を承認した。46年9月に労働関係調整法、47年4月には労働基準法も成立し、戦前の旧工場法に比してはるかに民主的な労働運動奨励策がとられた。47年6月には片山社会党内閣のもとで労働省も設置された。とはいえそれは、GHQが戦前日本資本主義に世界市場におけるソーシャル・ダンピングを見ていたからであり、財閥解体と同様に、日本経済を正常な市場競争に投げ込もうとしたものであった。労働組合組織率は急速に高まり、読売争議、東宝争議などインフレのもとで生産管理を含むストライキは頻発したが、47年の2・1ゼネストはマッカーサーによって中止指令が出された。戦時中の産業報国会の流れを汲む、ブルーカラーとホワイトカラーを一緒にした企業単位での労働組合では、従業員としての会社への帰属意識が強まり、日本的経営の有機的一環に組み込まれていく。

 農地改革は、封建的土地所有の排除とともに、食糧確保のためにも必要であった。1945年12月のGHQ「農地改革の覚書」に始まる第1次農地改革、46年10月以降の第2次農地改革で、戦前の小作地の81%を解放した。農家の大部分は自作農または自小作農となり、山林地主を除いて大地主は一気に没落した。その結果、農業生産力も50年にはほぼ戦前水準を回復し、中堅自作農家が育成された。とはいえ農産物価格は低く抑えられ、国際的にみれば自作地も零細であったから、復員・引揚げ者を多数かかえた農家の余剰人口は、後の経済成長期の農村から都市へ流入する労働力のプールになった。

 日本国憲法にもとづいて、地方制度や警察制度も改革された。知事や市町村長など地方自治体の首長は公選制になり、独自の条例制定権やリコール・住民投票の制度もとり入れられた。特高警察廃止ばかりでなく、1947年末に内務省が廃止され、国家地方警察と自治体警察の二重の制度がつくられた。婦人警官も生まれた。

 学校教育では御真影や教育勅語が廃止され、1947年3月の教育基本法・学校教育法にもとづき6・3・3・4制、男女共学が採用された。憲法が「個人の尊厳と両性の本質的平等」を認めたことで、「淳風美俗」とされてきた戦前の家父長制的な家族制度も存立根拠を失った。女性に参政権が与えられたことがそれを促進した。

 逆コース

 1947年4月の総選挙は、事前の予想をくつがえし、社会党が第1党になった。国民協同党・日本民主党との連立内閣がつくられ、社会党の片山哲が首相に選ばれた。マッカーサー元帥は片山内閣成立を歓迎した。だがそれは、片山が社会主義者だからではなかった。中国国民党の蒋介石や韓国の李承晩と同じようにキリスト教徒であったからである。「日本はこれから、東洋のスイスたれ」と片山を励ましたという。

 片山社会党内閣も、それを受け継いで社会党が入閣した芦田均民主党内閣も、社会主義の方向に向かうどころか、占領政策がいわゆる「逆コース」に向かうさきがけとなった。片山内閣の最大の課題は、経済復興だった。吉田内閣末期につくられた経済復興会議のもとで、鉄鋼・石炭が牽引する傾斜生産方式への労使の協力を求め、生産を拡大しようとした。ところが、社会党色を出して炭鉱の国家管理まで進めようとしたところ、保守勢力の強い抵抗にあい、わずか8ヵ月で崩壊した。芦田内閣のもとでは、公務員のスト権剥奪、在日朝鮮人への弾圧、公安条例の制定など、労働運動や民主運動への規制が強まった。

 その背景には、国際情勢の変化があった。東西冷戦である。旧連合国のアメリカとソ連は、戦後世界を資本主義と社会主義に二分し、ヨーロッパでもアジアでも、おのおのの勢力圏を拡大していた。毛沢東と中国共産党の指導する中国革命の進展は、とりわけアメリカにとって脅威であった。朝鮮半島には、1948年8月の大韓民国、同9月の朝鮮人民民主共和国と分断国家が成立した。1949年10月1日には中華人民共和国が成立した。GHQの内部でも保守派が台頭して、ニューディーラーとよばれたリベラル派の影響力が弱まり、GS(民政局)からG2(参謀部諜報・保安担当)へと政策決定の重心が移動してきた。

 もうひとつの背景は、敗戦処理としての対日講和問題である。1947年3月にマッカーサーは対日講和の機は熟したと語り、片山内閣下で9月に外務省がまとめた構想には、米軍を講和後も残して「日本の防備を米国の手に委ねること」が入っていた。後の日米安保条約に連なる考え方は、日本側にもあったのである。早期に独立を回復し、国際社会に復帰するためには、冷戦の一方の当事者で日本占領の主力であるアメリカに頼るしかない実態が、日本政治のなかにも影を落としていた。

 1948年10月、芦田内閣は総辞職した。復興金融公庫から有利な融資を受けようとした昭和電工が高級官僚や国会議員に賄賂を配った汚職事件(昭和電工事件)が、西尾末広副総理の逮捕にまで広がったためである。民主自由党の吉田茂が政権に復帰し、49年末総選挙での圧勝を背景に、保守勢力の再結集が進んだ。アメリカ極東政策も、中国革命の成功に危機感をもって「共産主義との対決」を主眼とするものとなった。とりわけ沖縄は、アメリカの反共軍事戦略の中心とされた。

 ドッジ・ラインと呼ばれたインフレ抑制・経済安定政策によって、企業倒産・行政効率化・人員整理が進んだ。労働組合や左翼勢力の抵抗は、国家公務員のスト権剥奪(政令201号、1948年7月)・定員法(49年5月)ばかりでなく、政府の団体等規制法(49年4月)、地方自治体の公安条例制定、在日朝鮮人運動弾圧などでおさえこまれた。下山・三鷹・松川事件などで社会不安も増大し、50年1月に、日本社会党は講和条約への態度をめぐって左右両派に分裂した。日本共産党も、職場でのレッドパージの進行とソ連からの「占領下平和革命論」批判(コミンフォルム批判)によって分裂し、地下に追い込まれた。革新政党の影響下にあった労働組合運動は内部対立を深めていく。

 「逆コース」の総仕上げは、朝鮮戦争によってもたらされた。1950年6月25日、北緯38度戦を境に危うい均衡を保っていた南北朝鮮の対立は、北朝鮮軍の侵攻から内戦になり、米ソ両国が介入する熱戦へと広がった。マッカーサーは吉田内閣に警察予備隊設立を指示し、日本全土を在日米軍の出撃基地とした。政財官界では、戦犯として追放されていた人々の追放解除・第一線復帰が行われ、逆にレッドパージは全産業へと広がった。警察予備隊には旧軍幹部も登用され、後の保安隊・自衛隊の原型となった。日本資本主義は、朝鮮戦争特需でうるおい、ようやく本格的な経済復興の軌道にのった。

 アプレゲール 

 焼け跡・闇市から経済復興へと向かう占領期は、当時の普通の人々にとって、価値観の転換と新しい生き方を強いられた時代であった。画一的に社会を統合し、民衆を戦争へと動員した国家は崩壊した。アメリカ占領軍からはデモクラシー(民主主義)や自由の考え方がもたらされ、マルクス主義が一世を風びした。敗戦直後は、新興宗教やギャンブルがはやった。1945年9月に発売された『日米会話手帖』という簡単な英文を並べただけの本が爆発的に売れ、「しょうじょう寺の狸話」の替え歌「カム・カム・エブリバディ」で始まるラジオの英語会話番組が人気を博した。雑誌や哲学書が発売されると書店に列ができた。プロ野球が再開され、「フジヤマのトビウオ」といわれた古橋広之進の水泳世界記録更新や、湯川秀樹博士のノーベル物理学賞受賞が、明るいニュースになった。

 価値観の転換は、若い世代でとりわけ深刻であった。フランス語の戦後、「アプレ・ゲール」とよばれた若者たちの言動が、政府の唱えた「一億総懺悔」という戦争責任のごまかしへの反逆と評された。欲望は解放された。既成のモラルに反発し、なにものにも拘束されない奔放な言動が「自由」と理解された。親や兄弟をなくした戦災孤児も多かった。戦争を賛美してきた教師の敗戦後の豹変に、こどもたちの不信がつのった。個人の人格とこどもの自主性を尊重した教育基本法のもとで、49年4月の新制大学発足以前から、キャンパスには学生自治会がつくられ、全学連も結成された。戦没学生たちの手記『きけわだつみの声』がベストセラーになった。「若く明るい歌声に、雪崩は消える花も咲く」と歌う「青い山脈」がはやったのは、49年のことだった。敗戦から復興へと、人々は希望を持ち始めた。

 しかし、敗戦時に大きな犠牲をこうむった沖縄は、米軍の直接統治下にあった。戦争直後に日本にいた朝鮮人・中国人の中には、強制連行で連れてこられた80万人の人々も含んでいた。戦後も日本に残った50万人以上の「在日」の人々は、日本政府の保護を受けられず、自主的運動は弾圧された。


     第2章 偏差値を知らないこどもたち

 

 サンフランシスコ講和条約にもとづく独立は、同時に結ばれた日米安保条約で米軍基地を残し、沖縄・小笠原を米軍施政権下においたままであったが、ともかく日本の経済復興・国際社会復帰の条件をつくった。二度と戦争を繰り返さないという日本国憲法の精神は、学校教育を通じて定着しはじめ、平和と民主主義が革新勢力の合言葉となった。朝鮮特需で復興軌道にのり、50年代後半に急成長する日本経済は、国民の生活向上・消費ブームをよびおこし、家庭電化製品が狭いわが家に整うようになった。55年に社会党が再統一し、保守合同で自由民主党が結成されて、55年体制と後によばれる保守・革新対決の構図が定着した。戦後民主主義は、60年安保闘争で頂点を迎える。

 

 サンフランシスコ講和 

 1952年4月1日、日本は、前年9月にアメリカなど49ヵ国と締結されたサンフランシスコ講和条約にもとづき独立した。同時に、日米安全保障条約がアメリカと結ばれて、戦後日本の国際的枠組みが決められた。日本は、東西冷戦のなかで、アメリカを盟主とする西側同盟の一員に組み込まれたのである。

 講和条約を結ぶにあたっては、国内でも大きな論争があった。社会主義のソ連や中国を含むあらゆる当事国と合意できる講和にしなければならないという主張は、全面講和論とよばれ、当時の知識人や革新勢力の唱えるものであった。しかし吉田茂内閣は、ソ連を欠いても独立を急ぐべきだと主張し、片面講和とよばれた。

 ソ連から中国・朝鮮へと広がった社会主義・共産主義の脅威や、アメリカの援助なしには経済復興もおぼつかないという理由で、日米安保条約による米軍基地の存続と日本の再軍備に道を開く最小限の自衛力の保持も正当化された。朝鮮戦争時の1950年8月にマッカーサーの指令でつくられた警察予備隊は、52年10月に保安隊に、54年7月には自衛隊へと改組・増強された。こうして戦後日本の道行きは決まった。占領は終わり独立国となったが、アメリカの影はつきまとった。

 もはや戦後ではない

 片面講和の選択は、経済的にはアメリカに依存した経済復興を意味した。日本経済は、ドッジ・ラインでインフレを抑制し、石炭・鉄鋼投資を先行させた傾斜生産方式で復興軌道に乗ったとはいえ、1952年独立の段階では、なお戦前水準を回復していなかった。経済復興の足がかりは、朝鮮戦争であった。朝鮮半島での米ソ冷戦を肩代りした南北対立の熱戦は、1953年7月に北緯38度戦を暫定境界とした停戦が結ばれたが、日本は米軍の発進基地になることにより、繊維衣料・ゴム・皮革産業などで、戦争特需の恩恵を受けた。

 1955年、日本の経済水準はようやく戦前の最高水準を回復した。このことを、翌56年の政府の『経済白書』は「もはや戦後ではない」とうたった。じっさいこのころから景気も上向きになり、神武景気が到来した。財界団体が復活し、金融制度が整い、55年には日本生産性本部が発足してアメリカ風の合理的経営を企業に普及していった。まだ労働運動は強力で、大企業での争議も頻発していたが、労働者のくらしは少しづつ改善されていた。 

 55年体制

 1955年は、政治の世界でも大きな転機となった。講和条約への態度をめぐって左右に分裂していた社会党は、10月に統一大会を開き一つになった。これに危機感をもった財界の仲介で、11月、保守勢力も合同して自由民主党を結成した。4月の統一地方選挙では、新宗教団体創価学会が政治に進出をはじめた。朝鮮戦争勃発直前にソ連のスターリンと中国の毛沢東から批判されて分裂し、地下活動に入って極左冒険主義的武装闘争を進めていた日本共産党も、7月の第6回全国協議会で統一を回復し合法舞台に再登場した。

 以後、戦後日本の政治は、憲法改正を綱領に掲げた自由民主党が国会議席の過半を占めて政権を独占し、しかし平和憲法擁護を掲げる日本社会党など野党が3分の1以上の議席をとって憲法改正の発議はできず、そのイデオロギー対立のはざまで驚異的な経済成長を経験する長期の「1か2分の1政党制(自民党1に対して社会党2分の1の対立構造)」が定着する。

 1955年に始まるため「55年体制」とよばれ、それは、冷戦崩壊後の1993年まで基本的に継続する。ただし、1960年安保闘争を境に、イデオロギー対立から経済成長の成果の利益配分をめぐる対立へと争点が移行していく。また、野党内では日本社会党が長期に衰退し、創価学会の流れをひく公明党、日本共産党、それに60年に社会党から分かれる民社党なども進出してくる。 

 新生活運動と家庭電化 

 独立した日本のめざす道は、「欧米においつけ追い越せ」であったが、占領期の強烈な体験は、何よりも「アメリカ的生活様式」へのあこがれをうみだした。

 新しい日本にふさわしい新しい生活をということで、政府や農協・会社が後ろだてになって新生活運動が展開された。農村でも都市でも、女性の生き方、嫁と姑の関係を近代化し、家事や家計の合理化をすすめるものであった。家計簿をつけて家庭生活を合理化し、こどもの数も家族計画にそって夫婦で決める。その先には、戦後すぐの時期に新聞漫画『ブロンディ』などで伝えられた、電機製品で囲まれたアメリカ的家庭生活の夢があった。それが文化生活ともてはやされた。

 もっとも1955年のコマーシャルには「テレビは一生のお買いもの」(ナショナル)というのがあった。この頃の家電製品の普及率といえば、アイロンは60%と過半数の家庭に浸透していたが、洗濯機と扇風機がようやく10%、電気釜もテレビも登場したばかりであった。それが1960年には、白黒テレビ47%、洗濯機36%、トースター28%、電気釜25%、電気コタツ24%、冷蔵庫も13%まで普及する。61年のコマーシャルには「2台目のテレビです」(NEC)と流れはじめる。家庭電化の夢は、この頃から急速に現実のものとなっていった。

 団地という夫婦・子ども中心の都市型の集合的居住様式、セルフ・サービスで買物ができるスーパーマーケット、台所がキッチンになり、茶ぶ台から椅子式の食事になり、パンとインスタント・コーヒーの朝食が若い世代から広がってゆくのが、この時代である。 

 集団就職

  高度成長の始まりは、農村から都市への住民大移動の開始であった。都市の工業地帯は労働力不足で、いくらでも若年労働力を受け入れた。地方の中学・高校出身の少年・少女たちは、製造部門の技術工に引っ張りだこで「金の卵」といわれた。1955年3月、岩手県では集団就職の第1号列車が盛岡駅を出発した。京浜・東海・阪神工業地帯に向かう農村出身の少年・少女を乗せた集団就職列車は、75年3月に廃止になるまで76本運行され、4万7000人の若者を都会に送りだした。

 だが、「金の卵」の夢が破れるのも早かった。この岩手県の集団就職第1号列車で愛知県豊橋市の織布工場に就職した少女の話を聞いてみよう(『高度成長と日本人・誕生から死までの物語』日本エディタースクール出版部、1985年、148ー149頁)。

 「仕事は白い無地の布を織る機械の監視だった。糸が切れると手際よく結んで機械を作動させる。十人足らずの小人数の会社だったが、2交代制を採用してフル操業していた。早番の人は朝4時に起きなければならなかった。これがつらかった。仕事場は、日の当たらない寒いところでたちまちシモヤケに。シモヤケが破れて糸が結べないこともしばしば。仕事にならなくて怒られてよく泣きました。夜汽車をみたり『ボーッ』という汽笛をきいてはホームシックになりすすり泣いた。
 手紙は勝手に開封された。何よりつらかったのが食事でした。ご飯がボロボロの外米。いくら家が貧しくとも、家で作ったおいしい米を腹いっぱい食べさせてくれましたから。おかずもひどかった。佃煮少しにたくわん3、4切れか、イモの天ぷら2つにたくわん。出された削り節に虫がついていたことも。安く買ってきたんでしょうねえ。他の3人と揃って残すのが唯一の抵抗だった。」 

 民主教育

 同時にこの時期は、日本の戦後民主主義の定着期でもあった。敗戦によって、日本の教育は深刻な反省を強いられた。教育勅語のような「天皇陛下のため」の教育は排斥された。古い教科書は墨で塗られ、6・3・3・4制の新しい学校制度が設けられた。教師たちは「民主主義」を教育の原点においた。1948ー49年に文部省によりつくられ53年度まで用いられた高校用社会科教科書で、中学3年の参考教材としても使われた『民主主義』には、次のような記述があった。

 「これまでの日本の教育は『上から教えこむ』教育であった。もっと悪いことには、政府の指図によって動かされるところがあった。」
 「人間はそれぞれ、性質も異なる。それを一つの型に当てはめてしまうということは、人間を尊重するゆえんではない。民主主義は何よりも個性を重んじる。すべての人が個性を伸ばせるように、平等の機会と教育の自由とを保証する。」
 「日本も無謀きわまる戦争を始め、国民のすべてが塗炭の苦しみを味わった。そういうことは二度と起こらないと思うかもしれない。しかし安心していることはできない。独裁政治を利用しようとする者は、今度は、もっとじょうずになるだろう。だれもが反対できない民主主義という一番美しい名まえを借りて、こうするのがみんなのためだと言って、人びとをあやつろうとするだろう。」

 多くの教師たちは、「教え子を戦場に送るな」の合言葉で、日教組(日本教職員組合)に加わり平和教育・民主教育にたずさわった。父母もPTAなどを通じて、学校に関わるようになった。1955年には、「生命をうみだす母親は、生命を育て、生命を守ることを望みます」を合言葉に、第1回日本母親大会が開かれた。3283万人の日本人署名、6億7000万人の外国での原水爆禁止署名を背景に、第1回原水爆禁止世界大会が広島で開かれたのも、この年である。

 しかし、戦後民主主義は、家族や教師たちの戦時中の悲惨な生活体験や広島・長崎の被爆体験、アメリカ占領下の民主主義導入を基礎にこどもたちに継承されたが、日本が朝鮮・中国・アジアに侵略し、それら国々の多くの人々を殺戮し傷つけたことには、十分思いをめぐらすことができなかった。この時期、アジア諸国への賠償が開始され、フィリピン、インドネシア、ビルマ(現在のミャンマー)、ベトナム(フランスが擁立した南ベトナム政府)などとのあいだに賠償協定が結ばれたが、それは、戦時賠償ばかりでなく「実物賠償」という名の経済援助の性格が強く、後の日本企業のアジア進出の足がかりになった。また、インドネシア賠償などでは、政治家たちが企業の経済進出と組んで利権を漁ったが、多くの日本人はそうした問題に無関心であった。

 まだ偏差値はなかった。新制大学は生まれたばかりで高校進学率もまだまだ低く、こどもたちは受験競争など知らなかった。茶の間には戦死した家族をまつる神棚がおかれ、ビデオもファミコンもなかった。自動車も少なかった。路地裏のこどもたちには、かくれんぼやカン蹴りの遊びがありガキ大将がいた。

 教育は、地域の仕事だった。教育委員の公選も認められていた。しかし、戦後民主主義への反動も強まっていた。『うれうべき教科書問題』を発行して愛国心の欠如を嘆いたのは、保守合同直前の日本民主党であり、その党首鳩山一郎が初代自由民主党総裁になって自主憲法制定を党是にかかげた。1950年代後半に、教育委員の任命制、教員の勤務評定、全国一斉学力テストが導入されたのは、日教組主導の民主教育への文部省の逆襲であった。 

 沖縄の戦後と米軍基地

 日本の独立が「片面講和」であり、日本の運命がアメリカに握られていることの象徴が、全国各地の米軍基地の存在だった。日米安全保障条約と地位協定によって、米軍基地内は治外法権であり、沖縄・小笠原諸島は米軍の直接の施政権下にあった。

 1995ー97年に大きな政治問題となった沖縄米軍基地用地の強制使用手続きにおける、太田昌秀沖縄県知事の代理署名拒否訴訟の準備書面は、この頃までの沖縄の歴史を、次のように述べている。

 「敗戦直後の沖縄では、占領米軍を解放軍とみなす戦前の社会主義者たちによる独立論、支配者の意向に迎合する事大主義的独立論、教職員など知識層に根強く残る日本復帰思想などが混在していたが、多くの民衆は、戦争による徹底的な破壊と荒廃の中で、その日暮らしの生活に追われていた。
 しかし、占領軍が新しい支配者としての姿を明瞭にし、基地建設が始まるなかで明らかにされた対日平和構想によって、日本が独立した後も、沖縄が米軍支配下にとり残されることがはっきりすると、民衆の政治的動向は急速に日本復帰の方向に集約されていった。『平和憲法下への復帰』を求める日本復帰運動の始まりである。 1951年9月の対日講和会議に向けて、圧倒的多数の沖縄民衆は、議会決議や署名運動によって、日本復帰の明確な意思を日米両政府に伝えた。しかし、こうした住民の意向は、一顧だにされることなく、対日平和条約が締結され、その3条によって沖縄は日本から半永久的に分離されることになった」(沖縄県編『沖縄 苦難の現代史』岩波書店、1996年)。

 ここから沖縄では、サンフランシスコ講和条約の発効した4月28日を屈辱の日として記憶し、米軍用地の強制接収に反対する1950年代半ばの「島ぐるみ闘争」がたたかわれた。1960年には沖縄県祖国復帰協議会が結成され、沖縄民衆自身の復帰運動の原動力になった。

 本土では、米軍基地撤去は、全面講和・平和・中立・非武装の日本をめざす革新勢力の共通スローガンであった。53年には、石川県内灘村の農民が、米軍試射場に反対して座り込んだ。55年には、東京立川基地の拡張に反対する砂川町の町民と支援の学生たちが、「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」のスローガンでたちあがった。「インターナショナル」や「国際学連の歌」も歌われたが、農民と学生がスクラムをくんで一緒にうたうのは、「夕焼け小焼けの赤とんぼ」であった。

自民党の鳩山内閣は、憲法改正のための小選挙区制導入は社会党などの反対でできなかったものの、もうひとつの公約である日ソ国交回復を、1956年10月に実現させた。これで日本の国際連合加盟の障害がなくなり、同年12月18日の国連総会で日本の国連加盟が全会一致で認められ、日本は国際社会に復帰した。鳩山はこれを花道に引退したが、後を継いで自民党総裁になった石橋湛山内閣は、石橋首相の病気で、わずか2か月で岸信介内閣にバトン・タッチした。

 戦前著名なリベラリストであった石橋とはちがって、岸信介は、戦前日本が中国北部につくった傀儡国家「満州国」を経営した高級官僚で、太平洋戦争開戦時の東条内閣の商工大臣であった。A級戦犯として東京裁判にかけられながら釈放になった人物である。当然のことながら、軍国主義復活反対を唱える革新勢力の攻撃のまととなった。1958年4月、社会党統一・保守合同以後初めての総選挙が行われ、自民党287(解散時より3減)、社会党166(8増)とほぼ現状維持であった。社会党は大躍進が予想されていたが、それほどでもなかった。岸首相は、かえって自信を強め、弟の佐藤栄作を大蔵大臣にすえた。

 岸内閣のもとでは、自衛隊は強化され、警察官職務執行法が国会に上程されるなど、政治の反動化がすすんだ。当時の芸能週刊誌上で「デートも邪魔する警職法」と皮肉られた警察官職務執行法は、「オイコラ警察の復活」と国民から反発され、1958年10ー11月の国会で審議未了・廃案となった。保守と革新の対決は、60年安保闘争へとたかまっていった。

 60年安保

 岸内閣の最大の課題は、アメリカに一方的に日本の安全保障を委ねた日米安全保障条約の改訂であった。すでに1957年6月に渡米した岸首相は、「日米新時代」をうたいあげていた。在日米軍の地上軍は撤退したが、58年末でも6万5000人のアメリカ空海軍が日本に駐留していた。岸の改訂の方向は、アメリカに「対等の協力者」として日本を認知させることであった。それは、自衛隊の防衛力整備をも含んでおり、社会党など革新勢力は安保条約の廃棄と中立日本を求めていた。

 1959年4月8日、ワシントンでの藤山愛一郎外相とダレス国務長官の合意(安保条約改定および行政協定改定に関する要綱)は、@アメリカの日本防衛義務と日本自らの防衛義務、A条約はアメリカが施政権をもつ沖縄・小笠原をのぞく日本全土、B日本国外でのアメリカの戦闘行動のさいの事前協議、C「間接支配」についての事前協議、D十年の固定期限とその後の1年の予告による廃棄、であった。その後も、60年1月6日まで22回の日米交渉が行われ内容がつめられた。

 1960年1月19日に岸首相が渡米して調印された新安保条約は、「極東における国際の平和および安全の維持」を日米両国の「共通の関心」であることを確認し、その「脅威」に対して両国が協議するとうたった。アメリカ軍は日本の基地を使用し、また米軍への「武力攻撃」に対しては日本も「共通の危険に対処」することになった。日本側が改定の目玉とした「事前協議」は、条約の本文には入らず、交換公文で取り決められた。

 社会党・総評や共産党など革新勢力は、安保条約そのものに反対した。1959年3月28日、社会党・総評など134団体で日米安保条約改定阻止国民会議が結成された。その2日後に、砂川基地闘争をめぐる東京地裁の裁判で、伊達秋雄裁判長は安保条約にもとづく米軍の駐留を違憲とする判決を下した。検察側が上告し12月に最高裁で差し戻されたが、伊達判決は安保反対運動を力づけた。国民会議の第8次統一行動となった59年11月27日には、全国650ヵ所でのべ300万人が集会・デモ・ストライキに加わった。ブンド(共産主義者同盟)などの指導する全学連の急進的デモ隊は、国会構内に突入して政府やマスコミの非難を受けた。

 1960年2月5日に新安保条約は国会に上程され、反対運動の課題は、調印阻止から批准阻止に移った。国会内の論戦では「極東の範囲」と「事前協議」が焦点になった。政府の答弁も混乱を重ねたが、西尾末広ら社会党の右派は、安保条約を容認して60年1月に民主社会党を結成していた。国会の外での請願署名や集会・デモが盛んに行われ、安保をめぐる世論の高まりを示していた。 

 議会制民主主義を守れ

 1960年5月19日の衆議院本会議での強行採決が、国民の批判を一気に爆発させた。政府・自民党は国会内に500人の警察官を導入し、社会・民社ばかりでなく自民党議員27人も欠席したもとで、会期の50日間延長と安保条約承認を、怒号のなかで可決した。議会制民主主義の根幹をゆるがすものであった。

 この日から6月19日の新安保条約成立まで、日本全体が大きな反対運動の渦のなかにあった。前年4月10日の皇太子の結婚式でようやく普及しはじめた白黒テレビが、国会周辺の騒然とした雰囲気を全国に伝えた。国民会議第17次統一行動の6月4日には、国鉄・動力車労組など公労協を中心に560万人がストライキを行った。10日にアイゼンハワー大統領訪日の準備に来日した大統領秘書官ハガチーは、羽田空港近くでデモ隊に囲まれ、米軍ヘリコプターにようやく救出された。

 6月15日のストライキ・集会参加者は全国580万人に達し、請願デモ13万人が国会を包囲した。右翼の宣伝カーが女性の多い新劇人会議の隊列を襲い、こども連れの主婦たちのデモ隊になぐりこんだ。全学連主流派4000人は国会構内になだれこみ警官隊と激しく衝突、東京大学文学部学生樺美智子が殺された。警官隊は、大学教授団や報道陣にまで襲いかかり、1000人もの負傷者をだした。

 この夜、岸首相は、赤城宗徳防衛庁長官に自衛隊の治安出動を打診した。赤城が混乱をおそれて拒否したため最悪の事態は避けられたが、東大女子学生の死で、世論は一気に岸内閣打倒の方向に向かった。6月16日、アイゼンハワー大統領の来日中止が発表された。岸内閣は19日の条約自然成立を待つのみとなった。7つの大新聞が「暴力を排し議会主義を守る」という共同声明で反対運動に水をさしたが、6月18日の国会デモは空前の33万人にのぼった。多くの学生・労働者が徹夜で国会を取り囲んでいるなかで、6月19日午前零時、日米新安保条約は自然成立した。6月22日のストライキにも540万人が参加したが、23日、簡単な日米批准儀式が行われて発効した。沖縄まできていたアイゼンハワー米国大統領は、沖縄でも沖縄県祖国復帰協議会の「ヤンキー・ゴーホーム」のデモ隊に迎えられ、来日を断念した。岸首相は、アメリカ大統領訪日中止の責任をとるかたちで退陣を表明し、内閣は総辞職した。1960年7月19日には、池田勇人内閣が成立した。


 

第3章 列島騒然、東京オリンピック

 

 1960年代は、日本史上空前の、世界でもまれな急速な経済成長の時代であった。池田内閣の所得倍増計画のもとで、日本は世界市場に進出し、68年には西側世界第2位のGNPをもつにいたった。東京オリンピックや大阪万国博覧会が、高速交通網の整備や科学技術発展のバネになった。国民生活は目に見えて充実し、マイカーをもつ人も珍しくなくなった。しかし、成長のつけも膨大だった。農村から大量の労働力が都市に流れ、農業は衰退の一途をたどった。工場地帯では公害がひどく、交通事故や職業病も急増した。高学歴化が急速に進み、受験戦争という言葉も生まれた。会社の経営は合理化されたが、管理社会の窮屈さに若者たちは反抗した。73年の石油危機で高度成長が終焉するまで、日本人はあわただしくめまぐるしい変化を経験した時代であった。

 

所得倍増計画

 A級戦犯と強行採決のイメージがつきまとった岸内閣に対して、池田内閣は「寛容と忍耐」「所得倍増計画」を唱えて、対決の政治から対話の政治へ、イデオロギーの政治から経済利益をめぐる政治への、転換をはかった。新安保条約には、日米両国が自由主義陣営のなかで経済的にも同盟関係を結ぶとうたわれていた。条約批准書交換の翌日、1960年6月24日に、岸内閣は最後の仕事として貿易為替自由化大綱を決定し、3年後に自由化率を80%に高めるという目標を掲げて退陣した。

 革新勢力・労働運動にとって安保闘争と並ぶ重要な課題は、石炭から石油への転換という政府のエネルギー政策の帰結である、三井三池炭鉱の解雇・合理化であった。労使交渉が決裂して組合活動家を中心に1492人の指名解雇が通告されると、組合はこれを拒否、会社側はロックアウトと第2組合による切り崩しで対抗し、組合側は無期限ストライキに入った。「安保と三池はひとつ」といわれたように、炭労・総評は、全国支援体制を組んだ。暴力団や右翼も介入した三池争議は、安保闘争が終わると池田内閣の意を受けた中央労働委員会の調停で終息に向かい、60年9月、組合側の敗北に終わった。

 所得倍増計画とは、経済学者中山伊知郎の「賃金二倍論」をヒントに、岸内閣時代の1959年に通産大臣池田が「月給二倍論」として唱えたものである。59年11月の経済審議会に諮問され、60年12月に「国民所得倍増計画」として閣議決定された。10年間での所得倍増の根拠は、社会資本の充実、産業構造高度化、貿易と国際経済協力促進、人的能力向上と科学技術振興、経済の二重構造緩和と社会安定などを柱に、現に進行する高度経済成長の持続の果実が結果的に国民に再分配されるというものであったが、「投資が投資をよぶ」民間設備投資の好調で、実質GNP成長率60年13・3%、61年14・5%を記録した。社会党は当初こんな計画は実現不可能だと池田内閣を批判したが、貿易自由化に備えた政府の財政的誘導・地域開発・産業再編などとあいまって、計画の指標は、インフレを伴いながらもわずか数年で実現された。 

 高度経済成長と国民春闘 

 実際、日本経済の1960年代の発展は、世界でも群を抜いていた。第2次世界大戦後の世界経済は、人類史に例をみない生産と交易の拡大の時代であったが、その中でも日本のそれはきわだっていた。1963年2月、GATT(関税貿易に関する一般協定)の11条国、64年4月にはIMF(国際通貨基金)の8条国に移行し、外貨資金割当制度などを廃止した。64年4月には、OECD(経済協力開発機構)に加入して先進国に仲間入りした。1968年のGNPは、西ドイツを追い越して、西側自由世界第2位にまで躍りでた。70年の大阪万国博覧会は、日本の科学技術が世界に追いついたことを実感させた。

  高度成長の推進力は、技術革新と設備投資による民間企業の生産拡大で、海外市場へも輸出を増やしていった。同時に、国内での消費市場の拡大がなければ高度成長はありえなかった。消費の好調を支えたのは、家庭電機製品・自家用自動車などの労働者世帯への広がりであったが、それは、労働組合の国民春闘とよばれる特異な賃上げ方式で獲得された個人所得増によるものであった。

 国民春闘とは、1961年以降、労働運動のなかでの政治的分裂をのりこえて行われた労働組合の日本的賃上げ様式である。社会党系の総評に対抗する民社党系の同盟結成(1964年11月、147万人)や、電機労連・鉄鋼労連など民間大単産が加わったIMF・JC(国際金属労連日本協議会(64年5月、当初は38万人で結成)も国民春闘には加わり、特に総評傘下でJCにも加わる鉄鋼労使協議の「一発回答」が春闘相場を大きく左右した。それぞれの単産・企業内組合は、たがいに鉄鋼回答を一つの基準に、それぞれの業種・企業ごとの企業業績をも参考にしながら、それぞれの職種・職場での賃上げをかちとっていく仕組みである。

 当時は物価騰貴・インフレーションもすさまじかったから、毎年春の春闘時には、国鉄や私鉄がストライキに入るなど、全国的に大きな闘争がおこなわれた。それぞれの家庭では、年々の春闘賃上げを期待し予測しながら、各年の家電製品やマイホーム購入の計画をたてるのであった。

 それは同時に、日本社会における自然と人間との関係、人間同士の付き合い方、総じて景観と人間関係を大きく変えるものであった。1964年秋の東京オリンピックの頃が、その目に見える転換点であった。

 出稼ぎと新幹線 

 高度経済成長は、日本の農業社会から工業社会への転化であった。産業構成は、1960年の第1次産業(農林漁業)32・7%、第2次産業(製造業)29・1%、第3次産業(サービス・小売業)38・2%から、70年に第1次19・3%、第2次34・0%、第3次46・6%へ、80年にはそれぞれ10・9、33・5、55・4%へと劇的に変化していく。

 農家のなかでも、主として農業以外の所得で家計を維持する第2種兼業農家が、1960年の32%から75年には62%へと過半数を占める。農村人口と都市人口との対比では、1955年から70年の15年間に、ヨーロッパの中規模国家に匹敵する1533万人が農村から都市へと大移動した。大都市への転入理由は、求職・転職が6割、入学など学校関係が1割であった(71年東京都調査)。

 農村の2・3男の集団就職に続いて、農家の大黒柱までが、農閑期には都会に出稼ぎに出るようになった。政府統計で6ヵ月以内の就労を意味する「出稼ぎ」者は1960年に17万人、70年には29万人で、東北・北海道・北陸の米作単作地帯出身者が多く、内16万人が建設業、9万人が製造業に従事した。やがて「3ちゃん農業」といわれたように、農業は年寄りと女性の仕事になった。1961年6月の農業基本法公布と、選択生産という名の稲作減反政策のもとで、農村の中でも機械化・集約化、化学肥料・農薬使用が広がり「百姓」のイメージが消えていった。都市の過密と農村の過疎が同時進行したのである。

 東京オリンピックの頃、東海道新幹線が開通した。1864年10月1日のことで、10日の東京オリンピック開会式に間に合わせた突貫工事であった。低賃金・劣悪条件の「出稼ぎ」労働者たちが、土木建設工事を担った。東京・大阪間を4時間で走り、従来の特急より2時間半速くなった。運賃は2480円で、大卒公務員の初任給が1万9100円、喫茶店のコーヒー60円の頃に割高ではあったが、速さが歓迎された。首都高速道路がはりめぐらされ、羽田空港と浜松町を結ぶ東京モノレールも9月17日に完成した。

 東京都は、1962年2月に人口1000万人をこえ、世界初の一千万都市となった。オリンピックに向けて道路が整備され、高層ホテルも建ち並んだ。オリンピック関連の予算は年間予算の3分の1を占める1兆円、内8800億円が新幹線・高速道路・地下鉄などの公共事業につぎ込まれた。その夏、東京は異常渇水で深刻な水不足になり、17の区で1日15時間断水の第4次給水制限まで実施されたが、上下水道・ゴミ焼却・浄化施設などの予算は852億円で、国際都市に脱皮するためのガマンが庶民には強いられた。

 それでも2週間行われた第18回オリンピックの人気は絶大だった。94ヵ国が参加したが、日本選手の活躍に国中が涌いた。金メダルは18個、銀5、銅8、日の丸があがり、君が代が演奏されるたびに、一流国に仲間入りした気分が高まった。日本チームが優勝した女子バレーボール決勝戦のテレビ視聴率は実に85%、空前の高さで、以後もこの記録は破られていない。 

 恐るべき公害

 その頃、『朝日新聞』に載った、「五輪の陰にかくされたもの」と題した投書がある(1964年9月22日付)。

 「オリンピック大会のために、東京周辺は一新しました。新幹線、高速道路、モノレール、各種の競技場など、いずれもすばらしいものです。しかし同じ東京に住んでいながらわたしとは縁遠いものです。わたしはいなかから上京して紡績会社で働いています。スポーツは大好きで、オリンピック競技を実際に観戦するのが夢でした。しかし、給料が安くて入場券が買えず、寮のテレビでがまんしています。
 わたしの働く工場は隅田川の支流の一つ、十間川沿いにあります。川の水はどろどろで、ごみが浮かび、ガスの発生で目や鼻が痛くなるほどです。とくに湿気の多い日、風の強い日は悩まされます。この環境をいくらかでもよくすることはできないのでしょうか。上京して4年目、ことさらにふるさとの新鮮な空気がなつかしく思い出されます。」

 この頃の国語辞典には、まだ「公害」という言葉はなかった。東京オリンピックの年に、庄司光・宮本憲一『恐るべき公害』が刊行された(岩波新書)。4大公害裁判といわれた、熊本チッソ工場の有機水銀による水俣病、新潟阿賀野川流域の昭和電工廃液による第2水俣病、富山県神通川流域の三井金属神岡鉱山のカドミウム汚染によるイタイイタイ病、それに三重県の石油化学コンビナートでの四日市ゼンソクは、いずれも戦前ないし1950年代から始まっていたものであったが、環境保全を省みない成長第一主義と地域開発がもたらした帰結で、60年代高度成長の「陰」を象徴するものであった。

 空気や水の汚染ばかりでなく、生活の基盤となるあらゆるインフラストラクチャーが、特に大都市では脆弱であった。1963年の1戸当り住宅面積は55平方メートル、下水道普及率は17%、1人当り公園面積は3平方メートルであった。「くたばれ2DK」とか「うさぎ小屋の働きバチ」といわれた貧困な住宅事情のもとで、交通事故や列車事故が頻発した。それでなくとも通勤時間は長くなり、ラッシュアワーの混雑は殺人的であった。労働時間はこの頃最長で、労働省統計でも1960年に年2426時間を記録した。下水道の不備とゴミ問題も深刻であった。1962年の1日1人当りのゴミ498グラムが、75年には1キログラムに倍増し、東京都では2キログラムを越えた。旧式家電製品などの粗大ゴミ、ビニールやプラスチックの包装ゴミも増大した。生産と消費にのみ目を奪われ、生産の土台である自然生態系や消費のあとにくる廃棄物にまでは目配りできない超スピードでの環境破壊が、日本の高度経済成長時代のもうひとつの顔であった。

 1960年代後半にはだれもが知る言葉となった「公害」は、水俣病犠牲者の悲惨な写真とともに、やがて海外にも広くゆきわたった。政府も67年8月に公害対策基本法を制定し、71年7月には環境庁を設置したが、62年の全国総合開発計画から69年の新全国総合開発計画にいたる経済成長優先の基軸は動かず、もっぱら被害者の事後救済や「環境と経済の調和」に留まった。それが、70年代以降の環境汚染・生態系破壊への批判と市民運動の高まり、「くたばれGNP」といわれた成長第一主義への疑問、エコロジー運動の源泉となっていった。 

 ベトナム戦争

 1965年2月、南北に分かれて内戦が続いていたベトナムに、アメリカは北爆を開始し本格的に介入した。南ベトナムの親米反共政権にてこ入れしても民意を把握できず、トンキン湾でアメリカ駆逐艦が魚雷攻撃を受けたという口実で、社会主義をかかげる北ベトナム(ベトナム民主共和国)に対して、宣戦布告することなく空爆をかけた。やがて地上軍を含む全面戦争となり、泥沼化していった。最高時には米軍50万人のほか、韓国・フィリピン・タイなども参戦し、無差別爆撃・ジェノサイド作戦を展開した。

 アメリカの参戦で、日本の米軍基地は重要な補給・出撃基地になった。沖縄全土が北爆の出撃基地になった。横須賀や佐世保にはあわただしく軍艦が出入りし、基地周辺の酒場では血の臭いのする兵士たちが酒をあおった。

 日本政府は、アメリカの北爆を全面的に支持した。池田首相は、東京オリンピックの成功を花道に、閉会式の翌日64年10月25日、病気療養のため辞意を表明した。11月9日に佐藤栄作内閣が成立し、以後72年7月まで戦後史上最長期間の総理大臣となる。

 佐藤首相の就任早々、64年11月12日には、アメリカの原子力潜水艦シードラゴン号が佐世保に寄港した。折から韓国との国交正常化交渉が進められており、65年6月の日韓基本条約締結には、南北朝鮮をベトナムのようにしたくないアメリカの影があった。日韓条約は、韓国を朝鮮半島における唯一の合法的政府と認め、無償3億ドル・有償2億ドルの援助を行うことで決着された。それが、日本資本主義の本格的なアジア進出と韓国経済発展のバネとなった。戦前日本の朝鮮に対する植民地支配や戦時中の強制連行・従軍慰安婦・被爆者問題などは表面に出ないまま、国家間では戦後処理が終わったものとされた。韓国でも日本でも条約に対する反対運動はあったが、韓国の運動は朴正煕軍事独裁政権に抑圧された。 

  ベトナム反戦運動も高まっていた。アメリカ本国では、徴兵拒否の青年たちの運動や大衆デモが行われた。ヨーロッパでも、哲学者バートランド・ラッセルらが提唱した国際戦争犯罪法廷など、さまざまな反対運動があった。日本では、66年10月21日に日本労働運動史上初の反戦ストライキが実施され、以後、毎年10月21日は国際反戦デーとして抗議行動が行われた。アメリカの新聞への反戦広告・投書や、「ベトナムに平和を! 市民連合」(ベ平連)の個人の主体性を重んじた市民運動が、ティーチイン、日米市民会議、脱走米兵の国外逃亡援助、反戦フォークゲリラ集会などのユニークな闘争形態で、従来の政党・労働組合中心の革新運動とはひと味ちがった市民運動を展開した。 

 革新自治体

 1967年4月の東京都知事選挙で、戦前天皇機関説で弾圧された憲法学者美濃部達吉の子であり、東京教育大学教授であった経済学者、美濃部亮吉が当選した。社会党・共産党・労働組合・文化市民団体に文化人・知識人が加わった「明るい革新都政をつくる会」に推されたもので、「東京に青空を取り戻す」決意を意味する青空バッジをシンボル・マークにしていた。公害や都市問題が深刻なもとで、各地で住民運動が起こっていた。無認可保育所や学童保育づくり、公団家賃値上げ反対、通勤バス増発、ゴミ処理場建設反対など身近な地域の問題での草の根の動きが、革新都政実現の背景にあった。

 東京ばかりではなかった。すでに横浜の飛鳥田一雄市長(後の社会党委員長)らを中心に、1964年末には全国革新市長会が結成されていた。京都では、社会党・共産党の推す蜷川虎三知事の府政が長く続いていた。65年東京都議会議長選挙をめぐる買収事件で、自民党都議15人が逮捕され、リコールにより解散した後の都議会では非自民野党が躍進して社会党が第1党になっていた。中央政界での汚職・不正事件続出を背景とした67年1月の「黒い霧解散」による総選挙では、自民党が初めて得票率で50パーセントを割り込み、議席を大幅に減らした。64年に創価学会を基盤に結成され、総選挙にはじめて臨んだ公明党が、一気に25議席を獲得した。自民・社会の2大政党から公明党・民社党・共産党へと野党の幅も広がって、多党化が進んだ。

 革新自治体は、こうした中央・地方での自民党政治への不満を背景に、環境保全や福祉の充実を公約に全国に広がった。71年4月の統一地方選挙では、東京の美濃部現知事が前警視総監秦野章を破り再選、大阪でも社会党・共産党に推された憲法学者黒田了一が自民党現職を僅差で破って当選、東京・大阪・京都の3大都府が革新自治体となった。市長選挙でも革新が大きく躍進し、革新市長会には106市長が加わった。ベトナム戦争反対、物価値上げ反対・生活擁護・福祉充実、公害・環境破壊からいのちと子どもと緑を守れ、という戦後民主主義をくぐった都市住民の政治意識がそれを支えていた。

 自民党も党勢退潮を導いた都市問題を深刻にうけとめ、1968年5月に、田中角栄らが「都市政策大綱」をつくった。しかしそれは、公共投資と再開発により高層ビル・高速道路網をめぐらし日本全体を都市化しようとするもので、72年にベストセラーとなり地下暴騰の引金となった田中角栄『日本列島改造論』につながるものであった。

 期待される人間像と大学紛争

 重化学工業化・サービス化の進展は、新規の労働力を必要とした。西ドイツなどヨーロッパでは戦後成長期に外国人労働者が大量流入したが、日本でのそれは、農村から都市への民族大移動として供給された。産業構造の高度化・科学技術発展に応じて、より高度な知識と技能が必要になった。子どもたちによりよい生活を保障しようという親たちの願いとあいまって、高校・大学進学率は急速に高まっていた。

 日本経済には二重構造があるといわれた。成長の推進力は従業員300人を越える大企業であったが、膨大な中小零細企業がその裾野を形成していた。大企業と中小零細では、売上高・企業利益でも、賃金・労働時間・企業福利等労働条件でも、大きな格差があった。しかも、大企業の多くは、かつての財閥に代わって相互に株式を持ち合った企業集団で、多くの中小零細企業を下請け・系列化していた。個人株主の力の弱い日本の企業集団のあり方は、法人資本主義などとよばれた。

 実質賃金・労働条件で大企業と中小零細企業の大きな格差があり、終身雇用・年功賃金・企業内組合のもとで流動性の低い労働市場では、学歴こそ社会的安定を獲得する早道と考えられた。平等主義的な戦後民主主義教育の枠組みに、厳しい競争原理が次第に浸透してきた。農村型家族共同体がくずれ、1955年の1世帯平均4・97人から70年には3・67人という核家族化が進行するもとで、子どもの教育は、家族の再生産の焦点に浮上してきた。

 1963年1月の経済審議会答申「経済発展における人的能力開発の課題と対策」には、3%程度の「ハイタレントパワー」と安価な若年労働力を大量育成する「能力主義」「教育投資」の考え方が示されていた。65年1月に中間答申された中央教育審議会「期待される人間像」は、人間性の向上や健全な民主主義と共に天皇への敬愛や愛国心の醸成をうたい、日教組などは国家主義・軍国主義復活につながると批判した。国家の教育権にもとづくとする文部省の教科書検定に対して、歴史学者家永三郎が教育の自由・国民の教育権を主張して教科書検定訴訟を開始したのも1965年だった。

 少数の高度な専門的能力をもつエリートと、安上がりで従順な労働力の大量育成を選別的に進めようという政府の政策に、子どもたち自身が反発を強めた。高校進学率は1960年から70年にかけて58%から82%へ、大学進学率も同じ時期に10%から24%へと急速に高まった。高校を「灰スクール」とよんだり、普通高校と職業高校の差別・選別に反発して、江戸時代の「士農工商」をもじり「普商工農」と揶揄したりする子どもたちが現れた。

 1968年1月、東京大学医学部学生自治会が、学生の誤認処分に抗議し、インターン制度に代わる登録医制度導入に反対して、無期限ストライキに突入した。それが以後の全国大学紛争激化の始まりとなった。東大では全学にストが広がり、エリートとしての自己をみつめよと「自己否定・大学解体」を掲げる全共闘運動が生まれた。68年4月には、日本一のマスプロ大学日本大学で20億円もの使途不明金が国税庁に摘発されて乱脈経営が発覚、9月に1万人の学生が徹夜で大学理事会と大衆団交する事態に発展した。

 折りからのベトナム戦争、中国文化大革命、チェコスロヴァキア民主化運動に対するソ連の戦車による弾圧(プラハの春)で、アメリカ、ヨーロッパでもステューデント・パワーが爆発していた。全共闘運動の高揚には、多分にフランスや西ドイツの学生運動にならった暴力主義的・ニヒリズム的心情がはらまれていたが、ようやく偏差値が生まれてきた能力主義・競争主義の教育のもとで、封建的・前近代的な教授会と退屈で面白くないマスプロ講義、学生集めと金儲けに奔走する大学理事会、それに「モーレツ社員」がもてはやされる就職後の企業社会と管理主義への反発が、多くの学生をひきつける要因になった。

 東大闘争では全共闘に新左翼セクトが入り込み、全学を封鎖し内ゲバまで生み出す暴力的行動が一般学生を離反させ、共産党系の全学連と全共闘の暴力に反対する一般学生が大学側と交渉し、7学部代表団「確認書」を結んでストを終結させた。しかし全共闘・新左翼諸派は全国動員して安田講堂に立てこもり抵抗、69年1月の機動隊による封鎖解除によってようやく排除された。「大学は荒廃している」という理由で、この年の東大入試は中止された。日大闘争は、大学側が暴力団まで動員して学生を排除し、69年の機動隊による文理学部封鎖解除以後にようやく「正常化」された。

 しかし東大・日大に代表される日本の大学教育・学生管理に対する反発は、全国に広がった。政府は69年5月に大学運営に関する臨時措置法を国会に上程、野党や国立大学協会は大学自治への介入と反発したが、自民党は採決を強行して8月に成立・公布した。 

長髪とジーンズ

 若者文化も変貌していた。占領期の日本の若者にとって、家電製品に囲まれパンとコーヒーの朝食をとるアメリカ的生活様式は、あこがれのまとであった。映画や音楽やスポーツを通じて、常に若者文化をリードしてきた。しかし1968年に日本のGNPが西ドイツを抜き、西側自由世界第2位になった段階では、テレビや冷蔵庫や椅子式の生活は日本でも当り前になり、マイカーやクーラーも整ってきていた。当のアメリカでも、ベトナム戦争に反対する若者の対抗文化が生まれ、長髪やジーンズでボブ・ディランやジョーン・バエズが反戦フォークソングを歌う映像が、衛星中継で瞬時に送られてきた。ビートルズやウッドストック・ロックコンサートに熱狂する若者の感性は、ヨーロッパでもアメリカでも日本でも変わりはなかった。ミニスカートで堂々と歩く女性の姿は、女性の従属性からの脱却、自己主張と解放の象徴と受けとめられた。戦後日本の原型をつくったアメリカは、もはや尊敬とあこがれの対象ではなかった。ケネディ大統領やキング牧師の暗殺、黒人たちの公民権運動、泥沼化するベトナム戦争、徴兵カードを焼きドラッグに走る若者たち――「ラブ・アンド・ピース」の合言葉は世界全体に広がったが、60年代末のアメリカは、理想郷でもデモクラシーの母国でもなかった。同じく資本主義と管理社会に悩む若者たちの、反発と連帯の対象になっていた。

 新宿駅地下で反戦フォークゲリラを始めたベ平連の若者たちは、アジアの戦場での無差別殺人を拒否して米軍基地を脱出したアメリカ青年たちを、ソ連経由でスウェーデンに送ることにためらいはなかった。アメリカ独立宣言の精神は、むしろベトナムのホー・チミンの言葉に受け継がれていると読み取ったのである。それが日本でも、従来の親子関係、男と女の関係、ライフスタイルや自己表現のあり方を問い直す契機となった。若者たちの世界は、国家やGNPの枠を突き抜けて、世界と直接につながろうとしていた。


   第4章 パスポートなしで渡れる沖縄

 

 日本史を大きく書き換えた高度経済成長時代は、1973年の第一次石油危機で終わった。60年代末から70年代前半は、戦後日本史の大きな転換点であった。国際的には、ベトナム戦争が泥沼化したアメリカは、もはや戦後世界の絶対的君臨者であることをやめた。ドル危機を変動相場制への移行による通貨切り下げでやわらげ、ソ連との対抗のために社会主義中国と国交を結び台湾を切り捨てた。日米経済摩擦も強まり、沖縄返還交渉にも影をおとした。そして高物価・インフレに油を注いだ日本列島改造計画のさなかに到来した石油ショック――日本経済が「油上の楼閣」であったことを思い知らされた。今太閤田中角栄は金脈問題をあばかれ辞任、ロッキード事件で刑事被告人となった。

  

 核ぬき本土なみ返還?

 戦後日本の歴史のなかで、沖縄は特別の位置を占めている。沖縄は、1945年8月15日の敗戦の前に、唯一米軍が上陸し地上戦が行われ、「ひめゆり部隊」の女学生を初め多くの民間人が殺りくされた戦場であった。しかも、1951年のサンフランシスコ講和条約によっても、沖縄・小笠原諸島だけは独立を認められず、アメリカ軍の統治する基地の島とされた。沖縄住民は1960年に沖縄県祖国復帰協議会を結成し、日本への復帰を求めてきたが、ベトナム戦争ではB52戦略爆撃機の直接の出撃基地になり、アメリカの極東地域での最重要の拠点とされていた。日本本土の人々が沖縄に渡ったり、沖縄の人々が本土にくるときには、外国扱いでパスポートが必要だった。

 沖縄・小笠原の返還の問題は、1960年の安保条約の改定のさいにも日本側から一応打診された。しかしその段階では、アメリカはとりあってくれなかった。これを重要な外交課題と位置づけたのは、1964年に首相に就任した佐藤栄作であった。新安保条約には10年の固定期限があり、これがすぎればいずれかの国が1年の予告期間をもって解消できることになっていた。東京都などに革新自治体をつくって勢いにのる社会党や共産党など野党勢力、ベトナム反戦・大学紛争で政治化した学生運動や労働組合運動左派は、「70年安保決戦」「沖縄を返せ」を叫んで街頭行動にも出ていた。佐藤内閣の沖縄返還交渉は、ひとまずこうした安保反対勢力に対する保守勢力の側からの対応であった。佐藤首相は、1965年8月に首相として初めて沖縄を訪問し、「沖縄の祖国復帰なくして戦後は終わらない」と述べて施政権一括返還を政治目標に掲げた。67年11月の日米首脳会談で返還が約束されたが、それは、日本政府によるアメリカのベトナム戦争支持、両国で「アジアの平和と安全」に積極的に協力する決意表明と一体であった。したがって、核兵器を含む米軍基地の存続も、暗黙の内に前提されていた。

 この「核基地つき返還」が、沖縄住民との争点になった。沖縄では、1968年11月の初の琉球政府主席公選で、東京都知事選の美濃部勝利にならった「明るい沖縄をつくる会」に推され、即時無条件全面返還を主張した屋良朝苗が当選した。69年2月4日には復帰協などのゼネストが行われ、佐藤首相も「核ぬき本土並み」返還をいわざるをえなくなった。69年11月の佐藤・ニクソン会談が、返還交渉の総仕上げとなった。アメリカ側は、72年に施政権を返還するが、日米安保条約を沖縄にも適用して米軍基地を残し、核兵器などについては事前協議制を適用することで行動の自由を確保した。新安保条約の事前協議はそれまで1度もなされたことはなく、日本政府はアメリカ側から協議の申し入れがないから核兵器はないと主張していた。

 佐藤首相は、1967年12月の国会で述べた「核を持たず、つくらず、もちこませず」という非核3原則を繰り返して71年6月に沖縄返還協定を調印したが、琉球政府の屋良主席は調印式に欠席した。後にこの交渉には、秘密の合意議事録があり、有事のさいの沖縄への核持ち込みを日本政府は事前協議で認める密約があったと暴露されたが(若泉敬『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』文藝春秋社、1994年)、当時はこの事実は隠されており、1972年5月15日に沖縄は日本に施政権が移り、沖縄県が発足した。復帰直後の知事選では、革新屋良朝苗が初代知事に選ばれた。晩年の佐藤栄作は、平和的交渉により領土を返還させたとして、日本人初のノーベル平和賞受賞という栄誉をえた(1974年)。

 四半世紀後、太田沖縄県知事の米軍用地強制使用代理署名拒否訴訟の準備書面(1996年)は、この返還の意味を、次のようにまとめている。

 「日本復帰(沖縄返還)によって、沖縄にも日米安保条約、地位協定及びその実施に伴う特別法が適用されることになったが、それは決して、沖縄が『本土並み』になったことを意味しなかった。
 沖縄の民衆の求めたものは、米軍基地が『本土並み』に縮小されることであり、『平和憲法下への復帰』であったのに対し、現実の72年沖縄返還は、米国にそのままの状態で沖縄の基地使用を許したものであった。……
 復帰以降を比較しても、沖縄の米軍基地返還がわずか15%だったのに対し、本土の米軍基地はその約60%が、しかも、1970年代中ごろまでに返還されている。つまり、沖縄返還によって、沖縄を含む日本全体の米軍基地の整理・統合・縮小は、沖縄にその多くをシワ寄せするかたちですすめられたといえる。全国の0.6%の県土面積に、75%の米軍基地(専用施設)という状態はこうして確立されたのである」(沖縄県編『沖縄 苦難の現代史』)。

 糸と縄の交換

 同時に沖縄返還には、この頃顕在化してきた日米貿易摩擦も影を落としていた。1969年12月の総選挙は、沖縄返還交渉の成果を掲げた自民党が大勝し、70年3月に始まった大阪万国博覧会と相まって、自由世界第2の経済大国になった繁栄が「昭和元禄」とうたわれた。70年6月に安保条約は自動延長され、「70年安保決戦」を掲げてきた革新勢力には挫折感も生まれた。全共闘運動の流れからは、新左翼セクト間の内ゲバ殺人までおこり、72年2月には連合赤軍の浅間山荘事件が全国にテレビ中継され、その内部のリンチ殺人事件まで明らかになって、学生運動も停滞していった。

 「昭和元禄」をもたらした1960年代後半の経済成長は、産業・貿易構造の変化によるものであった。東京オリンピック後の64年末から不況期に入り、山陽特殊鋼の倒産や山一証券の経営危機など「65年不況」とよばれたが、それに続く「いざなぎ景気」は、日本を経済大国に押し上げた。

 戦後初の本格的赤字公債発行にふみきった政府の財政政策と、鉄鋼・船舶・自動車・合成化学繊維・軽機械など重化学工業製品の輸出が不況克服の原動力になり、1964年の新三菱工業・三菱日本重工業・三菱造船3社による三菱重工業、65年の神戸製鋼と尼崎製鉄、66年の日産自動車とプリンス自動車、69年のニチボーと日本レーヨン合併によるユニチカ、そして70年には八幡製鉄と富士製鉄合併による新日本製鉄誕生と、大型合併が相次いだ。新日鉄は、粗鋼生産で一躍世界一になり、金融機関も、68年の太陽銀行と神戸銀行、71年の第一銀行と勧業銀行の合併で大型化した。国内消費も好調で、「3C」といわれたカラーテレビ・クーラー・マイカーの普及をはじめ、「モーレツ社員」といわれた企業戦士がつくった製品を、「マイホーム主義」の主人公である妻や子どもが消費するパターンが定着した。国民春闘で確実に賃金はあがったが、物価上昇とインフレーションもすさまじかった。68年で国のGNPは自由世界第2位とはいえ、1人当たりでは十位以下であり、「中流意識」は生まれていたが「豊かさ」にはほど遠く、都市の若年・主婦層は、「私生活主義」を基盤としながらも、革新自治体などで福祉や環境整備を求めていた。

 沖縄返還交渉時には、日米繊維摩擦が激化していた。貿易・資本の自由化は日本経済の試練といわれたが、実際にはベトナム特需とアジア諸国への投資で乗り切り、対米輸出も好調で、1964年から70年で3倍になった。対日貿易赤字は、71年にはカナダを追い越して、アメリカにとって最大となった。鉄鋼・テレビ・板ガラスと日米摩擦品目は拡大したが、かつての綿から毛、化学繊維と移ってきた懸案の繊維製品については、沖縄返還交渉と並行して日米繊維交渉が難航した。けっきょく日本側の譲歩で決着したため、「糸(繊維)で縄(沖縄)を買った」といわれた。経済面でもかつての原材料輸出・製品輸入国の日本は一変し、日米関係は再編成されたのである。

 日本列島改造論

 佐藤栄作の長期政権が沖縄返還を花道に終わった時、自民党内では角福戦争とよばれる激しい派閥抗争・後継者争いが起きた。田中角栄・三木武夫・福田赳夫・大平正芳・中曽根康弘とその後に首相となる5人が総裁の椅子を争った。1972年7月の総裁選挙で田中が勝利して総理大臣になり、「コンピュータ付きブルトーザー」とか「今太閤」ともてはやされた。学歴もない54歳の精力的な男が、老練政治家や東大卒の官僚たちを使いこなし、庶民には痛快にみえたのである。

 田中の政治手法は、後の金脈批判やロッキード事件公判で明らかになるように、選挙区である新潟県に中央政府の補助金を獲得して土木建設関係者を中心に越山会という強固な後援会・集票構造をつくりあげ、経済閣僚を歴任して大企業とも太いパイプをもち、金脈と人脈で選挙毎に派閥を大きくし、若手政治家や官僚をひきつけていくものだった。

 佐藤内閣末期の1972年2月に、アメリカ大統領補佐官キッシンジャーの秘密外交により、ニクソン大統領の訪中と米中共同声明が実現していた。田中内閣の初仕事は、これを後追いして日中国交回復を実現することだった。まだベトナム戦争は続いており、アメリカ経済も71年6月に金とドルの交換を停止する(ニクソン・ショック、ドル・ショック)など衰退期に向かっていたが、北ベトナムを支援する中ソ両社会主義大国のあいだにくさびをうちこむことを狙ったものであった。台湾政府は米日など西側諸国から見離されて国連常任理事国の地位を失い、代わりに毛沢東・周恩来の中国が国際社会の表舞台に登場した。72年9月に田中首相が訪中し日中共同声明に調印したことで、田中角栄は、ながく中国と太いパイプをもつことになった。

 この頃田中の著書『日本列島改造論』がベストセラーになった。全国に高速道路・新幹線網を縦横にはりめぐらし、列島全体を工業再配置し、拠点都市を結んで、経済開発でおおいつくそうというものだった。そのため公共事業関係費など財政支出も積極的に行い、1973年には東京の小売物価指数が年14・6%上昇というインフレーションを招いた。とりわけ土地価格は、全国平均で30%もはねあがり、田中が青写真で描いた新幹線の駅や高速道路のインターチェンジに想定された地域では、莫大なカネが土地売買の投機に投じられた。地方自治体では革新自治体が勢いを増し、71年統一地方選挙で東京・大阪などが福祉を売りものにした革新知事を当選させていたから、田中も73年に「福祉元年」を唱えて福祉関連予算を増額した。しかしそれがインフレ・物価高で帳消しになり国民の不満が高まっているところに、第1次石油ショックがあり、日本経済の超高度成長は終えんする。「福祉元年」に続くはずだった「福祉2年」は、ついにこなかった。 

 石油危機とトイレットペーパー騒動 

 1973年10月、日本から遠く離れた中東の地で、戦後世界経済を揺るがす出来事が起こった。戦後資本主義世界の繁栄は、フォード主義=大量生産・大量消費の好循環によって支えられたが、その資源・エネルギー的な基礎は、安価な石油であった。アラブ諸国とイスラエルが対決する中東の地は、その石油の大量産出地域であった。アラブ石油価格機構(OAPEC)加盟10ヵ国は、アメリカなどイスラエルを支援する国々への原油を削減し、パーレル当り価格を大幅に引き上げる石油戦略を発動した。

 世界の西側先進国=石油消費国は大混乱に陥り、冬の暖房が止められたり、ガソリンの切れた自動車がハイウェイに数珠つなぎで放置されたりして深刻な打撃を受けたが、石炭から石油へと転換して重化学工業機軸の高度成長を達成してきた日本経済も、たちまちピンチにおちいった。

 日本政府は、それまで中東問題にコミットしてこなかったことを奇貨として、11月2日に、それまでのアメリカに追随するだけの態度を改めて急遽イスラエルの非難をはじめ、三木副総理を中東8ヵ国に派遣して原油供給を頼み込んだ。アラブ外交ならぬアブラ外交とか物乞い外交と陰口をたたかれた。

 石油ショックの国民生活への影響は深刻であった。石油は産業の動脈になり、石油製品は衣食住のすみずみに入り込んでいた。折からマイカー時代の到来、しかも暖房が必要になる季節だった。ガソリンや灯油の値段がはねあがった。合成洗剤やトイレット・ペーパーも店頭で品薄になり「モノ不足」といわれた。後に明らかになるのだが、一部企業は便乗値上げをねらって出荷をストップし、「モノ隠し」をしていた。商社による商品投機も広く行われていた。

 典型的なのは、トイレット・ペーパー・パニックであった。1973年10月31日、朝のNHKテレビ「こんにちは奥さん」は「紙不足はどうなる」を特集した。出席した中曽根康弘通産大臣は「紙の使用合理化運動」をよびかけた。すでに紙価格は前年からジリジリあがっていた。そこに石油ショックである。この番組を見た大阪千里ニュータウンの主婦たちは、とりあえず生活必需品のトイレットペーパーを買いだめするために、近所のスーパーマーケットの開店時間に並んだ。平日の4倍が、1時間で売り切れた。翌日は朝から長い列ができ、今度は30分で売り切れて新聞やテレビで報じられた。それならばと全国で、みんながトイレットペーパー買い置きに走った。通産省が在庫は十分にあると異例の事務次官談話を出したが後の祭りであった。神戸ではケガ人が出る騒ぎになり、トイレットペーパーばかりでなく洗剤・砂糖・塩などにもパニックは広がった。約1ヵ月続いたこの騒ぎは、成長に成長を重ねた日本経済が、実は資源・エネルギーも食糧も外国に依存した「資源小国」「油上の楼閣」にほかならないことを、国民に実感させた。

 政府は「省エネ・省資源」を訴え、石油緊急2法や総需要抑制緊縮財政への転換でインフレーションに歯止めをかけようとした。オフィスは「ケチケチ運動」を始めた。新聞は減ページでテレビは深夜放送自粛、物価は、パニックが鎮静しても高値安定し、もはや以前の水準には決して戻らなかった。世界史に類例のない日本の高度経済成長時代は終わった。

 企業ぐるみ選挙

  翌1974年は、戦後初めてのマイナス成長を記録する不況の年となった。年はじめから、「物不足パニック」「便乗値上げ」のカラクリが暴かれはじめた。倉庫に隠された大量の洗剤のニュースや、社内からの内部告発による「石油危機は千載一隅のチャンス」とする石油会社の社内文書が現れた。国会でも悪徳商法がとりあげられ、大企業の幹部が喚問されて「企業の社会的責任」が政治問題になった。

 企業献金に支えられた自民党政治は、ピンチにおちいった。歴代内閣最高の支持率で発足した「今太閤」田中首相の人気は急落した。74年7月参議院選挙の争点は「保革逆転」であった。野党は政府の責任を追及し、勢いにのっていた。田中首相はヘリコプターで全国遊説し、大企業にタレント候補らを割当て票集めに躍起となった。しかしこの企業ぐるみ選挙・金権選挙は逆効果だった。参議院の与野党逆転は免がれたものの、議席差7の保革伯仲になった。三木副総理・福田蔵相らが派閥利害もからんで田中批判にまわり辞任した。満身総痍の田中角栄にとどめをさしたのが、『文藝春秋』74年11月号に掲載された立花隆「田中角栄研究――その金脈と人脈」であった。田中首相自身の金脈・錬金術が具体的にあばかれ、10月22日の外国人記者クラブでの講演では田中にこの質問が集中した。

 11月26日に田中首相は「政局の混迷を招いた」責任をとって辞職した。副総裁椎名悦三郎の裁定で政権についたのは、傍流少数派閥ながら田中の対極の清潔潔癖・ハト派イメージをもつ三木武夫であった。 

 越山会型政治とロッキード事件

しかし、田中内閣の終焉は、高度経済成長時代に増殖した金権利益政治の終焉を意味しなかった。田中の選挙区新潟3区は、典型的な稲作農村地帯で、冬は深い雪に閉ざされる豪雪地帯であった。田中はそこに越山会という強力な後援会を組織し、農作業のための橋や用水路、冬でも車の通れる溶雪道路づくりや新幹線の誘致に絶大な政治力を発揮した。自らも土建業で巨利を得たとはいえ、公共事業や各種補助金で過疎の地元に繁栄をもたらし、地元の老人たちは神のように崇めていた。中央政治でも、田中の政策アイディアは、エリート官僚を魅きつけるだけのものをもっていた。60年安保の時のような騒然たる街頭行動は、テレビや週刊誌を通じての観客的参加に変わっていた。事件がイベントになり、イベントが新たな事件をつくりだすようになっていた。地元では田中の人気は落ちなかった。自民党内でも田中の隠然たる影響力は衰えなかった。成長利益の再分配をめぐる政治は、以後も日本政治の基調となった。

 田中金脈問題の総仕上げは、1976年2月にアメリカからもたされたロッキード事件であった。石油危機は、日本ばかりでなく世界経済のケインズ主義的成長の黄金時代を終焉させた。アメリカではニクソン大統領が74年8月、ウォーターゲート事件での盗聴疑惑により辞任を余儀なくされた。75年4月には南ベトナムのサイゴン政府が降伏し、アメリカのベトナム戦争は最終的に敗北と終わった。実力も権威も失ったアメリカ一国ではもはや西側世界の結束は保たれず、73年からイギリスが加わったECも独自の勢力となっていた。75年11月にフランス・ランブイエで先進国首脳サミットが始まったのも、西ドイツとフランスのイニシアティヴによるものだった。当初は通貨安定など経済問題が中心であったが、やがて対ソ連政策など政治イシューをも含め、年に1度大国首脳が一同に会して話し合うものとなっていく。日本は、アジアから唯一、当初からサミットに加わることになった。

 アメリカでも、石油危機時の企業の悪徳商法が問題にされた。槍玉にあげられたのは、世界の石油流通市場を独占してきた石油メジャー企業など多国籍企業だった。アメリカ外交委員会多国籍企業小委員会での航空機多国籍企業ロッキード社の証人喚問のなかで、ロッキード社が日本への売り込みの工作資金として1000万ドルを使ったという証言がとびだし、それが日本政治をゆさぶることになった。

 1974年2月6日のロッキード社コーチャン副社長の証言で、ロッキード社が総合商社丸紅を通じて日本政府高官に200万ドルを支払ったことが発覚した。三木首相はただちに徹底真相究明を約束し、日本の国会でも、戦後政治の黒幕児玉誉志夫、小佐野賢治、全日空、丸紅などの幹部たちが喚問された(児玉は病気を理由に応ぜず)。警察・検察も動きだし、ついに76年7月26日に前首相田中角栄が逮捕されるスキャンダルに発展した。

 「クリーン三木」を掲げた三木首相は、かつての昭和電工事件の時のような指揮権発動をせず、世論の支持を背景に徹底究明の姿勢を貫いた。しかし、三木首相の自民党内での基盤は脆弱だった。すでに自ら公約した独占禁止法改正案は党内や財界の抵抗で廃案とされ、政治資金規制強化・公職選挙法改正も骨抜きにされていた。逆にフォード大統領との日米会談や防衛計画大綱づくりでは朝鮮半島有事の日米共同作戦を認めるなど、タカ派的政策も実行された。「防衛費はGNPの1%以内」という閣議決定で辛うじて軍事化に歯止めをかけたが、自民党内では田中派を中心に「三木おろし」が進行した。

 1976年12月の衆議院選挙では、ロッキード事件を批判して自民党を離れた河野洋平らの新自由クラブがブームを起こし、自民党は過半数割れの249議席になる惨敗だった。すでに党内統率力を失っていた三木首相は辞任し、福田赳夫が新首相に選ばれた。ロッキード事件は、衆議院にも保革伯仲をもたらしたのである。


     第5章 減量経営、過労死、豊かさの行方

 

 70年代後半から80年代にかけて、日本経済は安定成長といわれた。欧米資本主義諸国が石油危機から立ち直れない段階で、日本だけはいち早く周辺アジア諸国と共に再び活力を回復した。その原動力は、国内での徹底した経営合理化・コンピュータ化と、海外市場への日本製品の輸出であった。75年から先進国首脳会議(サミット)が始まるが、アジアの経済大国日本もこれに招かれた。国民生活も安定してくると、豊かな生活を守りたいという保守的気分もよみがえった。一人当たり国民所得でもアメリカを追い越し、2世議員・2世社長が目立ってきた。プラザ合意によるドル安・円高は、一時は輸出産業に打撃を与え不況をもたらしたが、やがて土地投機・株式投機の狂乱バブル経済をうみだすことになった。名のある日本企業はすでに多国籍化しており、海外旅行ばかりでなく海外でくらす日本人も珍しくはなくなった。この経済大国化・国際化のなかで、会社のなかではなお長時間過密労働・24時間マネーゲームが続き、単身赴任による家庭崩壊や過労死が社会問題となった。

 

 スト権スト

 1975ー85年の時期は、日本経済の大きな転換期であった。世界経済全体が2度の石油危機で停滞期に入ったばかりでなく、すでに1ドル=360円の日本に有利な公定レートはなく、日本経済は世界市場での実力を試された。政治の世界では、ロッキード事件から自民党内の派閥抗争が激化し、三木・福田から大平正芳・鈴木善幸を経て、中曽根康弘へと政権が受け継がれるが、その背後には、常に刑事被告人となった田中角栄の影がつきまとい、田中は「闇将軍」とよばれた。

 ところがなぜか、総選挙の結果や世論調査のデータでは、この時期に「保革伯仲」から「保守回帰」の傾向が現れた。ロッキード事件で野党が勢いを増したのは一時期のみで、地方政治レベルでも革新自治体が崩壊し、東京・大阪などでは革新知事に代わって自治省出身の行政エキスパートが保守勢力の後押しで当選していく。その背景にあったのは、田中角栄に象徴される利益誘導型政治の原資となる経済成長の果実が少なくなり、全体のパイが小さくなっているもとで、利益再配分の政治における労働者の力が大きく後退したことであった。

 転換点となったのは、1975年秋の公労協「スト権スト」であった。この頃、日本の労働運動のナショナルセンターは、左派の総評と右派の同盟に別れ、それぞれ社会党・民社党の強い影響下で指導権を競っていた。70年代前半は「狂乱物価」といわれたインフレ・物価高で、総評・同盟が同時期に賃上げを競う国民春闘では、それなりに高率の回答を獲得することができた。しかし、石油ショックは、労働運動をも直撃した。マイナス成長になった1974年春、労働組合員は1250万人、組織率34%で、戦後占領初期を除けばきわめて高い水準にあった。争議件数は過去最高で1万件以上、春闘賃上げは33%平均2万8991円と高揚していた。

 ところが石油危機が進行して失業者100万人を突破した1975年春闘では、経営側は、残業規制・一時帰休・希望退職から解雇まで、「減量経営」といわれた徹底した合理化方針で「賃上げか失業か」と迫った。まず、民間大企業の多い同盟系労組が賃上げ要求を自粛して「雇用確保」を優先し、総評系民間単産も、業績悪化を繰り返す経営におされて軒並みダウンした。自治労・日教組など公務員や国労・全電通などで組織された公労協は、総評系労働運動の中核で、この頃、占領期にGHQ指令で奪われたストライキ権の奪還をかかげていた。75年11月、「スト権スト」とよばれる実力行使で政府にスト権承認を迫ろうとした時、すでに自社の経営維持に協力を強いられた民間労組のほとんどは、「倒産の心配のない『親方日の丸』だからできること」と連帯・支援どころか冷たい眼差しを向けるようになっていた。三木首相は一時、事態収拾のために条件付きスト権付与も考えたといわれるが、これも自民党内の政治力学で立ち消えになり、結局「スト権スト」は、何の成果もなく労働側の敗北に終わった。

 ここから日本の労働運動は「冬の時代」に入った。もともと戦後初期には政治要求もかかげる戦闘的な産業別組合もあったが、日本の労働組合の多くは欧米の産業別組合とは異なる企業単位での組合であった。高度成長時代は国民春闘方式で成長成果の分配に預かり組合員を結集できたが、成長の終焉は、「賃上げよりまず会社」という経営側の姿勢に、生活防衛のためにもついていかざるをえなかった。 

 生活保守主義

 同じ頃に、「緑と教育、福祉」を掲げた革新自治体も、苦境に陥った。税収も国からの補助金も伸びが期待できないもとで、地方財政の危機が進行し、「赤字自治体」が多数生まれていた。とりわけ革新自治体の地方公務員は、民間企業に比べて労働条件や退職金が恵まれすぎているとマスコミからも攻撃された。1975年統一地方選挙で東京・大阪の革新知事は辛うじて勝利できたが、市町村レベルから革新は後退し、78年京都府・沖縄県、79年東京都・大阪府と、革新知事は自治省官僚などにとって代わられた。

 この変化を引き起こしたのは、都市中間層の「私生活保守主義」であった。高度成長時代には、毎年確実に上がる賃金やボーナスから、家電製品やマイカー・マイホームの購入を期待でき、その先に福祉と緑とゆとりの生活をも求めることができたが、日本経済全体が停滞し、春闘賃上げはあてにならず、転勤・失業さえ現実の問題になってくると、保守勢力の「なんでも反対の革新陣営に経済の舵取りはまかせられない」という攻撃とあいまって、目前の生活維持のために、政治選択も保守化したのである。

 ただしこの生活保守主義は、かつて自民党政治を支えてきた農村型のイエ・ムラ的保守主義とはちがって、個人の自由や自己利益の計算には敏感で、むしろ都市サラリーマン層の企業社会への取り込まれを基礎にしていた。復古主義的教育や受験戦争・偏差値には批判的でありながら、自分のこどもだけはいい大学・大企業に進ませたい、という学歴競争をくぐった都市中間層の願いを前提としていた。

 減量経営と輸出洪水

  この期の減量経営は、日本的経営の3種の神器といわれた終身雇用・年功賃金・企業内組合のあり方を会社の内部で再編し、会社人間を大量に生み出すテコとなった。

 日本経済の高度成長は、政府の行政指導や国内市場保護に依存していたとはいえ、何よりも、民間企業の設備投資と企業努力に支えられてきた。欧米と違って、個人株主の力が弱く、系列企業同士で相互に株を持ち会う大企業グループは安定経営ができた。企業内組合と、パイを大きくして賃上げする方向で、労使協調の協定を結んだ。終身雇用・年功賃金で雇用と人生設計を保障するかわりに、残業や転勤の命令にも会社に忠誠を尽くす労働者が「企業戦士」とたたえられた。労働時間は欧米先進国に比して異様に長く、サービス残業や持ち帰り残業も珍しくなかった。もともとアメリカで生まれたQC(品質管理)やZD(欠陥追放)を日本流に定着させ、「トヨタ・システム」ともよばれるジャスト・イン・タイムなど、アメリカ以上に効率的な経営システムをつくりあげた。ただし、職種を限定せずに採用して職業訓練を社内教育で代用したり、ブルーカラーとホワイトカラーを同じ組合に組織し、小集団活動で会社忠誠度を競わせ査定で評価するさいには、日本的な伝統も色濃く残された。

 「減量経営」とは、民間大企業から広がった日本的経営を中小企業にまで普及させ、コンピュータ化やロボット化で正社員をスリム化し、女性パート労働や派遣社員など不安定臨時労働力で景気変動に備えることであった。じっさい、賃上げが抑えこまれたもとでの合理化で、サラリーマンは受難の時を迎えた。中高年でも普及し始めたパソコンやワープロをおぼえねばならず、賃上げを見越してマイホームを買ったもののローンを払えなくなってサラリーマン金融の高利地獄におちる例もみられた。家計を助け教育費をねん出するために、主婦のパートが急増した。せめて子供たちだけはと、高校進学率が90%をこえたもとで、塾や予備校を通じて偏差値が普及した。マークシート方式による79年の国公立大学入試共通1次試験(後のセンター試験)採用が、それに拍車をかけた。

 経済的に見ると、日本経済は「減量経営」で息をふきかえした。欧米先進工業国が軒並み石油ショックから立ち直れず、失業急増・福祉負荷増大の「イギリス病」が語られるなかで、日本経済は相対的にはすばやく不況から立ち直り、「高度成長」はもはやできないが、「安定成長」の軌道にのることができた。その推進力になったのは、当時「輸出洪水」といわれた輸出の増大であった。民間設備投資・政府投資が石油ショックで落ち込むなかでも輸出は伸び続け、1973年の369億ドルから79年には1000億ドルを突破する勢いだった。日本製の自動車・テレビ・ビデオ・事務機器・工作機械などが北アメリカ、西ヨーロッパ、東南アジアの市場になだれこんだ。その供給側の要因には、徹底した減量経営・合理化・ME化によるコスト削減・品質管理・価格調整があった。需要側の要因としては、環境規制にいち早く対応した日本車が石油危機後のアメリカ自動車市場の燃費見直しの気運にうまくフィットした面もあるが、この頃からアジア・ニックス(アジア新興工業国)とかニーズ(新興経済圏)といわれはじめた韓国・台湾・香港・シンガポールなどアジア地域の急速な工業化と市場開放があった。 

 臨調行革

 民間大企業で成功した「減量経営」での危機乗り切りが、政府の行財政危機の打開の手法としても有効なのではないかという発想が、1970年代末から80年代に強まってきた。高度成長期に大きな役割を果たした赤字公債の発行は、国家財政にとって重い負担となっていた。すでに自治体レベルでは、地方財政再建という名目で、革新自治体に代わった自治省出身の知事たちが、地方公務員の削減や退職金見直しなどで「自治体経営」にあたっていた。「イギリス病」ばかりか「スウェーデン病」という言葉が生まれて過剰福祉は勤労意欲を減退させると宣伝され、イギリスのサッチャー首相やアメリカのレーガン大統領などは「小さな政府」をかかげて登場した。国際的にも「新自由主義」とか「新保守主義」とよばれる市場原理優先の考え方が強まっていた。

 「三木おろし」の後に1976年末に総理大臣になった福田赳夫は、「経済の福田」を標傍し、事実日本経済は上向きになったが、国家財政再建には有効な手をうてなかった。むしろ有事立法立案の着手や78年11月の「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」作成など、岸信介の派閥を引き継いだタカ派的姿勢が目立った。

 1978年12月の自民党大会で、田中派が首相の福田ではなく幹事長の大平正芳を推して、大平が党総裁選予備選挙で第1位になったため、福田は「天の声にもヘンな声がある」という迷文句を残して辞任し大平政権が誕生した。79年1月の第2次石油ショックは、復調に転じた日本経済には大きな影響はなく、大平は財界首脳や官僚・知識人を集めたブレーン集団を私的に集めて今後の日本の長期的方向を探ろうとした。79年6月に元号法制化が実施され、79年末のソ連のアフガニスタン侵略は新冷戦とよばれて再び保守のイデオロギー政治を強めていた。80年1月の社会党と公明党の連合政権合意も、政界の現実主義化・保守化を招いた。

 大平自身は1980年6月総選挙で遊説中に過労死し、その弔い選挙で圧勝した自民党は大平派の番頭格であった鈴木善幸を総理大臣にかつぎあげたが、この鈴木内閣のもとで81年3月、第2次臨時行政調査会が発足した。強力な権限をもった9人の委員の会長にすわったのは前経団連会長の土光敏夫であった。財界トップでありながら清廉潔癖のイメージをもつ土光の登用は、「増税なき財政再建」というキャッチフレーズを掲げた第2臨調にぴったりだった。委員には財界首脳、権威ある行政学者ばかりでなくマスコミ経営者や労働組合代表まで入れて、「国民的合意」づくりにつとめた。

 第2臨調から出された答申は、国会でもほとんど審議なく立法化され、1980年代の日本で大きな役割を果たした。教科書検定で戦前日本の中国「侵略」を「進出」と書き直させたことが報じられて中国政府が厳重に抗議し、鈴木善幸がその処理に嫌気がさして辞意を表明すると、臨調行革の担当大臣であった中曽根康弘が82年11月に総理の椅子についた。中曽根首相は、就任当初に対外関係で「日韓新時代」「日米運命共同体」「日本列島を不沈空母にする」などと言明して物議をかもしたが、国内政治では「戦後政治の総決算」をうたって行政改革を推進した。

 第2臨調では「活力ある福祉社会の建設」と「国際社会に対する積極的貢献」が2大目標とされた。当初課題とされた省庁の統廃合は官僚たちの抵抗で骨抜きされたが、高齢化社会に備えた福祉負担の見直し、国鉄・電電公社の民営化などは、次々に実施に移された。中曽根内閣では実施できなかったが、88年の消費税導入も、「自助自立」と「応分の受益者負担」をかかげた臨調行革の延長上にあった。 

 プラザ合意とバブル景気

 1985年9月、ニューヨーク・プラザホテルに秘かに集まった先進5ヵ国蔵相・中央銀行総裁の会議(G5)は、財政・貿易の「双子の赤字」で悩むアメリカ経済を立て直し国際金融市場を活性化するために、ドル安・円高の方向で国際協調を進めることで合意した。秘密会談の行われたホテルの名前をとって、プラザ合意とよばれる。

 G5直前の1ドル242円は、1年足らずで152円と円が急騰した。この円高で、洋食器・玩具などの輸出型中小企業は大きな打撃を受けたが、ドルで換算される国際統計上では日本の経済的地位はアメリカをしのぐほどになった。対外総資産や政府開発援助(ODA)、1人当り国民所得などでアメリカを追い抜き世界の頂点にのぼりつめた。労働者の賃金やお年寄りの年金までが、高物価の日本ではくらし向きは変わらないにもかかわらず、統計上は世界有数の水準になった。

 この急速な円高が、バブル景気の引金になった。なかでも土地の値上がりは、田中内閣期の「列島改造ブーム」をしのぐ勢いで、都心部などではオフィス需要を見越して土着の商店主らを札束で追い出す「地上げ」が横行した。株価も空前の値上がりをみせ、大卒求人は引く手あまたであった。投機は外国にまで広がり、ニューヨーク・マンハッタンの高層ビルやハワイの大きなホテルが日本資本に買収された。東京の地価を総計すると、面積が日本の25倍のアメリカ一国の地価になると計算され、貿易摩擦も激化した。1987年10月のアメリカ・ウォール街に起こった株式市場の暴落、「ブラック・マンデー」も、東京市場の好調に支えられて、世界恐慌になった1929年の悪夢を繰り返さずにすんだ、といわれた。世界の日本を見る目が変わった。「豊かな国日本」に職を求めて、多くのアジア人が来日して外国人労働者となり、「危険、汚い、きつい」の3K労働に就いた。

 だが、バブルは文字どおりの泡だった。バブルのカネは政界にもばらまかれ、リクルート事件、佐川急便事件と、政治家がらみの汚職が続出した。1987年末に中曽根から政権をひきついだ竹下登は、88年11月国会で消費税導入を強行採決し、国民の反発を招いた。89年7月の参議院選挙では、初の女性委員長土井たか子の率いる社会党が消費税廃止・リクルート事件徹底究明をかかげてブームをおこし大躍進、参議院ではついに与野党が逆転した。竹下内閣は89年6月にリクルート事件で崩壊し、次の宇野宗佑内閣は、首相の女性スキャンダルでわずか2ヵ月、89年8月には少数派閥の海部俊樹に政権をゆずった。バブル経済自身も、90年代に入るとかげりがみえ、地価はさがり始めた。93年には、政治改革をめぐって自民党が分裂して新生党が誕生、社会党・公明党・民社党などと組んで、日本新党の細川護煕を首班に非自民連立内閣が成立、いわゆる「55年体制」も崩壊した。

 偏差値と学歴社会

 1980年代には、こどもの自殺、いじめ、登校拒否が、深刻な社会問題となった。高等学校から始まった子どもたちの変調は、中学校へ、小学校高学年へと低年齢化した。核家族化・少子化はいっそう進行し、将来の労働力不足がとりざたされるようになった。家庭の崩壊も、子どもたちの心の世界に動揺をうんだ。離婚が増えたばかりでなく、単身赴任や長距離通勤が当り前になると、父親不在の事実上の母子家庭が珍しくなくなった。マイホームを購入して独立した子ども部屋を与えたところに、テレビゲームやファミコンが家族や友だちの代わりを勤めることになった。1988年には、マンガ週刊誌『少年ジャンプ』が発行部数500万部を突破した。

 子どもたちも忙しかった。偏差値は、子どもたちを競争へとかりたてた。受験競争は、小学校・幼稚園段階まで浸透してきた。学校でのクラブ活動のほかに、ピアノの稽古やスイミング教室・英会話、それに学習塾が加わり「よい子」であるために、遊びの時間がけずられた。電話が各家庭にゆきわたった段階で、子どもたちは「今日、遊べる」と、電話の向こうの見えない仲間に問いかけるようになった。ミヒャエル・エンデの『モモ』が、日本で140万部以上も読まれたのも、こうした日本の子どもたちの世界の変貌を背景にしていた。大人たちの世界には時間泥棒がいて、ファンタジーやメルヘンが奪われつつのを、子どもたちは敏感に感じとっていた。

 企業社会と過労死

 子どもたちの世界を、あわただしく競争にかり立てた大きな力は、「減量経営」以後の大人たちの世界であった。1980年代になると、職場にはロボットや複写機ばかりでなく、パソコンやポケベルが入り込んできた。日本が経済大国になるにつれて、取引は世界全体に広がり、46時中情報が世界から舞い込んできた。「24時間たたかえますか」というコマーシャルソングが流行ったのは、「ベルリンの壁」の崩壊した1989年のことであったが、この世界史のの激動をも、日本企業はビジネス・チャンスと受けとめた。戦後の日本社会は総じて「欧米に追いつき追い越せ」を合言葉にしてきたが、その経済主義的発展志向は、国際統計のうえで頂点にたっても大きく変わることはなかった。

 「過労死」という言葉は、医学者のなかでは1970年代末に生まれていたが、急速に日本社会に広まったのは、1988年に弁護士たちが「過労死110番」を開設してからである。長時間過密の労働が重なり、心筋梗塞や脳出血などで突然死する過労死は、他の国々でも見られないことはないがきわめてまれであり、過労死弁護団が推計した年1万人という日本の犠牲者の規模は、交通事故死に匹敵する驚くべき数字であった。栄養剤のコマーシャルで「24時間たたかえますか」と歌われる日本型ビジネスの世界こそ、過労死の元凶であり、日本の企業社会の異常さを示したものであった。世論調査で国民の約半数が自分ないし自分の家族の過労死を心配しているという数字が発表されるに及んで、ようやく労働省も労働基準法の改正や過労死労災認定の基準緩和にとりくんだが、マイホーム、電機製品、ファッションやグルメで囲まれた80年代の「豊かな社会日本」は、その最も奥深いところで、エンデの『モモ』の世界とは対極にある、せわしいリズムの企業社会を土台にしていたのである。


   第6章 だれでもなれる、地球市民!

 

 昭和天皇の死で始まった1989年は、中国北京での天安門事件に続いて東欧社会主義国が次々に民主化し冷戦が崩壊する世界史のドラマの幕開けとなった。91年にはソ連も崩壊し、世界史はフランス革命期に匹敵する激動・再編期に突入した。日本にもやや遅れてその波は波及し、自民党が分裂し政権から離れて、いわゆる55年体制が崩壊した。バブル経済も崩壊し、深刻な長期不況が高失業率・就職難をうみだした。バブル期に大量に流入したアジアや南米からの出稼ぎの人々は、外国人労働者として日本社会の周辺部に根をおろした。日本人の若者もアジアにでかけ、日本の豊かさの対極にアジアの人々の苦しみを見いだした。自然の正常な活動である阪神淡路大地震で、最先端文明都市神戸はもろくも崩れた。核兵器の残存や環境問題を考えると、地球というかけがえのない星にいきているすべての人々の共生こそ、21世紀の課題にみえてくる。そんな時代に生きているからこそ、いまいちど日本列島と日本人の歩みをふりかえり、これからの地球市民のあり方を考えることが必要であろう。

 

 男女雇用機会均等法

 焼け跡・闇市から半世紀、「戦後50年」である1995年の日本は、「豊かな社会」の様相を示していた。デパートには世界中の商品がならび、ファミリーレストランや24時間ストアが全国どこにいっても見られた。不景気のなかでもパソコンが売行きをのばし、インターネットで家庭から世界と交信できると宣伝されていた。他方で、阪神大震災で壊滅した神戸には焼け跡・闇市が再現し、オウム真理教による無差別殺人や銃による犯罪の多発が日本社会の「安全神話」をつきくずしていた。バブル経済の崩壊と失業の増大、経済も政治も先行きが見えないなかで、「豊かな社会」ゆえの社会不安も広がっていた。

 「豊かな社会」は、高度経済成長の産物だった。戦後の高度成長を支えたものは、政府の経済・財政政策や民間大企業の絶えざる技術革新・設備投資であったが、民衆の側にひきつけてみれば、農村から都市へ、男性のみならず女性パートも、さらには外国人や学生アルバイトをも賃労働化しての、会社・工場への動員だった。

 その職場では、男女の差別がひどかった。女性の平均賃金は男性の約半分で、結婚・育児で会社をやめるのが当然とみなされた。家事労働はほとんですべてが女性の仕事とされ、共働きの女性は職場と家庭でせわしく働いた。

 日本国憲法からすれば、両性は平等でなければならなかった。減量経営以後の女性の職場進出はパートの臨時労働が多かったとはいえ、女性の意識を高めた。1986年4月1日から、男女雇用機会均等法が施行された。雇用における総合職男女別募集禁止や女子深夜労働禁止条項緩和など、女性の業域拡大や昇進平等化に道をひらくとされたが、実際には罰則条項がなく、バブル経済崩壊後の不況期には、女子の就職が男子に比して極端に厳しくなった。しかも女子労働者内部に総合職と一般職の差別が生まれ、女子総合職には男性なみの長時間労働が要求された。一般職にはあい変わらずのお茶くみ、コピーとりなどの雑用の仕事が与えられた。均等法十年目の1995年の就職活動期には、女子学生の就職難が「超氷河期」として社会問題になり、日本型企業社会の変わらぬ男性優位が浮き彫りになった。 

じゃぱゆき君と海外旅行

 1980年代後半から、アジアから大量の外国人労働者が日本に入ってきた。当初はフィリピンやタイの女性が飲食接客業で働く「じゃぱゆきさん」が問題になったが、やがて首都圏の工事現場や町工場に、多くのアジア人、アラブ系の男性、南米系の人々が目立つようになった。90年代に入ると、全国どこででも「きつい、危険、汚い」のいわゆる3K職場に働く「じゃぱゆき君」が珍しくなくなった。特に1980年代末のバブル景気の時代には、観光ビザで入国した不法就労者を含めて多数の外国人が日本にやってきた。大学のキャンパスにも、留学生が当たり前になった。

 単一民族国家日本という神話は、事実によってくつがえされた。日本が単一民族国家であるという考え方が定着したのは、もともと第二次世界大戦後のものだった。万世一系の天皇制を唱えた戦前の学者たちも、朝鮮・台湾の植民地化やアジア侵略を正当化するさいには日本を朝鮮人と同じ系譜とみたり(日鮮同祖論)、さまざまな系譜の混合民族と述べたりするのが普通であった。単一民族の神話は、戦後敗戦状況の産物であった。そして1980年代後半になると、戦前とは異なる文脈で「アジアのなかの日本」「異質との共存」が強調されるようになった。

 アジアの人々が大量に入ってくることによって、もともと植民地時代に強制連行でつれてこられた在日朝鮮人・韓国人の人々の戦後や、戦時中の従軍慰安婦問題などがクローズアップされてきた。82年の教科書検定問題以降、日本の政治家の戦争についての発言が韓国政府や中国政府の公式・非公式の抗議・非難を受けることが多くなった。「外国」の問題が国内化し、国内向けに大臣たちが話したアジア蔑視・太平洋戦争肯定の考えがすぐに国際問題化するようになったのである。

 他方、日本から海外に出る人々も急速に増えた。1990年代になると60万人以上の日本人が多国籍企業化した会社の派遣、留学・研究などのために海外に居住するようになり、旅行者となると10人に一人は年に一度は海外に出るようになった。海外居住者への国政選挙権付与が日程にのぼる一方で、日本在住外国人の地方選挙参政権、公務員採用も問題になった。

 また、海外にある日本企業の権益、在外日本人の安全保護という名目で、国連平和維持活動(PKO)への自衛隊派遣が語られるようになった。同時に市民の非政府組織(NGO)や非営利組織(NPO)の国際交流も盛んになり、1992年夏の国連地球環境会議(環境サミット)のさいには、日本の首相は国内政治の混乱で出席できなかったにもかかわらず、環境市民団体の代表たちが多数参加し、世界の市民たちと交流を深めた。

 世界資本主義のなかでの日本経済の役割が大きくなるにつれて、国際化の波は私たちの生活のすみずみにまで及び、日々の食卓も衣料も、かつて「舶来品」と珍重された外国製品がなくてはたちゆかなくなった。日本社会の全体が、かつてないほど国際化したのである。 

 東欧革命・ソ連解体・冷戦崩壊 

 1989年は、世界史における画期的な転換の年となった。ソ連の勢力圏となっていた東欧諸国でつぎつぎと民主化・自由化を求める革命がおこり、社会主義体制から離脱した。そのため東西冷戦も崩壊し、91年末にはソ連国家そのものが15の共和国に分解してなくなった。

 発端は、1985年にソ連共産党書記長にミハエル・ゴルバチョフが就任したことであった。ゴルバチョフは、ブレジネフ書記長時代の経済停滞と市民の窒息状況を脱するため、中央集権的計画経済に市場原理を導入するペレストロイカ(新規まき直し)で経済活性化をはかった。チェルノヴイリの原子力発電所の事故で多数の被爆者が出たのを契機に、市民の自発性をひきだすためにグラースノスチ(情報公開)に踏み切った。国際関係においても、従来の階級闘争中心の見方を改め、核兵器廃絶や地球環境保護の人類的課題が優先することを認め、新思考という名で社会主義国家間の関係にも自主・平等の関係が成立しうることを認めた。そのとたんに、ポーランド、ハンガリーから始まって、89年11月9日のドイツ「ベルリンの壁」の崩壊、チェコスロヴァキア「ビロード」革命、ついにはチャウシェスク独裁下の民衆蜂起、ブルガリア、ユーゴスラヴィア、アルバニアの社会主義政権崩壊に波及し、かつてソ連と社会主義の運命共同体とされていた東欧諸国のすべてが、政治的民主主義・自由主義市場経済へと向かった。

 ゴルバチョフは、それを押し止めることなく黙認し、1989年末にはアメリカのブッシュ大統領と地中海のマルタ島で会見し、東西冷戦の終焉を宣言するにいたった。翌年には東西ドイツが統一し、ソ連ではそれまで共産党独裁のもとで潜在していた民族紛争・宗教対立が噴出して、91年8月の保守派のクーデターの直後にはソ連共産党が解散し、年末にはソ連国家そのものが消滅した。冷戦の起源とされる第二次世界大戦終結時のヤルタ会談と対比して、「ヤルタからマルタへ」とよばれた。

 西側資本主義諸国でも社会主義・共産主義の潮流は急速に影響力を失い、ソ連の援助を受けてきたアフリカの国々でも民主化・自由化が進んだ。アジアの中国・北朝鮮・ベトナム、中米のキューバが社会主義国として残されたが、中国・ベトナムでは共産党政権の主導で市場経済導入が行われ、アジア全体の経済発展の波に乗り換えていった。

 東西対立の一方の極にあったソ連・東欧社会主義の崩壊は、20世紀の世界秩序全体に大きな影響を及ぼした。旧ソ連やユーゴスラヴィアでは、経済破綻のもとで民族・宗教対立が噴出し連邦国家そのものが解体したが、1990ー91年には、中東のイラクがクウェートに侵攻して湾岸戦争が勃発した。国連決議を受けてアメリカを中心とした多国籍軍がイラクを包囲・制裁したが、それを解体寸前のソ連ほか旧社会主義諸国も支持し、日本は一人当たり1万円以上の資金を提供した。ソ連の国連安全保障理事会常任理事国の代表権は、ゴルバチョフ失脚・ソ連解体の後にエリツィンが大統領になったロシア共和国が受け継いだが、日本では新たな世界秩序維持の役割を担った国連の平和維持活動(PKO)に積極的な役割を果たすためという理由で、自衛隊の海外派遣が93年のカンボジアを手始めに開始された。 

 バブル崩壊・円高・産業空洞化

 東側社会主義の崩壊、東西冷戦の終焉は、西側資本主義圏に安定をもたらすものではなかった。社会主義の崩壊は資本主義の勝利を意味するという論調は一時的なもので、核兵器の独占を後ろ盾にした米ソ対立の終焉は、西側でのアメリカの地位の低下をもたらした。すでにヨーロッパ共同体(EC)を通じて結束を強め、冷戦終焉で旧中立国スウェーデンやオーストリアも加わった欧州連合(EU)は、1994年から地域経済を完全に自由化し、政治的にも欧州議会や裁判所をもちヴィザなしで互いに行き来する、国民国家を超える実験を始めた。アメリカもカナダ・メキシコとともにナフタ(NAFTA)という北米地域経済統合を実現し、世界市場でヨーロッパや日本・アジアに対抗しようとした。

 1980ー90年代に世界史を大きく書き換えたのは、ロシア革命に始めるソ連型社会主義の崩壊だけではなかった。近代産業文明の発祥地である欧米の経済発展が鈍化しているもとで、アジアでは日本に続き次々と経済成長を遂げる国々が現れ、安価な労働力をもとに、衣料や電気製品の世界市場の工場となった。当初は韓国・台湾・香港・シンガポールのめざましい発展がアジア・ニーズ(NIES)として注目されたが、やがてタイ、インドネシア、マレーシア、フィリピンなども急速な工業化・都市化に入り、ついには世界人口の3分の1を両国で占める中国とインドまでもが、その波に合流した。これらの国々は外資導入にも熱心で、欧米や日本の企業もアジアに生産拠点を設けた。そのアジアにも、APECのような地域経済統合の動きが定着した。

 日本の国際的位置と役割も、大きく変化した。西側第二の経済大国としてアメリカの後についていけばよかった時代は終わった。日本経済の転機も1985年、ゴルバチョフ登場の年のプラザ合意によるドル安・円高であったが、2年間で2倍の円高によって、ドル計算での日本の国際的地位は一気に世界一の債権国・資産国・ODA援助国におどりでた。アメリカは、逆に世界一の債務国となり、その貿易赤字の過半は日本とのあいだのものだった。すでに70年代から目立ってきた日米経済摩擦は、「経済戦争」と表現されるほどに激化し、「構造協議」を通じての交渉の対象となった。牛肉やオレンジの輸入・大型店舗規制緩和から建築業界の談合入札・学校週休2日制まで、アメリカからの圧力で市場開放・障壁除去が行われた。

 しかし、1980年代後半から90年代初頭の日本経済は、日米構造協議の真っ最中であったが飛ぶ鳥を落とす勢いの消費ブームで、土地と株式投機を中心に景気が過熱していた。高価なブランド商品がデパートで次々に売れ、都会の小さな土地をめぐって「地上げ屋」の札束が乱れとんだ。そのツケは、ちょうどベルリンの壁崩壊からソ連解体という世界史の激動期が終わると、深刻な不況としてはねかえってきた。バブル(泡)経済の崩壊である。天井をうった地価はさがりはじめ、株価は低迷するようになった。都心のオフィス・ビルは入居者がなくなり、企業倒産も続出する。

 この1990年代の長期不況は、世界史における日本経済のピークがすぎたことを予感させるものとなった。円高でコストが急騰した製造業では、多国籍企業化した大企業ばかりではなく、地方の地場輸出産業の中小企業までが、タイやフィリピン、中国、ベトナムに生産拠点をつくり始めた。1ドル100円突破という急速な円高のもとで、国際統計上は世界一になった日本の高賃金をさけて、安いアジアの労働力と市場拡大をめざすようになった。かつてアメリカ経済が1960ー70年代に経験した「産業空洞化」である。

 企業の内部では、もはや日本的経営の3種の神器といわれた終身雇用・年功賃金(いま一つは企業内組合)は保障できなくなった。新規雇用が減って大卒学生の就職氷河期が始まったばかりでなく、働き盛りの中高年男性もリストラとよばれる合理化にさらされるようになった。製造部門が海外に出ていったばかりでなく、事務部門にも効率・業績競争やコンピュータが導入されて、公式統計の失業率も3%を超えた。それでも欧米に比べれば低いが、正社員がスリム化・業績主義化して、派遣・臨時・パート労働に依拠する割合が大幅に増えた。女性の職場進出は80年代から急増し、雇用機会均等法やセクシャル・ハラスメント批判で定着したかに見えたが、総合職についた一部を除けば、その職場はあいかわらず不安定で低賃金の部門だった。   

 阪神大震災とオウム真理教事件

 1995年には、「戦後50年」をめぐってさまざまな回顧が現れた。この年1月に阪神大震災がおこり、神戸市を中心に6000人に以上の犠牲者を出した。神戸は貿易の窓口として外国人の多く住む国際都市であった。山を削って海岸線を埋め立てた密集都市で同時に多発した火災に、消防も自衛隊の災害出動もなすすべはなかった。犠牲者のなかには、多数の在日朝鮮・韓国人や外国人労働者・留学生も含まれていた。高度経済成長・経済大国化の動脈となった新幹線・高速道路が倒壊し、欠陥工事があらわになった。被災は社会的弱者を直撃した。死者の半数以上が60歳以上の高齢者であった。一人暮らしの老人の死は、身元判明が遅れ、遺骨の引き取り手も現れなかった。

 地球の自然史的活動による地殻変動の前に、高度な産業文明は無力をさらけだした。ローンで買ったばかりのマンションが瓦壊して、借金ばかりが残った人もいた。火災保険は特約がないかぎり地震による火災には適用されないと知って呆然とする人々もいた。被災者は寒い季節に学校や体育館での避難所暮らしを強いられた。他人の目に囲まれたプライバシーのない避難所生活を嫌って、公園にテントと焚き火の生活を始める被災者も少なくなかった。120万人もの人々が被災者救済のボランティア活動にかけつけたが、そのなかには外国のNGO・NPOも多数含まれ、経済危機のロシアや発展途上国からも毛布などの救援物資が送られてきた。政治離れを語られて久しかった大学生など若者たちが、ちょうど春休みと重なってボランティア活動の中心部隊であった。

 3月、東京都心の地下鉄車内で、朝のラッシュアワーに突然猛毒ガスが流れだし、多数の死者・負傷者を出す事件が起こった。大量無差別殺人である。後にこれは、オウム真理教という新興宗教教団による、弁護士一家誘拐殺人・裁判所攻撃・信徒リンチ殺人・財産強奪・反対運動指導者殺人未遂などの一連の犯罪の一部と判明した。猛毒サリンをつくり無差別殺人に関わったのは、教祖を狂信する高学歴の信徒たちで、医者や大学院出の自然科学者も含まれていた。混乱するロシアに支部をつくって武器を持ち込むなど、国際性も帯びていた。戦後最大の凶悪犯罪事件に、警察も裁判所も総力をあげてとりくまざるをえなかった。この年、銃をつかった凶悪犯罪も多発した。バブル経済と一緒に、安全な日本という神話も崩壊した。 

 冷戦の終わらない沖縄県民の怒り

 同じ1995年9月には、沖縄県で、少女が基地の米兵に襲われ暴行される事件が起こった。日米安保条約にもとづく地位協定によって、こうした事件の警察権は米軍にあり、日本側は起訴が決まってから裁判に付する権利があるだけだった。冷戦が終わって、日本の米軍基地の存在は、多くの国民にとって存在理由の弱いものとなった。とりわけ日本全土の4分の3の基地が集中する沖縄では、「本土なみ返還」後も土地を奪われ、基地騒音・犯罪に悩まされてきた。経済発展も基地に大きく依存し、自立的・内発的発展をさまたげられてきた。一人当たりの県民所得は全国最下位、トップの東京都の約半分という状況から脱却できなかった。

 日米安保条約堅持の立場から、沖縄県民にいつまでも苦悩を強いる日本政府に対して、太田昌秀知事を先頭に、沖縄県民の怒りが爆発した。沖縄県として米軍用地の強制使用手続きを拒否、日本政府に対して代理署名拒否訴訟をおこして、基地の整理・縮小を求めた。政府は、冷戦崩壊という国際環境の変化と世論の動向にあわせて、「日米安保条約の再定義」を行わなければならなくなった。

 この時の太田沖縄県知事による代理署名拒否訴訟の準備書面には、沖縄県民の戦後50年の不満と怒りが込められていた。この文書は、地方自治体が中央政府を相手に、住民自治と自由・人権を正面から主張した公文書としても画期的であるので、やや長くなるが引用しておこう。

 「沖縄には、1994年3月末現在、県下53市町村のうち25市町村にわたって42施設、2万4526ヘクタールの米軍基地が存在しており、県土面積の10.8%を占めている。……沖縄の米軍基地面積は、全国の米軍基地面積の24.9%に相当し、北海道の34.7%に次いで大きな面積を占めている。中でも米軍が常時使用できる専用施設に限ってみると実に全国の74.7%が、国土面積のわずか0.6%しかない沖縄県に集中しており、他の都道府県に比べて過重な基地の負担を強いられている。……
 1995年10月21日、8万5000人を結集した県民集会が開かれた。この米軍基地の整理・縮小を求める県民世論の大きなうねりは、同年9月4日に発生した残虐きわまる米兵3名による暴行事件が契機となった。この事件でいたいけな少女の尊厳が踏みにじられた。これまでも繰り返されてきた基地被害がまたも悲惨な形で起こったことに、県民の怒りは爆発した。……『沖縄の中に基地があると言うよりも、基地の中に沖縄がある』といわれるように、広大な米軍基地に隣接して住宅・学校がひしめいている沖縄では、米軍の演習、騒音等によって、日常的に子ども達の成育・教育環境が破壊され、子ども達の平和的生存と発達の権利が侵害されている。……
 復帰を願望した沖縄の理念と主張は、異民族支配からの脱却(復帰)、人権の回復、反戦・平和の希求の3つに集約できる。特に、沖縄は、今次世界大戦で、日本国内で住民を巻き込む唯一の地上戦が行われただけに、県民の平和に寄せる期待は特に強いものがある。米軍の基地建設と共に開始された沖縄の戦後、復帰しても『本土並み』には整理・縮小されない米軍基地、その歴史の中で、住民の眼前に大きく横たわる米軍基地に対して、県民は、一貫して『不必要』といっているわけである。
 復帰前の沖縄の米軍基地は『太平洋の要石』といわれたが、復帰後も、米軍の西太平洋における最大戦略拠点であることに変化はない。日米安保再定義により、その機能を更に強化し、役割が固定されようとしている。……
 以上述べたことから、知事が立会・署名を行わなかったことは、平和の実現への寄与という潜在的または顕在化しつつあった県民世論を顕在化したものであり、だからこそ県民の圧倒的支持を得ているものである」(『沖縄 苦難の現代史』)。 

 55年体制の崩壊と政治の液状化

 冷戦が崩壊しバブル景気がはじけた頃、日本政治にも大きな転機がおとずれた。1955年の結党以来常に政権にあった自由民主党の支配がほころび、政党政治の大きな再編に突入した。

 1989年1月に昭和天皇が亡くなり、元号は昭和から平成に改められた。2月24日の葬儀に世界164か国の代表が列席したのは、日本経済の世界的位置を示すものであった。しかしこの頃、リクルート疑獄事件が発覚し、政界は混乱した。竹下・宇野内閣に続く海部内閣の時期に、湾岸戦争への対応がらみで自衛隊を海外に派遣しようという考え方が浮上し、92年6月、海部の後をついだ宮沢喜一内閣のもとで、国連平和維持活動協力法(PKO協力法)が成立した。9月には自衛隊がカンボジアに派遣され、憲法上の地位もあいまいなまま、戦後日本の新たな1頁が始まった。

 池田勇人の秘書であった宮沢喜一の内閣は、自民党保守本流の正統嫡子であった。田中内閣以来の金権政治をただし、かげりのみえた日本経済を立て直すはずであった。しかし、バブル経済は91年にははっきり不況に転じ、この年の倒産件数は史上最高であった。土地やマンションの価格が下落し、株価も低迷した。宮沢のキャッチフレーズは池田の「所得倍増」にならった「資産倍増」で「生活大国5か年計画」をつくったが、当の政界では、リクルート疑獄に続く佐川急便事件が発覚して、金丸信自民党副総裁が5億円を受け取ったことを認め議員を辞職した。

 1993年の政変は、金権政治・政治腐敗に対する国民の怒りをどのように受けとめるかという、政治改革の進め方をめぐって勃発した。宮沢内閣は、政治改革を金のかかる衆議院中選挙区制を廃止し小選挙区制の導入でのりきろうとしたが、社会党・公明党・民社党は小選挙区制と比例代表を組み合わせる対案で対抗した。そこに自民党内の対立がからんで、旧田中派の小沢一郎らが野党に同調して内閣不信任案に賛成し、衆議院の解散になった。7月総選挙は67%という戦後総選挙史上最低の投票率であったが、自民党は過半数を割って223、社会党も惨敗して70、自民党から離れた羽田孜・小沢一郎らの新生党55、公明党51、元熊本県知事細川護煕らの日本新党が35、共産15、民社15、元滋賀県知事武村正義らの新党さきがけ13、社民連4などで、「新党ブーム」に乗って非自民勢力が連立し、細川内閣が生まれた。社会党の元委員長土井たか子が女性としてはじめての衆議院議長となった。

 細川内閣のもとで、政治改革は小選挙区300、比例区200の計500議席とする小選挙区比例代表並立制採用が決まり、冷夏による米不足のもとで米の輸入が行われた。しかし税制改革でつまづいて、もともと反自民だけで連立した与党内は不安定になり、94年4月に羽田内閣が成立、しかし2か月で新生党と社会党が対立し、6月には社会党と自民党・さきがけの連立した社会党委員長村山富市を首相とする内閣が生まれた。野党となった新生党・公明党・日本新党・民社党に政界再編下で自民党を飛び出したグループが加わり、94年12月には新進党という新しい保守党をつくり、元自民党首相である海部俊樹を党首に選び、小選挙区制のもとでおこりうる保守2大政党制への布陣を敷いた。

 他方政権に入り首相をだした社会党は、それまでの革新の党是を改め自衛隊や安保条約をつぎつぎと認め、政界再編からはじきだされないように社会主義を捨てて「リベラル」の名で自民・新進と異なる第3の道を模索し始めた。一部は社会党から離れて「護憲」の旗を守ろうとしてたが、自民党ばかりでなく社会党も分裂し社会民主党と改名することによって、自民2対社会1の力関係下で続いてきた「55年体制」は名実共に崩壊し、先の見えない政界再編ゲームに入った。阪神大震災にさいして埋め立て地で起こった地盤の融解にならって、「政治の液状化」などといわれた。

 1996年1月には村山首相が退陣し、自民党の橋本龍太郎が、総選挙のないまま首相に就任した。橋本内閣のもとで、96年10月に初めて行われた小選挙区比例代表並立制による総選挙(総定数500)は、国民の政治不信・政党不信で有権者の6割を割る戦後最低の投票率であった。自民党が239と議席をのばしたのに対して、小沢一郎を党首にした新進党156、鳩山由起夫・菅直人らが第3勢力をめざして選挙直前に結成した民主党もブームに乗れず52議席にとどまった。護憲の旗をおろして与党となった社会民主党は15、民主党に多くの党員が移ったさきがけは2と惨敗、共産党26より議席の少ない小党に転落した。小選挙区制導入で選挙に金がかからなくなると宣伝されたが、実際には金権選挙はつづき、比例代表制名簿順位をくりあげるために資金をばらまいて議員バッジを買う候補者も現れた。

 厚生省と製薬企業の癒着を背景にした薬害エイズ事件、特定業者による大蔵・通産官僚の接待など官僚スキャンダルが相次ぎ、官僚の天下り先である公社・公団の放漫経営、カラ出張・官官接待など地方自治体の税金のむだ使いもあばかれ、行政改革・規制緩和がさけばれるようになった。村山内閣の決定で消費税率は97年4月に3%から5%に引き上げられたが、財政再建のめどはたたなかった。銀行・証券など金融業界もバブル時代の不良債権の処理にゆきづまり、世界経済の再編・競争激化のもとで倒産する銀行も現れた。栄華を誇った日本経済も、先行きの見えない「液状化」とリストラの時代に入り、世紀末の日本は、不安定で不確実な状態のまま、21世紀に突入しようとしている。 

共生の21世紀をめざして

  19世紀から20世紀への移行は、日本では大きな意味を持たなかった。西暦年号は入ってはいたが、くらしのなかに定着しておらず、1901年は明治34年という元号で理解された。世界の出来事を新聞で知ることはできても、まだまだ遠い異国の話と受けとめられていた。

 20世紀の終わりと21世紀の開始は、異なる条件下で到来する。科学技術と情報交通の発達は、地球のすみずみにゆきわたった。企業も市民も国境をこえ、食卓にも衣料にも外国製品が浸透している。日本の国際的地位そのものがきわめて大きくなり、国際問題が国内化し国内問題が国際化する構造が日常化した。日本史は世界史の重要な一部となり、地球の将来を決定する能動的な一環となった。

 核兵器の存続や地球環境危機など、20世紀の世界戦争や経済発展がもたらしたツケが、21世紀に引き継がれる。東西対立は終わったが南北問題・南南対立は深刻で、飽食日本の裏側にアジアやアフリカの飢えた子どもたちが見えてくる。国内にあっても、沖縄県民や在日外国籍の人々が強く訴えているように、格差と差別の構造は失われていない。20世紀は、世界史的にみても女性の社会的進出と地位向上の時代であったが、職場でも家庭でも女性差別が残されている。日本では、平均寿命女性84歳・男性76歳という高齢社会化に核家族・少子化の問題が加わり、世代間の関係も深刻になっている。

 世界史における20世紀後半は、人類史上未曾有の巨大な経済膨張期であった。1950ー90年の40年間で、世界の人口は25億人から53億人へと2倍に、国内総生産(GDP)の合計は28倍に、輸出は47倍へと膨張した。地球という空間には限りがあるから、それは、人口密度が増し、工業生産物が増大し、核兵器のような破壊力をも集積・拡延し、地球生態系が大きく変化したことを意味した。さまざまな歴史や文化をもつ地球人全体の「共生」が切実な課題となった。

 日本の「戦後」は、そのなかでも突出していた。人口は1・5倍と先進国平均並であるが、GDPの伸びは円計算で107倍、ドル計算では250倍を超える。輸出にいたっては、実に350倍に達する。まぎれもなく日本は、その世界史的成長時代の超優等生であった。それが、敗戦国国民としての屈辱の占領体験、焼け跡・闇市時代のタケノコ生活、貧しさと空腹からの脱出を原動力とし、官民一体での「欧米に追いつき追い越せ」というキャッチアップ戦略を背景にしていたにしても、この「戦後50年」の物質的達成は、日本人の生活環境の激変を示唆して余りある。

 農村から都市への民族大移動があった。1950年から75年の4半世紀で、東京・大阪・名古屋の3大経済圏に1500万人が流入した。農業国から工業国へと転身した。1950年に300万戸あった専業農家は、70年には85万戸に激減した。家庭には電機製品が溢れた。1960年代の白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機から、70年代のカラーテレビ・マイカー・クーラーまで、「3種の神器」とよばれて競って購入された。

 情報距離は短縮し、日本列島は一体化した。新幹線・高速道路の交通網で、テレビ・コマーシャルや電話のすみずみへの普及で、ふるさとや田舎のイメージが変わった。団地やマンションという居住様式が現れ、スーパーマーケットやファミリーレストランが日常生活に不可欠になった。男女平等と核家族化は、嫁姑の関係ばかりか、家族のあり方を根本的に変えた。

 テレビ漫画からファミリーコンピュータへと進んだ、こどもたちの遊びの世界は、ガキ大将やカン蹴りの世界を過去のものとした。高学歴・良い会社をめざして、子供も親もがんばった。歌謡曲や演歌、映画スターの時代があったが、やがてニュースキャスターと各種評論家が、世論を形成するまでになった。知識人や論壇が衰退し、高学歴科学者が殺人者集団に変身したオーム真理教の出現――どのひとつを取っても、日本社会史の画期となる。日本社会のなかに多くの外国人が入ってきて、国内の「共生」も重要になってきた。

 経済成長に適応した身体と精神の変容 

 こんな統計もある。日本人の17歳男子の平均身長は、1900年に157・9センチメートルだった。それが、1994年には170・9センチメートルへと、百年足らずで13センチ伸びた。体重も、50・0キログラムから62・9キロへと、13キロも増えた(NHKTV・クローズアップ現代「ボディサイズが日本を動かす」1995年)。

 人類学者の観察によると、日本人の祖先である縄文時代の遺跡から発掘された人骨から推定される、当時の成人男子の平均身長は159センチメートルであった。紀元前300年頃に大陸から渡来した面長・高身長のモンゴロイド系弥生人の成人男子平均身長は、163センチであった。その後の日本列島の歴史は、この2つの系譜の混交しあう過程である。だから、1876年に来日したドイツの医学者ベルツが1880年頃に測定した男子学生の平均身長は161センチ、なぜかぴったり縄文系と弥生系の平均値になった。その頃の女性の平均初潮年齢は14・7歳、それが百年後の1980年頃には、男子の平均身長は169センチに伸び、女子の平均初潮年齢は12・4歳に低下していた。

 より厳密にデータを取ると、江戸時代までほとんど変化のなかった成人男子の身長は、明治の殖産興業・富国強兵と共に伸びはじめ、第2次世界戦争期はいったん停滞する。それが、戦後の経済復興・高度成長によって、戦前期より早いテンポで伸びていく(祖父江孝男編『日本人はどう変わったのか』NHKブックス、1987年)。

 身長の伸びに作用する要因としては、食糧事情好転による栄養の改善、椅子式生活や体育の普及、未成年労働の軽減、ストレスの低下、通婚圏拡大によるヘテローシス(雑種強勢)効果、などが考えられる。確かに1日2食が3食になり、菜食に肉食が加われば、栄養状態は改善されるであろう。だがそれは、健康なのか? 戦後の高度成長は、コメと味噌汁からパンと牛乳への移行のみならず、飽食・グルメと膨大なゴミをも生み出した。

 見方を変えれば、それは、必要栄養量の増大とも、農業労働から工業労働への人間身体の適応とも考えられる。例えば近代日本人の身長の伸びは、座高においてはほとんど変わらい。脚の長さの伸びによる体型変化である。それによって、上半身を支える下半身の骨が弱くなり、こどもの骨折事故が増えたという。下駄から靴への生活変化と、幼少児の身体運動量の減少が、足幅を狭くし、華奢な脚にしたともいう。田畑や工場での児童労働は消えた。だが、学校教育と塾・予備校での知識修得は、遊びの時間と空間を浸食し、別なかたちで、こどもたちの世界を変貌させた。

 ただし実は、日本人成人男子の身長の伸びはほぼ限界にきている。1980年代に入ると、伸び率の鈍化傾向が顕著になった。それは、日本より早く工業化に出発したヨーロッパ諸国の身体計測学者が見いだした流れの遅ればせの確認で、環境への適応が臨海に近づいたことを意味する。

 身長の伸びは、一人ひとりの目線を高くした。視野が広くなったといえなくもない。だが、高々10センチの背伸びでは、建物の巨大化には追いつかない。ジェット機が飛び、高層ビルが立ち並び、テレビで世界中の出来事がリアルタイムで放映される。あらゆる情報がビジネスに結びつき、一瞬のうちに映像化されて、まもなく忘れ去られる。そんな景観と生活環境の変化に、心身は必死で適用しようとするが、一人の人生には限りがある。

 まなざしは、高く遠くへ届くようになったが、その視界をさえぎる無数の人工的障害が現れた。情報受容量が膨大になり、それに適応すべく頭もひとまわり大きくなったが、情報操作とマインドコントロールの技術も高度化した。科学技術の発展は、学校で修得すべき知識量を増大させカリキュラムに反映されたが、すでにふつうのこどもの適応能力を超え、おちこぼれやいじめを生み出した。逆に、経済発展がもたらした日米貿易摩擦や、近隣諸国の「いつか来た道」への脅威が、国際関係における「横からの入力」をもたらし、学校週休2日制や教科書検定の簡素化を余儀なくさせた。エイズやアトピー性皮膚炎・花粉症ばかりでなく、神経症や心身症など心の病も蔓延した。一言でいえば、日本人の生活空間・イメージ空間は広がったが、その時間的凝集度は、19世紀までの人々の想像を絶するものになった。

 現代日本の平均寿命は、女子83歳、男性76・5歳で、世界一の長寿国である。しかし、青春時代や働き盛りの時間は、老境に入って取り戻せるわけではない。ミヒャエル・エンデ『モモ』を参照するまでもなく、私たちの国には「時間泥棒」がおり、時間は貯蓄できない。ふつうの人々の政治参加の時間は、1日24時間・1年8760時間の限られた枠のなかで、労働時間や睡眠・食事時間を控除した自由時間のなかにある。この自由時間が貧しいと、政治も地域社会も家庭も貧しくなる。

 自由時間のなかでの人々の自発的コミュニケーションのヴァイタリティ、公共的時間・空間の豊かさによって、その国の民衆の参加と民主主義が条件づけられる。21世紀をグローバルな共生の時代、地球市民の公共性と民主主義の時代にするためには、20世紀のリズムを改めなければならない。そうすれば、日本人ばかりでなく、地球上のだれもが人間として尊重され、地球市民として歴史のあゆみに加わる時代がくるであろう。

 21世紀は、共生の時代といわれる。かけがえのない地球生態系を維持し、次世代に継承するために、国家や人種・民族・宗教の垣根をこえた、地球市民の創出が課題とされている。男も女も、先進国も途上国も、都市でも農村でも、おたがいの違いを認めたうえでどう共存共栄をはかるかが、問われている。日本の世界へのコミットの仕方をめぐって、政治も経済も社会も、私たちのひとりひとりも、新たな道筋の選択と制度の再編を迫られている。21世紀の日本がどのようなものとなるかは、21世紀の日本列島に生きる人々の選択にかかっているのである





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