以下に掲載するのは、私の「一太郎ファイル」に入っていた、発表されなかった公開質問状である。おそらく執筆は1994年5月、日本共産党の公式党史『日本共産党の70年』が公表され、私自身の著書『モスクワで粛清された日本人――30年代共産党と国崎定洞・山本懸蔵の悲劇』(青木書店、1994年6月刊行)の最終校正中のことである。

 89年東欧革命・91年ソ連崩壊後に書かれた日本共産党の公式「党史」が、学問的にみて余りにひどい内容なのにいきどおりをおぼえ、書き始めたものの、学問の問題は自分自身の著書の公刊で学問的に決着できるだろうと考え直し、発表を差し控えたものである。

 しかし、末尾の宮本顕治氏に対する公開質問状は、内容的には一部を『モスクワで粛清された日本人』に盛り込んだものの、その後宮本氏と日本共産党側からは、なんらの反応もない。戦前の若き党幹部であった宮本氏が、女優岡田嘉子と演出家杉本良吉の1938年正月越境とソ連での杉本の銃殺・岡田の10年のラーゲリ生活に責任の一端があるのではないか、という問題提起なのだが、宮本氏ももう88歳、日本共産党議長の公職も今度の党大会で退かれるだろうから、歴史の生き証人として、ぜひ真実の証言を残してほしいと考え、ここに敢えて発表することにした。

 インターネット上でのこうした試みに、立派なホームページを持つ(ただし党本部のHPに比べ、地方支部のものは少なく貧弱であるが)現代日本の有力な政党の指導者であった宮本顕治氏が、どのように反応するか、注目してみたい(1997年9月、加藤哲郎)



 

 『日本共産党の70年』と日本人のスターリン粛清

     ――公開しなかった公開質問状――


   1 「宮本史観」に貫かれた『日本共産党の70年』

 1994年4月に『日本共産党の70年』がようやく発表された。「ようやく」というのは、今日の学会では日本共産党1921年成立説が有力になってきているが、かりに共産党がいう1922年7月15日を日本共産党の創立時点だと認めたとしても、70周年はすでに2年前の1992年のことであり、それまでの『日本共産党の40年』『45年』『50年』『60年』『65年』などの場合に比べ、刊行が大幅に遅れたからである。

 実際、当初は1992年夏発表が予定されていたようだが、旧ソ連崩壊で大量の秘密文書が現れ、野坂参三名誉議長(当時)の山本懸蔵密告、ソ連共産党の日本共産党への資金供与など予期せぬ問題がでてきて、予定変更を余儀なくされたらしい。もっとも世界の共産主義運動崩壊のなかでは、「党史を出せるだけでも立派」という評もなりたつ。実はそれは、党中枢部に一人の老人が居座り続けているから、可能となった。つまり、「宮本顕治とその戦友たち」の党史である。

 その『70年』を、研究者として手にして眺め、驚いた。なんと、私の名前が出てくるのである。光栄にも(?)丸山真男や小田実らと同じ罪状で。1990年の第19回大会時に日本共産党を「反共攻撃」した人物として、こういう文脈で言及される。

 「[1990年7月の第19回]党大会を前に、『日本共産党への手紙』と題する本が出版された。『赤旗』(7月3日ー5日)は、佐々木一司社会科学研究所事務局長の論文で、日本共産党を中国や北朝鮮の党、とう小平や金日成、ホーネッカーやチャウシェスクと同列に論ずる加藤哲郎、藤井一行らを、きびしく批判した。加藤哲郎は、反党分子やニセ『左翼』暴力集団の流れに属した人物たちとともに、『フォーラム90s』なる組織をつくり、第1回よびかけ人会議の記念講演で、党への攻撃をおこなった」と。

 たしかに私は、1990年6月発行の松岡英夫・有田芳生編『日本共産党への手紙』に、「科学的真理の審問官ではなく、社会的弱者の護民官に」という小論を寄稿した。そこで私が問題にしたのは、マルクス主義の学問世界で「科学的真理の審問官」のようにふるまう日本共産党であり、その組織原則である「民主集中制」であった。

 それは同時に、私が歴史と事実に即して述べた率直な疑問を「反共攻撃」としか受けとめない、日本共産党の体質への批判だった。外部からの「批判」に過剰反応し、論者の学問体系や人格まで「反撃」しなければすまない同党のセクト主義だった。そうした手法を、今度は「党史」にまで及ぼし、東欧革命・ソ連解体・国際共産主義運動崩壊のもとでも現在の指導部をなんとか正統化しようというのが、『70年』の基調である。率直にいって、「またか」という感想である。

 だからここでは、私が『70年』を読んで驚いた、もうひとつの側面についてのみ論じる。それは、1994年4月15日の『70年』発表記者会見で不破哲三委員長の述べた、「この間に、旧ソ連共産党が解体してその秘密文書が表に出、さまざまな新しい事実が明らかになるとか、過去にさかのぼって究明する必要のある一連の問題があった」としている点である。不破氏は、これを取り入れたために発表時期が遅れたといい、実体不明な「ロシア共産党」代表が「ソ連秘密文書をもとにして党史を豊かにしたのは日本共産党だけだと驚きの声をあげたエピソード」まで披露して、自画自讃している。だが、それははたしてどこまで「豊か」であるのか?

 2 旧ソ連秘密文書と「内通者」山本懸蔵

 『日本共産党の70年』は、確かに旧ソ連秘密文書のいくつかを取り入れて、かつての『65年』とは異なる歴史的事実や評価を、書き込んでいる。だがそれは、ほとんど野坂参三の「裏切り」の告発に留まっている。小林峻一・加藤昭著『闇の男――野坂参三の百年』(文藝春秋社、1993年)のもとになった『週刊文春』連載に驚き、あわててロシアに調査団を派遣して捜しだした資料を各章に盛り込んではいるが、到底「豊か」とはいえない。ちょうど『65年』にも残っていた「スターリンの功績」をようやく削除した程度の、「貧しい」水準に留まっている。

 むしろ、野坂参三に対する断罪との関わりで、「北京機関」につながる徳田球一、ソ連資金の受け入れ先と同定された志賀義雄・袴田里見らの「誤り」「裏切り」が改めて強調され、いわゆる「50年問題」では宮本顕治現議長のみが正しかったと総括されたため、これまでの党史と比べても、『70年』は、いわば「宮本党史」として純化・完成されている。

 戦後日本共産党を担ってきたリーダーのなかで、野坂参三は、唯一『65年』段階でなお肯定的に書かれる脇役だったが、『70年』ではついに、最悪の裏切者に転落した。そのため、主役の宮本顕治議長の言動が、戦前・戦後を貫く党史評価の一元的基準とされた。だが、そのような史観は、長続きするだろうか? 宮本顕治氏ももうすぐ86歳である。

 『70年』の一つの特徴は、戦前日本共産党の歴史を、天皇制権力とたたかった英雄たちの叙事詩にしようとしていることである。無論、宮本顕治や市川正一らの獄中闘争については、『65年』にも同様な記述がみられた。『70年』は、1922年綱領草案や27年テーゼ・32年テーゼなどの綱領的・理論的記述に加え、虐殺された小林多喜二や野呂栄太郎・岩田義道ら非転向幹部のみならず、豊原五郎・伊藤千代子・奥村秀松ら、これまで無名だった革命家たちのエピソード・名前をも、意識的に挿入している。そうした事実の掲載自体は、研究者への情報提供として、歓迎できる。しかし、やはり「党史」だから、その取り上げ方は、政治的で恣意的である。

 たとえば市川正一について、突如、1993年に発覚した「デマ」との関連で、市川が佐野学逮捕の原因をつくったのではない、と言明する。私は寡聞にしてその「デマ」を知らない。「一部に流れた」というが具体的に何をさすのか、学会関係者に聞いてもわからない。おそらく何らかの政治的事情があったのだろう。

 興味深いのは、山本懸蔵についての記述が、「豊か」にされたことである。「内通者」野坂参三により「売られ」た犠牲者であることが判明したせいか、「北海道血戦記」や『太平洋労働者』に長く言及され、小林多喜二や野呂栄太郎なみの「英雄」に祭り上げられた。

 実は私(加藤)は、偶然にも『日本共産党の70年』発表の頃、『季刊 窓』誌第19号に「歴史における善意と粛清」という論文を発表した。それは、小林峻一・加藤昭『闇の男』の巻末資料にでてくる元東大医学部助教授国崎定洞の粛清について、旧ソ連秘密文書「国崎定洞ファイル」をもとに、山本懸蔵が国崎定洞をコミンテルン指導部に密告したことを、明らかにしたものである。ロシア語資料翻訳は富山大学藤井一行教授が担当し、二人で討論し、解読した。

 私たちの調査・解読では、山本懸蔵は、1934年9月に国崎定洞をコミンテルン組織部のコテリニコフに売り渡し、36年には伊藤政之助を党から除名してソ連秘密警察に売り渡した張本人であった。さらにさかのぼれば、山本懸蔵は、1930年10月に、片山潜の私設秘書であったフランス共産党員勝野金政を密告して、ラーゲリに送り込んでいた。当時ベルリン在住の国崎定洞の推薦でモスクワに現れた京大出身の非党員の青年、根本辰(とき)の逮捕・国外追放とからめたもので、根本と勝野は山本により「日本のスパイ」と疑われ、ゲーペーウーに売り渡された。私たちはそれを、『闇の男』に収録された巻末資料と「国崎定洞ファイル」の解読で見いだしたが、『70年』は、どうやらこうした資料をふまえていないらしい。いや、ある種の先入感が、資料発掘・解読を妨げたのであろう。

 「歴史における善意と粛清」にも書いたが、旧ソ連秘密文書は、全体で7500万点、日本関係だけでも30万点にのぼるという。アメリカ国会図書館ですでに公表された300点ほどによっても、レーニンの革命直後のテロル指令などが現れている。ドイツ共産党やユーゴスラヴィア共産党については、800人以上の粛清犠牲者が確認されている。『闇の男』巻末資料からだけでも、山本懸蔵の妻関マツは、コミンテルンの秘密機関オムス(OMS)に関係したことがわかる。だが『70年』には、そうした事実の記載はない。むしろ、関マツの遺骨をつい最近ひきとり、日本共産党常任活動家の墓に入れて顕彰したと書かれている。

 日本共産党は、野坂問題が明るみに出てあわてて調査団を派遣し集めた史資料を、不破哲三『日本共産党にたいする干渉と内通の記録』上下(新日本出版社、1993年)に盛り込んだが、彼らの集めた山本懸蔵の記録では、国崎定洞や伊藤政之助の粛清経過はどうなっているのだろうか? 『70年』はむしろ、「1936年6月、山本が野坂にかわってコミンテルン日本代表に任命された」と書き、山本を顕彰している。

 私が「国崎定洞ファイル」から見いだした資料では、粛清当時の「コミンテルン日本代表」山本懸蔵は、『70年』のいう意味での「内通者」の典型である。一方で野坂参三を弾劾しながら、他方で山本懸蔵を英雄視する『70年』の執筆者たちは、どうやら日本人粛清の規模もメカニズムも、ほとんど理解していないらしい。『闇の男』からだけでも、少なくとも24名の犠牲者が確認できるというのに。

 私の『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年5月刊)は、山本懸蔵による勝野金政・根本辰・国崎定洞・伊藤政之助らの「密告」の根拠にも、考察を及ぼしている。旧ソ連秘密資料を手がかりに、粛清メカニズムを追求して行くと、1920年代末のコミンテルン幹部会員片山潜と、佐野学・山本懸蔵ら在モスクワ日本共産党員との確執に行き当たる。その片山と山本懸蔵の対立が、片山の娘千代の訪ソや山本の推薦した海員労働者のクートベ(東洋勤労者共産主義大学)入学問題と関連し、山本懸蔵の28年3・15事件時の自宅逃亡・訪ソについての片山による疑惑告発に発していることが読み取れる。

 国崎定洞はそこで、片山による山本疑惑情報収集を手伝ったために、山本懸蔵から逆恨みされ「大物スパイ」と疑われたらしい。野坂参三と山本懸蔵の間も、国崎定洞のソ連亡命・クートベ入学許可問題などで対立し、相互不信が累積していた。野坂の妻竜、山本懸蔵の妻関マツ、片山の娘ヤス・千代らの関係は、互いに政治的陰口をたたきあう仲であった。そして、それら疑惑のタネは、彼ら彼女らが日本で活動中に抱いた不信であった。

 要するに、1930年代在モスクワ日本共産党指導部は、互いに「スパイ」と疑い合い、コミンテルン機構内のソ連共産党員と秘密警察に密告し合う、疑心暗鬼の集団だった。そしてそれは、宮本顕治・袴田里見らのリンチ査問致死事件にいたる国内共産党の姿の投影だった。

 現在までに私たちが入手した十数人の日本人の粛清記録に特徴的なのは、ほとんどが別の日本人とのつながりでの「スパイ」容疑であり、逮捕・銃殺・ラーゲル送りであった。互いに互いの足をひっぱりあう、陰惨な「同志」の関係が浮かび上がる。スターリンやソ連共産党にのみ責任をおしつけることのできない、「日本的」メカニズムが働いていた。

 『70年』は、これらの資料にアクセスできなかったのであろうか? 『65年』と比較すると、もっぱら野坂参三の過去の言動が暴かれ断罪されて、山本懸蔵は、逆に顕彰されている。国崎定洞と杉本良吉については「銃殺」と「名誉回復」に言及されたが、杉本の1938年正月越境については、『50年』以来『65年』まで入っていた「コミンテルンとの連絡のため」という渡航目的が、なぜか削除されている。これではとても、「新事実を取り入れた」とはいえない。野坂参三についても、立花隆や袴田里見らがかねてから提起し、『闇の男』が解明した疑惑の一部を追認したに留まる。問題は、その先にある。旧ソ連秘密資料からは、底知れぬほど深い「闇」の世界が見えてくる。

 奇妙なのは、『70年』第3章の粛清期の叙述において、山本懸蔵、国崎定洞、杉本良吉、野坂竜、関マツ以外の粛清犠牲者についての言及が、全くないことである。日本共産党員であったことが判明している伊藤政之助、寺島儀蔵、あるいは『赤旗』でも生き残り犠牲者として報道されたことのある岡田嘉子や永井二一について、どのように書かれるかと期待して読んだが、なんと、すべては「山本懸蔵ら」という表現に押し込められている。少なく見積っても24人に及ぶ日本人が犠牲になったという事実認識すら、『70年』にはないようである。

 つまり、日本人粛清の解明を、山本懸蔵の件のみに限定し、加害責任を野坂参三1人に負わせようという姿勢がありありとうかがえる。だから、学術研究資料としては全く価値がない。

 これから次々に現れるのは、「野坂参三ファイル」をはじめ、これまで全く知られていなかった犠牲者をも含む、在ソ日本人総粛清の記録である。私たちの議論を「反共攻撃」とあげつらい何行もさく前に、まずは「党史」に新たに盛り込むべきは、自党の指導者スターリン、ディミトロフ、マヌイルスキー、クーシネン、片山潜、野坂参三、山本懸蔵らにより「スパイ」と疑われ抹殺された、無名の人々の墓銘碑の発掘ではなかったか? 当時のコミンテルンは世界共産党であり、日本共産党はその支部であったのだから。

 ちなみに、私たちが『闇の男』やフジテレビ報道局収集個人ファイル等で確認し得た、国外追放・逮捕や収容所送りを含む日本人粛清犠牲者リストを、ここに掲げよう。――勝野金政、根本辰、須藤マサオ、前島武夫、ヤマザキキヨシ、国崎定洞、伊藤政之助、山本懸蔵、佐野碩、土方与志、土方梅子、杉本良吉、岡田嘉子、寺島儀蔵、野坂竜、箱守平造、福永與平、吉岡仁作、又吉淳、島袋正栄、山城次郎、宮城與三郎、永井二一、小浜濱蔵、健持貞一、照屋忠盛、関マツ、モリタマサミ、サシン・トラオ、古川博史、土橋サダオ、成沢又一。さらに、旧ソ連で、無実の罪で粛清された可能性の高い日本人として、大庭柯公、チルコ・ビリチ、服部某、堀内鉄二、泉政美、山本一正、永浜丸也、永浜さよ、‥‥(詳しくは、加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』など参照)。

  3 杉本良吉・岡田嘉子の越境と宮本顕治氏の政治責任

 『70年』第3章の末尾で、戦前日本共産党の歴史は、「真の愛国者、民主主義者」の「不滅」のたたかいであった、と総括されている。だが、その「たたかい」の典型とは、宮本顕治の獄中闘争であり、そこで大きなスペースを割き批判されているのは、「日本共産党の戦争責任」を問うた丸山真男の1956年の小文である。これは、実に異様である。

 ここではしかし、私たちの進めている日本人粛清関連秘密文書解読との関連で、『70年』の主人公である宮本顕治現日本共産党幹部会議長に、『70年』には書かれていないいくつかの疑問を提起し、回答を要請したい。いわば、公開質問状である。

 加藤が現在とりくんでいるのは、杉本良吉・岡田嘉子の1938年正月越境の謎である。その頃宮本氏は、スパイ査問致死事件の被告として、巣鴨の東京拘置所にいた。これらの疑問の根拠については、詳しくは、加藤『モスクワで粛清された日本人』(および本HP)を参照してもらいたい。

 

 1 杉本良吉について、『日本共産党の50年』以来『65年』までは、「コミンテルンとの連絡のため」越境したと書かれていたが、『70年』でそれが削除されたのは、どのような理由によるものだろうか?

 2 『50年』で杉本良吉の入露が「コミンテルンとの連絡のため」とされたのは、1972年11月の岡田嘉子の初の「里帰り」のさい、宮本顕治氏が記者会見して、32年秋の杉本良吉・今村恒夫への「党指導部」による入露指令伝達の事実を発表したからであった。それが、『60年』『65年』にも踏襲されてきた。しかし、この宮本氏による杉本良吉への指令は、当時の党中央委員長風間丈吉、中央委員松村=飯塚盈延=スパイM、岩田義道、紺野与次郎のだれから、いつ、どのような任務として指示されたものだったろうか? あるいは、入党1年の24歳の青年党員宮本顕治氏の独断であったのか?

 3 岡田嘉子の証言によると、杉本良吉は、1937年12月の越境直前に獄中の宮本顕治に面会に行った、と述べたという(『心に残る人びと』)。それは、本当だろうか、あるいは、なんらかのかたちで事前に杉本良吉からの伝言が宮本氏にあったのだろうか?

 4 『宮本百合子全集』第19巻所収の百合子の1938年9月15日・19日付けの宮本顕治宛手紙によると、9月15日に百合子と面会した顕治は、越境した杉本良吉の妻杉山智恵子について、百合子が小踊りして喜ぶような「一寸お云いになった言葉」「極めて自然に云われた数言」を発したようである。それが、18日の百合子による杉山知恵子の見舞い、顕治の智恵子宛手紙につながった。1938年9月15日朝の面会のさい、宮本顕治氏が百合子に発した杉山智恵子についての「数言」とは、いったい何であったのか?

 5 1954年に宮本顕治氏は、『多喜二と百合子』2号の座談会「プロレタリア文学にたおれた人々」のなかで、杉本良吉・今村恒夫のソ連派遣(1932年秋に試み失敗)を「資本(もとで)」を残すためと表現したが、その真意は、どのようなものであったのか?

 6 『70年』によると、日本共産党がソ連共産党に公式に粛清の解明を求めた最初は、1959年1ー2月の宮本顕治氏の訪ソの際のことである。私はそれが、1959年10月の杉本良吉・国崎定洞の「名誉回復」、さらには片山潜自伝『わが回想』のドイツ語原稿発見につながったと推定するが、なぜこの1959年時点で、杉本についてのみ真相解明を求めたのか? その時のソ連共産党代表スースロフ、クーシネンらの対応は、どうだったのか?

 7 岡田嘉子の回想によると、宮本顕治氏は、戦後にモスクワで岡田嘉子と会ったさい、「あの時、ぼくがマンダート――指令書に代る紙片でも渡せたら」と述べたという(『心に残る人びと』)。それは、いつ、どのような機会であったか? 宮本氏のマンダート=信認状があれば1938年の杉本良吉・岡田嘉子は助かったと、今でも思っているのだろうか?

 8 1937年12月末に、杉本良吉・岡田嘉子が越境に出発したのは、当時東京九段坂下にあった豪華マンション「野々宮アパート」の岡田の部屋からであった。その同じ野々宮アパートには、その直前にソ連に帰国し、杉本・岡田逮捕の2日前に逮捕されてラーゲリに送られた、ソ連赤軍第4本部諜報員アイノ・クーシネンが住んでいた。アイノは、コミンテルン幹部会員オットー・クーシネンの妻であり、当時日本にいたもう一人の赤軍諜報員リヒアルト・ゾルゲと連絡していた。

 つまり、1937年、杉本・岡田は、アイノ・クーシネン、ゾルゲと、いつでも連絡をとりうる範囲にいた。こうした事実は、アイノの回想『革命の堕天使たち』と岡田の自伝・評伝からも推定可能だが、『70年』で「コミンテルンとの連絡のため」という杉本良吉の渡航理由を削除したのは、日本共産党がこの問題を調査したからなのだろうか? つまり、杉本訪ソを、宮本顕治氏の指示によるものではなく、アイノ・クーシネンやリヒアルト・ゾルゲとのつながりと認めた結果であるのか? あるいは、杉本・岡田のたんなる「恋の逃避行」と考えたからなのか?

 

 私は、こうした問題の一つひとつの解明が、学問的・歴史的意味での「党史」の真実につながると信じる。宮本顕治氏の回答に、期待している。 



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