★謹んで、川上武先生のご冥福をお祈り致します。

2009.7.9  悲しいお知らせです。科学技術論から出発した医師にして医事評論家、日本の社会医学史病人史を開拓・牽引してきた川上武先生が、お亡くなりになりました。私にとっては、人間国崎定洞研究の40年近い師であり、かけがえのない「同志」でした。昨年秋上梓した加藤ワイマール期ベルリンの日本人ーー洋行知識人の反帝ネットワーク』(岩波書店に、闘病中にもかかわらず共同通信配信で『高知新聞』11月16日、『神戸新聞』『山形新聞』『宮崎日日新聞』『熊本日日新聞』『山陰中央新報』11月23日、『新潟日報』『愛媛新聞』11月30日、『信濃毎日新聞』12月21日等への書評を書いて頂き、メキシコに旅立つ前に電話でお話ししたのが、最期になりました。ここに、深く哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りいたします。合掌!

★訃報:川上武さん83歳=医事評論家、医師

 川上武さん83歳(かわかみ・たけし=医事評論家、医師)2日、多臓器不全のため死去。葬儀は近親者で済ませた。お別れの会を後日開く。喪主は妻喜美(きみ)さん。著書に「日本の医者−現代医療構造の分析」「戦後日本病人史」など。毎日新聞 2009年7月9日 12時52分)

12月19日(土)に日本赤十字看護大学広尾ホールで、医療法人財団健和会・柳原病院の皆さんを中心に、「川上武先生に学ぶ集い」が開かれる予定です。詳細は追ってお知らせします。



 以下に掲げるのは、2009年12月19日、故川上武先生追悼川上武先生に学ぶ集いにおける、私の話の概要である。全国から260人余の医師・医学者・看護士・社会保障関係者が集う盛況であった。

  

「抵抗の医学者・流離の革命家」国崎定洞を追いかけて  

 

         

                               加藤哲郎(一橋大学・政治学)

 

  医師・医事評論家の故川上武先生には、医療史・医学史の領域でのお仕事も多い。その中でもユニークで重要な業績に、国崎定洞という長く忘れられ黙殺されていた思想家・革命家の生涯の発掘がある。

 国崎定洞は、元東京帝国大学医学部助教授で、東大社会衛生学講座の初代教授になるはずだったが、ワイマール共和制ドイツに留学中にドイツ共産党に入党、ナチス台頭期に日本の満州侵略とドイツのファシズム化に抵抗する日本人グループのリーダーとなった。ヒットラー政権成立の直前、1932年アムステルダム国際反戦大会に参加後、モスクワに亡命した。片山潜の招きであったが、当時の在モスクワ日本共産党指導者山本懸蔵、野坂参三からは歓迎されなかった。片山の死後、ベルリン時代に有沢広巳、千田是也、勝本清一郎ら「ブルジョア知識人」を組織したことを労働者出身の山本に疑われ告発されて、34年から秘密警察の監視下に入り、37年夏に突如逮捕され、12月10日に銃殺刑になった。「日本帝国主義のスパイ」という罪名だった。

 国崎定洞のこうした足跡は、もともと川上武先生が、小宮義孝、曾田長宗ら日本の社会医学の先達からの聞き取りをもとに、上林茂暢との共編著『抵抗の医学者 国崎定洞』(勁草書房、1970年)で発掘したものだった。しかしモスクワ亡命後の軌跡、いつどこでどのように没したかは不明であった。川上先生と私が二人三脚で進めてきたのは、社会衛生学者国崎定洞の社会革命家に転身した後半生の消息と真相解明だった。  1974年にベルリン時代の友人鈴木東民夫妻が、西ベルリンの電話帳を手あたり次第にあたって、フリーダ夫人・遺児タツコの存命を奇跡的に確認した。鈴木・千田・有沢らベルリンの友人たちに曾田ら医学者も加わって「国崎定洞をしのぶ会」を開き、マスコミもとりあげた。日本共産党がソ連共産党に問いあわせ、国崎定洞の37年8月4日の逮捕、12月10日の「獄死」、59年法的「名誉回復」の事実が明らかになった。川上先生と私が事務局を担当し、76年に川上武『流離の革命家国崎定洞の生涯』、77年に川上武・加藤哲郎・松井坦編訳『社会衛生学から革命へ国崎定洞の手紙と論文』が刊行された(勁草書房)。80年には遺児タツ子さんを日本に招き、国崎家のご遺族や亡父の旧友たちとの感動的出会いがあった。

 ところが1989年のベルリンの壁の崩壊、91年のソ連解体は、全く予想外の国崎定洞粛清の真相をもたらした。日本共産党名誉議長野坂参三の失脚・除名を導いた、小林峻一・加藤昭『闇の男』(文藝春秋社、1993年)の付録資料のなかに、国崎の名が出てきた。そこには59年10月のソ連最高裁判所「国崎定洞の名誉回復決定書」も入っていた。

 私たちはそれらソ連共産党秘密資料「国崎定洞ファイル」を解読し、粛清の真相をつきとめた。国崎の「獄死」は「銃殺」であった。「売った」のは山本懸蔵であった。その詳細は、加藤『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)、川上・加藤共著の決定版伝記『人間 国崎定洞』(勁草書房、1995年)に記した。銃殺時の国崎のスパイ容疑は、東大医学部助教授就任前の軍医としての徴兵期間中に陸軍諜報部とつながったという、荒唐無稽なものだった。

 「ファイル」を仔細に検討すると、ソ連入国時からモスクワ共産党指導部内の疑心暗鬼に巻き込まれ、プチブル出身の片山派として山本に逆恨みされ、秘密警察に売られていた。国崎と同期に粛清された旧ソ連在住日本人犠牲者は、国崎を売った山本懸蔵夫妻や野坂参三夫人龍を含め、約40人が確認された。その他40人余が逮捕・銃殺・強制収容所送り・国外追放になった可能性が高いが、今なお行方不明のままである。

 川上武先生は、こうした真相解明の節々で、私の調査を助け、またドイツに存命中の遺児タツ子さんに、日本人形・風景画やカレンダーを送り続けた。1994年12月19日の「国崎定洞生誕百周年の集い」には、千田是也や若月俊一を招き、自ら国崎の生涯から学んだものを語った。その翌々日、千田是也は没した。

国崎定洞の生き方と、私たちによるその生涯のあゆみの探求が、治療一辺倒の域を脱しきれないでいる現代医学・医療の枠組みに疑問を持ち、そのパラダイム転換の方向を模索し、またグローバルな視角、とくにアジア・アフリカの保健・医療の在り方から、日本を見直そうと新たな活動を始めようとしている若いひとびとに、なんらかのメッセージを贈れればと考えている。」(『人間 国崎定洞』川上武「あとがき」)

 それから15年目の同じ日に、現代日本の社会医学・医療の最先端の人々、若い志溢れる人々に見送られ、川上先生は、国崎定洞や千田是也の側に旅立つ。安らかにお休みください。心から、合掌!


 



川上武先生を偲ぶ

 

[川上武先生追悼、2009年8月1日] 去る7月2日に、科学技術論から出発した医師にして医事評論家、日本の社会医学史病人史を開拓・牽引してきた川上武先生が、お亡くなりになりました。私にとっては、国崎定洞研究の40年近い師であり、かけがえのない「同志」でした。国崎定洞がまだ「忘れられた医学者」であった頃、川上先生は、小宮義孝・曽田長宗ら東大医学部・社会衛生学関係者の聞き取りの中から、『国崎定洞ーー抵抗の医学者』(勁草書房、1970年)を世に出しました。学生運動の中でそれを読み刺激を受けた私は、旧東独留学中に国崎関係の資料を発掘し、折から西ベルリンで国崎定洞夫人フリーダさん、遺児タツコさんの存命を確認した鈴木東民夫妻、有澤広巳・千田是也らベルリン時代の旧友達と石堂清倫を助け、川上先生が事務局長・私が事務局員の「国崎定洞をしのぶ会」をつくりました。1975年の2度の「しのぶ会」をもとに、国崎の『流離の革命家』『社会衛生学から革命へ』の側面を一緒に洗い出し、旧ソ連政府や共産党を動かし国崎の「スパイ」の汚名を払拭して「名誉回復」を果たし、80年には遺児タツコさんを日本に招いて国崎家や亡父の旧友たちと引き合わせました。そして、ソ連が崩壊して現れたモスクワでの国崎の粛清死の真相を踏まえて、94年には医学史研究会と共に「生誕百年の集い」を開き、川上・加藤共著の決定版伝記『人間 国崎定洞』を作りました(いずれも勁草書房)。

 この川上先生との2人3脚の中で、私自身の政治学者としての歩みも大きく転換しました。鳥の眼と理論で世界を斬る政論家から、一人一人の患者にしっかり聴診器をあてて病歴と治癒の道を探る虫の眼の観察者、カルテと第一次資料をつみあげる現代史研究へと重心を移してきました。昨年秋上梓した加藤ワイマール期ベルリンの日本人ーー洋行知識人の反帝ネットワーク』(岩波書店)は、川上先生との協働の総仕上げ・総決算で、先生は長い草稿に眼を通してくれたばかりでなく、その完成を自分の仕事のように喜んでくれました。すでに眼や耳が不自由になり、闘病中だったもかかわらず、共同通信配信で『高知新聞』11月16日、『神戸新聞』『山形新聞』『宮崎日日新聞』『熊本日日新聞』『山陰中央新報』11月23日、『新潟日報』『愛媛新聞』11月30日、『信濃毎日新聞』12月21日等へ暖かい書評を寄せて頂きました。その間、国崎定洞を直接知る人々は一人また一人と世を去り、天国の国崎へと合流していきましたが、川上先生は、ベルリンに住む遺児タツコさんに、日本の絵やカレンダーを送り続け、身よりのないタツコさんにとっては、幼い頃の父の想い出とつながる、優しい日本人の象徴でした。私がベルリンに出かけてタツコさんと会うたびに、彼女が真っ先に口にするのは、「ヴィー・イスト・ドクトル川上」、川上先生はお元気かという問いでした。私の説明するややこしい父の死の真相や旧ソ連の話よりも、川上先生が診たてて送った富士山や日光の写真の方が癒しになっていることは、彼女の部屋中にはられた旧いカレンダーや絵葉書が雄弁に物語っていました。川上先生は、やっぱり医者でした。科学的な知の裏付けをもち、病いを生む社会をも診断し、何よりも患者の立場に立って病気を治す名医でした。この3月メキシコに旅立つ前に、電話でお話ししたのが、最期になりました。ここに深く哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りいたします。合掌!


川上武・加藤哲郎『人間 国崎定洞』まえがき(跋)


 1994年12月19日、東京中野サンプラザホールで、「国崎定洞生誕百周年の集い」が開かれた。医学史研究会関東地方会主催のささやかな夕べであったが、草野信男、若月俊一など戦前から国崎の存在を知る医学研究者ばかりでなく、三浦聡雄・上林茂暢ら戦後医学部闘争世代の臨床医たちも出席した。また、出席者のなかには、犬丸義一・渡部富哉ら社会運動史研究者、坂本玄子ら看護史研究者、さらに国崎家の跡を継いだ国崎拓治をはじめ、勝野金政の娘明子・素子、山本正美夫人菊代ら、国崎定洞ゆかりの人々の姿もみられた。

 集いの冒頭で、ベルリン在住の国崎定洞遺児タツコ・レートリヒからのメッセージが読み上げられた。

国崎定洞生誕百周年の集い出席者の皆様へ  1994年12月19日

 

 尊敬する出席者の皆様!

 私の父、国崎定洞の生誕百周年のために開催される、この集いにおみえになった皆様、および、集いを準備された川上武先生、加藤哲郎教授、千田是也さん他の皆様に、このようなメッセージの形で、感謝の意を表します。

 私の父については、あなた方のうちのほんのわずかの方しか、個人的な思い出をお持ちではないでしょう。あなた方の大部分は、川上武先生や加藤哲郎教授の著作から、国崎定洞の運命を、国崎定洞が力を尽くし、なんとか伝えようとした、その仕事、その理想、その見解を、お知りになったでしょう。私自身の思い出といえば、こどもの時の愛情に溢れた父親の思い出であり、それは、残念ながら、たった数年間しか、体得することが許されないものでした。

 あなた方が国崎定洞のことを考えることがあれば、いつでも私も、父を思いだしています。あなたがたのご出席に、心から感謝し、挨拶を送ります。

    タツコ・レートリヒ」

 ついで、信州からわざわざかけつけた佐久総合病院総長若月俊一が、東大医学部の学生時代に聞いた国崎定洞伝説、若月ら後輩を左翼運動から社会医学へと導いた、後の世代に長く語り継がれた医学者国崎定洞の活動と生き方について述べた。

 若月の話の途中で、満90歳を過ぎた俳優座代表千田是也が会場に現れた。1904年生まれの千田は、1920年代後半から30年代初頭の青春時代をベルリンですごした。千田は、かつて国崎定洞を責任者としたドイツ共産党日本語部の一員で、ベルリン反帝グループの重要メンバーであり、国崎を「クニさん」と呼び、心から尊敬していた。

 高齢の千田是也への私達の当初の依頼は、寒い季節の夜の会合でもあり、遺児タツコと共に友人としてのメッセージを寄せてほしい、というものだった。だからプログラムにも、そのように記していた。ところが千田は、ほかならぬ親友国崎定洞の生誕百年の集いであるからと、当日出席して話をしたいと伝えてきた。麻布の自宅から杖をついて、わざわざ会場までやってきた。

 千田の話ぶりは、元気なように見えた。父伊藤為吉と片山潜とのつながりから説き起こし、ベルリン反帝グループでの国崎定洞らと一緒の活動の想い出にいたる、出席者を感動させる長い話であった。当初の10分程度という予定は、30分に及んだ。しかもそのまま会場に留まり、川上武による日本での国崎定洞の活動、加藤哲郎によるベルリン・モスクワ時代の国崎定洞についての報告にも、最前列にすわって耳を傾けた。国崎拓治が遺族を代表して挨拶し、出席者に礼を述べた。

 日本の新劇を支えてきた千田是也は、この集いの翌々日、94年12月21日に亡くなった。肝臓ガンであった。千田の公式の話は、国崎定洞生誕百周年の集いが最期となった。私達は、「国崎定洞をしのぶ会」として弔電を送った。

 「千田さんの突然の訃報に接し、心から哀悼の意を表します。19日の国崎定洞生誕百周年の集いにおいでいただき、お元気なお話を聞いた直後だけに、出席者一同、まことに残念に思っております。ベルリンの青春を共にすごし、モスクワから旅立ち無実が明らかになった国崎定洞と共に、安らかにおやすみください。    国崎定洞をしのぶ会」

 晩年の有沢広巳(経済学者、日本学士院長、1988年3月7日没)も、娘に看病される入院中の病院で、しきりに国崎定洞のことを思いだしていたという。

 「そんなある日、父は今まで、私にはあまり話したことのないような思い出話を始めました。二高時代の話に始まり、経済学部入学のいきさつ、恩師糸井先生やドイツ留学中ご一緒だった国崎定洞氏の話へと続きました。若くして留学先で亡くなられた糸井[靖之]先生と、ついに日本に帰国されなかった国崎氏のお二人については、もし日本に帰っていらしたら、きっと日本の統計学と社会衛生学に大きな影響を与えただろうと、その才能を惜しんでおりました」島津祐子「父とタバコ」『有澤広巳の昭和史・回想』1989年、190頁)。

 生誕百周年の集いには、ベルリン・グループの存命者、専修大学・國學院大学で長く教鞭をとった経済学者小林義雄からも、メッセージが寄せられた。その小林義雄も、集いから3週間足らずの95年1月7日、永眠した。享年85歳であった。千田是也と小林義雄の証言は、本書の成立にあたっても、重要な役割を果たしている。残された証人の1人である喜多村浩とは、集いの終了後にようやく連絡がついたが、日本やドイツでの国崎定洞の活動を直接に知る日本人は、ほとんどいなくなった。

 東大新人会で国崎定洞を知った石堂清倫は、病気で出席はできなかったが、旧制高校時代の友人が詠んだ「ゲーペーウーの 秘密資料の公開に 国崎の死は 陽の目を見たり」という歌を送ってきた。

 ベルリンのタツコ・レートリヒには、この会の模様が、手紙と写真で伝えられた。ベルリン時代の国崎定洞のかつての同志、千田是也・小林義雄が亡くなり、歴史の証人がほとんどいなくなったという悲しい報せを伴って。

 本書は、抵抗の医学者、流離の革命家であった国崎定洞の評伝である。国崎定洞は、1894年生まれの元東京大学医学部助教授で、1920・30年代にベルリンおよびモスクワで反戦反ファシズムの活動に加わり、1937年にスターリン粛清によって非業の死を遂げた。

 ただし、本書は、通常の伝記とはやや異なるかたちで構成されている。国崎定洞の伝記としては、1970年に川上武・上林茂暢編著『国崎定洞――抵抗の医学者』、76年に川上武『流離の革命家――国崎定洞の生涯』が、資料集としては77年に川上武・加藤哲郎・松井坦編訳『社会衛生学から革命へ――国崎定洞の手紙と論文』が、本書と同じ勁草書房から、すでに刊行されている。本書は、これらを踏襲しつつ、その後に判明した国崎定洞に関する史実を書き加えて、改訂増補したものである。

 より正確にいえば、本書の原型は、第1ー第10章、第12ー16章で、1970年の『国崎定洞』段階で判明した、主として「日本の社会医学の先駆者」としての国崎定洞の伝記である。ただし、第7章・第13章は、76年『流離の革命家』の時点で大幅に書き換えられている。

 第11章の国崎定洞の小宮義孝宛手紙の章、および第17ー18章は、1976年の『流離の革命家』段階までに新たに明らかになった事実をもとに書かれている。74年の鈴木東民夫妻の国崎定洞夫人フリーダ・レートリヒとの奇跡的再会と、75年の日本における国崎定洞の「名誉回復」をふまえて、主として「ベルリン反帝グループの国際的革命家」としての国崎定洞のその後を扱う。もともとこれらは、70年の『国崎定洞』に増補された。

 したがって、以上の第1ー18章までは、川上武の手に成るものである。各章末の人名注は、その後の消息がわからない場合があるので、1976年執筆当時のかたちでそのまま収録されているが、生没年を確認しえたものについては、第19章末の注で補正されている。

 そして、1995年に刊行される本書では、第19ー21章に、主として1991年のソ連崩壊によって可能となった国崎定洞の非業の死にまつわる史実を加藤哲郎が書き加え、完成されている。それは、1932年秋にモスクワに亡命してから、37年12月10日に銃殺されるまでの「ソ連で粛清された日本人犠牲者」としての国崎定洞を、新たに発見された旧ソ連公文書館秘密文書「国崎定洞ファイル」によって跡づけたものである。同時に、1959年のソ連最高裁判所軍事法廷における法的無罪確定・名誉回復過程をも、「国崎定洞ファイル」により再構成するものである。

 つまり、本書は、国崎定洞の伝記的事実が解明されてきた3つの歴史的段階を忠実に再現するもので、読者は読み進めていく過程で、国崎定洞の生涯を追いかけてきた私達著者をも驚かせた劇的な新事実の発見と解明の過程を、追体験できるようになっている。

 とはいえ本書は、前2書のたんなる改訂増補でもない。その後の調査で明らかに誤りと判明した箇所については、必要な加筆修正を行っている。新たにわかった事実や注を追記した箇所もある。すなわち、国崎定洞の伝記的研究の決定版をめざしている。(以下は、『人間 国崎定洞』永久保存版(『人間 国崎定洞』はしがき・19-21章及び第二部、1995)へ


書評 川上武編『戦後日本病人史』(農文協)

 

 

加藤哲郎(一橋大学大学院教授・政治学)

  


 およそ医学とも医療とも縁遠い政治学専攻の評者が、この800頁に及び大著を読むにいたったのは、編者の川上武と評者が、本書の対象外のある人物の研究で、接点を持ったからである。それは、元東大医学部助教授国崎定洞、1926年にドイツに留学し、帰国すれば約束されていた社会衛生学講座初代教授のポストを捨てて反戦反ナチ運動に加わり、37年に亡命先のモスクワで、スターリン粛清の日本人犠牲者となった。旧ソ連の崩壊で、晩年の悲劇と「社会主義の病い」を証した秘密ファイルが見つかり、評者は『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)でそれを解剖し、川上武の名著『流離の革命家』(勁草書房、1976年)を一緒に増補改訂して、川上・加藤『人間 国崎定洞』(勁草書房、1995年)という決定版評伝を公にした。評者自身はさらに革命家国崎の周辺を追い、今夏、ベルリンの左翼仲間だった作家島崎藤村三男の遺稿『島崎蓊助自伝』を発掘し(島崎爽助と共編)、『国境を越えるユートピア』を出した(共に、平凡社)。

 だから、川上は医学から、評者は政治学から国崎定洞の構想した「社会衛生学」に接近し交差したのだが、本書も実は、鋭く政治の問題を孕んだ戦後日本社会の、綿密な解剖図となっている。例えば「公害・薬害」患者の認定は、医学・医療技術に還元できない。厚生行政にとどまらず、資本主義と政治の問題であったことが、本書の膨大な歴史的叙述から浮き彫りになる。およそ何が病気で何が健常であるかは、聴診器やCTスキャンで定まるものではない。誰がどう線引きするかは、すぐれて社会的・政治的決定である。本書を読むと、敗戦から今日にいたるこの国は、膨大な病人をつくりだし、その治療と予防の過程で、薬害から手術ミスにいたる新たな病いを再生産してきた。医学史でも医療史でもなく「病人史」であることで、患者と医師が、療養者と介護者が、病院と世間が、厚生省と労働省が、行政と政治がつながる。人間であることとないことの境界が社会的・政治的に設定され、目次がそのまま社会病理のパノラマになる。七三一部隊から臓器ビジネスまで、DDTからヒトゲノム計画まで、医学・医療の病いも社会の病いの縮図と診断される。

 門外漢でも、これはわかる。「社会衛生学」の今日的到達点であり、日本社会史研究の金字塔が生まれたと。川上武と医療史研究会は、国崎定洞の初志を蘇生し完遂したのである。

(『東京大学新聞』2002年11月19日号、掲載)



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