2011年10月15日(土)、早稲田大学20世紀メディア研究所第63回研究会で行われた、「占領下日本の「原子力」イメージ ーーヒロシマからフクシマへの助走の報告です。「日本原発の父」正力松太郎とCIAの関係を暴いた同僚有馬哲夫さんも、「広島原発と沖縄原発」について報告しました。1950年までの日本原子力イメージ史総集編としてみます。カレッジ日誌に収録された2011年3月11日以降の本HPトップの記述をもとに加筆し、論文調でつくりました。報告レジメですので、いつものリンクはありません。配布資料の量的データは、pdfファイルでアクセスしてもらうかたちにしました。早稲田の会場での報告では、これらを前提に、データ・写真入りパワーポイント原稿で行いました。ここにはそれにもとづく若干の加筆分を掲載します。なお、この報告については、東京新聞』10月25日「メディア観望」および『毎日新聞』11月2日「ことばの周辺」でとりあげられましたので、ご笑覧ください。


2011.10.15  20世紀メディア研究所第63回公開研究会報告レジメ

占領下日本の「原子力」イメージーーヒロシマからフクシマへの助走  

                                       加藤 哲郎

 

1 私の問題意識ーー3.11以後の「ネチズンカレッジ」から

3月はメキシコ、アメリカ滞在で、月末帰国しました。3月11日の金曜日の悲劇は、メキシコ大学院大学での連続講義の2回目が終わった後、東京からの「大丈夫」という家族の携帯メールで知りました。私の生まれ故郷は岩手県盛岡、中学時代を過ごしたのは岩手県大船渡市、かつて共に学んだ多くの友人・知人が被災しました。世界中の人々が、日本に同情し、共感し、心から支援の手をさしのべました。レスキュー隊の派遣も、数十か国に及びました。

 March 11で日本の受けた「天災」地震・津波の被害・被災には、世界の同情・共感が集まりましたが、日本の直面した第3の災禍、福島第一原子力発電所の原発震災には、世界の人々が、疑いの目を向けました。今回の福島原発事故を、私は「戦後日米情報戦の一帰結」と見なします。大江健三郎の言葉を使えば、「ビキニ事件を端緒に、じつに短い期間で核実験反対の世論が原水爆禁止運動を盛り上がらせたが、同時に、日本はアメリカから原子炉、濃縮ウランを導入して、原発をつくるにいたった経緯」、その歴史的根拠が問題です。

2 「唯一の被爆国」でなぜ「ヒロシマからフクシマ へ」の悲劇が再現したのか?

●3月11日以来、世界から見える日本の光景は、大きく変わりました。人類史上まれにみる大地震と大津波で東日本が壊滅的被害を受けた国、自動車や電気製品の部品工場が被災し世界のメーカーの生産ラインをとめた国。ベトナムほか世界に輸出しようとしていた原発が、福島でチェルノブイリに匹敵する巨大なメルトダウン事故を起こし、いまだに核燃料を制御できず、放射能汚染を広げている国。「技術大国」の神話は、崩壊しました。その事故に際して、メルトダウンの事実を長く認めず、基本データの発表数値がいくども変更され、放射性物質を含む汚染水を近隣諸国に無断で海に流すという、日本政府と東京電力(TEPCO)の情報隠蔽に、唖然とさせられました。 

 そうした政府と「原子力村」公認情報を一方的に流すのみで、まともな真相究明も原発政策批判もできなかったジャーナリズム不在のマスコミ。世界一の発行部数を持つ大新聞と、長時間視聴を誇ってきた日本のテレビのあり方も、地に墜ちました。奥田博子『原爆の記憶』(慶應義塾大学出版会、2010) が詳論したように、そもそも「唯一の被爆国」自体神話なのであり、「ヒロシマからフクシマへ」を考えるさいには、高木仁三郎らに詳しい「原発安全神話」と共に、さまざまな「原爆神話」も再考すべきです。

3 プランゲ文庫に見る占領期「原子力」報道から

●朝日新聞が、シリーズ「原発国家」「原爆と原発」「核の時代を生きて」と、日本人と原子力の関わりの、歴史的検討を始めました。結構なことです。7月31日の「1984年に外務省、原発への攻撃を極秘に予測、全電源喪失も想定」という記事も、ジャーナリズムの信用回復に資するものです。でも、これらを読んでも、すっきり胸に落ちません。何かが欠けています。それは、自己分析の欠如です。1955年のライバル読売新聞社主正力松太郎がCIAとも結んだ「原子力の平和利用」キャンペーンは取り上げられましたが、その1955年「新聞週間」の標語は、「新聞は世界平和の原子力」だったのです。「原爆から原発へ」を批判的に論じるのなら、そうした時代背景を、自らの反省に引きつけて検証すべきでしょう。

 たとえば朝日新聞は、1946年1月22日社説で「原子力時代の形成」を、47年9月10日社説で「原子力の平和利用」を主張しています。48年2月29日の記事では「原子力に平和の用途」を掲載してきました。しかしこれは、別に朝日新聞だけのものではありません。「唯一の被爆国」日本の核意識・核イメージの初発におけるボタンのかけ違い、「原爆」そのものの受け止め方の問題と関わっています。以下、私も属す 20世紀メディア研究所の占領期新聞雑誌情報データベース「プランゲ文庫」を手掛かりに、現在進行形の研究の一部を公開しておきます。この機会に、ヒロシマ・ナガサキの悲劇がいかに忘れられていったか、1945年8月体験の「非日常の日常化」のメカニズムを見ておくことも、意味あると思われるからです。

● 原爆被害・被ばくについての報道の検閲については、モニカ・ブラウ『検閲 1945‐1949:禁じられた原爆報道』(時事通信社、1988)、堀部清子『原爆 表現と検閲ーー日本人はどう対応したか』 (朝日選書、1995)、笹本征男『米軍占領下の原爆調査:原爆加害国になった日本』(新幹社、1995)、高橋博子『封印されたヒロシマ・ナガサキーー米核実験と民間防衛計画』(凱風社、2008)、繁沢敦子『原爆と検閲:アメリカ人記者たちが見た広島・長崎』(中公新書、2010)など、多くの研究があります。

 ただ、その反面、実際に検閲された、検閲をくぐって報道された記事や論説についての研究は、そう多くはありません。これは、プランゲ文庫占領期新聞雑誌データベースを持つ20世紀メディア研究所の独壇場で、中川正美「原爆報道と検閲」(『インテリジェンス』3号、2003)、御代川貴久夫「占領期における『原子力の平和利用』をめぐる言説」(山本武利編『占領期文化をひらく』早稲田大学出版部、2006,所収)、小野耕世「思い出の『原子力時代』」(『インテリジェンス』11号、2011)などを送り出してきました。

● 実はこの問題―――「原爆・検閲・原発」――での先駆的研究は、原爆体験を伝える会・編『原爆から原発までーー核セミナーの記録』上下(アグネ、1975年9月)、特にそこに収録された、袖井林二郎「原爆はいかに報道されたか」と岩垂弘「報道に見る原爆と原発」です。この1975年「核セミナー」は、今日から見ると先駆的な反原爆運動と反原発運動を架橋しようとする試みで、大江健三郎の記念講演「われわれにとって核とは何か」が「核爆弾によってもたらされる死」と「核のいわゆる平和利用によっておびやかされる生」の関係を明確に述べ、小田実のピンチヒッター小川岩雄「核問題の現況」も、「原子力の平和利用」を「潜在核能力」「核兵器の開発能力」とします。

 上巻が関寛治・栗原貞子以下「原爆」、下巻が星野芳郎・高木仁三郎以下「原発」となっているのは当時の状況を反映していますが、袖井報告は、1945年8月7日から9月21日GHQプレスコードまでの『ニューヨークタイムズ』と『朝日』『毎日』『読売』報道を比較し、当初の軍部検閲による「新型爆弾」が、ナガサキを報じる11日朝日、12日読売で「原子爆弾」になり、8月15日以降の「権力の真空地帯」では「原爆の報道が比較的自由に行われ」たといいます。例えば8月23日読売は「死傷19万を超ゆ、広島・長崎の原子爆弾の残虐」です。9月にマッカーサーが来日して、GHQが外国人特派員の広島・長崎取材を禁じますが、日本人記者は自由に入り報道できたといいます。

● ただ袖井報告は、まだプランゲ文庫を見ていませんから、1945年9月21日以後「占領が終わるまでは、マス・メディアによる原爆に関する報道は一切姿を消す」と断言します。

 それにつられてか、現役朝日記者の岩垂弘報告は、たとえば掲載されなかった毎日西部連絡部の8月7日ヒロシマ報道に「ピカドン」という言葉が入っていたこと、9月15日の朝日の鳩山一郎インタビューに「米国の原子爆弾使用は国際法違反、戦争犯罪」とあって、まだプレスコード前ですが、9月10日米軍「言論及び新聞の自由に関する覚書」で発禁処分になったと分析しながら、プレスコードが入って朝日の原爆記事は8月6ー31日の42本から9ー12月の27本に激減する、以後「原爆報道をやろうと思えばできた時代だと僕は思う」が、48年10月の新聞検閲解禁まで「原爆報道はあまりなかった」とします。

 原発については、第1期が1952年から57年の「啓蒙的報道」期で崎川範行や武谷三男の批判も出ていたこと、57ー64年が「バラ色の未来報道」で、57年8月27日の東海村一号炉運転開始を朝日は「第2の火」、毎日「第3の火」、読売「太陽の火」と報じたこと、65年以降が第3期で、事故報道、反対住民運動報道、原水禁の70年11月原発反対全国会議で論調が変わり、例えば朝日の73年9月17日社説は「原子力は不完全な技術」とするようになったといいます。なお原発世論の動きについては、後に柴田鐵治・友清裕昭『原発国民世論――世論調査にみる原子力意識の変遷』(ERC出版、1999)があり、「バラ色の50,60年代」「反対が生まれた70年代」「反対が強まった80年代」「不安拡大の90年代」と世論調査データをもとに整理しています。

● 私の報告は、この間の20世紀メディア研究所の研究、特に雑誌論調をもとにした御代川論文に西日本の新聞記事分を補い、75年の袖井・岩垂論文でパスされた1945ー49年の時期のメディアを見直し、占領期「原爆報道の消滅」神話を再検討しようというものです。

 それは同時に、1954年の第5福竜丸被ばく報道(読売スクープで「死の灰」の語が広まる、death dust は1948年5月科学春秋から)から支配的になる日本人の「原子力アレルギー」も神話ではないかという問題提起です。問題は、1955年の中曽根康弘・正力松太郎の暗躍によるAtoms for Peaceによる原子力発電への出発、「自主・民主・公開」原子力基本法のはるか以前から、「原子力」に「原爆」の裏返しとしての「巨大な力」「無限のエネルギー」「新しい産業革命」を見いだしてきた歴史に遡ります。

● 出発点におくべきは、後の中曽根・正力の原発導入との関係で重要な、長岡半太郎の5男で戦時日本陸軍原爆開発(理研仁科二号研究)担当の東大教授、中曽根康弘にアメリカで原子力を教えた嵯峨根遼吉の『原子爆弾』(朝日新聞社、1945年10月)です。

 『日米会話手帳』と同時期に、すでにプレスコードがあるもとで、朝日新聞社が「被害状況」=爆風・火傷・放射能まで含め広島型ウラン原爆を解説した「啓蒙書」を出したことは、ある意味で驚きです。ただしマンハッタン計画はまだ知られておらず、長崎型プルトニウム爆弾は想定されていません。放射能は半減期が短く「数ヶ月後には動植物には大して影響ない」とされている点が、米軍の眼鏡にかなったといえなくもありません。戦後の「人類への熱源の供給」「大規模な原子核反応の研究を要望」も入っています。

 嵯峨根は、戦時中に「原子核に関する実験」(文部省学術講演会叢書、1943年)を著しており、意地悪くいえば、戦時日本の原爆研究の水準を示す書で、朝日は1946年『科学朝日』『朝日評論』でも嵯峨根を使います。

 嵯峨根は、当時の保守的支配層の原子力の科学研究と技術=実用化・産業化を媒介し、茅誠司・伏見康治の背後で、ちょうど左派=革新勢力の中での武谷三男と似た役割を果たしました。日本学術会議創設に関わりながら、第一回公選で落選したことが、後々までトラウマになったようです。56年日本原子力研究所理事・産業計画会議委員。この辺、朝日新聞は10月から夕刊で「原発とメディアー平和利用への道」の連載を始めましたが、しばしば正力に対照される田中慎次郎の役割を含めぜひ探求してほしいものです。

● 「原爆」「原子力」「アトム」「ピカドン」等のプランゲ文庫索引による数量的データは、別表資料参照。「原爆」も「原子力」{御代川論文651}も、約1500点の記事・論説があります。キーワード検索の記事数でいいますと、「労働組合」「民主主義」「マッカーサー」「天皇」には及びませんが、「資本主義」「吉田茂」「抑留」なみにはポピュラーです。「中国新聞」が、検閲もあるが、報道数も多いようです。検閲は放射能被害中心で、総じて「平和利用」の受容基盤は、占領期からあったようです。「アトム」「ピカドン」とカタカナになると中性化され、やがて「科学技術」「文化国家」の復興と子供たちのあこがれ、「夢」になります。

● 雑誌でも新聞でも、「原爆」「原子爆弾」報道は、外電を含めてですが、1945年9月から普通にみられます。『科学朝日』45年9月1日の「原子エネルギーの利用:平和再建のために」が先駆で、『科学朝日』は11月号「原子爆弾の副産物」「原子機関車登場か」と、その後の朝日新聞社の報道姿勢を先取りしています。研究社の『中学生』でも「原子爆弾に鑑みる」を掲載し始めます(45年9月1日)。CCDの検閲は、中国新聞では厳しく、佐賀新聞など九州ではそれほどでもないようです。プレスコードがあっても、佐賀新聞は、「原子弾講演」(45年9月30日)、「原子弾の公開反対:米の軍事視察団覚書」(10月3日)以下、1945年9−12月に10数本の原爆報道をして、すべて検閲フリーパスです。言論の自由が制限されていたことは間違いなく、占領軍や米国への直接批判は出てきませんが、かといってメディアが抵抗し、敢えて言葉を使い分けたという感じではありません。

● 国際関係の中での原爆管理問題、原子力の解説や原子爆弾の仕組み、原爆被害の報道や医学的調査報告、原爆体験記・子供向け解説も、1945年から多数みられます。『文藝春秋』45年10月1日には「原子爆弾と斬込特攻隊」「原子爆弾雑話」といったエッセイが出始めますし、いち早く現地に入った都築正男教授の「所謂原子爆弾傷について:特に医学の立場からの対策」は、『総合医学』45年10月1日に出ています。「広島に於ける原子爆弾戦災犠牲者」は『日本瓦斯技術協会誌』45年11月25日号です。J・ダワーの述べた1946年5月「長崎原爆美人コンテスト」は記事にはありませんが、阪神の「ダイナマイト打線」に対する巨人の「原爆打線」(『スポーツファン』1948年8月4日)といった報道は見られます。「桑原武夫の放った原爆『現代俳句第二芸術論』」(『新潟評論』48年1月8日)、「音楽界の原子爆弾」(『月刊山陽』49年9月)、「金融界に原子爆弾を投じた」(『西日本新聞』49年3月7日)といった比喩的用法もあります、宇部セメント労働組合青年部の機関誌が『原爆』と名付けられて創刊したのは(1949年3月1日)どういう趣旨でしょうか。北越戸田労働組合の機関誌『暁星』にもコラム「原爆室」がみられます(1948年9月5日)。「原爆を神風にする道」(『北日本新聞』49年8月6日)ともいいます。以下HP掲載分を補足します。

● 1945年8月トルーマン演説に始まる「原子力の平和利用」言説に限定すれば、1946年9月の雑誌『全体医術』と、同月の仁科芳雄・横田喜三郎・岡邦雄・今野武雄の座談会「原子力時代と日本の進路」(『言論』46年8・9月号)に現れ、こどもたちの世界では、『中学上級』47年2月号「科学の新知識」で使われ、朝日新聞社の『こども朝日』47年10月号は、「平和に原子力、すばらしい威力を世界の幸福に利用」と報じます。

 学術論文としては、平野義太郎「戦争と平和における科学の役割」(『中央公論』48年9月号)が先駆ですが、内容的にはもっと早くから、もっと啓蒙的なかたちで、嵯峨根遼吉「原子力は人類を幸福にする」(『講演』48年11月)のように、占領期日本の言論空間では当たり前でした。

● ヒロシマ・ナガサキと敗戦の年、1945年12月には、雑誌『科学世界』に「機関車に原子力を」、『雄鶏通信』に「原子力の工業化は前途遼遠」「原子力自動車」「原子力発電機スピードトロン」が出ています。

 ヒロシマの地元『中国新聞』でも、1946年3月25日にビキニ環礁での核実験で「原子力の漏洩心配なし・ローズス少将談」を報じたのを先駆けに、「強力な武器としてのみに利用されている原子爆弾を食糧増産に利用したらどうか」(46年7月26日)、「原子力の平和的利用法、偉大な発見近し」(48年5月4日)などと、「原子力へのあこがれ」は、日本全体と共有されていました。

 自動車・機関車・船・飛行機など交通手段の動力として、「機関車も燃料いらず、平和の原子力時代来れば」(『九州タイムズ』46年11月27日)、「月世界・金星旅行の夢ふくらむ、今日原子力の記念日」(『西日本新聞』46年12月3日)ですが、もちろんそのエネルギーは発電にも期待されます。「原子力の医学的利用」(『海外旬報』46年6月10日)、「平和のための原子力時代来る、新ラジウム完成す、安価にできるガンの治療」(『京都新聞』48年8月8日)はもとより、「お米の原子力時代」で農業増産(『生活科学』1946年10月)、「農民の夢、原子力農業」(『明るい農家』49年6月)、はては「農家を悩ます颱風の道、原子力で交通整理」と、原子爆弾で台風の進路を変えることさえ夢見られます(『中国新聞』46年7月26日)。寒冷地北海道の科学普及協会『新生科学』48年12月号は「科学の目:近く原子力暖房」という具合です。

● つまり原子力は、敗戦・復興期の日本人の夢でした。『科学の友』1949年3月号の「進歩してきた人類の文化」は、旧石器時代・新石器時代・青銅器時代・鉄器時代から始まり、フランス革命時代・産業革命時代・大戦時代を経て、ついに「原子力時代」に到達します。

 ヒロシマと共に原爆を経験したナガサキでも、「平和にのびる原子力、破壊→幸福の力→建設、驚異・300倍の熱量、航空機・自動車・医療へ実用化」と『九州タイムズ』49年8月9日長崎原爆記念日についての記事で語られます。「平和のために闘う原子力」は『科学画報』49年4月にあり、「原子力は第2の火、人間は別種の動物に進化」(『長崎民友』49年1月1日)と、原子力は「歴史を進める」主体、「進化」「進歩」の象徴として出てきます。

● ですから当時の華やかな労働運動のなかでも、たとえば全逓信労組広島郵便局支部の機関紙が『アトム』と命名され(47年9月20日)、「第2の火の発見ーー原子力時代」は国鉄労組東京鉄道教習所『国鉄通信教育』48年12月号の「教養」欄にあります。

 特に1949年は、1月総選挙で共産党大躍進、夏に下山・三鷹・松川事件、10月毛沢東の新中国建国、そのころソ連初の核実験成功発表ですから、すでに志賀義雄「原子力と世界国家」(日本共産党出版部『新しい世界』48年8月)等で「社会主義の原子力」の夢を語っていた共産党まで、「光から生まれた原子、物質がエネルギーに変わる、一億年使えるコンロ」(日本共産党出版部『大衆クラブ』49年6月号)とボルテージをあげます。

 ソ連の原爆保持でその夢が現実になったとして、1950年1月18日の第18回拡大中央委員会報告、いわゆる「コミンフォルム批判」を受けての日本共産党の自己批判は、冒頭「国際的規模で前進する人民勢力」で「ソ同盟における原子力の確保は、社会主義経済の偉大な発展を示すとともに、人民勢力に大きな確信をあたえ、独占資本のどうかつ政策を封殺した」「原子力を動力源として運用する範囲を拡大し、一般的につかえるような、発電源とすることができるにいたったので、もはや、おかすことのできない革命の要塞であり、物質的基礎となっている」と宣言するのです。

● しかしまだ、「原爆」や「原子力」では、「原子力戦争は人類の破滅」(『週刊東洋経済』48年4月24日)、「原子力と共産党員、使途は平和か武器か」(『九州タイムズ』49年2月25日)、「天国の裏は地獄である、我々は何れを選ぶか」(『農民クラブ』49年6月)、「ソ連の原子爆弾で戦争の危機緩和か、原子爆弾に使われる危険」(『週刊東洋経済』49年10月)と留保があり、危惧もされます。

 占領軍GHQの検閲は、あらゆる出版物に及びますから、原爆を落としたアメリカへの批判や広島・長崎の放射能被害の継続は隠蔽されます。「ソ連に原爆と殺人光線」といった記事は検閲され(『京都新聞』48年3月11日)、逆に「広島・長崎の原爆放射能消滅」というAP電はフリーパスです(『北日本新聞』48年10月8日)。

● ところが、「ピカドン」「アトム」とカタカナになると、あまり抵抗感なく、受け入れられたようです。カタカナの魔力は、「ピカドンと婦人、広島病院のお答え、不妊の心配なし、奇形児も生まれませぬ」(『中国新聞』46年7月10日)などと使われ、『佐世保時事新聞』48年8月2日は、原爆記念日を前に「アトムの街々」特集で、「広島と長崎、それは原爆の地として世界注視のうちに新しい平和を求めて起つところ、人類に原子力時代到来を願って今こそ戦後の世界復興を」と、訴えます。

 広島・長崎を「アトム都市」とする記事は47年から現れ、47年12月の昭和天皇の広島行幸は、「お待ちするアトム広島」(『九州タイムズ』47年12月1日)、「ピカドン説明行脚、天皇がアトム広島に入られた感激の日」(『中国新聞』47年12月11日)のように使われます。「あとむ製薬」から「ピカドン」という薬も売り出されています(『愛媛新聞』49年1月13日広告)。

 しかも「あとむ製薬」は、1948年広島市安芸区に設立された薬種会社で、その後も社名を変えて、ヒロシマで存続しています。どうやら「あとむ製薬」は、もともと漢方薬から出発したようで、「ピカドン」も滋養強壮剤だったようです。これが「お薬博物館」にある富山県黒部産の「風邪にピカトン」という置き薬(1包40円)、富山市電子図書館にあるらしい「かぜに新ピカトンM( UESHIMA SEYAKUSYO)」とは別だとすれば、朝鮮戦争期の日本には「ピカドン」(「ピカトン」であっても包み紙から瞭然)という薬が、ヒロシマから発して全国で流通していたことになります。

 もちろん「ピカドン」といえば、丸木位里・俊夫妻の絵本『ピカドン』が1950年にポツダム書店から発行され、GHQのプレスコード規制(事後検閲)により、発売直後に発行禁止処分にあいました。「ピカドン」に原爆の悲惨や戦争の記憶をだぶらせ、被爆体験をフクシマまで貫こうとする肥田舜太郎さんのような言説もあります。「『ピカドン』が憎い」という小谷静登さんの叫びは、今でも心を打ちます。同じヒロシマに発するこの「ピカドン」への二重性、一方で「ピカドン」を憎み、呪い、他方で「ピカドン」に生命力の回復を託す心性こそ、1954ー55年に原水爆禁止運動と「原子力の平和利用」を同時出発させる、戦後日本の両義性の原型でしょう。 

    

● 1948年の長崎原爆記念日は、「祈るアトム長崎、3周年記念、誓も新た平和建設」と報じられました(『西日本新聞』48年8月10日)。爆心地は「浦上アトム公園」になり(『熊本日日新聞』48年8月10日)、「アトム公園を花の公園に」とよびかけます(『長崎民友』49年3月24日)。これがこどもたちの世界では、「アトム先生とボン君」(『こども科学教室』(48年5月1日)、中野正治画「ゆめくらぶ・ミラクルアトム」(『漫画少年』48年8月20日)、和田義三作連載マンガ「空想漫画絵小説:アトム島27号」(『冒険世界』49年1月1日)、原研児「科学冒険絵物語 アトム少年」(『少年少女譚海』49年8月1日)と、ほとんど無防備で、「夢の原子力」へと一直線です。手塚治虫「鉄腕アトム」(「アトム大使」1951年)の登場は、時間の問題でした。

● 実はこうした大衆的・啓蒙的「原子力」言説の背後に、敗戦による荒廃・焼け跡闇市からの「復興の夢」、「遅れた国」日本の「近代化の夢」があり、そこで期待される「科学の力」「文化国家」への希望と信頼が読みとれます。

 それを受けた、科学者たちの解説・論評が、「原子力時代」の時代認識を支えています。1945ー49年に論壇・記事への登場回数の多い方からあげると、湯川秀樹134、武谷三男128、渡辺慧88、仁科芳雄68、藤岡由夫37、嵯峨根遼吉37、伏見康治30、坂田昌一17、朝永振一郎14、といった物理学者・原子力研究者たちです。

 私が注目しているのは、左派の原子力解説者武谷三男と、中曽根康弘の核政策ブレーンになる嵯峨根遼吉、しかしフクシマの悲劇を見た今日の時点では、湯川秀樹、仁科芳雄、朝永振一郎らの言説も、「共産党宣言」のヴァージョンアップを謳った渡辺慧「原子党宣言」も、改めて読み直されるべきです。

 4 戦前・戦時日本の「原爆」イメージと民衆的想像力の問題

● 私がアメリカに発つ直前、8月3日の『朝日新聞』に、「被爆国になぜ原発? 問われる『だからこそ』の論理」という塩倉裕記者の論説記事が載りました。そこに「日本人は原爆の唯一の被害者だから、平和な原子力を研究する権利を最も持つ」とする武谷三男の「だからこそ」の論理(『改造』1952年11月)が、加納実紀代さんの「ヒロシマとフクシマのあいだ」(『インパクション』6月号)を用いて、紹介されました。自社の自己分析がない点では画竜点睛を欠きますが、重要な問題提起です。

 ただし、戦後日本の左派の原子力論をリードし実践した武谷三男の言説は、「だからこそ」に尽くされない重層性があり、歴史的にも変化します。「民主・自主・公開」は「原子力研究の原則」で「原子力発電には反対」だったという解釈も成り立ちます。たとえば「原子力とマルクス主義」という論文があり、ソ連の科学技術発展に理論的希望を見いだしながらも(『社会』1948年8月号、『武谷三男著作集』4)、実際にソ連で原子力発電が出発し、日本でも Atoms for Peace から原発導入に入る頃には、「原水爆時代から原子力時代へ」という論理で、未だ技術的には未成熟で「原子力時代」にはほど遠いという実践的批判の立場を貫きます(「『原子力時代』への考え方」『エコノミスト』1955年9月、『武谷三男現代論集』1)。当時の「原子力時代」礼賛論への批判です。

 問題はむしろ、武谷に限らず、日本の物理学者・社会科学者が、東西冷戦の文脈の中で核兵器と原子力発電をどのように位置づけていたかという点にあるというのが、私のさしあたりの仮説です。

● その前提として、第二次世界大戦中に日本も原爆をつくろうとし、そのための情報収集を行っていたこと、米英のマンハッタン計画にソ連が送り込んだような諜報ルートを持たなかったにしても、同盟国ドイツの核兵器開発にはひそかに注目していたことがあります。日本は、1941年から陸軍=理研 仁科芳雄の「二号研究」、海軍=京大荒勝文策の「F研究」で原爆開発を開始しており、その関係者の多くは、戦後の「原子力の平和利用」=原発開発にもたずさわりました(J・ダワー「ニ号研究とF号研究――戦時日本の原爆研究」ダワー『昭和』みすず書房、2010)。成果は初歩的なものでしたが、ナチス・ドイツの協力を得て原爆開発を進め、実際に国内でサイクロトロンをつくり濃縮ウラン燃料を入手しようとしていました。

 ウェブ上の東海大学鳥飼行博さん研究室「日本の原爆開発:核兵器使用の可能性」、および鹿児島大学木村朗さん「原爆神話からの解放と核抑止論の克服――ヒロシマ、ナガサキからフクシマへ」は、日本の原爆開発の歴史的意味を改めて問題にしています。

● トマス・パワーズ『なぜ、ナチスは原爆製造に失敗したかーー連合国が最も恐れた男・天才ハイゼンベルグの闘い』(福武文庫、1995年)に描かれた、マンハッタン計画時のドイツの原爆開発と連合軍側の対応は、戦後日本の原子力開発の歴史を見るさいに、二つの示唆を与えます。

 一つは、故国ドイツを愛してもヒトラーを嫌うハイゼンベルグが、自分は将来の「原子力の平和利用」を見越して原子力エネルギーを開発しているが原爆をつくるつもりはないと、暗に主観的には伝えようとしたニールス・ボーアへのメッセージが、連合軍側には、原子炉は原爆の前段階でやはり原爆製造のためと受け止められ、マンハッタン計画加速の根拠ないし口実にされたことです。いくら「平和利用」と銘打っても、原発開発は原爆開発と一体なのです。

 もう一つ。科学者たちが「平和利用の研究」にとどめ「軍事利用には反対」したとしても、いったん国策となり軍部や巨大資本を巻き込んだ原子力開発の巨大システムは、科学者たちが専門的見地でどう反対しても、核兵器開発へと進行していったことです。その効果の「人体実験」がヒロシマ・ナガサキで実際に行われ、放射性物質による膨大な被爆者と、後戻り出来ない核軍拡競争へと突き進んでいきました。

● 戦前の「原爆から原発へ」の物語には、もう一つ、科学者たちとは別の、民衆世界の想像力の問題があります。マンハッタン計画の発案者レオ・シラードは、SF作家H・G・ウェルズのファンで、大きな影響を受けていました。ウェルズこそ、「透明人間」や「宇宙戦争」と共に、「原子エネルギー(Atomic Energy)」と「原子爆弾(Atomic Bomb)」という言葉の創始者で、核兵器による世界戦争の危険と世界政府の必要性を、想像力と民衆文化の世界で、予見していました。科学小説『解放された世界』(岩波文庫)の中でのことで、第一次世界大戦直前の1913年の作品です。

 日本でも、想像力の世界では、大正9(1920)年『新青年』8月号に、「原子爆弾(ルビ:アトムばくだん)の威力は堂々たる大艦隊も木端微塵」という記述が現れます。日本SFの先駆者海野十三の作品では、青空文庫で読める、1927年の「放送された遺言状」、1944年の「諜報中継局」などが「プレ原爆小説」で、「海野十三敗戦日記」(中公文庫)はヒロシマ直後から放射線被曝に注目していました。

● 鳥飼行博さん研究室は、『新青年』1944年7月号掲載立川賢の本土空襲科學小説「桑港(サンフランシスコ)けし飛ぶ」から、「日本が原子爆弾を完成し、原子力エンジン搭載の爆撃機で、米国本土サンフランシスコ(桑港)に原爆を投下し、ビルを壊滅させ、70万人を殲滅して、戦局を逆転する」ストーリーを抽出しています。「原子爆弾」は、戦前・戦時中でも、日本人の「夢」だったのです。

 海野十三晩年の戦後1947年の小説「予報省告知」は、「人暦10946年13月9日、本日を以て地球は原子爆弾を惹起し、大爆発は23時間に亘って継続した後、地球は完全にガス状と化す」と始まり、「世界暦1955年 地球一周が12時間で出来るようになる。原子エンジンの完成を見たためである。宇宙飛行の企業が盛んになる」という時代を遡る(ディス)ユートピアになっています。

 1954ー55年に原水爆禁止運動と「原子力の平和利用」を同時出発させる戦後日本の心性の両義性の原型は、どうやら戦前からマンハッタン計画まで遡りそうです。

 



Go to Imagine

GO to HOME