日本共産党新綱領草案について(2003年6-7月)

 


「本当の精神的勇気とは、それが精神である以上、組織的戦闘行為に加わって人一倍の勇敢さを示す場合よりも、むしろ団体権力の圧迫と衆をんだ便乗的非難とに抗して敢えてそこから離脱する決心をする場合にこそしばしば現れ出るものである」(藤田省三)

 


2003/6/15 昨6月14日から、篠田正浩監督の映画『スパイ・ゾルゲ』が一般公開されました。早速封切を見てきましたが、3時間息もつかせぬ出来栄え。上海でゾルゲ尾崎秀実を引き合わせたアグネス・スメドレーの描き方は、私のVirendranath Chattopadhyaya研究からすると違和感が残りますが、マックス・クラウゼン宮城與徳ベルジン将軍等については、学ばされるところもありました。映画のゾルゲは、「国際共産主義万歳!」と叫んで絞首台に消え、民衆に引きずりおろされるレーニン像と重なります。6月10日付け朝日新聞政治面で、近く発表される日本共産党綱領改定についてコメントしたところ、早速宮地健一さんHP「共産党・社会主義問題を考える」「綱領改定をめぐるマスコミ論調」に収録され、「さざ波通信」さんの掲示板では、「ブルジョアマスコミ、評論家」なる、なつかしいレッテルつき御批判をいただきました。こういう問題では、悪名高い共産党の丸山真男批判キャンペーンのように、かつては一言発言すると百倍の反論・批判・罵声が返ってきたために、多くの政治学者が実名での論評を断ってきた歴史があり、私が学問的に研究しているのは戦前だけですが、かつて『日本共産党への手紙』(1990年)で「科学的真理の審問官ではなく、社会的弱者の護民官に」とオープンに発言してきたので、コメント役がまわってきました。とはいっても、2時間以上話してほんの30行、新聞コメントの常とはいえ、デジカメ顔写真よりも、もっと正確に入れてほしかった点があります。なにしろいまや、大マスコミの野党担当記者でも、20世紀国際共産主義運動史の基礎知識などないに等しく、一般読者には難しいからという理由で、削除された論点が多いのです。

朝日新聞2003年6月10日付けコメント    一橋大教授(政治学)加藤哲郎

 生き残りに変身必要

 61年綱領は、資本主義は全般的危機にあり、世界の3分の1は社会主義国で、日本も合流するという前提に立っていた。ところが、ソ連が崩壊し、中国は市場開放して資本主義化している。綱領が想定していた世界の枠組みが崩れてしまった。

 綱領は、現実に合わせた手直しで、つぎはぎだらけの文章だ。「マルクス・レーニン主義」や「プロレタリア独裁」は消えたし、社会主義の柱だった「国有化」は削除され、「社会化」という抽象的な表現になった。

 必要なのは、冷戦崩壊後の世界を見る新しい理論的な枠組みだ。しかし、共産党は「現綱領は正しい」と言い続けてきた以上、無理だろう。イタリア共産党が左翼民主党に変えたように、党名を変えて社会民主主義政党に変身するしか生き残りの道はないと思う。

一つは、共産党61年綱領の枠組みであった「資本主義の全般的危機」論。私の記者へのレクチャーの中心は、その「万年危機」の断末魔イメージよりも、理論的核心としての「4大矛盾・3大革命勢力」論だったのですが、紙面には登場しません。「4大矛盾」とは、(1)資本と労働の階級矛盾、(2)帝国主義=抑圧民族と被抑圧民族の民族矛盾、(3)帝国主義国家間の矛盾、(4)資本主義と社会主義の体制間矛盾、というもので、当時の国際共産主義運動が共有する時代認識でした。そこから、(1)資本主義国内での労働者階級の闘争、(2)被抑圧民族の反帝国主義民族解放運動、(3)ソ連・中国など社会主義国家体制が「3大革命勢力」として導かれる、単純にして便利な世界像で、もともとブハーリンのコミンテルン綱領草案(1922年)が起源ですが、スターリン時代に世界に広まり、61年当時の共産党は、これを自明の前提として、日本社会の変革の道をあれこれ議論していました(私の『国家論のルネサンス』高内俊一『現代日本資本主義論争』にありますが、ネット上でも 、菱山郁朗「構造改革論の思想的意義と現実的課題」、江田三郎「新しい政治をめざして」ぐらいは目を通してほしいものです)。それはたとえば、社会主義国家の核武装を防衛的だとして容認するという、後に日本の反核平和運動に取り返しのつかない分裂までもたらす、基底的発想・認識枠組みになっていたのです。綱領から言葉として「全般的危機」が消えるのは、新聞記事にある通り1985年ですが、「4大矛盾・3大革命勢力」風の世界認識の枠組みは、現綱領にも根強く残されています。私がコメントを求められ参照したのは、6月21日に始まる共産党第7回中央委員会で発表される新綱領草案の起草者といわれる、不破哲三氏の最新の世界認識を示す「世界とアジア――二十一世紀を迎えて」(「しんぶん赤旗」6月4日)という講演。最近の平和運動にも目配りして20世紀をふり返っていますが、その基本的枠組みが「4大矛盾・3大革命勢力」風です。

 不破氏の講演は、昨年11月以降の世界平和運動を高く評価していて、それ自体は結構なことですが、それがどのように準備され組織され実現されて、どういう人々がどのように加わったのかは、全く分析されていません。私が「情報戦時代の世界平和運動」「反ダボス会議のグローバリズム」で論じたATTAC世界社会フォーラムも出てこないばかりか、「ネットワーク時代に真のデモクラシーは完成するのか?」や「現代日本社会における「平和」──情報戦時代の国境を越えた「非戦」などで論じたWORLD PEACE NOWグローバル・ピース・キャンペーンなど日本の運動についても、ほとんどわかっていないようです。もう一つは、「ソ連の崩壊は、資本主義から離脱して社会主義へという流れそのものがなくなった、ということではありません。ソ連の失敗からも教訓をくみとって、新しい形で社会主義をめざそうという流れが、一九九〇年代に、中国やベトナムで始まったことは、二十一世紀の世界に大きな影響をおよぼす重要な意義をもちます」という時代錯誤のノスタルジアです(なぜか北朝鮮とキューバは出てきません)。中国の人々自身が今日の状態を「赤い資本主義」と隠然・公然と認めているのに、まだ中国に「市場経済を通じて社会主義へ」の夢を見ているとすれば、その「社会主義」とは、共産党一党独裁以上の意味はないでしょう。不破氏が中国共産党に招待され、歓迎用に演出された「模範工場」「招待所」だけを見せられ幻惑されてのものでしょう。かつての宮本顕治氏のルーマニア・チャウシェスク政権評価に似た、老境の「青い鳥」探しです。「21世紀の『共産党宣言』」と話題のネグリ=ハート『帝国 EMPIRE』には、いろいろな理論的・政治的問題点があり、私も今回更新に講演記録「マルチチュードは国境を越えるか?」や『エコノミスト』誌書評を収録しましたが、少なくとも不破哲三氏よりは、はるかにリアルに20世紀世界を総括しています。

 新聞コメントで、いまひとつ紙幅が足りなかったのは、「党名を変えて社会民主主義政党に変身するしか生き残りの道はないと思う」の部分。その前に「イタリア共産党の左翼民主党に変えたように」がありますから、イタリア型社会民主主義(左翼民主党は、共産主義インター=コミンテルン型伝統から離れ、社会主義インターナショナルに加わった)を勧めたように読めますが、私が説明したのは、本HPの「日本の社会主義運動の現在」「現代世界の社会主義と民主主義」宮地健一さんHP「コミンテルン型共産主義運動の現状:ヨーロッパでの終焉とアジアでの生き残り」にあるように、ヨーロッパでは、もともと社会民主主義の左派からロシア革命時に分裂して生まれた共産党が、ソ連崩壊時にほとんどが解散・解党して社会運動の小グループになるか、社会民主主義に復帰していったこと、その中で資本主義圏最大の共産党だったイタリア共産党さえ党名を変更して社会主義インターに加入した、という大きな歴史的流れです。さらにいえば、世界の社会民主主義の緩やかな結合体である社会主義インターは、共産主義インターとは違って、加盟政党のほか、諮問政党やオブザーバー政党もあり、ストックホルム宣言にある「地球的規模の自由・公正・連帯」を共通の目標にしながらも、さまざまな潮流が入っています。もちろん「一国一前衛党」ではなく、一国から複数の政党加盟もあり、ヨーロッパだけでも内部に5つの潮流があります。ブレアのイギリス労働党や「第3の道」も有力な潮流ですが、綱領レベルで私が評価するのは、ドイツ社会民主党の1989年ベルリン綱領、スウェーデン社会民主党の2001年新綱領の路線です(加藤『ソ連崩壊と社会主義』1992年、参照)。生活経済政策研究所から「ヨーロッパ社会民主主義論集」シリーズが刊行されており、最新号では「スウェーデン社会民主党党綱領・行動綱領、ドイツ社会民主党基本価値委員会:自由・公正・連帯」が訳出されていますから、共産党周辺の方々も、ぜひとも綱領討論に活かしてほしいものです。スウェーデン社会民主主義が女性や弱者にやさしいだけではなく意外に「労働者階級」の原理が残っていたり、ドイツSPDがなぜ「平等」といわずに「公正」というのかがわかったりして、参考になるはずです。

 もっとも、現代世界でもっとラディカルな流れは、共産党がかつて「人民」には含めず「反共市民主義」と攻撃した新しい社会運動、市民運動・NGO・NPOが中心になり、19世紀にマルクスが「第一インターナショナル」分裂時に切り捨てた「ユートピア社会主義」やアナーキズムの流れをも内部に含みながら、「もう一つの世界は可能だ」を合言葉に、世界社会フォーラムに再結集しつつあります。ひとつだけ、3度のポルトアレグレ世界社会フォーラム大会成功の原動力となった、ブラジル労働党(PTB)がどういう政治を行っているのか、実例を紹介しましょう。ブラジルには共産党から社民党まで多くの左派・労働者政党がありますが、昨年末ルラ新大統領労働党(PTB)から選出されたほか、ポルトアレグレなど多くの州・自治体で、労働党が与党になっています。私の「IMAGINE! イマジン」から入れる、北沢洋子さんHPの世界社会フォーラム創立大会参加記「2001年1月、ポルトアレグレ― 新しい運動の時代の始まり」からです。

 ブラジルは、途上国の中でも、インドと並んで大国であるが、同時に、連邦国家である。ブラジルの最南端のリオグランデ・ドスル州は、左翼の労働党が政権を握っている。その州都である人口130万人のポルトアレグレ市も、すでに12年前から、市長、市議会ともに労働党である。
 ポルトアレグレ市は、「参加民主主義のモデル」と言われている。その典型的なプロジェクトが、2年前からはじまった「参加型予算システム」である。市の収入のうち、公務員の給料を差し引いた事業費の80%が、市内16のコミュニティの運営に任されている。それぞれのコミュニティが代表を選出し、交通、病院、教育、公的住宅、上下水道の開発、課税制度改革などのテーマについて、議論し、予算の額と、優先順位を決める。予算の配分、実施にあたっては、コミュニティの代表と市議会議員と共同で行う。
 この参加型予算システムが成功していることは、ポルトアレグレ市を訪れた人には、一目瞭然である。まず、ポルトアレグレ市には乞食がいない。スラムがない。小さな小路にいたるまで、清潔である。夜、女性が町を歩いても安全である。市の人口より多くの樹木が植えられていて、大気汚染がない。ブラジルの他の都市に比べると、その成果が判る。国連開発基金(UNDP)の人間開発指数では、ラテンアメリカの中で100万人を超える都市のなかでポルトアレグレ市が最上位にランクされている。水道の普及率は99%、下水道は82.9%にのぼっている。
 12年前、労働党の現リオグランデ・ド・スル州のOlivio Dutra知事が、ポルトアレグレ市長に就任した時には、今日の他のブラジルの都市と同様、市財政は破綻し、汚職がはびこっていた。犯罪が多発していた。人びとの政治不信の根は非常に深かったのであった。
 ポルトアレグレには、この政治面での参加型民主主義に加えて、「連帯経済」と呼ばれる経済システムがある。これまで、フランスやEUなどで「社会経済」と呼ばれてきたものである。これは、利潤追求の市場経済に対抗して、協同組合、共済組合、NGO、労組、社会運動など、利潤ではなく人間の連帯に基く非営利の経済活動を指す。これらの経済活動が、市や国のGDPの10%を上回ると、利潤追求の市場経済をコントロールすることが出来ると言われてきた。ポルトアレグレでは、この連帯経済が非常に発展している。生産者、消費者だけでなく、学校やミュージアムまでも協同組合によって経営されている。
 また、ポルトアレグレ市内には、貧困地域はあるが、リオなどに見られる不法占拠者のスラムはない。これは、ブラジル最大の社会運動である「土地なき労働者運動(MST)」の活動が大きく貢献している。MSTは、都市に流れ込んできた元農民が、再び農村に帰り、大地主の遊閑地を占拠する運動である。ブラジルの軍事独裁政権下で、労組のCUTと並んで、MSTは最も激しい抵抗運動を闘い抜いてきた。
 

 これもレクチャーしたが記事には採用されなかった、私の見る共産党の抱える矛盾は、「さざ波通信」などで議論されている、議会と選挙を意識した政策の現実主義化=右傾化によって、これまで「社会主義革命」を信じて党活動を支えてきた古くからの活動家・支持者が離反することよりも、指導部ばかりか支持層全体が高齢化して、政党としてのリクルートが困難になっていることです。世界社会フォーラムWORLD PEACE NOWに集って未来についての熱気のこもった討論をしている若者たちを引きつけることができなければ、たとえネグリ=ハート『帝国 EMPIRE』の世界像まで採り入れて立派な綱領を作っても、先細りしかないでしょう。私が20世紀社会主義の教訓を踏まえて「生き残る道はない」というのは、そういう意味です。

 最後にもう一言。旧ソ連崩壊による秘密資料公開で明るみに出たのは、『日本共産党の80年』はなぜか無視していますが、私がモスクワで発見した1922年9月創立綱領が日本共産党の初めての綱領であり、創立当初の日本共産党は、「社会主義を経(縦糸)、民主主義を緯(横糸)」にした1901年社会民主党宣言」の流れを引く、社会民主主義政党だったことです。私の研究では、1927年にコミンテルンから「27年テーゼ」を強制され、指導部をモスクワの指令で簒奪されるまでの日本共産党は、思想的には社会民主主義でした。そこで、共産党に関心のある皆さんにサービス。旧東ドイツで「社会主義」の旗を守り続けている旧共産党=PDSの綱領論争をご参照下さい。私の「現代世界の社会主義と民主主義」に簡単に紹介しておきましたが、PDSは、広い意味で「社会主義社会」を実現しようという目的を掲げていますが、社会内に多様な意見があり、社会主義へのプロセスについては多様なあり方がありうるという考えから、政党であると共に社会運動としての性格を保証するために、「民主集中制」型の集権的組織を採らず、むしろ党内「分派」を奨励して、討論を活性化しようとしています。党指導部は、2003年中の綱領改正に向けて、2001年に草案を発表しましたが、ただちに2つの対案が出され、現在3つの草案が、党内で論議されています。すでに7つもの党内グループから長大な意見が寄せられ、それらもすべて公開されて、民主的に討論されています。これは、私も出席した中国での国際会議でPDS代表が報告した話ですが、中国共産党の若者たちは眼を輝かせて聞き入り、古参イデオロギー幹部が渋い表情だったのが印象的でした。 その綱領討議は、現在も続いています。インターネット上でオープンに草案が検討され、議論が公開されています。指導部草案の現代世界認識の中核は、「情報コミュニケーション技術時代の資本主義」と「グローバルな社会問題」です。すでに、「さざ波通信」にも綱領改定の手続きについての意見が発表されていますが、日本共産党指導部の皆さんも、せっかく日本の政党としては最大のホームページをもち、これまでの綱領改定についての討論資料も「日本共産党資料館」をはじめ、れんだいこさん「戦前戦後党史考」、「現代古文書研究会」「国際共産主義趣味ネット」などで公開されているのですから、ぜひとも自ら公開討論ページを設けて、内外のさまざまな声に耳を傾け、北朝鮮天皇制の問題をも含めて、日本での広義の「社会主義」討論を活性化する役割を、果たしてもらいたいものです。11月に党大会を開くそうですが、性急な上からの決定は、「やはり共産党」という暗いイメージを増幅するだけでしょう。


「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する」──だからいま、なだいなださん老人党にエールを!

共産党新綱領草案発表を機に、マルチチュードの「社会的バリケード」の討論と構築を!

 

 2003/7/1  自然科学と違って、「人間」の介在する政治学の世界では、だれもが認める「公理」はほとんどありません。アリストテレスの「人間は政治的動物である」から疑ってかからなければならず、「政治」の定義自体が政治学者の数ほど存在します。その中で、例外的に、ほとんどだれもが否定しえない「公理」があります。アストン卿の語った権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する」( "power corrupts, and absolute power corrupts absolutely")という命題です。ですから、始めから「権力奪取闘争」「権力ゲーム」から降りて落選運動に徹しようとする老人党のよびかけは、すがすがしく響きます。ぜひとも応援したくなります。

 「老人のよいところは、権力欲のないところです老人の代表を国会に、などと馬鹿なことはいわない。だが、老人を馬鹿にするような法案に賛成したものを、必ず落すために、力をあわせるのはいいでしょう。
 われわれの話に耳を傾ける、そういう政治家がいたら、選挙のときには、かれあるいは彼女に投票しましょう。当落線上の候補者は、われわれの票で当落が決まる。こうなればわれわれを無視できない。候補者が、自分の公約をわれわれに示せば、投票する約束をしてもいい。
 ま、ざっと、こういうわけで仲間を募集します 一緒にやろうと思う人はどうぞ
 老人党はインターネット上の政党です。ヴァーチャル(仮想)政党です。党員になるのは簡単。名乗ればいいのです。党費も要らなければ、手続きも要らない。日常会話の中で、周りの人に自分は老人党だと名乗ってください。とりあえずの行動としては、新聞、テレビ、雑誌、あるいは政党、のホームページに投書欄があったら投書しましょう。そのときに肩書きを「老人党員」とするようお願いします。ヴァーチャルな政党ですから、たとえばの話、土井たか子だって、野中さんだって、志井さんだって入って悪いことはない。このホームページを見て愕然として、わたしも入れてくれ、でいいのです。
 怒っているなら率直に怒っていると書いてください。文章に自信がもてなくてもいいのです。率直がいい。全部同調できない人は、「二分の一老人党です」でもかまいません。ただ、これ以上老人は馬鹿にされ続けないぞ、という点で一致すれば、老人党です。
 
 しかしまだ、権力に執着する生臭い老人たちもいます。大正7(1918)年生まれの中曽根康弘元首相などは、憲法改正による「国防軍」作りと教育基本法を改正する「愛国心」醸成に奔走しています。さわやかな社会主義者なだいなださん老人党結成に比して、42年ぶりという日本共産党の新綱領草案は、「党の顔」のセクハラ辞任劇と共に発表されて、予想通りの「老人臭い」内容でした。まずは、短くなりました。61年綱領の宮本顕治色を消して、老人党のなださんと同じ73歳の起草者不破哲三氏の路線に純化させたためです。第4章の政策部分(「行動綱領」)に、これから党内討論で出てくるさまざまな意見を誘導し、アイヌ政策や個別要求を「民主的に」盛り込んでいく作戦でしょう。日本の他党とも比較できるような、政策の具体化は結構なことです。マスコミ報道は、日米安保・自衛隊と天皇制の当面の容認に「現実主義」を見ていますが、これはこの間の政策転換の事後承認で、連立政権入りや世論受けを狙ったものでしょう。『共産党宣言』以来の社会主義政党(政党論の書物では「階級政党」「イデオロギー政党」に分類されます)の綱領(=イデオロギー的基礎)という文書の性格からすると、問題は、別のところにあります

 不破綱領案を注意深く読めば、20世紀社会主義共産主義社会民主主義の二大潮流の分裂に導いた大論争問題が、しごくあっさりと、クリアーされています。「革命か改良か」「直接行動か議会政策か」という20世紀初頭の一大問題は、言葉の遊びで融合されました。61年綱領の「党と労働者階級の指導する民族民主統一戦線勢力が積極的に国会の議席をしめ、国会外の大衆闘争とむすびついてたたかう」という部分から、1994年改正の現行綱領「党と労働者階級の指導」が消え、「民族民主統一戦線の勢力が、積極的に国会の議席をしめ、国会外の大衆闘争とむすびついてたたかう」となっていた部分が、不破草案では「日本共産党と統一戦線の勢力が、積極的に国会の議席を占め、国会外の運動と結びついてたたかう」と、ついに「大衆闘争」も消えました。その代わり、高齢化した党員・支持者向けのリップサービスで、「民主主義革命」「社会主義革命」は一言ずつ残されましたが、「民主主義革命」は「資本主義の枠内で可能な民主的改革」「民主主義的な変革」といいかえられました。その「民主主義革命=改革」の内容は、61年綱領の「革命の政府」「民族民主統一戦線政府」以前でも成立可能な「民主連合政府」の課題とされてきた「革新3目標」とほとんど同じ内容なようです。つまり「革命」水準の格下げです。「社会主義革命」も、説明部分では「社会主義的変革」「社会主義的改革」とトーンダウンです。英語なら「改革」も「改良」もreformです。事実英語版の説明では「democratic reform」と訳されています。「革命か改良か」という、ベルンシュタインやカウツキーへの批判からレーニンやローザ・ルクセンブルグが死活の問題としたイデオロギーの壁が、ひそやかに消えました。社会運動史・政治思想史上では、重要な問題です。そこで今回更新トップページは、本カレッジのスローガン「批判的知性のネットワーク」のために、五十嵐仁さん「日本共産党綱領改定案への論評 」にならって、いつもより長い政治学講義風になります。以下の問題に関心がある方は、ダウンロードして保存を。なんだ共産党もフツーの政党か、老人党で決まりという人は、ここからすぐさま行動へ! 

 19世紀にはなお多様な可能性を孕んでいた「社会主義」を、第一次世界大戦とロシア革命を機に共産主義と社会民主主義とに分裂させ、労働者階級が多数を占めたワイマール・ドイツで1933年国家社会主義(Nationalsozialismus)=ナチスのヒトラー政権成立を許した対立点の一つは、「国際主義か愛国主義か」でした。第一次世界大戦勃発時にドイツ社会民主党主流派は、植民地保有国なのに自国の軍事公債に賛成し、マルクスの「万国の労働者団結せよ!」に背いて、ナショナリズムの側につきました。社会民主主義のすべてがそうなったわけではありませんが、レーニンらはこれを「社会愛国主義」「社会排外主義」として、「プロレタリア国際主義」を文字通りに体現する世界単一党=共産主義インターナショナル(コミンテルン、1919-43)を結成しました。日本共産党をも一支部とするコミンテルンは、社会主義ソ連を「労働者の祖国」とし、「国際主義」を体現しました。だからこそリヒアルト・ゾルゲは、「祖国」ドイツを捨てて、「国際共産主義万歳!」の情報戦に生命を賭したのです。日本の外務省ホームページのなかで、「各国・地域情勢」のページは、各国政治経済の歴史・現況がコンパクトにまとめられ、海外旅行の事前調査には便利です。これ実は、アメリカ国務省ホームページCountries and Regions中のCountry Informationとそっくりです。そのJapanについての2003年4月更新アメリカ合衆国政府公式見解を見ると、「日本の歴史」の冒頭に、いきなり神武天皇の建国神話が出てきます(Traditional Japanese legend maintains that Japan was founded in 600 BC by the Emperor Jimmu, a direct descendant of the sun goddess and ancestor of the present ruling imperial family. )。現代日本の政治類型は「立憲君主制」( Constitutional monarchy with a parliamentary government)と明記されており、CIAホームページ情報にもとづいてか、「国家元首chief of state=天皇 Emperor Akihito」が、堂々と小泉首相の前におかれています。外からみると、きっとそうなんでしょう。

 日本政府も自民党も、アメリカ国務省に抗議した形跡はありません。中曽根康弘氏なら「我が意を得たり」でしょう。老いてなお賢明なナショナリスト不破哲三氏は、これを「アメリカ帝国主義の陰謀」と思ったのでしょうか、なんと「日本は君主制ではない」という命題で、アメリカとの理論闘争を始めました。不破氏の共産党新綱領草案の提案にあたっての報告では、「国家制度というものは、主権がどこにあるかということが、基本的な性格づけの基準であります。その点からいえば、主権在民の原則を明確にしている日本は、国家制度としては、君主制の国には属しません。せまい意味での天皇の性格づけとしても、天皇が君主だとはいえないわけであります」「憲法は、天皇は、国の統治権にはかかわらないことを、厳格に定めているのです。だいたい、国政に関する権能をもたない君主というものは、世界に存在しません。ですから、日本の天皇の地位は、立憲君主制という国ぐににおける君主の地位と、その根本の点で違いがあるのです。立憲君主制というのは、形の上では国王が統治権を多かれ少なかれもっていて、それを、憲法やそれに準じる法律で制限し、事実上国民主権の枠のなかにはめこんでいる、という国家制度です」とイギリスの例を出し、「日本の場合には、天皇には、統治権にかかわる権限、『国政に関する権能』をもたないことが、憲法に明記されています。ここには、いろいろな歴史的な事情から、天皇制が形を変えて存続したが、そのもとで、国民主権の原則を日本独特の形で政治制度に具体化した日本の憲法の特質があります」として、「その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」という新綱領草案を根拠づけます。近くイラクまで出ていきそうな自国の軍隊=自衛隊も、当面「活用」するのだそうです。他国=世界に仲間=「同志」を失ったからでしょう。セクハラを理由に、説明責任も果たさず突然国民の前から消えた国会議員(あわてて議員HPのカバーページを消したようですが、Googleで見ると「頭隠して」です)を、書記局長が記者会見で「同志」と呼ぶ感覚ですから。国連・国際法を重視し、日本国憲法に従うのは結構なことです。しかし、「共産党」と名乗り続けるレーゾン・デートル(存立根拠)が崩れたことを、不破氏は、どれだけ自覚しているのでしょうか? 

 数年前、麻布の外務省外交文書館で、旧ソ連粛清犠牲者「松田照子」を探索した際の、副産物がありました。何しろ手がかりは、サハロフ人権センターで見つけた「テルコ・ビリチ」の名前だけでしたから、手当たり次第に日本側外交資料にあたっていたら、「雑件」という綴りの中に、とんでもない資料が入っていました。今では井上敏夫編『野坂参三予審尋問調書』(五月書房)に収録されている、28年3・15事件逮捕時の「野坂参三検事聴取書」(1928年6月14日付)で、自分の所属する「細胞」の「同志」についてベラベラ喋ったうえ、「私一個ノ個人トシテハ」いわゆる「27年テーゼ」の「『スローガン』ノ内君主制ノ撤廃其他一二ノ事項」に「異論ヲ持ッテ居リマス」というものでした(同書74頁)。その綴りは、福本和夫・荒畑寒村の聴取書と一緒で、福本・荒畑は原則的に自分の考えのみを述べ、他人を売ったりはしていませんでした。野坂は、おそらく天皇制権力からこの「君主制容認」を評価されて、30年に眼病治療を理由に保釈され、31年モスクワに渡って、国崎定洞・山本懸蔵ら在ソ日本人へのスターリン粛清の嵐をも無傷で泳ぎ切り、最近発見されたアメリカ戦時情報局「延安レポート」からも明らかになったように、敗戦前から中国でアメリカ側に自分を売り込み、エマーソンらに自分の天皇観を説いていました(『インテリジェンス』2号)。また、45年末にソ連を密かに訪問して、「天皇の半宗教的役割」を認めさせる方向でソ連共産党とも意見を調整して帰国し、占領期「愛される共産党」の「顔」となりました。実は、今回不破哲三氏の説く天皇論は、44-45年に野坂参三が米ソ両国諜報機関及び毛沢東に伝えた──したがって実際にGHQの「象徴天皇制」存続決定にある種の影響力をもった──日本的に特殊な君主制存続を正統化する論理と、似通っています。

 しかしこんなことは、日本共産党が「天皇制打倒」を長く伝統にし、表看板にしてきたからこそ問題になるのです。「君主制」は、単純に「共和制」と区別される概念です。「立憲君主制」はイギリスだけではありません。ヨーロッパでもオランダ、ベルギー、スペイン、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク等々に君主制があり、その憲法上の権能、現実の政治的機能は、様々です。ほとんどが高度な民主主義国家です。たとえば「民主的社会主義」を目標に掲げていても、スウェーデン社会民主党2001年綱領には、君主制問題は一言も出てきません。オーストラリア、ニュージーランドではエリザベス女王が形式的に「国家元首」なため「立憲君主制」に分類されますが、オーストラリアの場合、労働党や財界の一部が不在君主は無用と「共和制移行」を掲げて運動し、2000年に国民投票にかけられ、けっきょく君主制存続におちつきました。しかし、日本共産党は、1931年政治テーゼ草案以来、わざわざコミンテルン・テーゼの「君主制」を「天皇制」といいかえて翻訳し、戦後も学界でこの共産党製用語が広く執拗に議論されてきたのは、不破氏がイギリスの女王ほど憲法上の権限がないから旗をおろしても大丈夫だと一生懸命に政治的無害性を証明しようとしているのとは反対に象徴天皇制に「いろいろな歴史的事情」からなお重要な政治的・社会的機能があり、現に中国・韓国など近隣諸国との関係で「お言葉」が実際に外交的意味を持ち、1989年昭和天皇の死の際にも異様な政治的雰囲気に包まれて、自民党政治家の中には中曽根康弘氏のようにそれを利用しようとする勢力がいるからではないでしょうか? ひょっとしたら、アメリカ政府もそれを警戒して、建国神話にもとづく「立憲君主制」と言っているのかもしれません。政治学者の眼からみると、99年に「赤旗」読者からの質問に答えて出された「日本の象徴天皇制は『君主制』か」という文章の方が、まだしも素直な見方に思われます。もっとも不破氏が新綱領で「君主制廃止」をはずしても、今更「愛される共産党」になれるとは到底考えられず、かつて日本社会党が辿った道を、ずるずる後追いしているようにしか見えません。ちなみに日本社会党は、第二次大戦後の社会主義インターナショナルの中で、世界の社会民主主義内では珍しく、長く「社会主義革命」を掲げた最左派の党でした。

 第二次世界大戦後の共産主義と社会民主主義の一大争点は、「階級政党か国民政党か」というものでした。共産主義は、ドイツ社会民主党ゴーデスベルグ綱領(1959年)での「国民政党化」を「階級的裏切り」と批判するあまり、戦後ヨーロッパ社会民主主義の成果である「福祉国家」さえも、「資本主義の枠内での改良で、階級対立の隠蔽」と批判してきました。労働者福祉や男女平等なら現存「社会主義国家」の専売特許とばかり、ソ連・中国や東欧諸国の憲法・労働法の規定や制度を対置しました。その内実と、労働者や女性にとってのバランスシートがどうであったかは、1989年に劇的に証明されました。共産党新綱領草案での「労働者階級」は、戦前の「過酷な搾取によって苦しめられていた労働者階級」と、戦後は「労働者階級をはじめ、独立、平和、民主主義、社会進歩のためにたたかう世界のすべての人民と連帯」という文脈で、二度出てくるだけです。現在の日本国内では「労働者・勤労市民・農民・中小企業家」(中小「資本家」でない点に注意)などの「国民諸階層」の一つなそうです。ちょうどE・P・トムソンの不朽の名著『イングランド労働者階級の形成』が、ようやく翻訳された(青弓社)ばかりだというのに! 支配層を含む「国民」概念と、含まないとされた「人民」概念の区別も飛び越えて、「国民」一色です。これでなぜ、社会民主主義を「階級的裏切り」と非難できるのでしょうか? 世界の労働組合組織率を比較してみましょう。日本の24%(1995年、2001年21%)に対して、スウェーデン91%、アイスランド83%、デンマーク80%、フィンランド79%、……。労働組合がなお役割を果たしているのはどんな国か、一目瞭然です。ちなみに前回更新時「参加民主主義」「参加型予算システム」「連帯経済」を紹介したブラジルは、43%です。綱領討論で参考にするようオススメしたスウェーデン社会民主党2001年綱領には、労働者や女性・老人・障害者の人権と生活を守る具体的政策が満載されているだけでなく、「階級という概念は、体制的に基礎づけられた人々の生活条件の格差であり、それは生産のあり方によってつくりだされ、人々の生活全般に影響をおよぼす」とあり、「ある面で資本と労働の間の紛争は先鋭化した。他の面において、資本と労働の境界線はより流動的なものとなり、金融資本に伍する人的資本の力を高めた」と、現代の「新しい階級パターン」の詳しい分析が行われ、「反資本主義政党」と自己規定しています。「階級」を消した共産主義と、所有論レベルからの階級原則と労働運動の歴史から具体的に「反資本主義」を政策化するヨーロッパ社会民主主義と、どちらが働く人々にとって魅力的でしょうか? 

 不破哲三氏の新綱領草案決定的に欠けているのは、現代資本主義と「新しい階級パターン」の真摯な批判的分析です。草案から「二つの敵」は消えても、「アメリカ帝国主義」「日本独占資本主義」「対米従属的な国家独占資本主義」といった旧ソ連製用語が、61年綱領との継続性のアリバイのためか、抽象的に残されています。その代わり、現代資本主義で決定的意味を持つにいたった生産の場での技術変化も、コンピュータの出現も、情報化インターネットも、全く出てきません。ですから、世界の現実の方は「機動戦」「陣地戦」から「情報戦」時代に入ったのに、不破氏は、ようやく宮本「敵の出方」風「機動戦」色を払拭して「陣地戦」型に純化しましたが、「情報戦」の歴史的意味がわからないのです。なぜ自分が全精力を注いだ画期的新綱領はあまり注目されず、セクハラ国会議員の辞職だと一面トップ記事になるのか、なぜこんなに「ソフトな柔軟路線」なのに世論調査で「拒否政党率」が高いのか、よく考えた方がいいでしょう。

 スウェーデン社会民主党綱領の「新しい階級パターン」「反資本主義」は、「現代の生産テクノロジー」「生産の新しい秩序」「資本の権力」「国際資本の力に対する様々な抵抗力」「貧しい国における多国籍企業の振る舞いに対する消費者の反発」「エコロジカルな持続可能性」の分析から引き出されたものです。そこから「社会生活のあらゆる領域での民主主義」「労働を尊重して生産し、生産結果を公正に分配する、民主主義的経済」「平等性と多様性を保証する福祉政策」の具体的提案の数々が出てきます。「クリーンな福祉」「知識社会」「国際主義」が原則とされ、「今日のグローバル資本主義に対する対抗装置」としての政党と労働組合の役割が出てきます。不破氏がなお「社会主義」への一抹の希望を夢見るらしい中国13億人の「市場経済から社会主義へ」や、具体策を何も示さない「大企業にたいする民主的規制」のプログラムと、どちらが現実と切り結ぶ、実行可能な処方箋でしょうか? 「日本独占資本」がアジア市場でどういう役割を果たしているかも何も語らずに、日本の「大企業・財界」を規制できると思っているのでしょうか? いや実は、不破氏も「ヨーロッパなどで常識になっているルール」「ヨーロッパの主要資本主義諸国などの到達点も踏まえ」て、「ルールなき資本主義」の現状を打破しようと願っているようです。ならばぜひ、そうした「ルール」を、フランス革命以来200年の「自由・平等・友愛」から「自由・公正・連帯」への運動を踏まえて定着させた、ヨーロッパ社会民主主義の諸潮流から真剣に学ぶよう、心からお薦めします。残念ながら、不破氏が暗記しているという「マルクス・エンゲルス全集」や「レーニン全集」は役に立ちませんから、現地に滞在して、じっくりヨーロッパにおける「反資本主義」の運動、「社会的バリケード」を体感してくることです。核廃絶や世界平和のために尽くすのは、結構なことです。ただし、世界第二のGDPの国で「物質的生産力の飛躍的発展」や「巨大に発達した生産力」を目標にして、私たちの地球村(Global Village)を壊すことだけは、やめていただけないでしょうか。

 こうして、20世紀に共産主義と社会民主主義をイデオロギー的に分断してきた垣根は、不破哲三氏の新綱領草案により、ほぼ取り払われました。というよりも、社会民主主義を批判して「分派」を作った共産主義が、社会主義インターナショナルの本流の方に、「自己批判」抜きで戻ってきました。日本共産党の場合は、ついに一度も政権に近づくこともなく。共産党新綱領草案「社会主義・共産主義」の指標は、61年綱領の「国有化」も「計画経済」も「プロレタリア独裁=労働者階級の権力」も削り、マルクス『ゴータ綱領批判』の2段階分配原理も消えましたから、けっきょく「生産手段の社会化」英訳版では「socialization of the means of production 」)だけのようです。20世紀の社会運動と社会科学から全然学ばずに、言葉だけで見果てぬ夢「社会主義・共産主義」を繰り返すのは、いかがなものでしょうか? ドイツ語では「社会化」は、二様に表現可能です。ロシア革命直後のドイツ革命=ワイマール共和国成立期に、有名な「社会化論争」がありました。有澤広巳『インフレーションと社会化』(日本評論社、1948年)や阿部源一『社会化発展史論』(同文館、1954年)をひもとけば、生産手段の国有化・公有化の所有形態・構造を問題にする共産党(KPD)系のVergesellschaftungと、社会民主党(SPD)系の労働者が経営管理へ主体的に参加するSozialisierungが政治スローガンとして現れ、論争されたことがわかります。例えば株式会社は、それ自体が生産手段のSozialisierungですが、その所有・管理・使用形態までVergesellschaftungされなければ「社会主義」ではない、というのが当時の共産党側の主張でした。つまり、経営内「権力」の問題です。もっともこんな観念遊戯より、「権力」概念そのものの「機動戦=道具的権力」「陣地戦=関係的権力」以後の展開を踏まえ、資本の「情報戦」におけるフーコーネグリ規律統制権力生権力ネットワーク権力まで具体的に踏み込み、マルチチュードエンパワーメント(Empowerment)を構想しなければ、「社会主義・共産主義」など夢のまた夢でしょう。もっぱら軍事的側面での「対米従属」から「主権」を求める党に変身されるのなら、なだいなださんの「老人党」ほど魅力はありませんが、シングルイシューの「平和党」とでも改名なさったらいかがでしょうか。それはそれで、意義はあります。

 かつて丸山真男は、名著『現代日本政治の思想と行動』を追補する自著を、『後衛の位置から』と名づけました(未来社、1982年)。「日本の知識人たちが、日本独特の『皇道』神話における粗雑きわまる信条に鼓舞された盲目的な軍国主義ナショナリズムの奔流を、結局は進んで受け入れるにいたり、あるいは少なくとも押しとどめるのにあれほど無力であった、という事態はなぜ生じたのか?」という疑問への、「市民としての社会的責任感に対する実践的応答」です。共産党HP上に残る1994年第20回大会の綱領改定報告で、不破哲三氏は、丸山のこの問題設定そのものが気に入らなかったらしく、「政治学」的な「反動的俗論」丸山真男を批判していました。しかし丸山の天皇制批判・知識人論は、「批判的社会分析というマルクス主義の方法」を深く学び敬意を払いつつも、「日本の知的世界を水浸しにしているドグマティックな俗流マルクス主義の氾濫に抵抗し、より広く多様なアプローチの発展をはかろうとする試み」でした。そうでなければ、「歴史における逆転しがたいある種の潮流」を識別できなくなるというのが、「前衛」との緊張を保ちつつ、「後衛」に身をおく選択でした。「歴史における逆転しがたいある種の潮流」を、今日見分けることは大変です。21世紀の社会運動で、社会主義インター世界社会フォーラムがそうなりうるかは、未知数です。しかし、「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する」のような公理を抽出することはできます。「労働者階級の権力」を求めずに、「反資本主義」に足場をおくことも可能です。本「ネチズン・カレッジ」は「前衛」を求めません。ですから、以上の私の共産党への批判的論評は、法政大学五十嵐仁さん「転成仁語」と同じく、政治学からの学問的感想です。同時に「市民としての社会的責任」の立場からすれば、五十嵐さんとは共産党新綱領草案評価は異なりますが、「大左翼」の今日版、日本版「オリーブの木」が必要だという認識では、期せずして一致しました。いま必要なのは、言葉の上での「社会主義・共産主義」ではなく、「ヨーロッパなどで常識になっているルール」に相当する、日本での「社会的バリケード」の構築なのですから。もっともその時は、「綱領(プログラム)」よりも「宣言(マニフェスト)」の方がいいですね。「さざ波通信」「JCPウオッチ」でも、百家争鳴の議論が始まったようですが、このさいどなたか、不破草案とは違った第二草案、第三草案をマニフェスト風に作ってくれると、「社会的バリケード」の議論も盛り上がるでしょう。字数制限・締切・検閲一切なしで。「情報コミュニケーション技術時代の資本主義」をめぐって3年がかりの綱領討議を続けている、ドイツ民主的社会主義党(PDS)のように。


職場で地域で学校で進行する「不安社会」化──なだいなださん老人党ばかりでなく、「中衛」「後衛」のネットワークで「社会的バリケード」を!

2003/7/15 前々回・前回とコメントした「日本共産党新綱領草案について」は、五十嵐仁さんにならって、一つのファイルにまとめました。セクハラ・飲酒問題でのちぐはぐな対応には早々と幕引きして、同党内でも公開討論が始まるようですから、まあじっくり観察させてもらいましょう。ただ、アストン卿の語った「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する」の公理に照らして、見過ごせない論点を、二つだけ追加。一つは、不破哲三氏の提案報告中で「日本の帝国主義復活」という言葉を削った理由として示された、「アジア諸国が、日本の対外活動について警戒の目を向けているのも、日本の大企業の経済活動ではなく、軍国主義の復活につながる日本の対外活動であります。大企業・財界の対外的な経済進出にたいしては、そのなかの問題点について、個々の批判はあっても、対外進出そのものについての批判や告発はありません。これは、偶然ではありません。現在の世界の政治・経済の情勢のもとでは、独占資本主義国からの資本の輸出、即“経済的帝国主義”とはいえない状況が展開しているわけです」という認識。なるほど中国共産党やマレーシア政府の高官ならそういうでしょうし、日本で政権の隅っこにでも入るには大企業・財界との連携は欠かせないのでしょうが、それなら「共産党」などと名乗るのはやめなさい、といいたいですね。アジアのマルチチュードサバルタンが、びっくりしてしまいます。もう一つは、「質問・意見に答える」での「社会主義・共産主義」と「国家の死滅」についての、「社会主義・共産主義の社会でも、社会を維持してゆくためには、一定のルールが必要」で「共同社会が成熟して、強制力をもった国家の後ろだてがなくても、社会的ルールがまもられるような社会に発展する、ルールが社会に定着して、みんなの良識でそれがまもられる、そういう段階にすすめば、国家はだんだん死滅してゆくだろう」という見通しの話。そこで挙げられた実例が、なんと「いったいそんな社会が可能だろうか。私は、その一つの実例として、日本共産党という“社会”をあげてみたい、と思います。これは、四十万人からなる小さい規模ですが、ともかく一つの“社会”を構成しています。そして、規約という形で、この“社会”のルールを決めています。そこには、指導機関とか規律委員会などの組織はありますが、国家にあたるもの、物理的な強制力をもった権力はいっさいありません。この“社会”でルールがまもられているのは、この“社会”の構成員が、自主的な規律を自覚的な形で身につけているからです。ルール違反があれば、処分をうけますが、その処分も、強制力で押しつけるものではありません。強制力をぬきにして、ルールが自治的なやり方で、まもられているのです」──つまり、将来社会は共産党の党内ルールである「民主集中制」が「社会化」したものなそうです。ソ連共産党が1936年スターリン憲法に「党の指導的役割」を書き込み、1977年ブレジネフ憲法「民主集中制」「全人民国家」の国家原理にした論理とそっくりで、魅力がないどころか、ぞっとしますね。


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