LIVING ROOM 6 (Jan.-April 1999)

 ここには、<What's New>で定期的にトップに現れた、本ホームページの作成過程、試行版への反響、更新の苦労話、メールへのご返事、ちょっといい話、外国旅行記・滞在記などが、日誌風につづられます。趣味的なリンクガイドも兼ねます。ま、くつろぎのエッセイ集であり、対話のページであり、独白録です。日付けは下の方が古いので、逆読みしてください。



<今回からトップ見出しも保存します>


Yes, We are Still in the Century of States, but not only of the Nation State.

1999.4.26  統一地方選挙後半戦の結果がでました。本HPで注目してきた東京・国立市長選では、生活者ネットの上原公子さんが共産・社民の支援を受けて当選。東京都では初めて、全国4人目の女性市長です。上原さんの風に乗って、先日卒業したばかりの私のゼミの教え子重松朋宏さんも、市議選に挑戦し高位で最年少当選、20年近い政治学ゼミから初めての政治家誕生です。でも現代の政治は、首長や議員によってのみ担われるわけではありません。今年の1月6日朝日新聞社説でとりあげられたように、同じくゼミ出身で卒業後10年近くNGO「NICE」を主宰し、若者たちの国際ワークキャンプを続けている開澤真一郎さんの活動なども、立派な地球市民政治です。21世紀に希望を抱かせる、草の根の動きです。

 東京都知事選石原慎太郎当選で、本HPは、前回"Still the Century of Nation State?" と問いかけました。国政レベルでは、ガイドライン法案成立寸前です。4月25日の投票日に、東京で「アソシエ21」が結成されました。先に使命を終えた「フォーラム90s」のバージョン・アップの一つですが、500人近い日本の批判的知性が集いました。若い世代と女性が多かったので、私も会員になりました。その創立大会で、大内力・柄谷行人さんと一緒に記念講演をつとめたのが、本HPにゲストルームをもつランカスター大学のボブ・ジェソップさん。講演「国家論の現代的課題」は近く『情況』誌に発表されますが、その論点の一つが、グローバル化のなかで大文字の「国民国家the Nation State」は危機にあり「脱国民化」しつつあるが、権力関係としての国家statesは、NATOの空爆やEU統合社会政策のようなかたちで、あるいはregionalやlocalな場でも、重要性を失っていない、従って国家のこの現代的変容に合わせて、国家論も焦点を移し、有意味性を取り戻さなければならない、というもの。つまり、先の慎太郎的問いに即して言いかえれば、"Yes, We are Still in the Century of States, but not only of the Nation State"というわけです。

 そのボブ・ジェソップが、一昨年滞在時にアクセス急増中だった私のHPに刺激されて、ランカスター大学の彼のホームページを更新し、最新論文をダウンロードできるようにしました。ご本人に頼まれて、喜んでリンク。ゲストルームも、英文は直通にしました。実はボブは5月に再来日し、ICU千葉真さんらとシンポジウムを持ちます。残念ながら私の方は、先般予告通り、来週から7月までメキシコ滞在になります。次回更新はちょっと早めて、中南米諸国の俊英が集う大学院大学エル・コレジオ・デ・メヒコ・アジア・アフリカ研究所から「メキシコ便り」をお送りする予定です。乞うご期待!


1999.4.18 日曜日に外出している間に、自分でヒットするつもりだった44,444アクセスを、どなたかに進呈してしまいました。ごめんなさい。Infotransが回線増強して修復したのですが、倉庫の方はNiftyのままにしておきます。

Still the Century of Nation State?

1999.4.12   かつて、1974年に政治学のネオ・コーポラティズム討論を引き起こしたのは、P.C. Schmitter の論文"Still the Century of Corporatism?" でした。このひそみにならえば、"Still the Century of Nation State? "と問いたくなる統一地方選前半戦の結果です。四半世紀前から「日本の国家」にこだわっていた石原慎太郎が、21世紀の東京都知事ですって。予想外に他候補に差をつけましたが、実は有権者の17.5%の支持で。「ノーといえる東京」といっても、それは福祉・環境イシューや社会的弱者・外国人労働者を排除した、差別的ナショナリズムの色を濃くしています。さすがに女性票はあまりつかめなかったようですが、若年層でも「強力なリーダーシップ」に見えたのでしょうか。財界は概ね歓迎し、外電は警戒を強めました。既成政党批判を展開しましたが、れっきとした自民党員です。バックの宗教団体も要注意です。なにしろ中国を「シナ」と言ってはばからない人ですから、日本の外から見れば「いつかきた道」です。地方議会で躍進した共産党の国歌・国旗法制化政策、自衛政策を含め、この国全体が、内向きになっているようです。コソボ問題でのNATO軍空爆泥沼化のもとで、ガイドライン法案が出されている最中に。石原氏がこだわる国家って、いったい何でしょう? でも冷静に見ると、東京の結果は、先行きが見えない庶民のいらだちの即自的表現でしょう。他府県や県議・市議選では、別の動きも見られます。例えば女性議員の増加。後半戦の見所の一つ、生活者ネットの女性候補が「戦後革新」に推されて保守現職に挑戦する国立市長選挙にもご注目を。 

 春休みに話題のLINUXをマスターしようと、参考書・CDを買い込んだのですが挫折。文系の手にあまるプログラム用語もさることながら、果たしてインストールして何ができるかと考え込んでしまったのが敗因。横浜市大吉田誠さんHPに学んで、もう一度出直しです。新学期に入っても顔写真・経歴のみで、講義案内さえ更新されない学術サイトが多い中で、関西学院大学岡本仁宏さんの政治思想HPと跡見女子大神山伸弘さんのヘーゲル研究HPは、次々とリンクを充実させています。関東学院大林博史さんのアジア太平洋戦争史研究サイトがオープン、従軍慰安婦から戦争責任まで、いきなり充実したデビューです。かつて本HPがヒット数を競った自由主義史観研究会HPはまだ2万6千ヒットで低迷しているようですから、ぜひ大きく広がってほしいものです。

 現代史といえば、ミリアム・シルババーグ『中野重治とモダン・マルクス主義』(平凡社)は痛快な本。マルクスをほとんど引用しない詩人中野重治が、ルカーチ、福本和夫をも越えて、ベンヤミン、グラムシ的意味をもつ批評家として光を当てられます。藤田省三門下と聞いて納得。原題"Changing Song"の意味は、読んでのお楽しみ。ちょうどそこに、4月5日に95歳になった石堂清倫さんから、珠玉の文章をいただきました。『梨の花通信』31号のシルババーグさんとの対談、明治学院大言語文化研究所『言語文化』17号「中野重冶特集」への寄稿「『転向』再論」です。特に後者は、まだ校正刷りですが、私たちの世代に伝えておくべきことを、痛切に含蓄深く語っておられます。今年前半の本HPの目玉となった「テルコ・ビリチ=松田照子探索記」は、恥ずかしながら共同通信配信の「時の人」欄に取り上げられ、ロシアからも問い合わせがきました。しかし、新たに「今年の尋ね人」に入れた宝塚歌劇音楽監督「二宮周」については、まだ何の情報もありません。「1922年9月の日本共産党綱領」は300ヒット突破。『社会主義理論学会会報』に書いた論争風エッセイ「ソ連は『奴隷包摂社会』でなかったか」を新たにアップしました。論争のもとになった「20世紀社会主義とは何であったか」と共に、ご笑覧下さい。


1999.4.8 下記のように書いたら、エイプリルフールではなく、東京グラムシ会HPが立ち上がりました。"Academic Resource Guide"さん、メールでのご教示、いつもながらありがとうございます。新年度ゼミ選考が終わり、一橋大学学生用に合宿所の各ページを大幅改訂。
1999.4.1  今年のアカデミー賞主演男優賞を獲得したロベルト・ベニーニの映画のタイトル「ライフ・イズ・ビューティフル」は、スターリンの刺客によりメキシコで暗殺されたトロツキーの言葉なそうです。その出典を、最近オープンした日本のトロツキー研究所HPに問い合わせたら、早速親切な答えと共に、その出典である「トロツキーの遺書」全訳をネット上で読めるようにしてくれました。なるほど「レーニンの遺書」とはひと味違った内容・文体ですね。映画そのものも、ファシズムのユダヤ人虐殺を描いているそうで、ぜひメキシコで見てこようと思います。トロツキー研究所のリンク・ページ、なかなか充実しています。次は日本語でもグラムシ研究や(ロックバンドではない)ローザ・ルクセンブルグ研究の本格的サイトができないかと期待しています

政治の4月です、学びの春です。

1999.3.27 しばらく東京を離れるので、早めの更新。東京の桜はもうすぐ満開、4年に一度の統一地方選挙の春です。都知事選をめぐって、ネット上もにぎやかです。各候補者のサイトはもちろん、他府県民でも投票できるバーチャル選挙ダービー風人気投票も行われています。テレビの候補者討論を含めて、いよいよ日本でもメディア選挙が本格化したという評価もありますが、各サイトの内容とアクセス数を見ると、過大評価はできません。とはいえ、いわゆる無党派層の動向を見る参考にはなります。アメリカ大統領選挙でテレビ討論をはじめとしたメディア・キャンペーンの役割が大きくなったのは、ケネディ大統領の頃からといわれます。ブッシュ時代の湾岸戦争が「カメラの位置」の問題を鋭く提起しましたが、インターネットの政治的効果はクリントン政権以後に本格化します。これを政治の「グローバル・スタンダード」といいたい人もいるでしょうが、それは「アメリカ化」ではあっても「ユニバーサル」ではありません。日本の政治経済で語られる「グローバル・スタンダード」には、常に「アメリカの影」がつきまとっています。私たちのコミュニティ・レベルの自治と民主主義をはかる基準は、むしろ今回草の根で試みられている公開討論会・公開質問状や住民投票におきたいものです。4月就職・転勤の人にも、元の住所に参政権はあります。不在者投票も可能です。ともかく投票に行き「主権者の一票」を投じましょう。

 後半戦でちょっと注目してほしいのは、東京で初めて女性市長が生まれるかもしれない国立(くにたち)市長選。そうです、私の勤務先一橋大学の膝元です。ここでは保守の現職に対して、生活者ネットの女性候補が、社民党・共産党の支援を受けて挑戦するなつかしい構図です。緑と教育のまちに「ふれあい」を持ち込めるか、景気回復に押し切られるか、環境・女性イシューを組み込んだ「革新」がどの程度生き残っているかを見る、バロメーターになります。政治の4月は、新入生の季節です。一橋大学学生用に、合宿所ページを改訂。

 「今年の尋ね人」欄には、新たに1930年代初めベルリン在住の宝塚歌劇音楽監督(?)「二宮周」を入れました。情報を求めます。「テルコ・ビリチ=松田照子」探索記は、別ファイルにしました。前回「ふれあい」を考える5冊を挙げましたが、ついでにもう一冊、唯物論研究協会編『教育・共同・平等』(青木書店)を追加しましょう。中西新太郎さんの「共同=相互扶助」概念のヤヌス性の解明や、平塚真樹さんの「団塊世代家族」の分析が面白いですよ。「死」や「写真」や「色」も扱って、日本の唯物論もようやく「短い20世紀の神話」から解き放たれてきたようです。好評の「1922年9月の日本共産党綱領」は、すでに200人以上の方にアクセスいただいたようです。「さざ波通信」さんでさかんに論じられている共産党の国旗・国歌法制化の新政策は、いったいどちらに向かうのでしょうか?


"LOCAL SELF-GOVERNMENT"って、なんでしょう?

1999.3.15 このホームページのミラーサイトとして、「加藤哲郎のNifty研究室」をNiftyserve内に設けました。別にこのサイトの通算4万ヒットで、IIJ4Uのサーバーがクラッシュしたわけではありません。IIJは夜間でも一発で快適につながり、接続面での不満はないのですが、ホームページは2メガバイトしか搭載できません。そのため本HPの論文・写真等の多くは、webmasterの地元のローカル・プロヴァイダーinfotransのHPを倉庫として使っています。これは10MBまでで、まだ余裕があるのですが、FTPがinfotrans serverからしかできず、しかも3月初めに皆さんにご迷惑をかけたように、時々ダウンします。そこで旅先や海外ではinfotransは更新できず、IIJの範囲内でやりくりしてきました。今年も5月からメキシコ滞在が本決まりとなり、そこからでも本HPを制御できるように、同僚矢沢修次郎さんHPのようにAol に入会することや、共同研究者藤井一行教授のようにアメリカのプロヴァイダーに置くことも考えましたが、91年入会以来パソコン通信とモバイル・メール以外ではほとんど使ってこなかったNifty で、10MBのHPを使えることがわかりました。これなら海外でもOKです。そこで実験的に開設したのが、かの別館「Nifty研究室」、ただしこちらよりだいぶ遅いですし、特に夜11時すぎはお勧めできません。まあ「危機管理用予備サイト」として、しばらく置いてみます。更新もこちらと一緒とは限りませんから、常連の皆様は、引き続きこのサイトをご愛顧ください。

こんな酔狂ができるのも、「99年の尋ね人=テルコ・ビリチ」探索と学年末・入試が重なった繁忙期が、ようやく終わったため。これでマイペースの仕事に戻り、今年初めてスキーに行けるかも、と思っていたら大間違い。かの「気流の鳴る音」の国メキシコのEl Colegio de Mexicoから、週3回2か月分の客員講義案英語シラバスと各回の宿題(Assignment)を送れ、と連日のメール。受講生一人ひとりの専攻テーマ・学習水準まで事前に知らせてきて、要するに勉強への意気込みがすごいのです(もっとも半年分の講義を2か月に圧縮するんだから当然か……)。そういえば、久しぶりで手にした雑誌『経済』4月号の教育問題特集で佐藤学さんが挙げていますが、かつて私の本『社会と国家』や「過労死とサービス残業の政治経済学」などで用いた、国際比較で異様に長い日本の子供の勉強時間=「過労児」現象がバブル崩壊後は過去のものとなり、95年のIEA(国際教育到達度評価学会)41か国国際調査では日本の中学生の校外学習時間は最低レベルで「学びからの逃走」だとか。どうやら文部省が「ゆとり」を制度化する以前に、こどもたちの身体論的抵抗=「サボタージュ」が始まったようです。昨年度歴史学研究会大会報告で問題提起のみにとどめた「ふれあい」の本格的分析が、いよいよ必須になりそうです。その考えるヒントとなる5冊。村松秀『生殖に何が起きているか』(NHK出版)、一般向け「環境ホルモン」本ですが、背筋が寒くなります。藤田勇『自由・平等と社会主義』(青木書店)、フランス革命まで遡っての重厚な思考で、実は「友愛」論かも。金子勝『反経済学』(新書館)、売れっ子経済学者のセーフティ・ネット論の論拠がわかります。鶴見太郎『柳田国男とその弟子たち』(人文出版)、私の探求している世界と近いです。しんがりに中野雄『丸山真男、音楽の対話』(文春新書)、言うことありません。

 3月9日付『朝日新聞』論壇に、小寺群馬県知事が「小学校を住民の『自治区』に」と投稿しています。東京都知事選にばかり焦点が合わせられていますが、4月の統一地方選挙は、21世紀の日本をボトムアップな「自治」にできるか、やっぱり「地方」は「中央」の付属物のままなのかを占う、分岐点です。今国会の地方自治法改正で「機関委任事務」が廃止されれば、制度的には「自治・分権」の条件が広がります。それを使いこなして、文字通りの「local self-government」(日本国憲法英文の「地方自治」原文)に近づけるかどうかという、市民の統治性(governance)が問われているのです。「国際歴史探偵」としての「20世紀の脱神話化」第2弾「1922年9月の日本共産党綱領」は、おかげさまで好評です。


加藤哲郎研究室にようこそ! 通算4万ヒット、ありがとうございます! 「国際歴史探偵」は「20世紀の脱神話化」にもとりくんでいます。

1999.3.8 通算4万ヒットを記念して、リンク案内「ネットサーフィンの階段」を 特別更新しました。ネチケットNPO関係を充実させ、現役共産党員の皆さんの討論サイト「さざ波通信」などを新規にリンクしました。英文ページを大幅刷新して「国際歴史探偵」らしく"Wanted! Missing Japanese!"のページとし、ドイツ語版「尋ね人」"Biographische Anmerkungen zu den japanischen Opfern des stalinistischen Terrors in der UdSSR"をアップロードしました。
1999/3/3  昨日から本日にかけて本HPの「論文・エッセイ・書評」等の倉庫であるinfotransのサーバーがダウンし、大変ご迷惑をおかけしました。ようやく復旧しましたので、緊急避難した「1922年9月の日本共産党綱領」等を元に戻します。  
1999.3.1 法政大学大原社会問題研究所の五十嵐仁さんHPから「国際歴史探偵」という称号をいただいて数か月、その名に恥じない成果を、下記の特集のように、旧ソ連粛清日本人犠牲者「テルコ・ビリチ=松田照子」さんの探索では、挙げることができました。詳しくは、「99年の尋ね人」欄に探索記を載せました。この半月は緊急特集の連続で、更新を月2回に減らすという年頭のエルゴロジー風公約は、全然守られませんでした。まあ「最低月2回」としておきましょう。嬉しかったのは、皆さんからのメールでの励ましと情報提供、特に「テルコ」の出身地・東京港区麻布のご当地サイト「DEEP AZABU」さんのゲストブック上では、たくさんの方々から親身な情報とほのぼのとした感想を寄せていただきました。あの六本木交差点のそばにも、どっこい「ふるさと」は生きていました。

 入試と重なったあわただしい半月の間に、すばらしいサイトを見つけました。ほかならぬ大原社会問題研究所の創立80周年記念「電子図書館・史料館」のオープンです。「国際歴史探偵」としては、病みつきになりそうです。そのご祝儀に、発表後3か月原則による『大原社会問題研究所雑誌』掲載の旧ソ連秘密文書解読第2弾「1922年9月の日本共産党綱領(上・下)」を一挙公開します。若い皆さんにはなじみがないでしょうが、「団塊の世代」以上のサヨクに関わった人たちには、相当衝撃的な内容なはずです。なぜなら、通説では、日本共産党は1922年7月15日に堺利彦を委員長として創立されたとされており、その年秋のコミンテルン第4回大会時に「君主制の廃止」スローガンを掲げた「日本共産党綱領草案」がつくられ、それを23年3月の臨時党大会で議論したが紛糾、審議未了のまま国家権力による弾圧で採択できなかった、しかし日本共産党は創立時から「天皇制に一貫して反対してきた輝かしい伝統」を持つ、とされてきました。ところが、私のモスクワでの調査、ソ連崩壊で可能になったコミンテルン・アルヒーフ閲覧で出てきたのは、1922年(7月ではなく)9月に(堺ではなく)荒畑寒村を「総務幹事(書記長)」として作られた共産党の、これまで全く知られていない(草案ではない)「創立綱領」で、そこには「君主制廃止」など入っていませんでした。それどころか、当時の日本共産党のモスクワへの報告書類では、いわゆる「27年テーゼ」まで「君主制」が問題になった形跡はなく、問題にされたのは、もっぱら「政治革命とプロレタリア革命」の関係、普通選挙と合法無産政党結成問題だけでした。どうやら「日本共産党創立=1922年7月15日」そのものが、1930年代初頭に獄中の徳田球一・市川正一らによって作られた「神話」にほかならず、「君主制廃止の(俗にいう22年)綱領草案」も、モスクワで23年秋に作成され24年に独英仏語で発表されたが、実際の日本の運動にはほとんど影響を与えなかったようです。つまり、日本共産党は、もともと堺利彦・山川均・荒畑寒村という戦後の日本社会党左派につながる系譜により「1922年9月綱領」をベースに創立されたものなのに、今日の日本共産党につながる26年以降の指導部は、レーニン死後のソ連共産党のスターリン化とコミンテルンのボリシェヴィキ化のなかで、歴史を偽造し「神話」や「伝説」をつくってきたようです。長大な学術論文ですから、興味ある方は、ダウンロードしてじっくりお読みください。証拠写真も、いくつか入れておきます。そうすると、最近の日本共産党の天皇日の丸・君が代についての政策はその先祖帰りか? などと連想される方もいるでしょうが、まあそこまで性急に短絡させないで、私のいう「短い20世紀の脱神話化」を、じっくり味わってみてください。

 「テルコ=松田照子」さん探索では、モスクワのサハロフ博士記念人権センター犠牲者データベースと、麻布の外務省外交史料館戦前旅券資料が決定打になりましたが、その後も麻布に通って気がついた、日本のアルヒーフ事情3題。一つは「ノートパソコン持ち込み不可」という不便さ。世界各国の主なアルヒーフでは、いまや資料を閲覧しながらパソコンにノートしていくのが常識なのに、日本の外務省外交史料館は、エンピツ以外は持ち込み禁止、外国人研究者もぼやいていましたが、未だに「おかみの史料を見せてやる」の前時代的感覚です。情報公開法もようやく成立するというのに。もう一つは、コピーの値段と発注から入手までの期間。複写技術では世界最高水準なのに、旧ソ連秘密資料を外国人向けビジネスとして1枚1ドルでコピーさせるモスクワのアルヒーフより高くて1枚135円(B4)、ドイツ外務省アルヒーフの倍以上の値段です。しかも注文してから到着するまで1か月かかり、サービスはロシア並みです(ドイツでは2週間でした)。さらには、アルヒーフ職員の専門知識の落差。モスクワでもボン・ベルリンでも(昔通ったアメリカの議会図書館やスタンフォード大フーバー研究所、ハーバード大ホートン図書館はもちろん、インドのネルー図書館でさえ)訓練を受け博士号をもった専門研究者がアルヒーフ窓口にいて、それぞれの研究テーマに則した史料探索を助け、たちどころに文書ナンバーを検索してくれるのですが、先日外務省外交史料館で「旅券発行記録ばかりでなく出入国記録もないか」とたずねたら、「さあ法務省の管轄でしょうか、索引で探してください」とつれない返事、これでは外国人研究者なら、よっぽど日本語に慣れ事情に通じていないと利用できません。デモクラシーにおける政府情報公開、市民の知る権利の立ち後れを痛感します。


モスクワでの無実の粛清犠牲者「松田照子」さんのご遺族と連絡がとれました。皆様のご協力、ありがとうございました! 照子さんのご冥福を祈って、合掌!

1999.2.25 本日の日経新聞および読売新聞朝刊の第2社会面で報じられているように、松田照子さんの実妹美枝子さんにお会いし、照子さんが無実の罪で銃殺された命日や埋葬地、それに1957年の名誉回復の事実が記されたサハロフ人権センターの記録ほか「テルコ・ビリチ」さん関係資料をお渡ししてきました。「おめでとう」というメールもいただきましたが、ご遺族の悲しみを思うと、喜ぶわけにはいきません。肩の荷が一つおりてホッとした、というのが実感です。しかも、まだ50人近い「テルコ」と同じ運命に遭ったと思われる消息不明の日本人犠牲者がいます。「尋ね人」ではなくなりましたから、「テルコ=松田照子」さんの写真ははずし、彼女のほか須藤政尾、小石濱蔵、箱守平造、島袋正栄(箱守・島袋は照子さんと同じモスクワ東洋学院日本語教師)の銃殺・埋葬地と確認されている、モスクワ郊外「ブトヴォの森」の写真を掲げます。かつてGPU=KGBの射撃練習場で、1936-38年の粛清最盛期には毎日数百人の政治犯の刑場となったところですが、現在は犠牲者遺族とボランティアの手で慰霊碑(左)がつくられ、木造のロシア正教の教会(右)が、手作りで建てられています。この教会を守る神父さんの実父も、宗教迫害の犠牲者でした。教会の写真(右)の左端に写っているのは、松田照子と同じくここで銃殺された須藤政尾の遺児ミハイル・スドーさん、右端の女性は、片山潜の秘書で無実の罪でラーゲリ生活を強いられた勝野金政の遺児稲田明子さんです。松田照子さんほか犠牲者の方々に、心からの哀悼の意を表して、合掌!


1999.2.18  「テルコ・ビリチ=松田照子」さんの妹美枝子さんは、ご健在でした。昨日深夜、美枝子さんの息子さん(照子さんの甥にあたります)から、日経新聞と本HPを見たうえで、メールをいただきました。本日朝改めて電話をいただき、ご親族にまちがいないことが確認されました。近くこの間収集した資料一式を、美枝子さんにお届けしてきます。これで「今年の尋ね人」は一件落着です。皆様のこれまでのご協力に、心から感謝いたします。今後ともよろしくお願い申し上げます。 
1938年モスクワでの無実の粛清犠牲者、当時25歳「テルコ・ビリチ=東京麻布・市兵衛町出身・松田照子」さんの関係情報をお寄せ下さい!

1999.2.17 17日朝から半日で、800人もの方が、このHPにアクセスしてくれました。そうです。本HPでの「松田照子」探索を、日本経済新聞が朝刊社会面トップで報じてくれたからです。ありがたいことです。日経の記事を見て、共同通信社会部も協力してくれるそうです。日経の記者は、本籍地六本木の近所で聞き込みをし、登記簿・寺社過去帳も調べたうえで、記事にしてくれました。でもまだ「松田照子」さんの直接情報はありません。引き続き情報を求めます。どんな手がかりでもかまいませんから、ここにメールください。!


1999.2.15 昨年夏にモスクワで会ったビクトリアさんから、英語の手紙が来ました。ビクトリア山本さん、1932年モスクワ生まれ、67歳、父は、戦前日本共産党の書記長山本正美である。ビクトリアさんは、山本正美がクートベ大学院・コミンテルン東洋部に勤務していた時代に、ロシア人妻との間に生まれた子供だった。生まれて間もなく父は「使命」を帯びて帰国、日本共産党最高指導者となり活動中に検挙されたため、父のことを何も知らずに育った。後に父山本正美は、日本で結婚した妻菊代に語った。「社会主義国だから心配ないよ」と。実母も13歳で亡くして孤児になり、苦学してモスクワ外国語大学英語科を卒業した。成人してから父のことが気にかかり、1959年と63年にソ連共産党中央委員会に問い合わせたが、父正美は生きているらしいが日本共産党を出た(実際は61年除名)ので消息はわからない、といわれた。山本正美の妻であり終生「同志」であった菊代が、66年訪ソの際、八方手を尽くして探しだし、ようやく父正美のことを知る。菊代は、実の娘のようにビクトリアさんを可愛がり、連絡をたやさなかった。

 ビクトリアさんが日本を訪問し、初めて瞼の父と会えたのは、ソ連崩壊後の1994年夏、父正美が9月に亡くなる直前だった。山本正美は、私の研究にとっても貴重な証言者・助言者であった。拙著『モスクワで粛清された日本人』執筆にも協力してもらったが、死の直前の夜中の2時頃、突然私のところに電話がかかってきて、「ソ連に残してきた娘に会えたよ」と何の脈絡もなく告げられたのが、昨日のように想い出される。そのビクトリアさんと、昨夏菊代さんに頼まれモスクワで会った際、刊行されたばかりの『山本正美裁判記録・論文集』を旧レーニン図書館に寄贈するようアドヴァイスすると共に、同じく日本人共産主義者で粛清犠牲者の遺児であるミハイル・スドーさんに引き合わせ、スドーさんが父須藤政尾の名誉回復を成し遂げたように、父山本正美のソ連での資料を旧コミンテルン・アルヒーフに請求したら、と勧めておいた。スドーさんとビクトリアさんは、奇しくも同じ1932年生まれ、1か月違いの日本人遺児同士の出会いであった。そのビクトリアさんからの感動的な手紙を、菊代さんの許しを得て、以下に掲げる。


ビクトリア・山本さんから加藤哲郎への手紙(原文英語、モスクワ、1999年1月26日)

 親愛なる加藤さん! お手紙が遅れたことをおわびします。私が、父山本正美についてのすべてのニュースを知ってから、ある程度の時間がたちました。あなたが私に、ここモスクワで父についての情報を得るというアイディアを与えてくれ、父の[ロシア現代史史料保存研究センター・コミンテルン・アルヒーフの]ファイル閲覧を手助けしてくれたことに、御礼の言葉もありません。あなたがいなければ、父のファイルがモスクワにあるなどということは、考えもしませんでした。心から感謝します。
 1994年に、[千葉県]松戸の父を訪れた時、私は父正美に、父はどんな風に生きてきたのか話してくれ、と頼みました。すると父は、すべては自分の本[『激動の時代に生きて』マルジュ社、1985年]に書いてある、と答えました。私は、自分が日本語をしらないことを、本当に残念に思いました。しかし、いつかどこかで、なんとか父のことを知ろうと、望んでいました。
 いまや、私は父の[クートベ時代の]ファイルを読みました。でも、私が知りたかったことについては、まだほんの少ししか、父のことはわかりません。父のファイルの資料は、少なくとも一部は、どこかに移されたようです。多くのページナンバーが抜き取られており、その欠番のうえに、改めて通しナンバーがつけられているからです。
 あなたは私に、もしも何か新しいことが出てきたら知らせてくれ、とおっしゃいました。いま私は、父が1932年に日本語で書いた自叙伝のコピーを持っています。父は、彼の生まれと出身階層、知的成長と教育、政治的訓練、社会生活への参加、弾圧を受けた経験と自分の信念について書いています。私はそれは、自分の[共産主義への]忠誠を証明するために、これらの質問項目に答えたものだと思います。自叙伝のほかに、(片山潜を含む)数人の党員たちによる、同志アレクセーエフ[山本正美のソ連での名前]の入党推薦状があります。そして、私が父についてソ連共産党中央委員会に問い合わせた件についての、ソ連の官吏たちによる報告書類が入っていました。
 以上がすべてです。私にとって驚愕するようなことは、ありませんでした。もしもあなたが関心をもたれるものがあれば、どうぞお知らせください。
 スドーさん[日本人粛清犠牲者須藤政尾の遺児ミハイル・スドー教授]が[98年11月に]日本を訪問されたことを知らなかったのは、残念でした。藤井さん[藤井一行富山大学名誉教授]にも、よろしくお伝えください。あなたがモスクワで、私をスドーさんに引き合わせてくれたことに、心から感謝いたします。いまや私の孫娘たちが、スドーさんの組織した日本語教室に通っています。そして、この孫たちが日本語を学び、父正美さんと母菊代さんの本[山本菊代『たたかいに生きて』柘植書房、1992年]を日本語で読めるようになる日がくることを、心から希望しています。 
    心からの尊敬と(もしもあなたに時間があれば)返事があることを願って          
                          ビクトリア


 発表後3か月原則にもとづき、法政大学『大原社会問題研究所雑誌』掲載の旧ソ連日本関係秘密文書分析のアップロードを開始します。今回は、98年10月18日付東京新聞・中日新聞などで大きく報道された、「モスクワでみつかった河上肇の手紙」(98年11月号)です。この関係での公開研究会が、東京政治研究会例会として、2月27日(土)14−17時、法政大学市ヶ谷校舎80年館研究棟3F社会学部資料室内会議室(tel.03-3264-9358)で開かれます。私がモスクワで収集した資料を用いて、「コミンテルン資料による日本共産党史の検証」と題し報告します。「テルコ探索」の旅を終えて、1990年に発足し、この3月に解散する「フォーラム90s」関係のエッセイ「フォーラム型運動の21世紀へ」『20世紀の政治思想と社会運動』書評を、新規に収録しました。 


 1999.2.9 緊急の人捜しアピールです。「99年の尋ね人」=「テルコ・ビリチ」(左の写真、1938年粛清当時25歳)の身元が判明しました。1930年夏にロシア人と結婚して旧ソ連に渡った、1912年生まれで東京都麻布区市兵衛町(現在の港区六本木3丁目4ないし5)出身の「松田照子」さんで、父親は陸軍中佐だったといい、当時「松田美枝子」さんという妹がいたようです。どなたか、松田さんの近親者・関係者を知りませんか?

 昨年夏、世界一の発行部数を持つ「読売新聞」社会面トップで情報提供をよびかけたのに、旧ソ連で粛清された日本人女性「テルコ・ビリチ」については、その後の私の在外研究中にも、何の情報も寄せられませんでした。そこで、この間ロシアとドイツで修得したアルヒーフ探索の手法を使い、日本側資料に自分で当たることにしました。まずは東京麻布の外務省外交史料館で、戦前日本人旅券発行記録都道府県別マイクロフィルム(J門2類2項0目J13-7号、全44巻)を探索し、「1930年7月25日発行 旅券番号161513 松田照子 戸主美枝子姉 東京都麻布区市兵衛町2丁目25 明治45(1912)年5月15日生 渡航先 ソヴィエト連邦 旅行目的 結婚のため」という候補者をみつけました。同時に、夫「A・ビリチ」に相当すると思われる在日ソ連外交官を、『特高警察関係資料集成』全17巻(不二出版)に収録された外事警察記録のなかから探索し、その候補者の一人として、警保局保安課外事係「第57帝国議会説明参考資料(1929年12月)昭和4年10月末現在ソ連大使館員名簿」中の「警手 アレクサンドル・ザムイロヴィチ・ビリッチ 27歳、昭和4年3月9日着任、京城総領事館より転勤す」を抽出しました。ここまでが、前回更新時までの「99年の尋ね人」情報です。

 その後の外交史料館通いで、この二人の結婚が事実であったことが判明しました。先日、膨大な戦前日本外交史料と格闘したところ、「在外本邦人動静関係雑件」(K門3類2目1号3)という100頁ほどの目立たぬファイルのなかに、在ソ連日本大使広田弘毅から外務大臣幣原喜重郎宛の昭和5年12月11日付け機密公532号「共産党員に嫁したる松田照子の動静」と題する1枚の文書を発見しました。それによると、1930年7月25日付け旅券を持つ「松田照子」という女性が、同年9月2日にモスクワの日本大使館に在留届を出した。それで大使館が身元を調べたところ、「本年まで東京に留学していたソ連共産党員ビリチと正式に結婚」してソ連に入り、「目下東洋学院にて日本語の教鞭を執り月200ルーブルを受け」ていることがわかった。しかしビリチは共産党員でありながら外国人と結婚し、ソ連の「官憲側より相当の圧迫さる」ため、妻の照子は日本国籍を離脱してソ連国籍を得ざるをえないだろう、なお照子本人の「思想的傾向は未だ十分に判明せざるも共産主義に共感して居るものに非ざるに認めらる」、つまりノンポリのようだ、というものです。照子の本籍地・住所・生年月日、ビリチのフルネーム等はありませんでしたが、先に私が見つけた旅券と発行日が一致し、1912年生まれはモスクワ・サハロフ博士記念人権センターのロシア語記録とも合致しますから、「テルコ・ビリチ=1930年7月25日発行旅券番号161513 松田照子」であり、結婚相手は「A・ビリチ=ソ連大使館警手 アレクサンドル・ザムイロヴィチ・ビリッチ 昭和4年3月9日着任当時27歳」と最終的に確認できました。

 そこで、外交史料館から歩いて5分の「麻布区市兵衛町2丁目25」も、ついでに探索しました。戦前及び昭和30年代の地図で「市兵衛町2-25」をみると、旧スペイン大使館やお寺のたてこんでいた地域なので、すぐにわかりました。六本木通りから右折し六本木プリンスホテルに入る坂をまっすぐのぼっていくと、昭和30年代に4つのお寺がならんでいたところに、円林寺と善学寺という二つの寺が、今でも残っています。その二つのお寺の墓地裏一帯が「市兵衛町2-25」です(お寺は旧今井町)。善学寺さんの紹介で、戦前・敗戦直後から住んでいる旧2丁目25番地の4軒のお年寄りにお聞きしたところ、残念ながら「松田さん」には4軒とも記憶がありませんでした。東京大空襲で一度焼け野原になったということで、現在はマンション、アパートが多く、近所の聞き込みだけでは手がかりがなさそうです。現住所でいうと、「東京都港区六本木3丁目4」20-27、及び「3丁目5」4-8近辺で、六本木交差点から溜池方面に少し下り、六本木プリンスホテル入り口の1本手前の寄席坂(よせざか)を上って松本治一郎記念館=部落解放同盟中央本部までの50メートルほどの坂の両側、約50世帯ほどの範囲内です。現在の昭和電工労働組合の建物が、旧「市兵衛町2-25」の中心のようです。そこで、インターネット上の麻布の郷土史サイト「DEEP AZABU」さんのゲストブックで、「松田照子・美枝子」についての情報提供を依頼しました。すでに「昔近くに永井荷風が住んでいた」「麻布小学校の卒業者名簿には該当者がいない」といった情報が寄せられています。

 ここまでわかれば、「松田照子」のご遺族についても、何らかの手がかりが出てくるのでは、と期待しています。そうすれば、1938年3月14日の命日や、ブトヴォの刑場に埋葬されていることも、1957年に無実として名誉回復された資料も、ご遺族・関係者にお届けできます。私としても、研究の一区切りになります。どなたか情報をお持ちの方、ぜひここにメールをお寄せ下さい。マスコミ方面の方の調査・報道も歓迎いたします。


加藤哲郎研究室にようこそ! この国の20世紀をふりかえる年です。平和と環境と性差について、じっくり考えてみましょう!

1999.2.1 栄光のラッキーナンバー33,333 ヒットは、加藤ゼミOBで一橋大学商学研究科で「団塊の世代の企業戦士化」について修士論文を書き終えたばかりの、宮崎晋生さんでした。これで博士課程に無事進めることでしょう。でも、この伝でいくと、たぶん7月頃までに、ダイニング・メッセージとなる44,444ヒットがくるのは避けられません。皆様に不吉なナンバーでご迷惑をかけるのも何ですから、無神論者の私が、自分でヒットしようと思いますが。若者サイトをサーフィンすればわかるように、1999年は、例のノストラダムスの大予言、ハルマゲドンの年です。子どもたちや学生同士の今年の年賀状の重要トピックが、ノストラダムスの7月をどう乗り切るかだったとか。世紀末不況と重なる、不気味で異様な光景です。

 もっともそれは、日本に限られたものではありません。20世紀の末年は2000年で21世紀は2001年からですが、キリスト教世界には、millenniumという千年単位の考え方があります。100年単位のcenturyよりはるかに深刻に千年をふりかえり、次の千年王国を夢見る年です。欧米のメディアでは、例のコンピュータの2000年誤作動問題と重ね合わせて、中世まで遡って「近代化modernization」を内包した「文明civilization=civilized society」の意味を問い直しています。最近読んだ同僚平子友長教授の論文「市民社会概念の歴史」(『法の科学』第27号)によれば、アダム・スミスは正義の貫徹する古典古代的civil societyと、分業・生産力発展によるcivilized societyを、厳密に区別していたそうです。それを経済主義的なbuergerliche Gesellschaftに等値したのがヘーゲル、マルクスの特殊にドイツ的な系譜で、それが近代日本に輸入され定着してしまったとか。 確かに「壁」崩壊後のドイツでは、buergerliche Gesellschaftとは異なるZivilgesellschaft論が盛んです(ここを参照)。

 日本のマスコミでも20世紀を振り返る企画が盛んですが、20世紀の百年全体を、千年なり人類史なりのなかで問い直す視点が必要です。私が『思想』の「短い20世紀の脱神話化」や『歴史学研究』の「戦後日本と『アメリカ』の影」で主張したのも、そうした複眼的な省察の重要性なのですが、どちらかといえば「戦争と革命と経済発展」風の20世紀論が支配的ですね。たしかに20世紀はその点で突出していて、そこから21世紀のグローバル化や情報化が見通されるのですが、例えば「戦争と革命」の視角をmillenniumまで延長すると、どうなるのでしょうか? 例えば加藤秀一さん「思考する惑星」HP「優生学とジェンダー」年表からは、どんな20世紀が見えてくるでしょうか? 田中明彦さんの『新しい「中世」』(日本経済新聞社)も面白いですが、ハンチントンとは違った眼で「文明」を見直す必要がありそうです。柳父章さんの『一語の辞典 文化』(三省堂)では「文明」も扱われており、ヒントになりますよ。そこから「平和」の意味を再構築し、「環境」や「ジェンダー」を千年単位のイシューにすることも可能なはずです。今年はゴールデンウィークから、メキシコ滞在になりそうです。年頭「初心」を人類史の始源におきかえて、「気流の鳴る音」をききながら、そんなことを考えてきたいものです。

 昨年夏に「読売新聞」社会面トップで情報提供をよびかけたのに、未だに消息不明の旧ソ連で粛清された日本人女性「テルコ・ビリチ」について、私の帰国後の調査で身元が判明しましたので、V・チャットパディアについての北欧からのメール情報と共に、「99年の尋ね人欄をヴァージョン・アップしました。来年度新3年生用ゼミ案内ver.3を合宿所内学部ゼミページに入れました。英語版くつろぎルーム"Cow Joke"に詠み人知らずの投稿があり、そのままヴァージョン・アップしてあります。法政大学五十嵐仁さんHPの、神戸大学久米郁男さんの著書に対する長大な批判的書評が完結しました。日本の政治学内部での久々の大論争に発展すれば、面白く有意義なのですが。久米さんの反論を期待したいところです。


 1999.1.18 来年度新3年生用ゼミ案内ver.3を合宿所内学部ゼミページに入れました。ラッキーナンバー33,333ヒットは、加藤ゼミOB宮崎晋生さんでした。
1999.1.15   いつ頃からでしょうか、こんな二重生活に入ったのは? 現実世界とネット上のバーチャル世界と。どうも藤岡信勝センセイらの「
自由主義史観研究会HP」とヒット数を張り合ったあたりと思われますが、10日に一度、月3回のペースで更新してきました。それにはそれなりの条件があって、昨年はこの職業について初めてのサバティカル・イヤー、つまり講義免除で研究に専念できる年でした。世紀末の今年は、そのツケが回ってきて、講義ノルマが増え、研究もアウトプットしなければなりません。そこでバーチャル世界の方のペースを落とし、2週間に1度ないし月2回、原則として1日・15日を更新日にすることにします。もっとも合宿所の学部・大学院ゼミ日程や、エキサイティングな「事件」には、部分更新で対応していきますが。

 アカデミズムのホームページには、年1回張り替えとか、講義科目・履歴・業績一覧だけで全然更新しない、顔見せカリキュラム型サイトが多いのは事実です。そもそも大学事務が管理しているHPが多く、私の大学でも学内におくと更新はフロッピーに入れて事務に持っていく方式と聞き、民間プロヴァイダーで自分流につくる方式にしたのです。ましてや日本の政治学では、日本政治学会のHPさえない現状ですから。しかし、こうした動きのないHPは、どの程度に活用されているのでしょうか? はなはだ疑問です。大学入試のために高校生や先生方がみているのでしょうか? データベースとして利用できる面はありますが、私たち研究・教育労働者の方が、もっとアクティヴになる必要がありそうです。

 こんな感想をもったのは、1月10日の日曜日、NHK教育テレビのマラソン特集「日本の学校」を見た(聞いた?)ため。子どもたちの生の声は悲鳴(!)に近いのに、それに対する有馬文部大臣の答えの説得力のなさ! でも、冷静に考えてみると、大学教育にたずさわっている側の認識は、有馬氏の方に近いのではないでしょうか? 丸山真男を使った私の実験でかかえた問題にも、相通じるようです。どうもこのギャップは、すべての子どもにパソコンを学ばせるといった情報化=バーチャル世界化の方向では、埋められないようです。コミュニケーションの原点としての「ふれあい」、家族や地域社会に眼を向ける必要がありそうです。「初心にかえって」は、ここにもあてはまります。それにしても、正月から読売新聞の「戦後民主主義」攻撃と小沢一郎の「元気」が目立ちます。そしてついに自自連立内閣、1999年は、やはり世紀末の気配が漂い、きなくさくなってきました。英語版くつろぎルーム"Cow Joke"に詠み人知らずの投稿があり、そのままヴァージョン・アップしました。世紀末は、この国だけではないようです。


1999.1.1A Happy New Year!  Ein Gutes Neues Jahr!  恒例バーチャル年賀状です。写真は、なぜかドイツの地方新聞(ボンとケルンの間にある地方都市ラインバッハ市の)に大きく報じられた(?)Webmaster氏の現地調査(いったい何を調べてきたんだ!)。

 昨年は春からアメリカ、ロシア、ヨーロッパをまわり、年末までドイツに滞在しておりましたので、皆様には大変失礼し、ご迷惑をおかけしました。ただしインターネットと電子メールはつながっておりましたので、多くの皆様とはネット上で交信し、私もホームページを更新して、世界各地から便りを寄せてきました。HPの方は、おかげさまで年末に通算3万アクセスになり、日本の社会科学におけるメジャーなサイトの一つとして認知していただくことができました。

 旅の多くは、1920・30年代在外日本人についてのアルヒーフ調査で、その一端は『大原社会問題研究所雑誌』に昨年11月号から発表し始めました。その間考えたことは『思想』99年1月号に小論「短い20世紀の脱神話化」を書いておりますので、ご笑覧ください。また、身体論から戦後日本を扱った春の歴史学研究会大会報告「戦後日本と『アメリカ』の影」は、『歴史学研究』10月増刊号に出ておりますが、詳しい内容はHPの方をご参照ください。

 海外との往復の中で、日本の政治経済社会の閉塞を眺めていると、日本の20世紀とは何だったのか、と考えさせられます。物質的豊かさとゆとり・ふれあいの貧しさ、世界市場の中での重みと一人一人のいのちの軽さ、経済の突出と民主主義の頼りなさなどの秘密を、21世紀をみすえつつ、今年も探求していこうと思います。皆様におかれましても、いのちとふれあいを大切にしながら、よいお年となるよう、祈念しております。          

1999年元旦           加藤 哲郎


 通算3万ヒットと新年を記念して、リンクページを全面更新・追加したほか、いくつか技術的工夫をこらしました。長い間親しまれてきた(?)青空のバックは、ドイツで自分の「ベルリン冬便り」を読む時、小さい画面では白雲のまだらで文章が読みにくかった経験をもとに、しばらくお休みにし、背景を単色に変えてみました。ゼミ合宿所に関係者以外も入っているようなので、鍵をかけました。そろそろ2つのプロヴァイダーに分割して入れているファイルも満杯になってきたので、松飾りは今回かぎりとし、だんだん軽くシンプルにしていこうと思います。私の在外研究中に、同僚矢沢修次郎教授がHPを開設し、「社会学とマッキントッシュ」というマックファン必見のエッセイを公開しています。そうです。私もマックの初心にかえって、改めてネチズンが気軽にアクセスできる、軽快な学術サイトをめざします。そうです。1999年のキーワードは「初心にかえって、世紀末に光を!」──美的センスに自信のある方、ご意見お寄せ下さい。

 年末ベルリンからの帰国直前、フンボルト大学日本研究センター付属森鴎外記念館で行ったドイツ語講演「ワイマール末期在ベルリンの日本人文化人・知識人」(Ogai-Vorlesung)は、関連資料と共に英語ページに収録、法政大学『大原社会問題研究所雑誌』に発表し始めたモスクワ収集資料の解読は、98年12月号と99年1月号に「1922年9月の日本共産党綱領」が掲載されています。こんな私の最近の一連の仕事を、法政大学五十嵐仁教授HPは、「国際歴史探偵」と命名してくれました。同HPの神戸大久米郁男教授・一橋大渡辺治教授の新著への批判は、 なかなか刺激的ですよ。新年は年賀状を買っていませんので、HPでの挨拶・メールで代行し、書状は返事のみにさせていただきます。今年もよろしく。



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