この論文は、岩波書店の『シリーズ 日本近現代史 第4巻 戦後改革と現代社会の形成』(1994年)に「戦後の国際的枠組みの形成と崩壊」と題して発表された、戦後冷戦・日米関係のオモテの関係についての分析である。後に加藤『現代日本のリズムとストレス』(花伝社、1996年)にも収録されており、ここにはそれを収録する。この本は現在でも入手可能であるから、本来なら入手可能な単著は収録しないという本HPの論文upload原則に反するが、1998年5月の歴史学研究会全体会報告で与えられた課題が『戦後日本と「アメリカ」の影』で紙数と口頭報告時間の制約があるため、その「影」をつくったフォーマルな構造的関係の論述を省略するため、敢えてここに収録し、参照を仰ぐこととする(1998/4)。


冷戦体制と日米安保のエルゴロジー

――戦後日本の国際的枠組み──


一 戦後日本の四重システムとエルゴロジー

 

1 戦後日本社会を規定した四重システム

第二次世界大戦後半世紀の日本社会を、そこに生活し活動する人々の織りなす社会諸関係の歴史的まとまりとして見る時、それは、それぞれにレベルを異にし、相互に関連しつつも自律的で示差性を持つ、制度化された関係=四重のシステムにより規定されてきた。

 その第一は、アメリカ合衆国とソ連の軍事的・イデオロギー的対決を基軸とした、東西冷戦体制である。それは、東西ブロックがそれぞれに核軍事同盟と経済圏をつくり、「人類の発展・進歩」をイデオロギー的に競いあうシステムだった。日本は、アメリカを中心とした西側同盟のアジアにおける中核として、冷戦崩壊までの国際社会のなかにあった。

 東西冷戦は、一九八九年東欧革命・九一年ソ連解体で、東側社会主義ブロックが自壊し、実質的に崩壊した。それゆえに、改めて歴史的研究の対象とされ、その起源についても、過程についても、意義についても、さまざまな議論が展開されている(1)。

 第二は、日本とアメリカ合衆国の国家間関係としての、日米安保体制であった。東西冷戦のもとで、敗戦後の日本は、アメリカ占領軍から「アジアの反共防波堤」「極東の工場」としての役割をあてがわれ、一九五一年のサンフランシスコ条約・日米安全保障条約締結により、五二年四月に国家的独立を与えられた。戦後日本の軍事的・外交的歩みのほとんどは、日米同盟の枠内でのものであった。それは、国際社会のなかでの日本の安全保障の仕組みであるとともに、政治的・経済的同盟でもあった。同時に同盟の枠内では、アメリカ経済の衰退と日本資本主義の台頭にともなう摩擦と緊張が次第に強まり、東西冷戦崩壊で対ソ反共同盟としての意味も希釈して、その存在意義が改めて問われている(2)。

 第三は、日本国内の自由民主党一党支配の政治体制、いわゆる「五五年体制」である。国内で日米安保体制を担保したのは、一九五五年の保守合同で生まれた自由民主党であり、財界からの豊富な政治資金と官僚制の政策能力に支えられ、九三年七月まで政治権力を独占しつづけた。それは、成立の事情から「国内冷戦」ともいわれたように、親米反共の自由民主党が一貫して政権を担い、社会主義を掲げる日本社会党など野党が日本国憲法改正阻止に必要な国会での三分の一以上の議席を保ち抵抗するシステムであった。

 しかし政党政治の舞台では、当初は冷戦や日米安保・自衛隊が争点であったが、高度経済成長の過程で次第に軍事的・イデオロギー的争点は希釈され、自民党と財界・官界の癒着した三角同盟を基礎に、企業活動による成長利益を階層的・地域的に分配・調整する利益政治が台頭した。その過程で、東西冷戦体制に対応した資本主義対社会主義、保守対革新という構図そのものが崩れ、自民党の金権体質・政治腐敗が問題になっていった。東西冷戦崩壊後の九三年七月総選挙では、政治改革のあり方をめぐって自民党が分裂し議席の過半数を割った。社会党も大敗して、社会党や、自民党から離れた新生党を含む非自民・非共産八党派が連立して、日本新党の細川護煕を首班とする新内閣が成立した。「五五年体制」も、東西冷戦崩壊と共に制度疲労におちいり、終焉したのである(3)。

 第四は、経済成長を支えた巨大多国籍企業中心の経済体制、いわゆる「企業社会」「会社主義」である。戦後日本社会は、資本主義再建・高度経済成長の過程で、世界史的にも例をみないドラスティックな変貌を経験した。戦前の農業中心社会は、急速な工業化のなかで崩壊し、企業に働く人々を中心にした都市型社会になった。地域社会も家族関係も学校教育も大きな変化を蒙ったが、社会関係全般の核となり人々の生活と意識を大きく規定したのは、企業=会社という生産の場であった。そこでは、「法人資本主義」とよばれる株式相互持合の企業間ネットワークのもとで、経営と労働組合が一体となって効率的生産と企業利益の拡大に専念する「日本的経営」が広がり、日本資本主義の、ひいては世界資本主義の画期的生産力発展の原動力となった。労働時間・空間が全社会をおおった。

 同時にそれは、地域生活や家族関係が企業社会によりむしばまれ、学歴競争・出世競争・単身赴任から長時間労働・過労死、公害・環境破壊をうみだす過程でもあった。自由民主党の長期政権は、こうした会社中心の経済主義的成長を誘導することで維持されたが、世界市場のなかで日本経済が主要な役割を占め、その国際競争力の源泉が過労死や単身赴任に象徴される生活を犠牲にした働きすぎにあるのではないかと世界から疑われ、九〇年代にバブル経済の崩壊、一ドル=一〇〇円時代が到来して、再編を迫られている(4)。

2 四重システムの相互関係

この四重システムは、歴史的には@グローバルな東西冷戦構造、Aリージョナルな日米安保体制、Bナショナルな自民党政権、Cソーシャルな会社主義の順序で確立し、@Aが国際的枠組みを構成して国内にも制度化し、@ABが相互に存立の条件となってきた。@の冷戦構造の側からみれば、日米安保条約や自民党一党支配は「国内冷戦体制」であった。

 東欧革命・ソ連崩壊は、直接には@を終焉させたが、同時に@ABの存立条件を、大きく揺るがすことになった。日本に即していえば、九三年にいたってBの「五五年体制」の主役であった自由民主党の単独政権が崩壊し、脇役であった日本社会党も存亡の危機を迎えた。それに伴って、Aの日米同盟やCの企業社会も、変容を迫られている。

 とはいえ、それぞれのシステムは、それぞれに独自の論理をもつ。

 Aの日米同盟は、冷戦終焉で対ソ反共軍事同盟としての機能を縮小したものの、むしろポスト冷戦のアジアと世界の秩序維持のための役割を担おうとしている。同時にBの主体である日本型多国籍企業が世界市場のなかで日本経済の突出した地位を築き、アメリカとの経済摩擦を増大させたため、Aの日米同盟をも揺るがすようになってきている。それが実は、@の地球大での冷戦体制の崩壊の仕方をも規定し、「ソ連社会主義の敗北=アメリカ資本主義・自由民主主義の勝利」と単純化しえないポスト冷戦の構図を構成する重要因となった。一九九三年八月の細川護煕を首班とする非自民連立政権誕生にさいして、アメリカ合衆国政府が歓迎の意を表したのは、新政権が旧自民党政権の安全保障・外交政策を継承すると述べたからばかりではなかった。アメリカ自身が、クリントン民主党政府のもとで、冷戦崩壊後の世界史再編のなかでの日本社会の「変化」「国際貢献」を求めている事情があった。

 以下では、@の東西冷戦体制を、戦後日本史を規定した一般的枠組みとしてひとまず考察する。そのうえで、Aの日米関係を中心に、主として一九六〇年代以降の国際社会のなかでの日本社会の道程を歴史的に振り返ってみよう。

 3 エルゴロジーという視角

 同時に、これらの制度化された「基軸」的システムのもとで、「周辺」に追いやられ、排除されてきた諸関係がある。それが、東西関係のなかの「東=第二世界」および東西のいずれにも属さぬ「第三世界」の地域・諸国民との関係であり、日米同盟とサミット体制から周辺化されたアジア・太平洋・アフリカ・ラテンアメリカ諸国との関係であった。

 また、自民党と官僚制・大企業の男性中心同盟による成長利益から排除された、消費者・中小企業・農民・女性・こども・老人・障害者・琉球・アイヌ・在日外国人などの生活世界であった。冷戦時代に支配的だった国民国家・軍事力中心の歴史観では、これら諸カテゴリーは「国際的枠組み」の視野に入らない。しかし、近代国民国家システムも今日では制度疲労におちいり、さまざまな非国家的アクターの構成する地球社会が現れてきている。そこでは、ジェンダーの視角からも、少数民族の視角からでも、世界史は再構成されうる。

 ここでは先に挙げた四つのシステムに、「エルゴロジー」の視角を適用する。エルゴロジー(Ergology)とは、冷戦期に生まれ地球全体に広がりながら、日本ではなお脆弱なエコロジー(Ecology、生態学)の視角と、密接に関係する。エコロジーは、既成のエコノミクス(Economics=経済学)で「外部」として扱われる地球環境・生態系の問題を、それ自体として人類史に不可欠な存在条件としてとりあげ、科学技術発展や市場経済の広がりにオプティミスティックな「発展」「進歩」の観念を歴史的に審問した。エルゴロジーは、諸個人の生活世界・生存権にひきつけての生産力発展・経済成長への再審であり、限られた時間と空間におかれた人間労働のリズムや生体バランスのあり方から、人類史を見る方法であり立場である(5)。

 ここで冷戦体制や日米安保体制にエルゴロジーの視角を適用するのは、二重の意味においてである。その第一は、国際労働機構(ILO)の一九九三年度年次労働報告が「二〇世紀の最大の健康上の問題」として「労働ストレス」をとりあげ、その典型として「働き中毒社会日本の過労死」を論じているような意味においてである。つまり、一九五〇年から九〇年で二八倍という人類史上未曽生の生産力発展が冷戦体制のもとで達成されたが、それが地球環境・生態系にばかりではなく、生体メカニズムにも重大な影響を及ぼしたのではないかという視角である。これは、日本の国内体制についてとりわけ重視される。

 第二は、エルゴロジーの視角から生体メカニズムの危機として析出される高血圧・動脈硬化・神経症や過剰ストレスが、冷戦や日米安保という人類史の特定の時期に構築された社会的諸制度の分析にもアナロジーできるのではないかと思われるからである。

 これは、あくまでメタファーで比喩的意味においてであるが、今日の政治学や社会学では、金属疲労による航空機事故にヒントをえて「荷重超過」「構造疲労」「制度摩耗」といった表現が多用されている。すなわち環境との関連での諸制度の自己維持能力が問われ、それまで機能してきた諸制度が逆機能化し、ついには制度そのものの廃棄とつながるような問題が、東西冷戦体制や「五五年体制」にも内在していたのではないか、と考えられる。

 

二 東西冷戦体制の確立と崩壊

 

 1 東西冷戦体制の意味

 「冷戦」という言葉は、アメリカのコラムニストであるウォルター・リップマンにより用いられ、一九四七年頃には一般に広がったといわれるが、この言葉のもともとの創始者は、一四世紀スペインの作家ドン・ジュアン・マニュエルであった。彼は、当時のキリスト教徒とイスラム教徒の対立の中で熱戦と冷戦を区別し、「きわめて強力できわめて熱い戦争は、死か平和かのいずれかで終わるが、それに対して冷戦は、それを闘う者に平和をもたらすこともなければ、栄光を与えることもない」と述べたという(6)。それは、二〇世紀の東西冷戦においても、その通りになった。エルゴロジーの視角からすると、冷戦体制とは、東西両ブロックが軍事力とともに経済・金融力を高めるためのネットワークであり、それが加盟メンバーの経済成長に機能的である限りで維持・再生産されるシステムであり、生産・労働への動員に「友・敵イデオロギー」が用いられたシステムであった。その機能が汲み尽くされ逆機能に転化した時、疲労し老衰し自壊することは不可避であった。

 冷戦とは、一般に「第二次世界大戦後米ソ両国の対立が国際情勢にもたらした緊張」であり、トルーマンによるジョージ・ケナンの「封じ込め」戦略採用に発し、マーシャル・プラン、ベルリン封鎖を経て、一九五五年頃に世界的に確立した(7)。日本とかかわる限りで述べると、一九五〇年代は、中華人民共和国樹立につづく朝鮮戦争の勃発で、冷戦がアジアに「熱い戦争」をうみだした。アメリカは、ヨーロッパの北大西洋条約機構(NATO、四九年)に続いて、アジア・太平洋地域でも日米安保条約、米韓条約、米台条約、米国フィリピン条約、東南アジア集団防衛条約(SEATO)、太平洋安全保障条約(ANZAS)、米州機構など、反共産主義包囲網を世界中にめぐらし、同時に、軍事・経済援助で各国に親米反共政権を育成するよう努めた。他方のソ連は、一九四〇年代末から東欧諸国の衛星化を進め、五〇年の中ソ相互援助条約や五五年のワルシャワ条約機構で、東側「社会主義世界体制」を構成し対抗した。米ソの核兵器開発とこれら軍事同盟網が、冷戦の軍事的支柱であった。経済的にも、西側は、国際通貨基金(IMF)・関税貿易一般協定(GATT)・世界銀行などで自由貿易をルール化するブレトンウッズ体制を構成し、東側は、コメコン(経済相互援助会議、四九年結成)で域内分業体制をつくった。

 この制度的枠組みのなかで、五〇年代後半は、アイゼンハワー=ダレスの「巻き返し」戦略が事実上東西勢力圏の固定化を認め、ヨーロッパにおいて経済復興が進み、ソ連におけるスターリン死後のフルシチョフの平和共存政策が「雪解け」の雰囲気を作った。六一年のキューバ危機は、冷戦の熱戦への転化をもたらす危機を内包していたが、むしろ米ソ首脳ホットラインの開設につながった。国際法・国際機構が非政府機関(NGO)も含めて整備される一方、東側ブロックで中ソ論争が顕在化し、熱戦は再びアジアで、ベトナム戦争として勃発した。日米安保条約が改定されたのは、この狭間においてであった。

 ここで扱う一九六〇年以後の制度化された冷戦は、第一に、米ソの核兵器開発競争が原爆・水爆・大陸間弾道弾から宇宙兵器へ、戦略核兵器から戦域・戦術兵器へとエスカレートした「核軍拡」過程であり、通常兵器の第三世界流出をも含めて、世界が高度に軍事化した時代であった(8)。第二に、冷戦の重要な根拠は、東の社会主義・共産主義、西の資本主義・自由民主主義というイデオロギーの対立であったが、制度化したブロックの内部では、いずれにおいても各国間の緊張や摩擦が現れ、次第に「国益」の論理が浸透し米ソの凝集力が減退していった(9)。第三に、冷戦が世界戦争に至らず、むしろ米ソを双極とした国家体系として秩序化する過程で、両ブロックとも工業生産力を飛躍的に発展させ、地球環境・生態系を脅かすようになった。ブロック内摩擦の主要因となったのは、各国国民経済の成長志向であり、ボーダーレス化した世界市場内での経済競争であった。ブロック外では、植民地から独立した新興諸国が経済建設を求めた。それらが自然環境にも社会環境にも多大のストレスを及ぼし、ひいては、地球と生命の存続条件を大きく変化させた(10)。

2 東西冷戦の崩壊過程――超大国システムから列強システムへ

 東側では、六〇年代初頭の中ソ対立顕在化から、六八年チェコスロヴァキア「プラハの春」、七九年ポーランド「連帯」運動、八九年東欧革命へと、ブロックの亀裂が拡大した。もともと「プロレタリアート独裁」を代行する共産党独裁が、社会主義のイデオロギー的国家統合を究極的に支えてきたが、六〇年代以降は国際共産主義運動そのものが多元化し、モスクワは影響力を減退させた。

 西側では、ヨーロッパの経済復興過程で社会民主主義政党が多くの国で政権につき、ケインズ主義的福祉国家で所得再分配による安定化をはかり、ヨーロッパ石炭・鉄鋼共同体からEEC、EC統合への動きが進行した。アメリカは、NATOの軍事的枠組み維持と自国多国籍企業のヨーロッパ市場進出でこれに応じたが、ドゴールのフランスがNATOから軍事的に脱退(六六年)するなど、各国の発展軌道は多様化していった。第二次世界大戦の敗戦国であるドイツや日本の経済復興には、アメリカの冷戦援助が大きな役割を果たしたが、その世界市場への再参入・高度経済成長が、アメリカのベトナム戦争敗北と重なって、ドル危機から経済的ヘゲモニー衰退への加速材料となった。米ソの核軍拡と冷戦援助は膨大な財政負担を生み、覇権の基盤を浸食した。

 六〇年代以降に起こったことは、いわば「超大国システム」から「列強システム」への移行であった。東側ブロック内で文化大革命を掲げる中国がソ連と異なる軌道を歩みはじめ、そこに着眼したアメリカが中国に接近を始めた頃には、西側ブロック内でECが独自の結束を固め、日米経済摩擦が強まり、アメリカの衰退が始まっていた。つまり、米ソ両超大国を「双極」とした世界管理体制は、七〇年代初頭には凝集力を失ってきており、七三年秋の第一次石油危機とアメリカのベトナム戦争敗北が、「パクス・アメリカーナ・ソヴィエティカ」の正統性をほりくずした。七二年の米ソ戦略兵器削減交渉(SALTT)調印、七五年の全ヨーロッパ安全保障会議(CSCE)など、この時期「デタント」とよばれたものは、冷戦システムの制度疲労による再編であった。

 一九七五年のランブイエに始まる先進国首脳サミットは、アメリカの絶対的ヘゲモニー喪失後の西側ブロックの調整システムだった。もともと第一次オイルショック後の世界的構造不況のもとで、先進資本主義国の経済・金融政策の調整のために生まれ、経済サミットとよばれた。ところが七九年クリスマスのソ連によるアフガニスタン侵略に対し、西側諸国がまとまって対応するため、八〇年ヴェネチア・サミットからは政治的外交的調整の色彩が濃くなった。八五年プラザ合意のように、世界金融システムに関わる問題は、主要先進国蔵相・中央銀行総裁会議などで随時協議されるようになった。アメリカはそこで中心的役割を果たしたが、それはかつてのパクス・アメリカーナ的覇権ではありえなかった。

 ソ連のアフガニスタン侵略は「新冷戦」の開始とされた。それはアメリカの軍拡に正統性を与えるとともに、東側では八〇年末のポーランド戒厳令施行と相まって、ブロック自壊の条件を形成した。八五年にゴルバチョフがソ連共産党の書記長となり、冷戦は確実に崩壊しはじめた。ゴルバチョフの国内「ペレストロイカ(立て直し)」「グラースノスチ(情報公開)」政策に対応した「新思考」外交が、米ソの中距離核兵器全廃条約(INF、八七年調印)を実現させ、ソ連のアフガニスタンからの撤退(八八年)をもたらした。その飛躍点になったのは、国境をこえて生態系と生命系を破壊した、チェルノヴィリ原発事故だった。八九年東欧革命のさなかの米ソ首脳会談が、「ヤルタからマルタへ」という意味で冷戦崩壊のクライマックスと思われた。しかしその時にも、二年後のソ連崩壊は予想されていなかった。東西冷戦の終焉は、九一年のソ連解体で完成された。中国・ベトナムも「改革開放」「社会主義市場経済」の名で、世界資本主義システムに再参入した。

3 ポスト冷戦の意味

 冷戦崩壊の主要因が、八九年東欧・九一年ソ連における現存社会主義の自壊にあったとすれば、筆者がかつて述べたように、三〇〇年前のイギリス名誉革命や二〇〇年前のフランス革命を起点とした市民革命、民衆の政治舞台登場の延長上で位置づけられる。その歴史的インパクトは一七八九年・一八四八年・一九一七年の世界史的変化に匹敵する。一七八九年のフランス革命に始まる世界史の再編が、ジャコバン独裁やナポレオン戦争のエピソードを伴いつつ、四半世紀後の一八一四年のウィーン会議まで続いたことになぞらえれば、ソ連崩壊後の今日の世界秩序が二一世紀初頭まで混乱を続けても不思議はない(11)。

 崩壊したソ連は、一九一七年以来の歴史を持ち、二〇世紀全体を揺るがした社会主義国家であった。冷戦は国家間関係をイデオロギー対立が強力に媒介した特異な一時期であったが、冷戦崩壊は社会主義・共産主義のイデオロギー的崩壊を伴った。国家間関係の脱イデオロギー化は、その背後に隠れていた古典的対立を再生させた。東西対立に代わる南北問題・南南問題、階級対立の希釈に代わる民族・エスニシティ・宗教的対立の噴出である。

 国際政治学では、冷戦を「長い平和」ととらえる見方が、すでに崩壊前から生まれていた(12)。冷戦崩壊は秩序化ではなく秩序解体であり、湾岸戦争、ユーゴスラヴィア解体はこの文脈にある。軍事的秩序の崩壊は、旧ソ連の核兵器・通常兵器・軍事技術者の世界的拡散、北海や日本海への核廃棄物投棄に表現される。西側ブロックでアメリカの覇権を内部で掘り崩したのは、他ならぬ日本資本主義の台頭と、ドイツを中心とした西欧諸国のヨーロッパ統合過程であった。軍事的ヘゲモニーを独占しながらも、経済的・金融的指導力を弱体化したアメリカ合衆国にとって、冷戦崩壊とは、ソ連と共に自らが二〇世紀の超大国の地位を喪失していく過程であった。「歴史の終焉」論も現れたが、「社会主義の崩壊」を「資本主義の勝利」に短絡する議論は、世界でも日本でも支配的ではない(13)。

 冷戦崩壊は、資本主義世界経済の同時不況に重なり、むしろ西側資本主義ブロック内での競争が激化した。ソ連共産主義という共通の敵を失った西側ブロック内での「国益」の再現と噴出は、アメリカでの「ソ連の軍事的脅威」に代わる「日本の経済的脅威」「日本異質論」の言説、日本における「嫌米・侮米」感情の高まり、九三年東京サミットの不協和音にうかがわれる。日米関係も、ポスト冷戦の不確実な時代に入ったのである。

 そして、先進資本主義国間の競争激化と発展途上諸国の分化・格差拡大のなかで、地球の存続そのものが深刻になり、九二年の国連地球環境サミットでは「持続しうる成長」が合言葉となった。日本では過労死や労働ストレスに象徴されるエルゴロジー問題が生起する。東西冷戦も制度摩耗したが、冷戦時代の「長い平和」がフォード主義的大量生産・大量消費をグローバルな情報・交通網で世界に広めることにより、地球生態系も人体生命系も、人類史上希有な急速な時間と空間の圧縮・緊張を強いられストレス過剰に陥った(14)。

 

  三 日米安保体制の確立

 

 1 戦後日本の出発と国内冷戦

 国民国家単位の軍事的安全保障では、戦後の日本は西側覇権国アメリカに従属し、ほとんどそれに追随してきた。日米安保条約にもとづく米軍基地の存在は、五〇年代には反米平和運動の標的になり、六〇年代にはベトナム戦争の中継補給地として反戦運動をよびおこした。沖縄の「本土なみ」返還とベトナム戦争終結を経て自衛隊と在日米軍は共同訓練を制度化し、財政的にはむしろ日本政府が米軍を手厚く保護して、グローバル化する「日米経済圏(An US-Japan Economy)」の防衛機能を担った。外交的にも日本は、もっぱらアメリカのグローバル支配の補完機能を担い、国連など国際機関で「アメリカの忠実な協力者・投票機械」と揶揄されたように、独自の外交姿勢をほとんどもたなかった(15)。

 この軌跡は、戦後日本の出発に関連していた。一九四五年の敗戦、戦後改革・日本国憲法制定の歩みは、アメリカ占領下の非軍事化・民主化政策の産物だった。戦後経済の再建も、アメリカの援助と指導に大きく依存していた。中国革命・朝鮮戦争を背景にした五一年のサンフランシスコ条約・日米安保条約の締結、翌五二年の主権国家としての独立は、戦後日本を「西側の一員」「アジアの反共防波堤」「極東の工場」として軌道づけた。

 国内の政治体制は、日本国憲法で天皇主権から国民主権へと転回したが、その力関係は冷戦を縮図化していた。占領下の四七ー四八年に片山・芦田内閣で社会党の政権参加、四九年総選挙では共産党の大量当選を許したとはいえ、天皇制権力の内部で活動してきた保守勢力が、おおむね反共反ソ政策を維持しつつ「鬼畜米英」から「脱亜入米」に転身して政権を担った。その代表的政治家が吉田茂であり、官僚制と結びつき保守本流を形成した。

一九五五年の左右社会党の統一、保守合同による自由民主党の結成は、冷戦対決を国内において制度化するものであった。日本社会党は「社会主義革命」を目標とし、自由民主党は「暴力と破壊、革命と独裁を政治手段とするすべての勢力又は思想をあくまで排撃する」と宣言して誕生した。その力関係は「一ヵ二分の一政党制」と呼ばれたように、自民党の「日米同盟、自衛力強化、経済成長」路線に社会党が「憲法擁護・反戦平和・非武装中立」で対抗し、国会で三分の二を要する憲法改正を許さない抵抗を試みるものであった。

 一九五一年の日米安保条約は、アメリカに占領時代からの基地存続を許しながら、それを日本側の「希望」として語らせることを特徴とした。その軍隊は、「一または二以上の外部の国による教唆又は干渉によって引き起こされた日本国における大規模の内乱及び騒じょうを鎮圧するため」にも用いられるものであった。こうした条項は、同時期にアメリカがアジア太平洋諸国と結んだ米比条約、ANZUS条約、米韓条約にもないものだった。

 保守合同で最初の自民党政権についた鳩山一郎は、吉田茂とのちがいを、自主的憲法改正、ソ連との国交回復の公約で果たそうとした。鳩山の小選挙区制導入・憲法改正はならなかったが、ソ連との国交回復は実現し、国連に加盟して国際社会に復帰した。次の課題は、日米安保条約の不平等性の解消であった。かつてのA級戦犯容疑者岸信介が、日米交渉から安保改定の政権を担った。安保改定阻止国民共闘会議など革新勢力の反対運動・抵抗も強かったが、一九六〇年五月の国会を強行採決でのりきり、国会を数十万人のデモにとりまかれる政治危機のなかで、新安保条約は発効した。沖縄まできたアイゼンハワー大統領の来日は中止され、岸は条約の自然成立をみて、ようやく退陣した。

2 六〇年安保条約と貿易自由化

 新安保条約では、日本の施政領域内での「いずれか一方に対する武力攻撃」への相互防衛義務が定められた。この意味では旧条約の片務性は解消された。他方、その防衛範囲は「日本国の安全または極東における国際の平和及び安全に対する脅威」にまで拡大された。また、第二条で「自由な諸制度の強化」「経済的協力」をうたうことにより、狭義の軍事同盟ではなく、経済社会的・文化イデオロギー的次元を含むものであることが明示された。「事前協議」で核兵器持込みはチェックできると日本政府は述べたが、核持込みの疑惑が再三指摘されながらも、事前協議はついに発動されることはなかった(16)。

 新安保条約のもとで、日米同盟は確立された。池田勇人内閣によって、六〇年九月の日米安保協議会、六一年六月の日米首脳会談、一一月の日米貿易経済合同委員会、日米財界人会議、一二月日米教育文化会議など、同盟の制度的枠組みが整備された。日米貿易経済合同委員会は、アメリカにとってもカナダとの米加通商委員会に次ぐ二国間経済協議の制度化だった。六一年一一月の池田・朴会談で日米同盟を日米韓同盟へと広げる方向がうちだされ、中国問題では国連総会「重要事項指定」決議でアメリカとの共同提案国になった。

 反共イデオロギー色の濃かった岸内閣の後をひきついだ池田内閣のキャッチフレーズは、「寛容と忍耐」「所得倍増計画」だった。政治から経済への争点移動、イデオロギー政治から利益分配政治への転換こそ、池田政治の特徴だった。その外交も経済主義的で、世界市場での日本の国際的地位向上に向けられた。自衛隊の定員増加、防衛施設庁新設などで池田・ケネディ会談で確認された「イコール・パートナーシップ」の方向をめざしながら、ガリオア(占領地救済資金)・エロア(占領地経済復興援助費)対米債務処理協定、タイ特別円処理協定で戦後処理を決着させ、GATT三五条(差別関税)援用の撤回、IMF八条国移行、OECD(経済協力開発機構)加盟など西側経済秩序への参入を果たした。

 その国内的条件を、池田内閣は、発足直後の一九六〇年六月に貿易為替自由化計画大綱として発表していた。六〇年四月の商品別自由化率は約四〇%であったが、三年後に八〇%までひきあげ為替管理を撤廃するというもので、五七年にヨーロッパ経済市場(EEC)が発足し、ドルを基軸とした国際決裁体制が本格化してきた自由市場体制に対処するものだった。アメリカではこの頃、対外援助・朝鮮戦争のツケがドル危機として表面化してきた。こうした「外圧」を「内圧」に転化しつつ、日本資本主義の本格的再編がはかられた。

 すでに「岩戸景気」で輸出が伸び、一九五九年の対外収支は黒字になっていた。通産省は、かつての傾斜生産方式や保護政策の延長上での「官民協調」による新産業秩序を構想した。六二年の特振法(特定産業の振興に関する臨時措置法)は自動車・特殊鋼・石油化学)に特化して国際競争力を強化しようとしたものであったが、金融界を中心に財界の反対が強く、法案そのものは挫折した。しかし、ヨーロッパ型「福祉国家」でもアメリカ型「軍事国家」でもない、日本の「企業国家」型高度成長は、粗鋼生産が六四年に世界第三位、自動車は世界第四位に達するまでに国際競争力を高めており、石炭から石油へのエネルギー転換も六〇年代前半に急速に進んだ(六〇年の石炭四二%・石油三八%から六五年石炭二八・石油五八%へ)。自由化率は六二年四月に六二%、六三年八月には九二%と先進国なみになった。職場レベルでも、重化学基幹企業でいわゆる「日本型経営」「日本型労使関係」への転換が進んだ。東南アジア諸国への賠償支払いは、日本企業海外進出の呼び水となった。六三年二月にGATT一一条国、六四年四月にIMF八条国へと移行し、OECDにも加盟した。東京オリンピックの年で、「企業社会」の端緒的形成であった。

 文化的には、六一年四月に来日したケネディ政権の駐日アメリカ大使エドウィン・ライシャワーの役割が重要であった。日本生まれのハーバード大学教授ライシャワーは、野党や労働組合、報道界・知識人とも積極的に交流して、日本に残る反米感情の融和につとめた。いわゆる「近代化論」で日本の経済成長を非西欧近代化の一つの模範にしたてあげ、「ケネディ・ライシャワー路線」といわれた。この時期の日米労組の交流が、春闘方式で賃上げを重ねる総評中心の日本の労働運動を変えていった。総評はなお社会党の強い影響下にあったが、六四年五月の国際金属労連日本協議会(IMFJC)や同年一一月の全日本労働総同盟(同盟)の結成は、民間大企業の企業内反共労使協調組合確立に道を開いた。

 3 日韓条約とベトナム戦争

 一九六四年八月四日、ケネディ暗殺後のアメリカ大統領ジョンソンのもとで、冷戦下の分断国家ベトナムへの軍事介入が始まった(トンキン湾事件)。ライシャワーは直後に池田首相を訪ね、アメリカの「報復攻撃」は「やむを得ざるもの」と認めさせた。池田の病気で六四年一一月に政権についた佐藤栄作は、六五年一月の日米首脳会談で「両国が責任を分かち合いつつ、ともに積極的な貢献を行うという新しい時代」をうたった。

 六四年一〇月、ソ連でフルシチョフが突如解任され失脚し、中国では核実験が成功した。ベトナム戦争は、当初は「中国の好戦的政策及び膨張主義的圧力」として位置づけられた。すでに中ソ論争は拡大し、アジアの社会主義はソ連・東欧とは異なる歩みを始めていた。

 反共同盟としての日米安保体制は、「中国の脅威」とベトナムにおける「ベトコン攻勢」に対する冷戦的対応へと機能目的が拡大され、日本はアメリカの戦争への全面協力を強いられた。六五年二月に発覚した防衛庁の「一九六三年度統合防衛図上研究実施計画」は「三矢作戦」とよばれ、ソ連・中国を仮想敵とした自衛隊・米軍の共同作戦を想定していた。六〇年安保条約締結時の政府解釈では、「極東」とは「フィリピン以北」だったが、六五年四月の椎名悦三郎外相答弁ではそれがベトナムまで広げられ、機能空間も拡大した。

 六五年二月、日韓条約が結ばれた。日本政府が「不幸な関係」を認めるのみで日韓併合・植民地化の責任を明確にせず、強制連行や従軍慰安婦問題に一切触れぬまま韓国との戦後処理にこぎつけたのは、韓国自身が反共軍事独裁政権のもとで反対運動を抑圧し、社会主義北朝鮮との対抗で経済建設を急いだためであった。韓国への無償三億ドル、有償二億ドル計五億ドルの供与は、アメリカの対韓援助を日本が肩代りし、アジアにおける反共同盟を強化するためであった。日韓条約で結ばれた韓国、六五年九・三〇事件でスハルト反共政権の成立したインドネシアへの賠償援助は、日本資本主義のアジア進出の足がかりとなった。日本企業は、アジアを海外進出・多国籍企業化の拠点にした(17)。

 韓国や台湾・フィリピン・タイ・オーストラリア・ニュージーランドは、アメリカの要請で軍隊をベトナムに送った。サンフランシスコ条約後もアメリカの信託統治下にあった沖縄は、アメリカのベトナム戦争遂行に不可欠の補給・中継・発進基地となった。国内の米軍基地も兵站補給・後方支援・保養医療基地になったほか、原子力潜水艦・空母の日本寄港もあいついだ。日本の自衛隊はベトナムには派遣されなかったが、このころ世論調査では、憲法第九条擁護と自衛隊容認という相矛盾する国民意識が共存し定着していた(18)。

 ベトナム戦争は、韓国や日本に特需をもたらした。とりわけ基地経済に依存する沖縄は「ベトナム・ブーム」を迎えた。六五年八月、佐藤首相は戦後初めて沖縄を訪問し「沖縄の祖国復帰が実現されないかぎり、日本の戦後は終わっていない」と言明し、沖縄返還に意欲を示した。六八年一一月のアメリカ大統領選挙で共和党ニクソンが当選し、同じ頃、沖縄では初めての琉球主席公選が行われて、社会大衆党・社会党・人民党などの推した屋良朝苗が自民党候補を破り当選した。沖縄の反戦反核運動も高揚し、佐藤首相は六九年三月の国会で「核抜き本土並み返還」の決意を示す。六九年七月、ニクソンはアメリカの負担軽減のために同盟国の肩代りを求める「グァム・ドクトリン」を発表した。六九年一一月の佐藤・ニクソン会談で沖縄返還交渉は軌道に乗り、十年期限の安保条約自体は七〇年に自動延長されたまま、七一年六月沖縄返還協定が結ばれ、七二年四月に返還が実現した。それは「沖縄の本土化」により、「本土の沖縄化」をももたらすものであった。

 4 日米繊維摩擦と沖縄返還協定

一九六四ー六五年不況後の第二次高度経済成長は、五〇年代の神武景気・岩戸景気をしのぐという意味で「いざなぎ景気」とよばれた。六六ー七〇年で年平均一一・六%という実質成長率は、当時の世界で最高であった。六五年に日本のGNPは八八三億ドルで資本主義圏第五位であったが、六八年には一四一九億ドルでイギリス・フランス・西ドイツを追い越し、米ソに次ぐ経済大国となった。それを主導したのは輸出の伸びで、六五年の八五億ドルから七一年の二四〇億ドルへと大幅に伸び、重化学工業比率も七一年で七五%に達した。その市場は、七〇年でアジアが三一%、北アメリカ三四%、ヨーロッパ一六%であり、アジアにおける経済大国になって、欧米に互する国際競争力をつけてきた。

 こうしたもとでは、貿易自由化に続く、資本投資の自由化も不可避であった。一九六七年六月に佐藤内閣が閣議決定した資本自由化基本方針は、「これを契機として日本の産業の競争力を一段と高め」ると、技術開発強化の方向をうたっていた。六九年七月以降、ビール・鉄鋼・オートバイなど「難攻不落の業種」から、ミシン・写真フィルム・証券など「弱い」と考えられていた業種までが順次自由化され、七三年五月にはほぼ一〇〇%が自由化された。また、自由化に備えた国内体制整備として「大型合併」が奨励され、六七年の日産自動車・プリンス自動車から七〇年三月の八幡・富士製鉄の合併による新日本製鉄まで、国際競争力強化を大義名分に、独占禁止法の運用基準も緩和された。

 日韓条約以降、ベトナム戦争期に日本資本主義のアジア経済進出が急速に進んだ。インドネシア、シンガポール、マレーシア、フィリピンなどの親米反共政権が「日本の成功」にならった経済成長をめざして外資導入奨励政策にふみきり、他方でアメリカは、ベトナム戦争で膨大な財政負担とドル危機におちいっていた。六〇年代後半に、円借款、輸出信用などのかたちで、台湾・タイ・マレーシア・インドネシアなどへの日本の政府投資が進んだ。民間ベースでも、六五年の一九七件一億九〇〇〇万ドルから七〇年の七三〇件九億四〇〇万ドルへと資本輸出が急速に増大した。その中核はいわゆる総合商社で、七二年六月には海外投資が完全自由化されて、爆発的な海外進出ブームに突入していく。

 高度経済成長過程で、覇権国アメリカとの貿易摩擦も生じてきた。一九六五年以来、日米貿易収支で日本の黒字が定着し、アメリカ国内では日本の繊維製品輸入規制の動きが強まった。六九年七月の第七回日米貿易経済合同委員会では、アメリカは貿易黒字国日本の繊維輸出自主規制を強く迫り、同年一一月の佐藤・ニクソン会談と並行して開かれたジュネーブ日米繊維交渉でも重要な争点となった。業界保護の立場から日本は抵抗したが、アメリカは、これを沖縄返還交渉とリンクさせることで、日本の譲歩をひきだそうとした。

 七一年三月に日本繊維産業連盟は一方的な輸出自主規制宣言を出し、一〇月に日米繊維協定了解覚書が調印されたが、この背後には、「縄と糸の交換」と呼ばれた日米首脳の裏取引が介在した(19)。七〇年代初頭のこの段階では、アジアの冷戦でも、日米関係でも、政治と経済が切り離しがたいものとなっていた。日本は、経済主義的成長と貿易摩擦のツケを、軍事的・外交的なアメリカ追随で支払うというパターンが形成された。そしてそれは、やがては世界的な冷戦構造そのものを揺り動かす重要な契機となっていく。

 経済発展の国内条件は、石炭から石油へのエネルギー転換、産業政策、地域開発政策などで整えられた。一九六〇年代の経済成長は、「欧米においつけ」と国民を勤勉に駆り立てるだけでなく、広告・情報で国民の消費欲求を刺激し、春闘方式で労働者の実質賃金を上昇させ、テレビ・冷蔵庫・洗濯機に代表される生活物資の「豊かさ」を分配して生活環境を激変させるものであった。「大量生産・大量消費」の日本型フォード主義である。

 公害・環境問題と長時間労働・職業病は、東京オリンピック、新幹線、高速道路、大阪万国博覧会に象徴される栄光の成長時代の、暗い陰の部分を構成する。経済成長は戦前来の日本社会の農村的秩序を解体し、企業中心の工業化・都市化社会を急ごしらえでつくりあげた。三大都市圏への人口集中は六〇年の三八%から七〇年五〇%、農村地帯から一〇〇〇万人以上が生活基盤の整わない都市に流入した。住宅難、交通事故、通勤地獄、騒音、ばい煙、大気汚染、工場排水、地盤沈下、ゴミ問題など都市型公害が急速に広がった。過密な都市の対極で農村には過疎と三ちゃん農業が生まれたが、そこでも農薬公害が現れた。企業内では、生産につぐ生産で長時間労働が恒常化し、労働災害や職業病が深刻になった。

 水俣病・イタイイタイ病・四日市ぜんそくなどに対する生活者の反対運動・裁判闘争のなかから、公害への行政の対応が求められ、公害対策基本法・大気汚染防止法・海洋汚染防止法・公害犯罪処罰法などが制定されて、七一年七月には環境庁が設置された。

 いわゆる革新自治体の広がりの基礎には、地域社会の生活圏を守る住民運動があった。こどもたちの世界に学歴競争が広がり、生活時間のテンポはせわしくなった。労災・交通事故など生存権の危うさ、公害・環境危機は福祉の要求をほりおこした。ヨーロッパで社会民主主義政権が主導した福祉国家の機能は、日本では革新自治体が引き受けた。世界的な環境保護・エコロジーの動きにも、日本の公害・環境汚染は反面教師的役割を果たした。

 

  四 日本型企業社会の確立と経済大国化

 

 1 二つのニクソン・ショック

一九七〇年代は、冷戦の主戦場であるヨーロッパにおいては「デタント」の時代といわれた。それはアジアでも、米中接近、ベトナム戦争の終結、東アジア新興諸国の工業発展をもたらした。日本は、二次にわたる石油危機を経て、名実ともに経済大国となり、同時に軍事力も増強され、アジアにおける中核国家へと成り上がっていく。

 一九七一年七月一五日、アメリカ大統領補佐官キッシンジャーが中国を訪問し、周恩来との会談が発表されて、世界を驚かせた。日本政府にとっても不意打ちで、衝撃を与えた。一〇月の国連総会で中国は国連に復帰し、台湾の国民党政府に代わり常任理事国となった。

 佐藤内閣は、最後まで中国の国連復帰に反対し続けたが、自民党員を含む日中国交回復促進議員連盟や社会党・総評の日中国交回復国民会議、それに革新自治体などから日中国交を求める声が急速に盛り上がり、佐藤内閣崩壊の一因となった。

 キッシンジャー訪中の一ヵ月後、ニクソン大統領は、ドル流出による国際収支の赤字をくいとめるため、金・ドル交換の一時停止、一〇%の輸入課徴金、九〇日間賃金・物価凍結の新経済政策実施を発表、為替レートの流動化を示唆した。「ドル・ショック」である。日本の一ドル=三六〇円の固定レートは崩壊し、変動相場制に移行せざるをえなくなった。七一年一二月、スミソニアン協定でいったん一ドル=三〇八円に固定しようとしたが、日本の貿易黒字はなおも増大して長続きせず、七三年二月には変動相場制が定着する。円が完全にフロートした七三年二月一五日は一ドル=二六四円、一年半で一〇〇円も円が上昇した。ドル中心の世界経済を所与のものとし、アメリカへの輸出に大きく依拠して発展してきた日本にとって、アメリカに追随していればよい時代が終わったことを示していた。 七二年七月に登場した田中角栄内閣は、ライバル福田赳夫の台湾寄りの姿勢への対抗もあり、早速日中国交回復に取り組んだ。日中問題をニクソンと協議したハワイ会談が、日米貿易不均衡是正のためにトライスター導入に合意する場となり、後にロッキード事件として明るみに出る。七二年九月には田中首相が訪中して日中共同声明が発表された。

 2 石油危機と中東外交

 一九七三年一〇月に勃発した第一次石油危機は、この局面での冷戦構造の弛緩・制度疲労を象徴するものであり、日本にとっても戦後史を画するものとなった。この頃アジア・アフリカの旧植民地が次々に独立して、国連加盟国も一三〇を数え、新興独立国家の多くが非同盟諸国会議に加わり「第三勢力」を構成していた。西側第一世界、東側第二世界との対比で第三世界とか発展途上国とよばれた(20)。東西対立と交差する南北問題である。

 サウジアラビアなどアラブ産油国が、親イスラエル政策をとるアメリカ、ヨーロッパ諸国に対して石油価格のつり上げ、減産・輸出制限の政策をとると、西側資本主義国の経済は、一挙にパニックにおちいった。第一次石油危機である。日本も高度成長期にエネルギー革命を経験し、石油依存度を六〇年の三七%から七一年には七三%まで高めていた。原油はすべて輸入で、七二年度は八一%が中東原油だったから事態は深刻で、日本経済の根幹をゆるがした。ガソリン・灯油ばかりでなく、トイレットペーパーから砂糖・洗剤にいたる物不足となり、インフレが続いていた国民生活を「狂乱物価」が直撃した。高度経済成長の終焉で、西側経済システム全体が軒なみマイナスないし低成長へと突入した(21)。

このドル危機と石油危機という二重の危機に対する日本資本主義の対応が、国内では日本型企業社会を確立し、対外的には冷戦体制・日米安保体制の基盤を揺るがすものになっていった。一九七四年に、戦後初の実質〇・二%のマイナス成長を記録した日本経済は、アメリカ以下他の西側諸国も、ソ連など社会主義国も、石油ショックから立ち直れないなかで、国内の減量経営・合理化、赤字公債による積極財政、輸出の集中豪雨的拡大により、いち早く安定成長の軌道を回復し、世界経済の中心に躍りでた。自動車・電気機械・工作機械を主力とした輸出は、第一次石油危機の七三年三六九億ドルから第二次石油危機の七九年一〇三〇億ドルへと、この減量経営期に三倍化する。同時期の労働生産性上昇率は、アメリカ〇・九%、EC二・九%であったが、日本は五・〇%と突出した。この頃、韓国・台湾・香港・シンガポールなどいわゆるアジア・ニーズ諸国が、輸入代替から輸出促進型に切り換えた工業化で年率七ー九%の高成長を達成し、日本の輸出増を促進した。

 この期の減量経営は、六〇年代に鉄鋼など基幹重化学工業部門で形成されたQC活動・能力評価などの日本的経営の仕組みを全産業部門に定着させた。年労働時間は、一九六〇年の二四二六時間をピークに、六五年二三一二時間、七〇年二二三九時間と高度成長後期に大企業の週休二日制などで短縮されてきたが、減量経営さなかの七五年二〇七七時間をボトムにして、八〇年二一〇四時間、八五年二一一二時間と再び延長された。正規従業員をスリム化し、出向・単身赴任や女性のパート労働・派遣労働を拡大、ME化・ロボット化の導入で競争を激化させた。「過労死」が生まれるのは、この文脈においてであった。

 政治の世界でも、大きな転換があった。池田・佐藤の長期政権の後を継いだ田中内閣は、「日本列島改造論」で越山会型利益政治を全国に広めようとしたが、地価の高騰と石油ショックで支持率を急降下させ、企業ぐるみ選挙を行った七四年七月の参議院選挙で「保革伯仲」に追いつめられた。革新自治体は東京・大阪・京都など主要な都道府県知事や市長を網羅するまでに広がり、七四年一〇月号『文藝春秋』誌上での田中金脈の追及により、田中は一一月に辞任に追い込まれる。さらにアメリカ議会での多国籍企業問題追求の余波で、翌七五年七月にはロッキード事件で逮捕されるにいたる。保守政治の危機であった。

 「保守本流」からはずれた田中の外交政策には、「裏日本」新潟から「商人政治」を国際政治に延長する、ある種の経済ナショナリズムが含まれていた。対米追随反共政策で台湾との関係を断ち切れなかった岸・佐藤の流れを切り捨て日中国交回復をすばやく実現し、石油危機に際していち早く「イスラエルとの関係の再検討」を打ち出し、三木武夫副総理を特使としてアラブ諸国に派遣して「非友好国」からはずしてもらう「資源外交」を展開した。アメリカとの関係を損なうことは回避しつつも、日本の国益を前面に出した経済主義的「自主外交」が生まれた。しかしそれは、田中の東南アジア訪問が反日デモ・暴動で迎えられたように、アジアでは日本帝国主義の経済侵略、軍国主義復活として警戒された。

 田中外交の背景には、キャッチアップ型高度成長が終焉して新時代の国家目標が不透明になった時期に、自ら官僚出身で前例を重んじた吉田・岸・池田・佐藤の保守本流型政治とは異なり、政治家として官僚を手なずけ使いこなす田中型政治があった。この田中時代から、いわゆる「族議員」が台頭しはじめ、それが八〇年代金権政治の土壌をつくる。

 3 デタント時代の全方位外交

 田中角栄以後の三木武夫・福田赳夫・大平正芳・鈴木善幸内閣は、ロッキード疑獄で頂点に達した政治不信の払拭、自民党政治と五五年体制の再建の課題を担った。しかし自民党支配の危機を救ったのは、大企業の多国籍企業化による日本経済の立ち直りであった。

 減量経営は、日本経済をいち早く安定成長軌道にのせたばかりでなく、企業に働く労働者の意識をも、大きく変えた。財政難におちいった自治体の革新首長は、七〇年代後半に「自治体経営」を唱える自治省官僚をはじめとした保守勢力に、次々にとって代わられた。高度成長末期に高揚した野党の連合政権論議は混迷し、自民党支持率の回復がみられた。春闘方式での賃上げを重ねてきた労働運動も、企業から「雇用か賃上げか」の選択を迫られと労使協調の方向に向かい、七五年の公労協スト権ストを最後に「冬の時代」に入る。当時「生活保守主義」と呼ばれたように、石油危機による高度経済成長終焉で生活基盤の危うさを知った労働者の企業帰属意識の強化、高度成長時代に獲得した「アメリカ風生活」の水準を守ろうとする国民の生活意識の変化が、その根底にあった。減量経営に強いられた「会社主義」「企業社会」の定着であり、経済大国ナショナリズムの形成だった(20)。

 三木内閣は、「防衛計画大綱」時の閣議了解で、防衛費をGNPの一%に抑えると表明し、以後、佐藤内閣の非核三原則などと共に、日本の防衛政策の一つの基準となる。岸・佐藤の流れをひく福田内閣は、一方で「全方位外交」の名のもとに中東・アジアへの配慮のポーズをとりつつ、他方で有事立法の検討を進め、七八年一一月の「日米防衛協力ガイドライン」で米軍と自衛隊、さらには韓国軍との共同演習体制を強化した。

 七〇年代の冷戦体制は、ヨーロッパにおける東西デタント、アジアにおける熱戦の終焉で特徴づけられる。ベトナム戦争は、一二〇万とも一七〇万ともいわれる犠牲者を出して一九七五年四月末の北ベトナム軍によるサイゴン解放で終わった。アメリカ側戦死者は二二万余、超大国アメリカは、年間二五〇ー三〇〇億ドルを費やし小国ベトナムに敗れた。

 アラブ諸国の資源主権にもとづく石油戦略と、ベトナムの民族解放戦争の勝利は、米ソ超大国の世界支配という冷戦の構図が、確実に衰退しつつあることを示した。アメリカは中ソの対立を最大限利用することでソ連の軍拡に対抗し、中国とベトナムの間には、社会主義国家間の国境紛争から戦争がおこった。ヨーロッパでは、ドイツにおける社会民主党政権の東方外交が展開され、七五年には、米ソを含む東西三五か国の全ヨーロッパ安全保障会議結成に結実した。七三年にイギリス、アイルランド、デンマークがECに加盟し、アメリカから自律的な西欧経済圏が明確に形成されてきた。しかし石油危機による経済的打撃は、戦後福祉国家を定着させてきたヨーロッパ諸国にも大きく、一九七五年ランブイエに始まる年次サミット(先進国首脳会議)は、当時のジスカールデスタン仏大統領とシュミット西独首相のよびかけによる西側先進国の経済政策調整のためであった。ベトナム戦後のアメリカや、物質主義的成長の危うさを体験したヨーロッパでは、フェミニズムやエコロジーが台頭し、西独緑の党に象徴される市民運動として、政治的にも広がった。

 

  五 日米同盟の構造疲労と冷戦の終焉

 

 1 新冷戦とサミット体制

一九八〇年代は、ソ連のアフガニスタン侵略に始まる「新冷戦」の幕開けであった。ソ連の侵攻は、インド洋への進出の攻撃的ワンステップなのか、地政学的な自己防衛かで西側でも評価は分かれたが、アメリカのカーター政権は、イランのイスラム革命の波及をも恐れて、対ソ強硬姿勢をとった。「新冷戦」である。七九年イギリス保守党サッチャー首相に続いて、八一年からアメリカには共和党レーガン大統領が登場し、新保守主義による西側イデオロギーの再編と新たな軍拡が進んだ。日本にも八二年に中曽根康弘内閣が生まれ、「戦後政治の総決算」や「国際国家」への新しい動きが生まれる。

 八〇年代初頭の社会主義圏は、すでに中ソ対立が固定化し、ユーゴスラヴィア、アルバニア、ルーマニアなどは独自の道を歩んで東側ブロックとしての結束を失っているばかりでなく、「社会主義」イデオロギーによる共産党独裁そのものが、国内の正統性を枯渇させていた。ポーランドでは、七九年夏のグダニスク造船所ストライキから自主労組「連帯」が台頭して、八〇年末の戒厳令後もカソリック教会と結んで実質的に影響力を保った。いずれの国も、経済状態は低迷していた。ブレジネフ時代のソ連は、後に「停滞の時代」と特徴づけられるように、経済的にも政治的にも制度疲労に陥り、軍拡財政が重くのしかかっていた。六六年に始まる中国文化大革命は、七六年五月の毛沢東の死を経て、七八年に「四つの近代化」が掲げられ幕を閉じたが、その間に国内は疲弊した。東欧諸国にとって、この段階での冷戦とは、ソ連の核軍拡へのイデオロギー的忠誠と、ワルシャワ条約機構・コメコンの拘束で、自主的改革をおさえ込まれた状態にほかならなかった。

 一九八〇年ヴェネチアの西側先進国首脳サミットは、それまでのエネルギー危機や通貨危機への対処に加えて、ソ連のアフガニスタン侵略やモスクワ・オリンピックのボイコットをも決議して、政治サミットの性格を色濃くした。西側先進国の国内政治では、イギリスのサッチャー、アメリカのレーガン、西ドイツのコール、日本の中曽根康弘と、いわゆる新保守主義・新自由主義へのシフトが進んだ。高度成長期ヨーロッパに典型的なケインズ主義的福祉国家が見直され、自由貿易体制を維持しながら「インフレなき経済拡大」への政策調整を繰り返すフォーマル・インフォーマルな流動的体制がつくられた。アメリカのレーガン政権は、サプライサイド経済学とSDI(戦略防衛)構想、宇宙兵器開発を含む軍拡で、老化した西側同盟を再建し、「強いアメリカ」を再生させようとした。

 しかしアメリカ経済の再建のためには、西ドイツや日本の協力が不可欠だった。一九八五年の先進五ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)におけるプラザ合意では、日本に円高・貿易黒字減らし・内需拡大を強いて「貢献」させることが焦点になった。冷戦体制を支えたアメリカの覇権の帰趨の重要なモメントが、いまや日本の世界システムへの能動的関与であった。日本の力は、八七年一〇月のニューヨーク株式市場の暴落、いわゆるブラックマンデーに際して示された。二九年世界恐慌の再来を恐れた世界の意を受けて、日本の多国籍銀行・保険・証券資本は金融秩序回復の先頭にたち、世界への波及・影響を最小限にくいとめ、その勢いでアメリカの不動産・企業買収へと国内バブル経済を国際化した。

 2 日米新時代と国際国家化

 日米関係も、八〇年代に新たな展開を示す。七〇年代後半の日本の輸出洪水で貿易黒字は劇的に増大し、経済摩擦を激化させた。大企業は多国籍企業化し、直接投資も激増した。

 プラザ合意の行われた一九八五年は、日本がいまや世界経済の管制高地に立ったという意味で、五二年の占領終了、六〇年新安保条約、七三年石油ショックに続く、戦後日本史の画期となった。対外純資産が一二九八億ドルで世界一となり、対照的にアメリカは、経常収支の大幅赤字で一〇〇〇億ドルの純債務国に転落した。減量経営期のME技術革新やロボット化は、日本企業の国際競争力を著しく高めており、アメリカは日本車輸出自主規制の強制や円高・ドル安誘導で貿易収支を改善しようとしたが、効果はあがらなかった。

 しかし「新冷戦」は、軍事・外交的には、日米関係を再強化した。ベースになったのは、大平内閣時代の「総合安全保障」の構想と、短命の鈴木内閣に続いて長期の政権を維持した中曽根内閣時代の「日米運命共同体」「国際国家」外交であった。

 大平は、七九年一月に総理の私的諮問機関として九つの政策研究グループをつくり、内田忠夫を座長とした「対外経済政策研究グループ」、大来佐武郎を座長とした環太平洋連帯グループ」、猪木正道を座長とした「総合安全保障研究グループ」のもとで、明治以来の近代化の目標は基本的に達成されたという認識にたって、新時代の国家構想・外交構想の検討に着手した。そこには、「日米友好関係の維持・強化」の観点から福田内閣の「全方位外交」を「西側の一員」へと再修正するとともに、「国際秩序を維持するため、我が国の国際的地位にふさわしい役割と責任を果たす」(八〇年一月国会施政方針演説)という姿勢が貫かれていた。大平自身は、志し半ばで八〇年総選挙中に過労死するが、政策研究グループ提言は、主要メンバーを政権ブレーンに引き継いだ中曽根内閣に継承される。

 大平の過労死で思いがけず政権についた鈴木善幸は、八一年五月の訪米時の日米共同声明で「日米同盟関係」を認めながら、その後の記者会見では、日本国憲法を引合いに出して「軍事的意味合いは含まない」とコメントし、アメリカ政府や日本外務省を驚かせた。それは、鈴木なりの外務官僚主導外交への抵抗であったが、「新冷戦」のこの局面では、日本国憲法が自衛隊強化の歯止めになるという機能も衰弱していた。事実、鈴木内閣で発足した第二次臨時行政調査会の行財政改革で、福祉や文教予算は厳しいシーリングが行われたのに、防衛予算と政府開発援助(ODA)は特別枠として拡大されることになる。

 アジア諸国からの教科書検定批判の処理で疲れ果て、政権を投げ出した鈴木の後を継いで、八二年一一月に首相になった中曽根康弘の最初の仕事は、日米同盟を修復し、大平構想を政策化することであった。八三年一月訪米時のレーガン大統領との会談で日米関係を「運命共同体」と位置づけ、「同盟関係」には軍事も含まれることを明言した。そればかりか、『ワシントン・ポスト』紙とのインタヴュ−で「日本列島はソ連に対する不沈空母」と位置づけて、レーガン軍拡にならった自衛隊強化を公言した。その総括的表現が「世界に開かれた日本」「国際国家日本」であり、国内政治における「戦後政治の総決算」に対応して、臨調行革のなかでも防衛費とODA(政府開発援助)を突出・拡大させた。ついには八六年予算案で、三木内閣時の防衛費GNP一%枠をも取り払い、折から国内に台頭してきた経済大国ナショナリズムを、日米同盟の枠内での「国際的責任」に結晶させた。

 同時に、中曽根のこうした国家主義的姿勢は、靖国神社公式参拝や建国記念日式典出席など復古的ナショナリズムとも結びついており、アメリカでも人種差別発言が批判され、アジア諸国の反発をよんで、日本の軍事大国化への世界的警戒をよびおこした。大平「総合安全保障」構想と中曽根「国際国家」外交は日米同盟を強化したが、同時に経済摩擦やアジアからの批判と結びつき、かえって新たな対立の火種をも産み出すのである。

 3 前川レポートから日米構造協議へ

 一九八六年四月の「前川レポート」、翌八七年四月の「新前川レポート」は、こうした新時代の日米関係を、国内体制とリンクさせるものであった。経済摩擦解消のため内需と輸入の拡大をとなえる一方、日本企業の海外直接投資と途上国への経済援助を奨励し、かの「日本的減量経営」「リーン・プロダクション」を海外に広げる役割を果たした。

 経済摩擦は、八九ー九〇年には日米構造協議というかたちで処理される。日本の貿易黒字は一千億ドルを超え、アメリカの膨大な貿易赤字の六割を占めるにいたって、日米同盟と日本社会の「構造」が問題にされるにいたった。アメリカは、日本の消費者・生活者の不満をも代弁するものとして、コメの自由化から週休二日制完全実施にいたる「構造変化」を求めた。「横からの入力」「外圧」が「内政」に転化して、大型店舗出店規制緩和など一部は直ちに実施され、「健全野党アメリカ」という評価さえ生まれた(22)。

 八〇年代後半の日本企業の海外進出は、アジア、アメリカ、ヨーロッパの全域に、膨大な規模で展開された。しかも日本型多国籍企業は、かつてヨーロッパから世界へと進出したアメリカ多国籍企業とは異なり、「国内産業空洞化」をもたらす方向にはただちに向かわなかった。八六ー八七年の円高不況の後、生産企業も銀行・証券会社も土地や株式の投機にむらがり、貿易黒字を残したまま財テク・バブル景気に走った。その根底ではしかし、過労死につながる長時間労働・サービス残業の恒常化、情報化・ソフト化・国際化がもたらす二四時間ビジネス化、東京への一極集中と子どもたちの過労児化が深く進行していた。

 そして、国際的・国内的マネーゲームの主体となった大企業に、長期自民党政権下の利益政治に寄生してきた政治家、天下りと許認可権で相互依存してきた官僚たちが加わり、金権腐敗政治が次々とあらわになった。リクルート事件、佐川急便事件は、長期の政財官三角同盟の帰結であった。公共事業にむらがる大手ゼネコン業者と政治家の癒着は自治体レベルでも顕在化し、アメリカからの「談合」批判と相まって国民の政治不信を加速した。 

 4 冷戦崩壊から五五年体制の終焉へ

 一九八九年東欧革命、九一年ソ連解体のドラマは、日本国内では、バブルの繁栄と経済大国ナショナリズムをベースにした反米・嫌米・侮米意識の強まりのなかで進行した。

 米ソの関係修復は、八二年のソ連指導者ブレジネフの死から、アンドロポフ、チェルネンコを経て、八五年にゴルバチョフ共産党書記長が登場して以後、劇的に進んだ。当初は中距離核兵器全廃(INF)交渉など軍縮が課題とされたが、ソ連のペレストロイカ・グラースノスチ・新思考外交の進展につれて「雪解け」は全領域へと広がった。

 八九年の東欧革命・マルタ会談で冷戦終焉が公式に宣言された後、九一年末のソ連国家解体で名実共に世界史は一回転した。冷戦後遺症は、旧ソ連・東欧の市場経済への移行の困難と経済危機、民族・宗教対立のほか、核兵器の削減・廃棄、通常兵器の途上国への流出の問題などとして残されたが、「凍結された長い平和」としての東西冷戦は終わった。

 戦後日本は、太平洋戦争でのアジア諸国への侵略者であり加害者でありながら、ヒロシマ・ナガサキの被爆・敗戦体験と日本国憲法第九条を「平和」の原点とし、アジア諸国との関係を曖昧にしたままアメリカの核の傘に安全保障を依存し、自衛隊を増強しながらも軍事費をミニマムにおさえて経済大国になった。この日本経済の長期的成功が、冷戦崩壊にあたっても、日本政府と国民の国際社会への関与を、受動的で経済主義的なものにした。

 一九八九年東欧革命・九一年ソ連解体の世界史的激動を、日本はおおむね「対岸の火事」と受けとめた(23)。九〇ー九一年の湾岸戦争では、国連の大義名分を用いたアメリカ中心の多国籍軍の金庫番の役割を果たした。ODA額は世界一になったが、ソ連解体にあたってもロシアの民衆を率先して援助する動きは現れず、サミットで欧米に迫られしぶしぶ経済援助する消極的姿勢を保った。九二ー九三年にカンボジアPKOへの自衛隊派遣が現実的課題になるにいたって、ようやくポスト冷戦秩序のもとでの日本の役割が、国際関係においても、日本国憲法との関わりでも、決定的になったことが自覚された。自民党政権は、PKO法を成立させて自衛隊をカンボジア・ソマリアに派遣したが、日本国憲法との関連は曖昧なままにした。「国際貢献」が声高に叫ばれるようになったが、ポスト冷戦時代の地球社会の普遍的価値の探求は経済ナショナリズムの高揚でかき消され、人権・平和・環境を通じてのボーダーレスな市民的活動は弱いままである。アジアから多くの外国人労働者が入ってきたが、血統主義の国籍法の日本では、「国民の権利」しか認められない。

 国内ではむしろ、年労働時間一八〇〇時間や年収五倍での住宅取得をうたう「生活大国五か年計画」が立案されたもとで、アメリカとの経済摩擦、バブル経済崩壊と金権腐敗政治の問題が切実だった。バブル経済下での資産格差拡大が、政治不信の根底にあった。

 一九九三年七月、ちょうど東京サミットが開催された時期に、日本の国内冷戦は終焉を迎えた。リクルート、佐川急便、ゼネコン汚職と続いた自民党中心の政官財癒着構造に検察のメスが入り、旧田中派をついだ竹下登・金丸信の利益政治が国民の批判にさらされた。

 金権構造から脱する政治改革をめぐって自民党が分裂し、自民党を離党した羽田孔・小沢一郎らの新生党、武村正義らの新党さきがけ、それに九二年創立の日本新党が総選挙で躍進、自民党は過半数を割り、社会党も大敗した。新生党、日本新党・さきがけグループに社会党・公明党・民社党・社会民主連合のなど野党を加えると自民党の議席を上回り、八月に日本新党代表細川護煕を首相とした非自民・非共産の連合政権が生まれた。

 三八年間にわたった自民党長期政権の最後の仕事は、朝鮮人従軍慰安婦問題での日本政府の公式の謝罪であり、細川新政権の最初の仕事は、太平洋戦争を侵略戦争と認め、アジア諸国の犠牲者への哀悼の意を述べることであった。この意味では、米ソ冷戦により「凍結」されてきた日本の本来の「戦後」は、一九九三年の国内冷戦終焉で、ようやく始まった。

 しかし問題は、「戦争責任」にとどまらない。冷戦と日米同盟に寄生した日本の戦後は、アジア諸国に対してはもとより、地球社会全体に関わる「戦後責任」の問題を再生産してきた。同じ敗戦国ドイツが、ヨーロッパで戦争責任を果たしつつ築いてきた信頼関係を、日本はアジアで築きえず、経済侵略・公害輸出や買春観光で民族差別と新たな不信を産みだしてきた。人権や平和やエコロジーの普遍的価値へのコミットメントが弱く、地球社会の新たなルールづくりに経済主義的「援助」以上の「国際貢献」を果たしえなかった。そして、自らの社会を効率的ではあるが過労死とストレスを充満させる生産至上社会につくりかえ、その仕組みを世界に広めてきた。もっともエルゴロジーの視角からすれば、「日本」を主語たらしめる国民国家システム自体が、やがて老衰するのは不可避なのであるが。


本文への注解

(1) 東西冷戦とその崩壊については、日本国際政治学会編『「冷戦」――その虚像と実像(国際政治・第五三号)』有斐閣、一九七五年、同『冷戦とその後(国際政治・第一〇〇号)』有斐閣、一九九二年、永井陽之助『冷戦の起源』中央公論社、一九七八年、武者小路公秀『国際政治を見る眼』岩波新書、一九七七年、坂本義和『新版・核時代の国際政治』岩波書店、一九八二年、同『新版・軍縮の政治学』岩波新書、一九八八年、船橋洋一『冷戦後』岩波新書、一九九一年、坂本義和・大串和雄編『地球民主主義の条件』同文館、一九九一年、F・ハリディ(菊井禮次訳)『現代国際政治の展開』ミネルヴァ書房、一九八六年、D・ゼングハース(高柳先男・鴨武彦・高橋進訳)『軍事化の構造と平和』中央大学出版部、一九八六年、I・ウォーラーステイン(丸山勝訳)『ポスト・アメリカ』藤原書店、一九九一年、A.G.McGrew/P.G.Lewis eds., Global Politics,Polity Press, 1992;R.Keohane/J.S.Nye/S.Hoffmanneds., After the Cold War,Harvard UP.,1993; W・A・ウィリアムズ(高橋章・松田武・有賀貞訳)『アメリカ外交の悲劇』御茶の水書房、一九八六年、R・S・マクナマラ(仙名紀訳)『冷戦を超えて』早川書房、一九九〇年、A・B・ウラム(鈴木博信訳)『ソヴェト外交史・膨張と共存』第三卷、サイマル出版会、一九七九年、など参照。なお、以下では格別に争点となりうる問題を除いては、個々の事実関係について典拠を挙げることは省略する。

(2) 日米安保と日米関係については、原杉久『戦後日本と国際政治』中央公論社、一九八八年、加藤哲郎『ジャパメリカの時代に』花伝社、一九八八年、田中義晧『日米関係のグローバリゼーション』勁草書房、一九八九年、室山義正『日米安保体制』上下、有斐閣、一九九二年、安保哲夫・柴垣和夫・河合正弘編『日米関係の構図』ミネルヴァ書房、一九九二年、宮里政玄・臼井久和『新国際政治経済秩序と日米関係』同文館、一九九二年、C・V・プレストウィッツ(国弘正雄訳)『日米逆転』ダイヤモンド社、一九八八年、D・バースタイン(鈴木主悦訳)『日米株式会社』三田出版会、一九九三年、など参照。

(3) 自民党と「五五年体制」については、日本政治学会編『五五年体制の形成と崩壊(年報政治学・一九七七)』岩波書店、一九七九年、三宅一郎・山口定・村松岐夫・進藤栄一『日本政治の座標』有斐閣、一九八五年、佐藤誠三郎・松崎哲久『自民党政権』中央公論社、一九八六年、渡辺治『日本国憲法「改正」史』日本評論社、一九八七年、小沢一郎『日本改造計画』講談社、一九九三年、など参照。

(4) 日本型企業社会については、東京大学社会科学研究所編『現代日本社会』全七卷、東京大学出版会、一九九一ー九二年、歴史学研究会編『講座日本同時代史』全五卷、青木書店、一九九〇ー九一年、渡辺治『「豊かな社会」日本の構造』労働旬報社、一九九〇年、同『企業支配と国家』青木書店、一九九一年、基礎経済科学研究所編『日本型企業社会の構造』労働旬報社、一九九二年、加藤哲郎『社会と国家』岩波書店、一九九二年、川人博『過労死社会と日本』花伝社、一九九二年、大沢真理『企業中心社会を超えて』時事通信社、一九九三年、など参照。

(5) エルゴロジー(Ergology)は、ギリシャ語で「仕事・働き」を意味する「エルゴン(Ergon)」に由来し、一九世紀末にスイスの人類学者サラシンが、セイロン島の衣食住・風俗習慣・生業の調査のなかで用いたのが始まりとされる。二〇世紀初頭には、ドイツの生物学者E・ヘッケルが生体固有の機能の生理学をエルゴロジーと名づけた。いずれにしろ、労働のありようを生体機能の側から歴史的にみる学問であり立場である。日本語では、人類学者の長谷部言人らにより導入され「働態学」と訳された。エルゴロジーは日本で独自の発展を遂げ、一九七〇年に「人類働態研究会」が設立されて「ヒューマン・エルゴロジー」を提唱、一九八五年には「人類働態学会」へと発展的に改組され、今日では約五〇〇人の会員を持つ。英文機関誌『ジャーナル・オブ・ヒューマン・エルゴロジー』は、東南アジア人間工学会と共同編集されている。

 「エルゴン」を語源とした欧米起源の学問には、すでに「エルゴノミクス(Ergonomics)」があり、日本語では「人間工学」と訳され、工場での作業効率やチーム制労働の生産効率を高めるための人体特性を研究してきた。産業経済を所与の前提とする「エコノミクス」に対して、経済成長そのものの意味を問う「エコロジー」が冷戦期に発展してきたように、人間の産業発展への適応・生産効率を問題にする「エルゴノミクス」に対して、こうした産業発展が人間の生体活動にとって持つ意味をも考えるのが「エルゴロジー」である。

 日本の「ヒューマン・エルゴロジー」は、エコロジーに関わる公害・環境破壊と並行して働く人々の労働災害・職業病が深刻になり、「モーレツからビューティフルへ」「くたばれGNP」が語られた高度経済成長末期に産声をあげ、人間の自然性・身体性に立脚して労働や生産の問題を自然原則の延長上で理解しようとしてきた。より具体的には、人体内のバイオリズム、いわゆるサーカディアンリズムが徹夜仕事や交代制勤務や海外出張の繰り返しでどうなるのか、ワープロ・パソコン作業の繰り返しが生体にどのような影響を与えるかといった問題を、自然科学的に研究してきた。筆者自身は、この概念に現代日本の過労死研究の過程で遭遇し、人間の自然性に立脚して、労働を通じての生体システムの自然環境適応能力とその限界を見極める方法ないし立場として、意識的に用いてきた(加藤哲郎「過労死と過労児のエルゴロジー――地球社会のなかでの日本の会社と学校」中内敏夫他編『叢書<産む・育てる・教える>――匿名の教育史(第四巻・企業社会)』藤原書店、一九九三年、同「過労死とサービス残業の政治経済学」本書第T章)。歴史学に応用するならば、「近代」の産業主義と労働中心主義の歴史像を相対化するうえで、有意義な概念であり方法である。

(6) ハリディ、前掲書、五頁。

(7) 冷戦の定義と時期区分については、ハリディ、前掲書、五十嵐武士「冷戦」『戦後史大事典』三省堂、一九九一年。石井修は、日本の「五五年体制」になぞられて「冷戦の『五五年体制』」を論じる(日本国際政治学会編『冷戦とその後』前掲、三五頁以下)。

(8) 冷戦の軍事的側面は、日本国際政治学会編『転換期の核抑止と軍備管理(国際政治・第九〇号)』有斐閣、一九八九年、坂本義和『新版・軍縮の政治学』前掲、高榎尭『現代の核兵器』岩波書店、一九八二年、猪口邦子『戦争と平和』東京大学出版会、一九八九年、参照。軍拡と経済衰退の関係について、杉原泰雄『人権の歴史』岩波書店、一九九二年。

(9) 冷戦とその崩壊のイデオロギー的側面は、F・フクヤマ(渡部昇一訳)『歴史の終わり』上下、三笠書房、一九九二年、R.Miliband/L.Panitch eds., New World Order?(Socialist Register 1992),The Merlin Press,1992;S.Hall/D.Held/A.McGrew eds.,Modernityand its Futures,Polity Press 1992.

(10) 冷戦時代の経済的決算は、西川潤『世界経済入門・第二版』岩波新書、一九九一年、坂本正弘・鹿島平和研究所編『図説・二〇世紀の世界』日本経済新聞社、一九九二年、日本国際政治学会編『国際政治経済学の模索(国際政治・第九三号)』有斐閣、一九九〇年。西川によれば、一九五〇年から九〇年の四〇年間に、地球人口は二・〇九倍、国内総生産総計は二七・七倍、輸出貿易は四六・五倍と、人類史のなかでも希有な飛躍的増大を経験した。そのなかで日本のGNPシェアは、五〇年の二%から九〇年の一五%へと拡大した。

(11) 加藤哲郎『東欧革命と社会主義』花伝社、一九九〇年、同『社会主義の危機と民主主義の再生』教育史料出版会、一九九〇年、同『ソ連崩壊と社会主義』花伝社、一九九二年、和田春樹『歴史としての社会主義』岩波新書、一九九二年、平子友長『社会主義と現代世界』青木書店、一九九一年、L.Diamond/M.Plattner eds., The Global Resurgence of Democracy, The Johns Hopkins UP., 1993.

(12) J.H.Gaddis, The Long Peace: Inquiries Into the History of the Cold War, Oxford UP.,1987. 日本国際政治学会編『冷戦とその後』前掲。

(13) F・フクヤマ『歴史の終わり』をめぐる国際論争のほか、P・ドラッカー他(小林勇次・森平慶司訳)『資本主義は勝利したか?』JICC、一九九一年、A・コッタ(斉藤日出治訳)『狼狽する資本主義』法政大学出版局、一九九三年、朝日新聞企画報道室編『どうなる社会主義』新興出版社、一九九〇年、同『どうなる社会主義のゆくえ』新興出版社、一九九二年、日本経済新聞社編『私の資本主義論』日本経済新聞社、一九九三年。

(14) エコロジーに関わる冷戦時代の問題は、ローマ・クラブ報告(大来佐武郎監訳)『成長の限界』ダイヤモンド社、一九七二年、同(田草川弘訳)『第一次地球革命』朝日新聞社、一九九二年、石弘之『地球環境報告』岩波新書、一九八八年、など参照。

(15) 戦後日本の外交については、石丸和人他『戦後日本外交史』全七卷、三省堂、一九八三ー八五年、渡辺昭夫編『戦後日本の対外政策』有斐閣、一九八五年、有賀貞他編『講座国際政治・第四卷・日本の外交』東京大学出版会、一九八九年、入江昭『新・日本の外交』中公新書、一九九一年、浅井基文『日本外交――反省と転換』岩波新書、一九八九年、船橋洋一『日本の対外構想』岩波新書、一九九三年、など参照。

(16) 安保条約とその改定については、石丸和人「発展する日米関係」『戦後日本外交史』第V卷、原杉久と室山義正の前掲書、参照。

(17) 日韓条約・東南アジア諸国賠償問題について、山本剛士「日韓国交正常化」『戦後日本外交史』第U卷、同「東南アジアへの賠償」同第W卷、山影進「アジア・太平洋と日本」、伊豆見元「近くて遠い隣人」共に渡辺昭夫編『戦後日本の対外政策』前掲。

(18) 憲法・安保・自衛隊などをめぐる国民意識の変遷については、NHK世論調査部『戦後世論史・第二版』NHKブックス、一九八二年、西平重喜『世論調査にみる同時代史』ブレーン出版、一九八七年、加藤哲郎『戦後意識の変貌』岩波ブックレット、一九八九年。

(19) 日米繊維協定と沖縄返還について、I・M・デスラー、福井治弘・佐藤英夫『日米繊維紛争』日本経済新聞社、一九八〇年、石丸和人、前掲書。

(20) 第三世界、とりわけアジアとの関係は、歴史学研究会編『アジア現代史』全四卷、一九七九ー八五年、江口朴郎・岡倉古志郎・鈴木正四監修『第三世界を知る・@アジアの世界』大月書店、一九八四年、上原一慶・桐山昇・高橋孝助・林哲『東アジア近現代史』有斐閣、一九九〇年、猪口孝編『アジア太平洋の戦後政治』朝日新聞社、一九九三年。

(21) 日本の石油危機への対応と社会変貌について、本書第W章、参照。

(22) 「外からの入力」と日米構造協議について、佐々木毅『いま政治になにが可能か』中公新書、一九八七年、同『政治はどこへ向かうのか』中公新書、一九九二年の他、I・M・デスラー、佐藤英夫『日米経済紛争の解明』日本経済新聞社、一九八二年、船橋洋一『日米経済摩擦』岩波新書、一九八七年、同『通貨烈烈』朝日新聞社、一九八八年、参照。

(23) 加藤哲郎「東欧革命の日本的受容」前掲『ソ連崩壊と社会主義』所収、同「現代マルクス主義とリベラリズム」『レヴァイアサン』第一三号、一九九三年、本書第[章、参照。




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