私的追悼(ver.2)

「愛すべき好漢」辻内鏡人君と松井坦君のこと

 

2000年12月9日夜記

   

加藤 哲郎


★ 辻内鏡人(つじうち・まこと)君が、突然世を去った。未だに信じられない。告別式で最期のむごい姿をまのあたりにし、多摩斎場で小さな骨になるまでつきあったのだが、未だに実感が湧かない。来週には「やあ、加藤さん」と図書館前で会いそうな気がする。そういえば、最後に会ったのは先週金曜日、国際シンポジウムを翌日に控えて準備で忙しい私がクルマで資料を運び出そうとする時、「やあ、またクルマを買い換えましたねえ」と、例の憎めない笑顔でいった言葉が、永遠の別れだった。

★ 辻内鏡人君は、私より7歳下である。享年46歳だった。職場の同僚であり、職場で多くはないインターネットの学術的活用仲間であり、学内の各種委員会や労働組合でも一緒だった。このレベルでは、学内政策や政治的志向で対立することもあり、彼は協働の相手であることもあれば、辛辣な批判者であったりもした。もっともその批判も、翌日はケロリと忘れたように近づいてきて、親しみやすい笑顔で話しかけてくる類のものであった。強情なところもあった。はっきりものを言った。しかしそれは、正義感・公正観に発するもので、差別と不公正を憎み、常に、弱いもの、差別される側に立つものだった。

★ もちろん学問的交流もあった。本HP所収の「戦後日本と『アメリカ』の影」(歴史学研究会1998年度研究大会全体会報告)執筆に当たって、R・W・フォーゲルの体位計測史を用いた奴隷制経済史研究の文献・データは、ほとんど辻内君におそわったものだった。21世紀幕開けの本HP更新を飾る予定の私の最新未発表論文「20世紀日本における『人民』概念の獲得と喪失」中の、A・リンカーンの有名なゲティスバーグ演説「人民の人民による人民のための政治」とアメリカン・ナショナリズムの関係についての私の解釈は、辻内君との議論の中で得たものであったし、その典拠であるジェームズ・マクファーソンの研究を教えてくれたのも、辻内君であった。この夏のことである。

★ もっとも、年下の辻内君から、教わってきたばかりではない。実は私は、彼の教師の一人でもあった。本HPの「自己紹介の玄関」に、私は1986年度東京大学大学院経済学研究科で非常勤講師をつとめた、とある。この非常勤講義は、通例の大学側から頼まれるものではなかった。東大経済学研究科院生有志が、自主的に講師と内容を決め、それを大学側に公式単位と認めさせる自主ゼミナールで、東大闘争の成果の一つであった。そこに『国家論のルネサンス』を書いたばかりの私が呼ばれ、現代資本主義国家論をテーマに、半年分をたしか3か月にまとめて、集中ゼミ形式で講義した。その理論的問題意識あふれる院生たちの中に、大沢真理さん(現東大社研)や金沢史男君(現横浜国大)、柳沢遊君(現慶應大)らと共に、桜美林大学就職直前の辻内鏡人君がいた。アメリカ留学直前のネオ・マルクス主義者であった私は、プーランザス、ジェソップからエルネスト・ラクロウ、スチュアート・ホールまで論じたから、辻内君のその後の文化多元主義やカルチュラル・スタディーズ、ポスト・コロニアル研究への理論的関心の一部には、まだ助教授になりたてだった私の、アジテーション風講義の影響もあっただろう、と自負している。その頃の私は「若き理論家」であったから、89年「ベルリンの壁」とソ連崩壊後、グランド・セオリーを離れ現代史研究にのめりこんだかつての師を、同僚として赴任した辻内君がどう感じていたか、ついにその批判は、聞けずに終わった。残念である。

★ だが、こんな学問的師弟関係は、私と辻内君とのあいだでは、どうでもいいことであった。つい4日前まで続いた運命の糸は、私にとって、私の人生に最も深い影響を与えた友人であり、共同研究者であり、共同論文・共著をだしたこともある、故松井坦君を介して、紡がれたものであった。ちょうど20年前の1980年11月12日深夜、一橋大学専任講師として名古屋大学助手から赴任したばかりの私のところへ、親友で東大経済学部大学院在学中だった松井坦君の夫人恵美子さんから、電話が入った。松井君が「交通事故に遭って重体らしい」と。

★ それから松井君が11月19日に息を引き取るまでは、悪夢のような一週間だった。深夜に救急病院に駆けつけたとき、まだ心臓は動いていた。都心の駅前でタクシーにはねられ、救急車でいくつかの病院をたらい回しされて、たまたま空きベットのあった民間救急病院にかつぎこまれたという。私はその数年前に、最近もういちど取り組むことになった国崎定洞研究を、ドイツ語のできる松井君に助けてもらっていた。医師・医事評論家の川上武さんと3人で、『社会衛生学から革命へ――国崎定洞の手紙と論文』(勁草書房、1977年)という共著もあった。夜中に川上先生をたたき起こして、良い脳外科病院を教えてもらった。翌日、意識不明の松井君は、私の当時の住まいも近い、都立府中病院に移送された。その間に、皆から親しまれ活動範囲の広かった松井君の不慮の事故を知って、松井君が副委員長だった東大経済学部大学院自治会、院生委員だった東大生協、元編集長であり常務理事であった東大新聞社、委員であり編集幹事・総合部会責任者であった歴史学研究会、非常勤講師であった宇都宮大学、元職場の大月書店、東大闘争を共に担ったかつての仲間たち、出身高校の同窓生、研究会仲間、等々の友人たち・教師たち・仲間たちが次々にかけつけた。

★ ファクスも電子メールもインターネットもなかった時代なのに、電話と伝言連絡のネットワークをあっという間につくりあげ、約200人が、交代で病院に泊まり込んでご家族の不眠不休の看病を助け、高額の救急医療費を皆で負担しようとカンパを募り、なんとか瀕死の松井君を意識が戻る状態までもっていこうとした。弁護士の友人たちは「交通事故」の真相究明に動き、医師になった旧友たちは最高の医療と薬品を探し求めて紹介し、年下の友人たちは恵美子夫人を助け、年老いたご両親と6歳だったお嬢さんの面倒をみた。私自身は、大学入学の年の9月、東京大学新聞編集部に一緒に入社して以来の親友であり、共に法学部自治会緑会委員をつとめ、一年違いで同じ大月書店編集部に就職して一緒に野呂榮太郎研究の論文を書き、同じ頃に結婚して父親となり、同じ時期にベルリンとミュンヘンの距離でドイツに留学し、経済学と政治学と専門は違うがその後も私的な研究会を続けてきた長い縁があって、松井坦君救援ネットワークの連絡センターになった。

★ 当時の東大経済学部大学院には、金子勝君(現慶應大)と有江大介君(現横浜国大)が、社会人を経て入学し年長の「兄貴」であった松井坦君の「弟分」として控えており、そのもとに、今回不幸な「事件」に遭った辻内鏡人君たちの世代が、連日徹夜で病院と松井家を往復していた。だが、ネットワークが全国に広がり、無神論者である私でさえ神に祈っていたのに、ご家族の懸命の看病も功なく、松井坦君は、11月19日、息をひきとった。享年33歳だった。辻内君が、私の後ろの方で泣きじゃくっていた姿が、今でも忘れられない。本日の辻内君告別式で、友人代表中村雅子さんが弔辞の中で述べていたが、アメリカ黒人史研究を志した辻内君に本田創造一橋大学教授を紹介し、中村さんと一緒に本田さんのもとに連れて行ったのも、松井坦君だったという。

★ この松井坦君交通事故の「悪夢の一週間」で起居を共にしたとはいえ、辻内君をよく知り、その人間的魅力・学問的力をも知りえたのは、実は、一緒にあわただしく葬儀を終えて後の、「事故」の事後処理の段階でのことであった。看病と葬儀、ご家族支援のために生まれたネットワークは、その後も長く残され、強靱な力を発揮した。まずは松井君の死の真相究明と、ご家族支援が問題だった。

★ 「事故」の加害者である運転手とタクシー会社は、松井君が意識不明のまま息を引き取り、証言できないのをいいことに、現場である代々木駅前横断歩道を青信号の制限速度で走行中に、松井君が突然飛び出してきた、あわててブレーキを踏んだが間に合わなかった、と主張した。つまり、被害者松井君にも非があり、「過失致死」とはいえ不可抗力だった、という。それに対して私たちは、ふだんの松井君の慎重な性格・行動と、当時のタクシー業界の事情の労使関係分析等から、車道は赤信号で松井君が青になった横断歩道を渡ろうとしたところに、駅前なのに制限速度を超えたタクシーが襲いかかったのではないか、松井君に非があったとするタクシー会社の主張は民事訴訟での損害賠償責任を最小限に留めようとする経営政策的弁明だろう、と判断した。事実、その後3年以上かかった民事訴訟では「過失相殺」が問題になり、赤信号なら10対0で加害者責任=加害者負担になるところを、加害者側は突然飛び出した松井君に非があると主張し続け、5対5というより4対6で被害者松井君の方に責任があるとさえ主張した。

★ 松井君の「事故」は、夜11時すぎとはいえ、都心の駅前には人通りもあるはずだった。警察が型どおりの110番証言を求める立て看板を出したが、目撃者は名乗りでなかった。目撃証言を求めて、辻内君たち東大経院の仲間たちは、現場を同時刻に検証したり、ビラをまいて証言を探したりしたが、事件後1週間以上たっており、私たちの求める有力目撃証言は、ついにとれなかった。私たちは、東大闘争を共にたたかって弁護士になった友人たちに依頼して、弁護団を組んでもらった。民事訴訟の法廷闘争で加害者責任を明確にし、松井君のご遺族にできるだけ有利な結論を得ようと力を注いだ。その法的決着は、3回忌が済んで後、7回忌の前までかかった。友人弁護士たちの努力で、被害者松井君の過失割合を小さくすることはできたが、幾分かは松井君にも非があるというかたちになった。加害者であるタクシー会社からは、「事故」時に見舞金・香典が「事故係」から届けられたとはいえ、ご遺族への「損害賠償」の支払いは、「事故」から3年以上過ぎた民事訴訟決着後であった。

★ 「交通事故」の場合でも、遺されたものは、生きていかなければならない。松井君の葬儀の翌日から、年老いた坦君のご両親、悲しみにうちひしがれた恵美子夫人、何よりも、小学校入学前のお嬢さんを抱えての、一家の厳しい生活が始まった。私や辻内君を含む「松井坦ネットワーク」は、まずは、ご遺族のお宅をひんぱんに訪れることに、心をくだいた。大学院生の金子君・有江君・辻内君らは、「事故」以前から「よき兄貴」である松井家にひんぱんに出入りしていたから、ご家族をなぐさめる、格好の話し相手であった。「事故」にはできるだけふれず、昔の楽しかった話や冗談を飛ばし、幼いお嬢さんの喜びそうな話をして帰った、という。その一方で、ネットワークとしては、いくつかの具体的企画をたて、ご遺族を援助しようとした。

★ その手始めは、松井家の葬儀とは別に、関係する団体・組織・友人グループが委員を出し合って、故人の生涯と活動、学問と研究業績を追悼する「松井坦君追悼会」の開催であった。「事故」1か月後の12月27日には、東京・中野の大学生協会館で、数百人を集めた盛大な「追悼会」がもたれた。葬儀でも「追悼会」でも「友人代表」として「弔辞を述べた私は、誰からも親しまれた松井君の明るい人柄を、「愛すべき好漢」と評した。「事故」から1か月たって、本当に彼岸に行ってしまったんだなあ、と思い知らされた。この時の、私や渡辺治君(当時東大社研)、歴史学研究会の私の同僚田崎宣義君、東大経院の金子君・有江君・辻内君らを含む「追悼会」を実質的に準備した者が、その後の活動でも、ネットワークの中心となった。

★ 次の仕事は、遺稿集の編集・出版だった。すでに松井君は、自身が編集幹事をつとめる『歴史学研究』誌に、専門のドイツ経済史についての重厚な論文(「プロイセン国有鉄道とドイツ帝国主義財政」第468号)を発表し、「元号法制化とわれわれの歴史学」と題する臨時大会全体会報告(第467号)も担当していた。とはいえ松井君は、まだ大学院生であり、常勤研究職につく直前での不慮の突然死であった。既存の出版社から出すには論文数が足りず、また松井君の東大新聞の時評や演劇評論も残したい、故人を追悼する文章も収録したい、とみんなの意見がまとまった。ご遺族の意向も踏まえて、『松井坦遺稿・追悼集』という、遺稿集『ドイツ帝国主義史論』(恩師の加藤栄一教授が解説を書いた)と追悼集『松井坦──その人と学問』の2冊箱入り合冊本として、自主出版することにした。幸い松井君の大学新聞・出版社勤務の経歴から、編集者・出版人の友人も多く、立派な書物にして国会図書館にも納本することができた。辻内君が同僚になった後の1990年頃であっただろうか、アメリカのある大学図書館から私のところに、非売品だった松井坦『ドイツ帝国主義史論』を購入したいという連絡があった。「事故」の主任弁護人であった藤本斉君や、辻内君と同じく「松井坦ネット」から同僚になった渡辺治君と共に、やっぱり作って良かったと喜び合ったものだった。

★ だが何よりも、ご遺族の生活とお嬢さんの養育が、目の前の問題であった。そこで私たちは、葬儀の直後から、「松井坦君遺児育英基金」というボランティア組織を作った。いまならささやかなNPOだろうが、「事故」の直後に銀行口座を作り、闘病のための見舞金を全国から募る受け皿をつくった。松井君が「事故」後一週間で亡くなったため、これをそのまま「遺児育英基金」に発展させ、あわせて「偲ぶ会」開催、『遺稿・追悼集』刊行の母胎とした。「遺児育英基金」は、全国から再度拠金を募り、500人以上の人々から多額の善意が寄せられた。『遺稿・追悼集』の出版も、一周忌に間に合わせることができた。

★ 何よりも、こうした活動にも励まされて、松井坦・恵美子さんのお嬢さんは立派に成長し、大学に入学・卒業して、現在は立派な社会人として独り立ちしている。私たちのネットワークは、お嬢さんの大学入学祝いの会まで、ほぼ毎年松井家を訪れ、ご遺族を慰め激励し、時にお墓参りをしてきた。私・渡辺治君・田崎君・金子君・有江君、そして、本日最後のお別れをした辻内鏡人君も、その常連の一人であった。辻内君の昨晩のお通夜にも、本日の告別式にも、このネットワークに励まされ助けられてきた、故松井坦夫人松井恵美子さんの姿があった。そのことは、告別式終了後、辻内鏡人君の夫人衣子さんにも、お伝えした。

★ その辻内君が、突然亡くなったと、12月4日の深夜、渡辺治君から電話が入った。「交通事故」だという。私の頭を一瞬よぎったのは、ここまで長々と書いてきた、ちょうど20年前の同じ季節の、「悪夢の一週間」だった。それは、まぎれもなく、松井坦君の「事故」の再来だった。だが、松井君とは違って、「闘病の一週間」はなかった。1時間半後には病院で息を引き取ったという。「事故」ではなく「事件」らしいともいう。渡辺治君も私も、自宅は辻内君のお宅に近い。直ちに辻内家に私のクルマで向かうことにした。深夜だったが、社会学研究科の石井事務長もタクシーでかけつけた。3人で辻内家に入ったのは、すでに午前2時すぎ、だが、病院にかけつけた衣子夫人は「事件」であるため検死中の「遺体」に面会できず、恩師の油井大三郎さんが待機しているという。検死中の「遺体」は、5日にならないと自宅に帰れないという。奥さんは気丈で、まわりのご親族が涙に濡れていた。期末試験を控えて勉強中だった高校生のお嬢さんは、まだ半信半疑の様子だった。半信半疑は、私たちとて同じだった。研究科として、同僚として、ご家族に全面的に協力することだけを約して、辻内君のご自宅を離れた。翌朝からが、ちょうど2日前に成功裡に終えたばかりの社会学研究科国際シンポジウムさえ遠い昔のことと思わせるような、激動の始まりだった。

★ 深夜に帰宅して、インターネットでニュースサイトを覗いてみた。午前1時半頃に、警察の記者発表があったらしい。朝日コムと毎日HP速報に、すでに第一報は出ていた。むごい内容だった。「傷害致死」とあるが、「殺人」と思われた。朝刊締切に間に合うかかどうかは、微妙な時間帯だった。ただちにアドレスのわかる社会学研究科の同僚全員に、速報メールを流した。午前3時半だった。そのまま眠り込むと、朝6時に電話で起こされた。東大院「松井坦ネット」の中心だった有江大介君からだった。日経新聞朝刊に辻内君死亡の記事が載っているという。それから次々に、電話とメールが舞い込んだ。

★ 辻内君は、「松井坦ネット」では東大経済院での松井君の後輩だったが、東大での活動の主舞台は、大学生協の学生委員会だった。衣子夫人と知り合ったのも、生協活動を通じてだったという。有江君ら東大経済院関係者と、生協時代の辻内君の仲間たちは、全国に散らばっていた。そうした友人たちが、辻内君の訃報が新聞でも東京都心版・多摩版にしか報じられていない5日朝の段階で、私の本ホームページを通じて「事件」の情報を得たいという。そこから私の「戦争」が始まった。勤務先に連絡して大学の状況と葬儀準備を尋ねる一方で、ネットサーフィンや教え子の新聞記者ネットを通じて「事件」の情報を集めた。お通夜・告別式の日程が決まった5日午後までは、2時間毎に本欄を更新し、最新情報を送り続けた。

★ その間に、「事件」の報道記事の内容が、同じ加害者供述の警察発表を元にしているはずなのに、各社で微妙に事実関係とニュアンスが異なり、同一紙でも各版・報道時刻で異なることに気づいた。ご遺族との連絡、葬儀の準備や弁護士の問題は、「松井坦ネット」の中核を一緒に体験し、現在社会学研究科執行部の一翼にある同僚渡辺治君に任せ、私は、松井君「事故」の時代にはなかったデジタル・ネットを駆使して、辻内君「事件」の情報収集と情報提供に専念することにした。故松井坦君の再度の弔い合戦であり、あの時代とは異なるネットワークの構築・再建だった。

★ 辻内鏡人君は、私や松井坦君の後に生を受けたが、いろいろな面で、故松井坦君に似ていた。金子勝君や有江大介君もそうであるが、あの辛辣な、時には攻撃的とも受けとられる学問的コメントは、亡き松井君の学問的厳しさを髣髴とさせた。強い正義感と、抑圧や差別へのまっとうな怒りと手厳しい批判は、松井君譲りのものだった。いやたぶん、そうした若き院生たちが、1980年当時の松井坦君のまわりに集い「弟分」になって、「兄貴」と一緒にたたかっていたのだろう。

★ だが辻内君には、その当時の仲間たちの中でもとりわけ、松井君と酷似したところがあった。それは、あのさわやかな笑顔と、不正に対する怒り・憎しみをはっきり表現し、直ちにそれをただそうとする行動力だった。だから、私は、確信する。初発における一部新聞の一方的「事件」報道からは出てきかねない、辻内君が理由もなく加害者のクルマの窓をたたいたり、自転車で追いかけたりしたことが、「事件」の発端であるはずはない、と。仮にもしも、辻内君が加害者のクルマの前に立ちはだかり、かけがえのない命を落とすにいたったのが事実であるとすれば、そこには、それ以前に、何らかの大きな「不正義・不公正」があったにちがいない、と。

★ こんな感傷的な文章を、本HPに掲げるのは、初めてのことである。これは、あくまで一つの私的追悼である。そして、故松井坦君に贈った、「愛すべき好漢」という評言を、辻内鏡人君にも捧げて、二人の魂が20年ぶりで天上で再会するであろう場に、送りたい。合掌。

        

                      2000年12月9日夜  加藤哲郎

 


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