LIVING ROOM 7 (July.-Dec. 1999)

 ここには、<What's New>で定期的にトップに現れた、本ホームページの作成過程、試行版への反響、更新の苦労話、メールへのご返事、ちょっといい話、外国旅行記・滞在記などが、日誌風につづられます。趣味的なリンクガイドも兼ねます。ま、くつろぎのエッセイ集であり、対話のページであり、独白録です。日付けは下の方が古いので、逆読みしてください。



1999年はお世話になりました。20世紀最期の素敵な初夢を見てください!

 1999.12.20 ようやく冬休み前の最後の講義を終えて、中央線に飛び乗りました。小淵沢あたりから吹雪いてきて、塩尻ではすっかり銀世界。そこで名古屋方面に乗り換え、南木曾の駅から妻籠の宿へ。島崎藤村の生まれ育った一帯です。お会いしたのは、藤村の兄広助のひ孫で、カナダからわざわざやってきたレスブリッジ大学教授島崎博教授です。この地は初めてではありません。私の国崎定洞研究と旧ソ連日本人粛清犠牲者研究の結節点に位置する勝野金政の出身地であり、勝野家に残された貴重な資料を見に、幾度か足を運んでいます。その勝野家に、南木曾町の町興しを助けにやってきたカナダ国籍の文化地理学者島崎さんが逗留するというので、私も一緒に招かれたのです。

 島崎藤村の『夜明け前』は、日本近代の幕開けを描いたものとされていますが、木曾檜のうっそうと茂るこの地域は、藤村記念館のある馬篭の宿場を含めて、むしろ近代に入ってさびれてきました。交通の中心は東海道と新幹線へ、林業従事者は減って若者は都会へ。その未開拓の自然を逆手にとって、戦後の町興しが始まりました。ソ連でラーゲリ生活を送って九死に一生を得た元片山潜秘書勝野金政は、この地に疎開してきた文化人米林富雄・関口存男らの助力を得て、木曾産業学校を興し、民主連盟という政治組織も作って、郷里の<民主化>を図りました。戦前御料林問題(地元民の皇室林伐採問題)で村民のために奮闘した、妻籠本陣島崎広助の精神の再興です。昭和21年には全国最初の公民館が開かれ、封建制打破の社会調査や演劇活動が行われました。1960年代後半、全国で進む高度成長・工業開発の流れに棹さして、妻籠は、宿場の街並み保存を敢えて行い、後に全国に広がる街並み保存運動の先駆となりました。全住民参加の「妻籠を愛する会」の民主的討議で決められた「妻籠宿を守る住民憲章」(1971年)には「保存優先の原則」「外部資本から妻籠を守る」がうたわれ、「保存的開発」の思想が生まれ、「妻籠コミューン」と評されました。「保存的開発」──そう、"Sustainable Development" が世界の合言葉になる20年以上前に、エコロジーは、日本語で表現されていたのです。南木曾町観光課・博物館の皆さんも交えて、島崎教授と夜まで交流。地球全体の流れにそって、南木曾の21世紀ルネサンスは、緑と宿場を元手にいっそう展開できそうです。そういえば、前回紹介したイギリス"Socialist Register 2000"のミレニアム・ユートピアには、C・ダンカンの「『農』こそ歴史とエコロジーと実現可能な社会主義の中心なり」というテーゼが入ってましたっけ。これに『林』も加えておきましょう。いい初夢を、見られそうです。

 沖縄普天間基地の移設予定地、沖縄本島名護市も、美しい海を残しています。朝日新聞・沖縄タイムズ共同世論調査では、名護市民の59%が移設反対とか。妻籠のように、景観と地場産業を守っていきたいものです。冬休み中に、もう一度沖縄に出かける予定。年末にいただいた2冊の本、有田芳生さんの『闇の男 上祐史浩』(同時代社)と宮本太郎さんの『福祉国家という戦略』(法律文化社)。前者は「終らないオウム真理教」と副題してドキュメンタリー風に、後者は「スウェーデンモデルの政治経済学」のサブタイトルで理論的に、共に「流行」のピークの過ぎた問題を、じっくり後追いし、詳しく跡づけています。宮本さんの秀逸な論文「福祉国家の世紀と政治学」などを収めた日本政治学会年報1999年版『20世紀の政治学』も刊行(岩波書店)、正月にじっくり味わいましょう。Academic Resource Guide第47号(11月25日発行)の拙稿「デジタル・カレッジの夢と逆夢」には、様々な反応がありました。URLを活字にしてもすぐに変わるから文献注並みに扱うわけにはいかないという意見、デジタル討論は無責任なチャット方式になりがちだから雑誌・書籍での論争と同列には論じられないという悲観論、いや技術的にはデジタル本人確認や音声翻訳は十年もたたずに確固たるものになるという楽観論。みんな、結構まじめに夢を見ていることがわかりました。7万ヒット記念のリンク案内更新ほか、本HPのバージョン・アップは新年号へ。一橋大学学生向けに、来年度ゼミ・講義案内を入れておきます。


 7万ヒットありがとうございます! 加藤哲郎研究室にようこそ! せっかくのミレニアムです、大きな夢を見てみませんか?

 1999.12.10 先日Academic Resource Guide"第47号(11月25日発行)に「デジタル・カレッジの夢と逆夢」を寄稿したんですが、12月6日付『朝日新聞』によると、すでにこの夢は、正夢になっているようです。名古屋市在住のアメリカ人ボウマンさんの通っている「ジョーンズ国際大学」がそれ。学士・修士の42のコースを持ち、世界30か国から600人が通っているとか。早速Yahooから入って見学すると、「First Accredited Cyber University」と銘打った、なかなかのもの。いいですねえ。夢があります。年末に入って、やたら「ミレニアム」が流行ってきました。どうせなら千年王国風の、大きな夢をみましょう。国境も戦争もなく、搾取も抑圧もない、自由で平等で友愛あふれた宇宙社会の夢を。ミレニアムの千年スケールでは、20世紀に栄えた社会主義とか共産主義とかも、小さな小さな夢。たかだか200年足らずで色褪せたのですから。最新のイギリス社会主義年報誌"Socialist Register 2000"は、面白い特集を組んでいます。曰く「必要なユートピアと不要なユートピア(Necessary and Unnecessary Utopias)」。テリー・イーグルトンが『ロビンソン・クルーソー』『ガリバー旅行記』からウィリアム・モリスにいたる18・19世紀ユートピアとマルクスを対照し、F・ハウクがフェミニズムの入ったイマジネーション溢れるユートピアの必要性を説き、C・ダンカンが農業こそ歴史とエコロジーと実現可能な社会主義の中心なりと宣言したりと、世紀末に生き残った社会主義者たちの夢とファンタジーの競演です。もちろん遺伝子操作を「現代のdystopia」と告発するV・バースティン、「市場社会主義でなく市場の社会化を」と説くD・エルソン、ブレア=シュレーダー=ギデンスの「第3の道」を怪物キメラに譬えその矛盾をつくA・ツーゲなど、時流への反骨・批判精神も旺盛です。中でも面白かったのは、世界の「周辺中の周辺」メキシコ・チャパス州でのサパティスタ解放戦線をインターネット上と現実の両面から追いかけたJ・A・ヘルマン「現実のチャパスとバーチャルなチャパス」、21世紀に始まる次の千年には、夢でも逆夢でも、インターネットが組み込まれざるをえないことがわかります。翻訳は出ないでしょうから、英語を読める人はぜひ一読を。そして、思いっきり想像力豊かな夢をみましょう!

 前回挿入して好評だった、沖縄県名護市出身の画家宮城與徳の絵を、もう一枚お目にかけましょう。「魚」と題された故尾崎秀樹所蔵の作品。東京芸大美術館所蔵名品展の目玉で「見たことあるでしょ、教科書で」とチケットにも印刷された、高橋由一「鮭」のリアリズムに負けていません。沖縄宜野湾の古本屋で大量に買い込んだ本を読んでいくと、いろいろ面白い話がでてきます。終戦で取り残され日本から見放されたのは、沖縄・小笠原だけではありませんでした。奄美大島も米軍に占領され、日本国憲法は及びませんでした。そこで奄美の共産主義者たちは、1947年2月、日本共産党からも自立した非合法奄美共産党を創設し、奄美人民共和国の樹立と日本に人民共和国が出来た場合の連邦国家づくりをめざしました。綱領に曰く「奄美人民共和国憲法の制定、戦争被害の賠償を日本政府に要求し、奄美の経済復興を図る」。奄美大島は「本土」独立より遅れて1953年12月25日に日本領土となりますが、実はこの奄美共産党の残党は、米軍政が残った沖縄に組織を広げ、沖縄人民党とは別に、非合法の沖縄共産党結成を援助したようです(松田清『奄美社会運動史』、高安重正『沖縄奄美返還運動史』)。今日の日本共産党公式党史には出てきませんが、沖縄の郷土史家には常識なようで、非合法党機関紙『民族の自由と独立のために』も見せてもらいました。私の短期間の沖縄訪問が、地元新聞・テレビで大きく報じられたのには、そんな独特の土壌があったからのようです。その自立の精神は、米軍普天間基地の名護市移転への反対運動にも、受け継がれています。写真上の私のバックがヘリポート候補地、名護市辺野古のキャンプ・シュワプで、下がその米軍基地境界(国内国境!)ぎりぎりに立つ「命を守る会」事務所です。沖縄にも「本土」にも軍事基地がなくなる「夢」は、15年では無理なようですが、ミレニアムではなく、せめてセンチュリーにしたいものです。

 12月6日、当HPは、7万ヒットを記録しました。正確には危機管理用ミラーサイトNifty研究室があり、さらに千数百プラスです。日頃の皆様のご愛顧のおかげです。厚く御礼申し上げます。もっとも個人HPの世界も成熟に向かいつつあり、栄枯盛衰は世の常です。政党や官庁サイトを別にすれば、超ビッグサイトである老舗立花隆「同時代を撃つ」が100万ヒット目前で足踏みしているうちに、後発野口悠紀雄On Lineは116万ヒットになって、あっさり追い越してしまいました。個性的な政治サイトでは、宮崎学さんがバーチャル政党「電脳突破党」を結成し、68万ヒットと疾走中です。学問的個人サイトでも、大阪府立大森岡正博さん"Life Studies Homepage"は、信州大学立岩真也さん「生命・人間・社会」HPに続いて、ついに10万ヒットを超えました。大いに学ばされます。今春発足した日本共産党内討論サイト「さざ波通信」さんも、マメな更新で、すでに3万5千をこえました。明治学院大学加藤秀一さんの「思考する惑星」研究室に近接しています。かつて当サイトとアクセス数を競った自由主義史観研究会HPは、西尾幹二『国民の歴史』販売の方に力を割いたのか、やはり内容がイマイチなのか、ウェブ上では低迷2万7千です。当HPヒット数7万に近いのは、最近沖縄の比嘉さんから教わった独立琉球国HP、末永く共存したいお勧めサイトです。これらの状況を踏まえ、7万ヒット記念も兼ねて、年末にはリンク案内ほか全体を大幅バージョン・アップの予定です。この数ヶ月間に発表された私の論文・エッセイ・書評も、同時にアップロードします。乞うご期待! 一橋大学学生向けには、来年度ゼミ案内と今年度「政治と社会」「政治学」講義情報を入れますので、ご注意を。


米軍基地移設を「受け入れた」沖縄、でもそれを強いてきた「本土の戦後」って、何だったのでしょう?

 1999.11.30 師走の助走で猛烈に忙しいのと、予定より遅れてアップした下記の沖縄紀行が好評で、Academic Resource Guide"第47号(11月25日発行)へのデジタル寄稿「デジタル・カレッジの夢と逆夢」も掲載されたばかりなので、今回のトップ全面更新は一服します。Perry Andersonのアドレス、柳沢さんからご教示いただきました。沖縄の大峰さんからは、『沖縄タイムズ』11月23日号文化欄に載ったという私の研究のコラム記事送っていただきました。ありがとうございました。
1999.11.23
 まだ暑い沖縄に、行ってきました。米軍普天間基地も、その移転候補地辺野古の海も、この眼でしっかり見てきました。ちょうど本土から野中前官房長官がやってきて、稲嶺沖縄県知事は、名護市辺野古のキャンプ・シュワブを代替地に正式決定しました。つまり米軍ヘリポート基地は、沖縄から沖縄へのたらい回しです。「15年の期限付き」なんて、実際にはありえません。アメリカ軍は、運用40年・耐用200年で基地を設計するのです。太田前知事の無念の話を聞きながら、「悲しい祖国」を考えざるをえませんでした。思えば沖縄が日本国憲法下に入ったのは、1972年、佐藤内閣の時でした。かつて造船疑獄を指揮権発動で切り抜けた佐藤栄作は、交渉による沖縄返還で、日本人初のノーベル平和賞を受賞しました(74年)。しかしそれは、核付き・基地付き返還でした。島の生活は「本土並み」になりませんでした。今でも失業率は「本土」の倍で8%以上、レンタカーで本島を回ると、基地の広さに驚かされます。日本全土の0.6%の土地に、75%の米軍基地が集中しています。辺野古のキャンプ・シュワプ沖は、ジュゴンの棲息するサンゴの海です。その浜辺にも、鉄条網の長い「国境」が敷かれていました。かつて名護出身の画家宮城與徳が描いたような漁村ののどかな風景(写真)は、基地の周辺では消えていました。

 でも沖縄の人々にとって、環境・生態系破壊が第一義的問題ではありません。普天間の米軍基地が返還されても、「本土の日本人」は無関心で、日米安保条約のツケを、またしても沖縄に押しつけました。沖縄本島の南北問題(地球的規模とは反対に、北部の未開発)を利用して、住民の間に分断を持ち込んだことが、何ともやりきれません。来年の沖縄サミット会場も名護市で北部開発の「アメ」付き、どうやら現地では失敗だったと総括されている復帰直後の海洋博と、同じパターンを辿りそうです。「サステイナブル・ディヴェロップメント」は、地球的規模では「環境か開発か」の20世紀的妥協です。しかし沖縄は、なお「米軍基地か開発か」で世紀末の折り合いを迫られているのです。返還交渉で佐藤栄作の密使となり、ニクソン=キッシンジャーとの有事核持ち込み密約の当事者となったのは、「政治と情報」に書いたように、故若泉敬氏(当時京都産業大学教授)でした。その若泉教授は、ガンに冒された晩年、歴史的事実を記録に残しただけでなく、「沖縄の人々に申し訳ないことをした」といって、贖罪と戦没者供養のために幾度も沖縄を訪れたそうです。「本土」の私たちが、この決定を痛み悔悟する日は、21世紀のいつになるのでしょうか?

 私の『日本史のエッセンス』の戦後通史では、本土と対比しつつ、沖縄の「戦後」に相当の紙数を割きました。編者となった『日本史辞典』(岩波書店)でも琉球・沖縄関係の項目を意識的に採用し、それは23日付け『琉球新報』でも評価されたようです(岩波書店の新村さん、ご教示ありがとうございます!)。つまり類書よりは沖縄を重視してきたつもりでしたが、しかしそれは、あくまで並列にすぎません。もう一歩踏み込んで、沖縄やアイヌを組み込み内在化した「日本史」が必要です。前回更新の際、「政府の日の丸強制には、万国旗で対抗しましょう!」と提唱しましたが、もともとアジアの海洋交易国だった琉球王朝は、太田昌秀前知事によれば、「非武装全方位外交」をとってきたそうです。その延長上に、「本土」の歴史家鹿野正直さんが「『沖縄』と『琉球』のはざまで」呼称の選択をためらった、翻弄された近代史があります。沖縄の人々は自由に使い分けているのに(『戦後沖縄の思想像』朝日新聞社1987)。琉球大学比屋根照夫教授と、夜遅くまで話しあいました。日本社会の抱える「国際化」や「異文化コミュニケーション」の問題領域においても、沖縄こそ最も先進的・先駆的な地域だったのではないか、と。 

 実は今回の沖縄訪問、異様に忙しい旅でした。那覇空港に着いたところでレンタカーを借りましたが、事前に連絡した沖縄民衆史研究者にして平和運動家の大峰林一さんとの待ち合わせ場所は、地元紙沖縄タイムズ社のロビー。もともとゾルゲ事件で獄死した画家宮城與徳の『遺作画集』(沖縄タイムズ社、1990)を入手するためだったのですが、大峰さんに出版部・文化部・社会部と案内され、おみやげに持っていった沖縄出身旧ソ連日本人粛清犠牲者資料の説明を求められました。その中に、アメリカに移民して社会運動に加わり、ロングビーチ事件で国外追放となり、ソ連に亡命して「日本のスパイ」として銃殺された「アメ亡組」5人の一人、又吉淳の未発表自叙伝が入っていました。可能ならご遺族に届けたいといったら、その場で大峰さんと記者が具志川市の又吉家に連絡・手配、翌朝の私の訪問をセットしました。それから大慌てで沖縄移民史、アメリカ日系社会史、沖縄民衆運動史をにわか勉強。翌日大峰さんに案内され出かけたら、地元の名家又吉家には、たくさんのご親族が正装して勢揃い、新聞のみならず沖縄テレビも取材待機中。なんとかつつがなく、又吉淳の手書き自叙伝を含む新資料を、ご遺族に手渡すことができました。翌11月20日付『沖縄タイムズ』は、「スターリン粛清に遭った又吉淳さん、スパイの容疑晴れる、手書き履歴書遺族の元に、加藤一橋大学教授が発見」と仰々しくカラー写真入り社会面9段、トップの「動くか普天間、基地なくなる日を確信」と並ぶ、大きな記事となりました。ちゃんと読みたい人のために、記事をズームアップ。同日夕の沖縄テレビでも放映されたそうですが、私自身は聞き取り調査に疲れ果て、オリオンビール・泡盛付きゴーヤーチャンプル・ラフテーに囲まれて、番組を見ることはできませんでした。

 具志川市の又吉家のみならず、名護市の宮城與徳と従兄與三郎(又吉と同じ「アメ亡組」粛清犠牲者)のご親族にもお会いし、事情を知る95歳の古老に話を聞いて、沖縄における「移民」「越境」の意味、そのアイデンティティとインターナショナリズムについて、実感することができました。同じ「アメ亡組」島袋正栄も名護の出身でした。小さな集落のほとんどの家が移民した家族を持つ例も、珍しくありません。特に強烈だったのは、「アメ亡組」中ただ一人、デッチアゲの「日本のスパイ」容疑を否定し、拷問に屈せず自白を拒否し続けて、即時銃殺刑ではなくラーゲリ送りとなったために、今なお行方不明のままの照屋忠盛の調査。ご遺族にはお会いできませんでしたが、やはり名護地方の出身。忠盛の父照屋忠栄は、沖縄戦中の1945年4月24日、当時村人・子供たちに慕われた国民学校の校長先生でしたが、ちょっと耳が遠く戦時に軍人をうまく応対できなかったため、日本軍から「アメリカのスパイ」と疑われ、日本軍人の手で虐殺されていました。アメリカに渡った実子忠盛のソ連での運命も知らないままに。地元の古本屋で入手した『鎮魂譜──照谷忠英先生回想録』(青い海出版、1978)と手元の旧ソ連秘密資料「照屋忠盛ファイル」を照合すると、悲劇の父子の新しい物語に展開しそうです。大峰さん、比屋根教授の話も重要な手がかりで、私の「20世紀の謎解き」は、沖縄という新しいフィールドを得て、「終わりのない旅」になりそうです。お二人に感謝しつつ、自問しました。20世紀の悲劇の犠牲者たちを育んだ名護の町に、なぜ21世紀まで「本土」のしわ寄せをおしつけなければならないのか、と。

 以上を予定より遅れて23日にアップしたら、早速沖縄在住の比嘉政隆さんから、激励と連帯のメールをいただきました。ネチズン冥利に尽きます。ありがとうございました! 本HPではおなじみの"Academic Resource Guide"第47号(25日発行)に、私の新稿「デジタル・カレッジの夢と逆夢」が掲載されました。もともと『歴史評論』10月号の拙稿「インターネットで歴史探偵」が雑誌出版社の版権で転載不能になったための代替原稿。出版社の版権と、著者の著作権と、インターネットの著作権の関係を考えてみましたが、まだ結論は出ません。乞う、ご笑覧!


「ベルリンの壁」崩壊十周年、「弱い個人」だって歴史を動かせるのです! 「日の丸」の代わりに万国旗で祝いましょう!

 1999.11.9  更新は10日ですが、敢えてこの日付にします。そう、11月9日は、1989年の「ベルリンの壁」崩壊10周年。名もない普通の市民の力が歴史を変えることを、まざまざと示したあの日の記憶のために。10年前の今頃、私はテレビにかじりつき、涙をこぼしていました。そう、ベルリンは私にとって第二の故郷、青春をすごした街で、思想遍歴の原点だったからです。この写真は、9月にフリードリヒ・シュトラーセ駅の売店で買ったドイツの雑誌、当時の合い言葉「Wir sind das Volk! ( われわれこそ人民だ!)」の息吹が伝わってきます。自己紹介の玄関に入った方はご存じのように、私は1972-73年、DDR=今は亡き東ドイツに留学していました。「ベルリンの壁」のすぐ内側に住み、毎日「壁」を見ながら生活していました。1968-69年学生運動の頃はマルクス主義を学んでいましたが、DDRの現実を見て「現存社会主義」に大いなる疑問を持ち、スターリン主義の本格的批判とネオ・マルクス主義の理論研究を始めたのです。その頃知り合ったディーター・フクスという当時の東独内反体制青年の話は、『東欧革命と社会主義』「あとがき」に書きました。彼の行方は、未だにわかりません。やはり「壁」崩壊を見ずに「消されて」しまったのでしょうか? ドイツはその後「 Wir sind ein Volk!(われわれは一つの民族だ)」の方へ向かい、ベルリンも大きく変貌しました。しかし10年前にようやく獲得された自由は、とりわけ旧東ドイツ市民にとっては、かけがえのないものです。この日は実は、『コミンテルンの世界像』所収「歴史は音をたてて流れる」に書いたように、国崎定洞遺児タツコ・レートリヒさんの誕生日でもあります。今年で72歳、「壁」のあった時代、私と一緒に「東」へ入ることをかたくなに拒んで、チェックポイント・チャーリーで別れた彼女も、「壁」の崩壊でモスクワで粛清された父の無実の証拠書類を得、今では旧東地区の劇場の大ファンです。1989年を「東欧市民革命」と特徴づけた私の説に批判があることは承知しています。でも、私やタツコさんにとって、それはやはり「革命」であり、主人公は無名の「市民」たちでした。Buergerliche(ブルジョア的)ではない、Zivillgesellschaft (市民社会の形成でした。

 先日いただいた金子勝さんの『市場』(岩波「思考のフロンティア」)、コンパクトに金子さんの考えがわかる、刺激的で啓発的な書物です。ただし『思想』10月号の対談で井上達夫さんとも意見が対立したように、これまでの社会科学は「強い個人」を仮定しているが「弱い個人」を前提に理論を構成すべきだ、という金子さんの論点については、政策論として言いたいことはわかりますが、やはり納得できません。丸山真男の「自立した個人形成=永続民主革命」とも関わりますが、「デモクラシー=デモスのクラティア(人民の権力!)」を原理的に構成するさいには、強いも弱いもなく「シチズン(市民)」を想定せざるを得ず、むしろその範域を国境をも越えて普遍化し、「市場」を超えた生産過程や生活世界に深化するところでこそ、「セーフティネット」も「自分たちのもの」として機能するのではないでしょうか? 「強い個人vs弱い個人」の理論設定が、かつてのレーニン風「ブルジョア民主主義vsプロレタリア民主主義」のようにならなければいいのですが……。もっとも自自公連立政権の初仕事は、介護保健法のお手盛り実質改変、そもそも家族だけではまかないきれないからこそ「法」でセーフティネットを作ったはずなのに、またしても家族介護の美風なる「昔の名前」が出てきて議論は振り出し。認定方法・自治体負担を含め介護保険に問題が多いのは事実ですが、どうやらこの12日の現天皇即位十周年記念式典でまた一歩強まる「君が代・日の丸」強制の動きと、連動しているようです。先日の西村「核武装」発言も確信犯的アドバルーン、憲法調査会の動きが気がかりです。先日新聞に小さく載った記事によれば、かの東海村JCOは、バケツにいれたウランを溶解を早めるため電気コンロで暖めていたとか。商工ローンにも取立て裏マニュアルがあったようですが、この国の動きを「市民」の方に取り戻すためには、地域でも職場でも、日本国憲法という公式「表」マニュアルに立ち返る必要がありそうです。この点で感動的なのは、ベアテ・シロタ・ゴードン『1945年のクリスマス』(柏書房、1995)、22歳のGHQ職員として日本国憲法に男女平等条項を書き込んだ女性の自伝です。キョウコ・イノウエ『マッカーサーの日本国憲法』(桐原書店、1994)とあわせて読むと、1945年に生まれた日本「市民」、89年ベルリン「市民」の心が「復初」できます。いっそ政府の「日の丸」強制には、万国旗を飾って対抗しては? 「日の丸」もありますから、文部省も文句はいえないでしょう。大学の入学式・卒業式なら、留学生たちの心もなごむことでしょう。外務省ホームページには「世界の国旗」というそんな部屋があります。みんなで好きな世界の旗をゲットしてきましょう! 英語ページ には、11月12日でなく11月9日を祝って、日本国憲法英文から前文・9条をアップ!

 前回「文化の日」特集は予想外の大反響、たくさんのメールをいただきました。ただし目玉の尋ね人「二宮周」情報は、残念ながらありませんでしたが。戦後の共産党参院議員須藤五郎では、と小樽商科大の今西一さんから言われましたが、残念ながら違います。たしかに須藤も東京音楽学校卒・宝塚音楽監督でしたが、ヨーロッパ渡航時期が異なります(須藤は34年)。と、ここまで調べて、須藤らが戦後すぐに宝塚歌劇団労働組合を結成、タカラ・ジャンヌの春日野八千代・天津乙女を副委員長にした初代委員長だったことに思い当たりました。須藤自身は故人ですが、宝塚労組の歴史を調べれば「二宮周」が見つかるかもしれません。今まで音楽史・ショー・ビジネス史で宝塚ものを漁ってきましたが、どなたか戦後の宝塚労組の文献・資料をご存知の方はご教示を! 実は今西さんと会ったのは、東京女子大での日本思想史学会「丸山思想史学の地平」シンポジウムのあとの報告者安丸良夫さんを囲む慰労会、シンポジウムはなかなか刺激的な討論でしたが、フロアからは誰も参加できなかったのは残念。私の政治学の師田口富久治さんが、『思想』9月号、立命館大学『政策科学』7巻1号(10月)に丸山真男論と最近の丸山批判への反批判を書いていますが、田口さんら丸山から実際に教わった人々と、テキストの裏読み(田口さんによれば誤読)から「国民主義者丸山」を見出し批判する人々との断絶は、相当深いようです。私自身は、むしろ20世紀の読み直しの中で、鳥瞰図と虫瞰図の間隙を埋めていこうと思いますが。

 私の「エルゴロジー」の主張に重要な根拠を提供する「人類働態学会」ホームページが立ち上がりました。まだ建設途上で、親の国際学会の方は「International Ergonomics Association」になっていますが、「エルゴロジーの思想の普及には、拠点になるでしょう。親戚筋の「労働社会学会」HP「協同社会研究会」HPと共に、よろしく。「全大教近畿ホームページ」「独行法反対首都圏ネットワーク」には、次々と国立大学独立法人化問題のニュースが更新されています。『大原社会問題研究所雑誌』11月号で拙稿「第一次共産党のモスクワ報告書(上・下)」が完結しましたから、『アエラ・ムック マルクスがわかる』の拙稿と共に、3か月後の来年早々、HP上で公開する予定です。メールで問い合わせのあった『歴史評論』10月号への寄稿「インターネットで歴史探偵」は、雑誌版元の版権のために、1年間はネット上に公開できないそうです。注はURLばかりのネチズン向け原稿なのに、不合理ですよね。私も編者で発売された『日本史辞典』(岩波書店)の方は、HP公開にはなじまない大著です。もっとも"Encyclopedia Britanica"がついにHP上での百科事典公開を決断し、とたんに一日百万ヒットでダウンし中断していましたが、どうやら再開したようです。日本の百科事典や事辞典も、現在のCDROMの形から、やがてはHP上でも活用できるようになるでしょう。次回更新は、うまくつながったら沖縄からの予定。


芸術の秋を「日の丸」抜きで!  もう一度、今年の尋ね人「二宮周」の情報提供をよびかけます!

 1999.10.30 外国滞在中なら時間があればせっせと通う美術館や演劇・演奏会、日本にいると、滅多にいきません。理由は二つ。時間がとれないこと、他国に比して極端に値段が高いこと。さらにいえば、グローバル・スタンダード級は東京都心に集中していて、多摩住民には敷居が高いこと。それでも「文化の日」(実は明治天皇の誕生日!)も近いので、大学祭で講義のない一日、「日本文化」のはしごをしました。まずは上野の森で美術三昧。恒例の独立美術協会「独立展」が開かれているため。お目当ては、招待状を送ってくれた鳥居敏文画伯の絵、今年もみずみずしい青年の姿を「めぐりあい」と題して描いてくれました。この絵を描いた鳥居さん、実は国崎定洞らの1930年代在独日本人反帝グループの、(経済学者喜多村浩さんとならぶ)数少ない生き証人です。1908年生まれですから91歳、円熟していますが常に若々しく、青年群像が鳥井さんの本領です。初めてインタビューしたのが、10年ほど前の「独立展」の時、盟友竹谷富士雄と共にベルリン・パリで活動したことを、宇佐見承『池袋モンパルナス──大正デモクラシーの画家たち』(集英社文庫)で知って、今回と同じ東京都美術館の展覧会場でお会いしました。最初に緑を基調とした青年たちを描く絵を見せてもらったうえで、国崎定洞や勝本清一郎らと一緒だった在独日本人反ナチ運動のこと、佐藤敬らとすごしたパリを、コーヒー一杯で長い時間、なつかしそうに話してくれましたっけ。以来、展覧会のたびに招待状をいただき、日本に居れば必ず観るようにしています。今回の出品作「めぐりあい」も、まさに「大正デモクラシー」の精神溢れる、力強い絵です。昨年多摩美術館での個展でお会いした際、詳しくうかがったのが、現在特別室「1999年の尋ね人」に入れてある「二宮周(にのみや・しゅう)」のこと。神戸出身の医者の息子で、30年代半ばに帰国後、戦後まで宝塚の音楽監督をしていたそうで、鳥居さんは一緒にベルリン反帝グループの活動をしていたと証言してくれましたが、残念ながら、未だに関連情報はありません。これを機会に、特に関西方面からの情報提供をよびかけます。

 実は、このワイマール末期在独日本人反帝グループ研究のおかげで、政治学という生臭い学問世界に生きてきた私も、多くの芸術家の方々とお会いすることができ、それら関係者の方々から、芸術鑑賞の機会を与えられています。旧ソ連粛清犠牲者勝野金政の息子さんの勝野眞言さんは彫刻家で、先日も日本橋三越で個展を見せていただきました。ベルリン反帝グループの根本辰の姪にあたるピアニスト山根弥生子さんの演奏会は、いつも特等席で聞かせていただいています。関係者には画家・美術評論家も多いので、マスコミで脚光を浴びている「東京芸大美術館所蔵名品展」にも足をのばしましたが、こちらはきら星の如く並ぶ大家たちの卒業制作等がならんでいましたが、いま一つ感動できませんでした。まずは平日なのに観客がいっぱいで、展覧会場内も長い行列、NHKと日経新聞社後援のせいか、会社のお偉いさんや上流夫人風のグループが目立ち、著名な画家の絵の前はおしゃべりでざわざわ、とても鑑賞の雰囲気ではありません。宣伝文句も気に入りません。「見たことあるでしょ。教科書で」と、芸大エリート臭が紛々。展示画にもいちいち教科書風解説がつけてあって、絵そのものを味わう前に、先入観を植え付けられます。そのうえ最初の日本画室入口を飾る巨大彫刻は、竹内久一「神武天皇立像」──私のメキシコ滞在中に決められた日の丸・君が代法制化や、政府が11月12日に強行するという天皇在位10周年記念式典を想い出し、興醒めでした。もちろん日本画から洋画への動き、洋画の技法の近代化・抽象化の歴史がわかり、「教科書」風には楽しめる展示ですが。口直しに、上野公園口の西洋美術館まで戻り「オルセー美術館展」、こちらはパリの雰囲気で、19世紀風におちつきがありました。会場毎に喫茶室をはしごしているうちに時間切れ、根津の竹久夢二弥生美術館再訪は、またの機会としました。

 私の「文化の日」のハイライトは、夜の部、新宿初台の新国立劇場観劇にありました。村井国夫主演「ブレヒト・オペラ」A席6500円也です。これも実は在独日本人反帝グループがらみ。国崎と共にグループの中心の一人だった千田是也の追悼公演だったからです。千田さんには、生前幾度もインタビューしました。最初は私が20代の時、飯倉のお宅の書斎でベルリン時代の史料を見せていただき、貴重なドイツ語の本も借りました。94年12月に亡くなる二日前にも「国崎定洞生誕百年の集い」に来ていただき、一緒に講演しました。ベルリン在住のタツコ・レートリヒさんが知る、数少ない日本人が千田さんでした。俳優座劇場での告別式に列席したら、すぐ前に喪服姿の栗原小巻さんがいて、意外に小柄で華奢だったのが、妙に印象に残っています。今回「ブレヒト・オペラ」が初演される新国立劇場創設は、千田さんの最期の大仕事でした。実は、千田是也についても、モスクワでみつけた史料に、いくつか記述があります。国崎定洞がドイツ共産党日本語部創設にあたってモスクワ=コミンテルンの片山潜に送った報告書にも、野坂参三の英語書簡にも、千田さんのことが出てきます。千田さんが生きていたら、すぐにでもお会いして一緒に解読してもらえたのですが、もはやそれはかないません。まだ解読中で、ご遺族にもお渡ししていませんから、ここでは史料の公開は差し控えます。でも1930年代初頭、千田さんがモスクワ・ドイツ・日本を結ぶ国際連帯運動のキーパースンの一人であったことを示す記述があります。二〇世紀の歴史の一齣です。実はこれは、「ブレヒト・オペラ」の主題の一つです。33年1月ヒトラーの政権掌握で、ユダヤ人妻を持つベルトルト・ブレヒトは、亡命生活に入ります。デンマーク、パリ、スウェーデン、フィンランド、モスクワと旅して、アメリカ・ロスアンジェルスにおちつきますが、その間の妻ヘレーネ・ヴァイゲル及び女性協力者たちとの複雑な関係が彩りで、ヴァルター・ベンヤミンとの私的交流も入ります。反ファシズム亡命者の心情と、外国人を妻にした芸術家の反骨の芝居作りが、千田是也の人生にオーバーラップします。「異邦人」で沢田研二に佐野碩を演じさせた斎藤憐さんの脚本はメリハリがあり、佐藤信さんのテンポの早い演出もわかりやすいものでした。しかも斎藤さんのシナリオの下敷きは、東京外語大谷川道子さんの『聖母と娼婦を超えて──ブレヒトと女たちの共生』(花伝社、1988年)。谷川さんは、学生時代に一緒に『東京大学新聞』を編集した仲間の紅一点、同じ頃に私も花伝社から『ジャパメリカの時代に』を出して、一緒に一晩出版記念会と称して飲み明かしましたっけ。久しぶりで「文化」を満喫。次の楽しみは、10月31日東京女子大学での日本思想史学会主催公開シンポジウム「丸山真男思想史学の地平」、尊敬する友人水林彪さんや先輩安丸良夫さんが報告します。

 前回「インターネットで社会運動」にしようとよびかけた国立大学独立法人化問題、続けてくれという要望がきたので続報。速報サイトなどによると、一橋大学石学長・名古屋大学松尾学長らが、雑誌『未来』のアンケートに回答を寄せています。九州地区国立大学学長会議での文部省回答は、現在の文部省の考えを知る重要なソース。今後の検討に大きな内容的影響を与えそうなのは、東京大学が最近発表した「東大の経営についての懇談会最終報告」。見逃せないのが、一見関係なさそうな文部省通達「学校における国旗及び国家に関する指導について」、これで新潟大学がすでに決めたように11月12日に全国の大学で日の丸があがるようなら、「独立」の内実はたかが知れています。反対声明や抗議メールは、文部省HPのメールボックスに送りましょう。金子勝さんから、またまた新刊『市場』(岩波書店)をいただきました。前に本HPで紹介したシルババーグ『中野重治とモダン・マルクス主義』(平凡社)に対する老大家の批判が小田切秀雄『中野重治』(講談社)、その中野を翻弄した戦後共産党政治の実態について渡部富哉監修『生還者の証言──伊藤律書簡集』(五月書房)、面白いです。『大原社会問題研究所雑誌』11月号に拙稿「第一次共産党のモスクワ報告書(下)」が掲載されました。私も編者である『日本史辞典』(岩波書店)がいよいよ発売され、新宿紀伊国屋書店では山積みされていました。社会史・文化史の最新成果を大幅に採り入れ、類書にない項目もいっぱいありますから、ぜひご参照・ご利用ください。


「バケツでウラン」は「1年以下の懲役」ですって! 怒りを言葉に、インターネットで社会運動を!

1999.10.20 更新途中で、『葦牙ジャーナル』というミニコミ誌最新号が着きました。本HPもリンクしている文芸評論誌『葦牙(あしかび)』同人の皆さんの情報誌です。そこに、茨城県ひたちなか市在住の武藤功さんが、スリーマイル島並みと認定された東海村臨界事故に、怒りの報告を書いています。ひたちなか市も「半径10キロ以内」だったのですが、武藤さんは何も知らずに当日午後外出し、夕方帰宅して初めて事故を知ったというのです。350メートル以内の住民待避が事故5時間後で、集会所に避難できたのはたった14人、しかもその避難所にはヨウ素剤や放射能防護服はもとより飲料水・食料もなかったとか。武藤さんはこれを、「バケツとザル」の文学的比喩で告発します。リストラ合理化の中で10年も違法な「バケツでウラン攪拌」を続けてきたJCOと、そんな無責任核ビジネスを見過ごし「安全神話」を広げてきた政府の原子力行政の「ザル」と。武藤さんの指摘で初めて知ったのですが、「バケツでウラン」を罰する原子炉等規制法では、たとえ政府の査察でみつかっていても「1年以下の懲役もしくは50万円以下の罰金」なんですって! まさに「ザル法」です。これが経済大国日本の、世紀末の現実! 一歩踏みだし、怒りを社会運動にして行きましょう!  

 そんな一歩は、もう始まっています。JCO事故現場から200メートルに住んでいた東海村住民が、「今も放射能の恐怖に脅えて」討論のためのHPを開設しました。その名もずばり「放射能は怖い!」。掲示板チャット方式で、真剣な討論が進められています。立派な社会運動です。テレビや新聞では早くも熱がさめてきたらしいですが、「脱原発をめざす原子力資料情報室HP」からは、臨界事故関係の続報が得られます。PARCの名で世界に知られる「アジア太平洋資料センター」からは、東チモール問題の関連情報を得られます。「オルタ・フォーラム」もネット活動を始めたようです。私は「インターネットで社会科学」「インターネットで歴史探偵」(『歴史評論』10月号)の経験を踏まえ、ネットを通じて「学生政治意識調査」を実施していますが、そのうち「インターネットで社会運動」なんて書けるようになりたいですね。私たち研究者の当面する問題は、国立大学の行政法人化。文部省の公式発表以後、急速に進む動きを、ネット・サーフィンしてみました。なんといっても「全大教近畿ホームページ」が、速報性において群を抜いています。「独立行政法人関係リンク集」まであって、即日情報が集まります。東大職組HP内の「独行法反対者首都圏ネットワーク」も重要なソース。文部省サイトを検索すると、「独立法人」のアイディアは、既に平成7年版教育白書『我が国の文教政策 新しい大学像を求めて』「諸外国の大学改革」の中で、イギリスの高等教育に関して使われていたことがわかります。日本での国立大学独立法人化論議の一つのきっかけをつくった東北大学藤田宙靖教授の考えも、ネット上で閲覧できます。もちろん千葉大学学長のメッセージ山形大学学長の反対記者会見のニュースも。どうやら労働運動を含む日本の社会運動も、インターネットの普及に見合うようになってきたようです。これで反対声明や抗議メールが文部省HPのメールボックスに殺到し、文部省サーバーがダウンなんて事態になれば、東芝ビデオの欠陥とそのクレーム処理を告発した市民のHPのように、「事件」になるのですが……。事態を憂うる皆さん、みんなでやってみませんか!

 こんなあわただしい動きのなかで、冬学期の講義も始まり、大学関係者は猛烈に忙しくなっています。そんな中で清涼剤になるのが秋の読書、味わいある2冊に出会いました。一つは松尾尊允(たかよし)教授の『中野重治訪問記』(岩波書店)。松尾さんには『大原社会問題研究所雑誌』掲載「1922年9月の日本共産党綱領」執筆にあたって大変お世話になりましたが、この本の松尾さんのメモから再現された故中野重治の詩的言葉も、それを回想し整理する松尾さんの文章も、時に鋭く、時に温もりがあり、すがすがしいものです。特に歴史研究を志す人は必読。もう一つは、前から関心を持っていたが手つかずだったノモンハン事件にようやくとりかかって、半藤一利『ノモンハンの夏』(文藝春秋社)。著者の史観はどうあれ、関東軍の無謀なノモンハン戦(モンゴール側からみれば「ハルハ河戦争」)と独ソ不可侵条約のつながりを、東京大本営、モスクワ・クレムリン、ベルリン・ヒットラー総統府の時間差で示した分析はお見事。たしか司馬遼太郎が膨大な史料を集めながら書けなかった主題を、司馬とは異なる丸山真男「無責任の体系」風筆致で描き出しています。読書時間が十分取れないのが悩みですが、インターネット上での学習・情報収集と両立させたいものです。時事通信配信用に書いた書評「渡辺一衛・塩川喜信・大藪龍介編 『新左翼運動40年の光と影』」は、近く「社会主義理論学会」HPに転載されるそうです。25日発売の『大原社会問題研究所雑誌』11月号に、拙稿「第一次共産党のモスクワ報告書(下)」が掲載されます。26日には、この7年ほどの悪戦苦闘の産物、私も近現代担当で編集に加わった『日本史辞典』(岩波書店)が、ようやく世に出ます。



東海村臨界事故の悲劇は、チェルノヴイリ後の冷戦崩壊のような、21世紀への構造転換につながるでしょうか?

1999.10.10 東海村核燃料臨界事故は、事実が明るみになるにつれて、底知れぬ恐ろしさを秘めた大事故だったことがわかります。国際的にもスルーマイル島並みと認定されたようですが、世界的に特異な日本の原子力行政と、電力会社・原発推進派の秘密体質と、住友子会社の効率一辺倒リストラの所産であるこの事故が、小渕自自公内閣成立と重なりました。組閣を遅らせる程度のインパクトはあったようですが、残念ながら政府には、積年の原発政策そのものの問題と見る認識はなさそうです。かつてチェルノブイリの原発事故は、自由なき帝国ソ連邦から全ヨーロッパに死の灰を及ぼし、経済政策に特化していたゴルバチョフのペレストロイカ(改革・刷新)を、グラースノスチ(情報公開)へと拡張するきっかけとなりました。その延長上で、階級闘争よりも人類と地球の存続を優先する「新思考」がソ連共産党書記長により主張され、東欧で言論・思想の自由を得た人々の民主化運動が「ベルリンの壁」を崩壊させ、東西冷戦を終わらせ、ついにはソ連邦そのものを解体に導きました。科学技術の発展で自然を征服しえたかに見えた20世紀の人類が、技術信仰と人類の傲慢に気づかされ、「短い20世紀」(ホブスボーム)を終えた「終幕の始まり」でした。不慮の偶発的核事故が、21世紀の方向を定める引き金になったのです。ポスト・チェルノブイリの世界史に学ぶならば、日本の東海村からひきだしうる教訓は無限です。ただしそれを、政治指導者からの善意の恩恵として享受するのか、市民自身の内発的要求として血肉化していくかで、この国の21世紀のかたちは決まって行くでしょう。「9・30東海村を忘れるな!」を胸にきざんでおきましょう。だれか若い人、政治学の世界で最近流行の公共政策論の観点で「日本における原子力政策の形成」を改めて研究してみませんか?

 たとえば国立大学の独立法人化構想。そもそもの動機が不純で、国家公務員の定員削減の省庁数合わせの所産です。反対から容認に転じた文部省HP公式発表で挙げているのは、いいことづくめのようですが、百年のセンチュリーなり千年のミレニアムなりで考えると、おそろしい話です。つまり、グローバル市場にとっては「遊び」「ムダ」にあたる領域を、市場競争のなかに投げ込み、文学や政府批判の学の研究や教育は縮小して実学におきかえ、非効率な地方大学や教養学部は破産させ、大学をシルコンバレー風の産学協同・労働力供給工場に変えていこうというわけです。すでにネット上にも、これに反対するサイトが出てきていますが、この知の世界のリストラは、人員スリム化をウランのバケツ攪拌で「効率化」していたJCOや、海砂入りコンクリートで突貫工事したツケがまわってきた山陽新幹線のような、結末をうみだすかもしれません。臨界になったら遅すぎます。せめて制度疲労の段階でフィードバックできるように、設計しなければ。

 もちろん大学の側も、自らの責任において、21世紀の研究と教育を設計しなければなりません。前回更新で"Academic Resource Guide"さんから教えられた「Web日記」をたどって、面白いのをみつけました。神戸芸術工科大学鈴木成文さんの学長日記「日々是好日」。学長自らが日々の活動を公開し、学生への注文や悩みも率直にうち明けています。同じく前回紹介した大阪教育大学田中ひかるさん(西洋史)HP「本の読み方」「卒論マニュアル」関西学院大学富田宏冶さんHP「無・天・雑・録」のような学生との対話型サイト、政治哲学の立派な講義録を公開している慶應義塾大学萩原能久さん研究室、専門のヘーゲル研究にとどまらずウェブ辞書から外国の図書館まで緻密に学習用リンクを張っている跡見女子大神山伸弘さんHPなども、自主的改革の重要な一部です。なぜか私学の方が進んで いますが、私の本HPも、もともと研究・教育スタイルのペレストロイカとして始めたものです。「インターネットで社会科学」「インターネットで歴史探偵」の経験を踏まえ、前回からはネットを通じて「学生政治意識調査」を実施しています。我と思わん方は、「1999学生政治意識調査・質問票」をダウンロードして、加除・改作してかまいませんから、自分の職場・周辺で実施してみてください。その集計結果のみ、メールでお送りいただけば、私の勤務先をはじめ他の大学の調査結果、及び過去データをお送りいたします。締切は一応1999年12月末とします。これらを踏まえて、リンク集「政治学が楽しくなるインターネット宇宙の流し方」をマイナーチェンジ。どの新聞に載ったかはわかりませんが、時事通信配信用に書いた書評「渡辺一衛・塩川喜信・大藪龍介編 『新左翼運動40年の光と影』」を新規に入れておきます。


学びの秋に、しっかり本を読みましょう! ついでに「学生政治意識調査」をやってみませんか? 

 1999.9.30 ベルリンでは「日本年」が始まったようですが、東京でも猛暑も台風も去って、ようやく学びの秋。プロ野球と自自公内閣改造はあわただしいようですが、理論武装の秋です。ちょっと外国に行ってる間に、法政大学の畏友金子勝さんから、またまた立て続けに御著書を頂きました。『セーフティネットの政治経済学』(ちくま新書)と『反グローバリズム』(岩波書店)、特に前者は学生におすすめです。同じ法政大学の五十嵐仁さんHPも書いていますが、「セーフティネット」を政府文書にまで入れさせたのは、金子さんの功績大、発売されたばかりの『アエラ・ムック マルクスがわかる』(朝日新聞社)では、なぜか私のお隣りのページです。冬学期も本格的に始まり、先日ゼミ合宿で、学生に藤田省三『全体主義の時代経験』(みすず書房)、鶴見俊輔『戦後日本の大衆文化史』(岩波書店)、山之内靖他『総力戦と現代化』(柏書房)、K・ウォルフレン『日本権力構造の謎』(ハヤカワ文庫)の中から多数決で輪読テキストを選ばせたら、なぜか一番人気は『総力戦と現代化』で、山之内現代化論をじっくり読むことになりました。これも「現代化」の現れでしょうか? でもこの「じっくり読む」というのが、実は、ここ数年の教育体験では、結構大変です。数年前に丸山真男『日本の思想』(岩波文庫)の音読ゼミをして、痛感しました。そこで若者たちに、「本の読み方」のオススメ。大阪教育大学田中ひかるさん(西洋史)のホームページで見つけたものですが、結構すぐれものです。卒業論文準備中の皆さんには、「明日のための卒論マニュアル」も入ってます。

 永田町近辺では、自民党総裁選も民主党代表選も、それぞれ下馬評通りに本命が勝ち、対抗・穴馬も善戦して目標以上の得票、という八方丸く収まる結果。政治課題は山積しているのに。そんな時は、話題の村上龍『あの金で何が買えたか』(小学館)でも読んで、タクス・ペイヤーの怒りを新たにしましょう。バブルのはじけた金融界への公的資金導入34兆円で、何が買えるはずだったかという話。気の遠くなるような巨額で、世界の全地雷除去も軽く可能とか。トルコ・台湾の地震災害復興も日本で一手に引き受け「国際貢献」できたはずなのに、と恨み辛みが湧き出てきます。21世紀の政治に大切なのは、こうしたグローバルな問題を自分にひきつけ、具体化する想像力。イマジネーションを広げて、万巻の書物に向き合いましょう。もっとも私の方は、エルヴィン・ヴィッケルト『戦時下のドイツ大使館』(中央公論社)や平井正『レニ・リーフェンシュタール』(晶文社)、芳地隆之『ハルビン学院と満州国』(新潮選書)のような、20世紀の歴史の重箱の隅をつっついて、ミクロ・ローカルから世界へと向かうアプローチに、魅力を感じていますが。

 最新の"Academic Resource Guide"さんによれば、本HPのようなスタイルを、「Web日記」と言うんだそうです。なんとなく納得。10月2-3日は、日本政治学会研究大会です(東京渋谷・國學院大學)。その前日、10月1日(金)午後、東京市ヶ谷・法政大学大学院棟601号室での全国政治研究会で、私がこの間の「インターネットで歴史探偵」体験を踏まえ、「海外史資料による日本政治研究」を報告します。その席でも同好の士を募りますが、かつて拙著『社会主義と組織原理』(窓社、1989年)『現代日本のリズムとストレス』(花伝社、1996年)などに発表したことがある「学生政治意識調査」を、久しぶりで実施します。勤務先の一橋大学で1985年から、全国いくつかの大学と一緒に1992年から、不定期に実施しているもので、よく全国世論調査で使われる単純な12項目の質問ですが、時系列・大学別でデータを集計すると、けっこう面白い分析結果が出てきます。すでに私の大学院ゼミ出身で全国各地の大学で教えている若手政治学者の皆さんに協力を依頼してありますが、我と思わん方は、この「1999学生政治意識調査・質問票」をダウンロードし、勝手に加除・改作してかまいませんから、自分の職場・周辺で実施してみてください。もちろん学生でなくてもかまいません。その集計結果のみ、メールでお送りいただけば、私の勤務先をはじめ他の大学の調査結果、及び過去データをお送りいたします。締切は一応、本1999年12月末とさせていただきます。


<この間の時期は、ドイツ滞在中で、特別室「ベルリン便り」に入っています>


開設2周年です、加藤哲郎研究室にようこそ! インターネットによる現代史研究が、また一つ結実しそうです!

1999.8.15 54年前に日本がアジア・太平洋戦争に敗れた日、8月15日は、本ホームページの開設2周年記念日であり、丸山真男の命日でもあります。日頃の皆様のご愛顧に、心より感謝いたします。もっともその直前に、日本の第145国会では、日米新ガイドライン法に続いて、日の丸・君が代国定法、われわれネチズンにとっても深刻な脅威である盗聴法・住民背番号制法などが、次々に立法化されました。朝日新聞は「戦後の政治システムの転換点」と評しました。前回総選挙では全然想定されず、民意と離れた永田町内数の論理に立つ「自自公」連立政権、21世紀の史家は、「世紀末のバックラッシュ」と書くかもしれません。デモクラシーの危機です。「国民主権」の意味を、改めて考えてみましょう。

 例の東芝のアフター・サーヴィスを告発した市民のHP、820万ヒットを超えてなお健在のようです。本HPも、この間インターネットによる現代史研究のささやかな成果を、また一つ加えることができました。本HPの目玉「20世紀の謎の暗室には、1930年代ドイツ在住日本人反帝グループ約100人の関係者リストと、旧ソ連在住日本人粛清犠牲者100人近くのリストが入っています。その中の、ワイマール期在独反帝グループに短期間にしろ属した映画俳優「岡田桑三」については、立派なホームページを持つご親族から直接連絡をいただき、桑三の詳しい経歴等も解明できました。戦後は科学映画の領域で、すぐれた業績を残していました。

 先日しばらくぶりで夏休みの研究室に入ると、留守番電話にお年寄りの声で、2回もかけたらしいメッセージが残されていました。「自分は先生の粛清犠牲者リストの『徹武彦』の息子だが、父の最期の様子を知りたい」というものでした。残念ながらお名前も電話番号も残されていなかったため、こちらから何とか連絡をとろうと、インターネットを活用しました。「徹武彦」の戦前警察記録に本籍地が「鹿児島県大島郡早町村」とあったのを手がかりに、出身地らしい南国奄美群島喜界島の町役場HP「喜界島ホームページ」さん、新山さんの「白髭?雅の喜界島散策」HPに、ご遺族の捜索協力を求めました。すると新山さんが調べてくれて、翌日には関西在住の「徹武彦」の息子さんがみつかり、ご本人が私に連絡をくれて、詳しい経歴等を知ることができました。現在76歳の息子さんは、船員だった「徹武彦」が1932年にウラジオストック港で行方不明になった年に生まれ、父とは一度も会うことなく、母親の手で育てられました。その母親も亡くなって「瞼の父」を探していたところで、読売新聞社編『20世紀 どんな時代だったのか 革命編』「革命ロシアに消えた日本人」に収録された私の日本人粛清犠牲者・犠牲者候補一覧中に父「徹武彦」の名を見つけ、思い切って一橋大学に電話をかけたのだそうです。ところが大学は夏休みで私は長く不在、あきらめかけていたところに、インターネット経由で私からのメッセージが届き連結、改めてインターネットの威力に驚かされた一瞬です。今春の「テルコ・ビリチ=松田照子」探索の経験をもとに、これから本格的な捜索に入ります。喜界島の新山さんはじめ、ご協力いただいたネチズンの皆様、本当にありがとうございました!

 その「徹武彦」捜索も兼ねて、東京竹橋の国立公文書館に行ってきました。8月15日付読売新聞・日本経済新聞に大きく出ているように、ここで半世紀ぶりに、戦前特高警察の膨大な史料「内務省警保局関係文書」が初公開されたのです。諸外国のアーカイフと比べると、日本の公文書館は概して官僚的で使いにくいのですが、今回は一般公開に先立つマスコミ取材への同行・特別閲覧で、800冊以上の第一次史料を鳥瞰することができました。早速の成果が「徹武彦」が最期に乗っていた船の名前。今回公開された「昭和十年に於ける外事警察概況」中に「鹿児島県人第三吉田丸火夫徹武彦、海員出身、第三吉田丸より浦塩に脱船上陸せるもの」という記述があり、旧ソ連で消息を探る手がかりを得ました。インターネットと文書資料・インタビューを組み合わせての20世紀研究、しばらくはこの領域に沈潜することになりそうです。そんなこんなで、当初考えた2周年記念大改訂は見送り。それでもリンクページ「ネットサーフィンの階段」を更新し、「今年の尋ね人」にはウラジオストックの「徹武彦」を新たに加え、 英文ページにはオーストラリアからの夏休みプレゼントが届きました。人気の"World Ideologies Explained by Cow"=Cow Jokeに、Feminism, American Democracy など最新作を加え、ヴァージョン・アップ(ver.5)です。文字通りご笑覧ください(でも、英語のジョークで笑えないと、悲しくなりますよね)。まだ情報のない「今年の尋ね人」、ベルリンの「二宮周」、旧レニングラードの「服部」の方もよろしく。3年目への旅立ちで、次回更新はドイツからの予定です。


加藤哲郎研究室にようこそ! 夏です、「戦争と平和」を考える季節です!

1999.7.30 ようやく夏休みに入りました。研究者にとってはかきいれ時、調査の合間をぬって、少しづつ原稿を書き始めました。休みに入ると、ネットサーフィンも冒険ができます。"Academic Resource Guide"最新号(36号)に刺激されて、アメリカ留学中の国際政治学の大学院生齋藤淳さん飯田修さんのホームページを訪れたところ、大変充実していました。ついでにユーゴスラヴィア問題で、いまや日本最大の発信基地になっている千田善さんのサイトを拝見。NATO軍のコソボ爆撃は、ヨーロッパに深刻な亀裂をつくりだしたようです。EUの国家間関係ではなく、各国の民衆レベルで。ヨーロッパの友人たちからのメールには、左派政権への失望の声が目立ちます。8月はヒロシマ・ナガサキの月、8・15の季節です。1945・8・15が「終戦か、敗戦か」は、私のメキシコでの日本現代史講義"Japan in the 20th Century"の論点の一つでしたが、自自公ブロックによる新ガイドライン成立、「君が代・日の丸」法案強行後の今年は、とりわけ「暑い夏」になりそうです。じっくりこの国の50年・100年を、「戦争と平和」の視点から振り返りましょう。1945年8月6日、丸山真男は、ヒロシマにいました。そして来る8月15日は、丸山真男没後3周年、本HP開設2周年記念日です。その日までにぜひ、丸山真男の再読をお勧めします。本HPも、次回更新を8・15まで延ばして、ちょっと衣替えします。

 この夏の執筆に必要な現代日本文学史研究のために、本欄でおなじみの岐阜大根岸泰子さんHPからたどって、帝京大学市川さんのリンク集日本大学紅野謙介さんHPをまわり、ついでにメキシコ在住中に院生指導のメールで大変お世話になった福島比呂子さんの有名な ヴァージニア・ウルフ・ウェッブ・サイトを探検。このVWW2000サイトは、加藤秀一さんの「思考する惑星」研究室奈良女子大の「女性問題図書目録」とならんで、私がフェミニズムをにわか勉強するさいの、かくれ定番サイトです。専門の立場からの絶対オススメは、今年95歳でなお意気盛んな石堂清倫さんの最新の論文「『転向』再論──中野重治の場合」。明治学院大学言語文化研究所『季刊 言語文化』第16号の「中野重治没後20年特集」(1999年3月)に寄稿されたものですが、メキシコの田中道子さんに石堂さんからいただいたコピーを持っていったところ、大変感謝された短文です。それを愛知の宮地健一さんが、石堂さんの許可を得て、いまや日本の「民主集中制」研究の中心サイトになった自分の「共産党・社会主義問題」HPに、全文収録・公開しました。「天皇制に対する有理、有利、有節の闘争」とは何であったか? 今「日の丸・君が代」がナショナル・シンボルとして法制化されようとする時、この老先達の問いかけは重い。とにかくご一読下さい。二一世紀の方を向いた、味わい深い珠玉の名品です。

 本HPの特別室「テルコ・ビリチ探索記」が、サーチ・エンジン大手「Yahoo Japan」の「今日のオススメ」に選ばれました。私がメキシコから「インターネットで社会科学」を寄稿した「アソシエ21」が、ようやく自前のホームページを立ち上げました。ちょっと重いですが、日本の批判的知性の協働の場として、なかなか中身の濃いデビューです。前回本欄の最近読書寸評は、「私家版・1999上半期の収穫として書評欄に入れました。特別室「1999メキシコ夏便り」は、トロツキー晩年の写真が好評です。『大原社会問題研究所雑誌』不定期連載中の旧ソ連秘密資料紹介、最新の第489号(1999年8月)に「第一次共産党のモスクワ報告書(上)」が掲載されました。本HPには3か月後に第一次資料写真入りで発表します。(下)は10月号になりそうです。


この国の21世紀のかたちは、だれが決めるのでしょうか? 夏休みです、しっかり勉強しましょう!

 1999.7.20  メキシコから帰国した後、しばらく時差ボケが続きました。留守の間の郵便物の整理や新聞・雑誌の斜め読みに忙殺され、学期末のゼミも持たなければならず、超多忙の日本を改めて実感。それにしても、政局の動きはただなりません。新ガイドライン法成立後も盗聴法、日の丸・君が代法案と、市民社会ではほとんどまともに議論がないまま、永田町・霞ヶ関の談合で、この国の21世紀のかたちがつぎつぎと決まっていきます。民主党の日の丸・君が代法案への態度も不可解、「なんでも反対」といわれても、野党には野党の存在意義があるはずなのに。自自公路線という名の翼賛体制、後世の人々に重い宿題を残すように思われます。

 主権者たる私たちは、世紀末の夏、戦争と平和を考える季節に、しっかり勉強しておきましょう。出版不況とはいえ、やはりこの国は活字大国、留守の間にも読むべき本は次々に出ています。井上ひさしや大江健三郎の新著は後まわしにして、手当たり次第に乱読。豊下楢彦編著『安保条約の論理』(柏書房)、吉田茂と「天皇外交」の分析は秀逸。稲葉振一郎『リベラリズムの存在証明』(紀伊国屋書店)、社会哲学の世界での重厚な問題提起。三井逸友編著『日本的生産システムの評価と展望』(ミネルヴァ書房)、マクロとミクロをつなぐメゾ・レベルの実証が圧巻。歴史物では、横関至『近代農民運動と政党政治』(御茶の水書房)、森武麿『戦時日本農村社会の研究』(東大出版会)の本格的研究を、川村湊・成田龍一が上野千鶴子・井上ひさしらと語る『戦争はどのように語られてきたか』(朝日新聞社)とダブらせて読むと、少なくとも「いま日本は何をなすべきでないか」が見えてきます。「何をなすべきか」については、私の現代史研究にひきつけると、石塚正英編『海越えの思想家たち』(社会評論社)のとりあげる岡本太郎・福本和夫、斉藤憐『昭和不良伝・越境する女たち』(岩波書店)の描く石垣綾子・岡田嘉子の生き方が魅力的で、町村敬志『越境者たちのロスアンジェルス』(平凡社)の描く亡命ユダヤ人たち、リン・チャン『イギリスのニューレフト』(彩流社)の戦後イギリス知識人の歩みが、示唆的です。ようやく手に入れた『丸山真男講義録・日本政治思想史1949』(東京大学出版会)はこれから。しかし確実に昨今の俗悪・軽薄なナショナリズムへの批判的視座を得られる予感。これも未読の加藤典洋『日本の無思想』(平凡社)と読みくらべてみます。本HP書評欄恒例の「上半期の収穫」は、今年は日本に不在で寄稿できなかったので、この寸評をもって代えます。

 メキシコで壊れたパワーブックG3、あっという間に液晶が交換されて戻ってきました。ハードディスク内は、幸い無事でした。こんなに修理が早いと、かえってHPで構造的欠陥を指摘されるのを未然に防ぐためでは、と勘ぐりたくもなります。例の東芝ビデオの欠陥とそのクレーム処理の態度を告発した市民のHPへの大反響、なんと本HP更新中に六百万アクセスに達しました。関連リンク集まで現れて、消費者運動はインターネットという新しい武器を持ったことが実感できます。英語で進めてきたエル・コレヒオ・デ・メヒコでの日本現代史講義"Japan in the 20th Century"をHDから復元。エッセイインターネットで社会科学」も『歴史評論』掲載予定原稿「インターネットで歴史探偵」も無事でした。この間の本欄の"Mexico Reports"は、トロツキー、リベラ、カーロ、ベラスコらの写真と絵を加えて、特別室「1999メキシコ夏便り」に収納しました。



 

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