五〇〇頁近い本格的研究書である西川正雄教授の新著を入手し、本誌編集委員会からの書評の依頼を受けた。さてどのように迫ろうかと思案していた途上で、社会思想史学会も後援に加わった国際学術シンポジウム「ローザ・ルクセンブルクーーその思想と現在」(第一五回ローザ・ルクセンブルク国際会議)があり、著者西川教授と同席した。
西川教授の修士論文のテーマは、ローザ・ルクセンブルクだったという。ローザ国際会議に提出したレジメは、おそらくその長年の研究の集大成であろう。同時に、本書の骨格を伝えているように思われた。
そのレジメは、二〇世紀初頭のドイツ社会民主党における修正主義論争から始まって、ベルンシュタインの「民主主義は手段でもあり目的でもある」という当時の社会主義運動のなかでの先駆的発言を引き、ローザが民主主義の価値を認めつつ、その「唯一の支柱は社会主義的労働運動」だと批判していたことを示す。それが、一九一七年ロシア革命の勃発にあたって、ローザがレーニンの革命を評価しつつ、「自由とは、常に、考え方の違う者の自由である」と距離をおいたことにつながり、この論点が、第一次世界大戦後の、したがってローザ・ルクセンブルグが虐殺された後の「インターナショナル」再建時に、「民主主義か独裁か」をめぐるカウツキー、レーニン、マクドナルド、フリードリヒ・アードラーらの論争にも影を落としたという。その帰結が、レーニン派の第三インターナショナル(共産主義インターナショナル、コミンテルン)と、カウツキー、マクドナルド、アードラーらの再建第二インターナショナル(社会主義労働者インターナショナル)へと分裂が固定化し、その後の社会主義運動・思想の競合・対立にいたったことを、淡々と述べたものだった。本書のテーマと重なる。
評者も実は、ローザ国際会議で、中国、アルゼンチン、インド、ドイツ、ノルウェーからの「ローザ・ルクセンブルクと民主主義・社会主義の概念」についての報告にコメントしたのだが、そこでは敢えて、「社会主義」の概念の再構築についての報告者たちの苦闘には触れなかった。もっぱら二〇世紀「民主主義」概念の歴史的展開、アメリカ的多元主義論、参加民主主義論から、冷戦崩壊後のグローバル民主主義論、協議型民主主義論への流れの中で、ローザ・ルクセンブルクの民主主義論がどの程度に継承され生き残っているかを論じた。グーグル・スカラーやウィキペディア各国語版でローザ・ルクセンブルクがどのように扱われているかを概観し、二一世紀のグローバル民衆運動である「世界社会フォーラム(WSF)」で「社会主義」や「労働者階級」概念がどのような位置を占めているかを検証したうえでのコメントであったが、そのさい、アントニオ・グラムシのヘゲモニー論、ミシェール・フーコーの権力論、ユルゲン・ハーバーマスのコミュニケーション論、ハンナ・アレントの公共性論から今日のインターネット情報戦へとつないだため、特にスターリン主義と決別しつつも、「真のレーニン」とローザ・ルクセンブルクに「社会主義の再生」の希望を託すドイツの一部の研究者からは、かつてベルンシュタインの「修正主義」発言が浴びたであろうような反発をも受けた。
ローザ・ルクセンブルクを、冷戦崩壊後のグローバリズムの時代に振り返るためには、一九世紀・二〇世紀の「社会主義」と「インターナショナル」全体の歴史的再考を要するという点については、第二インターナショナルを長く研究してきた西川教授と、第三インターナショナルの歴史を批判的に研究してきた評者やインド・カルカッタ大学のスボホラーニャン・ダスグプタ教授(ローザ国際会議報告者)の問題意識は、共通していた。
ただし、評者は、「世界社会フォーラム」にみられる「多様な運動によるひとつの運動」「多様なネットワークによるひとつのネットワーク」という「差異の解放と増殖の連鎖」を前提とした思想は、旧来の社会主義運動の「インターナショナル」や「国際統一戦線」の発想を超えていると考えた。強いて言えば、ヴァルター・ベンヤミンが万国博覧会との共時性に注意を促した(「パサージュ論」)、カール・マルクスの時代の第一インターナショナル(国際労働者協会)に、情報戦時代の今日の民衆的接合に必要な「差異・差存の相互承認による連合的協働」への、アモルフォスで原初的な出発点が見られる。その後の第二インターナショナル、第三インターナショナルの経験は、グラムシのいう「機動戦から陣地戦へ」の時代に照応したもので、「陣地戦から情報戦へ」の二一世紀的展開においては、歴史的に相対化される(加藤哲郎『二〇世紀を超えて 再審される社会主義』花伝社、二〇〇一年、同『情報戦の時代 インターネットと劇場政治』花伝社、二〇〇七年)。
しかし、西川教授の本書を読むと、実は第一次世界大戦後の第二インターナショナルの「戦争責任」の取り方、組織的再建の仕方の中に、「考え方の違う者の自由」を社会主義の不可欠の条件と考えたローザ・ルクセンブルクの思想の残響があった。民主集中制の「鉄の規律」やスターリン粛清に帰結した第三インターナショナル=共産主義とは、どうしても「統一」しえない社会民主主義の苦闘が表現されていたことになる。
こうした社会主義の歴史的評価に関心がある読者は、本書の「はしがき」「あとがき」から本論の「まとめと展望」に入って、その後に本文の歴史的叙述に進んだ方がいいだろう。著者が、なぜかくも執拗に、第二インターナショナルの「崩壊」過程(第一部)、「三つのインターナショナル」への分裂と国際連帯の再建協議・交渉(第二部)を、国際大会議事録の精査のみならず、大会の合間の各国党大会や各国指導者間の手紙のやりとりまで追いかけて、史実を再構成しようとしたかがわかるだろう。
かつてコミンテルンの初期統一戦線論と故中林賢二郎教授の研究から一九二二年四月の「三つのインターナショナル」会議を学んだ記憶が残る評者には、旧第二インターナショナル内の指導者たちの「戦争責任」のニュアンスの相違、特にコミンテルンから「第二半インターナショナル」と蔑称されたウィーン協同体事務局の役割、組織的「統一」に距離を置いたが故にある種の接着剤的意味を持ったイタリア社会党や国際労働組合連合(IFTU)の役割が面白かった。丸山真男が日本共産党から厳しく批判された「戦争責任論の盲点」(一九五六年)は、ひょっとしたら、この流れを汲んでいたのかもしれない。
「まとめと展望」で、著者は、一九世紀後半に「社会主義」の中から「社会民主主義」が生まれる際に、サミュエル・スマイルズ風セルフ・ヘルプ=「自助」のエートスの労働者的受容があったという。なるほどイギリスでは、ジョン・スチュアート・ミルが自由主義を「自由民主主義」に組み替え、ドイツでは、ビスマルクが社会主義者鎮圧法と共に社会政策で国民統合をはかった時代である。ドイツ労働者政党形成の基盤となった労働者教育協会の運動には、確かに「自助」の徳目・エートスが入っており、「社会民主主義=自助」説は説得力を持つ。ここでの「自助」とは、「名望家の世話にはならないという精神」であり、生産協同組合(後の「社会化」)と普通選挙法(後の政府参加)への要求が孕まれている、というのだ。
そういわれてみると、日本の労働組合運動も、賃金や労働条件の改善よりも、先ずは「人間解放、人格の承認」を求めて始まったのだが(友愛会)、日本の「社会民主主義」は、なぜか「社民(シャミン)」と蔑称されてきた。評者は、その歴史的反省から日本社会運動史を再検討し、一九〇一年「社会民主党宣言」から一九二二年九月日本共産党「創立綱領」(荒畑寒村総務幹事、堺利彦国際幹事)を経て一九四六年「日本国憲法」への流れを再発掘している(加藤『情報戦の現代史ムム日本国憲法へのもうひとつの道』花伝社、二〇〇七年、参照)。
だから、西川氏は、「現在の視点から見て」「先見の明があった予言者とみなすことは非歴史的な、むしろ政治的な発想」と断りつつ、ベルンシュタインの民主主義論を先駆的であったという。民主主義は、一国内部においてはもとより、「国によって歴史的体験も現実の条件も異なり、社会主義運動の気質も違っていた」もとで、労働者の国際組織では、いっそう重視されなければならなかった。ただし、第二インターナショナルという「国際平和を目指す国際的一大社会運動」では、ヨーロッパ内での「意見の違い」を尊重しあう「気質」は形成できても、非ヨーロッパの「植民地問題」を扱うさいに「国民国家」の利害が前面に出てきた。これが、日本の研究者として、前著『第一次世界大戦と社会主義者たち』(岩波書店、一九八九年)でも強調してやまなかった、著者の見る第二インターナショナルのアキレス腱だった。
そのため第二インターナショナルは、「一九一四年夏、『国民国家』のナショナリズムの前に屈した」のであり、ヨーロッパの周縁で「少数派の中の少数派」であったロシアのボリシェヴィキ革命への態度をめぐって、大きく分裂した。「レーニンにもっとも近かったローザ・ルクセンブルクでさえ、西ヨーロッパ自由主義の空気を吸っていた」ので、カウツキーの提起した「民主主義か独裁か」の論点は、「戦争責任」や「社会化・国有化」「革命か改良か」等と並ぶ、第一次世界大戦後の社会主義者の深刻な論争を巻き起こした。
本書が、前著の「社会主義者たち」を受け継ぎつつ、「社会主義インターナショナルの群像」というタイトルを持ったのも、こうした「差異」「気質」「考え方の違い」を超えての討論と協議、交渉、共闘を浮き彫りにしたかったのであろう。深読みすれば、一九一九年に大文字単数形の「ザ・インターナショナル」を自称した第三インターナショナルは、「差異の抑圧」ゆえに「インターナショナル」を名乗る資格はなく、事実、その流れは、一九八九ム九一年に自己崩壊した。一八八九年に始まる第二インターナショナルの方は、正式名称も綱領的要求も転変しながら、いくつかの旧共産党をも再吸収して今日まで生き長らえた、ということだろう。第三インターの流れを見てきた評者としては、本書で会議のたびに問題になるヨーロッパ各国の代表権の調整の議論を、今日の欧州連合(EU)二七か国の各国別代表権配分(特定多数決、有機的代表制)と重ねあわせ、第二インターの粘着力と柔軟性を認めざるをえない。
本書の人名索引には、一九世紀末から二〇世紀二〇年代まで国際的に活躍した社会主義者の「群像」三〇〇人ほどが収録され、時には写真やイラストから、それぞれの「個性」や「気質」をイメージできる。ローザ・ルクセンブルクは、その中で三四頁分も出てくる主人公の一人であるが、フリードリヒ・アードラー、エミール・ヴァンデルヴェルデ、オットー・ヴェルス、カール・カウツキー、ヘンドリック・ファン・コル、トム・ショー、カール・ブランティング、アーサー・ヘンダーソン、ジェイムズ・マクドナルド、カミーレ・ユイスマーンス、ヴラジミール・レーニンといった面々も、随所に頻出する。
第三インターナショナル研究から入った評者の脳裏に浮かぶ「群像」とは、レーニン、カウツキー、ローザを除けば、ずいぶん異なり多彩である。彼らの織りなす議論や手紙、一九一四年の「復活か再生か」に始まり、南と北、中立国と参戦国(戦勝国と戦敗国)、政府参加党と反対党、党内左派・中央派・右派の提携・競合・対抗を執拗に追ったのが、本文の叙述である。国際会議の開催地も、ストックホルム、ベルンからアムステルダム、モスクワ、ルツェルン、ジュネーヴ、ウィーン、ロンドン、ベルリン、ハンブルグと、空間的に移動する。その都度、会議のホスト組織や使用言語、演説順序・時間をめぐって、微妙な権力関係が生まれ、力関係が変化する。それがいかにして「三つのインターナショナル」から「二つのインターナショナル」へと収斂するかが、綿密に分析される。
それは、第一次世界戦争前後の政治過程に即した詳細な歴史学的叙述で、目配りも行き届いている。巻末の出典に留まらぬ注が一〇〇頁、文献目録・索引も五〇頁で、全体の三分の一を占める。その実証密度が世界的にも第一級であることは、容易にみてとれる。
本誌の読者にも、史資料収集癖で悩む同業者が多いだろう。今日では、「アジア歴史資料センター」のように、国立公文書館、外交史料館、防衛研究所の第一次資料をインターネットで簡単に検索しダウンロードできるウェブサイトも普及して、さまざまな主題を平行しておいかける評者の書斎などは、悲鳴をあげている。「本書で用いたのはすべて文書資料である」「一千点を優に越えるアルヒーフ資料、百冊あまりの議事録や同時代刊行物を無駄にしないで済んだ」と自負する西川教授の執念と、それらを一書にまとめあげた手腕には、脱帽し敬意を払うしかない。
著者は本書で、一九八九年のドイツを「ベルリンの壁の開放」と述べている。「ベルリンの壁の崩壊」と書いてきた評者はひっかかり、西川教授にその含意を直接尋ねたが、別に意識して使ったわけではないという。どうやら第三インターの視点から入った評者のひがみであったらしい。研究対象の違いも、しばしば「気質」の違いをもたらす。
「まとめと展望」の末尾で、著者は、今日のグローバリゼーション・新自由主義の「上からの『自助』」「拝金主義」の論理に、「社会民主主義」が、「自由民主主義」との差異化ばかりでなく「資本主義批判」であったことを想起し、「下からの『自助』」の論理で対抗するよう期待する。フランス革命の「自由・平等・博愛」に代えて、「平和・人権・自由」のスローガンを提唱する。評者は、「自由・平等・博愛」の「自由・公正・連帯」への組み替えと「仮想敵をもたない非暴力・寛容・自己統治の政治」を提唱してきたが、なるほど「平和」を前に出し、「自由」を末尾に置くのも一案だろう。そのような主張をどのような名義でよぶかは「どうでもいいことだ」という点では、著者と全く一致する。
だが、日本でわれわれが「平和」や「非暴力」を発想の出発点におくのは、日本国憲法という制度的支柱のもとで育ってきた「歴史的体験」に依るところが大きい。とすると、「壁の開放」と「差異の解放」は、日本の国内でも、世界社会フォーラムのようなグローバルな社会運動の場でも、「民主主義」に内在する普遍的な問題となる。本書は、そうした問題への人類の貴重な歴史的遺産を後世に伝える役割を、確実に果たすことだろう。(了)
(社会思想史学会年報『社会思想史研究』第31号、2007年9月刊、に掲載)