LIVING ROOM 4 (APRIL-JUNE 1998)

1998/6/25 しばらく更新なしでご無沙汰しました。そう、暑い暑いモスクワ・ソチに行ってきたのです。昨年クリスマスのモスクワは零下20度で髭も凍りつきましたが、6月のロシアは連日30度の猛暑でした。寒さには強くできているのに、外国人客多数のインツーリストホテルでさえクーラーなし。おまけにご存じ白夜で、夜11時でも夕暮れの明るさ、クレムリン前の広場で、夜中まで夕涼みするモスクワっ子に仲間入りし、寝不足ですが楽しい毎日でした。

 お気づきの方もいるでしょう。この日本語トップ頁の「御礼○○ヒット!」が消えました。モデムまで持ち込んだモスクワでは、結局電話の接続方式が違い、メールはチェックできず。ただしモスクワ中央電信電話局が始めたインターネットコーナー備え付けIBMで、自分のホームページは覗くことができました。日本語はもちろん文字化けですが、英語ページの健在を確認して10分間20ルーブル=400円のネットサーフィン、まあ日本のインターネットカフェのコーヒー抜きのようなものです。そんな間に、本HPのヒット数は、ついに藤岡信勝教授率いる「自由主義史観研究会ホームページ」のアクセス数を抜きました。前回までのヒット数での挑発は、実はこの目標があったからこそなのです。本日更新段階で、こちらは14,012、あちらさんは13,941でちょっと差をつけましたから、まあしばらく抜かれることもないでしょう。次のターゲットがみつかるまで、ヒット数御礼はお休みです。

 圧倒的なビル・ゲーツ=IBM王国、マック処女地のロシアですが、伊達にパワーブックを持ち込んだわけではありません。かつての旧ソ連共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所、現在のロシア現代史資料保存研究センターのアルヒーフは、コンピュータ持ち込み可です。そこに毎日10時ー5時と通って、愛機に1920年代日本社会運動資料を打ち込んできました。ロシア語ができないはずなのにどうして、とお思いでしょうが、実はそこには膨大な日本語資料があるのです。戦前日本共産党がコミンテルンに送った報告書の類や、東方勤労者共産主義大学(クートヴェ)の日本人学生資料などです。そのほかに、片山潜秘書勝野金政氏のご遺族と共に、かの旧KGBアルヒーフに入ることもできましたし、サファロフ博士記念人権センターのデータベースで、本HPの目玉「現代史の謎解き」の旧ソ連粛清日本人犠牲者名簿にも載っていない数人の日本人犠牲者を新たに発見しました。また「今年の尋ね人」の一人伊藤政之助の最期と埋葬地が判明し、他の犠牲者についても新事実が多数見つかりました。この「現代史の謎解き」は、近く全面改訂です。

 感動的だったのは、昨冬も訪れた郊外のブトボ刑場跡を再訪したさい、私たちを案内していたモスクワ在住の日本人粛清犠牲者遺児スドー・ミハイル博士の父である須藤政尾氏の埋葬地が、ほかならぬブトボであることが判明した一瞬でした。1937年10月から12月の2か月間で罪なき政治犯2万人を銃殺したという刑場跡に、粛清犠牲者救援ボランティア組織メモリアルが建てた小さな木造の教会があります。その売店で売り出した埋葬者名簿のなかに、日本人「スドー・マサオ」の名が入っていたのです。その場でミハイルさんは泣きだし、半世紀をかけて父の足跡を追求してきた旅を完成させたのでした。

 もう一つの感動シーンは、そのスドー・ミハイルさんと、ヴィクトリア・ヤマモトさんの出会い。ヴィクトリアさんは、先月upload した私の論文「『32年テーゼ』と山本正美の周辺」(『山本正美裁判関係記録・論文集』「解説」)の主人公、戦前日本共産党書記長山本正美氏のモスクワ滞在時にロシア人妻との間に生まれた遺児です。生後3か月で父と別れ、1964年に初めて日本人である父正美の生存を知り、1994年夏に60年以上夢見てきた瞼の父と再会しました。山本正美氏は、この娘との出会いの1月後、亡くなりました。故正美氏の日本での妻である菊代さんに頼まれてモスクワで連絡した際、ロシア語通訳を兼ねてスドーさんにも同席してもらったのですが、奇しくも二人とも1932年6月生まれ、片やモスクワで銃殺、片や日本で獄中のちがいはあれ、共に日本人共産主義者を父に持ち、そのためロシア人妻であった母も不幸な目に遭い(スドーさんの母はラーゲリ、ヴィクトリアさんの母は戦時中に死亡)、共に日本人の風貌をもちながらほとんど孤児として旧ソ連に育った二人は、紹介した私と藤井一行教授がいるのも忘れて、良く似た境遇、父を求めての長い長い旅の物語を、ロシア語で語り合っていました。そういえばスドーさんの初来日、日本の親族との出会いも1994年夏でした。「自由」の尊さとともに、シベリア抑留や中国残留孤児問題とはひとあじ違った、日本人の責任の問題を考えさせられました。今ならさしずめフィリピンやタイの日本人孤児問題でしょうか? それが「労働者の祖国」への非合法入国と共産主義のイデオロギーで媒介されているだけに、外交問題にはなりにくいのですが。

 ロシアみやげをもう一つ。コーカサス山脈の麓、黒海沿岸でグルジア国境近くの保養地ソチまで飛びました。そこに日本人ラーゲリ体験者の生き残り寺島儀蔵さんが、ロシア人妻ナージャさんと暮らしているのです。もう90歳、しかしその若いこと、しっかりしていること、一緒に海水浴までしてきました。記憶もはっきりしていて、自分のラーゲリ体験を日本語で小説にしているそうです。もっともスターリンの別荘のあったソチ中心部からはクルマで3時間のトアプセという町の住人、すっかりロシアの大地に根を下ろしてたくましく生きる地球市民の生き仏でした。モスクワに着いた日に藤田勇さん、帰国の日に和田春樹さんと、偶然会いました。地球は本当に狭くなっていますね。昨晩日本に戻ったばかりの時差ぼけなので、今回は論文等は更新なしで、合宿所のゼミ日程のみ最新です。ああ眠い。


 1998/6/5  1万3千アクセス、ありがとうございます。下記のように、ロシア旅行で次回更新は月末になります。たぶんその時から「御礼!」でヒット数をセンセーショナルに掲げる方式は、不要になります。なぜかですって? その理由は……、次回更新のお楽しみ。

 "All natural persons are equal before the law."──これは、日本国憲法第14条の原型となったGHQ草案第13条の原文です。「すべての自然人は、法の前に平等である」としか訳せませんね。草案第16条には"Aliens shall be entitled to the equal protection of law."ともあります。「外国人は法の平等な保護を受ける」です。これに当時の日本政府が抵抗し、占領軍になんとか認めさせた現行日本国憲法の英文が"All of the people are equal under the law." 前にあった法が上にいっちゃったんですね。でも自然に訳せば「すべての人々は平等」ですよね。ところが、現行日本国憲法日本語文は、「すべて国民は法の下に平等」なんです。

 そうです。日本国憲法の"People"は、なぜかみんな「国民」と訳され、その解釈は「日本国籍を持つ者」になっているんです。これはよく知られた話かと思っていたら、私の入っているH-Japan NetのdfsjというMailing list 上で、日米両国の若者が、GHQ草案ではなくもっぱら現行憲法の日本語と英訳との関係についてあれこれ議論しています。教えてあげたいけど、チャットに加わる気はないので、敢えて本HP上で解説。詳しくは、キョウコ・イノウエ『マッカーサーの日本国憲法』(桐原書店)を読んでください。"All of the People"というのはもともとアメリカ合衆国憲法にあって、その日本語定訳は占領期でも「人民」だったんだけど、当時の帝国議会の論議で「人民という語は共産主義用語だ」という理由で「国民」にされた経緯もわかりますよ。そういえば、共産党の政治犯徳田球一・志賀義雄は獄中18年から解放されて「人民に訴う」を発しました。これこそ敗戦後日本の「ねじれ」ですよね。ただし、当時のGHQの"Aliens"に在日朝鮮人・中国人が本当に意識されていたかは疑問。むしろ白人の日本居留者をイメージしていたんでしょう。日本国憲法のGHQ草案・英文、注意深く読めば、本当に面白いですよ。

 しばらくまたロシアに行ってきます。今回は、片山潜の秘書で1930-34年にラーゲリ生活を送った勝野金政氏のご遺族らと一緒で、旧KGBや旧ソ連共産党中央アルヒーフで、獄中所持品・秘密文書等を見てきます。近親者でないと見せてくれないのです。また真夏の黒海沿岸トアプセまで足を伸ばして、今ではただ一人の日本人ラーゲリ生き残りとなった寺島儀蔵さん(『長い旅の記録』中公文庫、著者)とお会いしてきます。もう90歳で、最期のインタビューになるかもしれません。そのため6月末まで更新はありませんが、先月uploadした歴研大会全体会報告「戦後日本と『アメリカ』の影」、発刊150周年記念「『共産党宣言』の現代的意味」、インド・パキスタン核実験抗議「インドで考えたこと」を含む論文「20世紀社会主義とは何であったか」、経済地理学の「現代政治空間における国家と民主主義」、英文ジョーク"World Ideologies Explained By Cows"、まじめな資本主義論「ローザの資本蓄積論と現代資本主義のグローバル化」 、それに今回のロシア行にも関連するアグネス・スメドレーの夫であったインド独立運動家ヴィレンドラナート・チャットパディアについての「覚え書き」などがありますから、まあひまをみてごらん下さい。



1998/5/25 更新したばかりなのに、12,000アクセスになりましたので、皆様に御礼の一言。ご祝儀は何にしようかと考えて、ちょうど発売3か月になった「『共産党宣言』の現代的意味」をupload。季刊『経済と社会』第12号(1998年冬号)に掲載された150周年記念論文ですが、一緒にB・ジェソップのものも載っており、彼より私の方が採点は辛いかなあ、という感じ。無論『経済と社会』誌特集のマル経学者たちの他の論文とは、二人ともトーンが違います。でもそれは悪い政治学者に寄稿を頼んでしまったと、あきらめていただくしかありません。若い皆さん、「万国の労働者、団結せよ!」なんて言葉知ってる? そういえば、昨日歴史学研究会できいたら、歴研大会懇親会でも、1980年代半ばから、みんなで飲んでスクラム組んで「インターナショナル」を合唱するフィナーレの伝統はなくなったそうです。若い院生・学生参加者が歌えなくなったためだとか。せっかくの身体論的「ふれあい」の機会だったのに。


1998/5/24 5月23日の歴研大会全体会報告「戦後日本と『アメリカ』の影」は、つつがなく終わりました。ちょっと講座派唯物史観で育ってきた人たちには違和感のある内容・方法だったためか、前回紹介した成田龍一さんのような本質的批判・質問も出ず、むしろ夜の懇親会で大先輩たちにつかまって、あれは報告ではなくアジ演説だと冷やかされました。他方ポスト・モダンをくぐった若い人たちには抵抗なく受け入れられたのか、身長と体位計測が結構話題になっていました。もっとも「展望を示せ」という質問があったのは、さすがに歴研か。飲み会の後で、東大の木畑洋一さんから、J・ダワーの本の『パンチ』誌等の漫画はアメリカでなくイギリスがオリジナルだとのご教示。ありがとうございます。

 インド核実験への抗議を込めて、私の「インドで考えたこと」を含む論文「20世紀社会主義とは何であったか」を前回上梓しましたが、インドネシアのスハルト体制が民衆の力で倒れました。西欧中心主義に対する批判が民主主義懐疑論に及ぶとき、常にひきあいに出されたのが、シンガポールのリー・クアンユー風「開発民主主義」と、インドネシアのスハルト風「パンチャシラ民主主義」でした。そこから「アジア型指導者民主主義」とか西欧型市民社会論批判もひきだされました(岩崎育夫編『アジアと民主主義』アジア経済研究所、1997)。でもそこが、私は疑問。前回の「西欧近代の光と陰」と関係しますが、デモクラシーやヒューマン・ライトには、人類の普遍的原理を見出したいのです。スハルト体制もある種の民主主義だったのでしょうか? しばらくはこの国から眼を離せません。ちょっとこれに関係するエッセイ「現代政治空間における国家と民主主義」をupload 。5年前の経済地理学会に招かれたさいの報告要旨です。

 英語版の方は充実です。前回の"World Ideologies Explained By Cows"に続いて、先日のローザ・ルクセンブルグ・シカゴ国際会議での私の発言「ローザの資本蓄積論と現代資本主義のグローバル化」アグネス・スメドレーの夫であったインド独立運動家ヴィレンドラナート・チャットパディアについての「覚え書き」をアップロードしました。後者は、「現代史の謎解き」の特別版「今年の尋ね人」に、井上角太郎、伊藤政之助と共に収録され、広く世界からの情報提供を待ちます。 


1998/5/14 5月23日の歴研大会全体会報告「戦後日本と『アメリカ』の影」を第二草稿にヴァージョン・アップしました。といっても、カール・マルクスのようにはいかず、第一草稿のマイナーチャンジにとどまりました。そうです。マルクスに詳しい読者なら気づいていたでしょうが、第一草稿を4月にupload したのは、1871年のマルクスの名作『フランスにおける内乱』にちなんでのこと。彼はパリ・コミューンの激動の中で、状況認識をふまえつつ第一インター総評議会の声明である『内乱』を、第一草稿(4月下旬)、第二草稿(5月中旬)、成文(5月末)と仕上げていきました。公刊された最終稿=成文は、5月21-29日の「血の週間」を経たコミューン敗北の総括でしたが、第一・第二草稿は、なお労働者政府勝利のわずかな可能性を夢見ながら書き得た「現実的ユートピア」でした。「国家そのものに対する革命」「国家権力の社会による再吸収」の思想は、その草稿に記されたもので、20世紀にアントニオ・グラムシにより期せずして再興されるまで、眠っていたのです。

 そんなわけで、第一草稿への批判を期待していたのですが、残念ながらメールでの反響は、ごくささいな1件のみでした。しかし郵送で送った友人からは、鋭い意見もありました。日本女子大の成田龍一さんからいただいた「体位計測そのものが近代の身体観の枠内ではないか」という批判がそれです。そしてそれを「くらし」につないでも、戦時・戦後を貫く「近代化=現代化」の批判にならないではないか、と。おっしゃる通りです。そこが私の「近代主義」でもあります。私はまだ「近代」をトータルに否定する境地には到っていないのです。「民主主義への永続革命」もその一部ですが、やっぱり有澤廣巳的思考にも魅かれるものがあるのです。そのため第二草稿も中途半端です。大会当日に「血の日曜日」があって、最終稿で自己批判的に総括できるといいのですが……。

 インドが地下核実験。かつてデリー滞在中に、現地のNGO活動家と危惧しながら話していたことが、現実になりました。国内の近代化の矛盾を国外へとそらすのは支配者の常套手段、やはりヒンヅー原理主義系メディアは喝采しているようです。このインド新内閣が生まれる前に書いた、私の「インドで考えたこと」を含む論文「20世紀社会主義とは何であったか」、本当は1か月前に発売されたばかりの社会主義理論学会編『20世紀社会主義の意味を問う』(御茶の水書房)に収録されたもので、「発売3か月後」という本HP収録原則に反するんですが、急遽upload。御茶の水書房の橋本社長、ごめんなさい。シカゴでご案内し、一緒に飲んだアメリカン・パブの料理に免じて許してください。英語版の"World Ideologies Explained By Cows"が、Ecologism の投稿をアメリカから頂いてヴァージョン・アップしました。


1998/5/6 連休に、アメリカに行ってきました。といっても、シカゴでの国際会議出席で、バブル経済の加熱ぶりは、10年前に比してホームレスや貸しビルの空室が少ないことから推測できたのみ。それよりは、新聞でもテレビでも、日本報道がほとんどないのが気になりました。やはり10年前の異質論=バッシングの時代から、中国志向のパッシングの時代を経て、ジャパン・ナッシングの時代に入っているのでしょうか? ローザ・ルクセンブルグの国際会議はこじんまりとしたもの。ローザの蓄積論とレーニンの帝国主義論とカウツキーの超帝国主義論の現代資本主義との関わりを発言してきました。ちょうどアメリカ労働運動発祥のきっかけとなったヘイマーケット事件の記念祭があって、アメリカ左翼の現状をかいま見ることができました。アナーキズムの元気とまだアメリカ共産党(ガス・ホール!)が細々と活動しているのを見つけたのが収穫。シカゴ名物の分厚いピザは、今回は時間切れで味わえませんでした。 

 しっかりPower Bookとモデムを持っていったのに、シカゴのホテルが旧式のフロント経由の電話で、IIJ ニューヨークに入ってのメール・インターネットはできませんでした。そこで日本に戻ってMACを立ち上げ、たまったメールをチェックしようとしたら、なんとISDNがつながりません。何度もトライしたうえでプロヴァイダーの電話番号をチェックしたら、4月末に市外局番0423局 が042局に変わっていて、市内電話でテレホーダイにつないでいた番号の頭に3をつけなければならなくなったため、と判明しました。下記の通り、自宅の電話は042-327-9261、ファクスは042-327-9262に変わりました。でも広域局番に変わっても、テレホーダイの適用地域はこれまで通りなそうです。NTTのサービス、おかしいですね。連休中に98年度版「豊かさ総合指標」(新国民生活指標、PLI) が発表されたため、5月23日の歴研大会全体会報告「戦後日本と『アメリカ』の影」第一草稿をマイナー・チェンジしました。



1998/4/25 皆様、日頃のご愛顧ありがとうございます。おかげさまで、ご覧のように1万ヒットです。心配していたカウンターは、無事5桁を表示してくれました。予想外に速くアクセスが増え、アメリカ出発前の更新に間に合いました。これで後顧の憂いなく、ローザに会いにシカゴに行けます。10数年前、アメリカに初めて入国する時は、冷戦があり、CIAありで、「アメリカ帝国主義」に足を踏み入れる緊張感でいっぱいでしたが、今回は、直前まで原稿書きであわただしく、『地球の歩き方』最新版だけを愛機Power Book 520(旧い!)と一緒にもってちょっと遠出してくる、というモバイル気分。時代も自分も変わりました。そういえば、9年前の「日本=ポスト・フォード主義国際論争」の同志Rob Stevenがオーストラリアから5歳の娘を連れて、論敵Martin Kenneyがカルフォルニアから奥さんを連れて、それぞれ4月に来日しましたが、二人とも、かつてより「大人」になり、日本資本主義評価も客観的になっていました。冷戦崩壊のなせるわざでしょうか、バブル崩壊で海外の日本熱が冷めたからでしょうか、それともただ、みんな歳をとっただけなのでしょうか?

 昔の『地球の歩き方・アメリカ編』は、シリーズでも分厚い本命1冊で(対抗は『ヨーロッパ編』で、これも1冊でした)、留学中に各地を訪れるたびに、その都市の分だけ切り裂いて持って歩き、ボロボロになりましたっけ。それが今では、『シカゴ編』が1冊で出ていて、薄いパンフレット感覚でバックの片隅。海外旅行者数は、この国でバブル崩壊後も右肩上がりで伸び続ける、数少ない「豊かさ」指標の一つです。もっとも、 なぜか「規制緩和」と曖昧に訳されるde-regulation(規制撤廃)によって、向こうにいる友達に頼んで格安チケットを入手する必要はなくなりましたが、中小零細企業の多い旅行代理店業界は大変なようです。出版業界でも、いくつかの良心的弱小出版社が、銀行の貸し渋りのなかで消えていきました。「ビッグバン」が宣伝されていますが、この国の「グローバル・スタンダード」とは、実は先進国基準・多国籍企業基準であり、地球的弱者である「南」の人々や、国内周辺弱者が視野に入っていない場合が、圧倒的です。そんな現代「情報戦・諜報戦」の問題を念頭におき、前回更新で上梓した5月23日の歴研大会全体会報告「戦後日本と『アメリカ』の影」第一草稿をマイナー・チェンジ。

1万ヒットとローザ・ルクセンブルク・シカゴ国際シンポジウム出席を記念して、1991年の東京国際シンポジウムの際の私の報告「ローザ・ルクセンブルクの構想した党組織」を本HPに入れます。前回uploadした「『32年テーゼ』と山本正美の周辺」(『山本正美裁判資料論文集』「解説」)を皮切りに、昨年モスクワで収集した旧ソ連秘密文書日本関係資料にもとずく研究を、少しずつ発表していきます。あるメールで「あまり過去にとらわれない方がいいのでは」というご忠告も受けましたが、20世紀の実像を再構成することなしには21世紀は構想できない、というのが私の基本的スタンスです。フランス共産党は、今年の1月に、あらゆる傾向の歴史学者・党史研究者を集めて、自党の歴史資料の全面公開に踏み切りました(『ル・モンド』1月26・27日)。日本でもそんな日がくれば、モスクワの史料の裏付けがとれます。中にはあっと驚くようなものもありますから、乞ご期待。それで本HPの目玉、「現代史の謎解き」が活性化するといいのですが。


 1998/4/18 不思議です。とまどっています。ヒット数が改装前の倍ぐらいのスピードで増えています。やはりカウンターをトップページにおいたためのダブルアクセスでしょうか? それともマック・ロゴと天馬の御利益(ごりやく、と読む)でしょうか? でもまあ、いいでしょう。どうもいろいろサーフィンしても、カウンターはトップにあるのが結構多いですから。こっそり教えましょう。当面のライバルは、かの藤岡信勝センセイの「自由主義史観研究会」HP(なぜかここでリンクを張らず)。向こうもトップにカウンターをおいてるから、開き直ってこのままにします。でも本当は前回申し上げたように、このボタンによるフレームからの近道を推奨します。今回の更新では、5月の歴研大会報告「戦後日本と『アメリカ』の影」第一草稿と、近く豪華高価本で公刊される『山本正美裁判資料論文集』への私の「解説」という、重厚な(?)2本をuploadしています。

 困っているのは実は、次回更新が輝く1万ヒットになりそうなこと。嬉しい悲鳴ではありません。私の単著研究書の売れ行きから逆算して、たぶんこのカウンターはもともと4桁で設定してあり、それも半年も前なので、設定の仕方を忘れているのです。そう、文系のなきどころ=「技術」です。もひとついえば、連休はアメリカのシカゴ滞在で、「御礼、1万ヒット!」と切れ目よく打てないかもしれないこと。シカゴは伊藤成彦さんたちと「ローザ・ルクセンブルグ、シカゴ国際シンポジウム」です。なつかしい湖畔の宿はもちろんだけど、アメリカ経済のバブルぶりを見てこようと思います。

 えっ、「ローザって、どんなタレント?」ですって。加藤ゼミの学生ですね。人名辞典で調べなさい。「美人です」というヒントは、セクハラ・アカハラでしょうか? 上野千鶴子さん編の『キャンパス性差別事情:ストップ・ザ・アカハラ』(三省堂)を読んでたら、119頁の「国立大学女性比率一覧」で、私の勤務先が異様な位置にあることに気づきました。助手を除いた女子教員比率が3.1%と低いことではありません。これももちろん問題ですが、まあ予想通りの数字です。驚いたのは、助手を含めると比率が22.7%にはねあがること。これだとお茶の水女子大・奈良女子大につぐ全国第3位です。「灯台もと暗し」──私も名古屋大学時代は期限付き助手でしたが、助手のあり方を考えさせられました。この本、男性研究者必読です。大沢真理さんの論文、切れ味良く光ってます。

 ついに『朝日新聞』1面トップに、大学時代のクラスメートの名前が出ました。大蔵省杉井孝審議官です。こちらは「ワル」だと、リビングルームのどこかで書きました。でも、『週刊現代』の後追い記事のようで、検察のヤル気ははたして……。心配なのは、『週刊新潮』の吊革広告に写真の載った、神戸の野口善國弁護士。こちらは、正義感溢れる信頼できる友でした。学生時代から「非行」に走る少年の心に関心を持ち、卒業して法務省に入り、自ら少年院の職場を希望して少年たちにふれ、それから弁護士になって少年犯罪の弁護に尽くしてきました。いい人です。その実績から「少年A」の弁護を引き受け、記事のなかでも、少年の両親と革マル派の関係を否定しているだけです。それなのになぜ、『週刊新潮』は新聞や吊革広告に使う必要があるのでしょうか? この国の「情報戦」は異常です。


1998/4/10 9000ヒットなので、マイナーチェンジ。合宿所はにぎやかになっています。近く歴研大会報告案を部分的に掲載始めます。

4月1日のリニューアル以降、2回以上お見えになった方はお気づきでしょう。自己紹介の近況写真がちょっと変わったことを。『葦牙』誌上での論争相手、「市民のための丸山真男ホームページ」さんが、私の写真が暗くて重いのを気の毒がって、ご祝儀代わりにカラー補正・圧縮してくれました。なんと40分の1まで軽くなり、しかも見やすくなるという魔法のようなネット技、脱帽するしかありません。技術では完敗です。ありがとうございました。

 同じくリニューアルで出てきた問題。以前はカウンター頁を独立させトップにつなぐかたちだったのですが、遅くて煩わしいという声もあり、このトップページにカウンターを移しました。そしたら今度は、トップに戻って別室に入ると2回以上のアクセスになる不都合が生じました。昨年600ヒットで日経新聞前村さんから指摘された問題の再現です。そこで、このトップページHome.shtmlをブックマークしている常連の皆様にお願い(英語トップHome.htmlから入っている人は問題ありません)。上のボタンをクリックしてフレームから各室にお入り下さい。その方が早いですし、下のドアから入って生じるダブルカウントはなくなります。このWhat' Newが長くてなかなかドアまでいけないという苦情もありましたが、そんな方も、再訪の節はフレームをご活用ください。 


1998/4/1 ご覧のように、8000ヒット記念全面リニューアルです。エイプリル・フールではありません。4月1日付けですが、3月28日に8000人目のお客様を迎えて、東京のサクラの開花と共に、青空が戻ってきました。重量制限いっぱいになった二つの民間プロヴァイダーHPを組み合わせて、一方を論文・エッセイ・書評所蔵の書斎に特化し、このIIJのホームを機動性ある画像入りサイトとしてシェイプアップしました。したがって、従来の軽量ミラーサイトはなくなりました。リビングとリンク、「尋ね人」「現代史の謎解き」「加藤ゼミ合宿所」、それに英文と歴研大会特集は、こちらに残しました。新装HPですから、マイノリティ文化マックの粋をこらしました。日本語論文・書評を追加したほか、英文サイトなどをぐっと着飾って、厚化粧しました。急に重くなったようなら、メールで教えてください。そのうち元に戻します。

 丸山真男『自己内対話』(みすず書房)は衝撃! もちろん政治学・思想史の書物として無限の示唆とアイディアを喚起するという意味もありますが、私自身の思想的・学問的出発点でもある1968−69年について、丸山がかくも膨大な観察記録を残していたとは。肉声が強すぎて、毀誉褒貶の対象となるでしょう。とにかくオススメ。でも読書会向けではありません。一人でじっくり「自己内対話」しつつ読むべき書です。

 今年度は実は、大学教員になって初めての研修年、欧米で言うサバティカルです。ゼミだけ持たなければなりませんが、講義はなしで、ようやくベルリン反帝グループ研究の本の執筆に専念できます。もっとも合間をぬって、アメリカ、ロシア、ヨーロッパへの調査旅行が入ります。そのつど更新が途絶えると思いますが、日本にいる時はこれまで通り、大体10日に1遍のペースで、update していく予定です。リフレッシュした本HPを、今後もよろしく。



Back to Library

Back to Home