「イマジン」/「戦争の記憶」データベース・番外編

小林朗さん追悼 

大正生れ」の歌・探索記(2018年版)

 

●2018.2.12  久しぶりの更新は、91歳になる川崎市のSさんからのリクエストによるもので、この機会に「大正生れの歌」を、mp3音声で復活しました。音質はイマイチですが、お楽しみください。なお、下記の文章に出てくる「大正っこ」さんほか、大正生まれの方々のサイトはほとんど閉鎖され、リンク切れになっています。21世紀初めの日本の戦争の記憶と老人問題を伝える歴史的記録として、味わって下さい。



大正生れの歌」の別バージョンをお寄せ下さい!


2009/3/1 2月2日、大正生れの歌の作詞作曲者小林朗さんが、お亡くなりになりました。車椅子生活でもお元気で、奥さんと一緒に中国にボランティア活動にでかけたり、ヨーロッパを旅行したりしていたのですが、台湾にでかけて肺炎を病み、かけがえのない人生を終えられました。心から哀悼の意を表します。本欄を、小林朗さんの遺志を後世に伝えるものとして、永遠に残しておきたいと思います。合掌!(加藤哲郎)


1 発端=1989年岩波ブックレット『戦後意識の変貌』

 

2004/6/1  このところ、メールや電話での問い合わせが異様に多いのが、私がかつて書物で紹介したことのある「大正生れの歌」について。

・理由が二つあって、一つは、15年も前になりますが、1989年刊行岩波ブックレット「シリーズ昭和史」の最終巻である拙著『戦後意識の変貌』のイントロで使い、当時も反響は大きかったものですが、これが昨年重版されて、文字通り「大正生れ(1912−26年生まれ、現77歳以上!)」の方々に、改めて熱烈に(?)しんみりと(?)読まれているようです。先日も、島根県のある老人ホームの介護の方から長距離電話があり、介護しているおじいさんが、ブックレットで歌詞を知り、ぜひともメロディを教えてほしいといっている、と頼まれました。

・もう一つの理由は、私は気が付かなかったのですが、この歌のことを、本年3月9日の朝日新聞で、論説委員早野透さんが、山中貞則初代環境長官の死を悼む連載コラム「ポリティカにっぽん」「山中氏の死と『大正生まれ』の歌」のなかで 、私のブックレットから引用し、カネボウ社長だった故永田正夫氏の「お別れの会」で読み上げられた替え歌「昭和6年生まれの歌」と共に、紹介したためのようです。『戦後意識の変貌』収録の本歌は、こうです(以下♪メロディーつきですが、♪midiをお持ちでない方は、こちらへ)。

「大正生れの歌(男性編)」
1番 大正生まれの俺(おれ)たちは/明治の親父(おやじ)に育てられ/忠君愛国そのままに/お国のために働いて/みんなのために死んでいきゃ/日本男子の本懐と/覚悟は決めていた/なあお前
 
2番 大正生まれの青春は/すべて戦争(いくさ)のただなかで/戦い毎(ごと)の尖兵(せんぺい)は/みな大正の俺たちだ/終戦迎えたその時は/西に東に駆けまわり/苦しかったぞ/なあお前

これ実は、私が1989年に東京都国分寺市元町公民館で連続市民講座の講師をつとめたさいに、出席者から教えてもらったもので、今日では「大正っ子のパソコン操作」という、老人パワーあふれるホームページの中に、MIDIメロディ・3Dアニメ・イラストつきで、4番まで収録されています。

・ブックレット執筆当時は、まだ私もパソコン覚え立てでファイルを保存せず、便利なインターネットなどこの世になくてわからなかったのですが、再版にあたって調べてみたところ、もともとの作詞作曲は旧制和歌山中学出身の小林朗さんという方で、軍歌風のメロディーは作曲家大野正雄さんが編曲して、1997年に亡くなった水戸黄門俳優西村晃(こう)さんが歌ってキャニオン・レコードから発売されたことがあるようです。

・その時中古レコードを買っておけばよかったのですが、これだけ反響がおおきくなって、ぜひ知りたいのが、この西村晃さん(実は生前のご住所は国分寺市東元町だったらしく、私の収録したのは、この西村さんのご近所の方からだったようです)のSPレコードのB面に入っていたらしい玉城百合子さん歌の「大正生れの歌(女性編)」の歌詞どなたかご存じの方がいらっしゃれば、ぜひご教示ください。もう77歳以上であるはずの「大正生れ」世代の、男性のまなざしと女性のまなざしの違いを、分析してみたいのです。

・ちなみに、男性編の歌詞は、私のブックレットに収録したものが現在流布していて、3番・4番は高度成長の担い手たちの雰囲気が、よく出ています。ただしこの「なあお前」が、女性である夫人によびかけたものか、同期の男たちによびかけたものかも、ぜひ知りたいところ。そのためにも「女性編」――たぶん末尾が「ねえあなた」とでもなっているんでしょう――を知りたいのです。本HPの常連の皆さん、大正生まれのおじいさん・おばあさんに、たずねていただけませんか。知っていなくても、この歌を教えると、喜ばれること請け合いですよ。 katote@ff.iij4u.or.jp までご一報を!

3番 大正生まれの俺たちにゃ/再建日本の大仕事/政治経済教育と/ただがむしゃらに40年/泣きも笑いも出つくして/やっとふりむきゃ乱れ足/まだまだやらなきゃ/なあお前
 
4番 大正生れの俺たちは/五十、六十のよい男/子供もいまではパパになり/可愛いい孫も育ってる/それでもまだまだ若造だ/やらねばならぬことがある/休んじゃならぬぞなあお前/しっかりやろうぜ/なあお前

ちなみに、早野透さんの紹介した、故永田正夫さん世代の替え歌「昭和6年生まれの歌」は、

1番 銃後の守りの俺(おれ)たちは/明治の親父(おやじ)に育てられ/忠君愛国そのままに/お国のために働いて/みんなのために死んでいきゃ/日本男子の本懐と/覚悟は決めていた/なあお前
 
2番 昭6生まれの俺たちは/敗戦ショックの打撃受け/教育改革ただなかで/新制高校大学と/ろくに授業も受けられず/バイト見つけに駆け回り/空(むな)しかったな/なあお前
 
3番 昭6生まれの俺たちは/学校出たら就職難/やっと見つけた職場では/企業戦士と煽(おだ)てられ/経済大国建設に/ただがむしゃらに50年/そろそろ遊ぶか/なあお前

憲法問題サイトとして絶対オススメと、60万ヒット記念「情報処理センタ(リンク集)更改で太鼓判を押した、松山大学田村譲教授「たむ・たむページ」に入っている田村教授作らしい辛口版「昭和終わり学生の歌」は、

昭和末期の俺たちは/大学改革ただなかで/大学4年をのうのうと/ろくに勉強しないまま/バイト・バイトに明け暮れて/平成不況の打撃受け/挙げ句の果てのフリーター/空(むな)しかったな/なあお前
 
・これなら「昭和22年生まれの歌――日本国憲法で育てられ/団塊・団塊とさげすまれ/……」「昭和45年生まれの歌――バブルの中で大学に/合格祝いはカローラで/……」なんていうのも、できますね。 

 こんな歴史探偵を始めたのには、いまひとつ理由があります。去る5月29日に、小林正弥さん平和公共哲学研究会によばれて、「『もうひとつの世界は可能だ』――世界社会フォーラムから学ぶ」について話したさい、世界社会フォーラム第一インターナショナル第二インターナショナル第三インターナショナルという19世紀以来の国際主義運動の流れにおいて、ヴァルター・ベンヤミンに示唆され万国博覧会になぞらえて説明したのですが、どうもこの「インターナショナル」の伝統自体が、若い人たちには、ピンとこないようです。小林一朗さんたちの「World Peace Now」の平和集会等で「イマジンは歌われても、かつてのソ連国歌「インターナショナル」が歌われることは、なくなったためでしょう。

・その「インターナショナル日本語版の作詞者は、私の研究対象在独日本人反帝グループの一人佐野碩俳優佐々木孝丸、まさに大正デモクラシーからプロレタリア文化運動への転形期でした。インターネットなら、各国語ヴァージョンも聞けます。福沢諭吉も見た1862年ロンドン万博にフランスの労働者750人がドーバー海峡を越えてやってきて始まった第一インター(1864-76年、国際労働者協会)については、マルクスも参加したはずですが、歌を歌った記録はみあたりません。でも、1889年7月14日、フランス革命百周年のパリで開かれた第二インター(国際社会主義会議)開会式では、ラマルセイエーズを歌ったと記録にあります。ちょうどパリ万博の年で、エジソン発明の白熱電球で飾られたエッフェル塔が完成して、帝国主義時代の幕開けを告げていました。

★ さあ、祖国の子供たちよ、栄光の日がやってきた/我らに向かって、暴君の血塗られた御旗がはためいている/血塗られた旗がはためいている。/戦場で、どう猛な兵士たちがうごめいている音が聞こえるか?/息子や仲間たちの首をかっ切りに、ヤツらは我らの元へとやって来ている/武器を取れ、市民たちよ、そして軍を組織せよ!/進め、進め、あの汚れた血を我らの田畑に飲み込ませてやるのだ

・1919年3月の第三インター(共産主義インター、コミンテルン)創立のさいは、インターナショナルが歌われたと、映画「レッズ」などにも出てきますね。言葉の通じ合わない世界各地から参集した人々が初めて連帯を共有するには、歌が一番だったんでしょうね。

★ 起てうえたる者よ 今ぞ日は近し/さめよ我がはらから 暁は来ぬ/暴虐の鎖たつ日 旗は血に燃えて/海をへだてつ我等 かいな結びゆく/いざ戦わんいざ ふるい起ていざ/あゝインターナショナル 我等がもの

・そして、2001年1月に始まった世界社会フォーラムでは、少なくとも9.11以後は、ジョン・レノン「イマジン」大合唱が、「帝国」に対する「もうひとつの世界」のシンボルとして定着したようです。歌詞からもメロディーからも、大きな時代の流れが、なんとなくわかりますね。

★ 天国なんてないと思ってごらん。やってみれば簡単なことさ。 /僕らの下には地獄なんてないし、僕らの上には空しかない。/すべての人々が今日のために生きているんだと思ってごらん。 /国境なんてないと思ってごらん。難しいことなんかじゃない。 /殺し合う理由なんてないし、宗教なんてものもない。 /すべての人々が平和の中で生きているんだと思ってごらん。 /君は僕のことを夢想家だというかもしれない。でも僕は一人じゃない。 /いつか君も僕らの仲間に加わって、世界がひとつになればいいと願っている。  


2 「大正生れの歌・女性編」歌詞発見、ご協力ありがとうございました!

 

2004/6/15 前回本トップでよびかけた大正生れの歌・女性編」の歌詞探索の方は、嬉しいことに、探索4日目に、「男性編」をメロディ入りでネット上に紹介してきた「大正っ子」さんからの通報で、わかりました。やはり「なあお前」の対句は「ねえあなた」でした。下に改めて「男性編」と「女性編」の歌詞の対照を掲載。こうした心情が日本国憲法と「戦後民主主義」を支えてきた歴史的重みと、同時にそこに孕まれたジェンダー的問題性を、「平和への結集」「もうひとつの平和」への運動は、尊重しなければならないでしょう。

   

「大正生れの歌(男性編)」

1番 大正生れの俺(おれ)たちは/明治の親父(おやじ)に育てられ/
忠君愛国そのままに/お国のために働いて/
みんなのために死んでいきゃ/日本男子の本懐と/
覚悟は決めていた/なあお前
 
2番 大正生れの青春は/すべて戦争(いくさ)のただなかで/
戦い毎(ごと)の尖兵(せんぺい)は/みな大正の俺たちだ/
終戦迎えたその時は/西に東に駆けまわり/
苦しかったぞ/なあお前
 
3番 大正生れの俺たちにゃ/再建日本の大仕事/
政治経済教育と/ただがむしゃらに40年/
泣きも笑いも出つくして/やっとふりむきゃ乱れ足/
まだまだやらなきゃ/なあお前
 
4番 大正生れの俺たちは/五十、六十のよい男/
子供もいまではパパになり/可愛いい孫も育ってる/
それでもまだまだ若造だ/やらねばならぬことがある/
休んじゃならぬぞなあお前/しっかりやろうぜ/なあお前

「大正生れの歌(女性編)」

1番 大正生れの私たち/明治の母に育てられ/
勤労奉仕は当たり前/国防婦人の襷掛け/
皆の為にと頑張った/これぞ大和撫子と/
覚悟を決めていた/ねぇあなた
 
2番 大正生れの私たち/すべて戦争の青春で/
恋も自由もないままに/銃後の守りを任された/
終戦迎えたその時は/頼みの伴侶は帰らずに/
淋しかったわ/ねぇあなた
 
3番 大正生れの私たち/再建日本の女房役/
姑に仕える子育てと/ただがむしゃらに三十年/
泣きも笑いも出尽くして/やっと振り向きゃ白い髪/
それでもやらなきゃ/ねぇあなた
 
4番 大正生れの私たち/五十、六十の良い女/
子供も良いパパママになり/可愛い孫のお守り役/
今では嫁も強くなり/それでも引かれぬ事もある/
休んじゃならない/ねぇあなた/しっかりやりましょ/ねぇあなた



3 ついに、作詞作曲者・小林朗さん発見(2005年)!

 

2005/5/1  最初に出会ったのが1989年ですから、15年の旅でした。本サイトのIMAGINE DATABASE「戦争の記憶」番外編大正生れの歌」の作詞・作曲者に、ついに行き着きました。レコードにまでなったこの歌の元歌は、旧制和歌山中学出身の小林朗さんとは分かっていましたが、それ以上のことは、昨年の「大正生れの歌(女性編)」探索でも、わかりませんでした。ところが先日、現在西宮市にお住まいで、大阪で会社を経営していらっしゃる小林朗さんご本人から、丁寧なお手紙をいただきました。ご存命どころか、バリバリ現役第一線の、お元気な大正生れだったのです。

・きっかけは、3月の和歌山旅行でした。勤務先から和歌山県立桐蔭高校での「グローバリゼーション」の講演を頼まれ、高校生向けに、何かわかりやすいイントロを入れねばと思って思いついたのが、桐蔭高校の前身が旧制和歌山中学、つまり「大正生れの歌」の作詞・作曲者小林朗さんの母校で、しかも、そのことがわかったのは、私の勤務先一橋大学の前身東京商科大学出身で戦争に出征して生還した、小林朗さんの和歌山中学同窓生伊丹英雄さんが、一橋大学同窓会如水会ホームページに寄せた一文からでした。おそらく、作者の小林朗さんご自身も、出征し生き残り、戦後復興・高度経済成長に力を尽くされたことを、亡き戦友たちに向けて歌ったのだろうと解釈して、そんな話を、インターネットの威力と合わせて、桐蔭高校で話しました。

実は、この桐蔭高校→一橋大学のルート、郵政民営化問題渦中の竹中平蔵経済財政相も歩んだ道で、私の話は自ずと、新自由主義的グローバリゼーションもあるが、もう一つのグローバリゼーションもある、という筋になりました。その時は、校長先生・教頭先生にも郷土ネタを紹介して喜んでいただけただけでしたが、それがどうやら桐蔭高校同窓会にまわり、現役同窓生の小林朗さんがご自身が、その顛末を同窓会ホームページに「和中・桐蔭同窓会に寄せて」と題して寄稿することになった、という次第のようです。小林朗さんさんから丁重な礼状をもらって、こちらこそ恐縮。だって15年間も、「作詞作曲者不詳」として、私の著書戦後意識の変貌』冒頭に、歌詞を全文載せてきたわけですから。

・今度関西に出かける時にでも、ぜひとも小林朗さんとお会いし、この歌を作った経緯や戦争体験など、お聞きしたいと思います。中国に詳しい小林さんから送られた元歌の歌詞も、「ただがむしゃらに40年」ではなく「幾十年」、「五十、六十のよい男」ではなく「幾つになってもいい男」なそうで、80歳近いであろう小林さんに脱帽。写真も同封されていて、なるほど「幾つになってもいい男」でした。今回のお手紙での最大の収穫は、「10年ほど遅れて別に、一節を作詞しました」と書き添えられた、同じメロディ鎮魂譜」(小林朗作詞・作曲)――今度の「なあお前」は亡き戦友たち。やっぱり戦争は、悲惨だったのです。

大正生れの俺達の 別れし戦友(とも)の魂魄(たましい)は、
空ならば なお天翔(あまかけ)り、海ならば なお水漬(みずき)き揺れ、 
大地(つち)ならば なお 草むさん、 いでや わが友 この胸に、 しかと 眠れや なおお前 



2005/7/1  久しぶりで「歴史探偵」の成果。関西での研究会・学会の合間に大阪まで足を伸ばし、大正生れの歌の原作者、小林朗さんに会ってきました。「コバヤシ・アキラ」という名前には、昭和戦後生まれの団塊世代には、日活映画の石原裕次郎と並ぶヒーロー、「マイトガイ小林旭が浮かびます。ギター片手の「渡り鳥」シリーズは、今思うと国籍不明の東洋風西部劇でしたが、「北帰行」「惜別の歌」「ズンドコ節」「熱き心に」等の歌謡曲も、一時代を風靡しました。なにしろ「昭和の歌姫」美空ひばりの夫だった人ですから。でも、この小林旭は1938年=昭和13年生まれです。

大正生れの歌小林朗さんは、1925年生まれ、正真正銘の「大正14年生れ」で、今年80歳になります。旧制和歌山中学(現和歌山桐蔭高校)出身であることは、今年3月の和歌山紀行で知りましたが、お手紙をいただいてお話しを聞くと、神戸高商が神戸商業大学と名前を変えていた昭和18(1943)年に予科に入学し、昭和20(1945)年4月に軍隊に召集され、8月の敗戦は、和歌山の連隊で迎えました。わずか半年足らずの軍人生活でしたが、それでも同級生の何人かは前線に送られ、20歳で戦死しました。神戸商大(現神戸大学)に戻って卒業後、紡績会社に入り、昭和戦後の焼け跡・闇市から高度成長まで、日本経済の第一線で活躍してこられました。

・これが、大正生れの歌一番・二番で、私が採取し、岩波ブックレット戦後意識の変貌(1989年)巻頭で紹介した歌詞で、まちがいないようです。midiファイルで音と一緒に楽しみたい方は、(1・2番)(3・4番)をクリック。「鎮魂譜」もでてきます。

1番 大正生まれの俺(おれ)たちは/明治の親父(おやじ)に育てられ/忠君愛国そのままに/お国のために働いて/みんなのために死んでいきゃ/日本男子の本懐と/覚悟は決めていた/なあお前
2番 大正生まれの青春は/すべて戦争(いくさ)のただなかで/戦い毎(ごと)の尖兵(せんぺい)は/みな大正の俺たちだ/終戦迎えたその時は/西に東に駆けまわり/苦しかったぞ/なあお前  

ところが1970年代半ばに、転機が訪れます。一つは中国との関係です。小林朗さんは、軍隊生活半年で中国戦線への動員はまねがれましたが、もともと中国語を学び、漢詩に親しんできました。72年9月田中内閣の下で日中国交回復がなされた時、小林さんの仕事は、台湾を相手にしていました。その台湾での仕事で現地の人と飲んだとき、相手が「大正生れ」と名乗ったのだそうです。日本の植民地時代に青春を迎えたその台湾人は、同年輩の日本人に「大正生れ」である共通性を見出したのです。それは、今日中国大陸や朝鮮半島の人々の持つ「反日感情」とは異質のものです。かといって、小林よしのりのいう「台湾は親日」とも異なります。「大正生れ」──1912−25年生まれの人々は、敗戦時に20歳ー35歳、日本本土でも植民地台湾でも、アジア・太平洋戦争の最大の犠牲者でした。同世代の多くの友人が、青春ばかりでなく生命を奪われました。死との背中合わせを体験し、生き残ったこと自体が好運でした。

・それは、本土でも植民地でも、異なることはありませんでした。その台湾の人は、戦争をくぐって生き残った者同志の共感を、かつての植民地宗主国の言葉で表現したのです。それから間もなく第一次石油危機、戦後初のマイナス成長と、日本経済の激動期を迎えます。交通事故で入院したこともある小林さんは、「大正生れ」でありながら生き残り高度経済成長を支えた自分たちの足跡を、30年前に運命を分けた同世代の犠牲者たちに報告したいと考えました。それが、大正生れの歌の三番・四番になります。

3番 大正生まれの俺たちにゃ/再建日本の大仕事/政治経済教育と/ただがむしゃらに幾十年/泣きも笑いも出つくして/やっとふりむきゃ乱れ足/まだまだやらなきゃ/なあお前
4番 大正生れの俺たちは/幾つになってもよい男/子供もいまではパパになり/可愛いい孫も育ってる/それでもまだまだ若造だ/やらねばならぬことがある/休んじゃならぬぞなあお前/しっかりやろうぜ/なあお前
(鎮魂譜)大正生れの俺達の 別れし戦友(とも)の魂魄(たましい)は、空ならば なお天翔(あまかけ)り、海ならば なお水漬(みずき)き揺れ、大地(つち)ならば なお 草むさん、 いでや わが友 この胸に、 しかと 眠れや なおお前 

 この漢詩をもとにした歌詞が、テレビ局の友人の眼に止まり、作曲家大野正夫さんを紹介されました。フランク永井の「こいさんのラブコール」や松尾和子の歌を手がけてきたムード歌謡の作曲家でしたが、さすがに大正生れの歌」には、軍歌調のメロディがつきました。1976年に藤木良さんという歌手がテイチク・レコードで吹き込み、当時普及し始めたカラオケで、よく歌われるようになりました(77年がカラオケブーム)。

・それに便乗して、明治生れの藤山一郎や、昭和初め生まれの若山彰といった大御所たちが、ぜひレコードにしたいと言ってきましたが、1984年に(小林さんの記憶では、吹き込みそのものは79年頃とのことです)、1923年=大正13年生まれで小林さんと同世代の西村晃さんが、キャニオン・レコードから吹き込むことになりました。このレコードを作る際に、A面に西村晃さんが補作した新しい歌詞がつき、同時にB面に、玉城百合子さんの歌う「「大正生れの歌(女性編)」が入りました。A面に「男性編」と入っていないのに、B面だけ「女性編」とされたのは、この頃のジェンダー感覚を反映しています。

小林さんから、2枚のSPレコードを頂きました。実は小林さん自身は、84年の西村晃レコードには違和感があり、76年の藤木良オリジナル盤の方がいいといいます。それは、西村晃さん「補作」の歌詞が、2番の「大正生れの青春は すべて戦争(いくさ)のただなかで 戦い毎(ごと)の尖兵(せんぺい)は みな大正の俺たちだ」の部分を「大正生れの俺たちは、すべて戦争の青春だ、恋も自由もないままに、生死をかけて生き抜いた」と、戦場の話に「恋と自由」を持ち込んだことにあります。小林さんは、恋など考える余裕はなかった、ひたすら日本と日本人のことだけを考えていた、といいます。3番の高度成長期の「政治経済教育と」が「世界の国と肩ならべ」と変えられたのも、当時はまだそんな意識はなかったといいます。

・だからいま、「大正っこ」さんホームページに入っている藤木良さんの歌の方が、原作者の想いがこもっているのです。「大正っこ」さんもお元気です。最近「ブログ入門」というコーナーを開設されました。

 80歳でお元気な小林朗さんは、実は車椅子生活です。1987年に大病を患い、手術を受けました。それから20年近い闘病生活のなかで、幾度も車椅子で中国大陸に渡り、13省40都市でボランティア活動を続けています。『崑崙の言』という日本語・中国語の小冊子の著書をお持ちで、そこに書いています。小林さん大正生れの歌と中国でのNPO活動は関係はないといいます。でも、相通じる精神が感じられます。

 私の中国に対する思い入れは二つある。一つは先にも述べたように、少年期から培われた私自身の人間形成・精神構造の要素に中国が色濃くあり、中国への奉仕は、中国の歴史に加わり、中国の文化に参加するとの思いである。今一つは、容易に口に出さぬ積りでいたのだが、日本人としての中国への贖罪である。日本国が長期間に亘って中国に何を行ってきたか。日本軍が中国本土を広範囲に占拠し、糧食を奪い、住居を焼き払い、無差別な殺戮を行い、終戦に至るまで長い間犯した罪は償いようのないものがあるのである。

・ 大正生れ世代には、頭が下がります。でも「昭和生れ」は、どうしたらいいんでしょう。小林朗さんのお話しでは、いま全国に「大正会」というのがあるそうです。軍の戦友会でも、学校・会社の同窓会でもなく、戦争で二百数十万人を失った大正生れというただそれだけの繋がりでの集まりなそうです。

ちょうど私が小林さんを訪れた時に届いたという、大正生れの歌の各種替え歌バージョンを収集した岡山県の同世代の方からのお手紙を見せていただきました。以前に紹介した、カネボウ永田社長の葬儀で歌われたという「昭和6年生れの歌」ばかりでなく、「団塊世代の歌」「平成生れの歌」まで、いろいろなかたちで歌い続けられているようです。軍歌風ばかりでなく、寮歌風、説教風、パロディ風もあります。

 昭4生れの俺達は 敗戦ショックの打撃受け、食うもの着るもの何もなく ろくな授業も受けられず それでも旧制六高に 入学だけは出来たのは 幸せだったな なあお前
 昭7生れの我なれば 本土決戦免れて 白線の夢よみがえり 一途に憧れ励みしを 門前払い喰らわされ 寮歌に溺れ朽ちるとは 悔しいじゃないか なあお前 
 昭8生れの俺達は 敗戦ショックの打撃受け 学制改革ただ中に 新制高校大学と 白線帽も被られず 寮歌も知らずに老けたのは 可哀想だな なあお前
 団塊生れの君達は 大正生れの後継ぎだ 戦争知らない五十年 ともかく平和でよかったが 俺たちゃ少々心配だ これから日本はどうなるの 孫たち頼むよ なあお前
 平成生れの僕たちは 戦争を知らないパパやママ 学校の先生は日教組 日の丸君が代そっちのけ 茶パツに合コンじゃらじゃらと 気楽なもんだよ なあ オジン
 
2007.5.3 なぜか60年目の憲法記念日に、Kさんという方から、「昭和27年生れの歌」のご寄稿。ちょっと字余りもご愛敬。ちょうど『戦後意識の変貌』の再版も決まりました。それぞれの時代を、映し出せますね。
   昭和27年生まれの歌
♪ 1番 昭和27年生まれの俺たちは/大正の親父に育てられ/勉強よりも働けと/一日中野良仕事/それでもこっそり勉強し/金がないので国立へ/三畳一間で露しのぐ/なあお前
♪ 2番 昭和27年生まれの青春は/学生運動しりすぼみ/高度成長の終焉で/オイルショックもおいうちし/大学出たそのときは/就職難の向かい風/職安通った/なあお前
♪ 3番 昭和27年生まれの俺たちにゃ/低成長とバブル時期/政治に労働運動と/ただむしゃらに30年/父親不在の母子家庭/やっとふりむきゃ格差社会/まだまだやらなきゃ/なあお前
♪ 4番 昭和27年生まれの俺たちは/五十半ばのよい男/子どもも今では労働者/聞け万国の労働者/それでもまだまだ若造だ/やらねばならぬことがある/休んじゃならぬぞなあお前/しっかりやろうぜ/なあお前     

皆様のまわりで収集した替え歌バージョン、あるいは自分で作ったバージョンがあったら、ぜひkatote@ff.iij4u.or.jp までお寄せ下さい。IMAGINE DATABASE「戦争の記憶」番外「大正生れの歌」に収録・保存していきます。



4 「大正生れの歌」の悲鳴は聞こえない!---後期高齢者医療問題で「大正生れの歌」復活!

 

「格差」の裏から「貧困」が見えてきた! 

「大正生れ」のお年寄りは、

 大正生まれの俺たちは 今では後期高齢者  貰う年金あてにして   細々生きる身なれども

介護・医療と差し引かれ  そのうち末期高齢者  それでも生きるぞ なあお前

「昭和生れ」の若者たちは、

 働けど働けど 我がくらし楽にならざり ぢっと手を見る

2008.4.25  千葉県の蘇人生さんから、大正生れの歌の新バージョンが送られてきました。

大正生まれの俺たちは  今では後期高齢者  貰う年金あてにして   細々生きる身なれども
介護・医療と差し引かれ   そのうち末期高齢者   それでも生きるぞ なあお前  それでも生きるぞ なあお前
 
大正15年が1926年ですから、大正生れの皆さんは、すでに80歳を越えています。「後期高齢者」なんて75歳で区切る悪法ができたために、「末期高齢者」にされるんじゃないかと、本当に怒っています。かつて世界一だった一人当たりGDPがいまや世界18位まで沈没した落ち目の日本が、なお世界に誇れるランキング・トップ、それが平均寿命なんですが、日本政府は、かつてジャパン・アズ・ナンバーワンとまで言われた栄光の時代を築いた人々を、もう働けないからと切り捨て棄民にしようとしています。
あらためて大正生れの歌を想い出してみましょう。
 
1番 大正生まれの俺(おれ)たちは/明治の親父(おやじ)に育てられ/ 忠君愛国そのままに/お国のために働いて/ みんなのために死んでいきゃ/日本男子の本懐と/ 覚悟は決めていた/なあお前
2番 大正生まれの青春は/すべて戦争(いくさ)のただなかで/ 戦い毎(ごと)の尖兵(せんぺい)は/みな大正の俺たちだ/ 終戦迎えたその時は/西に東に駆けまわり/ 苦しかったぞ/なあお前
3番 大正生まれの俺たちにゃ/再建日本の大仕事/ 政治経済教育と/ただがむしゃらに40年/ 泣きも笑いも出つくして/やっとふりむきゃ乱れ足/ まだまだやらなきゃ/なあお前
 

  数年前に、この曲の作詞作曲者小林朗さんにお会いしてインタビューした時、私にとって一番ショックだったのは、小林さんご自身の口から「私たちは、戦争の一番の犠牲者なんですよ」とお聞きしたことでした。「大正生れ」──1912−25年生まれの人々は、敗戦時に20歳ー35歳、日本本土でも植民地朝鮮・台湾でも、アジア・太平洋戦争の最大の犠牲者でした。同世代の多くの友人が、青春ばかりでなく生命を奪われました。死との背中合わせを体験し、生き残ったこと自体が好運でした。 それが戦後復興から高度経済成長を第一線で担い、ようやく悠々自適という時に「失われた十年」に突入し、年金が消されたりごまかされたり、「受益者負担」にさらされて医療費や介護保険の自己負担が増え、あげくのはてに「後期高齢者」という名で、少ない年金から保険料を天引きされているのです。「生活本位」の政治なら、「消えた年金」とこの老人医療問題を、徹底的に追及すべきです。ガソリン再値上げ反対や道路特定財源の一般財源化も重要ですが、保守王国山口2区衆院補選での民主党勝利には、あきらかに「老人たちの自民党離れ」が効いていました。前回参院選での民主党躍進・参院多数派獲得も、「農村の反乱・地方の自民党離れ」の結果でした。自民党は、支持率2割の悪役福田内閣に悪法・不人気政策を次々に実行させ、使い捨てる覚悟のようです。野党は、国会駆け引きの戦術よりも、「生活」の中身を深く分析し、政策を対置すべきです。

 この週末、5月17−18日に、勤務先の一橋大学で、「中国の格差、日本の格差:格差社会をめぐる日中共同シンポジウム (社会発展過程中貧富分化問題与対策研討会)」と題する、一橋大学社会学研究科・清華大学人文社会科学院・中国社会科学院政治学研究所主催の国際シンポジウムがあります。私も、「<豊かさ>を抱きしめてーー戦後日本の政治意識と価値意識」という報告を、中国社会科学院孫歌Sung-Guu)先生たちと一緒に報告します。一般公開されますから、ご近所の方はどうぞ。

私のそこでの報告は、憲法記念日を前に千葉県の蘇人生さん(大正生まれの90歳!)から送っていただいた大正生れの歌の新バージョン、

大正生まれの俺たちは  今では後期高齢者  貰う年金あてにして   細々生きる身なれども
介護・医療と差し引かれ   そのうち末期高齢者   それでも生きるぞ なあお前  それでも生きるぞ なあお前
 
それに歌人石川啄木の、
 
働けど働けど 猶 我が生活(くらし) 楽にならざり ぢっと手を見る
 work after work  life never be well  I stare at my hands
 
が現実なのに、なぜ政治はそれに真正面から取り組まないのか、そこには政府主導の情報戦と価値観誘導、それを受容する国民意識の変容があるんではないか、と問題提起する予定です。

その原点は、日本国憲法第25条【生存権、国の生存権保障義務】

1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
 

2008.6.4  

 前回まで本サイトで掲げてきた千葉県の蘇人生さん(大正生まれの90歳!)作詞の後期高齢者医療制度批判大正生れの歌 」を、元祖「大正生れの歌 」を掲げる「大正っ子のパソコン操作」サイトのきくやすさん(大正15年生まれ)が、メロディつきで歌ってくれました。早速リンク本歌作詞作曲者の小林朗さんも大正14年生まれの84歳ですから、作曲・編詞・歌の「大正生れ」3人あわせて250歳を越える怨歌です。でもその歌声は、日本政府には聞こえません。


5
大正生れ」の高貴高齢者の誇り悲鳴を無視して、

ジャパン・ナッシングの新自由主義政治を続けていいのか?

2008.6.15  千葉県の蘇人生さん(大正生まれの90歳!)作詞の後期高齢者医療制度を嘆いた「大正生れの歌 」を、元祖「大正生れの歌 」を掲げる「大正っ子のパソコン操作」サイトのきくやすさん(大正15年生まれ)がアレンジして、茨城県のままなすさん(86歳)がメロディつきで歌ってくれました。本歌作詞作曲者の小林朗さんも、大正14年生まれの84歳ですから、作詞・作曲・編詞・歌の「大正生れ」4人あわせて340歳を越える怨歌です。でもその歌声は、日本政府にはなかなか通じません。そこできくやすさんは、「大正生まれの皆さんへ」と呼びかける、老人パワーの誇りと連帯を綴ったもう一つの替え歌「生き生き高貴高齢者の歌」を作って、本サイトに送ってきました。

野党が多数の参議院でいったん撤回が可決されましたが、与党は衆院で否決、運用上の手直しでうやむやにしようとしています。ちょうど会期末国会の参院で福田首相問責決議が可決されたものの、翌日の衆院で首相信任決議が通り帳消しされる「ねじれ国会」の取引に使われたかたち。でも、2度目の天引きに不服審査請求を申し立てたお年寄りが2291人、集会・デモ・座り込みでの抗議、地方自治体での制度撤回・凍結決議もあいついでいます。折から「大正生れの歌 」を発掘した私の旧著『戦後意識の変貌』(岩波ブックレット)も復刻されましたが、これが韓国なら、元気な「大正生れ」パワーに、若者たちが政府を批判し、キャンドルデモで合流してくれたでしょうが。韓国の米国産牛肉輸入制限撤廃に反対する市民運動は、中高校生がインターネットを通じて加わる全国100万人近い反政府運動になり、ろうそくをたてたキャンドルデモの平和的形態で、首相以下全閣僚16人の更迭、李明博大統領の政治手法変更・対米再協議・追加交渉に向かおうとしています。

2008.10.15 10月の3連休は日本政治学会で、開催校関西学院大学へ。その会場の住所が聞いた覚えがあって、アドレスブックを調べると、なんと昨年刊行した『情報戦の時代ーーインターネットと劇場政治』の目玉の一つ、あの大正生れの歌の作詞作曲者小林朗さんのお住まいの近くでした。早速連絡すると、学会の昼休みに、会場まで来てくれました。奥さんに車椅子でひかれてやってきた、お元気な小林さんと再会し、この5月から「後期高齢者医療制度大正生れの歌へのアクセスが異様に増え、「後期高齢者の歌」への替え歌と、「生き生き高貴高齢者の歌」の投稿もあったことをご報告。その歌詞を見て、「ここはノーブル=高貴といいかえたいですね」とすぐにおっしゃられたのは、さすが元歌作詞・作曲者。「日本人としての中国への贖罪」というボランティア活動から生まれた日中ネットワークはまだ続いているそうで、日本全国の大正生れはまだまだ健在です。あの桝添厚生労働大臣の再任前「抜本的見直し」公約は、どうなったのでしょうか。この15日から、新たな200万人の天引きが始まります。改めて、元祖大正生れの歌を再録。著作権などいらない、皆さんに使って貰えれば嬉しい、と小林さんもおっしゃてますから、皆さんも「昭和○年生まれの歌」「ワーキングプアの歌」など、どんどんkatote@ff.iij4u.or.jp へお寄せ下さい。

●「大正生れの歌 (小林朗作詞作曲)」大正生まれの俺(おれ)たちは/明治の親父(おやじ)に育てられ/忠君愛国そのままに/お国のために働いて/みんなのために死んでいきゃ/日本男子の本懐と/覚悟は決めていた/なあお前
●「後期高齢者の歌 」(蘇人生作詞)大正生まれの俺たちは/今では後期高齢者/貰う年金あてにして/ 細々生きる身なれども /介護・医療と差し引かれ /そのうち末期高齢者 /それでも生きるぞ/なあお前 
●「生き生き高貴高齢者の歌」(きくやす作詞)大正生まれの皆さんは/荒波越えて生きてきた/先進国の礎に/世界に冠たる日本国/築き上げたる功労者/永久の地球を後世に/頼むぜ元気な高齢者 


6 大正生れの歌・戦友会版、発見!

 

2008.11.15 「大正生れの歌」の新しいヴァージョンが見つかりました。見つけたのは私の勤務先の同僚、吉田裕教授、日本軍事史の著名な専門家です。吉田教授が資料として集めてきた旧軍人の戦友会雑誌に、私が探求してきた「大正生れ」の歌詞が入っていたというのです。1970年代に小林朗さんにより作詞作曲され、76年の藤木良さんが吹き込んだオリジナル盤、84年に西村晃さんが歌ったレコードが普及する過程で、大正生まれの人たち、特に戦争体験を持つ人々によって、いくつものヴァージョンが作られ、戦友会などの席で歌われてきたものと思われます。吉田教授がみつけて提供してくれたのは、中国大陸杭州の西湖付近に従軍した輜重(しちょう)兵第22連隊の戦友会=西湖会の会誌『西湖』の第19号(1985年)と第24号(1990年)に収録された二つのヴァージョン、1990年版には84年西村晃さんレコードの影響か、「大正生まれの男の歌」と「大正生まれの女の歌」の双方が収録されています。ただし、レコードの歌詞とは微妙に異なり、中国大陸の前線に従軍した戦友会らしい雰囲気の歌詞に、変えられていました。

日本陸軍の「輜重兵」とは、「輜重輸卒(しちょうゆそつ)が兵隊ならば蝶々とんぼも鳥のうち」と見下された、旧軍隊の<最底辺労働者>です。まずは『西湖』第19号(1985年)に収録された版。「大正生れ」ではなく「大正生まれ」と表記されて活字になっています。「作詞者不明、メロディー不明。然し歌詞は我々大正生まれの心情をよく言い表わして居ると思う。特に最後の『元をとろうぜ なあお前』は我等の気持を凝縮して居る様である」と事務局の注釈がついています。なるほど、太平洋戦争の生き残り「輜重兵」たちが、高度成長期の「企業戦士」として日本経済を牽引し、一人当たりGNPもアメリカ以上になった1980年代に企業を定年退職していきました。「いくさに征って 損をして」「元をとろうぜ」の心境になるのもむべなるかな、です。ちなみに「輜重兵の歌」という昭和12年もの軍歌もウェブ上で聴けますので、関心のある向きはそちらもどうぞ。
 

 「大正生まれ」西湖会・1985年版

 
1、大正生まれの俺達は、明治と昭和にはさまれて、いくさに征って 損をして、敗けて帰れば 職もなく、軍国主義と指さされ、日本男児の男泣き、腹が立ったぜな なあお前
2、大正生まれの俺達は、戦後の荒れた山・河に、頼りにされて働いて、みな青春も 何のその、腹を減らしたときだって、歯を喰いしばって 頑張った、苦しかったぜ なあお前
3、大正生まれの俺達は、祖国の復興なしとげて、やっと平和な鐘の音、今じゃ世界の日本と、胸を張ったら 後輩が、大正生まれは 用済みと、バカにしてるぜ なあお前
4、大正生まれの俺達は、六十過ぎのオジイチャン、会社も定年 ハイ・サラバ、可愛いワイフもオバアチャン、長い人生振り返りや、まだまだやりたいことがある、休んじゃならぬぞ なあお前、元をとろうぜ なあお前
 
『西湖』の第24号(1990年)には、「遠くなりつつある大正時代、この大正に生れた我々の気骨はまだまだその辺の若者に負けちゃあいられない、ということで次の歌を載せておきます。いつまでも元気で大合唱しましょう」と前書きがあり、「大正生まれの男の歌」と「大正生まれの女の歌」の双方が収録されています。ただし「大正生まれの男の歌」は、上掲藤木良さんオリジナルと同じです。ところが「大正生まれの女の歌」の方は、西村晃さんレコードのB面に入れられた佐々木律子補作・玉城百合子歌の歌詞とも異なる、新ヴァージョンでした。どうやら女性編の方も、いろいろ替え歌ができて、歌い継がれてきたようです。歌詞の異なる部分は赤字にしておきます。女性編に限っては、こちらの方が原作者小林朗さんのおっしゃる時代の流れと合っているような気がします。

「大正生れの男の歌」西湖会1990年版

1番 大正生まれの俺(おれ)たちは/明治の親父(おやじ)に育てられ/
忠君愛国そのままに/お国のために働いて/
みんなのために死んでいきゃ/日本男子の本懐と/
覚悟は決めていた/なあお前
 
2番 大正生まれの青春は/すべて戦争(いくさ)のただなかで/
戦い毎(ごと)の尖兵(せんぺい)は/みな大正の俺たちだ/
終戦迎えたその時は/西に東に駆けまわり/
苦しかったぞ/なあお前
 
3番 大正生まれの俺たちにゃ/再建日本の大仕事/
政治経済教育と/ただがむしゃらに40年/
泣きも笑いも出つくして/やっとふりむきゃ乱れ足/
まだまだやらなきゃ/なあお前
 
4番 大正生れの俺たちは/五十、六十のよい男/
子供もいまではパパになり/可愛いい孫も育ってる/
それでもまだまだ若造だ/やらねばならぬことがある/
休んじゃならぬぞなあお前/しっかりやろうぜ/なあお前

「大正生れの女の歌」西湖会1990年版

1番 大正生まれの私たち/明治の親に躾られ/
清く 優しく 美しく/大和撫子そのままに/
お国のために働いて/親の言葉にさからわず/
何が何でも親孝行/
 
2番 大正生まれの青春は/哀しい戦のその中で/
綺麗な着物も服もなく/防空壕で夜を明かし/
娘盛りを重労働/恋しい人とも生き別れ/
モンペ姿で涙ぐむ/
 
3番 終戦迎えたその時は/青春時代も終る頃/
何もない時嫁になり/配給米でやりくりし/
関白亭主に悩まされ/両親様を大切に/
可愛い子供を育ててた
 
4番 大正生れの母親は/高度成長に手をかして/
家庭と両立共働き/会社のためと国のため/
仕事仕事と頑張って/ヤレヤレほっとした時は/
世の中すっかり変わってた/(しっかりやりましょ/ねぇあなた)
 
7 2008年秋、「大正生れの歌」ネットワーク!

 

2008.11.15 上記「戦友会版」発見を期に、「大正生まれの歌」のウェブ上での広がりを調べてみました。簡単です。グーグルで「大正生れ」「大正生まれ」と入れて、どんなサイトが出てくるかをチェックし、その中身を読んでいきます。すると、私の本サイトと、きくやすさん(大正15年生まれ)「大正っ子のパソコン操作」のメロディー付サイトを二大ポータルにして、ずいぶん広がっていることがわかりました。両サイトとも著作権フリーのコピーレフト・サイトですから、無断引用もリンク先明記も敢えてとがめません。2005年5月の作詞・作曲者小林朗さん発見時に一度チェックしましたから、その後の3年間で、歌詞そのものの力でさらに増殖していったようです。本サイト「IMAGINE! イマジン」IMAGINE DATABASE「戦争の記憶」の趣旨からすると大いに歓迎すべきことですから、ここに2008年11月時点での広がりをネットワークとして示し、新たなウェブ上のヴァージョン、気になる感想文については、urlを明記して紹介しておきます。

 まずは2008年10月11日発行で、大谷正彦大正は遠くなりにけり」という小説(PDF小説ネットby ウメ研究所)になっていることがわかりました。

第一部 激動の時代と大正生れの歌

 人間の営む社会はその時代によって平穏であったり、騒然たる世の中であったりと様々である。無事太平の世があれば、激動の時代もある。
 私がこれから書こうとするのは私がこの世に生を享けてから85歳の今日迄生きてきた日本の国で、私の脳裏にある種々様々の事象の中で、私がどうしても後世の人々に伝え残しておきたいと思うことをなるべく順をおって書き残す自分史に近いものである。順を追うと書いたが、それに固執すると書きにくくなるので、必ずしも年代順の出来事を順序良く書くと言うわけではない。
 私が生まれたのは大正9年である。西暦でいえば1920年だ。すなわち、大正生まれである。言い換えれば悲劇的な大正生まれなのだ。巷でよく言われる日本の十五年戦争とは、昭和6年から昭和20年の第二次世界大戦の終結までの15年間の戦争に明け暮れた時代のことなのだ。その戦争の15年もの長い間、戦場では戦わされ、或いは銃後で戦争を支える力としてのあらゆる面での仕事や責任を背負わされた人々の主力が、大正生まれの男女の青壮年であった。
 そして日本は明治生まれの人々の無知と驕りと自惚れにより無謀な戦争に突入し、まるで蟷螂(カマキリ)の龍車に向かうがごとき状態で敗戦の憂き目を見たのであった。戦いに敗れた祖国日本はまさに「国敗れて山河在り」の言葉そのままの姿であった。
 戦後昭和21年に赤道の南の無人島からやっとの思いで母国へ帰還できた私は、栄養失調の身を一本の杖に托し、自分で作った背負袋を肩にして私の生還を神頼みして待ち続けていた父親の元へ戻る事が出来た。私の兄も同じ頃、大陸の最奥地から生還した。二人の息子を戦争に取られた親は、どんなにか待ち焦がれていたことであろう。この点に関しては、私共兄弟は最高の親孝行息子であったと言える。何しろ兄が7年、私が5年間と戦地へ送られ、まして私は最も死亡率が高い航空隊の戦闘機のパイロットであったので、父は殆ど生きて還る事はありえないと思っていた。それでも親は戦中戦後にかけて、ろくに食べ物も手に入らない時代に、息子共が生きて帰ってきたら食べさせようと米を蓄えて食べずに残して待っていてくれたのであった。
 帰還できた私の方も、東京大田区在住の家族が無事に生存しているかどうかは全く不明であったし、東京は丸焼けの焼け野原になっていると聞いていたので、直接東京へは行かず、父の出生地である伊勢の片田舎の実家へ上陸地の広島の大竹港から大阪を経由していったのであった。遅々の成果で叔父に父が元気でおり、更に少し前に兄も無事生還できたと聞き安心した。こうして私の戦後の人生はスタートした。
 この稿の第一部の表題とした「激動の時代と大正生れの歌」というのは、ここまでに書いた十五年戦争なる時代に、その荒波に翻弄された我々大正生まれの日本人の真情をそのままに歌いし歌であり、大正生まれの人々の悲しく哀れな人生と人生観を余すことなく歌い上げている事で、この世代の人々に広く静かに歌われてきた歌である。
 よって明治の人や昭和の人々、更に平成の人々には知られていない歌なのだ。我々大正生まれの人間のみの心の歌である。以下、この歌に関する事柄を書くことにする。
 それは何時のことであったかは定かではないのだが、ある時私は共に復員した戦友の一人から一巻の歌のテープを貰った。その戦友は、これはなかなか良い歌だぞ。今関西の方で大変流行っているらしいよと言うて、歌詞と共に手渡してくれたのだった。私は早速プレイヤーに掛けてこの曲を聴いてみた。
 曲の題名は「大正生れ」であった。曲は日本人の好むマイナー調のメロディーで、雰囲気としては軍歌の「戦友」と一脈相通ずるものがある。歌詞のプリントを目で追いながら、私はずっとこの始めて聴く歌を聴いた。曲が終わった時私は、自分が何時の間にか泣いていたことに気が付いた。涙が頬を伝って静かに流れていたのだった。何という歌だ。何で俺の思っていることを全部歌っているのだ。そうだよ。その通りだよ。と、自分で自分の心に独り言を言った。
 私は早速ダビングに取り掛かり、何本かのテープを複製した。そしてその後催された飛行学校の同期生の戦友会に持って行き、仲間の連中に披露したのであった。戦友の中には既にこの歌を知っている者も何人かはおり、歌詞のプリントを見ながら一緒に歌った。歌いやすく覚えやすい曲であり、すぐに大勢で斉唱できるようになった。そしてその頃既に名古屋より西の方の地方では、広く歌われていることも知った。しかし一般の歌と違って、この歌は大正生まれの中高年者の間だけに深く広く伝わっていっており、一般の人々には殆ど知られてはいないことも同時に知った。
 それから暫くたって、JRのPR誌の「ジパング倶楽部」にある投書者が「大正生れ」の歌を教えて欲しいとの要望の投稿が掲載された。ジパング倶楽部は高年齢者の三割引きサービスを主とするJRの高齢者対象の組織であり、したがって読者は当然大正生まれが主流なのだ。私は早速テープと譜面を送った。私の他にも全国から沢山の人々がテープや楽譜を送ってくれたそうである。
 この「大正生れ」の作詞者は「小林朗」さんという人であり、始めて書いて世に出されたのは昭和50年であるらしい。私の手許にあるプリントのコピーを作者には無断で掲載させていただくが、同じ大正生まれの男として多分お許し下さると信じている。以下は、作詞者小林朗さんの文章である。

ここから、以下の二つのサイトに、大谷正彦さんの替え歌が転載されていました。

昭和の音風景 「大正生まれの歌」(中野之也)

 私の原風景は大正という時代である。大正生まれの昭和育ちと自己紹介する私は、昭和生まれとは少し違う、そんな気持ちが心の中にあるようだ。昭和18年徴兵年齢が19歳に引き下げられ、大正最後の15年生まれまでが徴兵検査を受けた。これが日本陸軍最後の兵隊であった。
 私達が受けた教育はすべて大正時代そのままであった。職場に入って仕事も、人生の先輩達も揃って、大正デモクラシーを身につけていた。大正の原風景が私にどのような影響があったのか、いままであまり感じることはなかった。
 2004年3月朝日新聞論説委員早野透さんが「ポリテカにっぽん」のコラムの中で、山中貞則代議士の死を悼む「山中氏の死と大正生まれの歌」が記事となった。自分で歌ったことはなかったが、どこかで聞いた歌だと思った。この時自分が大正生まれであることを強く感じた。
 その後調べるとSPレコードが二枚発売され、西村晃の歌をテレビで聴いたことがあった。インターネツトの時代で、原作者も大正十四年生まれと知り、ネットでこのレコードも聴くことができた。
 一番二番に続いて自分で作る大正の生まれの歌。女性編も、昭和生まれの歌も作られている。私も自分の大正生まれの歌に挑戦してみた。
          大正生まれの歌(小林朗作詞)
 一番 大正生まれの俺たちは/明治の親父に育てられ/忠君愛国そのままに/お国のために働いて/みんなのために死んでいきゃ/日本男子の本懐と/覚悟は決めていた /なあお前
 二番 大正生まれの青春は/すべて戦争(いくさ)のただなかで/戦いごとの先兵は/みな大正の俺たちだ/終戦迎えたその時は/西に東に駆けまわり/苦しかったぞ /なあお前 
 
          大正生まれの歌(自作)
大正生まれのこの俺は/徴兵検査は満十九/第一乙に合格して/その年師走の一日に/伊勢斉宮の通信隊に入営した。
大正生まれのこの俺は/兵隊暮らしは地震、空襲、空腹で/栄養失調で三月入室/一期の検閲入室中/三月末に部隊は中国出征だ。  
大正生まれのこの俺は/釜山から南京まで/貨車に詰めこめられて十日間/着いたところは南京中華門の第四航空通信隊/行進中に気を失いまたも入室した。
大正生まれのこの俺は/入室中に幹候合格/中隊でたったひとりの幹候で/毎日下士官室で勉強する/七月幹候教育で石家荘へと出発する。
大正生まれのこの俺は/北京行きの汽車のなか/マラリヤ発熱一等車へとはいり込む/北京に着いたら熱下がり/無事に部隊に到着した。
大正生まれのこの俺は/着いたその日にマラリヤ熱で三度目入室/八月十五日は病院で検診中/戦争は終わったらしいと知らされる/家を出てから一年で生きて我が家にたどりついた。/なあお前
 昭和の音風景として歌い継がれ、今でも歌われている「大正生まれの歌」である。平成十八年四月 十日

9条自由広場(中野寂音) 中の「大正生まれの歌」(大正は遠くなりにけり 作:大谷正彦)は、上記とほとんど同文ですが、末尾だけちょっと違います

大正生まれのこの俺は/徴兵検査は満十九/第一乙に合格して/その年師走の一日に/伊勢斉宮に入営した。
大正生まれのこの俺は/兵隊暮らしは地震、空襲、空腹で/栄養失調三月入室/一期の検閲入室中/三月部隊は中国出征だ。  
大正生まれのこの俺は/釜山から南京まで/貨車に詰められ十日間/着いたところは南京の通信隊/行進中に気絶して入室した。
大正生まれのこの俺は/入室中に幹候合格/中隊でたったひとりの幹候で/毎日下士官室で勉強する/七月教育隊の石家荘へ出発する。
大正生まれのこの俺は/北京行きの汽車のなか/マラリヤ発熱一等へもぐり込む/北京に着いたら熱下がり/無事に部隊に到着した。
大正生まれのこの俺は/着いたその日に三度目入室/八月十五日は病院で検診中/戦争は終わったらしいと知らされる/家を出てから一年でやっと我が家にたどりつく。/なあお前

 高級外国車輸入で有名なヤナセの前の社長さんは、大正生まれだったようです。以下の替え歌は、「ウジタオートサロン 梁瀬次郎氏を悼む」(氏田耕吉のひとりごと)に入っています。ヤナセの社歌になったのでしょうか。

……「夢とロマン」を持ち続け、かつ「気概の心」を大事にする自動車屋だった。いうまでもなく、日本の輸入車業界の顔として「梁瀬次郎」の名前だけで国内はもとより海外自動車メーカー首脳にも知られたほど。今日の日本自動車産業が世界のトップランナーに至る戦後からの過程で多大な足跡を残した一人である。
  ヤナセの創業者梁瀬長太郎氏を継いで終戦後の米GM車輸入販売を再開してからベンツ、VW、アウディ、ボルボなどの輸入販売権を獲得し全国ヤナセ販売網を構築し「輸入車の雄、ヤナセ」を名実共に確立させた。また、乗用車輸入自由化時の1965年に日本自動車輸入組合の理事長に就任し、以来一貫して輸入車業界のリーダーとしての役割を果たしてきた。
  「自動車屋であるからにはこの自動車業界にベストを尽くして生きていくのが私の使命であり宿命である。日本の花形産業である自動車輸出の将来の明暗はひとえに輸入車業界にかかっている。輸出入の貿易不均衡、インバランス是正のためにも最大の努力を」。76年に再び日本自動車輸入組合(JAIA)理事長に推された時にインタビューに応えてくれた言葉である。以来、約30年に渡り実力者理事長として輸入車業界をけん引し、その理念は一貫していた。
 功績は、内外から勲章を数多く受けさらに、自動車人として大きな栄誉である米国自動車殿堂に、日本人として5人目の殿堂入りを果たした。日本自動車殿堂も初代殿堂入りしており「梁瀬次郎」の名は、日本の自動車業界人として将来に渡っても残ることになろう。
  一方、輸入車ビジネスということで、若いころから海外に渡航し「国際派」のセンスを磨くと同時に「心をもったニッポン人で日本の活力を」と、日本人の気概を大事にした人だった。写真、絵画、随筆といずれも玄人はだしという洒脱(しゃだつ)な面もあわせもっていた。
 ただ、輸入車業界は時代と共に変化した。輸入車の雄、ヤナセ自体のビジネスも梁瀬次郎氏が経営していた時代と大きく変わり新たな生きる道を目指そうとしている。
  「大正生まれの俺たちは/灰の町から立ち上がり/今日のヤナセを築き上げ/今じゃ世界の大ヤナセ/百年めがけてはばたけよ」
とは、梁瀬次郎氏が大好きな大正生まれの歌の替え歌である。まさに「後は頼むよ」と言ってるようだ。(日刊自動車新聞社本紙主筆・編集局長 佃義夫)

 イマジンのリンク集でもおなじみの「日々通信 いまを生きる」の第233号 2006年12月2日(発行者  伊豆利彦)に「大正生れと戦争」という文章が入っています。歌そのものは入っていませんが、歌の意味を味わう上で、含蓄のある一文です。

大正生れと戦争

 空襲を記録する会で、88歳の服部一馬さんの米寿を祝い、大正を語る会が催された。大正生れの会員は1918(大正7)年生れの服部さんのほかに、1924(大正13)年生れの今井清一さん、そして1926(大正15)年の私がいる。服部さんが生まれたのはロシア革命の翌年、シベリア出兵と米騒動の年だ。20歳を迎えたのは1938年、蘆溝橋事件で本格的な日中戦争が始まり南京が陥落した年の翌年、国民政府が武漢に首都を移し、長期戦に入った年だ。当時は徴兵猶予があり、徴兵検査を受けたのは大学が卒業後だった。丙種合格で入営をまぬがれ、召集もされず、大学卒業後は研究所を転々として日本の産業史の調査研究に従事された。戦争の時代ではあったが、平和時と同様の順調な研究者の生活だった。
 米英に対する戦争が始まった1941年から修学年限が短縮され、繰上卒業で多くの若者が戦場に動員されたが、1943年には学生の徴兵猶予が廃止され、在学中の学生が徴兵された。このとき動員された学生たちが海軍の予備学生や陸軍の特甲幹になって1年間の教育を受け、特攻隊などで大量に戦死した。服部さんはわずかな年齢の差でこの運命をまぬがれたのだった。今井さんもこのとき徴兵されたのかと思っていたが、わずかの差で翌年の徴兵になり、予備経理学校在学中に8・15を迎えたのだという。そして私は高校2年在学中に入隊させられ、1カ月たらずで8・15を迎えた。戦争の時代を生きた大正生まれの3つの世代ということを考えさせられた。服部さんは同年の仲間たちが兵隊にとられていたために、人材不足で就職などは恵まれていたと思う。
 服部さんの経歴は、同年生れの堀田善衛と似ていると思った。堀田はその青年時代を「若き日の詩人たちの肖像」に書いている。当時は既に左翼運動は壊滅させられ、学内にはごく少数の残党がいるだけだった。彼等は時代の大波に翻弄されて、ニヒリズムにおちいり、転向して国家主義者になり、惟神の道(カンナガラノミチ)にはまりこんで呪文のようなものを口走るものもいた。左翼が壊滅させられたのは小林多喜二が殺された1933年から1934年にかけてのことだった。そして、蘆溝橋事件を契機に中国に対する本格的戦争がはじまり、日本は泥沼にはまり込んで破滅の道を歩いた。その行きづまりからの脱出を求めて対米英戦争に突入し、学徒動員となり、多数の学徒兵が特攻隊となって死んだ。今井さんの同級生の多くはこうして戦争で死んだが、今井さんは1924年生まれの早生まれだったために、この運命をまぬがれた。今井さんも私も学業途中で徴兵されたが、戦後復学して、それぞれ近現代政治史と近現代文学の教師になった。
 私たちの生涯は時代と切り離して考えることができない。生まれた年のわずかな差がそれぞれの一生を決定している。戦争の時代を生きた私たちは政治や歴史に強い関心を持たなけずにはいられない。個人の自由といっても、時代の大きな流れに規定されることをまぬがれない。私たちはいずれも幸運に恵まれた世代だったのだ。
 平和の時代、人は自由だと感じ、自分の意志で生きていると思っている。しかし、それは本当だろうか。いまの大学生は卒業後の就職状態がいいという。しかし、2,3年まえの学生は就職難に苦しんでいた。そして、一度フリーターその他の非正規社員の道を歩くと、それから脱することは難しいという。それは決してそれぞれの個人の責任ではないのだ。平和な時代に育ったいまの若い世代は、自分たちを自由だと感じているのだろうか。歴史とか政治とかは自分たちに関係がないと思っているのだろうか。しかし、当時の若者も自分たちがそのようにして戦争に動員され、戦場で死ぬことになろうとは思っていなかったのだ。戦争の時代、未来は思いがけないものとしてあらわれ、人々の運命を支配する。時代の流れに個人は抗することはできない。しかし、時代をつくるのは私たち現代に生きるものだ。いかにして無力な個人が歴史を動かすことができるのか。それがいまの課題なのだろう。……  

 平和のための戦争体験記 11.「大正生まれの青春 」

大正生まれの俺達は、明治の親父に育てられ、忠君愛国そのままに、お国の為に死んでゆきや、日本男児の本懐と、覚悟を決めていた、なあ、お前。(戦友作)
 
徴兵検査 日本国籍を持つ男子は、20歳になると兵役の義務があり、私も昭和15年5月初旬、当時住んでいた台湾台北市で、徴兵検査を受け、検査官から「オメデトウ、甲種合格と告げられ、当時の私としては嬉しい限りであった。(註昭和15年は紀元2600年 西暦1940年)
入隊 現役兵入隊通知書受領。昭和15年12月1日、熊本市西部21部隊(野砲兵第6連隊補充隊)に入隊すべし、とあった。
熊本へ 昭和15年11月中旬、生まれ育った台北市から皆さんの熱い見送りを受け、基隆港から内台連絡線高砂丸で郷里鹿児島市に帰り墓参りをすませて熊本へ。熊本市では鹿児島市役所指定旅館に泊まる。
 昭和15年12月1日朝、旅館の皆様に送られ入営。広い営庭は入営兵で一杯。のち、各隊60余名が9個中隊に分けられたのですから、500名以上いたわけです。私は、第2中隊第4内務班に決まりました。全員で記念写真。そして営庭の机に用意された昼食、赤飯他でした。室内に入ると、私の名札のついた軍服などがあり、古兵さんの指導で軍服に着替えて(私服は小包にして留守宅送り)見かけは立派な帝国陸軍二等兵になりました。これからは寝るも起きるも、みなラッパの軍隊生活の始まり。室の入口には大きな鏡あり、必ずその前で服装は端正にと教わる。砲兵隊は馬が多いので、その世話が大変。水飼(水を飲ませる)飼料(馬の食事)蹄鉄の手入れ、運動と。水は一回7〜8L位飲む。起床ラッパは「新兵さんも、古兵さんも皆起きろ」と聞こえる。分きざみの一日が終わりホッとすると、消灯ラッパ。「新平さんはかわいそうだね。また寝て泣くのかねー」と聞こえる。陸軍二等兵の給料、月額5円55銭。それを10日毎に支給され、最低50銭は強制貯金。
 出征 行先は中国山西省南部の黄河近く。
 昭和16年1月29日夜、ラッパ隊を先頭に市中行進。沿道で市民の熱烈な歓声を受けて、熊本駅前で見送り家族と別れを告げ列車で門司へ。直ちに輸送船徳寿丸に乗船、出航。
 2月3日、中国塘沽(タンクー)に上陸。貨物列車で天津、石家荘、大原、着いた処は解県(カイケン)、泌々とエライ処へ来たと思う。解県は三国志の英雄関羽将軍の故郷。立派な関帝廟が場外にあった。近くに琵琶湖と同じ位のカン湖(塩辛い)あり。麦、コーリャン、アワ、サツマイモ、アンズ、阿片をとるケシ等多し。そして昭和16年5月の中原会戦が初陣。日夜警備、戦闘のあけくれ。転々と移動。解県、蒲州(ホシュウ)(楊貴妃の故郷)、夏県、岐か河(キカガワ)、 翼城(ヨクジョウ)、新こう 、河津と数知れず。昭和19年4月からは、河南省開封の黄河敵前渡河で始まった大陸打通作戦、中牟(チュウム)、密県(ミツケン)と戦闘戦闘。死傷多し。河南省を南進、武漢の漢口、武昌、岳州、長沙(チュウサ)、宝慶。全県、現在は観光地として有名な広西省桂林の会戦。私は両脚負傷。昭和19年11月10日朝、野戦病院で約2ヶ月療養。昭和20年1月初め、約20名の戦友とビッコの脚を引きずりながら、本隊追及。柳州(リュウシュウ)でこれから先危ないと注意を受け、武昌からの応援部隊に合流。南寧、中国と仏印の国境、?南関を越え、仏印(現ベトナム)の本隊に到着。昭和20年3月7日朝であった。
 日仏両軍の交渉決裂(明号作戦。ベトナム、カンボジヤ、ラオス。仏より独立)仏軍との戦闘始まる。3月10日から約10日位、双方戦死者甚だし。それから仏印でゆっくりする間もなく、持てる限りの兵器、弾薬、食料を携行。連合軍の上陸阻止の命によりマレーへ夜行軍。難儀そのものでした。終戦、ほっとしたのが実感。タイ国への反転、武装解除、ジャングルを伐り開いて自活。その数、陸海合わせて10万余でした。昼は道路工事や英仏軍の命ずる仕事。夜は我が役者の芝居など楽しみ、ひたすら帰国命令を待つ毎日でした。そして、昭和21年4月12日、帰国命令。トラックで盤谷(バンコク)着。そこから終結する部隊用の宿舎造りを命ぜられ、昭和21年5月4日、待望の復員船に乗り、昭和21年5月19日佐世保港着。冬服一着、現金300円支給され、鹿児島着。昭和21年5月22日、夕方でした。 私26歳。
 列車の乗客は皆さん本当にやさしく、ねぎらって下さいました。Copyright (C) 原爆絵画展坂戸・鶴ヶ島地区実行委員会
 
 老人(明治・大正・昭和一桁生まれ)よ、泥を吐いてから死ね ! !
といっても、明治生まれの多くは鬼籍に入っているので、今となっては、これは俺(大正15年生まれ)を含めて、栄光無き短い大正天皇の御代に生まれた大正生まれの同胞よ。兄らは先の大東亜大戦中は中堅から若手であり、また占領期間中から戦後の復興期には、日本を背負った中核の世代である。
 戦後、それも昭和50年代という終戦から30年以上も過ぎてから、突如として沸き起こったかのような靖国神社や教科書の記載に対しての外国からの干渉。それは中曽根首相が外国からの干渉に屈して靖国神社の公式参拝を見送った昭和61年を機に頂点に達し、日本という独立国は、国是も国策も思想も無い、従ってそれらを基にする知恵も浮かばない、ないないづくしの国への坂を今も転がり続けている。いうまでもなく、中曽根首相(大正7年)も、その後の平成7年(1995年)に「戦後50年謝罪決議」を強行した村山富市(大正13年)も大正生まれである。
 大正生まれの世代の多くは、昭和60年前後から、年金生活に入った。そのころから雨後の筍のように、「自分史」とか「同人誌」のようなものに、先の大戦での自分たちの踏ん張り、そして占領期間中の忸怩たる思い(あの頃は仕方なかった等々の言い訳がほとんど)と併せて、現在(昭和60年前後から今に至る)の日本の状況を嘆く文章が目立つようになる。しかし不思議と、その文章の多くには、占領後、昭和27年に独立回復してから、昭和60年時点でも30年以上に至る自分たちの不甲斐なさ、不作為を検証する姿勢は見られない。30年間と言えば、人間の活動期間の最高潮の期間である。大正生まれの多くは、まぎれもなく、その期間、日本の中枢におり、日本の舵取りを行っていた。中曽根や村山を輩出した責任は、まさに大正生まれが負うべきである。
 年金生活に入ってから、国を憂えるのであれば、自分たちが現役でもっと発言力や影響力のあった時に、どうして行動をおこさなかったのか。中には今ごろからでも何もしないよりはマシという声が出るかもしれない。しかし、その多くは上記のような不甲斐なさや不作為の検証がすっぽり抜け落ちている事により、老人の愚痴となってしまっている。……
 
平成シニアが後世代へ贈るプロジェクト・メロウ伝承館「大正人」
このサイトはシニアの全国ネット団体であるメロウ倶楽部が、前の世代より引き継いだ大切なものを後世代へ残し贈る作業を皆さんと協同で行うために開き運営しています。
2005年は戦後60年の節目を迎えて「実録・個人の昭和史」のテーマを重視しました。「大正の時代」のテーマも継続しています。これらは現在このサイトの中心テーマーです。
時の政策に振り回されない冷静な記録を残すことに留意しています。聞き取りや代理投稿或いは同窓会誌等からの転載も行っています。 2006年には、被爆者の記録の投稿が増えてきました。2007年には同窓会誌や各種記録からの転載が増えています。急速に消えていく記憶や記録をできるだけ早く確実に残しておきたいものです。時間との一層厳しい競争になっています。
 以下、関連サイト、役に立つサイトを挙げておきます。

BGM 大正生まれの歌[生徒時代の思い出と戦後の歩み記録集]

松山大学法学部田村ゼミ「たむたむページ」 

大正生まれのおじさん

方法としての<コスモロジー>

大正生まれの人へ。思い出DVDにつけるオススメの曲は?

歌は忘れない/明治大正生まれはすばらしい

大正生まれから昭和・平成生まれの人へのものがたり

たけのこブログ「大正生まれ」

藤根鍵市自分史「歳月茫々」老年期 大正生れ

いろはにこんぺいとう/高いは十二階  わらべ歌の中の塔

大正の部屋

大正生れの思い出話「戦争に向かって」

「正義の歌」(水戸一高第二校歌)と「都の空」(旧制一高寮歌)比較論

八転九倒日記 - 大正生まれの歌人たち               .

嗚呼大正軍歌・戦時歌謡・兵隊ソング

「ラジオから生まれた歌」――少國民のうた特集―

木下三枝子「大正生まれの先輩達」

「大正生まれの思い出話」

大正生まれのおじいちゃんの蛍雪日記

大正生まれのお医者さん

美し都 神戸から(鳥瞰図を描きましょう♪)「大正生まれの祖母」

大正生まれは律義者

人生は旅なんだね「大正生まれの女」

博士の会「大正生まれの心配事」

Sachiko's Diary : 大正生まれの気迫

戦闘教師「ケン」 激闘永田町編: 大正世代


ついに森田武『大正生れの歌』という書物が出た!

 

2008.12.1 ついに「大正生れの歌」が、本になりました。非売品ですが、森田武『大正生れの歌』という立派な本、2008年10月25日発行ですから、文字通りの新刊です。東京都国立市在住の森田武さんから、そのものズバリ、『大正生れの歌:80年の軌跡』というご本のご恵贈を受けました。この著者の森田さん、大正生れの歌作詞作曲小林朗さんの神戸高商(現神戸大学)同期生で、帝国銀行(現三井住友銀行)の人事部長・常務・専務から副社長・監査役までつとめられ、三井鉱山顧問、明治学院理事長の経歴をもつ高度経済成長の牽引者、経営の大先輩です。小林朗さん大正生れの歌に共感して、この歌と「いつしかに 八十とせ生きて つかの間の つゆの命のことわりを知る 柳原白連」が巻頭にかかげられています。2008年10月25日発行の非売品私家版ですが、宣伝してもいいということですので、敢えて。特に高貴高齢者でお読みになりたいかたは、さしあたり本ウェブマスター katote@ff.iij4u.or.jpまで。

 2009.1.1 高貴(noble)高齢者の方々が大変です。『情報戦の時代ーーインターネットと劇場政治』の目玉の一つ、IMAGINE DATABASE「戦争の記憶」番外の大正生れの歌を、今年は新たに更新し増補改訂してあります。実際、「大正生まれ」の皆さんこそ、この厳冬の寒空のもとで、後期高齢者医療制度でも消された年金でも政治に裏切られ、病に倒れて救急車を呼んでも病院に入れてもらえず、物価値上げや生活苦にさらされ、棄民化されようとしている弱者・被害者です。後期高齢者医療制度以来、小林朗さん作詞作曲大正生れの歌へのアクセスが異様に増えて、先日小林さんと西宮で再会したのを機に、2005年以降の広がりを調べてみました。その結果、前回更新した後期高齢者の歌」「生き生き高貴高齢者の歌」のほか、大谷正彦大正は遠くなりにけり」という小説にまでなっており、さらに多くの替え歌ヴァージョンが見つかりました。詳しくは大正生れの歌・探索記にデータベースとしてまとめましたが、以下に、新たに見つかったヴァージョンを入れておきます。著作権などいらない、皆さんに使って貰えれば嬉しい、と小林さんもおっしゃっていますから、皆さんも「昭和○年生まれの歌」「ワーキングプアの歌」など、どしどしkatote@ff.iij4u.or.jp へお寄せ下さい。

本歌「大正生れの歌 」(小林朗作詞作曲)大正生まれの俺(おれ)たちは/明治の親父(おやじ)に育てられ/忠君愛国そのままに/お国のために働いて/みんなのために死んでいきゃ/日本男子の本懐と/覚悟は決めていた/なあお前
●「後期高齢者の歌 」(蘇人生作詞)大正生まれの俺たちは/今では後期高齢者/貰う年金あてにして/ 細々生きる身なれども /介護・医療と差し引かれ /そのうち末期高齢者 /それでも生きるぞ/なあお前 
●「生き生き高貴高齢者の歌」(きくやす作詞)大正生まれの皆さんは/荒波越えて生きてきた/先進国の礎に/世界に冠たる日本国/築き上げたる功労者/永久の地球を後世に/頼むぜ元気な高齢者
「大正生まれ」西湖会1985年版
1、大正生まれの俺達は、明治と昭和にはさまれて、いくさに征って 損をして、敗けて帰れば 職もなく、軍国主義と指さされ、日本男児の男泣き、腹が立ったぜな なあお前
2、大正生まれの俺達は、戦後の荒れた山・河に、頼りにされて働いて、みな青春も 何のその、腹を減らしたときだって、歯を喰いしばって 頑張った、苦しかったぜ なあお前
3、大正生まれの俺達は、祖国の復興なしとげて、やっと平和な鐘の音、今じゃ世界の日本と、胸を張ったら 後輩が、大正生まれは 用済みと、バカにしてるぜ なあお前
4、大正生まれの俺達は、六十過ぎのオジイチャン、会社も定年 ハイ・サラバ、可愛いワイフもオバアチャン、長い人生振り返りや、まだまだやりたいことがある、休んじゃならぬぞ なあお前、元をとろうぜ なあお前
「大正生れの女の歌」西湖会1990年版
1番 大正生まれの私たち/明治の親に躾られ/清く 優しく 美しく/大和撫子そのままに/お国のために働いて/親の言葉にさからわず/何が何でも親孝行/
2番 大正生まれの青春は/哀しい戦のその中で/綺麗な着物も服もなく/防空壕で夜を明かし/娘盛りを重労働/恋しい人とも生き別れ/モンペ姿で涙ぐむ/
3番 終戦迎えたその時は/青春時代も終る頃/何もない時嫁になり/配給米でやりくりし/関白亭主に悩まされ/両親様を大切に/可愛い子供を育ててた
4番 大正生れの母親は/高度成長に手をかして/家庭と両立共働き/会社のためと国のため/仕事仕事と頑張って/ヤレヤレほっとした時は/世の中すっかり変わってた/(しっかりやりましょ/ねぇあなた)
「大正生まれの歌」大谷正彦作)
大正生まれのこの俺は/徴兵検査は満十九/第一乙に合格して/その年師走の一日に/伊勢斉宮の通信隊に入営した。
大正生まれのこの俺は/兵隊暮らしは地震、空襲、空腹で/栄養失調で三月入室/一期の検閲入室中/三月末に部隊は中国出征だ。  
大正生まれのこの俺は/釜山から南京まで/貨車に詰めこめられて十日間/着いたところは南京中華門の第四航空通信隊/行進中に気を失いまたも入室した。
大正生まれのこの俺は/入室中に幹候合格/中隊でたったひとりの幹候で/毎日下士官室で勉強する/七月幹候教育で石家荘へと出発する。
大正生まれのこの俺は/北京行きの汽車のなか/マラリヤ発熱一等車へとはいり込む/北京に着いたら熱下がり/無事に部隊に到着した。
大正生まれのこの俺は/着いたその日にマラリヤ熱で三度目入室/八月十五日は病院で検診中/戦争は終わったらしいと知らされる/家を出てから一年で生きて我が家にたどりついた。/なあお前 
 外車輸入の「ヤナセ」社歌?ウジタオートサロン「梁瀬次郎氏を悼む」) 大正生まれの俺たちは/灰の町から立ち上がり/今日のヤナセを築き上げ/今じゃ世界の大ヤナセ/百年めがけてはばたけよ

 もうひとつ、勤務先の同僚吉田裕教授から、『大正および大正人』という雑誌の、昭和53(1978)年11月号(第2巻第5号)の「放題」欄に掲載された、小栗好種「うたって下さい」という投稿中の「大正生まれの俺たちは」の提供を受けました。小林朗さん作詞作曲大正生れの歌レコード化直後の、早い時期の替え歌のようです。3番の「一度は捨てたこの命」に、大正生まれ戦中派の心情が、よく示されています。

大正生まれのこの俺は/五十路の年をきざめども/唄う軍歌の心意気/今宵の酒も伊達じゃない/今亡き戦友(とも)よ聞いてくれ
大正生まれのこの俺は/恋も情も知っている/モンペ姿のお下げ髪/何処でどうしているのやら/生きているなら会いたいな
大正生まれのこの俺は/器用な真似は出来ざれど/一度は捨てたこの命/今こそ世のため人のため/何時でも貸すぜこの胸を/何時でも貸すぜこの胸を

これらの延長上で、東京都国立市在住の森田武さんから、そのものズバリ、『大正生れの歌:80年の軌跡』というご本のご恵贈を受けました。この著者の森田さん、大正生れの歌作詞作曲小林朗さんの神戸高商(現神戸大学)同期生で、帝国銀行(現三井住友銀行)の人事部長・常務・専務から副社長・監査役までつとめられ、三井鉱山顧問、明治学院理事長の経歴をもつ高度経済成長の牽引者、経営の大先輩です。小林朗さん大正生れの歌に共感して、この歌と「いつしかに 八十とせ生きて つかの間の つゆの命のことわりを知る 柳原白連」が巻頭にかかげられています。2008年10月25日発行の非売品私家版ですが、宣伝してもいいということですので、敢えて。特に高貴高齢者でお読みになりたいかたは、さしあたり本ウェブマスター katote@ff.iij4u.or.jpまで。

 


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